路傍のカナリア

2018/09/25
路傍のカナリア 145

消えた「国債暴落」論

日銀が鯨のごとく国債を飲み込んでいる。少し前までは国債の暴落がメディアで議論されていた状況とは様変わりしている。そればかりか欧米各国が出口戦略に舵を切ったにもかかわらず、日銀はこれからも現在のスタンスを持続させようとしている。だからと言って特別の金融的な波乱がこの国に起きていない現在、ひょっとしたらこの事実上の財政ファイナンスの在り様は正常なシステムかもしれないとも思われてくる。錯覚なのか錯覚の錯覚なのか。
日本銀行による大胆な金融緩和の措置がもたらした金融的平穏は、正常と異常の境目を見えにくくしている。
経済論者の中には、将来的な金利の上昇が日銀の債務超過をもたらすリスクを指摘する人もいるが、現実にそうなった場合、具体的になにが起きるのであろうか。あるいはなにも起きないのだろうか。いずれにせよ中央銀行の破綻というのは想像がつかない。
では新興国のように為替相場からの制御不能な円安はありうるだろうか。確かに実際は日銀が輪転機で円を刷ってその金で国債を購入している以上、円の信用度は毀損しているに違いないし、国の借金も1000兆を超えている。ある日突然、円がその信用度からみて急落し、対ドル150円160円となる可能性は否定できない。すると輸入原油価格は高騰しそれにつれて一気に物価も上昇、嫌でも金融の引き締めに向かわざるを得ず、連鎖的に国債の暴落につながる。机上の想定では説得的ではある。けれども円安になれば当然のことながら、今以上に輸出産業の競争力は強まり外貨をかせぎだせるわけだから、円の価値は高まる。
また外貨を稼ぐという点では、訪日外国人も円安によって更なる増加が見込まれる。そう考えると一直線に円暴落はありえない。円高ファクターが円安時に働くのである。政府が、オリンピックの開催や万博の誘致を含めた観光立国に熱心なのは、表向きはともかく本音では円暴落対策かもしれない。
こう考えてくると我が国の国債の積み上がりはさほど心配するほどではないということになる。国家に外貨を稼ぐ力がある限り、加えて国民の金融資産が1500兆円もある以上、円の信頼は揺らがない。では日銀は無際限に輪転機を回して紙切れである紙幣を国債と交換し続けられるであろうか。もう一度言うが正常と異常の境目が見えないのである。だからこそ「国債暴落論」は沈静化したのである。
もしも現在の在り様、日銀が国債の巨大な買い手として市場に君臨するという政策が臨時的かつ緊急避難的な措置であるならば、波乱はどこかからやってくるはずである。
やって来なければ、資本主義経済と管理通貨制度の新しい枠組みが生み出されたという事になるかもしれない。
管理通貨制度の柔軟性が、資本主義の景気波動による不安定性ばかりか国家財政の劣化をも吸収するという仕組みは興味深いテーマである。逆に言えば資本主義の発展と共に整備されてきた金本位制の仕組みが実に硬直的であるかということになるが、制度論から一歩離れて、では人間の金に対する執着は薄まってきたかというとこれはこれで相変わらずなのである。貧骨 
2018/07/20
路傍のカナリア 144

世事雑感 「良い知らせ」

良い知らせが入ってきました。カナダでマリファナが全面解禁になりました。やりましたね。
こうなると先々「カナダに飛んでマリファナパーテイー」ツアーが組まれるかもしれません。
トルドー首相の公約だったそうで、いきさつは他国の事ゆえ分かりませんが、マリファナ禁止の厚い壁がついに先進国で崩れたことは画期的な事です。まあアメリカではカリフォルニア州はじめいくつかの州ですでに合法化されていますがこの流れは確実に加速しています。こうなるとホントにマリファナって危険な薬物だろうかつて素朴に疑問ですよね。我が国のお上が「ここより危険、立ち入りすべからず」の看板立てておりますが、信用していいのでしょうか。
私、好奇心は人並みにあるつもりですが薬物の道に入り込もうとは夢にも思っておりません。タバコ一本吸うわけでもありません。その筋で覚醒生活を送ろうとも考えておりません。ただあの「山本裁判」を知ってから、マリフアナって案外役に立ちそうに見えてきただけです。何事も常識を疑うは知性の特権であります。ご存知ですか、「山本裁判」。 末期がんの山本正光さんが、従来の抗がん剤では効果がなく窮余の一策でマリファナを吸引すると体の痛みが和らぎ、よく眠れてガンの進行も抑制された。だから医療用の大麻(マリファナ)を認めてくれって裁判。2015年3月に自宅で大麻を栽培吸引したのだけれど12月に逮捕。2016年7月に公判中にお亡くなりになったのだが、大麻をそのまま使用してたら案外今でも存命かもしれません。使用時腫瘍マーカーは大幅に低下していたのだから。
それならまずは自分で試してみるのが一番です。どんな味がするのか、本当に依存性や中毒性があるのか 権力の「危険」の札は怪しげではあるまいか。「覚せい剤」やヘロインのように一度でも体内に入ったら廃人の道へどんどんとまっしぐらという類の品物なら、なんでカナダで嗜好性も含めて全面解禁するのかね。
「俺、マリファナやってみたいんだけどね」遠方にいる身内に電話したら「何考えてんだ、話にならん そこまで落ちたか」の面罵に近い雑言を浴びたが、まあ国によって流布された情報を鵜呑みにすればそうなるのだが何事もまずは疑い試してみるという実証的精神のほうが遥かに健全でしょう。誰彼と限らずがんの痛みにさほどの副作用もなく効果的なら、いざという時のためにマリファナを少量でも確保しておこうと考えることは実に常識的なのだ。
ちなみにマリファナのことを「ゲートウェイドラッグ」と呼ぶらしい。若い人たちが薬物に染まるその入り口がマリファナで、さらに刺激的なものを求めていくから、マリフアナを規制しているという理屈はそれなりに説得力はあるでしょうが、医療用大麻の使用まで「アウト」にするのは権力の乱用ではあるまいか。
「山本裁判」の折、マリファナの薬物的危険性の立証が検察側から十分になされなかったという話もある。あらためて「麻薬」のあれこれについて己の頭で考えてみることは、小人が閑居して不全を思索する類の事ではなく、権力からもたらされる情報への市民の健全なる反撃ではないでしょうか。                       貧骨
2018/07/20
路傍のカナリア 142

政治的不満、鬱積はどこへ行くか

「閉塞状況」という言葉がある。これ以上どこにも進みようがない穴倉にとじこめられている状態と形容すればいいかもしれない。公文書の改ざんという稀にみる政治的不祥事が起きた。証人喚問を含め、当該事案に対処する内閣の姿勢は国民の厳しい批判を浴び内閣支持率が急落したことは周知の事実である。
与党自民党にしても証人喚問後は早々に事件の幕引きを狙っていて、世論の声とはかなりの隔たりがあることもはっきりしている。だからどう考えても野党の政党支持率は上昇してしかるべきだが、世論調査の結果をみるかぎり自民党が減らした分無党派層の支持率があがっているが、野党の支持率は上がっていない。
国民の政治的不満、鬱屈は宙を彷徨したまま濃密にこの国を覆っているが、今の野党に政権を託そうという機運は、これほどの不祥事にもかかわらず、盛り上がらないのである。まさに政治の「閉塞状況」そのものである。
野党の力量不足が物事を前に進められないのである。この日本を将来的にどういう社会にしていくかというトータルビジョンが鮮明でないから、その実現の手段としての経済政策も曖昧模糊としている。せいぜいアベノミクスの弊害をあげつらうだけである。この世に「いいことづくめ」の政策などないのだから、批判ばかりしていても所詮は自民党政権の枠の中での批判的補完の役割を結果として果たしているに過ぎない。文句をいって自己満足し、こぶしを振り上げるパフォーマンスで一定の批判勢力の支持を得ているに過ぎないことを国民に見抜かれているのである。
消費税の更なる上乗せは反対で、日銀の大胆なる金融緩和にも反対で、では福祉拡充、円高誘導、成長確保という経済理論が本当に可能なのかどうか聞いてみたいものである。
加えて日本を取り巻く安全保障の現実を目の当たりにすれば、ただただひたすら憲法9条の条文に防衛能力とその運用を近づけていくという論法自体が、憲法解釈上理に適っていようと政治としては極めて無責任であることは、明々白々であることは言うまでもない。
政権与党に対する批判勢力から脱皮して国民の信に堪えうる政党が育たないことは、無党派層というある意味不満分子の塊がどんどんと増えていくことを意味している。戦前なら「血気盛んな青年将校」の暴発も考えられるが、現在でもあの「希望の党」の一瞬とはいえ熱に浮かれたような支持をみると、本当はかなり危うい機運が醸成されているのだろう。
嫌な話だが、閉塞状況を突破するものは往々にしてテロを含む暴力である。そうならないためにも野党は過去の体験、現在のしがらみに捕らわれることなく、不断の自己改革に取り組み、国民の鬱屈、不満、願いを組み込んでいかねばならないが、現状悲観的である。
よく見てみると自民党は利権や既得権に縛られているように思われるが、一面では遥かに革新的なのである。小泉進次郎の農協改革などをみてもよくわかる。政治全体から見れば小さな改革かもしれないが、そこに自民党の時代への危機感が如実に表れている。自民党中枢は優秀なのである。
自民党に対抗できる政党は、今の旧態依然とした野党の中にではなく綱領から公約までAIが作り上げてしまう新党が最も有力かもしれない。では誰が党首に相応しいかということになると、それもAIが最適者を決めることになると、国民から見るとなんとも物悲しい話ではある。貧骨  
2018/03/20
路傍のカナリア41

仮想通貨取引をはじめてみた。

日常の中に仮想通貨が入り始めている。家電量販店では仮想通貨の支払いが可能になったし、一部の大学でも寄付金を仮想通貨で受け付けている。
一見すると怪しげな、海のものとも山のものとも判別しづらいシロモノと思われがちだが、どうやら少しずつだが市民権を得つつあるようだ。頭の中で考えていても仕方ないのでデジタル通貨ともいうべきこの仮想通貨を手に入れるべく、取引を始めてみた。
今の世代にとっては口座開設など簡単至極だろうが、アナログで長年やってきた私のようなものには申し込みそれ自体が結構厄介である。コインチェツク社の流出騒動の後だったのでまずは正式な登録業者A社のホームページにアクセス。「はじめてのかたへ」の窓から案内に従って必要事項を打ち込みトントンと進んだのだが、最後の方に「本人確認」の項目がある。ここで躓いた。本人を証明する免許証なり保険証の画像を送れという。おいおい最初に言ってよ。そんな準備してないよ。ここでいったん申込み打ち切り。改めてデジカメで免許証の写真を撮ってパソコンに挿入。また最初から申し込んだがどうもうまくいかない。
結局A社を諦めて登録業者のB社へ。やり方はほとんど同じで何とか免許証の画像を送ることが出来た。出来たことは出来たが、アナログ派にはたぶん一つの壁はこの画像処理にあると思える。要するに「はじめてのかた」の立場に立った申込みシステムとしては不出来だと思える。あのコインチェツク社が急速に伸びたのは、使う側の使い勝手の良さにあると聞いたことがあるが、やってみるとよくわかる。技術屋によくある「分かるやつにしか分からない」システムなのだ。
そこで、申し込みが済んでから10日位すると業者から確認のパスワードが送られてきて、これを打ち込んでさて取引開始。(入金はとりあえず3万円)
たぶんFXを経験している人には普通だろうがちょっとなじみのない用語が画面に並んで戸惑うが、「習うより慣れろ」で仮想通貨を買う。といってもいくつものデジタル通貨が並んでいるがどれを購入するかその基準が分からない。いやいや仮想通貨がなんでいっぱいあるのか、どう違うのか その辺の基本中の基本がよくわからない。とりあえず一番知名度の高いビットコインを買う。100万円もするから買えないと思っていたけど、そんなことはない。ビッコイン0.01分から取引が可能なのだ。なるほどもっと分割できるから支払いに使えるわけだ。仮想通貨の相場は365日24時間常に動いていて休まない。こうなると大金を投資している人は眠ることもできなくなるだろう。このあたりは株式相場とは勝手が違う。
購入してみて気が付いたのは、値動きの基準が全く分からない点である。何故上がるか何故下がるか、株でも為替でも一応の目安があってその予想の下に売買が成立しているが、仮想通貨では何もない。せいぜい政府機関の規制強化の程度ぐらいしかない。そういう意味では、ビットコイン長者というのは偶然の産物のように思える。とても大金を投資するに値するシロモノとは思えないが、通貨としての国境を越えた便利さということからいえば将来性はあるだろう。投機の面ばかりが話題になってはいるが、もう少し価格の変動幅が落ち着くかそういうシステムになれば支払い手段としてはそれなりに有力であろう。もうしばらくこの仮想通貨に付き合っていくつもりだが、時代の先端に触れていることの意義はあるように感じている。                        貧骨
2018/02/19
路傍のカナリア 40

やってきた100歳時代、
求められる意識改革とは

第4次産業革命の真っ只中で生きていくというのはまったくもって高齢者には大変な事なのだが、寿命100歳時代というのもこれまたしんどいのである。年々寿命が延びているのは生活実感として分かるのだが、改めて考えてみるとそれはただ単純に延びた年数分だけ長生きするというのとはちと違う。
仮にちょっと前までの人生90歳時代から寿命が10年延びて100歳時代になるというのは(大雑把に想像すると)、目の前の75歳の人がじつは85歳だと考えればいいのである。
だから想定85歳でも大概の人はぴんぴんしている。働けるのである。こうなると高齢者の定義も当然変わってくる。75歳からが前期高齢者、85歳からが後期高齢者になる。85歳まで現役で働いたって何の不思議もない。いやそれこそ求められているのではないか。
現在のように60歳で定年退職して100歳まで生きるとするとアバウト40年働いて40年老後を暮らすようになる。これでは素人が計算しても国の生産性が向上するとはとても思えない。
意識改革というのはどんな場合でも時代の流れに後押しされて嫌々渋々なされていくのだが、変化のスピードが桁外れに速い今、いまのところに留まっていればどんどんと高齢の生活破綻者が出るに違いない。いやいや最後の手段で行政に駆け込めばいいではないかと安易に考えている人もいそうだが、果たしてそうか。
「生活保護」というのは、受ける側からではなく認める側の役所から見れば、高齢者は厄介な存在に違いない。若い世代ならいずれ仕事口を探して通常の自立した生活に戻る可能性があるが、高齢になるともう「永久生活保護」でほぼ決まりである。例えば80歳からもらい始めて100歳まで生きるとしてざっと3800万はかかる。(月16万として)その他の無償サービスも計算すれば4000万は優に超える。その人たちが押し寄せたらこれはどう考えても行政コストが跳ね上がるから、受給資格のハードルをかなり上げるか、生活レベルを極度に落とし込んでプライベートも無いに等しい集団生活を強いられるかどちらかになる可能性大である。
年金制度にしても元々の前提が55歳定年70歳前後に天国行で設計されているものをやりくりしながら使ってきたのだから、100歳時代に適応できるはずがない。年金先送りも減額もごく当然の結論である。
100歳時代を生き抜くには65歳で一区切りはいいとしても、定年という言葉の呪縛から離れて、当たり前に85歳まで働くようになれば、万事とはいかないまでもおおよその辻褄は合う。問題はそういう意識改革が出来るかということである。
ここが痛い、あそこが痒い、目は白内障だ、耳は遠くなっている、歯は歯槽膿漏だ、糖尿病だ、ぜんそくだ、高血圧だ、デジタル機器苦手、引き籠る理由はいくらでもさがせるが、手入れをすれば本当はきちんと動かせる体の人が大半ではあるまいか。一番の壁は「老齢である、もう定年、悠々自適」に象徴される意識の呪縛であろう。がどんな言い訳をかんがえても100歳時代の到来は動かしがたい現実なのである。 貧骨
2018/02/19
路傍のカナリア39

女性の膝痛を考えてみる

膝の痛みに悩まされている高齢の女性は多いです。私の親族にもいるしお客さんでも生活の周辺でも見かけます。観察するまでもなく、大概肥満系の人ですね。まあ当たり前のことで、体の重さが膝に負担がかかって結果膝のなかのクッションを痛めているのでしよう。だからシンプルに考えれば、体重を減らす、ダイエットをすれば症状は改善するわけで、痛み止めの注射で一時しのぎを続けているよりはるかに良いだろうと思うのですが、そういう理屈で割り切れないところにややこしい問題が潜んでいるのです。
食を減らす、空腹に耐える、その苦痛と膝の痛みを我慢する、どちらかを選ぶとしたら女性の場合どちらが多数派でしょうか。私の推測では後者、膝の痛みに耐えてでも食べることにこだわる女性が多いと思います。
私なりの仮説ですが、女性の本質というか、女性の様々な振る舞いを深いところで司っているものは、たぶん「産む性」ということです。女性が、着飾ること、食べること、化粧することに強い執着があるのは外目にもわかりますが、それは歴史的な積み重ねの中で獲得した資質というよりも、「産む性」であることからくる本質的なものだと思われます。そうで゛あるからこそ「食べる」とつながっているダイエットというのは、男の側から見るよりはるかに精神的な苦痛を伴うのでしょう。精神的ストレスの結果として「過食症」や「拒食症」の症状の発現が主に女性に多いのも、「食べる」が女性には重い意味を持っているからに違いありません。ちなみに男性の場合はストレスが性的異様という形になりがちです。
それでは食欲とはなんでしょうか。当たり前すぎるような問いですが、そうでもありません。
たとえば野生のライオンは空腹になれば狩りをします。満腹になればそれ以上に狩りをしません。(たぶん) もしも目の前をおいしそうなシマウマが横切ったとしても、デザートに食べちゃうとか、シマウマは別腹なんていう理屈で食べることはしないわけです。空腹と食欲はまさに表裏一体であってそれ以上でもそれ以下でもないように自然界の弱肉強食は秩序立っています。目に付いた獲物は片っ端から襲うということはないということです。
人間の食欲というのは全く違います。食料の保存という観点を除いたとしても、食欲は無制限に近い形になっています。空腹を満たした後も、デザートを食し、少し時間がたつと間食をし、またさほど空腹でなくとも誘われればあえて食します。食後であっても話題の食品に出会えば一口二口食べることは厭いません。空腹と離れて食欲自体が存するように人は食べています。またそうするように仕向ける情報操作が行われています。
食欲は生命体の維持装置であるにもかかわらず、それを越えてビジネスの一分野として必要以上に人為的に膨らませられています。私たちが食べたいと思うとき、それは観念としての食欲、作られた食欲に他なりません。
こう考えてくるとダイエットというのは人為的な食欲を削ぎ落し、空腹と表裏の食欲へ戻ること、人間の本来の食の在り様を回復することになります。
膝の痛みからいくらかでも解放されるためには、女性が「食べる」ということときちんと向き合うことから始まると思われますが、それはそれで困難な道筋です。なぜなら生命力の塊のようなおばさんパワーのまえには、抽象的な小理屈など歯が立つはずがないからです。

膝の痛みと女性と食欲を私なりにつなげてみました。話の奥行はもう少し深いと思われますが、いまはここあたりがいっぱいです。   貧骨

2018/02/19
路傍のカナリア 38

歳末雑感 
「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」

木枯らしがぴゅぴゅつと吹いて、ぐっと冷え込んだ日には鍋を食べる。湯豆腐がうまそうだ。その鍋の横っちょにくっついてくる句が「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」久保田万太郎の作だ。冬の有名な句のひとつだそうで、ずいぶんと前に雑誌「サライ」の特集で紹介されていた。なんとなく覚えていて、今頃の季節になると、「湯豆腐や、、、」の句は「いいねえ実に味わいがある」なんて軽薄丸出しで吹聴していたのだが、さりとてその句意は今一つわからないままであった。
なにがわからないって「うすあかり」である。「いのちのはてに」なんで「うすあかり」なのか なんとなく覚えていたのはこのわからなさが引っかかっていたのだが今もってすっきりしない。
老いぼれた爺さんが湯豆腐をつっつきながら俺もそう長くはねえがもう一年ぐらいはなんとか暮らしていけそうだ、その先の事は分からねえが命ってやつは案外長持ちするものよ、
句の風景をなぞってみたが、そう間違ってもなかろう。
その命のしぶとさというか、老境の果てに体の底から感じ取れる生命の残り火の如きものを「うすあかり」と詠んだのだろうか 名句というのだから多くの人が共感できる情緒というものが読み込まれているはずなのに「いのちのはてのうすあかり」はどうも解釈の幅が大きいように思われる。いや皮肉な見方をすれば誰もがわかったようなわからないような曖昧のままこの句を活かしてきたのではあるまいか。
万太郎の句は私のような俳句素人でも一読わかりやすいものが多い。
「神田川祭りの中をながれけり」 「あきかぜのふきぬけゆくやひとのなか」「しかられて目つむる猫春隣」
だから分かりやすく解釈すればいのちのはてには冥途の道が続いていてそこから差し込んでくる「うすあかり」ということになろうか。俺ももう死期が近い、冥途の道がぼんやりとだがみえてきた。迎えの音が聞こえる。
そして湯豆腐、ぐづぐづと煮ても形は崩れることなくそれでいて取り皿に取ろうと抓むには細心の扱いが要される その強さともろさの同居こそ命そのもの、万太郎が湯豆腐に託したものは句意そのものと言っていいかもしれない。
この句は作者最晩年昭和38年のもので、因縁めくが作から3か月後に万太郎は急死している。いのちのはてを感じ取っていたのだろうか
こうみてくると「湯豆腐や、、、、」は冬の句とはいえどうも歳末の風情とはちと趣が違う。老境の寂寥感の色合いが強い。
そういえば氏には「鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな」という作がある。これの方が歳末らしいではないか。字句の通りの理解でいいのだが、自分なりにひねってみれば、己の業を煮込んでしまう年回りには自分ならもう一回り生きてみなくてはなるまい。それなら鍋の中に今年一年生きた証の生き恥なり悔恨なり悪運なりを煮込んでしまおう。湯豆腐はどうするか 「湯豆腐の湯気に心の帯がとけ」(金原亭馬生)というぐらいだ。煮込むにきまっている。
フグ鍋、鶏鍋、猪鍋、なんでもいい。一年の納め鍋をひとり食することにする。さすればあたらしい年もすっきりした気分で迎えられるというものだ。      貧骨
2018/01/31
路傍のカナリア37

誰でもが成れるわけではない
資産家なるものの虚実

「よくよく考えたが、俺たちが金持ちになるのは資産家の金を奪うしかない」。連続殺人事件のネット記事を読んでいたら、犯人のこんな供述にぶつかった。強盗も殺人も肯定するわけではないが、この供述は世の中の仕組みの核心をついている。
一介のサラリーマンが、生涯に賃金として得る収入はおおよそ2億円。結婚して子供を育てるとして、日々の生活費、住宅ローン、教育費などのランニングコストを差し引くと、定年後に手元に残る資金は、年金と預貯金と退職金ということになる。順風であれば老後の生活は成り立つであろうが、住宅ローンの残債や家族にまつわる思わぬ出費、退職金の多寡によっては不安定な生活を強いられる。正社員でさえそうであるなら派遣労働者を象徴とする社会的貧者であれば、一生働けど働けど、楽な生活にはたどり着かないようになっている。
額に汗して働くことが尊いという社会的イデオロギーはこの国に浸透しているが、社会の中に労働者として組み込まれてしまえば、賃労働奴隷の如きもので、その道筋の中ではどうあがいても資産家になれる可能性というのはほぼゼロに等しい。
では世の中にお金持ち、資産家と言われる人達はどうしてそこに辿りついたかと言えば、大概はその家そのものが元から資産家でそれを受け継いだ事例が圧倒的に多いと思われる。数字的な裏付けがあるわけではないが、自分の生活圏をぐるっと見渡してみれば、資産家というのはそういう人たちである。金持ちはいつまでも金持ちで、貧乏人はいつまでも貧乏人であってこの構造はがっちりと作られた枠組みと言うしかない。だから資産家というのは己一代で築き上げた一握りの人達を除けば、労せずして資産を手に入れた人達ということになる。凡庸であっても創業者の株式を相続すればそれだけで大会社の社長のイスに座れる。あるいは資産家に嫁するか婿養子に入り込めば、資産家の列に並ぶのである。政治家にしても2世3世が活躍しているが結局は代々からの資産が力の源泉になっている。生まれ落ちた地点が分かれ目、馬鹿馬鹿しいほどの不公平だがそれが現実。
そのもともとの資産がどうして作られたかと言えば、すべてがすべて公明正大とは言えないであろう。国有財産を二束三文で払い受けたり、農民の無知に付け込んで土地を巻き上げたり、牛馬のごとく労働者を働かせて蓄財したり、法の網をかいくぐるペーパーカンパニーによる脱税だったり、地位を利用したインサイダーがらみの売却益だったり、特殊法人を渡り歩いてその都度退職金をせしめたり、目端の利く男達の悪業は多々あろうが、人の評判も一代限り。時がたてば資産と資産家の名声だけが残る。徒手空拳からのし上がる手法はそうきれいごとではないことは田中角栄の金脈がよく表している。
貧乏人の恨みつらみの如き文章になったが、資産家なるものは本当は大したことはないのだと言ってみたかっただけである。地域社会であれば資産家は社会的名士、社会的有力者、としての衣をまとい一目も二目もおかれ一般人はついへりくだるが、よくよく見てみればただ運よく生まれついただけの神様のいたずらにすぎないともいえる。
が、同時に親からの何の支援もなくただひたすら会社勤めに精を出して、家を買い、家庭を営み、子供を育て上げて一生をつつがなく終える無名の大衆の底光りのする「我慢の精神」こそ自然と頭が下がるほど尊く偉いものだと思える。         貧骨
2017/10/16
路傍のカナリア 36

政治的混沌の底にある「いつか見た光景」

今我々の目の前で展開されている民進党解体と希望の党台頭を巡る状況は誰でもが、どうにでも論ずることができるという意味では、まさに百家争鳴、いや千家争鳴と言うべきものであるが、私もその一家として凡庸ではあるが、気になったことを指摘して置きたい。
なんて言っても希望の党が公認を与える上での踏絵と言うべき「安保法制賛成」の条件を民進党の前議員たちがあっさりと受け入れたという事実の「不思議」である。今はもう希望の党の幹部の位置にある細野氏にしても当時の民進党政調会長として廃案を目指していたのだから、この議員たちの「変節」はどう理解したらいいのだろうか。
私達はこの「変節」を嗤う事も、怒る事も、あきれ返る事も出来るけれど、それよりもむしろこのように「変節」してしまえることの「不思議」の方が大切に思える。もしもこの総選挙において希望の党が出て来なければ、彼らは民進党議員として相変わらず「安保法制反対」を唱えていたに違いない。だから彼らにとつては政治的信条などというのは、けっして売り渡してはならない政治家としての生命線では勿論なく、政治的世界を生き抜くための道具立てということになる。本音を言えばどっちでもいいのである。今日は民進党で反対。明日は希望の党で賛成。国家の安全保障というまさに国会議員としての見識が問われるフィールドにしてこの有様は、議員不信、政治不信そのものと言いたい所だが、どこかで我々は同じ光景を見ている。
1945年8月15日一夜にして「鬼畜米英」も「一億総火の玉」も「徹底抗戦」も消え、「民主主義」万歳を唱え始めたのはまさに他ならぬ我が国民であった。あの時何が起きたのか、日本人の心中にあった「鬼畜米英」への激しい熱情はなぜ消えたのか、いやなぜ消えてしまうことが出来たのか。もしも心の底から徹底抗戦の思いにとらわれていたなら、ゲリラ戦もあっただろうし、武装解除も簡単には進まなかったろう。がそうはならなかった。
誰かが国民全体の総転向を「証人のいない風景」と呼んだが、あの「不思議」と今の「不思議」はもちろん通底している。
民進党議員の変節に散発的な批判はあるにしても、押し寄せるような国民全体の怒りが湧きあがらないのは、もちろん彼らが我が日本人の写し鏡であるからに他ならない。いかに声高に政治的スローガンを叫ぼうとも、叫ぶ本人も聴いている有権者もお互いに信じているように振る舞っているだけという事なのだろう。いやこうも言える。スローガンよりも世話になった、ならなかった娑婆の人間関係こそ最優先なのだと。政治とは、選挙とはそういうものだと。
結局のところ日本の政治は何事かを積み重ねてきたように見えて内実は虚ろなのだ。戦後70有余年、民主主義は根付いたように見えるけれども一夜明ければ、左右を問わず全体主義がこの国を覆い、メディアがここぞと煽り大衆が異端者をつるし上げる風景が再び現れるかもしれない。
戦後の「不思議」を考え抜くことなしに、日本の政治が変わるとはとても思えない。        貧骨
2017/10/16
路傍のカナリア35

相対的ということは人間を楽にさせるという真実

まだ知識欲が枯れていない頃、アインシュタインが唱えた「相対性理論」とはどんなものだろうかと初歩の入門書に挑戦してみた。サルでもわかる、これでわからなければタヌキ以下、そんな副題だと記憶しているが、今ではほとんど忘れているから、まあタヌキ並みの理解だったのだろう。ただそのとき「相対的」というのは人間にはとても大切なことだということだけはお腹の中にストンと落ちた。
これもあれば、あれもある。というのが相対的ということだが、絶対的なものを求めてやまないのが人間で、その結果は悲劇が起きがちである。
敬虔なキリスト教徒がその信仰を深めていけばいくほど、つまりキリスト教の絶対化に突き進めば異教は人を惑わす邪教になるのは必定で、その逆にイスラム教徒から見ればキリスト教こそ排除されるべき宗教ということで、千年も二千年も争いが続いてしまうのである。そこで「キリスト教もいいけどイスラム教も仏教もいいね」なんていうちょっといい加減なキリスト教徒のほうが争いは起こらないことになるが、それはそれで変な話なのである。宗教の争いというのは絶対化同志の戦いだけに根が深いのであるが、どこかで相手を許容する視点が教義のなかに繰り込まれないと平和は永遠に訪れないであろう。
政治の世界でも同様で、共産党以外はこの国では認めない、となるとどう考えても窮屈でしょうがない。反対の奴は思想教育が十分でないのだから再教育の施設に入れてしまおうというのは、権力の自己絶対化の象徴に他ならない。議会制民主主義が優れているのは、あれもある、これもあるという仕組みが確立されているからである。各政党は当然自己絶対化を志向していながらも国全体としては相対的な政治になっているのである。だから我々はどれにするかという選択肢を持てるのである。国中が熱狂に包まれて一つの主義しか認めなくなるというのは、人の本性とはそぐわないのであるから、長続きしないのである。
ビジネスの世界でも成功した人が得々と自己体験を語るけれども、それも一つのやり方で他のやり方もあるのだという自己内省力に乏しいと嫌味な自慢話に落ちてしまう。こうして自分はトツプ営業マンになったという話も同じで、だからお前も同じようにやれというと、自己絶対化のストーリーになってしまう。
子どもの教育にしても、エリートになることこそが人生の幸福であると親が思い込むと、それ以外は脱落者だから、子供はどんどん追い込まれる。ごく普通のサラリーマンで一生終わるのも悪くないし、貧乏だが自由人のように生きるのも幸福のあり方であるというふうに考えていれば子供はかえつてのびのびと才能を伸ばすものである。ま、本当に親がそう思っていないと子供に見抜かれてしまうのであるが。
今話題になっている不倫にしたって、一夫一婦制自体が絶対的に相互を縛るからややこしくなるので、もう少し夫婦の関係に相対性の視点を入れれば、離婚するしないの修羅場には一足飛びにはいかないであろう。
こうみてくると「相対的」というのは実にいいことづくめのように見えるが、ちょっとした難問が控えている。
「相対的というのは大切な考えである」という命題自体が絶対化してしまうという矛盾をまとうからである。この難問をきちんと解けるかどうか、解けて初めて話は完結するのだが、私の頭では解の方向性が見えているだけである。いつかきちんと解いてみたいと考えている。       貧骨
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