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エッセイ

■「体幹」と「心幹」を磨こう。 ■2017年7月28日 金曜日 16時13分33秒

そのとき、彼女は、鳥になった。体を丸め、凍りついた急斜面を崖から落下するように一気に滑り降り、そして、立ち上がるように全身を伸ばした瞬間、ふわりと中空へ飛翔した。山から強い横風が吹く。白い絵の具をまき散らしたように、雪煙が舞った。152センチの彼女の小鳥のような小さな体は、逆風をついて飛翔しながら、強い横風に煽られた。ぐらり。揺れた。小鳥は、風に巻かれ、目標軌道を失った、かに見えた。彼女の体はたしかに揺れた。揺れたが、安定している。逆風や横風に煽られ揺れているが、安定した飛翔をつづけ、だれよりも遠くへ飛んだ。
「大事なのは体幹です。体幹を重点的に鍛えているんです」。いま、アスリートたちに注目されている言葉「体幹」。古くからあるこの言葉を今日に蘇らせ、その重要性を改めて世界に気づかせたのは、彼女だ。高梨沙耶。人は、彼女を天才と賞賛する。飛翔した彼女の体は、たしかに強風に煽られて揺れた。だが、揺れたのではない。揺らいだのだ。「揺れる」と「揺らぐ」。この二つは、観客の目から見ると、同じ見える。だが、まったく違う。「揺れる」というのは、自分で「体の揺れ」をコントロールできない状態。「揺らぎ」は、自分で「体の揺れ」をコントロールできる状態。大きく違う。剣豪宮本武蔵は、著書「五輪書」で、「揺らぎ=ゆらぎ」の重要性、「体幹」に触れている。「体幹」とは、読んで字のごとく、体の幹、体の芯のことで、体の大黒柱のこと。背骨だ。武蔵は、これがガチガチに固くてはダメだ、と言う。ガチガチに固いと、機に臨んで風のように柔軟に対応することができない。強い力を受けると、ポッキリ折れる。風に揺れる枝のように、柔らかく揺れる。それも、自分の意思で揺れなければならない。それを「ゆらぎ」と言う。柔道や空手や剣道はもちろん、あらゆるスポーツは、動きの中で自然に「体幹」を磨いているが、高梨沙耶は、「体幹」を鍛える特別メニューをつくっている。この「体幹」、「ゆらぎ」は、企業や一つひとつの仕事、ビジネスにも応用できるものだ。機に臨んで、見事に「ゆらぐ」。2020年に向かって世界のアスリートたちが鍛えている「体幹」は、あらゆる世界で注目すべきものだ。さらに、この「体幹」に対応して、「心幹」という言葉を創ってみた。心に幹をもち、芯をもち、大黒柱をもつ、という意味だ。そして、心にも「ゆらぎ」をもたせたい。どんなに強い逆風や横風にも、余裕をもって「ゆらぐ」心。自分でコントロールし、相手にコントロールされるのではない。では、どのように「心幹」を磨くのか。磨かなければ、心は相手の力に流され、「ゆれる」のであって、自分の力となる、「ゆらぎ」にはならない。書店にあふれる人間磨きの書やベストセラーの哲学書を紐解くのもいい方法だ。だが、日本には、「心幹」磨きに最適な書がある。日本古来の「神道」と「仏教」と「儒教」を凝縮し、根幹をあわせて著した、「武士道」である。ご存知のように、「武士道」は、強い力として長い間日本を導いてきた。その強い力を、第二次大戦で帝国日本の軍部は、国民をまとめるために悪用した。その強い力を恐れた戦勝国アメリカは、「武士道」を排除した。アメリカは、見事に占領政策に成功し、日本の「心幹」を取り除いた。いま、時代の大きな転換期に際し、個人個人が、家庭が、企業が、国が、そして、それぞれの一つひとつの行為が、「ゆれる」のではなく、自身の意思によって「ゆらぐ」ために、「体幹」と「心幹」を磨くことが必要だ。ますます加速するネットと広がるグローバリズムの荒波に揉まれ、羅針盤を失った日本丸には、逞しい「体幹」と「心幹」が必要だ。
tagayasu@xpoint-plan.com
■殺し屋は、テラスにいる。 ■2017年7月5日 水曜日 13時2分9秒

東に向いた3階のテラスに、わが家でいちばん先に朝がくる。4時過ぎにはうっすらと明るくなり、バス通りの桜の木で鳥たちが鳴き始める。飛び方もぎこちない二羽の小雀が、屋根でピョンピョン跳ね回る。徹夜仕事のふらつく頭で、アイスコーヒー片手にテラスの椅子に座る。冷気を含んだ朝風が気持ちいい。テーブルのゼラニュームが、真っ赤な花を三つ咲かせ、「美しいでしょ」と、得意顔。茂った緑の葉に逞しい生命力が宿る。美しさより、逞しい生命力に感心する。横でミニトマトが実をつけている。ほどよく色づいた一つをつまんで口にふくむ。野生の香りがフッと舌先に走る。フルーツ化した最近のトマトが失くした野生の香りが、子どもの頃に遊んだ信州の野菜畑を想い起こさせる。ゆるやかな南風、ゆっくり明ける世界。いい朝だ。遥かに望む副都心のビル群も、やっと目覚めた。ミニトマトの手前にメダカの甕がある。厚い土の甕は深さもたっぷりあって、6匹のメダカたちも満足気だ。水面には小さな蓮の葉がびっしり敷き詰められ、白い小さな花が三つ咲いている。注意して見ないと見逃してしまいそうな可憐な花だが、気品漂う。蓮の葉の隙間をメダカたちは嬉々として泳ぎ回る。メダカもその隣のカメも、100%息子の管理下にあって、かわいいからと無暗に手出しはできない。そこで、息子に内緒で、秘かに彼らに名前をつけて楽しんでいる。メダカは6匹とも薄ピンク色で、大きさも泳ぎ方もほぼ同じだが、じっと見ているとそれぞれに個性がある。ピンクの体全体に黒い縞模様が浮いているヤツを、「ヨコシマ」と呼んでいる。だからといってヤツがねじ曲がった邪な心をもっているわけではない。気を悪くするだろうが、見たままを名前にしただけで、こちらに悪気はない。色にも微妙な濃淡があって、いちばん色の薄いヤツを、「薄次郎」と命名した。背中の首辺りに、刀剣模様のあるヤツがいる。光の中で急反転すると、その刀剣模様がキラリと光る。水面で急反転し、一気に深みに突っ走るそやつを、「抜き打ち」と呼んでいる。物騒な名前だが、動きの切れ味のよさから、いい名だと自賛している。太めのヤツがいる。他の連中より運動量が少ない、と読んだ。そこで、ダイエットのために一日一万歩歩け、という叱咤を込め、「万歩計」と名づけた。残りの2匹については面倒だから、「その他1号」「その他2号」と呼んでいる。さて問題は、いつからわが家にいるのか、とんと思いつかないドロガメである。いつだったか、祭りで買ったミドリガメを同居させた。ミドリの成長は驚くほど早く、あっという間にドロガメを追い抜き、30センチ近い大きさになった。こいつら、実に仲が悪い。年じゅう喧嘩している。昼も夜も、水槽内を追いつ追われつガタガタバタバタ大騒ぎ。そして、いよいよ決着をつける日がきた。明らかにミドリが優勢だ。体格といい、オレンジのタトゥーの入った太々しい顔つきといい、まさにガメラの風情。われらのドロガメにまるで勝ち目はない。ところがある朝、ミドリがだらりと全身をだらしなく伸ばし絶命していた。ドロガメはというと、水槽の岩の上で、のんびりと日光浴だ。ミドリの首にいくつも噛み傷があり、それが致命傷だった。ミドリが岩穴から首を伸ばすところを狙って、上からドロガメが噛みついたのだ。恐ろしいばかりの殺亀方法。その瞬間から、ドロガメを「ゴルゴ」と呼んでいる。いま、「ゴルゴ」は、過去のすべてを水に流し、何食わぬ顔で水槽のガラスをゴンゴンと叩き、餌をねだる。まあいい、ミドリ殺亀事件はもう時効だ。よく見れば、とぼけて愛嬌のある顔の殺し屋を憎めない。辺りはすっかり明るく、街のざわめきが届き、通りをバスが走った。テラスは今日も、平和な、幸せな光に包まれる。
■ぼく、おれ、わたし、わし、じぶん ■2017年6月1日 木曜日 12時40分5秒

迷いの困惑か、繊細の美学か。ときどき、自分を「I」の一文字でかたずけてしまう英語が、うらやましいと思う。日本語では、自分を「ぼく」「おれ」「わたし」「わし」「じぶん」と、立場や状況に応じて、さまざまに使い分ける。それを生み出した日本人の繊細な感性には感心するが、いざ使う段になると、これが実にわずらしい。作家や翻訳家は、その使い分けを楽しんでいるのか、苦しんでいるのか、金田一先生のご高説を拝聴したい。「ぼく」と「おれ」「わたし」と「わし」と「じぶん」、どれを使うかによって、読み手に与える印象がまったく違う。言葉として最初に覚えたのは、「ぼく」だった。女の子なら、「わたし」とか「あたし」が普通だったが、東京育ちの男の子は、「ぼく」が普通だった。「おれ」は、ワイルドだし、使い方によっては乱暴だ。わが町下落合でどこの家よりも早くテレビを買い、毎週水曜日に町のみんなにプロレスを見せてくれた、水野くんのような裕福な家の息子でも「ぼく」を使い、裕福ではない家の息子のぼくでも、同じように、「ぼく」と言っていた。「おれ」を使うこともあった。隣町の不良と対決したり、相手を威嚇したいときは、「おれ」を使った。強い男と見せるためには、「ぼく」より「おれ」のほうが似合った。魚屋のゲン坊のように、いつも「おれ」だけを使う子もいた。イキのよさを売り物にする魚屋には、「ぼく」はたしかに甘すぎる。魚が腐る。「おれ」というワイルド感、スピード感、野性味のある言葉のほうが魚屋にはよく似合う。それは無礼でも、不親切でもなく、歯切れのいい言葉として聞こえた。水野くんは「ぼく」で、ゲン坊は「おれ」が似合う。言ってみれば、ぼくのような中途半端なキャラクターの男が、「ぼく」だか「おれ」だか迷うのだ。「わたし」というのは、女の子か大人が使ってふさわしい言葉だ。大人が使うと、相手との距離感がきちんと保て、礼儀正しく、響きも美しい。「ぼく」に対する言葉は「きみ」だし、「おれ」に対する言葉は「おまえ」だ。「わたし」に対する言葉は「あなた」だから、「わたし」という言葉には、相手に対する敬意が十分に含まれる。敬意を含む言葉は美しい。美しいが、いざ、ストーリーを書く場合、妙に大人びてしまう。心の距離感がありすぎて、感情移入がしにくい。もどかしい。心の距離感からみれば、「ぼく」「きみ」よりも、「おれ」「おまえ」のほうが近い。親密だ。古い話だが、海軍予科練に、「きさまとおれとは、同期の桜」という歌がある。この「きさま」と「おれ」には、距離感がない。死ぬも生きるもいっしょだという覚悟があって、心の距離感なんかない。そんなとき、「きみとぼくとは同期の桜」とか「あなたとわたしは同期の桜」などと歌っても、とてもいっしょに死のうという気持ちにはなれない。親密さは、乱暴さにつながる。言葉は、相手との心の距離感や、状況に応じて選ぶのが正しい。学生時代を運動部で過ごしてきたぼくにとっては、「じぶん」という言葉が非常に使いやすかった。その言葉には、謙虚さがあった。先輩に対しては、「ぼく」や「わたし」ではなく、「じぶん」という言葉が失礼ではなかった。ところが社会人になると、「じぶん」はちょっと不思議な存在になった。思えば、自衛隊とか警察官とかヤクザモンは、「じぶん」を使うのではないか。自分を「じぶん」というのは、謙虚さだとか、へりくだった響きがあるが、どうやら強力な組織に似合うのであって、一般社会には不自然だ。使うのを止めた。四つの季節の微妙な美を愛する日本人は、自分を表す言葉一つをとっても、複雑なほど美しい感性をもっている。少々面倒くさい人種だけど、まあ我慢しておこう。
■「諸行有情」の響きあり。 ■2017年5月12日 金曜日 15時49分23秒

「諸行無常。仏の言葉だ」。携帯電話の奥の声が言う。狛江駅前のカフェテラス。山笑う季節。頬を過ぎる風が爛漫の春を告げるが、突然夏日が襲いかかる。まさしく今日はそんな日で、正午の陽ざしがシャツの袖をまくった腕を焦がす。慈恵医大附属第三病院に入院の友を見舞った帰りだ。ゆっくりとコーヒーを味わう時間はある。さほど広くないテラスに6つの白いテーブルがあって、そのうち2つが陽ざしの中で眩しく輝き、2つが赤い日除けシートの日陰にうずくまっている。残りの2つのテーブルは、光と陰を半々に受け、陽ざしをあびて輝く部分に街路樹の影が揺れている。いま、そのテーブルにいる。
隣の日陰のテーブルには、若い美しい女性がいる。濃紺のスーツに身を包んだ毅然とした女性だ。脇の椅子に黒いバッグを置き、しきりに手帳になにかを書き込んでいる。営業の途中なのだろう。最近、渋谷でもスーツ姿の若い女性をよく見かける。けなげで切ない気もするが、それは昭和の古い男の発想だろう。「そんな同情は真っ平よ。私は、のびのび働いてるわ」。そんな声が聞こえてきそうなハンサムウーマンだ。得意先と話しているのだろう、携帯での会話もてきぱきと歯切れがいい。女性は、男性の代わりに働くのではなく、女性の特質を存分に活かし、社会の中で独自の地位を築くべきだ。いまはまだ男性社会だから力を発揮しにくい面も多いだろうが、新しい時代はすぐにくる。
時代は、川の流れのように留まることなく流れている。顔を上げ、広がる青空を見る。絵に描いたような五月晴れだ。南の方角、多摩川上空から丹沢上空にかけて、筆で払ったような雲が流れる。「雲は天才である」、という石川啄木の言葉をフッと思い出した。啄木の本意をくみ取れないまでも、座右にしたい大好きな言葉だ。「雲のように生きたい」。そう願う。
あるとき、妻にそのことを言うと、「風が吹いたら、流されちゃうわよ」と、冷たく言い返された。「どうぞ、どんな風にも喜んで流されましょう」と、答える。「風に吹き飛ばされて、消えちゃうわよ」と、続けて言う。「いいさ、翌日また現われるよ」。そう答える。妻は、キッチンであきれ顔をする。雲は、あらゆる風に逆らうことをしない。だれの意見にも逆らうことなく、耳を傾ける。老若男女を問わず、善人悪人を問うこともなく、だれにでも、雨となって降り注ぐ。木にも花にも動物にも、すべての生命に寄り添い、恵みの水となって生命を育む。そんな人間になれるだろうか。
「雲は天才である」。啄木こそ天才だ。「諸行無情」。携帯電話の奥でそう言うのは、空手の師であり、人生の師でもあるJ先輩だ。癌を発症し、あっという間に15キロも体重を失った友人にかける言葉もなく、途方に暮れてJ先輩に救いを求めた。情けないが、白秋を過ぎ玄冬の歳になっても、弱音を吐きたいときがある。そんなときに頼るのは、J先輩だ。「切ないものです」。力なく呟く。「諸行無情。だからこそ、諸行に有情が必要だ」。剣豪武蔵が「五輪書」でいう「空」とはそういう意味だ、とも言う。「空」は「無」ではない。「空」には、無限の存在がある。たしかに生命は、神に与えられた時間に過ぎない。儚いかな、すべての生命は無常である。仏はそう言い、返す言葉で、「永遠の生命」を説く。この両者の矛盾にこそ、「人間の英知がある」と説く。「諸行有情。諸行に情あり。人間に与えられた英知だ」。J先輩の言葉が、冷えた心に熱く沁みる。「風の声に耳を澄ましてみろ。諸行有情の響きありだ。まず、お前が友のためにどっしり構えることだ」。アイスコーヒーの氷に光が当たり、一瞬虹ができ、次の瞬間、消えた。雲が流れる。空は、永遠だろうか。明日また、友人を見舞おう。
tagayasu@xpoint-plan.com

■「拳と花」 ■2017年5月8日 月曜日 15時11分12秒

朝靄をついて剣を振る。男は着流しである。春とはいえ、早朝の鎌倉は、まだ肌寒い。男の額にうっすらと汗が浮かぶ。抜きうちで一文字になぎった剣を、上段に流す。上段から唐竹割りに振りおろす。一陣の風に似た動きに、朝靄がゆらりと揺らぐ。剣を静かに鞘に納める。目前の虚空の敵に心を残し、ゆっくりと息を吐く肩に、一片の赤い花びらがハラリと落ちた。剣が触れたか。腹を切る剣が、花を散らしたか。目を閉じ、剣の道を漂う男。作家立原正秋は、こんな男ではなかったろうか。立原の代表作「剣と花」から、そう想像する。朝鮮人の母をもち、死の直前まで朝鮮名を日本名に変えなかった。中世日本に美と精神の本質を求め、だれよりも日本人の誇りを大切にした作家。「あれは、真の武士道ではない」と、三島由紀夫の自刃に唯一苦言を呈したのも立原だ。今回のタイトルは、立原の「剣と花」から借りた。友人Mは、頭のよい男である。類まれな頑固頭で、筋の通らぬことには、けして首を縦に振らない。有名大学で学び大手企業に務め、やっとさまざまなものから解放された。理解力分析力に優れ、脳回転がよい。人生に謹厳であり、なにより人間が上質である。そのMが言う。「空手ってやつは、中途半端でいかん」。われらは、経堂駅前のパブで飲んでいる。「ほう、そうきたか」。友人の顔を、私は見る。私が空手二段で、いまも学生たちに指導していることを承知の上で、彼は言うのだ。「どこが中途半端だ?」。「あの寸止めがいかん」。そう言う。空手は、試合において、拳を相手に打ち込む「フルコンタクト」と、当たる寸前で拳を止める「寸止め」がある。ルールである。「寸止めがいかん」。「なぜ?」。「空手の本質を失っている」。そうきたか。彼は、青春時代にサッカーを経験したスポーツマンだ。だが、武道については、「通りすがりの旅人」である。勉強家の男だから造詣は深いが、「旅人」に過ぎない。こちらはといえば、青春を武道に賭けてきた。武道を体で知り、肌で感じ、魂に刻んできた。「柔道は、まだ本質を残しているが、空手は本質を失っている」。Mの言葉には、二つの疑問が含まれる。一つは「空手の本質」、一つは「寸止め」だ。「空手の本質」問題に答えることが、「寸止め」問題の解答ともなる。「柔道と空手を並べるが、その本質がちがう」。Mに言う。柔道は、「格闘」を本質とし、空手は、「殺戮」を本質とする。空手は、殺人の技だ。空手の基本技は、敵を殺すための「突き」「蹴り」の二つ。単純だ。同じ武道でくくってしまうが、柔道とは本質がちがう。「だから、困ったのは、スポーツ化するときだ。殺戮を本質とする空手をスポーツ化する。矛盾が起きる。矛盾だらけだ。スポーツに殺戮はない」。あの柔道でさえ、スポーツ化に手こずり、大きな犠牲を払った。空手は、もっと大きな犠牲を払わなければならない。「本質からどんどん離れていく、ということかも知れない」。だから、空手界には二つの理念が並立する。あくまでも武道としての空手を重視する武道派。スポーツとして広くひろめようとするスポーツ派。武道とスポーツがその本質を異とするように、現在の空手界には二つの異なる奔流が渦巻く。そこには、道場を運営する経済問題やさまざまな壁が立ちはだかる。「寸止めのほうがむずかしい」。私は言う。「当てるほうが楽だ」。武道派とスポーツ派。フルコンタクトと寸止め。「双方に言い分があり、どっちも正しい。選択は自由だ。だが、学生には、道場の稽古では武道空手を教え、試合ではスポーツ空手をやらせている」。Mが理解できたかどうか不明だ。「剣と花」の両方に美学を求める日本人。殺人拳は、活人拳でもある。散る花に、永遠の美を観る。日本人は、矛盾の奥に本質をさぐることができる。
■銀座の風が、笑った。 ■2017年5月8日 月曜日 15時3分27秒

ギター、バーテン、喧嘩。その頃の青春の条件だ。進学校なので3年になると受験のために部活を辞め、授業が終わるとみんなそそくさと塾や図書館に向かった。
だが、私の足は銀座に向かう。銀座八丁目資生堂裏、バー「A」。私はそこで、バーテン見習いのアルバイトを始めた。受験費用を稼ぐという名目だったが、青春の条件を体験したいというのが本当のところだ。バーテンの宮坂さんは、高校生から見ると、型にはまった学校の先生とは違って、自由で人間味にあふれ、素晴らしき大人に見えた。ポマードできちっと固めた髪。糊のきいたハイカラーワイシャツ。きりっと締めた舶来のネクタイ。穏やかな笑みを絶やさない。映画スターが尻尾を巻いて逃げるほどの甘いマスク。シェーカーを振りながら見せる艶っぽい表情やグラスに酒を注ぐふるまいは、爽やかだ。宮坂さん目当ての女性客も多く、周辺の喫茶店やショップにも女性ファンがたくさんいた。
学生時代は山岳部で、先輩や同輩も常連客だった。気心知れた仲間同士の熱き友情は、見ていて気持ちのよいものだった。
ママは、和服の似合う小柄で上品な人だった。お客の話に耳を傾け、小首をかしげる風情は、いかにも一流の銀座のママといった趣で、息を飲むほど美しかった。カクテルのつくり方、お客との会話のコツ、言葉遣い、目と気の配り方を宮坂さんは厳しく教えてくれた。「受験には役立ちそうもないけれど、人として大切な勉強ね」。そう言って、ママが笑った。
4時に店を開け、掃除。終わるとウェイトレス三人分の夜食を作る。もやしを毎日炒めること。宮坂さんはそう言い、毎日味見をし、「30点だ」と即座に評価した。100点取れたら、どんな料理でもできる、と言う。だが、宮坂さんは最後まで100点をくれなかった。店の前に「コンパル」という美人喫茶があった。香港女優がゲストで来店し、大騒動になった店だ。裏口がバーの前にあって、ゴミ袋を抱えた美人たちとよく顔を合わせた。「宮坂さんに渡して」と、小さく折った手紙を押し付ける美人がいた。「お礼よ」と、500円札をポケットに入れた。当時の日給が、500円だった。銀座から下落合までのタクシー代も、500円だった。有名銀行の新橋支店長が、「趣味の絵が売れたので、はいチップ」と配ったのも、500円だった。有楽町駅前に日劇があって、ダンシングチームの踊子たちが、客とともにやってきた。淡い記憶だが、若き倍賞千恵子や三田佳子がいた。踊子を連れてくるお客の分厚い財布には、目玉が飛び出るほどの札が詰まっていた。気前のいい人で、「この娘たちは、必ず大女優になる」と、高いカクテルを次々に注文し、子どものように笑う。
輸入洋酒を扱う牧さんは、バリッとした外国製スーツに身を包んでいるが、どこか崩れた感じだ。「これ、飲めや」と、ヘネシーやジョニ黒を飲ませてくれた。「親父にも飲ませたい」と言うと、あるとき、「これ、もってけ」と、新聞紙にくるんだオールドパーをくれた。その頃まだあった八丁目の運河脇で、元ボクシング世界チャンピオンのSと立ち話をしただけで、「やつは本物のヤクザだ。つき合うんじゃない」と、本気で怒った。「いまこそ足を洗ったけど、昔はちょっとした顔だったんだ」。宮坂さんが、ボソリと牧さんのことを言った。牧さんの左手の小指はない。銀座と下落合では、同じバーでもまるで雰囲気が違った。土地柄だと思って、宮坂さんに尋ねると、「店は人がつくるもの。とくにお客さんが店をつくってくれる」と、教えてくれた。
4月初旬、週末、雨上がりの黄昏、銀座八丁目資生堂前。若い娘に寄り添って歩く白髪の紳士がいた。宮坂さんだとすぐにわかった。「ゆっくり恋のできる齢になった」。宮坂さんはそう言い、風のように笑った。
■「U」という男のこと。 ■2017年3月31日 金曜日 11時12分25秒

「先生、先生じゃないですか?」。暗闇から水木しげる描く妖怪のような男が現れ、青木の顔をのぞきこむ。えっ?だれだ?私を先生と呼ぶ人間は少ない。あわてて頭の中の名簿をめくってみる。思い当たる節がない。不思議に思って見つめていると、妖怪は不気味に笑い、「Uです。冨士の陸自にいたUです」と、言う。U?変わった名前だ。陸自?陸上自衛隊?それも思いつかない。「陸自のトッカです」。トッカ?ますますわからない。トッカってなんだ?。「特別の特に、火器の火と書いて特火です」。いかにも自衛隊らしい呼び名だ。「すまん、思い出せない」。素直にあやまる。「特別の特に、火器の火のトッカでよかった。火じゃなくて、価格の価の特価じゃ、駅前のスーパーだ」。青木が持ち前の遊び心でそう言うと、前歯一本のほら穴のような口を開け、妖怪が全身で笑った。笑い終わると、「30年も前になりますが、空手を教わりました。先生が自衛隊にきてくれて」と、言う。そういえばたしかに自衛隊に空手を教えに行った。自衛隊には先輩がいて、一週間ほど指導に行った。妖怪の正体がわかった青木は安堵して、改めて相手の様子を眺めた。子どものような小さな体。頭髪はほとんどない。あめ玉のようなツルンとした丸顔。眉毛はない。ボタンのような小さな目が、子どものそれのように好奇にきらめいている。作業着のような上下服が、垢じみている。「そんときのお礼です」。妖怪は、愛嬌のある目をくるりと回して、左手にもっていたカップ酒をおずおずと差しだす。これは自分の分です、と右手にもっているカップ酒をもち上げた。青木は、ありがたくカップを受け取ると、蓋を開けた。妖怪が嬉しそうに笑い、カップを掲げる。カチンとカップを合わせる。「で、特火ってなにをするの?」。「大砲です。大砲の係で8人のチームです」。へえ、自衛隊には大砲を専門に扱うチームがあるんだ。言われてみればなるほどと思う。「でっかいの?大砲は?」。「弾丸だけは90キロの重さです」。えっ?弾丸だけで90キロ?「でかいね、小さな相撲取りくらいだ。重いね」。その弾丸を手で運び、大砲にこめるのだ、と言う。「二人で運ぶんです」。「おっかないな。落としたら爆発するだろう」。「いえ、信管を抜いてありますから、爆発しません。爆発はしないけど、落とせば足なんか潰れちゃいます」。妖怪は、一本しかない歯を見せながら、くっくっくと鳩のように笑う。体を折り曲げると、手のカップ酒がこぼれた。あわてて口をカップにもっていき、一口飲むと、また体を折ってくっくっくと鳩になる。「相当飛ぶんだろうね、その大砲は?」。青木は、90キロの弾丸が青空を切り裂いて飛ぶのを想像しながら聞く。「20キロ飛びます」。「えっ?20キロ?すごいね、ここからだと上野か浅草くらいまで飛ぶな」。「冨士では実弾を撃てません。狭すぎます。仙台まで行きます、実弾射撃をするときは」。自衛隊に6年いて、それから塾の先生や保険の外交をやった、と言う。「長距離トラックをやってるとき事故を起こして、それ以後働いてません」。いまはホームレスで、生活保護を受けている。家族とは20年以上音信不通だ。「でも、いまが一番幸せです」。そう言い、くっくっくと笑った。コップ酒がこぼれた。漱石の小説「こころ」に出てくる主人公の兄は、能力があるのにぶらぶらしているのはつまらん人間に限る、と言った。「イゴイストはいけないね。なにもしないで生きていようというのは横着な料簡だからね」と、言った。人の幸せは、それぞれだ。俺よりずっとUのほうが幸せだ。今度は俺が教わった。青木はそう思い、くっくっくと鳩になって笑った。カップ酒がこぼれた。嬉しそうにUが青木を見た。
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■たかが釣り竿じゃねえか。 ■2017年3月15日 水曜日 11時49分38秒

『なまけるな 雀は踊る 蝶は舞う』(一茶)。春だ。春のせいか歳のせいか、妄想会話が増えている。とくに川にいると妄想はいっそう激しくなる。今川さんの旨いゆで卵を頬張りながら、ピクリとも動かない釣り竿にはっぱをかける。有村さんは、カルガモにパンの耳を撒いている。「おい、釣り竿、なまけてないで、ちゃんと働けよ」。釣り竿がおずおずと答える。「あのう旦那、もしかして釣れない責任をあたしだけに押しつけてませんか?」口をとがらせる。「あれ、なんだおまえ、なにか、自分に責任がないとでも言いたいのか、えっ!?」。目の前には悠々たる緑の水流が広がる。午後の陽ざしを浴びた水面が、ガラスの粉を振りまいたようにキラキラと眩しく輝く。「えっ!?どうなんだおまえ、なにか?自分に責任がないと言いたいのか?責任転嫁か?責任転嫁無敵とくるか?」。釣り竿を怒鳴りつける。「あのう、いまのシャレ、笑うべきでしょうか?」。「なあ、そういうのって聞いてから笑うのか?笑いってのは面白いから自然にでるのが普通だろ。なにか、これは面白いから笑えとか、これはつまんないから笑うなとか、いちいちオレが言わなきゃならねえのか?」。「失礼しました、口が過ぎました」。「そうだろ、釣り竿の分際で生意気なんだよ、タックルベリーへ売り飛ばそうか?それともいっそのことへし折るか?」。「ほら、すぐそうやって脅かすんだから、旦那も人が悪い」。「うるせえ、人が悪いのは生まれつきだ。だいたいが、おまえが満月のようにしならなくちゃ釣りにならねえんだ。鯉がかかる。鈴が鳴る。釣り竿が満月のようにしなる。リールが逆転してジージー唸りを上げる。そして、おもむろに椅子から立ち上がったオレが、にんまり笑って80センチの鯉と戦う。これが釣りだ。な、だから、ちゃんと働け」。「はい、でも、鈴のやつだって働いてません。手を抜いてます」。「あら、なによ?わたし?わたしがなにをしたっていうのよ?」。「なにもしない、なにもしないから問題なんだ」。「あらら、頭くるわね。わたしより、餌に問題があるんじゃないの?餌に?」。「ほらほら、釣り竿、鈴を巻き込むなよ。女を巻き込むと話が面倒くさくなるだろうが」。「あら、それって差別でしょ。旦那、いまはもう男も女もない時代だって普段から言ってるじゃありませんか」。「そりゃ建前ってもんだろ。本気になってどうすんだ。まあいい、鈴は黙ってろ。問題は、竿だ。釣り竿だ」。「参ったな。おい、柳、ゆらゆら揺れてないで、なんとか言えよ」。「気に入らぬ 風もあろうが 柳かな」。「お、お、柳のやつ、なんて言ったんだ。なんだかえらそうなこと言わなかったか」。「気に入らぬ 風もあろうが 柳かな」。「旦那、聞いた?えらいね柳は。悟りですかねえ、見習いたいなあ」。「なにが悟りだ。やつは、釣れても釣れなくても騒ぐな、そう言ってるんだろ?ただの嫌味じゃねえか」。「当たり」。「バカ、なにが当たりだ。おい柳、川村の親父に言って伐り倒してやろうか」。「無茶苦茶ですね」。「無茶苦茶でもなんでも釣れればいいんだ。ああやっぱ、安い竿はダメかなあ。リール付きで2800円、やっぱ安すぎか。会長の竿は、8万円だってな。違うよなあ」。「それ、言わないでください」。「なにがだ?言ったっていいだろ、本当のことなんだから。リール外したら1000円だ。上州屋も安竿を売りやがるな」。「店のせいにしてどうすんですか?」。「松ちゃんと同じ竿だよな、松ちゃんの竿はよく働く。さっき、二匹釣ったってよ。同じ値段だけど、根性が違うなあ」。「持ち主の根性が違うんですかね」。「へし折る!!」。「えっ!?」。『鯉釣りや 竿より餌より 魚ごころ』(耕雲)。まもなく桜だ。
■おもしろ言葉に、ご用心。 ■2017年3月2日 木曜日 16時8分29秒

「へったくれ、へったくれ、どっかにないか、へったくれやーい」。「おや、団五郎、なにをブツブツ言ってるんだい」。「あ、源内先生、ちょうどよかった。ね、先生、教えて」。普段の暮らしの中で何気なく使ってる言葉に、なにやらおもしろいけれど、意味不明な不思議な言葉がたくさんある。団五郎は、その一つが気になって仕方がない。「なんだい?」。旅役者団五郎の汗にまみれて白粉が乱れ、崩れかけた土蔵のような不気味な顔を、源内は覗きこんだ。「いえね、先生。ここんとこ客の入りが悪くて、こうしてビラまいてるんですが、みんな忙しくて、芝居もへったくれもあるかって言う。思わず、へったくれくらいあるわさ、と言った。そしたら、なに、へったくれがあるって、あるなら見せてみろ、こう言いやがる。先生、へったくれって、どこに行けばあるんだ?」。「はははは、それで、へったくれ、へったくれってブツブツ言ってたのかい」。「そう、土用丑の日ウナギの日って、日本最初の広告コピーを作った先生なら、へったくれくらい知ってるな。へったくれって、食い物か?うまいか?」。なるほど言われてみれば、へったくれの語源は、不明だ。源内は思った。「そうよな、へったくれの語源はよくわかってないな。食い物ではない。まあ、取るに足りないものとか、どうでもいいようなこと、の意味だな」。「へえ、そうか、意味はわかった。語源がわからない言葉もあるんだなあ」。「一説には、大阪弁で、ヘチマのまくれたの、それをへったくれと言うそうだ」。「なるほど、そりゃ取るに足りない。先生、考えてみると、そんな言葉ってけっこうあるね。たとえば、生憎の雨なんていう、生憎な、それとか、埒が明かないってのもよくわからない」。生憎の雨の「あいにく」。これは、古代語の「ああ憎らしい」という言葉が転訛したものだ。「ああ憎らしい」が「あや憎し」になり、それが「あいにく」となった。「ああ憎らしい雨」が「あや憎し雨」になり、「あいにくの雨」となった。「聞きゃあ、なるほどと思うけど、いい加減だね」。「普段使い言葉は、言いやすいように変化していくものさ」。「渋谷ギャルのハショリ言葉をバカにできないね」。「そりゃそうさ、いつの時代でも、だれでも言葉をハショッてきた。人と水は、低い方に流れるものさ。だから、用心してかからなくちゃいかんな」。埒が明かない。これは、春日神社の祭礼の前の晩、まだ入っちゃいけないと、埒という馬を囲う柵を作った。翌朝、その埒が明くと、みんな入ることができた。埒が明かないというのは、始まらない。埒が明くというのは、始まるという意味だ。「埒って馬の柵のことか。なるほど、聞きゃあわかる」。イナセってのが、ボラの子どもの背中「鯔背」ってのもおもしろいだろ?「え、あの粋で、かっこいいイナセが、ボラの子どもの背中?先生、そりゃどうしてよ?」。魚河岸の若い衆のかっこいい髪型が、ふと見るとボラの子どもの背中「鯔背」に似ていた。そこでこの髪型を「いなせいちょう」と呼んでいたが、そのうち、若い衆の粋や、かっこよい様子をイナセと言うようになった。「先生、おもしろいな。言葉って、ずいぶん古くからあるし、意味があるし、時代とともに変化していくってのがいいね。言葉は、生き物だね」。「団五郎、いいところに気がついた。言葉は生き物だ。だから、ひとの心に響くんだよ。おれたちは、生きてる言葉を生きたまま話さなきゃいかんのさ。言葉を死なしちゃダメだ。とくにあんたは役者だしな」。そろそろ話しに「けり」をつけよう。「けり」は、俳句の作法、完了の助動詞からきた。「赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり」(子規)の「けり」。本日は、このへんで終わりに「けり」。

■平成の黒船か? ■2017年2月21日 火曜日 11時11分38秒

「先生、先生、大変だあ」。赤坂氷川下海舟邸は坂の途中にあって、玄関は道路から少し上がった所にある。こだわりのない海舟らしい質素な門構えだ。その日、一人の男が息せき切って、玄関前の石段を転がりながら飛び込んできた。「なんでえ、朝っぱらからけたたましいな。大変は、熊公の専売特許だぜ」。海舟は、庭に面した縁側で書を認めている。「おい、遠慮はいらねえ、こっちへ回んな」。海舟は座り直し、庭の木々に目を移す。梅が終わり、桜花がピンク色に膨らみ始めている。本居宣長の言うように、美しさと強さを併せもつ桜花は、武士の象徴だ。「日本人も弱くなったものよ」。海舟の口から、フッと溜息が漏れる。「腰抜けばかりになってしまった」。「あ、いたいた、先生、お帰り」。ぬっと長い顔を見せたのは、廻船問屋伊勢屋の倅だ。「おう、長次郎かい。昨日長崎から帰った」。海舟は言い、「お民、茶をくれ」と、奥の部屋の女房に声をかける。そして振り返り、「で、なにが大変なんだい?吉原通いがばれて勘当でも食らったかい?」と、笑う。「いえ、今度はちがう、今度はむずかしい。いろは長屋の知恵じゃ無理だ。軍艦奉行の先生でなきゃ」。「大家さんが聞いたら怒るぜ」。「黒船よ黒船、平成の黒船だ」。「なんでえそりゃ?」。「アメリカの新大統領、ほら、歌留多とかいう野郎、犬も歩けばボーとしてる、猫にコンバンワ・・・」。「ははは、そりゃトランプじゃねえか」。「アメリカじゃそうだが、日本じゃ歌留多だ。野郎、TPPをぶち壊した挙句、二国間自由貿易なんてぬかしやがる。どうちがうかわかんねえけど」。「そりゃむずかしいな、そうかおめえんとこ貿易商だな」。「親父なんかわけもわからないまま頭抱えて寝込んでら。ここは一つ孝行息子としてなんとかしたい」。「ががが、そりゃ大変だ」。座敷の奥から不気味な声が響く。長次郎が首を伸ばしてのぞきこむと、床の間の脇でこちらに背を向けて、一人の侍がごろりと寝転んでいる。「わ、汚ねえな、でっけえな、先生、あのマグロみたいの、ありゃなんだ?あらら、マグロが尻掻いてやがる」。「ははは、俺の弟子でな、土佐の坂本ってんだ。長崎からいっしょにきたのよ」。「へえ、土佐の坂本ねえ。え?先生、もしかしたら、リョ、龍馬?坂本龍馬?」「ほう、知ってるかい。龍馬、おまえさんも有名になったもんだ」。「ががが、おい、そこの女形」。マグロが寝転んだまま大声で叫ぶ。「歌留多じゃがの、うっちゃっとけ。やつの狙いは単純じゃき。孫子の兵法、相手をガサガサ揺さぶって、自分のペースに引き込む、主導権をつかむ。それだけじゃき」。「先生、そうなの?孫子の兵法?うっちゃっとけばいいの?」「そうだな、龍馬の先読みは、俺より正確だ」。ボリボリ頭を掻き、龍馬が起き上がる。「まず、歌留多の顔を立てる。大老安倍守は小器用じゃき、無難に収めるだろうさ。歌留多野郎、友だちがいねえ上に敵ばっかり作る。武道の奥義は、敵を作らねえこと、敵を味方にすることじゃき。味方を敵にするなんざ最も愚かなことじゃき。安倍守が友だちになる。いいことじゃき」。「でも、歌留多は傍若無人な男です」。「ががが、野郎もバカじゃねえ。利口でもねえが、そんなことは百も承知じゃき。損得に敏感だ。下手は打たねえよ。まあ、オタオタしないで手の内拝見じゃい」。「先生」。「その通り、親父にもそう言ってやれ。そうそう長次郎、俺んとこに龍馬がいることは内緒だぜ。幕臣の俺が土佐者を居候なんて笑い話じゃ済まん」。海舟が指を立てる。「龍馬、ごろごろしてるのも飽きるな、釣りにでも行くかい?」。「いいですねえ先生、でも、江戸湾にクジラはおらんな」。世の中騒々しいほど、優れた人材が必要だ。
■三谷幸喜が消えた。 ■2017年2月21日 火曜日 11時10分38秒

「てえへんだ、てえへんだ、おい、大家いるかい?」。いろは長屋にバタバタ足音がする。「なんだいクマさん、朝っぱらから乱暴だね。まあ大変はわかったけど、家に上がるんなら、下駄くらい脱いだらどうなんだい」。日当たりのいい縁側で、猫のタマを膝に乗せて大家さんが言う。「てやんでえ、こんな汚ねえ家、いちいち下駄脱いでられるかってんだ。だいいち足が汚れちまわあ」。「人んちにきてえらい権幕だな。まあいいや。で、いったいなにが大変なんだね」。「それよ、忘れてた、もう帰ろうかと思った」。「相変わらずそそっかしい男だね」。「八の野郎のことだ」。「おお、八さんな、もう一人のそそっかしいほうな。で、どうしたね?」。「三谷幸喜が消えたってんで、もう大騒ぎよ」。「三谷幸喜って、あの三谷幸喜かい?」「あのってなんでえ、あのに決まってるじゃねえか。ほかにあんな頓珍漢がいるか?」「作家先生をつかまえて頓珍漢はひどいね。で、頓珍漢先生が消えたって、どういうことだな?」「いやね、八の野郎、バスの中に本忘れやがった」。「おや、それは大変だ。話してごらん」。「八のやつ、仕事で東急23系統バス使ってんだ、ほら、祖師ヶ谷大蔵から渋谷に行くバスな」。「うん、知ってる」。「そのバスに本忘れやがった。これが、図書館で借りた大事な大事な本だ。三谷幸喜な。やつ、三谷幸喜の頓珍漢ぶりが大好きなんだ。昨日からショックの余り、もう生きていられねえ、死んじまいてえって、布団かぶって泣いてやがる」。「そりゃ大変だ。で、遺失物係には届けたのかい?」。「あたぼうよ、八だって、ガキじゃねえ。それくらいできる。蝉じゃあるまいし、泣いてばかりはいられねえってんで、弦巻の遺失物係に電話した」。「えらい」。「まあ、それくらいはな。ガキじゃない。蝉じゃない。ところが、やつは、前にも図書館の本失くしてる。老子の本な。で、いまは自分の図書館の貸し出しカードがなくて、カミさんの借りてる。だから、カミさんに本失くしたなんて言えねえ。大家さんも知っての通り、八のカミさん、おのりちゃんな、ありゃ鬼だからな。かわいい顔してるが、ありゃ間違いなく筑波産まれの鬼だ。筑波山も忙しいや、四六のガマ産んだり、鬼産んだりな。ま、あの鬼、料理の腕はいいが、皿なんか飛んでくるし、飯食ってる最中にオカズの入ってる皿もってちゃって、流しで洗っちゃうんだぞ。八の野郎、箸を宙に浮かせたまま、もう涙目よ。気が向かなきゃ、返事もしねえ。八がテレビで韓国ドラマ見てても、平気でバチバチチャンネル変えるしな」。「鬼にしちゃ美人だ。明るいな」。「それが世間を欺く筑波の鬼のやり方よ。というわけで、本のことなんか、とても言えねえ。それにな、抜けているのは間違いなく八だ。その日に限って、上町でバス乗り換えた。上町まで等々力操車場行で行って、上町発渋谷行に乗り換えた。始発で座れるからな。だから、どっちのバスに忘れたかわからねえ。八のやつ布団の中で、三谷さんすまねえ、幸喜さんお許しくださいって、もう飯も喉を通らねえ」。「一応警察にも届けた方がいいな。世田谷全域に目を光らせてくれるだろう」。「そう、さっき届けた。桜丘の番所な、平次親分のとこな。さすが警察だ、ほら大家さん、見てみろ、表が明るいだろ、ありゃ警察の目が光ってるからだ」。次の朝、「いた、いたいたいた、大家さん、三谷幸喜がいたぞ」。貧乏長屋にバタバタ足音がして、クマさんが吹っ飛んできた。「大家さん、頓珍漢がいたぞ。本が見つかった」。横で八さんが頭を掻いている。「おお八よ、よかったな。世間にはいい人もいるな」。この話は事実です。世田谷警察で昨日無事本を受け取りました。めでたしめでたし。
■男の中の男たち ■2017年1月13日 金曜日 14時53分53秒

「おしゃれェ」。新宿のピーコ姉さんは、この一言でなんでも片づけてしまう。渋谷ギャルの「かわいィ」という呪文と同じ力をもつ。ピーコ姉さんは、ゲイだ。新宿ゲイ仲間の姉貴格、三越裏の日本初のスーパーマーケットの化粧品売り場の主任でもある。「どっちが本業?」と、聞いた。「私?私は、ただの美しき人よ」、意味不明の返事をして「フン」とソッポを向き、艶っぽく睨んだ。背筋を冷たいものが流れる。「おまえ、今日、天ぷら食べに行くよ」。ピーコ姉さんは、突然誘う。こっちは苦学生で、ロクなものを食っていない。喜んで「ごっつぁん」と、誘いに乗る。だからといって、私はゲイでもオカマでもない。なんでも、故郷広島に残してきた被爆した弟に、私が似ているという。罪滅ぼしのつもりなのか。天ぷら、トンカツ、寿司、ステーキ、あれこれご馳走してくれた。
いつも一流店だ。東京オリンピック以後「ゲイは稼げるのよ」と、意味深に笑う。スーパーの給料も入るので金回りはいい。商店街には、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」と舟木一夫の「高校三年生」が交互に流れている。合宿が終って年末のバイトをさがしている私に、父の友人の安次郎さんが「うちの店で働きなさい」と、誘ってくれた。それが新宿のスーパーだった。天ぷらを食べながらピーコ姉さんは「男は、おしゃれに生きなきゃダメ」と、兄貴ぶった説教をたれる。天ぷらの手前、黙って素直に頷く。話によると、安次郎さんはその昔「人斬り安」と呼ばれ、任侠の世界で畏れられた存在だったという。新宿のその店が関東尾津組尾津喜之助氏の経営だったから、ああなるほどな、と納得する。
だが、小柄で無口、やさしく控えめな目をした安次郎さんからは、人斬りなどとても想像できない。ある朝、安次郎さんが幼い娘の手を引いて公園を歩く姿を見かけた。娘を愛するただのお父さんの姿だ。「尾津組の特攻隊長よ。親分のためにはいつでも命を捨てる人。もう、組は解散して全員堅気になったから、今はやさしいお父さん。あの人こそずっと男のなかの男よ」。石原裕次郎の日活ヤクザ映画にのめりこんでいた私は、不良っぽい生き方に憧れる気持ちもあって、安次郎さんの暗い裏側に潜む侠客魂にひどく魅かれた。大晦日の夜、喜之助さんが店にきた。今は堅気となったが、これまでに見たこともないとんでもない貫禄だ。巨大なオーラに飲みこまれる。180センチを超える長身、渋茶色の着流し。店頭で、安次郎さんをはじめ昔の子分たちが、ズラリと頭を下げて道を開く。彫刻家が荒く削ったようながっしりした容貌、皺の奥の瞳は鋭く、海のように深い。かつて、アメリカ進駐軍の最高司令官マッカーサー元帥をして「日本のアル・カポネだ」と、唸らせた風格は健在だ。段ボールを担いでバッタリ出会った私は、あわてて荷物を下ろし、頭を下げる。「空手の達人とは、この青年のことかい?」。喜之助さんが私を眺め、次に横にいる安次郎さんに目を移す。「ええ」。安次郎さんが頷く。「一度、空手を見せて下さいな」。喜之助さんは笑みを浮かべて私に言い、懐から大きな皮財布を出し、一万円札を一枚差し出した。驚くと同時に、私は戸惑った。当時、一ヵ月働いたバイト代が二万円ちょっとだ。どうしよう。安次郎さんをうかがうと、もらっておきなさい、と小さな笑みを送ってくる。もっと驚いたことに、喜之助さんが去った後、改めて一万円札を握るとツルッと滑った。札は二枚重なっている。ピン札だから重なっていることに気づかなかったのだ。返さなくちゃ。喜之助さんは、二枚くれたんじゃない。一枚のつもりだ。急いで安次郎さんにもっていく。「ありがたくもらっておきなさい」と、笑った。年齢を重ね、後ろを振り向く私に、男の中の男たちが今も笑っている。
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■江戸の春。 ■2016年12月21日 水曜日 14時49分24秒

旧暦の江戸では、一月は春だった。元日から春だった。「だって大家さん、大晦日な、ゴーンゴーンと除夜の鐘がなる、するってえと、東の空に初日がスーッと上る、パッと新年、新しい年、おめでとう、おめでとう、大家さんおめでとう、クマ公おめでとう、長屋のあっちこっち、新年のご挨拶だ。同時にパッと春、パッと新春よ。これだよ、こうこなくっちゃ、ゴーンゴーンのスーッパッパッ、こうこなくっちゃ江戸っ子は気分が落ち着かない。ゴーンゴーンのスーッパッパッ!!」。ハチ公、大家さんちの玄関先で馬みたいに鼻息が荒い。「なんだね、ハチや、正月早々目クジラ立てて。江戸は旧暦だが、平成は新暦、太陽暦だな、三月四月五月が春。一月はまだ冬だ。それが決まりだ。ゴーンゴーンのスーッパッパッ、というわけにはいかん、なあ、クマよ」。大家さんが皺だらけの顔に満面の笑みを浮かべて、クマ公に同意を求める。「てやんでえ、べらんめえ、こちとら江戸っ子だあ、ハチと同じよ、ゴーンゴーンのスーッパッパッ、これっきゃない、元日が春だって相場が決まってらい」。でっかい体を丸めて腕まくり、クマ公が口をとんがらせる。「乱暴だな」。「それにだ、大家さん、大家さんはとんでもない間違いをしてるな」。クマ公、大家さんに顔を近づける。「おや、なんだい」。「大家さん、ハチに、目クジラ立ててって言ったな、言ったな」。「ああ、言ったよ。目クジラ立ててって、たしかに言った」。「ほら、ほら、大間違いだ。見てみろ、大家さん、ハチの目を見てみろ。な、チッコイだろ、チッコくておまけに細いだろ、あるかないかわかんねえ目だろ、目ってえより穴だ、点だ、目クジラ立てるどころか、メダカだって立ちゃしねえ、目メダカも立たねえ、せいぜいボーフラが立つぐらいだ、目ボーフラな、目ボーフラなら立つ、どうだ」。鐘一つうれぬ日はなし江戸の春(其角)。江戸の人々は、初日に手を合わせ、初富士を仰ぎ、年神さまに新年の幸せと健康を祈った。子どもたちは寒風に負けず、凧を手に駆け回り、独楽で遊んだ。お正月に限らず、江戸町人文化が見事な大輪を咲かせたのは、文化文政の時代だ。歌舞伎、芝居見物、大相撲は、庶民の楽しみだった。盛り場の見世物に、ラクダ、象、虎などの珍獣がいたというから仰天だ。ラクダにちょんまげ、おかしいでしょ。象の横でハチ公やクマ公がニタニタ笑っている絵なんか、想像するだけで吹き出す。多色刷り木版印刷の錦絵が大人気となり、商売であっちこっち飛び回る商人たちによって全国に広まった。歌舞伎は、宗家市川家の初代市川團十郎が憧れのスーパースターだった。「勧進帳」「暫」「助六」などの市川家十八種のお家芸は、歌舞伎十八番と呼ばれて喝采を浴びた。もっとも歌舞伎や芝居見物は、長屋のハチ公クマ公には縁がなく、呉服屋の放蕩息子栄太郎のお遊びだ。「お、バカ旦那、おめでとう。正月から芝居見物ですかい」。通りすがりの栄太郎にハチ公クマ公が声をかける。「おや、ハッツァンにクマさん、おめでとう。新年早々バカ面が二つ並ぶと平和だな」。仲がいいから、こんな挨拶ができる。気心が知れているから、言葉が乱暴になる。気風がいい。歯切れがいい。宵越しの銭はもたねえ、などとカラッケツなのにやせ我慢。粋で、私利私欲がない。人の頼みを安請け合いして、勝手に悩んでいる。「江戸っ子だい」などと腕をまくってみせるが、もともと地方出身のイナカモンばかり。この時代、自分たちで文化を創った。そこがえらい。「くるものはなんでもこい。くる者はだれでもこい」。だから、江戸は大都市になった。「人も街も器よ、器の大きさよ」と、正月空を見上げて勝海舟が笑う。謹んで新春のお慶びを申し上げます。
■ツルゲーネフに、してやられる。 ■2016年12月14日 水曜日 15時58分33秒

寒い夜。ナイトキャップのウイスキーグラスを片手に布団に潜り込み、ふと手にしたツルゲーネフの文庫本。本のタイト
ルは、「散文詩」。彼が晩年、パリでメモとして書いた文章をまとめたもので、まあ1〜2ページも読めば、たちまち白
河夜船、グーと高いびきとたかをくくっていた。パラリと開いたページには、「敵と友」というタイトルがつけられている。
概要はこうだ。1人の囚人が脱獄した。当然ながら追撃隊が追った。囚人は、必死で逃亡する。荒野を超え、森を抜け、無我夢中で逃げた。だが、追撃隊はぐんぐん迫ってくる。まずい。考えている暇はない。転んでは立ち上がり、立ち上がっては転び、もはやボロボロとなる。山中に迷い込み、気がつくと断崖絶壁に出た。暗く深い死の谷が口を開けている。しまった。どうする。追撃隊のざわめきがそこまで迫っている。どうする。1本の朽ち果てた木の吊り橋が目についた。ほとんど崩れ落ち、自分が乗ればたちまち崩落してしまう。迫る追撃隊。どうする。ふと見ると、対岸に2人の男がいる。1人は敵で、1人は友だ。敵の男は、腕を組んだまま、「追われるのは当然、なるようにしかなるまいよ」と、薄ら笑いさえ浮かべている。くそ、あの野郎。「おおい、渡るな、橋が落ちるぞ、渡るな」。友が大声で叫ぶ。「だめだ、そこまで追っ手がきている。逃げたいんだ」。囚人は叫んで、橋を渡り始めた。「よし、気をつけろ」。友が手を伸ばし、朽ちたロープを支える。次の瞬間、橋は崩落し、囚人は暗い死の谷に吸い込まれて消えた。敵は、満足げに笑った。善良な友は、哀れな友を思って泣いた。だが、自分のせいだとは少しも思わない。これが概要。そこで考えてしまった。ツルゲーネフよ、ツルちゃんよ、いったいなにを言いたい
のか。敵を認めるとしたら、「助かるかどうかわからない。落ちるときは落ちる。助かるときは助かる。すべて、自分でお
やんなさい」となる。冷たいけれど、そうなる。一方友となると、「助ける」と言って善意の手を出した。待てよ。手を出さなければ、助かったかも知れない。それはわからない。本人だけにやらせておけば、橋は落ちなかったかも知れない。
わからない。もし、手を出さなければ。ツルちゃん、あなたは、いったいなにを暗示するのか。いやはやこいつは哲学
だ。まんまとツルちゃんの術中にはまった。眠るどころではない。これに似た話は、世間にいくらでもある。たとえば、
倒産寸前の零細企業を想像する。追っ手が迫ってくる。手形が落とせない。どうする。なんとか借金を先延ばしにできないか。あるいは逃れる方策はないか。崖の向こうに行く方法はないか。崩れかけた吊り橋。これが超高利の違法金融か。崖の向こうに2人の男がいる。「借りるか借りないか。自分で決めるんだな」と、冷ややかに見つめる敵。「借りるな。その金に手を出すな」と叫ぶ友。どちらも、救済の手を差し伸べてはくれない。「借りるな」と叫んだ友も、いざこちらが借りると決めたら、その行為を助長した。結果、傷口をさらに大きくした。ここには、「吊り橋を渡らない」という選択肢も残されていた。あるいは、「自分だけの責任で渡る」、という選択肢もあった。囚人は、死を早めた。零細企業主は、傷口を大きくした。「自分で判断しろ」と突っぱねた敵が正しいのか。「なんとか助けたい」と手を貸し、傷口を大きくした友が正しいのか。崖の向こうの2人の男に、なんらかの援助を求めた自分が悪いのか。さてさて、哲学は難解だ。ツルちゃん、あなたの結論はなんなんだ、と問いかけると、「そんなものはわかりゃしないさ。わかっていれば、こんなストーリーは書かないよ」と、ニンマリ笑った。気がつけば、朝になっていた。__
■午後の死 ■2016年11月24日 木曜日 13時13分15秒

へミングウェイの「午後の死」は、スペインの闘牛をドキュメントとして著したが、物語としても興味深い。1世紀近く前の古い話だが、ファンとしては永久保存版として書棚に置き、時に触れページを開きたい貴重本だ。「午後の死」に感動した写真家がスペインに飛び、闘牛をカメラに捉えた。
さっそくファンのK学院大学自然科学教授のAに連絡し、研究室で焼酎片手に写真の鑑賞会を開いた。「どれもいいねえ」。テーブルに広げた写真に見入る教授の脇から、「すばらしいわ」と、助手のC女史が感動の声をあげる。ロメロ、アントニオ、ミゲル、ロドリゲス、往年の名闘牛士を想わせる若きマタドールたち。その、死と隣り合わせの、命を賭
けた究極美が深いモノトーンで、A4サイズの印画紙に焼き付けられている。汗の迸るアップの表情の、死の恐怖を超えた者だけがもつ潔さが美しい。深紅のケープが風を呼び、それが死への誘いとは気づかず、黒い戦車と化した牛の聖き突進。興奮の極致に酔い、立ち上がり、腕を掲げ、振り回し、絶叫する観客。気を失って連れの男の腕に倒れこむ女。ハンカチを顔から離せない女。黒い戦車の写真からは、荒々しい息遣いが耳に届く。大地を揺るがす、重量感に満ちた脚音。「あ、これ、いいわ」。C女史が1枚の写真を取り上げ、教授に示す。「ほう、いいね」。教授が写真を受け取り、目の高さに掲げ、手を伸ばし、眼鏡をもち上げる。手を縮め、眼鏡をずらし、「うん、これはいい」と、何度も頷く。牡牛の黒い顔のアップ。その目は、カメラを正面に見ている。だが、なにも見てはいない。なにも映ってはいない。虚無の目。「途方にくれているわ」、C女史がいい、
「そう、そのとおりだ、途方にくれている」と、教授。闘牛は、産まれてすぐに闘いを始める、と教授が説明を続ける。仲間と角を突き合い、角の使い方を学ぶ。タイミングを体に覚えさせ、足の運びをモノにする。訓練士の厳しい練磨により、くる日もくる日も、つひとつの技を高度に仕上げていく。3歳になると闘いの体ができあがり、4歳には最高の
殺し屋となる。「闘うために産まれ、闘いに生命のすべてを賭ける。最高の殺し屋だ。だが、死が約束されているのは、牛のほうだ」。アリーナに入ると、爆発する熱気が牛を狂わせる。馬上のピカドールが、牛の背中の瘤に何本もの槍を突き立てる。マタドールがプーケを舞わせ、牛の狂気を鼓舞する。必死の殺し屋は、目の前に立ちふさがるすべてを
殺しにかかる。鍛えに鍛え、磨きに磨いた殺しの技のすべてを敵にぶつける。「この瞬間、この牛は、仏になった」。教授のことばに耳を疑う。「仏ですって?」。写真家がいぶか
し気に聞き、C女史が、ほら出たというように微笑む。教授には、普段から人を煙に巻いて楽しむ癖がある。「どんな生命にも、生存本能と闘争本能が双生児として付きまとう。
生きることは、闘うことだ。生死は、闘いの中にある。だが、仏は生死を超越した。釈尊は、闘いのない境地を極めた。この牛の表情は釈尊のものだ。生きることと死ぬことの境界で瞑想している。産まれて初めての精神状態に途方にくれている。この表情は仏だ。どうだ、神々しくはないか」。そういうと教授は、照れた笑みを浮かべ、あごの髭をつるりとなでる。
「ほんと、神々しいです」、C女史がいい、「誉めすぎです」と、今度は写真家が照れた。牛は、この写真を撮った数分後に殺された。写真家は、死んだ牛を撮らず、観客に手を振るマタドールの得意気な表情にカメラを向けた。「なんだ、殺し屋は、人間のほうじゃないか」。心を牛に残し、シャッターを切る写真家に複雑な思いが走る。スペインではいま、動物愛護の立場から闘牛の是非が問われている。
■「龍馬のうしろ姿」 ■2016年11月7日 月曜日 13時57分11秒

「おい、おまん、斬るのか斬らないのか、はっきりせいや」。道の真ん中で龍馬の背中が叫んだ。5メートルほどうしろで乾退助(後の板垣退助)は、刀に手をかけたまま動けない。岩のようにがちがちに固まった身体から、氷のように冷たい汗が吹き出す。呼吸ができない。斬るどころではない。このままでは、こちらが一刀のもとに斬り捨てられる。恐怖で全身が震える。見つめる龍馬の背中が、青白い炎をあげてめらめらと燃えあがる。「な、なんだ、あの炎は?やつは、鬼か?」。長州も薩摩も徳川も、土佐藩でさえ、いまや龍馬を斬ろうと狙っている。しかし、だれも斬ることができない。酒に酔い、ゆらゆらと風に揺れる提灯のように歩く、隙だらけの龍馬。大根を切るように、だれにもカンタンに斬れる。だが、刀に手をかけると、凄まじい気迫が衝撃波となって襲ってくる。背中の桔梗の紋が、牙となって迫る。「なんだ、斬らないのかい」。面倒くさそうに一言いうと、龍馬は、再びゆらゆらと歩き始める。龍馬、幕末という時代の節目に、天から舞い降り、一仕事終えるとさっさと天に帰ってしまった土佐の天才児、坂本竜馬。その人気は、いまでも絶大だ。
激しく流れる雲、ちらちらと揺れる月光、風雲急を告げる京都、家々は早くに雨戸を閉め、町は暗い。居酒屋のぼやけた明かりがぽつぽつ灯る通りをゆらゆらと歩く龍馬。上質の服装を身に着けているが、袴のひだの跡もとっくに消え、着崩れて、汚れ、よれよれである。だらりと垂れた袴のひもが、風に舞う。乾退助は、腰を抜かしたまま遠ざかるうしろ姿を呆然と見つめる。あの青く燃える炎、龍馬の凄まじい気迫は、なにから生じるのか。龍馬は、北辰一刀流千葉道場の師範代を務める剣の達人だ。しかし、剣から身につけた気ではない。禅もやった。だが、「ただ座っているなんて、時間の無駄だ。その分歩いていればどこへでも行ける」。そういって、途中で止めてしまったが、禅の真髄をすでに体得していた。その上、この男には生まれつき、なにもかも受け入れ、瞬時にその本質を自分のものにしてしまう不思議な天分があった。禅と瞑想は似ている。どちらも悟りの境地に至るものだ。禅が、一つの決められた形を守り、目をうっすらと開けるのに対し、瞑想はもっと自由だ。形もない。目も閉じていい。寝てもいい。ある時座禅に魅せられた画家の横尾忠則氏は、苦しい座禅修行を積んだ後、「やっぱり瞑想のほうが楽だね」と、どこでも時間があれば自在に目を閉じると聞く。その横尾氏が、静岡の井上老師に禅について尋ねた。「人は、生まれながらに悟っている」、「人には、悩み苦しみといった煩悩など、もともとない」、「人間的見解をするから、真実がわからない」、「自分が、自分が、という自我意識がない世界が悟りである」、「座禅をするには、悟るという意識さえ捨てなければならない」、このような教えを受けた。こうした禅の境地を、龍馬は生まれながらにもっている。土佐勤王党の生みの親、だれもが認める天才児、幼馴染の武知半平太でさえ、「龍馬の大きさには、とてもついていけない」と、あきれ顔で感心した。
長州の高杉晋作も、「新しい時代のために、あんたは死ぬ
な」と、愛用の銃をプレゼントした。薩摩の西郷隆盛も、徳
川の勝海舟も、「あの男、憎めないんだよ」と、敵対する龍
馬のために一肌も二肌も脱いだ。空のような清々しさ、海
のような大きさ、少年のような真っすぐな心、だれでも許す
寛容さ、茫洋としながら本質を見抜く感性、そんな、禅や
瞑想による悟りさえ生まれながらに身につけていた坂本龍
馬。秋の早朝、さわやかなテラスで瞑想すると、瞼の裏に
そのうしろ姿が浮かぶ。鮮やかな桔梗の紋が美しく迫り、
やがて、遠ざかる。
■どっちだ ■2016年10月18日 火曜日 16時19分49秒

最初は、「右の拳と左の拳は、どっちがえらいんだ?」、という話だった。空手のことだ。後輩のKも私同様、理屈屋で話し好き、すぐ哲学まがいの話になる。私は右利きなので、左手を敵の前に突き出し、右手を腰において構える。左手は、攻撃にも防御にも自在に使うので、右手よりも多く使う。理想は、剣豪宮本武蔵のように両手を同じように使うことだ。
渋谷の飲み屋にいる。「じゃあ、手の平と手の甲では、どっちがえらいんだ?」。酒が入るとだんだんわけのわからないことを言い出すのもいつものことだ。「手の平は、自分のほうが働き者だと思って、きっと甲を恨んでますね。たまには
替われ、と思っているでしょう」。「だろうな、左手だって、右手よもっと働け、と言いたいとこだ」。これが哲学的かどうかわからないが、まあ哲学と政治は、食べ残しの米粒のように、暮らしのどこにでもくっついてくるものだから、ごく普通の与太話をしているだけ。
「右足を痛めましたよ」。Kが足の脛をさすりながら言う。空手では、脛は一番怪我の多い箇所だ。「へへへ、そうか、この未熟者が。俺なんか、片方の足だけに負担をかけないように、週に一度左足と右足を入れ替える、土曜日の夜にな」。隣のテーブルにいた女性グループが、こちらの話を小耳にはさみ、白目で睨む。これが嬉しい。近くのA学院の女学生だ。女性に好意をもってもらおうなどという無謀な欲などすでにない私は、白目だろうと、赤目だろうと、ちらりと見てくれるだけで胸が躍る。もはや、「街の恋より、川の鯉」、という年齢だ。笑ってくればめっけもの。「先輩、右目と左目を入れ替えたら、モノが逆に見えるでしょうか?」。Kも、白目も、赤目も、へったくれもない年齢。「そりゃそうだ。そのまま普通に見えたら、お互いの存在価値がない」。ついに、女性の一人が吹き出した。嬉しい。これこそ、最大の喜び。「そういえば、先輩は、右翼ですか、左翼ですか?」。急に真面目な質問。よく聞かれる。うちの学校の名前が右翼っぽいのと、空手なんかやってるせいだ。「心は、右翼かも知れんな。だが、左翼の理屈もわかる」。「では、どっちです?」。「そうさな、右翼でもあり、左翼でもあり、右翼でもなし、左翼でもなし」。
「どっちです?」。「まあ、強いて言えば、中翼、ナカヨクだな。真ん中、みんな仲良く」。隣のテーブルが爆笑する。これでこそ生きてるってものだ。ここで、「お嬢さん方、ご一緒にいかがですか?」と言えないところが、すでにおじさんだ。いい加減飲んでから、帰りにラーメンで締める。駅前のいつものラーメン屋。そこでもまだ哲学は続く。
「父と母、どっちがえらい?」「自分はマザコンですから、母です。ですが、
普通なら、どっちも同じじゃないですか?」。「そうだな、同じと言っといたほうが、もめないな。じゃあ、こうやって割ったラーメンの割り箸な、これ、右と左は、どっちがえらい?」。哲学でしょ。もう自分でもなに言ってるのかわからない。カウンターのなかで、大将がスープの鍋をかきまわしながら、話を聞くともなしに聞いている。腹のなかで、「へへへ」なんて、バカにしてる。「右でしょ」。Kが言う。「どうしてよ?」。「右のほうが働いています」。「そうか。俺には同じように思えるぞ」。二人でまじまじと割り箸を眺める。「なあ、大将」。スープ鍋をかき回している大将に、私は声をかける。「割り
箸のことなら、大将のほうが詳しい。プロだ」。「いえ、割り箸のプロじゃありません」。「でも、教えて。こうやって割った割り箸、右と左、どっちがえらい?」。困ったなと、頭に手を当てる大将。そして答える。「それって、ラーメンに聞いてもらえます?」。私より、はるかに哲学者であった。__
■「漱石朝顔」 ■2016年10月18日 火曜日 16時18分44秒


やっと咲いた。漱石の朝顔。期待した純白ではなく、明るく、鮮やかな紫色の花が、たった一輪。ある朝、玄関の階段下の自転車置き場のプランターで、朝風にそっと可憐な花が揺れている。感動した。思わず声をあげて、かがみ込んだ。感動には、理由がある。そうなのだ。この朝顔は、夏目漱石ゆかりの朝顔なのだ。そういうことにしてある。だから、咲いたらみんなで感動しよう、わざとらしいくらいに感動しよう、「よろしくね」、妻にも息子にもそう頼んである。ところがこの「漱石朝顔」、いつまでたっても咲かない。頑固だ。パラパラと種をふり撒いておけば、朝顔ってカンタンに咲くものだ、とたかをくくっていたが、2週間経っても3週間が過ぎてもほんの申し訳程度に、5センチほどの芽を出しただけ。脇に立てた棒にいつ蔓を絡めるかと、胸を躍らせて毎朝眺めていたが、いいところでポロンと根っこごと抜けてしまったり、力尽きてパッタリ倒れてしまったり、花が咲くどころかいっこうに成長する様子が見えない。「日当たりが悪いんじゃない」。妻はまるで他人事、心配する気配もなく、あっけらかんと顎で笑う。「なに、漱石だぞ、夏目だぞ、太陽なんか必要ない」。わけのわからないことを言っている自分が情けない。この朝顔の種は、西早稲田の広告会社のテラスに咲く、美しい純白の花の種をもらってきたのだ。テラスは5階にあって、眼下に馬場下町が見える。直接見えるわけではないが、地理的にはまちがいなくそうである。馬場下町から早稲田大学大隈講堂まで、バスで一駅、歩いても5分ほどだ。地下鉄の駅もあって馬場下の交差点は、賑やかである。学生やサラリーマンが多い。夏目坂は、交差点にある。ゆるやかに東に向かって上る坂道は、昭和女子医大から市ヶ谷方面に続いている。夏目坂と名付けられていることからわかるように、小説家夏目漱石が、幼い頃ここで育ったという。近くに漱石縁の公園があり、新しい漱石記念館の建設が予定されている。つまり、この純白の朝顔は、日々、幼い漱石に想いを馳せながら咲いていたのだ、と強引に結びつけ、勝手に「漱石朝顔」と命名した。不遇な環境のなか、純粋過ぎるがゆえに屈折した心をもつ漱石。その純粋な心を映すような、切なくも美しい、純白の朝顔。そう想うと、世話のし甲斐もあるというものだ。それが頑固に花を咲かせない。やっと咲いたと思ったら、白ではなく紫色。感動はしたものの、腑に落ちない。嬉しいけれど、納得できない。白い花の種で、なぜ紫色の花が咲くのか。そこのところがわからない。「そんなことってあるのでしょうか?」。折から通りかかったご近所の水野さんに尋ねる。「どうでしょう?土によって色が変わるのかしらねえ」。水野さんは、わざわざ自転車を止めて答えてくれる。「それとも、日当たりによって色が変わることもあるのかしらねえ」。うむ、たしかに紫陽花は、土の具合や日の当たり方によって、色が変わると言う。だが、これは朝顔だ。かといって、花の知識などまるでない。いやはや、なんとも情けない。夏目漱石の作品では、初期の「坊ちゃん」が、とっつきやすく、読みやすくて好きだ。「坊ちゃん」の真っすぐな性格は、きっと屈折した漱石の憧れだ。「三四郎」くらいまでは、まだ気張らずに読める。だが、「こころ」や「草枕」になると、なにやら説教されているようで、「だからどうした」と、反発心が先に立つ。心が屈折しているのは、漱石ではなく、わたしかも知れない。まあ、紫色でも花が咲いたからよしとするか。諦め半分、朝顔を忘れて数日。突然、純白の花が咲いた。漱石、やっぱりあなたは、いい人だ。智に働けば、角が立つ。情に竿させば、流される。「草枕」を、もう一度読み直そうか。
■イヌ、カメ、メダカ ■2016年9月16日 金曜日 16時31分48秒

桃太郎は、イヌ、サル、キジをひきつれて、鬼退治をした。わが家の桃太郎は、イヌ、カメ、メダカをひきつれている。だが、鬼退治はしない。昔話はよくできていて、実に教育的だ。イヌには勇気と行動力が、サルには知恵が、キジ
には情報収集の目がある。彼らは単なるペットではない。鬼と戦うための強力な味方だ。さらに、イヌ、サル、キジは、桃太郎本人の才能なのだ、という意図も含む。桃太郎には、イヌの勇気と行動力、サルの知恵、キジのモノゴトを見極める正しい目がある、だから、鬼と戦っても勝てる、と教える。
それは、わが子に、桃太郎のように強い子に育ってね、と願う母の気持ちを表している。ところが、わが家の桃太郎が飼っているのは、イヌ、カメ、メダカ。イヌは同じだが、サルとキジではなく、カメとメダカだ。強力な味方というより、完全なペットだ。本家のイヌは、日本犬。秋田犬か柴犬か、鬼と戦う強いイヌだ。わが家のイヌは、トイプードル。鬼と戦うどころではない。むしろ大変な寂しがり屋恋しがり屋で、他のイヌはもとより、どんな人とでも、鳩でも虫でも、なんとでも仲良く遊びたいほうだ。とても勇気と行動力を学べない。だが、一点の曇りもない、純な瞳で、真っすぐに見つめられると、こちらの濁った心が清らかに洗われる。世の中、濁った目ばかりじゃないんだ、とホッとする。疑心暗鬼が消え失せる。これは、貴重だ。それに、勇気と行動力がまったくないわけではない。本家のイヌとまではいかないが、ある。
たとえば旅に出る。サービスエリアで休む。そこにドッグランがあれば、彼は、微妙な勇気と行動力を見せる。恋しがり屋だから、他のイヌを見ると嬉しくてたまらない。遠くに集まっている友だちをめがけて一目散に走る。走る姿が、美しい。力強くかいた前足を、思い切り抱え込んで後ろに伸ばす。渾身の力で蹴った後ろ足を、素早く投げ出し次の蹴りにつなぐ。4つの足が、きれいに交差する。顔は、まっすぐ前に向けている。眩しい風に目を細め、少し口を開けて小さな舌を出す。長い耳が風になびく。アメリカの画家ノーマン・ロックウェルが描く、美しくもかわいいイヌの理想の走り。それが、トイプードルの走りだ。息もつかずに友だちの輪に突入した途端に、でっかいゴールデン・レドリバーに、ワンとひと声吠えられる。まさに青天の霹靂、分厚い壁にぶち当たり、はじき返され、慌てふためいてたちまちこっちに全力帰還。どんなに慌てふためいていても、ノーマン・ロックウェルの走りは崩さない。たどり着くと、照れくさそうに見上げる。その程度の勇気と行動力で、まるで参考にはならない。ましてやカメだ。サルの知恵などない。3階のテラスの水槽で、陽光を浴びてのんびりと甲羅干しをしている姿から、なにを学べばいいのだ。ウサギと競走して勝利した、あのしたたかに生きる姿が、参考になるか。そういえば、
このカメはいつからわが家にいるのだ。長い。まだ元気だから千年は経っていない。そうか、カメから学ぶのは、したたかさと陽だまりをのんびり楽しむ楽天か。そして、メダカだ。最近、仲間になった。カメの横にいる。小さな蓮科の葉のまわりをくるくる泳ぐ姿が、元気でかわいい。全身全霊で生きる小さな命は、感動的だ。7匹しかいないので、メダカの学校とはいかず、メダカの学級だが、それぞれがあっち向きこっち向き、水面、中層、下層を自由気ままに泳ぐ。ときどき全員が同じ方向を向いて整列すると、思わず胸が熱くなる。東の空が白む頃、水面近くを元気に泳ぐ姿を見ると、頬が緩む。夜明けの感動だ。わが家の桃太郎のイヌ、カメ、メダカは、素直に、真っすぐに、元気で、全力で生きることを教える。ところで、鬼って、だれだ__
■リオデジャネイロに乾杯。 ■2016年9月6日 火曜日 16時5分55秒

開会式直前になっても、会場のあっちこっちがまだ工事中。間に合うのか、大丈夫か、とテレビや新聞が報道する。「だいたいがブラジルって国はズボラよ、だらしないのよ」、「歌って踊って酒飲んでりゃそれでいいって国だ」、「あの国なら開会式を延期しようなんて、前代未聞のことを言いかねないね」、「下手すりゃ中止にしようなんて言うかもしれないぞ」、と鼻先で笑う者もいた。几帳面な日本人には、とても想像できないことだ。許せないことだ。だが、無事に間に合った。えらいぞ、ブラジル。(えらくない、当たり前のことだ)。
開会してからも、いろいろ問題があった。飛び込みのプールの水が、突然緑色に変色した。選手たちが、「目
が痛い、変な匂いがする」、と騒ぎ出した。「放っておけば直るよ」、と関係者は対応しない。「適当に薬を撒いておけよ」、と実にのんびりしたもの。そのうち、あんまりウルサイので、しぶしぶ水を入れ替えた。選手たちが強盗や泥棒に遇った。拳銃をつきつけられた選手もいた。日本なら、国の恥、国家の一大事とばかりに血眼になるところだ。ところがあちらときたら、「あら、そのくらいで大騒ぎしなさんな」、
という感じで太った警官が現れ、「盗まれるほうが悪い」、といわんばかりの鷹揚さ。(テレビのニュースで観ただけの感想ですが)。のんびりしたものだ。選手村の部屋のシャワーのお湯が出ないなんて、かわいい話だ。だが、開会式をはじめ、テレビを観ているうちに、この国の人々がだんだん好きになった。太陽のように明るく、陽気だ。無邪気で、あたたかい。けして優等生には見えない。約束を守らなくても
ケロリとしているようで、それはそれで「ま、いいか」、なんて許せそうだ。年がら年中お祭り気分で、朝から酔ってなにか口ずさんでいる。ズサンでものぐさなところが、どうやら自分に似ているから、好きなのかも知れない。それにしても、日本選手たちは、頑張った。できすぎだ。お見事と何度も何度も拍手を送った。金メダル12個、銀メダル8個、銅メダル21個。メダル合計41個は、過去最高だ。日本て、凄いと思った。アジアの東の果ての小さな島国が、リオデジャネイロの主役となった。日本人てえらいなあ、と喜びの吐息をもらした。(わたしが日本人だから、余計にひいき目に見ている)。だが、待てよ、と考えた。メダルを獲ったのは、わたしではない。選手たちだ。選手たちは、想像を絶する努力を重ねた。わたしは、なんにも努力していない。選手たちの家族や関係者も、ともに尋常ではない努力をした。メダルは、その凄まじい努力の成果であって、努力をしていないわたしには関係ない。日本という国も関係ない。もちろん、オリンピックは国をあげてのイベントだし、選手たちは国を背負っている。国はなにかと便宜を図ってきたから、まったく関係ないとは言わない。金メダルを獲れば、国旗が掲揚され、君が代が流れる。そこで短絡的に、「日本は凄い」、「日本人はえらい」、と思ってしまう。選手たちが凄いのであって、わたしが凄いわけではない。日本人全部が凄いわけではない。そういえば、日本人がノーベル賞をもらったときも、「日本人はえらい」、と言われると、「自分がえらい」、と愚かな思い違いをしてしまう。日本には、そういう凄い人がいるのであって、みんなが凄いわけではない。世界の人々は、「日本は凄い」、「日本人は凄い」と思いすぎていないだろうか。「日本人は、全員大金持ちだ」なんて、まさか思っていないだろうな。誤解だ。いやいや、考えすぎるな。やめよう。ここは一つ、素直に選手たちを祝福しよう。
リオデジャネイロに乾杯。マリオになって地球を突き抜けた安倍総理、ごくろうさまでした。
■じぶんとみんな ■2016年8月23日 火曜日 16時20分2秒

リチャード・バック作「かもめのジョナサン」が話題になったとき、こんなジョークがあった。主人公の天才かもめには「ジョナサン」という名前がある。では、「ジョナサン」以外のかもめをなんと呼ぶか? わからない。
教えて。はい、主人公は、「かもめのジョナサン」、それ以外は、「かもめのみなさん」。「・・・・・・・・・・」。じぶんとみんな。この関係は、世界中のじぶんが置かれている絶対関係だ。個と普遍。個人の価値観と世間の価値観。その間には常に大きな壁が立ちふさがる。いつの時代にも、作家たちはこの壁に挑み続け、弾き飛ばされてきた。
文学者も、音楽家も、画家も、彫刻家も、陶芸家も、ものづくりに生きるすべての作家たちの希望と絶望の壁。作家たちの前に立ちふさがる個と普遍の巨大な壁は、登山家たちが永遠に挑み続けるアイガー北壁だ。
じぶんの価値観とみんなの価値観のちがい。なにも作家だけではないことに気づく。壁は、ひとり一人、世界の人々の目の前に立ちふさがる。なぜ、わたしの心をわかってくれない、なぜこの気持ちがわからない。もどかしい。歯がゆい。やがて作家たちは、しょせん人間は孤独なものよ、わかり合おう、理解し合おうなんて考えること自体が間違っているなどと、尻尾をまいて自分の世界に逃げ込んでいく。
ところで、個人、自分てなんなんだ。普遍、世間、みんなって誰なんだ。職業柄なのか、ことばの意味や価値をひらがなでは考えにくい。漢字にして、意味を理解し、はじめてその価値が見えてくる。自分にしても、じぶんというひらがなではどうもピンとこない。「自分」と漢字にして、はじめてなるほどと思う。自分、自らの分、つまり他人の分とはちがう分。分とは、分けたものとか、分けた割合という意味だ。となれば、自分と他分、自分と自分以外の分ではちがって当たり前だ。壁があって当たり前だ。なのになぜ、壁に悩む。壁を乗り越えようとする。わかってもらおうと必死になる。
「個にして普遍」ということばがある。個人の価値観が世間の価値観と同じ、という意味で、これが理想だとされる。つまり、自分の価値観を世界中がそうだそうだと、やんやの拍手を送ってくれる。ゴッホの価値観に、世界中が喝采する。モーツアルトの価値観に、世界中が涙する。あり得ることか。いや、あっていいものか。そうなりゃそうなったで、個人の消滅という危機が生ずる。
世界平和は、個にして普遍、個人の価値観と世界みんなの価値観が同じでなければ実現しないのか。世界中のみんながゴッホを愛さなければならないのか。そうではない。ゴッホを愛するものたちがいて、セザンヌを愛するものたちがいる。モーツアルトに涙するものたちがいて、シューベルトに感服するものたちがいる。それが自然であり、それが現実的だ。壁があってもいい。壁を壊す必要はない。ただ、壁を壁にしない理性、知性、豊かさがあればいい。
金子みすゞは、みんなちがってそれでいい、といった。そこには、ちがうからいい、ちがうからおもしろい、ちがうから愛し合い、助け合うのだという思いがつまっている。ちがいをお互いに深く理解し、補い合い、楽しむ。壁があっていいんだよ、壁を楽しみなさい、そういっている。
坂本龍馬は、デモクラシーを自由と訳したかった。自由。自らをもって由となす。由とは、基準とか法という意味だ。じぶんが法律なんていえる人間がどこにいる。龍馬は、とんでもない天才だから、龍馬がいう分にはいい。だが、他のだれがいえる。残念だが、ジョナサンや龍馬のような天才でもないのに、わたしは自由だ、特別だと思っているものばかりで地球はできている。みなさん、自分の分で生き、他人の分を大事にしましょうね。
■川に国境はない。 ■2016年7月29日 金曜日 15時12分49秒
が違うのではない。装備が違うのだ。インド人のRは、道具に無頓着だ。一式2000円ほどの子ども用の道具を片手にふらりと川にくる。いかにも暇つぶしといった風。駒場の東大に通う。痩せて背が高く、深い瞳が理知的だ。歳の頃は、30代。「夏休みだね。インドに帰るの?」。Rは少し日本語がわかる。「私に夏休みはない。なぜなら、私は学生ではなく、プロフェッサーだから」。得意そうに微笑む。爽やかだ。南インドに親から受け継いだ広大な畑を所有している。社長だ。管理を弟にまかせ、自分は東大にコンピュータの教師としてきている。「じゃあ、金持ちだな」。そういうと、ニッコリ笑って、「大金持ち」と、答えた。「でも、大金持ちは北部だろ。マハラジャとか」。「私の畑には2000人の社員が働いている。だから私は、大金持ち」。「おい、友だちになろう」。奥さんと二人の子どもはインドにいる。「いいよ、友だちだ」。メール交換をする。Rは、鯉を釣ったためしがない。金はあるが、釣りはダメだ。中国人のCは、結婚したばかりの奥さんといっしょにくる。「仕事、IT関係ね」と、得意顔。他にも中国人が数人くる。新大久保の料理人たちだ。その連中とはCは口をきかない。どうなってるんだ、おまえら同じ国だろ。料理人たちは数人できて、所狭しとロッドを何本も並べる。それじゃラインが絡むぞ、と注意してもへらへら顔。しょっちゅうラインが絡んでいる。釣った魚は食べる。キャッチ&リリースなんて発想はない。キャッチ&イートだ。「下品だ」。連中をCは白い目で見る。中国人同士なのに、わからん。わからないからおもしろいのか。われらの川に国境はないが、現実世界では、国境がビリビリと不協和音を立てている。
■太陽の季節 ■2016年7月13日 水曜日 15時37分31秒


積乱雲とともに、夏は突然やってきた。小田急線片瀬江ノ島駅を降りると、灼熱の陽光が殴りかかる。潮の香をたっぷり含んだ海風がなかったら、その場でアジの干物になるところだ。「バイトを紹介する」。合宿所でぶらぶらしていた私にそう言ったのは根本先輩だ。「場所は江の島、住み込み3食付き、日給1000円。ボーナスも出る」。先輩の声は神の声、絶対服従だ。だが、この話は悪くない。どのみち上高地の山小屋のバイトで一夏を過ごそうと思っていた矢先だ。山もいいが、海もいい。「東浜海岸に洗心亭という海の家がある。臼田という女性を尋ねればいい。話はついてる」。着の身着のまま、学生服に下駄をひっかけて小田急線に飛び乗った。7月1日の朝だ。境川にかかる赤い橋を渡る。手をのばせば届きそうな所に江の島が見える。緑の島の上空を、鳶たちが気ままに弧を描く。国道134号線を越え、江の島弁天橋のたもとに立つ。潮騒が音を立てて岸壁を揺らす。東京オリンピックのために建設されたヨットハーバーの白い堤防が眼前に広がる。腰越から江の島まで湾曲を描きながら広がる東浜海岸には、50軒の海の家が並ぶ。赤、青、黄色、カラフルな水着。浜はすでに祭りの賑わいだ。一人の若者が海の家から転がるように飛び出してきた。臼田ユキヒロだった。先輩紹介の海の家の責任者の息子だ。腰越生まれの腰越育ち、根っからの浜っ子だ。漁師の倅や旅館の息子といった彼の仲間たちも、みんな気のいい連中で、そろいもそろって気性の荒い浜の野郎どもだ。客の帰った夕方、焚火を焚いて浜のゴミを燃やす。ユキヒロはそこで浜の野郎どもを紹介した。ハンサムなユージは、あだ名を戦闘機と言う。自分のモーターボートに絶対に女を乗せない。「女乗せない戦闘機ね」。ユキヒロが言って笑う。ボートを持っている連中は、決まって女を誘う。「ねえ、彼女、海が呼んでるよ、ボートで沖に出ない?」。ユージが誘うのは男だけだ。「おかしいでしょ?」。当のユージは否定することなく、意味ありげに笑うだけ。船八と呼ばれるのは、ひょろりと背の高い若者。無口で寂しげな顔立ち。漁師の父親を時化の海で失ってから、決して笑わない。海に出ない。昼は釣り餌屋、夜は屋台の飲み屋をやっている。そんな船八をだれも臆病とは思わない。宝来亭のダッコさんは、みんなより年長だ。真っ黒い連中のなかでもずば抜けて黒い。物静かで、にこにこと若い連中の話を聞く。地元の人間ではない。どこかの町でなにかの事件を犯し、この浜に隠れて住む逃亡者だという噂だが、真実を知る者はいない。背中に刃物の傷とタトゥーがあるという。そのために、決してダボシャツを脱ぐことはない。タミオは鵠沼の祖父に育てられた漁師だ。親の話はしない。だれも聞こうとはしない。童顔で甘い声、ユキヒロと仲がよかった。キックボクシングを習い、蹴りには自信があると子犬のように笑った。「夏は他所からヤクザが入ってくる。オレたち地元のもんが力を合わせて浜を守るんです」。ユキヒロがそう言い、みんながうなづく。「それに座間の米軍の不良外人が酔って暴れたり、無銭飲食をするんです」。戦闘機が唇を噛む。「根本さんが助けてくれたっけ」。船八が言い、「あの人、空手二段でしょ、強かったもんね」と、タミオが感心する。「おたく、何段?」。じっと話を聞いていたダッコさんが私の顔を覗く。そこまで聞けば、おおよその見当がつく。バイト料が高いのも、住み込みで待遇のいいのもうなづける。「二段です」。「根本さんと同じだ。じゃあ強いね」。タミオがうれしそうに言う。「いや、先輩のほうが強い」。なんだか心配になってきた。だが、いまさら引き下がることもできない。西の海を赤く染め、シルエットとなった富士山の向こうに夕陽が沈む。「海が呼んでるぜ、騒ぐは潮風、どこか知らないけれど遠く行きたいぜ」。スピーカーから、裕ちゃんの歌が流れてくる。ええい、どうにでもなりやがれ。今年も太陽の季節が始まった。
■鶴太郎の絵は、うまいですか? ■2016年7月13日 水曜日 15時36分22秒

 目の前で湯畑が、もうもうと湯煙をあげる。周辺の老舗旅館も店も神社も路地も、あらゆるものが硫黄の匂いのなかにある。草津温泉。老舗旅館大東館に宿泊する。NHK大河ドラマで人気の「真田丸」をめぐる旅の二日目は、草津温泉から始まった。
朝6時に目を覚ます。不思議なことだが、旅に出るといつも朝早く目が覚める。昨夜までの雨が上がった。カーテン越しの窓の外がすでに明るい。妻、息子、愛犬を起こさぬようにそっと床を出て、手ぬぐいをぶら下げ、一階の大浴場に向かう。温泉にきたらなんといっても大浴場である。好きな時に湯に浸かり、好きな時に寝て、好きな時に酒を手にする。これが温泉旅の醍醐味である。
昨夜は到着時と食後、就寝前の三度温泉に入った。大浴場は天井が高く、大きな湯舟が二つ並んでいる。どちらも家の湯よりも熱い。42、43度くらいあるのだろう。口をへの字に結んで我慢して入る。じわっと体が溶けていく。湯は底のタイルが見えるほど透明で、「お湯のなかにも花が咲く」、と歌われるあの湯花が見えない。とろりと滑らかな湯に浸り、心身をほどきつつ、鼻歌を歌う。徐々に目覚めて行く気分のよさは何ものにもかえがたい。
湯舟の縁に寄りかかり、手足をのばして肩まで浸って目を閉じると小鳥の声が聞こえてくる。窓ガラス越しに外に目を凝らしてみるが、小鳥の姿はない。昨日観光バスで訪れた団体客の二人が欠伸をしながら入ってくる。かれらも真田丸ツアーの客で、上田城を見物してから草津に回ってきたことが会話からわかった。
 街道沿いに並ぶ六文銭の幟の由来について話すかれらの強い地方訛りのことばが、旅情を深めてくれ、頬がゆるむ。朝食を食べ、チェックアウトまで草津の街を散歩することにする。入口のカウンターの女性に尋ねる。「見どころはどのあたり?」。「そうですね、やはり湯畑をご覧になって、湯もみをご覧になるのがいいでしょう」。希望者は湯もみ体験もできるという。
「街の見どころとしてはどのあたり?」。「老舗旅館 の建物が人気ですね。とくに外国のお客さまには喜ばれています」。湯畑を挟んで反対側に城のような立派な建物が見える。草津温泉を拓いた山本家経営の山本館だ。「中国の人やアジアの人も多いですね」。「え
え、もともと西欧の方々が多かったのですが、最近ではアジアの方々が団体でいらっしゃいます」。「外国の人たちはどんなところを見て歩くのですか?」。「この裏手の日新館を中心とする江戸の雰囲気を残す町並みが皆さんに人気です。お店としては、湯畑の向こう側の通りですね。民芸品を扱っている土産物なんかが人気です。なかでも下駄の専門店とか手ぬぐいの専門店が人気です」。
白根山を中心とする山岳地帯にある草津には有名なスキー場もある。スキー場に向かう途中に西の河原があって、河原のあちこちから湯けむりが上がっている地獄のような風景も人気が高く、ぜひ見て行くといいと教えてくれる。「歩いてすぐですよ」。西の河原の手前に「片岡鶴太郎美術館」があって、地元の人たちにも人気があるという。「ああ、魚とか野菜の絵ですね」。鶴太郎は草津を愛し、ちょくちょく訪れていたのだという。「それで美術館があるのですね」。「ええ、でもわたし、あの絵がうまいのかどうかよくわからなくて」。「えっ?」。「絵を習っている娘が聞くのです、あの絵はうまいのかって。何回も見に行っているのですが、どう答えていいのかわかりません」。眼鏡をかけた理知的な容貌の女性が、恥ずかしそうに言う。武者小路実篤の絵がうまいかどうか、旅館の中居さんに尋ねられたという三好達治の話が頭に浮かんだ。あるんだ本当に、こんな話が。「あとで美術館に寄ってみます」。そう答える。土産物店を冷やかし、鶴太郎美術館に向かいながら、ふと思う。「これ、もしかしたら巧妙な勧誘じゃないか」。草津温泉街にさわやかな朝風が吹き抜けた。
■戦争に、勝者はない。 ■2016年5月31日 火曜日 11時4分48秒

あらゆる戦いは、攻撃と防御の組み合わせだ。戦争も、夫婦喧嘩も、犬の喧嘩もそうだ。アメリカンフットボールは、オフェンスとディフェンスの選手が明確に分かれているし、サッカーもフォワードとディフェンダーに分かれている。わが空手道も、「突き」と「蹴り」の攻撃、「受け」と呼ばれる防御、その3つの基本技から、無限の技が生まれる。
戦争は、人類最大の悲劇だ。それなのに、愚者たちは戦争を止めない。戦いは、生命の生存本能にへばりつく闘争本能の象徴だから、ちょっとやそっとでは消滅させることができない。悲しき本能だ。それに、多くの人間にはもう一つ切り離せない本能、自我の欲望がある。なんでも欲しがる。心のなかで餓鬼が暴れる。なにも人間だけではない。生命そのものが根本的に自己中心で、「自分さえ良ければいい」、という性向をもっている。
虎もライオンも、草木も、赤痢菌も、生命は自分が生き抜くことを最優先する。それでも、バランスを保ちながら生きてきた。見事な自然バランス。その見事な自然バランスを人間だけが破壊する。地球のすべてを自分のものにしたがる。自然も、宇宙でさえもわがものにしたがる。挙句、人と人が殺し合う。国と国が殺し合う。人間以外に戦争をするものはいない。
創世期、力の集中を恐れた神は力を3つに分散した。魚に海を与え、鳥に空を与え、ライオンに陸地を与えた。一仕事終えてほっとしていると、人間があたふた現れた。「遅刻だぞ」。神は、弱った。与えるものがない。「おまえには英知を与えよう」、と仕方なく苦肉の策。「英知はむずかしい。使い方で宝にもなるが毒にもなる」。人間は、こうして英知を身につけた。その英知を、人間は毒として使う。海も欲しがる。空も欲しがる。陸地も、宇宙も欲しがる。英知を武器に、欲望の道をひた走る。「戦争はなくならないな」。教授が言う。大学の歴史学研究室。わたしたちは安い焼酎を飲み、雑談を楽しむ。酒がぽろりと本音を言わせる。「歴史から見ても、人間はなんだかんだ戦争を繰り返すよ」。「ところで教授、日本は、戦争に強いのですか?」。突然、質問をする。軍事予算はともかく、歴史的に戦争の強い国と弱い国があるような気がする。「弱いな、日本は。海に守られた島国だ。戦争の経験が少ない。戦いに向いていない民族だ」。教授は言う。
大雑把に見て、蒙古襲来があって、秀吉が朝鮮に出兵し、幕末にはイギリス、オランダ、フランス、アメリカ、ロシアが圧力をかけてきた。日清日露の戦争があって、その後、満州に攻め込んだ。そして、太平洋戦争だ。「この一連の戦いを見てみても、日本は戦争が下手だね。オフェンスもディフェンスもなってないよ」。蒙古襲来は、神風に守られた。日本のディフェンス力は不明のまま終わった。秀吉は、欲望のままに朝鮮出兵したから、オフェンス力は疑問のまま。日清日露の戦いは、運よく相手が降伏したから、オフェンス力は不明。日米戦争では、勝利の設計図も方程式もなく、精神力だけでオフェンス力はゼロ。そんな戦争を強いられた善良な国民だけが、悲惨な目に遇った。「西欧諸国のように絶えず戦争の危機に瀕してきた国々と比べれば、日本は、オフェンスもディフェンスもなっていない国だ。いまでも他国に守ってもらっている。戦争なんかもってのほかだね」。アジアの東の端にあり、海に守られて平和に暮らしてきた島国、オフェンスもディフェンスも中途半端で、他国に守ってもらっている善良な国。日本は、とことん平和を守り切るしかないのだ。その日、大統領が広島に降り立った。「明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまった」。そう語りかけ、戦争の悲惨さを訴え、「核なき世界」を発信した。「あなたといっしょに頑張る」。そう言って涙する被災者の肩を抱いた。神が与えてくれた人間だけがもつ英知。人はどう使うのか。戦争には、だれ一人として勝者はいない。
■哀愁の昭和、夢の江戸。 ■2016年5月16日 月曜日 14時5分12秒

渋川伊香保インターチェンジを降りると、正午近かった。急ぎ旅ではない。昼食は、伊香保で取ることにする。名産の蕎麦とうどん、山菜の天ぷら、これが楽しみだ。街を抜け、榛名の山道に入る。息つく暇もない上り下りの繰り返し、Uターンに継ぐUターン、日光いろは坂も脱帽する九十九折をくねくね走る。行き交う車もない。窓を開ける。澄んだ山の冷気を頬に当てる。心地よい冷たさ。「あ、桜、桜、きれい」。助手席の妻が、ブナやナラの暗い樹林に、ひときわ明るく光を放って咲く薄ピンクの花を発見して、歓喜の叫びをあげる。東京の桜はすでに終わっている。「群馬は東京よりも北にあるからよね。それにこの辺は標高も高いでしょ」。後で榛名湖の茶店で聞いた話だと、ここの桜は山桜で、「ソメイヨシノではないですよ」、という。ソメイヨシノの開花はもっと後になる、という。霧がわき始めた。谷間を埋め、風に煽られてうごめく。山水画のように色を消した景色が、しっとりと静かに心に沁みこむ。雨はまだ降っていない。伊香保は、標高1449メートルの榛名山の中腹にへばりついて広がる温泉街だ。一説によると1800年前の古湯だという。万葉集にも歌われ、江戸時代には湯治場として武家町人に広く愛された。街全体が大小入り組んだ坂道でできている。どこにも平地がない。「起伏に富んだ街はおもしろいっていうからね。札幌や長崎がそうだ」。妻に知ったふりをする。だが、起伏に富み過ぎるってのもなんだね。疲れる。ロープウェイの登り口の観光案内所の横の無料駐車場に車を置く。平日のためか観光客の姿がまるでない。「三宅裕司のふるさと探訪みたい。人がいないわ」。「おまえのために、街を貸し切りにしたんだ」。「バカ」。とにかく歩こう。温泉街を楽しもう。中心は365段の石段。400年前、長篠の合戦で敗戦した武田勝頼の命により、真田氏が造った。徳富蘆花の「不如帰」の舞台にもなった。しっとりとした風情が懐かしい。なぜか、怨念のようなものさえ感じる。与謝野晶子の歌碑がある。日本のリゾート温泉都市第一号の説明書きがある。「日本初の温泉都市か。温泉を中心に設計された街というわけか」。長い石段を見上げる。とても登る気になれない。首が痛くなる。かなりの高さだ。「もし、オレが、足腰が悪くて伊香保に湯治にきたとする」。妻にいう。「この石段で足腰はさらにボロボロになる。伊香保で痛めた足腰を草津で治す。温泉の口治し。いや腰治し」。「わけわかんない」。恰幅のいい中国人夫婦が石段の前で動かない。「どうぞ」。ご主人にむかって、手真似で登るように薦める。「とんでもない」、ご主人あわてて手を大きく振り、布袋様のような愛想笑い。体格のいい奥さんが、「あんた、登ろうよ」と、中国語で誘う。重量挙げの選手のようにたくましい腕。両手に土産物の重い荷物を抱えて、諸葛孔明のような不敵な笑い。「いやだ」。ご主人、怯え切った目で奥さんと石段を交互に見、顔を振って強く拒絶する。国籍に関係なく、どこの家もカミさんが天下なんだ。路地裏を歩くと、そこここで古きよき昭和が手招き、江戸が微笑んでいる。崩れかけた木造の演芸場には、落語会の古い看板が斜めにぶら下がっている。破れた演歌歌手のポスターの下半身がひらひらと揺れ、国定忠治ご用達の酒処の提灯に空っ風が吹く。シャッターの開いている店が少ない。なかなか昼食にありつけない。「名物の蕎麦とうどんが食べたいよう。山菜の天ぷらが食べたいよう」。頭のなかはそのことでいっぱい。「そうだ、温泉饅頭を食べよう。伊香保じゃ温泉饅頭っていわない、湯の花饅頭っていう」。地図をたよりに迷路の路地裏を歩いていると、饅頭の名店に行き当たる。品の良い老婦人が一人、帳場でほのぼのと居眠りしている。「まあ素敵、あの人、置物みたい」。妻がその姿に感動する。「置物だったら、買って帰るか?」。余計なことばかり言ってるうちに昼食にありつけず、榛名湖まで走ることになった。

■李白のごとく ■2016年5月16日 月曜日 13時58分56秒

「両人対酌山花開・・・一杯一杯又一杯・・・」
李白、李太白の作である。「両人」とは、山水の美しさを理解する人、自然を愛する人、という意味だ。「対酌」は、
ともに盃をかわす、ということ。自然を理解し、愛する友と盃をかわせば「山々の花が一斉に咲き誇る」という詩である。普通に解釈すれば、花が咲いたから友と盃をかわす、ということになるが、それでは当たり前すぎてつまらない。そこで、友と盃をかわしたら花々が一斉に開く、と勝手に解釈している。そのほうが酒仙の李白にふさわしい。そして、次の行がすばらしい。大胆というか、潔いというか、とんでもなくおもしろい。「一杯一杯又一杯・・・」ときた。こうきたか、これぞ快楽主義李白の極致と唸る。これ、詩と呼べるか、と呟き、これこそ詩だ、と開き直る。とはいうものの、実のところすばらしいのかどうかわからない。唸りながら考えこむ。「國破山河存・・・城春草木深・・・」。これは杜甫の「春望」という、あまりにも有名な詩だ。中学校の教科書にあった。李白と杜甫は、七世紀の中国、時代は唐、楊貴妃との恋で知られる玄宗皇帝の治世に生きた天才詩人。大陸の壮大な風と土が生み出した才能か、中国の厚い歴史が育んだ非凡か、日本人にはとても表現できない大きな詩だ。ともに物事をまっすぐに見つめる、少年の純粋な眼差しをもつ。表現に、線の太さがある。毅然とした潔さがある。広大無辺の情景表現、そこにのせる鮮やかな心象表現、いきいきとした命の強靭さがあり、裏に脆さを秘める。それが二人の共通点だが、性格は、太陽と月のように正反対だ。李白は快楽主義。生き方も詩もほとばしる情熱をそのままぶつける。情熱そのものをまっすぐに見つめる。関心は、情熱そのものにある。一方、杜甫は、誠実に人間にむかう。人間を見つめ、人間に対する誠実さに情熱を傾ける。杜甫の詩には、常に人間の切なさ、人生の侘しさが漂う。李白の快楽が、杜甫にはない。官吏を自ら辞し、俗っぽさを排し、自然のなかに生きた李白。自分で道を選んだ李白に対し、杜甫は、就職したくてもそのチャンスがなかった。無職のまま、家族とともに広大な中国各地を風に吹かれ、雨に打たれて漂泊した。その境遇がちがいとなった。李白の漢字には、明るく前向きなものが多く、杜甫は、重く沈む漢字をよく使う。それにしても漢詩の授業も受けず、漢字ばかりのお堅い漢詩をおもしろいと思ったこともなかったのに、なぜ、ここにきて急に李白に心惹かれるようになったのだろう。漢字はもともと嫌いではない。形が美しい。表意文字のただならぬ深みに、威厳さえ感じる。なにより、2000余年前に生まれて現在も元気に活躍している文字など、世界に類を見ない。奇跡だ。漢字は、奇跡の力をもつ。そうだとしても、漢詩は好きになれなかった。返り点という理不尽な記号があって、後の文字を先に読んだり、先の文字を後で読むなんて几帳面なわたしには許せない。反則だ。バス停にきちんと並んでいるのに、突然横から割り込んでくるようで、どうにも許せない。そう思っていた。だが最近では、表現の深さがひしひしと心に迫り、割り込みオッケイとなった。作家開高健さんは、会話のなかにもちょこちょこと漢詩が飛び跳ねる。話に深みが出て、なんともかっこいいのである。もちろん、会話に返り点はない。漢詩コンプレックスのわたしは、シュンとなって聞き入るだけだ。「先生、いまのことばの意味はなんでしょうか」と尋ねると、そうこなくちゃ、とばかりに話の翼が広がる。李白は詠う。「今日風日好・・・千金買一酔・・・取楽不求余・・・」、きょうはよい天気だ、風も美しく、陽射しも美しい・・・千金を投じても一たびの酔いを買おう・・・志すところは快楽だけだ、他に求めるものはない・・・。自然を愛し、酒を愛し、友と語る。そんな李白のような生き方をしたい。そう呟き、渋谷のネオンの草原を酔い歩きながら多年がすぎた。
■真田を攻める ■2016年5月2日 月曜日 15時21分10秒

勝鬨を上げるように鋭い剣先を突き上げる巨岩が、天を切り裂く。見上 げる壁となって行く手を阻む。山全体が一つの岩か、と目をこすりたく なるほどの巨大な岩。数々の奇岩があちこちで大地を割って立ち上が る。天が迫る。雲が走る。難攻不落の真田の拠点岩櫃城は、神の手に よって創造された標高802メートルの岩櫃山にある。頂上から200 メートルの崖下に本丸があり、二の丸、中城が複雑な地形を活かした地 点に築かれている。密集する森を縦横に空堀が走る。山全体が城、天蓋 の要塞である。北東側に柳沢城、南側に郷原城の2城を従えている。
「すごいな。おれが家康だったら、こんなとんでもない城を攻めような んて絶対に思わないよ」。平沢登山口にある駐車場から険峻な頂を見上 げて、横の息子に言う。徳川軍1万2万の大所帯の攻撃を想像してみ る。ダメだ。岩櫃城にたどり着く前に、この複雑な山岳迷路でジタバタ だ。戦意なんか霧のようにあっと言う間に喪失する。軍団はバラバラ、
兵はボロボロ、いざ戦いとなればあの巨岩が立ちはだかる。「おれが家 康なら、絶対にそんなリスクの高い戦いはしない。いらないよ、こんな 城」。頂上を見上げるだけで足がすくむ。日ごろテニスで足腰を鍛えて いる妻は、急な上り坂もものともせず、一人でズンズンと登っていく。
小松姫のように逞しい女だ。愛犬に引っ張られて息子も駆け上がる。 「いやだいやだ、おれは家康の足軽になりたくない」。ぶつくさ言いな がら100メートルほど坂を登ると、木の香も新しいログハウス風の観 光案内所があった。室内では、椅子に腰かけた観光客が案内ビデオを見 ている。そうだ、このビデオを見れば頂上まで攻めこまなくても、岩櫃
城攻略、真田攻略の手がかりはつかめる。案内係の男性と女性が説明を してくれる。「地元の方ですか?」。そう尋ねると、「ええ、平沢の者 です。先祖代々ここに住んでいます」と答える。指さすほうを見ると、 起伏の激しい地形に潜むように点々と農家の姿が見え、丘陵のあちこち に小さな畑が見える。この時期、畑には作物はなく、モザイクのように
散りばめられた茶色い耕地には、色鮮やかな花々が風に揺れるだけだ。
木立の間に悠々と鯉のぼりが泳ぐ。鯉のぼりが、先祖からの永い時間を 物語る。穏やかな日本の原風景がここにある。「じゃあ、真田の家臣で すか?」。興味にまかせて質問をぶつける。「いえ、農家です。納屋に は古い武具がありますが」。「では、忍者だったのかもしりません ね」。そう言うと、とんでもないと手を左右に振って笑った。「このあ たりでは農業も大変でしょう。水田がないですものね」。そう女性に言 うと、「いえいえ、美味しいお米ができますよ。あの奥のほうに水田が あります」。得意そうに答える。どんな些少な地でも米は作る、生きる ための基本食が米なのだ、米は大事なのだ、とその強い語調から感じ た。案内所の前に分岐点があって、沢通りから岩櫃山の山頂に登る坂道 があり、一方は出浦渕に向かう真田道となっている。真田道は出浦渕を 抜けて郷原に出る忍者道のようだ。目の前の天狗平は真田忍者の修行場 だという。「行こう行こう、このくらいなら登れる。上には岩櫃神社も あるんだって」。ぜひ忍者の修行場を見たいと思った。天狗平はなだら かな傾斜地で畑が広がっている。畑の尽きるところから台地は急激に下り、眼下でジオラマのようなかわいい集落が陽ざしに輝いている。茶色 の畑には作物がなく、道端に花々が咲いている。忍者が修行したという 気配も施設もないただの平地だ。高い杉の木がなかったら見過ごしてし まいそうな岩櫃神社が台地の奥にある。「なあ、三人と犬で100円 じゃ少ないかな。神様にケチと思われるかな」。財布をのぞいて妻に言 う。「それはケチよ。真田なんだから六文銭でしょ」。妻が気がつく。だが、100円玉六個はない。10円玉六個を奉納する。「なんだ、 もっとケチじゃないか」。愛犬が冷ややかな目をむけた。さあ、午後は 沼田城を攻めようか。

■真田を攻める ■2016年5月2日 月曜日 15時13分57秒
勝鬨を上げるように鋭い剣先を突き上げる巨岩が、天を切り裂く。見上
げる壁となって行く手を阻む。山全体が一つの岩か、と目をこすりたく
なるほどの巨大な岩。数々の奇岩があちこちで大地を割って立ち上が
る。天が迫る。雲が走る。難攻不落の真田の拠点岩櫃城は、神の手に
よって創造された標高802メートルの岩櫃山にある。頂上から200
メートルの崖下に本丸があり、二の丸、中城が複雑な地形を活かした地
点に築かれている。密集する森を縦横に空堀が走る。山全体が城、天蓋
の要塞である。北東側に柳沢城、南側に郷原城の2城を従えている。
「すごいな。おれが家康だったら、こんなとんでもない城を攻めような
んて絶対に思わないよ」。平沢登山口にある駐車場から険峻な頂を見上
げて、横の息子に言う。徳川軍1万2万の大所帯の攻撃を想像してみ
る。ダメだ。岩櫃城にたどり着く前に、この複雑な山岳迷路でジタバタ
だ。戦意なんか霧のようにあっと言う間に喪失する。軍団はバラバラ、
兵はボロボロ、いざ戦いとなればあの巨岩が立ちはだかる。「おれが家
康なら、絶対にそんなリスクの高い戦いはしない。いらないよ、こんな
城」。頂上を見上げるだけで足がすくむ。日ごろテニスで足腰を鍛えて
いる妻は、急な上り坂もものともせず、一人でズンズンと登っていく。
小松姫のように逞しい女だ。愛犬に引っ張られて息子も駆け上がる。
「いやだいやだ、おれは家康の足軽になりたくない」。ぶつくさ言いな
がら100メートルほど坂を登ると、木の香も新しいログハウス風の観
光案内所があった。室内では、椅子に腰かけた観光客が案内ビデオを見
ている。そうだ、このビデオを見れば頂上まで攻めこまなくても、岩櫃
城攻略、真田攻略の手がかりはつかめる。案内係の男性と女性が説明を
してくれる。「地元の方ですか?」。そう尋ねると、「ええ、平沢の者
です。先祖代々ここに住んでいます」と答える。指さすほうを見ると、
起伏の激しい地形に潜むように点々と農家の姿が見え、丘陵のあちこち
に小さな畑が見える。この時期、畑には作物はなく、モザイクのように
散りばめられた茶色い耕地には、色鮮やかな花々が風に揺れるだけだ。
木立の間に悠々と鯉のぼりが泳ぐ。鯉のぼりが、先祖からの永い時間を
物語る。穏やかな日本の原風景がここにある。「じゃあ、真田の家臣で
すか?」。興味にまかせて質問をぶつける。「いえ、農家です。納屋に
は古い武具がありますが」。「では、忍者だったのかもしりません
ね」。そう言うと、とんでもないと手を左右に振って笑った。「このあ
たりでは農業も大変でしょう。水田がないですものね」。そう女性に言
うと、「いえいえ、美味しいお米ができますよ。あの奥のほうに水田が
あります」。得意そうに答える。どんな些少な地でも米は作る、生きる
ための基本食が米なのだ、米は大事なのだ、とその強い語調から感じ
た。案内所の前に分岐点があって、沢通りから岩櫃山の山頂に登る坂道
があり、一方は出浦渕に向かう真田道となっている。真田道は出浦渕を
抜けて郷原に出る忍者道のようだ。目の前の天狗平は真田忍者の修行場
だという。「行こう行こう、このくらいなら登れる。上には岩櫃神社も
あるんだって」。ぜひ忍者の修行場を見たいと思った。天狗平はなだら
かな傾斜地で畑が広がっている。畑の尽きるところから台地は急激に下
り、眼下でジオラマのようなかわいい集落が陽ざしに輝いている。茶色
の畑には作物がなく、道端に花々が咲いている。忍者が修行したという
気配も施設もないただの平地だ。高い杉の木がなかったら見過ごしてし
まいそうな岩櫃神社が台地の奥にある。「なあ、三人と犬で100円
じゃ少ないかな。神様にケチと思われるかな」。財布をのぞいて妻に言
う。「それはケチよ。真田なんだから六文銭でしょ」。妻が気がつく。
だが、100円玉六個はない。10円玉六個を奉納する。「なんだ、
もっとケチじゃないか」。愛犬が冷ややかな目をむけた。さあ、午後は
沼田城を攻めようか。
■李白のごとく ■2016年4月22日 金曜日 16時34分24秒

「両人対酌山花開・・・一杯一杯又一杯・・・」
李白、李太白の作である。「両人」とは、山水の美しさを理解する人、自然を愛する人、という意味だ。「対酌」は、
ともに盃をかわす、ということ。自然を理解し、愛する友と盃をかわせば「山々の花が一斉に咲き誇る」という詩である。普通に解釈すれば、花が咲いたから友と盃をかわす、ということになるが、それでは当たり前すぎてつまらない。そこで、友と盃をかわしたら花々が一斉に開く、と勝手に解釈している。そのほうが酒仙の李白にふさわしい。そして、次の行がすばらしい。大胆というか、潔いというか、とんでもなくおもしろい。「一杯一杯又一杯・・・」ときた。こうきたか、これぞ快楽主義李白の極致と唸る。これ、詩と呼べるか、と呟き、これこそ詩だ、と開き直る。とはいうものの、実のところすばらしいのかどうかわからない。唸りながら考えこむ。「國破山河存・・・城春草木深・・・」。これは杜甫の「春望」という、あまりにも有名な詩だ。中学校の教科書にあった。李白と杜甫は、七世紀の中国、時代は唐、楊貴妃との恋で知られる玄宗皇帝の治世に生きた天才詩人。大陸の壮大な風と土が生み出した才能か、中国の厚い歴史が育んだ非凡か、日本人にはとても表現できない大きな詩だ。ともに物事をまっすぐに見つめる、少年の純粋な眼差しをもつ。表現に、線の太さがある。毅然とした潔さがある。広大無辺の情景表現、そこにのせる鮮やかな心象表現、いきいきとした命の強靭さがあり、裏に脆さを秘める。それが二人の共通点だが、性格は、太陽と月のように正反対だ。李白は快楽主義。生き方も詩もほとばしる情熱をそのままぶつける。情熱そのものをまっすぐに見つめる。関心は、情熱そのものにある。一方、杜甫は、誠実に人間にむかう。人間を見つめ、人間に対する誠実さに情熱を傾ける。杜甫の詩には、常に人間の切なさ、人生の侘しさが漂う。李白の快楽が、杜甫にはない。官吏を自ら辞し、俗っぽさを排し、自然のなかに生きた李白。自分で道を選んだ李白に対し、杜甫は、就職したくてもそのチャンスがなかった。無職のまま、家族とともに広大な中国各地を風に吹かれ、雨に打たれて漂泊した。その境遇がちがいとなった。李白の漢字には、明るく前向きなものが多く、杜甫は、重く沈む漢字をよく使う。それにしても漢詩の授業も受けず、漢字ばかりのお堅い漢詩をおもしろいと思ったこともなかったのに、なぜ、ここにきて急に李白に心惹かれるようになったのだろう。漢字はもともと嫌いではない。形が美しい。表意文字のただならぬ深みに、威厳さえ感じる。なにより、2000余年前に生まれて現在も元気に活躍している文字など、世界に類を見ない。奇跡だ。漢字は、奇跡の力をもつ。そうだとしても、漢詩は好きになれなかった。返り点という理不尽な記号があって、後の文字を先に読んだり、先の文字を後で読むなんて几帳面なわたしには許せない。反則だ。バス停にきちんと並んでいるのに、突然横から割り込んでくるようで、どうにも許せない。そう思っていた。だが最近では、表現の深さがひしひしと心に迫り、割り込みオッケイとなった。作家開高健さんは、会話のなかにもちょこちょこと漢詩が飛び跳ねる。話に深みが出て、なんともかっこいいのである。もちろん、会話に返り点はない。漢詩コンプレックスのわたしは、シュンとなって聞き入るだけだ。「先生、いまのことばの意味はなんでしょうか」と尋ねると、そうこなくちゃ、とばかりに話の翼が広がる。李白は詠う。「今日風日好・・・千金買一酔・・・取楽不求余・・・」、きょうはよい天気だ、風も美しく、陽射しも美しい・・・千金を投じても一たびの酔いを買おう・・・志すところは快楽だけだ、他に求めるものはない・・・。自然を愛し、酒を愛し、友と語る。そんな李白のような生き方をしたい。そう呟き、渋谷のネオンの草原を酔い歩きながら多年がすぎた。
■辞世の記 ■2016年4月22日 金曜日 16時33分12秒

「まな板に ごろりと鯉の 昼寝かな」。これは、アメリカ進駐軍司令官マッカーサー元帥が、「彼こそ日本のアルカポネだ」と賛辞を送った伝説の侠客、尾津組尾津喜之助親分の辞世の句だ。喜之助親分は、新橋事件と呼ばれる死を覚悟しなければならない修羅場へ、子分を連れずに一人で出かけた。一振りの日本刀を肩に掛け、着流した着物を風に吹かせて、まるで散歩を楽しむようにふらりと出かけたと聞く。そのときに詠んだ句がこれだ。喜之助親分は数百人を相手にしたこの修羅場を、剛毅なサムライの気迫で乗り切った。その剛毅な武勇伝にも驚いたが、辞世としたこの句の「昼寝かな」の一語には仰天した。辞世のときに「昼寝かな」ということばを思い浮かべるその心は、どんな心なのだろう。どこから、そんな余裕が生まれるのだろう。あまりにも潔い一語だ。無辺の大きさというか、無量の豊かさというか、この期に及んで、にっこりと不敵な笑みさえ浮かべたのだろうか。この一語が、強い意志を感じさせる。究極の悟りさえ感じさせる。辞世に際し、走馬灯のように浮んで駆け巡る一生のあれこれを、一つも語ることなく「昼寝かな」の一言で片づけた。わたしなら、愚痴の10や20もこぼすところだ。羨ましいほどの大きさだ。男は、大きく生きて、大きく死にたいものだ。そういえばたしかに、鯉の往生際には毅然とした誇りがある。「昼寝かな」のことばが表す堂々たる風格がある。鯉釣りを趣味としているから、わたしにはよくわかる。釣り竿にかかっても、大きな鯉ほど悠然と構えている。50センチ以下の鯉は針にかかると、上流に走る、下流に走る、岩に向かって走る、暴れる。だが、60センチを超え、70センチ80センチを超える大鯉になると、どすんと腹が座っている。どすんと腰を据え、ゆっくりと勝負に出る。その引きは、まさに川底のウインチである。ググー、ググーッと巨大な力で巻き上げ、釣り人を川底に引きづりこもうとする。鯉の気持ちからすると、初めは「おやおや、どうしたんだ」くらいのもんなのだ。そして次に「ほう、本気でやる気かい」とくるのだ。そこで、こちらも腰を据えねばならない。でなければ、川底に引きづりこまれないまでも、釣り糸を引きち切られる。釣り竿をへし折られる。15分、20分、リールのドラッグを絞めたり緩めたり、腰を下げたり、膝を折ったり、なだめてすかして、どうにか河岸近くに寄せてタモ網を差し出すと、そのとき一暴れするものの、終始堂々としている。徹頭徹尾、大物である。両手がすっかりしびれるほどの格闘の末、どうにか土手に引き上げると、大鯉は、「なんだこのやろう」とばかりにギョロリと目を剥き、一度二度尾鰭で土手を打つものの、ごろりと「昼寝かな」の態勢に入る。見事な辞世の姿だ。もはや風前の灯の命だというのに、たいしたものである。もちろん、鯉は川に還す。だが、鯉は、それを知っていて堂々としているのではない。先日、大鯰が釣れた。鯉の仕掛けに70センチの大鯰がきた。当たりは激しいものではなく、一二度鈴が鳴り、ゆっくりと竿が曲がった。次に、突然強い引きがきて、カーボン製の釣り竿が満月のようにしなった。「でかいな」。「80はあるな」。周囲がざわめいた。大鯉と同様の引きだ。ドラッグを緩め、やり取りをしているうちに獲物が反転した。姿が見えた。グニャリとした身体、やわらかい動き。「鯰だ」。だれかが叫んだ。格闘の末引き上げたが、土手に腹ばいになった鯰は、ジーッと上目づかいにこちらを睨み、暴れない。厳しい顔つきだ。鯉ほどの潔さはないが、剛毅な表情。鯰は鯰なりに、見事な辞世だ。なんでも、だれでも、大物になれば辞世も見事になるのだ。幕末の雄、ラストサムライ西郷隆盛は、「もうこのへんでよか」と、満足げに辞世を告げた。男は、大きな夢を抱き、大きく生き、大きな辞世を迎えた。釈尊が教える。「日々臨終とわきまえ、力いっぱい生きろ」。今宵、辞世の句も残さず、桜を待たずして逝った友を偲んで、盃を傾ける。
■人として ■2016年4月22日 金曜日 16時31分9秒

9×9の盤上のマスが、棋士にとって関が原の合戦場である。この81マスに兵たる駒を縦横無尽に跳躍させ、必勝を胸に天下分け目の合戦を展開する。あの手この手と、星の数ほどある指し手を熟考し、最善の一手を導き出す。頭脳の限りを尽くし、全霊で汗をかき、無限の荒野に兵たちを飛翔させる。一手一手に、雫の一滴のミスも許されない。雫の一滴は積もり積もってやがて大河となり、命取りとなる。駒の一つひとつが緊密に連携し合い、有機的、立体的に駆け巡り、すべての力が一つになって勝利の大海に向かう。一瞬の、風の揺らぎほどの隙も見せてはならない。最果ての歩兵のわずかな誤動が、敗北につながる。戦いは厳しい。とはいえ、最善の手が常に一つとは限らない。そうなのだ。これが困る。そして、これがおもしろい。うん、その手もある、が、この手もある。そんな場面がちょくちょくある。AかBか、いや、Cもある。その選択の瞬間に、棋士一人ひとりの性格が出る。個性が見える。人は、それを棋風と呼ぶ。NHK杯テレビ将棋トーナメントは、毎週日曜日の午前の放映だ。戦う棋士には申し訳ないが、ソファにごろりと寝転んで、二日酔いの目で観ている。先日のこと、いつものようにまどろみ半分で画面を眺めていて、解説の阿久津主税八段のことばに、いい意味で度肝を抜かれ、飛び上がった。感激した。ある棋士の指し手の解説をしているときだ。それもある、これもある、手はいくつかある。そう解説した後、阿久津八段は言った。「あとは、人として、どれを選ぶかですね」。棋風だ。普通に言えば、「性格的にどれを選ぶかですね」とか「棋風としてどれを選ぶかですね」と言うところだ。それを阿久津八段は、「人として」ということばを使った。おもしろい。ソファの上に座った。この場面でこのことばを使ったか。横にいた清水女流棋士も思わず、「人として?」と聞き直した。わたし同様に意表を突かれたのだろう。いい意味でも悪い意味でも、このことばは重いことばだ。「あいつは人として、申し分がない」と言えば、いい意味になる。「あいつは人として、最低だ」と言えば、悪い意味になる。重い。人格のすべてを賭けるような重さだ。将棋が軽いと言っているのではない。将棋の毅然たる文化価値には敬意を表する。だが、一手の指し手の選択に、「人として」などと、全人格を賭けるようなこのことばは通常聞くことはない。このことばは、感覚、精神、品格など、理屈を越えたさまざまを含む。阿久津八段は、爽快な人物だ。ジャニーズのメンバーにも負けない端正な童顔は、少年のように健気で明るい。真っ直ぐに将棋に向かう真面目な姿勢が、好ましい。棋風は、明快で潔い。性格も潔いのだろう。(テレビでしか拝見していないので、多分に想像でしかない)。さて、「人として」ということばの重さをもう少し考えてみたい。「人」について。アメリカのある学者は、人を洞察するには「本性」と「衝動」を見ろ、と言い、作家の司馬遼太郎は、人はその「思想」と「感情」で理解できる、というようなことを言っていた。「本性」とは、生まれや育ち、それらの環境から育まれる本質的な性格だ。教育と教養、家柄や家風に培われる品格も本性のうちにある。「思想」は、「本性」から導き出される考え方、といったところだろうか。「衝動」とは、その人が、なにをしたいかである。「感情」は、その人のその時々の、心のあり様、心の起伏みたいなものだ。なるほど、学者や司馬さんが意図するほど理解できないまでも、これらを知ることで多少たりとも「人」が理解できたような気がする。人は、そのもてるすべてを賭けて「人として生きる」ものだ。「人として」ということばは、そのように重い。いまの時代、このことばほど必要なものはない。阿久津八段は、駒を通してそれを教えてくれた。ところでそう言うおまえは、「人として、どうなのだ」と尋ねられると、途端に自信を失う。下を向く。
■マスコミュニケーションは、死んだか。 ■2016年2月26日 金曜日 13時37分34秒

インターネットの出現普及が世界を一変させたように、テレビの出現普及は、当時のわれらの世界を一変させた。インターネットがそうであったように、テレビはまさに銀河の果てから突然襲来したエイリアンのように、われらの暮らしを侵食した。あれよあれよという間にわれらは、身も心も魂までもエイリアンに奪われてしまった。作家の三島由紀夫は、テレビの普及が国を滅ぼす、というようなことを言った。だが、息つく暇もないテレビの勢いに、三島のことばに耳を貸す者はいなかった。日々テレビから放出される情報は、巨大な洪水となって大衆を押し流していった。一方、高度成長期を迎えた日本は、経済力という甘味あふれるもう一人のエイリアンの嬉しい到来を迎えた。車が欲しい、と息子が言い、海外旅行に行きたい、と娘がせがみ、一軒家に住みたい、と妻が叫ぶ。いいよ、いいよ。そう返事ができた。だれもが中流階級の生活を手に入れることができた。経済大国という甘いことばに浮かれてこの国は、夢中で突っ走った。大量生産大量消費が、美徳とされた。大量消費の促進には、テレビはうってつけのメディアだった。凄まじい力を発揮した。それまでマスコミュニケーションといえば、新聞・雑誌・ラジオが主流だったが、テレビは、これらのメディアをあっという間に陵駕し、マスコミュニケーションの寵児となった。新聞・雑誌・ラジオには、チェック機関があり、チェック機能が働いたから、ある程度コントロールできた。コントロールができた分、信頼された。ところがテレビは違う。チェック機能が不十分なまま、ブレーキの壊れた列車のように走り続けた。そのために種々問題も起きた。とはいえ、紛れもなくテレビは大衆の心を捕らえた。人々は、テレビから価値観をもらった。人気番組を見なければ、みんなの話題についていけない。「大衆って、なんでしょうか」。わたしは、その頃大衆に人気のあった有名写真家に尋ねた。「大衆なんて人間はいやしない。大衆は、一人ひとりの人間の集合体にすぎない。おれの仕事は一人を感動させること。それが大きくなって大衆になるだけさ」。そんな返事が返ってきた。その通りだ。大衆という人間はいない。一人ひとりの人間が集って存在しているだけだ。だが、マスコミュニケーションということばのマスは大衆のことだ。マスコミュニケーションは、大衆のコミュニケーションということで、大衆という価値を認めた上でこそ成立することばだ。昔から文学者たちは、個にして普遍、というテーマをもって歩いている。つまり、個人の価値観がいかに大衆の価値観として受け入れられるか、ということだ。テレビもまた、このテーマをもつのだが、解決できないまま突っ走ってきた。「そんな放送、テレビでやるな」と俗悪番組を束縛できるのか。その問題は「表現の自由」という大義のもとにうやむやにされてきた。個と普遍の壁に目を背けてきた。そこへ、インターネットという新しいエイリアンが出現した。マスコミュニケーションの頂点に君臨していたテレビが、一撃のもとに叩き落された。(いま、頑張ってはいるが)。マスの存在、大衆の存在を云々する間もなく、インターネットによってマスコミュニケーションはズタズタにされた。インターネットは、マスとパーソナルの垣根、大衆と個人の垣根をいとも簡単に破壊し、一気に同じ土俵に上げてしまった。一人の意見は、それが正しいかどうかなどと問うこともなく、一瞬にして世界を駆け巡る。一人の意見が、一気に大衆の意見になってしまう。それこそがインターネットの魅力だとしても、巨額の予算と長時間をかけて築いてきた企業の信頼が、一人の意見でボロボロにされる。コントロールが是か非かを問う以前に、コントロールがまるで不能なのだ。困った。マス=パーソナルの時代。マスコミュニケーションは、この先どう生きていくのだろう。
■桜と刀 ■2016年2月26日 金曜日 13時36分33秒

日本人って、どんな人間ですか。コーヒー片手に隣のフランス人が聞いてくる。えっ、答えに窮する。渋谷ハチ公前、カフェ「スクランブル」、ガラス越しに外国人にあふれる交差点を眺めている。時代は、グローバル。東京オリンピックに向かって外国人は増える一方だ。日本人でありながら、日本人を知らない。これは心配だ。日本人とはこうだ、と答えられない自分が情けない。そこで、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが著した『菊と刀』(日本文化の型)と題された論文を、書棚から引っ張り出す。古い論文だがこれほどわかりやすく、真剣に、これほど日本人の本質を著した論文は他にはない。太平洋戦争で日本と戦うアメリカは、1944年、すでに勝利を確信したが、どうしても敵の正体がわからない。日本人って、どんな人間なのだ。これまで国をあげて戦ってきた敵で、これほど不可解な民族は世界に類を見ない。いくら調査分析しても首脳陣の意見はバラバラ、いっこうにまとまらず、戦略が立てられない。この戦争をどう終結させるか。日本本土に進撃することなしに、降伏させることができるだろうか。皇居を爆撃すべきだろうか。日本人捕虜をどのように利用することができるだろうか。最後の一人まで戦うという日本人の決意を弱めることができるだろうか。まるで見当がつかない。すでに壊滅寸前、兵力も食糧も体力も底をつき、戦闘能力のほとんどを失いながら、強靭な精神力だけで戦う日本軍。合理主義の塊のアメリカには、とにかく理解不可能だ。精神力が重要なことは百も承知だが、精神力だけで勝利するなどという話は聞いたことがない。バカバカしいにもほどがある。だが、その精神力を信じ、たった一機の戦闘機で航空母艦に体当たりする特攻作戦までやってのける日本軍。あきれ返った民族としかいいようがない。そこで、ベネディクト女史に日本人分析を依頼した。その分析で気になるのは、まず、矛盾だらけの、あたかも二重人格の日本人の姿だ。女史は、日本人には、世界の他の国民にかつて用いられたことがないくらい奇怪至極に「しかしまた」の連発が見受けられることを知った。世界の他の民族に類のないほど礼儀正しい民族だといいながら、「しかしまた、彼らは不遜で尊大である」とつけくわえる。他の国々には見られないほど頑固だといいながら、「しかしまた、どんな新奇なことにも容易に順応する」という。極めて従順な民族であるといいながら、「しかしまた、上からの統制には容易に従わない」とつけくわえる。日本人は、忠実で寛容であるといいながら、「しかしまた、不忠実で意地悪である」という。真に勇気のある民族だといいながら、「しかしまた、臆病だ」とつけくわえる。兵士は、軍隊のロボットのような訓練を受けながら、「しかしまた、命令に従わず反抗することさえある」という。美にたいして国民的崇拝をもち、菊の栽培に高度な秘術をもちながら、「しかしまた、刀への崇拝」をつけくわえる。これらすべての矛盾が縦糸と横糸として綾なり、どちらも日本人の真実として紡がれるのだ、と解明する。菊を愛するが、同時に刀も愛す。穏やかだが、あわせて喧嘩好き。礼儀正しいが、また傲慢。順応性があるが、頑固。保守的だが、新しい様式を歓迎する。戦時下、アメリカ軍が日本人を理解するとき、このような矛盾を見て見ぬふりはできない。日本をどのように降伏させ、どのように占領するか。重大な局面での日本人分析、見事に本質をついている。あれから70年の歳月が過ぎた。この間に、アメリカの強力な洗脳作業で日本人はどう変っただろうか。従順になったか。気骨は残っているか。相変わらず、矛盾にあふれているのか。そして、アメリカはまだ日本を疑っているのか。日本は、世界の国々から信用される国なのか。本居宣長は、日本精神の根本にある潔さを「桜」に例えた。美と力をあわせもつ日本固有の花、美しく咲いて潔く散る「桜」の季節が近い。
■義の狐か、欲得の狸か。 ■2016年1月29日 金曜日 15時9分49秒


歴史とは、「過去と現在と未来の対話」だ。同時に、大河のように途切れなく流れる歴史の奔流は、人間の命運を左右する自然風土以上に力をもつ、文化という名の人工風土で、人間に与える影響は極めて大きい。そこで、日本の三大決戦の一つである関が原の合戦が、その後の日本にどんな影響を及ぼしたかを考えてみた。天下分け目といわれる全国規模の関が原の大合戦だが、基をただせば秀吉亡き後の主導権を争う狐と狸の欲得合戦だ。あわよくば天下をこの手に。狐も狸もそう思った。少なくとも、狸の腹はそうだ。狐は、奉行の一人に過ぎないが、秀吉の秘書官として強権をふるい、狸は、秀吉政権下の最高位の大老だ。どっちも「われこそが秀頼を支え、豊臣を守る」と、忠義の金看板を掲げるが、腹の中は別物だ。若く、数学的頭脳にすぐれる狐は、軍師島右近さえあきれ返る自信家だ。自分こそが正しいと思い込みすぎる。病的なほど正義感が強く、諸大名の動向をつぶさに評価し、小さなミスも見逃さず秀吉に報告した。物事すべてを論理で処理し、情の入り込む余地がない。情という、論理を超える人間の強力なエネルギーを、狐はまるで理解しない。ただ一途に豊臣家に対する「義」を掲げ、諸大名をまとめにかかる。この時代、まだ「武士道」も確立されていないから、「義」とか「忠義」に関しても、個人の観念に委ねるしかない。大名たちは、情のわからぬ狐が大嫌いだ。朝鮮出兵で手痛い評価を浴びた加藤清正と福島正則に至っては、「あの狐やろう、いますぐ叩き切ってやりたい」と、鬼の形相でいきり立つ。「正義の刃で人を傷つけすぎる」。右近は、そこが心配だった。狐には、「人望」がない。狸には「人望」がある。狸は、秀吉同様「人たらしの名人」だ。その上、「人間は、欲得と保身で動く」との割り切りがある。諸大名を、誉め、欲得を満たし、保身を確約する。この狸、ゆったりと丸っこい体で貫禄も十分、信長秀吉治世にガマンを重ねてきたせいか、喜怒哀楽を顔に出さない。時に丸い目が冷酷非情な光を放ち、大名たちを身震いさせる。当初は狐同様、秀頼に対する「義」を金看板として大名たちの巻き込みを図った。狸の参謀で狸以上に狡猾な本多正信でさえ、「喰えない殿だ、だからこそ天下を取れる」と、ほとほと感服する。武力戦というより政治戦の関が原は、現代の選挙戦同様、どっちが多くの味方をつけるかが勝負となる。狐とは旧知の仲で、「義」を重んじる点では誰にも負けない会津藩直江兼続は、いち早く西軍に加わることを誓約し、狐と策を練った。兼続が会津で兵を挙げ、狸が応戦したら背後から狐が攻撃し、狸を挟み撃ちにする。見事な戦略だが、実現しなかった。「そうか、毛利が動かないか」。狐がやっと口説いて西軍の大将に担ぎ出した毛利輝元が、大坂城に留まったまま動かない。不戦派と参戦派、真っ二つに割れた毛利には、まったく統一の気配がない。西軍の多くの大名がそうだった。不戦か、参戦か、狐か、狸か。戦場に陣を張ってもまだ迷っている。最強軍団島津もそうだ。「参戦せず。ただし、攻撃してくる軍は撃破する」。山上に留まり傍観に終始した。狸の東軍七万に対し、狐の西軍十万。だが、西軍で実際に戦ったのは三分の一に過ぎない。欲得に目ざとい黒田長政(官兵衛の息子)が、陰で西軍の切り崩しに暗躍した。その上、小早川秀秋の裏切り、これが決定打となった。狐、石田三成。狸、徳川家康。「義」が破れ、「欲得と保身」が勝利した。時代が変わっても、人間は変わらない。残念だが現代でも、「義」よりも「欲得と保身」のほうが強い。人間は、悲しい生き物だ。家康の勝利で世情は劇的に変化した。太平の世が実現した。260年にわたる徳川江戸文化は、後世に絶大な影響を及ぼしている。面白いことに、毛利(長州)と島津(薩摩)は後年、徳川に報復の牙を剥き、積年の関が原の恨みを晴らして歴史を変えた。幕末だ。歴史は、「過去と現在と未来の対話」だ。その大河は、途切れなく今日も明日も流れる。

■河の物語・鳥編 ■2016年1月15日 金曜日 15時0分16秒

もしあなたが幸運にも、風のような気ままな時間が半日でも取れたら、この河原で過すことをおすすめする。なにももたず手ぶらで、仕事や家庭の重荷を肩から下ろし、駅前のコンビニで缶ビール2・3本と軽いスナック菓子、あるいはサンドイッチを買い、ふらりと堤防を越えるといい。幸運なあなたは、暖かい陽射しを浴びて輝く広大な自然と、滔々と流れる大河と、そこに息づくさまざまな生命にめぐりあい、目を見張って息をのむはずだ。さあ、大きく深呼吸してゆっくり土手を下り、生い茂る雑草と小石混じりの砂利を踏み、岸辺の座りやすい石を見つけて腰を下ろすといい。
幸運なあなたがまず出会うのは、この一級河川を根城にする鳥たちだ。彼らの姿は、きっとあなたの心に清々しく映るはずだ。生きることに純粋で、真っ直ぐで愛らしく、見るものの心が洗われる。たぶんあなたは、ものの10分もしないうちに頬の力が抜け、小さな笑みを浮かべるにちがいない。ざっと見て、この河には15種類以上の野鳥が暮らしている。からだの大きい順に、コブハクチョウ、白サギ、青サギ、トビ、チョウゲンボウ、カモメ、カラス、鵜、鴨、オオバン、カイツブリ、鳩、ヒバリ、カワセミ、セキレイ、スズメなどだ。中でも、コブハクチョウに出会えれば、これほどの幸運はない。雪のように白い姿は、まるで絵のように美しい。くちばしが赤いのは、成鳥のしるしだ。幼鳥のくちばしは灰色だ。からだは大きく重いが、泳ぐのに適した優雅な流線型、首はやわらかく、長く、泳ぎながら疑問符のような形に曲げたり伸ばしたりする。
河原幅は約400メートル、流れ幅は約150メートルから200メートル、対岸にいてもコブハクチョウの白い姿は目に入る。大河の流れもものともせず、オオバンやカイツブリを従えて、悠々とこちら側に向かって泳ぎ寄る様子は女王様さながら、映画ローマの休日のオードリー・ヘップバーンを想わせる。短くて太い脚の推進力は相当なものだが、水中で脚を動かしているようにはまるで見えない。すいすいとなにくわぬ顔で移動しながら、ときどき長い首を水に入れ、水生植物を食べる姿も優美だ。女王様は、この河に居ついている。季節が変わっても、他に移ることがない。皇居のお堀からきたという噂もあるが、どこからきたのかはだれも知らない。皇居からきたのなら、本当に王女様だ。
必見は、トビとカラスの必死の空中戦だ。トビは、アカトビ。体長約60センチ。上昇気流に乗って他の鳥たちの遙か上空を、地上を見下ろしながら悠々と輪を描く。からだ全体は褐色、頭部が青白く、翼や尾に薄茶色が混ざっている。カラスは、ハシボソガラス。体長は約50センチ。トビよりひと回り小さいが、空中戦では圧倒的にカラスに分がある。トビの後方にぴたりとついて離れない。トビが嫌がって振り切ろうと旋回するが、カラスの旋回性能がはるかに勝り、いつまでも振り切ることができない。たとえが古いが、米軍のB29爆撃機に襲いかかる日本のゼロ式戦闘機だ。この両者は生息範囲が重なり、餌も共通のものが多いから戦うのだ。後方からの攻撃を続け、ついにトビを自分の縄張りから撃退したカラスは電線で疲れた羽を休め、得意そうにカアと啼く。この見ごたえのある空中戦を、ぜひごらんいただきたい。カワセミと出会えれば、大きな幸運だ。大河の本流ではなく、緑の密集した小さな流れ込みにいる。体長15センチと小さく、動きが早い。おまけに人間が嫌いと見えて、かんたんには寄せつけない。それならこんな都市部の河にくるなよ、といいたいところだが、なぜか数匹居ついている。からだに比べて頭が大きくてバランスはよくないが、瑠璃色の美しい姿は河岸写真家たちの憧れの的。枝の上から一気に水中に飛び込み、小魚をくわえて飛び上がる瞬間が、シャッターチャンス。たまに失敗して獲物を取り逃がしてしまうが、そんなときの照れくさそうな姿がたまらなくいじらしい、と女性写真家がいっていた。季節がよくなって、あなたに時間ができたら、ぜひ彼らに会ってほしい。
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■東方に、黄金の国あり。 ■2016年1月15日 金曜日 14時19分22秒

東の空を染めて初日が昇る。一年の豊作を祈り、人々の息災と世界の平和を祈る歳神が、初日とともに光臨する。日本古来の歳神は、日本の崇高な精神が生み出した固有の神だ。世界のどの国にも、固有の文化がある。古代中国の人々は、東方の海にユートピアがあると、強い憧れをもった。悠々たる大河の無限の水をことごとくそそいでも、いっこうにあふれ出ることのない、はるかなる東方の海。「水は東に流れて溢れないが、そのわけを誰が知ろう」。詩人屈原も神秘の想いでそう詠んだ。西高東低、日本の冬の気圧配置と同様に、アジア大陸の地形は、西が高く東が低い。西には、世界の屋根といわれるパピール高原がある。その大高原を中心に、ヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、崑崙山脈が東西にはしり、アルタイ山脈、天山山脈が東北につらなっている。地球の回転がもたらす偏西風は、疾風となってアジア大陸を駆け抜け、地球が不変の回転を続ける限り、永遠に東方の海へと向かう。一年の始まりを告げる太陽が、歳神の宿る光を世界に投げかけるのは、永遠に東方の海からだ。
伝説によれば、秦の始皇帝は、不老不死の妙薬を求めて、三千人の使者を東方に向かわせたという。孔子は、論語の一節でこう言った。「わたしの理想とする道徳は、この世に実現しそうもない。筏に乗って東の海に行きたい」。東方の海には、憧れのユートピアがある。夢と希望にあふれる日出る国、黄金の国、ジパング。それはもはや伝説となり、過去のイメージに過ぎないのかも知れない。だが、太陽は当時と変ることなく東方の海に昇り、アジア大陸の東端に位置する日本は、当時のままに日出る国だ。伝説のイメージこそ、日本の精神的ルーツであり、日本文化の出発点だ。同時に、いまだ日本の精神の支柱として、多くの人々の心に残っている。それが、国の基だからだ。現実主義に徹した孔子でさえ憧れた夢と希望にあふれる国、日本がいま、時代の潮流に翻弄され、なにか大切なものを見失っているかに見える。北極星を見失った船のように、めざす星を見失っている。星を見失った船は、出発点の港をめざす。それが最良にして、唯一の方法だ。いまこそ出発点である日本のルーツ、精神の支柱を思い起こす時だ。振り返れば、昨年は、日本も世界も多くの問題を積み残した。それぞれの国、それぞれの人が、固有の文化をもっている。固有の文化は、それぞれ異なる固有の価値をもつ。異なる固有の価値は、互いにぶつかり合う。当たり前のことだ。国と国、人と人の間には、溝があるからだ。人間とは、人と人の「間」を意味する。世間とは、世の中の「間」を意味するという。「間」とは、違いであり、異なる価値のことだ。「間」があって当たり前、溝があって当たり前、ぶつかるのは当たり前だ。問題は、ぶつかったらどうするか、どう解決するか、である。戦争もテロも、問題の解決にはならない。むしろ、さらなるぶつかり合いを生み、溝を深くし、最悪の事態をもたらす。溝を埋めるのは、お互いに欲をぶつけ合うのではなく、それぞれが知恵をしぼり、勇気をもって、お互いを「思いやる」ことだ。問題の解決は、相手に対する「思いやり」だ。明鏡止水。自分の欲を捨て、素直な心と目で見れば、相手の心が見えてくる。相手の欲や、目的が見えてくる。心の鏡に映る。それが、欲なのか、正義にもとづいた、みんなのための正しい目的なのか、明快に見えてくる。それが見えなければ、解決の糸口がつかめない。明鏡止水の心で、誠心誠意相手と向き合う。理解できなくても、お互いを認め合う。そこから始める。もはや日本には、伝説の黄金もなければ、伝説の妙薬もない。だが、それにかわる知恵がある。勇気がある。「思いやり」がある。夢と希望の国、黄金の国は、健在だ。初日の歳神に手を合わせ、一年の豊作と人々の息災と世界の平和を祈りながら、今年が始まった。新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
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■時代は、なにを友厚に求めたのか。 ■2016年1月15日 金曜日 14時13分17秒

幼少期から、薩摩の徹底した教育を受けた。好奇心の強い少年だった。ある時、世界地図を見て驚いた。わがもの顔で世界を闊歩するイギリスは、日本と同じような小さな島国ではないか。驚くと同時に不思議だった。イギリスは、なぜ、これほどの力を持っているのか。その力は、どこから沸いてくるのか。どうすれば、この力を手に入れることができるのか。少年の目はイギリスを見つめ、世界を見つめた。きっかけは、父から世界地図を写す作業を命じられたときだ。薩摩藩主、島津斉彬から命じられた父が、その仕事を14歳の息子に頼んだ。息子は、殿に献上するものと自分用のものと、二枚の地図を創り上げた。それをもとに地球儀まで創り上げてしまった。地球儀を見ながら、次々に植民地を獲得して世界に拡大するイギリスの正体を知りたかった。息子の名は、五代友厚。NHKの連続ドラマ「あさが来た」に登場する実業家である。人がなにかを成し遂げるには、なにが必要なのだろうか。時は、幕末。友厚は、薩摩藩主、島津斉彬に仕えた武士。斉彬は、大きく大らからな心、時代を見抜く目、物事の判断力、すべてに優れた藩主だ。あの篤姫の養父となり、篤姫を将軍の妻とした手腕の持ち主だ。下級武士だった西郷隆盛や大久保利通の才能を見抜き、要職に抜擢したのも斉彬だ。友厚の才能を見抜いた斉彬は、彼を長崎の幕府の海軍伝習所に留学させた。当事は、藩から外に出るなどとんでもない時代だった。龍馬も、江戸に行くのに脱藩しなければならないほどの時代だ。才能のあった友厚もえらいが、その後の友厚に活躍の場を開いた斉彬がえらかった。いい殿様との出会いが、彼を大人物に仕上げた。長崎では、勝海舟と出会った。榎本武揚と出会った。後に日本赤十字を創設した佐野常民と出会った。イギリス商人グラバーと出会った。人生は、人との出会いだ。いつ、だれと、どこで、どのように出会うか。それが人生を決める、といっても過言ではない。それが運だ。強運の持ち主は、いい人材と出会い、自分の道を大きく開く。運の悪い者は、いい人材を見逃しているか、出会っていない。そういうことだ。それには、出会う相手が自分にどう影響を与えるかを見抜く力が必要だ。薩摩に生まれ、斉彬と出会い、勝海舟と出会った。海舟との出会いが、坂本龍馬との出会いにつながった。開国・貿易・留学生の派遣による、日本の富国強兵を目指す。まず、薩摩に力をつける。目標がはっきりした。教育、才能、人との出会い、目標、なにかを成し遂げるには、これらが必要だ。そして、行動だ。イギリスに出かけて、時代の先端を学ぶ。ベルギーを見、フランスに赴き、世界を学ぶ。時代を拓く力、世界に負けない力がなんであるかを知る。帰国し、グラバーの助けを借りて、薩摩藩の軍艦を購入するために奔走する。上海に渡り、四万両で大型汽船を購入する。この四万両を借りるために大阪に行き、あさと出会った。四万両は、あさの姉はつの嫁ぎ先から借りた。事実かどうかは不明だが、話ではそうだ。航海技術に優れた友厚は、幕府の大型汽船千歳丸で長州の高杉晋作と同船する。薩長同盟で、坂本龍馬、高杉晋作、桂小五郎、井上馨らと会う。海舟の頼みもあって、坂本龍馬の海援隊のために汽船を調達する。竜馬の経済力の後ろ盾となって株の知識を駆使し、日本最初の株式会社亀山社中の創設に尽力した。戊辰戦争では、西郷隆盛、大久保利通らとともに活躍し、徳川幕府を壊滅させた。明治新政府では、外国事務掛を勤め、その後、大阪の府判事を勤め、紡績業、鉱山業、製塩業など、大阪の経済復興に貢献した。大阪証券取引所を設立。三井商船の前身である大阪商船の開業に貢献し、南海鉄道の設立にも貢献した。この間、日本初の英和辞書を刊行した。教育、才能、人との出会い、目標、行動。それを支える、強い信念。幕末という革命の時代の求めに、友厚は強い信念で応えた。いまという時代、幕末と酷似していないか。出て来い、平成の友厚。
■コロンボのやり方。 ■2016年1月15日 金曜日 14時12分19秒

コロンボは、フルネームを言わない。「わたし、ロスアンゼルス警察コロンボ刑事です」としか言わない。だから、フルネームを知る者はいない。ところが、69話中に2回だけ、ポケットから出した警察手帳がアップで写され、フルネームが見えた。「フランク・コロンボ」。それが、フルネーム。これを知っているあなたは、かなりのコロンボ通だ。彼は口癖で、「うちのかみさんが、うちのかみさんが」としきりに言う。だが、誰ひとりとしてコロンボのかみさんの姿を見た者はいない。あるパーティで、「うちのかみさん、見なかったですか」とかみさんをさがして、コロンボがウロウロするシーンがあって、「初めてかみさんの姿が拝めるぞ」とテレビ画面に顔を押しつけたが、結局登場しなかった。背が低く、がに股、ロスアンゼルスだから寒くもないのにいつもよれよれコート、クシャクシャの髪、おんぼろのプジョー。名前のない太目のイヌを重そうに抱えている。真っ直ぐに相手を見る澄んだ眼差しは、どんな小さなミスでも映し出す。少年の無邪気と好奇心。横を向いたり、後ろを見たり、頭を掻きながらウロウロ歩いたり。その愛すべきキャラクターで、犯人の鉄の鎧を少しづつ剥がしながら、じわじわと追いつめる。コロンボのドラマを始めるとき、スタッフはこう思ったそうだ。刑事ものは有名俳優を犯人に起用するから、視聴者にすぐわかってしまう。面白くない。よし、それなら初めから犯人がわかっていて、犯人の完全犯罪を、コロンボが違う視点で、小さなアリの穴から崩すようにポロポロ崩してゆく。これならどうだ。そう考えた。これはミステリー小説の倒叙物と呼ばれる形式で、古畑任三郎が同じ手法をとった。コロンボのこのやり方は、広告づくりやコピーライティングに、役に立つ。広告づくりやコピーライティングは、犯人ではなく、初めに成功のイメージを目標として描く。売りたい商品に、人々がどこでどのように押し寄せるか。そのシーンを想像する。どんな人が、どんな笑顔で商品を手にするか。その幸せな表情を描く。その成功のイメージが描けなければ、コロンボのやり方はできない。目標となるイメージを描いたら、あとは、あらゆる方向のあらゆる手がかりをじわじわとさぐり、目標に一直線に向かう。会話においても、真っ直ぐに相手を見て、透明な目と心で、どんな小さなものでも写しこんでいく。ときにはそっぽを向いたり、目を閉じたり、真剣に慎重に相手のことばを聴き、吟味し、わずかなヒントでも逃さない。どんな細かいことでも気になったことは、「そこがどうも気になるんです」などと、相手に確かめる。1ミリ、2ミリ、じわりじわりと目標に向かう。じっくりと丁寧に。この忍耐、このしつこさが広告づくりには実に役に立つ。もちろん、われらは刑事じゃないし、犯人さがしではないから、相手に嫌がられてはいけないが、物づくりには、この忍耐、このしつこさが必要だ。ある若い広告マンと話していた。「どうも相手の要望が明確に伝わってこない、相手の言うことがころころ変る」と嘆く。「待てよ。コロンボ会話を試してみたらどうだ」と提案する。根掘り葉掘り、相手が嫌がらない程度に質問をくり返し、確認し、相手の真意を導き出す。「コロンボのやり方、使えるぞ」。そう言い、「メモを忘れずに」と念を押す。「やってみます」。やがて、「前よりずっと深い会話ができた。相手の言いたいことが正確に理解できました」と頷いた。シャーロック・ホームズは、大胆な仮説に基づき拡大鏡を持ち出して絨毯の目をさぐるような捜査をする。真似てみたいが、ホームズは天才、その推理力にはとても頭がついていかない。その点コロンボは、事実の追及が基本だから、これは真似ができる。最近、「コミュニケーションがうまくいかない」という風潮だが、会話が軽く、浮ついて、真意が伝わらないのだ。みんなでコロンボになりましょう。ちょっとくどいけど。
■鎌倉に憧れて ■2015年10月29日 木曜日 15時7分22秒

雨が降るとスバナ通りをぶらぶらと下り、江の島駅から江ノ電に乗って鎌倉に出る。その頃、毎年夏の二ヶ月間を、江の島東浜海水浴場の海の家でアルバイトをしていた。海の家は、雨が降ると休みである。一日ぽっかりと時間が空く。勉強は嫌いだが本が好きだったから、文庫本を数冊もって鎌倉に行く。藤沢に出て映画を観ることもある。江ノ電に乗ったまま鎌倉藤沢間を、本を読みながら一日中行ったり来たりしたこともある。江ノ電が図書館だった。鎌倉駅を降りると、小雨に煙る小町通りをぶらつく。行きつけの喫茶店が、小町通りを入ってすぐの角を左に曲がった所にあった。大きな観葉植物が、入り口の半分を隠している。人目を避けるような白い小さな喫茶店だ。カランとベルを鳴らして扉を開けると、コーヒーの芳しい香りがプーンと鼻をついて迎えてくれる。いつも一番奥の窓際の席に座り、淹れたてのコーヒーを飲む。厚切りトーストとハムエッグとサラダのモーニングセットを食べる。窓を叩く静かな雨音を聞きながら、本を読む。くたびれてぼろぼろになったヘミングウェイの「老人と海」を取り出し、ページをめくる。文章のあちこちにボールペンの赤い線がひいてある。感動した箇所だったり、重要と思った部分なのだが、後になって見ると、なんで赤い線をひいたのかわからない文章もある。ページの上下と横の空きスパースに、感想文がびっしりと書き込んである。何百回も読んでいる本なのだ。スペインの闘牛を書いた「午後の死」や、アフリカの草原に象を追う「アフリカ物語」もナップザックに入っている。時々聞こえてくるザザーッという音は、海岸に寄せる波の音だろうか、国道を走る車の音だろうか。「雨が降ると、あなたがくるのが楽しみですよ」と、オーナーの譲二さんが、コーヒーのお代わりをもってきてくれる。「お客さんもいつもの半分だから、楽ですし」。そう言って笑う。銀色の髪、糊のきいた真っ白いワイシャツ、赤い蝶ネクタイ、深い海の色をした目がやさしい。60歳を過ぎているだろうか。日本人ではない。譲二さんの時間は、都会と違って、鎌倉の時の流れと合わせたように、ゆっくりと流れるから嬉しい。故郷に帰ったように、ほっとする。譲二さんもヘミングウェイがご贔屓だ。「若いパリ時代がいいです。いかにも新聞記者らしい硬質な文章が、ガートルートスタイン女史に磨かれて、少しマイルドになった頃ですね」。そう言って「移動祝祭日」を貸してくれた。ヘミングウェイの骨太のストーリー、ハードボイルドな文体は、強いウイスキーのように酔わせてくれる。それも、オンザロックでも水割りでもない、バーボンウイスキーのストレートである。ウイスキーに飽きると、立原正秋の本を取り出す。鎌倉といえば立原正秋である。彼の本は、極上の日本酒だ。「薪能」「花と剣」「花のいのち」。しっとりと丁寧に醸し出す文章のコクの深さ。そのくせ、口あたりは爽快だ。潔い喉ごし。小気味よい切れ味。立原の文章は、小雨のそぼ降る鎌倉によく似合う。しなやかさが心に沁みる。頼朝以来の時の厚さに負けない強靭さが、行間に秘められている。それは、立原が真のサムライだからだ。朝、原稿用紙に向かいながら一升の酒を飲み干し、夕刻、ふらりと着流し姿で砂浜に立ち、海風に吹かれて目を細める。そんな立原が、目に浮かぶ。鎌倉文士といえば川端康成よ、という女性がいた。出版社に勤める女性だから、作家を見る目はたしかだと思うが、当たり前過ぎて面白くない。それよりも、「鎌倉なんかに越さないで、伊豆にいれば死なないですんだのに」と言った、伊豆の旅館の女将のことばが強く印象に残っている。川端が、執筆のために滞在した旅館で、すぐ横を流れる谷川は、前日までの雨のせいか激しく流れていた。あれから何年の時が過ぎたろうか。いま、都会の片隅で、ヘミングウェイの本よりもぼろぼろになったわが身を顧みながら、わたしの耳は、鎌倉のそぼ降る雨音をさがしている。あの小さな喫茶店は、まだあるだろうか。譲二さんは、いまも、コーヒーを淹れているだろうか。
■村さんは、自由が欲しかった。 ■2015年10月14日 水曜日 13時37分26秒

渋谷駅西口、いつものバス停でバスを待っていると10メートル向こうの喫煙エリア脇で手をふる者がいる。村さんだ。村さんはホームレスだ。年齢は50代半ば。ホームレスになって半年、「まだ新人です」と、ふっと笑う。静岡で小学校の教員をしていたが、昨年の暮れ突然辞めた。自分から辞職したのか、なにかの理由で辞めざるを得なかったのか、それはわからない。学校を辞めると同時に、家と奥さんと二人の娘を捨ててホームレスになった。若き日、一流の国立大学で教職課程を取った。日本の教育を担うという壮大な夢を抱いて教員になった。小学校をいくつか巡り、情熱をこめて教鞭を取った。やがて、教頭にまでなった。だが、挫折した。雨が降りそうだ。街には霧が立ちこめ、見上げる超高層のホテルの最上階は、白い闇に溶けて見えない。風はない。街路樹の葉もすっかり寝込んでいる。時計を見ると10時を回っている。最終バスは、11時5分。まだ間がある。村さんは、手にしたワンカップを二度三度とふり、「一杯やりません?」と、顔をくしゃくしゃに崩して笑いかけてくる。奥まった目がさびしげだ。そう、村さんはいつも目がさびしげだ。無精ひげを生やし、青いニット帽を被っている。汚れたベージュ色のジャケットを身につけ、黒いズボンを履いている。「自由になりたかった。それだけです」。ホームレスになった理由は言わないけれど、以前、そうつぶやいた。「わかる気もする。でも、村さんの言う自由ってなんだ?」。そのとき、わたしは尋ねた。自由の解釈は、むずかしい。わたしも明快な解釈を知らない。「いつも生徒のことで頭がいっぱいだった。パンクしそうだった。いじめはいつまでもなくならないし、母親たちは勝手なことばかり言ってくる。そうなんですよ、子どもより、母親のほうが勉強不足なんですよ。そのくせ自分が正しくて学校教育が悪いと思い込んでるから、始末に悪い。教育の根本は家庭ですよ、そんなの当たり前です。それを先生のせいにする。たまりません。家に帰っても、そんなこんだが頭から離れない。気が休まることがない。翌日の授業の予習をしなければならないし、テストや宿題の採点もしなくちゃならない。寝る暇さえなかった。勉強もしたかった。本も読みたかった。そのうち、家が窮屈でやりきれなくなりました。妻の言うこともいちいちしゃくに障る。嫌ですね、先生なんて、割に合いません。なるもんじゃないです。とにかく自由がほしかった」。そこで、一息入れると村さんは言葉を継いだ。「でも、わたしのいう自由は、ほんとの自由じゃない。単なる逃げです。解放です。仕事や家庭の束縛からの解放。カントが言うように、自由になりたいと願望したときから、自由に束縛される。それは結局ほんとの自由ではないという。その説からすれば、ホームレスになっても、わたしは自由ではないのです」。村さんは、さびしげな目を空に向ける。「わかるよ、おれも家が窮屈だと思う。いっそのこと家を出たいと思うときがある。でも、村さんの言うように、ホームレスになったって自由じゃないと思う。自由とは、そんなものじゃない。もっと心の深いところにあるもの、哲学的なもの、宗教的なものだと思う」。わたしたちは、歩道橋の脇に座ってワンカップを飲んでいる。寒くはない。家路を急ぐ人影もまばらだ。坂本龍馬は、デモクラシーという言葉を民主主義と訳さずに「自由」と訳した。「自由」とは、「自らを由となす、自分が法であり、自分が正しい」ということだ。驚くほどしたたかな言葉ではないか。くるべき新しい時代を、明治という年号ではなく、「自由」という年号にしたいと思ったという。そうなれば、明治時代は自由時代となっていたわけだ。「自由。自らを由となす。自分が法。自分が正しい」。そう考えると、簡単に「自由」という言葉は使えない。自分が法だと言えるほど、わたしは勉強を積んでいない。自由とは大変だ。それはそうと、妻がいっしょにいるときは、わたしに声をかけるなよ、村さん。
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■テクテク、ニコニコ、パクパク。 ■2015年9月24日 木曜日 12時49分32秒

あれは、いつ頃だったろう。早い春だ。妻の両親と津久井の旅に出た。義父は、80歳を越えていた。津久井湖で、釣り客が利用する船宿に泊まった。湖畔の朝は清々しい。散策の後、湖を臨む食堂で朝食を取る。95歳の女将が給仕をしてくれる。女将と義父は、輝く湖面に目をやりながら、終始愉快そうに昔話に花を咲かせた。女将が言った。「いいねえ、あんたは若くって」。95歳が80歳にそう言い、二人が笑った。津久井の朝の清涼感と二人の笑顔が、いまも心に残る。平均寿命とはちがって、健康寿命ということばがある。2014年の日本女性の平均寿命は、86.83歳。男性の平均寿命は、80.50歳。なるほど、世界に誇る長寿国だ。ところが、健康寿命となると10歳以上も下がってしまう。健康寿命とは、「日常生活に支障のない程度に、日々健康に生きること」だ。この10歳以上の差はなにかというと、病気治療や介護が必要な高齢者が相当いるということだ。高齢化のすすむ日本、平均寿命も大切だが、健康寿命を延ばすことが大切だ。明るく健康に、生涯をまっとうする。本人ももちろんだが、家族にも、それが幸せだ。先日、9月5日に100歳を迎えた石井歌子さんと会った。「100歳を迎えるなんて、そうそうあるものじゃない。ましてや、100歳で起業するなんて、これは感動ものだ」。友人の松井健太氏が、そう言って唸った。「100歳の起業家と、会ってみないか」。まさに健康年齢のお手本、鑑である。父が生きていれば、今年100歳になる。同い年だ。「会いたいですね」。初夏の日、歌子さんのアトリエのある飯田橋に向かう。歌子さんは、「手編み工芸」のアトリエをもっている。東京大神宮の近くだという。風薫る朝だ。陽ざしがやわらかい。飯田橋は、新旧が当たり前のように調和する魅力の街だ。北ヨーロッパ風のおしゃれなカフェと、古く懐かしい昭和の喫茶店が、肩を寄せ合う。地中海風レストランの隣で、中華そばの赤いのれんが風に揺れる。この街は、徳川家康の命名だ。千代田区の千代田も、家康の居城千代田城からもらったものだ。家康パワーを感じる。キョロキョロと歩をすすめるうちに、陽のあたる坂道に東京大神宮の緑の森が見えた。東京大神宮は伊勢神宮の東京支社で、小さいが威風堂々、荘厳である。縁結びの神としても評判が高く、平日だというのに適齢期の娘さんたちの姿が目立つ。歌子さんのアトリエは、東京大神宮の緑と道一本を挟んで隣接している。歌子さんが、玄関に迎え出てくれる。「おはよう、いい朝ね」。笑って言う。「コーヒーがいい?お茶がいい?」。アトリエの中を、あっちに行きこっちに歩き、歌子さんが自ら接待してくれる。「下町で生まれたの」。歌子さんが話す。1915年の卯年生まれ、「ツキに向かってジャンプするウサギ、縁起がいいの」。甲子園の高校野球が始まった年、宝塚歌劇団誕生の年だ。関東大震災も太平洋戦争も、「無事に切り抜けてきたわ」。笑って話し、話して笑う。「恐かった、防空壕に逃げ込んだの」。明るい。下町職人の父のすすめで、お花、長唄、裁縫を習った。「学校の勉強は嫌い、習い事のほうが好き」。センスがいいのは、習い事のおかげだ。神宮前にも住んだ。小平にも、結婚して瀬戸内にも住んだ。どこでもいつでも、明るく元気だった。笑顔にもいろいろあるが、歌子さんの笑顔は、まわりの笑顔を誘う。勇気をくれる。「街を散歩しましょうか。いつもの道」。いっしょに飯田橋を歩く。教会がある。右手の向こうには、靖国神社がある。「歌子さん、いい天気ですね」。「歌子さん、おはようございます」。行き交う人と、手を振りながら挨拶を交わす。ほのぼのしてくる。穏やかな時が流れる。九段下の手前で折り返し、駅方面に向かう。散歩は、毎朝欠かさない。よく歩く。よく笑う。よく食べる。「豆が好き。毎日食べるの」。近所の医者が、「長生きの秘訣を教えて」と、真剣な顔で尋ねたと聞く。テクテク、ニコニコ、パクパク。健康寿命の秘訣は、これだな。石井歌子さん、すてきなパワーをありがとう。
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■純喫茶「十字路」 ■2015年9月2日 水曜日 10時37分41秒

純喫茶「十字路」。多摩川の風に吹かれるその店は、昭和の落とし物だ。登戸にある。真剣に探さないと見落としてしまう。看板の純喫茶の文字がいい。懐かしの昭和だ。純喫茶も、いまは死語だろう。ぼくの学生時代には、「白鳥」とか「田園」とか「ジロー」があった。そうそう西武新宿駅前には、歌声喫茶「灯」があった。「雪の白樺並木夕日が映える、走れトロイカ軽やかに粉雪蹴って」。大学生が指揮を取っていたけれど、あれってロシア民謡だから、彼らは左翼系だな。ぼくは高校生で、左翼でも右翼でもなく、仲よくだった。登戸という地名は、古代からあった。古代って奈良時代以前だ。凄いね。聖徳太子が、「よう妹子、登戸に行こうぜ」なんて小野妹子に言っていたのだ。この地名、千葉にも埼玉にもあって、河原から丘陵地への登り口、その地形から登戸と名づけられた。時の彼方からやってきた「十字路」は、大型トラックが走る古い街道の、まさに「十字路」にある。だから、まんまの名前だ。ぼくらは、多摩川で鯉を釣った帰り、反省会のために「十字路」に寄る。ぼくらとは、ぼくと釣りキチ松っちゃんだ。松っちゃんは、松岡という苗字だが、下の名前は知らない。今はちがうが、もとは照明技師、ライトマンだ。ステージ上の芸能人を美しく浮かび上がらせる仕事。「美空ひばりなんか照らしたもんね、わーい」と胸を張る。(たしか美空ひばりだったと思うが、ちがったかな)。鯉が釣れても釣れなくても、ぼくらは、行く。鯉釣りの先輩の有村さんが、「あそこ、昆布茶をサービスでくれるよね」と、言った。「えっ、飲んだことないな」。松っちゃんと顔を見合わせる。「よし、こうなったら昆布茶を飲めるまで通おうぜ」。意地になって2人で通う。通りの反対側にマックがあって、100円コーヒーがあるのに、コーヒー500円の「十字路」に行く。マックのコーヒーなら5杯飲めるのに、ぼくらは、「十字路」に通う。意地だ。「昆布茶が出るまで通おうな」。なんだかマダムの作戦に乗せられたような気分だが、もう後には引けない。それより、こてこての昭和が嬉しい。「昭和尋ね人」のぼくとしては、とにかく落ち着くのだ。入り口の自動ドアは、踏んづけて開けるタイプ。ガンガン踏まないと開かない。万一行こうと思う人は、足に怪我をしないように注意してほしい。あるいは体重の重い奥さんといっしょに行ったほうがよい。入り口脇に古いショーケースがあって、中に昭和40年のオープン当事から置いてある作り物のナポリタンが、ほのかにほこりっぽく客を迎える。ドアが開いたら、段差があるからご注意を。無事に中に入れたら、右側に長いカウンターがあるから、むかし美人のマダムと話したい人は、カウンターに座るとよい。小柄で、穏やかな、品のいいマダムだ。(早く昆布茶、ちょーだい)。左側に4人掛けのテーブル席が、奥に向かって並んでいる。大きなガラス窓から街道が見える。その向こう側に100円コーヒーのマックが見える。一番奥のテーブルが、ぼくと松っちゃんの指定席だ。指定席は、予約しなくても空いている。ぼくら以外に客はいつも1人か2人、この前3人もいてびっくりした。客も、開店当事からの常連で、店同様に古色蒼然。近くに住む釣り仲間の板前職人、川崎さん夫婦も常連で、夫婦仲良く手をつないでコーヒーを飲みに行くと聞いた。茶色の革のシートがいい。破れて白い中身が飛び出しそうだが、ガムテープがビシッと二重に貼ってあるから大丈夫。巨大なダイキンのクーラーがいまにも爆発しそうに悲鳴を上げている。有村さんが、「あのクーラー、強と弱しかない、調節できないのよ」と、教えてくれた。あまりうるさいので、壊れているのかと思った。日活俳優、マイトガイ小林旭が「十字路」という歌を高い声で歌った。「あきらめてあきらめてもう泣かないで、お別れのお別れのクチヅケしようよ、あああ深い深い深い霧の中、すみれの色の灯がひとつ、灯る十字路」。いいなあ、これが昭和だぜ、登戸バックトゥザフューチャー、松っちゃん、来週も行こうな。
■くずれても、なお美しく。 ■2015年9月2日 水曜日 10時35分21秒

テレビのバラエティ番組が目につく。スタジオでのクイズ番組、お笑い芸人のドタバタ番組、旅番組、美味しいものの食べ歩き。それらをチャンネルをとっかえひっかえ眺めている。女優でも歌手でもない、いわゆるテレビタレントと呼ばれる女性たちや、局アナつまりテレビ局のアナウンサーたちが出演することが多い。映画宣伝のためにいまが旬の人気俳優が出演したり、新曲キャンペーンのために売れっ子歌手が登場することもある。かつて人気のあった俳優、いまはむかしのアイドルの懐かしい顔を見ることも多い。彼らの救済番組と思えば、それはそれで有意義なのだ。いいことだ、とニコニコしながら見ている。テレビ局にしても、むかしほど高額なギャラを必要としないから、都合がいいのだ、などと他人の財布まで心配する。NHKはともかく、民放に至っては制作費の削減削減で、いかにも安づくりの番組が増え、テレビの文化度は下がる一方である。さて、バラエティ番組だが、出演者が、いかに演技することなく素の人間性を発揮できるか、が重要となる。素の魅力、本人の本質的魅力が問われる。どのみち番組内容は、さっきも言ったように、井戸端会議や楽屋話のような、どうでもいいようなものばかりだから、そのなかで、どう自分を魅力的に見せるかが勝負である。相手を思いやる暖かい会話のできる人が好きだ。出演者の本質的な魅力、豊かな人間性に触れると嬉しくなる。相手の話を聞くときの態度、表情を見ていると、その人の人間性は見えてくる。ことばの端々に品格が伺われる。映画で主役を演じる女優が、バラエティ番組に出演した。素の状態になっても、「わたしって、美人でしょ」という顔をしている。化けの皮が剥がれても、「わたしって、えらいでしょ」という傲慢さが見える。100年の恋も一瞬にして醒めた。しまった、と思ったが後の祭り、その後、その女優の出演する映画を見なくなった。学芸会のようにワイワイ騒ぐだけのグループ歌手が、美味しいものの食べ歩き番組に出演し、われわれには手の出ないような高級料理をガツガツ食べる姿を見ると、「ああ、世も末だ」と愕然とする。こちらのニュースでは、アフリカの飢えた子に救済を、と叫んでいるのだ。日本は豊かな国だ、と思う前に腹が立ってくる。「なんで味もわからないガキに、こんなに高い料理を食わせるんだ」。嫉妬心も働いて、どうにも腹がたつ。嫉妬は、魂の不敗だ、と言ったのはソクラテスだが、ほっといてもらおう、わたしの魂は腐敗している、と開き直る。料理人も料理人だ。そのガツガツを嬉しそうに見て、笑っている。目立ちたがりにはテレビの威力はまだまだあるようで、テレビに出るというだけで、嬉しくなってしまうのだ。それもわかる。食べる行為は、人さまざまでこれが面白い。口を開けて、粘膜を見せるのは、恥ずかしい行為だ。そう言ったのは、井上陽水だ。なるほど、陽水は歌手なのに、恥ずかしそうに口を開ける。食べる行為には、品格の差が出る。美人不美人は関係ない。有名無名も関係ない。生まれ、育ち、教養、そんなあれこれが品格を形成するのだろうが、食べる行為には、それが如実に現れる。くずれても、なお美しく。人に見てもらおうという出演者は、できれば最低の品格をもっていてほしい。旅番組も、よく見る。鶴瓶が出ている番組。三宅裕二が出ている番組。綾小路君麻呂が出ている番組。楽しく見ている。とくに三宅裕二がいい。鶴瓶も面白いが、どんなに頑張っても、自分が出てしまう。登場する素人さんが、鶴瓶に負けてしまう。三宅裕二は、素人さんと見事に融和する。相手の話を無理なく活かす。真から興味を抱く。子どものように、自然に相手に同化する。これがキャラクターというものか。恐い。綾小路君麻呂も、まだ個性が邪魔をしている。素で生きてこそ、人は美しい。それには、自分をいかに捨てるか。いかに相手を思いやるか。品格が必要なのだ。自分のことを棚に上げて思うのだ。
■生命の尊厳、それにともなう悲哀。 ■2015年7月16日 木曜日 12時51分18秒

翼に傷を負ったイヌ鷲が、保護されて治療を受けた。治療の甲斐あって、日に日に回復した。ところが問題が一つ生じた。餌を食べないのだ。飼育員は頭を抱えた。傷は回復したが、めっきりと体力が衰えた。だがある日、ついに耐え切れずに餌を口にした。飼育員は、胸をなで下ろした。「もう大丈夫。大空へ帰そう」。専門医が飼育員に言った。そして晴れた朝、檻の扉が大きく開かれた。懐かしい大空と美しい緑の森を、イヌ鷲は見た。檻の中から、じっと見上げた。だが、その大きな翼を広げることはしなかった。大空と森を懐かしく見上げるだけだった。
それから数週間、二度と餌を口にすることなく、檻の隅にうずくまったまま、イヌ鷲は死んだ。「傷は治っていたのだが」。専門医は首をかしげた。飼育員はこう考えた。大空の勇者、イヌ鷲ほど誇り高いものはいない。人間の手から餌をもらい、口にしたあの瞬間、イヌ鷲は死んだにちがいない。イヌ鷲の誇り高き魂が、あの瞬間に死んだのだ。
曇りのない大空、純粋な森、清廉な川、それらの中へ、人間の文明に汚れた手から与えられた餌を一度でも口にした不純な自分は、もはや帰ることはできない。そう思ったにちがいない。生きる誇りを捨てたイヌ鷲は、自ら死を選んだ。そう思うと胸が熱くなった。生命の切なさが胸を打った。だが、動物は自殺をしないものだ。与えられた命を精一杯に生きる。一生を、迷いなく生き抜く。命とは本来そうしたものだ。熊も鳥も、野菊もタンポポも、細菌だって、命あるものはすべて、その命を全力でまっとうする。それなのに、人間だけが自殺をする。生物学上人間は、動物に分類される。だが、いつしか自分だけは特別な存在である、と恐るべき誤解が始まった。動物であることを忘れ、自分を神のように思い始めた。さらに悪いことには、人間は、人間だけの都合で生み出す理由で自殺をする。お金の問題、恋愛、裏切り、見栄、他人には取るに足りないが本人には深刻な人間関係。すべて人間が人間生活の中だけで勝手に踊っている。荒野の狼や草原の花々にはありえない理由で、人間は死ぬ。人間がもつ知性と理性は、他の生物にはないすばらしい才能だが、惜しむらくはこれを磨かない。磨かなければ、知性も理性もただの屑だ。知性や理性から生まれる品格こそ、人間社会には欠かせないものだ。わたしは、「動物度・人間度」という言葉を使う。動物であり人間である人間は、この両方を見事に使うことで優秀な生物となる。幸せはそこにある。まず、動物として、一生を力一杯生き抜く。そう決める。そして人間として、知性と理性を磨き、一生を生き抜く。「動物度・人間度」で重要なのは、バランスだ。必要なとき、必要に応じて発揮する。静岡県島田に友がいる。長年教職に携わり、校長まで務めた熱き教育者、名を暮林和宏くんという。大學空手道部の後輩で、聡明で野性味に溢れ、実に好感のもてる人物だ。なによりも物事を真っ直ぐに見る目と清廉な心が見事である。「先輩、いじめはなくなりません」。暮林くんは、送ってくれた教育論の中でそう言う。「大人の世界にいじめがある以上、こどもの世界だけなくせというのは無理な話です」。暮林くんとは、いじめの問題、教育論を交わす。日本には、仏教哲学がある。神道思想がある。武士道という世界に冠たる人間学がある。学ぶべき教材は豊富だ。だが、大人もこどももそれらを学ぼうとしない。大人たちは、こどものままで大人になる。口先だけが達者になる。その間も、テレビからいじめのニュースが流れる。担任の教師と学校は、責任転嫁に必死である。真っ向から問題に立ち向かうことをしない。逃げる。たしかにこれではいじめはなくならない。一人一人の生命をどう考えているのだろうか。生命の尊厳をないがしろにしていないか。知性も理性も感じない。品格もまったく感じない。生きることへの誇りと悲哀、生命の尊厳を、信州大町のイヌ鷲が教えてくれた。
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■拳の握り方 ■2015年7月16日 木曜日 12時50分22秒

今回は、大学空手道の現場からの報告です。空手は、「突き、蹴り、受け」の3つの根本技から、全身を武器とし、無限の技を生み出す戦闘技術である。攻撃は、手足を駆使する「突きと蹴り」が主となる。そこで、「拳」が極めて重要となる。ちょっと視点を変えてみる。わが国の武士たちは刀を磨きあげ、殺戮の道具である刀に高度な精神性を注入することで、「魂」にまで昇華させた。その結果刀は、武士道とともに、世界に誇るべき極めて優れた日本精神の象徴となった。世界のどこの国、どの民族を見ても、殺戮の道具を「魂」にまで昇華させたものはいない。世界に冠たる日本の精神性の高さが、刀には内包されているのである。空手において、「拳」こそが武士における刀と同等の立場にある。「拳」は、戦いを決する究極の道具である。そこで、空手に生きるものたちは、寸暇を惜しんで「拳」を鍛える。いま目の前の道場で、大学空手道部の学生たちが汗を流している。真っ直ぐに、目の前の仮想敵に向かって、拳を突き出している。「甘いぞ」。監督、コーチ、指導者の鋭い声が飛ぶ。「拳の握りが甘い」。鋭く、強く、何回も何回も指摘する。かつては時間が許す限り、巻き藁を叩いて拳を鍛えたが、いまではサンドバッグやミットを相手に拳を鍛える。「いいか、小指をしっかり締めろ。拳は、小指だ」。指導者が叫ぶ。拳の握り方はこうだ。まず、小指をしっかり締める。小指を締めたら、次は薬指だ。薬指は、小指に添える気持ちで握る。力は、どこまでも小指に集中させる。そして、中指、人差し指と順に握っていく。拳で敵の急所に当てるのは、人差し指の付け根の節骨と中指の付け根の節骨、それに人差し指と中指の第二関節、その四箇所だ。なかでも、人差し指の付け根の節骨を最も強く標的に当てる。中指の付け根の節骨も重要だ。だが、人差し指の付け根の節骨を最重要と考え、それを意識して拳を突き出す。親指はしっかり折りたたんで、人差し指の第一関節と第二関節の中間を押さえ、拳全体を硬く引き締める。拳全体の力は、小指にあることを常に忘れてはならない。これを忘れると、拳がゆるむ。甘くなる。石のように硬い拳、岩をも砕く拳は、拳ダコといわれる人差し指と中指の、鍛え上げて軟骨を潰して固め、硬いタコとなった付け根の節骨にあるが、拳の根本の力は、小指にあることを常に忘れてはならない。その上で、必要以上の力は抜く。また、拳を突き出すときに大事なのは、手首だ。手首の角度だ。突き出した腕の力のすべてがムダにならないように、手首は、上向いてはいけない。横を向いてはならない。曲がってはいけない。手首は、むしろ下を向くくらいに締めたほうがいい。突き出した腕の骨の最先端に直結して拳ダコつまり標的に当たる部分があると考え、真っ直ぐに、一直線に、一本の棒となるように意識する。丹田から発した力のすべてが、一切のムダなく、効率よく拳の先端まで速やかに移動し、拳の破壊力を最大にするのだ。このように武器としての拳を固めたら、次にすることは、拳に「魂」を注入することだ。くり返していうが、刀が武士の「魂」であるように、拳は、空手家の「魂」なのである。高い精神性を持たせなければならない。道場と大会以外、戦いの場以外では、拳は絶対に握ってはならない。孫子の兵法がいうように、戦うのは戦場だけであり、そこではなにがなんでも勝利に向かうべきだ。だが、人生における最善の勝利は、戦わないことである。それを肝に銘じる。直真影流免許皆伝の腕を持ちながら、刀の柄と鞘をガリガリと針金で巻き、絶対的平和主義を貫いた勝海舟に見習うのだ。拳の魂、それは、武士道にある「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」の7つのキーワードにヒントがある。これをしっかり学ぶことだ。拳の究極、最も重要なのは、「魂」であることを忘れてはならない。「拳が甘いぞ。小指を締めろ」。監督の声が道場に響く。窓の外の清々しい初夏の大空を、一筋の雲が北に流れる。
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■筑波山麓稲作紀行 ■2015年6月16日 火曜日 11時21分41秒

育苗は春4月、20日間かけて行われ、10センチに伸びた苗は、5月になると水を張った田に植えられる。ゴールデンウイークになるとあちこちで田植えが始まる。まだ幼い苗は、梅雨に晒され、熱い夏の陽射しをくぐり、気まぐれな風雨にも、乱暴な台風にも負けずにたくましく成長し、80日後に稲穂が出る。その後40日で刈取りだ。苗から始まって約140日をかけ、9月にめでたく稲刈りとなる。田植えがしたい。大地の神秘の生命を、直に感じたい。人間の論理が及ばぬ、もっとも原始的でもっともリアルな地球の生命を、この体で感じたい。茨城出身の妻に、田植えの手伝いができる農家をさがしてくれ、と頼む。また、気まぐれが始まった。妻は、仕方ないわねと苦笑し、「せっちゃんに聞いてみる。ほら、知ってるでしょ、二高の同級のせっちゃん、つくばの農家の」と言う。妻がせっちゃんと呼ぶ久保田節子さんの家は、つくば市松塚に代々伝わる大きな農家だ。手伝いというより、邪魔をしに行くようなものだが、どうぞという返事をくれ、ご主人も快く迎えてくれるという。都会に住む者には田植えは貴重な経験だ。子どもたちに農業体験が流行っていると聞く。大事なことだ。鯛もマグロもスーパーの裏の水槽で、切り身で泳いでいる、と子どもたちは思いこんでいる。そんな笑い話があるほど、生命の神秘やリアルな生命からどんどん遠ざかり、生命への感謝がどんどん薄れている。まさか米がビニール袋に詰まって空から降ってくると思っている子どもはいないだろうが、農家の苦労、苦闘を知る子どもはいまや少ない。息子にも体験をさせよう。5月の土曜日、息子と愛犬チュウとともにレンタカーで茨城に向かう。妻は、前日に荒川沖の実家に先に行っている。実家には、妻の長姉の妙子姉さんがいる。ご主人の茂さんは療養中だ。妙子姉さんの長女真実ちゃんがくる。長男基幸とつくばの彼の家で会う。基幸自作の優雅なテラスでコーヒーを飲む。目の前に田園風景が広がり、暮れなずむ筑波の夕景にまどろんでいると、突然雉の声に驚かされた。雉の声は水田をすべって驚くほど大きく響き、辺りの空気を切り裂いた。翌朝、せっちゃんの案内で田に向かう。筑波山を北に望み、青く深い空の広さと、視界の果てまで広がる田園風景の美しさに言葉もない。山が生きている。空が生きている。風が生きている。土が生き、水が生き、木も草も花も喜々として生きている。なによりも、人が生きている。三菱製の赤い田植え機に乗って作業を始めていたご主人が手を止め、畦で迎えてくれた。「今日は、5反の田に苗を植えます」。広い田を指差しながら、なに簡単です、といわんばかりにニコリと笑う。田の面積は、1反が約1000uだから、5反は約5000uだ。「あそこからあそこまでですね」。まるで見当もつかない。6条植えの田植え機で往復しながら、1uに約22株の苗を植える。5反5000uには、110000株の苗を植えることになる。1株に穂は20ある。1つの穂に80の米粒がつく。1株で、20穂×80粒だから、1600の米粒ができる。5000uだと、176000000粒の米となる。想像を絶する。ご飯茶碗には、約3200粒の米が入る。つまり、茶碗1杯のご飯3200粒は、2株の苗でできる。1uで22株だから、茶碗11杯分の米ができる。という計算からすると、今日は、茶碗55000杯分の苗を植えることになる。息子が田植え機に乗る。病み上がりのわたしは、妻と二人で畦に座って息子を眺める。息子は、いきいきと働いている。借りたゴム長靴で田に入り、泥まみれで苗を植える。大地の生命と語り合うその姿は、地元の青年団のようだ。田園風景が板についている。「都会より、田舎のほうが似合うなあ」。妻に言う。妻も肯きながら、苗を担ぐ息子の姿を嬉しそうに見つめる。人には、その人にふさわしい場所がある。そこでは、いきいきと生きられる。それが、自然というものだ。無理をすれば歪が起こる。自然に生きろ、ゆっくり生きろ、と他人に言いながら、わたしも無理を繰り返してきた。「つくばに引っ越してきなさいよ。お金もかからないし」。帰る前にそうすすめてくれたのは、ゆう子姉さんだ。
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■惜春鳥 ■2015年6月2日 火曜日 13時15分13秒

50年の歳月が流れた。人は変わり、街は変わった。ある春の日の午後だ。三人の男が、渋谷にいた。傾き始めた陽光が、ハチ公に注ぐ。この街は、青春の日々を過ごした想い出の街だ。長崎に住むYの上京を機に次呂久英樹と青木勝彦が駆けつけ、旧交を温める酒宴が開かれた。午後の酒が、至福の時間を与える。すでに孔子のいう玄冬の齢に達しているが、この三人、そんじょそこらの年寄りとはわけがちがう。この齢でなお、真っ直ぐに物事を見る少年の眼差しをもつ。正面から相手に対峙する純な少年の好奇心が息づく。磨かれた明鏡の魂は、もはや死語となる「正義」を重んじる。大人の知性を身につけているのだ。「少年の眼差しと大人の知性」を併せもつ。そこがちがう。少年という言葉に甘える偽ロマンチストではない。毅然たる大人の信念、「正義」という確固たる信念をもつ。その裏づけは、武道だ。武道家の彼らは、武道によって道を究め、人間形成をはかる。沖縄県西表出身の次呂久は、若き日、Yとともに渋谷にある國學院大學の空手道部部員として、多感な魂と吹き上がる熱情を、拳に託した。柔道家だった青木は、日本武道館に勤務し居合道に邁進した。九武道を学び、そこに道を求めた。大学同期の彼らはウマが合った。波長が合い、価値基準に近いものがあって、互いの心が読めた。心の奥底で深く通じ合うものがあった。それが、この上ない喜びだ。真の友情は、理屈を超えて存在する。昔、行動はいつもいっしょだった。笑うも泣くも怒るもいっしょだった。稽古が終わると渋谷に出て、飢えた魂をネオン街に解き放った。いまに比べて当時の渋谷は、なにもかもが明快だった。善は善であり、悪は悪だった。ヤクザとか愚連隊と呼ばれる連中は、一目でそれとわかる格好で街角を闊歩し、不良を気取る堅気衆に鋭い眼を向けた。悪ぶる学生は目をつけられた。不良をやるにも度胸が必要だった。東京オリンピックには間があり、上空に高速道路はなく、新幹線は走っていない。1ドルは360円。自由に海外旅行はできない。沖縄はまだ返還されておらず、次呂久は東京に出てくるのにパスポートを必要とした。白鳥や田園やジロウという純喫茶があり、そこが学生の溜まり場で、コーヒーは100円だった。酒は、焼酎か合成酒だった。ビールや日本酒は値段が高く、手が出なかった。合成酒とは、自然素材を使わず化学で作られた酒だ。一合25円だった。梅割り焼酎も一杯25円。焼き鳥は、5円か10円だ。合成酒を二合飲み、焼き鳥を五本食べて100円で足りた。道玄坂の途中に恋文横丁があって、間口の小さなラーメン屋が並んでいた。ラーメンや餃子や炒飯が、150円だった。店主は中国人が多かった。いかがわしいバーがあって、けばけばしく心やさしいお姉さんがラーメンを奢ってくれた。この街で、三人は若気の至りの日々を送った。善にも悪にも、がむしゃらにぶつかった。バンカラという言葉が生きていた。ヤクザともつきあった。狂った野犬がそうするように、強い相手を求めて放浪した。つまずきと挫折をくり返し、友情は深まった。口には出せない伝説が、ネオンの下で数多く生まれた。Yは、故郷長崎に帰り、教職についた。名門と謳われる東西南北の名のつく4高校で、教師として力を注いだ。専門は日本史だ。空手を教えた。人間として見事に成長してほしい。思いはそこにあり、多くの人材を育成した。次呂久は、母校の空手道部監督を務め、部を全国優勝に導いた。静岡県焼津に道場をもち、指導を行った。空手本来の強さを求め、基本の突き蹴りにこだわる指導は、時代に媚びることをしない。青木は、いまも日本武道館と国際武道大学の理事を務め、求道と育成の手を緩めない。日本の未来は、市井のこんな賢人たちが握っている。迷走する日本に必要なのは、彼らの抱く信念だ。「惜春鳥」。懐かしい青春の街で時空を逍遥する三人の男に、映画監督木下恵介が自作映画のために創った美しい言葉が、胸によぎった。
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■提督は、謎の海に眠る。 ■2015年6月2日 火曜日 13時13分58秒

1519年秋、コバルトブルーの空、さんさんと陽光降り注ぐ午後だ。277人の男たちを乗せた5隻の船団は、サンルカル港を出航し、人類初の世界一周航海に向かった。旗艦トリニダッド号で指揮をとる提督は、すぐれた航海家であると同時に、すばらしい統率力の持ち主だった。それでも、3年後に帰港したのはわずか1隻にすぎない。そして、帰港した船に提督の姿はなかった。海の果てで、いったいなにが起こったのか。どれほどすぐれた提督といえども、世界一周の航海などやはり無謀だったのか。海は、人間がすべての英知と力を尽くしても、やはり手に負える代物ではないというのか。もはや500年前のこと、それらの真実はあまりに遠い。ましてや歴史に残る大偉業を目前にして死を選んだ提督の気持ちなどわかりようもない。それは謎に包まれ、深い時の海底に眠ったまま、だれにも揺り起こすことなどできない。だが、そこにふつふつと冒険魂を突き動かす壮大なロマンを感じるのは、わたしだけだろうか。当時、ポルトガルとスペインは、決して友好的な関係ではなかった。むしろ反目し合っていた。提督は、国王の命を受けた忠実なポルトガル人だったが、部下の船長たちはみなスペイン人だった。港を出た船団は、テネリフェ島に立ち寄るとアフリカ大陸を回り込んで南に向かった。やがて赤道無風帯にさしかかったが、提督は、船団をそのまま南に向けて航行させる。「おかしいじゃないか」。船長たちは口々に言い、進言する。「やっぱりポルトガル人のやることは不可解だ」。「狂ったんじゃないのか」。提督は、頑として耳を貸さない。当然だった。提督は、この航海が世界一周を目指すものだとだれにも告げていない。だれもが、「香辛諸島(モルッカ諸島)に出かけてひと稼ぎしよう」という程度の連中ばかりだった。たしかに、世界一周など正気に沙汰ではなかった。提督は、赤道無風帯を抜け、南米大陸を目指した。リオデジャネイロからサンフリアンを巡り、エルパスをすり抜けて西に舵を取り、太平洋を疾走してセントポールズ島に向かう。セントポールズ島を経由してグアム島を目指す。グアム島からフィリピンを通り香辛諸島にたどり着く。提督は、完璧にそのコースを計画していたわけではない。完璧な計画を立てるなど至難の技だ。襲いかかる想像を絶する嵐、食料も水も尽き、見えるのは途方もない青い水の砂漠だけだ。島影一つ見えない。疲弊するクルーたち。必死の思いでたどり着いた島では、異教徒たちが武器をもって待ち受ける。だが、提督の航海術は見事なもので、おまけに勇敢で、強運の持ち主だった。部下たちに的確な命令を下し、苦難の一つ一つを死に物狂いで越えていった。提督でなければできないことだった。反目するスペイン船長をはじめ乗組員たちも一目を置き、畏敬の念さえ抱いていた。それでも船長たちは、提督の暗殺を企て、何度も命を狙う。一度も成功はせず、逆に数人が処刑された。行く先々の島、たどり着く国の人々を洗脳し、キリスト教を広め、植民地にする。それが国王に誓った提督の野望だ。不幸は、フィリピンで起きた。フィリピンの異教徒の戦士たちに提督は、少ない人数で戦いを挑んだ。船長たちは、援護をしない。見て見ぬふりを決め込んだ。多勢に無勢。上陸したもののたちまち浜辺に追い詰められた提督に、一団の戦士たちが襲いかかった。足を三日月刀で切られ、水中に倒れ込んだ提督の顔や体に何度も何度も槍が突き立てられた。提督の遺体はそのまま放置され、やがて海に消えた。提督、海峡にいまもその名を残すフェルナンド・マゼラン。絶対に勝てない戦いと知りつつ、なぜ、自ら死地に赴いたのか。3年もの地獄の日々を乗り越え、大偉業を目前にして、なぜ、死ななければならなかったのか。疲れ果て、正常な心を失っていたのか。それとも、「男はロマンに生き、ロマンに死ぬ」、とでも言いたかったのか。もはや、遥か彼方のマゼランの真実を知る者は、だれ一人としていない。
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■『見たことのないコミュニケーション』が、始まった。 ■2015年4月14日 火曜日 13時45分46秒

『見たことのない戦争』が、始まった。その朝、ベッドで新聞
を広げていたら、この衝撃的な文章が目に飛び込んできた。文藝春秋の広告、特集のタイトルだ。『見たことのない戦争』って、なんのことだ。早速駅前の書店で文藝春秋を買うと同時に、ふと思う。『見たことのない戦争』という言い方、その視点を、自分がいるコミュニケーションの世界に置き換えてみよう。『見たことのないコミュニケーション』。そうなのだ、いま、コミュニケーションもまたこれまでに見たことも会ったこともない状況に置かれている。切実に、そう思う。とくに、マスコミュニケーションは、崩壊とも言えるほどの打撃を受けた。歴史的に見ても、マスコミュニケーションの大変革は、これまで二度あった。一度目は、1450年、グーテンベルクによる印刷機の発明とそれにともなう印刷物の普及である。それまで口伝であったり、個人的な教育でしかありえなかった世界に、印刷物の普及にともない集団教育が可能となって、一気に学校が広まった。これが、第一回目のコミュニケーションの大改革だ。印刷機ができなかったら、新聞さえできなかった。次は、電波の普及によるラジオ・テレビの発明・普及である。日本では、ラジオは1925年、テレビは1927年に始まったとされているが、これも世相を大きく変貌させた。価値観を根こそぎ変えてしまった。マスコミュニケーションは、「群衆」というとんでもない価値観を生み出し、自由競争市場に拍車をかけ、企業格差はどんどん拡大していった。大量生産大量販売が繁栄の条件となり、時代の美徳となった。もはや、産業革命である。ブランドイメージ、企業や商品の信用・信頼は、新聞・ラジオ・テレビといったマス媒体の圧倒的な力によって、確実なものとして築かれた。テレビ・ラジオ・新聞に登場する企業・商品は、絶大なる信用・信頼を獲得した。これが、第二回目のコミュニケーションの大改革だった。信用・信頼が、金で買えたのである。そして、第三回目の大改革、ネット時代が到来した。この改革は、とんでもない現象を生み出した。まず、ローソクの火を吹き消すように、マスコミュニケーションをいとも簡単に吹き消した。東西ドイツの壁を破壊するように、「マスとパーソナルの壁」を一瞬にして破壊してしまった。どんなに信頼されている企業も商品も、ある一人のだれかのネットによる世界配信で、「すべてが水泡に帰す」という恐るべき現象が起きた。それが、事実か虚偽かは不明のままに、ニュースは世界を駆け巡るのだ。たった一人の力で、大企業さえも危機に陥れることができる。もはや、新聞・ラジオ・テレビというマス媒体に大金をかけて、信用・信頼を築こうなどと考える企業がいなくなってしまった。とにもかくにも、企業は自分を守り、社員を守るためにコンプライアンスに走るしかない。そこで、あれだけ力をもっていた、新聞・ラジオ・テレビのマス媒体は、新たなる役割と、新たなる料金体系を構築するしかなくなった。その凄まじい大改革を理解・認識できない媒体は、消える運命にある。かく言うわたしも古き良き昭和の残党、消える運命にある一人かもしれない。だが、生き残るためのわずかなる光明は、見えてきた。数人の賢い仲間たちと時代の価値観を、右往左往しながら探っているが、「マスとパーソナルの壁の崩壊」後の価値観、そのヒントがどうやら見えてきた。まず、わたしたち古き昭和残党がやることは、「すべてが新しい時代なのだ」と覚悟を決めることから始めるしかない。そこから入るしかない。そして、時代を貫く大事なものは、なにか。地域を貫く大事なものは、なにか。年齢・性別を貫く大事なものは、なにか。現在から未来を貫く大事なものは、なにか。そういった「物事の本質」を把握しなければ、新しい時代の潮流にただただ流されてしまうだろう。『見たこともないコミュニケーション』は、はたしてどこへ向かっているのだろうか。
tagayasu@xpoint-plan.com
■『見たことのないコミュニケーション』が、始まった。 ■2015年4月14日 火曜日 13時45分34秒

『見たことのない戦争』が、始まった。その朝、ベッドで新聞
を広げていたら、この衝撃的な文章が目に飛び込んできた。文藝春秋の広告、特集のタイトルだ。『見たことのない戦争』って、なんのことだ。早速駅前の書店で文藝春秋を買うと同時に、ふと思う。『見たことのない戦争』という言い方、その視点を、自分がいるコミュニケーションの世界に置き換えてみよう。『見たことのないコミュニケーション』。そうなのだ、いま、コミュニケーションもまたこれまでに見たことも会ったこともない状況に置かれている。切実に、そう思う。とくに、マスコミュニケーションは、崩壊とも言えるほどの打撃を受けた。歴史的に見ても、マスコミュニケーションの大変革は、これまで二度あった。一度目は、1450年、グーテンベルクによる印刷機の発明とそれにともなう印刷物の普及である。それまで口伝であったり、個人的な教育でしかありえなかった世界に、印刷物の普及にともない集団教育が可能となって、一気に学校が広まった。これが、第一回目のコミュニケーションの大改革だ。印刷機ができなかったら、新聞さえできなかった。次は、電波の普及によるラジオ・テレビの発明・普及である。日本では、ラジオは1925年、テレビは1927年に始まったとされているが、これも世相を大きく変貌させた。価値観を根こそぎ変えてしまった。マスコミュニケーションは、「群衆」というとんでもない価値観を生み出し、自由競争市場に拍車をかけ、企業格差はどんどん拡大していった。大量生産大量販売が繁栄の条件となり、時代の美徳となった。もはや、産業革命である。ブランドイメージ、企業や商品の信用・信頼は、新聞・ラジオ・テレビといったマス媒体の圧倒的な力によって、確実なものとして築かれた。テレビ・ラジオ・新聞に登場する企業・商品は、絶大なる信用・信頼を獲得した。これが、第二回目のコミュニケーションの大改革だった。信用・信頼が、金で買えたのである。そして、第三回目の大改革、ネット時代が到来した。この改革は、とんでもない現象を生み出した。まず、ローソクの火を吹き消すように、マスコミュニケーションをいとも簡単に吹き消した。東西ドイツの壁を破壊するように、「マスとパーソナルの壁」を一瞬にして破壊してしまった。どんなに信頼されている企業も商品も、ある一人のだれかのネットによる世界配信で、「すべてが水泡に帰す」という恐るべき現象が起きた。それが、事実か虚偽かは不明のままに、ニュースは世界を駆け巡るのだ。たった一人の力で、大企業さえも危機に陥れることができる。もはや、新聞・ラジオ・テレビというマス媒体に大金をかけて、信用・信頼を築こうなどと考える企業がいなくなってしまった。とにもかくにも、企業は自分を守り、社員を守るためにコンプライアンスに走るしかない。そこで、あれだけ力をもっていた、新聞・ラジオ・テレビのマス媒体は、新たなる役割と、新たなる料金体系を構築するしかなくなった。その凄まじい大改革を理解・認識できない媒体は、消える運命にある。かく言うわたしも古き良き昭和の残党、消える運命にある一人かもしれない。だが、生き残るためのわずかなる光明は、見えてきた。数人の賢い仲間たちと時代の価値観を、右往左往しながら探っているが、「マスとパーソナルの壁の崩壊」後の価値観、そのヒントがどうやら見えてきた。まず、わたしたち古き昭和残党がやることは、「すべてが新しい時代なのだ」と覚悟を決めることから始めるしかない。そこから入るしかない。そして、時代を貫く大事なものは、なにか。地域を貫く大事なものは、なにか。年齢・性別を貫く大事なものは、なにか。現在から未来を貫く大事なものは、なにか。そういった「物事の本質」を把握しなければ、新しい時代の潮流にただただ流されてしまうだろう。『見たこともないコミュニケーション』は、はたしてどこへ向かっているのだろうか。
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■『見たことのないコミュニケーション』が、始まった。 ■2015年4月14日 火曜日 13時45分34秒

『見たことのない戦争』が、始まった。その朝、ベッドで新聞
を広げていたら、この衝撃的な文章が目に飛び込んできた。文藝春秋の広告、特集のタイトルだ。『見たことのない戦争』って、なんのことだ。早速駅前の書店で文藝春秋を買うと同時に、ふと思う。『見たことのない戦争』という言い方、その視点を、自分がいるコミュニケーションの世界に置き換えてみよう。『見たことのないコミュニケーション』。そうなのだ、いま、コミュニケーションもまたこれまでに見たことも会ったこともない状況に置かれている。切実に、そう思う。とくに、マスコミュニケーションは、崩壊とも言えるほどの打撃を受けた。歴史的に見ても、マスコミュニケーションの大変革は、これまで二度あった。一度目は、1450年、グーテンベルクによる印刷機の発明とそれにともなう印刷物の普及である。それまで口伝であったり、個人的な教育でしかありえなかった世界に、印刷物の普及にともない集団教育が可能となって、一気に学校が広まった。これが、第一回目のコミュニケーションの大改革だ。印刷機ができなかったら、新聞さえできなかった。次は、電波の普及によるラジオ・テレビの発明・普及である。日本では、ラジオは1925年、テレビは1927年に始まったとされているが、これも世相を大きく変貌させた。価値観を根こそぎ変えてしまった。マスコミュニケーションは、「群衆」というとんでもない価値観を生み出し、自由競争市場に拍車をかけ、企業格差はどんどん拡大していった。大量生産大量販売が繁栄の条件となり、時代の美徳となった。もはや、産業革命である。ブランドイメージ、企業や商品の信用・信頼は、新聞・ラジオ・テレビといったマス媒体の圧倒的な力によって、確実なものとして築かれた。テレビ・ラジオ・新聞に登場する企業・商品は、絶大なる信用・信頼を獲得した。これが、第二回目のコミュニケーションの大改革だった。信用・信頼が、金で買えたのである。そして、第三回目の大改革、ネット時代が到来した。この改革は、とんでもない現象を生み出した。まず、ローソクの火を吹き消すように、マスコミュニケーションをいとも簡単に吹き消した。東西ドイツの壁を破壊するように、「マスとパーソナルの壁」を一瞬にして破壊してしまった。どんなに信頼されている企業も商品も、ある一人のだれかのネットによる世界配信で、「すべてが水泡に帰す」という恐るべき現象が起きた。それが、事実か虚偽かは不明のままに、ニュースは世界を駆け巡るのだ。たった一人の力で、大企業さえも危機に陥れることができる。もはや、新聞・ラジオ・テレビというマス媒体に大金をかけて、信用・信頼を築こうなどと考える企業がいなくなってしまった。とにもかくにも、企業は自分を守り、社員を守るためにコンプライアンスに走るしかない。そこで、あれだけ力をもっていた、新聞・ラジオ・テレビのマス媒体は、新たなる役割と、新たなる料金体系を構築するしかなくなった。その凄まじい大改革を理解・認識できない媒体は、消える運命にある。かく言うわたしも古き良き昭和の残党、消える運命にある一人かもしれない。だが、生き残るためのわずかなる光明は、見えてきた。数人の賢い仲間たちと時代の価値観を、右往左往しながら探っているが、「マスとパーソナルの壁の崩壊」後の価値観、そのヒントがどうやら見えてきた。まず、わたしたち古き昭和残党がやることは、「すべてが新しい時代なのだ」と覚悟を決めることから始めるしかない。そこから入るしかない。そして、時代を貫く大事なものは、なにか。地域を貫く大事なものは、なにか。年齢・性別を貫く大事なものは、なにか。現在から未来を貫く大事なものは、なにか。そういった「物事の本質」を把握しなければ、新しい時代の潮流にただただ流されてしまうだろう。『見たこともないコミュニケーション』は、はたしてどこへ向かっているのだろうか。
tagayasu@xpoint-plan.com
■『見たことのないコミュニケーション』が、始まった。 ■2015年4月14日 火曜日 13時45分33秒

『見たことのない戦争』が、始まった。その朝、ベッドで新聞
を広げていたら、この衝撃的な文章が目に飛び込んできた。文藝春秋の広告、特集のタイトルだ。『見たことのない戦争』って、なんのことだ。早速駅前の書店で文藝春秋を買うと同時に、ふと思う。『見たことのない戦争』という言い方、その視点を、自分がいるコミュニケーションの世界に置き換えてみよう。『見たことのないコミュニケーション』。そうなのだ、いま、コミュニケーションもまたこれまでに見たことも会ったこともない状況に置かれている。切実に、そう思う。とくに、マスコミュニケーションは、崩壊とも言えるほどの打撃を受けた。歴史的に見ても、マスコミュニケーションの大変革は、これまで二度あった。一度目は、1450年、グーテンベルクによる印刷機の発明とそれにともなう印刷物の普及である。それまで口伝であったり、個人的な教育でしかありえなかった世界に、印刷物の普及にともない集団教育が可能となって、一気に学校が広まった。これが、第一回目のコミュニケーションの大改革だ。印刷機ができなかったら、新聞さえできなかった。次は、電波の普及によるラジオ・テレビの発明・普及である。日本では、ラジオは1925年、テレビは1927年に始まったとされているが、これも世相を大きく変貌させた。価値観を根こそぎ変えてしまった。マスコミュニケーションは、「群衆」というとんでもない価値観を生み出し、自由競争市場に拍車をかけ、企業格差はどんどん拡大していった。大量生産大量販売が繁栄の条件となり、時代の美徳となった。もはや、産業革命である。ブランドイメージ、企業や商品の信用・信頼は、新聞・ラジオ・テレビといったマス媒体の圧倒的な力によって、確実なものとして築かれた。テレビ・ラジオ・新聞に登場する企業・商品は、絶大なる信用・信頼を獲得した。これが、第二回目のコミュニケーションの大改革だった。信用・信頼が、金で買えたのである。そして、第三回目の大改革、ネット時代が到来した。この改革は、とんでもない現象を生み出した。まず、ローソクの火を吹き消すように、マスコミュニケーションをいとも簡単に吹き消した。東西ドイツの壁を破壊するように、「マスとパーソナルの壁」を一瞬にして破壊してしまった。どんなに信頼されている企業も商品も、ある一人のだれかのネットによる世界配信で、「すべてが水泡に帰す」という恐るべき現象が起きた。それが、事実か虚偽かは不明のままに、ニュースは世界を駆け巡るのだ。たった一人の力で、大企業さえも危機に陥れることができる。もはや、新聞・ラジオ・テレビというマス媒体に大金をかけて、信用・信頼を築こうなどと考える企業がいなくなってしまった。とにもかくにも、企業は自分を守り、社員を守るためにコンプライアンスに走るしかない。そこで、あれだけ力をもっていた、新聞・ラジオ・テレビのマス媒体は、新たなる役割と、新たなる料金体系を構築するしかなくなった。その凄まじい大改革を理解・認識できない媒体は、消える運命にある。かく言うわたしも古き良き昭和の残党、消える運命にある一人かもしれない。だが、生き残るためのわずかなる光明は、見えてきた。数人の賢い仲間たちと時代の価値観を、右往左往しながら探っているが、「マスとパーソナルの壁の崩壊」後の価値観、そのヒントがどうやら見えてきた。まず、わたしたち古き昭和残党がやることは、「すべてが新しい時代なのだ」と覚悟を決めることから始めるしかない。そこから入るしかない。そして、時代を貫く大事なものは、なにか。地域を貫く大事なものは、なにか。年齢・性別を貫く大事なものは、なにか。現在から未来を貫く大事なものは、なにか。そういった「物事の本質」を把握しなければ、新しい時代の潮流にただただ流されてしまうだろう。『見たこともないコミュニケーション』は、はたしてどこへ向かっているのだろうか。
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■日本には『サロン』が足りない。 ■2015年3月31日 火曜日 17時3分58秒

第一次大戦後、1920年代、若き日のアーネスト・ヘミングウェイが、小説家を目指して修行に明け暮れたパリには、世界中からたくさんのアーティストが集まった。ガートルード・スタイン、ピカソ、エズラ・パウンド、ジェイムズ・ジョイス、そして、すでに「華麗なるギャツビー」を発表していた早熟の天才フィッツィジェラルド。彼らは、夜な夜なカルチェラタンのカフェにたむろし、芸術論を戦わした。いわゆる『サロン文化』だ。とにかく、だれもかれもが天才だ。戦争、政治、経済、宗教、芸術、人間のこと、生命のこと、すべてが極めて高度な話になる。高度な話とは、どういうことか。それぞれが学びに学んで身につけた全知全能をさらけ出し、ぶつけ合って、話題の『本質に肉薄』する。『物事の本質』に迫る。話し合いとか打合せとか会議に最も必要なのは、この『本質』なのだ。『いかに本質に迫るか』。ところが、これは、日本人が極めて不得意とするところだ。いまもって、「言わなくてもわかるだろう」とか、「ツーと言えばカー」が通用すると思っている昭和残党連もいる。肝心なことを言わない。物事の本質に迫ろうとする「もう一歩」が足りない。人がいいのか。だが、もはや、そんなことを言っている段階ではない。日本人が、押し寄せるグローバルの潮流に適切な対応ができないで、世界各国の顔色を伺いながら経済援助をすることくらいしかできないのは、物事の『本質を見極める力』がないからだ。そういう勉強をしていない。さて、このような『サロン』は、中世ヨーロッパの貴族たちの社交空間から始まったと言う。いわゆる上流階級の面々が、茶や酒やうまい料理を揃え、音楽家に曲を作らせ、ピアノを弾かせ、詩人に詩を読ませ、画家に絵を描かせ、芸術文化の追及から人間の追及にまで及んだ社交空間、それが『サロン』だ。みんな、貴族だ。だれもが高度の教育を受けている。教養も身につけている。それをぶつけ合い、磨き合う。これは、興味深い。そこで、5年ほど前から、渋谷のある会社で『サロン会議』を開いた。政治、経済、文化、時事、テーマはその時に応じて自由に設定し、それぞれが「自分の意見」をぶつけ合う。もう一歩、『本質に肉薄』する。異業種から参加者を求め、人数は10人までとした。以前から、いろいろな外資系企業の仕事で、アメリカ人やドイツ人、イギリス人と会議をしたが、「自分の意見」を相手にぶつけないと仕事にならない。だから、それは特殊なことではないが、実際に実行してみないとこれがうまくいかない。日本人は、なかなか本音を言わない。相手を思いやるからだ、とか、そのほうが物事が円滑に進む、とか、言い訳っぽいことを言って、本音を言わないのだが、実は、つまらないことを言って、なんだこの程度の人間なのかと見透かされることが恐いのだ。きっと、そうだ。昔、バカ殿がいて、喋るとボロが出るから喋らせないようにした。そこでできた諺が「沈黙は金」。いまどき通用しません。なんでも、自分の意見をどんどん言う。そして、バカだったら、勉強すればいい。愚かだったら、本を読めばいい。それだけのこと。最も悪いのは、バカがバカのままでいること、愚かが愚かのままでいること。勉強すればいいだけのことなのに。そういった風土を築く方法の一つが『サロン』だと思う。いま、渋谷を拠点に、西早稲田と原宿の企業で『サロン』を展開している。トップの方々はもちろん、営業の最先端で戦う人たちも、『本質を掴む力』を身につけることで、他社との差別化に成功している。時代が大きく変わりつつあるいま、なにもしないでいると取り残される。そういう企業も多い。代々続いている企業には、わかっているけどできない、とか、どこから手をつけていいのかわからないという会社も多い。なにも大仰なことをする必要はない。まず『サロン』をお始めください。会社のなかに眠っているたくさんの埋蔵金の発掘から始めればいいのです。
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■『幕末ケチョンケチョン』 ■2015年3月13日 金曜日 13時45分24秒

「幕末志士の生まれ変わりのあんたには悪いけどね」。未来塾のゲンコ先生が、上目遣いに伊藤さんを見上げた。気を使っているのが、戸惑う視線から読み取れる。春先の、長閑な居酒屋の午後だ。「バカ徳川、バカ長州、バカ薩摩、おっとごめん、伊藤さんは薩摩だったな、土佐も、会津も、あのバカたちのおかげで、日本は絶好の革命チャンスを潰した。本当の国づくりができなかった。バカ日本の基礎を作っちまった」。目を細くして皮肉っぽい笑みを浮かべる。熱燗を口に運ぶ。「あの二人を除いて、全員バカときた」。幕末の英雄と謳われ、新しい時代を創った連中が、二人を除いて全員バカなのか。「先生、先生のいう意味が、いまいち飲み込めません」。顔に出さないながらも不服気味の伊藤さんに熱燗を進めながら、そりゃそうだ、と先生は首を振り、「よし、ひとつわかりやすく整理してみるか」と言った。「幕末はどこから始まった?」。「黒船来航です」。「そこだ、その初っ端から徳川がバカやった」。ゲンコ先生の言い分はこうだ。その前に、先生の言う、「バカとはなんだ」、を規定しておこう。@物事の全体観を把握できない者を、先生は「バカ」と言う。A自分の利益だけを追求する者を、先生は「バカ」と言う。家康が江戸幕府を開いて260年間、鎖国をはじめ、あらゆるものを徳川一人が決めてきた。一人で天下を平定してきた。260年間だぜ、たいしたもんじゃねえか。それをたかだか4隻の黒船ごときで、腰を抜かしやがった。あたふた腰を抜かして天皇に相談しに行った。「な、バカだろ」。黒船を見たのは初めてだろうが、あんなものはだれでも知っていたよ。そのくらいの勉強はしている。オランダやイギリスの軍艦が、日本の周りをウロウロいるんだ。その腰抜けぶりを見て、長州も薩摩も、「こりゃ徳川はもうダメだわい」と、確信した。そのくせ、天皇を中心とした新体制で、自分がトップになりたいという下心が見え見えだ。自分の利益最優先ときた。天皇と徳川で今後の国の運営をやって行きたい、それが見え見え。長州も薩摩も、カッときたね。だが、こいつらもバカよ。日本全体を考えちゃいない。一国の利益が優先した。バカの揉め事にバカが加わった。革命チャンスが、ただのバカ騒ぎになっちゃった。「長州には松陰がいました」。伊藤さんが言う。「吉田松陰は、日本全体のことを考えていたのじゃないですか」。そうだなあ。先生は、ちょっと考える風をした。「やつはまだマシだったかなあ」。松陰の不幸は、長州がやつを理解できなかったことだ。大きすぎた。松陰に比べれば、木戸も伊藤も、小者も小者、器が小さい。それに、松陰は強引過ぎた。いかに正義であれ、強引が過ぎれば、既存の利権者に潰されるのは自明の理。「高杉晋作や久坂玄瑞も、なかなかだと思いますが」。伊藤さんが長州をかばう。「小者だ。小さいことには向いている。徳川を倒すくらいの小さいことには向いている。だが、国は作れねえ」。だいたい徳川なんざ放っておいても潰れるんだ。なら、放っとけばいいんだ。先生の言うことが見えた。それをだらだらといつまでも相手にしているからダメだ。そう、言いたいのだ。内乱は、外国の思うツボ。どうして世界を見据えない。インド、中国が植民地になった。次は、日本だ。「薩摩もバカですか?」。伊藤さんが恐る恐る尋ねる。「バカだ。西郷を活かしきれなかった。斉彬公はよかったがな」。「龍馬はどうです?土佐の坂本は?」。「あんなのただの愚連隊だ」。取りつく島もない。龍馬なんざ、司馬遼太郎が取り上げるまでまったく無名の男よ。さて、と。ゲンコ先生、ふらりと立ち上がる。「後を頼む」と、手を振って出口に向かう。「先生、二人を除いてと言いましたね」。そう、二人を除いてみんなバカだ、と言っていた。じゃあ、利口な二人は誰なんだ。「先生」。振り向いたゲンコ先生の目が、「それくらい自分で考えろ」と微笑んでいる。
■『遥かなる山の呼び声』 ■2015年3月3日 火曜日 15時52分43秒

その夏、上高地でアルバイトをすることになったのは、まさに偶然だった。大学受験に失敗し予備校に通ったが、これがなんとも窮屈でやりきれない。いっそのこと東京を離れようと決め、上高地の山小屋を紹介するという友人の言葉に、列車に飛び乗った。
島々からバスだ。白樺の並木を抜け、大正池を横目で見ながら上高地に到着する。目指す徳澤園は、ここからまだ12キロの山道を歩く。梓川に沿って針葉樹の森を行く。空は青く、高く、山々の緑は、濃い。夏の陽射しだ。日本一美しい梓川の、冷たく、清く、澄み切った流れが左にある。川原に降り、水を口にふくむ。日本一美しい清流は、日本一おいしい清流でもあった。上高地と徳澤園の中間の明神館という山小屋で一息入れる。女将の話では、運がよければ森で鹿に出会う、という。道は徐々に高さを増し、梓川を下に見る。森に目を凝らす。空を見上げイヌワシの姿をさがす。鹿もイヌワシも姿を見せることはなかった。徳澤園に着いたのは、夕方近くだ。針葉樹の森をぬけると突然、ハルニレとカツラの巨木が聳える草原に出た。草原の奥に瀟洒な山小屋が見える。山小屋には広い土間があり、売店がある。到着したばかりの登山客が荷を解いている。土間に囲炉裏のあるスペースがあり、そこにも数人の客がいる。彼らはすでに荷を解いた軽装で、囲炉裏の周りに集まっている。売店の横の帳場に男が一人座っている。男はじろりと私を見て、すぐにプイッと横を向いた。痩せた、目の細い、髭の濃い、山男というより猟師のような男で、頭にタオルを巻き、色あせた半纏を羽織っている。オーナーらしかった。私は男に頭を下げ、友人の名前を告げ、一夏の仕事を頼んだ。
男は突然、弾けるように笑い、奥に向かって、「荒さ、由さ」と叫んだ。そして、奥から顔を出した男に、「なあ、荒さ、変なのがきただに、Mの紹介だと」。帳場の男が言い、荒さと呼ばれた男と二人は声を上げて笑った。話を聞くとMは、昨年の夏、アルバイト料を先払いしてもらい、そのまま働きもせず姿をくらましたのだと言う。
「そんな訳で雇う訳にはいかんな。まあ、Mの分を働くというなら、いてもいいがな」帳場の男が言った。
まさか北アルプスのど真ん中で途方に暮れようとは思わなかった。あたりに夕闇が迫っている。見上げる穂高連峰の頂きが黒々と迫ってくる。どうなるのだ。
「若いの」。入口で途方に暮れる私に、荒さと呼ばれた男が野太い声をかけてきた。「もう、日が暮れるだに。行くとこあんめいよ」。私は頷くしかない。「今夜は泊まってけ」。荒さがそう言って節くれだった手で、手招きをする。
翌朝早く、荒さと由さは私を連れて山に入った。シャベルを私に渡し、二人は直径2メートル近くもある大きな丸太を鋸で切り始めた。薪にするのだ。私は1日かけて3メートルほどの穴を掘った。山の仕事は実にシンプルで、清々しい。昼になると、荒さが握り飯を差し出した。三人で穂高を見上げながら、川原で握り飯を食べた。味噌味の握り飯は、なんとも言えないほど美味かった。
「今夜も泊まってけ」。1日が終わると、荒さが言った。そんな訳で私は、一夏を徳澤園で過ごすことになった。3日に一度、上高地まで歩荷に出かけた。山小屋に必要な食料品日用品を、上高地の倉庫から運び上げる仕事だ。リヤカーを使った。「一人じゃリヤカーは使えねえ。二人なら、リヤカー使って三、四人分の荷を上げられる」。荒さが、木の切り株のようないかつい顔をほころばせて笑った。嬉しい言葉だった。上高地までの往復4時間、荒さは山のことをいろいろ教えてくれた。
9月に入るとすぐに東京に帰る日がきた。「約束だ。給料は無しだに。Mの分を返してもらったからな」入口まで出てきたオーナーが、ニコリともせずに言う。置いてくれただけでも嬉しかった。「これは、オレからの礼だ。学資のタシにすればいいだに」オーナーが白い封筒を差し出した。2ヶ月分の給料より多い金額が入っていた。荒さを見ると、もらっておきな、という顔で笑う。純な山男が、真っ直ぐに生きることを教えてくれた、忘れられない夏だった。
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■金色の山、銀色の川。 ■2015年2月13日 金曜日 14時21分51秒

記憶の一ページ目に、山と川がある。それより前の記憶はない。いくつか思い浮かぶ光景もあるが、どれをとってみても、まさしくこれは記憶だと言い切れるものではなく、後になって聞いたものかも知れない。
広大な大地が、足下から広がっている。大地は緩やかに下りながら、視界の果てまで続いている。アジアの奥地の大草原のように、それは限りなく広い。距離にすれば、10キロ以上続いているのだろう。
大地のほとんどが野菜畑と果樹園と桑畑で、夏になると一面の緑に覆われた。所々に、濃かったり薄かったりの茶褐色の荒地や枯れた草の色をした空き地が見えた。小さな林もいくつかあった。民家はほとんどなかった。ポツンポツンと見える民家は、大地のシミのように見えた。神社の屋根は、民家よりも大きかった。火の見櫓も見えた。小さな林も、民家も、神社も、火の見櫓も、片付け忘れた玩具のように、小さく、秩序もなく、寂しげだった。人の気配はなかった。
山々は、視界の果て、大地の尽きる所に突然立ち上がっていた。果てしなく広がる大空のキャンバスに向かって、峰々は挑むように立ち上がり、一枚の絵画のように、悠々と自信に満ちて連なっていた。朝早く、生まれたての光を浴びると、峰々はまるで自分が光を発しているかのように、美しく、神々しく輝いた。海抜2000メートルから3000メートルの山脈、中央アルプス。それは、神々の棲家だった。
輝く山々の麓に、墨絵のように霞む里山があった。あるものは高くあるものは低く、子どもが作る丸い砂山のように、幾重にも連なっていた。里山は輝く山々とちがって、人の暮らしの匂いがした。
里山のすぐ下に、蛇のように蠢く一本の銀色の筋があった。それは、生き物のようにくねくねとくねって輝いていた。伊那谷の底を流れる天竜川だ。太めの糸ほどに見えるが、明らかに命あるもののように見えた。
人には、だれにもそうした記憶のはじまりの一ページがあるのだろうか。そうして刻まれた風景を、原風景と呼ぶのだろうか。
長野県下伊那郡座光寺村北市場、母の実家である。父が、28歳で戦争に狩り出され、22歳の若い母と1歳か2歳の幼い私は、戦禍の迫る東京を離れて疎開した。
 山と川と、陽光降りそそぐ大地は平和であり、そこには戦争のせの字もなかった。村人たちもほのぼのと野良仕事に精を出していた。母も朝早く、私が目覚める前に、畑や田んぼに出かけ、一日中働いていた。だが、村には若い男がいなかった。果樹園にも田んぼにも、若い男の姿がなかった。腰の曲がった男たちと、女ばかりの村だった。それが戦争だった。
幼い私は、戦争などまったく知らなかった。父がいないことも、時々不思議に思ったものだが、近くの小川で遊ぶ日々に、父のいない寂しさを感じることはなかった。
ただ、母から、はい、父ちゃんにご飯をあげておいで、と言われ、よちよちと広い部屋を歩き、部屋の隅に置かれた父の茶色い写真の前に茶碗を置いてくる時だけが、父を感じる時だった。実際の父は、戦場で銃を撃ち、私の父は、茶色の写真のなかで笑っているのだった。
毎日毎日、近くの小川で遊んだ。遊び相手はいなかった。家には、祖母しかいなかったし、村の子どもたちの姿もなかった。ある時、子どもたちの姿を見つけ、嬉しくなって走り寄ると、疎開ボーズ東京へ帰れ、と言われたが、意味がわからなかった。
小川のカニや小鮒と遊んだ。水車小屋の横にあった豚小屋の豚と遊んだ。いつも一人で遊んだが、寂しいとは思わなかった。寂しい時は、家の裏庭にある柿の木に登って、金色に輝く山々と銀色に輝く川を眺めた。山の向こうには、東京があって、いつかそこへ帰るのだ、と思っていた。それは、母に聞いたからそう思ったのだろうか。いつも、輝く山の向こうの、東京の空を見上げていた。東京下町生まれ、東京育ちの江戸っ子ながら、私は田舎モンだ。それは、信州の山と川、小川のカニと小鮒のせいだろうか。
■出て来い海舟 ■2015年1月7日 水曜日 14時48分7秒

「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲だ」。幕末の立役者勝海舟は、実際に出会った人物を鋭い慧眼で観察し、その著書「氷川清話」でズバッと切った。「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはや(幕府は)それまでと心配していた」と言う。「木戸松菊(孝允)は、西郷などに比べると、非常に小さい。しかし綿密な男さ。使いどころによっては、ずいぶん使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがの」と切って捨てた。年頭にあたり、勝海舟にご登場いただいたのは、偉大な人物は100年200年後に出てくる、という彼の予言どおり、そろそろ時代を読み、時代をリードする人物が現れていい頃だと思うからだ。乱世の幕末時代(現代も似たような乱世だ)実際に世界との交渉に立ち会い、大政奉還を企画し、江戸城を無血開城し、幕臣でありながら260年続いた徳川幕府の幕引きをしたのは、海舟だ。なにが正義なのか。なにが無理のない正しい流れなのか。それが読めた。なぜ、海舟はそんなに大人物だったのか。海舟は、「明鏡止水」という言葉を好んで使った。「明鏡止水」とはきれいな鏡のように澄んだ心、止まった水のように穏やかな心の状態のことだ。英米の列強に対し、薩摩、長州、他藩の過激な連中との交渉に際し、海舟は常に澄み切った鏡のように、先入観を持たず、余計な策を一切用いることなく、誠心誠意でぶつかった。その場その時にあらゆる方向に思考を巡らせ、相手の真意も変化も正確に把握し、対応の翼を自由奔放に広げた。あのでかさはなんだろう。「明鏡止水。どんな難局も、それで乗り切った。それでしか乗り切ることはできなかった。下手な策は相手に見透かされ、かえって交渉をまずくする」。できる準備を万端整えた上での「明鏡止水」だ。海舟の家は、元々武家ではない。祖父が検校で金を儲け、武家の株を買った。その頃の武家は貧しかった。金持ちと養子縁組をして持参金をもらい、その金持ちの家を武家として名前を名乗らせた。祖父は、初めに男谷家の株を買い、次に勝家の株を買った。男谷家を海舟の父小吉の弟にまかせ、勝家を小吉に継がせた。男谷家には、剣豪男谷精一郎がいる。海舟は貧しかった。精一郎について剣に打ち込むことによって貧しさを紛らわした。男谷道場には、剣豪島田虎之助がいる。海舟は、精一郎と虎之助から剣を習うと同時に、「もう剣の時代は終わる。これからは西洋の兵学だ」と蘭学を学び、いち早く世界を知ることとなった。まだ黒船は来ていない。海舟はだれよりも早く世界に目を向けたのだ。父小吉は、頭のいい人物だった。学はないけれど、大名の相談役ができるほど明晰だった。飾るところがまるでなく、下町世間といっしょに生き、喧嘩好きの無頼漢小吉は、自分に学問がない分、海舟に学問をさせた。海舟の飾らない性格、ここぞという勝負感と豪胆な精神は、間違いなく小吉譲りだ。その父からもらった天性の才能に、武士道で人間道を学び、剣で強さ弱さを知り、蘭学で世界を学んだ。父だけでなく優秀な師匠について教育と教養を身につけた。外国人とも大いに付き合った。人間としてどんどん大器となった。ここが重要。根本がしっかりしているから、自分を平気でさらけ出す。常に明鏡止水、素直でいられる。スポンジにようになんでも吸収する。内容のない人間ほど、飾らなければならない。飾る人間の底は浅いから、すぐ見抜かれる。策を弄するものほど、策を見破られ、窮地に陥る。海舟は、それをしない。正々堂々、正面から事に当たる。なにが正しいかをはっきり判別できるから、相手が見えてくる。相手の私利私欲、都合が見えてくる。相手が見えれば、交渉は自在だ。横井小楠、西郷隆盛、勝海舟、時代を創った人物に共通するのは、人間の器の大きさだ。夢と希望に溢れ、時代をリードする大きな器の人物が、いまの日本にほしい。出て来い海舟。謹んで新年のお慶びを申し上げます。
■一冊の本と一本の鉛筆。 ■2014年12月17日 水曜日 15時5分20秒

一冊の本と一本の鉛筆があれば、子どもたちの教育ができる。ノーベル平和賞を受賞したパキスタンの17歳の少女、マララ・ユスフザイさんの言葉だ。15歳の時、頭部と首に銃弾を受け重傷を負った。だが、神は彼女を死なせなかった。奇跡的に蘇ったマララさんのこの言葉に、わたしは衝撃を受けた。一冊の本と一本の鉛筆があれば、子どもたちの教育ができる。それはわたしたちが忘れていた教育の原点を思い出させた。思えばわたしたちの教育環境はなんと恵まれているのだろう。わたしたちの国はなんと「恵まれボケ教育」をしているのだろう。一本の鉛筆どころか、一人に一台のパソコンを揃えている学校がある。決してそれが悪いという話ではない。それはそれで悪くはない。だが、問題は別にある。教育とはなにかという原点が疎かになっていないか。便利な道具を揃え、最先端の教育環境を整えなければいい教育ができると思っていないか。わたしの後輩に教育者が多くいる。先日、静岡にいる後輩から手紙がきた。36年間教育の現場にいて校長まで務めた立派な人物だ。物事を真っ直ぐに見る真っ直ぐな性格の男だ。この男には私利私欲がない。真剣に子どもたちのことを考え、真剣に日本の教育を考えている。その彼の手紙にある問題が書かれてあった。「いじめの問題」だ。「先輩、いじめはなくなりません」。そう書いてある。愕然とした。「なぜなら学校は社会の縮図、社会にいじめが存在する以上、学校だけいじめをなくそうとしても無理です」。その通りだ。わたしはわたしの意見を書いて彼に送った。それに対処する方法は、三つある。一つは、ルールで縛ることだ。日本人は、ルールに弱い性格だ。マナーやエチケットを守らないが、厳しいルールなら守る。黒船や幕末の例を見てもわかるように外圧に弱い。ルールで縛っていじめを減らす。これが一つ。でも、この方法はみじめで気に入らない。もう一つは、後輩の彼も言っていることだが、一人一人を強い人間に育てる「独歩のススメ」だ。独立独歩の独歩。強風の荒野にも一人すっくと立つような人間の育成。これは大事だ。大賛成だ。もう一つは、社会全体の意識を変える。大人たちがまず意識を変える。武士道の「仁」や「義」をきちんと理解して、弱い者を守る社会をつくる。どんな理屈をこねようと子どもの最終責任は親にある。だが、親だけでなくすべての大人が、人間としての質を高めることが必要だ。それにしても、日本には度量の大きい人材がいない。勝海舟が言うように、細かい人間に大きなことはできない。横井小楠や西郷隆盛のような優れた人材が見当たらない。いまの日本は細かいことにとらわれすぎて閉塞感だけが募り、夢や希望をつくれない。これでは後について行きたくない。世界のリーダーどころかアジアのリーダーにもなれない。未来を開く力はない。経済力の底が割れた日本人には、もはや英知しかない。英知を磨き、英知で世界に打って出る。それには、「人間力」を磨かなければならない。人間力とは、知性と理性だ。教育と教養から生まれる高度な知性と理性。これが、「いじめ」を減少させる。マララさんのようにとは言わない。彼女は特別だ。度量も大きい。だが、彼女が教えてくれた。教育の本質、なにを教えるか、どういう人間を育てるか。金を稼ぐ人間を教育するのではない。人のためを思い、人に尽くせる人間、世の中のためになる人間を育成する。結果として報酬を得るのはいい。私利私欲ほど醜いものはない。責任回避ほど醜いものはない。「いじめは、弱い者を守ろうとする精神の欠如」だ。正義の欠片もない。司馬遼太郎さんは言う。「優しさ」や「人を思う気持ち」は、勉強しなければ身につかない。そろそろ一冊の本と一本の鉛筆から始めるのもいいですね。
■みんな健さんになりたかった。 ■2014年12月17日 水曜日 15時2分11秒

健さんになりたかった。でも・・・。映画封切りの火曜日になると授業をサボって、新宿歌舞伎町コマ劇場横の映画館に行った。朝一でチケット売場に並ぶ。長蛇の列。みんな学校や会社をサボってやってくるのだ。映画は、高倉健主演「網走番外地」。・・・どうせオイラの行先は、その名も網走番外地・・・。みんな健さんになりきって銀幕に釘付け。やがて、主題歌が流れエンドマーク。館内が明るくなるとあちこちから深い吐息。渋い歌声を背中で聞きながら、男たちはやおら出口に向かう。みんな健さんだ。肩を張り、顎はやや引きめ、ちょっと目を細め、鋭くあたりを憚るように視線を配る。だが、きょろきょろはダメ。貫禄がない。誰かが命を狙っているのではないか。私服の刑事が後をつけていないか。そのための目配せだから、下から上に舐めるように視線を移す。だれも命なんか狙っちゃいない。警察だって私の後をつけるほど暇じゃない。ポケットに手を突っ込む。うつむき加減、大股。健さんほど足が長くない。転ばない程度の大股。で、映画館から出ると、歌舞伎町はもう健さんだらけ。あっちの通りに健さん、こっちの店先に健さん、健さんと健さんがすれ違いざま肩をぶつけたりする。すると、お互いに鋭い目で相手を睨む。だが、二人とも健さんじゃない。本物のやくざでもない。だから、心配ない。むしろ、おお、あんた健さんか、おたくも健さんか、と妙な共感が生まれ、お互いに頑張ってやろうぜという友情さえ芽生える。思わず目と目で励まし合っちゃう。なかにはもっと芝居がかった連中がいて、映画が終わると連れに向かって突然、「兄貴、お疲れさまです」などと口走る。こんなの結構いる。兄貴と呼ばれた男は、不器用無愛想を装いながら、こみ上げる笑みを噛み殺してゆっくりと立ち上がり出口に向かう。その間、決してにやけた顔はできない。映画館を出るまでに、「兄貴、兄貴」が5回も6回も連発される。兄貴分も健さんなら弟分も健さんだから、なにがなんだかわからない。おまけにこっちも健さんだから、もうごちゃごちゃ。帰りにコーヒーを飲んでも、決してお釣りなんかもらわない。電車賃さえなくなって、新宿から下落合まで歩いて帰ろうともお釣りはもらっちゃだめ。コマ劇場前の喫茶店でアルバイトをしていて若いやくざと知り合った。当時は、やくざの予備軍がいた。野球でいう二軍だ。その二軍に田所という同い年の男がいた。いつも喫茶店の窓際の席で、コマ劇場のチケットを闇で売買する二人の舎弟を見張っていた。ダフ屋だ。「あと一年遊んだらオヤジの跡を継いで店をやるんだ。古いちっちゃな食堂だけどさ」。田所は、いつもそう言って笑った。どこか切ない笑いだ。一日が終わると、二人の舎弟にラーメンを食わせビールを飲ませ、小遣いを渡した。チケットが売れない日も必ずそうした。そんな日は、自分の財布から小遣いとタクシー代を渡した。そして自分は、早稲田まで歩いて帰った。混雑した通りで誰かが肩をぶつけても、田所は自分から頭を下げた。私なんかより、よっぽど健さんだった。翌年、田所の姿を新宿で見ることはなくなった。網走番外地の原作は、服役中の夫から帰りを待つ妻への愛の手紙だ。そのまま映画にしてもヒットしなかった。高倉健という役者を得て、仁義という不文律を命懸けで守りぬく不器用さ、男とはこういうものだという哀しいまでの真っ直ぐな生き方、それが男のなかの男として演じられ、気の弱い私には到底まねできない男の理想を見せた。その後、「遥かなる山の呼び声」も「幸せの黄色いハンカチ」も「あなたへ」も、健さんはいつも不器用で真っ直ぐな男だった。愛する人を守った。きっと健さん本人も不器用で真っ直ぐな人なのだ。今日も、健さんのように不器用で真っ直ぐに、愛する人を守って生きようと決意するが、肝心の愛する人が、「あんた、健さんじゃないもんね」と、身も蓋もないことを平気で言う。健さんになりたかった。でも・・・。夢をありがとう、さようなら、健さん。
■酒飲みの品格。 ■2014年11月17日 月曜日 10時44分7秒

アーウィンショウの「夏服を着た女たち」の翻訳で知られる常盤新平さんは、とてもおしゃれな文章で、いつ読んでも清々しい風に抱かれているようで気持ちがいい。エッセイもすてきだ。常盤さんは、ある年齢までまったく酒が飲めなかった。われらが先輩山口瞳さんとは大違いだ。ところが常盤さん、ある朝突然酒が飲めるようになった。翻訳の原本をさがしにニューヨークに行き、逗留したホテルでのこと。コーヒーの芳しい香りで目覚めた。1階のレストランからだ。そそくさと身繕いをしてレストランに行く。先客たちが思い思いにブレックファーストを楽しんでいる。メニューを広げふと見ると、周囲の客たちがうまそうにビールを飲んでいる。バドワイザービールだ。思わず誘われて飲んだビールのおいしいこと。下戸の常盤さん、一瞬にしてニューヨークで上戸に変身した。かといってガツガツ飲む年齢ではない。少々高い酒を、少々飲む。これが常盤流。あれだけおしゃれな文章を書く常盤さんだ。私などと違い、さぞかしスマートな品格のある飲み方をしただろうと想像する。立原正秋さんの小説が好きだ。石原裕次郎の「剣と花」の歌を聞くと立原さんを思い出す。・・・朝靄をついて、剣を振ってたら、紅い花びらが肩に落ちてきた・・・。鎌倉に住み、いつも着流しを着ていたという。朝靄の海岸で一人剣を振る立原さんの姿が浮かんでくる。本名をキム・ユンキョといい、朝鮮で生まれた立原さんだが、だれよりもサムライだった。湘南を舞台に書く小説の主人公の、確信に満ちた無頼の美学には心惹かれる。朝9時から夕方5時まで、立原さんは、きちんと時間を決めて原稿を書いたと聞く。朝、机の上に一升瓶をどんと置き、仕事をしながら飲む。夕方になり、ちょうど一升瓶が空になる頃仕事を終え、それから街へ飲みに出る。作り話かも知れない。だが、いかにも無頼な立原さんらしくてすてきだ。酒の飲み方にも品格を感じる。高校の頃、銀座のバーでバーテン見習いのアルバイトをした。資生堂の裏の「アンテ」という店で、小さいがこれこそ銀座のバーという感じで品がよく、客筋もよかった。会社の社長という人がよく日劇の踊り子を連れてきた。若き日の倍賞千恵子さんや三田佳子さんだったと思う。ママは和服姿で、いつも凛としていた。客との応対と会話を仕込まれた。バーテンは宮坂さんといい、いつも髪をきちんと整え、真っ白いワイシャツにネクタイをキリッと結んでいた。驚くほど清潔感にあふれたハンサムで、日劇の踊り子たちも銀座の女の子たちも熱を上げていた。酒の種類、カクテルの作り方、客との会話を厳しく教わった。当時、1日のアルバイト代は500円だった。いま、コンビニの時給が1000円くらいだから、時代とは面白いものだ。銀座から下落合の自宅までのタクシー代もたしか500円だった。ある銀行の新橋支店長が趣味で絵を描いていて、個展をやったら絵が売れたといって、店のみんなにチップをくれた。500円だった。本当に嬉しかった。この頃の500円はコインではなく紙幣だった。カウンターの隅に座り、オールドパーのグラスをゆっくり口に運ぶ老舗の旦那の美しい佇まいは、いまも目に浮かぶ。しゃれていて軽妙な会話は、楽しかったし、とても勉強になった。それにしてはいまの私の飲み方は、どう見ても品がない。空手部にいたせいか、持って生まれたものなのか、どうも下品だ。どんな汚い店でも、どんな安い酒でも、だれといつ飲んでもうまいし楽しい。休日は、午前中から缶ビールを片手に街を歩いたりする。週末にグラス片手に街のいちばん高い樹と語り合う習慣は、作家の開高健先生から教わった。樹齢250年の樹の前に座り、グラス片手に語りかけると自分の小ささが見えてくる。先日、気がつくとある農家の庭に座っていて、ご主人に注意された。先生、他人から見ればただのアル中の爺さんですよ。妻は、「缶ビールはまあいいけど、朝からワンカップ持って駅前をふらふらするのはねえ」と、さすがにそれだけはだめと目をつり上げた。
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■映画監督を夢見る。 ■2014年9月30日 火曜日 13時42分6秒

背後に山ほどの苦労があることも考えず、ただただ映画監督に憧れる。映画づくりをやってみたい。男兄弟ばかり、その上中学、高校、大学の10年間を汗臭い体育会で過ごしたせいか、気の合う仲間たちとワイワイやる心地よさが身についてしまった。小津組とか木下組とか、黒澤組、大島組という映画づくりの呼び名のなんと美しい響きか。かといって、胸を張って威張るほどの映画オタクでもない。ジェームス・ディーン、ハンフリー・ボガード、ジョン・ウェインあたりから始まって、日活石原裕次郎、東映高倉健の洗礼を受けたクチだから、映画通からすればただのミーハーに過ぎない。ふとした成り行きでコピーライターになってテレビコマーシャルをつくるようになったが、テレビコマーシャルづくりは、映画づくりの雰囲気に似て実に楽しい。監督がいて、プロデューサーがいて、カメラマンがいて、数人のライトマンがいる。大道具、小道具、スタイリスト、ヘアーメイク等のスタッフがずらりと揃う。俳優とかタレントとかモデルが参加する。総勢20人30人以上になる。これはもう体育会の合宿である。お祭りだ。ワクワクする。嬉しさがこみ上げてくる。こんな楽しいコマーシャルづくりの企画とコピーを担当して200本以上やらせてもらった。あるときあるコマーシャルで、若夫婦を登場させるアイディアを出し、得意先の了承を得た。大手ディベロッパーのマンションのコマーシャルだ。「これさあ、15秒30秒って短いけど、映画のワンシーンみたいに撮影したいね」。プロデューサーにそう言うと、「やりますか?黒澤組に頼みますか?」という返事がきた。そういえば担当制作会社、黒澤明さんの息子さんと関係のある会社だった。黒澤明さんはすでに他界されていて、黒澤さんの助監督を28年も務めた小泉尭史さんが黒澤組の監督となっている。「できるのか?」。「聞くだけ聞いてみましょう」。小泉監督は、すでに「雨あがる」「阿弥陀堂だより」というすばらしい映画をつくっていた。黒澤組が引き受けてくれ、天にも上る気持ちで成城に会いに行ったのは、数日後だ。打ち合わせ場所のファミレスには、黒澤組の一同が集まっていた。小泉監督はやさしく微笑みながら、教育者のように真摯な眼差しで話をしてくれた。穏やかで、決して押し付けがましくなく、たくさんの仲間を惹きつける海のような大きさがある。街の公園で若い夫が若い妻を抱き上げて笑っている一枚の絵と、「プロポーズの言葉、覚えていますか?」という一行のコピーしか私は持っていなかった。これではとても映画にならない。だが監督は、なんとか映画にしようと知恵を絞ってくれた。「公園でなくてもいいですか?」。監督が言い、カメラマンの上田さんに相談する。「川にしましょう。柔らかな春の日差し。川面を舞う蝶。中也の詩の世界。しっとりとした幸福の中に芯の強さを感じさせる」。大賛成だ。撮影は多摩川で行った。曇った日だったが、驚いたことに黒澤組は、昨日の雨で流れの強く、濁った川の中に何本もの大型ライトを立て、きらきら輝く美しい春の川面をつくってしまった。蝶のように可憐な若い妻が膝小僧まで水に浸かり、手で水を跳ね上げる。すると、金色の水しぶきが無数の蝶となって宙いっぱいを舞う。息を飲むシーンとなる。岸辺でラジオを聞きながら妻に向かって笑いかける夫。テーブルの上の古いラジオから、財津和夫の緩やかな歌が光の川に溢れる。その小泉監督が久々に映画をつくった「蜩の記」が封切られる。打ち合わせが終わると酒を飲むスタッフと別れて、奥さんと食事をするためにいそいそと帰宅した監督。監督は、酒を飲まないが、それだけではない。「せめてロケがない時くらい、奥さんと食事をしてあげたいらしいのです」。スタッフの一人がそっと言った。映画には、小泉監督の柔らかく人を見つめる目と、暖かく人の命を包む心が溢れているのだろう。ああ、私には映画監督はとても務まらない。夢だ。
■小さな秋、見つけた。 ■2014年9月18日 木曜日 10時36分7秒

9月になって4日ほど遅い夏休みを取る。どこへ行こうという予定はない。多摩川で鯉釣り三昧も悪くはないが、はぐれ雲のようにぶらりと、なにもしない日々を過ごしたい。小さな秋をさがす旅に出ようと決める。家の玄関を出て、角を曲がればそれはもう旅だ。そう言ったのは、作家の永六輔さんだ。「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」を作詞した永さんには「遠くへ行きたい」というヒット曲もある。だが、遠くへ行く気はなく、ぶらりとバッグ片手に家を出る。図書館で本を借りよう。4泊くらいのつもりだから、だれかの全集が読めるかもしれない。夏目漱石はちょっと重いかな。「それから」を読んだばかりだし。志賀直哉もいい。武者小路実篤もいい。「愛と死」をもう一度読もうか。でも、つい石坂洋次郎に手が出てしまう。読みやすい。「若い人」はその昔、石原裕次郎主演で映画化された。浅丘ルリ子、吉永小百合が共演した。「草を刈る娘」も吉永小百合主演で映画化されたはずだ。これをじっくり読んでみよう。手軽な文庫本を買おう。駅前の本屋で、西村京太郎の「鎌倉江ノ電殺人事件」を買い、「日本の名詩100」を買う。読みかけのヘミングウェイの「エデンの園」はポケットにある。小田急線に乗り、適当に走り適当に降りる。バスにも乗る。小さな庭を見つける。「森田の庭、どうぞご自由にお入りください」、と書かれた手作り看板が暖かく迎えてくれる暖かく小さな庭だ。狭い石畳の小道の両側に花たちが咲き競い、精一杯に微笑んでいる。ユウゼンギク、ハツユキカズラ、サルビア、ミニバラ、サフィニア、ハマギク、ノコンギク、ケイトウ、マリーゴールド、季節の花々が、赤、オレンジ、ピンク、紫、黄色とさまざまな色をつけて咲いている。時々通り過ぎる風にかすかに揺れる花たちはみんな小さく頼りないが、ひとつひとつの花から懸命に生きる力が伝わってくる。おそらく専門の庭師が手入れをしているのではなく、庭好きの方がやさしく作り上げている庭で、過保護されない花たちがより自然に近い姿で、自分の力で生きている。周りを囲う低い木枠や小石がなければ、そのまま野に咲く花だ。小道の中程に白いベンチがある。何度もペンキを塗り直した古いベンチに、秋の日が当たっている。一人ではとても抱えきれない太さの杉の木が何本もあって、秋に午後の日差しが杉の枝をくぐってベンチや小道にちらちらと影と日向を作っている。重いバッグをベンチに置く。そういえば、もう蝉の声もない。冷たい水を一口飲む。「日本の名詩100」を開く。金子みすゞがいる。山村暮鳥がいる。宮沢賢治、室尾犀星、中原中也、草野心平、そうそうたるメンバーが力作を並べる。「秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があって、それに陽は、さらさらとさらさらと射しているのでありました」。中也だ。河原に行ってみるか。そうだ、陽のあるうちに河原を見てみよう。目先に小さな瓢箪池がある。ブロック石が瓢箪の形に並んでいる。白い看板に「鯉池の仲間たち」と書いてある。本をベンチに置き、池の畔にかがみ込む。澄んだ水に美しい4匹の錦鯉が泳いでいる。柚子、梅、都、みかんと、4匹の鯉の名前が書いてある。鯉たちは、まったく人影を恐れる様子がない。いじめられた経験がないのだ。多摩川の鯉たちを思い出す。人を恐れる。人の影に驚く。足音に逃げる。花にも鯉にもさまざまな人生がある。そういえば、仕事で行く途中の渋谷駅にはたくさんの鳩がいる。鯉釣りに行く多摩川にもたくさんの鳩がいる。どっちの鳩が幸せなのだろうか。小さな庭の小さな花は、いかにも幸せそうに見える。新宿御苑の手入れの行き届いた花壇の花たちと、人から忘れられたような小さな庭の花は、どちらが幸せのなだろうか。少なくとも、この小さな庭の花たちの方が、夢中で自分の人生を送っている。小さい秋とは、小さい幸せのことだろうか。なにもない一日が、ふと幸せに思えた。
■のたりのたりの蝉時雨。 ■2014年8月12日 火曜日 14時45分37秒

7月の声を聞くと、待ってましたとばかりに猛暑が突然襲ってきた。「この分じゃあ、山は火事だんべ」という落語のセリフを思いだしながら、渋谷交差点の真っ青な空を恨めしげに見上げる。そして思う。ああ、どうやってこの暑い夏をやり過ごそうか。とにかく山は燃え、脳みそも溶けそうだ。だが、逃げてばかりいても埓があかない。こうなれば反撃だ。攻撃こそ最大の防御なり。わが國學院大学空手道部伝統の精神で、攻撃に転じよう。開き直った。できる限りの防御を施してからの攻撃だ。でも、暑さに攻撃するとはどういうことだ。暑さに対する攻撃とはなんだ。そうだ、夏を楽しんでしまえばいい。この暑さを逆利用して楽しむことだ。それが攻撃だ。そう決める。かといって、豪華客船で地中海クルーズに出かけるとか、軽井沢の別荘でひと夏過ごすとか、そういった富裕発想の楽しみ方はまるで浮かんでこない。金をかけずに夏を楽しむ。下落合の職人の倅の貧しい発想しか浮かばない。下落合貧困発想では、どうすれば夏の暑さを楽しめるのか。そうだ、とにかくまず朝顔を買おう。朝顔を買って、テラスで咲かせてやろう。仕事帰りに渋谷のバス停前の花屋で朝顔を買う。妻の分と息子の分、二苗を買う。200円。安い攻撃だ。犬と亀とわたしの分は買わない。テラスが狭い。枯れた。朝顔は、すぐ枯れた。なぜか、すぐ枯れた。どうしてだ。妻は、枯れた理由などまるで考えずに、あっという間にテニスクラブの脇に咲く朝顔の苗をもって帰る。こいつが元気でぐんぐん伸びる。ぐんぐん伸びて、ぱっぱと花が咲いた。皮肉か。理屈抜きの女性の感性にはかないません。ある朝5時に起きて数えてみたら29輪の花が咲いて、にこにこ笑ってこっちを見てる。それは、妻の勝ち誇った笑顔のようで、かわいいけれどなんか腹が立つ。いやですねえ、女性に対する男の本能的な嫉妬かなあ。8月に入った月曜日。暑さはさらに厳しい。新宿歌舞伎町、花園神社にいる。夕暮れだ。西の空が赤く染まっているが、上空には青味が残っている。参道の灯篭に灯が点った。暑い。空気がドヨンと澱んでいる。参道の石畳は焼肉の鉄板だ。その上を歩くわたしは、カルビだ。簡さんとの約束は7時だから、まだ小一時間ほどある。日本生まれで台湾国籍をもつ簡さんは、NPOや社団法人の運営に関わり、アジアとの太い架橋となっている。今日、その簡さんに会って「気功」の講義を聞く。まだ時間がある。カルビのわたしは、こんがりと焼けながら石畳の鉄板の上を漂い歩く。そこで、ふと浮かんだのが、「ひねもすのたりのたりかな」という句だ。なぜかはわからない。ふと浮かんだ。与謝蕪村は、「春の海、ひねもすのたりのたりかな」という名句を生んだ。「のたりのたり」、いい言葉だ。ドヨンの中で、「のたりのたり」という言葉が浮かんだ。でも、蕪村の「のたりのたり」は、春だ。わたしの「のたりのたり」は、夏だ。猛暑の花園だ。海ではない。繁華街のど真ん中の神社だ。だが、気分はまさに「のたりのたり」だ。そこで、句に挑戦する。溶けかかった脳で句を詠む。「夏の宵、ひねもすのたりのたりかな」。まんまだ。それに「ひねもす」ではない。たかが小一時間の逍遥だ。そこで、こうする。「夏の宵、のたりのたりの石畳」。石畳を入れたが、「夏の宵」が当たり前すぎてつまらない。これはどうだ。「蝉時雨、のたりのたりの石畳」。だめだ、「蝉時雨」がきれい過ぎてつまらない。では、これはどうだ。「蝉宵や、のたりのたりの石畳」。少しいい。だが、フラットだ。「蝉宵」を「蝉酔い」にしたらどうだ。「蝉酔いに、のたりのたりの石畳」。「蝉酔いや」より「蝉酔いに」のほうがいいな。待て。「石畳」がいまいちだ。「宵酔いに、のたりのたりの蝉時雨」。もはや蕪村から遠くなったが、悪くない。「宵酔いに、のたり花園蝉時雨」。遠すぎるか。そうこうするうちに竹林閣を訪れる時間がきた。以来、「のたりのたり」が、猛暑に対抗する呪文となった。
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■女が勝つか、男が勝つか。 ■2014年7月30日 水曜日 13時48分8秒

夏目漱石が、東京大学教授の安定した椅子を突然放り投げて、朝日新聞の社員になった理由ははっきりしない。大学教授より不安定な暮らしになるが、それなりに高給だったと推測する人もいる。新聞社に行けば、もっと自由に小説が書けるからだという意見もある。漱石はその性格からして破滅型だ、安定した暮らしに飽きたのだという推測も当たっているかもしれない。とにかく漱石は、すでに小説家としても世に知られるようになっていたのに突然朝日新聞社の社員になった。そして書いた最初の連載小説が「虞美人草」だ。「虞美人草」に「藤尾」という女性が登場する。彼女はこの小説の重要人物のひとりで進んだ考え方を持ち、時代の先端を生きる女性だ。やがて訪れる時代の、理想の女性像を暗示させる人間として漱石は書いた。その漱石が、女と男に関してこんなことを言っている。「1対1の戦いでは、男は決して女に勝てない」。そういう。漱石活躍の明治時代は、まだ江戸時代を引きずっていたわけだから、ばりばりの男社会だったはずだ。それなのに漱石は、「1対1の戦いでは、男は女に勝てない」と明言した。ばりばりの男社会でありながら、女のほうが強いと、そう言う。たしかに「藤尾」は、少々自分中心だが、社会理論を美事に組み立てるし、相手の言葉尻を素早く捉え、揚げ足を取るのも巧みだ。思考も新しいし、機転も効いて話術にも長けている。だが、「男に勝つチャンスがないわけではない」と漱石は言う。社会の話、国家の話、政治の話、戦いの土俵をそこにもって行けば、男にも勝つチャンスがある。漱石はそう分析した。だが考えてみれば、現代も同じようなものだ。現代は、男社会から女社会へ移行する過程にある。美しくいえば男女平等社会の実現を目指している。さまざまな点でギクシャクしながら、あちこち無理しながら女も男も頑張っている。女たちが「藤尾」のように、自分中心でありながらしっかりと社会や国家や政治の勉強をし始めている。大したものだ。ついこの前まで、日経新聞は男でも読まない者が大勢いたが、いまはどうだ。女性が人前で日経新聞を読むのが、格好いい時代になった。記事内容が一般新聞寄りに拡大されたこともあるが、女性が、社会、国家、政治の領域に足を踏み出したことは確かだ。男に負けない「藤尾」のような女性が大勢現れたのだ。小説家村上龍と女性をテーマに対談したのは、彼も私も若い頃だった。「女のほうが強いね」。それは、彼もわたしも同意見だった。ある化粧品会社のPR誌だった。「女が戦争に行ったら、男より強い」。村上氏は言った。「では、なぜ男が戦場に行くのか?」。わたしの質問に村上氏は言う。「女が戦場に行って、もし一人しか帰還しなかったら、翌年子どもは一人しか生まれない。男が国に何人残っていようが女が一人になってしまったら、子どもは一人しか生まれない」。「男が戦場に行って一人だけ帰還しても、国に女が大勢いれば子どももそれだけ大勢生まれるということですね」。わたしたちは子どもを生むだけかよ、と女性たちに叱られそうだが、実に明快な理論でもある。つまり、女と男がまったく同じ土俵に立てば、男は女に勝てないのだ。当然だ。国というものは、運営の善し悪しがあるけれど、子どもの数の多いことが繁栄の基本だ。男たちは、心のどこかでそれがわかっているから、政治だ経済だ国家だと、社会の中で役立とうと必死になっている。その分野まで女に奪われたら、もうあとは男が子どもを生むしかない。最近増えているニューハーフ連中に聞いてみたい。あなたがたの究極の願望は、子どもを生むことかと。まあ、その前に男女の勝ち負け論は止めて、どうすればともに輝かしい未来が創れるのかを、腹を割って話したい。女の美事な部分と、男の美事な部分を認め合い、尊重し合うことから始めることだ。それが男女平等社会の基本だ。さもなくば、確実に男が負けるか、国が滅びるかだろう。
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■私の愛したヤクザ。 ■2014年7月2日 水曜日 13時15分27秒

人は、人に磨かれる。その時の私にはその言葉が偽りのない真実だと思う若さと純心があった。伝説の侠客、関東尾津組組長尾津喜之助氏と出会ったのは大学4年の時で、越谷にある喜之助氏の別邸だった。季節は爛漫の春、舞う桜吹雪が庭園を芝居の舞台のように飾っていた。伝説の男は灰色の着物に大柄な身体を包み、ゆっくりと桜吹雪の中に現れた。180センチを越える長身。痩身でがっしりとした体格。着流しの着物の裾が春風にはらりと揺れた。後ろに義兄の安次郎さんが寄り添う。広い庭園では、大勢の社員と大勢の越谷の人々が集って花見の宴を楽しんでいる。錦鯉の泳ぐ大きな池があり、屋形船が浮かんでいる。木蔭のあちこちに鉄製の檻があり、熊が飼われている。桜の木々の足元では、放し飼いの孔雀たちが美しい姿を見せている。飲食や遊戯の屋台が並び、どの屋台にも人々が群がっている。焼きそばも綿菓子も金魚すくいも、すべての屋台が無料だ。子どもたちは両手にあまる食べ物を抱え、手に手にヨーヨーや金魚をぶら下げて走り回っている。大人たちは芝生に敷いたゴザに座り、折り詰めの寿司を広げている。その時すでに組は解散し、喜之助氏は実業家に転身していた。尾津組は尾津商事になっていた。新宿歌舞伎町に龍宮城に似た豪華なお好み割烹店を出し、三越裏に日本で初めてのスーパーマーケットを出店していた。喜之助氏にまつわる伝説は多い。太平洋戦争の敗戦で焼け野原となった新宿の街に、「光は新宿から」のスローガンを掲げ、私財を投じて街灯を設置した。不良アメリカ進駐軍から日本人を守るために、身体を張った。駅東口にテント張りの「尾津マーケット」を作って生活物資を供給し、空襲によってボロボロになった人々を救った。歌舞伎町にゴールデン街を造ったのも喜之助氏だ。父の友人の安次郎さんに頼まれ、私は空手の演武を披露するためにこの宴にきた。水戸の武家に生まれた喜之助氏は空手に興味をもち、昼食に招待してくれた。直々に酒を注いでくれる喜之助氏に、伝説の男を目の前にする気持ちの昂りとともに、複雑な気持ちが沸いた。不安が心をよぎった。盃を受け取るということは、親分子分の関係になってしまうのだろうか。石原裕次郎のヤクザ映画の大ファンだったが、本気でヤクザになる気はなく、そんな度胸も私にはない。「きみは、国士ですか?」。喜之助氏が笑みを浮かべて語りかける。荒削りの彫刻のような風貌。太い眉。窪んだ瞳の眼光は鋭いが、穏やかな光だ。太くがっしりとした鼻梁。厚い唇。大きく引き締まった口元。いかにも豪放、まさしく武士だ。国士という聞きなれない言葉に戸惑っていると、喜之助氏が言葉を継いだ。「日本はここまで復興した、だが、まだこれからだ。国を創るためにその力を使いなさい」。それを聞いて国士の意味が理解できた。「就職は決まったのかね?」。喜之助氏が聞く。「いえ、まだです。アメリカで空手を教える話がありますが、行きません」。「ほう、なぜ?」。「あんなでかい図体の連中と殴りあう気がしません」。そう答えると喜之助氏は愉快そうに笑った。話は続いた。若い私に、喜之助氏は自分の生き方を語り、男の生き方を教え、日本の将来を語る。「誇りだけを守ってきたのかなあ、なあ安さん」。横で安次郎さんがほのぼのと笑う。安次郎さんは、喜之助氏とは違って地蔵のように小柄だ。その穏やかさからはかつて侠客時代に、「人斬り安」と怖れられた尾津組の斬り込み隊長だったとは誰も想像できない。喜之助氏の伝説は、小説よりも数奇だ。「社長は、きみに尾津商事に就職してほしいのだ」。帰りに桜吹雪の庭園を歩きながら、安次郎さんがぽつりと言った。結局私は、尾津商事に就職することはなかった。だが、大学を卒業するまでスーパーマーケットでアルバイトをしながら安次郎さんにお世話になった。喜之助氏も着流しでふらりと現れ、顔が合うと財布から手の切れるような一万円札を取り出して渡すのだった。若い日の、男の中の男との出会いだ。
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■私の愛したヤクザ。 ■2014年7月2日 水曜日 13時15分21秒

人は、人に磨かれる。その時の私にはその言葉が偽りのない真実だと思う若さと純心があった。伝説の侠客、関東尾津組組長尾津喜之助氏と出会ったのは大学4年の時で、越谷にある喜之助氏の別邸だった。季節は爛漫の春、舞う桜吹雪が庭園を芝居の舞台のように飾っていた。伝説の男は灰色の着物に大柄な身体を包み、ゆっくりと桜吹雪の中に現れた。180センチを越える長身。痩身でがっしりとした体格。着流しの着物の裾が春風にはらりと揺れた。後ろに義兄の安次郎さんが寄り添う。広い庭園では、大勢の社員と大勢の越谷の人々が集って花見の宴を楽しんでいる。錦鯉の泳ぐ大きな池があり、屋形船が浮かんでいる。木蔭のあちこちに鉄製の檻があり、熊が飼われている。桜の木々の足元では、放し飼いの孔雀たちが美しい姿を見せている。飲食や遊戯の屋台が並び、どの屋台にも人々が群がっている。焼きそばも綿菓子も金魚すくいも、すべての屋台が無料だ。子どもたちは両手にあまる食べ物を抱え、手に手にヨーヨーや金魚をぶら下げて走り回っている。大人たちは芝生に敷いたゴザに座り、折り詰めの寿司を広げている。その時すでに組は解散し、喜之助氏は実業家に転身していた。尾津組は尾津商事になっていた。新宿歌舞伎町に龍宮城に似た豪華なお好み割烹店を出し、三越裏に日本で初めてのスーパーマーケットを出店していた。喜之助氏にまつわる伝説は多い。太平洋戦争の敗戦で焼け野原となった新宿の街に、「光は新宿から」のスローガンを掲げ、私財を投じて街灯を設置した。不良アメリカ進駐軍から日本人を守るために、身体を張った。駅東口にテント張りの「尾津マーケット」を作って生活物資を供給し、空襲によってボロボロになった人々を救った。歌舞伎町にゴールデン街を造ったのも喜之助氏だ。父の友人の安次郎さんに頼まれ、私は空手の演武を披露するためにこの宴にきた。水戸の武家に生まれた喜之助氏は空手に興味をもち、昼食に招待してくれた。直々に酒を注いでくれる喜之助氏に、伝説の男を目の前にする気持ちの昂りとともに、複雑な気持ちが沸いた。不安が心をよぎった。盃を受け取るということは、親分子分の関係になってしまうのだろうか。石原裕次郎のヤクザ映画の大ファンだったが、本気でヤクザになる気はなく、そんな度胸も私にはない。「きみは、国士ですか?」。喜之助氏が笑みを浮かべて語りかける。荒削りの彫刻のような風貌。太い眉。窪んだ瞳の眼光は鋭いが、穏やかな光だ。太くがっしりとした鼻梁。厚い唇。大きく引き締まった口元。いかにも豪放、まさしく武士だ。国士という聞きなれない言葉に戸惑っていると、喜之助氏が言葉を継いだ。「日本はここまで復興した、だが、まだこれからだ。国を創るためにその力を使いなさい」。それを聞いて国士の意味が理解できた。「就職は決まったのかね?」。喜之助氏が聞く。「いえ、まだです。アメリカで空手を教える話がありますが、行きません」。「ほう、なぜ?」。「あんなでかい図体の連中と殴りあう気がしません」。そう答えると喜之助氏は愉快そうに笑った。話は続いた。若い私に、喜之助氏は自分の生き方を語り、男の生き方を教え、日本の将来を語る。「誇りだけを守ってきたのかなあ、なあ安さん」。横で安次郎さんがほのぼのと笑う。安次郎さんは、喜之助氏とは違って地蔵のように小柄だ。その穏やかさからはかつて侠客時代に、「人斬り安」と怖れられた尾津組の斬り込み隊長だったとは誰も想像できない。喜之助氏の伝説は、小説よりも数奇だ。「社長は、きみに尾津商事に就職してほしいのだ」。帰りに桜吹雪の庭園を歩きながら、安次郎さんがぽつりと言った。結局私は、尾津商事に就職することはなかった。だが、大学を卒業するまでスーパーマーケットでアルバイトをしながら安次郎さんにお世話になった。喜之助氏も着流しでふらりと現れ、顔が合うと財布から手の切れるような一万円札を取り出して渡すのだった。若い日の、男の中の男との出会いだ。
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■河の子どもたち。 ■2014年6月19日 木曜日 16時32分55秒

時は、過ぎ去るものか、やってくるものか。過ぎ去る時を「過去」といい、やってくる時を「未来」と呼ぶ。過ぎ去ると思うのはオトナたち、やってくると感じるのは子どもたちだ。そしてすべての命は、「いま」を生きる。サリー、ショータ、シキ、リューマ。4人の河の子どもがいる。悠久の大河に抱かれ、自然と対話し、自然の命と響きあって生きる命。両手に抱えきれない「未来」をもち、あふれる夢と希望をもつ。きみたちは、夢と希望の塊だ。それを磨くのは、この大河。河原に息づく木々や草や花や鳥や、たくさんの命だ。だが、オトナになると夢と希望は消える。オトナたちは、きみたちの夢や希望を奪い取り、それがオトナになることだと勘違いをしている。サリーは、中学生になった。エキゾチックな美少女だ。小学生の頃、この河に釣りにきた。父に釣りを教わったと聞く。肩まで伸びた黒く長い髪。瞳は清く澄み、小鹿のような純粋な光を宿す。すらりと伸びた容姿をトレーナーや半ズボンといった男の子のような服装で包む。鯉釣り師の今川さんや岩崎さんが、釣り道具を上げる。お昼ご飯をすすめたり、おかずを分けたり、なにかと面倒をみる。二人には、サリーと同い年の孫がいる。サリーは、河原の石を並べる。ビール箱の裏の穴に一つ一つ並べる。黙々と、ただ石を見つめ、時間を忘れて並べる。切ない。釣りを教えた父が、数年前に事故でなくなったと聞く。この河は、父の想い出か。「サリーちゃん、学校好きか?」。そう聞くと、うーんと首をかしげた。「なにが楽しい?」。そう聞くと、「ヒップホップ」と小さく言って小さく笑った。サリーが鯉を釣り上げると、みんなわがことのように喜ぶ。中学生になってダンス部に入ったと聞いた。ショータは、小学5年生。外国人の母をもつ。学校が嫌いだ。先生から、「そんなに嫌いならこなくてもいい」といわれた。本当ならひどい話だ。BBQの連中を見ると、火起こしを手伝う。そして、肉をご馳走になる。あっちのグループこっちのグループと、いつの間にかBBQの輪に入る。「おじちゃん、リール投げさして」。BBQに飽きたショータがそういうと、有村さんは自分の竿を渡す。うまく投げられない。すぐ飽きる。そんなことは百も承知で有村さんは、いつも竿を貸す。根がかりで仕掛けを失くしても、竿を放り出して消えてしまっても、いつも笑って竿を貸す。シキは、川上から自転車でやってくる。小学4年生。水鉄砲をもって河原を駈け回る。オトナたちの釣竿に触って叱られる。それでも、ケロッとしている。岩から岩へ飛び回り、みんなをハラハラさせる。草むらに放り投げた自転車は、アメリカの少年のようにスタンドのない自転車だ。賢しこそうな顔をしている。「シキ、勉強してるか?」。そう聞くと、ニヤッと笑って走って消えた。リューマは、父と二人で河にくる。子ども釣りコンテストに参加して、大物を狙う。小学2年生。父の言うことには絶対服従だが、マクドナルドの昼飯に時々文句をつける。「寄り道してるのかなあ」とブツブツ言う。父を心配している。「これ食べな」。仲よしの金沢さんがパンを勧めても、リューマは手を出さない。父の許しがないと手を出さない。父母の躾がきちんとしている。そのくせ、寂しがりやで甘えん坊だ。ある時、リューマの竿に70センチの巨鯉がきた。子どもの手には負えない大きさだ。だが父は、「自分でやれ」と手を貸さない。網を手にリューマにぴたりと寄り添う。「大丈夫、できる」と励ます。「重いよ。糸が切れる」。リューマの泣き言にハラハラする父だが、「大丈夫」をくり返す。やっと釣り上げてリューマが笑う。それでも「手が痛い」とか「コンテストじゃもっとでかい鯉を釣ってるね」と、リューマは父に甘える。「リョーマ、おまえは、国を変えるほどのいい名前をもっているんだ」。そう言うと、「ぼくはリョーマじゃない、リューマだ」と、強気の返事が返ってきた。子どもたち、オトナになっても、この河を忘れるな。たとえ都会の濁流に流され傷ついても、悠久の大河に抱かれる「いま」を忘れるな。いいか、きみたちは、夢と希望の塊だ。
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■わたしの酒場放浪記 ■2014年6月2日 月曜日 13時3分42秒

おれは想う海の彼方を。裕次郎は歌う。男は、放浪に憧れる。放浪は、男の宿命的願望だ。どこか知らないけれど遠く行きたいぜ、でかい夢ふくらむ胸なのさ。歌はそう続く。だが、ふと気がつくと、もはや放浪より徘徊の似合う歳となった。白い雲のように湧き上がるでかい夢も霧と消えた。いまや、夢を肴に酒場を放浪し、酔いの海を漂う日々となった。東横線渋谷駅ガード下に「やまがた」という居酒屋がある。茶色く変色した壁にそって続く古畳の座敷がなんとも落ち着く。申し訳程度に置いてある、尻より小さい座布団がご愛嬌だ。この店は、わたしの大学時代からある。刺身が安い。だが、鮮度にいちゃもんをつけてはいけない。むしろ失礼だ。食べられればありがたい、と思う心の広さが男には必要だ。なにより嬉しいのは明るいうちから飲めることだ。昼間から飲む罪悪感などまったく感じさせない店だ。これこそ男の逃げ場である。最近、マークシティの足元にある酒場に流れ着いた。「これぞ渋谷」という実に見事な佇まいで何から何まで古く、古さをむしろ誇りとしている節がある。客までも古い。「細雪」という粋な名前が恥ずかしいのか、看板の電気が点かない。やっているのかやっていないのかわからない。傷だらけのガラスのドアを開けるのに苦労する。開かない。客が入るのを拒否する。ドアの取っ手が壊れていて、ガリガリとガムテープが巻いてある。無理やりこじ開けると、今度は閉まらない。酒にたどり着くまでに10分かかる。やっと入る。毎度のごとく相席とくる。3人がヒソヒソ話をしている4人掛けのテーブル席にちょこんと座らされる。バツが悪くても文句を言ってはいけない。銀行を襲うような苦労をして、生きて店内に入れただけでも幸せなのだ。いかの刺身と熱燗二本2本で1000円ちょい。時々若い女性もいて、尊敬の眼差しを向けたくなる。だが、ここではあまり酔ってはいけない。疲れてはダメ。帰りに壊れたドアを閉めるという大仕事が待っている。先日、わが町千歳船橋駅前にある酒場に寄った。週末の、多摩川の鯉釣りの帰りだ。河という天国から妻のいる家に帰るには、ある覚悟が必要だ。男は、妻の前に出るには覚悟がいる。キライと言うのではない。河が天国で、家が地獄と言っているのでは絶対にない。だが、なぜか覚悟を要する。その覚悟の一杯をやる。城山通りを渡りラーメン屋の角を右に入る。アーケードとは聞こえはいいが、まあ、屋根のある路地裏だ。ダンボール箱やビール箱が山と積まれた狭い通路を、釣り道具を引きずりながらヨレヨレ歩くと、左側に「なぎ屋」はある。焼き鳥と焼きトンの店だ。ガラス越しに鳥を焼きながら、店長がピョコンと頭を下げる。細身で背が高く、お笑いタレント「よいこ」の有野くんに似た笑顔だ。ほっとする。聞こえないのに「いらっしゃい」ときちんと言っている様子。その礼儀正しさが嬉しい。時には、がっしりした体格の副店長らしき男性が、これまた鳥を焼きながら、最上級の笑顔で迎えてくれる。人を幸せにする笑顔だ。彼の体格を見ると「ああ、大震災がきてもこの町は安全だ」と思う。なにか格闘技をやっていたのだろうか。入り口の手前の通路にテーブルがあって、この席が好きでいつもそこに座る。「なぎ屋」は、メニューも豊富で安く、子ども連れの客も多い。居酒屋に子どもがちょろちょろするのも微笑ましい。メニューが豊富なだけでなく、居心地がいいのだ。店員のみなさん、だれもが気持ちいい。熱燗二合と鳥皮のタレを二本、それしか頼まないわたしなのに、わが子以上にやさしい。鯉の釣れない日も「どうでしたか?」と聞く女の子の笑顔に触れると「来週は釣るぞ」と、勇気が沸いてくる。タトゥーを入れた若者も歯切れのいい会話と行き届いたサービスで、爽快な気分にしてくれる。カウンター席もわるくない。先日、隣に座った美女と話が弾み、帰り際に傘まで貸してもらった。自分が濡れるのも構わずに貸してくれた。店もいいが、客もいい。さて、今日もふらり、わたしの酒場放浪は続く。
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■本屋さんのある町は、いい町だ。 ■2014年5月13日 火曜日 14時11分20秒

小沢昭一さんが「川のある町は、いい町だ」と言った。わたしは「本屋さんのある町は、いい町だ」と思う。小学生の頃、西武新宿線下落合駅前に「貸し本屋さん」ができたときは嬉しかった。当時、高田馬場か目白まで行かなければ本屋さんがなかった。本が読みたくて隣町までとことこ歩いて行っても、立ち読みをすると怒られた。怒られないまでもハタキでパタパタ追い払われた。それでも懲りずに本屋さんに通った。父や母に、本を買いたいと言ってもお金をもらえなかった。本は一年に一度、お正月に買った。付録が山のように付いているお正月号を買うと、世界を手に入れたように嬉しかった。わが家が特別貧乏だったわけではない。本は高いものだった。そんなとき、駅前に貸し本屋さんができた。毎日のように本を借りた。1冊借りて10円しなかった。わたしは身体を動かすことが好きで、決して文学少年ではなかったけれど、本は特別の存在だった。本を読まないと置いてきぼりにされそうな恐怖心があった。未知の世界の大きさ、広さ、深さ、奇想天外の面白さが全部本のなかにあった。母に寝ろといわれても、ボストンバッグのなかにスタンドを突っ込んで光がもれないようにし、夜中まで本を読んだ。おもしろブックや冒険王といった雑誌は、いつも新しい世界を見せてくれたし、江戸川乱歩の探偵小説では、明智小五郎と小林少年が、学校では教えてくれない考え方を教えてくれた。鞍馬天狗は、正義とはなにかを教えてくれ、弱い者を助ける勇気を教えてくれた。エジソンの伝記ものは、才能とはなにかとか、努力することの大切さを教えてくれた。百科辞典は、世界の不思議に対する解答のすべて教えてくれる知識の宝庫だった。教科書はつまらないけれど、本はなんて面白いのだろうと思った。やがてスポーツにのめりこんでも、いつもポケットに文庫本が入っていた。新聞配達の報酬をもらうと必ず本を1冊買った。本を買うだけで、頭がよくなったような、正しいことをしたような、嬉しい気分がわいてきた。やがて新宿、渋谷、池袋が活動範囲となったが、どの町にもいい本屋さんがあった。友だちと待ち合わせをするのも本屋さんが多かった。いくら待たされても腹が立たなかった。最も待たされた記録は、高校時代に同級の佐藤光二郎に7時間待たされたときだ。新宿駅東口の二幸前で朝の9時に待ち合わせをし、午後4時に彼は現れた。わたしは、待ち合わせをしていることもすっかり忘れて本を読んでいた。「まだ、いたのか」。光二郎があきれてそう言った。いま、ネットの普及で本屋さんが激減している。最近、千歳船橋駅前の馴染みの本屋さんが店を閉めた。本好きの店主で、わたしとはテニス仲間だ。立ち話でいつも本の話をした。ある時期、若い連中がたむろするくらい人気のあった本屋さんだった。「もう無理だな」。彼は言った。「暮らしていけない。所沢に引っ込むよ」。「本屋さんを続けないの?」「本屋は食っていけない。これからなにをやるかなあ。おれ、本しか興味がないからなあ」。さびしく笑った。閉店の日、店の外に鉛筆やノートをダンボールに入れて、町の子どもたちに無料で配った。「これ全部、出版社からのもらい物だよ。出版社にも世話になった」。彼の顔を見て、ふと不安になった。この町は、本屋さんのない町になる。知識の宝庫、文化の拠点、いつでもふらりと寄れる憩いの場所。それが、本屋さんだった。ネットでは、ふらりと寄って愚痴をこぼすこともできない。血の通う店主もいない。体温のある話もできない。親とケンカした子どもはどこに行くのだろう。最近、カフェコーナーを創ったり、集えるスペースをこしらえたり、新しい機能と装いをもつ本屋さんががんばっている。嬉しいことだ。街道には「道の駅」があって人気があるが、わたしは、本屋さんが「町の駅」になるアイディアはないものか、とつくづく思う。町の便利な場所にある本屋さんも多い。この一文が、「本好きの人間の戯言で終わらなければいいな」と思う。
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■空手部、北へ行く。 ■2014年5月1日 木曜日 14時5分9秒

青春の話だ。その年の夏、われら國學院大學空手道部は、合宿のために札幌に向かった。青函連絡船に乗って津軽海峡を越えた。初の北海道、船上から望む遙かな陸影に心が躍る。夏季合宿は試合前の強化合宿とはちがって稽古も緩やかである。4日目は休養日となる。「せっかくの北海道、ジンギスカンとしゃれるか」。マツこと花松忠義が言い、高木昭武、三井和男、わたしの4人は市内に出る。狸小路をぶらつき、ビールを飲み歩き、やがてジンギスカンとなった。「気の利いた店、ねえかな」。本郷の薬局の息子で空手部一の富裕家高木が言う。高木がいればわれらの経済部門は天下無敵、あなたのサイフはわたしのサイフ、いつもながら目一杯に頼る。当の高木はにこにこ顔、長嶋家の一茂くん同様、良家の息子はどこか鷹揚である。わたしは基本的に、奢ってくれる男やお世辞でも誉めてくれる人間が大好きである。タクシーに乗り、運転手に行き先をまかせる。市内を抜け、深い森の庭園レストランに行く。サッカー場より広い。庭園の隅々まで飾られた提灯が涼風に揺れ、木々の間に間にライトアップされたテーブルが並ぶ。足下の水路に巨大なマスがゆらゆら泳ぐ。網ですくって食べていい。「おしゃれだぜ」。長靴のようなビールジョッキで、まず乾杯。ああ、憧れの北海道。「でっかいどー、ほっかいどー」、三井が叫び、「羊はどこだ?走り回ってないか?」、高木がぐるりと見回す。「いたらどうする?」、マツが言い、「正拳一発、そのまま肉にする」と、高木。幸か不幸か、羊の姿はない。8人前の肉を頼む。長靴ビールのお替りをする。「マスを食う」。マツが言い、網を手に水路の上に立ち、そのままザンブと飛沫をあげて転落した。「マスをくわえて上がってこい」。「熊じゃねえやい」。驚いて飛んできたウェイターに「いっしょに泳ごうぜ」、マツが水中から笑いかけた。隣の美女3人が腹を抱えて大笑い。ビールを差し入れてくれた。飲めや歌えの蒙古放浪歌。「心猛けくも鬼神ならず、人と生まれて情けはあれど」・・・ああ、天下無敵。空手部用語で言えば、「責任転嫁無敵」。若さとは、素晴らしい。「おお、コク大」・・・母校の歌が北の夜空に響き渡る。と、「おーい、後輩!」。離れたテーブルから声がかかる。「なんだ!なんだ!」。「おーい、後輩!」。見ると数人の男たちが手招きしている。「先輩か?」と三井、「らしいな」とわたし。こんな遠くまできて先輩と出会うなんて奇跡だ。神の思し召しだ。「ゴチになるか!」。伝票を掴んで立ち上がる。「オッス、先輩ッスか?」「そうよ、こんな所で後輩と会うとはな」。さあ飲め、ほれ食え、その伝票も渡せ。先輩後輩は素晴らしい。長年の溝が、一瞬に埋まる。「歌、歌え!」。「蒙古100万、篝火赤い」・・・三井が大声を張り上げる。思い出すなあ青春、もっと飲め、どんどん食え、酒だ、肉だ。勘定の心配のない飲み食いほどうまいものはない。「最近、医学部はどうだ?」。「もう過去の栄光さ」。ふと、そんな会話が耳に入る。あれ?おかしい。「おい」。わたしはマツの耳元で言う。「うちの大学、医学部あったか?」。「ねえよ」。「ねえよなあ」。稲妻のように不安が閃く。「おお、コク大」と歌ったら「後輩」と呼ばれた。だから先輩だ。だが、コク大に医学部はない。「だいたいわがホク大は」、横の男が言う。なに?ホク大?ホク大だと?北海道大学か? われら國學院大學は、コク大。ホク大とコク大。似てる。「おお、コク大」。コク大がホク大に聞こえる。「おお、ホク大」に聞こえる。われらはコク大、この連中はホク大。先輩ではない。となれば、この飲み食いの勘定はどうなる。伝票はどうなる。「歌え、三井」。その隙に一人づつトイレに行くふりしてフケよう。「砂丘に出でて砂丘に沈む、月の幾夜かわれらが旅路」・・・三井はもうやけくそだ。そして、われらはタクシーで闇に紛れた。ごめん、ホク大。ありがとう、北海道。ああ、青春。
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■桜を待たずして。 ■2014年4月15日 火曜日 10時49分58秒

桜を待たずして、男は逝った。サムライだった。男の中の男だった。その日わたしは、成城4丁目にいて、「発明の杜区民公園」で、カメラを片手に桜の開花を待っていた。発明家樫尾俊雄氏の「発明記念館」の庭園である。池に面した美しい枝垂桜が、いままさに大空に向かって晴れ晴れと両手を開こうとしている。赤く色づいて次の瞬間を待つ無数の蕾たちが、春の陽射しを浴びて風に揺れている。突如、ケータイ電話が鳴った。友人のアートディレクター松本隆治からだった。「どこにいる?」。松本が言った。「渋谷にいるなら会いたいが」。「今日は成城です」。そう答える。松本の声が通常のものではない。「渋谷に行きましょうか?」。「いや、いい。電話をしないではいられなかった」。そう言って、松本の言葉が一度途切れ、「花ちゃんが死んだ」と、吐き捨てるように言った。花ちゃん、花木薫、あの花ちゃんが、まさか。晴天は一瞬に崩れ、稲妻が走った。桜が一斉に色を失った。風の音も鳥の声も滝の音も、すべての音が遠のいた。一陣の風が、枝垂桜を揺らす。地面に腰を落とす。だめだ。そんなことがあっては、だめだ。花木薫は、わたしの恩人である。早くに死んだ弟と同じ年のイノシシ年。弟の葬儀にもだれよりも早く駆けつけてくれた。それからわたしは、花木薫を弟の生まれ変わりだと思っている。初めて会ったのは、オリエント時計のCMを創るときだ。当時、人気絶頂の歌手中森明菜を起用したCMだった。黒澤明事務所のプロデューサー高橋達也が、「すばらしい演出家がいます」、と紹介してくれたのが花木薫だった。わたしの創ったまずい撮影コンテが気に入らないと、人気歌手がぐずった。花木薫は、彼女の足元にひざまずいて、すがるように口説いてくれた。売れっ子演出家の誇りを捨てている。なにもかも捨てて、スタッフの目の前で、何度も何度も説明を繰り返し、頭を下げ、また説明し、バッタのように頭を下げ続けた。命がけに見えた。仕事とは、こういうものだ。わたしより年は若いが、花木薫を尊敬した瞬間だった。男の生き方を教えてくれた。その年の11月、弟が死んだ。翌春のためのオリエント時計キャンペーンCM撮影の最中だった。スタジオには桜吹雪が舞っていた。花木薫は、だれよりも弟の死を悲しんでくれた。つきあいは深まった。理屈抜きに永遠の友と決めた。わたしの弟だ。わたしは彼にそう言った。弟と言いながら、わたしがお世話になってばかりだった。テレビCMの仕事がくると、まず相談した。大鵬薬品、ミスタードーナツ、たった2日で創ったみんなの党のCM。CMと言えば花木薫の演出しか頭になかった。撮影は巨匠写真家立木義浩氏に依頼した。撮影が終わると必ず3人で飲みに行った。飲んでただ笑いあうだけの3人だった。当代切っての写真家も、花木薫が大好きだった。埼玉の奥に住んで何時間もかかって帰るというのに、明け方までいつもいっしょにいる。会社経営の下手なわたしを助けてくれる。色を失った枝垂桜の蕾たちが風に揺れても、わたしは立てない。「花ちゃんの死は、だれにも知らせてないそうだ」。松本がぽつんと言った。そういう男だ。巨象のように、だれにも知られずそっと消える。花木薫とは、そういう男だ。そして、その哀しみは巨象以上だ。二年前に肺がんを宣告されても、だれにも言わなかった。「飲みに行きましょうよ」。去年の暮れ、そういう言っていたと松本が告げてくれた。そのときには、もう飲める状態ではなかった。それなのに、そんなことを言う。花木薫とは、そういう男だ。自分のことなんかどうでもいい。いつもだれかのことを考えている。そういう男だ。一週間後、庭園の枝垂桜は、美しく咲いた。青空の下で、見事に咲いた。来年も再来年も、10年後も、枝垂桜は美しく咲く。だが、花木薫のあの豪快な笑顔とはもう会えない。花ちゃんよう、どうしてくれるんだ、きみはおれの人生において、ただの通りすがりの人ではないんだぜ。
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■走れ、「そよ風、散々会」。 ■2014年4月1日 火曜日 12時4分25秒

銀座8丁目、昭和通りから通りを二本入る。ホッピーと墨文字で書かれた赤提灯が、風に揺れる。夕方、6時過ぎ。赤提灯に、灯が入った。風は、海から吹いてくる。東京湾の潮の香を乗せたそよ風だ。そう、店の名を「そよ風」という。拓殖大学空手道部OBの兄弟が経営する古い居酒屋だ。ブランドショップが増え、資生堂ビルも改装され、新しさが目につく銀座だが、ちょいと路地を入ると懐かしい店がある。銀座は、なんでもこいの柔軟な街だが、いいものはきっちり残すぞと意地を張る街だ。「そよ風」も、そんな意地を張り通す店の一つ。新しくはない。古い。きれいではない。汚い。だが、人情が売り物の心懐かしい店だ。とんとんとんと石段を上って、酒の空箱が転がる雑然とした入り口を入ると、店主が迎える。一見無愛想な店主だが、見た目よりはずっと暖かい人柄で、安心できる。武道家特有の無骨さで、これでよく客商売をしているなと思うが、それはそれで、だからいいという客も多い。人間て、わからないものだ。この店を紹介してくれたのは、広告会社に勤める下さんだ。下さんの友人で、俳優千波丈太郎さんの行きつけの店だ。千波さんは拓殖大学空手道部出身だから、「そよ風」は部活仲間の店ということになる。店に入って左側、カウンターの手前のテーブル席で、下さんとわたしと弟の守男の三人は、酒を酌み交わす。店は、今日も常連客でいっぱいだ。「よし、馬券、買おう」。ある日、わたしは下さんと守男にそう告げた。わたしは、生まれてこの方バクチをやったことがない。パチンコさえやったことがない。なんでものめり込んでしまう自分の弱い性格を知っている。だから、バクチはやらない。だが、下さんと弟の会話が面白い。この会話に参加しよう。そこで、馬券を買うことに決めた。会話を楽しむだけ。馬の勉強は一切しない。予想も下さんと弟まかせ。馬券を買って、わくわくすればそれでいい。当たらなくてもいい。馬券は、わくわく代。そういう条件で、馬券チームが結成された。3人だから、「散々会」。さんざんな目に遭うぞ、と皮肉って「散々会」。そう命名したのは、下さんだ。店名の「そよ風」を加えて「そよ風、散々会」とチーム名が決定。下さんに、一人頭3000円を預ける。合計9000円。これを資金に毎週わくわくしよう。下さんを初代会長に、弟を副会長に、週末競馬を楽しむのだ。ある日、会長がリストを見せる。会長推薦の馬に印がついている。その横に、印のない馬「ヘミングウェイ」がいた。「ヘミングウェイ」といえば、ノーベル文学賞作家の「アーネスト・へミングウェイ」のことではないか。自ら戦場に赴き、20代にパリにいて、フィッツジェラルドやガートルートスタイン、若き日のピカソ等と、サロンでワインを飲みながら芸術論人間論を交わし、「日はまた上る」を書き、「武器よさらば」を書き、スペインの闘牛を書き、やがてキーウエストに移り、キューバに移り、メキシコ湾でマグロを追い、「老人と海」を書いたアメリカの作家。その名を冠した馬が走る。それだけでわくわくするではないか。「ねえ、会長、へミングウェイ、買お」。わたしがいうのを、「そうか、それもあるな」と、下さんが情報を収集する。「いい馬だ。このレースで2着、このレースで3着、このレースで2着、ここんとこ出てないが、面白い」。買った。買いました。さあ、走った。わたしは、週末には、河にいる。鯉を釣っている。釣れないときは、昼寝をしているか、酒を片手に本を読んでいる。結果が出ると、下さんから電話かメールが入る。「まいった、期待外れだ、13着」。電話の向こうで会長が唇を噛む。いいのです。それでいい。わくわくしたんだから。「でもね、会長、へミングウェイを見捨てないで。1年間追いかけて」。わたしはそう懇願する。「そよ風」が店を閉めた。ビルの建て替えを機に、看板だけ残して閉店した。千波丈太郎さんの体調もイマイチで、心配だ。だが、「そよ風、散々会」は永久に不滅だ。先日、世界的アートディレクターの松本隆治氏を顧問に迎えた。さあ、この週末もわくわくしよう。走れ、へミングウェイ。走れ、「そよ風、散々会」。
■恐怖の優先席。 ■2014年3月14日 金曜日 14時11分51秒

東急23系統のバスは、渋谷西口駅前と世田谷祖師谷大蔵の間を走る。このバスは、運賃前払いで、前から乗車して運転手の横の料金支払機に、運賃を払うか、パスモとかスイカを使うか、運転手に定期券を見せて乗る。問題の優先席は、乗車してすぐ右側にある。3人、座れる。高齢者、怪我をしている人、子ども連れのお母さん、妊婦さんなどを優先的に座らせる席だ。最近、シルバーシートと言わなくなった。シルバーシートと言っても、わからない人がいるのかな。対面の左側には、車椅子やベビーカー対応の席がある。わたしもいよいよ優先席年齢にたどりついたようである。わたしの顔を見て、ぱっと席を譲ってくれる人もいる。もちろん、わたしが譲る場合もある。ある時、高齢の女性が乗ってきたので、ぱっと立ちあがり、「どうぞ」と席を譲る。その女性、じろりとわたしを一瞥して、「なによ、わたしを年寄り扱いするの」という顔をする。「あんたのほうが年寄りじゃないの」という冷たい目でわたしを見、「いいです、結構です」と、断る。「どうぞどうぞ」。わたしも立ち上がった手前、ぜひ、席を譲りたい。他の乗客がみんなで見ているようで、いまさら「そうですか、ラッキー」などと座り直しは意地でもできない。「いえ、いいですよ」。「いえ、どうぞ、どうぞ。お荷物もあるようですから」。「いいですったら」。頑固な年寄りだ。人の厚意を素直に受けろ。こちらも頑固な年寄りになる。「どうぞ、どうぞ、絶対にどうぞ、どうしても座って」。「いいと言ってるでしょうに、うるさいなあ、死んでも座るもんか」。女性の目が血走ってくる。みっともない。恥ずかしい。思わず、「わたし、次、降りますから、どうぞ」。そう言ってしまった。まだ降りない。降りてはいけない。気が小さい。渋谷までだいぶあるのに。停留所にして7つか8つもある。でも、バスを降りてしまう。席を譲ろうと思っただけなのに、なんで用もない停留所にぽつんと降りなきゃならないんだ。呆然とひとりバス停に佇む。気が小さいなあ。いい人は、損をする。余計なことをした、と反省する。わたしは、優先席が嫌いだ。また、逆もある。明らかにわたしより高齢の方が、わたしに席を譲ろうとする。ふらふらと倒れそうに立ち上がる。「えっ、なんだなんだ、この人よりわたしが高齢に見えるのか」。見ると、もう死にそうな老婆だ。わたし、そんなに爺か。さっきの話の逆だ。感謝よりも怒りがこみあげる。「いえ、結構です。」
断る。老婆はむっとして、「なによ、譲ってあげたのに。ねえねえみなさん、わたし、こんなに親切なのにこの爺、えらく頑固でしょ」と言うように、バスの客を味方につける。「いえ、わたし、若いときにスポーツやってたので、案外身体は頑丈で」。などと口の中でわけのわからないことをごにょごにょ言う。「はっきりしないのねえ、座れったら座りなさいよ」。女性は怖い。いつの間にかわたしが悪者になっている。「わたし、次、降りるので」。また、わたしは用もない停留所で降りてしまう。気が小さい。ぽつんと停留所にいて、なんでこうなるんだと頭を抱える。わたしは、優先席が怖い。ある時、優先席を譲り合う二人の女性がいた。「どうぞどうぞ」。「いえ、あなたこそどうぞどうぞ」。「いえいえ、あなたこそどうぞ、わたしより年寄りなんだから」。「あら、あなたのほうが、お年よりよ。きっとそうよ。おいくつ?わたしは68歳、あなたは?」。「あら、わたしも68歳よ。じゃあ、あなた、何月生まれ?わたしは6月、あなたは、何月?きっとわたしより、年上よ」。「あら、わたしも6月よ、じゃあ何日生まれ?」。「お座りください。お座りください。バスが発車できません」。運転手が頭にきて、少し強めでアナウンスする。「あなた、何日生まれ?わたしは12日よ。何日?」。「あら、12日?まあ、同じ、偶然ねえ」。「あら、そうなの、偶然ねえ」。もはや、なにがどうなっているのかわからない。わたしは、優先席が怖いまま今日もバスに乗る。優先席からいちばん遠い後ろに乗る。
■恐怖の優先席。 ■2014年3月14日 金曜日 14時11分42秒

東急23系統のバスは、渋谷西口駅前と世田谷祖師谷大蔵の間を走る。このバスは、運賃前払いで、前から乗車して運転手の横の料金支払機に、運賃を払うか、パスモとかスイカを使うか、運転手に定期券を見せて乗る。問題の優先席は、乗車してすぐ右側にある。3人、座れる。高齢者、怪我をしている人、子ども連れのお母さん、妊婦さんなどを優先的に座らせる席だ。最近、シルバーシートと言わなくなった。シルバーシートと言っても、わからない人がいるのかな。対面の左側には、車椅子やベビーカー対応の席がある。わたしもいよいよ優先席年齢にたどりついたようである。わたしの顔を見て、ぱっと席を譲ってくれる人もいる。もちろん、わたしが譲る場合もある。ある時、高齢の女性が乗ってきたので、ぱっと立ちあがり、「どうぞ」と席を譲る。その女性、じろりとわたしを一瞥して、「なによ、わたしを年寄り扱いするの」という顔をする。「あんたのほうが年寄りじゃないの」という冷たい目でわたしを見、「いいです、結構です」と、断る。「どうぞどうぞ」。わたしも立ち上がった手前、ぜひ、席を譲りたい。他の乗客がみんなで見ているようで、いまさら「そうですか、ラッキー」などと座り直しは意地でもできない。「いえ、いいですよ」。「いえ、どうぞ、どうぞ。お荷物もあるようですから」。「いいですったら」。頑固な年寄りだ。人の厚意を素直に受けろ。こちらも頑固な年寄りになる。「どうぞ、どうぞ、絶対にどうぞ、どうしても座って」。「いいと言ってるでしょうに、うるさいなあ、死んでも座るもんか」。女性の目が血走ってくる。みっともない。恥ずかしい。思わず、「わたし、次、降りますから、どうぞ」。そう言ってしまった。まだ降りない。降りてはいけない。気が小さい。渋谷までだいぶあるのに。停留所にして7つか8つもある。でも、バスを降りてしまう。席を譲ろうと思っただけなのに、なんで用もない停留所にぽつんと降りなきゃならないんだ。呆然とひとりバス停に佇む。気が小さいなあ。いい人は、損をする。余計なことをした、と反省する。わたしは、優先席が嫌いだ。また、逆もある。明らかにわたしより高齢の方が、わたしに席を譲ろうとする。ふらふらと倒れそうに立ち上がる。「えっ、なんだなんだ、この人よりわたしが高齢に見えるのか」。見ると、もう死にそうな老婆だ。わたし、そんなに爺か。さっきの話の逆だ。感謝よりも怒りがこみあげる。「いえ、結構です。」
断る。老婆はむっとして、「なによ、譲ってあげたのに。ねえねえみなさん、わたし、こんなに親切なのにこの爺、えらく頑固でしょ」と言うように、バスの客を味方につける。「いえ、わたし、若いときにスポーツやってたので、案外身体は頑丈で」。などと口の中でわけのわからないことをごにょごにょ言う。「はっきりしないのねえ、座れったら座りなさいよ」。女性は怖い。いつの間にかわたしが悪者になっている。「わたし、次、降りるので」。また、わたしは用もない停留所で降りてしまう。気が小さい。ぽつんと停留所にいて、なんでこうなるんだと頭を抱える。わたしは、優先席が怖い。ある時、優先席を譲り合う二人の女性がいた。「どうぞどうぞ」。「いえ、あなたこそどうぞどうぞ」。「いえいえ、あなたこそどうぞ、わたしより年寄りなんだから」。「あら、あなたのほうが、お年よりよ。きっとそうよ。おいくつ?わたしは68歳、あなたは?」。「あら、わたしも68歳よ。じゃあ、あなた、何月生まれ?わたしは6月、あなたは、何月?きっとわたしより、年上よ」。「あら、わたしも6月よ、じゃあ何日生まれ?」。「お座りください。お座りください。バスが発車できません」。運転手が頭にきて、少し強めでアナウンスする。「あなた、何日生まれ?わたしは12日よ。何日?」。「あら、12日?まあ、同じ、偶然ねえ」。「あら、そうなの、偶然ねえ」。もはや、なにがどうなっているのかわからない。わたしは、優先席が怖いまま今日もバスに乗る。優先席からいちばん遠い後ろに乗る。
■海に舟を。 ■2014年3月3日 月曜日 15時36分13秒

海に舟を。海舟。日本海軍の土台を築いたのは、この男だ。海舟、勝麟太郎。この男をもっと大事にしておけば、日本はここまで遅れることはなかった。あるいは、海舟が早すぎた。100年早過ぎた天才だった。濁りのない純粋な目で物事の根本を見つめ、根本に基づいた基準で正しい判断を下す。大海のような偏りのない精神を持っていた。父、小吉ゆずりの卓越した勝負カンを持ち、叔父であり直真影流男谷精一郎と島田虎之助から剣を学んだ。島田虎之助から、剣だけでなく洋式兵学の必要を教わった。筑前藩永井青崖から蘭学を学んだ。海舟が身につけた正義の心、人の道は、世界に十分に通用するものとなった。いや、世界に必要なものだった。時は、革命の時代。押し寄せる外国の脅威。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの軍艦に包囲され、徳川幕府はオタオタと腰をぬかし、自国の利益確保に翻弄する薩摩と長州、そんな二進も三進もいかない日本で、海舟の胸の内には最善の策が描かれていた。そう、海舟の目は、徳川とか薩長とかそんな狭い井戸の中を覗いていたのではない。日本という国家を見つめ、その将来を見据え、海の向こうに広がる世界に目を向けていた。正義を見つめ、世界の潮流を見据えていた。インドや中国のように、西欧の列強の軍門に下って植民地になることは、絶対に避けたい。日本は、独立国家として堂々と生きる。海舟の目標はしっかりしている。「そのために、いまおれたちはなにをすべきか」。それだけを考えていた。枝葉末節にこだわっている場合ではない。まず、日本国を一つにする。日本国を一つの心でまとめる。意思を一つにして、国家のために力を結集する。「徳川とか、薩長とか、土佐がどう佐賀がどうと言ってる場合じゃねえんだよ、そんなこたあどうでもいい」。小吉ゆずりのべらんめえ調で言う。「もっとでっかい目で世界を見て、正義に則って行動することがいま一番大事じゃねえのかい」。残念なのは、海舟のその大きさ、その正しさを理解する者がいなかった。とくに、幕府にはいない。15代将軍徳川家喜は、海舟が嫌いだ。家喜は、頭はよかったが、いわゆる学校秀才というやつで、勉強はできるのだが、社会を知らない。人間を知らない。人の心を理解できない。自己中心で、人の上に立つ器ではない。とても海舟のでかい精神なんか理解できない。幕臣たちもまたそうだった。武士の地位を金で買った海舟を小ばかにしていた。そんな海舟から素晴らしいアイディアが出されても、理解できないだけでなく、嫉妬の塊となった。徳川の家臣でありながら、「世界の中の日本」を叫び、同調する西郷隆盛や坂本龍馬といった、幕府の敵たちと仲良くするなど言語道断、「あいつは薩長のスパイだ」、などと言い出す者もいた。実に愚かだった。そのくせどうにもならない時は、「海舟にやらせよう」と、都合のいい道具として海舟を使った。勝海舟は、曽祖父が検校で財産を築き、その財産で男谷と勝の両家と養子縁組をして武士となった。金に困った武家が持参金目当てに家名を売る。当時は、それができた。士農工商は、もともと身分制度ではなく役職制度だから、そんなことができるのだ。薩摩の島津斉彬に才能を買われた海舟は、西郷隆盛と会うとすぐに意気投合した。天を敬い、人を愛す。敬天愛人の西郷もまた大きな男だった。坂本龍馬と会う。「船だよ、船、海軍だよ、海は壁じゃねえ、海は道だ」。土佐の若者は一瞬にして、海舟の大きさと自由さに引きつけられた。神戸海軍操練所でも塾頭となった。攘夷も、開国も、公武合体も、勤王攘夷も、海舟から見れば、本質から離れている。「本当に大事なことは、日本の国を保全し、日本国民を安全に守りぬくことだろうが」。その後の海舟の活躍は、知られるところだ。天のような男。溢れる才気。それ故に、上司からは疎まれ、仲間から嫉妬された海舟。もし、身近に足を引っ張る愚か者がいなかったら、もっと日本は大らかに進化しただろう。そう思うと悔しい。いま、世界の中で孤立し始めた日本。あなたの身近に若き海舟はいる。足を引っ張る先輩や仲間がいないことを祈る。
tagayasu@xpoint-plan.com

■心の中にある、たくさんの小さな心。 ■2014年2月17日 月曜日 16時25分49秒

解剖学の養老博士の説を聞くまで、わたしは知らなかった。心は1つだと思っていた。1つの心がすべてを決めていると思っていた。ところが違った。「小さな心がたくさん集って、1つの心を作っている」と、博士は言う。すべての人の心がそうできている。では「心はどこにある」のか。これは、ダビンチにも大いなる疑問だった。人体を解剖し、さがした。心臓というくらいだから、心は心臓にあるのかと思ったら、これが見当たらない。脳にあるのかと思って解剖しても、ない。ダビンチも、ついにお手上げだ。博士は、「心は脳にある」と仮定する。「脳が、考える、感じる」、その結果として「心になる」。人は、見るもの、匂い、味、言葉、手の感触、すべてを一度脳で受けて分解する。五感のすべてを脳で受けて「分解し、再構築」する。「分解→再構築」という作業を脳が、瞬時に行う。これが心になる。分解しているという自覚なんかない。だが、「理解できる」、ということは、脳が分解したからだ。分解できたから、理解できる。分解できないことは、「わからない」、ということだ。さて、分解して再構築する間になにが起こるのか。たくさんの小さな心の、その1つ1つが、他の1つと連結する。連結した瞬間に、機能が変化する。そして、また別の1つと連結する。また、機能変化。無数の小さな心のそれぞれが、「他の小さな心と連結するたびに、機能変化」する。たとえば、好きな人と会うと、心がわくわくする。でも、デートの金が少ないと、ガックリくる。そこで、万馬券でも取れば、大喜び。わくわくが甦る。つまり、心は決断を下すまでに、驚くほどの紆余曲折をくり返す。生まれつき明るい心をもっている人は、何事も明るく捉えることができるし、暗い心をもっている人は、常に結論は暗い。人は、それぞれが実にさまざまな小さな心をもっている。そんな小さな心が無数に集って、あっちこっち連結しながら、変化変化の果てに「やっと1つの心」にたどり着く。それを、瞬時にやってのける。たとえば、わが家の妻の心に、夫を信じないという小さな心があったとする。すると、その小さな心はなにかにつけて夫のわたしを拒否する。そうなると、どんなにうれしい話をしても、素直に聞こうなんて思わない。最初、「あら、いいわね」と思っても、次に信じない心と連結した瞬間に機能変化し、「ふざけんじゃないわ」、となる。ついつい言葉も乱暴になる。つっけんどんになる。天気がよくないとか、宝くじが当たったとか、テニスがうまく行かなかったとか、子どもが口答えしたとか、それはもうたくさんの小さな心があって、それらが連結しあって機能を変化させながら、挙句1つの心になる。微妙だ。複雑だ。1つの心が決断を下すまで、小さな心の連結変化、連結変化のくり返し。面白い学説でしょ。上司が気に入らないとか、得意先の担当がうるさいとか思ったら、仕事はうまく行かない。だとすれば、「気に入らないという小さな心を封鎖」すればいい。そう簡単には行きません。だったら、その仕事からはずれればいい。とにかく、小さな心にある、仕事に不利に働く感情など、全部封鎖することだ。逆に、仕事に有利な小さな心もある。だが、良かれ悪しかれ、感情という小さな心が、仕事の最終決断を曇らせてしまうことは感心できない。仕事は、感情を抜きにして、真っ直ぐに成功に向かうことが一番なのだ。心をコントロールするということは、「小さな心をコントロールする」ということになる。わたしは今日も、自分を不愉快にさせる小さな心を封鎖し、放棄するよう訓練する。他人を、嫌なヤツだと思うことをいっさいしない。会話にしても、嫌な言葉、不愉快な言葉は、極力避ける。いつも、幸せな決断を導き、幸せな人生を送りたいと願うからだ。さてさて、うまく行くかどうか。
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■イトちゃんのたこ焼き。 ■2014年2月12日 水曜日 15時34分18秒

子どもは天才だ。それを大人たちがいつの間にか壊してしまう。「イトちゃん」という少女がいる。たこ焼きの天才だ。その才能は、ある日突然開花した。背筋をすっくと伸ばして鉄板の前に立つ。その凛とした姿勢に、息をのむ。イトちゃんは自信にあふれ、緊張しながら得意げな顔だ。うどん粉を見つめる目配り、具の入れ方、焼け具合をうかがう表情、ひっくり返すタイミングと手さばき、それら一連の動作や真剣な顔つきは、幼いが、手馴れた料理人のものだ。イトちゃんは、シリコンバレーで育った。父親のヨッチは、息子のゴータと小学校からの同級生で、その昔、半ズボンの膝小僧の擦り傷に赤チンを塗り、いつも大空を眺めているような、わたしから見れば理想的な子どもだった。天衣無縫のそのイメージが好ましかった。それがいつのまにか立派な大人になり、シリコンバレーの住人を数年勤め、最近帰国した。いまはもう、膝小僧に擦り傷はない。だからイトちゃんは、英語はぺらぺら。ゴータにいわせれば、「日本語より英語のほうがうまい」となる。ついでに、「父さんはスピードラーニングをやってもムダだ」、などと余計なことまで言って、わたしを愕然とさせる。「イトちゃん、もう食べていい」。「まだ、もう少し」。大人たちは、イトちゃんのオッケーが出るのを、皿を手に待っている。その状況も、イトちゃんは結構気に入っている。みんなが、わたしのたこ焼きを待っている。ちょっと得意げな表情が、またかわいい。で、大人たちはチョッカイを出したくなり、手にしたフォークでつつく。「ダメ!」。イトちゃんが厳しくいう。大人たちは、手を引っ込める。イトちゃんにはムギちゃんという妹がいて、まるでゼンマイで動いているように、一つひとつの仕草が玩具のようだ。ムギちゃんは、「紬」という名で、それでムギちゃんと呼んでいる。お姉ちゃんが「イト」で、妹が「ツムギ」とは、実におしゃれなネーミングだ。お姉さんの得意そうな様子を見ながら、「わたしにも参加させて。でも、むずかしそう」とばかりに、ごにょごにょ口をはさむ。パパのヨッチはそれを見て、まるでクッションでも撫で回すようにムギちゃんを転がす。その扱いは愛情豊かで、ムギちゃんもキャッキャと笑う。3人目を身ごもっているママが、ゆったりと笑って見ている。「もういいよ」。イトちゃんの許可が出る。手を伸ばす。ソースをつけて頬張る。うまい。熱い。外側のカリカリ感と内側のシンナリ感のバランスが絶妙だ。たこの味も沁みている。「うまいよ、イトちゃん」。大人たちの言葉に、イトちゃんは「当然よ」と胸を張る。子どもは天才だ。イトちゃんに料理の才能が垣間見られた。人はだれでも、自分だけの人生のステージをもって生まれてくる。だれでも、自分のステージの主役だ。最も原始的で、最も大切な、自分が主役で生きる自分だけのステージ。そこにこそ天賦の才はいきいきと息づく。だが、やがて、大人たちのさまざまな事情により、そのステージは奪われてしまう。大会社の社長の息子は、親が作った社長というステージで踊るしかない。老舗の若旦那に生まれた子どもは、のれんを守るというステージで生きるしかない。子どもがもつ最高で唯一のステージは、大人が用意したステージに見事にすり替えられ、天賦の才は霧の彼方に消滅する。けして金持ちではなく、貧しい家に生まれたわたしは、親の放任のおかげで自分のステージの上で踊ってきた。幸せだ。たいした出世もせず、貧しく暮らしているが、自分のステージを生きられたことは、親に感謝すべきだ。生まれたときから、とにかく生き残るだけ、というアフリカの子どもたちに比べ、日本の子どもたちは、幸せだ。あなたには、子どものステージを大切に見つめ、育てる大人であってほしい。ヨッチとあのママなら、イトちゃんもムギちゃんもきっと幸せなステージを生きる。イトちゃん、ずっと天才でいてね。
■新宿物語。 ■2014年1月17日 金曜日 16時20分19秒

東京オリンピックが終わり、街は益々活気づいていた。年末の雑踏の中、新宿駅東口商店街のスピーカーが、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」を歌い、坂本九の哀愁の歌声が「見上げてごらん夜の星を」を歌っている。安次郎さんと会ったのは、その頃だ。私は学生で、冬休みのアルバイト先をさがしていた。職人の父に仕事を頼みにくる安次郎さんは、新宿のスーパーに勤めていた。小柄で物腰も柔らかく、いつも穏やかな笑みを絶やさない。その安次郎さんが昔、「人斬り安」と怖れられた侠客だったとはまるで想像もできなかった。安次郎さんの紹介で、双葉通りにあるスーパーでアルバイトをすることになった。三越デパートの裏だ。オーナーは飯島連合会二代目会長、伝説の関東尾津組組長尾津喜之助さんだ。「光は新宿から」のスローガンを掲げ、私財を投じて戦後の復興に命をかけた香具師の大親分である。東口にテント張りの尾津マーケットを作り、家も希望も失った人々に食料品や衣料品など生活に必要な物資を供給した。その延長で、日本初のスーパーマーケットを作ったのだ。その頃すでに尾津組は解散し、尾津商事となっていた。安次郎さんは喜之助さんの義兄で、尾津組全盛の頃は命知らずの斬り込み隊長だった。暮れもおしつまったある日、喜之助さんがふらりと売り場に現れた。四角くがっしりとした彫りの深い顔。目も鼻も口も大きく、荒削りの木彫のようだ。6尺の長身を着流しに包み、若い衆を二人連れている。安次郎さんが寄り添っている。大きな山のようにゆっくりと動く。ゆらゆらとオーラが漂う。「君は、国士かね」。喜之助さんが立ち止まり、私に聞いた。国士という言葉が心に鋭く響く。私が、国学で知られる大学に通い、空手部であることを、安次郎さんから聞いていたのだ。「その力を、国のために使うことだ」。深い目で私を見てそういい、サイフから手の切れるような一万円札を取り出し、差し出す。当時一ヶ月働いて2万円のバイト代にすぎない私は、びっくりして思わず安次郎さんを見た。安次郎さんが笑いながら、もらいなさいとうなずく。「空手、強いのかね。段位は?」。「強いです。二段です」。そういうと、喜之助さんは、安次郎さんを振り仰いで笑った。「若いっていいなあ安さん、この若い衆を越谷に招待しよう。空手を見たい」。それが、伝説の男との出会いだった。次に尾津喜之助さんと会ったのは、越谷の別邸で開かれた桜の花見会だった。化粧品売り場の主任ピー子姉さんの紹介で、作家三島由紀夫さんと会った。ピー子姉さんは、新宿で有名なゲイだ。元組員なのか、途中入社の堅気なのかは不明だ。「おまえ、酒奢るわ」。そういってよく食事に誘ってくれた。売り場主任で稼ぎ、ゲイでも稼いでいたので羽振りがいい。東京オリンピックでは外人相手に稼ぎまくったわ、と威張っていた。「おまえ、先生に会わせてあげる」。あるとき、ピー子姉さんはそういい、伊勢丹裏にあるゲイバーに連れていってくれた。ウェイターは全員ゲイで、大学体育会のOBだ。巨体で頭は丸坊主、白シャツに赤いベストの制服を着ている。「君は、国士かね」。会うなり、先生はそういった。喜之助さんと同じ台詞に驚いた。「国士です」、と胸を張れない自分が申し訳なかった。「武士道をどう思う?」。ソファに深々と座り、高級ウイスキーをすすめる。ピー子姉さんも、先生の隣に座る体育会ゲイも、にこにこ笑って私の答えを待っている。どうやらこの会話は想定内のようだ。「いい本です。新渡戸稲造の理論体系がすばらしいと思います。でも、ピンときません」。その答えに三人が、オヤッという表情をする。「どうして?」。三島先生が聞く。「理論が整理されすぎて、情熱が足りません」。先生は、大口を開いて笑った。また、東京にオリンピックがやってくる。半世紀前の東京オリンピックの年に出会い、若い人生に多大な影響を与えた恩人たちを、私はいま、懐かしく想い出している。
■夜明け前。 ■2014年1月9日 木曜日 16時30分2秒

元旦や たかがされどの 陽がのぼる・・・。「今日一日、友に誠を尽くしたか」。寝る前にそう考えろと教えたのは、孔子だ。「今日一日、友に誠を尽くしたか」。思えば、かなり大変だ。わが家のテラスは3階にあって、東を向いている。だから、その方向から陽がのぼる。テラスとベランダの違いは、そこに物干し場があるかないかだ、とある人は言うが、その説からいくとわが家のテラスは正しくはベランダである。わたしのTシャツやジーンズ、布団を乾せば、もはやテラスだベランダだと四の五の騒ぐ必要はまったくなく、完ぺきな物干し場となる。乾した布団のわずかな隙間で、二匹の亀といくつかの観葉植物が青息吐息している様子を見ると、思わずすまんと頭を下がってしまう。夜明けまで原稿を書いていると、生まれたての陽光がベランダに忍び寄ってくるのが大きな楽しみとなる。夏なら5時前だが、冬の今頃は6時となる。早朝、新聞配達だか牛乳配達の自転車が、ガチャガチャと音を立てて家の前を通る。そのガラス瓶が触れ合うような音を毎朝聞いているのだが、ベランダに出て音の正体を確かめる勇気がない。寒い。だから、いまもそれが新聞配達か牛乳配達かわからない。はたして牛乳って、まだ自転車で配達しているのだろうか。でも、新聞配達にしては音が大きい。そのガチャガチャがくるのは、決まって5時ちょっと前、夜明けとほぼ同時刻だ。夏は陽光が先、冬はガチャガチャが先だ。朝から出かける日は、陽光かガチャガチャであわててパソコンを畳み、布団にもぐりこむ。急いで睡眠を取らなくてはならない。出かけるのが遅い日は時間に余裕があるから、ベランダに出る。温かいコーヒーを片手に東に向かい、まだ汚れのない取れたての陽光をほのぼのと全身で浴びる。風は身を切るように冷たいが、心がとろけるようなこの時間は、最も好きな時間だ。このときにふと考えるのだ。「昨日一日、友に誠を尽くしたか」。太陽に問いかけるように、孔子に答えるように、そう考える。打ち合わせで同席した人々に、発した言葉一つ一つに、なんとかひねり出したアイディアに、誠を尽くしたか。電話で話した言葉の端々に、書いた文章やメールの一行一行に、誠を尽くしたか。友、家族、兄弟に、誠を尽くしたか。行動や言動の結果は、誠を尽くした分だけ返ってくると信じたいが、どっこいそうはいかない。仕事のすべてがうまくいくとは限らない。失敗も多い。自分ではベストと思った広告コピーや原稿が、不評のことももちろんある。それによって落ち込むことも多い。だが大事なのは、誠を尽くしたかどうかだ。仕事での成功失敗という結果は、さまざまな環境や条件に左右される。自分の力の範疇を超える。だが、誠を尽くすということは自分だけの問題だ。自分だけでできる。ここで手を抜いて失敗したら、それこそ紛れもなく私自身の責任だ。孫子は、「勝つことは敵次第でもある、だが、負けないということは自分次第だ」と、言う。「だから、自分だけでできる」と、教える。「百戦して危うからず」。勝つとは言わない。危うからず、と言う。負けないぞ、と言う。勝つとは言ってない。孔子の「誠を尽くしたか」と、同じ意味のことを孫子も言っている。新しい年を迎え、初日に手を合わせ、「去年一年、友に誠を尽くしたか」と自分に問う。昨年は、2020年のオリンピック・パラリンピックの東京開催が決定した。日本の象徴、富士山の世界文化遺産が決定した。東北の力強い復興も続いている。日本は、がんばった。今年、日本はもっと良くなる。そう願う。祈る。ついに、日本の夜明けが始まったのだ。そうだ、こうしよう。今年から、「今日一日、友に誠を尽くそう」と、毎朝ベランダで唱えよう。元日の「元」と元気の「元」が同じ字であることの意味を大事にして、朝陽に手を合わせよう。謹んで新年のお慶びを申し上げます。新しい年があなたと日本にとって、素晴らしい年となりますよう、毎朝ベランダでお祈り申し上げます。
■子規に聞け。 ■2014年1月9日 木曜日 16時27分18秒

元日の 人通りとは なりにけり(明治29年)。新年の 白紙綴ぢたる 句帳哉(明治33年)。万歳や 黒き手を出し 足を出し(明治26年)。正岡子規、正月の句である。子規は、句もとっつきやすくて好きだが、その日本文学の分析には驚愕する。そこらの学者の比ではない。それは、学者の目ではなく、芸術家の目による分析だからだ。適確に古の文学を分析批判し、その上自分で作って見せるから、その説得力に舌を巻く。江戸元禄の3大文学者といえば、芭蕉、近松、西鶴だ。その芭蕉に厳しい目を向ける。文学者としてより、芭蕉には宗教における教祖同様に多くの信仰者がいたという。芭蕉の句を読み、その句に感動するのではなく、ただただ芭蕉の名声を敬い、あこがれ、会話でも芭蕉と呼び捨てにせず、翁とか芭蕉翁とか中には芭蕉さまと呼ぶ者もいた。芭蕉を神のように崇め、本尊として祀る者までいて、まさに芭蕉俳句教の教祖である。なぜ、芭蕉が教祖のように敬われたのか。それは、平民的でやさしく、わかりやすい句だからだ。それまでの句のように、気品品格重視のいかにもむずかしい言葉だけが価値あるものとはせず、俗語を嫌がらずに駆使して俳句の世界を著しく拡大した。平易な俗語であっても、その配合、その調和性によってすばらしい俳句ができると主張し、実際に作って見せた。だが、子規はいう。そんな芭蕉の句にも駄句が数多くある、と。芭蕉はその生涯において1000余の俳句を作った。子規が上出来だと認める句は、そのうちの200余、わずかに五分の一である。古池や 蛙とびこむ 水の音…。物いへば 唇寒し 秋の風…。芭蕉の句のすばらしさは、古の俳句の模倣をせず、自ら開発したところにある、と子規はいう。平民的な俗語を縦横に使い、自らの句を開発した芭蕉。考えてみれば、詩人による詩、小説家による小説、学者による論文、政府広報、会社の会議資料、企画提案書、それらのなんとむずかしい言葉の多いことか。わかってもらいたいと願う心よりもいいたいことをいう、という文章によって綴られ、それがあたかも格式や教養のように思い、あるいはあたかも価値あるものと思うだけの空々しい言葉のなんと多いことか。むずかしいことを平易な言葉で綴ることは高度な力量を要するから、それが書けないだけなのだ。さらに子規は、こう芭蕉を称賛する。平民的だからといってそれだけで貴重なのではなく、信仰者が多いからといってそれだけで真に価値あるものでなく、それだけ多くの人々に敬われるのは、そこに非凡な才能がある証だ。ましてや、芭蕉には多くの有能な弟子がいる。それを見ただけで芭蕉の偉大さは揺るぎないものだ、と。ここで芭蕉と別れ、子規の話に戻ろう。子規の和歌と俳句の分析が面白い。和歌の美と俳句の美は、同じか違うか。そこに触れる。一般の歌人は、滑稽な歌を見てこういう。俳句としては面白いけれど、歌としてはいまいちだ。一般の俳人は、古い形式にとらわれた句を見てこういう。和歌なら興味深いが、俳句としてはつまらない。和歌と俳句は、このように異なる美をもつものか。子規は、反対する。どっちも同じ文学だという。それ以上に、和歌も俳句も文章も小説も、その美も面白さも同じものだという。和歌で面白いものが俳句ではつまらないとか、俳句で面白いものが小説ではつまらないとか、そんなことがあるわけはないのだと看破する。それぞれの文体にそれぞれの長所があり、和歌では表現しやすいが俳句では表現しにいとか、俳句では表現しにくいが小説では表現しやすいとか、それだけのことだという。子規のこの分析に、目から鱗が落ちた。この才覚はどこから生まれたものか。江戸という差別に凝り固まった時代の価値観が崩壊し、明治という大海のような真っ平らな時代の価値観から生まれた才覚か。いや、やはり子規個人の才覚と見るべきだろう。新しい日本には、物事を正しく分析判断する、子規のこの才覚が必要だと思う。
■愛しき日々。 ■2014年1月9日 木曜日 16時26分21秒

キリストはそれを愛といい、仏陀はそれを慈悲という。この2つの心のあり方は、同じようではあるが、やはり違う。愛には、どこかカラリと晴れた青空のような明るさがある。慈悲にも明るさはあるが、むしろしっとりと苔むした名刹の庭のような感覚がある。慈悲に含まれる「慈しむ」という感覚がそうさせるのだろうか。結婚し、40余年の時が過ぎた。恋だ愛だと騒いで結婚し、息子も生まれた。当然のことながら妻と息子を愛していた。綾小路キミマロではないが、あれから40年、いま家族に対する感情は単なる愛ではない。愛着という言葉があって、好きな人、好きなもの、好きな場所などに使う。この言葉には熟成のための時間の蓄積が必要だ。だが、愛着という言葉は、どこか人間的な温かさに欠ける。どこかよそよそしいというか、事務的な響きがある。「愛しい」という言葉がある。愛とか好きとかの感情が、時の力を借りて熟成されると、この言葉がしっくりとくる。愛着よりもはるかにいい。妻や子に愛しさを感じる。このほうがいい。愛しさは、仏陀のいう慈悲とは違うが、近いものを感じる。慈しむにはどこか上から目線があるが、愛しさにはそれがない。秋たけなわの10月吉日。われら國學院大學空手道部OB会の有志が、箱根強羅の湯宿に集結した。その日はいかにも秋らしい日で、空は青く晴れ上がり、青空を背にすっくと富士が雄姿を見せた。鰯雲が秋空にいく筋もたなびいた。紅葉が始まっている。赤穂義士は47人で吉良邸に討ち入ったが、拳のツワモノどもは17人で強羅の温泉に討ち入った。静岡から5代浅井先輩が参加された。先輩は長年教育の場にいて、いまは勇退され、「毎日釣りをして暮らしている」という。細身で飄々としているが、眠狂四郎のように燃える情熱を内に秘める。同時代の部員でヤクザ組織に就職した男がいたが、「もし学生に迷惑をかけるようなことがあれば、おれは刺し違えるつもりだった」という。拳伝説を語れば9代の次呂久英樹先輩は、分厚い本の2、3冊も書けるほどの武勇をもつ。沖縄八重山出身。監督として國學院大學空手道部を日本一に導いた。道場では神の如き強さを発揮し、道場外でも多くの伝説を作った。10代小原栄哲先輩は、その風貌、その精神はサムライそのものだ。静岡で小原建設という会社を経営する。焼津に道場をもち、当然のように後輩の面倒を見る。夜、小原先輩の部屋を訪れた。「おい、この株を買っておけ。買え。損したらおれが払ってやる」と、とんでもないことをいう。帰ってその話をし、だから株を買おうと妻にいうと、「バカ」と一言で片付けられた。11代青柳先輩は、もはや怪物としか表現できない。海坊主のように頭を剃りあげ、いまにも飛びかかりそうに腰を曲げ、風のように移動する。現役時代は最高の主将だった。空手にまだ武道の香りが残っている頃だった。とある事件を起こし、そのすべてを正面から受けたのが青柳主将だった。無口だった。青梅に住み、だんべ言葉を話した。後輩たちは、その言葉さえ真似たものだった。無口だった分、この旅では壊れたラジオのようによく喋った。12代越三晋先輩は、全日本でも指折りの強さだった。少年のような甘いマスクで相手を油断させた。そう書くと先輩にポカリとやられそうだが、60年の伝統をもつ空手道部の中でも伝説的な強さだった。その強さは、攻撃と防御のバランスの見事さだ。攻撃一筋の空手道部で、受けの重要性を示した男だった。湯煙の中で、多くの武勇が懐かしく語られた。飲み、笑い、湯に浸かり、それら武勇のすべてが過去のものとなり、愛しい日々となった。だが、ふと思う。愛しさには、時間の蓄積が不可欠だが、単純に過去のものではない。あの日々は、今日も自分の中で生き生きと呼吸をしている。いまに生きる愛しいという感情。妻や子どもに対する愛しいという感情は、まさにいまのものだ。道場に行き、接する空手道部の後輩たちに感じるものは、愛というよりも、いまに生きる愛しさだ。それは、単に歳を取ったせいだろうか。
■巨鯉のうしろ姿 ■2014年1月9日 木曜日 16時25分17秒

巨鯉のうしろ姿が好きだ。それも、大きいうしろ姿ほどいい。巨鯉を釣り上げ、大きさを測定して川に返すのだが、そんな時80センチを超える大物は、川芯に頭を向け、少し前下がりの態勢をとり、ゆったりと尾を二三度振って別れを告げると、釣り上げられたことなどすっかり忘れ、いかにも川の王者の風格を漂わせ、悠然と自分の縄張りに帰っていくのだ。進水したばかりの潜水艦が初めて深海へ向けて潜航するように、その姿はいかにも堂々としていて気持ちがいい。思わず、ありがとうと頭を下げたくなる。巨鯉は、川の中央の深みにいる。自分の道をもっている。コリドーのようなもので、日に一度か二度わが道を回廊するのだという。おそらく餌を求めての回廊だろうが、地域の顔役が自分の縄張りで己を誇示するようなものだと、わたしは思っている。鯉釣師たちは、巨鯉のその回廊を想定して餌を打ち込む。巨鯉は、川岸近くに現れるという釣師もいる。事実、朝夕には、確実に餌を求めて岸辺に寄ってくる。岸辺の積み重なった石の間に棲家があるのだ、という釣師もいる。だれもが見てきたようにいうのだが、川底に入って見てきた者はだれもいない。どの説も正しいと思う。だから、釣師たちは、巨鯉はここにいると各々に信ずるポイントに餌を打ち込むのだ。川の中心部に向けて餌を遠投するのは、今川さん、有村さん、武内さんだ。ガード下のコンクリートの橋脚の、さらにその先の深みにまで遠投する。川は、岸辺近くの数メートルあたりで一度深くなり、中心部に向かって一度駆け上がり、再び深くなっている。そこに正真正銘の大物がいると、3人は頑なに信じ、川岸近くに餌を入れることをしない。その頑なな姿勢には敬意を表する。わたしなどは、とにかく釣りたい一心で、竿を2本出し、遠投と近場に餌を投げ込む。彼らは巨鯉だけを狙い、仕掛けも「くわせ」の2本針である。わたしのような「吸い込み仕掛け」は、大物のチャンスはあるものの小物もかかる。吸い込みの団子餌は、魚寄せ効果が高いため、巨鯉よりも中型小型の鯉、鮒、ニゴイ、ハヤ、ときには鯰やブラックバスまでなんでも釣れる。1本針2本針の「くわせ」仕掛けのほうが、真っ向勝負をしている潔さを感じるのだが、飽きっぽいわたしは、ちょくちょく釣れなければ退屈してしまう。そこで、「吸い込み仕掛け」を使う。「吸い込み仕掛け」は、遠投がきかない。遠投すると着水の衝撃で団子が割れてしまう危険性があるからだ。せいぜい30メートルほどの中投となる。今川さんや有村さん、武内さんの遠投の潔さが羨ましいが、なかなか吹っ切れないでいる。先日、朝霞からきたという二人ずれの若者が、83センチの巨鯉を釣り上げた。彼らは、機関銃の台座のような最新式の道具を使い、大物狙いの「ボイリー仕掛け」で堂々と巨鯉と対峙した。その台座は、ラインをフックしておくと、獲物が当たった時にピピーッと音が知らせてくれるのだ。わたしのように120円の鈴ではない。だが、鯉にはそこまで見えないから、わたしには最新式の道具は不要だ。それに、やれ10万以上するとか、いや20万くらいだとか、最新式は高い。止めておく。朝霞の若者は、さらに60センチを釣り上げ、嬉しそうに笑った。「この川はゲストにやさしいんだよ」と、わたしは負け惜しみをいった。先週夕方、鯉が近場を回遊する時刻、餌に使っているコーンを撒き餌にしておびき寄せ、80センチを釣りあげた。この2ヶ月、巨鯉どころか鯉の顔さえロクに見ていなかったわたしには、われながらの快挙だ。回りの鯉釣仲間が帰った後だ。本当は「わーいわーい」と見せびらかしたいのに、なぜか仲間が帰ったあとに鯉は釣れる。「わーいわーい」といいたい根性がいけないのだ。そうと知りつつも残念に思ってしまう。情けない。釣師としては、まだまだ未熟者である。背後のラブホテルにネオンが灯り、川面にうっすらと赤みが映る。80センチの巨鯉は、まるで釣り上げられたことも忘れ、堂々と尾を二度三度振って自分の縄張りに帰っていった。「ありがとう」とそのうしろ姿に声をかける。やはりわたしは、巨鯉のうしろ姿が好きである。
■『時代の風』 ■2014年1月9日 木曜日 16時23分57秒

葵の旗が時代の風を浴び、揺れる。先端で龍馬の風が吹く。1965年、京都。「いざとなったら斬りもうす」。西郷がいった。「斬るのかい、龍馬を」。勝が、西郷のでかい顔をのぞきこむ。それも仕方のないことか。もはや、自分にも西郷にも手の届かないところに龍馬は、行ってしまった。それでも勝は、「龍馬を生かしておきたい」と思う。「勝さん、徳川も龍馬を斬らなきゃならんときがくる。新撰組を押さえることができもうすか」。西郷が、目を閉じる。龍馬を西郷に会わせたのは、勝だ。龍馬は西郷を一目見て、西郷の顔の大きさよりも、人間としての大きさに心を打たれた。勝も西郷も、龍馬の人間性が好きだった。その若さが好きだ。若い情熱が好きだ。龍馬には、荒削りだが、理想がある。多くの志士たちがポリシーもなく、ただただ流行のごとく尊皇攘夷を叫び倒幕に振り回されるのと違って、理想に向かう知恵と勇気がある。なによりも、新しい時代を自分で切り拓く行動力が素晴らしい。千葉道場で剣を学び、勝海舟から世界を学び、下関の伊藤助太夫から商業を学んだ龍馬には、「時代を託してもいい」と、思う。だが、「それは夢にすぎない」と、落胆せざるを得ないことも事実だ。坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、三人が考えている日本の明日の姿は、違う。もはや、徳川幕府の崩壊は回避できない。それは、勝もやむを得ないと覚悟している。幕臣とはいえそれほど重要なポストにいるわけではない。さらに開国を唱える勝には、幕府内の敵も多い。幕府の意見もばらばらだ。西郷も、倒幕は必要だと思っている。だが、それは徳川の崩壊ではない。徳川が大政を奉還すればいい。薩摩は、長州の頑固者と違って、徳川そのものに必死の敵意を抱いているわけではない。むしろ、島津公は好意さえ抱いている。龍馬も、もちろん倒幕ありきだ。そして、西郷同様に徳川を壊滅しようとは思わない。まずは、大政奉還だ。そこまでは、三人とも同じ意見だが、その先、新しい日本の形が違う。三人の立場が違う。勝は、大政を奉還してもいいから、天皇の下に徳川を置くことを考える。だが、ここまできてしまった以上、それでは薩摩、長州、佐賀をはじめとする諸藩が許さない。となればイギリス式の議会制しかない。天皇の下に徳川を筆頭とした議会を置く。あくまでも徳川を生かす。「おれは、なんといっても幕臣なのだ」。そのために薩摩の協力は不可欠だ。西郷の力が欲しい。仇敵長州を押さえこむには、薩摩、会津、水戸、紀伊を一つにできるかどうかが鍵だ。西郷は違った。日本という国も大事だが、西郷は薩摩を愛している。薩摩の安泰がまず優先だ。国は、大久保利通や小松帯刀にまかせる。薩摩、長州、佐賀、土佐、熊本、諸藩が参加する議会制であっていい。だが、勝には悪いが、徳川は表舞台から一切手を引かせる。「おいどんは、薩摩の武士として、薩摩のために生きる」。龍馬は、もっと違った。倒幕後、大政奉還を果たしたら、イギリス式の国民代表制議会を築く。そこには、もはや武士はいない。士農工商という身分を排除し、自由を基本とした人間主義だ。それが、勝にも西郷にも理解できない。龍馬は、土佐を脱藩した男だ。組織人ではない。フリーの人間だ。「おまえはそれでも武士か」と、土佐の先輩武市半平太に問い詰められた龍馬が、「わたしは、坂本龍馬です」と答えたが、それが龍馬の大きさだ。だが、組織より人間を優先させる夢の理論だ。勝も西郷も、龍馬が好きである。しかし、龍馬の夢は徳川にも薩摩にも反する。「勝さん、自由ってなんでごわすか」。「そうさな、龍馬の自由は、海だな」。「海?」「土佐は身分制度の厳しい藩だ。だから初めは、下級武士からの開放だったろう。不自由からの自由さ。だがいまは、違う。世界を知ってしまった。海だよ、龍馬の自由とは、海だよ、人間だよ」。勝海舟が、寂しく笑う。龍馬を斬ったのは、だれか。龍馬を斬っても時代の風を止めることはできない。日本の未来のためでなく、自らの損得のために龍馬を斬ったとしたら、悲しいことだ。2013年、秋、渋谷、ハチ公前。明日の日本を夢見る龍馬たちが、自由の風を求めて交差点を渡る。斬ってはならない。

■ぼくの細道 ■2013年10月15日 火曜日 13時46分30秒

ホットコーヒーが似合う朝、女は男に別れを告げ、ツバメが銀座に別れを告げた。ホットコーヒーが似合う朝、人生という川には澱みが必要だ、と教授が言った。ホットコーヒーが似合う朝、ぼくは南に向かう列車に乗り、ぼくの細道に旅立った。ぼくは、一茶の句に惹かれる。芭蕉も好きだが、一茶の句の日常生活をまる裸にする飾らない表現に惹かれる。「やせガエル 負けるな一茶 ここにあり」。「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」。自分の句に自分が登場してしまう。自分の句の中に自分の境遇が描く。それまでの句にある芸術性や風雅な感覚を捨て去ったところに大きな魅力がある。その掟破りがいい。彼の境遇は悲しい。父の再婚によって新しい母がきた。だが、その母は一茶に冷たい。弟ができるといっそう冷たい仕打ちとなる。見かねた父は、一茶を江戸に奉公に出す。辛い奉公暮らしの中で、句を覚えた一茶。いつも弱い立場の目線で句を作る。「やせガエル」は、一茶自身のことだ。「一茶 ここにあり」と、自分で自分を励まし、勇気づけなければならない寂しさ。「雀の子」は、一茶そのものだ。「お馬」は、冷たい母であり、横暴で勝手な世間だ。「そこのけそこのけ」と、冷たい母と世間に居場所を奪われた。従来の句の、美しいとか感動的という既成概念は見当たらない。気ままに知らない町で立ち止まり、知らない川で釣り糸を垂れる。初秋の風が川原に吹き始める午後、ついつい居眠りをする。ふと見ると、釣り竿の先に赤トンボが止まって羽根を休めている。まるで時間が止まったようだ。都会では考えられないひととき、ぼくが人間にもどる時間だ。そこで一句。「鯉釣りの 竿で昼寝か 赤トンボ」。一茶のようにうまくはいかないが、そのときぼくは、赤トンボになる。こいつ、ふて腐れて昼寝かよ、と思いながら、やはり自分もどこかふて腐れて生きているのかな、と自戒の念もこめてみる。横を見ると、仰向けになってアブラ蝉が死んでいる。白い腹に秋の陽が射している。「お陽さまに お腹さらして さらば蝉」。季節は残酷だ。残酷な季節に美を求めるのは、日本人独特の感性か。やがて陽が傾く。そろそろ竿をしまって立ち上がる時間だ。さて、今日はどこで眠るか。草むらで鳴くコオロギの声が心細い。「どん底を 這って生きよと 秋の虫」。なにやら、自虐的になってくる。芭蕉の旅の目的はなんだったろう。俳句づくりが目的か。漂白こそが目的か。それとも噂にあるように幕府の隠密だったのだろうか。「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」。「静けさや」の頭の部分で芭蕉は迷った。「山寺や 岩にしみいる 蝉の声」。これも悪くない。さて、「静けさや」と「山寺や」のどちらがいいか。「古寺や」もある。「岩にしみいる」が秀逸だが、ぼくは、芭蕉の句づくりの姿勢が好きなのだ。この迷いが好きなのだ。文章を書くという作業は、迷って迷って最後はエイヤッと気合で書くしかないと思っている。なにかを活かすということは、なにかを捨てること、まるで人生そのものだ。ところが、実はぼくはとても未練がましいところがあって、メモ用紙一枚捨てるにも躊躇する。妻に叱られる。なんにでも潔い妻の性格が羨ましい。「鯉釣りの 竿で昼寝か 赤トンボ」の句にしても、「鯉釣りの 竿で遊ぶな 赤トンボ」とか、「竿先で だれを待つやら 赤トンボ」とか、メモ用紙が黒くなるほどあれこれ書きつけて迷う。挙句の果てに、「不惑の歳」をすぎると迷いを楽しむ「楽惑の歳」になる、などと図々しい屁理屈までつける。芭蕉は最後に嘘をついた。「荒海や 佐渡に横たう 天の川」。荒海なのにどうして天の川が見えるんだ、と訳知りがいう。なるほどと思う。真偽はわからない。でも芭蕉は、象徴概念として表現したのだろう。佐渡とはそういう荒さと清涼さをもつ所なのだよ、といいたかったのだ。嘘ではなく、象徴概念の表現だ。広告コピーを書くとき、この芭蕉の象徴概念の手法が勇気を与えてくれる。さあ列車に乗って、ぼくは、ぼくの細道の旅をつづけよう。
■永遠の250分の1。 ■2013年9月30日 月曜日 13時33分53秒

写真家飯塚武教が、突然亡くなった。彼と知り合ったのは2年前だ。銀座に「ピク光洋」という映像会社があり、そこで飯塚の写真と出会った。
中国の写真だった。海底が天に向かって突き上がったような、とげとげの山頂をもつ山々が、深い霧の奥にある。山々は、霧の濃淡と溶け合い、その色とカタチを自らの濃淡によって、まるで生き物のように呼吸をしている。
わたしが衝撃を受けたのは、その深い霧が単なる空間ではなく、時間の経過さえ写し撮っているということだった。写真は本来、凹凸もなく、時間経過もなく、一枚の平坦な表現物に過ぎない。だからこそ、写真家たちは奥行きを求め、立体を求め、そこに生き生きとした存在感や生命を写し撮るのだが、飯塚の写真には中国4000年の歴史が鮮やかに写し撮られていた。
当時、中国の兵法書「孫子」を執筆中だったわたしは、飯塚の写真に息を飲んだ。霧が晴れたその奥に、20万人の兵士がじっとこちらを窺っていると想像させた。三国志の曹操の軍勢が、息を潜めている。いや、息遣いや密やかに交わす声、馬の嘶きまで聞こえてくる。飯塚は、数千年の時を見事に写したのだった。
ある時、銀座をふらふら歩いていると、6丁目の交差点でばったり飯塚と出会った。飯塚とわたしは同年代であり、なんとなくウマが合った。それまでほとんど会話をしたことがなく、お互いに挨拶程度のつきあいだった。「どこへ?」「あっち」「わたしはこっち」「いつか一杯やりたいね」。そんな会話で右と左に別れた。ウマが合うというのは、大きな力だ。相手を理解したいとか、親しくなりたいとか、少々のことは笑って許しちゃうからねとか、理屈ばかりの世の中で理屈を越える力が、ウマだ。そんな折に飯塚の写真と出会った。群雄割拠の中国、春秋・戦国時代、野望と欲望を胸に英傑たちが、ただただ勝利を求めて生き抜いたその舞台を、飯塚はつい昨日のことのように写している。
電通という恵まれた環境の中、ディスカバー・ジャパンのキャンペーン写真を撮り、中国の写真も30年以上撮りつづけたと聞く。「写真、使わせてくれない?」。わたしは、「孫子」に入れ込む写真を飯塚に借りたいと思い、無理を言った。飯塚は、例の穏やかな笑顔で、「こんなのあるよ。あんなのあるよ」と、数百点以上の写真を並べてくれた。その一枚一枚に驚く程の物語がある。たった1回のシャッターチャンスのために寒風の中、一週間も石のように待ちつづけたという。たった一枚の写真のために、千キロの道を車に揺られて行くのは当たり前だと笑う。「中国に写真を撮りに行ったのではなく、中国で暮らしたのだな」と、いつもそう思わせた。これまでの出版物の写真は土門拳の一番弟子で、仏像や国宝を撮らせたら右に出る者はいない写真家藤森武に頼んでいた。高校の同級生である藤森に甘えてきたのだが、今回は無理やり飯塚に頼み込んだ。藤森も世間では有名な写真家で、当然のことながら誇りがある。わたしは、唯一の恋人を裏切るような行為をしているのだ。渋谷の居酒屋で、わたしは藤森に頭を下げた。「無理を聞いてほしい。中国の写真に関しては飯塚に勝るものはない」。藤森武は、酒に酔うふりをしてくれた。飯塚にそれを伝えると、「悪かったね」と、一言いった。名人は名人を知る、一言だった。
本の打ち合わせで飯塚とは3回か4回会うことになった。「終わったら飲もうな」。それが二人の口癖だった。本はできた。飯塚の写真が見事に生きた。本の最終校正の後、飯塚は東大病院に入院した。余命2ヶ月。面会ができない。嘘だ。飲もうと約束したじゃないか。本ができあがり、出版担当者が飯塚のもとに届けた。飯塚は、この本に満足しただろうか。その言葉もなく、逝ってしまった。たった数ヶ月の付き合い、たった一回の仕事、酒さえ飲まないのに友人というのはおこがましいが、わたしには永遠の友となった。次の仕事の約束もしたじゃないか。シャッター速度は、250分に1だけではない。だが、わたしは思う。飯塚は、レンズ越しに永遠という時間を見つめ、250分の1のシャッターを切りつづけた見事な男だった。ありがとう、飯塚武教、いつか必ず一杯やろう。
■水平敬意 ■2013年9月20日 金曜日 13時27分6秒

「水平敬意」という言葉はない。言葉には、具体的な行動をともなうものと、単に概念だけのものがある。もともと「平等」という言葉があまり好きではない。いまひとつ信用できない。解釈が一律でないために、だれでも自分に都合よく理解する。美しい響きをもったこの言葉は、具体的な行動をともなうがゆえの長所と短所をもっている。それに対して「敬意」という言葉は、抽象的で概念的だ。もちろん抽象的概念的ゆえの長所短所をもっているが、こちらのほうが具体性も行動性もない分だけホッとする。そこで、「平等」の短所について考えてみた。日本の「平等」は、もともと「機会の平等」を基本にしてきたが、いつの間にか「結果の平等」の方向に流されている。「機会の平等」とは、わかりやすくいえば選挙制度だ。だれにでも立候補の機会は平等に与えられが、当選か落選か、この結果は平等ではない。これが、日本の平等の基本原則だ。ここに一つのおにぎりがある。体重120キロの相撲取りがいて、体重40キロのお婆さんがいる。おにぎりは、同じ大きさのものを1つづつ渡すのが平等なのか、体重に応じて、相撲取りに3個、お婆さんに1個渡すことが平等か、これがわからない。どちらも理屈は通る。正しい答えが得られない。小学校の運動会で徒競走をやる。親たちは、自分の子どもが他のだれよりも早く走り、一等賞になるよう夢中で応援する。一等賞になった子は、意気揚々と1と書かれた赤い旗の前に並び、ノートや鉛筆をもらう。親はにこにこ笑って見ている。だが、これはぼくらの時代の運動会で、いまは横一直線に並んで、手をつないでゴールすると聞く。この「機会の平等」と「結果の平等」の決め方がわからない。民主主義と共産主義の違いかなあ、と漠然と思ったりするが、どうも釈然としない。さらに、現実社会は競争主義だから、「結果の平等」などほぼない。AKB48なんか、それはもう過激な競争で、平等なんかどこ吹く風。大企業と零細企業のどこに平等があるのか、と考えると頭が痛くなる。宝くじだって、買えばだれにでも当選するチャンスは平等にあるけれど、全員に当たることはない。言葉は概念をともない、価値観を含む。言葉が、価値を生み出す。「平等」という言葉が生み出す価値はたくさんある。だから大事な言葉だ。だけど、どうも信用できない。そこで、ふと思いついたのが「敬意」という言葉だ。「これはいい言葉だぞ」と思った。さらに、「水平敬意」という概念に思い当たった。厚い心の雲間から一条の光が差し込んだ。うれしくなった。こんな言葉はないけれど、この概念はもともと世界中のどこにでも浮遊している。ヨーロッパにはあるね、という友人もいれば、アジアにもあるんじゃないの、という友もいる。つまり、心ある人々の心には存在する概念だ。「水平」というのは、文字通り「横一直線」という意味である。「敬意」というのは、「敬う」という意味で、これは心が抱く価値観だ。簡単にいえば、「だれにでも、なんに対しても同等の敬意を払う」ということになる。自分以外の命に対して「同等に敬う心」をもつ。そういうことになる。これは心の問題だから、現実社会で競争があって、勝ち負けが生じてもおかしくない。「敬意」は、具体的な行動や現象の根底にあり、現実の行為とは違う次元の心の価値観だから、しっかりと固めておけば、現実社会での責任は問わない。だが、「平等」という言葉には、責任がある。だれもが「平等」と判断し、納得しなければならない。各自勝手に解釈するから、真の「平等」は存在しない。男女雇用機会均等法が施行されても、相変わらず区別差別が存在する。「平等」という概念には賛成するが、現象を見ると疑問が沸く。だから、行動や現象にとらわれない「敬意」という概念にホッとするのだ。さて、そこで「水平敬意」だ。人は、自分以外の命、たとえば老若、男女、外国人、犬、猫、鳥、花、樹木、虫等に対し「水平敬意」を抱くことができるか。できる。心の持ち方ひとつ。日本古来の神道の概念。これをみんなと語ってみたい。この言葉が流行ると、みんなきっと、もっとすてきな人間になると思う。
■ワイン通?不通?普通? ■2013年9月20日 金曜日 13時14分37秒
ワイン通?不通?普通?

決してワイン通ではない。むしろ不通だ。高校のとき銀座のバーでアルバイトをして、カクテルはいくつか覚えたが、ワインの勉強はしなかった。機会がなかった。その頃、ワインというより葡萄酒といっていた。ロマネコンテなる高貴なワインを知ったのはずっと後のことだ。酒通で知られる作家が、自宅の建前のときにぶらさげて持って行き、日本酒の一升瓶といっしょに大工さん連中と回し飲みをしたという。贈った出版社の担当がびっくりして、「先生、ロマネコンテはそういうワインではありません」といい、「じゃあ、どういうワインなんだ」と、作家は開き直った。担当は、「1本10万円です」と答えた。作家は絶句し、深呼吸をしてから、「それを先にいわんかい」と、拳を振り回したという逸話がある。四谷にあるワイン協会の重鎮の酒場で、ロマネコンテを飲んだ。著名な写真家にご馳走になった。「ロマネコンテが何本か残っていますが」。オーナーが写真家の耳元でそっといったのは、有名女優がいっしょだったからだ。「おお、開けよう」。写真家が胸を張り、見栄を張った。有名女優がいっしょだったからだ。「もう1本、頼むよ」。1本を飲み終わると、写真家が追加注文した。有名女優がいっしょだったからだ。そして、もう一本。計3本を飲んだ。有名女優がいっしょだったからだ。翌日、写真家が虚ろな目でいった。「1本20万だってさ」。わたしには、ロマネコンテのうまさがわからない。だが、20万円の価値はわかる。3本で60万円。軽自動車が買える。腰が抜けた。ある年、フランス国営の船会社のコピーを書いた。担当のフランス人女性が、ワインの試飲会があるからと誘ってくれた。目の前の卓上に100銘柄を越えるワインがずらり並んでいる。わたしには、味の差がわからない。「これは、雨に濡れた子犬の味ね」なんていわれても、まるでわからない。当たり前だ。雨に濡れた子犬を、わたしは飲んだことがない。「これは、陽を浴びた枯れ草の味ね」。わからない。陽を浴びた枯れ草をくわえたことがない。わたしは、牛じゃない。しばらくして、ワインボトルの首に数字が書き込まれていることに気づく。168、255、380とマジックで書かれている。「これ、何ですか?」。聞いてみると、値段だという。いわゆる卸値だという。168は、168円。255は、255円。380は、380円だ。「こんなに安いのばっかりなの?」。そう聞くと、「この380円のワインは、日本では5000円以上になるかしら」と、平然とした答えが返ってきた。わからない。ワインのすべてがわからなくなった。わたしは、ワイン通ではなく、ワイン不通だ。いまでは、うまければいいじゃないの、と割り切って、ワイン通のご意見をストーリーとして聞いて楽しんでいる。ある年、フランス以外の国のワインが突如として、おいしくなった。オーストラリアワインのコピーを書いていたときだ。「なんで?」と聞いた。「数年前にフランスでワインの規制緩和があったせいでしょう」と、担当がいった。それまでフランスでは、ワイン職人の海外流出を禁じていたのだという。規制緩和により、腕のいい職人たちが、世界に散ったのだという。カルフォルニア、チリ、アフリカ、オーストラリア、エトセトラ、どこの国のワインもおいしい。ここ最近では、妻は、マイバスケットで買う480円のチリの赤ワインがうまいといい、わたしは、480円のアフリカの白ワインがうまいと思う。亡くなったバンジャケットの石津健介さんと、ワインの話をした。「先生は、さぞ高級なワインばかり飲んでいるのでしょうね」。とんでもない。石津先生は、顔の前で手を振った。「仲間とうまいワインの発見ごっこをしている。今度、1本持って青山の事務所にいらっしゃい。ただし、1000円以下のワインだ」。その約束が果たせなかったのが残念だ。味は、イメージ。あるコピーライターがそういった。正しいと思う。耳で味わい、目で味わい、鼻で味わい、舌で味わい、喉で味わう。だが、「雨に濡れた子犬の味」というイメージは、おそらくわたしには永遠にわからない。おいしいワインをお飲みですか?
■恋せよ龍馬 ■2013年9月6日 金曜日 16時37分29秒

写真家が、恋に落ちた。カウンターの中から、いつも皮肉をこめた眼差しで、六本木の街と風俗と時代を俯瞰で見つめているわれらが写真家は、45歳になる家庭もちだ。
だが、恋する男はだれでも少年だ。お相手は、高知出身の売り出し中の女優。23歳になる彼女は、漆黒の長い髪と憂いを含んだブラックパールの瞳をもち、太平洋で磨かれた素肌は健康的な琥珀色だ。のびのびとした美しいプロポーション。笑顔にまだ少女の面影を残す。
彼女主演の映画のポスターを撮影して写真家は、恋に落ちた。六本木、酒場「L」は午前零時を回り、客たちは引き潮のように帰った。
次の満ち潮は、午前二時だ。「あら、お出ましよ」。カランという扉の音が鳴ると、窓際のスタイリストが振り向いて言った。写真家がカウンターの中でうなづく。飾り気のない白いシャツとホワイトジーンズの彼女は、まっすぐにカウンターに向かい、座った。
写真家が、慣れた手つきでスコッチのボトルとグラスとアイスペールを差し出す。二人ともムンク貝のように押し黙ったままだ。それで十分会話している。グラスにウイスキーを注ぐ彼女の黒真珠の瞳は輝きを増し、写真家に向けられっぱなしだ。30分もしないうちに彼女は、われらに爽やかな笑顔を残して帰った。
そんな日々が続いた。だが、次の映画にクランクインすると、彼女の姿を見ることはなくなった。週刊誌は、二人の破局を伝えた。「破局もなにも、恋なんかなかったさ」。写真家は小さく笑った。嘘の下手な男だ。
「写真の勉強をしたいというから教えただけさ」。横顔に、恋を失った少年の切なさがあった。有名小説家と次の恋が噂される頃、彼女はアジアの子どもたちを撮影した写真展を開き、好評を得た。「高知出身のあの娘は、坂本龍馬そのままだ。人と出会って自分を高めて
行く。おれともそうさ。恋なんかじゃなかった。でも、いい写真を撮った。うれしいよ」。六本木の恋は、草原をわたる疾風のように、一瞬で駆け抜ける。だが、この街の切ない恋風は、女と男を成長させる。
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■銀座玩具箱 ■2013年8月12日 月曜日 12時29分22秒

初めて銀座で働いたのは、高校2年の時だ。銀座と新橋の間にまだ運河があった。「銀座九丁目は水の上」という神戸一郎の歌の通り、泥だらけの運河に赤いネオンが映っていた。高校生のわたしは、とにかく銀座に憧れてバーテン見習いの仕事をした。学校にはナイショだった。部活が終わると吹っ飛んで銀座に行った。なにもかも未知の街は、すべてが興味深かった。8丁目の路地裏にあるバーの鍵を開け、店の掃除をし、グラスを磨き、カウンターを磨き、ウェイトレスたちの夜食を作った。一日のバイト料500円は大金だった。帰りはタクシーで下落合に帰ったが、その料金が500円だった。店の前に「コンパル」という美人喫茶があって、コーヒー代が800円と聞いて目を回した。ウェイトレスはみんな女優のような美人で「これならコーヒー代が800円でもいい」と、納得した。東宝の人気スター宝田明と競演した香港の人気女優「ユーミン」が、一日ウェイトレスでコンパルにきた時は、店は大騒ぎとなった。顔見知りになったウェイトレスのお姉さんが、高級レストランに連れていってくれた。下落合では見たことも聞いたこともない洋食を食べさせてくれた。うまかったかまずかったか覚えていない。きっと美しい顔に見とれていたのだ。普段はかわいいと思っていた同級生の女の子たちが、みんなイナカモンに思えた。日劇の踊り子さんたちが、お客さんといっしょにきていた。大手銀行の新橋支店長が、「こちら賠償さんね、こっちが三田さんね」と、若い踊り子を紹介してくれた。賠償千恵子さんと三田佳子さんだったと思う。その支店長さんが趣味で絵を描き、「絵が売れた。これチップ」と、500円札をくれた。悠々とした紳士で、ブラック&ホワイトウイスキーをゆっくりと口に運ぶ穏やかな表情を見て、「こういうオトナが日本を支えているんだな」と感心し、安心もした。宮坂文彦さんというバーテンさんが、兄のように面倒を見てくれた。兄のないわたしには、すてきな兄だった。いつも糊のきいたワイシャツを身につけ、高級なネクタイをしめた品のいい人で、成城大学の出身だと聞いた。カクテルの作り方、シェーカーの振り方を教えてくれた。人との接し方を厳しく教えてくれた。格闘技ばかりしていたわたしに、人を不愉快にしない目配りを教えてくれた。言葉づかいの一つひとつを教えてくれた。店が終わった深夜、タクシーで六本木の「チングリ」というバーに連れていってくれた。乃木坂の近くだった。「チングリ」とは、ドイツ語で「頭脳」という意味だと店名で知った。六本木には米軍キャンプがあって、プロレスの力道山の店があった。町中がキラキラ輝き、不夜城だった。本を読みなさい、大学に行きなさい。宮坂さんは、いつもそう言った。「バーテンは一生の職業じゃない。きみは大きな世界を羽ばたきなさい」。自分がバーテンのくせにそう言った。バーテンをやってみたいと思ったのは、石原裕次郎の影響だった。映画「錆びたナイフ」「俺は待ってるぜ」を観て、「男は必ず悔いるような過去をもち、それでも夢にすがり、バーテンとしてひっそりと街の片隅で暮らすものだ」と、高校生のわたしは思い込んだ。銀座の旦那衆にいろいろ教わった。老舗の苦労と喜び。金持ちの苦労と喜び。男女の美しいストーリーと醜いストーリー。親子兄弟の美しい物語と醜い物語。友情の儚さと大切さ。銀座のバーは、学校では学べない人間の生き方を教えてくれた。あれから月日は流れ、いま、わたしは銀座にいる。弟の勤めている会社が銀座にあり、ちょくちょくお世話になっている。弟の世話になる情けない兄貴になっている。銀座は変わった。いいも悪いも含めて変わった。「それでいい」と思う。「それがいい」と思う。街は生き物だ。時代に敏感でいい。流れていい。流されるのではない、自分で流れるのだ。そうして発展していくものだ。銀座は、わたしにとって玩具箱のような街だ。そう、「遊び飽きたらまた明日」。わたしのようなよそ者にとって、銀座はどう変わろうとも、永遠に日本一の見栄っ張りの「憧れの街」なのだ。
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■海とサンドイッチ ■2013年8月12日 月曜日 12時22分13秒

2013年夏、江の島がアメリカになった。東京オリンピックを機に造られたヨットハーバーと向かい合う東浜に、クロスポイントの小池番長と伊藤さんが、「チーズステーキサンドイッチ」の店を出した。東浜は、ぼくが学生時代にアルバイトをしていた懐かしいビーチだ。こう見えても当時は湘南ボーイだった。若い男ならだれでもボーイにはなれるが、湘南ボーイにはちょっとやそっとではなれない。「なったらどうなんだ」といわれると困る。波乗りもできないし、ビーチでウクレレ片手に歌うほど歌もうまくない。水着の女性と見れば「きみ、かわいいね」と、見境なく声をかける日々だった。それも湘南ボーイの大事な務めだ。コカコーラを身体にぶっかけて真っ黒に日焼けし、7月と8月の2ヶ月を海パン1枚で過ごす。東京のことも、空手のことも、勉強のことも、頭に一切なし。空手道部の先輩の代から浜で睨みを効かせるだけ。空手一筋の格闘バカでも務まる仕事。海風に吹かれる雲となって時をやり過ごす。自由とは、江の島東浜のことなんだ。そんなとき弟みたいにつるんでいた地元腰越の臼田ユキヒロくんが、いま東浜海の家協同組合の組合長になっている。浜の悪ガキも時が経って立派になった。もっともこの男、母親の影響か、昔から妙に責任感が強く、仲間の面倒をよくみた。お節介も生き方も、フーテンの寅さんそのもの。その頃宿題抱えてビーチをちょろちょろしていたユキヒロの甥っ子がいた。高校生だった洗心亭の息子ユキオだ。あのちょろちょろ高校生がいまでは藤沢市の市会議員だというから、海は気まぐれ、ビーチではなにが起こるかわからない。そのユキヒロの世話で、「江の島亭」海の家に番長と伊藤さんが店を出した。そこで一時、渋谷のクロスポイントはメニュー開発研究室になった。もともと伊藤さんのおでんと鍋は絶品、近郷近在では知らない者がないほど旨い。だが、夏の海におでんはどうも似合わない。サザンの歌に鍋は合わない。そんなとき、番長が「チーズステーキサンドイッチ」に目をつけた。アメリカに2年間遊学していた番長は、180センチを超える長身でバリバリの体育会、神奈川県では伝説のサッカーマン。普段、ショッピングセンターの企画で眉に皺を寄せているが、ギターを抱えると突然ジミー・ヘンドリックスに変身するアメリカン。伊藤さんはというと、次郎長一家の居合いの名手小政のように、柄は小さいが切れ味抜群。情の厚い、穏やかな沈思黙考人。メディアプランをさせたら、小政の切れ味だ。この大小無敵のコンビが、ああだこうだ、あっちのパンだこっちの肉だと、くる日もくる日も味の追求にオオワラワ。「これじゃ3000円のサンドイッチになっちゃうぞ」と、ため息をつく番長。「旨くなくちゃダメ」と、すっかり道場六三郎の伊藤さん。試食のサンドイッチのおかげで、ぼくは3キロも太った。もうこれ以上太れないという頃、メニューは完成した。フィラデルフィアで生まれ、マンハッタンで大人気の「チーズステーキサンドイッチ」は、現地のサンドイッチよりもはるかに旨い。もっとも現地の本物を食べたことのないぼくには比べようがない。これはシラス以来の江の島名物になる。そう踏んだぼくは「江の島・イーストビーチ・チーズステーキサンドイッチ」というネーミングはどうだ、と提案。東浜だから、イーストビーチ。ベタかな。こだわりの2人が厳選した上質のステーキをあふれんばかりに挟み、たっぷりのチーズを乗せた「江の島・イーストビーチ・チーズステーキサンドイッチ」は、スイートでボリュームがあって熱く、夏の恋の味がする。サザンの歌と寄せる波がよく似合う。ちょっと誉めすぎだが、それだけの価値はある。湘南江の島東浜に行かれる方は、ぜひお試しいただきたい。この新聞をもって番長か伊藤さんを訪ねれば、20%引きにしてくれる。お願い伊藤さん、そうして。後でぼく、払う。ああ今日も暑い。海とサンドイッチがぼくを呼んでいる。
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■若い川の流れ ■2013年8月12日 月曜日 12時20分37秒

夜明けの光をあびて、キラキラと飛沫をあげて若い川は流れる。力に満ちた眩しいその輝きは、今日の希望の光であり、明日の夢の光だ。次から次へと湧き上がる若いエネルギーは、自分でも抑えきれないくらいに燃え上がる。若さとは本来そういうものだ。剣の天才、宮本武蔵もそうだった。織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたすぐ後に生まれた武蔵は、十三歳で新当流有馬喜兵衛を打ち破った。その武蔵が青春期にさしかかった頃、豊臣秀吉が死に、徳川家康が天下統一の入り口にいた。もはや、一つの社会形態は出来上がっていた。身体の芯から吹き上がる赤い野望に突き動かされた武蔵は、関が原の合戦に参加した。だが、そこには絶望しかなかった。一人の剣が時代を創る時代は終わっていた。関が原の合戦は、すでに集団戦だった。軍勢と軍勢が激突するチーム戦だ。敵を切るべき武蔵の剣は、虚しく空を切った。そして、家康による天下統一が実を結ぶと剣の時代は終止符を打った。すべての武士は戦闘を封じられ、すべての若者は一国一城の主への夢との決別を余儀なくされた。家康の天下統一は、さざなみ一つさえ許さない天下の平定だった。現状を維持して波風を一切起こさない、それだった。大名はもとより、人々は大過なく過ごすことを強いられ、家康の権力に虚勢された。ただ剣一筋に夢と希望を託した武蔵は、自分の進むべき道を完全に見失った。吹き上がり溢れる力、強烈な上昇志向を抱く武蔵は、それでもなお剣にすがるしかなかった。だが、遅すぎた天才の行く道はない。戦闘そのものがすでに意味も大義ももたない時代の到来。それを知りながらも、剣を捨てきれない武蔵。その若い魂は、剣に生きる道を遮二無二突き進むしかなかった。戦闘に意味があるのではなく、勝利そのものに意味を見出すしかない。時代に敏感な武蔵は、そう感じた。もはや剣で名をあげるしか道がない。有名になりたいだけでテレビに出たがるタレントみたいなものだ。室町からの名門吉岡剣法に戦いを挑んでことごとく撃破し、名をあげた。死闘の果てにつかんだ勝利だが、それ以上のものはない。勝利以上でもなく、勝利以下でもなく、ただただ勝利だけが目的の戦いだった。武蔵は戦って戦って、勝利しても勝利しても、飢えた魂は満たされない。不完全燃焼のまま、時は過ぎ、老いて行く。思えば、徳川二七〇年は、武士の不完全燃焼の時代だった。刀を腰に差していても、人を斬ってはいけない。それなのになぜ、武蔵はむきになって戦ったのだろうか。そこで、現代の若い力はどうだ。上昇志向は否定され、もてる才能は時代に葬られ、溢れるエネルギーをもてあます。まるで、それでは武蔵ではないか。高度成長時代の夢も希望も、いまはない。目立ってなにかしようとすると、社会が足を引っ張る。会社が足を引っ張る。上司が足を引っ張る。そのくせ、改革とか革新とか騒ぐトップほど、目立つ社員を潰しにかかる。こんな上司は家康以下だ。家康ほどの権力も財力もないくせに、いまの保守安定がお気楽だから、さまざまな言い訳を用意して、若いエネルギーを潰す。会社が下り坂になっても、現状から抜けないまま若い力を潰す。就職を望んだ武蔵も、結局はフリーランスで生きるしかなかった。夜明けの光をあびて若い川は、キラキラ輝きながら流れる。この清冽で溌剌としたエネルギーこそが、世界の国々と堂々と渡り合っていける日本の力だ。大人たちはいまこそ、その若い川の流れがやがて大河となり大海に注ぐよう、敬い、暖かく見守るときだ。武蔵の孤独は、宮本武蔵一人だけでいい。
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■多摩川のサリーは、魔法を使ったか。 ■2013年6月19日 水曜日 13時34分13秒

少女は11歳。小学6年生。風になびく黒髪は肩まで伸び、スリムな長身を包むのは質素な服。男の子が着るようなだぶだぶの、英文をプリントしたトレーナーを着、膝下の長さのベージュ色のパンツを履いている。自然素材で作られた石鹸のように清潔な少女だ。「名前、なんていうの?」。「サリー」。学校で、ヒップアップダンスを始めたという。酒屋の使うビールケースの裏側に並ぶ小穴のひとつ一つに、河原の石を拾っては埋めていく。石ころだらけの河原にうずくまって座り込み、きちんと端の穴から順序よく、穴に合う大きさと形の石を選んで並べていく。「魔法使いみたいな名前だね」。「よく、いわれる」。石から目を離さずに、言葉少なに答える。「魔法、使えるの?」。そう聞くと、ふと顔をあげて照れくさそうに微笑み、首を左右にふった。その微笑みが、どこか寂しげだ。「でも、使えそうだね、使えるといいね」。河原で釣りを楽しむチャルメラおじさんたちの孫にあたる年齢。おじさんにもらった釣竿で、彼女は釣りをする。週末、たった一人で河原に釣りにくる。めずらしい。近頃では家族で釣りを楽しむ光景さえ見られないのに、小学生の女の子が一人で釣りをする様子は、ちょっと不思議で切ない感じ。「父親から教わったらしいですよ」。チャルメラFおじさんがいう。竿をあげたのはFおじさん。仕掛けをあげたのはAおじさん。リールの扱いを教えたのはKおじさん。餌をあげたのはIおじさん。サリーちゃんは、河原のアイドルだ。「そのお父さんがいまはいないようです」。両親が離婚したという。サリーちゃんの寂しげな感じはそこからきているのかもしれない。別れた父が教えてくれた釣り場にきて、少女は一人で釣りをする。切れ長の瞳の奥に、けなげな強さがふと見える。歯を食いしばって生きる切なさがうかがえる。おじさんたちは、いたく同情する。「兄弟はいるの?」。「弟」。「いくつちがうの?」。「二つ」。「じゃあ、生意気だろ、弟くんは?」。こっくりとうなずき、うれしそうに微笑む。弟をかわいがっているのだな、と思う。「お昼にしませんか?」。12時になって、チャルメラFおじさんが呼びにくる。おじさんたちは、鉄橋下に集まってお弁当を食べる。「サリーちゃんもおいで」。Fおじさんが手招きをする。サリーちゃんは、自分で作った手づくりのお弁当を広げる。掌くらいの小さなピンクのプラスチックの弁当箱に、少しの野菜と小さなパンが見える。「これ、おいしいから食べな」。Iおじさんが煮物を差し出し、Kおじさんがサンドイッチを差し出す。「魚、どこに行ったんだろう」。「みんなで温泉にでも行ったかな」。その日はまるで当たりがない。どの竿も無言のまま、風に吹かれるだけ。ところが、午後になってサリーちゃんの竿に突然、40センチの鮒がきた。驚いて歓声をあげる間もなく、すぐ隣のKおじさんの竿の鈴が鳴り、鯉がきた。つづけて10メートルほど上流に出しているFさんの竿がしなる。「なんだ、なんだ、すごいね」。そして、わたしの竿にも鯉がきた。「魔法を使ったね、サリーちゃん」。Aおじさんが、サリーちゃんにいう。「そうだ、サリーちゃんの魔法だ」。Iおじさんがいう。サリーちゃんは恥ずかしそうに首を左右にふる。でも、うれしそうだ。本当に魔法が使えたらいいのに。みんながそう思った。
■キヨさんありがとう、さようなら。 ■2013年6月19日 水曜日 13時32分38秒

宮原キヨ。義母が百歳で天寿をまっとうした。彼岸に旅立つのは5月、穏やかな丘の上、それが理想とブッタはいった。キヨさんは、やさしい陽射しの5月のその日、丘の上ではないが、一生を過ごした懐かしい荒川沖の町から旅立った。お別れ会の日、親戚一同が集まった。高野家を代表して下落合から来た弟の信治に親戚一同を紹介する。「キヨさんには5人の子どもがいる。ほら、あれが長女の妙子姉さんな、喪主だ。妙子姉さんには、3人の子どもがいる、あれが長女の真実ちゃん、隣が千秋、おい、基幸、長男の基幸な、これ、弟の信治だよ。基幸はよ、チッチャイときから車オタクでさ、ついにミシュランに勤めちゃった、タイヤのな。ちょっと見には、イ・ビョンホンに似てるだろ、韓国スターの、だけど、みんな、渥美清に似てるっていうんだ。確かによく見るとそう見えるな。生き方は不器用だけど手先が器用で、テラスなんかも一人で造っちゃったんだ。隣が基幸のかみさんでかおちゃんな、どっか吹っ飛んだ感じがいいだろ、太鼓がんがん打つんだよ、がんがんだぞ、仲間たちと近所の迷惑返りみずによ、筑波の麓でがんがん騒音立てるから、最近筑波のガマも鳴かなくなっちゃったよ」。ここまで紹介して、信治はにこにこ笑っているが、もう覚えきれない。「博兄さんはさ、電源開発、いまのジェイパワーな、そこにいた、経理な、守男と同じだ。ダム工事の現場に泊り込んでさ、奥只見ダムな、何千人もの給料計算だ。手にツバつけながら夜通し札束数えてたらしい。横の人が奥さんのゆう子さんな、和歌山の新宮出身だ、宝塚スターみたいだろ、そう、越路吹雪に似てるよな。よりによってなんで不器用な博兄さんと結婚したのか、それが世間の七不思議の一つよ、まあ、人間、ときとしてトンチンカンなことをしでかすもんだからな。晃兄さんは、水戸の茨城県庁に勤めてた、親父と似てるだろ、豪放磊落というか、スキだらけというか、まあ、評価はまちまちだけど、大物だ。県庁の慰安旅行で酒に酔ってさ、課長のネクタイを寝巻きの帯がわりに結んでよ、翌朝ネクタイがないって部下たちは大騒ぎよ、それが原因で出世を棒に振った。豪傑だろ。洋子姉さんは、宮原家の優等生な。すべてに完璧。彼女の人生に失敗の文字はない。唯一で最大の失敗は、ほら、あそこにいるご主人な、明憲さんをご主人に選んだことだな。明憲さんは、この地上で生きながら、すでに天上人だ、あらゆることが人間の枠に納まらない、狭い家ん中で平気でアーチェリーよ、玄関から風呂場に向かって矢を放つ。客の目の前をビュって音立てて矢が飛んでくんだぜ、客はもう命がけよ、お茶なんか飲んでられないってさ。キヨさんの姉さんは谷田部で「ガマン」という食堂をやってた、うん、いったいなにを「ガマン」するのか、それがわからない。4人の子どもがいてさ、ほら、あそこの美人3姉妹な、とこちゃん、かこちゃん、ふうちゃんな、その下についでのようにヨシオっていう雲突く大男がいる。ジャンボ鶴田にそっくりだ。とこちゃんは、草木染の先生、文化服装学園で先生をしてた。かこちゃんは、ご主人は山口さんていってさ、早くに亡くなったが、おれ、二人が恋愛真っ最中のときから知ってんだ。土浦の町な、古い城下町だ、ご主人と人目もはばからず腕をからめて歩く姿なんか、通りの反対側からよく見かけたよ、まるで「青い山脈」の主人公、新子と六助、そんな二人だったよ。まあ、遠くから見たから映画の主人公に見えたんだな、近くで見ないでよかったよ。その隣が息子な、谷田部の消防士やってる。お父さんにそっくりになってきたな、いや、独身だ、美人の母さんに育てられたせいか、世の中の女たちがブスに見えるんだな。隣がふうちゃんのご主人の糸賀さんだ、気さくで、面倒見がいい、真っ直ぐ話をする、正義感が強いんだな。信治、どうだ、これが親戚だ。で、あっちの人がさ」。「あんちゃん、おれ、もう、だれがだれだかわからないよ」。残りは次の機会にする。キヨさん、ありがとう。こんなにいい親戚をありがとう。のり子を生んでくれてありがとう。そして、さようなら。
■トイレ進化考 ■2013年6月19日 水曜日 13時30分35秒

河原で一日中鯉釣りをしていると、当然のごとく、途中で用を足したくなる。背後の土手を越えると立派なパブリックトイレがあって、どうせ暇なのだからトコトコ歩いて行けばいいのだが、どうもわれら男は、広い河原のそこここにある木蔭草陰で、ちょいと失礼と相なる。こんなことを書くと、登戸駅前派出所の警察官が飛んでくるかも知れない。「はい、3000円」、と罰金を取られるかも知れない。だが、さほど心配はしていない。この新聞は、警察官が好んで読む性質のものではないし、河原に立ててある看板によると、河原の管轄は、国土交通省だ。わが国は縦割り行政だから、警察官も3000円のために敢えて越権行為はしないだろう、とわたしはタカをくくっている。最初にトイレでびっくりしたのは、経堂の友人山川邸だ。改装なった山川邸に招待され、親しい仲間たちとひととき酒宴を楽しませてもらった。旦那の料理の腕が並みではなく、魚もうまいし、和え物、炒め物、揚げ物、なんでも実においしくいただき、またメンバーたちの軽妙な会話も存分に楽しませてもらった。途中、ちょっと失礼、とトイレを拝借した。最新のトイレに緊張して入る。いやはや、ドアを開けて中に入ったとたんに、びっくりした。美しいメロディに迎えられたと思うと、ヒョイッと容器の蓋が開いたのだ。いったいだれが潜んでいるというのだ。ズボンのジッパーを下ろそうにも、だれかが見ている気がして不安だ。ジッパーを上下させながら、四方の壁や天井をきょろきょろと見渡す。いない。だれもいない。おかしいではないか。きっとだれかいる。あるいは向こうのテーブルで、旦那がリモコンで蓋を開けたのか。これで、帰りに「ご苦労さま」とか「お疲れさま」なんていわれたら、きっと腰を抜かす。いつの頃か、恋女房がトイレに得意のメモを貼りつけ「トイレを汚すな。一歩前へ」としっかりと書いてきた。そのうち「もっと前へ」と文字が大きくなった。面倒くさいので、座って用を足しているうちに、ふと気がついた。わたしが、女性化している。確実に女性化している。オネエ言葉が増えた。歩き方に、妙にシナを作る。そんな自分に仰天して、座って用を足すのを急いで止めた。男は、原っぱで、天に向かって、大きく、悠々と用を足してこそ、男なのだ。下落合では、そうして育ってきた。思い出すと、用足しには実に格好の原っぱや麦畑が、たくさんあった。爽快だった。いま、都会ではあらゆる場所で用足しが禁止され、最近では犬さえ恨めしそうに電柱を見上げてガマンする時代となった。ある日、井の頭線渋谷駅前の喫茶店に入った。古い木造の郷愁誘うたたずまいである。コーヒーの香り漂う店内は、年季の入った調度品が備えられ、あちこちに置かれた装飾品も十分に時代をくぐってきた感があり、ほっと心安らぐ。ゆっくりとコーヒーを味わい、落ち着いて広告コピーを書く。帰り際にトイレを借りた。細長い店の突き当たりにあるトイレのドアを開け、思わず戻ろうかと思った。そこは、近未来の世界だった。床も壁もきらきらと眩いばかりに輝いている。きょろきょろ見渡し、容器に目を向ける。お、なんだヴィトンか、と目を見張るほど豪奢だ。「いらっしゃいませ」。突然、女性の声が耳元で聞こえた。ため息にも似た甘いささやきだ。飛び上がった。首をぐるぐる回して、血走った目でもう一度、床、壁、天井を穴の開くほど見つめる。いない。だれもいない。いるわけがない。深呼吸して心を落ち着け、ジッパーを下げる。「どうぞ」。女性がいう。飛び跳ねる。用足し寸前で急停止。ジッパーは、下りたまま。容器をしみじみのぞく。いない。女性の姿はない。いるわけがない。人魚じゃあるまいし、こんな水の中で女性が泳いでいる道理がない。「お止めですか?お続けですか?」。もはや、出るものも出ない。あわててジッパーを上げる。「お帰りですか?」。目の前が真っ暗になる。気が遠のいていく。まあ、これは半分冗談だが、ITだけでなく、トイレの進化にもびっくりさせられる今日この頃である。
■新宿ものがたり ■2013年5月1日 水曜日 10時40分2秒

こんにちは赤ちゃん、わたしがママよ。もう何10年前になるのだろう。新宿駅中央口、武蔵野館通りに梓みちよの歌声が流れると、女たちは薄い胸を突き出し、続いて石原裕次郎の歌声が街中に響くと、男たちはくわえタバコで肩で風を切り繁華街を闊歩した。今はビックロになってしまった三越デパートの真裏に白十字という喫茶店があって、隣接して「チャーミングコーナー」という日本最初のスーパーマーケットがあった。その隣はビヤホールだ。いつも客に賑わい、景気のいい掛け声にあふれるそのスーパーマーケットの社長は、侠客として名高い関東尾津組の親分、尾津喜之助さんだ。喜之助親分は、水戸の武家の出身だ。日本がアメリカとの戦争に敗れて新宿も焼け野原と化し、夜ともなると真っ暗闇になる駅前を見て、水戸の屋敷を売り払い、当時の金で300万円の私財を投じて街灯を設置したと聞く。中央口一帯に縄を張り、織田信長のごとく裸馬にまたがって駆け回り、縄張りを作ったとも聞く。テント張りの大マーケットを作り、敗戦で暮らしをズタズタにされた人々のために生活物資を供給した。伝説の新宿尾津マーケットだ。その延長にあったのか、喜之助親分はその後三越裏にスーパーマーケットを作り、人々の暮らしを助けた。父の知り合いの安次郎さんは、喜之助親分の義理の弟だ。小柄で温厚な人で、いつも「勉強しなよ」と学生のぼくに声をかけた。寡黙な安次郎さんがかつて「人斬り安」と呼ばれ、任侠の世界で懼れられている尾津組の特攻隊長だったとは、とてもぼくには思えなかった。安次郎さんの紹介で、ぼくはスーパーマーケットのアルバイトを始めた。3階建てのスーパーマーケットは、1階に食品売り場、化粧品売り場、薬品売り場、石鹸や歯ブラシなどの日用生活品売り場があり、2階には呉服売り場とファッション売り場があった。3階は倉庫と事務所だった。屋上があって晴れた日にベンチで昼寝をすると気持ちがよかった。従業員は30人以上いた。だれが尾津組の元組員で、だれが堅気の人間か正確にはわからなかったけれど、地方出身の正直者でいかにも堅気だという人々もたくさんいた。みんな、学生のぼくに親切にしてくれた。安次郎さんは、呉服売り場の主任だったが人前にあまり出ず、いつも人気の無い3階の事務所の隅にぽつんと座っていた。1階食品売り場で働くぼくが3階の倉庫から重い缶詰のダンボールを担いで走る姿を、にこにこと笑って見ていた。ピー子姉さんは1階化粧品売り場の主任で、ゲイだ。ぼくは、生きて動いているゲイを見たのはその時が初めてだった。資生堂やカネボウやマックスファクターなどの美人美容部員たちを「やれ働け、それサボるな」と厳しく見張っていたが、ぼくには「おまえ、帰りに晩飯食わせてあげるわ」と、自分の金ではとても行く気にならない高い寿司屋や天ぷら屋に連れていってくれた。広島出身で、高校時代に女の子にもてすぎ、女に飽きてゲイになったんだとピー子姉さんは胸を張った。確かにアメリカの有名コメディアン、ジェリー・ルイスに似た彫りの深い日本人離れをした風貌だった。秘密めいたビルのゲイバーで作家三島由紀夫さんにに合わせてくれたのもピー子姉さんだ。あんまりいつも晩飯を奢ってもらっていると、相手がゲイだけにあれこれ噂になるので、時々理由をつけて断ると2、3日拗ねて口もきかなかった。顔を合わせても大袈裟にプイっと横を向くのだ。まるで女そのものだと思った。ある時、「彼女ができた」とぼくがいうと、「不潔」と叫んでぼくのほっぺたに平手打ちを食らわせ、それから晩飯に誘ってくれなくなった。どっちが不潔なんだと腹の中で叫んだが、口には出さなかった。
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■自由の時代へ。 ■2013年5月1日 水曜日 10時38分57秒

ぼくらの自由の時代は終わった。少なくとも、ぼくの自由の時代は幕を閉じた。信州のあの山と川、あのりんご畑に吹く風には自由が無邪気な声をあげて笑っていた。青空を突き破り、流れる雲を従えて立ち上がる中央アルプスの蒼き山々には、小鳥たちがさまざまな音階で歌を歌っていた。白い小路でひろった小枝を振り回し、野ウサギを追った日々はすでに遠い。空腹になると畑に手をのばし、気ままにりんごや桃をもぎ取って小川で洗って大口でかぶりついた日々はすでにない。澄み切った小川に小鮒を追い、青い甲羅のカニをつかまえて過ごした日々はもはや夢だ。あのときのぼくは、無邪気な雲だった。東から風が吹けば西に流れ、南から風が吹けば北へ流れ、その日その日が風まかせのはぐれ雲だった。まだ小学校に入る前で、見るもの聞くもの触るもの、すべてが身になり脳に吸収され、自由は翼を広げ、才能は大きく羽ばたいた。下落合の山と川にも自由があった。学校の勉強が薄皮を剥ぐように、徐々にぼくから自由と才能を奪っていったが、川や池には遊び仲間の魚も亀もいたし、真っ赤になって腰を曲げ、鋏を持ち上げて威嚇するエビガニもいた。えらそうに髭を生やす泥鰌もいた。なによりも農家の庭先の柿や枇杷を盗んで齧りあう友がいた。鞍馬天狗のまねをしてチャンバラごっこをしたり、缶蹴りや隠れん坊や縄跳びをする仲間がいた。パチンコで猫を打ち、学校で禁止されているベーゴマやメンコをともに楽しむ友がいた。麦の実をつまんで口で噛んでガムをつくったり、隣町へケンカに出かけ、おでこにできたタンコブとボタンが取れて破れた服を笑いあう仲間がいた。教科書をなくしたら見せあい、宿題を忘れればノートをそっと差し出す友がいた。先生に怒られればいっしょに家出をしてくれる仲間がいた。お寺の境内の森に秘密の隠れ家をつくり、親や学校にはナイショの宝物を隠した。自由を絵に描き、自由を文字に書いた。木に上り、崖から落ち、腕を骨折した。中学高校時代には、ますます学校がぼくから自由を奪い、翼をもぎり、いつの間にか信州の天才、下落合の英才は、その影も形もぼやけていった。スポーツには自由があった。勝っては笑い、負けては涙を流す自由があった。バレーボールにはチームメイトと心と力を合わせ、助けあい、かばいあい、同じ目標に向かう自由があった。柔道と空手にはつかみあい、殴りあい、ともに血と汗と涙を流す自由があった。やんちゃな自由が翼を広げ、肩で風を切って繁華街を歩き、ヤクザに追われて逃げ回る仲間がいた。世間に背を向け、父や母に反抗する自由があった。恋に破れれば慰めてくれ、新しい恋をいっしょにさがしてくれる友がいた。屋台で安い焼酎を飲み、天下国家を論じ、明日の姿を夢見る自由があった。やがて就職して社会人になり、好きな娘ができ、結婚してぼくの自由は跡形もなく消えた。仕事の中で、わずかに残る信州や下落合にあった自由が翼を広げる瞬間、ぼくの心は狂喜する。一文字の自由。一文の自由。脳の開放。心の羽ばたき。そこにぼくは狂喜し、その一滴の自由にすがる。幼い子どもは、だれもみな天賦の才をありあまるほど両手に抱えている。その自由な生命は才能の塊だ。だれもみな、山であり川であり、雲だ。その天才、その自由は、どこへ消えてしまうのだろうか。だれが奪ってしまうのだろう。国家という名目で無謀な管理をする大人たちだろうか。社会という名の世間の顔色を伺い、責任回避を続ける親や先生たちだろうか。その根っこには、自由という荒馬を乗りこなせないまま敗戦国に押しつけた強大な国家の乱暴な拳があるのだろうか。自由の翼、才能の羽ばたきには、悠々と飛翔する心の大空が必要だ。人間として学ぶべきは、その大空にあるたった一つの正義だけでいい。すべての人間が幸せになる道。自分勝手のわがままは捨てさり、だれもが幸せになる正義という道だけを学べばいい。父が昔教えてくれたお天道様がいれば、それだけでいい。もう一度、天が与えし純粋な子どもたちの才能からぼくはなにかを学びたいと願う。いつの間にか失ってしまったあの自由の日々が再び訪れることを願い、正義の青空に浮かぶあの信州の雲のように、渋谷の居酒屋の大空を今日も酔いながら、風に吹かれてぼくは流れるのだ。
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■歴史は郷愁ではない。 ■2013年4月2日 火曜日 16時16分14秒

歴史は郷愁ではない。「いま」という私を生み、育てた母である。「いま」という私の土台であり、「いま」という私の根幹であり、「いま」という私の大地である。歴史とは、時が移り、「いまが過去になる」だけの、紛れもない事実である。歴史において重要なのは、文献よりも実証だ。文献は後に改ざんできる。後に捏造できる。なぜなら、歴史は「勝者の記録」という側面を持つからだ。文献だけが残っているだけでは、歴史学的に真の歴史と認めない。捏造かも知れぬ。敗者は、たとえ確実にそこに存在し、泣き、笑い、戦い、恋をし、生きたとしても時間の消しゴムによって消し去られる運命にある。あるいは、勝者の都合のいいように改ざん文書化され、勝者と時の犠牲者となる。勝者だけが自分を正当化し、美化し、後世に残すことができる。それが歴史の悲しい実力である。かつて、中国に夏という国があった。文献では残っていた。だが、遺跡が発見できない。幻だ。紀元前、殷以前のことだから、そう簡単に遺跡も物証も発見できるものではない。歴史学者も認めなかった。だが、あった。発見された。黄河の畔、深い大地ともっともっと深い時の彼方に古き都は発見された。夏は歴史に名をとどめ、中国最古の国家となった。夏と書いて「か」と読む。これが「夏=か=華」となった。中華人民共和国の華である。春の日、鎌倉を歩く。古都は、背後に天然の要塞となる山々を従え、前面に海を抱く。海岸は黒く、当時の貴重品である砂鉄を含んでいる。都にはもってこいである。鶴岡八幡宮はいまを盛りと咲き誇る花の向こうに、厳かに、静かに、眠るが如く佇んでいる。ここに確実に源頼朝がいた。源氏の兵どもがいた。圧倒的に迫ってくるのは、彼らのざわめきであり、叫びだ。頼朝がいなかったら、この鎌倉はない。徳川家康がいなければ、いまの東京はない。ちがう姿を見せる。コロンブスがいなければ、いまのアメリカはない。悠久の時の流れの中で、「いま」は一里塚にすぎない。「いま」という一里塚は、一里前の一里塚があるからここに存在する。時は継続する。釣りをする私には、アブという夢にまで見るリールがある。正しくはアンバサダーという。アンバサダーの研究所には、自動車工場にテストコースが用意されているように、試し釣りができる湖がある。ある時、釣り好きの客が新しいリールを試すために、この湖にリールを投じた。重い。何かがかかった。湖底に横たわる古木の枝か。釣り上げた。なんとそれは古いリールだ。50年前のアンバサダーのリールだ。だれかがなにかの理由で、湖に落としてしまった半世紀前のリール、それを彼は釣り上げた。驚いたのはそれからだ。そのリールは、そのまますぐに使えた。カリカリと平気で巻けた。恐るべき技術力だ。その話がアブを世界の名品にした。歴史は郷愁ではない。「いま」という現実を産み出す母だ。同じことを先日、桜が目を覚ます頃の羽村で味わった。カシオの技術センターである。半世紀前に世界の目を釘付けにし、日本のエレクトロニクス産業に大きく貢献した計算機の実機があるという。それも、動くという。いま家庭に入り込み、奥様方が家計簿を前にいとも簡単に使っているミニ計算機の母である。お話を伺った。技術者の方が動かしてくれた。当時、外国製の計算機が幅をきかしていた。それは歯車だらけの巨大計算ロボットだ。計算は大仕事だった。いま目の前にある「14−A」と命名された発明品には、ギヤとカムという歯車がない。だから早い。だから故障がない。巨大ロボットではなく、オフィスに置けるデスクサイズだ。「この中にある方式はいまも十分に使えます」。技術者が胸を張った。発明は伝説と名を変える。だが、それは紛れもない人の意思であり、知恵であり、技術である。歴史は郷愁ではない。私は、歴史物が好きだ。大河ドラマも好きだ。幕末の本も読む。坂本龍馬とは一緒に飲んで話をしたい。諸葛孔明と中国の原野を駆け回りたい。父と母と、その父と母と、その先の父と母と、その歴史がなければいまの私はない。清く流れる羽村の川縁で「いま」という明日は過去になってしまう歴史の1ページで私は酒を飲んでいる。
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■男は、はぐれ雲。 ■2013年4月2日 火曜日 16時13分43秒

河に沿って走るサイクリングロードから斜めに下る小路があって、その途中に河原に降りる石段がある。小路の突き当たりに二軒の茶店が並んでいる。河原へ下ると正面から北風が吹きつけた。灰色の空を雲が足早に駈ける。石ころだらけの河原をガタガタと自転車を漕いで下流に向かう。普段ならチャルメラおじさんたちが見える筈だが、今日は姿がない。ひどい寒さの上に、あと二日で新年を迎えるという日に釣りにくるほうがおかしい。小田急線の巨大なコンクリートの橋梁の奥に煙が立ち昇る。焚き火だ。同様に家を追われたチャルメラおじさんが二人いて、焚き火に手をこすり合わせている。有村さんが振り向いて笑顔を向ける。「来たね」と手を上げる。「よく来るよね」ともう一人のチャルメラおじさんの武内さんが茶化す。「家にいたら邪魔だって追い出されました」。ぼくは答えながら釣竿をセットするが、今日の釣りに少しの期待もない。鯉だって寒いのは嫌いで、餌に見向きもせず、深みで極寒に耐えるだけだろう。こんな日は仲間がいるだけでうれしい。有村さんはすこぶる気立てのいい人で、みんなに好感をもたれている。数学が好きだという通り几帳面な性格で、雑なぼくは尊敬さえする。面倒見がよく、中学時代の級長のようだ。焚き火の用意も後始末も全部彼がやる。「座って」と椅子を出してくれる。彫りの深い顔立ちで、奥まった目がやさしい。着る物身につける物一つひとつがセンスよく、ダンディだ。武内さんは、地元の人だ。数年前に大病を患い、いまリハビリ中。「プールでね、水の中を歩いてるんだ」と明るい笑顔を見せる。目が暖かい。女性にやさしいタイプだ。釣り用のキャップ帽でなくハンティングを被っている。彼が被るとハンティングも鳥打帽子と呼びたくなるのはなぜだろう。技術系の人だが、雰囲気は農業系だ。老舗の番頭さんにも見える。ぼくらは火に当たり、取りとめのない話をして時間をやり過ごす。これで釣竿がなかったらただのホームレスだ。午後二時、突然、河が爆発した。有村さんの竿が悲鳴を上げた。音を立てて倒れ、ずるずると河の中へ引きずり込まれる。ぼくらは竿から20メートルも離れていて、当の有村さんはケータイで話し中だ。ぼくと武内さんが河に向かって走る。竿立てのブロックにリールが絡み、折れんばかりに竿がしなる。「早く!」ぼくが叫び、有村さんがケータイを放り出した。格闘が始まった。まるで河底の巨大なウインチのような鯉の引きだ。リールはギーギーと悲鳴を上げて逆回転し、ラインがどんどん引き出される。有村さんは竿を立てることもできず、息さえできない。歯を食いしばる。「ゆっくり!」。武内さんが叫ぶ。すでにタモ網を持っている。灰色の空を映した暗い水面を切り裂いて、ラインがゆっくり下流に移動する。緩めたドラッグからラインが無限に引き出される。鯉が方向を変え、上流に向かう。水面を刻むラインは何事もないようにゆっくり移動する。鯉の意のままだ。河は不気味に静かで、魚たちは息をひそめ、鳥たちも黙り込む。「巻ける!?」。「少し!」。もはや有村さんが鯉を釣っているのではない。鯉が有村さんを釣っているのだ。15分。やっとリールを巻く。ゆらりと灰色の水面が割れて揺れた。暗い水面に波紋が起き、潜航艇のような魚影がよぎる。「でかい!」、ぼくが叫び、「見えた!?」と有村さんが腰を落としたままのけぞる。「こっちだ!」タモ網を手に武内さんが叫ぶ。悪戦苦闘。釣り上げた巨鯉は、体長83cm、胴回り55cm。「こいつ、化け物だな」。武内さんがいい「タモ網が釣り上げたんだ」と胸を張る。有村さんは呼吸も荒く頷くだけだ。声もない。写真を撮ろうにも持ち上げることができない。2012年を締めくくる多摩川の巨鯉はこうして釣れた。もう、ぼくらに寒さはなかった。そして2013年3月。田中さんが80センチの草魚を釣り、ぼくは80センチの鯉を釣った。有村さんに鯉がまだこない。「あれで運を使い果たしたんじゃないの」と武内さんが笑う。有村さんが「ふふん」と鼻を鳴らす。なに、鯉はこれからだ。見上げる空に、今日もはぐれ雲が流れる。
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■山から来た男。 ■2013年4月2日 火曜日 16時11分14秒

子どもがいない。川に子どもの姿がない。笑い声もない。はしゃぐ声も聞こえない。子どもはどこに行ったのだろう。いま、多摩川にいる。鯉を釣っている。吹く風は冷たく、水温も低く、鯉は釣れないが、空は高く澄み渡り、川は洋々と流れる。振り返ると丹沢の山々を足元に従えた霊峰富士が美しく輝く。35年前、息子とここで釣りをした。妻が駅前でパンとコロッケを買い、手製のコロッケパンをこしらえた。まだ温かいコロッケに下品なくらいにとろりとした濃厚ソースがおいしかった。貧しいけれど幸せだった。でも、いま川にそんな家族の姿もなく、子どもの姿もない。子どもたちはどこへ行ったのだろう。子どもがいない国に未来はない。子どもこそ夢だ。希望だ。日本の未来だ。それなのに子どもがいない。昔、子どもたちを育てたのは、山と川だ。ぼくの山と川には、未来があった。いいかえれば、未来しかなかった。壮大な自然。大地。大空。そこに夢と希望と未来をぼくは描いた。長野県飯田市座光寺村北市場。聳える蒼い中央アルプスがあって、地平の果てにきらきら輝く天竜川があった。里山があり、小川がいくつもあって、水車小屋があった。パソコンどころかテレビもなかった。ぼくの友だちは里山と小川、そこに棲む鳥や小動物、小ブナや泥鰌やカニだ。ブタと牛、鶏も親友だ。東京に帰り、山と川のある下落合に住んだ。乙女山という丘が背後にあり、目の前に神田川が流れていた。信州の山や川とは比べようがないが、ぼくはいつも自然に抱かれて育った。東京生まれ東京育ちといいながら、いつまでもぼくは田舎者だ。ぼくは田舎者だと胸を張って生きる。「山から来た男」という歌がある。石原裕次郎が映画「風速40メートル」の中で歌った歌だ。「山小屋の窓は明るい、明るいはずだよ夜が明けたんだ、ヒューヒュー、ヒューヒュー、おれは山から来た男、風に吹かれて町まで降りて来た」。いつも口ずさむ。ぼくは、風に吹かれて町へ下りて来た男だ。そんなぼくだから、子どもたちが川にいないことが余計に気になる。空を見ながら、人間度と動物度について考える。知性と野生だ。人間は、生物学上では動物である。神がこの世を創るとき、鳥には大空を与え、魚には海を与え、ライオンには陸を与えた。遅れてきた人間に与えるものが残っておらず、使いようによって大きな力となる知性を与えた。ぼくたちは、すぐれた知性をもった人間という動物だ。ところが、人間は特別な存在で動物とは一線を画している、という思いが強すぎ、動物であることを忘れ、あたかも神のごとく振舞う。ひどい錯覚だ。人間は動物である。それなのに人間度が強すぎる。動物はまず自殺をしない。神に与えられた生命を力いっぱい生きる。溢れる生命力で力強く生きる。人間にこの動物としての力強さが必要なのだ。動物度が強すぎても人間度が強すぎてもだめだ。人間の貴重な知性も正しく使わなければならない。要は、人間度と動物度のバランスだ。知性と野生のバランスだ。釣り仲間がいう。「川遊びを学校で禁止している、危険ということで」。またか、と思う。先生が禁じるのか、親が禁じるのか。答えは明快だ。先生も親も子どもの教育の責任を押し付けあう結果、子どもを狭い世界に封じ込めてしまうのだ。こういうと先生にも親にもいい分があるのだ。そのいい分の90%は、自己正当化だ。「じゃあどう責任を取るんだ」。こういうだろう。そんな理屈をいっているから、結局は子どもたちが川から姿を消すのだ。山と川には、たくさんの命が生きている。子どもたちを磨くのは、それらたくさんの命だ。命を磨くのは命だ。ぼくは、作家CWニコルの考えが好きだ。彼が作る「アファンの森」は、ドングリのある森だ。ドングリがあるから鳥や小動物が来る。熊が来る。正しい生態系がある。危険といえば危険な森だが、溢れる命がある。子どもたちは、その森で学ぶ。危険を知り、自分で危険を回避する生き方を学ぶ。そこには陰湿ないじめはない。助け合うことを学ぶ。ともに生きることを学ぶ。ぼくにいわせれば川より街のほうがはるかに危険だ。そして、街で学ぶより山や川で学ぶほうがはるかに正しい生き方を身につける。知性と野生のバランスを、いまこそ教育しなければならない。子どもたちよ、川に戻ってこい。ぼくは、山から来たことを誇りに思う。まもなく春だ。
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■汚く勝つか、美しく負けるか。 ■2013年2月14日 木曜日 15時52分37秒

日本人にはとくにむずかしい問題だ。美しく勝つ。それが一番。汚く負ける。これは最悪。しかし、いまはその理論を論外とする。多かれ少なかれ神道の自然崇拝、儒教の道徳観、仏教の死生観、それらを基本とする武士道精神を心のDNAや生活感覚の端々にもち、禅の潔さをも理解してしまう日本人は、卑劣な行為、卑怯な精神をことさら嫌う傾向にあり、それは実に素晴らしい特質ではあるけれど、ちがう側面から見るとどうも諸外国に比べて勝負に甘く、実用的ではない。
汚くても勝つ、卑怯でも勝つ、なにがなんでも勝つ、ということに素直にうなずけない日本人。おまけに気取り屋さんだから周囲の評判を気にして「後になってなにをいわれるかわからないからね」と体面をつくろう(わたしだけかも)。卑怯なまねができない。グローバル社会、IT社会の推進で鍛えられている若い感覚はどうなのだろうか。平然と笑って、汚くても勝ちに行けるか。これは戦争、外交、ビジネス、スポーツではそれぞれ分野別に答えがちがってくる。このようにいちいち分析だか言い訳をすること自体すでに甘いのだ。日本人はくどい、うざったいといわれる。(実は、潔くはないのだ)。
さて、孫子のいうように、戦争では敗北はあり得ない。敗北は、死であり、亡国である。自分のこと、妻子のこと、大切な家族友人を考えれば、卑怯でも汚くてもまず勝たなければならない。負ければ懐かしい故郷の山河を失う。いや、戦争をすればそれらの幾ばくかを必ず失う。だから、戦争は極力やるな、と孫子はいう。万が一戦争になったら、卑怯もなにもない、卑劣なことを策として進んでやれ、勝つためにはなりふりかまわずなんでもやれ、裏切っても勝て、と孫子はいう。
中国春秋戦国時代に生まれ、2500年も続く中国最古のもっともすぐれた兵法書であり、わが日本でも古くから広く活用されている孫子である。では、外交はどうか。外交の目的は、国益の確保である。国益とは、平和と安定と継続だ。これも極めて重要。弱腰にはなれない。中途半端な覚悟では、相手に読まれてしまう。孫子の兵法は読心術だ。裏をかき、その裏をかいて、なお裏をかく。ただし、外交には卑怯に見えない策が必要だ。そこが戦争とは決定的にちがう。大義、正義の論法が要となる。(正義という言葉が死語となりつつある日本ではむずかしいけれど、正義はある。正義とは正しい道のことだ。必ずある)。ビジネスは、卑劣をしてでも勝ちたいとも思うが、そうはいかない。ビジネス、会社も継続を考慮しなければならないから、汚いことはできない。そこがむずかしい。(とはいえ、結構腹黒いやつもいる。こちらが腹黒を見抜いているのに、気づかないふりをして汚い手を使う。いけません)。ドラッカーのいうように「人はだれでも自分が大事」ということはわかっている。それは相手も同じ。それを前提にかかれば、卑怯なことをしないでうまくいく策は必ずある。スポーツは明快だ。絶対に卑怯なことをしてはならない。美しく負けることも辞さない。負けたら「次の課題ができました」と優等生の答えがあればよい。そして、次に勝てばよい。戦争に次はないが、スポーツには次がある。汚く勝つか、美しく負けるか。さてさて、答えがないのか。ハーバード大学のサンデル教授に一度ゆっくりとお聞きしたいテーマである。
■短編小説 ■2013年2月14日 木曜日 15時41分6秒

南仏時代のゴッホは「才能は長い辛抱だ、勉強したまえ」ということばにいたく感激したという。これは、フローベルがモーパッサンに送った言葉だ。モーパッサンはフローベルを師として短編小説の修行をした。そのモーパッサンを強烈に意識したのがチェーホフだ。チェーホフは、短編小説の存在を世間に知らしめたのは自分だといい、若い作家たちにこういった。「ある点に関して、きみたちはぼくに感謝しなければならない。短編作家の道を開いたのはぼくなのだ。」事実、チェーホフが原稿を抱えて編集者に会いに行ってもろくに読んでももらえず、ちらりと横目で見て「なんだこりゃ?こんなものが小説と呼べるか?雀の鼻より短いじゃないか。」あのチェーホフにしてはじめはこんなザマだったのだ。たかが10枚程度の原稿用紙で小説を書く。いや、もっと短くても構わない。短ければ短いほどいいではないかというのはルナールで、長い蛇がトグロを巻く絵の横に「長すぎる」と一言書いただけだ。「短編小説国際シンポジウム」への寄稿で、アメリカの作家サローヤンは「長編小説を鯨に、短編小説を鰯にたとえるのはおかしなことだ。
だめな長編とは、退屈がガマンの限界以上に引き伸ばされたもので、だめな短編は、それが短いというだけではるかに礼儀にかなっている」という。いいですねえ。この痛烈な皮肉、なんとも痛快だ。ダメ同士を比べるところが大いに笑える。仕事のできないダメ部下同士を比べる上司のみなさん、この皮肉、共感できるでしょ。さて、チェーホフだが、彼の短編小説の特徴は、モーパッサンのような「結末=オチ」がないところにある。モーパッサンの作品には実に見事な結末があって、この結末にこそ小説の醍醐味が集結されている。読み手に、手打って胸震わせるオチがある。小説もそうだが、物事には、@こういう事(人・物)があるAそれはこういう具合であるBそれはこういう理由である、という流れがある。その流れがあるから、だれにでも理解しやすい。モーパッサンの短編は、こういう理由である、という結末部分で「あ、なるほどそうだったのか」と深く感銘させられる。警察の犯人探しにもこの流れがあるし、みなさんの日々の仕事もこの流れに沿っている。理解しやすい。ところが、チェーホフにはこの流れがない。結末がない。オチがない。だから、どう理解していいのか、どこで感動して、どう涙すればいいのか、とんとわからない。チェーホフに原稿をもちこまれた編集者の気持ちがよくわかる。チェーホフは、自分に恋心を抱く作家志望の人妻アヴィーロワにいう。「生きた現象から思想が生まれるのであって、思想から形象が生まれるのではない。」こういわれると、たしかに短編小説に結末やオチが必要かどうか迷ってしまう。短編小説は抒情詩に近い、といったのはイタリアの作家モラヴィアだ。短編小説が抒情詩というなら、それはイメージの産物だから流れやストーリーなど不要で、そうなればむしろだらだらと長編に引き伸ばすほうがむずかしい。夜は静かで美しいのに、人の世に悪は絶えないのは、なぜだ。星が見守っているのに、地上では子どもが死んでいくのは、なぜだ。編集者から、理想や思想が欠けているといわれ、問題を扱っていないといわれて、チェーホフが「この人生をあるがままに書くだけだ」と答えたのは有名だ。ある晩、チェーホフとガード下のいつもの居酒屋で酒を飲む。「わかりずらいって?わたしの小説が?」「なにをいっているのかわからない。答えも見えない。」「テーマがないからね、なぜという疑問はあるが、答えがない。なぜはある。なぜなぜなぜ。人生は疑問だらけ。わたしはただそこにある人生をあるがままに書いているだけ。」友人がチェーホフの芝居に出たので観に行った。わからないながら、わかったフリをした。勝手な解釈をした。チェーホフのやつ、きっとどこかで笑っているはずだ。ある作家の「人はだれでも、自分という短編小説を書いている」ということばが好きだ。モーパッサンのようにドラマチックにも、チェーホフのように天真爛漫にも書けないが、さて、自分の短編小説を書きに今日も街に出てみますか。
■チャルメラおじさんは、川にいる。 ■2013年2月14日 木曜日 15時36分56秒

その川にはダムがある。コンクリートの堤防で堰きとめられた大量の水が、ダムの上に湖のような溜まりをつくっている。溜まりには、鯉、ニゴイ、マブナ、ヘラブナ、鮎、ハヤ、くちぼそ、鯰、鰻、雷魚、ブラックバスなどなど、大小さまざま、性格あれこれ、国籍あっちこっちの魚たちが仲良く暮らしている。堤防の上では川鵜たちが烏合の衆となって、鵜の目鷹の目で魚たちを狙う。だから実は、魚たちもうかうかしていられないのだ。この溜まり周辺が釣りのポイントとなっている。300メートルほど上流に私鉄の鉄橋があり並んで国道が走っている。溜まりからそこまでの両岸に釣り師たちが竿を出している。35年ぶりに鯉釣りを再開したわたしは、そのポイントで釣り仲間ができた。みんな気のいい人ばかりだ。「川に悪人はいない」と言った作家がいたが、まさにそのとおり。そんなある日、いつものように竿を立て鯉の当たりを待っていたわたしは、ふとあることに思い当たり「あっ」と声を上げた。「なぜ、会ったばかりの釣り師たちに親しみを感じるのだろうか」とずっと考えていたが、それは同じ川で同じ鯉を釣るという共通の趣味をもつ同志であり、だれもがそれぞれお互いにきちんと気を使い、そのことをだれもがうれしく感じているからだと、そう思っていた。それはそれでそのとおり。ところがその日突然、もうひとつの理由に思い当たったのだ。実はわたしは、この人たちをずっと昔から知っていたことに気づいた。満月のように丸っこい顔。さっと筆で刷いたような黒く太い眉。人の世の艱難辛苦を刻みこんだ額の皺。針の穴がぽつんぽつんと開いているようなちっこい目は人なつっこく光り、小さな座布団のように広がった鼻は上を向きながら赤い頬っぺたの間にちょこんと納まっている。いつでも笑う準備のできている口もとはゆるく、むしろだらしがない。背は高くない。小太りで丸い身体。お腹がぴょこんと出ている。白いマークの入った黒い野球帽を被り、煮しめたような茶色い手拭いを襟巻きのように首に巻きつけている。濃い灰茶色のジャンバーを羽織り、だぶだぶのズボンを履き、孫からもらった黄色いラインの入った黒いスニーカーを、かかとを踏み潰して履いている。足は長くない。短い。そうだ、この顔、どこかとぼけていて、のほほんとしたこの表情。そうなのだ。釣り人たちは、昔からの親友、あのインスタントラーメンの袋に描かれたチャルメラおじさんだったのだ。高校時代、徹夜の受験勉強には必ずつきあってくれたあのおじさん。いまでも、夜更けに小腹が空いて目覚め、ふと手にしてしまうあのおじさん。あのおじさんたちが目の前にいて、鯉を釣っている。おじさんたちは午後になると「それじゃあ、お先に」とそろって竿を納めて帰る。そうだ、それからラーメンの仕込みに入るのだ。そして夜更け、屋台を引いて町に出る。きっとそうだ。星空に向かってチャルメラを吹き、脇の黒猫の頭をにこにこと撫でる。そうだ、チャルメラおじさんの趣味は鯉釣りだったのだ。昼間のこの時間、この川に釣りにきていたのだ。チャルメラおじさんは7人いて、着ているジャンバーや履いているズボンの色がちがうが、みんな兄弟のようによく似ている。一箇所に集まって昼飯を食べる。河原にブルーシートを敷き、サンドイッチやコンビニ弁当を広げ、鯖の缶詰を開ける。ラーメンは食べない。「そういえば加藤さん、ここんとここないねえ」とか「先週の万馬券、惜しかったよ」とか、小さな椅子にちょこんと座って、食べて話す。「いっしょにどうですか?」声をかけてくれたのは、テニス仲間のイサオちゃんによく似た「チャルメラAおじさん」だった。そうしてわたしはチャルメラおじさん仲間と昼飯を食べ、鯖の缶詰をご馳走になった。黄昏。おじさんたちに遅れてわたしは自転車に乗って帰る。世田谷まで1時間。途中、狛江の交差点の赤信号で止まる。ふと横のセブンイレブンのガラスに映る自分の姿を見る。そこには「チャルメラわたしおじさん」が映っていた。
■アフリカ物語。 ■2012年12月13日 木曜日 11時39分28秒

ライオンの家族は、猫のようにじゃれ合いながら、夕日の浜辺でくつろぐ。象の群れは、古い友人と守らなければならない固い約束でもあるかのように、悠然と草原を移動する。キクユ族の少年は、無限の忍耐を唯一の友とし、財産である自分の羊を見守りながら、灼熱の草原に一本の杭と化す。見上げれば、白い雪を被ったキリマンジャロの輝く頂が、こここそが神の住処といわんばかりに雲を割って浮かぶ。わたしの中のアフリカは、こんなにも美しい。そう、わたしが愛するアフリカは、野性味あふれる1920年から30年代の、もっともアフリカらしいアフリカだ。アメリカのノーベル賞作家アーネスト・へミングウェイが「キリマンジャロの雪」「フランシス・マコーマーの優雅な生活」を書き、デンマークの女流作家イサク・ディネセンが「アフリカの日々」を著し、わたしにその時代の魅力的なアフリカを教えた。マッチョな生き方と硬質な文章で知られるへミングウェイは、その行動においても極めて筋肉質で男らしい。イタリア義勇軍に参加して戦場を駆け回り、アフリカのサファリ旅行でライオンを追い続ける日々を送り、メキシコ湾ガルフストリームに挑んで「老人と海」の主人公サンチャゴの、巨大マグロとの死闘にも似た体験を繰り返した。アフリカに関していえば、へミングウェイは、「キリマジャロの雪」よりも「フランシス・マコーマーの優雅な生活」のほうが、アフリカの匂いが伝わってくる。灼熱の大地、壮大な草原に吹きすさぶの風、眩い光、深い闇、大自然の非情、猛々しい野生、恐怖、そして、人間の弱さ。彼が表現したのは、人間の弱さだった。甘い文明の汁に溺れ、堕落し、野生に帰ることを熱望しながらも、文明と野生の狭間で押しつぶされる人間の弱さ。結末で、男の乗った飛行機がキリマンジャロの頂に墜落する。マコーマーは、文明の象徴たる愛妻に草原で射殺される。死して野生に帰ったのか。ただの敗北か。それはわからない。キリマンジャロの頂で干からびて眠る象徴的な豹のように、へミングウェイは、永遠の謎を追った。「老人と海」のサンチャゴもまた、友情さえ感じていた巨大マグロをし止め、その後に鮫に襲われて骨だけの無残な姿になるが、はたして、それは敗北の印、降伏の証なのか。野生と知性の戦い。せめぎ合い。人間の知性など野生の前では、赤子に等しいと言いたいのか。未消化、未熟な知性にたいするもどかしさ。知性という駿馬を乗りこなさせないままにもがき、かといってもはや野性に戻れない哀しさ。自然の一部である人間が、いつしかその未熟な知性に、奢り、酔い、堕落し、野性から痛烈なしっぺ返しをくらっている。「アフリカの日々」は、18年間、アフリカのキクユ族やマサイ族とともに暮らしたディネセンの体験談が基になっている。アフリカの息遣い、大地の呼吸、草原の温度、森の爽快さとともに、そこに生きる人々の喜びと哀しみがひしひしと伝わってくる。やさしくて読みやすく、驚くほどの名文である。アフリカ人の花にも似た無垢な気持ち、考え方、生き方に感動さえ覚える。わたしは、今のアフリカの事情を知らない。わたしたち文明人が、道路やダムを造るために、援助の手を差し伸べている。多くの民族間の問題をかかえている。だが、わたしは、アフリカにこそ学びたいと思っている。生き抜く力、野生、自然を愛し、自然とともに生きる真の共生。そこに、文明の壁を突き破る大いなるヒントが隠されているような気がしてならない。へミングウェイほど深い理解と悩みはないが、野生と知性の絶妙なバランスこそを見極めてみたい。それこそが明日の人間社会だと信じている。
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■そのアイディア、一歩前へ。 ■2012年12月13日 木曜日 11時37分54秒

できあがったアイディアをさらに一歩進める。最後のひとあがきをする。それがもう習慣になっている。ここまで過当市場競争が過熱すれば、アイディアひとつが企業の存亡を決定づける。勝ち残るため、成功するためには「一歩先行くアイディア」が不可欠なのだ。いい商品をつくる。いいサービスを仕立てる。それはすばらしいことであるが、当たり前といえば当たり前である。問題はその後にある。生みの親はどうしても親バカになる。目が曇る。世間の評価以上の評価をしてしまう。これも当たり前である。だが、この微妙な誤差が致命傷となる。実はこれが非常に多いんですね。広告コピーを書く場合、この点にとことん注意する。コピーライターは、どんな商品でもどんなサービスでも、その利点を必ず発見してかかる。人々が「魅力的だね」「価値があるね」というものを必ず見つけ出し、その魅力と価値を輝かせる。コロッケが美川憲一を真似るほどではないが、多少のデフォルメはする。仲人口である。だが、正直であることが絶対条件となる。できあがったコピーもひと晩寝かせる。最後のあがきだ。「マンネリで面白くないんだよ」。親しい宣伝部長が言う。駅前のビルの地下の蕎麦屋だ。熱燗を飲んでいる。「年末キャンペーンね」。「そう、海外旅行が当たるって例のやつ。それなりの効果はあるし、うちのテナントさんの旅行代理店がらみだから変えられない」。「もっと新鮮に見えて、話題にしたいってこと?」。「もう一歩がほしい」。コピーライターの仕事は幅広い。いわゆる販売促進のアイディアも求められる。文章であれ、売り出しキャンペーンのアイディアであれ、人のこころをつかむ相談は「なんでもやります」である。基本的に、人が喜ぶことが大好きなんですね。「アメリカ西海岸、10組20名」。「西海岸ね、ハリウッドがあるね」。「ある」。いつだったか、ある旅行会社の企画マンと話していたことを思い出す。ヨーロッパの旅企画で古城を訪ねる企画があり、当たったけどすぐ飽きられた、次はどうしよう。そんな話だった。ダイアナ妃の実家の城の話になり、そうした限定ものもいいね、もうひと押し、その城に伝わる伝統料理があれば厨房まで入ってその料理を教わって、いっしょに食卓を囲むってのはどう。料理ブームもあって「そいつは、面白いアイディアだ」となった。「どうせ西海岸に行くんだから、いっそのことハリウッドスターと晩飯を食ってもらいますか?」。「できるかな?」。「それは相手次第です。聞いてみますか?」。その場でロスのK事務所に電話をかけた。日本の映画監督のアメリカ事務所である。日本人の友人がいる。「というわけだけど、できないかな?」。「知り合いが何人かいるから聞いてみようか。だれがいい? 知っているのは、リチャード・ギアとかミッキー・ロークだ」。「大物だね」。「うん、ギャラ次第だね」。「また、電話する」。その企画は実現した。『ハリウッドスターとディナーをともにする、アメリカ西海岸の旅プレゼント』。大当たりだった。広告的にも大ヒットした。広告や販促に携わる人間として、もっと消費者の皆さんに喜んでもらえるアイディアが、いつも目の前にあるのだと思う。だが、多くのアイディアが「もう一歩足りない」ために、競争に勝てない、どこにでもあるアイディアになってしまっている。なんとも惜しい気がしてならない。本当にみなさん、いいアイディアをもっている。みんながもっているから困るのだ。差が出ない。コピーライターがなぜそこまでやるの?とも思う。コピーライターは、アイディアに差がないと「表現で差をつける」ことになる。それはそれで楽しいのだが、最近の消費者は実に賢く、底の浅いアイディアは本能的に見破ってしまう。「広告はしているけれど売れない」と首をかしげる企業も多いが、損得に極めて敏感な消費者には、どこにでもあるアイディアはもはやアイディアではないのだ。無理せず無駄せず、「そのアイディア、一歩前へ」が不可欠の時代となった。
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■酔いどれシャッポとハーモニカ。 ■2012年12月13日 木曜日 11時36分15秒

父が復員して私と母は疎開先の母の実家、長野県下伊那郡座光寺村から東京に戻った。私が一歳のときに父は中国戦線に刈り出され、父の存在を知らないまま私は四歳になっていた。毎朝、よちよちと奥座敷に飾られた父の写真に一膳飯を運ぶのが私の日課だった。「父ちゃん、なにか言ったかい」と母が聞いても「ううん」と首を振るだけで、父の実感がまるでなかった。彫りの深い賢そうな顔立ち。遠くを見るようなやさしい眼差し。意思の強そうな引き締まった口元。そんな写真の印象だが、声をかけられるわけでもなく、褒められるわけでも頭をなでられるわけでもない、物言わぬ一枚の小さな茶色がかった写真の父に心を通わせるには、私は幼すぎた。父と母と三人で荒れ果てた新宿区戸山が原に移った。土手に埋もれ崩れかけた旧日本陸軍の兵舎だった。すぐ横に、すでにアメリカ軍のものとなった蒲鉾型のコンクリートの射撃場があり、夜昼かまわず機関銃の連続音が響いた。父はいつもその音にうなされた。染物職人の父に仕事はない。消防署に勤め私と母を養った。毎日、焼酎を飲んでいた。一升瓶を片時も離さず、いつも酔いどれていた。母は注意をしなかった。母は知っていたのだ。たとえ戦争とはいえ、同じ人間に銃を向け殺戮を繰り返したことへの取り返しのつかない罪悪感。同じ人間に銃撃され追い回される限りない恐怖。弾丸の雨の中で次々と死んでいく友を目前に見る底なしの恐怖。その一分一秒にやさしい父の心身がぼろぼろに破壊されていたことを、母は知っていた。父の戦争は終わっていなかった。日々、自決への誘惑と戦っていた。酔いどれでもいいから生きていて欲しい。母の願いはその一点だけだった。父の生き甲斐はなんだったのだろうと思う。私と母への責任。愛情。それ以外に思いつかない。それ以外にはない。父はそれにすがって生きながらえた。正直で無口な職人には、要領のいい生き方はできない。頭のいい父は、自分の理にかなわないことはしない。27歳の若者が、20歳そこそこの若い妻と一歳の幼子を残して戦場に行ったのだ。戦争は、父の理解が到底およばないことだ。神に祈り、神を呪う日々だった。人生にたいして真面目に向き合う男のすべてを戦争が破壊した。酒が父を守った。焼酎が命を救った。それが幸せだったかどうか、息子の私にもわからない。小学2年生のとき、一家は新宿区下落合に越した。消防署の2階に住んだ。父は、非番の日には染み抜きの仕事をした。他人の2倍も働いた。相変わらず酔いどれていた。父は、私に声をかけることはなかった。私がなにか聞いても「うん」と最小限の返事をするだけだった。根っからシャイな性格なのか、戦争が彼を無口にしてしまったのか、私にはわからない。私と母に、申し訳ないと思う気持ちでいっぱいだったのかもしれない。それほどやさしい男だった。他人行儀にさえ思えた。いくら話しかけても「うん」と「うむ」だけで「だめ」とは決して言わない父だった。それで十分に父のやさしさは伝わった。やがて四人の弟が生まれ、父の心にも落ち着きが戻ったように見えた。だが、酔いどれのままだった。クラシック音楽が好きで、銭湯の帰りに喫茶店に入りコーヒーを飲みながら目を閉じていた。粋でおしゃれだった。代々続いた酒の卸問屋の家が祖父の代で倒産し、染物屋に奉公に出され小学校しか出なかった父が、バイオリンを習ったと聞いている。将棋がだれよりも強かった。中井駅近くのスパの仲間内でも一番強く、千葉県の大会でも優秀な成績を残した。その勝負強さは弟の信治が受け継いだ。晩年、出かけるときは和服の着流しにトンビを羽織り、いつもソフト帽を被っていた。風のように歩く着流しの袖には、必ずハーモニカが入っていた。本当はバイオリンを持ち歩きたかったのだ。ハーモニカがうまかった。わずか掌に入る小さな楽器の中にオーケストラがいた。何層にも重なる音色は高く低く心に響いた。酒を飲み、酔眼朦朧となってもハーモニカの音程は狂わなかった。「春の小川」と「さくら」を吹くその音色は、はるか大陸の荒野に響くようだった。戦場で散った人々のための吹いていたのだろう。83年の生涯を終わる日まで、父はビールにウイスキーを注いで飲んでいた。母にナイショで仕事机の足元に隠したパチンコで取ったカニ缶を得意そうに見せた。なんでもいいから息子に褒めてもらいたかったのかもしれない。高校大学時代を合宿で過ごした私は父との会話は結局なかった。父から頭のよさを、母から勝気な性格をもらった。二人とも、人の悪口は一切言わなかった。それももらった。下落合、川のそば。父を追って88歳で母も逝った。父のシャッポをいま酔いどれの私は被り、やっと父と話している。
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■川の愛情。 ■2012年12月13日 木曜日 11時33分59秒

「釣れないよ、パパ」。赤いシャツを着た少女が釣竿を上げて、振り向いて甘える。「おかしいね、でも大丈夫、いま、もう少しだったもの、ほら、魚、そこにいっぱいいるよ」。腰を折り曲げたパパが釣竿の餌をつけ直し、少女の肩をなでて元気づける。足元に無数の小魚が泳ぐ。ハヤの稚魚だ。川は悠々と流れ、空は青く澄み、風は爽やかだ。広い川原には、大人の身長ほどの雑草が生い茂っている。水面に乗り出すように緑の葉を湛えた柳の木が、川辺に二本立っている。親子とわたしは、柳の木のすぐ横にいる。そこは10メートルほどの空き地になっていて雑草もなく、足場もよく釣りやすい。下流にダムが見える。川鵜の群れが、ダムのコンクリートの上で黒い集団となって羽根を休めている。午後の陽光を浴び、のんびり昼寝をしているようにも見えるが、けしてそうではない。ダムの溜まりに集まる落ち鮎やハヤをじっと狙っているのだ。水中では、魚たちが戦々恐々としている。あっちの命のために、こっちの命があるのだ。「釣れないよ、パパ」。少女がまた竿を上げて言う。「惜しかったね、もう少しだったね」。パパが餌をつけかえる。その動作と会話がさっきから続いている。パパは、何回も何回も娘を励まし、何度も何度も餌をつけ直している。わたしは、親子の横で長いリール竿を立てて鯉を釣っている。「魚を集めてあげるね」。わたしはそう言って、一握りの集魚用の餌を少女の竿先に投げ入れる。「きっとこれで釣れるよ」。そう言うと「どうもすみません」とパパが頭を下げる。丸い顔に満面の笑みを浮かべ、いかにもやさしい、人のよさそうな目をわたしに向ける。「昨日はそこでいっぱい釣れていましたから」。わたしは言った。そうなのだ。明星ラーメンのパッケージに描かれているおじさんによく似た釣り人が、たくさんのハヤを釣り上げていた。「もう少し遠くへ餌を投げてごらん、その岩の向こう、そうそう」。少女が竿をあげ、餌を入れ直す。釣れない。「釣れないよ、パパ」。「がんばろうね」。パパは少女の後ろに座り込んで餌をつける。「餌はなにを使っています?」。わたしが聞く。「フナ用の練り餌です。そこの釣具屋で買ったんです」。「ハヤは白いものならなんでも食います。それでいいですね。でも、ためしに米粒でやってみますか?」。わたしはコンビニ弁当の米粒を一つまみ渡す。「パパ、釣れた」。やがて、少女が歓喜の声をあげた。もち上げた竿先で、陽射しを受けた小さな命がきらきらと輝いた。銀色に輝き弾ける魚鱗。ハヤだ。少女には、煌く宝石に見えた。「やった、やった」。パパが岩の上で雀のように小躍りする。「早くはずしてパパ。逃がしちゃだめよ。バケツにいれて」。少女がうれしそうに叫び「うん、大丈夫、大丈夫。ちゃんとバケツに入れるから」。ハヤを針からはずし、ピンク色の小さなバケツに入れると「ありがとうございます」とパパはやさしい目を向けて頭を下げる。「うまいね。とても上手だったよ」。わたしは、うなずきながら少女に言う。バケツの中のハヤをのぞきこんでいた少女が顔をあげ「早く釣らなくちゃ」と立ち上がり「パパ、餌つけて」とせがむ。わたしは、息子と釣りをした30年前を思い出していた。このパパのようにやさしく接しただろうか。こんなに無理難題をせがまれても「うん、いいよいいよ、がんばるんだよ」と笑って言っただろうか。いつも、そういう気持ちで息子を見てきただろうか。最近、この川からも親子連れの姿が消えた。帰り際に少女がとことこ駆け寄ってきた。「おじちゃん、ありがとう」。「パパよりうまくなったね。この川で一番だね」。わたしは言った。「でも、パパが教えてくれたからだよ」。少女は振り向いて、パパに素直な笑顔を見せる。「川にもありがとうって言うんだよ。魚にもね」。わたしの言葉に少女は川に向かって「ありがとう」と小声で言った。あれから街は変わり人は変わったけれど、川は息子と釣りにきたあの頃のままに流れている。悠久の流れの懐で、命の季節は絶えず移り変わり、人々もわたしもやがて消える。だが、川はいつも、いつまでもやさしい愛情にあふれて流れるのだ。
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■ふたたびの多摩川。 ■2012年9月27日 木曜日 14時54分34秒

秋の入り口の土曜日、突然多摩川の鯉釣りを再開した。長竿とタックルは渋谷の事務所に置いたままだ。家にあるのは短いバス釣り用の竿が2本、息子のものだ。それを借りて自転車で出かけよう。さて、和泉多摩川がいいか、それとも東名高速下か、あるいは二子玉川あたりか。川の様子も変わっているだろう。とにかく35年ぶりだ。魚だって渋谷の若者のように最新の流行を取り入れ、性格も生き方も大きく変化しているはずだ。ポイントがもはやわからない。楽に行けるのはどこか。よし、東名高速下だ。途中、環状八号線沿いの上州屋で必要なタックルを買う。まあ、今日は川へのご挨拶だから大掛かりな装備はいらない。吸い込み針の8号を4本。錘は5号を一袋。餌は、集魚用に大ゴイを一袋とさなぎを一袋。食わせに芋羊羹を一つ。この芋羊羹が高い。一個300円。人間様が食べる芋羊羹より高い。あとで妻にそのことを言うと「それ、わたしたちで食べようか」と妙なことを言った。潔癖症の妻のこと本気で言ったのではない。経済観念がわたしの100倍もすぐれている彼女は、あまりの悔しさについそう口に出たまでだ。あとは、そうだ鈴もいる。竿先につける鈴だ。視力の弱いわたしは、浮きの微妙な当たりが読み取れない。そこで吸い込み釣りを始めたというわけだ。鯉がかかれば鈴がリンリンと鳴り、鯉のほうから「旦那、わたし釣れましたけど」と教えてくれる。はたから見れば実に横着、大雑把な漁法である。その間、わたしはといえば、そこらあたりの草むらにひっくり返り、ウイスキーを舐めている。本を読んでいる。釣れなければ釣れないで「お、いま、でかい鯉が餌のそばを通ったな」とか「鯉のやろう、餌の様子をうかがってるな。度胸のないやつ」とか、勝手に川底の鯉を妄想し、ぐちぐち言いながら昼寝をすればいい。はたから見なくても大雑把の釣りである。
少し走ってNHK技研前のコンビニで弁当を買い、ウイスキーの小瓶を仕入れる。よし、これで装備は完璧、待っていろ大鯉たち。ペダルを漕ぐ足も軽い。東宝の坂を下り、成城通りの交差点を左折する。川を一つ二つ越えると東名高速が見えてくる。右折して高速に沿って走ると懐かしい多摩川が見えてくる。広い河原では子どもたちがサッカーの試合をしている。親たちが周りで声援を送っている。懐かしい光景だ。息子がまだ小さく、妻がまだ若く美しいころ、わたしもこの親たちのように、息子のサッカーを夢中で応援した。妻が作った弁当を原っぱに座りこんで食べた。幸せとはそういうことなのだ。
釣りはもう止めるか。いや、そうはいかない。「早くきてください」と大鯉が呼んでいる。白バイの練習場脇の凸凹道を、空気の少ない自転車で飛び跳ねながら川を眺めてポイントをさがす。かつてあった広い駐車場がない。川は表情を大きく変えている。それにしても、釣り人が見当たらない。不安になる。釣れないということか。だが、意を決してポイントを決める。お、魚がうようよいる。大鯉が足元を悠々と昼の散歩と決め込んでいる。はやる心を抑えつつリール竿をセットする。投げ込む。待たしたな魚たち、さあこい、ほら食え。じっと竿を見つめる。鈴よ鳴れ。念じる。本は読まない。ウイスキーは舐めない。鈴は「うん」とも「すん」とも言わない。ぴくりともしない。川の音が響く。鳥たちが水面をかすめて飛ぶ。陽は眩しく、風は穏やかだ。足元でうろうろする大鯉の横を、学校に行く途中か帰る途中か、ランドセルを背負ったメダカたちが「旦那、釣れませんか」と、口をそろえてわたしを小バカにする。本を読むふりをする。ウイスキーを舐める。祈る。鈴は相変わらず「うん」とも「すん」とも言わない。無口な鈴を買ってしまった。もっとも「すん」とでもほざいたら、わたしは鈴を踏み潰し、竿をへし折ってしまっただろう。暇だから妻にケータイをかける。「魚はいる。山ほどいる。だけど釣れない。いったいおれのどこが悪いと言うんだ」。妻が一言言った。「頭」。陽はとっぷり暮れ、帰りの自転車が涙ぐんで重く走る。ふたたびの多摩川、惨敗であった。
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■モチベーション ■2012年9月19日 水曜日 15時9分26秒

教授、モチベーションてなんですか?そうだな、こころのもち様だな。風のやわらかい土曜日の昼下がり。丘の上にある大学のカフェテラス。心理学者である日向野教授は、二杯目のアイスコーヒーを飲んでいる。「むずかしい仕事をしているな」。眼鏡の奥の目を細めてニヤリと笑う。「そうです。いま、いろいろな企業のトップに、社員のモチベーションを上げるにはどうしたらいいかって聞かれます。おっしゃる通りむずかしい仕事です」。モチベーションとは、動機づけとか、ある一定の方向に向ける一定のプロセスとか、意欲という日本語に訳されるが、むずかしいのは人のこころをいかに昂揚させるか、意欲をいかにかき立てるか、の「いかに」という方法論だ。(それも可能な限り低料金で)。人のこころだから、それは個人個人の問題さ、と投げ出したくなる。途中で投げ出す企業も多い。あるいは、高いモチベーションをもつ者を雇用すればいい、という結論に至ってしまう。「最近の若者は無気力なのだそうです。モチベーションを上げようにも乗ってこない。こんな時代だから諦めるしかない、という声もあります」。「最近の若者はということばは、ピラミッドにも書かれている。きみの若い頃も大人たちにそう言われていただろう」。「はい、言われてました」。「ということは、相手のせいにしたり時代のせいにしたり、大人たちのつまらない逃げ口上とも言えるね」。こういう考え方はできないかな、と教授は青い空を見上げた。「オリンピック選手は、高いモチベーションをもっている。北島にしても澤にしてもそうだ。あるいは中国や韓国の選手のモチベーションは極めて高い、そう思わないか?」「思います」。「なんでだろうか?」「国をショって立ってるからですか?」「そう、国をショって立つということは、つまり誇りだ。そうだね」。「そうです」。「すなわち、誇りはモチベーションを高くするということにならないか?」教授のことばに、なんだか少し灯りが見える。「ところで、西洋に騎士道がある。日本に武士道がある」。教授が話をすすめる。「この道というやつは生き方であって、こころのもち様だ。この二つは同じだ。ところが、ある一点がまったくちがっている。騎士道のこころの根幹は誇りだ。彼らは誇り高い文化をもつ。誇りの文化だ」。教授はなにを言おうとしているのだろうか。そう思って身を乗り出す。「それにたいし武士道のこころの根幹は恥だ。恥の文化だ。そうだね。騎士道と武士道は同じものなのに、片や誇りで片や恥ときた。不思議だね」。「日本人の特質ですか?」「それもある。そして大事なのはここだ。さっき言ったように、高い誇りはモチベーションを上げるということだ」。教授がなにを言いたいのか、わかり始めた。「誇りは、物事に積極的に向かわせる力となる。目前に栄光が見え、勝利に迷うことなく向かう。ところが、恥には、その目前に失敗が見える。恥の文化は、失敗を恐れる気持ちを生む。失敗を恐れ萎縮し、消極的にならざるを得ない。日本は、失敗をがんがん攻める国になってしまった。政府もそう、会社もそう。社員たちは、失敗しなければそれでいいと思ってしまう。黙って上司の顔色を伺いながら、言われたことだけをやっていればいい。恥は失敗につながりモチベーションを下げる。だが、そうしているのは実は会社のトップだ。そう思わないか?」「そんな気がします」。「政治家は国民の顔色ばかり見ている。失敗すれば、総理もすぐ交代。おまけに支えるべき回りが、足を引っ張る。昔の政治家には大物がいた。たとえば吉田茂なんか、この国はおれにまかせろ、がたがた言うなという政治をやった」。「企業のトップにもそんな大人物がいますか?」「いる。絶対にいる。社員のモチベーション云々なんて言わない。社員を引っ張りまわす。だが、社員は引っ張りまわされているとは思わない。ここが凄い。社員は自らモチベーションを上げる。なぜだろう?」「なぜですか?」「社員に手柄を渡すが、失敗の責任は自分が取る。社員に誇りをもたせる」。恥のこころを誇りに変える。恥も誇りも本来同じこころで、その方向性がちがうだけ。「それができればいいだけだ」。どうだできるか、とばかりに教授はこちらの目を覗きこむ。できそうです、教授。清々しい風の吹く丘の上だ。
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■走れ、女神たち。 ■2012年9月19日 水曜日 14時54分8秒

事を謀るは「人」にあり。事を成すは「天」にあり。なに事も、悔いの残らぬよう全知全能を尽くし、徹底的に策略を練って取り組め。結果を恐れたり心配したりせずに、全身全霊で取り組み、結果は「天」に委ねる。成功失敗は「天」が決める。「三国志」でおなじみの諸葛孔明は、そう言う。失敗すれば国を失うのだから、魏も蜀も呉も、必死で策を練る。日本では「人事を尽くして、天命を待て」ということばで知られている2000年前から続いている教えだ。ロンドンオリンピックの幕開けは、11人の女神たち「なでしこジャパン」で始まった。ロンドンと日本は、8時間の時差がある。おかげでキックオフは午前1時、日本では酔っ払っているか寝ているか、の時刻である。世界大会を制したわが「なでしこ」たちは、当然のごとくこのオリンピックでも金メダルを期待されている。それに幕開けの先鋒だから、ここはオリンピック全体の勢いをつけたいところ。だれもがさらに期待する。相手はカナダ。先日のフランスとの練習試合では、2対0で負けているから、なにやら不安は募る。そもそも外国勢に比べて、身体の大きさがちがう。フィジカルがちがう。身体の大きさがちがうということは、走る速度もちがえば、ぶつかるときの圧力が決定的にちがう。言い換えれば、日本にとっては広いピッチだが、カナダにとっては狭いピッチである。日本にとって大きなボールだが、カナダにとっては小さなボールである。となれば、どうやって勝ちに行くか。勝つためには、どんな策が必要か。負けるときは、どう負けるのか。すべてシュミレーションしておかなくてはならない。試合前に両選手が並んでいるのを見ると、カナダのストライカー、雲つく大女シンクレアに対し、わが「なでしこ」の微笑みの天使川澄くんは、まるで小学生である。シンクレアの1歩が、川澄くんの3歩に相当する。これは素面では見てはいられない、川澄くんがかわいそうだ、と麦焼酎を取り出してソファに横になる。スタート直後、女神たちの動きが鈍い。ぎこちない。パス回しも遅い。スロースターターといわれる「なでしこ」だから、まあそのうち、と思いつつ心配である。と、二杯目の焼酎を飲もうとした瞬間、川澄くんが走った。左サイドにいた微笑みの天使が一気に羽ばたいた。澤から大野にボールが渡る。大女たちの袖の下を、翼を広げた天使が音もなく駆けぬける。大樹の葉陰を一陣の疾風が吹きぬけた。川澄を信じ、大野が、あっち向いてホイとばかりにバックパス。サポーターだけでなく、両チームの選手たち、もちろんテレビの前のわれらもあっけに取られているうちに、ボールはカナダゴールに叩き込まれた。カナダのゴールネットが揺れた。それを尻目に「ごめんね、入っちゃった」と、天使は照れくさそうにピッチを駈ける。キャプテン宮間が飛びつく。「なでしこ」のお姉ちゃん澤が、駆け寄って小柄な天使を抱きしめる。「入っちゃったね」。オリンピックの幕開けの花火を完璧なシュートで打ち上げた天使は、その大きな価値を知ってか知らずか小首をかしげて微笑む。孫子は言う。戦いにおいて、勝つには「勝つ理由」がある。負けるには「負ける理由」がある。それをすべて承知し、策を練る。「なでしこ」がカナダに負けるとしたら、高さと速度だ。それを封じる策を練る。まず、ストライカーのシンクレアを徹底して封じる。勝つ理由。カナダを上回る早さと精密さだ。負ける理由を封じ、勝つ理由を発揮した。孫子の言う。「戦う前に勝て」と。「勝ってから戦え」と。2対1。「なでしこ」は、勝つべくして勝った。これは、厳しい経済下における会社経営にも絶対に必要な考えだ。さらに言えば、国際社会における日本の国家政策に必要な思想だ。小さいから、その小ささを活かして勝利した「なでしこ」は、多くの教訓をみんなに与えた。小さく、資源に乏しい日本が勝つためには、明確な「勝つ理由」が必要だ。考え抜いた「策」が必要だ。「負ける理由」もまたわかっていなければならない。さて、ここしばらくは寝不足になる。わたしには、その理由はわかっている。
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■まず「負ける理由」を排除せよ。 ■2012年8月31日 金曜日 16時1分36秒

敵を知り己を知れば、百戦危うからず。孫子の兵法は、「勝つ」ための兵法というより「負けない」ための兵法である。百戦して百勝する、とは言っていない。勝つ、とは言っていない。危うからず、と言っている。孫子つまり孫武に言わせれば、まず「負けない」ことが最も重要なことなのである。負けないことが、生き残ることであり、負けることは、滅亡なのである。中国「三国志」の曹操、劉備、諸葛孔明を想像すれば、この兵法が実に正論、まさに明快であることがわかる。さらに、孫子の兵法から学ぶべきは「戦う前に勝て」「勝ってから戦え」という鋭い示唆だ。戦う前に、完璧な策を立てておかなければならない。「勝ってから戦え」とは、すべてに通じる実に貴重な示唆である。ところで、広告や販促の分野でも、コンペティションはつきものである。極論すれば、コンペティションでの勝敗が会社の存亡を決めるとも言える。そこでわたしが心がけるのは「負ける理由」の確認分析と排除である。まず、それを徹底的にやる。通常、多くの会社は勝つ理由ばかりを考えて「負ける理由」にまで思考がおよばないものだ。「負ける理由」がわからない。わかっていてもこれまでの惰性で、見て見ぬふりをする。これでは、負けて当然。たとえ勝ってもマグレ当たりである。「負ける理由」がわからないのは悪である。「負ける理由」を追究しないのは最悪である。コンペティションに負けて、得意先のせいにしたり、自分以外のなにかの責任にして、反省もしない会社に明日はない。そういう会社は、負け続ける。負け続けながら、なぜ負けるのかを真剣に検討せず、自分以外の他のだれかに「負ける理由」をすりかえる。そこで、延々と負け続ける。明快だ。ロンドンオリンピックでの日本の団体戦の活躍が注目されている。卓球、バレーボール、体操、サッカー、フェンシング、水泳等々。この団体戦に、コンペティションでの「負けない理由」のヒントがある。全員、心をひとつにして、お互いに声をかけあい、チームの勢いを大事に大事に戦っている。むろん、足を引っ張る仲間などいない。最も単純で、最も大きな「負ける理由」は、チームのメンバーに「ノリの悪い人間」がいることだ。「ノリの悪い人間」は、チームの勢いを削いでしまう。モチベーションを下げてしまう。心をひとつにせず、ばらばらにする。足を引っ張る。コンペティションをいっしょに戦うチームに「ノリの悪い人間」がいたら、まず絶対に排除すべきである。問題は、チームリーダーが「ノリの悪い人間」の場合だ。あるいは、会社のトップやディレクターが「ノリの悪い人間」の場合だ。排除できない。チームリーダーやトップやディレクターにそんな人間がいるだろうか。ところが、これが多いのだ。部下たちは気づいていても、面と向かっては言えない。それに、そういう人間に限って「自分はノリが悪い」「空気が読めない」と気づいていないから始末に悪い。不況が長引き、多くの企業が戦いの渦に巻き込まれている。最近、企業のトップの方々に頼まれ、孫子の兵法をビジネスに置き換えて話し合うことも多い。企業を分析して「負ける理由」を徹底的に洗い出す。「負ける理由」を排除する。これは、ビジネスだけでなく、国家間でも極めて重要である。グローバル化がすすみ国と国の交渉事が増えた。外務省の役人にたいする期待は大きい。わが国は、小さな国土と少ない資源、エネルギーも乏しい、食料も輸出に頼らざるを得ない。そうした「負ける理由」満載の日本には、相手がだれであってもしっかりと戦える策が必要である。相手国はきっちりと日本の弱点「負ける理由」をついてくるはず。孫子の国、中国は当然強力な兵法を講じてくるはずだ。まず「負ける理由」を排除して、さて次は「勝つ理由」を築き上げることだ。頭脳と行動。考える。実行する。二つともなってこそ乱世を制するのだ。
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■走れ、女神たち。 ■2012年7月30日 月曜日 14時11分15秒

事を謀るは「人」にあり。事を成すは「天」にあり。なに事も、悔いの残らぬよう全知全能を尽くし、徹底的に策略を練って取り組め。結果を恐れたり心配したりせずに、全身全霊で取り組み、結果は「天」に委ねる。成功失敗は「天」が決める。「三国志」でおなじみの諸葛孔明は、そう言う。失敗すれば国を失うのだから、魏も蜀も呉も、必死で策を練る。日本では「人事を尽くして、天命を待て」ということばで知られている2000年前から続いている教えだ。ロンドンオリンピックの幕開けは、11人の女神たち「なでしこジャパン」で始まった。ロンドンと日本は、8時間の時差がある。おかげでキックオフは午前1時、日本では酔っ払っているか寝ているか、の時刻である。世界大会を制したわが「なでしこ」たちは、当然のごとくこのオリンピックでも金メダルを期待されている。それに幕開けの先鋒だから、ここはオリンピック全体の勢いをつけたいところ。だれもがさらに期待する。相手はカナダ。先日のフランスとの練習試合では、2対0で負けているから、なにやら不安は募る。そもそも外国勢に比べて、身体の大きさがちがう。フィジカルがちがう。身体の大きさがちがうということは、走る速度もちがえば、ぶつかるときの圧力が決定的にちがう。言い換えれば、日本にとっては広いピッチだが、カナダにとっては狭いピッチである。日本にとって大きなボールだが、カナダにとっては小さなボールである。となれば、どうやって勝ちに行くか。勝つためには、どんな策が必要か。負けるときは、どう負けるのか。すべてシュミレーションしておかなくてはならない。試合前に両選手が並んでいるのを見ると、カナダのストライカー、雲つく大女シンクレアに対し、わが「なでしこ」の微笑みの天使川澄くんは、まるで小学生である。シンクレアの1歩が、川澄くんの3歩に相当する。これは素面では見てはいられない、川澄くんがかわいそうだ、と麦焼酎を取り出してソファに横になる。スタート直後、女神たちの動きが鈍い。ぎこちない。パス回しも遅い。スロースターターといわれる「なでしこ」だから、まあそのうち、と思いつつ心配である。と、二杯目の焼酎を飲もうとした瞬間、川澄くんが走った。左サイドにいた微笑みの天使が一気に羽ばたいた。澤から大野にボールが渡る。大女たちの袖の下を、翼を広げた天使が音もなく駆けぬける。大樹の葉陰を一陣の疾風が吹きぬけた。川澄を信じ、大野が、あっち向いてホイとばかりにバックパス。サポーターだけでなく、両チームの選手たち、もちろんテレビの前のわれらもあっけに取られているうちに、ボールはカナダゴールに叩き込まれた。カナダのゴールネットが揺れた。それを尻目に「ごめんね、入っちゃった」と、天使は照れくさそうにピッチを駈ける。キャプテン宮間が飛びつく。「なでしこ」のお姉ちゃん澤が、駆け寄って小柄な天使を抱きしめる。「入っちゃったね」。オリンピックの幕開けの花火を完璧なシュートで打ち上げた天使は、その大きな価値を知ってか知らずか小首をかしげて微笑む。孫子は言う。戦いにおいて、勝つには「勝つ理由」がある。負けるには「負ける理由」がある。それをすべて承知し、策を練る。「なでしこ」がカナダに負けるとしたら、高さと速度だ。それを封じる策を練る。まず、ストライカーのシンクレアを徹底して封じる。勝つ理由。カナダを上回る早さと精密さだ。負ける理由を封じ、勝つ理由を発揮した。孫子の言う。「戦う前に勝て」と。「勝ってから戦え」と。2対1。「なでしこ」は、勝つべくして勝った。これは、厳しい経済下における会社経営にも絶対に必要な考えだ。さらに言えば、国際社会における日本の国家政策に必要な思想だ。小さいから、その小ささを活かして勝利した「なでしこ」は、多くの教訓をみんなに与えた。小さく、資源に乏しい日本が勝つためには、明確な「勝つ理由」が必要だ。考え抜いた「策」が必要だ。「負ける理由」もまたわかっていなければならない。さて、ここしばらくは寝不足になる。わたしには、その理由はわかっている。
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■カラオケボックス誕生。 ■2012年7月25日 水曜日 16時32分30秒

いま思っても、桁はずれにスケールにでかい男だった。売り出しの広告クリエイターたちは、その男と仕事をするのを楽しみにしたし、誇りにしたものだった。
酒は強かった。六本木で飲むと必ず朝まで飲んだ。それでいて、朝の打ち合わせには遅刻をしなかった。マージャンが好きで、突然電話がきて、今晩つきあってくれと徹夜マージャンになったりすることもたびたびだったが、会えばなにかと勉強になった。広告のことも教えてくれたが、男の生きかたも教えてくれた。学生時代にはラグビーをやっていた。でかい身体だった。まだ40代だが、宣伝部長としてすばらしい仕事の数々をこなしてきた。明るく開けっぴろげ、豪放磊落な性格で、少々の無理難題をいわれても若い連中は喜んで引き受けた。その日、朝11時に電話がきて、昼飯をいっしょに食おうという。六本木のスタジオで撮影中だったが、行きます、と答えて約束の渋谷に行った。渋谷の駅近くの寿司屋に入る。「熱燗!!」。彼は叫ぶ。「昼からですか?」「酒に昼夜なしさ」。彼はポケットから小さなパンフレットを取り出して開く。「これ、見てくれ」。カラオケマシンのパンフレットだった。「うちのカラオケマシンは好調に売れている。これからもどんどん伸びていくだろう。そこでだ」。彼はいう。神戸に船の古いコンテナがいくつも余っているという。まだ十分に使える程度のものだが、規制があってある期間が過ぎる使えなくなるそうだ。このコンテナに彼は目をつけた。コンテナを部屋に見立て窓をつけ、カラオケマシンを設置したいという。「実はもう、カラオケコンテナをテストしているんだ」。カラオケを設置したコンテナを広い駐車場の端に数台設置してあるという。「カラオケだけをやる部屋ですか?」わたしは尋ねた。不思議だった。いくらカラオケが流行っているとはいえ、それがビジネスになるのだろうか、という疑問が頭をよぎる。「そう、カラオケ専用だ。朝から晩までやっている。受付と飲み物なんか売るコーナーは、表にある」。「朝からカラオケってどんな客ですか?」「高校生、中学生、主婦だ。風紀上、窓を開けておかなきゃならんのだ」。「へえ、ただの箱が歌える遊びのスペースになるんですね?」「そうだ、ただの箱が金を生み出すんだ。みんな閑なんだ」。それを、まず全国の駐車場や公園に設置して広めたいからポスターを作ってほしいという。「ただのボックスが歌うカラオケボックスになるんですね」。「そうだ、カラオケボックスだ。それだよ。カラオケボックス公園だ」。だれもが歌につつまれて暮らす毎日。うれしいにつけ、悲しいにつけ、喫茶店に行くように仲間とカラオケボックスに行く。
朝、子どもを幼稚園に送った主婦たちが集まる。授業を終わった高校生たちが仲間とわいわい集まる。「だいいち安い」。そんなイメージを話し合う。面白そうだ。「今週中にポスター案を作ってくれ」。半年を待つまでもなく、カラオケボックス公園は大人気となって、全国に普及した。翌年には大きなキャンペーンをやらせてくれた。「2ヶ月ほどヨーロッパを視察してくる」。ある日彼はそう言い残して、旅立った。「次の手を考えてくる。待っていてくれ」。それは、視察旅行ではなく、入院だった。そのまま彼は帰らなかった。名物宣伝部長のあまりに早い死を業界は惜しんだものだ。あれから何年になるだろう。梅雨になると彼を思い出す。それにしても、カラオケボックスがこれほどまで暮らしに溶け込むとは、彼もわたしもその時は想像もしなかった。
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■考えるTシャツ。 ■2012年7月25日 水曜日 16時24分47秒

その朝、アートディレクターの松本隆治が、突風のように駆け込んできて叫ぶ。「このままじゃ日本に未来はない」。彼の気性は、生まれ故郷の瀬戸内気候のように、清々しく、楽天的で、物怖じをしない。だが、鳴門の渦潮のごとき力強い正義感を秘めている。
これまでラブ&ピースをテーマに多くの作品を発表し、世界から高い評価を受けてきた。「原発なあ、あれはどうもあかんぜ」。彼には、小学生の息子がいる。昨年数ヶ月間、息子をアメリカに非難させた。アメリカにいる奥さんの親戚が「放射線で日本が危ない」という地元のニュースを聞き、せめて息子だけでも非難させろと言ってきたからだ。「そこで、いま、おれにできることはないか、と考えた」。アートディレクターの彼の手には一枚のデザイン画があった。
原発問題は、極めてセンシティブだ。根本がエネルギー問題だから、あまりにも大きく広く、根強い。単純に反対を叫ぶだけでは、まるで解決にならない。賛成にしても反対にしても、やはり無責任なことは言えない。しっかりと勉強し、確信がなければ、被災された皆さんにはもちろん、真剣に叫び、活動している人たちに申し訳がない。だが「だからなにもしない」という理屈は松本の言うように逃げ口上である。気が引ける。そこで、賛成とか反対を声高に言うのではなく「みんなで考えよう」とサイレントマジョリティに訴えかけるのはどうだ、となった。原宿でコンサルティング会社を経営する原田氏が参加し、わが仲間クロスポイントの伊藤さん、プランナー小池番長が同調する。「みんなで考えよう」と訴える手段としてTシャツを作ろう、ということになって松本のデザインをTシャツの胸にプリントした。さて、これをみんなに着てもらおう。どうする? ネットで販売しよう。そう決まった。原田氏が事務局を引き受ける。われらは、それを「Think-Tシャツ」と名づけた。
「みんなで考えようTシャツ」である。そして、今回は「原発」を取り上げたが、次回はちがう何かを取り上げ、みんなで「考えるウェーブ」を起こしたいと思っている。たとえば「考えよう、滅び行くトキ」でもいいし「考えよう、世界の飢饉」でもいい。みんなでいっしょになって考えることに意義がある。そう思う。「未来の日本のためである」と松本が駆け込んできてからずいぶん時が過ぎ、先週やっとTシャツが出来上がった。松本のデザインはやはりすごい。力がある。シャツの生地も悪くない。一度洗濯するとよれよれになって寝巻きになる運命のTシャツもあるが、これは高松うどんのごとく腰がしっかりとしている。着やすい。ユニクロでも売りたいくらいだ。早速、渋谷のまちを着て歩く。「ほら、ふりむけ、たのむ、ふりむいてくれ」と念じつつ歩く。一枚のTシャツがどれほどの力になるか、想像はできない。日本の未来に、まったく影響を与えることはないかもしれない。だが、街では好評だ。
「どこで売っているのですか?」と聞かれる。「買いたい」と言う声があちこちで起き始めた。「わたし、主義主張はないの。でも、このデザインかわいい」と言う若い女性が多い。松本は「それでいいんじゃないか」と笑う。「それでいいんですね」と答える。日赤を通して、一着につき500円を福島に送ることができる。とにかく傍観者でいたくない。日本は、いつの間にか傍観者国家になった。自分の国を諦めているのだろうか。規則規則でぴりぴりした国だから「なにかやると文句を言われる。それならなにもしないでいよう」という傍観者国民を増やしたのだろうか。ニュースでは、復興はこれからだと言い、地道にすばらしい援助をしている人たちもたくさんいる。そういう人たちから見れば、たかがTシャツである。だが、微力ながらできることから始めて、傍観者でなくなったことがうれしい。今日伊藤さんが「奥さんにどうぞ」と一枚わたしに手渡した。妻は、はたして着るだろうか。
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■神様の仕事 ■2012年6月19日 火曜日 10時56分49秒

街角の八百屋の庭の紫陽花が美しく咲いた。見上げる空から小粒の雨が落ちてくる。雨の一粒一粒が、きらきら輝きながら一心に地上をめざす。紫陽花の葉の上で水滴がやわらかく跳ねる。ニュートン、万有引力の法則。子どもの頃に覚えたそんな言葉が頭に浮かぶ。と同時に、ある発明家の言葉を思い出す。
「ニュートンは、万有引力という偉大なる発見をしました。だが、こういう考え方もあるでしょう」。その発明家の次の言葉に思わず息を飲む。「ニュートンが発見するはるか昔から、万有引力は存在していました。物質には重力があり、重力がお互いに引き合う。その力は、いったいいつからあるのでしょう。いったいだれが創ったのでしょう。140億年前に宇宙ができたといわれますが、そのときから物質には引き合う力というものが存在していたのでしょう。なんのために、だれが創ったのか」。
小雨が空から落ちてくる。小雨が落ちてくるのか、大地が小雨を引き寄せているのか。あるいは、小雨は落ちているのではなく、上に向かって昇っているのか。ニュートンがいなくても、わたしたちは人類創生以来地球の上で暮らしている。地球の下側にいる時でも、空に向かって落ちてはいかない。地球が引っ張ってくれている。あるいは、わたしたち一人一人の人間が、地球を引っ張っている。
いま、この時間、日本人が上を向いて立っているのか、ブラジル人が上を向いているのか、さて、わたしにはわからない。「だれが、なんのために引き合う力を創ったのか。科学はどこまでも追究していくと神様にたどりつくのです。万有引力は、神様が創った。そう思うしか考えようがないのです。となれば、ニュートンは、神様の求めに応じて神様の創った引力を人間が理解し使いやすいように体系化してみせた。神様の仕事のお手伝いをした。そういうことになります。アインシュタインもそう。ガリレオしかり。発明も発見も実はそうなのです。みんな神様の仕事であって、人間はそのお手伝いをしているだけなのです」。
発明家は、宗教家ではない。帰依している宗教はない。だが、宇宙の意思を見つめ、神の存在を容認し、その上で科学を語る。科学は、追究すればするほど神に近づく。文学もそうだ。音楽も美術もそうだ。学問とはそうしたものだ。つまり、人間を追究し、生命を追究していくと神に近づくしかないのだ。「他人の創った公式や理論に頼らず、利用せず、自分からものの本質に迫る。神に近づく。ゼロからものを考える。それが、考えるということで、発明はそこから始めるしかないのです。小手先の真似や発想は、考えることにはなりません。類似品を生み出すだけで、発明とはいえません」。わたしは、発明家の言葉に身体が震えた。心の奥でパチンとなにかが弾けた。本質に迫って考える。他人の役に立つ価値を生む。それがなにも壮大な発見や発明ではなくても、たとえば、わたしの広告コピーの仕事や、エッセイを書くという仕事でも、どこかで神様が運命的な力を発揮して、さあおやりなさい、とわたしに順番を回してくれたと考えれば、誠心誠意尽くさなければ申し訳ないのである。面倒くさいとか、いい加減にやるとか、手を抜くなど言語道断。ぶつぶつ言っては絶対にいけないのである。神様に感謝し、最善を尽くしてお手伝いをする。発明家は、仕事とはそういうものだ、考えるとはそうしたものだ、と教えてくれた。
発明家は天才だから、彼の崇高な理論のほんの少ししか理解できないが、心の底から共感を覚える。だれもみな、神様の求めに応じて、人々の役に立つよう日々仕事に務める。なんでいい加減にできようか。紫陽花が喜々として雨を受け、八百屋の庭で咲き誇る。この紫陽花は、だれが創ったのか。この梅雨という季節は、だれが創ったのか。なんのために梅雨はあるのか。考える。傘屋のために梅雨があるのではない。
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■キヨとシゲル ■2012年6月19日 火曜日 10時50分52秒

ゴールデンウィークが始まったが、予定も天候も定まらない。ところへ「あんたあ、5月5日茨城に行かない?レンタカー借りるからさあ」と、妻がメールで言ってくる。
茨城県土浦市荒川沖町に妻の実家はある。98歳になる妻の母キヨがいる。81歳になる長兄のシゲルがいる。認知症の進むキヨは、町はずれの介護ホームにいる。われらの仲人を務めてくれたシゲルは、数年前に梯子から落ち、脳の半分を破壊する重傷を負った。死の淵をさまよい奇跡的に蘇えったが頭にチタンを入れている。夏になると暑い陽射しのためにチタンの頭蓋骨が焼けて熱を帯び、「頭がおかしくなりそうだ」と、常人には想像のできないことをシゲルはつぶやいた。
昨年、脳溢血で倒れ、キヨとは別の介護施設にいる。そのシゲルも、記憶が日々遠のいていくという。もう2年も会っていない。ゴールデンウイークは車が混む。そんなことはわかっているが、キヨとシゲルに会いたいと思う。「連れて行ってくれ」。そう返事をする。わたしは、ある病気のために電車に乗ることができない。40年間電車に乗っていない。だから、遠出のときは息子がレンタカーを借りて運転を買って出てくれる。ぐずっていた天気は、5日の日だけ奇跡的な晴天を天が用意した。
晴れ上がった朝、マツダデミオのハンドルを握る息子は、ナビを活用して見事に渋滞をすり抜ける。青空に突き刺さる東京スカイツリーの足元を走る。妻が「写真写真」と叫ぶが、走る車窓から見る世界一の電波塔は、足でも生えたようにあっちこっちと動き回る。シャッターを押せないまま、いつの間にかどこかに消えてしまった。まったく落ち着きのない世界一である。
高速道路もスムースで、利根川の手前で念願の田植えを見る。窓を開け、胸いっぱいに空気を吸い込む。実家はいま、美容師である妻の姉の妙子が一人で守っている。妙子の長女のマミが娘のシュリを連れて取手から駆けつけ、いっしょに昼食を取る。キヨのいる介護ホームは、町はずれの街道沿いにぽつんと建っている。穏やかな陽射しにすっぽりと包まれ、そこだけ時間が止まっている。キヨの顔を見たら、わたしは泣き出すかもしれない。そんな心配をしながら廊下を歩く。ロビーの中央に四角いテーブルが一つあって6人の年寄りがちょこんと座っている。一斉にこっちに目を向ける。右側の真ん中にキヨがいた。笑いかけると、全員が笑い返してきた。キヨも笑い返してくる。小柄で愛嬌のあるキヨは、昔からきれいに笑う。今日もきれいに笑っている。ほっとする。だが、ふと不思議に思う。そして、不意に哀しさに襲われた。ほかの、見ず知らずの5人と同じ笑い方だ。だれか知らない人が笑いかけてくるのでそれに答えて、一生懸命に笑っているといった笑い方だ。弱い命が生み出す防衛本能としての精一杯の愛想笑いだ。それから1時間、結局キヨはわたしを思い出すことはなかった。息子のことも、ほかのだれも思い出すことはなく、きれいに笑いつづけた。ただ、妙子と妻のことは思い出した。進む認知症の中でも忘れていなかった。それが唯一の慰めになった。キヨは話している最中に眠った。
シゲルの施設は大きく近代的で設備も整っている。シゲルは、車椅子に乗ってテラスにいた。いつも会うときはそうするように、わたしは遠くから手を差し伸べた。キヨのようにわかってくれなかったらどうしよう。不安だった。シゲルは遠くから手を差し出してくれた。泣き出した。手を握る。強い握力がうれしかった。シゲルは隣村の殿里の農家に生まれ、マラソンが得意で県の記録を保持していた。長い間、電話線を敷設するために全国を回った。体力は人一倍ある。往年の頃を思い出す握力の強さがうれしかった。妙子がしきりに目の回りをハンカチで拭く。シゲルは幸せな顔をして妙子のなすがままにまかせ、うれしいうれしい、妙さん、ありがとう、と何度も言う。孫のシュリを見て、このきれいな人はだれ、と繰り返し聞いた。どんどん記憶が遠ざかっていくのだ。シゲルと別れて外に出る。車椅子のシゲルがテラスにいて、いつまでも手を振る。街道を中学生たちが自転車で駆け抜ける。生きていればいい。たとえわたしを忘れてしまおうと生きていてほしい。田んぼでは、青々とした苗が暖かい春の陽射しを浴び、風に揺れている。
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■カムイと生きる。 ■2012年6月19日 火曜日 10時48分40秒

カムイとは、神のことです。アイヌとは、人間という意味です。渋谷、道玄坂、午前11時、映画館2階のティルーム、友人の映画監督小松秀樹氏が、熱く語る。
窓の外は、昨日から降りつづく雨だが、少しも寒さを感じさせない。彼はいま、一本の映画を完成させた。北海道浦河で生まれ育ったアイヌの浦川治造さんを撮りつづけたドキュメント映画だ。ナレーションを、浦川さんの甥にあたる俳優の宇梶剛士さんが担当した。だが、小松監督は、アイヌを民族問題の観点から見つめて映画を撮ったのではない。カムイに感謝し、自然を敬い、自然とともに生きるその純粋な生き方、日本人の原点的な「たくましさ」を、彼は映画にしたのだ。
アイヌの人たちは、山には山のカムイがいて、川のカムイ、風のカムイ、火のカムイ、と自然の中には多くのカムイがいると信じている。山のカムイは、ヒグマやシマフクロウなどの生き物の姿となってアイヌの人たちと共存して恵みをもたらす。川のカムイは、鮭という恵みをもたらす。「それは、神道の概念に似ているね」。國學院大學出身のわたしは、神道学部でもなく文学部でもないが、神道の影響を受けている。「え、國學院大學なのに文学部ではなくて経済学部なの?」と、怪訝な顔で尋ねる友人もときどきいて、「そう、日本そば屋でラーメンを食うようなもの」と答えることにしている。入りやすい学部に入っただけのことだ。
話はそれたが、そういう理由でアイヌの人たちのカムイを信ずる自然崇拝の心と自然との共存感覚には、諸手を挙げて賛成するのだ。わたしの中にも、自然にたいする畏敬の念と、神道の無常観が根付いている。「治造さんは、中学を卒業すると北海道浦河で就職し、その後荻伏で土木屋をやっていたそうです。会社が倒産したり、奥さんが病気で倒れたり苦労をしました。東京に出てきてからもアイヌの暮らしを守りつづけ、千葉の君津にカムイミンタラという大勢の人たちの憩いの場を造ったり、アイヌ熊ラーメンというラーメン店をやったり、たくましく生きています」。「アイヌ熊ラーメンて、聞いたことがあるなあ」。「八王子のほうです。大月やあきる野市にもチセを復元していますよ。チセっていうのはアイヌ語で家という意味です」。雨はまだ止まない。小松監督と別れて駅前を歩いてクロスポイントに向かう。雨だというのに、駅前には若者たちが多い。パチンコ屋の前では若い娘さんたちが、広告のティッシュペーパーを配っている。ふと思う。以前、渋谷のギャルたちが発起して、ギャル米という米づくりを行ってニュースになった。好奇心の強い渋谷ギャルたちが、アイヌの暮らしを通して自然崇拝の心を養い、自然との共存に目覚めたら、日本は強くたくましくなるのではないか、と。わたしたちは、経済大国という時期を経験し、もはや経済抜きで物事を判断することは現実的ではない。だが、日本人の根幹として、自然との共存を真っ向から考え、行動しなければならない時がきている。渋谷ギャルのたくましい行動力と情報発信力は、日本をリードする勢いがある。そんなことを考え、アイヌの浦川さんと渋谷ギャルの組み合わせを想像すると、なにやら痛快でもある。小松監督作品「カムイと生きる」は、5月12日より、渋谷で公開される。
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■ボトル入れよう、ハトヤマ君。 ■2012年4月17日 火曜日 12時50分8秒

桜の花が、はらはらと風に舞う。渋谷は、爛漫の春である。さて、今宵も天下国家を論じますか、と伊藤さんと桜並木の坂道を下って、いつものガード下社員食堂やまがたに向かう。肩にふりかかる花びらを片手でふりはらいながら、ふらりと坂を下るなんぞ至極贅沢な気分である。
「いやはや、われらのハトヤマ君が、またまたやってくれましたね」。われらの目の前の関心事は、元総理のハトヤマくんと北朝鮮の衛星打ち上げである。普段、酒の席では政治と宗教はあまり語らないが、ハトヤマ君のトンチンカンぶりは、同じぶりでもぶり大根以上の酒の肴となる。トンチンカンとは、鍛冶屋が、調子よくトンテンカントンテンカンと打つのに、どうも調子が狂って、テンといかなきゃいけないところに、チンとくる。トンテンカンが、トンチンカンと聞こえる。トンチンカントンチンカン、つまり、調子っぱずれ、調子が狂うということだ。元総理が「個人で行ったのよ」と言ったときから不安だった。単純に、個人で行ったらあんなえらい連中が会うか?と思った。例によって、お得意のトンチンカンが始まった、と思ったら案の定、最後までトンチンカンを貫いた。
「ボンボンなんだよね」。「実は、いいやつなんじゃないでしょうか」。「大王製紙のボンボン社長、やっこさんもいいやつかもね。友だちにはいいな。金もちだから。やまがたでいっしょに酒を飲むくらいがちょうどいいんだ」。
「そういえば、わたしの前の会社の社長、これが面白い。いい人です。清水というのですが」。「いいねえ、ボンボンの名前だ、ボンボンといえば、ハトヤマか清水か長嶋だ」。
伊藤さんの前の会社、銀座にある交通広告の代理店だが、その社長は、父親が社長時代にアメリカ留学をしていて、帰国して父親の会社に入社した。
「まだ社員の時代ですが、みんなに飲みに行こう飲みに行こうと、誘われるんです。いい人だから断らない。にこにこついて行くんです。そして、ボトル入れろボトル入れろって言われるんです。うれしそうに、にこにこしてボトル入れるんです」。「いいねえ、いやな顔ひとつしないんだ」。しません。それこそ、ここが自分の出番、いまこそ自分の使命と、うきうきしてボトルを入れるんです」。
「それこそ立派なボンボンだ。ボンボンの鏡だ」。
そこで、われらは「ボンボンの定義」について論じる。ボンボンとは、まず、親が金持ちでなくてはいけない。大地主とか、大会社の社長とか、有名スポーツマンや大物芸能人とか、そういう類の親でなくてはいけない。ハトヤマ君のように、「生まれてから一度もお金で困ったことがない」と、さらりと言えるようでなくちゃあだめだ。下落合の染物屋の倅は、逆立ちしてもボンボンにはなれないのだ。次に、ボンボンとは、トンチンカンでなくてはならない。トンチンカンで、いいやつでなくてはならない。宇宙人と評されるくらいのトンチンカンがいい。一茂君も、いいとこ行っているが、ハトヤマ君に比べたら、まだまだ足りない。
「清水社長の息子がまたすごいんです」。伊藤さんが言う。「子どものときから知っていますが、いつも青っ鼻たらしてるって感じです」。「そう、その感じ、青っ鼻、それは重要なことだ」。でも、そうなるとボンボンとは、ある意味天才でなくてはならない。赤塚富士夫の天才バカボンのイメージである。天才バカボンの父親は、金持ちではない。となると、われらがハトヤマ君は、バカボンを超えているわけだ。バカボン超えである。できれば、ハトヤマ君に、やまがたにボトルを入れてもらいたい。そして、政治以外の話をしてみたい。罪のないトンチンカンは好きである。夜になった。風はおだやかだ。桜の花も散り急いではいない。「風はないけど、金もない」。それが、いま、われらのさびしい合言葉となっている。
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■孫子のヘイヘイホー ■2012年3月30日 金曜日 15時7分47秒

やれ、ぐうたらしてるんじゃない、ほれ、畑へ行け、それ、働け、と女房に尻を叩かれる。それがいやでいやで、ふらりと旅に出る。(なんだかわたしのような男で身につまされる)。いろいろな国をぶらぶらと渡り歩いて、この男なにをしていたかというと、土地の人々から話を聞いて情報を集めたり、戦場の跡をつぶさに眺めたり、地形や自然を念入りに調べたりして、書きとめている。そして、そこらへんにごろりとひっくり返って戦略戦術を考える。だが、本人は戦争が大嫌い。戦略戦術を練ることだけが大好き。痩せて、ひょろりと背が高い。家来の少年に注意されて「あ、そうかそうか、ごめん」と謝ったり、貫禄なんてものがまるでない。孫子とは、そんな男だった。
もっとも、孫子は実在しなかった、とも言われている。子とは、先生とか師という意味だから、孫子とは、孫先生という意味で、それは孫武とその末裔の孫濱のことだ、と言う説が有力である。女房に尻を叩かれ、あわてて、そしていつもふらりと旅に出るのは、斉の国の出身である孫武のほうだ。
斉といえば、魚釣りをしながら王の誘いを待ちわびたという逸話の主、かの太公望呂尚の国として名高い。中国、群雄割拠する戦乱の春秋時代、いまから2500年ほど前から伝わり、いまもって貴重な書物として各方面に愛読されている「孫子の兵法」は、孫武とその末裔孫濱の二人の兵法を著した書であり、後に三国志で有名な曹操によって研鑽された、として有名だ。
ところで孫武は、出世欲というものがまったくない。働くことが嫌いで、父から受け継いだ領地を手放して田舎へ引っ込んでしまった。その村の名を孫家屯と言う。一族と使用人に畑をやらせ、自分は暇さえあれば離れの部屋でごろごろひっくり返って戦略を練っている。最初の女房が死に、後妻をもらうが、これがしっかり者、鬼嫁、そして冒頭のように孫武は尻を叩かれ、旅に出る。
この男の13篇から成る兵法は、日本でも天下の戦略武将武田信玄が用い、日露戦争においては東郷平八郎がバルチック艦隊を破った戦法にも使ったと言われている。単なる兵法書にとどまらず、処世術の書、経営の書、政治の書、人間の書とも言われているが、それは、人の心を読み、人の行動を予測し、裏をかき、思うがままに勝利する高度な方法論が説かれているからである。「敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず」のことばで知られるが、実は「戦って勝つのではなく、勝ってから戦え」とか「戦わないことが最善である」とか、孔子と同時代の男だけに、理屈が明快なだけでなくどこか哲学的で「孫子の兵法」は読み物としても実に興味深い。当時、敵を打ち破ればその国も財も人もすべていただいてしまう時代なので、なるべく損害を与えずにおくことが重要だった。もちろん、こちらも損害の少ないほうがいい。だから、戦わないで相手を降伏させることが最も善いのである。
13篇の最後の「用間」篇は、スパイ、諜報部員、山本勘助とかジェームス・ボンドの重要性を説いているが、「戦争は人間と人間のやること、だから人間を知れ」と言う。この「人間を知る」というところが面白い。さんざん戦略を構築した上で、人間を知れとくる。「人は、人に始まって、人に帰する」。これほどすぐれた兵法書、処世の書が、孫子の趣味の産物だと思うと、実に皮肉で、面白い。
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■みんな、いいやつ。 ■2012年3月19日 月曜日 11時33分43秒


映像プロデューサーの高橋達也くんは、少林寺拳法の初段である。試合の近づいたある日、あまり稽古に熱を入れない先輩に言った。「先輩、稽古しなくていいんですか?」先輩は答えた。「バカヤロー、熊が稽古するか!?」試合当日、一回戦でころりと負け、すごすごと帰ってきた先輩が言った。「むこうの熊は、稽古しやがった」

友人3人で久しぶりに飲んだ。一軒二軒と行き、かなり酩酊してきたが、「まあもう一軒、タクシーでワンメーターだから」と3人で乗る。すぐ目的の店の前に着き、支払いとなった。友人の和田くんが言った。「760円。よし、割り勘な、一人200円な」すると、運転手が振り返って言った。「だんな、わたしも入ってませんか?」

トキワ松教授の研究室でいつものように酒宴となる。歴史学の教授の話は例によって面白く、書物の山からがさごそと、時代を超え、地域を超え、それはそれはいろいろな品物が次々と出てる。あるとき、ぬっと取り出したのは火縄銃だった。伊藤さんが、思わず叫んだ。「先生、許可証はお持ちですか?」

コピーライターの中島敬一郎氏から聞いた話だ。ある広告代理店の新人営業マンが、寿司チェーン店に飛び込み営業に行き、その報告を課長にすると、課長が言った。「そんな店じゃ、ちらしくらいしかないだろう?」新人営業マンが、胸を張って答えた。「いえ、にぎりもあります」

空手部の後輩である日下部諒くんとは、飲むとえせ哲学話となる。その日も「どっちがえらい話」となった。「経堂駅と千歳船橋駅は、どっちがえらい?」とか「鉛筆と消しゴム、どっちがえらい?」とか「ジャガイモとナス、どっちがえらい?」とか、よくわからない。数軒はしごをして、千歳船橋の駅前でラーメンを食う。「二つに割ったこの割り箸、どっちがえらい?」という話になり、ふとカウンターの向こうの大将に聞いた。「大将、どっちの箸がえらいのかなあ?」しばらく考えた大将、ぽつんと言った。「ラーメンに聞いてください」

沖縄出身、空手道部次呂久秀樹監督の若き日の話だ。渋谷道玄坂を心地よく酔いふらふらと歩いていると、二人の外国人にどんとぶつかった。外国人が血相変えて大声でなにか叫んだ。次呂久監督、にこりと笑って言った。「おぬし、名はなんという」

漫画家はらたいらさんとよく飲んだ。雪の日、窓の外で一人の男が滑って転び、立ち上がって、また転んだ。はらさんがぽつんと言った。「起きなきゃいいのに」

クロスポイントの社員食堂と勝手に決めているガード下の「やまがた」で、後輩のコピーライターと熱燗を飲んでいる。サントリーの「水と生きる」というコピー、あれだけ開き直ってやられると、まあ、キリンやアサヒも手が出ませんね。後輩が言い、そうだ、あれ以上のコピーとなるとなかなかなあ。隣のテーブルで熱燗を手酌で飲んでいたお年寄りがぼそりと一言、「酒と生きる」

経堂で飲んで自転車で帰る途中、警察の尋問にかかった。住所と名前を聞かれた。「わかりません」そう答えると、若い警察官は、「おやっ」という顔をして懐中電灯をこちらに向けた。「すいません、いま、妻に電話して聞いてみます」そう言って、ケータイをかけ、「おい、おれはだれだっけ?」電話は、がちゃんと切れた。それから30分、警察官はわたしを離さなかった。

世田谷のテニス仲間が駅前のカラオケ酒場で待ち合わせをした。クラブでいい加減飲んだあとで、いい気分に酔っている。いちばん遅れてきたのは大村くんだった。「お待たせ」見ると、自転車ごと店の中に入っていた。

友人のアートディレクターの松本隆治氏が、世界的な賞をもらった。みんなが祝った。同じアートディレクターの男が笑いながら近寄り、さらに笑いながら握手を求め、ずっとうれしそうに笑っていた。横にいたコピーライターの友が、耳元で言った。「あいつ、悔しいと笑うんだ」

「正義(まさよし)」という名の友人がいる。飲んだ勢いであるとき聞いた。「正義(せいぎ)って本当にあるのか?」友人が答えた。「おやじに聞いてくれ」
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■島の国、陸の国。 ■2012年3月12日 月曜日 16時28分32秒

孔子の姿は彷彿と浮かぶが、孫子の姿は漠然としている。まだ出会って日が浅いせいもある。「孫子」の主人公は、孫武と孫濱である。だから、孫氏といっても二人いるし、はたして実在の人物であるかどうかも疑わしい。
「論語」の現代訳を著したのは2年前だから、孔子と馴染み深いのは当然のことだ。いま、テーブルのワイングラスの横には、海音寺潮五郎先生の「孫子」が一冊置いてある。さて、孫子との付き合いはこれからだ。海音寺先生はわが大学の先輩にあたるので、気後れはするものの、実に面白い小説だ。孔子もそうだが、孫子は中国春秋の時代、つまり群雄割拠する戦国の世の傑出する偉人である。楚や呉や晋、斉が、隙あらば攻め込んでやろうとぎらぎらした目で四方八方を睨んでいる時代だ。兵法家として高名な孫武は、こうした戦国の世であるから当然戦いの場で大活躍と思っていたが、実はこの男、戦いが大嫌いなのだ。広大な領地を捨てて、孫家屯なる田舎へ引っ込み、一族の者や家人や奴隷に田をまかせっぱなしで、一日中ゴロゴロしている。それならわたしも似たようなものだが、孫武は、ただゴロゴロしていたわけではない。そこがわたしとちがう。
頭の中は戦術が渦を巻いている。兵法を考えることが大好きだ。兵法とは、一種の読心術ともいえる。そういえば聞こえはいいが、いかにして敵を欺くか、裏をかいて勝つか、ということだ。孫武はそればっかり考えているが、田の忙しいときは、かみさんに怒られる。その上、就職して出世しようなんて気はさらさらないのだから、これは怒られるのも当たり前。
「忙しいときは、田の見回りくらいしなさいよ、まったく」と、尻をびしびし叩かれる。再婚したかみさんはしっかり者だ。だから、あまり家にいたくはない。これもわたしと同じだ。ちょろちょろと旅に出て、あちこちの情勢を見聞きして、情報を集めている。読心術には、情報こそ不可欠である。有名な「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」を、身をもって実践研究していた。
「先輩、そういえば中国4000年、いまを除いて平和の時代っていつでしょうか?」テーブルの向こうで赤ワインを飲む次呂久英樹師に尋ねる。「さて、どうだろう?始皇帝の頃はどうだったか?」漢民族は、集合離散を繰り返し、巨大化してゆく民だ。黄河のごとく、長江のごとく、あるときは呑み込み、あるときは吐き出し、そうしながらやがて大海に注ぐ。秦の始皇帝が、初めて中国大陸を統一したが、平和であったかと聞かれれば、わたしたちには知る由もない。
「先輩、中国4000年は、戦いの歴史ともいえるのではないでしょうか?」「もしそうならば、すぐれた兵法が生まれるのは自然の理だな。それは、陸の国であるがゆえの宿命かも知れんな。島の国の日本には想像のできない兵法の深さや妙があるかも知れなんぞ。そういえば、東郷平八郎も孫氏の兵法を抱いて、日本海海戦に勝利したのは有名だ」
そこだ、とわたしは思う。広がろう広がろうとする中国と、まとまろうまとまろうとする日本では、発想のすべてがちがう。価値観がまるでちがう。島の国日本は、スケールよりも緻密、力よりも繊細な情感である。陸の国中国は、比類なきスケールの大きさをもち、歴史という時間さえも世界の頂点にいる。まさに大河である。わたしたちは、多くの知識、多くのものを中国に学んでいるし、アジアの同胞という意識から、同じ感覚をもっているかに誤解しているのかも知れない。戦争とか平和についても、基本概念に誤差があるかも知れない。そしていま、日本の経済戦争の中で、わたしは孫子に学ぼうとしている。孫子のように、戦うのは大嫌いであるが、企業には戦い続け、勝ち残る兵法が必要だと思うからだ。だが、白状すれば道徳を説いた孔子のほうが、わたしは好きである。いずれにしろ、孔子も孫子も信じ崇めた天を信じて日々を送っている。天は、島も陸も区別することはない。
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■男は、とがって、三角で。 ■2012年2月7日 火曜日 16時50分4秒

天王洲アイルからのバスが遅れ、渋谷に着いたのは、トキワ松教授との約束の午後6時を回っていた。小池くんと伊藤さんが先に行ってくれているので安心は安心だが、今日は土門拳の弟子で仏像写真家として高名な藤森武氏を教授に引き合わせることもあって、駆け足で日赤行きのバスに乗り換える。
トキワ松教授は歴史学者である。博物館学の重鎮である。和歌山県出身で、温厚な性格がそのまま丸い穏やかな顔に表れ、これが大学教授かと驚くほど気取りがない。失礼だが、子どものようなそのむき出しの人間性に真っ直ぐな人柄がうかがわれる。学生たちの人気もそこにあるのだろう。わたしの学生時代は、教授は偏屈で近寄りがたいと相場は決まっていたが、トキワ松教授にはそんなイメージは微塵もない。だが、ひとたび歴史学の話になると火がついたように夢中になる。話が面白い。熱中のあまり、次から次へと話題が飛び出てくる。
遅れて研究室の扉を開けると、ちょうど教授と同じ博物館学の下落合准教授も到着し、楽しき研究室の新年の宴が本格的に始まった。「男は、とがって、三角です」。トキワ松教授が焼酎グラスを振り回して言う。研究室の中央にあるテーブルには、日本酒、焼酎、ビールが並び、炙った魚、漬物、練り物、乾き物などのつまみがおもちゃ箱をひっくり返したように広げられている。
トキワ松教授は職業柄、当然のごとく話はうまい。魅きつけられる。ひと口焼酎を飲むたびに、話に翼が生える。ふた口飲むと、話は大空を飛び回る。「男は、とがって、三角です。女は、白くて、丸やかです」。教授がそう言うと、下落合准教授が横で口をとんがらして見せるが、「まあ、そうよね」と、しぶしぶ相槌を打つ。トキワ松教授と下落合准教授の心地よいボケ突っ込みの掛け合いも楽しい。みんなは、思わずテーブルの上に身を乗り出す。
いつでもどこでも、男は、大変なのだ。だから、ついついとんがってしまう。三角にもなってしまう。仕方がないのである。その点、女は見た目も美しい。白く、ふっくらとして、豊かである。中身はそうでもないのだろうが、表向きにはおっとりと見える。穏やかにも見える。「それに、その男女比率がすごいです」。教授は、どんぐりのように目を剥く。「なんと、男1に対し女68です。どうです、ね、すごいでしょう」。
背筋に冷たいものが流れる。男として、男滅亡論につながる目の前の事実に、本能的恐怖を覚える。「わたしはこれをね、果肉のついたまま丸ごと食べるんです」。ふんふんと鼻を鳴らして教授が言う。「え、臭くないですか?」わたしが尋ねる。季節になって道端に落ちているこいつを踏んづけたりすると、独特の強烈な匂いを発し、周囲にすこぶる迷惑をかける。「臭いです。でも、この臭さこそが、こいつの生き残るための強力な防御策です。この匂いのために、恐竜時代からこれまで見事に生き延びてきたのです。それにこの色ですね。葉っぱと同じ色、黄色、金色。葉っぱの陰に隠れて恐竜にはこいつが見えない。これも生き残る防御策です」。
テーブルの中央には、銀杏の実がいくつも転がっている。それぞれが手で銀杏を転がしながら、大勢の女の中から男をさがす。「あった!!」藤森氏が嬌声を上げる。手先を見ると、なるほど、とがって三角、68分の1の哀しき男がつままれている。並べて比べると、たしかに男と女ではまるでカタチも大きさもちがう。男は、小さくて情けない。ひがんで見える。無残なほど貧弱である。下落合准教授が、へへんと得意顔でみんなを見回し、ひとつ威嚇してから日本酒を口に運ぶ。
いつものことながら歴史の扉を開け、さまざまなものを興味深くわれらに提示してくれる教授との時間に、わたしは感動する。学生時代に勉強をしなかったわたしに、神が与えし至宝の時である。その上、授業料なし。トキワ松教授と下落合准教授に深く感謝します。
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■見知らぬあなたにありがとう。 ■2012年1月27日 金曜日 13時55分36秒

正月早々、失策です。4日、クロスポイントの新年顔合せの日、小池番長と伊藤さんとわたしの3人は、渋谷の守護神、金王神社に参拝に行きました。清々しい気分です。神殿の中では、恰幅のいい社長と幹部の方々が宮司のお祓いを受けています。わたしはというと、兄弟、家族と愛犬のために祈り、お世話になった方々のために祈り、東北の復興、日本と世界の平和を祈りました。これで100円のお賽銭はないなと思い、もう100円を追加しました。横の社殿で、昨年けがをした妻のために健康祈願のお守りを買い、息子のためにお金が貯まるお札を買いました。穏やかないい日です。さあ、社員食堂の東横線渋谷駅のガード下「やまがた」でお神酒です。日ごろお世話になっているおばちゃんにも新年の挨拶をし、熱燗を差しつ差されつ、3人で新年の抱負を語ります。話題はやはり伊藤さんの結婚問題です。昨年の社員食堂での話題は、伊藤さんの恋愛問題。新年は話題も成長し、結婚問題に発展しました。小池番長の家庭は、かわいい奥さんとさらにかわいい二人のお子さんと、日々ほどよく仲よく暮らしている様子、だから結婚を薦めても、それなりに説得力があります。問題はわが家です。火宅のわが家の火宅のわたしですから、幸せな家庭づくりの話にまったく説得力がなく、伊藤さんはまるで寄席気分、一生懸命になればなるほどただ面白いだけ、そのうち話しているわたし自身も面白がってしまうのですから、どうやら伊藤さんの結婚の邪魔をしているのはわたしではないかと反省。でも、わたしはブレーキの壊れたトロッコ状態、もう止まりません。いつものことです。明るく、楽しく、気分よく。クロスポイントは、そういう小池番長の性格そのままの会社ですから、深刻になろうとしても、どうしてもなれない。伊藤さん、今年も結婚しないなあ。さて、気分よく帰ろうと渋谷西口からバスに乗ります。すると、「いま、どこですか?」というメール。リンクレコードの楠真由美くんと徳永くん。よし、と走りかけるバスを止め、二人と再び社食へ。おばちゃんに「あんまり飲んじゃだめよ」などと言われます。居酒屋でこの台詞はおかしいでしょう。もうひと騒ぎ。音楽は世界を救うとか、人間は歌がなければ生きてはいけないとか、話題はあっちへよろよろ、こっちへひょろひょろ、話に翼がはえて飛び回る。そして、次の店、はい次の店、と、「あれ、財布がない」と突然わたしは顔面蒼白。でも、酒を飲んでるから蒼白にならない。むしろ、真由美くんと徳永くんが「捜しましょう」と真剣。結局、見つかりません。銀行カード、健康保険証、東京診療センターの診察券、イラコクリニックの診察券、あっちこっちの診察券、ツタヤのポイントカード、フレッシュネスバーガーのポイントカード、モスバーガーのサービス券、1000円床屋キッズの会員カード、居酒屋一休の会員カード、いろいろな領収証、渋谷図書館のカード、とにかく火宅のわたしは流離人ですから、モンゴルの移動の民のごとく全部財布に入っています。お金もなくなった。家にも帰れない。まあ、歩けばいいか。と、真由美くんが「タクシーで帰ってください」と、5000円を貸してくれました。渋谷の夜に舞い降りた女神です。「すぐ警察に届けてくださいね」。なぜか、妻と息子へのお守りは失くさなかった。「あんた、カードを停止しなさい。保険証も悪用されるわよ」。妻は、心配しているのか、バカにしているのか。罵声を浴びつつ翌朝、銀行と警察に行って、ぺこぺこ頭を下げました。通帳と印鑑は無事だったけど、唯一の自分証明の保険証も財布の中。お金が下ろせない。窓口ですがるやら、区役所で保険証の再発行を頼むやら、大騒ぎ。と、ありました。財布、ありました。「渋谷警察です」。いつもならすぐ切りたい相手ですが、このときばかりは神の声。警察の2階の会計課で美人警察官から財布を受け取りました。東横線渋谷駅にあったそうです。届けてくれた方に熱く深く御礼申し上げます。「捨てる神あれば、拾う神ありですね」。伊藤さんが言います。見知らぬ神にありがとう。本当に助かりました。
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■真実へ。 ■2011年12月27日 火曜日 14時5分24秒

お猪口を片手に「イカの沖漬け」をつまみながら、元ジャーナリストの友人が、ヨーロッパで有名なテレビコマーシャルの話をする。「いや、報道とはかくあるべきだと思います」。渋谷ガード下、赤提灯が並んで風に揺れるクロスポイントの社員食堂だ。木枯らしがガード下を吹きぬける。それは、イギリスの新聞のコマーシャルだ。ニュースは、一方から見ただけでは決して真実が見えてこない。いろいろな角度、さまざまな視点から見て、大局を把握しなければ真実に迫ることはできない。そんな内容で3つのストーリーから成り立っている。もちろん、友人も直接見たわけでなく、他の友人から聞いた話だ。「うん、理屈はよくわかる。で、どういう映像?」わたしは先を聞く。「まず、最初のシーンはですね」。友人がいうにはこうだ。ごっつい大型バイクにまたがり、いかにも悪人という感じのひげ面男がゆっくりと通りを走っている。通りの反対側を走るクルマの夫人は、そのバイクの男が自分をつけ狙っているようで、びくびくしながら横目でうかがう。「うん、いわゆるアウトローな、無法者な、ならず者。マーロン・ブランド。古いねえ、わたしも」。「その通りです。太い腕にタトゥーって感じ」。これが、第1のシーン。「ナレーションが入っていますが、実はわたしも又聞きですからうる覚えですが、ひとつの視点はひとつのイメージしか与えない、そんなナレーションです」。友人はちょっと悔しそうに、でもにこりと笑い、空の徳利を掲げて追加を注文する。酒好きのわたしに気を遣い大徳利だ。「第2のシーンは、こうです」。突然バイクの男がスピードを上げた。夫人が見ていると、どんどんスピードを上げて行く。その先には、大事そうにバッグを抱えて歩く老人の姿が見える。案の定、男は老人のバッグを狙っているのだ。はらはらして夫人が見つめるうちに、バイクの男は老人に体当たりをした。「それが、2番目のシーンです」。「なるほどね。やはり、そうきましたか」。やはり悪だったか。ところが、第3のシーンで初めて真実が見えてくる。「実は、歩いている老人の脇のビルの屋上からガラガラと音を立ててブロックが落ちてきたんです、ガラガラと。バイクの男は鳥のように飛び、老人の体を包み込んで守り、壁に押し付けて助けたんです。そのままだったら老人は潰されていたんです。助けたんです、その男が」。わたしは黙った。鳥肌が立った。報道だけではない。物事は、いろいろな視点と角度から見聞きして、全体を見て把握しなければ、真実は見えてこない。人間関係はとくにそうだ。だれかがだれかを陥れようと思えば簡単な時代である。友人や同僚が、悪い風聞を流せばそれに騙される者も出てくる。一方から都合よく見れば、そう見えるのだから嘘ではない。ただ、そこに自分を正当化するために、仲間を裏切る悪意がある。折角総理になっても側近の仲間に足を引っ張られては、もうお手上げである。なぜなら、わたしたちはあのテレビコマーシャルのように、「3方、あるいはいろいろな角度から総理を見る」ほどの余裕もなく、それほどまで苦労し、時間をかけて真実に迫ろうとするイギリスの新聞のようなジャーナリストももはやいない。2011年の反省は、原発の報道に見られる、ある一方からの偏った報道によって生まれてしまった「不信感」「疑心暗鬼」である。真実は、あらゆる角度、すべての視点から見た事実の真摯な分析があって初めて見えてくる。一方から見ただけの事実は、「怖いバイクの男を悪人だと結論づけて」終わってしまう。実は「だれよりもやさしい、いい人間だという真実」は伝わらない。「真実は、だれかの都合であってはならない」のだ。「来年は、ていねいに生きたいですね」。友人がいった。2012年、謹んで新年のお喜びを申し上げます。
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■ことばとこころ。 ■2011年12月8日 木曜日 15時20分10秒

外国からいわせると「日本語はとてもむずかしい」のだそうです。世界では、ドイツ語が覚えやすく、英語がわかりやすいとされています。中国語も深く豊かです。もっともです。そのようにできているのですから。
ドイツ語には、きちんときめ細かな文法が決められています。それを覚えればいいのです。楽です、と谷崎潤一郎はいっています。(わたしはできませんが)。英語は、明解で、語彙が多く、卓越した形容法を駆使して細かい表現ができます。へミングウェイの「老人と海」の原文は実に見事です。(わたしは読めませんが)。だから、英語は、いいたいことがかなり正確に伝わります。中国語は、漢字の多さを見てお分かりのように表記文字が多様で、表意文字も多く、意味が深い。深い分だけ曖昧さはありますが、とても豊かです。
さて、わが日本語です。日本語は、一言でいうとあまりにも曖昧です。それが弱点であり、また長所です。曖昧すぎるから理解の仕方によっては、トンチンカンになる。外国人からいわせると「どう理解してよいのかわからない」のです。「なにを言っているのか分からない」「どちらにもとれる」のです。いわゆる腹芸が多い。「言わなくてもわかるだろ」これが日本語。「ツーといえばカーだろ」これです。相手の想像に委ねる。相手の理解に期待する。外国人どころか、現代の日本人は、いちいち想像なんかしてられるか、になっています。想像し、理解する暇も努力もない。テレビが、映像があるためにあまりに安易なコミュニケーションを展開し、「考えなくてもいいよ時代」を作ってしまった。テレビだけが悪いのではありませんが、相当テレビは悪い。作家三島由紀夫は、テレビ全盛時代が日本をだめにする、と危惧していましたが、まあそれに近い状態になりました。相手のいうことを理解する努力をしないで、わかるものだけわかればいい、面白いことだけ見ればいい、というお気楽安易なコミュニケーションが増えました。
さて、日本語が分かり難いとなれば、いちばん困るのは論文です。世界に論文を発表するには、日本語はまずだめ、曖昧すぎてわからない。そもそも、日本語の書きことばは、「源氏物語」「土佐日記」が始まりで、やまとことばという話ことばをそのまま書きました。そのやまとことばに漢語漢文漢字が入って混じった。やがてたくさんの外来語が流入してきて混じりあった。おかげで「ひらがな・カタカナ・漢字」が同じ一行のなかで表記できる。これが、実は日本語独特の繊細な、滑らかな、深みのある、艶かしい、美しい表現となっているのです。志賀直哉、川端康成、見事な日本語です。でも、むずかしい。なぜなら、表記が複雑な上に、文法がいい加減なのです。曖昧なこころを表現する曖昧なことばが多いあまりに、文法が追いつかないのです。やまとことばという文法無視の口語文が母体で、そこにわいわいと他国のことばが混じったものですから、文法を作る暇も能力もなかった。それではいけない、と教育のために文部省ががんばって文法を作るには作ったが、それほど緻密なものはできない。だからこの際、腹をくくりましょう。グローバル時代、日本語をわかりやすくするよりも、本来曖昧なこころの綾さえも見事に表現する日本語の美しさをしっかりと残し、その上で外国語を使うときはきちんと使えばいい。それだけのこと。日本のことばは、こころの表現です。こころの表現では、世界のどんなことばよりもすぐれています。これを大事にしましょう。ことばが乱れると、こころが乱れ、国が乱れるなどと心配しているのは、わたしだけでしょうか。
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■川獺見立て炙りいたちウグイ刺し網漁。 ■2011年12月8日 木曜日 14時56分44秒

(前号のつづき)
渋谷若木が丘、歴史学者トキワ松教授の研究室だ。鯉やフナのDNAにはなく、なぜウグイのDNAだけに川獺への恐怖が刻みこまれているのか、という話のつづきだ。
四国土佐の四万十川の漁師は、それを利用して、川獺に見立てた炙りいたちでウグイ漁をする。
血糖値を気にする教授は焼酎をお湯で割って飲み、わたしは日本酒を飲んでいる。どちらの酒も、教授が書籍の山を猟師が獲物をさぐるがごとくごそごそ掘り起こして引っ張り出してきたものだ。つまみの柿ピーも書籍山脈から発掘した。
「バングラデシュの川獺漁は、飼いならした川獺で魚を網に追い込む追い込み漁です。水中でくるくる泳ぐ川獺、逃げ惑う魚たち、これは想像するだけでも愉快な漁法だ。得意顔の川獺、慌てふためく魚たちが目に浮かんでくる」。教授が笑う。
「バングラディシュの漁師と四万十川の漁師に文化交流があったのでしょうか。四万十の猟師は、バングラディシュの漁師に漁のこつみたいなものを教わったのでしょうか。ジョン万次郎のように四国に流れ着いたバングラディシュの漁師が伝えたとか」。
「いや、それはわかりません。そうだと面白いのですが、そううまくはいかないでしょうね」。
そこでまた教授はにんまりとして、焼酎を一口飲む。
「川獺は日本にもいます。全国にいます。四万十川にももちろんいましたが、いまはいません。その事実からすれば、四万十川の漁師が、川とともに暮らすうちに学び取った独自の漁法だと考えるほうが正しいでしょう」。
「なるほど。で、話はウグイに戻りますが、ウグイたちにはその恐怖の記憶があると。川獺の恐怖を炙ったいたちで思い出させるという」。
「そうでしょうね」。
「でも、なぜ鯉やフナにはその記憶がないのでしょう」。
「そこは不明です。ただ、ウグイは、鵜が食うという意味で名前がつけられたという説もあるくらいで、群れで泳いでいますから、川獺のかっこうの餌ではあったのでしょうね」。
たしかに川獺は日本全土にもアジアにも棲息していた。四国土佐にもいた。でも、最後の川獺が確認されてからすでに相当の月日が経っている。
わたしが興味をもつのは、全国にいた川獺を、なぜ四万十川の漁師だけが漁に活用したか、にある。全国の漁師にそのチャンスがあったというのに、だ。そして、川獺がいないいま、川獺に見立てて炙りいたちを使うなど、だれがどうして考えたか、である。
また、鯉だってフナだってある時期川獺に追いまくられたと考えれば、なぜ、彼らに恐怖のDNAが残っていないのか、ということだ。まさか、ウグイだけが記憶力がよく、鯉やフナは記憶力が悪いわけではないだろう。
「面白いでしょう。地域文化にはそういう面白いものがたくさんある」。
焼酎をグラスに注ぎながら、教授はにこにこと笑う。時の経つのを忘れて教授は話をすすめる。
「地域文化を大切に守ることが大事でね。それが日本を知ることになりますからね。地域文化は、その地域に根ざす植物と同じで、風、土、水、気候、それらすべての決められた条件のなかで、芽生え、育っていくものです。だから、植物の研究をすればその地域文化が見えてきます。ほら、うちの大学の得意分野に万葉集の研究がある。万葉集を理解する上でも、植物を知れば、より深い理解が生まれます。植物を観察し、風を知り、土を眺め、水に尋ねる。これを大事にしたいですね」。
四国の観光課のホームページをのぞいてみると、冬の時期に「ウグイのいたち漁」の記事が乗っている。教授もこの漁についての論文を書いている。読んでみようと思う。だが、今宵はトキワ松教授との楽しい会話だけに酔いしれよう。大学研究室で酒を飲むのも、わたしにはうれしい経験であるのだから。「わたしの話は、与太話です」。先生はそういって、次に、後ろの書籍の山から火縄銃を持ち出すのだった。
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■川獺見立て炙りいたちウグイ刺し網漁。 ■2011年12月8日 木曜日 14時55分58秒

渋谷若木が丘、歴史学者トキワ松教授の研究室だ。すでに西の空に陽は落ち、隣接する氷川神社の杉木立は深い闇のなかにある。研究室に灯りが灯る。部屋の中央に四角いテーブル、三方は書籍の山である。残る一方に窓があるがその窓さえ潰さんばかりの書籍書籍である。それら書籍の山脈が、いかにも大学教授の研究室といった雰囲気で背筋がほんのりこそばゆい。だが、正気にもどってよく眺めると、なにやら渋谷の古本屋の2階に似ていないでもない。
「酒、なんにする?ビール?日本酒?焼酎?」と、教授が聞く。
大学の研究室で酒を飲むなど、昭和時代の頑なな学者を想像させ、学問だけしっかりやっておけば後はまあいいよね、という無頼な香りがしてうれしくなる。デスクの脇の書籍山脈を、猟師が獲物の巣を探るがごとくがさごそと教授は手探りし、薄紙に包まれた広島の酒「酔心」をつかみあげる。次に横の山脈をごそごそやるとつまみが手に握られている。まるで手品師である。放っておくと書籍の山から白い鳩を取り出すかもしれないと期待するが、それはなかった。
「ところで先生、さっきの四万十川のウグイ漁の話、あれ、面白いですね」。
「そう、その話、それでね、いたちをね」。
教授の話はこうだ。四国土佐、四万十川の寒い季節、漁師はまず川原に木材を積み上げ、焚き火を起こす。身が引き締まる清澄な空気と冷たい流れ、ぱちぱちと音を立てて燃えあがる焚き火。やがて漁師は、どこからかいたちを取り出す。もちろん生きてはいない。敷物のように両手両足を広げたいたちの毛皮だ。それをおもむろに火にかざす。炙るのである。焼いてはいけない。焦がしてもいけない。炙るのである。その加減も漁師のカン、秘伝なのである。やがて、うっすらといたちの匂いが川原に漂う。頃合を見計らって、漁師はざぶざぶと川にはいっていく。竿先にロープで結わえた炙りいたちを手にしている。これでウグイが獲れるのか。単純な疑問を抱く。川なかの岩場には、前もって網が張られている。寒さのため、魚たちがじっと息を潜める岩場である。岩場の周囲に棒を立て、網を張る刺し網漁だ。ざぶざぶと岩場に歩み寄った漁師は、ざんぶと炙りいたちを岩場に突っ込む。さあ、魚たちは泡を食う。餌を食わずに泡を食う。右往左往。どうしたどうした、なにごとだと大騒ぎ。だが、ここで不思議なことが起こる。同居する鯉やフナは、騒ぎはするがパニックは起こさない。恐怖の極に達し、パニックに陥るのはウグイだけである。パニックに陥ったウグイはもうがむしゃらに岩場から飛び出す。そして、待ち受ける刺し網に端からかかる。そういう寸法である。鯉やフナは網にかからない。
「先生、なぜウグイだけがパニックに陥るのでしょうね」。
「そこです。炙ったいたちの姿形なのか匂いなのか、それがウグイの恐怖心をあおる」。
焼酎をぐびりと一口飲み、ピーナッツをカリカリかじりながら、教授は吉本の芸人のごときにっこりとしたり顔を見せる。
「もしや、川獺と勘違いしているのでは」と、わたしは尋ねる。
「まさにその通り。わたしの仮説だが、川獺にたいするウグイの恐怖心です。いたちは、ウグイに川獺を思い出させる。それを漁師たちが利用する。それが、この漁法です」。
鯉やフナにはそのDNAのなかに川獺への恐怖がない。だから、炙ったいたちを目の前に突きつけられても、なんだなんだですむ。好奇心がむずむずと背筋を走る。もうお気づきのことと思うが、ウグイだけがなぜ川獺を恐れるDNAを抱きつづけているのか、という好奇心だ。まさか、ウグイの長老が、若いウグイ連中に「川獺にはよくよく気をつけろ」と注意をしているわけでもあるまい。メダカの学校はあるがウグイの学校はないから、先生が生徒に教えていることもない。
「バングラディシュに川獺を使う漁法があります」と、教授。
「バングラディシュと四万十川の漁師およびウグイとは文化交流があったのでしょうか」。まさか、である。
(さて、話はこれからですが、文字数に限りがありますので、このつづきは次回に)。
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■銀座マツヤ、芸術びより。 ■2011年10月14日 金曜日 15時5分23秒

いくつか台風が過ぎゆき、秋が突然訪れたその日、銀座マツヤがはじけるように笑った。南風がやわらかく吹く明るい朝だ。テラスでコーヒーを飲んでいると、テレビの向こうから青空を吸い込むような笑い声が響いてきた。ふりむくと装飾粘土工芸DECOクレイクラフトアカデミーの主宰「宮井和子」先生が局アナに指導している映像が流れている。主婦から世界的芸術家へ。テレビは、先生をそう紹介している。設立30周年記念の作品展を見るために午後に銀座マツヤに行く予定だったわたしは、その偶然に思わず画面の先生の笑顔に引き込まれる。午後の銀座の空は青く高く、雲ひとつない。新橋からぶらぶら歩く。頬に当たる風が、心地よい冷気をふくんで清々しい。8丁目の博品館の前を通り資生堂前の交差点をのんびりと渡る。大きなダンボール箱をもった中国人が観光バスの周りを大騒ぎしながら闊歩している。ダンボール箱のなかは電気製品だ。日本製の電気製品は中国では評判がよいと聞いているが、なるほどその通りだ。キャノンの高級カメラで銀座のあちこちをパチパチと写している。笑っている。大声でしゃべっている。「中国人は、元気です」。顔なじみの喫茶店の店主がいう。「かつての日本もこうでした」。わたしは店主にいう。元気のいいのはいいことだ。とくに銀座は、にぎわってこそ銀座だ。風に揺れる柳が「この街には国籍なんか関係ないからね」、と耳元でささやく。マツヤに行き、旧式のエレベーターで8階まで上る。受付前は驚くほどの混雑ぶりである。マツヤの床が抜けるのではないか、と本気で心配する。一日5000人が訪れるという作品展。それが6日間。なるほど、百貨店も顎がはずれるほど笑うはずだ。人波にもまれながら妻の姿をさがす。妻は宮井先生の弟子で、わが家のアトリエでクレイクラフトを教えている。受付の脇には贈答の花々が天井まで飾られている。黒柳徹子の飾り花が大きく立ち上がり、徹子の部屋の番組からのランの花が脇に並んでいる。花の山の前で宮井先生は、ファンの方々と記念撮影をしている。入れかわり立ちかわりのみなさんと並んでカメラの前に立つ先生は、太陽のように笑っている。木場の材木屋の次女として生まれたと聞くが、まさに下町の太陽だ。その輝きはいま、世界を照らしている。長く生きていれば、人はだれでも艱難辛苦、ときに修羅さえ味わう。先生でさえそうであろう。だが先生は、それらを笑いの湖底深く沈め、太陽の笑顔を見せる。わたしがカメラを向けるとそれに気がついた先生は、顔が壊れるほどに相好を崩し、歩み寄ってくる。「今朝、テレビで美人をみました。先生でした」。そういうと、先生の顔はもっと壊れてしまった。世界的芸術家となっても気取りを知らず、生まれたまんまである。クレイクラフト技術だけでなく、この飾らない無垢の笑いをこそ世界に広めているのだと思った。弟子たちが学んでいるのは、この幸せの笑顔なのである。部屋をめぐり、見事な作品群を見ているうちに「芸術とは」と、その昔作家の開高健先生が語っていたのを思い出す。「セニョール」。開高先生の言葉はそれから始まる。「芸術とは、魚釣りの疑似餌だ。フライフィッシングの疑似餌よ。川虫に似せて、本物の川虫を超える。一直線で純粋な魚の天然の目を見事にあざむく。本物以上である。似せて創り、本物を超える。これが芸術でなくて、なにが芸術であるか」。そういう。クレイクラフトは、まさにそれである。花を超えた花を作り、町を超えた町を創り、物語を超えた物語を創る。この芸術を世界に広める原動力となったお嬢さんの「宮井友紀子」先生が受付前で美しく笑っている。横にハンサムなオハイオ出身の婚約者がいる。「おはよう、オハイオ」としゃれて握手を求めると「おやじギャグです」と突っ込まれた。気分のよい青年である。「いやはや、たいしたものやで」。こちらも世界的アーチストであるアートディレクターの松本隆治氏が関西弁でいう。「力があるで」。わたしはうなずく。外に出る。その日、銀座は、おだやかながらすこぶる活気のある芸術びよりとなった。
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■三人の「チェ・ジウ」。 ■2011年10月3日 月曜日 16時12分38秒

ユン・ソクホ監督作品「冬のソナタ」は、日本における韓国ドラマブームの火付け役となった。その後、多くの韓国ドラマが日本で放映され、続々と女優が登場することとなったが、なんといっても冬ソナの「チェ・ジウ」は別格である。女性たちは「ヨンさま」と叫ぶが、男たちは心の恋人「チェ・ジウ」に想いを寄せる。ずいぶん昔のような気がするが、小泉純一郎元総理も現役時代に「チェ・ジウ」と対談し「あなたの島、チェジュ島に行ってきました」とシャレのつもりでトンチンカンなことを言い「チェ・ジウ」本人がなんのことやらわからないまま愛想笑いでその場をつくろっていた記憶がある。その「チェ・ジウ」が渋谷にいる。それも、三人も束になっている。目移りがして仕方がない。実は、昨日も会って、キョロキョロ目移りしてきたばかりである。渋谷、東急東横線駅下に「クロスポイント」の社員食堂がある。そこは古くからある居酒屋で、以前、伊藤さんが前の会社の後輩である美しき係長とホッケ定食をつつきながら恋を語った店である。「チェ・ジウ」は、そこにいる。国道246号に沿った細長い店で、紅白の提灯がずらりと軒先に並び、風に吹かれながら一斉に手招きをするものだから、客たちは昼夜関係なくふらふらと吸い込まれる。小池の番長も伊藤さんもわたしも、ふらふらと昼も行って夜も行く。「チェ・ジウ」がいるからではなく、社員食堂だからだ。昼に秋刀魚定食を食べた日は、さすがに夜のメニューは別のものに変える。熱燗と白菜キムチ。冷奴もいいし、イカの沖漬けもうまい。われらは、真夏でも真冬でも熱燗である。「チェ・ジウ」は、昼はいない。4時出勤である。まず、中国福建省の「チェ・ジウ」が熱燗を運んでくる。すらりとした長身である。「熱いから気をつけて」。必ずそう言う。毎回毎回やさしくそう言って、頭を少しかしげて微笑む。番長も伊藤さんもわたしも、ついついその微笑を見たさに「熱燗、もう一本」と追加を頼んでしまう。「熱いから気をつけて」。「ほら言った、ほら言った」。なんともおとな気ないおとなたちである。二人目の「チェ・ジウ」は、ミャンマー出身である。いつも黒っぽい装いで長身を包み、毅然としている。愛想が悪いわけではなく、顔のつくりといい、表情といい、注文のとり方といい、どこか凛々しいのである。「熱いから気をつけて」なんて言わない。ミャンマーが暑いせいか「熱いのなんてなによ」といわんばかりである。番長がお新香を頼んでも、大会社の秘書のように直立不動の姿勢で立ち、社長のスケジュールを能率協会の大型手帳に書き込むように、「お新香、一つ」と伝票に書き込むのである。三人目の「チェ・ジウ」とは、最近出会った。最近まで気づかなかった。奥の厨房にいる。福建省からきている。二人の「チェ・ジウ」ほど長身ではなく、小柄で愛くるしい。いつもかいがいしく動き回っている。厨房の前を通ってトイレに行くときに目が合うと、満面の笑みを浮かべてピョコンと頭を下げる。グレイのTシャツにエプロン姿がなんとも可憐である。おかげで行きたくもないトイレに何回も足を運ぶ男たちもいる。わたしだけか。「このイカの姿焼き、あのこが焼いたんだ」。そう思うだけでもおいしさがちがうのである。だが、われらは幸せだけに浸っていられない。とくに伊藤さんは、この三人の「チェ・ジウ」のことは、美しき係長に内緒にしておかなくてはならない。なんといってもこの社員食堂は、伊藤さんと係長の唯一のデイトの場なのである。そういえば、「チェ・ジウ」の登場以来、伊藤さんは係長を渋谷に招待していない。きっとやましい気持ちがあるからだ。さて、番長と二人でゆっくりと伊藤さんの恋の行方を見ていようか。台風が渋谷の街路樹を倒して過ぎ去り、急に涼しくなった。いよいよ本格的な熱燗の季節。今宵も、「熱いから気をつけて」の声を聞きに行こうか、と三人で話している。
■待ってるひとがいる。 ■2011年9月20日 火曜日 15時31分17秒

司馬遼太郎さんを知ったのは、司馬さんの小説「龍馬がゆく」だった。多くの男たち同様、わたしも坂本龍馬の自由闊達な生き方に心うばわれているひとりだが、なかでも司馬さんの龍馬は、目の前に竜馬がいてこちらに語りかけてくるようで、竜馬と行動をともにして国を動かしているような錯覚さえ覚えたものだ。その司馬さんの「街道をゆく」にのめりこんだのは、つい最近のことだ。司馬さんは「司馬史観」と称される独自の歴史観を展開し、単に学問としての歴史学をこえて生きた歴史をわれらに提示してみせるが、「街道をゆく」は、生きた歴史をご自分の足と手と目と耳と心で再確認する旅だと感じさせる。司馬さんは、大阪外語大でモンゴル語を学び、戦争にかりだされ、帰国後産経新聞の文化部の記者となったが、その心には常に「日本とは?」「日本人とは?」という大命題を抱えていた。その答えを頭ではなく、全細胞でつかもうとしたのが「街道をゆく」であったのではないだろうか。司馬さんは、街道を歩いて、道行くおばあさんに聞いた。道行く子どもに尋ねた。「幸せですか?」「楽しいかい?」と。おばあさんの笑顔に1000年の歴史を司馬さんは見る。無邪気に走りまわる子どもたちに1000年の未来をうかがう。それが司馬さんだと、わたしは勝手に思って尊敬の念を深めている。「街道」とは、国語辞典的にいうと「街と街をつなぐ道」ということになる。そこには人のくらしがぶ厚く集積されている。一分一秒の間断もなく、連綿と生命はつながれている。時は、流れるのではなく積み重なるという。風にさらされ、雨に打たれながら、生命たちは脈々とつながれている。「街道」わきの名もない草花に、道端の石ころに、吹く風に、足元の土に、人々は生命を刻んで生きてゆく。そして、今日も明日も刻みつづける。「街道」には、古き懐かしき町並みが、毅然と生きつづけている。見事な甍や白壁が、旅ゆく者に語りかけてくる。ふと目をあげ佇み、心の耳をすますと、おだやかに、ゆっくりとその声は聞こえてくるのだ。「街道」には、神社仏閣がある。城がある。人々の祈りと願いがあり、戦いがあって、勝者と敗者がある。丘の上の城を見上げれば、さむらいたちの雄たけびと悲痛が訴えかけてくる。「街道」には、山河がある。ひとのくらしのために切り刻まれた山は哀しく、せき止められた河は哀れだが、それもひとのくらしかと思うしかない。ひとは、どこにでもいて、文化を築く。それを感じてみたいと思う。司馬さんのように、感じるために「街道」の旅に出てみたいと思う。母の故郷である信州の山河をゆっくりと眺めてみたい。妻の故郷であるつくばのみなさんとゆっくりと酒を酌み交わしてみたい。そういう年齢になったのか、それとも司馬さんが「それが大事な生き方だよ」とおっしゃっているのかわからないが、わたしは自分の心の原稿用紙に自分なりの「街道物語」を書いてみたいと思う。山口百恵の歌のように、「日本のどこかで、わたしを待ってるひとがいる」。そんな気がしてならないのは、ひとつの季節の終わりだからだろうか。
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■惜春。 ■2011年9月20日 火曜日 15時18分58秒

 青春は、一瞬にして蘇える。街も人も一変した。だが、若木が丘に立ち上る雲は、あのころのままに流れ、氷川神社の木々を揺らす風は、あのころのままに吹いている。50年の歳月を超えて、男たちは渋谷にいる。少年のように笑っている。1合25円の合成酒が1杯600円の酒になり、10円の焼き鳥が300円になったが、心にはあの懐かしい校歌が流れ、下駄のひびきが耳に残っている。
 バンカラという言葉もすでに時代の彼方に消え去った。K學院大學空手道部監督、9代OB次呂久英樹、同期9代、長崎在住の山村彰、同期元武道館事務局長の武道家、青木勝彦。3人はいま、70歳の少年だ。000000
「地方にいるとわからないことだが」。数年ぶりに渋谷に出てきた山村が二人の顔を見て言う。「こんなに部員が少ないとはな」。山村はきょう、次呂久とともに道場に行き、現役部員の稽古を見た。部員は8人しかいない。春には3人しかいなかった。かつて、100人を越える部員を擁し、全日本選手権をも制した強豪K学院空手道部はいま、存亡の危機に瀕している。「時代かな。さびしい限りだ」。ぼそりと言う。
 「だが、あの8人ががんばる。おれにはあと1年しか時間がないが、必ず彼らに悔いのない空手人生を伝える。優勝も狙う。監督としてのおれの役目だ。それが次につながることを願うだけだ」。次呂久が言う。000000000「60年の伝統か」。青木が杯を口に運ぶ。
伝統とはなにか。「紫の魂」と書いて「しこん」と読む。
初代小倉基が創設した空手道部の精神をこめた伝統の言葉だ。そこには、大学の4年間、同じ道場で血と汗を流した男たちの熱烈な思いが綴られている。同じ釜の飯をともに食い、未熟な青春の艱難と辛苦を、ひたすら拳にこめた者同志が知る熱い思いがある。未熟がゆえにもがいた。迷った。迷いを吹き飛ばすために、夢中で突いた。蹴った。空手が正しいか、空手道部にいていいものかどうかさえわからずに、ただがむしゃらになにかを求め、拳にすがった。拳を信じた。若く貴重な4年の歳月を注ぎこんだ。
「鬼の次呂久が、仏になったか」。青木が、お新香をつまんで笑う。「あれは、若気の至りよ」、次呂久が手を振る。沖縄石垣出身の天才空手家はいま、穏やかな笑みを浮かべて世の中を見ている。その涼しい目が後輩を見、己が人生を見ている。
「渋谷は楽しかったな」と、山村が言う。「やんちゃだったな」、青木が言う。「おまえこそ」と、次呂久が受けて返す。「おまえもだよ」、青木が山村に笑って言う。「みんな、やんちゃだったよ。それが若さだ」。青木の言葉を、ぶり大根を運んできた三漁洞の女将が微笑ましく聞いている。
三漁洞は、 クレージーキャッツの石橋エータローの店である。割烹着姿の美人の女将は、エータローの奥さんだ。エータローの父が福田蘭童、その父が天才画家青木茂である。店は釣り好きの欄童にちなんだ名であり、奥の壁には青木茂の直筆の絵が飾ってある。
「日本はどうなる?」「どうなる?ではなく、どうするか、だ」。「日本の精神とはなんだ?」「それを伝えるのが、おれたちの役目だ」。「まず、信頼だ。人を信ずる人間を育て、人に信じられる人間を育てることだ」。「いまのままで、日本は世界に太刀打ちできるか?」「龍馬のような男はいないか?」。「あいつは、金儲けのうまい愚連隊だ」。「勝海舟には思想がない。ありゃ、だめだ」。頭上を走る東横線は、来春、東口に駅を移す。話は尽きない。夜は更ける。雑踏は去らない。「おれは、ぶりは食わない」。青木が達磨のような目を剥いて、頑固に言い張る。「じゃあ、もっと刺身を食えよ」。次呂久が笑う。いい夜だ。渋谷は、あのころのままだ。こいつらは、あのころのままだ。二人を見てそう思う山村もまた、あのころのままだ。
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■原田芳雄さん ■2011年8月2日 火曜日 10時10分55秒

俳優原田芳雄さんが亡くなった。若き日、原田さんの野生の風貌と知性あふれる会話に魅せられ、原田さんが吸っていたタバコ「ミスタースリム」を以後ずっと吸い続けていた。髪を伸ばしてパーマをかけ、サングラスをかけて原田さんを真似て六本木の夜を彷徨った。
日活映画では刃物のように鋭い悪役を演じ、その存在感は主演俳優を食ってしまった。原田さんは悪役をやっても知性があった。男っぽさと知性の共存といえば、全学連の闘士を思い起こさせる。原田さんにはその雰囲気があった。正義の匂いがあった。権力に屈しない魂があった。日の当たる場所に出ない謙虚があった。それは男のテレだ。
石原裕次郎は不良を演じながら、田園調布のお坊ちゃん役もこなした。原田さんにはお坊ちゃん役はこなせない。してはいけない。裕次郎にはいつも演じている見事さがあって、それが最大の魅力だった。だが、原田さんはリアルだ。演じていない。演技以上の演技。人間性が演技を超えた。裕次郎のドリームに対し、原田さんはリアルだ。裕次郎の湘南に対し、原田さんは房総だ。明るい太陽の裕次郎に対し、原田さんは、いまにも嵐になりそうな重く厚い雲だ。そのリアル、その存在感にファンは魅了された。
原田さんにインスパイアされた松田優作もまたわたしの好きな俳優だ。松田優作にも原田さんと同じ匂いがあった。存在感だ。原田さんのテレビドラマもよく見せていただいた。若き原田さんがカメラマン役で、若き麗しき浅丘ルリ子さんとまどろっこしい恋をするドラマがとても好きだった。原田さんが子どもといっしょにいるシーンが印象的だった。乱暴に子どもを愛するシーンには、男が男に伝える美学があった。ドラマの主題歌「黄昏トワイライト」をよく口ずさんだ。
「龍馬暗殺」の原田さんは、他のだれよりも龍馬だった。原田の前に龍馬なし、原田の後に龍馬なし。晩年の原田さんの「火の魚」もすばらしかった。都会を離れて島で暮らす偏屈な作家の役だ。病気で倒れた若い女性編集者のために花束をかかえて見舞いに訪れるシーンは胸に迫った。死にゆく人に生き残る人間が命の話をする。そのもどかしさに、23年前に死んだ弟になにもできなかった自分の姿が重なった。死にゆく人になにもできない人間の非力は、無常の悲しみを悟らせる。
原田さんは、きっと頑固な人だ。人は、強い信念を持つと頑固になる。だが、原田さんは、ただの頑固ではない。人を愛し、人を思うやさしさに「仁」があった。仏教でいう「慈悲」だ。「仁」のある頑固は、美しい頑固であって、ただの頑固とはまるで違う。わたしの友人に花木薫というCMディレクターがいる。飛騨高山の出身で、映像製作会社の社長をしている。数年前、原田さん主演で熊本県の映画をプロデュースした。飛行機嫌いの原田さんにつきあって列車で熊本までいっしょに行った。原田さんに負けず劣らずごつくてやさしい男である。
花木さんは「おれ原田芳雄に似てるんだ」とうれしそうに言う。男たちは、裕次郎にも似たいと思うが、また、原田芳雄にも似たいのだ。原田さんには、そういうところがあった。男たちがあこがれる男の美学があった。作家立原正秋のいう男の美学、武士の美学がまさしくあった。おそらく、女にはわからない性質のものだ。ありがとう原田芳雄さん。またひとつ、わたしの心の星が消えた。来年の春、桜の花は咲く。だが、あなたはもう咲くことはない。それが、悲しい。
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■穂高の真実 ■2011年7月14日 木曜日 13時1分1秒

都会は、人を裏切るずら。山は、けっして人を裏切ったりしないかんな。穂高の案内人の嘉さんが、太陽に焼けたしわくちゃな顔に懐かしい笑みを浮かべて言う。上高地は何年ぶりになるだろう。バス停でバスを降り、見上げると青空を切り裂くように穂高が眼前に迫っている。ここでバスを降りりる客は明らかに二分される。上高地を終着点とする観光客と、上高地をスタート地点として穂高を目指す登山家たちだ。観光客たちは軽装で、パンツスタイルに底の浅いパンプスを履き、数人のグループが大声で笑い合ったり、河童橋あたりで写真を撮ったりしてはしゃいでいる。年配者が多く、女性が多い。
登山家たちは、寡黙である。重いザックを背負い、重装備で、黙々と小梨平を抜け明神から徳沢に向かう。嘉さんは、バスターミナル広場近くの旅館の土産物売り場で待っていてくれた。店の前の縁台に座っていたが、わたしの姿を認めるとうれしそうに立ちあがった。「わざわざすみません」。わたしは帽子を取って頭を下げ、迎えに出てくれた礼を言う。「なに、歩荷もあったしさ、ついでよ、ついで」。そう言う嘉さんの横から、旅館の番頭の清水さんが、「嘉さん、朝からずっとここで待っててさ。お茶を何杯もおかわりしてな。今日はバスが遅い、なんで遅いんだなんて、おらに文句ばかり言ってね。おら、バスの運転手じゃないって言うのによ」と笑い、「でもよく来なすったね。うれしいよ。なんと言ってもおらたちは山の仲間だかんな」と、わたしの手を何度も握る。
若い学生が歩荷の手伝いをしている。わたしが学生時代にやっていたアルバイトである。井上靖が「氷壁」という小説を書いた徳沢園で、わたしは何回かの夏を過ごした。夜、嘉さんに酒を飲みながら山の話を聞き、昼は歩荷を手伝った。だが、わたしは登山家ではない。山に登る苦労を楽しみに変えるほどの根気も勇気もなく、ただ涼しい所で何も考えずに体を動かすことで夏を過ごした。嘉さんはそんなわたしをかわいがってくれた。
「氷壁」は、主人公とその親友の人間の信頼を、切れたザイルを通して問う物語だ。二人をつなぐザイルが切れた。切れるはずのないザイルが切れた。本当に切れてしまったのか。人妻に恋をして悩んでいた親友が、自分でザイルを切って自殺したのか。世間では、主人公が自分の命を救うために、親友が滑落してぶら下がるザイルを切ったのではないか、と言う者もいる。主人公は、親友を守り、人妻を守り、親友の自殺説を徹底して否定する。そんな男ではない、と頑固に守る。
実験では、ザイルは絶対に切れないとの結論だ。残るは、主人公がザイルを切った、という可能性だけだ。自分の立場が極めて不利だ。だが、それでも、彼は親友を守る。わたしは、この魚津恭太という男が好きである。自分が不利となっても、友を守る。けっして言いわけをしない。潔い。確かにザイルは切れ、友は死んだ。真実は、穂高だけが知るのだろうか。わたしは、穂高を見上げながら思う。わたしは、自分が不利になろうが、友を守る男だろうか。また、友は、わが身が不利になろうが、わたしを守る男だろうか、と。けっして言い訳をせずとも、真実はわかるのだ、と魚津恭太のように潔く生きていけるのだろうか。「都会は、人を裏切るずら。山は、けっして人を裏切ったりしないかんな」。明神館を過ぎて梓川沿いの深い山道に入った。穂高が真近に見えるところでリヤカーを止めて、山を見上げて嘉さんが誰にともになく言う。嘉さんの言葉は、穂高の言葉だった。「しばらく山におれや」。そう言ってわたしの顔を見る。「都会に帰らなくてもいいずら。正直者に都会はむかんよ」。穂高に抱かれて、わたしは泣きたくなった。
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■係長に恋をした。 ■2011年7月6日 水曜日 14時52分16秒

陽のあたる坂道を上って、係長はやってきた。春には、ピンクのトンネルとなる桜並木の坂である。渋谷駅西口、国道246号線を越えると、地名も渋谷区桜丘となり、桜通りは特に桜の美しいところである。
係長は、浜松町から伊藤さんに会いにきた。梅雨の晴れ間の猛暑の日だ。二人は、東急線ガード下の山形屋で昼飯を食べ、その後坂を上って番長の事務所に向かう。上野の小学生か中学生が10数人、熱中症で病院に運ばれた日である。午後の陽ざしは肌を射すように熱く、桜の木々がレンガの坂道に深い影を刻んでいる。時折風が吹くと影が揺れる。木漏れ日がちらちらと動く。その影を踏みながら、係長は幸せな気持ちでゆっくりと坂を上る。久しぶりに会う先輩は、むかしと変わらずやさしかった。渋く、そのくせ少年のように笑う表情もむかしのままだ。
先輩とは伊藤さんのことだ。交通媒体を売る広告代理店の営業係長である彼女は、素直な黒い瞳をもっている。ふくよかなそのオーラは、かの山口百恵のような菩薩の雰囲気だ。あとで伊藤さんにそういうと、伊藤さんはにんまりと笑った。まったく否定しなかった。それより、わが意を得たり、とばかりに相好を崩した。どうなの、仕事は?わたしは係長に尋ねる。このご時世ですから、やはりね。係長は軽く眉をひそめるが、すぐ笑顔をとりもどし、でも頑張ります、と答える。伊藤さんが、うまいコーヒーを入れる。二人は、広い窓の見える席に並んで座っている。営業ですからお客さまの頼みはなんでもお応えしたいので、いろいろなお話がきます。いま、吉祥寺に物件を探しています。化粧品のお店です。自分の机でパソコンに向かい、翌日の横浜商店会のプレゼン企画を考えていた番長が、いい不動産屋を紹介しようか、と振り向いた。お願いします。番長が電話をし、すぐに話が進んだ。番長は、販促の企画だけでなく、いろいろと面倒見のいい男で、屋形船の企画なぞ朝飯前である。窓の外の向いのビルの円谷プロでは、スタッフが忙しく動き回っている。暑い陽ざしは一向に衰える気配がない。
時代を反映するような新しい媒体は、なにかないの?わたしは聞く。いま、デジタルサイネージが興味深いですね。電子看板ね。そうです。これからもっと効果的に使われるようになるでしょうね。成功と失敗を繰り返しながら、時代は新しい価値を生んでいく。デジタルサイネージは、大きな可能性をもっている。わたしもそう思うが、新しいものが社会に理解されるには、ある程度の時間が必要である。
われらは、被災地の話をし、思いを馳せる。われらにできることは精一杯やりたいね。係長は、まっすぐに視線を向けて大きくうなずく。被災地のために広告ができること。それを話す。係長の、伊藤さんを見る目が熱い。今日の暑い陽ざしに負けないくらい熱い。伊藤さんの、係長を見返す目が熱い。その夜、番長と伊藤さんとわたしは、246号線近くの富士屋本店に立ち寄る。立ち飲み屋である。伊藤さんは、今年47歳。これまで結婚をしていない。バツいちでもない。きれいな体である。係長とは20歳くらい歳は離れている。愛に年の差はない。番長とわたしが、叫ぶ。鹿児島出身のラストサムライ伊藤さんが、節電で熱い地下の店で笑う。280円の寒梅の熱燗を、番長とわたしの御猪口に注ぎながら、いかにもうれしそうである。渋谷がいま、変わりつつある。もしかしたら、係長と伊藤さんの運命も楽しく変わるかもしれない。係長、また、陽のあたる桜の坂道を上っていらっしゃいね。
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■井上くん恋事件。 ■2011年6月16日 木曜日 16時12分43秒

「あなた、キライです」。初対面の若い娘に突然そういわれたのは井上くんだ。渋谷、ガード脇ののんべえ横丁の飲食処「はな」である。6人で超満員の、いたずら小僧のおもちゃ箱のような店である。この横丁は、そういったおもちゃ箱を寄せ集めたような村だ。だれもが安堵する時代遅れがいきいきといまも息づいている。
「はな」には、驚くほど若く美しいママが3人いる。いうなれば「日替わりママ」である。デニーズのランチのごとく日替わりである。野球のピッチャーと同じで、ママのローテーションだ。だから、店に行って「お、今日はこのママか」というあん梅で、それがまた面白い。ただ、「はな」のママは、ピッチャーのように、先発、中継ぎ、抑え、といった途中交替はない。3人とも先発完投型である。
さて、井上くんの、恋の行方だ。その日、わたしと小池番長、伊藤さん、井上くんの4人は、渋谷の販促会社「クロスポイント」で打ち合わせ後、軽くビールを飲み、ネオンの誘惑に誘われて駅前を風になってふらふらと横丁に向かった。「はな」のオープンの日であり、律儀な鹿児島ラストサムライの伊藤さんは、鹿児島焼酎「伊佐美」の一升瓶を手にぶらさげている。店に着くと先客が席を譲ってくれた。なんせ6人で超満員の店だ。おもちゃ箱だ。われらは、押し寿司のようにぎゅうぎゅうと詰まって座る。一番奥に、銀座にアロマセラピーのサロンをもつ社長がいて、その隣に「井上くん恋事件」の主犯の若い娘がいる。若い娘といっても化粧品メーカーの社長である。その隣が伊藤さん、その横に番長がいて、カウンターに沿ってがくんと曲がって、井上くん、わたしが座る。まあまあ乾杯と全員がグラスを掲げ、ぐぐっと飲んで一息ついたところで、例の娘が「わたし、あなたがキライ」と、井上くんに向かって叫んだ。
二人はまったくの初対面である。いままで会ったことがないのである。その初対面の第一声が、これである。まるで辻斬りである。通り魔である。当の井上くんは、目を見張って絶句する。表を山手線ががたごと通過する。後になって「45年生きてきたけど、初めての経験です」と、井上くんはため息をついたが、その時は、ただただ大きな目をどんぐりにするしかなかった。われらは、想定外のこの鋭いツッコミにどう対応すればいいのかわからず、菅総理のごとく、とりあえずオロオロするしかなかった。これは天災ではなくあきらかに人災だ、なぞとわたしはわけのわからないことを考える。「だって、前に勤めていた会社の上司に似てるんですもの」。彼女はにこにこと無邪気に笑う。われらは、事件解決の糸口を見つけ、貴重な証拠を発見したエルキュール・ポアロのように安堵する。「この井上くんがキライな上司に似ているといっても、それは外見だけでしょう。この男は近江商人のように金もうけはうまいけど、心は清く、性格は潔く、実に気持のいい男です」。年長のわたしはその場を繕いにかかる。「そんなこといって、後で二人だけで違う店で飲んでたら怒りますよ」。第一、ペアできていたアロマ社長に悪いではないか。「ははは、どんどんやってください」と、アロマ社長は応用だ。「でも、仕事はシビアよ」と、娘社長はアロマ社長に矛先を向ける。それを機に、小池番長が新日本プロレスにスカウトされた話や、神奈川県の高校サッカー時代に、ゴールキーパーでありながら、一発で相手ゴールに蹴り込んだ武勇伝など話すが、やはり彼女は井上くんキライ話に戻ってしまう。井上くんが、化粧品の素であるコラーゲンを扱っているということで「ライバルだもん」という意識が働いたのかもしれない。大騒ぎをしてやがて店を出、ガード下のそば屋で井上くんがぽつりといった。「45年間で初めてです」。井上くん恋事件は迷宮入りになる。ラストサムライ伊藤さんもそう思ったに違いない。
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■母の空は、晴れ渡る。 ■2011年6月1日 水曜日 11時43分51秒

母よ、あなたの88年は、幸せだったでしょうか。故郷の空のように晴れ渡っていたでしょうか。山や川のように清々しい生涯でしたでしょうか。長野県下伊那郡座光寺村北市場。あなたの故郷です。りんごや桃の畑、桑畑に囲まれ、はるか遠くにそびえるアルプスの山々を望み、健やかにそよぐ風に包まれて育ったあなた。男ばかりの5人の子どもにあり余る愛情を注ぎ、のびのびと育ててくれたあなた自身は、幸せだったのでしょうか。父が戦争に行ったのはわたしがまだ1歳のときでした。母の故郷に疎開しました。父が帰るまでの3年間、わたしは山々を眺め、水車のある小川でカニや小鮒と過ごしました。ごっとんごっとんという水車の心臓の音を、わたしの耳がまだ覚えています。山からの雪解け水の冷たさを、わたしの手足がまだ覚えています。父が戦争から帰ると、新宿区戸山が原の穴倉のような家に越しました。もと日本陸軍の兵舎でした。広い原っぱの中に、土を盛って作った土手の陰に隠れるように作られた長屋に、たくさんの家族が住んでいました。雨が降ると床まで雨水が上がってきました。夜、土手の外側の共同便所に行くとき、あなたはいつもついてきてくれましたね。外の暗い原っぱでずっと待っていてくれましたね。わたしが小学生の頃、あなたは目を悪くし、黒い色めがねをかけ、杖をつき、父に手を引かれて医者に通いました。土埃の舞う荒れた道を諏訪神社に向かってゆっくりゆっくり歩くあなたの小さな後姿を見て、そのまま目が見えなくなるのではないかと、とても心配でした。怒るととても怖かったですね。夜中に三角山に捨てに行かれましたね。覚えていますか。暗く寒いトウモロコシ畑の道、泣き叫ぶわたしはずるずるあなたに引きずられました。友だちとケンカしたり、近所の鶏の卵を盗んだり、いたずらの度がすぎると、あなたは鬼のように怒りました。力が強かったですね。弟の敬二が生まれたのは、下落合に引っ越してからでした。神田川のすぐそばの消防署の二階でした。引越しのとき、少ない家具を積んだ大八車を押したのを覚えています。父が、シミ抜きの仕事をしながら消防署に勤めていた頃です。二階の窓から火の見櫓に乗り移り、てっぺんまで上がると町中が見えました。機動隊の隊長の家から子犬をもらいました。二匹いて、両方ともかわいく、どっちかを選ぶことができずにいると、あなたは二匹とも飼ってくれましたね。とてもうれしかった。敬二が赤痢になって豊玉病院に入院したとき、あなたは一か月以上のつきっきりの看病でした。あの夏は、さびしい夏でした。三男の信治が生まれたのは、近くの自転車屋さんの二階に移ってからでした。やがて、四男の里志、五男の守男が生まれました。信治が熱いやかんの上に座ってお尻に大火傷をしたときは大変でしたね。痛くて泣き続ける信治を抱きながら、あなたは一晩中あやしていました。お尻の火傷だから、寝かせることができなかったのですね。里志はアトピーがひどく、顔をかきむしらないようにと赤ん坊のときずっと両手にタオルを巻かれていましたね。痛いより痒いほうが辛いのです。大人だって、痒さは我慢できません。おかげで里志は、とても我慢強い子になったと、あなたは言っていましたね。小学校に入学した守男が、2ばかりが並んでいる通信簿を持って帰ると、池にアヒルがいっぱいいるねと、笑っていましたね。いいのよ、勉強なんてできなくても、元気ならいいのよ、そう言ってうれしそうにまた笑いました。故郷の青く澄んだ空のように、清々しい山や川のように、あなたは5人の子どもたちをやさしく包み、分けへだてなく育ててくれました。まもなくあなたの3回忌を迎えます。どんなに雨が降っていても、母さんの日は必ず晴れるんだ。そう言うのは信治です。母よ、あなたの88年は、幸せだったでしょうか。
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■吾輩は漱石である。 ■2011年5月10日 火曜日 13時4分57秒

書店のブックフェアがあると、ベストセラーの中に漱石こと夏目金之助の本が並びます。
「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「虞美人草」「道草」「こころ」。1867年1月5日生まれ、大正5年12月9日没。漱石は、明治の時代をまるごと生きた作家です。同じ年に生まれた作家に正岡子規、尾崎紅葉、幸田露伴がいます。しかし、漱石の本だけが店頭に並びます。彼こそが、近代日本の国民的作家であると評価されています。なぜ、漱石だけが現代に生きつづけ、国民的作家と称賛されるのか。
それには、理由が二つあります。まず一つ、彼の思想の根底にある「善」と「美」に触れてみたいと思います。「善」とは、倫理です。「善悪」の「善」で、法であり、社会的約束、常識、要するに社会が認める価値観であり、人間たちが寄ってたかって作った理屈です。「美」とは、感性です。感受性。社会的約束とは反対側にある個人の価値観です。大ざっぱにいえば「好き嫌い」です。他のだれかが押し付けるものではなく、自分が作った、あるいは感じた価値観です。この相克する二つの価値観を漱石は、ヤジロベエのごとくうまく扱うことができました。そこが他の作家たちとは圧倒的にちがいます。漱石の生家である夏目家も養子にいった塩原家も名主でした。名主は、名字帯刀を許され、管理においては武士同様であり、消費においては武士のように抑制を強制されることがない町人でした。漱石は、江戸の武家文化と町人文化の両方の価値観をごく自然に、バランスよく身に付けました。ところが新文学をめざす当時の近代的な作家たちは、古きを否定し、新しきを創造するところから始まっています。江戸の武家社会の価値観の否定こそが新時代の価値観だ、ということです。漱石の「善」と「美」の融合は、他の者にはない創造力でした。
第二の理由は、1900年、漱石がイギリスに留学したところにあります。そこで目にしたのは、すさまじい勢いで発達する「近代」でした。地下鉄が走り、車が走り、産業革命が音を立てて進み、人々は大きな時代の激流に翻弄されています。当然、時代は文学に反映されます。これはいかん。漱石は、感じました。急速に発達する「近代」は、与えるものの大きさと同時に、大きななにかを奪っていく。そういう恐怖を感じました。「漱石、狂う」。二年後、そのニュースが日本に流れました。帰国した漱石は、神経をやられていました。これを正しく見る者は、漱石が「近代」に負けたとは見ません。漱石は、「近代」を突き抜けた、と言います。失った自然をイギリスは必死に取り戻しにかかります。漱石は、猛然と突っ走る日本の「近代化」に恐怖を感じています。多くの作家たちが時代を切り取って書くのにたいし、漱石は「坊ちゃん」のように、一見荒唐無稽とも取れる表現をします。勧善懲悪。そんなこざかしい小さな正義なんかない。多くの作家が言います。
しかし、漱石は流れる川の表層だけを書くような、まやかしの事実現実は書きません。現実の奥にある真実を書いたのです。事実現実は、時代とともに変化します。当然です。川の表層は、雨が降れば変わるのです。干ばつになれば変わるのです。しかし、真実は時代を超えて価値をもちつづけます。川の低流は、変わらないのです。漱石は、「近代」という時代を突き抜けて、川の底流、真実を書いたのです。今日も、渋谷のツタヤには漱石の本が並び、若い人たちが東野圭吾の本を横目に見ながら、漱石の本を手に取ります。決して読みやすい文章ではありません。しかし、なにか魅かれるものを感じます。真実があります。表面の消えゆく事実現実ではなく、過去から未来につづく時代を超える人間の真実が、若い魂に呼応するのです。向田邦子が「わが師」と慕った漱石。それを見逃さない若い感性に驚嘆し、感心しています。
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■仏と畑。 ■2011年5月10日 火曜日 12時56分50秒

じゃがいもは植えたか。ある朝、次呂久英樹先輩から電話をいただきました。まだです。まだ畑を見て、土の話を聞いているだけです。そう答えます。
今日も畑に行きます。わたしに、じゃがいもを植え育てたらどうか、と啓示してくれたのは、徳富蘆花です。熊本の高校を卒業し、同志社大学を中退した蘆花は、平和主義を提唱し「国民新聞」を発行する兄蘇峰のもとで分筆活動に入りました。トルストイに心酔し、彼に会うためにロシアまで行きました。そのトルストイが、別れ際に言ったのです。きみは農業で暮らせないのか。帰国後蘆花は、世田谷の農家を借り、野菜を作りました。晴耕雨読。
蘆花は、自らを美的百姓と称しました。蘆花は、クリスチャンです。わたしはいま、リハビリのために歩いています。寺と畑を歩いています。蘆花はキリストですが、わたしは仏に祈ります。蘆花が言います。耕して書け、と。そこで、じゃがいもです。本来なら、わたしたち夫婦の仲人をしてくれた義兄の宮原茂兄さんに聞けば、じゃがいものなにからなにまで教えてくれます。
茂兄さんは、土浦の隣の殿里の農家に生まれ育ったので、農作物については徳富蘆花以上です。でもいま、体調を崩して病院にいます。元気なら、日本一の師匠になってくれるでしょう。日々、仏に祈り、畑をめぐっていると、ある日妻が、安孫子の水島昭憲兄さんが今日じゃがいも植えたそうよ、と言いました。昭憲兄さんは、妻の姉の洋子姉さんのご主人です。大きな海のような人です。教わりたいな、と思いました。とは言え、安孫子まで行くことができません。渋谷に事務所をもつ番長こと小池くんの仲間の伊藤嘉久くんが、八王子の畑に誘ってくれました。伊藤くんの親せきの方が、畑をもっているのです。お言葉に甘え、いつかつれていってもらおうと思っています。とにかく、畑もないのにじゃがいもは無理なのです。プランターでできないか、と妻に聞くと、そんなにでかいプランターは置き場所がないわよ、と冷静な指摘をされました。駅前でミニトマトやナス、シソの苗木を売っているから、まずそれから始めたらと言います。
友人の長江俊介さんも、家族で野菜を作っています。収穫した野菜を家族で食べていると言います。そう聞くとナスもいいかな、と思いますがやはりじゃがいもにこだわっている自分がいます。じゃがいもと豆類は、農作物の原点という思いがわたしにあるのです。じゃがいもは、わたしの原点さがしなのです。ものを作る。ものを書く。生きる。その原点をわたしはさがしているのでしょう。
日本はいま、大きな転換期を迎えています。日本が、自分さがしをしている。そう思います。
わたしはあと何年生きるのか、それは神のみぞ知るのですが、子どもたちや、その子どもたち、そのまた子どもたちには大切な日本です。3年、5年、10年、20年、もっと時間をかけても、この国をいい国にしなければならない、世界と互角にやっていくためにも、などと大げさなことを考えています。大げさではなく、そうしなければ大人として申し訳ないと思います。
尊敬する次呂久先輩からは、すべて流れのままに、との天の忠告を受けます。その忠告を胸に、蘆花の指導もまたわたしの中で息づいています。高度成長の日本で短距離走者のごとくがむしゃらに走り続け、家族を犠牲にし、忘れてしまっていたなにか大事なもの。それを、仏に問い畑に聞く。それが今後の仕事にどう活きるかわかりません。活かそうと肝に銘じます。自然と人生。仏と畑。じゃがいもから学ぶために今日も畑に向かいます。
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■復興。 ■2011年4月18日 月曜日 11時36分58秒

昭和39年。東京オリンピックの年。学生だったわたしは、新宿のスーパーマーケットでアルバイトをしていました。
そのスーパーマーケットは、日本で初めてのスーパーマーケットです。三越デパートの裏にありました。近くには、武蔵野館という洋画専門の映画館があり、カレーの中村屋があり、大通りには、伊勢丹、紀伊国屋書店、食品のデパート二幸がありました。いまのアルタの所です。マルイはまだありません。
そのスーパーマーケットは、日本中に知られる香具師の大親分の経営でした。任侠の人です。伝説の人でした。その頃はいくつもの事業を展開する事業家でした。水戸の武士の家に生まれたその人は、戦後の焼け野原となった新宿を見て、水戸の家屋敷を売り払い、当時のお金で300万円を作り、東口に街灯を設置したと聞いています。300万円という金額も伝説として聞いているので、確かではありません。
そして、東口にずらりとテントを並べ、人々の日々の暮らしのために、食料品と衣料品を供給しました。日本初のスーパーマーケットは、街灯を設置し、新宿の復興、日本の復興に、自費を投じていち早く動いたこの伝説の人が作ったテントマーケットから始まったのです。
ある日、茶色の着物を着流してふらりとその人はスーパーに現われました。いうなればかつての若い衆という感じの社員が2・3人従っていました。わたしにスーパーのアルバイトを紹介してくれた、その人の義理の弟さんもいました。呉服売り場の主任をやっていた弟さんと、染物職人の父が知り合いでした。もう、親分と呼ぶ人は回りにはいません。みんな、社長と呼んでいました。背の高い痩身、彫刻のような骨格のしっかりした風貌、すでに歳を取っていたためか、かつて鋭かったと思われる目にはやさしい光がありました。大河の流れのような、眩しいほどの存在感。理屈をぬきにした大きな人でした。
わたしは食料品売り場の係りで、重い缶詰の段ボールを肩に担いで階段を駆け下りる途中でした。社長が声をかけました。ごくろうさん。そう聞こえました。それが、伝説の人であることは、すぐにわかりました。戦後、日本を占領した進駐軍の司令官、マッカーサー元帥が、あなたは日本のアル・カポネだ、と敬意をこめて言ったという伝説もあります。なにかの罪で警察に連行されるとき、新宿中の女たちが、警察のジープの前に立ちふさがった、それほどもてた、とも聞いています。
ごくろうさん。その人はそう言って、着流しの袖から大きなサイフを取り出し、一万円を差し出しました。当時、一ヶ月間アルバイトをしても二万円に届かない時代です。戸惑いながら、ありがたくいただきました。手の切れるようなピン札です。学生のわたしにはとんでもない高額です。社長がふらりと歩き始めた後、いただいた一万円がつるりと滑りました。ピン札は、一枚ではなく二枚だったのです。わたしは、社長が間違えたのか、知っていてくれたのか、それがわかりません。でも、結局ありがたくいただきました。
いま、なぜ、わたしはその人を思い出したのでしょう。それは、復興という言葉です。未曽有の震災からの復興に向かう日本。そこには強烈なリーダーシップが絶対に必要です。それがいま、ない。この時期にまだリーダーが、いない。リーダーシップを発揮する男が、いない。いつの間にかリーダーがいなくなった日本。そう思います。諸外国もそう見ているのでしょう。任侠や親分を礼賛しているのではありません。でも、眩しい大河のような、大きなあの人をふと懐かしく思い出します。理屈とシステムを超える強いリーダーシップ。器の大きさ。大自然に立ち向かうには、不可欠の条件です。
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■立ち読みでなく立ち話を。 ■2011年3月31日 木曜日 13時53分53秒

駅前商店街には3軒の書店がある。1軒は息子の同級生の家で、もう1軒は昔からある駅に近い大きな書店である。わたしと仲のよい店主が経営する店は、商店街の中ほどの神社の脇にある小さな、比較的に新しい書店である。 
新しいといっても10年か15年は経っているだろう。店主といつどのように親しくなったのか覚えていないほど古いつきあいである。ウマが合うというか、妙な凝り性のある面白い店主である。だが、普通ならそう簡単に仲よくなるタイプではない。見た目は、春のさわやかな清流とはいかない。むしろ、冬の澱んだ神田川みたいなタイプで、通りすがりにふと立ち寄ろうという雰囲気にはとてもならない。だから、店に客が入っているのを見たことがない。だれかたまには立ち読みでもしていれば、他の客も入りやすいというものだが、そうは問屋がおろさないらしい。
見方によればチベットの高僧のように哲学的で、とっつきにくい店主だ。夜も更けた11時過ぎ、脳梗塞の後遺症のために杖をついて神社にお参りし、通りに出るとその書店の看板に灯りが灯っている。正面のガラス戸越しにのぞくと店主がパソコンをのぞいているので、戸をトントンと叩いてみる。わたしを認めて立ち上がり、戸を開けて出てくる。「どうしたの?」杖をつくわたしを見て聞く。「脳梗塞なんだ。しばらく入院していた」。「えっ、それで?」それでとは、どんな具合なのという意味だ。「左半身がマヒしてる。左手と左足がきかない。あと左目の焦点が合わない。あと」。「まだあるの?」「ときどき気が遠くなる」。「大変だね」。「二度目だからね。次やったら危ないね」。ちょっと病気の話をしてから、わたしは言った。「相変わらず客がいないね。どうなのよ書店は?」店主は苦笑いをして首を横に振る。「だめだね。なんでもネットだもの。活字がなくなるとは思わないが、とにかく売れないね」。「どんな本が売れてるの?」「こんなやつね」。店主が指さしたのは「はなこ」だった。これも特集がいいときだけ多少売れる程度なのだそうだ。
ぴあも売れなくなったという。えっ、一世を風靡ぴあが。そう、ネットだね、やっぱりね。本はどうなるの?まるでわからないね。よくさあ、タレントが書いた本なんか100万部売れたとかいうじゃない。肩書ね。肩書があれば売れるよ。でもうちの店には入ってこないよ。うちの店ってアダルトビデオを置いたからさ、取り次ぎもそういう目でうちを見てるしね。以前、新大久保に行ったとき韓流タレントの本やビデオが売れてたよ。それも入ってこないね。店の入り口にはアダルトビデオのポスターが数枚貼ってある。きれいでかわいい子が微笑んでいる。アダルトって感じの子じゃないだろ。きれいだろ。いまはアダルトの子ってみんなきれいよ。でも、彼女たちはいまのうちだけだからね。すぐに賞味期限切れになる。うまく転身する子はいいけど、あとはどうなるのかね。マンガで教育的な本て売れたりするよね。マンガはいいよ。マンガは作り方次第でまだ可能性はあるね。
わたしのポケットには夏目漱石の「彼岸過迄」が入っている。こんな本はどうなるんだろう?わたしは聞く。こういう本を売りたいよね。本は人格を作り育てるからね。母親の力が大きいね。でも、夏目を読む母親もいないんだろうね。情報時代というが、確かな情報や教育は活字に限る、という日がくるのだろうか。活字とネットの共存を一日も早く実現したいものだ。
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■遠くから呼ぶ声。 ■2011年3月15日 火曜日 10時9分18秒

深山、幽谷の森、立ちこめる乳白の霧の奥からだれかが呼ぶ声が聞こえる。たしかにわたしの耳に聞こえる。動物の鳴き声ではない。人の声。あたりの岩や木や谷に響きながら風に溶けてしまいそうな、山か森がしゃべっているような声であるが、人の声だ。大きく、小さく、遠く、近く、男の声か女の声か判別できない。若い声か年寄りの声か、それもわからない。糸を引くように。強く、弱く。それはわたしの名前を呼んでいるのかどうかもわからない。わたしにむかって呼びかけていることはなんとなくわかる。どこかで聞いた声だ。頭の隅であれこれ思うが考える力が湧いてこない。やがて、それがわたしの名前だとわかるまでに時間がかかり、あ、わたしの名前だ、そうだ、聞いたことのある名前、それはわたしの名前だ。はい、はい、返事をしなければならない。はい、でも、声が出ない。はい、はい、声が出ていないらしい。声って、どうやって出すんだっけ。わたしを呼ぶ声は、一人ではない。声が遠くなった。眠くなる。もう返事をしなくてもいいか。別に用事はない。眠い。呼ぶ声が森の奥に遠のいていく。森の木々を静かに揺らす心地よい風を感じる。全身に温もりを感じる。木の葉の隙間から眩しい光が射しこんで、体がふわふわと浮きあがる。両側をエンジェルが支えるハンモックに揺られるような心地よさ。夢かな。あんちゃん、森の奥から声。その声はわかった。弟の敬二だ。あんちゃん、あんちゃん、赤痢になってごめんよ。そうか、敬二が赤痢になったから湘南の海に行けなかったな。うん、母ちゃんが弟のために豊玉病院に付き添ったから、湘南に行けなかったが、絵日記には行ったことにしておいた。敬二は子どもたちのためにパン屋になりたくて近畿日本ツーリストを辞めてパン作りの修行に出た。38歳で死んだ。森の奥から敬二が呼ぶ。あんちゃん、パン焼きたいな。寒い日にバス停でバスを待ちながら寝てしまうと、いつも森の奥から声が聞こえてくる。敬二、よしパンを焼くの手伝ってやる。おれはいま渋谷西口バス停で深夜バスを待っているんだが、もう寒さを感じなくなった。ポケットの300円のウイスキーのポケット瓶のおかげで、ちょこっと寝ていくよ。うとうととするとまた森の奥から声が聞こえてくる。意識が遠のくと、どこからか聞こえてくる心地よい声。遠く、近く、今宵はだれだ。星が見える。セルリアンタワーの灯が滲む、コカコーラの看板、不動産屋さんの看板。星が言う。こういち。こういち。母だ。母がわたしを呼ぶ。母はわたしに詫びようとする。わたしが1歳で父は中国戦線へ持っていかれた。母の実家の長野県飯田市に疎開した。わたしは、1歳から4歳を一人で暮らした。父が帰るとわたしの下に4人の男の子ができ、わたしは高校大学と合宿暮らし。母との記憶はない。バス停で寝たせいか頭が割れるように痛んだ。左手左足がもう動かない。脳梗塞の疑いで救急車に運ばれた病院で、ずっと母の声が聞こえていた。こういち、こういち。ごめんよ。弟の声が聞こえ、それが3番目の弟の信治の声になり、息子の声になり、妻の声になった。みんなの声が近くに聞こえ、命が切実に迫ってきた。脳梗塞は二度目である。血管の微妙な生きざまを持ち主のわたしもコントロールできなのだ。でも、いま、とてもやりたい仕事がある。若い美しいお嬢さんたちと、必ず成功すると約束した仕事がある。弟よ、母よ、しばらく声をかけるな。
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■ご飯と味噌汁。 ■2011年3月15日 火曜日 10時8分33秒

うまい米が増えたせいかご飯がおいしい。若いころは丼いっぱいのご飯をかき込んだものだが、いまは小さい茶碗がいい。駅前の瀬戸物屋で篭に山積みして売られている安い白い100円の笠間焼がいい。薄い茶碗で、よそったご飯のあたたかさが手に伝わってくるのがいい。ラップに包んでチンするご飯には、どうもなじめない。茶碗の中で縮こまったご飯のラップをはがしていると自分が豚になったようで悲しい。餌だと思えてくる。おかずたちもラップを被ってテーブルに並ぶと、いっそのことそのまま食べられるラップを開発してくれと叫びたくなる。炊きたての熱いご飯を、おにぎりにするのもいい。味噌のおにぎりもおいしいが、塩のほうが味噌よりにぎりやすい。とくににぎったあとの問題は大きい。塩も味噌もにぎったあと手を洗う。それは同じだ。でも、塩は見た目に色がない。だから余分な量が見えないため、もったいないとはそれほど思わない。だが、味噌は、残った量が目に見える。もったいないという意識が塩よりも強い。そこで、思わず手についた味噌を舐めたりする。塩は舐めない。この差が大きい。気分である。おにぎりは塩のほうが楽なのだ。おにぎりでは、この楽という価値がきわめて大きい。おにぎりは、楽でなければならない。楽こそおにぎりの味である。味噌汁は、具にこだわらない。味噌の味が好きである。味噌は、素朴であたたかい味がする。おふくろの味、ぬくもりの味とでもいおうか。いろいろ加工を施した味噌ではなく、スーパーで売られているごくごく普通の味噌がいい。出汁のうまい具はうれしい。素朴な味噌に、素朴な具がいい。具についていえば、なんと言っても豆腐がいちばんだ。豆腐の、自己主張を捨て謙虚をきわめた味は絶妙である。口当たりで言えば、綿ごし豆腐のほうが荒々しくて好きだが、赤出しには滑らかな絹ごし豆腐のほうがいい。気分である。味噌も豆腐も同じ大豆から生まれるが、発酵熟成させて追い求めた味噌の味と、削って削いで解脱した豆腐の味は、大豆の両極でともに見事な味である。うまい味噌と豆腐の呼吸が合う味噌汁は、湯気にほのかな畑の陽ざしのぬくもりを感じて、ひときわうれしい。豆腐はまた、あの眩しい白さが実にいい。味噌の赤茶色の中に浮かぶ白さがいい。素朴、純粋の白である。目にうまい。豆腐で白以外の色は考えにくい。豆腐は、なによりも付き合いが長いのでホッとする。母は毎日味噌汁を作ったが、やはり豆腐が中心だった。通りの反対側に豆腐店があったし、夕方にはラッパを吹きながら豆腐屋が自転車でやってきた。母は、ブリキの鍋を片手に割烹着すがたでカタカタと下駄の音を立てて豆腐を買いに走った。母の下駄のカタカタが聞こえると、やがて家中に夕餉の香りが漂い、子どもたちはホッとするのだ。味噌汁の具は、油揚げもいい。細かく切った油揚げは、おいしいというより、その細かい切り方に感心する。考えてみれば、さして難しいことではないが、細かく切るという感性に感動した。きつねうどんは、なぜ油揚げを大きいまま入れているのだろうと考えてみる。あれは、きつねうどんとしてきちんと自分の存在を明らかにし、かけうどんより高い値段をつけるためだ。油揚げを細かく刻みすぎるとネギと同じ価値となり、無料になる。それを恐れてきつねうどんは、油揚げは細かく刻まないのである。味とは無関係だ。ではなぜ、味噌汁の油揚げは、大きいまま味噌汁に入れず、細かく刻んで入れるのか。大きいまま入れると、いかにも手を抜いていると見られるので、それを母たちは気にしたのである。大きさは味にも影響する。大きい油揚げは汁を余分に吸い込み、味が濃くなる。油揚げからにじみ出るかすかな油の香りが鼻先をかすめると、豆腐とはちがう期待感が湧きあがってうれしい。味噌汁をひと口すすり、目を閉じ、花が咲くように広がる味わいを楽しむのは、贅沢である。
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■明日を創る20人の仲間。 ■2011年2月1日 火曜日 13時18分32秒

教授がいないね、ぼくが言い、遅れてくるそうです、最前列のウーパールーパーくんが答える。よし、教授がくる前にパッパッと勉強して、きたらお疲れさまって解散しちゃうか。左の席のフランシスコ・ザビエルさんが、にっこりと笑う。渋谷。道玄坂。20人の仲間が、明日の価値を創るために集まっている。イベントプロデューサー育成講座。それが教室の名前だ。ジェット企画という、空を飛びそうな名前の会社のイベントプロデューサーの美人の友人に頼まれて、ぼくは彼らと出会った。
目の前に20のすてきな頭脳がある。彼らと、イベントのこと、広告のことを勉強する。先生はぼくだけではない。大村先生は、教材を基にプロジェクターを駆使して、理路整然と授業をなさる。羽深先生は、豊富な知識と経験で、きちんと生徒の心に訴える。さて、ぼくはというと、みんなと遊んでいる。ぼくには教材はない。教室だってなくてもいいけれど、いまは寒いから風避けにはあったほうがいい。頭脳はどこでも鍛えられる。それに、他の先生の授業と同じことをしてもつまらないから、ぼくは、「アイディアの創り方」というよくわからないテーマを掲げた。アイディアってなんだ?とか、アイディアを生む頭脳はどうなっているんだ?とか、わけのわからないことをみんなと勉強している。わからないから勉強するんだ、と余計わからないことを言っているから、むしろ生徒のほうが優秀だ。先週は、ハーバード大学のサンデル教授のまねをして、正義(ジャスティス)について、大騒ぎをした。みんな目がぎらぎらして、やる気十分だ。教祖は、サンデル教授の番組を結構見ているらしく、もしかしたらジャスティスについてはぼくよりいい授業をしたのではないかと思う。教祖というのは、ぼくが呼んでいるだけだが、道玄坂ですれちがっても、思わず手を合せたくなる風貌は、あれはただものではない。若き、麗しき女性も数人いて、明るく熱心に勉強している。女性の繊細さって、イベントプロデュースには欠かせないものがある、と雰囲気でわかる。ぼくは、やがてどこかで彼らといっしょに実際にイベントプロデュースをやってみたいと、ふと思った。3月に「渋谷がメディア」という授業があるから、そのときは、真剣にすてきなイベントをみんなで考えようと思っている。若者の街、渋谷を夢の発信地にしてやろうと思う。子どもにも楽しいイベント。いや、高齢者だって好きになる渋谷にしてやる。彼らといっしょならできそうな気がする。夢のある企画はできる。なぜなら、企画をする彼らに夢があるからだ。ビジネスは、ビジネスを超越したところに成功がある。人の才能は、夢によって大きく花開くものだ。こんなことを言うから、わけのわからない授業になるのかなあ。そうだ、このエッセイをご覧の社長さん、宣伝担当の方、20のすばらしき頭脳を寄せ集め、渋谷をメディアにして楽しいイベントプランを創りますよ。もちろん、ギャラは不要です。だって、お勉強ですもの。詳しくは、ジェット企画の篠塚プロデューサーまでご連絡を。でも、彼女、プロだからギャラなしはダメかなあ。
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■山と川のある町@ ■2011年1月19日 水曜日 16時28分17秒

調布インターから中央道に入り、八王子ジャンクションから圏央道に入る。あきる野インターで降り、滝山街道を少し走り、油平を左折して五日市街道を走ると、あっという間に武蔵五日市駅前に出た。朝10時に世田谷を出て11時過ぎには、山と川のある美しい町についた。手を伸ばせば届きそうな辺りの里山たちはすでに紅葉も終わり、葉を落とした木々が澄んだ空気の中でそっと息をひそめている。スギやマツやシイの常緑樹林は、陽ざしを浴びて光る淡い緑色から、陰となる緑色へ、さらに暗い陰の限りなく黒に近い濃緑色へと、見事な階調を見せる。その緑色の階調に、葉を落とした落葉樹たちの肌の赤味がかった色が織りなす山々の繊細な色合いは、屏風に描かれた一幅の墨絵を想わせる。都会のコンクリートに疲れたわたしの目に、山々がそっとやさしく、謙虚な気遣いをしてくれているのだ。昨日までの雨が嘘のように空は高く広く晴れ渡り、雲ひとつない。すっかり丸みを帯びた陽ざしが、とてもやさしい。深い秋に包まれた山々にも、ひたすら美しく流れる秋川の清流にも、重ねた時間の中で穏やかな情緒を積み上げる町並みにも、その豊かな自然や町並みを楽しむハイカーたちにも、そして都会からささやかな逃亡を企てるわたしにも、久しぶりに晴れ上がった秋の日の午前の陽ざしは、母のぬくもりのように、まぶしくあたたかく、ありがたい。町並みを眺めながら、地元在住の草木染めの工芸家金子利代さんご夫妻と待ち合わせている「ギャラリーネオエポック」に向かう。金子さんは、妻の従姉にあたる。いまでも新宿の大学で若い人たちに草木染めを教えながら、地元五日市の文化を守り育てている。文化を育てるということは、人の心を育てるということだ。とてもひとりでできるものではない。頑張る仲間たちがいる。多くの仲間たちと町の責任者のみなさんの協力がなければ、文化は守れない。人の心を育てることはできない。人が町をつくり、町が人をつくる。そして、人が人をつくる。都会に住むわたしたちは、文化も人の心も置き去りにして暮らしている。それではいけないと思っていても、だれもかれもが心を置き去りにして生きている。この山、この川、この空、この風、そこに生きる命、住む人々のあたたかさ。そういったものより経済を優先させる社会に押し流されてしまっている。大いに反省する。ギャラリーネオエポックは、五日市の町を少し走り、黒茶屋の大きな看板のある子生神社の信号を左折し、秋川にかかる沢戸橋を渡り、秋川の支流の盆堀川にかかる新久保川原橋を渡って盆堀林道を入った里山の中にある。林道の向いにある地中海料理「メリダ」と民宿「モモンガ」のオーナーでもある泉先生とお会いするのは1年ぶりだ。古武道の直系者であり、フランス国家に認められた美術鑑定士の泉先生は、世界の味に精通する料理名人でもある。先生手づくりのギャラリーには、多くの民芸家の作品と並んで、先生のコレクションが展示されている。ギリシャの紀元前後の美術品があり、アフリカの古い歴史の品々、絵画、装飾品がところ狭しと並ぶ。壁にかかっている絵を眺め、ふと脇のカードの金額に目をやる。0の数を数える。イチ、ジュウ、ヒャク、セン、マン、ジュウマン、ヒャクマン、センマン、イチオク、先生、大変です、この絵、5億円です。そうですよ。間違いではない。モモンガの飛び交う山の中に、何の造作もなく5億円の絵を飾り、人々にどうぞと気軽に見せるなんて、とても常人にできる芸当ではない。持って逃げる人がいませんか? そう聞くと先生は大きく笑った。間もなく金子さんご夫婦が車で到着し、「メリダ」で昼食をとることにする。窓から山々を望め、眼下の清流の瀬音を聞きながら、泉先生ご自慢のオニオンスープを味わい、ギリシャの山羊の乳からつくった塩味と酸味のきいた絶妙の味のチーズ入りサラダを食べ、これまた大皿のアンダルシア風のパエリァに舌づつみを打つ。十分満腹となる。外の、身の引き締まる澄んだ空気に比べ、暖炉の燃える部屋は、微笑ましいほどあたたかい。穏やかでやさしい時間に包まれ、泉先生の奥さまのコーヒーを飲む。金子さんのご主人がコーヒーカップを持ち、ゆっくりと笑っている。山と川のある町で、金子さんの仲間たちに会い、文化と自然を楽しみたいと思う。わたしの小さな旅は、新年へと続きます。
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■トイレ作家。 ■2010年12月22日 水曜日 15時35分40秒

作家の野坂昭如さんは、銀座に5軒の緊急用の酒場をもち、昼間から開けておいてもらったという。わたしはというと、いま、銀座に5カ所、緊急用のトイレをもっている。そういう年齢である。さて、そのトイレにはいるときである。5分以上長居をさせていただく際、どうも手持無沙汰で間が持てない。ケータイ電話で話したり、メールをチェックしたり、打ったりしたが、これはどうみても相手に申し訳ない。相手にはこちらが見えないし、結構ゆっくりていねいにお話できるのだが、やはり申し訳ない。デスクに向かって真剣に仕事をしている相手にたいし、いくら見えないとはいえ、尻を出しているのはやはり失礼だ。ある友人にそのことを話したら、面白い、今度相手が昼飯のときやってみる、と言っていた。トイレでのケータイは一切やめた。メールもメールチェックもやめたら、なんとも間抜けな時間となった。みんなはなにを考えるのだろうかと、ア行からワ行まで順番に友人の顔を赤くして力む姿を思い出してみたが、それほど面白くないのでやめた。ふと思いつくと、わが家では、トイレで読む本、風呂で読む本、リビングで読む本、夜中に読む本、休日にテラスで読む本、公園で読む本、就寝前に読む本と、場所と時間によって本が仕分けされている。となると、そうだ、トイレで読む本を持って歩けば悩みは一気に解決する。銀座のトイレで読む本を決めれば、ケータイを使わなくてもすむ。それで間が持つ。うまい考えにわれながらニンマリする。さて、そこで銀座のトイレにふさわしい本はどれだ。ストーリー重視ではなく、文体の問題かもしれない。では、作家はだれだ。何人かの作家をテストさせていただいた。決まりました。片岡義男さんとつかこうへいさん。もともとバスの中で読んでいた片岡義男さんの、あの爽やかな文体は実に便通に効果があることが判明した。つかさんのテンポのよさも効果がある。山本周五郎さん、池波正太郎さんは、どうも中途半端だ。夏目漱石、ヘミングウェイ、スタインベック、アーサーミラーは、出かかったものが引っ込みそうで、これはいけない。大失敗だった。ミステリーも好きで、アガサ・クリスティはまだいいが、コナン・ドイルと松本清張はダメだ。東野圭吾はまあいいが、やはり片岡義男には勝てない。ちなみに、そういうトイレ作家を持つということは他の人にもあるのだろうか、と興味がわいたが簡単に聞ける話題ではない。なあ、あなたどう? と一番身近な妻に聞いてみたいが、潔癖を絵に描いて額にいれたような妻のこと、口元に不敵な笑みを浮かべ、黙って離婚届けを差し出すだろう。無敵のトイレ作家片岡義男さんを渋谷のトイレで試してみたが、ここでも驚くべき効果を発揮した。最近では、書店で片岡さんの本を見かけただけで、便意をもよおすようになった。先週、片岡さんの本を2冊失くした。でも、さすがに銀座のトイレに探しにいく気にはならない。風呂での最適本はヘミングウェイだったが、風呂で寝る癖があり、100回以上読んでいる「老人と海」は気がつかないうちに本の下半分が湯につかり、たっぷり湯を吸い込み、上半分の倍の厚さになったため、風呂用の新しい本を探さなければならない。やはり風呂には、「月刊アクアラング」とか「週刊潜水ジャーナル」とかの雑誌がいいのかなとも思っている。適材適所ならぬ、適本適所、適作家適所である。年の締めくくりにトイレの話になってしまった。申し訳ありません。でも、こんな場所にはこの作家がいい、とお気づきのものがおありでしたぜひお教えください。とりあえず、お正月に雑煮を食べながら読む本は、なにがいいでしょうか? どの作家がいいでしょうか?
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■タマゾン川? ■2010年12月22日 水曜日 15時34分9秒

息子が小学生の頃、多摩川はわが家の貴重な遊び場であり、教育の場だった。お金のないぼくら家族は、息子を自然の中に放つことが遊びであると同時になによりもいい学校となった。お金が少しでもあると読売ランドに連れて行った。オオベソオームガイを見て、息子は目を見張った。多摩川ではよく鯉を釣った。近所の子どもたちもいっしょに行った。妻が自動車免許を取ると、オンボロのクラウンに近所の子どもたちを6・7人詰め込んで出かけた。世田谷通りを走り、交番があると小さな子どもたちはもっと小さくなって座席の陰に隠れた。和泉多摩川の堤防上の大きな水溜まりが子どもたちの釣り場だった。近くの路上に一日中駐車して置いても駐車違反にはならなかった。ありがとう警察。日本もルーズで豊かだった。実に幸せな、平和な日々だった。妻が、駅近くでパンを買い、コロッケを買ってはさみ、コロッケパンをつくってみんなに配った。濃いソースがパンに染み込み、パンとソースがからんだ味はみんなを感動させた。こんなにおいしい食べ物は世界中どこをさがしてもない、とみんな思った。多摩川の水は汚かったが、子どもたちの目はきれいで、きらきら輝いていた。いま、多摩川の水はきれいになり、子どもたちはオトナになった。鯉釣りにも行かなくなった。先日、銀座の天狗という居酒屋で仲間とビールを飲んだ。「多摩川はもう多摩川ではありません。タマゾン川です。」とマサヤンが熱を込めていう。マサヤンは、街の生物学者である。結婚もしないで、モモンガと暮らし、ウサギと同棲している。「なんだい、そのタマゾン川ってのは?」わたしは聞いた。「多摩川にはものすごい種類の外来種の魚がいます。200種くらいいるといわれています。そのほとんどが南米原産です。アマゾン川原産です。それでタマゾン川。」「ほう、うまいうまい。」「喜んでいる場合じゃありません。アリゲーターガーという種は、人も襲うといわれています。」ありゃりゃ。南米原産のグッピー、ピラニア、レッドテールキャット、北米原産のガーパイク、アフリカ原産のシクリッド。並べたてたらきりがない。「グローバルだね。」横にいる弟が言った。「真剣に考えてくださいよ。」「ごめん。」マサヤンのいうには、水はきれいになったけど、工場排水などで水温が上がり、外来種にも棲みやすい環境になったのだそうだ。「でも、外来種は勝手に海を泳いできたわけじゃありません。ペットとして輸入されたのです。ペットとして飼って、大きくなって飼いにくくなると川に捨てる。これが繁殖しました。飼い主にも責任があります。でも、もっと責任があるのは売る側です。これは大きくなる、飼いにくくなる、とちゃんといわなくてはいけません。売る側の責任が大きいのです。」マサヤンは熱い怒気をビールで冷やす。時の流れが、多摩川という水の流れを変えている。それは、時の流れが変えたのではない。すべて人間の仕業なのだ。これはなにも多摩川だけの問題ではなく、国も、自然も、人間が変えているのだ。それなのに人間は、なにか違うもののせいにしていないか。自分の責任を回避していないか。なにかのせいにしたり、責任を回避したりして、表面を繕ってもひどいしっぺ返しを食うのは人間だ。人間がきちんとすべての命がともに生きる設計をしなければならない。もう、責任回避は通用しない。子どもたちともう一度多摩川に鯉を釣りに行きたいと思う。子どもたちはオトナになってしまったけれど、あのきらきら輝く目はきっと取り戻せる。そうしなければならない。マサヤン、ありがとう。ちょっと目が覚めたよ。
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■ロマネコンティは、裏切らない。 ■2010年11月15日 月曜日 12時39分29秒

伝説の闘牛士オルテガは、大観衆を裏切り続けた。牛をお決まりの流れに乗せて殺すのは長い経験を積んだ彼には、お手のものだった。それでも牛は生き生きと挑戦的に見えたし、オルテガの一挙手一投足は、実に勇気あるものに見えた。華麗なる偽りの演技に人々は感動し、絶賛した。オルテガはすでにわずかな勇気さえ失い、決められた流れの中で、命をかけている風に見せただけだった。牛も角の先を数センチ切られ、鑢で磨かれ、深爪のように痛んだ。
一方、若い闘牛士チコは誠実で、まっすぐに牛に立ち向かう勇気をもっていた。無駄のない動きは若い豹のように美しく、牛の命に自分の命を真正面からぶつけた。だが、オルテガの巧妙な包装紙に包まれた嘘を人々は見抜けず、チコはその人気を越えることはなかった。
嘘。大きな嘘と小さな嘘。裏切り。大きな裏切りと微細な裏切り。それらをかき集め、大河となって流れる街。社会。世界。小さな嘘の積み重ねこそ実は罪なのだ。流れの中に確実に存在しながらそれらの嘘に隠され、目に映ることのない真実。あるいは、おしゃれなリバーシブルコートのように、嘘と真実は表裏でくっついていて、実は同じものなのか。
あれは何年前になるだろう。その人と目白の元貴族の持ち物である庭園にいた。年老いたその人は、芝生に続くギリシャ風の彫刻を施した石段にゆったりともたれ、秋の日差しのように穏やかに、屈託のない微笑みを浮かべていた。写真家が太く長いレンズのカメラを構え、彼の自然の表情を狙う。彼が無理なく自然に振舞えるように、わたしは彼の話し相手となって談笑し、うなずき、笑う。その人は、わたしを数年来の友を見るように温かく見、話しかける。ワインは好きかね。好きです。しかし、先生のように通ではありません。味がわかりません。人がこれはある年のいいワインだと言えば、確かにうまいと感じます。麹町でロマネコンティを飲ませてもらった時は、思わず泣きそうになりました。先生は声を上げて笑う。でも、頭で味わっていたのです。舌ではなく、頭に刻み込まれたロマネコンティのイメージがワインの味を輝かせたのでしょうね。情けないです。ロマネコンティか。確かにうまいがね。それだけのことだよ。家の建前の時にね、大工たちと酒盛りしてロマネコンティを飲んだけど、彼らは焼酎ばかり飲んでたな。
先生、本ものってなんでしょうか? そうなあ、本ものなあ。それは、本ものを見分ける力のある人物がこれは本ものだと思うもの、そういうものかな。先生が本ものと思うものが本ものですね。さて、どうだろうか。真実もまた、見分ける力ですね。そうだな。一度わたしの青山の事務所にこないか。ワインを飲もう。わたしもワインを1本用意しておくから、きみも1本買ってきなさい。本ものさがし、真実の話をしよう。ただしだ、千円以下のワインにしてくれよ。
人の、嘘も、裏切りも、見ればわかる。まず、欲が見える。自分だけが良ければいいという欲が見える。真実を見抜くのはむずかしいが、まず、嘘と裏切りだけは見抜かなければならない。それをするためには、自分が本ものにならなければならない。そう、あの人は教えてくれた。目の前の嘘を真実と認めてしまう闘牛場の大観衆と、華麗に嘘をつく人間が多い。本もののワインを見つける前に、わたしは本ものの人と出会い、本ものと真実を教わった。それを教えてくれた人の名は、石津健介。むかし、ヴァンという会社を創った人だ。
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■理想の夫婦。 ■2010年10月27日 水曜日 12時2分56秒

國學院大學空手道部ОB会の副会長を務めさせているせいで友人が多い。その中でも同じ副会長のKくんと理事のHはとくにウマの合う二人である。そのKくんが千歳烏山に引っ越してきた。それを機に10数年前に離婚した奥さんと再び同居することとなった。めでたいことである。
そこでHとわたしは引越祝いと称して新居に押しかけることにした。台風の影響で九州地方が豪雨に襲われた翌々日の土曜日のことだ。東京でも降り続いていた雨が上がり、朝から気持ちよく晴れた空には虹がかかった。夕方5時にKくんのうちに行く約束だったので、わたしはHと千歳船橋駅に4時に待ち合わせをし、バスで向かった。千歳烏山の旧甲州街道沿いのマンションの4階と5階、メゾネットタイプのおしゃれな新居だ。駅から5分の便利な場所にある。同じ釜の飯を食う、とよくいうがこういう友人は心が許せて実に貴重で、普通なら失礼になる会話も平気でかわす仲である。
「とも」という文字は二つあって、「朋」は同じ師匠に学ぶ仲間で、「友」は師匠がちがっても同じ志をもつ仲間のことをいう。わたしたちは、同じ師匠をもつ「朋」である。通常は友の文字で両方を表現しているので、わたしも敢えて変えることはしないが、KもHも「朋」なのである。料理は、奥さんのY子さんと、Kの次男が腕をふるい、うまいものを揃えてくれた。Kの次男は和食の料理人である。Y子さんは、穏やかな笑みを浮かべて立ったり座ったりをまめに繰り返し、リビングとキッチンを行ったり来たりしてくれる。大阪宝塚に実家のあるふくよかな顔立ちの、品の良いお嬢さんタイプである。
「なんで離婚したの?なんでまたいっしょに暮らす気になったの?」Hが遠慮なしに聞く。KとY子さんはそれでもにこにこと話してくれる。「自分のわがままです」。Kがいう。「わたしは三男なのでわがままなんです。いまは、あっちの端の部屋がわたしで、彼女はこっちの端です。この間合いがいいですね」。そういえば、山村美紗と西村京太郎は同じマンションで部屋は別々、中間にリビングとなる部屋を持っていたという。「それが理想的だね。心にも間合いが必要だ」。わたしは思う。遅れてきたわたしの妻も参加し、夫婦論になる。Hの妻が乳がんを患ったのは5年前になるという。切らずに治したいという彼女の希望をHはかなえるために大阪は関空近くの病院に治療に行く。「ホテルに泊まったり、金はかかるが、これまで苦労かけたしね」明るいHが、一瞬顔を曇らせる。「また発病しているので、今度は全摘かもしれない」。Hは若き日、ファッションメーカーのVAN(ヴァン)に勤め石津健介氏にセンスを学び、その後奥さんと二人で青山、代官山とおしゃれなアメリカンバーを開いた。子どもはいない。だから、ずっと奥さんといっしょに暮らしてきた。「彼女はいっしょに働くのをほんとはいやがったんだ」。
Hは長男で、弟と妹を持つ。美容院を経営する母に育てられ、やさしい少年のような顔をしているが気持ちも同様にやさしい男だ。「ところで先輩のところはどうです?」Kが尋ねる。「いや、おれもわがままだから」。わたしは答える。男ばかりの5人兄弟の長男で、威張って生きてきた。なんでも一番になりたがった。妻は5人兄弟の末っ子で、大事にされて生きてきた。お互いにないものばかりだから、それを尊重し合えばすばらしいが、否定し合ったら大変な目にあう。人に指図されるのが大嫌いなわたしであり、なんでもわがままを通してもらった妻。同じ目的を持って力を合わせればいいのだが、相手を思い通りにしたいと思ったらこれは最悪となる。結婚して40年、理想とはほど遠い夫婦である。「ゆっくりと、ていねいに生きればいいよね」。わたしのわけのわからない言葉にY子さんがにこりと頷いてくれた。うまい料理、うまい酒の土曜日だった。
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■映画が主役だった時代。 ■2010年10月12日 火曜日 14時46分25秒

銀座のネオンがガラス窓の向こうで瞬き、男6人と女1人が窓際のテーブルでグラスを傾ける。黒澤映画の「7人の侍」のようでもあり、ただの「酔いどれ天使」のようでもある。俳優千波丈太郎さんがまん中に焼酎「海童」のボトルをどんと置き、水で割って飲む。その横でマネージャーでありプロデューサーでもある、元タカラジェンヌの奥さまが美しく笑う。シモさんが千波ママと呼ぶ奥さまは、金色の髪をオールバックにして短くまとめ、黒い上下の衣装で精悍な宝塚男役のイメージ。千波さんの右隣、窓際に「坂の下のシモ」ことシモさん。千波ママの横に、天才画家ジミー大西をちょいと老けさせた風貌の、昭和の映画をこよなく愛する「キド佐藤」。テーブルをぐるりと回って、その隣がわたし。そして、その隣に「ちらし小川」。ちらし小川氏は千波ママと同じ名前で、そうかそうかで話が盛り上がるかと思ったら、「キド佐藤」がすぐ横からぶち壊した。その隣、窓際、シモさんの前に「パラダイス藤田」が、この集まりじゃあおれだけが若いという顔をしている。が、実は回りが若くないだけの話。
威張ってみても迫力はない。話は終始、昭和映画の話。千波さんが赤城圭一郎を殴り飛ばした日活映画「不敵に笑う男」「幌馬車は行く」をわたしは高校時代に見ている。新東宝、大映、東映、と昭和映画の海を自由気ままに酒の舟に乗って漂う。いかの一夜干しをくわえながら勝新太郎をつつき、マグロをつつきながら市川雷蔵を肴にする。池内淳子のデビュー作はさあ、などと昨日のように話す。
千波さんは、拓大出身で、空手、剣道、合気道を合わせると10数段とそこらの階段が思わずうつむくほどの格闘家。戦う俳優である。端整な風貌、鋭い眼光、その存在感で敵役ややくざ役が多い。いま、髪を後にきれいに流した総髪、白いシャツ、明るいグレーのジャケット、背をすっきりと伸ばしゆっくりほほ笑みながらグラスを上下させる。反面、キド佐藤は、思わず「回転くちびる」とか「壊れたラジオ」と呼称したくなるほどよくしゃべる。止まらない。いつ呼吸するのだろう。いかの足をくわえたまましゃべっている。だれかスイッチを切ってくれ。「ちらし小川」がその役。プロデューサーの千波ママの、映画も宝塚もチケットが売れてナンボの世界よ、というのを聞き、その通りと身を乗り出すキド佐藤。わたしキド番やります。それでキド佐藤と命名。映画や芝居にはちらしが効果的、ちらしが命と叫ぶ小川氏。それでちらし小川。
新宿にいる映画監督が、5000万円あれば一流の俳優とスタッフで一流の映画を創ってみせるという。いまの時代、ネットで一人100円を50万人から集めればいい。キド佐藤がいう。もう千波さんがいるから、役者は一人決定。50万人全員助監督にするといえば集まりもいい。それじゃエンドロールだけで2時間かかりますね、とパラダイス藤田。いっそのこと100万人集めれば1億円。5000万円浮くじゃない。その浮いた5000万円をどう使うかという話にしないか。驚いたことにパラダイス藤田の父は、実際に北海道で映写技師をしていたそうだ。カラカラとフィルムが回る音、まだ耳に残っています。火事は出さなかったろうな、坂の下のシモさんが茶化し、千波さんが海童をゆっくりと口に運んだ。映画が主役だった時代っていいですね、パラダイス藤田がしみじみといった。この勢い。人間、酒飲んで仕事したほうがいいのじゃないですかね。この7人に限っていえば、まちがいない。さて、酒の舟が沈没する前にエンドロールを流して桟橋に引き返そう。
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■不惑、喜惑、悦惑。 ■2010年9月28日 火曜日 16時40分24秒

友人のシモさんは、北海道出身。通りすがりの女性が振り返るほどではないが、かなりのイケ面。太い眉と目の覚めるような銀色のふさふさの髪が特徴だ。わたしは、初対面のときこの銀色の髪が目につき、以来「北のオオカミ」と呼んでいる。若い連中の面倒見がいい。真っすぐな性格で、嘘がつけない。嘘をついても下手。すぐばれる。不器用なのです。こういう性格は、サラリーマンには向かないと余計なことを思う。サラリーマンは、どんなご婦人を前にしても「お美しい」の一言を心から言えるようでなくてはならない。それが基本だ。そう思っている。「3つの真実に勝る1つの嘘」。これが理解できなくては、サラリーマン商売はむずかしい。日本人はこれができないから、外交下手なのだ。いっそ腕のいいサラリーマンに外国との折衝をやらせたら面白い。話がそれました。シモさんのような性格は、サラリーマンより駅前の焼鳥屋のおやじのほうがお似合いなのだ。居酒屋兆治のようにまっすぐ不器用に生きるほうが幸せだとひそかに思っている。ところがそうはいかない。国のためにお役に立ちたいという男っぽい彼の野望が、焼鳥屋のおやじには邪魔なのだ。「坂の上の雲」はいいね。飲むたびにお国の話になってしまうご時世。さんまをつつき、焼酎を飲みながらシモさんは言う。さんまが高いさんまが高いとニュースが言うが、どこに行ってもそれほどではない。酒処で500円以下だと喜んで頼んでしまう。龍馬のような男はいないのかね。薩長連合の契約書、あれ、本物が残っているらしい。そうなると確かに凄いことをしたようだよ。国を動かした連中は若かったねえ。最近の若いのも頭のいい連中が増えてきている。だから、世代交代をちゃんとしないといかんなと、自分たちを責めたりもする。話は日本の経済、外交、北海道のこと、芝居のこと、はては哲学まで、飲むほどに酔うほどに両手をひろげても間に合わないくらいに広がる。40歳を不惑と論語は言うけど、シモさんが言う。60歳になっても、いまだ迷ってばかりだ。いかんなあ。そこで息をはき、焼酎をぐびり。なに、お互いさまさ。わたしが答える。孔子の論語を上梓したばかりのわたしも、人にはえらそうに論語の講釈をするものの迷いの日々である。シモさん、こう考えよう。迷いや惑いを楽しむ。人間は一生迷い惑いがつきまとうものだと決めて、これを楽しむ。つまり、60歳を「喜惑」、70歳以上を「悦惑」と命名しようや。やけっぱちの発想である。だが、これといって特定の宗教ももたず、神道の学校を出たとはいえ専攻が経済学部という、日本蕎麦屋でラーメンを食べるようなトンチンカンなわたしだから、少々のやけっぱちもいた仕方ない。そうしよう。シモさんも意を決して開き直った。おれ「喜惑」で行く。迷い惑いを喜ぼうじゃないか。窓の外は銀座の夜景。一時よりはぎんぎらネオンがぐんと減った。さびしい限りだ。その晩、「坂の上の雲」が大好きな友人シモさんに、わたしは「坂の下のシモ」と新しいあだ名をつけた。新橋から渋谷行きの最終バスに間に合うために、「坂の下のシモ」氏と10時過ぎに駅前で別れる。風が吹く。暑い夏が行こうとしている。
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■68歳にして過ちを知る。 ■2010年9月13日 月曜日 15時14分1秒

長野県下伊那郡座光寺村北市場。そこがわたしの源風景の場所である。戦中に生まれたわたしは、父の徴兵とともに母の実家に疎開をした。それが信州である。3歳から4歳までいた計算になる。遠く南アルプスが見える。3000メートルを超える赤石岳を大将にして、南アルプスの頂きたちは南北に長く連なる。このアルプスは、また奥行きも深い。1000メートルに満たない里山が手前に並び、その奥に1000メートル以上の山々が並ぶ。そしてその奥に2000メートル級の山々がずらりと並び、さあそれで終わりかというとそうではない。その奥に3000メートル級の山々が並ぶのである。そこはもう視界の果てである。わたしは農家の裏庭の柿の木の枝に座って山々を眺めた。東京浅草で生まれたと聞くが、その風景はまるで気憶になく、記憶をバス停でバスを並んで待つ客に例えるなら、いちばん前に並んでいるのが南アルプスの山々の記憶なのである。田舎もんだ。でも、田園もんと書いたほうがちょっとうれしい気もする。東京の田舎っぺである。わずか3・4歳だから、山の大きさが頭で理解できず、それが地の果てだとも思った。山の向こうで地球がすとんと切れていると言われれば、そう信じただろう。山々の手前に銀色に輝く太めの糸が見える。蛇行している。天竜川だ。山と川。それが教えてくれたものは大きい。まず、人間の力の及ばない、人知ではどうにもならない世界があることを教わった。朝日が昇るころ、山々の稜線が輝く。頂きたちが目を覚ます。ぎざぎざに連なる頂きは、龍のようである。まさにこれから天に昇る龍のように輝く山々は、みずからが光を放つようにも見え、神のようだった。わたしに神の存在を教え、畏敬の念を植え付けたのも山々だ。祖母と母は、そこには鬼が住む、と言った。幼いわたしが遊びに行かないようにそう言ったのだが、とてもひとりで行ける距離ではなかった。座光寺から眺めると、南アルプスまではなだらかに下る台地で、南北に飯田線と国道が並んで走るのだが、ただただ広い台地に見えるだけだった。桃やリンゴの畑や桑畑があって、小さな森と人家が点々とあるのだが、わたしには緑の広い台地しか思い出せない。最近になって弟から座光寺の地図をもらってなつかしく眺めていると、ふと違和感を感じた。わたしは、山々の向こうは遠く大阪や九州につづいていると思っていたが、地図で方向を確かめると、どうやら逆である。天竜川の位置を見ても、わたしは逆を見ていたことに気づいた。山々の向こうは東京だった。わたしは毎日東京の空を眺めていたのだ。東京から中央本線で北上し、辰野で飯田線に乗り換えて南下する。その折り返しの感覚がなかったのだ。68年間そう思いつづけていたから、大いなる過ちを抱きつづけていたのだ。南アルプスを迂回せず、甲府あたりからずぼっとアルプスを抜けて汽車が走ってくれたら、こんな妙な気分にはならなかったはずだ。なによりも、田園はもっともっと近かったはずだ。あの頃汽車で12時間かかったが、いまは高速バスで4時間である。記憶は遠くなるが、距離はぐんと近くなった。
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■ハーバード大学留学記。 ■2010年8月27日 金曜日 15時0分40秒

ロシアのプーチンによく似た教授の話が面白い。普通ならこむずかしいギリシャ哲学の話を、実にわかりやすく楽しく話してくれる。
階段式の広い教室にあふれんばかりの学生がいる。教授は一段高い教壇の上で、クマのようにあっちへウロウロ、こっちへウロウロしながら手振り身振りよろしく熱弁を振るう。学生たちは黒人も白人もわたしのような東洋人もいて、国籍は種々雑多である。講義は英語だ。笑いがたえない。真剣に聞き入り、ノートを取り、よく笑う。だが、雑談はいっさいない。寝ている者など一人もいない。日本でもこれほど熱心な授業風景はそう見られない。
さて、授業の内容はアリストテレスである。「正義」という言葉が出てくる。アメリカらしい言葉といえばアメリカらしいが、なに日本武士道においても「正義」は重要な徳目であるから、この精神は日本のものでもある。アリストテレスの「正義」とアメリカの「正義」と日本の「正義」はどう違うのか? 同じものか? 興味が募る。
アリストレスは、ソクラテス(BC470生まれ)、プラトン(BC427生まれ)の流れを組むギリシャの哲学者で、それまでのギリシャ哲学とは一線を画した。講義を聴き、翌日夢中で竹田青嗣先生の「プラトン入門」を読み漁ったにわか哲学生だから所詮が未熟者、少々の間違いはご容赦を。これまでのギリシャ哲学が「本質」「原因」の追究であったのに対し、「目標」「意志」に考えが及び、「イディア説」をプラトンは唱えた。イディアとは「アイディア」のことで、目標とか意思とか「自分はどうするか」ということだ。
プーチン教授の話が「クマのプーさん」に及び、学生たちの目が輝き、頬に笑みが浮かんだ。その話はこうだ。プーさんが森を歩いている。するとどこからかブーンブーンという音が聞こえる。さて、この音の原因はなんだ? プーさんはきょろきょろとあたりを見回す。木の上で蜂が飛ぶ。おお、蜂だったのか。音の原因は蜂か。簡単に言えば、ここまでがこれまでの哲学。「本質」と「原因」の追究だ。だが、プーさんは次に木に登り、蜂密を食べた。つまりプーさんは「目標」「意思」を持ち行動を起こしたのだ。事物の「本質=真理」「原因」を問いただす思考方法を示すに留まらず、「思慮深さ」とは?「勇気」とは?「正義」とは?「徳」とはなにか?にまで迫るのがソクラテス、プラトン、アリストテレスだった。ソクラテスは、それまでの哲学者たちをソフィストと呼び詭弁者だとして糾弾した。ソフィストたちは「白いモノを黒にしてしまう」危険な存在だった。(いまもそんな詭弁者が多くて困りますが)。詭弁とはモンテーニュが言うように「ハムは飲みたくさせる→飲めば渇きが癒される→故にハムは渇きを癒す」的インチキ思考である。もしあなたの子どもがそんなことを言いだしたら相手にするなとモンテーニュは言う。しかし、こんなようないい加減なことをいう連中が増え、こんなような理論をいかにも正しそうに語る会議も多くなった。プーチン教授が「正義」を持ち出した気持ちがわかる。えらそうに言うがわたしの「正義」論も未熟だ。だが、「正義」が必要であるというプーチン教授に大賛成である。
さて、大事な報告をしなければならない。わたしのハーバード大学留学はわが家の居間である。寝転んでいる。プーチン教授の英語はすべて字幕で読んだ。深夜テレビである。申し訳ない。もっともっと哲学を学びます。いやはや哲学はむずかしい。そりゃそうだ。思想の学問だから、概念で人生とは?人の心とは?などと永遠に解明できない宇宙のような問題を探るのだ。ならば「山は休まない、川は眠らない、命とはそんなものよ」と開高先生のように笑ってウイスキーグラスを傾けるほうがずっといいとも思う。
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■長嶋が10人いる。 ■2010年8月16日 月曜日 10時11分54秒

渋谷。JR山手線の土手の下に「のんべえ横丁」はある。そこは、屋台を寄せ集めたような木造長屋風の酒処が押しくら饅頭のていをなしている一角で、下品なわが後輩の日下部くんは「ションベン横丁」と呼んでいる。昭和の人間には妙に居心地のいい路地である。店々は寄りかかり支え合っているからかろうじて立っているものの一軒だけでは立ってはいられない。くしゃみひとつで吹き飛んでしまう。ほとんどの店には小さなL字型のカウンターがあって、その中でママがひとりですべてを切り盛りしている。
客は5人が入れば満席である。当然のことながら店にトイレはない。そんなスペースはもったいないのである。路地の真ん中あたりと宮益公園に共同のトイレがあって、身分の差貧富の差に関係なく全員がそこを利用する。女性はママからカギを借りていそいそとお出かけになるのである。そんな横丁の中ほどに「淡路」はある。年季の入った暖簾を手で分けて覗くと、萩出身の昔のお嬢さまが割烹着姿でカウンターの向こうにいる。田舎の勝手口のようなまるで愛想のない横引きの戸を開けて入ると、初めてママは笑う。これじゃ一元の客は入りにくいでしょう、と聞くと、うちは客を選ぶからね、と胸を張る。
小京都萩出身のお嬢さまは誇り高いのだ。主義主張がはっきりしている。まっすぐな性格で無愛想、好き嫌いが明確なのである。美しく言えば正直、早く言えばわがままなのだ。類は友を呼ぶ。客たちもまた正直で心地よいわがまま連中が集まっている。まあ、わかりやすく言えば偏屈なんですね。変り者です。人間は不思議な魅力をもっていて、偏屈者や変り者ほど実は内側に触れてみると豊かな個性がちらほら垣間見えて楽しい。クサヤやホヤって嫌いな人はそっぽを向くけど、好きな人にはたまらないほど魅力があるじゃないですか。まさに、あれです。だから常連たち同士も結構楽しくあれこれ会話をしたりする。初めて会う人も気軽に会話に参加する。偏屈ぶりや変り具合が似ているのだろうか。もちろん、じっとりと自分の世界に沈みこむ人もいて、それはそれで大事にしてくれる。
あるとき、隣の席に戦艦大和の生き残り乗組員の方が二人いて、実体験の戦況をまるで目の前のことのように話してくれ、いつも以上に酒が進んだ。Hさんは早くからの常連客の一人で、その変わり者ぶりも格別だ。ウイスキーをボトルキープし、自分でちびちびと水で割りながら悠々と飲むのは彼だけであろう。この長屋造り屋台風の店でウイスキーなどという発想はだれもしない。つまみがお新香や豆腐ですよ、おかしいでしょ。世間はお盆休みで店の客はわたしとHさんだけである。お盆だけど故郷に帰らないの?という会話から故郷はどこ?という話に及び、わたしは父が戦争に行き母の実家である信州飯田に疎開していました、というと、Hさんは、故郷がないのです、母は葛飾に嫁いだのですが、母の妹が実家を継ぎ青山で銭湯をやっているのです、という。哲学者か学者のように言葉を丁寧に話す。青山で銭湯?いやはやそれは贅たくでいいですね。あまり行かないですけどね。
やがて話は海を越え中国へと広がる。数の論理は理屈を超えた強大な力がある。Hさんとわたしは中国のポテンシャルに驚嘆している。野球だっていくらでも強くなりますよ、だって日本の10倍の人口でしょ、長嶋が10人いますから。Hさんはそう言って笑う。中国には長嶋が10人いる。万里の長城の脇で並んでバットを振る10人の長嶋。なるほど中国はすごい。発想も面白いが、言い方ひとつで説得力がぐんと増すことを勉強させてもらった。頭上をJR山手線が通過した。お盆の渋谷、平和な夜である。
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■長嶋が10人いる。 ■2010年8月16日 月曜日 10時11分41秒

渋谷。JR山手線の土手の下に「のんべえ横丁」はある。そこは、屋台を寄せ集めたような木造長屋風の酒処が押しくら饅頭のていをなしている一角で、下品なわが後輩の日下部くんは「ションベン横丁」と呼んでいる。昭和の人間には妙に居心地のいい路地である。店々は寄りかかり支え合っているからかろうじて立っているものの一軒だけでは立ってはいられない。くしゃみひとつで吹き飛んでしまう。ほとんどの店には小さなL字型のカウンターがあって、その中でママがひとりですべてを切り盛りしている。
客は5人が入れば満席である。当然のことながら店にトイレはない。そんなスペースはもったいないのである。路地の真ん中あたりと宮益公園に共同のトイレがあって、身分の差貧富の差に関係なく全員がそこを利用する。女性はママからカギを借りていそいそとお出かけになるのである。そんな横丁の中ほどに「淡路」はある。年季の入った暖簾を手で分けて覗くと、萩出身の昔のお嬢さまが割烹着姿でカウンターの向こうにいる。田舎の勝手口のようなまるで愛想のない横引きの戸を開けて入ると、初めてママは笑う。これじゃ一元の客は入りにくいでしょう、と聞くと、うちは客を選ぶからね、と胸を張る。
小京都萩出身のお嬢さまは誇り高いのだ。主義主張がはっきりしている。まっすぐな性格で無愛想、好き嫌いが明確なのである。美しく言えば正直、早く言えばわがままなのだ。類は友を呼ぶ。客たちもまた正直で心地よいわがまま連中が集まっている。まあ、わかりやすく言えば偏屈なんですね。変り者です。人間は不思議な魅力をもっていて、偏屈者や変り者ほど実は内側に触れてみると豊かな個性がちらほら垣間見えて楽しい。クサヤやホヤって嫌いな人はそっぽを向くけど、好きな人にはたまらないほど魅力があるじゃないですか。まさに、あれです。だから常連たち同士も結構楽しくあれこれ会話をしたりする。初めて会う人も気軽に会話に参加する。偏屈ぶりや変り具合が似ているのだろうか。もちろん、じっとりと自分の世界に沈みこむ人もいて、それはそれで大事にしてくれる。
あるとき、隣の席に戦艦大和の生き残り乗組員の方が二人いて、実体験の戦況をまるで目の前のことのように話してくれ、いつも以上に酒が進んだ。Hさんは早くからの常連客の一人で、その変わり者ぶりも格別だ。ウイスキーをボトルキープし、自分でちびちびと水で割りながら悠々と飲むのは彼だけであろう。この長屋造り屋台風の店でウイスキーなどという発想はだれもしない。つまみがお新香や豆腐ですよ、おかしいでしょ。世間はお盆休みで店の客はわたしとHさんだけである。お盆だけど故郷に帰らないの?という会話から故郷はどこ?という話に及び、わたしは父が戦争に行き母の実家である信州飯田に疎開していました、というと、Hさんは、故郷がないのです、母は葛飾に嫁いだのですが、母の妹が実家を継ぎ青山で銭湯をやっているのです、という。哲学者か学者のように言葉を丁寧に話す。青山で銭湯?いやはやそれは贅たくでいいですね。あまり行かないですけどね。
やがて話は海を越え中国へと広がる。数の論理は理屈を超えた強大な力がある。Hさんとわたしは中国のポテンシャルに驚嘆している。野球だっていくらでも強くなりますよ、だって日本の10倍の人口でしょ、長嶋が10人いますから。Hさんはそう言って笑う。中国には長嶋が10人いる。万里の長城の脇で並んでバットを振る10人の長嶋。なるほど中国はすごい。発想も面白いが、言い方ひとつで説得力がぐんと増すことを勉強させてもらった。頭上をJR山手線が通過した。お盆の渋谷、平和な夜である。
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■星を求めて。 ■2010年7月29日 木曜日 17時5分55秒

アメリカの偉大な広告マン、レオ・バーネットさんの有名な言葉がある。「星を求めて手をのばせ」というものである。続く言葉がいい。「もし、星がつかめなくても決して泥をつかむことにはならない」というものだ。実にすてきな言葉だ。わたしは広告屋だからよくアイディア会議をやる。そして、ときどき言われるのは「それは理想論で、現実的ではない」と。その場合に二つのことを考える。まず予算である。予算的に合わないという意味で理想論と言われる場合は、すぐアイディアを修正する。論議がムダだからだ。だが、予算以外では「理想論」を簡単に捨てない。それより「理想がなぜ悪い。そんなわびしい現実論は広告のプロとしてみっともないではないか」と開き直る。わたしの理想論は、そもそも「正義」という絶対価値から生まれている。「正義」「義」とは、武士道の重要な価値で、「人が幸せになる道」のことである。それは単なる理論であって現実ではない、という人には「正義」はない。あると信ずる人間には、あるのである。少なくとも、あると信ずる人間のほうが、ないという人間よりはるかに「正義の近く」で生きているのである。それでいいではないか。「正義」はある。そして「理想論」である。わたしのアイディアは、理想論の場合が多い。それは、広告をする商品なりお店なり会社なりが「理想的」というのではない。「あなたの理想的な生き方に役に立ちます」という意味での「理想論」である。「理想的な商品」という広告もときどき見られるが、最近の消費者は賢くなっていて、それが「ただの自慢話じゃないか」とすぐ見破る。表現はシンプルに、わかりやすく、伝わりやすくしなければならないが、アイディアは深く、きちんと考えられたものでなければ、すぐに見透かされる。「広告とは理想論だ」と乱暴に言いたいが、考えの浅い人間は誤解する。さて、「現実論」を振りかざす広告は「人の心を打たない」。つまり「つまらない」のである。人間の脳は「ご都合主義」であり「自分主義」である。だから、アイディアを練る人間も商品も「自分主義」になり、広告が自慢話になる。それをカバーするのは教養である。消費者に対する深い「思いやり」である。消費者のほうも「自分主義」だから、その商品は自分にどう役立つの?どう楽しいの?と考える。ところが、「自分主義」はあくまで個々のもので10人が10人とも同じ価値観ということはあり得ない。そこでアイディアに深みを持たせなければならない。消費者が「あ、わたしのことを考えていてくれる」と感じさせなくてはならない。浅いアイディアは「面倒くさいから自慢話にしておこう」とコミュニケーションを自分から放棄している。アイディアの力の差はそこにある。レオ・バーネットの言葉「星を求めて」というのは「理想論」に近い言い方だ。「上質」とか「高度」と解釈してもいい。そうすれば「泥をつかむことにならない」つまり中途半端な失敗はしませんよ、ということだ。広告のアイディアは、そうでなくてはならない。コンピュータの発達が広告づくりを容易にした。同時にアイディアまで安易にしてしまった。それは商品や会社をみずからダメにしてしまう。人の心は複雑で賢い。消費者は狼のように慎重で賢いのである。まず、消費者に感謝する心をもち、尊敬し、幸せを願う気持ちになって広告アイディアを練らなければならない。最近広告に力がなくなったと聞くが「とんでもないですよ」と答える日々である。
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■きもの、ひもの、けもの。 ■2010年7月20日 火曜日 15時13分8秒

文章にはフィクションとノンフィクションがあります。フィクションは創作です。ノンフィクションは創作なし、事実のみを表現します。そこが大きな違いです。そこでエッセイはどうだ、となるとこれが都合よくその中間あたりをふわふわ漂っているのです。たくさんのエッセイストがいて、たくさんのエッセイがありますから一概には言えませんがほぼそんな感じでしょう。さてわたしはというと、広告コピーライターですからどちらかというとフィクションとノンフィクションを行ったり来たりです。広告は事実もイメージも大事にします。夢を調味料に使います。誇大広告は絶対にいけませんが、多少大げさになることもあります。こっちを見てください。この広告を見てください。注目をしてくださいという思いがありますから、デフォルメします。五木ヒロシのモノマネをするコロッケほどではありませんが、お仲人さんが嫁さんを誉めるくらいでしょうか。さらに、わたし個人がエンターテイメント好きですから、楽しくしようというサービス精神が文章に現れます。でも、嘘はありません。そこで、今回の伊豆の旅の話です。嘘のようです。でも嘘はありません。あるきもの会社のPR誌の仕事で伊豆に行きました。スタッフは4人。アートディレクター兼デザイナーの佐川くん、コピーライターの伯田くん、写真家の中山さん、そしてディレクション担当のわたしです。きものをテーマにし、女性をテーマとする1泊2日の取材旅行です。伊豆には厚木から小田原に出て海岸線を走り、湯河原から熱海を抜け、網代に行きました。網代の港町を走ると、開け放った車窓からアジのひものを焼くうまそうな匂いが飛びこんできます。土産店の店頭でアジを焼いています。通りに面して丁寧に天日干しの網に並べられたアジたちが太陽に向かって体を開いています。「ひもの」と大きく書かれた看板が町中に立ち並んでいます。「きものの取材でひものを食おう」。そんなダジャレを言いながら、海に面した食堂に寄りました。網代は昔、徳川幕府に魚を献上する漁師たちの町です。それは誇りです。ですから、熱海市にありながら温泉の開発が遅れました。修善寺を訪れました。北条政子の生誕地、韮山に行きました。踊り子を訪ねて湯ヶ島から河津七滝を歩きました。伊豆の山山はアルプスのような険しさはありませんが、鬱蒼とした森は深く、森の奥に森があり、山の向こうに山が連なります。大きな渓谷、小さな渓谷、中くらいの渓谷が次々に現れます。風が吹くと霧が揺れ、実に神秘的です。その日は熱川に泊まりました。海の幸を堪能し、温泉に浸り、取材の疲れを忘れました。さて、次の朝です。朝食を取り、コーヒーを飲み、車を走らせて海岸線を北上しました。間もなく、国道沿いに「ひもの」の看板が並び始めました。「ひもの」「ひもの」「ひもの」また「ひもの」です。そのうち助手席の佐川くんが、悲鳴をあげました。「けもの、です。ひもの、ひもの、の看板に混じって、けものっていう看板がありました」。「嘘でしょ。なにかの間違いでしょ。きものの取材できて、ひものの看板、次にけものの看板は出来過ぎでしょ。だいいちけものってなんなの。なに食わせるのよ。ライオンかトラでも食わせるのか?」ハンドルを握る伯田くんが車をバックさせます。みんなで車窓から首を突き出し、看板を丁寧に見て走ります。と、ありました。「けもの」という看板が道端に立っています。「嘘だろ」。嘘ではないのです。動物公園の入口。「けもの」の看板が確かにありました。人騒がせですが、笑いました。4人で笑いました。このユーモア。辺りに「ひもの」の看板がなければ、動物公園だって「けもの」なんていう看板は立てなかったでしょう。嘘はいけません。でも、だれかを愉快にさせたり、夢や希望のかけらでもエッセイで書けたら、それは皆さんお許しくださるものと願っています。事実はエッセイよりも奇なり。
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■南半球の奇蹟。 ■2010年6月28日 月曜日 15時1分11秒

ありがとう、ありがとう、サムライジャパンの勝利はあなたのおかげです。デンマーク戦勝利の朝、知人友人のだれかれかまわずお礼のメールを送る。かつて、モハメッド・アリが奇蹟を起こした南半球で、岡田ジャパンが奇蹟を起こした。アリの場合は確かに奇蹟だったが、わがサッカーチームは奇蹟ではない。4つの練習試合でまるで歯車が合わずぼろぼろになり、進退問題まで噂された岡田監督は、選手について一言も愚痴をこぼさず、選手を信じ、常に前向きの発言に徹した。
選手のだれひとりとして監督を批判する者はいない。監督を信じ、仲間を信じ、自分の仕事に全力を尽くす覚悟が表情や少ない言葉に表れていた。覚悟はあるが、悲壮感はまるでない。落ち着いている。いつもの浮ついた虚勢がない。岡田監督の顔が引き締まった。選手たちの顔が引き締まった。サムライたちが本当にサムライの顔となった。勝利への執念さえ消し去った清々しい顔で、彼らは南アフリカに向かう機乗の人となった。 
カメルーンは強いチームだ。フィジカル面では圧倒的に日本に勝っている。早い。とにかく早い。一歩一歩の歩幅が大きいのに足の回転速度も日本以上である。攻撃力ではるかに日本を超える。だが、直線ではなく曲線なら日本のほうが早い。チームプレイの精密さなら日本が上だ。そして守備力では日本が勝る。攻撃は少々荒くてもいいが、守備の荒さは致命傷につながる。勝敗は1点差になる。負けても1点差。勝っても1点差。1対0。2対1。どちらが勝っても3点は取れないだろう。1点リードの後半、カメルーンの怒涛の攻めを凌いだジャパンには確実に力があった。
2回戦、オランダ戦での戦いは敗れたとはいえ、ジャパンの地力が見えた。総合力で格上のオランダに、あわよくば勝てる試合展開だった。デンマーク戦の勝利は奇蹟ではなかった。だが、わたしの予想では、1対0、2対1での勝利だった。ところが3対1で快勝。試合前、デンマークの監督が語っていた通り、ジャパンの世界トップクラスのチームワークの勝利である。フィジカル面で劣る日本の勝機は、チームワークである。政治においても経済においても同じである。チームワークこそが日本の成功の最大のキーワードであることをサムライジャパンが教えてくれているというのに、選挙戦が始まったこの地では、ちびちびした足の引っ張り合いしか見られない。
大河ドラマの中で勝海舟が叫ぶ。世界を相手にしなければならないのに、なんで小さな日本の中で争わなければならないのだ、と。会社においてもチームワークのできている会社が強い。報告、連絡、相談がしっかりとでき、同じ目標に向かって心をひとつにしている会社が強い。サムライジャパンが証明してみせた日本のチームワークの見事さ。これが日本の明日を創る。さて、心配がある。3対1でなく、1対0か2対1で勝ちたかった。決勝トーナメント、パラグァイ戦、心に隙が出なければいいが。勝者は勝ち過ぎてもまたダメなのである。油断は蟻の穴から忍び込む。こう、えらそうに語ったが、わたしはにわかサッカーファンなのである。ありがとうとメールを送ったみなさんに、実は眠くて試合はライブでは見ていなかったと白状して、いま白眼で見られている。すみません。ただのお祭り男でございます。
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■渋谷梁山泊。 ■2010年6月14日 月曜日 14時34分7秒
中国山東省の西、人里離れた梁山の麓。宋代の盗賊宋江らが天険の砦を結んだ。その名は「梁山泊」。後に「水滸伝」は言う。梁山泊に集いし豪傑・野心家たちが国を動かした、と。
盗賊である。盗賊でありながら、彼らは人々の心をとらえた。なぜか。まず梁山泊は、くる者を拒まず去る者を追わない。自由である。資格はない。資格はないが、ただ一つ条件がある。人に役立つものをなんでもいいから一つ持ってくること。だれよりも早く走る足でもいい。だれよりも遠くを見る目でもいい。知恵でもいい。人に役立つものを一つ。
その昔、四谷のオフィスで初めて梁山泊を開き、やがて100人近い仲間が集まった。アーチストがいた。フリーターがいた。広告代理店の営業マンがいて、役者がいた。商社マンがいて、中国福建省からきたヤクルトおばちゃんがいた。設計士がいた。四谷駅前で雑誌を売るホームレスがいて、音楽家がいた。コピーライターがいた。しばらく息を潜めていた梁山泊は、渋谷の番長こと小池氏の寛容により再開された。
小池氏は180センチを超える長身で、神奈川の高校時代ではゴールキーパーながら相手ゴールに一発で蹴り込んだ実績をもち、新日本プロレスにスカウトされたという貴重な経験をもつ。販促プランナーであり社長である。
とある金曜日、7時。会費1000円。昔と同様だ。ビールとつまみ代になる。人々は集まった。第一部は、自己紹介と10分のスピーチ。テーマは「時代」。このテーマはわたしと番長で決めさせていただいた。二部は8時から。フリートークとなる。わたしは6時半に渋谷西口のモヤイ像で待ち合わせた映像ディレクターの長江氏と会場である小池氏のオフィス「クロスポイント」に向かう。カレンダー展で経済産業大臣賞を獲得したアートディレクターの松本隆治氏がいち早くきてくれる。
松本氏はかつての梁山泊の生みの親の一人だ。神田の広告代理店の社長加藤氏がビールを山ほど抱えてやってきた。初めてのことで遅刻をする者もいた。長江氏と松本氏が話し込み、加藤氏が加わる。全員がそろわないうちに時間がきて、一人ひとりが順番に「時代」をテーマに話す。「時代」についてならなんでもいい。全員が一人の話に耳を傾ける。そういう機会はなかなかないものだ。占い師が人気のあるのは話をじっくりと聞いてくれるところにあるのだという友人がいるが、うなづける。話の内容と話ぶりでその人が理解できる。気の合いそうな者、そうでもなさそうな者、興味深い人。その後のフリートークにつながる。
販促プロデューサーであり会社社長の原田氏がアジアの話をする。デジタルサイネージのプロ井上氏が関西弁について話す。クロスポイントのプロデューサーでわたしがシェフと呼んでいる料理の達人伊藤氏が故郷の話をする。経理の専門家であり会社役員でわたしの弟の高野守男が話し、唯一の女性ユカ嬢が話す。加賀マリ子のデビュー当時の映画「月曜日のユカ」と同名のユカ嬢だが、加賀マリ子に負けない美形でありイベントプロデューサーとしても非常に敏腕だ。話を聞き、驚いたりほろりとさせられたり、だれもが相槌を打ったり、首を振って否定したり、まあ人間は面白いと改めて感動する。
いろいろな「時代」いろいろな「人間」いろいろな「人生」が語られる。じっくり自分のことを話す機会がない。じっくり人の話を聞く機会がない。梁山泊のよさはそこにある。相手を理解しようとする。興味が生まれる。人が自分を理解してくれる。弟が言った。国を動かすかどうかは別として面白い。梁山泊は自由だ。年齢、性別、職業に関係なくだれでも参加できる。豪傑や野心家でなくても大丈夫。唯一のルールは、決して仲間を裏切らないことだ。その後、仕事につなげるのもいいし、飲み仲間になるのもいい。異業種交流というより異人種交流とわたしは思っている。長江氏の、人とのふれあいの不思議がいまの自分につながるという話に大いにうなづき、いつも歯切れのいい加藤氏が機械系の営業をしていた過去を聞き、驚き、原田氏の話に明日の日本を伺う。人づきあいのうまい井上氏は近江商人の末裔だと胸を張る。続くフリートークも燃え、朝の4時まで5人が残った。梁山泊は盗賊の集団ではない。
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■霞が関赤信号すきやき物語。 ■2010年5月29日 土曜日 10時45分9秒

市谷から新橋行き最終バスに乗り、霞が関バス停で降りる。降りたのはわたしひとり。もともとそのバスに乗っていた客は二人だけ。残された客もさびしいだろう。9時半を過ぎている。左を見ても右を見ても人影はない。前のビルから漏れる灯りが歩道に斑模様をつくっている。斑模様が揺れているのは、街路樹の銀杏の緑が夜風にそよぐからだ。銀杏の豊かな緑が頭をなでる。重いバッグをよいしょと肩に担ぎあげ、ワンカップ酒を片手に歩きだす。穏やかな下り坂。足を上げるだけで前に進むからこれは楽だ。逆なら大変。たばこを吸いたい。ダメダメ。銀杏が顔に触れても避ける必要はない。放っておく。渋谷行きのバスに乗るために霞が関3丁目まで歩く。6・7分くらいか。桜田通りの交差点を右に曲がる。経済産業省の灯りがこうこうと灯っている。今日は機嫌がいいから「ご苦労さん。お国のためによろしくね」などと独りごとをいいながら見上げる。機嫌の悪いときは「働け公務員」などと叫んで逃げる。通りに人影はない。と、後から駈けてきた若い娘が追い抜いて行き、赤信号を平気で走り抜ける。そりゃまずいでしょ。だれも見ていないからって、それはまずい。この辺りならその娘が公務員かお役所勤めだとだれでも思う。そうでなくてもそう見られる。デートに遅れないために走る。それはわかるが、やっぱりまずい。見てなきゃいいという発想がまずい。たとえば永田町の立法府が霞が関の行政府に「すきやき法案を通したから食材を買ってきてくれ」と指示する。行政府は、鍋、肉、野菜、醤油、砂糖など買いにスーパーに走る。そこで問題だ。安売りしてたから予算が余る。余ると報告すると、次のすきやき法案実施のときに予算が減る。多分減る。でも、次のときスーパーが安売りしているかどうかわからない。足らなくなる。困った。このお釣り、どうしよう? より多く予算を取ることが「えらい」と褒められる世界にいる。余った金を手に握りながら、困る。だれも見ていない。国民は見ていない。さて? どうする。公務員が国民のやり玉に上がるのは、国民の税金を使うからで、これが自分の金や、自分たちが稼いだ金ならどう使おうが文句をいう筋合いはない。国民も一度納めた税金だからもう自分のものではないけど、なんか腹が立つ。さらに、なにかに乗じて私腹を肥やすなんて、これは言語道断。天下りのはしごをして巨額の退職金を自分のものにするなんて、わたしができないだけに余計に腹が立つ。すきやきのお釣りをごまかすな。まあそんなことはしないだろうが、だれも見ていないからって赤信号を無視しちゃやっぱりダメだ。公務員は、国民のお手本にならなくちゃ。でも、なんで「すきやき」なんか思い出したのだろう。そうだ、腹が減ってるからだ。霞が関のビルは、ここのところ夜遅くまで灯りが消えない。えらいなあ。使命感に燃えて一所懸命にお国のために働く公務員の若者を何人か知っている。頭もいいし、人柄もいい。そういう人たちのためにも、一部のやからに私腹を肥やしたり、赤信号を無視したりしないでほしいと願う。雨が降ってきた。腹減った。さあ、帰ってかみさんのあったかい手料理に舌づつみを打とう。「すきやき」なんて口が裂けてもかみさんにいえない昨今である。もっとも、口が裂けたらなんにも食えない。
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■人が集まる。 ■2010年4月30日 金曜日 4時18分25秒

渋谷駅西口バス停広場わきの歩道橋を渡り246号線を越えると、タコ足広場に出る。見方によると8本の道が交差しているように見える広場。それでタコ足とわたしは呼んでいるが、だれも賛成しないところを見るとこの呼び方少々無理があるのかも知れない。番長という愛称をもつその男の事務所は、タコ足の1本を松濤方向に上って行く。うまそうな焼鳥屋があり、テラス席を出す洋風パブがあり、山口瞳の小説に出てくるような居酒屋がある坂をとことこ上って行く。コンビニの前を通り、テニスショップの前を抜ける。坂は石畳の通りで、一方通行だ。この坂、車道と歩道のバランスが悪く歩きにくい。歩道は狭くはないが、広くもない。中途半端だ。ガードレールに毅然としたところがない。変に歪んだり曲がったりしている。わたしのようにだらしのないガードレールなのである。所々で電柱が出っ張って頭にくるが、電柱に当たるわけにはいかないので黙って睨みつけるだけだ。体力が確実に衰えているわたしは、テニスショップの辺りで疲れて果てて一度立ち止まる。前からきた人とすれ違うとき、相手の体を避けなければならない。つまり歩道の幅が2人前ではなく、1.5人前なのだ。中途半端でしょ。だから車道に出て相手を避けなければならない。どうにか坂を登り切るとセルリアンタワーの裏手に出る。ホッとした所にあるローソンの角を曲がると、番長の事務所はもう近い。桜が咲きました。金曜日、花見にきてください。番長から電話があった。二つ返事で出かける。西口モヤイ像前で友人のアートディレクターのMさん、プロデューサーのHさん、デザイナーのHくんと待ち合わせる。事務所のドアを開けると適度に広いスペースの正面に会議用のテーブルがある。ガラススペースの多い窓が解放的で気分がいい。ほぼ正四角形で使いやすそうな部屋である。テーブルに座る男が挨拶をする。だれだろう。わからないまま軽く頭を下げる。わたしは結構愛想のいい方である。かみさんに言わせれば面倒くさいことが嫌いなだけでしょとなるが、そうかもしれない。丸太を荒く削ったようなごつい顔。長い髭。白髪まじりのグレーの髪。黒ぶちのメガネ。メガネの奥の目が笑っている。知り合いだ。久しぶりです。男が言う。わからないでしょ。そう言う。愛想のいいわたしは曖昧な表情で過去の記憶のスクリーンをフル回転させる。Aです。赤坂時代にはお世話になりました。おお、Aさんか。広告のプロデューサーだ。人と会うのは楽しい。20人の予定が50人になって、番長の事務所はラッシュアワーの渋谷駅状態となる。4階の窓から下を伺う位置に桜が咲くが、覗く者もいない。桜がつまらないのではない。桜の花以上に人と人の話に花が咲いているのである。座る者。立って話す者。壁に寄り掛かって酒を酌み交わす者。酒びんを持って人と人の間で揉みくちゃにされている者。あっちで挨拶、こっちで握手。みんな笑っている。番長は広告代理店の社長で、広告の企画や販売の企画を得意とするプランナーだ。集まっているのはほとんどがその業界の面々である。広告業界は経済と比例するもので、いま、すこぶるよろしくない。だが、みんな笑っている。番長は183センチのでっかい体ながら、蚤の心臓なんですと当人が言うように、まあとんでもなくやさしく気持のいい男である。人を集める徳を持っている。でっかい体の上に、アニメ日本むかし話に出てくる村人のような、単純で無垢な顔が乗っかっている。神奈川県の高校でサッカーをやっていてゴールキーパーだったが、ゴールキックがそのまま相手のゴールに入ってしまったという武勇伝がある。デザイン事務所の社長のОくんがわたしに言った。人が集まるのはいいですね。元気が出ます。わたしは答える。預金の数より人の数だね。かみさんが、預金も大事よと叫ぶ声が聞こえた。活力にあふれた渋谷の夜だった。
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■100か0か。 ■2010年4月14日 水曜日 1時5分7秒

日本人は潔い。世界の人々にそういうイメージを与えていると誤解しているのはわたしだけだろうか。確かに武士道などぱらぱらとめくってみると、潔いように見える。だが、この自分たちでさえわかっていないいい加減なイメージが実は相当禍し、損をしているのではないかと最近つくづく思う。潔いというより、極端なのである。潔いという言葉にはまだ心地よさがあるが、極端という言葉には素直にうなずけない響きがある。潔いと極端は兄弟のように似て見えるが、実は敵同士のようにまるで違うのだ。あ、極端な言い方か。かみさんにしてもそうだ。いつも料理を誉めておいしく食べているが、今日の味噌汁ちょっと味が薄いなあとか、あるいは今日は少し濃いかな、とか一言でも言おうものなら、わかったもう一生料理なんか作らない、などと恐ろしいことを平気で言う。なんですぐ一生になっちゃうわけ。これは、潔いのではない。極端なのだ。だからわたしはかみさんの料理を絶対に批判しないことと固く決心している。仕事にしても、ただ一回のミスを、あいつは年中ミスばっかりしている、などと極端に決めつける上司がいる。そのくせ一度部長を誉めると、あいつは将来性があるとか、わけのわからない極端を平気で言う。潔いのではない。極端なのだ。民主党の支持率にしてもそうだ。ちょっといいことを言ったりやったりするとぐぐーんと上がり、小沢問題ではどどーんと下がった。極端だ。大勢の国民が、わーとあっちに極端に走り、わーとこっちに極端に走る。それまで、余裕があっていいねえ、などと言われて喜んでいた総理も、沖縄問題ではただの優柔不断と言われ、支持率はがた落ちとなった。日本人は極端だ。だいたい、100か0か。白か黒か。いいか悪いか、などという議論は単純すぎて、裁判所では必要だろうが、一般社会とはそうそう単純にはいかない。学校の試験だって、100点か0点かではなく、ほとんどがその間の63点から28点くらいの間を学生たちはうようよしている。だいたいが100点満点の人間なんかいない。どこかに弱みをもっている。神じゃないのだから。そのかわり0点の人間もいない。白か黒かという単純なものではなく、その間のグレイの中でうろうろ暮らしているのが人間だ。いいと悪いの間のよくわからないあたりをちょろちょろ生きているのが人間だ。ところが、最近の会議にしても、打ち合わせにしても、この中途半端な、あるいはとても人間的な部分をすぐに吹っ飛ばしてしまう。急ぎ過ぎるのか、面倒くさいのか。ていねいさがすこぶる欠けている。アイディアを吟味しない。もう一歩突っ込んで考えない。いま、物が売れない時代だが、もう一歩突っ込んでアイディアを吟味し、ていねいに考えを練れば、まだまだ売れるのだ。100か0ではなく、63とか47とか、そういうファジーなことをしっかり見つめることによって、もっともっと共感してもらえるアイディアが生まれるのだ。潔いなどと格好をつけて、ていねいにやることから逃げている人間が多すぎる。人間づきあいにもていねいさが足りない。会話ひとつにしても、ていねいさに欠ける。これは、わたし自身大いに反省するところだ。以心伝心などすでにないと考え、ていねいに話をすることだ。情報社会なのに情報をていねいに伝えないから、仕事がうまく進まない。スローライフという言葉はすでに時代の後のほうにいるが、この言葉の中にはていねいに生きるというすばらしいメッセージがあった。100か0かなどと面倒くさがりの愚かで極端な問題解決より、人間らしい中途半端な最善の解決をさがしたい。ていねいに、もう一歩突っ込んで考えたい。
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■雑音ケータイ ■2010年3月25日 木曜日 1時42分50秒

相手のケータイから雑音が聞こえる。声はきちんと聞こえるから問題はないが、電車の駅からかけているようだ。プラットホームのマイクの声が聞こえる。3番線に電車が入るというアナウンスがBGMのように耳に入る。用件は伝わるから、十分に電話の役割は果たす。あるとき、またその彼の電話に雑音が入る。波の音だ。海猫の声も聞こえる。海ですか?と聞く。そうです、今日は仕事で鎌倉に来ています。あら大変。お疲れ様。いえいえ、貧乏暇なしです。ところでオフィスですね?と相手が聞く。昼飯いっしょに食いませんか?と聞く。え、だって鎌倉でしょ? 大丈夫です。すぐ行きます。そう言って相手は電話を切る。すぐと言っても鎌倉からならどんなに早くても1時間以上かかる。どうするというのだ? するとオフィスのドアがトントンとノックされ、ドアが開いて彼が覗く。あれ、鎌倉じゃないの? いえ、ビルの前から電話したんです。でも波の音が聞こえたけど。海猫の鳴き声まで。そうですよ。ふたりで表通りのラーメン屋でランチを食べる。で、さっきの電話だけど。わたしは聞く。どうして波の音が聞こえたのかなあ。そう、この前はプラットホームにセットしたんだ、と彼が言う。渋谷駅のね。ああそうだ。駅から電話をもらったことを思い出す。セット?セットってなによ? わたしはいぶかって聞く。これ、雑音ケータイなんだ。彼が笑ってポケットからケータイ電話を取り出す。普通の形のシルバーのケータイで、特別な点はなにもない。普通のケータイじゃないか? そう、見た目はね。ここのキーを押して通話するんだ。彼が並んだキーボタンのひとつを指さす。いいかい。彼が言い、電話をかける。わたしのケータイが鳴り、出ると彼の電話から潮騒が聞こえる。ではこっちね。彼がかけ直してくる。プラットホームの音が聞こえる。こっちはどうかな。がちゃがちゃと音がする。雑踏が聞こえる。声が聞こえた。チューハイ2つ。そう聞こえた。居酒屋ですよ。彼が笑う。またかけ直す。鳥のさえずりが聞こえる。風の音も聞こえる。森です。ほう。もう驚くしかない。これは空港です。ジェット音が聞こえる。これ、映画館ね。これ、マージャン屋。これ、事務所の音。事務所の音まであるの? ええ、70種類入っています。かみさんへのアリバイづくりに使うのか? まあね。もっと面白いのもあるんですよ。これ、なんだと思います。女性の声だ。そうです。じゃあこれは? これも女性だ。そう、じゃあこれは? これも女性だ。最初が日本人の女性。次が中国人。その次がロシア人の女性です。すごいね。すごいでしょ。男性の声も5人入っているんです。へえ。クラシックも10曲入っています。面白いですよ。でも、もうこのセット止めようと思っているんです。どうして?面白いじゃないか。変な声が入るんです。変な声? そうメニューにない声。なに、それ? そうなんです。そういう人が増えているんです。そういう人って? このセットの登録者にメニューにない声が入るんです。なに、それ? 霊です。霊の声が入るんです。霊?霊って、霊の霊か? そうです。不思議でしょ? 不思議って言うより気持ち悪いね。そう、それで解約しようかと思っています。でも、なんで霊の声が入るんだろう? そうですよね。理屈も理由もわかりません。でも、止めようと思います。その日、彼は解約した。やれやれと思う。次の日、わたしがケータイで電話をすると相手から、あれ女の人の声がしますねと言われ、ぞっとした。さて、ケータイはどこまで進化するのでしょう。 
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■なぜ、いま、竜馬? ■2010年2月28日 日曜日 2時44分51秒

NHKの大河ドラマは、大いなる啓蒙作業だ、偉大なるマーケティングだ、などと回りの友人に叫んでいたら、「じゃあ、なぜ、いま、竜馬なんだ?」と聞かれた。酒の上のいい加減な話だからそれほど真剣ではないが、飲み話ながらある納得はしたいと思った。
「宮本武蔵」をあるときやった。これは、NHKが「いま、日本のためには個人の才能こそが大事よ」と世間に言ったんだと思う。スキルという言葉が大流行りだった。個々の才能を磨いてそれを国の力にする。なんだか資格資格と騒ぎ出したのはその頃からではないかと思う。
あるとき「利家と松」をやった。これは、「いま、夫婦で力を合わせようね」と世間に言ったんだと思う。大河ドラマのタイトルで二人の名前がついたのは初めてだという。考えてみると、景気が後退する一方で世の中の亭主たちは大変な目にあっている。ここはぜひ「奥がたの力」を借りねばならない。そこで「松」が登場した。世の中の奥さん、ぜひ松になって利家を助けてほしい、そういう願いがこもっていた。
「新撰組!」は集団の話だ。三谷幸喜さんは実におもしろい人で、新撰組のタイトルの後ろに「!」をつけて、「ね、これがいいでしょ」と言った。いいです。実にいい。でも、どういいのかよくわからない。そのわけのわからないところがいいのだ。新撰組という名詞に感動マークをつけてしまったのは快挙だ。仲間を信じ、みんなが幕府を守るという目標に向かって命をかける。近藤勇たちは、最初日本という国を守るために京に上るが、それがいつの間にか徳川幕府を守る側に回され、最後は朝敵、国賊にされてしまった。さらに言うと、新撰組の面々はエリート武士集団ではない。むしろ、武士として生きたいと願う下級武士や農家の連中であり、武士を夢見る最後の面々であった。だから、新撰組ご法度を破るとやたらに切腹させた。規律である。仲間を信じ、守るべきひとつの目標をもち、規律を守って命をかける。武士道という日本の思想原点が浮上した。日本にはっきりとした主張がほしいという啓蒙か。あるいは各自が信念を持とうよ、という啓蒙か。エリートなんかじゃなくてもっと普通のわれらで時代を創ろうよ、という発信だったのか。
さて、大河ドラマはいま「龍馬伝」である。なぜ、いま、龍馬なのか? 新しい日本を創るために大活躍した男である。世界的視野をもつ男である。新しい日本。グローバル。幕府にも長州にも薩摩にも土佐にも縦横に行き来し、敵も味方もなくすべての力を結集して、世界の中で堂々と生きていく明日の日本のために旧体制を変えた。そして、龍馬はエリートではない。土佐の下級武士だ。ここにも大いなるメッセージがある。志だ。明日の日本のために立ち上がる熱い志がある。力強い行動がある。敵味方以上にもっと大きな目標がある。世界の中の日本という発想がなくてはならない。身分に関係なく、男はみんな龍馬になれ。そして、このドラマで龍馬の分身として描かれている岩崎弥太郎の経済力もまた啓蒙したいところだ。実際、龍馬が天敵である薩摩と長州を結んだ手腕は、武器と米を使った商社の手法だ。表向きに武器を持てない長州に薩摩の名前で軍艦を持たせ、米のない薩摩に長州の米を回した。天衣無縫とも思える純粋な発想が、むしろ天才を思わせる。
さてさて、大河ドラマの啓蒙が通じて日本に何万人の龍馬が生まれ、新しい日本が創れるのだろうか。出てこい、龍馬、勝海舟、西郷隆盛。
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■アトランティスはどこだ。 ■2010年2月12日 金曜日 4時56分1秒

歴史か。神話か。寓話か。想像を絶する先進の文明をもちながら、大地震と大洪水のためにたった一夜にして消えた幻の大陸、アトランティス。その名をつけたのは、プラトンだという説もすでに消えたようだ。紀元前1600年、シリアにはカナン人、アナトリアにはヒッタイト人、ギリシャにはミュケナイ人がいた。エジプトは新王国時代。北の地中海を見ると、そこに大きな大陸が浮かんでいた。長い海岸線が見え、奥に高い山々が立ち並んでいる。クレタ島。この島がアトランティスだという説が有力だ。また、大西洋にあったのだという説もある。アトランティックオーシャン、アトランティスの海という名の大西洋。だが、アトランティスは海神ポセイドンの息子アトラスから取られた名で、大西洋とは無関係だという者もいる。以前、あるゲームメーカーの仕事でミニカーの新シリーズの開発をした。その頃、ミニカーブームであらゆる種類のミニカーがすでに店頭に並び、新しい発想が浮かばず苦悩した。ある日、ふと目にしたアトランティスを描く一冊の本。一瞬にして海の底に消えた幻の大陸では、中央にある大型の太陽電池で宮殿はもちろんすべての民の生活を賄っていたという。高い山の中央にある神殿を守るように中腹には軍の設備が配備され、港にはいくつもの堤防が設けられて海軍の艦船が並んでいる。港に近い裾野に点々と街は続き通りには車が行き来し、驚いたことにはそこにはタクシーも走っていた。もちろん全部電気自動車だ。それをモチーフに、アトランティスミニカーシリーズの開発を始めた。アトランティスの人々の生活を想像することは神々の暮らしを想像することだった。30種類ほどの車を開発し、さらに周辺の国々を創造して、軍事用の車まで考えた。このシリーズは見事に売れなかった。メーカーもいろいろヒントをくれたが、ほんの数種類を除いてまるで売れない。やがて、ミニカーブームは去り、このシリーズも消えた。やはり、幻をモチーフにしたのが悪かったのか。シリーズそのものが幻となった。ある人からアトランティスはやはり大西洋のどこかにあるんだ、と説得されたのはその頃だ。バミューダの海底に強力な磁気を発するなにかの存在がヒントだという。これも太陽電池だという。バミューダトライアングルの中心だ。その磁気が航空機や船舶の計器を狂わせる。この海底の深く壮大な海藻の森で育ったウナギが故郷の川に帰るのだが、不思議なことに半分は北アメリカ大陸に向かうが、残りの半分が大西洋の真ん中を目指すという。ウナギは川を目指すのであって海を目指すのではない。だが、ゆく先に川はない。かつてそこに大陸はあったんだとその人はいう。ウナギが教えていると、かなり強引にその人はいい張る。エジプトの選ばれた人々は、アトランティスの大学に留学していたと熱弁をふるう人もいた。壁画に出てくる動物の仮面をかぶった神々のような人たち。あれがアトランティス人だという。だとすると、アトランティスはやはり地中海、クレタ島あたりか。歴史か。神話か。寓話か。神が人間になる時代。巨大人から通常の人間に移る時代。神話が歴史と交差する頃。アトランティスはあった。幻ではない。最近クレタ島付近で、大きな海底宮殿の一部が発見された。それでもあなたは寓話だといい張るのですか。
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■梁山泊へ。 ■2010年1月25日 月曜日 2時7分47秒

中国山東省の西、えん州の南東、人はおろかすべての命さえ寄せつけぬ天外の地。雲を蹴散らし、青空を切り裂いて梁山は聳え立つ。その悪鬼の形相にも似た異様なむき出しの岩山を仰ぎみて人々は噂する。神さえ避けて通るだろうと。その天然の要塞梁山の麓、鉅野沢(きよやたく)と呼ばれる沢に男たちは終結し、砦を築いた。梁山泊である。時代は宋。頭領は宋江。梁山泊に入るには資格はいっさい不要だ。入るのも自由なら、出て行くのも自由。くる者は拒まず、去る者は追わず、である。ただし、条件が1つだけあった。人の役に立つものをなんでもいいから1つだけ持ってくるように。少林寺拳法のような拳の力であれ、脚の早さであれ、知恵であれ、やさしさであれ、札束であれ、人の役に立つものを1つ。笑顔だけでもよい。梁山泊のこの精神の土台は、黄河にあると想像する。黄河に抱かれ黄河に育った黄河文明は、中国漢民族の精神の土台だ。四方八方から流れ込むさまざまな支流を集め、また、四方八方へ流れ出る幾多の支流を持ち、それでなお広く大きく悠々と成長しながら大海に至る黄河。くる者を拒まない。去る者を追わない。そうしがら確実に大きな力となっていく。梁山泊の精神もまたそこにあり、島国の日本の精神とは違う見事さを見せる。もちろん、日本には日本のよさがある。これはこれで楽しい。まあ、比べる意味はない。さて、久しぶりに「梁山泊」なる集いを復活する。だれでもお出でよ。いやだったら次からこなければいい。だれでもいい。ただし、本家と違うのは会費1000円。人数10人限定。ビールが1人につき3本出る。つまみが出る。時間は2時間30分。目の前に30本のビールが並ぶだけで、わたしはわくわくする。軽く各位を紹介。テーマを決めて、最初の1時間か1時間半はみんなでそのテーマについて1人ひとり話す。たとえばテーマを「旅」とする。ある人は、旅は人生だ、と言い、ある人は、旅ほどつまらないものはないと話し、ある人は、海外転勤の話になる。なんでもいい。みんなが同じテーマで話し合うから、その人の生活や価値観や性格が見えてくる。1人7分。1分でもいい。話したいことだけを話す。たとえばテーマを「不思議」とする。ある人は、かみさんの話、ある人は、スプーン曲げの話、ある人は上司の話、ある人はエジプトの話。そして残りの1時間は、その延長でも雑談でも流れのまま。でも、最初はみんな同じ話。知恵が欲しい人は、テーマを提案するのも自由。そこで知り合う人たちが意気投合すれば仕事につながってもいいし、つながらなくてもいい。以前、競合する広告代理店の2人を合わせたら意気投合して、そっちの会社に転職した。それもいい。だれかへの否定はいっさいなし。悪口も悪い感情もなし。だれかを裏切るような者は参加させない。わたし程度のいい加減さはあっても、けして大事なことで人を裏切らない。そんな人々。そこからなにかが生まれる。まったく違う職種。まったく違う年齢。まったく違う人種。まったく違う日々を送っている人と人が出会い同じテーマをしていると、必ずそこから電流がスパークするようになにかが生まれてくる。理想は月に2回。最初にきた10人の半分の5人が次回は休み。半分の5人が、次の会に新しい友を1人づつ連れてくる。これを繰り返していると、あっという間に梁山泊の仲間は増える。水滸伝は言う。そこは、豪傑、野心家の集まる所と。人が集まり、仕事が生まれ、金が生まれ、時代が動き出す。それが社会の原始的な成り立ちだ。なにも起こらなくてもいい。梁山泊。まず渋谷から始まる。くる者を拒まず。
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■こちら、あなたの宣伝部。 ■2010年1月13日 水曜日 6時31分34秒

当社のコピーライターが、ふと言いました。最近、あちこちの会社の宣伝部が激減しました。もともと宣伝部がない会社ももちろんあります。でも宣伝広告は大事なコミュニケーションとして必要です。その出来不出来で商品の売り上げ、会社への人々の好意度が圧倒的に違います。ひとつのポスター、一冊のパンフレット、ちらし一枚、ホームページ、言葉ひとつの選び方で効果がまったく違ってきます。その通り。でも、いまはコストの問題でなかなかプロを使う状況でないことも確かだね。本当はこういうときこそ宣伝広告が重要なんだけどね。マックがあれば広告ができちゃうという会社もあるしね。われわれだって以前ほどテレビコマーシャルだの新聞広告だの、大型メディアの仕事は激減しました。そうなるとこれまで多くの会社さんとのお付き合いで学んできた広告の核心や方法論、コピーやデザインの力をみなさんの宣伝部として使ってもらいたいですね。それはいい考えだね。「あなたの会社の宣伝部」というわけですね。「そう、宣伝広告アイディアのデリバリー」みたいなね。「ピザではなく宣伝広告アイディアの配達」ですね。テレビの「アド街ック天国の街の宣伝部」の会社版ですか。そうだね。実際にあらゆる会社が「いいアイディアが欲しい」と願っているのは事実だろうからね。むずかしい問題はなんだろうか。まず、秘密事項を厳守できるか、でしょうか。それと、いくらわれらがプロだって叫んでも、本当の力はその会社の仕事をしてみないと実力はわからない、ということもあるね。あと、仕事をしていて思うことは、宣伝広告は絶対の信頼関係のもとに成り立つということもありますね。アイショウもあるからね。信頼は構築していけばいいし、アイショウは会ってわかりますからね。厳しいことをいうと、相手の会社を理解し、商品を理解するにもきちんとしたプロの頭脳がなくてはね。力を求めているところに、必要な力を届ける。これは宣伝広告も同じことだと思う。これからの日本は、必要なところに必要な才能を、ということも大きなテーマになると思う。人々の幸せを願うという一点がある以上、宣伝広告にまず失敗はない。コストの問題は話し合えばいい。ただ、価格破壊だけでは会社はつらすぎる。価格破壊で商品は売れるが、けして建設的ではない。成長性がない。それでは社会がもたない。あなたの会社、腕のいい宣伝部が必要でしょう。腕のいい若いコピーライターの話だが、面白い発想をするし、いやはやしっかりしたものだと、改めて感心した。実際にやってみたいものだ。坂本龍馬のごとく、若い力ととんでもない発想が時代を動かす、という時代なのかも知れない。広告という言葉ではなく、違う言葉が必要かも知れませんね。この男、またまた大胆なことをいった。今回のエッセイは、広告業界の実情と当社の宣伝広告になりました。
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■本立ちて道生ず。 ■2010年1月13日 水曜日 1時43分38秒

謹んで新年の御慶びを申し上げます。ある年、長野県下伊那郡座光寺村北市場でお正月を迎えました。今は飯田市になっています。母の実家です。父が戦争に行き、母とわたしが疎開したのです。そこは木曽山脈と赤石山脈にはさまれた伊那谷で、暴れ天竜と呼ばれる天竜川が遠くの木曽山脈の山裾で蛇のようにきらきら輝きながらうねっていました。元旦の青く高い空に凧が泳ぎ、冷たい風に頬をりんごにように赤くした子どもたちが下駄で走り回るのを、空を覆い尽くす雄々しい山山が笑って見ていました。洟を垂らし、つぎはぎの半ズボンでした。わたしは3歳か4歳でした。まだ凧を揚げることもできず、走ってもみんなについて行けずくやしい思いをしました。東京から逃げてきた疎開坊主と呼ばれ、村のみんなとわずか3、4歳ながら戦っていました。わたしが東京浅草生まれで東京育ちと言いながら、すこぶる田舎もんなのはその光景がわたしの原風景だからです。いじめられましたが田舎が大好きです。闘争本能も学びました。人間の根本は、田舎にあると信じています。自然は人間の師匠です。ある年、親戚家族といっしょに茨城県大洗で年越しをしました。大きな鳥居をくぐって那珂港方向に少し行ったところにある、目の下に波が打ち寄せる旅館でした。母の胸に抱かれるようにやさしく、静かな廊下に墨絵が飾られていて、とても趣がある旅館でした。大洗は絵に描いたような漁師町で、わたしにはその無骨なほどに素朴な佇まいのひとつひとつに誠実さが感じられ、強い方言の中に人々のあたたかさがあって、心底ほっとしたものです。店の前でアンコウを吊るして包丁を握る料理人の真剣な眼差しに頭が下がりました。風が吹くと、平然となびく松の一枝一枝が何かを教えてくれました。急がない力強さ、地に着いた豊かさ、根に着いた人間らしさをいまも懐かしく思い出します。海から上がる初日を拝もうと義兄と二人、大鳥居をくぐってまだ明けきらぬ海に釣りに行きました。あいにく雲が厚く初日はまったく見えず、さらに台風のような風で、釣り餌が宙に舞っていた光景と凍えそうな風の冷たさに、思い出しても体が震えます。自然は理屈ぬきに偉大です。田舎が好きです。人間の根本は、田舎にあります。新年にあたり、何を今年の目標にしようかと思いましたが、中国有子の言葉「君子は本を務む。本立ちて道生ず。」をこそしっかり実行しようと思い立ちました。わたしは君子ではないけれど、根本を努力しよう、根本をしっかり決めてこそ道が開ける。これを肝に銘じ、根本を学ぼうと決意しました。人間の根本て何だろう。幸せとは何か。それを一から学ぼうと思いました。長野県下伊那郡座光寺村北市場を走り回った田舎もんの自分に帰ろうと思いました。親戚家族とともに触れた大洗の素朴の誠実を見習おうと思いました。下落合で過ごした無垢な日々を思い出し、懐かしい川を忘れずに生きる一年にしようと心に決めました。人間の根本のヒントはそこにあると思います。「五輪書」を書き、「武士道」を書き、去年「葉隠」を出しました。今年は「論語」を出すために勉強中です。歳を取ってからの勉強は大変です。あの頃、もっと勉強しておけばよかったと、新年早々反省しています。勉強の根本に、素直な心がもてるかどうかが心配です。雲のように生きる。風のように生きる。自然体は嘘をつかない。これは、4年間学んだ空手道から得た心です。はたしてできるか。でも、町内の稲荷森神社にそう誓ってしまいました。頑張ります。本年もどうぞよろしくご指導くださいますよう改めてお願い申し上げます。
takanoblood1794@yahoo.co.jp
■会話は、心の距離。 ■2009年12月14日 月曜日 5時1分49秒

会話には、車のように会話ギアがある。話す者にはそれほど意識はないとしても、敏感な聞き手はこの会話ギアにピンとくる。話し手に意識がなく、聞き手が感じる。これがこわい。人間には45センチのバリアというものがあって、他人が45センチ以内に入ってくると自動的に防衛本能が働き始め、身構える。動物の生き抜くための本能だ。この防衛本能は当然心にもある。空手では間合いという距離感の取り方ひとつが命取りとなり、針一本の距離感の狂いさえ許されない。心の間合いという距離感を調整するのが、会話ギアである。日本人は、この会話ギアの使い方が極めて下手だ。心の間合いの調整機能が会話ギアだから、このギアの使い方が下手ということは、心の距離の取り方が下手で、心の通わせ方が下手ということだ。日本の歴史は、暗黙の了解とか、阿吽の呼吸とか、言わなくてもわかるだろう式会話に頼ってきた。それを美学とした。これは身分に上下がある時代の発想で、上から下への価値観だ。沈黙は金、などという諺は愚かな若殿にしゃべらせると心の浅さがわかるからしゃべらせなかっただけのこと。これが会話を成長させない愚かな美学だった。会話には、まず言葉の選定があり、語る順列がある。声のトーンがあり、速度があり、大きさがある。リズムがある。呼吸がある。この会話を作るのは、心だ。その人の育ち方、教養、品格だ。会話は日常的なものだから、だれも特に練習はしない。第一、会話を難しく考えたくはない。うるさく言うなら話たくない。その思いも成長しない理由だ。練習や勉強をしなければ下手なのは当然だ。企業やグループのトップに立つ者が会話下手だと、これは致命的だ。心が通じない。部下たちが意気消沈する。仕事ができるだけの人間なら、人の上に立たないほうがいい。感情的になる者は上に立たないほうがいい。心が会話に出て、嫌な言葉を選定し、会話のリズムも荒くなる。平常心の保てない者は、上に立ってはいけない。さらに、勉強を怠る者はトップに立ってはいけない。部下にバカにされる。勉強をしないトップは、部下にバカにされないように会話に本心を出さない。えらそうな語調で話す。わざと乱す。会議でも意図的に論点を狂わせたりする。だから、余計に見透かされる。若者は敏感だ。バカも利口も、人間の浅さもすぐわかる。会話の上手なお母さんは、子育てがうまい。さらに子どものことを心底思いやるお母さんは、すてきないい子を育て、日本に役立つ人材を育成する。世界とのつきあいが広く深くなった。会話の下手な日本人のままではいけない。世界は、日本を理解してくれない。心に信念を抱き、会話ギアを楽しみつつ、心を通わせたい。海を目の前にして空手部の後輩が、でっかい海ですねえ、と感歎の言葉を発したとき、親友のマツが言った。よし、この海、きみに上げる、持って帰っていい。後輩が答えた。先輩、今日、大きなバッグ持ってきてません。マツが言った。じゃあ、半分だけ持って帰れ。こういう会話が好きだ。ジョークの中に先輩の愛情と後輩の信頼が見える。会話は心そのものだ。ジョークももっとうまくなって欲しい。昨夜、渋谷で仕事をしていて一段落した7時、目の前の若者が腕時計を見て言った。高野さん、酒場に遅刻します。うれしい言葉の選定だ。酒場に遅刻ときた。若者との心の間合いが一気に縮まり、グラスを交した。言葉を大事にし、会話を磨きたいと思う。相手のことを知るために、心の開く会話ができれば人生がもっと豊かになるだろう。
高野耕一(takano blood1794 @yahoo.co.jp)
■鯉せよ乙女。 ■2009年11月27日 金曜日 6時7分7秒

目を上げて対岸を見て、いやはや驚いた。渋谷公園通りを闊歩するようなモデルギャルが、釣り竿を振っている。20万円のビトンのバッグを選ぶときのような真剣な眼差しで浮きを見つめている。市ヶ谷駅前の釣り堀、午後3時。モデルギャルは2人。2人とも長いまつげで浮きを見つめる。目を横に移すと、いかにも釣り師といういでたちのおじさんたちの間で、ディズニーランドが似合いそうな若いカップルが竿を振り回している。さらに横を見ると、ストリートダンサーのような派手な服装の若者が3人、なにやら大声でしゃべったり笑ったりしている。耳を澄ますと、彼らの言葉は日本語ではない。韓国か中国かミャンマーか。顔だけではまるでわからない。そんなに騒ぐと鯉が怯えて、餌を食わないだろうが。そんな目でわたしは見るが、彼らは一向に動じない。わたしのにらみは世界共通ではなかった。最近では、家庭でもにらみがきかないから、この機会にもうにらむのを止めようと決める。そのように、市ヶ谷の釣り堀が、時代を反映し始めた。国際的になった。わたしは、学校を卒業すると行きがかり上コピーライターになり、コピーに悩んだり、本を書いたりで、頭がいいわけでもないのに「考える」仕事についてしまった。コピーやアイディアに行き詰ると心がざわざわして、机を離れて考える場所をさがす。行きつけのドトールのテラス席でボーと空に質問したり、雲としゃべったり、コンビニで缶ビールを買って公園のベンチで黄色く色づいた銀杏に語りかけたり、街を見たり、人を見たり、もがく、あせる。いちばんアイディアが出るのは、最近では渋谷東急プラザの地下2階にある家族亭である。友と無駄話をする居酒屋もアイディアの宝庫であるが、日本はなかなか考える場所がない。マンガ喫茶は肌に合わない。図書館も好きだが、まわりのみんながおりこうさんに見えてしまうことがある。開高健さんのように、ウイスキーをもって街のいちばん大きい木の下に行き、木と語りながら飲むというのも好きだ。考える場所として市ヶ谷の釣り堀はいい。四谷に事務所があるときからときどきくる。月に1回くらいか。考える釣り堀だから、真剣に鯉を釣ろうとは思わない。だから、鯉のほうでもわたしをバカにして、釣れてくれない。それどころか目の前でバシャッとジャンプをして、ザマアミロという目でわたしをあざ笑う。隣のいかにも釣り師おじさんが、ひょいひょい大鯉を釣り上げる。目の前のモデルギャルに鯉がきた。大きく竿がしなる。きゃあきゃあ言いながら、満月のようにしなる竿をそれでも器用に操って、タモ網を左手で取る。暴れていた鯉も水面に顔を出し、空気をしこたま吸い込んで観念する。まわりの目がモデルギャルと鯉に注がれる。うまくやれよというやさしい目が集中する。カップルの娘の方が、ほんのちょっぴり嫉妬の色を目に見せる。鯉はタモ網に触れ、最後のひと暴れをすると、無事に網に入った。隣のおじさんが小さく拍手をし、わたしも左手の缶ビールを掲げる。思考は停止しているが、なにやら幸せな気分になる。国籍不明のアジアの若者たちも、口ぐちになにか叫びながら、モデルギャルの鯉を見ている。うまそうだな、とでも言っているのだろうか。1時間が過ぎた。終わりの時間だ。あら、また釣れなかったのね。受付の女性に言われ、餌を付けるのを忘れていたんです、と妙な返事をする。なにもかも古い市ヶ谷の釣り堀に世代を越え、国境を越えて新しい波が押し寄せている。鯉にもともと世代も国境もない。さていつの日か、恋も世代と国境を越えるのだろうか。
(たかの耕一:takanoblood1794@hahoo.co.jp)
■偽りの山 ■2009年11月24日 火曜日 7時42分57秒

都会に真実はなく、男たちは都会の偽りに耐え切れず山に逃げる。五日市街道を北上すると山はぐんぐん近づき、武蔵五日市駅前の交差点を左折する頃には里山に囲まれていた。橋を越え緩やかな坂を登り、道は五日市の古い町並みに続く。辺りの山々は頂上から紅葉が徐々に下り始め、街路樹の葉もすでに色を変えている。思った以上に山々の緑が濃く紅葉が目立たないのは、植林による針葉樹が多いからだ。街道沿いの古い二階建ての古民家に貸家の看板が掲げられていて、家賃はいくらだろうと話しているうちに道はなだらかに下り、目印の「黒茶屋」の看板が見えた。雨は上がり、この状態なら予定通り河原でバーベキューができます、とハンドルを握る空手部の後輩が言った。「黒茶屋」の看板の角を川に沿って左折すると道は急に細くなり、細かい起伏も増え、右に左に曲がりくねりながら里山の麓をぬって走る。車がやっと一台通れるほどの道幅で、たまにすれ違う農家の軽トラックとも、どちらかが道の端に避けなければならなかった。民家の柿が赤く熟れ、柿の木の上から二羽のカラスがわれらを見下ろす。なんとものどかな気分になる。川を越え里山をいくつかかわし、森はさらに深くなる。しばらく走るとやがて道は上り坂になってゆっくりと右に迂回する。そこに突然目指す欧風レストラン「メリダ」の白い瀟洒な建物は現れた。里山の中腹を刻んだ道路から左の川にせりだした崖の上のちょうどいいスペースに、いずみ先生が手造りで造ったレストランだ。南仏かスイスアルプスを彷彿とさせるその佇まいは、眠る森の中でふと目覚めたときのような清々しさを与えてくれる。道の反対側に美術館があり、その建物も先生の手造りだ。そして、先生はいま美術館の前に道にせりだすテラスを造っている。われらは美術館で作品を鑑賞し、うまいコーヒーを飲み、先生秘蔵の貴重な品々を拝見する。先生は、美術と古武道について屈指の方だが、いまは料理人で大工です、と笑う。妻に言わせれば、先生はまるで仙人か天狗ね、あんたはきっと憧れるわという方で、なるほどと頭を下げる。いなげやで材料を買い、われらは深い谷の河原で肉を焼き、野菜を焼き、山を見、川を見、酒を飲む。総勢9人。全員男というのはなにかもの足りないが、それはそれで楽しいものだ。山奥で男たちが集まって飲み食いする様は、落武者のようであり、山賊のようであり、中国の梁山泊のようでもあって、清々しい気風がある。清流と語り、山と語るわれらの心は、一枚づつ都会の偽りの衣を脱ぎ、むき出しの真実に近づくかに見える。都会では、むき出しの心は傷つけられる。都会の気づかいがまた、嘘や偽りを生み出す。人は、やさしいから嘘をつく。都会で日常についている嘘や偽りは、やがて人間を侵食し、人間そのものを偽りのかたまりに変える。われらは、その偽りの衣を洗い流すために清流と語る。山と語る。むき出しの心のまま夜、レストランでうまいチリワインを飲み、アンダルシア地方の味覚に酔う。朝の目覚めも格別で、朝食もまた見事な味だ。空気がうまいから料理もうまいのかな、と言うと店の人に、料理がおいしいのです、と訂正された。先生に、山には真実があります、と言うと、この山は死んでいるよ、と答えた。山は死んでいる。木は死んでいる。だが、偽りの原因は山や木にあるのではない。人間にあるのだ。そう聞こえた。都会の偽りも、街にせいではない。人間のせいだ。人は、自分で問題を起こし、自分で騒いでいる。山も木も雲も、こんな愚かな人間を許してくれるのだろうか。子どもたちがむき出しの心で生きられる社会は、夢か。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■午後3時の酒の言い訳。 ■2009年10月22日 木曜日 5時58分23秒

父が酒を飲み、ふらふらと駅前通りを帰ってくる。まだ陽は高く、外は明るい。ぼくが生まれてすぐ父は戦争に行った。甲府の練兵所から出征する前に、軍服の父がぼくを抱いている茶色に変色した写真が、ぼくの写真の中で最も古いものだ。ぼくは1歳くらいだろうか。帰る確率などほとんどない中国戦線に、若い母と乳飲み子のぼくを残して否応なく送られた。心の広い聡明な父であったが、学歴がなかったから、おそらく最前線の消耗品の兵士として送られたのだろう。運がよかったのか、逃げ回って生き延びたのか、父は帰ってきた。父が帰り疎開先の長野県飯田市からぼくらは東京の高田馬場に帰った。父はシミ抜き職人だったが、戦後にそんな需要はない。だからぼくらを食わせるために消防士となった。一日置きに消防士をやり、非番の日にも休むことなくシミ抜きの仕事をもらって歩いた。そんな父は酒を飲み、ふらふらと生きた。ぼくには、戦争の後遺症から逃げるための酒に見えた。幼いぼくには正確には理解できないが、戦友が目の前で弾丸に倒れ、あるいは人間に銃を向けて引き金を引き、理性では納得しえない地獄に置かれたのだろう。父は、いっさいぼくに戦争の話をしたことがない。だからぼくには父が中国でなにをどうしたのかまったくわからない。だが、戦場という非人間的な地獄の中で3年以上をすごした男に、その後もし人間的な感情が残っていれば、酒に逃げるか自殺をするかしかないのではないかとぼくは思う。酒に溺れる父に、母は絶対に愚痴をこぼさなかった。ただ、淋しそうに見ていた。母は、明るかった。戦後の時代を笑って生き抜いた。父は戦場で戦い、母は時代と戦った。ぼくは、いま、新橋駅前で空を見上げながら、酒を飲んでいる。午後3時。妻にも子どもにも会社にも世の中にも隠れてコップを右手に持ち、流れる雲を見ている。父が笑い、母があきれている。父さん、父さんは酒に逃げたのですか? ぼくは聞く。そんなことはおれに聞かずに酒に聞け。父はそう言って笑う。酒は逃げ場ではないよ。酒はおれの最高の友だ。父はそう言う。母はこう言う。耕一、いい加減におしよ。お前は人のためになる人間におなり。お前は一番になれる子だからね。気の強い母だった。父は、絶対に他人のせいにするなと教え、母は、結果を恐れず向かっていけと教えた。自由に生きろ。人のために思いきり生きろ。そういう二人だった。父も母も無類に明るかった。戦争に巻き込まれた父も、時代に翻弄された母も、いつも笑っていた。なにがあっても笑っていた。辛いときは陰で泣く母だった。83年間、酒を離さなかった父と、88年間笑って生きた母は、すでにない。新橋駅前、根室食堂という飲み屋で「つめ酒」を飲んでいる。焦がした花咲ガニのつめがコップにどかんと入っている。つまみは白菜。日本は未曾有の不況下にある。政治家も、官僚も、社長も、猫も杓子も、「かって経験のない」時代だと言う。おれもそうだったよ、と父が言う。人生たかだか生きて100年。たいした経験もできやしない。だれもかれも「かって経験のない」世の中を生きていくものだ。人間も動物もそうだ。そう言う。そう、みんな経験のない時代を日々いきているのだ。ぼくも経験のない今日を生きている。なにも恐れることはない。だから勉強すればいい。学べばそれでいい。新橋駅前。空を見上げ、酒を飲み、父母と話す。酒飲みは言い訳をしつつ「つめ酒」を口に運ぶ。母さん、ぼくは一番にはなれなかったよ。母は言う。おまえはおまえの一番でいいのよ。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■そう思ってほしい。 ■2009年9月28日 月曜日 6時8分39秒

わたしがそう思うのだから、あなたにもそう思ってほしい。世の中の出来事や価値観について、相手にそう同意を求める気持ちがあって、さらに、その同意を求める度合いが徐々に強くなる。そう思ってくれよ、頼むよという願いになり、ついにはそう思えよこのやろう、と命令になる。だからわたしはいやがられる。そんなに大げさでなくても、晩飯は魚がいいとわたしが思うのに、かみさんは餃子がいいと言う。このやろうと思うわたしが悪いのだろうか。そんな「そう思ってほしい」感覚は、淋しがり屋や自己顕示欲の強い人間に限ることなく、だれにでもあるコミュニケーションの原点ではないかと馬事公苑の入口にあるスターバックスのテラスでアイス抹茶ラテを飲みながら「中国古代史の謎」という本を読みながらふと思った。世界の風の吹きようで、なにやら中国とはもっと正面から付き合う時期がきたような気がして、そのために彼の国をもっと知ってみたいと思い、学びのためにこの書を紐解いた。中国4000年とひと口に言うが、4000年の昔、紀元前2000年頃、中国は殷周時代と呼ばれ初めての帝国が形作られた。考古学上、200万年前の猿人、50万年前の北京原人などものすごい発見はあるが、わたしのあたまはとてもそこまでついて行けない。そこで殷周時代から始めたわけだ。殷帝国の前に夏という伝説の帝国があったと言うが、これが実在か伝説かの結論がない。後日息子が最近の中学の歴史の本を示し、夏帝国が実在したことがわかった。殷帝国が周帝国にとって代わるときに活躍した人物が、夏帝国を形成していたキョウ族であり、その族長がかの太公望呂尚である。釣りをやるわたしには太公望が他人とは思えず、いまも多摩川あたりに行くと、やあと呂尚が笑いながら振り向くのではないかと思うほど身近な人物だが、実は中国史上大変重要な男である。さて、現在の中国の9割を占めるという漢民族だが、この民族が単一民族ではないという学説が有力だ。日本の25倍の国土をもつ中国に、イラン、トルコなどの西方遊牧民族が羊を追いながら大山脈を越えて移住し中国に住み着いたというが、その悠久の時の流れの中で多くの民族が融合し、排他しながら漢民族を形成したというのだ。その説は大いにうなずけるものであり、黄河の流れのように多くを飲み込み、拡大と分散を繰り返しながら巨大化して行く様子が目に見えてくる。あまりに大ざっぱな見方だが、詳細はこれから勉強して行く。話はもとの「そう思ってほしい」にもどる。西方民族が大山脈を越えるにしても、おい、向こうに行ってみようぜ、という者がいて、「そう思ってほしい」「そう思う」という仲間が集まった。そんな民族が帝国を創った。つまり、「そう思ってほしい」「いいよ、そう思うよ」という気持ちがふくらんで帝国を創った。向こうへ行こうぜが、国を創ろうぜになった。立地条件とか環境とか時の流れとか、さまざまな条件で国ができたが、大きな要素として「そう思ってほしい」「いいよ」が、実は絶大な力を発揮したのだと思う。そう思うと、世の中のすべてが「そう思ってほしい」「いいよ、そう思う」で成り立ってくるのではないかと思えてくる。戦争もそう。平和もそう。
人は人を誘いたい。一人じゃなにもできない。おい、飲みに行こうぜ。いつもの仲間が声をかけてくる。「いいよ、そう思う」とうなずくわたしである。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■他人に花もたせてこそ男。 ■2009年8月31日 月曜日 6時4分23秒

せっせと種を植え、水をまき、苗木を育て、苦労して花を咲かせたら、笑ってその美しい花を他人に捧げる。それが男というものである。そんな聖人君子のような生き方にあこがれているが、いやはやむずかしい。最大のむずかしさは、実は陰で苦労することではない。花が咲いたら捧げようと思っている相手が、横から、その種の選び方はいかがなものかとか、ちょっと水をまきすぎではないかとか、その肥料よりこっちの肥料のほうがいいとか、ぎゃあぎゃあうるさいのである。そのうるささに笑って従えるかどうか。これがむずかしい。じょうだんじゃない。おまえさんになんか花はやらない。そういう感情が自然に湧きあがる。わたしは、男になれない。主君のために命を捧げる葉隠武士のごとく完全な陰の中で、他人のための花を育てることができない。わが国学院大学空手道部のOB会はいま、現役部員数の激減問題に直面している。OBの参加人数も増えることがない。地方のOBと若いOBの参加が少ないのである。そんな中で空手道部は創部60周年を迎える。現役のために9代次呂久英樹先輩を監督に迎えた。OB会の発展のために12代小柴先輩を会長に据えた。次呂久監督のもと、2年生の大角くんと遠藤くんが急速の進化を遂げている。1年生も日々逞しく成長している。次呂久監督は、国大空手部に次呂久あり、と詠われたほどの剛の者でありながら、いま、自分を陰に置いている。現役に花をもたせるために、水をまき、肥料をまいている。黙々と空手の基本を現役の体に叩き込んでいる。大会での優勝を視野においてはいるが、監督の視線はその先の彼らの人生の勝利に向けられている。空手は、スポーツでありながら武道である。道である。中には愚かな先輩たちもいて、試合に勝たなければ意味がない、という。違う。試合に勝つだけでは意味がないのである。その違いがわからぬまま、横からごちゃごちゃいうOBがいて、それを指摘すると彼らはOB会に参加しなくなる。彼らは自分のために参加しているのであって、他人に花をもたせようと思っているのではないのだ。若いOBは参加しても発言の機会がない。古老長老の発言を聞いているだけだ。これではつまらない。会長も改革の糸口がつかめない。注意すれば古老長老は、OB会にこなくなる。地方のOBの不参加理由は二つ考えられる。空手部なんか忘れたいのだという者もいる。また、東京を中心とするOB会には遠くて参加できない。15000円の年会費を払っても、東京の連中が渋谷で飲んでしまうに違いない。主にこの二つの理由だ。一つ目は、どうしようもない。青春時代の4年間を過ごした空手道部を大事にしてほしいというしかない。そして、助けてほしいと素直に願う。二つ目は、いま、会計は明快である。OBたちはむしろ自費の持ち出しでやっている。道場に顔を出せば、帰りに現役たちにラーメンを食わせる。自費である。みなさんの会費をこそこそ使うなんてケチなOBは、もはやいない。現役に花をもたせる。若いOBに花をもたせる。地方のOBたちに花をもたせる。日下部くん、斉藤一久くん、斉藤あきひこくん、海上くん、上原くん、河野くん、田中くん、その他にもいる。陰に生きる男たち。人に花もたせる本当の男たち。空手道部創部60周年。創部者、初代小倉基先輩に深く感謝し、すべての関係者の絆を強めたい。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■犬も歩けば。 ■2009年8月19日 水曜日 6時41分35秒

犬の目を見ていると、鏡で自分の目を見るのはもちろん、人間の目を見たくなくなる。一点の濁りもなく、微塵の疑いもなく、まっすぐに見つめる宝石のような犬の目の純粋な輝きにこころが洗われるのだが、その後、人間の疑いに満ち満ちた目に合うとなんともやり切れなくなる。犬の目の奥には切ないほどの主人に寄せる信頼の光がある。こちらのこころを一生懸命に理解しようと努め、最後は自分が人間ではないので、理解できなくてごめんなさい、という切なさにいきつくのだ。こんなに相手を理解しようと努力する人間はもはやいないから、よけいに犬と話していたいと思うのだ。
わが家の初代愛犬は、三河柴のテツだった。日本犬である。息子のゴウタが小学生のころ、妻と二人で新宿のペットショップで買った。ゴウタが臨海学校に行っている間に買って、驚かしてやろうと思った。ペットショップのガラスケースには、ころころ転げ回るかわいい子犬がたくさんいて、どの子犬も夢中で駈け寄ってくる。秋田犬の子、柴犬の子、どの子犬も丸い顔につぶらな瞳が愛くるしかった。
うわ、かわいい。妻はもうどの犬がいいのかわからなくなっていた。わたしにしても同様だ。そのうちふと妻が一匹の子犬に目をつけた。あれ、かわいい。ほら、あれ。その子犬は、こっちに駈け寄ることもなく、部屋の奥できょとんと座っていた。子犬なのに堂々としているわ。妻は言う。風格さえあるわ。小熊か狸のようにも見える丸顔。丸い黒目。全体が薄いグレー。ぬいぐるみのようだ。堂々という言葉と風格という言葉が、たいそう気に入った。あれだな。私が言い、店主が横で、お目が高いともみ手をする。三河柴です。猟犬です。堂々です。風格です。店主の言葉にうれしくなっていると、あと3万円いただければすぐ血統書を作りますが、と店主が続けて言う。え、わたしと妻は絶句して顔を見合わせる。血統書って、店の奥で簡単に作っちゃうものなの。すぐできますよ。妻がわたしのシャツの裾をちょんちょんと引っ張り、小さく首を振り、店主と目が合って愛想笑いをする。血統書はいりません、わたしにだってないんだから。わたしはわけのわからない返事をする。段ボールに入れて子犬を連れて帰り、その夜臨海学校から帰ったゴウタと対面した。
わ、ぼくの犬。ゴウタは子犬に抱きつく。子犬もゴウタをぺろぺろなめる。子犬はテツと命名された。テツに異変があったのは次の日だ。突然ぐったりした。どうしたんだ。わからない。ぼくのテツ、死んじゃうの? ゴウタはすでに泣き顔だ。やっと見つけた環パチの向こう側の実相寺の近くのペット病院に行く。テツ、大丈夫? 妻もうるうるし始める。この犬は生まれつき腸が弱いようですね。医者が言う。生まれつき? なんだ、それ。あれ、それでペットショップでも走り回っていなかったのか。座りこんでいたのか。堂々じゃないじゃないか。だれだ、風格なんて言ったのは。あの犬屋のおやじ、お目が高いだと。テツはすぐ元気になったが、妻はしばらく機嫌が悪かった。なんで3万円の犬に10万円も医者代払うのよ。わたしに文句を言っても仕方ないだろ。テツは16年生きた。水が大嫌いな猟犬だった。子どもと女性が好きだった。犬を見るとけんかを吹っ掛けた。自分を犬と思っていなかった。ゴウタとは兄弟のように育った。いま、深大寺に眠っている。二代目のトイプードルのチュウを連れて、深大寺のテツに会いに行く。テツがゴウタの兄弟なら、チュウはゴウタの分身のようである。テツと同じく、チュウもまた純粋な瞳で相手をじっと見つめ、相手のこころを理解しようと努力する。その瞳の奥に切なさがきらりと光る。人間でなくてごめんなさい、と犬の瞳が言う。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■キムタクと対決。 ■2009年7月31日 金曜日 7時32分25秒

JR線吉祥寺駅、井の頭公園側の商店街、ある金曜日。狭い通りに人がひしめき合い、おまけに通行人を押しのけるようにひっきりなしにバスが通る。通りに面した店も、小さな雑居ビルにも、飲食店が目につく。大型のチェーン店の居酒屋、昔からある小さな居酒屋、回転寿司屋、回転しない寿司屋、ラーメン屋、コーヒーショップ、牛丼屋、蕎麦屋、それらの飲食店の間にパチンコ屋とゲームセンターがある。祭りのように赤い提灯がずらりと並んでいる。並んだ提灯に明かりが灯った。通りはまだ暑く、わたしは汗をかいている。井の頭公園からの風も、ここまでは届かない。わたしは、古い雑居ビルの急な階段を上がった2階の居酒屋にいる。天然素材を使った和風の店で、店内も天然木を多く使ったつくりで広い。友人と待ち合わせをしているが、時間はまだたっぷりあった。広いカウンターの隅に座る。飲み放題888円にこころ引かれたが、結局普通の生ビールを頼んだ。とりあえずビールを飲んで、2杯目に熱燗を飲みたかったからだ。500円の刺身盛り合わせとお新香を頼む。なあ、キムタクよ。わたしは、目の前で爽やかに笑う青年にいう。長い髪。陽に焼けた肌。今日もキムタクは爽やかに笑う。勝負しようぜ。わたしがいい、いいよ、とキムタクが答える。二人でいつもの勝負をする。今日もおれの勝ちだけど。わたしはいう。最初は、柔道だ。最初から、そうくるか。それは、文句なしの負けだ。キムタクがあきれて、ビールを飲む。おれ、格闘技はあんまりねえ。よし、@対9で、わたしの勝ち。じゃあ、サーフィン。なんだよキムタク、お前だって最初から強力にくるじゃないか。うん、おれも勝ちに行く。H対1で、キムタク。わたしはボディボードしかやったことがない。じゃあ、英会話。英会話ねえ。C対6で、わたしだ。いや、E対4でおれだ。よし、じゃあ実戦だ。ハウドゥユウドゥ。アイアムファイン。よし、引きわけだ。D対5。ダンス。ダンスか、やばいね。そりゃ、キムタク、そっちはプロだからな。I対0。ベーゴマ。ベーゴマ? 聞いたことあるけど、やったことないもんな。よし、@対9でわたし。ボーリング。ボーリングか。キムタク、お前のベストスコアは? 255点。まいったねえ、わたしの最高点は、ジャスト200。E対4でキムタク。駈けっこ。駈けっこかよ、この前テレビ番組で坂を駈け上るやつをやっていたなあ。あれ、頑張ったもんな。わたしの負けだ。F対3だ。キムタク有利。よし、どっちが女の子にもてるか、とわたし。高野さん、それは勝負にならないよ。そうじゃないよ。ファンの数じゃない。女の子が本気で惚れるかどうかだ。そういいながら、やっぱり止めよう、これはやっぱりわたしが不利だ。ね、そうでしょ。キムタクはお新香をつまむ。預金。おい、キムタクよ、勝負にならないよ。高野さんだって、バブルで稼いだ口でしょ。芸能人といっしょにするなよ。ましてやキムタクと預金の勝負してどうするのよ。で、キムタクよ、お前さんは、いくら貯めているんだ。20億円か、30億円か。そんなにあるわけないでしょ。3億円か、5億円か。いけねえ、やめよう。話がつまらない。高野さんも意地っぱりだなあ。当たり前さ。30年前のわたしなら、文句なしにわたしが勝つ。キムタクが腹を抱えて笑ったとき、わたしの携帯電話が鳴った。高野さん、遅れてごめん、いま、駅に着いた。あと5分で行く。待ち合わせをしている広告代理店の部長からだ。はい、待ってます。じゃあ、また。キムタクが軽く頭を下げて出て行く。先日、わたしはツマブキくんとも勝負した。妄想は時間潰しに最高である。日々、好日。
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■ハイエナに思いやりはない。 ■2009年7月21日 火曜日 2時11分14秒

ハイエナは、肉に食らいつく。ハイエナの目の前にいるのは、鹿ではなく、肉だ。ある経営者の方と話していて腰をぬかした。金です。すべては金です。なにがなんでも金です。彼は、堂々とそう言う。本当にそう思うのですか、と聞き返した。逆に、あなたが甘いというようなことを言われた。わからないわけではないが、それを会社のトップとして公言するのは、非常に具合が悪い。人間はハイエナになれと言っているのだ。肉に食らいつくハイエナのように、金に食らいつく人間になれと言う。知恵もなく、文化もなく、品位もなく、社会は消滅しますよ、と言ってもどうも納得していないようだ。
彼の会社には、まだ人間的な社員はいるし、周りには彼をオトナとして見る子どもたちもいる。社会がある。そこに向かってハイエナになれとは、恐ろしいことを言うなあと思わず首を振った。会社が経済的に苦しいのはどこもいっしょである。だが、ここが人間として生きるか、ハイエナに落ちるかの分岐点である。
思えば、世の中はどんどんハイエナ化している。世界情勢のハイエナ化。日本の国のハイエナ化。ハイエナと人間の違いを整理しよう。わたしの私見だから、異論はあると思うが、まあ聞いていただきたい。ハイエナは、空腹を満たすという目的に向かって、そのまま行動に出る。肉に食らいつく。人間は、肉を食べるにも、ハイエナのようにただ食らいつくのではない。焼いたり、皿を用意したり、ナイフを使ったり、フォークを使ったり、タレを開発したり、横にワインを置いたりと、知恵を使う。工夫する。そこに文化が生まれる。人間は、@目的⇒A知恵、工夫、思想⇒B行動、の流れを持つ。Aは、人間が築いてきた文化だ。ハイエナにAはない。@から突然Bとなる。極論すれば、@から突然Bにいくのは、強盗をしても金を手に入れる、という理論だ。現にハイエナは、他の動物の肉を横から奪う。人間のもっとも人間らしいところ、人間としての存在理由は、このA文化にある。貧すれば貪する。これは文化を否定する言葉だ。人間が人間として生き抜いていく結論など、だれにも出せるものではないが、ハイエナのように本能にまかせて生きるだけではだめだ。かといって、文化ばかりを叫んでも生命力の弱い動物になり下がる。人間は動物であることに間違いはないが、ハイエナのように本能をむき出しにすれば、世界は戦争に包まれ、地球さえ滅ぼしてしまう。人間は神を創造し、自ら弱さを認めたところから動物と違った。ハイエナに神はいない。さらに、科学もない。人間は神と科学のバランスで進化する。本能だけのハイエナに進化はなく、むしろ退化と滅亡へと進む。
思えば、視聴率さえあがればなんでもするテレビ番組が、子どもたちや社会をハイエナ化したことも事実だ。文化の中で大切な、思想がなかった。恋ひとつにしても、@から突然Bである。Aなど面倒くさいのである。実際、文化とはある意味面倒くさいものである。テレビ社会が亡国につながると看破したのは、ノーベル賞作家の三島由紀夫だ。文化の究極となる思想とは、相手に対する「思いやり」である。実は、世界を救い、街を救い、家庭を救い、自分を救うのは、もはや「思いやり」しかないとわたしは思っている。国々も、政党も、企業も、なにもかもが自分の都合だけを主張して生き始めている。ハイエナが目の前の鹿を肉としか見ないように、お客さまを金としか見ない企業が増えないことを願うだけだ。オトナたちのハイエナ化が、子どもたちや国の将来をハイエナ化していることに気づくべきだ。
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■傘をたたんで、母は。 ■2009年6月19日 金曜日 6時30分25秒

「梅雨傘を たたんで母は 旅立ちぬ(耕雲)」。6月11日。朝まで降っていた雨が午前11時にはあがって、神が手を差し伸べるように、雲間からやさしい陽光がこぼれ始めた。新橋駅でバスを降り、汐留の高層ビル群を見上げると、ビルとビルの間にからりと晴れ上がった青空が見える。海からの風が、まだ乾き切っていないアスファルトの大通りを吹き抜ける。母は、晴れを呼ぶ女性だった。母ちゃんが何かしようとすると、いつも雨が止むんだよ、不思議だね。ともに暮らす三男の弟・信治が驚いていう。ぼくらは、男ばかりの五人兄弟。次男の敬二は、26年前、38歳で他界した。ぼくらは全員、母のことを母ちゃんと呼んでいる。第一京浜国道の隣のドトールコーヒーの通りに面したテラス席が空いている。200円のアメリカンコーヒーを注文し、テラス席に座る。行き交う車の列に夏を思わせる陽光が照りつけ、道行く人々は上着を脱いで手にもち、ハンカチで汗を拭く。打ち合わせまで15分ある。空が青すぎる。母と信治のことを思い出す。今年1月、88歳を迎えた母は、数年前から認知症が始まっていて、ベッドに寝た切りとなった。左腕の肘の横に肉腫が見つかったのは、昨年だった。新大久保の社会保険庁中央病院で手当てを受けた。放射線治療である。ザクロのように腫れあがった肉腫がはじけたら、危ないです。細菌に感染したら、その日のうちに命を落とすこともあります。主治医の先生が、全力を尽くします。とりあえず10回ほど放射線で叩きましょう。そういった。下落合の実家から、新大久保まで通院する。その日から、母と信治の新たな戦いが始まった。会いに行くと、車椅子の母は、気丈に笑った。長男のぼくを思い出さないこともあった。信治が、耕一、長男、と母の耳元で叫び、ぼくが母の手を握るとうれしそうに笑った。母の手が細く小さかった。1クールが終わるころ、病状が落ち着いた。四男の里志も五男の守男も小さく安堵した。信治が家で世話をするのが大変だった。介護ホームにもお世話になった。夏、看病する信治が癌に犯された。2度にわたる手術で、肝臓を取り去った。自分が入院しながら、信治は母の心配ばかりしていた。彼は、会社を辞めた。母は、2度目の放射線治療に挑んだ。ザクロは確実に大きくなっていた。今年、母は熱を出した。左肺に影があった。緊急入院となった。白い影は、たちまち左肺を潰した。26年前、敬二を看取り、7年前、父を看取った信治は、近づいた梅雨の雨よりも多くの涙を流した。結婚もせず、母とともに暮らしていた信治の悲しみは、ぼくの数十倍数百倍のものだ。高校・大学と合宿生活が多く、早くから下落合を出てしまったぼくは、長男とはいえ信治に顔向けができない。コーヒーを飲み終わり、打ち合わせをする。雨が降って、止み、晴れたことが気になった。昨日、転院を予定していたが、病状が悪化して無理だった。医師のすすめもあって、信治が個室を手配した。辛そうだったら、モルヒネを打ってください。ぼくらは、医師にそうお願いしていた。モルヒネを打つと、長くても一週間しか命はもちません。医師がそういったが、ぼくら兄弟は、母の一生を辛いもので終わらせたくないと思い、お願いした。もう、本人に決断する意志も力もなかった。打ち合わせが終わると、病院から電話があり、すぐにきてくれという。守男とぼくは新橋からタクシーを飛ばした。妻ののり子が見舞にきていたが、そのまま母のそばにいた。弟たちの家族が集まり、息子の豪太が4時に病院についた。4時25分。母は88年の生涯を閉じた。父を愛し、敬二を愛した母は、静かに彼らの待つ場所に行った。「弟の 涙に負けて 雨あがり(耕雲)」。な、あんちゃん、晴れただろう。信治がいった。
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■空手道部に入りませんか? ■2009年5月8日 金曜日 2時1分37秒

日本列島をソメイヨシノが咲き抜け、八重桜が花びらを落とし、2009年の春が行こうとしている。だがさびしいかな、創部60周年を迎えるわが國学院大学空手道部は、まだ深い冬の中にいる。やっと雪解けの兆しが見えてきたのは、9代次呂久英樹先輩を監督に迎えた昨年のことだ。新監督の次呂久先輩は、13代のわたしが空手道部に入部した40数年前に監督となり、その後わが空手道部を全国制覇へと導き、名門の道を築いた武道家である。初代小倉基先輩が応援団と同時にわが空手道部を起こして60年、部員数の激減により、選手5人の団体チームさえ組めない厳しい状況が続いている。わたしの現役の頃には100人近い部員がいた。部員激減の詳しい原因はわたしにはわからない。空手そのものが時代の潮流からはずれ、人気のないものとなったのかと思ったが、あながちそうともいい切れない。サポーターばかりだとはいえ格闘技がブームとなり、大学空手道においても明治大学や帝京大学には多くの部員がいると聞く。われら空手道部OB会「紫魂会」は、この状況を憂慮し、新会長に12代小柴先輩を迎え、まず次呂久先輩を口説き落として監督に迎えたというわけだ。小柴会長のマニフェストは二つ、現役部員の増強とOB会員の参加数の増加だ。昨年の春、3年生の女性主将と2年生が3人いた。だが、その部員たちも去った。残念なことだ。とくに3人の2年生は、純粋な心をもち、空手が好きな連中だった。いまいればどんなに強くなっただろうと無念に思うが、もはや死んだ子の歳を数えても仕方があるまい。昨年、大角くんと遠藤くんが入部し、次呂久監督のもとでこの1年間稽古に励んだ。大角くんと遠藤くんは、先日の駒沢大会で一般の部で3位に入賞したコーチの丸茂くんの厳しい稽古にも耐え、日を増すごとに強くなっている。同時に、たった二人で國學院大學空手道部を守っている。広い道場でたった二人の稽古を続ける彼らを見るたびに、強くなれと祈らざるを得ない。そして4月、待望の新入部員が入った。小島くん、松浦くん、古橋くんの3人の若者だ。たった3人、されど3人である。実にいい顔をし、いい瞳をしている。高校を卒業して一度社会人を経験して大学に入り直した小島くんは、空手という一途の道を歩む熱血の男と見た。不敵な眼差しで、社会に挑む気配をみなぎらせる松浦くんの、頼もしい風貌は心強い。付属の國學院高校の水泳部だった古橋くんは、ジャニーズ系のまさにイケメンだが、芯の強さを感じさせる好青年だ。この3人、わたしに新撰組を彷彿とさせる。小島くんは、悠然たる近藤勇。松浦くんは、燃える土方歳三。古橋くんは、剣の天才沖田総司。さらに、阿南高校で空手を経験している長野県飯田市出身の2年生の長沼くんの入部がうれしい限りだ。新入生が入ってきて、大角くんと遠藤くんの成長ぶりが際立って見える。高校から空手をやっていた素地が磨かれ、技に切れが見え始めた大角くんに落ち着きが出た。入学時、姿勢の悪さを矯正された遠藤くんは、背筋がしゃきっと伸び、技に速度が加わり、試合場でも堂々と見え始めた。まだ國學院大學空手道部の春は遠いが、爽快な風が吹き始めた。もっと部員を集めたい。空手で磨いた生涯の宝塔を心身に打ち立てん若者よ、ぜひ、空手道部に入部を。11月の60周年記念パーティには全国のОBの参加を呼び掛けたい。冬は、必ず春となる。
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■人は、脳で動く。 ■2009年4月9日 木曜日 3時20分34秒

ここ最近、脳に関心をもっている。息子が茂木健一郎さんの講演に行ったりしているので、私も脳に興味を覚えてしまった。書店に行っても脳の書籍が多いので、ちょっとしたブームかなと思い、読みやすそうな本を図書館で借り、バスでも風呂でもトイレでも、片時も離さず読んでいる。脳には1000億個の神経細胞があり、1秒に1個死滅してゆく。でも、ご安心を。1000億個のほとんどが使われていない予備であり、その予備の神経細胞が死んでゆくだけだから、当人の日常生活にはまったく影響がないのである。その死滅し続ける神経細胞の中で、唯一それが増える箇所がある。それが記憶を司る海馬と呼ばれる部位だ。海馬とは、タツノオトシゴのことで、形が似ているのでそう呼ばれている。トドのことも海馬というが、これは脳の海馬とは似ていない。神経細胞が増える、となれば増やしてみたいし、記憶を司る、となればおのずと大事にしたくなるのが人情である。海馬は「記憶装置」だ、という学者もいれば、記憶の「仕分け装置」だ、という学者もいて、両方の働きをすることは間違いがないようだ。では、記憶の「仕分け装置」とは、どんな働きなのか。入力された情報が、必要か不要か。それを仕分けし、必要な情報だけを記憶し、不要の情報は記憶をせずに捨て去るのだ。その分別作業を海馬がするのである。となれば、わたしのように広告に携わるものは、ぜがひでもお得意先の広告は記憶に残したい、と考える。海馬の仕分けのときに、捨てられずに、記憶に残す。こう思うのが当たり前で、広告づくりのときにそれを計算に入れて創りたい。そう願う。では、どうすれば海馬に気に入られて記憶に残るのか。そのヒントは、刺激である。海馬に刺激を与えれば、神経細胞は増える。海馬の神経細胞が多いほうが頭がいいことは、実験結果でわかっている。マウスの実験だが。海馬には可塑性という性質があり、可塑性は弾性とは逆で、刺激によって凹むと、その凹みが戻らない。弾性は、ゴムマリのように凹んでも元に戻る性質であるが、可塑性はその逆だ。神経細胞が増えることも大事だが、記憶にはこの凹みが重要なのだ。よく頭のよさと脳の皺の数を関連づけるが、これはどうやら違うようだ。脳の皺ならイルカが圧倒的に多い。大きさと関連づけるなら、鯨の脳は非常に大きい。男性の脳は1400グラム、女性の脳は1200グラム。頭のよさは、皺の数も大きさも決め手にはならない。さて、海馬のすぐ脇にある扁桃体、これにも注目したい。好き嫌い。恐いやさしい。いい感じ悪い感じ。つまり、こういった情緒を司り、その情報を海馬に伝える。この役目は重要だ。海馬の記憶は、「印象の記憶」だといわれている。「情緒の記憶」だ。しばらくぶりに会った人で、交わした言葉など記憶にはないが「あ、こいつ、いいやつだった」とか覚えている。その反対もある。これが「印象の記憶」。ブランド広告そのものである。扁桃体の働きである。ボケ突っ込みコミュニケーションやクイズ番組は、脳が喜ぶ基本だ。刺激を欲しがっている海馬を刺激するからだ。最近、酒を飲んでいても脳の話ばかりしているので、友人たちの脳が私を敬遠し始めている。
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■贅沢にも、料亭の話です。 ■2009年3月18日 水曜日 2時12分30秒

この時期贅沢な話だが、懇意にしている料亭が6軒ある。いずれもすばらしい料亭で、それぞれにすてきな味を持っている。小田急線の千歳船橋駅と経堂駅の近辺だ。千歳船橋駅から歩いて5分。環状8号線を越え廻沢に向かう道筋に料亭「タナベ」がある。ここは、うまい赤ワインをじっくりと楽しませてくれるのが特徴。新潟出身のご亭主は、荒削りの木彫りの熊のような風貌であるが、付き合ってみると大変気さくでよく笑い、包容力にあふれている。女将は、小柄で品がよく、鼻が立派とご近所でも有名な色白の美人で、お茶のソムリエの資格を持つ。先日、妻と二人で散歩の途中お茶を御馳走になったが、お茶とはこんなにおいしいものかと感動した。いままで飲んでいたのはお茶じゃない。そうまで思ってしまった。ご主人が漁業関連の仕事に携わっていた関係上、新婚時代をマダカスカルで過ごした。熱い時代をとんでもなく熱いところで過ごしたのである。料理もワインも極上で、人柄のいいご夫婦。話が弾むのも当然である。経堂駅から東急世田谷線に向かって5分ほど歩くと、閑静な住宅街に料亭「やま川」がある。表から見ると普通の民家風だから、前を通っても見落としてしまう。ここの呼び物は、ご亭主の料理と、バイオリン奏者高嶋ちさと似の甲府美人の女将である。ご亭主は、旬の食材を自ら探し歩き、仕入、料理を自分でしなければ気に入らないという徹底ぶり。そんなの当たり前だろと、口を尖がらせる。どちらかといえば偏屈な男だ。気に入らない客は門前払いとなる。先日、食材を求めてロシアと中国の国境まで出かけて行方不明になり、女将が警察に消息願いを出そうとしたが、それは単純に夫婦間のコミュニケーションがなかっただけだとわかった。コミュニケーションがないと言いながら、旅にはご夫婦でペアルックのセーターなどを着て、世間をあっと言わせたりする。世田谷通りの上町近く、自転車屋の前を入ったところに料亭「フジイ」がある。ご亭主は、根っからの遊び人で、若い頃から粋筋のお姐さん方とは必要以上に懇意にしてきた。ここの呼び物は、ご亭主の焼酎に対するこだわりとご亭主女将二人の明るさである。とにかくご主人は、だれか友人がいれば意味もなく明るくなれる性格で、また女将の明るさときたら、なにものにも負けない天然のすごみがある。一年中、リオのカーニバルのようなけた外れの明るさで、ビスが一本足りないのではないかと心配になり「ビス・ユニバース」と呼んだら、うれしそうに笑い返してきた。お見事。世田谷通り、関東中央病院近くの桜並木沿いにあるのが料亭「みやもり」だ。ご亭主は、アジアにも別宅を持ち、日本の家とのかけもちだが、女将の器量で、表面だけは実にうまく繕っている。世界を駆け回るご亭主は、とくにワインに精通しながら、蘊蓄を語らず、ごたくを並べず、飲んだらころりと寝る乳飲み子のような男で、笑顔がとくによく、どんな嘘でもその笑顔を見て女将は許してしまう。酒、料理ともにうまく、ひときわ明るいこの料亭は、ひとえに女将でもっている。ご亭主にそう言ったら、当然ですと胸を張った。このご亭主、弱みがあるなと、世間は睨んでいる。残る料亭「ホリ」と「たか乃」と「竹多」、最近世話になっているピアノバー「おお邑」の紹介は次回となる。いやいや、いずれもなかなかの味ですな。わが友人ミナミ総理がうなる。
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■脳が喜ぶ広告がいい。 ■2009年3月10日 火曜日 15時37分32秒

茂木健一郎さんの脳の話は、わかりやすくて面白い。書店に行くと、私の思いすごしかもしれないが、どうも脳に関する書物が目につく。脳の中でも、記憶の製造工場と言われる海馬についての研究がここのところ進んで、いろいろなことがわかってきたと言う。だから、面白いのだと言う。海馬について東京大学大学院の池谷祐二さんの話、これがまた面白い。海馬の役割は、記憶をつかさどる係り。集められる情報を整理して、この情報は必要だから記憶として残しておこうとか、この情報はいらないから記憶なんかに残さないで捨てようとか、情報の要・不要を仕分けして、ふるいにかける役割だと言う。現在は情報過多時代で、私たちは山のような情報に囲まれ、下手すれば土砂崩れで埋まりそうだが、そうならないために情報の山を片っ端から整理、統合しているのが海馬だ。残す情報。捨てる情報。そこで、私の興味は、海馬と広告の関係を究明して、お客さまの脳が喜ぶ広告ができないか、ということである。脳が喜ぶ広告。海馬に心地よく残る広告である。私たちが創る広告は、お客さまの海馬が、記憶に残すほうに選ぶか、それとも、ぽいと捨てられるほうか。これは非常に重大な問題だ。では、海馬の情報選択基準はなにか。まず、これを知らなければ、記憶に残る広告を創ることはできない。海馬の選択基準。なにか。それは、刺激だ。刺激。これが大きなヒントになる。海馬は、刺激に反応する。海馬は、脳の中でも唯一神経細胞が増える部位で、刺激によって神経細胞が増えるのだと言う。さて、ここでもう一つ、海馬の隣にいて、海馬と密接に関係する扁桃体にも参加してもらおう。扁桃体の役割は、好き嫌い、心地よい心地悪い、面白い面白くない、怖い怖くない、そういった情操部分を判断する役割だ。地デジ対応液晶カラーテレビ、20万円を5万円に。こんなチラシが効果的なのは、海馬に痛烈な刺激を与えるからだ。20万円が5万円。あり得ない。海馬がびっくりする。トク。ソン。これは刺激です。でも、広告はそれだけではない。あえて、そう言いたい。競合が20万円を3万円としてきたら、一発逆転だ。むずかしい。だが、お客さまは、あなたの店が好きなのだ。あなたの店で買いたい。だから、あなたの店が3万円に下げれば、喜んでみんながやってくる。そうしたい。できれば、4万円でもきてほしい。そのとき扁桃体が力を発揮する。扁桃体が心地よいと感じ、海馬に、あなたの店は心地よい店という記憶を残す。海馬に残る記憶は、印象の記憶だそうで、心地よい店ということが残る。なにが心地よかったかの記憶が消えても、心地よさが残る。どうですか。これは、すばらしいブランド広告ですね。この、海馬と扁桃体の働きを、ぜひ広告に活かしたい。少なくても心地よいという印象を残し、気持ち悪いとか、いやらしいとか、そんな記憶だけは残したくない。まだまだ続く海馬の研究。脳を広告に活かすという発想で、新しい時代に効果を発揮する、新しい広告を追究して行きたい。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■価値創造。 ■2009年2月19日 木曜日 13時58分8秒

ものを創る。その意味は、価値を創ることだ。それが社会の成長時期に合わせ「物」だったり「心」だったりするのだが「もの=価値」であることに少しのブレはない。
普通に考えると、社会の成長期には「物」が必要となり「物=価値」となり、社会が成熟期に入ると心が必要となり「心=価値」となるように思う。大切なのは「物+心=価値」という図式を基本とし、成長の度合いで「物」と「心」の比重が変わるということだ。軸足をどちらにするか見極めることが大変重要だ。
長い間広告業界にいてありとあらゆる価値創造に参加させていただいてきたが、今回の経済不況ほど製造業を窮地に追い込んだ時期はない。その時期その時期に合わせてすべての製造業の方々は工夫に工夫を重ねて乗り越えてきた。それは、その時代に「必要な価値」を見出して、その時代に「必要な価値」を創ってきたからだ。広告の仕事とは、製造業だけでなくすべての企業が製造する「ものやサービス」の社会的価値を鮮明に描き出し、生活者のみなさんに伝える役割を果たすのだが、そこには常に、ものの「本質的価値」とともに、その時代だからこそ煌く「時代的価値」が存在していた。その価値を理解し、その価値を心地よい範囲で増幅して、多くのみなさんに伝えるお手伝いを、わたしたちはしてきた。
本質的価値は、普遍的であるが、時代的価値は、極めて流動的だ。その特質を研究し、使い分け、広告は努力をしてきた。だが、いま、時代が必要とする価値「時代的価値」が不鮮明となった。時代的価値の頂点に「マネー」が君臨し、そのほかの価値を津波のように押し流してしまったからだ。「マネー」は金融の頂点にあっても、経済の頂点にあってはならない。
なぜなら「マネー」はいかなる企業でも製造が不可能だからだ。いまの不況の兆候はあった。「ものの価値」をマネーに換えなくては価値が読めない生活習慣。つまり、本質的価値に対する不勉強。教育の歪み。「マネーそのものを商品化」した時代(マネーを経済の頂点にした)。すべてが「マネー」に走って「本質的価値」を置き去りにした時代。
これらのことが悔やまれると同時に、これは広告コミュニケーションの場でもぜがひにでも修正をかけなければならない。自動車を造り、電化製品を作る製造業も、旅行を創るサービス業も、あらゆる企業が「本質的価値」を再度追究することから始めなければならない。原点還りである。マネーに負けてしまった「本質的価値」の再構築を図らなければならない。「時代的価値」は、政治や流行や風潮や生活や気分によって変化する。ここはひとつ「本質的価値」の追及と再構築こそが急務だ。
「時代的価値」のひとつに「環境」がある。オバマ政権は、環境対策は経済対策の一部だと位置づけた。だが、「環境」は「時代的価値」というより「本質的価値」であろう。日本の企業も環境に本腰を入れるチャンスだ。企業が「環境」で利益を上げなければ、それはよくならないのだ。人間の本質的価値を見直す。くらしの本質的価値を再構築する。地球の本質的価値を追求する。ものの本質的価値を創る。人々や時代が振り向く「価値」を必ず創る。わたしたち広告業にも、いまはその道しかない。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)

■双子の双語。 ■2009年2月9日 月曜日 15時32分46秒

言葉は世につれであり、時代の風に揺れ動くものだ。いつの時代にも若者は若者特有の言葉を使って楽しむものだが、ケータイが必需品となり、メールが生活に浸透してから言葉は大いに変わったように思う。会話のテンポが早くなり、言葉をはしょるのも目立つ。その中でも、言葉を正確に把握せず、テンポにまかせて使ってしまい、本来の意味からはずれていくケースに時たま出くわす。言葉には使い方、発音、意味などが非常によく似たものがあって、ゆっくり使っても混同してしまうものがあるのにスピード優先の会話をするものだから、ますます混同してしまう。双子のように似ている言葉を、わたしは双語と呼んでいる。たとえば「希望と欲望」である。このふたつは似ている。混同しやすい。意味も似ているから、油断すると同じように解釈してしまうが、実は大変な違いがある。一般的に言って、希望は美しく正しいと見られ、そういうイメージがある一方、欲望はいまいち不純なイメージが漂う。辞書的にいうと、希望とは、未来に望みをかけること、こうなればよい、なってほしいと願うこと。欲望とは、ほしがる心、不足を感じてこれを満たそうと望む心、となる。大変よく似た意味を持つ。受験の子どもを持つ親が、子どもをいい学校に入れていずれは社会の役に立つ人間に育てたいと願うのは、希望の部類に入る。だが、いい学校に行かせていずれ大金を稼ぐ人間にしたいというと、なにやら希望ではなく欲望のように聞こえてくる。同じ現象であっても、意識の持ちよう、言葉の使いようで、まるで違ってくる。希望には上品なイメージがあり、欲望には下品なイメージがともなう。希望に胸を張って旅立つ、というところを、欲望に胸を張って旅立つとしたのでは、なにやら実もふたもない。双子の双語に惑わされず、言葉の意味やイメージさえも把握して、正しく使うことがコミュニケーションを大切にすることになる。また、価値観の混同もよくあることで、最近では「いい悪い」と「好き嫌い」の混同が目立つ。われわれ広告業界でも、宣伝物を新入社員に評価させることがある。
若者がターゲットであるから、若い意見がほしいという理由からで、それはそれで一理あるが「わたし、このデザイン嫌い」とか「こっちの広告が好き」とか、平気でそういう評価をする。「好き嫌い」はあくまでも個人的評価であり、社会的評価とは別物である。「いい悪い」は社会的評価であり、一つの価値観のもと、社会とどう関係するのかを理論的に説明するものだが、「好き嫌い」は理屈も不要だ。好き嫌いの評価が役に立たないというのではなく、そこに大きな落とし穴があることを知っておきたいと思う。双語ではないが「いい悪い」と「好き嫌い」もその価値観において非常に似ている。最近、コミュニケーションが不足しているとか、どうも理解の仕方がぶれているとか、コミュニケーションのやり方が下手だとか、世間ではいろいろ取りざたされているが、まず言葉や文字を大切にし、ゆっくりとていねいに伝えることを心掛けたらどうかと思う。これは、自分にもいい聞かせていることだ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■デマにご注意。 ■2009年1月20日 火曜日 14時25分26秒

情報が届いていなければ、どんな事件も事故も、出来事も、それは存在しないのである。「知らない=無」である。認識のないものは、存在しないのである。そんな当たり前のことを改めて知ったのは以前に沖縄の友人が、ぼそりと言った一言だ。うちの島には新聞が2日遅れてくるのです。東京になにかあってもニュースで知るのは2日後で、それまでなにも知らないのです。知らないということは、ないということです。そう言った。いまでも離島には1日遅れの新聞があるらしい。都はるみは、3日遅れの便りを乗せて、船はゆくゆく波浮港、と歌った。たとえば、名優緒方拳さんが先日亡くなった。残念。わたしたちはそう叫ぶが、情報が届かない所では、今も緒方拳さんは、生きている。情報が2日遅れる所では、その遅れる2日間は、緒方さんは生きているのだ。たとえば、アメリカの9.11の大ニュースにしても、その情報が耳に入るまでは、わたしたちには、その不幸はないものと同じだ。わたしたちには、存在しないのである。1日なり2日なりの後、テレビや新聞で知って初めて存在として認識できるのであって、その間の数日は、アメリカ貿易センタービルは、そこに存在していて、崩れてはいないのだ。いまはテレビもラジオもライブでどこへでも情報を流すので、そんなことはないのかもしれないが、理屈はそうである。友人が、映画館で映画を観ている最中に、突然画面が黒くなり、次に赤くなり、警報がなった。ただいま2階で火事が発生しました。係員の誘導に従って・・・。となった。みんな無事に避難し、幸い大事には至らなかった。みんなが戻る。そして、火事はこのビルではなかった、とか、このビルなのだがボヤだった、とか、初めから誤報だったとか、まことしやかな言葉が飛び交い、そこで軽いパニック状態になったという。デマ、風聞はこんなときに起きやすい。それらは、こんなときに思わぬ力を発揮し、パニックをいっそうのパニックに誘う。これが怖い。こうじゃあないのかなあ、という個人の想像が、いつの間にか、こうなのだと断定的になったり、ああらしいぞ、という想像が、ああだと断定的になる。人の言葉に反対意見を述べて、それが正しい、いや違う、と確たる情報源もないままに想像が妄想を生み、ああだこうだという間に話は大きく、さらに歪んでいく。デマ、風聞は大きく歪む傾向にある。人々は、不安になるとデマを言う。不安だからデマを言う。不安がデマによって、さらに不安を増す。戦争中にはさまざまなデマが飛び交ったと聞く。現在、情報の伝達能力は極めて進化し、もはや離島でも瞬時に到達するようになったが、今度は情報の信憑性が疑われている。ネット社会では信憑性こそが重要である。社会不安の深まる現在、デマには十分注意をしたい。情報の信憑性を確認してから行動したいものだ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■人の味は、店の味。 ■2009年1月7日 水曜日 13時53分1秒

渋谷、國學院大学空手道部の忘年会の二次会に、13代同期の花松忠義君が、近くに和食のうまい店がある、おまえのカードで飲みに行こうと誘う。よし、日頃世話になっているからこの際気持ちよく奢りましょう、と夜の渋谷西口をふらふら歩く。監督の次呂久英樹先輩、ОB会長の小柴先輩、後輩の塩沢君も一緒だ。その店はどこだ。年寄りの体に夜風は毒だ。次呂久監督が言い、歩道橋を下りたところです、と花松君が答える。東横線のガード脇、国道246号線沿いの地下1階にその店「三漁洞」はあった。なるほど、ぶり大根を口に入れた瞬間に、これはなかなかの店だぞ、と全員が頷く。割烹着姿の女将さんが、ゆったりとにこやかに応対してくれる。うまいのは当たり前だ。この店は、クレイジー・キャッツの石橋エータローさんの店だ。花松君が得意気に言う。というとあの女将「みっちゃん」は、もしかするとエータローさんの奥さんか。クレイジー・キャッツといえば、当時知らない者はいなかった。テレビが津波のように日本中を飲み込んだ時代に、彼らは日本中の茶の間を笑いの渦で飲み込んだ。ミュージシャンとして一流の腕を持ちながら、陽気なサムライたちは笑顔と夢と希望をみんなに振りまいた。暗い時代に歯向かう力を、精いっぱいの明るさで戦って見せた。しゃぼん玉ホリデイ。青島幸男が笑いの才能を爆発させたこのテレビ番組は、彼らがいたから怪物のようなヒット番組になったし、またこの番組が彼らをさらなる天才の域にのし上げた。ジャガイモ顔のハナ肇をリーダーに、日本一のお調子者植木等が暴れまくったクレイジー・キャッツ。映画釣りバカ日誌の課長谷啓が、人を食ったキャラクターで通を唸らせた。その中で石橋エータローは異才を放った。ホワイトアスパラのようなひょろりとした体の上にとぼけたメガネの顔を乗せ、どこか人の良いキャラクターで、ただ何もせず、みんなの中をあっちに行きこっちに行き、うろうろちょろちょろするだけに見えた。強烈な個性ぞろいの中の中和剤のような存在かと思えた。だが、違っていた。このホワイトアスパラ氏は、天然ボケ(失礼だが)という天が与えし才能の持ち主だった。みんなが工夫し、考え、全力で演じる横でひょうひょうと天賦の才でボケてみせた。突っ込み10年ボケ天然、といわれるほどボケ役はむずかしいものだが、石橋エータローさんには、それがあった。それは、シャイだったからではなかろうか。気まじめで、物事を理論的に解釈する。だから、エータローさんがテレビで料理番組をやったが、真面目にやるほどおかしかった。尺八の鬼才であり、西園寺公一先生に言わせれば釣りの鬼才でもあった父福田蘭童氏の血を受け、料理番組までやった人だから、料理がうまいに決まっている。その人の店だから、うまいに決まっている。石橋さんの不思議な人間味を思い出す。そして、この店には文化の香りが漂っている。味にうるさい次呂久監督が帰りに、この店はいい、高野のカードでまたこよう、と言った。「人の味は、店の味」である。
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■バスの尻。 ■2008年12月19日 金曜日 16時46分21秒

愛が深いほど憎しみも深くなる、ということは確かにある。今回はそういう話。渋谷発23系統東急バスにおける女性の尻がいかに凶器であるかについてのお話。先日、23系統の最終バスに乗った。このバスは、渋谷駅西口から三軒茶屋を通り祖師谷大蔵まで行く。全員が座ることはできなかったが、大混雑というほどでもなかった。わたしは最後部の左側の座席に座った。わたしの降りる桜丘住宅まで24駅も乗るので、時間はうんざりするほどある。最近買ったバスの中でも使える超小型パソコンを開き、ちょっと格好をつけてみせる。すぐに文章にのめり込み、夢中になる。三軒茶屋あたりから混んできたが、気づかなかった。後部座席は無理して詰めれば5人座れるが、肩幅の広い男が4人座っているから少々きつい。わたしはパソコン画面に集中していた。すると、突然、崖崩れのようにわたしの右手を押し潰すものがあった。落雷かと思った。思わずパソコンのスイッチを切ってしまった。ああ、原稿が消えてしまった。この崖崩れ女。落雷野郎。わたしはカッとする。わたしの右側の少しの空きに強引に尻が割り込んできたのだ。瞬間、相手の顔を睨みつけようとして我慢して止める。わたしは空手2段だから、カッとして手をあげようものなら警察が直ちに介入する。だから、カッとしても相手の顔を見ないようにする。そのほうが気が楽だ。わたしの原稿を消してしまった凶器は女性の尻だった。女性の尻がパソコンの文章を消し去り、おまけにわたしのコートの端を踏んでいる。なお頭にくる。ますます顔を見ないように我慢する。おそらくツンとしたわたしは美人よ、という顔で、こんなに混んでいるバスの中でパソコンをやってるほうが悪いのよ、と睨みかえすような女性に違いない。まいった。確かにわたしは、混んできたのに気づかなかった自分に少しは反省の気持ちはある。だが、よろしいですか、ともいわず、すいませんが、ともいわず、当然あんたが悪いのだからパソコンの文章が消えようがどうしようがわたしの尻の落雷には関係ないわ、と必殺の凶器はでんと構えたままだろう。和道流2段の廻し蹴りを食らわせてやろうか。だが、我慢する。家に帰り、かみさんに泣きながらバスの凶器の尻の話をするが、かみさんは腹を抱えて笑うだけ。おまけに、わたしだってそのくらいやるわよ、という顔。翌日会社に行き、アートディレクターの佐川くんにバスの尻の凶器の話をする。それに似た話がありましたよ。佐川くんがいう。JRでしたか、失礼な女性がいて、前に座っていた男が電車を降りる際に、女の顔面に蹴りを入れたという話です。そうだよな、そうだろ。わたしだって空手さえやっていなければ、バスの女の崖崩れの尻に蹴りを入れていたぞ。でも、女性の勇気にはつくづく感心する。尻の凶器には脱帽する。わたしがあとほんの1ミリくらい腹を立て、切れてしまったらどうするのだろうか。農大一高前で尻が降りたとき、わたしも続いて降りて行って、その尻に必殺の廻し蹴りを入れたらどうするのだろう。愛すべき尻がこれほどの凶器になるとは。バスが悪いのか、パソコンが悪いのか。それとも世間が悪いのか。どうやらわたしが悪いようだ。年の終りの反省である。
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■ヘミングウェイの嘘。 ■2008年12月19日 金曜日 16時44分53秒

ヘミングウェイは、戦争など実際にはまったく経験しなかった。イギリスの作家でありミュージシャンのハンフリー・カーペンターが「失われた世代、パリの日々」の中でそう言う。そもそも人に話を聞いてもらうためには、嘘をつかざるをえない。ヘミングウェイ自身もそう言っている。嘘であってもかまわないような軽いもので、他人の行動や見聞を自分の経験にすり替え、典拠は怪しいがだれでも知っているような出来事を事実として述べること。それを彼は否定しない。1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、ヘミングウェイは18歳だった。彼はカナダに行ったというが、カナダにも行かなければ入隊志願もしなかった。視力障害で軍務には不適だと判断されていたからだ。
カーペンターによれば、イタリア軍のために弁当を配った経験はある、という。それが事実かどうか、わたしは問わない。ヘミングウェイにおける、嘘と真実とは。それは興味深いことだし、わたしの生き方においても、嘘と真実との明快な解析はぜひ望むところである。まず、ヘミングウェイは小説家である。小説が嘘か本当か、と問えば、間違いなく嘘である。小説は創作である。誰がために鐘がなる、の主人公はヘミングウェイであってヘミングウェイではない。彼が例え弁当配りであってもイタリア戦線に参加したとしよう。怪我をして病院に入り、年上の美人の看護士と恋をした。これは本当のようだ。だが、主人公のようにドラマチックに活動したかとなると、これはまったく問う意味のないこととなる。事実と真実の違い。これを笑って容認する覚悟がなければ、小説は読者の心のうちで圧倒的に価値を失う。小説に真実を求める、という会話は成立するが、小説に事実を求める、という会話はどこに意味があるのかわからない。(この場合は、事実とリアルとの違いの解析となる)。新郎新婦が神前で、永遠の愛を誓う。だが、事実は永遠かどうか実はわからない。むろん、永遠と思うから永遠を誓うのであるが、離婚に至る夫婦もいるから、誓いつつなにか怪しさが残る。永遠と思いたい気持ちが強いのは理解できるが、怪しさは残る。新郎にしても、新婦にしても、まず誓っておかなくては始まらない、という気持ちは確かだ。これを嘘と決めつけるわけにはいかない。事実ではないが、真実であり、嘘ではないと断言する。営業マンが営業目標を立てる。達成できない場合、それを嘘として叱りとばすことはできない。努力不足を責めるだろうが、嘘とは断定しないだろう。嘘に対する恐怖心のあまり営業マンが目標を下げてしまうことが必ずしも正しいとは思わない。嘘と事実と真実の微妙な関係を認識しない者に、創造、創作、希望、夢、目標はどう位置づけられるのだろう。映画、芝居、小説、絵画はどう解釈されるのだろう。
わたしは真実を曲げようとは思わないが、事実を曲げることはあると思う。迷惑をかけないという条件で、興味を抱いてもらうためにヘミングウェイ程度の嘘をつくだろう。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■ドイツチームに乾杯。 ■2008年11月20日 木曜日 15時14分0秒

ペーター・ベッツがドイツのナショナルチームを率いてやってきた。11月11日のことだ。空手道世界選手権大会に出場するためだ。大会は13日武道館で行われた。壮行会は渋谷の国学院大学若木タワー18階、有栖川宮記念会館で行われた。試合直前とあって選手は参加できなかったが、会長夫妻、監督、コーチ陣が参加した。こちらはというと、空手道部初代主将であり、わが空手道部と応援団の創設者でもある小倉基名誉会長を筆頭に、空手道部ОB会小柴会長、次呂久英樹監督、ドイツチームの日本での調整に道場を提供し、滞在の細々したことのすべて面倒を見ていた埼玉の小林君と同期の石井君、坪井君、そしてОB会有志の面々。事務局長の斉藤君は、図々しくも文学部教授の橘先生に通訳をお願いした。橘先生はいつものように、空手部のためだ、と快く引き受けてくれた。学校関係からも御来賓をいただいた。応援団の諸君がドイツチームにエールを送るために駈けつけてくれた。わたしはベッツとはまったく面識がなかった。彼は、わたしより10代ほど後輩だった。
小林君が主将時代に特別練習生として空手部にいたという。
小林、石井、坪井3君たちが、愛情のこもった拳でベッツを鍛えたのだ。その後、ベッツはドイツに帰り、空手道の普及に貢献したのだ。いやいや、ベッツは決して誉められた練習生ではなかったですがね、ここだけの話。小林君がにこにこ笑いながら耳元でいう。結構やんちゃなこともしましてね。実は逃げ出してドイツに帰ったようなもんです。
そう言いながら、小林君のものいいには愛情がこもっている。ある年、ヨーロッパを旅した途中に寄ったんですよ、ドイツに。ベッツの道場を覗くといましたよ、えらそうな顔をしたベッツがね。黒帯しめて。わたしの顔を見て、ぎゃっといって逃げ出しましてね。日本からわたしが、ベッツを殺しに来た、と本気で思ったのだそうです。当時の空手道部では話としてありうることだった。わたしと小林君は声をあげて笑った。小倉名誉会長は、急遽ドイツ語の挨拶だけを覚えて親しみをこめて歓迎の意を伝えた。小柴会長も考え抜いた几帳面な挨拶をされ、次呂久監督が乾杯で座を盛り上げた。雅楽部の演奏は、ドイツチームに大いに受けた。このアイディアは、斉藤明彦君の提案であった。ベッツは細身の体だったが、他のコーチ陣には大男がいた。わたしたちはある大男をタワーと呼び、日本語と英語のチャンポンの会話をしたが、ほとんど通じないためにワインをジャブジャブとグラスに注いだ。ベッツにОB会から感謝状を贈った。ベッツはОB会員ではないからそれには反対だ、という者もいたが、ドイツに帰ってわが空手道部の教えを広めていることを考えれば、これは感謝に値するとして実行された。後輩の日下部君が、こういううれしいニュースは大歓迎ですね、と帰りのエレベーターでいった。13日。ドイツ女子チームが優勝した。その夜、渋谷のいつもの居酒屋で次呂久監督と塩沢君とわたしは乾杯した。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■園歌。 ■2008年11月10日 月曜日 18時20分37秒

雨上がりの濡れた木々の間を澄んだ歌声が流れていく。濃い緑の葉が歌声でかすかに震える。鳥たちは自分が歌うのを忘れ、風見鶏のように細い枝の上でじっと歌声に耳を傾ける。赤や黄色の絵の具を点々と垂らしたように色づき始めた森は、秋の装いだ。土曜日の昼下がり。井の頭公園。まだ厚い雲の残る空の下で時間はゆっくりと流れる。歌声は、江戸幕府のご用水に使われたという公園の湧水よりさらに澄み切っている。池に浮かぶボートの若い二人は、オールを動かすことも忘れ、ただ黙って見つめあうだけだ。観客はおよそ400人。年配の人が多い。前列には青いシートが敷かれ、3列ないしは4列に重なった人たちがじっと歌声に耳を傾ける。その人たちの外側を大勢の人たちが取り囲み、大きな輪を作っている。その外側を歩く人々も足を止めて耳を傾ける。歌姫は人の輪の真ん中にいる。ビールケースを逆さに置いたステージの上に立ち、ギターを抱え、マイクなしで歌っている。マイクを使うとご近所に迷惑がかかる、という配慮でマイクを使わないのだと言う。だが、歌声はどこまでも力を失うことなく、公園の人々の心の中に沁み込んでいく。わたしはその歌声を昭和の大スター美空ひばりと重ねている。幼い日に父と母に連れられて行った映画館。スクリーンの中でひばりが歌う「悲しき口笛」は、いまもわたしの心の中に響いている。一生、わたしの心から消えることはないだろう。ひばりの歌は、暗い時代に光を灯した。井の頭公園の歌姫の名は、あさみちゆきと言う。月に1度公園でギター1本とビールケース1個でライブを重ね、すでに100回を越えている。歌と歌の間に、周りの人たちと楽しい会話をする。今日はNHKの取材班も入り、カメラが衛星のように歌姫の周りをぐるぐる回っている。ちゆきの会の面々が黄色いハッピを着て整理に当たっている。彼女はすでにテレビにもよく出演していると聞く。友人でちゆきの会の会員である佐藤光二郎に言わせれば、ちゆきを知らないわたしがどうやらもぐりらしい。作詞家の故阿久悠が彼女のためにいくつも詞を書いた。宇崎竜童が新曲を創り、CDを出したばかりだ。山口百恵を思い出す。百恵ちゃんは、菩薩と称された。その歌声が人々に勇気を与え、その微笑みが人々を救うからだ。天に舞い、宙から降臨するやさしい歌声と人々と交わす暖かい眼差しには、理屈を超え、心の底から湧き上がる喜びがあった。歌を媒介にして歌手はファンを救い、また歌手はファンの純粋な笑顔によって救われていたのであった。そして彼女は、カリスマとなった。歌は、喜び集うための媒体であった。歌は、日々の生きる勇気を生み出す栄養であった。天は、ひばり、百恵という人間を通して人々に歌を届けたのであった。あさみちゆきは天に代わって歌を歌う歌手なのか。公園に響く歌声。演歌。援歌。怨歌。呼び方はいろいろあるが、天に響く園歌こそが彼女の歌にふさわしい呼び方かも知れない。大スターになっても彼女は、公園を去ることはないだろう。秋の日、ふらりとスケッチブックに絵を描いたような、いい1日だった。
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■すくった金魚が救われない。 ■2008年10月20日 月曜日 12時23分50秒

子どもの頃、お祭りは天国だった。お御輿は天国に行く乗り物だった。担ぐととてもいいことをした気分だった。昼間から仮設舞台の上で酒を飲んでいる大人たちを見ると安心した。大人たちがどんな気持ちで酒を飲んでいたかはわからなかったが、みんなが笑っているのを見ると、子どもたちはそれだけで世の中は大丈夫だと安心した。同級生の女の子の浴衣姿が眩しかった。赤いヨーヨーを持ってクスクス笑う白いうなじと細い足首に胸が熱くなった。屋台の店がずらりと並ぶのが好きだった。べっこ飴屋、お面屋、風車屋、薄いピンクの煎餅にソースをつけてくれる店、プアーと音を出す風船屋、吹き矢や模型飛行機やめんこを置いている駄菓子屋、わけのわからないお菓子を舐めると当たりが出てくる店、糸の先に針をつけてくるくるルーレットみたいに回すと高価そうなブリキの車が当たると言うけれど当たったのを見たこともない変な店、ラムネも置いてある水飴屋。中でも子どもたちの人気の店の一つが金魚すくい屋だった。値段の安い赤い和金が夢中で泳ぎ回っていた。高いリュウ金が大きな尻尾を振っていた。それより高い黒い出目金がえらそうに泳いでいた。どの金魚も一生懸命泳いでいた。和金は数が多くすくい易かった。赤と白の斑模様の金魚もたくさんいた。金魚をすくう丸い針金製の金魚ポイは、薄い紙のものしかなかった。紙は習字の半紙のように薄くすぐ破れた。モナカなんかなかった。だから、モナカの金魚ポイが登場したときは、邪道だ、世も末だ、と思った。一回10円だった。和金がすくい易いのは、尻尾が小さいからだ。リュウ金や出目金は和金より動きは遅かったけど尻尾が大きく、尻尾の動きに力があった。だから和金は、動きは早いけれど狙われた。すくうコツは、金魚の尻尾を紙の上に乗せないことだ。水につけた金魚ポイを真上に真っすぐに上げないことだ。水と紙の面を直角に上げないこと。水の抵抗を受けない角度で滑らかにあげる。その動作の途中で金魚を軽やかにポイの上に乗せる。金魚の下をすっとポイを通過させる要領。これがコツだ。ある日、天ぷらを食べながら妻が言った。最近はすくった金魚を家に持って帰らないんだって。え、なんでよ。家で金魚を飼いたくないみたいよ。そりゃおかしい。なに考えているんだ。自分がすくった金魚は家に持ち帰り、餌を与えて面倒をみる。週末に子どもといっしょに金魚鉢を買いに行くなんて、なんとも素敵な親子ではないか。酸素を出すブクブクも買う。子どもは金魚に名前をつけて毎日話しかける。おはよう。ただいま。元気? 金魚は答えたりしないが、そこに愛情がわいてくる。金魚は答えないが、愛情は伝わっている。死んだら涙を浮かべながら庭の隅に埋めてあげる。命の大切さを知り、命あるものはやがて死ぬことを覚える。金魚すくいは、すくって、家で飼って、餌をあげて、話しかけて、死んだら泣く。そこまでの一連の行動があってこそ、金魚すくいなのだ。それが、金魚の中でもおそらくいちばん安い金魚すくいの金魚の精一杯の人生なのだ。それをただ追いかけ回して、すくって、笑って、オシマイ? それでは金魚は救われない。すくった金魚が救われない。子どもは貴重な教育の手段をまた一つ失った。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■裕次郎の便器 ■2008年10月9日 木曜日 18時6分34秒

日活撮影所にしばらく行っていない。オリエント時計やミスタードーナツのCM撮影で行って以来だからもう何年になるだろう。行き初めの頃、すでに撮影所の敷地の半分は見上げるほどのマンションになっていて、スタジオは貸しスタジオになっていた。石原裕次郎や小林旭や赤木圭一郎が暴れまくっていた時代はすでに時の彼方に消えていた。多摩川沿いの道路に面して撮影所の入口がある。入口の守衛室の手前の駐車場に車を止め、人通りの少ない撮影所内を歩く。よく使ったスタジオは、入口に近い7番スタジオか8番スタジオだった。いつも直接スタジオには入らず、撮影所のあちこちをふらふら歩きながら日活全盛期を偲ぶ。食堂に行く。工事現場の飯場の食堂のようにまるで愛想がない。しかし、当時の映画作りは飯場と同じ勢いで映画を作っていたのだと思うと妙に親しみを覚え、鉄パイプの簡易な椅子も座り心地がいい。誰もいないがらんとした食堂で自動販売機から買ったコーヒーを飲む。この食堂は、渡哲也さんが青山学院大学空手道部から俳優になったとき初めて裕次郎さんと会った食堂だ。渡さんが、すでに大スターになっていた裕次郎さんが立ち上がって挨拶をしてくれたと感激した食堂だ。誰もいないが裕次郎さんと渡さんが目の前にいて握手をしているようなうれしい光景が浮かんできて、思わずにんまりする。わたし、バカですねえ。昭和の男はこんなもんです。食堂を出て撮影所内の通りを歩く。すでに閉鎖されている空家のような建物も多い。雨ざらしになった古い木の看板が、建物の入り口にぶら下がっている。俳優部、撮影部、照明部、衣装部。この雨ざらしの看板は、裕次郎の時代のものだ。この古さから間違いなくそうだ。人影もないので、帰りに俳優部の看板を失敬して持ち帰ろうとしたが、気が弱いので保留にして、そのままである。いつか必ずいただきに行こうと思う。トイレは入口守衛室のすぐ隣にある。缶コーヒーを飲みながらぶらぶらとトイレに行く。トイレは建物も古いが、便器も古い。それは間違いなく裕次郎が使った便器だ。旭も圭一郎も使った便器だ。便器は3つ並んでいる。前に立つと目の前に小窓があって、外の景色が見える。待てよ、と思う。裕次郎の便器はもっと高くてもいいのに、と思う。いや、高くなければいけない。身長183センチ、股下32.5インチ。わたしよりはるかに脚は長い。それが裕次郎の大いなる魅力であった。世界一の脚線美を裕次郎はイギリスの俳優ローレンス・オリビエと競っていた。だから、この便器は裕次郎にしては低すぎる。だが、裕次郎専用ではないのだから低くてもしかたがないか。かつて裕次郎が使った便器を使う。裕次郎の小便の上に自分の小便を振りかける。小窓から大木が見える。裕次郎もあの木を見ながら用を足したのだろう。風が枝を揺らし、時の流れが無常を告げる。裕次郎も圭一郎ももういない。スタッフが撮影の開始を告げにきてわれに帰る。ああ、時は無常です。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■夢がない。 ■2008年9月22日 月曜日 7時43分31秒

わが空手道部OB会の会員資格は、4年間しっかり道場で修業した人間に限る。新会長がガンとしていう。原則としてはそうでしょう。ですが、現に会員の中には1年か2年しか稽古に出られなかった者もいます。途中でなんらかの事情で稽古に出られなくなった者です。後輩が異論を唱える。同期のAは、空手道部を止めたくなかったが、家庭の事情でバイトをしなくてはならなかったし、それ以外にも空手を続けていく環境じゃなかったから結局止めるしかなかった。でも、OB会には入ってもらっている。それでおれらはいいと思っています。わたしもこの後輩の意見に賛成だった。規則優先もわからぬではない。だが、人間ひとりひとりの事情を察して決断を下すのも会長の器量である。規則のために人があるのではない。人のために規則はある。そう信じている。渋谷。9月。雨の降る週末。赤いネオンが雨滴に滲む。午後6時。ハチ公前。埼玉からきた後輩、千葉の後輩、新会長、監督、事務局長、わたしの6人が集まった。井の頭線駅近くの居酒屋に行く。横断歩道を渡りながら後輩が叫ぶ。先輩、もうわたしは日本なんか当てにしません。こんな戦争もできない軟弱な国。いえ、戦争する気は毛頭ありません。ですが戦争する力と覚悟がなければ世界から舐められる、それをいっているのです。わかる。おれもいまの日本はあまりにも情けないと思う。まず、政治家に覚悟がない。国民のために身を捨てる勇気もない臆病者5人が、いま自民党総裁の座を争う茶番劇の真っ只中にあった。わたしは、いつもながら熱い男の横顔を見ながら頬がゆるむ。われらが集まった目的は、11月の空手道世界大会にドイツからナショナルチームを率いてやってくるわが空手道部の後輩の歓迎会・懇親会の準備のためだ。埼玉の後輩は自分の道場でドイツ選手団を迎え、稽古場を提供する。現役のときは主将を務め、人格者である。ドイツ人の後輩はOB会会員ではない。だが、ドイツナショナルチームを率いてくるほど空手道に貢献している。うれしい話ではないか。わたしは、特別会員でもいいから彼をOB会で認めたらどうか、という意見を出した。そこで、冒頭の、4年間在籍の原則論が新会長から発せられた。彼は確かに4年間空手道部にいたわけではない。だが祖国に帰り、わが空手道部で学んだ空手道を少年たちに教え、広めている貢献は賞賛に値するものがある。OB会で表彰したらどうだ、という監督の意見にわれらは全員賛成する。問題は、彼をOB会会員として認めるかどうかにあった。新会長は規則を貫くことに徹した。わたしは、人間中心で考えてくれ、といい通した。話は、平行線。だいたいわが空手道部に夢がない。わたしはいつものように新会長に食ってかかる。現役のためにももっと夢に向かう空手道部であり、OB会であってほしい。わたしは頑固にいう。日本にも夢がほしいですね。帰り、事務局長が雨の中でぽつりといって苦笑した。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■もっとコミュニケーション。 ■2008年9月9日 火曜日 7時42分53秒

アフリカ。草原に風が渡る午後。灼熱の台地は干上がり、ほんのわずかに水が残る湖。カバの群れがひしめき合っている。車ほど大きいカバ。机ほどのカバ。カバの皮膚は弱いので少しでも水に潜ろうと押し合いへし合いの状態。あっちで首を上げ、こっちで水に潜り、向こうで口を開ける。水に潜る瞬間に、ぱっと耳を閉じる。ぴくぴくとよく動く小さな耳が、まるで精密な玩具のように、ぱっと閉じる。あっちで、ザブンぱっ、こっちでザブンぱっ。見事に閉じる。ふと見慣れた光景だと思う。いや、光景という具体的なカタチではない。これは、現代のコミュニケーションの状態を彷彿させるものだ、と気づく。人と人のコミュニケーションの問題。なにか言おうとすると、カバが水に潜るときのように、ぱっと耳を閉じる人が増えた。都合の悪いことは聞きたくない。好きでない人の言葉は拒絶したい。その言葉がいくらすばらしい言葉であろうと、心が拒絶する。心の耳が閉じられる。いつしかそれが習慣になり、好きでない人が口を開こうとすると、カバより早く心の耳を閉じる。気に入った人の言葉だけに耳を開けておく。人をわかろうとするより、自分をわかって欲しいという気持ちが強い。人の言うことに耳を貸さない。カバの耳になる。閉じる。この兆候は、各家庭にもあり、会社にもあり、政治にも、国家間にもある。オルポート&ポストマンの「デマの心理学」によると、噂の流布は「情報への重要性認識×裏づけとなる証拠の曖昧さ」に比例するとあるが、少々強引に広告コミュニケーションの公式を考えてみると「情報への重要性認識×証拠の曖昧さ×発信者の信頼性×対象の好意度」とも言えるのではないだろうか。「商品の対象への重要認識×具体的な証拠×企業の信頼性×対象の企業への好意度」が、広告コミュニケーションの成否を決定し、購買に結びつける。いま、広告には2つの役割が課せられている。レスポンスとブランディングだ。レスポンスとは反応、売り上げである。ブランディングとは「信頼と好意度」である。その商品やその企業が好きになり、この次も、その次もそれを買いたいと思う気持ちの造成である。だが「好意の効果」を忘れている広告が多すぎる。情報の洪水の中でいかに生活者の耳を閉じさせずに広告を見てもらえるか。カバの耳のようにすぐ閉じてしまう生活者の心の耳を、いかにして閉じさせないか。広告に限らずコミュニケーションとは、心が心に語りかけるものだから「信頼と好意」が大きな価値を持つ。もっとコミュニケーション。わかりあう世界へ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■失敗を恐がる国。 ■2008年8月6日 水曜日 5時56分47秒

モノゴトの成功と失敗は、なにを基準にして決めるのか。北海道サミットについて野中さんは、22カ国も参加させた上に拉致問題を机上に載せたのだから大成功だといい、亀井さんは、結論が先延ばしになって中身がなんにもないから失敗だという。国民の多くは成功か失敗かと聞かれても確信ある回答ができない。成否の基準が不明だからだ。目標を決めておかなければ成否はわからない。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という過激な逆説で知られる山本常朝の「葉隠」では、武士はなにもしないことがまず失敗だという。コトを起こして途中で失敗しても、それは戦場での討ち死にと同様に失敗ではないのだという。とにかくなにもしないのは武士でありながら戦場に行かないのと同じで、極めて卑怯なことである。今年の全英女子ゴルフでは、日本勢の活躍で夜明けまでテレビに釘付けになった。不動、宮里、上田桃子が優勝戦線に絡んできたのは2日か3日目あたりだ。不動がトップに立ち、韓国の申が追いかける。長いスランプのトンネルを抜けた宮里がぐんぐんとスコアを上げて迫る。強い藍ちゃん帰ってきた。ぱっちりした目はしっかりと前を見つめ、唇は横に真っすぐに結ばれている。上田桃子はこともなげに淡々とグリーンを攻める。他の外国人プレイヤーたちの存在が霞むほどの日本女子プレーヤーの躍進だ。1位から3位までを日本人プレーヤーが独占するかという甘い夢が頭をよぎりにんまりする。岩のごとく磐石の不動に隙はない。アグレッシブに攻める宮里に迷いはない。だが、上田桃子が失速した。10アンダーあたりを行ったり来たりしていたが、徐々にスコアを落とし始める。その時トップは14アンダー。早く12か13アンダーまでスコアを伸ばし、トップと絡みたいところだ。攻める宮里がバーディを重ねて行く。最終日。1番、2番のロングホールがバーディの狙いどころだ。不動のショットがぶれ、パットが微妙に狂い出す。申は20歳とはとても思えぬ堂々たるゴルフで1番2番を何食わぬ顔でバーディ。不動の顔から微笑みが消えた。申のバーディラッシュが始まった。上田桃子が脱落して行く。宮里は前日よりさらに引き締まった顔つきで申を追う。だが、申は驚くほど強かった。解説者たちは申がショットを打つたびに、完璧と叫び、パットを打つたびに、うまいと感心する。気がつくと18アンダーまで申はスコアを伸ばし18番ホールでは、メジャーのプレッシャーどころか笑みさえ浮かべている。逆にこの日、不動の表情は硬かった。だが、世界でここまで活躍した日本女子プレーヤーに爽やかな感動を覚えた。それにしても日本は「失敗を恐がる国」であるとつくづく思う。会社では、社長が社員の失敗を許さない。家庭では、母が子どもの失敗を許さない。学校では、先生の失敗を父兄が許さない。政治においては、国民が政治家の失敗を許さない。許さないのは当然であるが、それにしても度が過ぎるのではないか。失敗を恐れずに挑戦しろ、と口ではいうが実際にはまったく失敗を許さないから、みんなどんどんいじけて行く。島国根性丸出しで、攻めない。失敗したくないから挑戦しない。日本が外国に勝てない最大の原因は、失敗を恐れるあまりになにもしないからだ。日本は、永遠の島国であり、内弁慶なのか。
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■広告維新。 ■2008年7月22日 火曜日 0時33分46秒

広告は時代を映す鏡なのだと改めて実感させられる最近である。あの高度成長時代には広告はすこぶる元気だった。まさに広告はビジネスの一環であって、広告費も豊富だった。経済の歯車と広告の歯車はお互いにお互いの勢いをつけ気持ちよく回転していた。だが、違う理論も成立する。景気の悪いときほど広告の勢いが必要だ。広告で経済の活性化が可能だ、という理論だ。それは相当高度な広告をいうのだ。広告費に頼る広告ではなく、知恵に頼る広告のことだ。そんなことは理想論で、実際には不可能だという広告屋を使っている企業さんは、そんな広告屋をクビにしましょう。広告を考える前に不可能を考える広告屋は、落第。わたしたち広告屋は、これまでもたくさんの不可能を可能にしてきた。広告は使いようで驚く力を発揮する。そして広告は、広告を信ずる企業にだけその驚く力を発揮する。現在、日本の広告費は、年間約6兆円だが、これは東京都の年間予算に匹敵する。さらにかのマイクロソフトのビル・ゲイツさんの資産に匹敵するという。広告屋としてはなんだか気の抜けるほど少ない額だとも思うが、深呼吸をして考え直してみるとやはり天文学的数字である。そこで、広告業界を新たな目で見回してみると、いるいる、なかなかシャープなクリエイターが確かにいる。生まれている。だいたいが(この、だいたいがという言葉を使うと、次に一般論が出てくる)クリエイターはクリエイティブに全力を尽くすものだから、夢みたいなことを言ったりやったりする。もちろん広告はビジネスだから、その夢はいい加減なものであってはならない。だが、夢のない広告は、広告としては一人前ではない。そして、広告を信じ、クリエイティブを信じている企業もまだまだある。広告を信じているから、広告も企業を裏切らない。広告がうまいと評判のサントリーやホンダ。ソニーもうまい。資生堂もいい。最近では、ソフトバンクをはじめとするケータイ各社が楽しい広告を展開して生活者(いまは、消費者といわずに生活者という)に受け入れられている。広告を当てにしない、信用しない企業の広告はうまくない。かつて宣伝部には有能な人材が多かったが、いまや宣伝部さえ削除してしまった企業もある。また、最近ではパソコンが使えるからという理由で、入社したての社員にデザインをさせたりする企業があって、これは開いた口がふさがらない。広告の最も重要な部分は心理学なのだ。市場を凝視し、市場を形成する人間の心理を読む作業だ。パソコンが使えるだけなら、中学生や高校生のほうがよっぽどうまい。金がかからないからパソコン使える女子社員にやらせようという企業もある。広告をその程度にしか考えないから、広告の効果もその程度しかない。広告維新が始まっている。景気の後退と相前後して普及してきたインターネットが、最強の広告媒体として君臨してきたテレビコマーシャルの屋台骨を揺さぶっていることも広告に革新を求めている要因だ。出てこい。時代を変える広告の志士。そして、企業の皆さん、広告をもっと信じてください。広告は、信ずるものを裏切りません。
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■流行と本質。 ■2008年7月9日 水曜日 16時24分54秒

人生とは? 仏頂禅師が芭蕉に問う。蛙飛び込む水の音。芭蕉が答える。お見事。仏頂禅師が膝を打つ。仏頂禅師は、芭蕉の禅の師匠だ。実際にこういう会話が交わされたわけではないが、俳句とは禅の心の言語表現だとその書はいう。経堂農大通りの古書店で「奥の細道」を手に取り、となりにあった禅の本をついでに買ってしまった。通勤のバスの中、トイレ、風呂の中で読む。むずかしい学問としての禅には興味がない。ただ達磨禅師の発想に共感し、禅を学問としてではなく心の在り方としてとらえることができたらいいな、と思う。仏の教えに対し多くの後継者たちがさまざまな説を立ててわれこそがと優劣を競う中、達磨禅師は、アホらしい、仏の心の本質に迫ることこそが肝心で、小理屈なんかは本質に迫るための方法論に過ぎない。なのに、いつの間にか小理屈が本質のごとく語られ、そう錯覚する愚かな連中ばかりとなった。本質の探求。いかがですか? いいでしょう、禅って。理屈っぽいわたしは頭をガンと拳固で殴られた気分です。なんだか理屈っぽいのはいまの時代も同じで、理屈に振り回されている人を見るとなんとも情けなくなる。わたしもその1人か。地球環境問題も、経済問題も、政治も、企業経営も、広告も、会議も、小理屈と小理屈の戦いの様相を呈し、ドスンと本質に踏み込む鋭さが見当たらない。達磨禅師は、美しく心地よい言葉に騙される愚かさを犯さないように瞑想に入り、心眼でじっと本質を探求した。わたしも大いに反省し、本質を求める日々を送ろうと努力している。本質と理屈の関係、さらには本質と流行の対比も興味深い。広告を作るわたしには、本質さえつかめれば表現は流行に乗ってもいい、むしろ流行に乗るくらいでなければコミュニケーションに力がつかないと思っている。理屈が手段であって本質ではないように、流行もコミュニケーション手段であって本質ではない。だから、絶対条件として本質をつかむこと。男と女が恋をし、腹が減ればいらいらし、悲しければ泣く。人類創生の昔から、人間の本質は変わっていない。流行はどんどん変わる。それでいい。いま、新橋の光洋カラー社で、毎週火曜日に光洋塾なるものを開き、老いも若きも関係なくみんなでああだこうだとやいやいがやがややっているが、目標のひとつに「本質を見極める心眼を養う」という項目をわたし的に持っている。プロデューサーの横山ヒロコくんや中井ワカバくん、クリエイターのボタンちゃんこと熊谷エリコ女史の流行に敏なること大いに勉強になる。本質を見極める心眼を養えば、必ずいい彼が見つかるぞ、と思う。揺るがぬ本質を見抜く。だから流行を素直に受け入れる余裕が生まれる。ところで芭蕉だが、後で「古池や」をつけて句として完成させた。古池を「無限の時間」の表現というが、いやはやさっぱりわからない。だから面白い。
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■自分の都合。 ■2008年6月20日 金曜日 2時51分48秒

人は誰でも「自分の都合」で生きている。正しく熱心な宗教家はともかく、通常の人間は自分の都合を何よりも最優先させる。仕方がないがそうである。人間、それでいいのだとも思う。渋谷駅から母校に向かう都バスの中で、ふとそんなことを考えている。ジャケットのポケットには石坂洋二郎の小説「青い山脈」のボロボロの文庫本が入っている。6月のある土曜日の午後のことだ。東京は梅雨入りしたが、今日は雨の心配はない。3時から空手道部のОB総会があり、6時からは渋谷で新入生歓迎会がある。その前に道場に寄り、監督と現役連中に挨拶をしようと早めにバスに乗ったのだ。自分の都合という考えと「青い山脈」の関係は、わたしの中には大いにある。「青い山脈」は、昭和22年に新聞連載された小説で、時代を反映して敗戦後の日本に民主主義を普及定着させようという魂胆が裏にあったに違いないとわたしは睨んでいる。それはともかくこの物語は、古い田舎町の常識に立ち向かう若い力の話である。わたしは60年前のこの物語を現在の空手道部に当てはめて考えている。ОB会を古い常識と考え、若い現役との価値観の違いを楽しみたいという不届きな思いが心のどこかにある。それにОB会には数回出席しているが、会議の席で極めて個人的な、自分の都合での発言としか思えない滑稽な意見を偉そうに言う場面が多々見られるからだ。自分の都合からは人間は離れられないと先に悲しい諦念を暴露したが、せめて自分の都合を他人に押し付ける愚かなことはしてはならないと思う。組織や会社や社会にいれば、組織や会社や社会の都合が生まれてくるものである。みんなの都合である。そこでは自分の都合を封印しなければならない。それがオトナのマナーであり、知恵であろう。道場で監督に会い、現役たちと会う。現役は3人しかいない。われらの時代には100人を越える部員がいた。だが、いま4年生は主将の1人、3年生はゼロ、2年生が3人、そして1年生が道場で稽古している3人だけだ。わが空手道部は廃部の危機に瀕しているのだ。そこで昨年、ОB会はそれまでの首脳部に代わり、緊急の首脳部を編成した。新会長のマニフェストは2つあった。1つが現役部員の増加である。2つめがОB会員の増強である。1年が経つが、結果はむしろ逆だ。ОB会が現役に関与しすぎたためか、現役部員たちが次々に休部している。ОB会員の中でも止めていく者がいる。むずかしい局面にわたしたちは置かれている。ОBの中でも現役の自主性を重んじろという意見がある。そんな中でわたしは、自分の都合で発言する言葉を聞くたびに情けなくなるのだ。いまは、現役の都合を直視するときであり、ОB会全体の都合を徹底的に探るときであり、空手道部60年の都合を語るときであって、自分の都合など邪魔なのだ。そして「青い山脈」のように、古い伝統と若い感覚との摩擦もまた起こっている。わたしはというと、自分の都合を妻にも社員にも押し付けていて、偉そうなことは実はいえない。
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■小説より悲しい。 ■2008年6月10日 火曜日 6時34分12秒

昭和40年、丘と川のある町に幸せな家族がいた。新宿区下落合。丘はいつもあたたかい光の中にあり、川は夕日を映してキラキラと輝いていた。父は染色加工職人で、母はいつも父のそばにいて仕事を手伝っていた。男の子ばかりの5人兄弟で、子どもたちはみな元気だった。貧しいけれど幸せだった。だれもがこころ豊かで、会話には愛情が溢れていたから、不幸だと思ったことは一度もなかった。スポーツ好きの長男は高校生になると家を出、大学では部活の合宿に入ってあまり家に帰ることはなかった。次男は高校を卒業すると大手旅行会社に職を求めた。家を早く出た長男に代わって弟たちの面倒をよくみた次男で、弟たちは全面的に次男を信頼した。こころやさしく、人柄もよく、正直な次男は誰からも愛されていた。次男のそばにいるとふと微笑みたくなるような、春の陽射しのような男だった。3男は次男と仲がよかった。性格も似ているのだろう。穏やかで、つつましい男だ。いつもにこにこと人の話に耳を傾けていた。熱狂的な巨人ファンで、巨人が負けると黙って2階へ消えてしまう。バクチは強かった。次男と2人で競馬をやっていたが、一年を通して勝つことが多かった。将棋も強かった。将棋好きの父と戦って、アマチュア3段といわれる父を唸らせたのは3男だった。4男は明るい男だ。軽妙で、冗談を言うが、こころも言葉もやさしく、あたたかい。まわりに明るさを振りまく男だ。物腰の柔らかい、誰にでも愛される性格だ。5男はのびのびと育った。体格もよく、身長は180センチを超える。学校の成績は驚くほど悪かったが、母が、お前は元気ならいいのよ、というものだからほとんど1と2の成績表を他人のものように笑ってみんなに見せていた。あれから50年近くの時が流れ、下落合の丘に当たる陽射しも変わることなく、川の流れもまた変わらないが、この幸せな家族は変わった。あれから50年近くの時の流れの中でいろいろなことが起こった。次男は会社を辞めて子どもたちのために小さなパン屋を始めようと修行に出ていたが、38歳で突然癌でなくなった。仲のよい次男がずっとそばに寄り添ったが、中野病院のイチョウの葉が落ちると同時にこの世を去った。その後数年を経て父が癌になり、あっという間に他界した。神田川の近くの病院で、兄弟はよく集まって父を勇気づけたが、やはり3男が寄り添った。いつも3男が家族に寄り添い、悲しみの近くにいた。父が死に、母が健康を害し始めた時も3男がずっとともに暮らし、そばにいた。長男も4男も5男も結婚して家を出ていた。次男と3男が両親とともに暮らしていたが、次男を失い、父を失った後も3男がいつも母に寄り添って暮らしていた。母が癌になり放射線治療が始まると、3男は毎日会社を抜け、母を新大久保の病院に連れて行った。大変な暮らしが1ヶ月以上も続き、母が2回目の放射線治療を始めようとしていた矢先、3男が腎臓癌になった。3男は自分のことよりボケの進む母のことばかりを心配している。いま、窓の外は土砂降りの雨だ。下落合の幸せな家族は土砂降りの雨の中にいる。だが、力を合わせ、また幸せな時間を作らなければ、死んだ父と次男にすまない。ただ、それだけを考えている。事実は、小説よりも悲しいものだ。
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■渋谷が動き始めた。 ■2008年5月21日 水曜日 6時21分38秒

渋谷は第2の故郷である。疎開先の長野県から下落合に帰り住み着いた田舎者が高校生になり、初めて電車通学をしたのが広尾高校で、1年浪人をして入学したのが國學院大學だった。大学では空手道部に入り、初代が元都議会議長で元渋谷区長の小倉基先輩だから、もはや渋谷とは切るに切れない間柄だと思い込んでいる。そして、今も毎日渋谷を通って通勤している。われらが学生の頃にも渋谷は大改革を遂げた。上空を高速道路が走り、オリンピックが開催され、恋文横丁がなくなった。その渋谷がいままた大改革を始めている。6月14日、渋谷、新宿、池袋をつなぐ都営地下鉄副都心線が開通するのだ。地下鉄新渋谷駅には数年後東急東横線が乗り入れ、横浜へ一直線で行けるようになる。現在、JR渋谷駅に接続している東急東横線が地下鉄に接続されるのだ。池袋から先が埼玉までつながっているので、横浜から埼玉まで一気に駆け抜けることになる。副都心線新渋谷駅は、西口のハチ公の反対側の東口にできる。建築家安藤忠雄氏設計の新渋谷駅は、まるで宇宙船のようだ。地下であっても広々と大きく気持ちのいい空間にしたいという安藤氏ならではの、度肝を抜くデザインをテレビニュースで見たが実に面白そうだ。東口のメインとなる新渋谷駅の上には数年後地上30階以上の超高層ビルができる。屋上にプラネタリウムがあり、いくつかの映画館があり、レストラン街のあった東急文化会館の跡地だ。新渋谷駅の出入り口は7箇所ある。東口と宮益坂商店街と宮下パーク通り商店街にできる。宮下パーク商店街口から出るとパルコのある公園通りやNHKにはこれまでより近道となる。都心の街はある時期活気を失った。郊外に巨大なショッピングモールが建設され、わざわざ都心に出ることもなくなったからだ。客は離れた。そこで、六本木がまず反撃に出た。六本木ヒルズを造り、ミッドタウンを造った。銀座も反撃に出た。有名ブランドを招聘し、有楽町駅前を再開発した。秋葉原には常磐新線が入り、高層ビルが建てられた。回りの街が大きく様変わりをして客を呼ぶ中、渋谷はじっと耐えた。そして、いよいよ反撃を開始する。この副都心線で低迷から脱出し、新しい渋谷の顔が出現する。これまで渋谷といえば若者の街という印象で、ハチ公のある西口はいつも若い熱気で溢れかえっている。東口はその西口と対抗しようという発想ではなく、隣接する青山や六本木との連携を意識し、大人の街となる予定だ。渋谷宮下パーク商店会小林会長からお聞きした構想は、渋谷2つの顔というものである。若い感覚と大人の上質な感覚の両方が楽しめる2つの顔。今日も渋谷の街を歩いてきた。驚くほど変わる。6月14日、時間が許せば渋谷の街を覗いてみて欲しい。六本木、銀座、秋葉原に負けない街が出現する。時が行き、街が変わり、人もまた川のように流れる。
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■左腕の瘤 ■2008年5月9日 金曜日 1時9分49秒

やっぱり悪性だって。電話の向こうで弟の信治が言う。早ければ1・2ヶ月、これから放射線治療を始めてうまくいけば数年生きるかもしれない。うまくいけばね。そういう例があったと言うだけの話だけど。でも、少しでも延命を考えるのなら左腕を付け根から切り落とすことも考えたほうがいいって。先生がそう言うんだ。そこで、信治の言葉は途切れた。わたしも信治も黙っている。黙っている分だけ弟の悲しみの深さが伝わり、わたしの心が震える。何もしてやれない長男としての自分の不甲斐なさに目を閉じる。母を慕うわたしの悲しさの何十倍も電話の向こうで信治は悲しんでいる。母の左腕に瘤ができ、その瘤はしばらくはじっと息を潜めていたが、1ヶ月くらい前に突然暴れだした。癌です。医師にそう言われて信治が電話をしてきた。新大久保の病院でもう一度検査をするんだけど、あんちゃん、来れる? その検査に信治と末の弟の守男が行った。それまでアルツハイマーが徐々に進み、寝たきりで介護を受けていた母を病院に連れて行くのに信治ひとりでは無理だった。検査の前から母の年齢やさまざまな条件を考えると、悪性の癌の可能性が高いだろうという重い予感がわたしにも弟たちにもあった。淡い期待を込めて通りすがりの神社や寺や教会に祈ったが、やはり悪性だったのだ。腕を切るのはまだしたくないんだ。信治が言う。いまでも生きる気力が乏しいのに、腕を切ったらどうなるか。だから放射線でできる限りやってみようと思う。そうしよう。わたしは一も二もなく賛成する。信治には謝りきれない責任がわたしにはある。高校から大学にかけて合宿生活に入り、社会人になってすぐに結婚し、長男でありながら両親のそばにいなかった責任だ。わたしは男ばかりの5人兄弟で、次男の敬二、3男の信治、4男の里志、5男で末っ子の守男がいるが、そのことがわたしを自由にし、責任を遠ざけてしまった。3男の里志と4男の守男が結婚しても、敬二と信治は結婚をせずに両親と暮らした。心やさしくしっかり者の敬二はわたしよりも長男の資格と風格をもっていたが、37歳の秋、肺癌であっという間に他界した。敬二と一番仲のよかった信治はずっと病院に付き添い、敬二の病状の毎分毎秒をノートに書き、真っ向から悲しみに立ち向かった。あれから33年が経っている。敬二に続き父が83歳で逝った。酒とタバコを愛し、明晰な頭脳を持ちながら家の事情で小学校にしか行けず染物職人になった父は、尊敬すべき江戸っ子だった。その父のそばにずっと付き添ったのも信治だった。ほのぼのと心あたたかい3男里志は、実家のそばに住んでいて信治をよく助けた。4男守男も全力を尽くした。そして、今日も信治は会社から飛んで帰り、母に放射線治療を受けさせるために新大久保の病院に連れて行っている。わたしは、会社からバスで病院に向かう。他に客のいない昼下がりのバスの最後部の座席で、わたしは母と弟のために祈る。効いてくれ放射線。母と弟たちのために。午後ののんびりとあたたかい陽射しが、わたしには冷たく感じる。
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■若い川の流れ ■2008年4月20日 日曜日 2時37分46秒

石坂洋次郎さんの小説が好きだ。「若い人」の間崎先生もいい。江波杏子もいい。「青い山脈」の寺澤新子も金谷六助もいい。「陽のあたる坂道」の田代信次も好きだ。石坂さんの小説は読みやすい。むずかしい言葉はない。主人公はみんな前向きで、無駄に飾らず、素直で、自分に忠実に生きている。誰もが生まれや育ち、環境になんらかの問題を抱えていて、そのことであがきもがいて生きているのだが、真っすぐに問題に立ち向かう勇気を持っている。心が健康である。聡明である。たとえ少々ひねくれていても、どこかユーモラスで憎めない。決してスーパーマンではなく、極めて平凡な等身大の勇気と聡明さを持ち合わせている。読者はその健康な精神に惹かれる。石坂さんは1900年に青森で生まれた。「青い山脈」は1947年に朝日新聞に連載された小説だが、その年は終戦2年目で石坂さんは47歳だった。小説のテーマは、自由と民主主義。敗戦から立ち上がろうとする日本に勇気を与えようとか、日本あるいは日本人がこれから向かう道とはこんな感じだとかを示唆したのだ。時代が時代だけに当然さまざまな方面からの圧力があったと思うが、石坂さんの主人公や登場人物が実に見事に、いきいきと描かれていて気持ちがいい。石坂さんは戦前の人なのによくもまあこんなに健康な精神を描けたものだ。1949年に今井正監督により「青い山脈」は映画化されたが、西条八十作詞、服部良一作曲の主題歌が大ヒットした。わたしはかなり後になって、吉永小百合と浜田光男主演の「青い山脈」を観たが、驚いたことに少しも古くない。われら人間はいつもなにかの壁にぶつかりながらあがいて生きていることを実感する。いつの時代にも壁はあるのだ。その壁が時代によって違うのだ。時代自身が壁かも知れない。その壁にどう立ち向かうかが人間の器なのだ。石原裕次郎がいくつか石坂作品の主役を演じた。「乳母車」「若い川の流れ」「陽のあたる坂道」。裕次郎のちょっとすねた素直、憎めない人柄、漂うユーモア、陰のある育ちのよさが石坂洋次郎の主人公をさらに魅力的にした。石坂洋次郎は決して小説の主人公のように明るく健康的ではなかったと聞く。小林一茶が実生活では不幸に包まれながら、人を見るやさしさやユーモアを忘れなかったように、石坂さんも暗い押入れの中で明るい太陽を見つめていたのか。韓国ドラマは、単調だとか、浅過ぎるとか、古いと言われるが、ストーリーがわかりやすく、時代の価値観や不変の価値観がわかりやすい。昔の日本映画を彷彿とさせるものがある。石坂さんの小説の持つ、立ちはだかる壁に真っ向から向かう素直さや前向きの姿勢がある。日本のテレビドラマが韓国ドラマを真似たわけではなく、ごく自然に前向きのものが増え始めているようでうれしい。わたしの中でいまなおいきいきと跳躍する石坂洋次郎の小説の主人公が、現代でも受け入れられているようで楽しい。川の流れは、澱まず止まらず濁らず、真っすぐに自然に流れてこそいつまでも若い川でいられるのだ。
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■狂犬を運転するドブネズミ。 ■2008年4月9日 水曜日 8時11分26秒

新橋で弟と別れ、バス停に向かう。午後10時50分。舗道は雨に濡れ、道行く人々の足は自然に早くなる。お客さん、渋谷行き最終バスは出ましたよ。バス停前に並んだタクシーの運転手さんが言う。わけあって電車に乗れないわたしは、仕方なくタクシーに乗る。桜も終わりましたね。運転手さんが言い、早かったですね、とわたしは答える。それにしても夜の新橋駅前はタクシーの数が多いですね。運転手さんの背中に向かってわたしは言う。そうですよ、規制緩和ってやつでやたらにタクシーが増えました。いろんな会社が参入してきて、収拾がつきません。だって、競争が激しいから参入しても経営は大変でしょう。わたしは聞く。大変です。でも、どんどん参入してきます。それは日銭が入るからです。日銭が入るってのが魅力なんです。運転手さんが言う。うちの会社の場合、200台の車が走っています。1台1日5万円水揚げれば1000万円の現金が入ります。そりゃ凄い1日1000万円か。単純計算だけど1ヵ月で3億円だ。それも現金で。そうですよ、だれでも参入したくなります。競争ばっかり激しくなってね。わたしは30年もタクシーの運転手をやっていますが、いまの水揚げは昔の半分以下です。1ヵ月20万円がいいとこです。年金をもらっているからまあいいかと思うけど、この労働量でこの給料じゃ普通ならやっていけません。なるほどねえ。質の悪い運転手が多いです。昔から質が悪いけど、まあ驚くほど質が悪いですね。客の取り合いですから平気でこっちの車の前に斜めに切り込んできます。思わず急ブレーキをかけるとすいっと客を乗せていきます。タクシー同士が通りで並ぶと睨み合いです。この前なんか駅前でタクシーの運転手同士で殴りあいの喧嘩をしてましたよ。え、そうなの? 運転手さん同士って仲良しじゃないんだ。とんでもない。カタキ同士です。がんがん割り込んできますからね。頭にきます。危なくてしょうがないですよ。客を取られた運転手が相手のタクシーの前にぴたりと車の尻をつけてキーをしたまま車を置いていなくなったりね。後ろも前もぴたりとつけられて動けなくしちゃうとか、嫌がらせなんか年中のことです。所詮雲助ですからね。わたしに言わせりゃ、狂犬をドブネズミが運転しているようなもんです。なにもそこまでは。いえいえ、それでも言い足りません。タクシーのセンターがあるでしょう。そういう所で運転手さんの人格管理とか意識の向上とかってやらないのですか? まったくやりません。センターなんか所詮天下りですから、客の苦情をはいはいって聞いているだけです。そして運転手を呼び出して文句を言うだけ。運転手のためになにかやろうなんて思っちゃいません。
タクシーは天現寺交差点を抜けて明治通りを渋谷に向かう。小柄で人のよさそうな運転手さんは、にこにことドギツイことを連発する。
よっぽど腹に据えかねているのだろう。わたしは同情しながらも運転のほうが心配になる。タクシーは運転のプロが運転するのだから、事故は少ないだろうと漠然と思っていたのだが、どうやらタクシーの安全神話は根こそぎ覆されたようだ。早く渋谷に着いてくれ。
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■ジャニーズ系よりデニーズ系。 ■2008年3月19日 水曜日 7時2分46秒

もう二度と人に見合い話は頼まない。松ちゃんが、真っ赤な顔で怒る。ビールのせいじゃない。とくに百人町のおばさんには絶対頼まない。本当に怒っている。だが、松ちゃんは怒っているのかとぼけているのかわからない顔だ。自分で自分を笑っているようにも見える。笑っているけど悲しい顔だ。わたし、新宿区百人町に住んでます。小滝橋の近くの。あ、おれの実家は下落合だよ。わたしが言う。近いね。はい、すぐ近くです。わたし、西戸山小学校です。タカノさんは? おれ、落合第4小学校ね。隣ね。で、松ちゃん、見合いはどうしたの? そうそう、それです。だいたい見合いをデニーズでやりますか? 見合いを馬鹿にしてません? うん、見合いを馬鹿にしてるか松ちゃんを馬鹿にしてるかどっちかだな。第一、見合いの途中ドリンクバーにコーヒーを何回もお替りに行くって変でしょ。わたし、ビシッとスーツで決めて行ったんですよ。デニーズで仲人さんと待ち合わせて京王プラザのロビーとかに行くのならわかります。ずっとデニーズ、延々とデニーズ、最後までデニーズ。おかしいでしょ、いつもサンダル履いて行く店ですよ。腹を抱えて笑いながら、わたしは言う。見合いはせめてロイヤルホストじゃなくちゃな。まあ、そう言われるとガストよりはよかったのかなあと思います。松ちゃんは天上を仰ぐ。わたしは松ちゃんほどユニークな人物を他に知らない。ユニークとは実に使い勝手のいい愛嬌のある言葉だ。唯一のとか、独特なとか訳すが、類のないとも訳すから誉め言葉かどうかは疑わしいがまあ世間の概念としては誉め言葉と見ていい。松ちゃんは顔つきもユニーク、体つきもユニーク、性格もだれよりもユニーク。神は時として不思議な造形物をお創りになる。決してジャニーズ系ではなく、今日の話でデニーズ系であることを発見した。松ちゃんは続ける。で、おばさん、ずっと話しっぱなしなんです。松ちゃんの額は汗でてらてら光っている。2時間ずっとです。その間、わたしも喋らない。見合いの相手も喋らない。相手のお母さんも喋らない。やがて、おばさんふと気づいて言いました。あら、若い二人にお話させてあげなくちゃね。やっと気づいてくれました。そして、おばさんと見合い相手のお母さんは立ち上がるのです。立ち上がったら普通その場から消えるでしょ。消えないんです。すぐ横の席に座るんです。おかしいでしょ。すぐ横に座ってお菓子をねだる子どもみたいにじっとこっちを見てるんです。ご主人を待つ犬みたいにじっと見るんです。ううん、睨んでるんです、二人で。なに考えているんでしょうね。わたしは言いましたよ。そこにいるんならこっちの席にいっしょにいても同じでしょ。そしたらね、こっちの席に戻ってきたんです。おかしいでしょ。普通は消えるでしょ。もっとちがう所へ行くでしょ。同じ店でももっと遠くの席へ行くでしょ。ところが、ニコニコ戻ってきました。わたし、またドリンクバーです。コーヒーでお腹がごぼごぼ。そりゃそうです。ドリンクバーとおしゃべりババアの間を行ったり来たりですから。結局見合いはパーです。まもなく春。ああ、恋せよ松ちゃん。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■素老倶楽部へようこそ。 ■2008年3月10日 月曜日 3時48分8秒

3月吉日。赤坂溜池に陽は落ち、夜の帳の中でネオンがおどおどと息を吹き返す。和食「おとわ」は赤坂ツインタワービルの足元の小さなビルの地下にある。注意しなければ見逃してしまうほどの楚々とした看板がこの店の内なる自信を表している。わが空手道の師であり、國學院大學空手道部の監督に就任された次呂久英樹先輩が、板長の小阪英邦氏の腕と長崎の魚に惚れ込んで通っている。素老倶楽部の定例会はそのご縁で「おとわ」を利用させて頂いている。さて、この素老倶楽部は、自らを「素老人」と名乗る次呂久大師が「素浪人」と「スローライフ」を文字って創ったもので、驚くことに、我田引水、自己中心、他力本願等の4項目からなる素老願(スローガン)まで作ってしまった。まったくおかしい話だ。心をほぐすゆっくりした木の香の「おとわ」の席。二つのテーブルに座る素老倶楽部の8人のメンバーを紹介する。倶楽部の初代会長となった新橋の笹野産業の社長笹野先輩は、会の中で唯一の知性派である。堺谷太一に似た穏やかな風貌にいつも静かな微笑を浮かべ、機関銃のように飛び交う会員たちの言葉にゆったりと耳を傾ける。発起人の次呂久大師は、今日もライト級のボクサーのような体躯からフライ級のボクサーのような軽いフットワークの素老言葉がぽんぽん飛び出す。まるでスローではない。変幻自在の会話が爆笑に輪をかける。日本武道館の現理事の青木先輩が次呂久大師の前にいる。次呂久大師同様頭髪とは遥か昔に別れを告げ、達磨大師のごとき鋭い眼球をぎょろぎょろ回転させて冗談とも本気ともつかない話題を振りまく。青木先輩は、葬儀委員長という肩書きをもつ。横にいるのは冨田先輩だ。千葉県に本拠を構える建設会社の社長である。次呂久大師と青木先輩だけでも十分に奇異なのに冨田先輩が加わるともはや社会の迷惑のような様相である。白くふさふさした髪は、タテガミである。酒を一切口にせず、こよなく女性を愛すといった口ぶり。一度女性側の意見も聞いてみたいと思う。冨田先輩の前には、きりっと和服で身を包んだ越谷の神影流道場主豊島一虎先輩がいる。次呂久大師が「鎧兜の戦闘姿で参加してくれ」と頼んだというが、抑え気味の和服にしたよ、と豊島先輩は笑った。かつて、わたしが空手部の現役のとき、夜遅く道場に現れ日本刀の本身を並ぶ部員たちの額に打ち下ろし、1センチの隙間でピタリピタリと留めて歩いた凄まじさは陰を潜めているが、時代を超越したサムライの風体でゆらりと風のように微笑んでいる。笹野会長の横には、インテリアの設計施工のプロ、商店経営のコンサルティングにも腕を振るう有米氏がいる。次呂久大師の弟子である。有米氏の前には、広島在住の同じく次呂久大師の弟子和田氏がいる。和田氏は実直な人柄である。心の有り様が見事に顔に現れている。高野さん、ぜひ広島に来てください。何回も何回もわたしの耳元で叫んでくれる。さてさて、この素老倶楽部、時代を切り、国家を語り、酒を酌み交わす素老人どもの集まり。入会希望者はいないと思うが、よかったら是非。
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■禅じゃない。 ■2008年2月19日 火曜日 8時30分28秒

どうやらダルマ大師は頭にきたようだ。なにが彼を怒らせたか。仏の教えを弟子やら周りやら頭のいい連中が、ああだこうだと解説し、その数の多いこと多いこと。解説は当然の如く、正しいもの、正しくないもの、間違ったもの、曲がったもの、玉も石もごっちゃごちゃ。どれが玉だかどれが石だかまるでわからず、闇雲に石を崇めている者も多い。もう理屈なんかいらない。邪魔だ。ダルマ大師は叫んだ。仏の教えは理屈じゃないんだ、この野郎。ま、この野郎なんて言わなかった。仏教とは、仏の心で心を知ること。心で悟ることなんだ。直接仏の実体に飛び込まなくちゃダメだ。そこで彼は瞑想に入った。理屈も屁理屈もぬき。瞑想して仏の実体に迫った。体験し、実覚し、実体を掴む。これが禅だ。実覚という言葉は禅の本に書かれていて、国語辞典にも出ていないから、宗教用語かも知れない。実覚と実感は似ているが、実覚は実感よりもっともっと実体に近づき、感じるだけでなく実体を悟るということだと解釈する。なにやら理屈が先行し、理屈と理屈が戦ったり、理屈と屁理屈が絡まったり、今って、そんな世の中なんじゃないのかなと思う。国会もそう。会議もそう。家庭もそう。上げ足取りばかりで、自分の不勉強を隠す。禅は追いかけても追いかけても心の隙間からするりとすり抜けていくので、禅そのものが把握できない私だが、ま、実体に迫るという点だけを見ても、今の世の中まるで禅じゃない。どうして私の心をわかってくれないの。そう叫ぶのは子どもたちだけじゃない。オトナだって叫んでいる。実体。その人の本質。その人の心。それを理解しようとしない。自分勝手な理屈でうまく丸め込んでしまおうとする。世の中の人々は、実体に迫る気もなく、実体に迫るエネルギーもなく、実体に迫る知恵もなく、実体に迫る手法も知らない。小手先の理屈を振り回しているうちに、その理屈が実体だと思い込む愚か者が目につく。理屈に酔う。他人のことは言えない。私も愚か者のひとりだ。だが、不幸にも芭蕉の句集といっしょに禅の本を古本屋で買ってしまった。この二つの本には関連性があったからだ。芭蕉は禅の心を極め、俳句こそが禅の言語化であるという。あら、そうなの、とばかりに禅の本を250円で買ってしまった。実体に近づこう。実体に迫ろう。そういう気持ちになっただけでも禅に近づいているものと楽観している。実体から目を背けるな。うまい言葉でごまかすな。文章を志す者として、そう思うだけでも大いなる進歩かも知れない。古池やかわず飛び込む水の音。これは時空を超えた壮大な宇宙世界を表現する禅の極みというが、まだ、さっぱりわからない。だが、今日からはゆっくりとじっくりと世の中の実体を見つめようと思う。人の心を見つめようと思う。実覚するのだ。あれ、見つめようとしても妻も子どもも出かけていない。まず瞑想から始めることにしよう。
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■歌えスーさん。 ■2008年2月8日 金曜日 6時25分51秒

居酒屋「たつこ」が引越しをする。いままで居酒屋だったけど今度はスナックだからね。ママが言う。居酒屋とスナックはどう違うの。
みんなが聞く。お勘定が違うの。ママが笑う。カウンターには6人の客がいる。右から声に艶のあるアラキさん、退院二日目のよっちゃん、同じく病気上がりのムーディさん、ぼくのかみさんののりちゃん、ぼく、スーさんの6人だ。今度はほら稲荷森神社の前ね。ヒロ・イトー先生の美容室の後よ。2階ね。名前も変わるのよ。「パラダイス」って言うの。階段がちょっと長いのよね。80歳を過ぎたスーさんが、おれ上れないなあ、とさびしげに天井を見る。そうか。みんなスーさんの顔を見る。ロープウェイをつけてもらうか。いや、全員一度階段の下に集合してツアーを組んで助けあって上ろう。回りが勇気づける。この際、ピッケルとザイルを用意するか。上るのも大変だけど、階段って下りも大変でなあ。スーさんが言う。いいさ、下るときは窓から蹴落としてもらえばいい。スーさんがさびしく笑う。歌を歌う。カラオケ。梓みちよの「メランコリー」ね。アラキさんがカウンターの中で野菜をいためているママに言う。あら、それ、わたしも歌いたい。のりちゃんがわがままを言う。こら、末っ子のわがままムスメ。ぼくが注意する。じゃあ、いっしょに歌えば。たつこママがやさしく言う。よし、アラキさんが「メラ」で、のりちゃんが「ンコリー」な。ぼくが言い、のりちゃんが「ンコリー?なんか汚いわねえ」とブツクサ言いながらマイクを持つ。大げさなくらい大きいマイクが二つある。アラキさんは堺谷太一に似た知的な風貌で、その笑顔がほっとさせる。声に艶があって通りがよく、トイレに入っていても歌声は聞こえてくる。ジャージャー流す水にも声は負けていない。うまい。みんなが言う。「メラ」も「ンコリー」もうまい。なんか誉められている感じがしないのよねえ。「ンコリー」担当ののりちゃんは歌いながら腹を抱えている。次にぼくが歌う。裕次郎ね。銀の指輪ね。よっちゃんが歌う。よっちゃんも裕次郎。うまい。石原裕次郎は場末に行くほど人気がある。場末で歌うほど裕次郎の歌は味が出る。これはぼくの説。この店のお客さん、みんな歌がうまいわ。のりちゃんが拍手する。退院二日目のよっちゃんは、短い髪でジャンバーを羽織っている。裕次郎が好きな人たちにはどこか共通点がある。太陽の明るさを持ちながら、夜霧のムードを持っている。あっけらかんとしながら、背中がさびしい。言い過ぎか。テニスクラブの面々と「パラダイス」に行って歌いまくる計画を立てている。できればセットで3000円の料金を2500円にしてもらえないか。そして5時から始めてもらいたい。歌のうまいマサヨシくんが言うが、まだママには交渉していない。
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■ニコルさんと松木さん。 ■2008年2月5日 火曜日 4時49分8秒

1月12日。朝10時にはまだ昨夜からの雨が残っている。コーヒーを一杯飲んで、アファンの森の会の会員の集いに出席するために12時04分発のバスで妻と渋谷に向かう。会場は、目黒駅近くの東京都庭園美術館。電車に乗れないわたしは渋谷からタクシーで目黒に向かう。途中、恵比寿駅近くの裏道で突然飛び出してきた乗用車とわたしと妻の乗るタクシーが衝突するアクシデントに驚きながら、1時過ぎに会場入り口で友人の小澤くんと会う。CWニコルさんが会場入り口にいてひとりひとりににこやかに微笑みながら握手をしている。ニコルさんとお会いするのは3回目か4回目だ。久しぶりに森田さんともお会いする。ニコルさんには赤鬼という愛称がある。大きな体と赤い顔はまさしく子どもの頃絵本で見た赤鬼そっくりだ。だが、ニコルさんは赤鬼じゃない。ニコルさんの瞳は、淡く青く深い。ニコルさんの出身地ウェールズの山奥の湖はこうではないかと思わせるように、その瞳は穏やかに澄んでいる。だからニコルさんは少しも恐くない。ニコルさんは、むしろアファンの森の熊ではないか、とわたしは思う。熊より大きい。となれば、森の熊の化身かな。1時30分、オープニング。理事長の熊さんの挨拶。たどたどしく聞こえる熊さんの言葉は、言葉を選んでいるからだと思った。行動する作家であるニコルさんは、会員の方々にわかりやすく、ゆっくりとあたたかく話をする。小学生の子どもにもわかるように話す。人間にとって森がどんなに大切なものか。地球にとって森がどんなに大切なものか。森はどうしたら元気でいられるのか。少年の頃ウェールズを後にして世界の自然とともに暮らしてきたニコルさんの話は、世界の森そのものが直接わたしたちに話かけているようにココロに沁みてくる。テーブルの前にいる小学生が笑っている。会場のみんながひとつの森になって、静かに穏やかにニコルさんの言葉に微笑みながらそよいでいる。みんながアファンの森になる。ニコルさんの言葉はアファンの森の言葉となる。アファンの森の住人松木さんがまるで家族の話をするように森の話をする。森の木は松木さんの子どもであり、奥さんであり、父であり、母なのだ。一本一本の木の言葉を松木さんが代弁する。松木さんは、森の人。森の人とは、オランウータンのことだ。目を凝らして見ると松木さんの顔、体、動き、全部が全部オランウータンみたいだ。素朴で、ていねいで、親身で、あたたかい。森のようにやさしく、小柄だけれど森のように大きい。質問コーナーで質問をすると、松木さんは必ず、うん、カンタンだ、といってから答える。うん、カンタンだ。うん、カンタンだ。松木さんは、森のことは森が教えてくれる、だからカンタンだ、耳を澄まして森に聞けばいいのさ、という。ニコルさんも松木さんも、森そのものだ。東京のビルに囲まれて暮らすわたしの心にふと心地よい風が吹いた一日だった。
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■がんばれ、現役諸君。 ■2008年1月8日 火曜日 7時16分3秒

空手を武道とするか、スポーツとするか。1962年、わが國學院大學空手道部は岐路に立っていた。もちろん、それはわれらだけで決めるべき問題ではなかった。柔道はすでに講道館を中心に柔術各派は統合されスポーツの道を歩いて久しいが、空手はそれより遥か後方を歩いていた。武道としての立場を崩すなという者たちは、空手道を人の生きるべき道とし、道の厳しさや深い精神性を尊重すべきであると主張する。空手をスポーツにしようという者たちは、空手道のさらなる広い世界への発展を期待していた。もちろん両者には美しき精神の純粋性と同時にいくばくかの利害が絡んでいた。二者は互いにけん制しながら時の川に流されていくのだが、時代の趨勢は空手のスポーツ化という美名に傾いて行くのは当然だった。武道のもつ精神性がスポーツとは一線を画すると思い込んでいたぼくは、空手は武道だという思いが強かったが、実はどちらでもよく、両者の長所を取り込んで空手道が進化すればよいとも思っていたし、実際にそういう道しか歩く道はないのだというある種の諦念を抱いていた。当時、学生空手道には大塚先生率いるわれら和道流、松涛館流、剛柔流、糸東流等の各流が派を競っていた。われらは和道流に誇りをもつと同時に他流の誇りも当然のごとく大切にしていた。大山増達先生が極真空手を広めるためにわれらの道場を訪れたのもこの頃だった。先生は牛殺しの技が掲載された極真空手の極意である書籍をわれらに見せた。だが、われらには極真空手を受け入れる気はなかったし、極真空手は、学生の間に普及することもなかった。その後、町道場を中心にここまで自分の流派を広げた大山先生の熱気には驚嘆するしかない。空手のスポーツ化は、同時にバンカラという言葉を死語に向かわせた。野蛮の蛮と人柄の柄と書いて、蛮柄と言う。バンカラはおしゃれとは対極にある言葉で、無骨で乱暴で無頓着という悪いイメージも含むが、不器用とか愚直とか一徹という愛すべき意味も含む。われらはバンカラという言葉に誇りをもっていた。だが、バンカラという言葉はスポーツにふさわしくなかったためにいつの間にか滅んでしまった。言葉が滅ぶと言葉のもつ精神も同時に滅ぶのであって、もはやバンカラ精神も歴史の彼方に消えてしまった。空手部のスポーツ化については11代青柳主将、12代越三主将の並々ならぬご苦労があった。おかげで阿部貴を主将とするわれら13代には迷いはなかった。だが、空手道部の悪しき伝統のすべてを排除するには至らなかった。さまざまな伝統を、これは良き伝統、これは悪しき伝統と明快に区分けできないものもあるからだ。上級生には良き伝統でも、下級生には悪しき伝統というものもある。あれから45年。100人を越えていた部員が、いまや10人を切ってしまった。空手が時代に合わないという意見もあるが、ぼくはそうは思わない。空手道のもつ魅力をわれらが後輩に伝えていないからだ。ただ、それだけだ。國學院大學空手道部OB会「紫魂会」小柴会長の手腕に期待する。がんばれ、現役諸君。
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■キーウエスト ■2007年12月20日 木曜日 10時40分53秒

彼はなぜかパリを捨て、太陽の島、キーウエストに行ったのだろうか。1920年代。彼はパリにいて、貧しかったが明快な目的をもって暮らしていた。結婚をして子どもも生まれ、活力のある眼差しは鋭く前を見つめていた。
カフェでは多くの芸術家たちが文学を語り、絵画を語り、情熱をぶつけ、酒の海を泳いでいた。
ヘミングウェイは、いくつもの短編を書き、やがて「陽はまた昇る」を書いた。
彼の創作哲学は、知っていることを書け、正直に書け、というものであった。第一次大戦で傷ついた彼らの年代を「ロストゼネレーション」失われた世代と呼んだのは、ヘミングウェイの文学上の師でもあったガートルート・スタインだった。
「陽はまた昇る」は、そんな失われた世代の仲間たちをモデルに書かれたものだ。ヘミングウェイは、自分の説である、人物を書くな人間を書け、の言葉どおりいきいきとした人間を書いた。大ヒットしたこの小説は、彼に手痛い反撃をした。登場した人々のモデルがあまりにも正直に書いたためか、誰にでもわかってしまったようだ。
そのため彼はパリに居づらくなった。そして、彼を経済的にも支え続けた妻との離婚もあった。
ヘミングウェイを、マッチョにあこがれるスケベなおやじだよ、という人もいるが、あながちハズレではない。彼は4回結婚し、結婚のたびに環境を大きく変えていった。パリは一年中ジメジメしていて、人の心もしめってしまう。
ヘミングウェイは、妻と別れ、友と離れ、ジメジメしたパリを捨てて、太陽の島に行った。キーウエスト。US国道一号線を南下した南の果て、メキシコ湾流に洗われる島は、彼に新しい人生を与えた。幼い頃からなれ親しんだフィッシングがヘミングウェイの新しい人生の中心にすえられた。
海に生まれ、海で育った仲間たちが、川釣りしか知らなかった彼に、スケールの大きな海釣りの豪快さを教えた。モーターボートを購入し、仲間たちとメキシコ湾でマグロを追った。
時を見て、アフリカにサファリ旅行にも行った。キーウエスト時代、彼はいくつもの短編とすばらしい長編をものにした。
「キリマンジャロ雪」「老人と海」等である。「老人と海」は、ノーベル文学賞までも獲得する世界の名作となった。やがて彼は、キーウエストを捨てキューバに渡る。新しい妻と暮らすためなのか、新しい環境で新しい創作に取り組むためなのか。その両方のためなのか。いま、どこにも行くことのできない私は、新しい年を迎えるタイムトラベルにわくわくしている。パリからキーウエストへ、そしてキューバに彼が渡ったように、時間の旅が新しい創作意欲を沸かしてくれることを祈って。
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■小さい秋、見つけた(1) ■2007年11月19日 月曜日 17時25分52秒

トンネルを越えると山麓の町には、かすかな秋の便りが届いていた。空は青く高く晴れわたり、丘の上の駐車場からは明るい日差しを浴びた町並みが遠く甲府の中心街のほうまで見わたせた。太陽がはしゃぎ、空と大地が歓声をあげて笑っている中に人々の暮らしが広がっているのだ。それは都会とはまったく違ういきいきとした風景であり、僕らは一瞬息を飲み、言葉を失うほどだった。青みがかった山々は途切れることなく視界の奥の白く雪を被ったアルプスまで連なり続いていた。僕らの小さな旅の始まりは申し分がなかった。ぶどうの丘の3階のレストランの広いガラス窓に面した席に僕らは座った。甲州ぶどう入りのカレーを食べ、100%甲州ぶどうを使った地元産の白ワインを僕は飲んだ。白ワインはさらりとしていて甘さが抑えられ、腰もそこそこしっかりしている。商社時代にワインを取り扱っていたワイン通のダーダもこれには及第点を与えた。うん、雨に濡れた子犬の味だ。ダーダと僕はわけのわからぬことをいい、笑った。それなら赤ワインはさぞや渋みがあってうまいのではないかと、僕はテーブルの反対側にいるイサオちゃんの席まで歩いていって彼のグラスを手に取った。「あげないよ」とイサオちゃん。「ちょうだいよ」と僕。「あんた、あんたの白ワインもあげなきゃダメよ」とのり子さん。のり子さんは僕のかみさんだ。赤ワインも重量感があって、なかなかの味だ。最近の国産ワインもよくなっているなあ、とダーダがまとめる。うまいが何か優等生のようで物足りなさを感じるのは、輸入ワインとの差を僕が発見できなかったせいだろう。僕らのこの旅はソミヤくんがお膳立てをしてくれた。2台の車に分乗して僕らは笛吹川沿いを登っていく。途中、恵林寺に寄る。山懐に抱かれた武田信玄縁の寺は、静かな参道の奥に蒼然と佇んでいた。山門も本殿も人間の建造物なのに自然に溶け込み、自然の邪魔をせず、むしろ自然を越える存在感があって圧倒される。それは単に深い時間を刻んだだけではなく、そこに紛れもなく人が生まれ、生き、死んでいったという生命の熱さを感じるからだろう。これはね、ケイリンジじゃなくてエリンジっていうのね。イサオちゃんが教えてくれる。ケイコちゃんもフミちゃんもあっちを見て息を飲み、こっちを見上げて絶句するばかりだ。ダーダの奥さんのマコちゃんは写真家のようにシャッターを切っている。イサオちゃんはカリンの木の下を抜け、ずんずん寺の奥に入っていく。もともと神社仏閣が好きなイサオちゃんだが、後姿を見ていると信玄の霊に導かれているような、歴史のページに溶け込んでいくような、背中に後光を背負っているようにも見える。まあ年齢も年齢だから、それだけ歴史が近づいているのだろう。なあ、せっかく山梨にきたんだからホウトウを食おうぜ。イサオちゃんがいい、鳥居の前に地元の雰囲気のあるホウトウ屋があったぞ、と僕が提案するが、キレイ好きののり子さんにはその雰囲気がただの汚さに見え、まるで見向きもせず、せっかちなソミヤくんの頭には旅館のことしかなく、僕らの提案はむなしく恵林寺の澄明な風に吹き飛んで消えた。なにやら前途多難な気配を漂わせつつ僕らの小さな秋を見つける旅は続く。
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■渋谷駅前発23系統バス。 ■2007年11月10日 土曜日 18時2分40秒

渋谷発東急バス23系統は、渋谷駅西口から三軒茶屋、農大、千歳船橋を経由して祖師ヶ谷大蔵まで行く。通常のバス代は210円だが、夜の10時半の最終に間に合わず、その後の深夜バスになると料金は2倍の420円になる。深夜バスは上町止まりなので、そこから千歳船橋まで20分ほど歩く。バス停にすると7つか8つだ。深夜になっても農大と通りを挟んだ馬事公苑の入り口のツタヤは開いている。すぐ脇のロイヤルホストも開いている。上町から歩くとその辺りはちょうど徒歩に飽きる頃で、明るいネオンと店内のあったかい照明の誘惑につい負ける。とくに金曜日の夜は、ロイヤルホストでビールを飲むかツタヤの入り口にあるスターバックスでカフェオレを飲むのが楽しみになっている。その間に妻は寝てしまうので、帰宅して深夜テレビを見ながら気兼ねなくもう一杯ビールを飲める。スターバックスにはテラス席があって馬事公苑の木々に包まれる感じも心地よい。気障なようだが、目を閉じて風の囁きを聞くのも悪くない。休日に犬を連れてこのテラスでカフェオレを飲み、読書をしているとなにやら軽井沢気分で贅沢である。バス通勤を始めた当初、妻はパスモをくれ、この次は自分で買いなさい、といったがどこで買っていいものかわからない。バスの中で売ってるわよ、といわれても並んだ乗客を待たして買うほど太い神経を持ち合わせていないので、いつも100円硬貨二つと10円硬貨一つを手に握ってバス停でバスを待っている。駅前の屋台の花屋と公衆便所の近くにあるバス停でバスを待つのだ。気が向いたように花屋の斜め前に屋台のラーメン屋が出ることもある。バスを待つ間、一杯600円のラーメンを食べる。600円ならまあこんなものか、という味だ。日本酒が置いてあるのでいつか飲んでやろうと思うがその機会がない。なにもここで飲まなくても、という気持ちもあってなかなか実現しない。反面、どこか侘しさ感が好きなわたしは、ダンボールに座りながら屋台で安い酒を熱燗で、両手で包むようにしながら飲む自分のシーンも嫌いではないので、いつか実現してやろうと思っている。ダンボールに座っている仲間と話をすれば、日本の実情の一部が見えてくるようでそれもわたしには魅力だが、妻が嫌がるのは目に見えている。なに、黙っていればわからない。バス停の横の歩道橋の下でストリートバンドが演奏を始める。アジア系の民族楽器の音が夜空に響き、郷愁をそそられる。蒙古の大草原を彷彿とさせて気持ちがなごむ。われら日本人の故郷はアジアの草原だとする説に一も二もなくうなづいてしまう瞬間だ。この23系統のバスは千歳船橋のわが家の目の前に止まる。なにやら、わが家のバスにみんなを乗せてやっているようで、実に気分がいい。次回は、バスの中で起きた喜劇悲劇のドラマをお聞きいただこうと思う。これがまた面白いこと面白いこと。妻も腹を抱えて笑う。
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■夏の死。 ■2007年10月10日 水曜日 12時35分58秒

熱い夏、一人の男が死んだ。男の名を宇佐美和夫という。渋谷K学院大学空手道部13代部員である。卒業してすでに45年が経つ。われら同期の仲間は彼をドラと呼んだ。彼の本名を知るのは試合の前に登録票を書くときくらいのもので、普段はドラで通っていた。ドラと命名したのは当時の空手道部監督沖縄出身の次呂久英樹先輩だ。ドラ声だったからか、風貌がドラネコに似ていたからか、どちらにしろわれらはその愛称が大いに気に入り、友情を込めて彼をドラと呼んだ。大学の近くに下宿をしていた次呂久監督の身の回りの世話をドラが一生懸命にやっていたのを思い出す。ドラは小まめで人柄がよく、彼が他人の悪口をいうのを聞いたことがない。穏やかな性格でわれら13代だけでなくわれらが4年生になり空手道部の幹部になると部全体の和を保っていたのも彼だった。ドラは空手をやるには優しすぎる男だと当時のわれらは思っていたが、空手の真の強さとは優しさにあることを学んだいま、改めてドラの人間の大きさを知ることになった。和の男、和夫というのは実に彼にふさわしい名であるとしみじみ思う。同期の花松忠義から電話があって、わたしはドラの死を知った。OB会の事務局長斉藤一久くんも連絡をくれた。わたしは次呂久監督に連絡し、埼玉にいる同期の主将阿部貴に連絡をとった。OB会長の小柴先輩にも連絡をした。だが、同期の林清司には連絡をしなかった。副将の林はドラとはひときわ仲がよかった。心の奥に一徹なものを持ち、純な心と明晰な頭をもつ林は、われら同様、自分にはないドラの優しい性格、おおらかな性格に引かれていたのだろう。その林はいま、大病と戦っている。わたしはドラの死を林に伝えなかった。彼岸のある日、われらはドラと会うために戸越公園駅に集まった。次呂久先輩、小柴OB会長、阿部貴、花松忠義、わたし、後輩でありOB会副会長である日下部涼くんの6人である。見上げる太陽は眩しく、残暑が厳しい午後だ。ドラの家は駅前のレストランだ。われらは2階に上がり、カウンターの奥のドラの息子に挨拶し、3階の霊前に座る。懐かしい笑顔のドラがいる。天然パーマの癖毛、細い目、照れたようにかすかに横を向き、穏やかに笑う。不意にドラの道着姿を思い出し、正直な空手を思い出す。空手に正直という言葉が合うかどうかわからないが、ドラの空手は正直だった。真っすぐな空手だった。それは彼の生き方そのものであった。次呂久先輩は長く長く瞑想し、ドラと別れを告げた。帰り、われらは戸越公園のラーメン屋でビールを飲み、焼酎を飲み、ドラの思い出話にひたった。居酒屋に移り、空手部の現状とOB会のあり方について大いに論じた。阿部貴の参加はドラが引き寄せたものだ。熱い夏、ドラが死んだ。われらに和を残して去った。さらば、友よ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■ひとはズルズル、戦争へ。 ■2007年9月25日 火曜日 15時33分53秒

アメリカの著名な作家が1941年6月に中国から自国に送った戦線報告は、日本がアメリカと戦争に突入する直前のものだ。図書館で偶然発見したその報告書からは、日米がなぜ戦争に突入しなければならなかったかを明確に読み取ることはできない。だが、なにかとんでもないことが向かう黒い予感がひしひしと伝わってくる。いまにも破裂しそうな風船をびくびく伺うように、戦争に突入する暗い空気が目前に迫ってくる。アメリカ人がアメリカの目で書いたものだから、むろんアメリカびいきだ。だが、なによりも恐ろしいのは戦争を回避しようという気配がいっさい見られず、ズルズルと崖が崩れるように戦争になだれ込んでいく感覚だ。国民全員が反対しようが悪魔が誘うように戦争に突入していってしまう恐怖だ。1941年6月、日本陸軍52個師団のうち37個師団は中国にいて、蒋介石総統率いる中国中央政府軍と戦っていた。精鋭部隊の9個師団が満州で中国共産党軍と対峙していた。残りの6個師団が日本本土の防衛、台湾、海南島に当てられていた。当時、中国は内戦状態にあり、中央政府軍と中共軍がぶつかっていたが、日本は共通の外敵であった。中国内戦に資金と兵器を注ぎ込んでいたのは、中央政府軍へはアメリカであり、中共軍へはソ連であった。やがて米英と真っ向からぶつかることを承知しながら、日本は南へ進軍するしかなかった。行く先には世界のゴムの5分の4を占める一大生産地があった。日本がそれを手に入れれば世界の列強の仲間入りができる。日本にないものは鉄と石油だ。日本がさらに南進すれば石油が手に入る。中国と戦う日本に石油を供給していたのは、米英だった。背後から中央政府軍を支援して兵器と資金を注ぎ込んでいる米英が、敵対する日本に石油を供給しているという不思議な行為は、その理由を知れば不思議ではない。日本を自分の敵と想定したアメリカは、太平洋地域での戦力準備を進めていたが、まだ時間がかかる。そこで、中国中央政府軍に日本軍の足止めをさせ、時間かせぎをした。日本はというと、同盟国のドイツに力をつけてもらいイギリスと戦ってほしかった。イギリスの主力部隊をドイツに引き受けてほしかったが、ドイツにその力がなく、時期を待つしかなかった。日本はソ連とは講和を結んでいたが、それももっと実行力のある不戦条約にしておきたかった。日本の石油の備蓄は1年分だ。このまま米英と戦争状態に突入しても戦いに十分な石油はない。八方ふさがりのまま日本軍は進軍した。すでに平地の部分は日本軍が制圧していたが、中国軍の得意とする山岳部分には手こずっていた。中国軍の空軍は弱かった。ソ連から供給された戦闘機も日本空軍にはまったく歯がたたなかった。アメリカの作家はこのように日本の窮地を自国に報告した。アメリカが勝つための条件はいくつも読み取れる。情報面で一日の長がある日本海軍は、このまま日米戦争に突入しても勝てる見込みがまったくないことを知っていた。戦争に反対した山本五十六は、中心勢力の東京から遠ざけられ、広島に飛ばされた。ズルズルと悪魔に誘われて戦争に突入する愚か。中東情勢は他人事ではない。戦争の恐さは実はズルズルにあるのだ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■夏の夜、おでん屋で。 ■2007年9月10日 月曜日 12時11分25秒

激しい雨が、新しい季節の訪れを告げている。麹町のおでん屋。グラフィックデザイナーの松本隆治さんとビールを飲んでいる。2人の間でおでんの皿が湯気を上げる。はんぺん、竹輪、卵、牛すじ2本、大根2個、豆腐4切れ。色は薄いがしっかりした味の汁。蒸し暑い夜だが、湯気を立てるおでんに冷えたビールはなかなかの取り合わせだ。目の前で主人が煮え立つおでんに小まめに汁を足していく。松本さんは40年にわたるわたしの親友であり、性格も真っすぐで、人徳の厚い人である。やわらかい関西弁は、耳ざわりもよく、心に沁みる。僕らは戦後少年だ。松本さんがいう。会社に21世紀少年たちが研修にきてね。戦後少年の僕としてはなにかを伝えたいと気ばかりあせってあれこれ言い過ぎてしまった。僕らは仕事上若い連中といっしょのことが多いけれど、40歳違う21世紀少年たちと話が合いますか? よく味の沁み込んだ大根を食べながら、わたしは松本さんに尋ねた。まず、少年という共通点があるからね。少年。それは鋭いアンテナを持つ多感期と解釈できる。乾いた砂に水が沁み込んでいくように、あらゆるものがその感受性の中に吸い込まれていく。少年の僕の最大の関心事は食い物だった。僕もそうです。わたしは答える。決して飢えていたわけではない。戦後の食糧難という事情のために食い物に関心が募ったわけではなく、単に成長期のための欲求だったと思う。だとすると成長期の21世紀少年たちも食い物が最大の関心事となり、話が合うのではないか。そこが共通点か。違うね。松本さんがいう。彼らは第一に金じゃないかな。食い物ではなく、まず金。食い物は回りにふんだんにあるし、成長期だから食い物に関心をもつというほど彼らは健全じゃない。でも、最大の関心事が金だとしたら気の毒だなあ。松本少年としては、食い物の次になにに関心がありましたか。やっぱり海かなあ。瀬戸内海の島で生まれ育ったから、いつも横に海があったからね。僕は信州に疎開していたから、アルプスの山並みときらきら光る天竜川が関心事でしたね。なんだか2人とも健全すぎるなあ。21世紀少年たちの金の次の関心事ってなんだろう。テレビアニメか。ゲームか。塾か。サッカーとか野球とかスポーツならいいけどね。モーニング娘になりたいとか、お笑い芸人になりたいとか、そんなことを思うのだろうね。そうだ松本さん、友だちじゃないですか。そうか、ぼくも悪ガキ仲間の顔はよく覚えている。友だちは21世紀少年にとっても大事じゃないですか。そこで僕らはほっとする。友だちという共通の価値観を持てることにほっとする。戦後少年と21世紀少年は、友だちというキーワードでつながる。話ができる。21世紀少年たちにわが友、魚屋のゲン坊や氷屋のトオルの話をしてみたい。時代の溝は深く広いけれど、もっと彼らと話す機会を作らなければならない。いかんなあ。雨の夜のおでん屋の遅い反省である。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)

■なりたかった。 ■2007年8月14日 火曜日 15時18分10秒

山本五十六大将になりたかった。お富さんの春日八郎になりたかった。哀愁列車の三橋美智也になりたかった。笛吹き童子の中村錦之助になりたかった。紅孔雀の東千代介になりたかった。撃墜王の坂井三郎になりたかった。鞍馬天狗の嵐寛十郎になりたかった。三太物語の三太になりたかった。ジロリンタン物語のジロリンタンになりたかった。日本一の剣士赤胴鈴の介になりたかった。丹下左膳の大河内伝次郎になりたかった。清水次郎長の片岡千恵蔵になりたかった。紫頭巾の大友柳太郎になりたかった。柔道のイガグリくんになりたかった。空手チョップの力道山になりたかった。岩石落としのルー・テーズになりたかった。踊り子の三浦光一になりたかった。君の名はの春樹になりたかった。巨人軍の川上哲治になりたかった。
松竹スターの菅原謙二になりたかった。青春スターの川口浩になりたかった。青い山脈の久保明になりたかった。体育の水野先生になりたかった。青春スターの宝田明になりたかった。嵐を呼ぶ男の石原裕次郎にどうしてもなりたかった。渡り鳥の小林旭になりたかった。抜き打ちの竜の赤木圭一郎になりたかった。エースのジョーの宍戸錠になりたかった。早撃ち小僧の和田浩二になりたかった。花と少女と白い道の浜田光男になりたかった。伊豆の踊子の高橋英樹になりたかった。東京流れ者の渡哲也になりたかった。惜春鳥の津川雅彦になりたかった。映画月見草の山本豊三になりたかった。巨人軍の長嶋茂雄になりたかった。監獄ロックのプレスリーになりたかった。理由なき反抗のジェームス・ディーンになりたかった。ダイアナの平尾昌昭になりたかった。スィックスティーントンズの小坂一也になりたかった。ロカビリーのミッキー・カーチスになりたかった。黒い花びらの水原弘になりたかった。有楽町で会いましょうのフランク永井になりたかった。僕は泣いちっちの守屋ひろしになりたかった。上を向いて歩こうの坂本九になりたかった。遠くへ行こうのジェリー藤尾になりたかった。涙船の北島三郎になりたかった。24000のキッスの藤木孝になりたかった。ボクシングのファイティング原田になりたかった。社長シリーズの森繁久弥になりたかった。座頭市の勝新太郎になりたかった。拳銃無宿のスティーブ・マックウィーンになりたかった。ライフルマンのチャック・コナーズになりたかった。マクリントックのジョン・ウェインになりたかった。釣り師のヘミングウェイになりたかった。フーテンの寅の渥美清になりたかった。シェ−ンのランドルフ・スコットになりたかった。コブラツイストのアントニオ猪木になりたかった。貴公子のビヨン・ボルグになりたかった。リターナーのアンドレ・アガシになりたかった。釣りバカの西田敏行になりたかった。酒好きの開口健になりたかった。作家の三谷幸喜になりたかった。天国の階段のグォン・サンウになりたかった。ヒーローのキムタクになりたかった。オール・インのイ・ビョンホンになりたかった。結局、わたしはわたしに過ぎず、だれにもなれないことがやっとわかった。でも、イチローになってみたい。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■湘南江の島ゲイツアー ■2007年8月8日 水曜日 13時6分11秒

夏といえば海だ。海といえば江の島だ。それが日本の常識だ。息子が海にいく。江の島にいく。そうだ、その正統性こそがいまの日本には必要だ。そこまではいい。そこまでは許す。午後4時、新宿発小田急ロマンスカーでいくという。待て、そこは問題だ。新宿発は正しい。問題はない。小田急ロマンスカーもいい。「いっそ小田急で逃げましょうか」と歌う妻の父を思い出す。小田急は電車もデパートも垢抜けないところがいい。デパートで垢抜けないなんて致命的だが、なぜか小田急はその泥臭さに好感が持てる。問題は、午後4時の出発だ。海といったら出発は午前中に限る。午後4時の出発なんか花火大会だけだ。まだ、太陽が全力を出し切る前、夜の冷たさが残る海水の中をひと泳ぎする。これがたまらない。準備体操をし、軽い平泳ぎから始め、やがてクロール、バタフライ、水府流ヨコ泳ぎ、その間たまにカラダを仰向けに寝かせ波間に揺られて休む。わたしは泳げないから実行したことはないが、これは決まりだ。ビーチに上がり、体にサンオイルを塗り、午前10時の柔らかい日差しで肌を焼く。昼になる。海の家でラーメンを食べる。缶ビールを飲む。午前中の海にはこういった一連の楽しみがある。だから、午後4時出発はない。だが、まあ、いいか。愛する息子の決めたことだ。許そう。息子には息子の世界があることを認めなければならない。午後4時、海にいく。まあ、いいだろう。午前の海の一連の流れはこの際なしだ。だが、ゲイ連中といっしょにいくとはどういうことだ。それはないだろ。ゲイが嫌いでいってるわけじゃない。特別好きじゃないけど、差別などない。イメージだ。ゲイといったら不健康が決まりだ。明るい太陽の下で青春を謳歌する健康的なゲイなんかイメージの裏切りだ。ゲイは隠花植物だ。ネオンの陰で不幸を食べ、下だけを向いて生きる。花柄の小さなサイフの中に小さく畳んだ野口英世が3人ほど入っている。なぜか小銭入れには5円玉が多い。5円玉のすがるような後ろめたさがゲイに共通するのだろうか。新大久保のアパートに住み、ネコを飼っている。マンションはダメ。アパートだ。新聞はサンケイ新聞。夕方近くに起きてネコに餌を与え、素肌にサンダル履きでコンビニにいく。ゲイとはそういう風に地味に、不健康に生きるものだ。ゲイが海で泳ぐのに反対しているわけではない。クラゲだって泳いでいるんだから、ゲイが海で泳いだって文句はいえない。でも、なんで息子は海にいくのにゲイといっしょなんだ。おれの就職が決まったとき、新宿のゲイの連中が初出勤のスーツをプレゼントしてくれた。母親が泣きながら、お前とは縁を切る、と騒いだ。地紋に蛇がくねっているような柄で会社の上司に、なに考えてるんだ、とどやされた。ロマンスカーに乗って、はいビール、とかいわれて悦んでいる息子を思い出すと泣けてくる。息子よ、海で溺れるな。そして、ゲイに溺れるな。あんたがきちんと教育しないからよ。お前の愛情が足りないからだ。妻とぶつくさやりあいながら、ああ夏の暑い夜が更けていく。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)

■と切れ、いき切れ、じかん切れ。 ■2007年7月19日 木曜日 13時16分43秒

還暦を過ぎてから、なにやら人の喋っている言葉が、と切れと切れにしか聞こえない。まともに全部を聞くことがむずかしい。耳か頭が壊れ始めているのかなあ。仕事で打ち合わせをしていても、あ、いまんとこもう一回話して、お願い、などと確認してメモを取る。メモを取らなきゃすぐ忘れる。ひどいときはメモを失くす。もっとひどいときはメモを取ったことさえ忘れる。キッチンから妻が話しかけてくるけれど、これもと切れと切れで、意味不明。3回聞きなおすと、妻は、バカじゃないの、ともうそれ以上は喋らない。ムッとして尻を向けている。聞こえないんだからしょうがないじゃないか、とブツブツいいながら寝転んでテレビを観ている。ときどき、妻の言葉とテレビの中の役者さんの会話がごちゃ混ぜになる。これは不思議な気分だ。この前なんか、ブルース・ウィルスと妻が話しているので腰を抜かした。テレビでダイハードをやっていた。ブルース・ウィルスと黒人の警察官と妻が話している。いや、驚いたのなんのって。3人でテロリストと戦っている。24を観ていたら、ジャックと妻が話してる。妻よ、おまえは政府筋のものか。アイスコーヒーなんか飲んでないで、早く逃げろ。なにがなんだかよくわからない。デビッド・ジャンセンが妻に逃亡の手助けを頼んでいる。やめろ、リチャード・キンブル、妻はあれでもデコ・クレイ・クラフトという粘土工芸をやらしたらいい作品を創る。教室を開いているが評判はいい。でも、逃亡の手伝いは無理だ。第一、彼女は茨城県の出身で、逃げるといっても筑波山か霞ヶ浦あたりしかない。うなぎのうまい店はあるが、逃亡には向いていない。茨城県の人は正直だから、あなたを隠しておくのはむずかしい。先週も、みのさんのクイズ番組ミリオネアを観ていたら、妻が「ファイナル・アンサー」とキッチンで大声で答えていた。わたしの耳がおかしいのか、妻の参加意欲がすごいのか、よくわからない。犬が吠える。うちの犬か、テレビの中の犬か、よその家の犬か、わからない。できれば「高野の家のチュウ」吠えます、と自分の名前を名乗ってから吠えてもらいたいものだ。と切れと切れがいやで全部聞こえているフリをしたら若者が言葉を省略して、と切れと切れで話していた。いや、わたしみたいにろれつが回らない爺はしょうがないけれど、そんなに言葉をはしょらないでもらいたい。ロイホで会おう。そのくらいはわかる。ロイヤルホストだろ。チトフナ? わかるさ。千歳船橋だろ。だけど、小泉純一郎をコイジュンていうなよ。高田馬場をタババっていうなよ。わたしには「ただのババア」って聞こえるんだ。わたしはイギリスびいきでもアメリカびいきでもないが「欧米か」の代わりに「イギリカ」なんていわれても海で取れるイカの新種としか思わないだろ。と切れと切れを聞いて、切れている部分を想像して日々暮らしている。くたびれる。いき切れがしてきた。ゆっくり全部を喋ってくれ。放っておいたら、わたしは時間切れになる。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■下落合ハトリ精肉店 ■2007年7月10日 火曜日 13時49分26秒

突然のハムカツの登場に、ぼくらは度肝を抜かれた。小学生のぼくらは、コロッケのどこか洋風でハイカラな雰囲気が好きだった。男5人兄弟のわが家の夕食のメニューは、父はトンカツ、子どものぼくらはコロッケだった。父のトンカツもぼくらのコロッケも1週間に1回くらいだった。染物職人の父は毎日晩酌をし、週1回のトンカツの日は特にうれしそうだった。なぜか、得意そうに見えた。気が向くとぼくや弟たちにトンカツの衣をくれた。黄金色のトンカツの衣には豚肉の味がしみ込んでいて、コロッケ人生のぼくらには別世界の極上の味がした。これがオトナの味か、と感動して奪い合って食べた記憶がまだ残っている。なぜ肉屋さんはトンカツの衣だけを売らないのだろうと兄弟全員で真剣に考え込んだ。そのとき、衣を作るための豚肉はその後どうするのかとは考えなかった。たぶん、それが思いつかないのでハトリ精肉店では、衣だけを売るというすばらしきアイディアをあきらめたのだ。家の前の大通りの反対側にハトリ精肉店はあった。林薬局が隣にあり、恵比寿屋酒店はその先だ。恵比寿屋酒店でぼくらはエビガ二取りの餌となるスルメを5円で買ったものだ。氷川神社はそのまだ先だ。氷川神社の向こうの乙女山の上に小学校はあった。ある年の暮れ、ハトリ精肉店が火事になった。夜だった。真っ赤な火柱が家から大通りに吹き出し、空を染めた。火の勢いに怯えながら、ぼくらは大量のトンカツとコロッケが黒こげになる様子を想像し、もったいないと思った。父は消防署に勤めていたことがあるので、火を見ると脱兎のごとく駆け出した。江戸っ子だからもともと火事が好きだったのかも知れない。帰りに父はトンカツを持って帰る。そんな期待があったが手ぶらで帰ってきた。全員がっかりした。母が笑って父を迎えた。そういえば、わが家のトンカツ・コロッケの日、母が何を食べていたのか思い出せない。母は、いつもぼくらが食べ終わってからささっとご飯を食べていたのか。だったら、コロッケをもう少し残しておけばよかったと思う。貧乏な下落合の坂下で水野くんの家だけは金持ちだった。街頭テレビ以外でテレビを初めて見たのは水野くんの家だった。ハムを見たのも水野くんの家だった。薄いピンクのハムは、どこかの国の王様の食べ物のように輝いて見えた。水野くんの家で初めてハムを食べた日は興奮して眠れなかった。そのハムが、建て直したハトリ精肉店にカツとして登場したときは弟たちを連れて見にいった。ぼくは得意げに、ハムとは南の国の王様の食べ物だと弟たちに教えた。ぼくら兄弟の中でハムカツは夢の食べ物となった。トンカツに勝つ食べ物だと思った。ハムカツはトンカツの代用品では決してない。硬くそう信じているが、まだハムカツがトンカツの代用品だと思っているひとが多いのは残念だ。それにしても、いまのハムカツは、薄すぎる。少なくともハムカツのハムは3ミリ以上の厚さであって欲しい。できれば形は丸がよい。トロリとソースをかけてパンに挟んでもうまい。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■ていねいに創る。 ■2007年6月20日 水曜日 12時47分29秒

テレビ番組スマステーションで韓流スターベスト10をやっていた。いまなおヨン様ことペン・ヨンジュンが第一位である。「冬のソナタ」は韓流ブームの火付け役であったが、まあなんと根強い人気であることか。2位が「オール・イン」のイ・ビョンホン。3位が「天国の階段」のグォン・サンウ。いずれもテレビドラマを見ていたので顔馴染みの連中だ。ヨン様人気はおばさんたちが中心だったと聞くが、スマステーションはスマップの香取くんが司会をしているのだから、若者の番組ではないかと思う。そこでヨン様だから、結構ヨン様って若者にも受けがいいのかなあ、などと考える。わたしは若者ではないので、韓流ドラマの、あの石原裕次郎や赤木圭一郎時代の日活映画と同質の雰囲気が好きなのだ。まず、ストーリーが単純でわかりやすい。いい人役と悪い人役が明快でわかりやすい。主役はかっこよく、相手役の女優は美人だ。金持ちはいい車に乗り、別荘をもっている。貧乏人はごちゃごちゃした長屋みたいな家に住んでいる。子は親を敬い、親のいうことには子は逆らわない。親は基本的に親ばかくらいに子どもを愛している。だから韓流ドラマはつまらないんだ、という人も多い。まあ、面白いつまらないは個人の感覚だからそれはどちらでもいい。「冬のソナタ」の監督は、ユン・ソクホという。彼は、春夏秋冬を一連のドラマにしようとしているそうだ。「冬のソナタ」に続いて「夏のかおり」をDVDで見る。そういえばいま「春のワルツ」というユン監督のドラマもオンエア中だ。この監督は実にていねいに演出をする。人の感情の流れをていねいに、ゆっくりと表現する。見るものの心の動きと同調させるように穏やかにつないでいく。音楽を見事に使う。例えば「夏のかおり」では、シューベルトのセレナーデが効果的に使われた。これまで聞いたことがあったシューベルトが鮮やかに蘇えり、心に響く。登場人物の心の動きを台詞でいわせたり、それまでにあったシーンをカットバックで再度見せる手法を使う。恋人と別れのシーンに、初めて出会ったシーンを入れたりする。あのときはそうだったなあ、とこちらも思わずうなづく。日本の監督では「雨あがる」や「阿弥陀堂だより」の小泉尭史監督が好きだ。その理由はていねいに映画を創るからだ。小泉監督の映画のテンポは、観る者の心臓の鼓動を穏やかに導く。それが好きだ。ゆっくりゆっくり、こちらの様子を伺うようにカットをつないでいく。これが「人の生きるリズムでしょ」と語りかけてくるようだ。ユン監督もそうだ。ゆっくりとていねいに創る。ていねいに創られたものは人の心を打つ。そんな当たり前のことをきちんとやっている。韓国の若者たちはこのドラマに見るように、ていねいに生きているのではないか、と思う。だとしたらいい加減な国よりはるかに強い国になるのではないか。そう思う。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■マナーからルールへ。 ■2007年6月6日 水曜日 16時20分53秒

こころを大事にしたい、人を信じたいですね

事務所のある市谷は千代田区にある。市谷駅前に大きな三叉路があって、目の前に交番や銀行なんかもあるのだけれど、その三叉路に「マナーからルールへ。そしてマナーへ」と書かれた看板がある。
これは千代田区がいち早く路上禁煙に踏み切ったときに掲げられた看板だ。もっともそのときは「そしてマナーへ」という一文はなかったと思う。これを見てみんなはどう解釈しているのか。ふと気になった。マナーとルールは、どう違うの? みんなちゃんと知っているのかなあ。それほどバカじゃありません。お叱りを受けそうでもあるけれど、再確認をしたい。単純に、マナーには罰則はない。ルールには罰則がある。そういうものだ。まだ、注意されたことも逮捕されたこともないので、実際にどういう罰則があるのかわからないが、どうやら罰金を取られるようだ。なんともいい加減だが、それには理由がある。わたしはルールが嫌いである。そしてルールよりもマナーを上位に置いている。マナーは精神の問題、ルールはどこかからの押し付けの圧力を感じるのだ。新渡戸稲造の武士道を紐解くまでもなく、日本は、自然崇拝の神道を基本に、死生観の仏教を取り入れ、道徳として儒教を取り入れた。道徳こそマナーだと思う。孔子孟子の教えを武士が学び、武士主導の時代に日本の隅々まで広めた儒教の道徳的観念は、日本が世界に誇るものとなった。かの国々の「罪の文化」に対して、日本の「恥の文化」には精神の豊かさがあると思う。人を規則で縛ろうという発想より、あなたの精神を信ずる、というほうがわたしは好きだ。だが、いまの日本に道徳が極めて薄いものとなったのも事実。アメリカの半端な民主主義あるいは未消化な個人主義に毒されたいま、道徳が生きていたかつての美しい日本はない。道徳という言葉さえ、ダサいとか胡散臭いとかで人々の口からは発せられなくなった。家庭からも学校からも街からも道徳は影を消した。情けない。話がそれてしまった。それで、とにかく千代田区では路上禁煙が明らかに減った。それはいいことである。で、さっきの標語だ。付け足した一文の「そしてマナーへ」である。それは、罰則で縛ってみたものの、みんなが路上禁煙を守るようになったら罰則を止めるよ、という意味だろうか。前にもいったようにマナーには罰則がないとしたら、千代田区としてもルールにして罰則を決めたことは、みんながあまりにもいうことを聞かないのでやむなくやったこと、本当はマナーとして各自の品格にゆだねたいのです、という意図なのか。人の品性とか精神の豊かさを大事にしたいという崇高な意味なのか。それはわからない。ルールよりマナー派のわたしとしては賛成だが、そうなるとマナーからルールへというあのキャンペーンでさえ、千代田区は千代田区民を信じているけどやむなくやったのだ、と暖かく見てあげたい。見かたは色々だが、こころを大事にしたい、人を信じたいですね。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■タクシー ■2007年5月21日 月曜日 13時11分29秒

いやはや、タクシーは面白いですよ。

市谷駅でタクシーに乗り、世田谷馬事公苑まで帰る。その道筋は大きく2通りに分かれる。渋谷を通るか、新宿を抜けるかである。例えば日本テレビ方向からきたタクシーに手を上げる。この道はタクシーの空車の数も多く、それほど待たずに乗ることができる。駅前の交差点を越え、JRの頭上をひと跨ぎして外堀通りに出る。外堀通りを左折するとすぐ目の前にYの字の二股分岐点が見える。ここが運命の分かれ道である。左の道を辿れば緩やかな上り坂がゆっくりと左方向に湾曲している。この上り坂はマラソンの高橋尚子が失速して有名になった坂で、確かに自分の足で走ればだらだらと長く辛いものだが、クルマならあっという間である。右手に雪印乳業の本社を見ながら坂を上る。坂を上りきると四谷駅前で、新宿通りとの交差点に出る。左手に交番があり、その先隣りに地下鉄の駅がある。目の前に人影のないきれいな公園があり、公園を通して迎賓館の正面が見える。これが渋谷に向かう道である。元に戻って、外堀通りのYの字分岐点の所で左の四谷方向を辿らず、右の道を辿ってみよう。市谷自衛隊の前を通り曙橋を潜り抜け、新宿に出る。さて、この分岐点のどちらの道が馬事公苑に行くのには料金が安いか。走行効率がいいかという問題である。手を上げてタクシーを停め、走り出せばほんの数分で例のYの字分岐点に出るから、どちらを行くかを早く決めなければならない。黙って運転手さんまかせにしてもよい。運転手さんの中にはどちらから行きますか?と聞いてくる人もいる。馬事公苑まで深夜なら30分。タクシーの運転手さんは話し上手の人がいて、車中の会話も楽しみのひとつだ。いやね、全車禁煙にしようという動きがあるんです。寄り合いでセンターから打診がありましてね。この寄り合いっていいかたがいいでしょう。なんかあったかいいいかたです。それもきどっていない。なぜか、金持ちはこういういいかたってしないんじゃないですか。田園調布の高級住宅街では、寄り合いなんていわない。軽井沢で寄り合いがあってね、とはあまりいわない。サミットを先進国の寄り合いとはいわない。で、冗談じゃないっていったんです。煙草が吸いたいお客さんもいます。禁煙車でも喫煙車でも、お客さんが選べばいいんですよ。この前なんか、駅前で禁煙車なのに、煙草吸っていいですよってお客を乗せてるタクシーがいて頭にきましたよ。信念がないんですよ、信念が。運転手さんは煙草を吸うんでしょう。いえ、わたしは吸いません。え、吸わないのにそんなに力んでるの。いえ、わたしはね、タクシーのサービスについていってるんです。人間の信念についていってるんです。だいたい最近の運転手は、乗せてやってるんだという態度の者が多いですよ。タクシーはサービス業だと思うんですよ。なるほど。目的地に着けばいいって発想はいけません。いかに気分よく乗っていただくか。これが問題です。あ、そこ曲がってほしかったのに。早くいってくださいよ。困るなあ。ごめんなさい。いやはや、タクシーは面白いですよ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■笑顔あり ■2007年5月10日 木曜日 10時13分9秒
幼いときに母の愛情を独占した私

ゴールデンウイークに下落合の実家の母に会いにいく。長男でありながら弟に母の面倒を見てもらっている。なんとも情けない長男である。妻が気にかけ、やれ墓参りにいこう、やれ実家にいこうといってくれるので重い腰を上げた。母は90歳になる。いまは寝たきりで、マダラにボケるという。車椅子で母を表に連れ出そうと妻はいう。すぐ裏の薬王院のボタンが見ごろだからちょうどいいんじゃない、という。クルマを下落合の駅前の山楽ホテルの跡地の広場に置かせてもらう。小学校の先輩のタツちゃんが駐車場の管理をしていて、挨拶にいくと伊豆で採れたおいしい夏みかんをビニール袋に入れてくれる。母はベッドに横になっていた。次男の敬二が早く死に、染物職人の父が亡くなって以来、タナベ製薬に勤める三男の信治が母と暮らしている。父が死んでから、母は元気をなくした。いま、昼飯食べちゃったよ。信治がいう。いつもは介護の人がきてくれるが、ゴールデンウイーク中は休みだという。母ちゃん、おれがわかるか。わたしは母の顔を覗き込んで大声でいう。耕一だよ、耕一。おや、耕一かい。母はにこりと笑う。テレビがついているが、耳の遠い母には音声は聞こえない。ご飯は食べたの? 母がいう。妻が買ってきた牛丼と寿司を出す。いいの、わたしは食べたから。留守番がきたので信治と息子は高田馬場へラーメンを食べにいくという。高田馬場は近年、ラーメンの町として知られている。ふたりが出かけるとすぐ母がいう。信治はどこへいったの? 高田馬場へラーメンを食べにいった。わたしは答える。妻が犬を連れて散歩に出かける。わたしは母のベッドの横でごろりと寝転んで、テレビを見ている。信治はどこへいったの? 母がまたいった。高田馬場へラーメンを食べにいったよ。わたしは答える。信治が置いていった介護の日記を見る。体温の変化。トイレのこと。食事のこと。なにを喋ったのか。眠ったかどうか。母の細かい生活の記録を介護の人がメモしてくれている。ぺらぺらとページをめくる。笑顔あり。ある日のメモにそう書いてある。笑顔あり。ふと、胸が熱くなった。むかし、母はよく笑っていた。いちばん下の弟の守男が2ばかりの通信簿をもってくると、守男はいいのよ、アヒルの行列でもいいの、元気ならいいからね。そういって笑った。4男の里志をサトちゃんと呼んで可愛がった。湿疹がひどく顔や首をかかないように、いつも両手を手ぬぐいでしばられていた赤ん坊の里志を暖かく見つめる母だった。里志という名前は、父のサブロウのサと母のトシ子のトを取って4番目だから4のシをつけてサトシとした。信治がやけどをしたときは自分のことのように辛い顔をした母だった。敬二と信治が一番手のかからない子だった。わたしは母の背中に背負われて信州に疎開し、幼いときに愛情を独占した。笑顔あり。細く哀しい文字で書いてある。信治は? 老いた母が聞き、高田馬場だよ、とわたしは答えた。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■会話、快話、怪話。 ■2007年4月17日 火曜日 16時10分52秒

脳も会話ももう少しポジティブにしたい。ポジティブな会話をしましょう。

先日、息子がある脳学者の講演に行った。宇宙学者との対談だった。深大寺の茶店で蕎麦を食べながら、息子からその話を聞く。愛犬を連れて行くので茶店の店内の席ではなく、いつものように表のテーブルに座る。この方がいかにも茶店風で心地よい。桜の季節は行き、見上げる大木に茂る若葉は午後の日差しを浴びて明るく輝いている。宇宙の話も面白かったが、脳学者が研究課題にしている人間の脳の話に非常に興味を覚えた。おおまかにいうと、ポジティブな思考に向かう脳の研究なのだそうだ。過去の嫌な思い出を自動的に消し去る脳であり、末来に向かってポジティブに働く脳である。思い出の嫌な部分を消しても、学習したものは残せばいいのだ。つまり、過去も未来もポジティブに思考できたら人間はもっとハッピーに生きられるんじゃないか、という話だと解釈した。息子からのまた聞きだから、わたしの解釈が多少ぶれているかも知れない。脳学者の真意とは微妙に違うかも知れない。だが、大きく違わないと思う。わたしはいろいろな原稿を書くことを生業にしているので、ひとの言葉が必要以上に気になる。会話を原稿用紙に書いていると、そのひとの発する言葉がなにを目的に発しているのかがわかってしまうからだ。まず、単純にいうと、その言葉がポジティブか、ネガティブか。まあそれは誰でもわかると思うが、よく気をつけて聞いてみてください。ポジティブな発言の多いひとと、ネガティブな発言の多いひとがいる。これは気になる。ポジティブなひととは話していても心地いい。ネガティブなひととの会話は、面白くもないし、後味さえ悪い。ポジティブな母親とネガティブな母親では、子どもの性格も当然違ってくる。会議をしていても、ネガティブな発言はどうもつまらない。そういうひとに限って、慎重だからというが、誰だって慎重だし、必要以上に慎重だと物事は進まない。大胆と慎重は使い分けなければならない。これは性格の問題かも知れない。会議中の発言がつまらないひとは性格がつまらないひとだともいえる。会議が前に進まない上に、ポジティブな会議なら生まれてくるであろうさまざまなアイディアを生まれる手前で潰してしまうからだ。これは楽観的とか悲観的とかではなく、その場の空気が読めるか読めないか、ということだろう。さあ前向きに行こうという空気を後ろ向きにしてしまう発言は、甲子園の球児たちが円陣を組んで気合をかけた直後に、今日は絶対に負けるよ、というようなものだ。愕然とする。また、会議中に発する言葉が自慢話になっていたり、例え話がテーマとまるでそぐわなかったりするひともいる。言葉は脳だ、と大胆に割り切っていえば、ポジティブな脳もネガティブな脳も目の前にあって、周りのひとたちを喜ばせるたり白けさせたりしているのだ。会話が、快話であるか怪話であるか。それによって会議が変わる。会社が変わる。家庭も変わる。日本が変わる。脳も会話ももう少しポジティブにしたい。ポジティブな会話をしましょう。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■回るマグロ(2) ■2007年4月9日 月曜日 15時42分53秒
なぜ回転寿司でマグロだけが目を回さないのか?

マグロが日本から消える。いまのうちに食べておこうと渋谷の回転寿司に行き、回転寿司が修行の場であること発見した。それが前回の話。そこで今回は、くるくる回る回転寿司の回転台の上で、なぜマグロだけが目を回さないで威風堂々と移動してくるのか、の疑問を追及したい。イカが目を回し、鯛がふらつき、ホッキ貝が寄り目になって回転する。その中で王者のごとく悠然と闊歩してくるマグロ。イワシが悲鳴をあげ、赤貝は虫の息、海老がのけぞり、コハダがよちよち、ツブ貝がブツブツ。マグロだけがきちんと正座してやってくる。なぜだ。この大いなる海洋工学的疑問をいともカンタンに解明してしまったのがテニスクラブの先輩タナベさんだ。みんなのいい兄貴分でもあるタナベさんは、漁業関係の仕事をしていた。若き日、マダカスカルに住み、アフリカ沿岸の漁船団を指揮していた。世界の荒くれ漁師を指揮していた。マグロはね。タナベさんはビールを飲みながら教えてくれる。産卵のために地中海に入ってくるんです。鯉や鮒ののっこみですね。そうです。そこを狙って獲る。卵を養殖に使う。養殖というのは卵を孵化させて育てることをいいます。卵からではなく、稲の苗のように、稚魚から育てて大きくするのは畜養といいます。日本では養殖でなく、蓄養がメインです。15センチ位に育った稚魚を生簀で2・3年かけて大きくします。地中海で捕獲したマグロは、卵を養殖に回し、産卵後のマグロを生簀で餌を与えて太らせます。脂を乗せて市場に出すのですね。日本の蓄養は、ほとんど沖縄で行われています。昔のことですが、15センチの稚魚の値段が一匹2000円程度。それを2・3年間育てて20万円にします。へえ、100倍位になるんですか。凄いですね。で、タナベさんに聞きたいのです。回転寿司の回転台の上でも、マグロだけは目を回さない秘密をご存知だとか。はい、あるとき、沖縄に大きな台風が接近した。ほう、台風が。そう、その影響で生簀の網が破れてマグロが海に逃げた。だが、そのほとんどがすぐに捕獲できた。どうしてだと思います? どうしてだろう。あ、そうか、餌の時間になると集まってきた。放牧の牛みたいに。でも、そんなわけないか。違います。まいりました。早いですね。じゃあ、教えましょう。マグロの生簀は丸いのです。マグロは回遊魚です。凄いスピードで泳ぎます。ですから四角い生簀だと網にぶつかって傷つきます。15センチの稚魚の時代からくるくる回って大きくなる。回る人生です。台風で壊れた生簀から海に飛び出したマグロたちは、逃げた海の中でもくるくる回って泳いでいた。そこを一網打尽です。おお、マグロの人生は回転人生だったのか。それで回転寿司の回転台の上でも目を回さないで、堂々としていられるのか。それならむしろ、回らないマグロのほうがおどおどしているはずだ。子どももくるくる回して育てると回転人生になる。のびのび人生にしてあげたい。ひとつ利口になった。ああ、最近、回らないマグロを見ていないなあ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■回るマグロ。 ■2007年3月19日 月曜日 12時29分16秒

3周目から半額にしろ

マグロが日本から消える。いまのうちに食べておこう。渋谷の回転寿司屋にいく。若者や外国人が多い。ひとり7皿以上食べる決まり。入り口でアジア人の女性から「ヒトリナナサライジョウ、ヒトリナナサライジョウ」と叫ばれ、思わず「オッケイ」などと英語で答える。寿司屋で英語を使ってはいかんな。反省する。文化として寿司屋では日本語を貫きたい。アメリカでは「マグロプリーズ」とか「イクラプリーズ」とか言っているのだろうか。「トロアゲイン」とか「アガリアゲイン」などとぬかしているのか。このやろう日本文化をどう考えてやんだ。30分待って席に着く。お茶を飲むのももどかしく、遥か遠い回転台の前方をにらみつける。マグロこい、マグロこい。呪文を唱える。きた、あ、取られた。きた、あ、また取られた。回転寿司の無常観はここだ。5メートル先からわたしに食べて欲しいとマグロが「こんばんは、よろしゅう」と三つ指ついて艶っぽく迫ってくる。「こちらこそ」思わず頭を下げる。待ち合わせをした彼女が手を振りながら駆けてくるあの気分。向かってくるマグロに手を振りたくなる。ああ、あと3メートル、あと2メートル。早くこい。迎えにいきたくなる。だが、回転寿司には厳しい掟がある。立ち上がって4・5人飛び越して取りにいってはいけない。自分の前にくるまで待たなくてはいけない。彼女だったら走って向かえにいくのは美しいが、回転寿司では迎えにいくのは醜い。マグロがあと1メートルに近づく。わたしの小皿には醤油がたっぷり。ガリも食い飽きた。腹はお茶でがぶがぶ。あと50センチ。よし、きた、手を伸ばせ。という瞬間、隣の女性の手が伸び、ぱっとわたしのマグロを取る。わたしのマグロだ。正確にいうと、わたしの口に入る予定だったマグロだ。マグロだってその積もりだった。待ち合わせの彼女をすっと横からナンパされたような気分。惨めな一瞬。目の前が真っ白になる。わたしのマグロ。どうつまみ、どう醤油をつけ、どう口に運び、どう噛み、どう呑み込むか。シュミレーションが出来上がっていたわたしのマグロ。そのわたしのマグロをかの女性がまあ旨そうに食う。人をあざ笑うかのごとく、頬に笑みを浮かべ、顎をあげ、目を閉じ、幸せそうだ。その不敵な笑み。殴ったろうか。まあ、いい、次を待とう。怒っているうちに次のマグロを見逃すのは愚かだ。気分を変える。このように回転寿司は厳しい修行の場である。なんでも自分の自由になるなんて甘い考えはいかん。干からびてのけぞったナスが回ってくる。「わたしもう3周めです。お願い食べて」なんて母性愛にすがる。だめ。マグロ。オンリーマグロ。第一お前、そんなにのけぞって海老のまねしてもだれもだまされないよ。去っていくナスの後姿にいう。3周めから半額にしろ。どうせ棄てられるのなら、半額にしろ。「店長に行ってください」ナスはそういいさらにのけぞって消える。この話には続きがある。なぜ、マグロは回転寿司の台の上でも目が回らないか、という貴重な話。請うご期待。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■恋は男の子守唄。 ■2007年3月6日 火曜日 10時29分7秒


西部警察のゴリさんが、若く、高校の先生をやっていた頃、わたしも若かった。ゴリさん、俳優の竜雷太さんのことで、刑事も先生も役の上でのことだ。教え子の高校生が恋をした。ゴリさん先生はギター片手にほのぼのと歌を歌った。その歌はわたしの心に沁みて、恋はこうではなくてはいかん、とそれ以来思い込んでしまった。恋する女の子は、田舎の子でなくてはいかん。日当たりのいい原っぱの草の匂いがする子でなくてはいかん。それまでは、石原裕次郎説の石鹸の匂いのする女の子が理想だったが、この歌でころりと恋のイメージを変えた。石鹸の匂いのする子から草の匂いのする子に転向した。恋のステージは田舎の道でなくてはいかん。白く、どこまでも続く長い一本道だ。両側は畑だ。田んぼより畑だ。芋だとか胡瓜だとかトマトだとかの野菜畑だ。麦や桑もいい。視界の果てまで続く道のところどころには背の低い野生の栗の木や、背の高い胡桃の木がある。道は、目の前からなだらかに下っているが坂というほどではない。真ん中あたりに小川が横切る。ドジョウがいる。赤い甲羅の沢蟹がいる。夏の夜には蛍が舞う。澄んだ冷たい水が流れ、川底の小石がくっきりと見える。小川の脇には小さな水車があって、小さな農家がある。農家には柿の木がある。そんな風景の中をバスがやってくる。鼻のあるボンネットバスだ。そのバスがくるのをわたしは待っている。もう何時間待っているだろうか。風が吹く。空が赤くなってきた。夕焼け雲が点々と浮いている。わたしの好きな草の匂いのする子は、バスに揺られてくる。世の中から忘れられたようなバス停の脇の土手にわたしは座っている。ジーンズを履き、遠くに視線を送りながら、本を読んでいる。こんな場合の本は、赤川次郎ではない。マンガなどもっての外だ。ヘミングウェイでは硬派すぎる。トルストイでは歪みすぎる。サリンジャーでは寂しすぎる。スタンダールかサガンがいい。もう日が暮れそうだ。彼女もバスに揺られながらきがきではない。鳥が数羽、鳴きながら家路を急ぐ。遠くを見る。まだバスは見えない。どうしたのだろう。彼女になにかあったのだろうか。バスが故障でもしたのだろうか。その頃、もちろんケータイはない。わたしは立ち上がり、遠くに目を凝らし、また草の上に座る。ゴリさんの歌が聞こえてくる。ポプラの陰を踏みながら、バスに揺られてくるかわいい子。目を閉じる。恋は男の子守唄。夕焼け雲が赤みを増した。空を見上げ、足元の草をちぎってみる。ぼくはあの子と暮らしたい。ゴリさんがやさしく歌う。そう、恋は男の子守唄だ。バスの運転手のすぐ後ろの席で、揺られながら一生懸命に前を見つめるけなげな彼女を想像しているこの瞬間がいいのかも知れない。あの歌のCDを探してみてもどこにも見つからないように、そんな恋ももはや現実ではないのだろう。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■カッコいい空手部? ■2007年2月19日 月曜日 16時35分5秒
18階建ての若木ホールの最上階、有栖川記念館で國學院大學空手道部第54代の卒部式が行われた。小雨降る土曜日の夕刻だった。渋谷でバスに乗ると13代同期の花松くんと一緒になった。有栖川記念館は広く清々しく、すっきりと居心地がいい。広いガラス窓から見える渋谷の美しい夜景は、手を伸ばせば届きそうだ。わが空手道部の創設者であり初代主将である小倉先輩の乾杯の音頭で卒部式は始まった。丸いテーブルが6脚置かれている。われらの席にはOB会会長の斎藤くん、同期の花松くん、後輩の川口くん、特別OB会員右近くんがいる。新しい主将がビールを注いでくれる。空手道部60年近い歴史の中での初の女性主将は、しっかりとした口調で話し、好感がもてる。現在、部員はたったの6名。トキやジュゴンのように絶滅寸前となった部を懸命に担っていこうというけなげさが胸を打つ。OB会はいったい何をしてるんだ。あ、わたしもOB会会員のひとりなのだ。自分の力のなさに腹が立つ。副監督として現役の近くにいるOB 会副会長の日下部くんが隣にくる。彼の口車に乗ってこの会にわたしと花松くんは出席した。日下部くんは、わたしより2年後輩で、実直な男である。これは斎藤OB会長も同様である。実直がゆえに色々な意見に応えようとしすぎて、苦労が多い。現役に対しても真っ向からぶつかろうとするから色々摩擦も起きる。でも、それでいいではないか。わたしは思う。実直がゆえに起きる摩擦は、後輩のためになる。いい加減に逃げるよりははるかにいい。きっと後輩たちも感じてくれる。時が移り、時代が変わろうと真剣な熱意は、色褪せることはない。小倉先輩がわざわざ席を回ってビールを注いでくれる。凄い男の柔らかい物腰は、むしろ爽やかさである。先刻より隣のテーブルから合図を送ってくる1年先輩の小柴さんとグラスを合わせる。現役時代もそうであったが、相変わらずカッコいい男であった。熱血の男であった。部員の少なさを話す。なぜ、部員が増えないのだろう。細かいことは山ほどあるが、誤解を恐れずにひと言で言えば、人気がないのだ。空手や空手部をカッコいいなんて思ったのは、われらのあの時代だからだろうか。そういう話になった。OB会の話に及んだ。現役時代は、みんなカッコよく生きていた。今のOB会はカッコいいだろうか。単純にカッコいいのか悪いのか。そんなにカンタンなものではないと思う。小柴先輩が頷いた。カッコよく生きたいよな。そう、カンタンとか難しいとかの話ではなく、カッコ悪いのはカッコ悪い。難しいのは当たり前。でも、それはカッコ悪くていいという理由にはならない。難しいからこそ、カッコよくやりたいではないか。そんな話になった。OB会事務局長の奈良先輩も隣にいる。奈良先輩もカッコいい。登内先輩に挨拶する。大手術をした先輩の体調を心配していたが、顔色はよく、握った手にも力があった。小松先輩は、いまもなおカッコいい。全員カッコいいのである。OB会も現役もカッコよくなくてはダメだ。帰りのバスでそう思った。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■結婚シュミレーション ■2007年2月8日 木曜日 17時53分18秒
春、彼女は明治記念館で結婚式を挙げます。型破りな結婚式を望む彼女のこと、どんな結婚式になるのかとシュミレーションをしました。仲人の挨拶が終わり、主賓挨拶です。事件がおこったのは、彼女の会社の社長が挨拶を始めようとしたときです。携帯電話が鳴りました。こんなときに失礼な。でも、その携帯は花嫁のものでした。ごめん。手を上げて彼女は電話に出ます。もしもし。得意先の現場担当からの電話です。店頭でのセールスグッズに支障をきたし、お客様が大騒ぎ。担当はおろおろ。えっ!?。なんとかしてください。悲痛な叫び。彼女は飛び出します。ひとにまかせてはおけない。彼女の責任感がうずきました。ウェディングドレスを両手でツマミあげ、走ります。明治記念館の玄関前の砂利道で白いシューズの片方が脱げて跳びます。彼女は見向きもせず、もう片方のシューズも脱ぎ捨てます。早く、早く行かなければ。大通りに出ます。あやうくタクシーにぶつかりそうになります。神宮外苑の道を、歩道ではなく車道を走ります。車が急ブレーキをかけます。バッキャロー。彼女は叫びます。驚いたのは花婿です。大手商社のエースの花婿は、会社のえらい人も大勢呼んでいます。なんでこんなときに電話なの? え、え、どこ行くの?という前に飛び出した花嫁。おろおろします。もっと驚いたのは彼女の会社の社長です。挨拶をしようとしたら花嫁が飛び出したのですから。挨拶を聞いてくれ。社長はマイクをもって花嫁を追いかけます。彼女はわが社に入社して、お得意様の信頼も厚く、の挨拶の厚くのところで飛び出した花嫁を追いかけ、厚く、厚く、おーい、厚く、と叫びながらマイクを握り締めて走ります。ふとわれに返った花婿も駆け出します。走る花嫁。追いかける社長。その後を走る花婿。あっちこっちでクラクションを鳴らして急停車する車。これよ、これなのよ、わたしが望んでいた結婚式って。彼女はぜいぜい言いながら胸が躍ります。青山通りに出ます。誰が呼んだのでしょう。赤坂警察のパトカーが2台、彼女の後を追い始めます。ふん、捕まるもんか。彼女は牛若丸のように車の屋根から屋根へ飛び移ります。ウエディングドレスが花が咲くように開きます。厚く、厚くと叫び、涙と鼻水を垂らしながら走る社長を見て、パトカーが急停車しました。おい、アレは、何だ? 運転している警察官が助手席の相棒に言います。何かのたたりかな? 福島県出身の助手席の警察官が言います。下手に追いかけると、後が恐いぞ。そうか、じゃ、追いかけるフリをしよう。あくまでフリな。運転する警察官が答える横を、ボロボロになった花婿が走りぬけます。もう、追いかけるフリも止めようか。福島の警察官が口をあんぐりと開けました。花婿は自分の勤める会社の前を走ります。なぜか会社のビルの窓から鈴なりになった同僚の社員たちがエールを送っています。何が何でも完走だけはしなければ。花婿は応援に答えて手を振りながら、心に誓うのです。厚く、厚く、完走、完走。喜々として走る花嫁。式場に残された彼女の会社の部長がぼそりと言います。よかったなあ、彼女、ウエディングドレスで走るのが夢だったんだ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■わけあり ■2007年1月17日 水曜日 6時25分54秒
彼の名前は言えません。店の名前も言えません。マスターです。酒場です。新宿は伊勢丹の近く、としか言えません。フォークシンガー杉田二郎さんが小雨に煙る夜に「黒い花びら」を歌った酒場です。地下です。狭い階段を下ります。このくらいは言っても大丈夫。あなたは入り口さえ見つけることはできないでしょうから。小さな店で、古い年代物の黒光りするカウンターに5人、奥のボックス席に数人しか座れません。他の客がいるのを見たことがありません。年代物といえば、店のすべてが年代物です。マスターの彼もまた、年代物です。若いときに悪行も善行も限りを尽くした男だと聞いています。その「わけあり」感が心地よいのです。ひっそりと暮らす酒場のひっそりと暮らすマスター。「わけあり」には、この「ひっそり」こそが大事です。言うなれば、居酒屋とは正反対にいる酒場です。むかし、石原裕次郎が「俺は待ってるぜ」の映画で演じた、あの「ひっそり」感です。わけありです。裕次郎の場合は、南米に行った兄貴の便りをひとりで待つ男でした。くる日もくる日もポストを覗き込むのです。港に近く、霧笛がむせび泣くのです。列車が通るたびに揺れる酒場でした。裕次郎は元ボクサーで、そのときに何かがあり、もう日本にはいたくはない、というわけありの男でした。テレビドラマで言えば、絶対に大原麗子です。駅から離れた路地の奥にある小さな飲み屋。風に揺れる赤提灯。和服を着て、カウンターの中で、ムダ口はきかず穏やかな笑みを浮かべ、お銚子を持つのです。その和服の奥、笑みの奥に過ぎ去った修羅がいまなおマグマのように真っ赤に燃えているのです。和服と笑みが、いますぐにでも爆発しそうなマグマを押さえ込んでいます。辛いのです。必死です。別れた男との間に生まれた子どもが幼稚園に行く歳になりました。男は二度と大原麗子の前には現れません。そうとわかっていても、暖簾が揺れるたびに男が帰ってきたのか、と目を上げてしまうのです。マスターの彼もそうです。石原裕次郎であり大原麗子です。彼はあまり笑いません。かといって不愉快ではありません。グラスを洗うために下を向いた瞬間にふと苦渋が頬をよぎったりします。マグマが活きています。だれだってひっそりと飲みたいときがあります。だれにも言いたくはないが、だれかに聞いてほしい。そんなことがあるものです。ふだん居酒屋で大騒ぎをしていても、人間ふとこの酒場で一杯やりたいと思うときがきっとある。心の隙間をそっと埋めてくれるのは、心に癒しきれない隙間を持っている人です。その酒場でマスターがそっと差し出す小さな皿に乗ったかわいいチョコを見ると、なぜか涙ぐむのです。自分が背負っている重荷のために自分が押しつぶされそうになったとき、この「わけあり」酒場、そしてこの「わけあり」マスターがいいのです。修羅をロマンに変えてくれる店です。場所も名前も教えません。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■富士山 ■2007年1月9日 火曜日 20時18分54秒
新しい年は、感動多き年にする。初詣の稲荷神社にお賽銭を投げ込みながらそう決意する。お賽銭は財布に入っている有り金をすべて投げ入れる。神も驚いているだろう。わかりました、きっとご利益をお届けできるよう努力します、なんて思うはずだ。だが、堅実な妻のお賽銭感覚は違う。札しかないと、お釣りをください、などといいかねない。神主さんに、すいません1000円札崩れますか、などといいかねない。ま、いいか。その金銭感覚がわが家を支えているのだ。年齢のせいか感動が少なくなっているような気がする。いけないことだ。最近の感動といえば、愛犬がペットボトルに入った餌を器用に手?で取り出すのに感動したくらいだ。どうもスケール感に欠ける。感動といえばスケール感と決まっている。そこで家族そろって富士山にお参りしようと、わたしは決めた。午前10時に家を出る。息子がハンドルを握る。妻も免許をもっているが、高速道路は苦手だ。高速道路での車線変更は、彼女にとっては人生の進路を変更するようにむずかしい。だから遠距離の運転はしない。東名高速を南下する。空いている。沼津漁港で昼飯を食おう。むかし東海道を走り回って仕事をしていた息子がいう。沼津近辺は庭だよ。爆弾低気圧の後だから台風一過のごとく、空は青く澄み渡り、やがて前方に雪を被った富士山が顔を見せる。沼津漁港の魚市場には店々が並び、観光客が右往左往している。駐車場の係りに人にうまい店を聞く。地元の意見は貴重だ。どんぶりの名店に入る。さほど大きくはないが、地元の漁師も寄るということだ。混んでいる。メニューを見る前に他の客のどんぶりを見て驚く。海の幸が山のように積み重なっている。どんぶりからこぼれ落ちそうである。感動はスケールだ。感心していると妻がすかさず、わたし海鮮どん、と山となる海の幸に飛びつく。息子は、生しらすいっぱいのダブルどんを頼む。カンパチと鯛の刺身をつまみ、茶色のブロックの桜海老のかき揚げを崩しながらビールを飲んでいると、妻の海鮮どんが彼方からしずしずとやってくる。まるで宝船の進水式のように荘厳でさえある。どんぶりの中で海老が跳ね、鯛が踊り、カンパチが叫び、いわしが弾け、赤貝が駆け回る。イクラが手招きし、ウニが笑う。飯はまるで見えない。妻はにんまりと笑い、食べるというよりどんぶりと格闘を始める。息子が笑う。これぞスケールの大きな感動だ。帰りは環八の木曽路でしゃぶしゃぶ食べようね。妻がいう。刺身を食べながら、よく肉を想像できるものだ。女は恐い。それって自民党を応援しながら共産党に票を入れるようなものじゃないか。忍野村から富士を仰ぐ。でっかいわね。妻が実にシンプルな感想を述べる。コノハナサクヤ姫を神とする富士山は美しくも雄雄しくわれらを包むのだ。火の見櫓があり、水車が回り、わらぶき屋根が佇む忍野村には日本があった。いい正月だ。蕎麦屋は閉まっていたけれど。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp

■黒い花びら ■2006年12月20日 水曜日 7時19分54秒
冷たい小雨が夜の舗道を濡らしている。新宿。伊勢丹と通りをひとつ隔てた路地裏。肩をすぼめて細い階段を下りると小さな酒場がある。大病を乗り越えたマスターがひとり、カウンターの向こうで静かに微笑む。黒い花びら、静かに散った。心を振るわせる低い歌声が酒場を抱いた。あの人は帰らぬ、遠い夢。彼だ。あの男だ。あの男が歌っている。水原弘。カウンターに寄り添いながら、僕らは黙り込む。全身に鳥肌が立つ。背骨を戦慄が貫く。目を閉じる。俺は知ってる、恋のせつなさ。だが、水原弘ではない。カウンターの横で長身の男が肩を丸めてマイクを握っている。だから、だから、もう恋なんかしたくない。ちがう。水原弘ではない。客だ。僕らはこの歌を水原弘よりうまく歌うものに出会ったことがない。この歌は水原弘と一緒に死んだ。そう思っていた。だが、歌は生き返った。その歌「黒い花びら」は間違いなく生き返った。初めてこの歌をきいたのは、中学のときだ。目白にある映画館で映画の主題歌として聞いた。日劇ウエスタンカーニバルが大ヒットし、平尾昌昭、ミッキー・カーチス、山下敬二郎が一夜にしてビッグスターにのし上がった頃で、そういったビッグスターが登場する映画だった。水原弘はその中にいたが、彼は日劇でウエスタンを歌ったのではない。僕は日劇に行かなかったから、ほんとかどうかわからないが、水原弘はウエスタンを歌わずに、石原裕次郎の「錆びたナイフ」を歌ったと聞いた。心を揺さぶる低音。水原弘と裕次郎の共通点は低音にあった。低音と不良性にあった。当時、男は低音で不良でなければならなかったが、ぼくは低音にならず、不良のほうも中途半端で終わった。黒い花びら、涙に浮かべ。長身の男が背中を丸めて歌っている。水原弘を超えた。低音。深い低音。汚れ。悲しみ。孤独。滑らかさと荒々しさ。艶と無骨。引き寄せては突き放す。冷たい抱擁。純粋。片頬に浮かべる笑み。いまはないあの人、ああ初恋。マイクを握っている男は、フォークシンガー杉田二郎。「戦争を知らない子どもたち」を歌ったあの杉田二郎だ。彫刻のような彫の深い顔は、決して愛想のいい顔ではない。美男ではなく、土の匂いのする顔だ。だが、目だけがやさしい。やさしさは目だけでいい。岩のようにごつい顔は、笑うと子どもになる。戦争を知らない子どもの顔ではなく、戦場でひもじさに泣き、爆弾に脅え、悲しみに沈み、絶望の果てに浮かべたたった1ミリの希望を見上げる顔。それが杉田二郎の顔だ。俺は知ってる、恋の悲しさ。杉田二郎は、背中を丸めて歌う。杉田二郎から発せられた歌は一人歩きをして、僕らを包み込む。そうだ、そこがプロの見事さだ。杉田二郎の見事さといっていい。歌は杉田二郎を離れ、歌として存在し、歌そのものが人々を包んでいく。僕はプロを知った。素人は自分を主張する。杉田二郎は、自分を殺して歌に命を与える。師走。小雨が降る、新宿路地裏。杉田二郎の「黒い花びら」が、濡れた歩道を駆け抜けた。ネオンが潤んだ。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp

■真実? ■2006年12月10日 日曜日 9時46分0秒
「True of First Light」夜明けの真実、という原題をもつヘミングェイの遺作は、日本では「ケニア」と題され彼の生誕100年に出版された。アフリカでは曙光の一条に映し出される真実が、昼には偽りに変わる。やがて太陽に焼き焦がされた岩塩の彼方には、美しく縁取られた湖が広がり、この湖ほど尊厳なものはほかにはない。夜明けとともに平原を歩いて行くと、そんなものはどこにもないことを知るのだ。この一文が心に残る。大英帝国の植民地主義政策に対するアフリカの微力な抵抗の中にヘミングウェイが見つけた真実とは、絶望なのだろうか。真実は、蜃気楼に過ぎないのだろうか。ヘミングウェイは、禁猟区に追いやられ生活基盤たる狩猟さえ禁じられたアフリカの先住民を、ヨーロッパの白人により居留区に追いやられ与えられた偽りの自由に封じ込まれたアメリカの先住民に重ね合せて見る。そこには絶望しかないのか。絶望の奥に新たな真実はあるのか。否、絶望はどこまで行っても絶望に過ぎず、金太郎飴のごとく絶望こそが永遠の真実であり、探っても探ってもその奥に希望を秘めた真実の欠片もなく、探るほどにわれらは絶望の暗黒の淵に沈み込んで行くのかも知れない。それが真実とするなら、われら人間は実に愚かな生物といわねばならない。一方から語る自由の倫理の基に、他方の自由が絶滅されるなど、まるでそこには人間が持ちうる壮大で尊厳的な知恵はなく、動物がただただ生き抜く最小の知恵しか見えないのである。真実とは人間の及ばぬ神の領域のものなのか。真実とは神の専用物であり、神の気まぐれでしかわれらはめぐり合うことができないものか。人間が、人間の壮大な知恵により真実に近づくことができるなら、希望に満ちる真実はわれらの手の中の存在といえる。たとえ真実が神の領域のものであり、仏の境涯のものであっても、人間は手を伸ばして探り当て、掴み取らねばならない。神の力を借りようと、仏と相談しようと、いや、悪魔の手を借りようともわれらは真実を掴むべきだ。見方を変えれば、真実を掴むのは煙を掴むよりカンタンなことかも知れない。アフリカの夜明けの真実も、アメリカの夜明けの真実も、そして日本の夜明けの真実も、地球上に存在する夜明けの真実のすべては、じつは決して蜃気楼ではなく、一瞬見失っただけのことなのだ。そう考えると、夜明けにあった真実を消し去ったのも人間のなせる業であり、真実を消し去った人間の愚かさこそが蜃気楼だとも考えられる。そうである。夜明けの真実も真昼の偽りも、実は人間が心にもつ真実であり、偽りもまた真実といえる。夜明けのものをわれらは真実と呼び、真昼のものを偽りと呼んでいるだけなのだ。そうなのだ。真実も偽りも、われらの心にあり、なのである。戦争も平和も、実は同じものであり、愛も憎しみもまた双子なのだ。どちらを選択するか、だけなのである。希望に溢れる真実を。われらに。世界に。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp
■はらさんに1000点。 ■2006年11月20日 月曜日 13時4分10秒
新宿二丁目のネオンが泣いている。新宿御苑の銀杏が色づく11月10日。漫画家はらたいらさんが逝った。それを電話で教えてくれたのは、弟の里志だった。見上げると、赤いネオン青いネオン黄色いネオンがチカチカと泣いている。はらさんと出会い、ほとんど毎夜のごとくこの辺りのネオンを友として飲み歩いたのは何年前になるだろう。そう思いながら果物屋の横を歩く。おかまが尻を振って道を横切る。その光景は、はらさんとふたりで眺めた光景そのもので、長い時間を超えてもまるでとなりにはらさんがいるようだ。はらさんがTBSの「クイズダービー」という番組で司会の大橋巨泉をして「宇宙人」といわしめた才能、博識、頓知で瞬く間に茶の間の人気者になった頃だった。本業の漫画が忙しい上に講演にテレビにと、はらさんはへろへろになりながら、明け方の3時4時まで手からグラスを放さなかった。ときには酒場から直接赤坂のスタジオにタクシーで行くこともあった。いつ漫画を描くのだろう。そんな疑問にはらさんは「いま、描いてる」とグラスを口に運びながら笑うのだった。はらさんはみんなと酒を飲んでいても漫画を描いていたのだ。カウンターに寄りかかって笑っている時でもはらさんの頭脳は凄い勢いで回転していたのだろう。その頃わたしがつけたはらさんのキャッチフレーズは「酒を筆に漫画を描く男」だった。会話のひとつひとつが見事な一こま漫画になっていた。はらさんは物凄くシャイなのにサービス精神が旺盛だった。シャイから生み出されたダンディズムがはらさんを包んでいた。だから、はらたいらの漫画は決して下品にはならなかった。サービス精神とダンディズムのつじつまを合わせるためにはらさんには酒が必需品だった。わたしはそう思った。漫画は直接ファンと顔を合わせることがないので「その点ラクだよ」とはらさんはおっしゃった。漫画では筆がクッションになり、シャイな部分をスマートなダンディズムに変え、サービス精神を存分に発揮できたのだろう。はらさんにはダンディズムという言葉が似合った。土佐の無頼を語りながら涼しい笑顔を見せるはらさんは見た目もやることも言葉もダンディズムに溢れ、痛烈に風刺の利いたアイディアにもいつも品があった。シンプルな線で表すモンローちゃんのあの色気、あの可憐は、極めつくした筆であり、そこにはらさん独特の視点から鋭く睨みの利いた世間批評が絡んで「はらたいらワールド」は完成された。新宿の裏町の通りすがりのおばちゃんに「あ、はらさんに1000点さんだ」と声をかけられ、思わず吹き出したのは、あれは昨日のことだったのか。はらたいらさん、ありがとう。ファンとして友として。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp
■右脳左脳で右往左往 ■2006年10月30日 月曜日 13時11分27秒
六本木の俳優座の裏にあるカフェバーで3人でビールを飲んでいる。日差しは明るく、心地よい風が店内にも吹き込み、背の高い椰子の葉を揺らしている。丸い白いテーブルを囲んで目の前には、俳優であり作家であり大阪芸大舞台芸術学部の学部長である浜畑賢吉くんがいる。その隣には土門拳氏の弟子で仏像写真の第一人者藤森武くんがいる。わたしたちは高校の同級生で、付き合いはもう40年以上になる。俳優は、右脳で表現しなければ豊かな表現はできないよ。浜畑くんがいう。左脳表現ではお客さんは感動しない。文章だって写真だってそうだろ。左脳で吸収したものを右脳から表現として出す。これが大事。そりゃそうだ。計算で撮った写真なんか面白くもなんともない。だって、いまじゃカメラが全部計算しちゃうからね。正確に撮れるが感動はない。藤森くんがいう。だいたいが人間の脳の根本は恐竜の脳だって話だが、人間はそこに一粒の脳を加えただけだ。食欲と性欲で占められた恐竜の脳に一粒の人間の脳が足されただけ。それが左脳。つまり一皮剥けば恐竜ですよ、人間も。わたしがいう。恐竜の脳が右脳ってわけだ。面白い、つまらない、興味が湧く、昂揚する、興奮する、感動する、これはみんな右脳だ。感情機能だ。これは恐竜時代からあるものだ。それに比べ左脳は、左脳算数といって、早くいえばデジタルだ。数字だね。記号だ。金勘定とか人間として社会生活を送る規則とか、共通言語、共通記号となる手段を担当する。記号は所詮記号に過ぎない。浜ちゃんがいうように精神面、文化面を司どるのは右脳だろう。写真もデジタルカメラが主流になりつつあるが、フィルムには根強いファンがいる。藤森くんがいう。アナログの緩やかさな、デジタルの隙間というか、数字と数字の間にあるもの、これがむしろ人間の感情に似ているからじゃないか。でも、いまの若い連中でも右脳を見事に使うものがいて、面白いよ。浜畑くんがいう。学校で教えることができるのは、知識とか技術とかだけど、むしろ心を教えたいと思って授業をしている。人間のやさしさとか愛情とか、礼儀作法とか、右脳の使い方だ。だが、この肝心な部分だけは才能であって、正直いって身につかないものもいるよね。残念だけど。美学というのは学がつくから理論にすべきだが、感情を理詰めで表現することの限度がある。才能は開くというが、ないものはいくら教えても開かない。広告も同じことがいえるよ。わたしはいう。基本は「人の心を動かすのは、人の心」という舞台や写真、芸術と同じなのだが、経済活動直結だからいまの時代は辛いよ。売れればいいんだ、なんていう広告クリエイターがいて、自分の首を絞めているんだ。心がないということが、才能がないということだと気づかない愚かだな。おれたち恐竜の脳を大事にしような。右脳に乾杯。
(高野耕一:takano@adventures.co.jp)
■三崎のマグロ(上) ■2006年10月30日 月曜日 13時6分25秒
台風13号が東の海上を北上している。三崎でマグロを食おう。愛犬にも海を見せよう。息子が言った。NHKテレビで将棋が始まる時間だったから、日曜日の朝の10時だ。家を11時に出る。第3京浜を通り、横浜新道を抜け、横浜横須賀道路を走る。空いている。ちょこちょこと料金所があり、カミサンがぶつぶつ言う。やれ200円だ、やれ250円だと、小銭ながらちょこちょこ取られることが彼女は気に入らない。まるでボクシングのジャブだな、と息子が言い、そのうち利いてくるな、とわたしが言う。横浜横須賀道路で、はい1100円と言われ、ジャブの後に顔面にノックアウトパンチがきたな、と息子が笑う。高速を出ると有料道路だ。なによ、ノックアウトされて倒れるわたしをまだ殴る気なの。カミサンが怒った。有料道路を出ると街道に沿って野菜畑が広がる。作物がない畑は薄茶色の海原だ。やがて、道はうねりながら下り坂となり、そのままクルマが海に飛び込むように、突然海が開けた。空は青く、広く、海は凪いでいる。バス停がある交差点を右折する。突堤をひとつ越えて、駐車場にクルマを止める。料金は、1日600円。愛犬に海を見せる。突堤では、家族が釣りをしている。小学生くらいの女の子が叫びながら竿を上げた。黒いガスホースのようなうなぎが竿先でくねっている。弟が悲鳴をあげる。目の前で魚が跳ねる。
(つづく)
■三崎のマグロ(下) ■2006年10月30日 月曜日 13時4分29秒


トイプードルは本来水辺の猟犬だ。愛犬は海を怖がるどころか興味津々に鼻先で波をさぐる。大きな波がくると、あわてて飛びのく。今日はいつもの店は止めて、新しい店をさがそう。店さがしは潔癖症のカミサンに限る。交差点を越えて歩く。小さな湾に沿って背の低い古い家々が城ヶ島方面に向かって軒を並べている。路地を1本入る。魚屋があり、民家を挟んで魚屋が経営する食事処がある。飯場のような無愛想な食堂で、客が10人も入れば満席だ。日曜日しか開いていないよ。うちは、予約客ばかりだからね。ジュンちゃんと呼ばれる店長が胸を張る。でも、待ってれば入れるよ。店長は、威勢もいいがひともいい。魚屋から刺身の盛り合わせの皿を運んでいるのは、魚屋のおカミサンだ。旨そうだ。ここに決める。じゃあ、待ってる間、ビールをくれないか。いいよ、泡、少ないほうがいいよね、とジュンちゃん。オープンカフェのように表にテーブルと4脚の椅子があり、そこに座る。愛犬をパラソルの足元に結び、刺身の盛り合わせを食べる。息子はマグロ丼を食べる。通りすがりの地元のおばさんが、ここはおいしいよ、といって愛犬を撫でる。ほらほら、そんなに山葵をつけちゃダメよ、と息子にいう。なんだか、母さんみたいのがもうひとり増えたな、と息子が苦笑する。あら、かわいい。家族連れの女の子が愛犬に歩み寄る。ここ、おいしいですよ。カミサンが女の子のお母さんに声をかけ、営業している。92歳のおばあさんがクルマ椅子でくる。うちの犬と90歳違うんですね。そういうと、おばあさんはにっこり笑って、マグロを口に運んだ。小さな幸せ。これが人生よ。わたしがビールを飲みながらえらそうに息子にいい、カミサンが鼻先で笑った。
(高野耕一:takano@adventures.co.jp)
■笑ってしまう。(上) ■2006年9月19日 火曜日 14時15分8秒
いっとき、つかこうへいさんにのめり込んでいた。つかさんは天才である。かといって舞台を見るわけではない。わたしは本を読む。映画を観る。つかさんは、なんといっても「蒲田行進曲」だ。大スター銀ちゃんと大部屋の脇役やすの物語だ。スターさんのためには大部屋の脇役は、命のひとつやふたつは捨てても当たり前という時代錯誤が美しい。つかさんの話はいつも時代錯誤どころか人間錯誤のようなつか流の絶対的な価値観があり、錯誤とは知りつつなぜかその馬鹿馬鹿しいまでの純粋に心を奪われてしまうのだ。そう、通常の人間世界でふと見逃してしまう落とし穴や、極めてありそうであるが絶対にあり得ないがゆえに美しいブラックホールを、つかさんはひょいと摘み上げてみんなの鼻先に突きつけるのだ。そう、それは恐ろしく純粋なのである。馬鹿馬鹿しいまでの表現をしなければ、今のこの時代、人間には純粋などありはしないのだ。あるいは、本当に純粋に生きる人間がもしいたら、そいつは実は馬鹿馬鹿しく見えてだれも相手をしないのではないか。壮大な皮肉屋であるつかさんは、人間はどう生きるべきかなどという、この世の真摯な発想を一度ぶち壊してしまい、笑い飛ばしてしまう。主役の銀ちゃんはこう思っているのだ。大部屋の脇役を何人殺そうが、おれの魅力的なアップが写っていればいいんだ。(つづく)
■笑ってしまう。(下) ■2006年9月19日 火曜日 14時14分11秒
それが映画ってもんなんだ。ファンが観たいのはそれだけだ。だが、そんな関係の中にしっかりと愛情がある。その関係だからこそ見える愛情があるのだ。三谷幸喜さんも好きだ。大河ドラマ「新撰組!」を書いたとき、タイトルの「新撰組!」の「!」がいいでしょ、といって笑った。どういいのかわからないが、とにかくこっちも笑ってしまった。新撰組にエクスクラメーションマーク「!」をつけてどうすんの。新撰組って名前でしょ。名前にビックリマークをつけて誰を脅かそうというの。それを「いいでしょ」といばってどうすんのよ、と思ったものだが、あとでテレビの番組欄をそっと確かめてしまった。三谷さんとつかさんにおんなじ匂いを感じるのはわたしだけではないと思う。三谷さんの映画「家を建てよう」(だったかな?)では、田中邦衛さんが「日本人といったら和室だろう。な、そうだろう」と、設計士の唐沢さんの設計を勝手に変えて、和室を大きくして家を建ててしまう大工の棟梁を演じたが、とにかく登場人物が純粋なのだ。一途なのだ。日本建築はこうでなければならない、と頑なに信じたらそれがもう神の言葉。でも、つかさんと三谷さんの本や映画に出てくる人は、いい加減な人ではない。それが共通点だ。真面目だ。純粋だ。一途だ。だから、腹を抱えて笑いながら泣けるのだ。感動するのだ。喜劇は実は悲しい。喜劇は純粋だ。ここんとこ、いい加減な人間のいい加減な笑いが多い。それがこの国をダメにしている。そんなことで笑っていると、日本は世界に負けるぞ。おわり。(たかの耕一takano@adventures.co.jp )
■キング・フィリップスの不幸。(上) ■2006年9月19日 火曜日 14時12分50秒
キング・フィリップスの不幸が、そのままアメリカの不幸になるとは思わないが、だからといって誰もがいまのアメリカを幸運とは断定できないだろう。いずれにしろアメリカの根源の部分にキング・フィリップスの存在があることは確かだ。149人の清教徒たちがメイフラワー号に乗ってはるばると大西洋を越え、プリマスにたどり着いたのは1620年のことだ。厳しい冬、壊血病、全身衰弱、飢えと寒さのために移住者の半数が死んだ。手を差し伸べたのは原住民であるインディアンの酋長サマソイトだった。キング・フィリップスの父だ。彼は、白人たちに食糧を与え、とうもろこしの栽培法を教え、土地までも与え、救った。それなのに、である。それなのにサマソイトが死ぬと白人たちは、インディアンの土地を奪い、歯向かう者の虐殺を開始した。これに対し、サマソイトの息子キング・フィリップスはインディアンの部族たちを集め、その力を結集しようとした。だが、インディアンたちは一枚岩とはならなかった。つまらない部族間の縄張り根性がキング・フィリップスを見殺しにした。いつの時代にも、どこにでも、大局観を持てず自分だけの利益を求める愚か者がいて、そやつの愚かさが不幸を招いてしまうことはある。アメリカの未来を変えてしまったのは、インディアンたちが力を結集しなかったからであり、それは移住者たちの思う壺であった。けちな根性を捨て、大局に向かってインディアンたちが力を結集していれば、白人たちを大西洋の彼方へ追い払うことができたかも知れない。(つづく)
■キング・フィリップスの不幸。(下) ■2006年9月19日 火曜日 14時12分3秒
勝機はその一瞬にしかなく、見殺しにされ敗れたキング・フィリップスは、白人によって首を刎ねられ、25年間その首はプリマスの広場にさらされた。もし原住民のインディアンが勝利し、現在のアメリカを築いていたら世界はまったく違う力学の上に成り立っていたのだろう。こうしてアメリカの歴史は移住者たちの歴史となった。われらはアメリカの時代劇、西部劇をよく見たが、それは移住者である白人の創った映画がほとんどであった。インディアンは悪人であった。キング・フィリップスの不幸とタイトルをつけたが、それは彼個人にとっては紛れもなく不幸であろうが、アメリカの不幸かどうかは誰も知る由はない。いや、移住者たちは不幸とは思っていないのだろう。アメリカを「理想の国」として移住してくる者たちには2つのタイプがあると聞く。アメリカがすでに理想の国であり、そのパラダイスの恩恵のもとで暮らそうと考えて訪れる移住者と、いまはパラダイスではないが、そこに理想の国を建設しようと積極的に考える者がいるという。ケネディ家は後者の代表である。積極派にはアイルランド系の人々が多いと聞く。時折ふと思う。日本は勝利でしか生きられぬ移住者よりもキング・フィリップスのような人間のほうが気が合いそうだな、と。おわり。(たかの耕一takano@adventures.co.jp)
■ワインの栓(上) ■2006年8月18日 金曜日 14時25分9秒
わが家の玄関の前に直径60センチほどの鉢植えが置いてある。何の木かわからないが妻が選んだ木で、朝の朦朧とした目か、深夜の帰宅の際の酔眼でしか見た記憶もなく、南方系の木であることはその姿かたちから想像できるが、木の名前は知らない。南方系の木と想像するもうひとつの理由は、寒い冬には元気がなく、夏はいきいきとしているからだ。いや、その木の話ではなく、本論は鉢の中の土が見えないほど木の根元に高くびっしりと積まれたワインのコルクの栓のことだ。わたしはこのワインの栓をお守りにしている。お守りというより縁起かつぎというほうが正しい。ワインの栓のひとつひとつに日付が入っている。友人の名が入っている。そう、友人とワインを飲むと、そのワインの栓に日付と友人の名を入れておくというわけだ。全部が全部そうするわけではなく、無名の栓ももちろんある。木の根元に置く前のある期間は、わたしのキーホルダーにつけられぶら下がっている。持ち歩いているのだ。これは、なんでも縁起かつぎにしたヘミングウェイのやり方のひとつだ。ネコ好きの彼は、ネコの尻尾さえお守りにしたと聞くが本当だろうか。さすがにわたしはネコの尻尾をポケットに入れて持ち歩くことはしない。長野県の大町の山中に住む炭焼きの男は、季節になると鉄砲を持って猟師に変身するが、そういえば彼はウサギの尻尾をお守りに持っていた。(つづく)
■ワインの栓(下) ■2006年8月18日 金曜日 14時24分39秒
友人のクシビキさんちの山荘の軒先に1メートルもの氷柱が下がる季節に、その男と大町の国道沿いのイタリアンレストランで会った。浅いブルーの縞々の厚手のシャツの上に熊だか鹿だかの毛皮の半纏をまとっていた。黒いビロードのようなだぶだぶのズボンを履いていた。無精ひげが目立ち、目つきは鋭かった。上等なイタリアワインのボトルを左手に鷲づかみにし、うろうろ歩きながらごくごくと喉を鳴らして飲む様子は、熊を想わせた。どこか可愛げのある男だった。これ、ウサギの尻尾な、お守りな。これ、鹿の角、お守りな。これ、熊の爪よ、お守りな。男はテーブルの上にお守りの数々を広げた。山は怖いからな。街はもっと怖いけどな。神様にお願いしてるだよ。
山の神様になあ。わたしは靴を履くときは左足から履く。ズボンを履くとき、左が先。ジャイアンツのあるピッチャーは、グランドに入るとき、絶対にラインは踏まずに左足から入る。ある映画監督は、ロケに行く場所の方角が悪いと、逆の方向の遠いインターチェンジまで行って、そこから高速に入る。あるテニスプレーヤーは、スポーツウェアの左のポケットにコインをひとつ入れておく。ある相撲取りは、場所中は白い大福餅を一日一個必ず食べる。縁起かつぎなど精神が弱いからだ、と言う人の強さがうらやましいが、まあ、誰でもひとつふたつの縁起かつぎはむしろご愛嬌かも知れない。ワインの栓集めなど可愛いもんだ、と自分では思っている。(おわり)
(高野耕一 takano@adventures.co.jp)
■ワインの栓(上) ■2006年8月18日 金曜日 14時24分0秒
わが家の玄関の前に直径60センチほどの鉢植えが置いてある。何の木かわからないが妻が選んだ木で、朝の朦朧とした目か、深夜の帰宅の際の酔眼でしか見た記憶もなく、南方系の木であることはその姿かたちから想像できるが、木の名前は知らない。南方系の木と想像するもうひとつの理由は、寒い冬には元気がなく、夏はいきいきとしているからだ。いや、その木の話ではなく、本論は鉢の中の土が見えないほど木の根元に高くびっしりと積まれたワインのコルクの栓のことだ。わたしはこのワインの栓をお守りにしている。お守りというより縁起かつぎというほうが正しい。ワインの栓のひとつひとつに日付が入っている。友人の名が入っている。そう、友人とワインを飲むと、そのワインの栓に日付と友人の名を入れておくというわけだ。全部が全部そうするわけではなく、無名の栓ももちろんある。木の根元に置く前のある期間は、わたしのキーホルダーにつけられぶら下がっている。持ち歩いているのだ。これは、なんでも縁起かつぎにしたヘミングウェイのやり方のひとつだ。ネコ好きの彼は、ネコの尻尾さえお守りにしたと聞くが本当だろうか。さすがにわたしはネコの尻尾をポケットに入れて持ち歩くことはしない。長野県の大町の山中に住む炭焼きの男は、季節になると鉄砲を持って猟師に変身するが、そういえば彼はウサギの尻尾をお守りに持っていた。(つづく)
■軽井沢物語2006(上) ■2006年8月8日 火曜日 16時43分18秒
3回刺されたら死ぬと言われているスズメバチに2回刺されているホリちゃんが、残念ながら今年はまだ刺されていない。みんなが期待しているのはあくまでも3回刺されたら死ぬという話が真実かどうかだけなのであって、もちろんホリちゃんには無事でいてほしい。
だが、確かめてみたい。浅間山にかかっていた雲が広がり、陽が西に傾いた。西垣さんのテニスコートはオーナーの几帳面な人柄どうり整備も行き届き、今年もベストコンディションだ。客も多い。クラブハウスの前の庭を借りてわれらがバーベキューとしゃれこんだのは、他の客が帰った5時過ぎだ。主催のマサヨシくんはいつものとうりどっかとプラスチックの椅子に座り、ああでもないこうでもないと口だけは働き者。この年齢になると、いつものとおり、ということが実に貴重になる。
犬さん提供のブーブーノリコという名の高級シャンパンで乾杯だ。いや、ブーブーノリコではない。ブーブークリコだ。ブーブーなんて頭につくからカミサンの名のノリコを思わずくっつけてしまった。犬さんはまた剛毅なもんでそのブーブーを10本まとめてどうぞ、ときたからみんなは贅沢にもシャンパンで酔ってしまった。
男には強いが酒には弱い、元空中姉御のミドリさんが夕日を浴びた上に、おいしいシャンパンで顔を赤くしている。ミヤモリくんは仕事で世界を回っているので、奥さんだけの参加だ。今頃はうちの主人、インドにいるのかなあ。奥さんが雲に包まれた浅間山に視線を送りながら言う。インドが浅間山の向こうにあるのかどうかわからないが、とにかく一緒になってその方向を見、ミヤモリくんの天真爛漫な笑顔を思い浮かべる。(つづく)
■軽井沢物語2006(下) ■2006年8月8日 火曜日 16時42分39秒
われらの火元責任者はホリちゃんと決まっている。だが、まずいことに西垣さんも火にはうるさかった。
火はこうして広げるんです。西垣さんが言い、炭を分散する。まだよ、この真ん中あたりに集中ね。ホリちゃんが言い、炭を中央に寄せる。広くって言ってるでしょ、と西垣さん。強くって言ってるでしょ、とホリちゃん。広くしろ、西垣さん。強くしろ、ホリちゃん。もう炭が真っ赤になって怒っているが、ふたりは火の気持ちなんかお構いなし。
犬さんとわたしは火のそばで真っ赤になって怒っている炭を広げたり縮めたり、あっちへやったりこっちへやったり、それはそれで忙しく、さらにやたらに熱く、もうどうでもいいじゃんと思うのだが、西垣さんとホリちゃんにとってはこれは男の面子、人生50年60年の誇りをかけた究極の戦い。
肉や野菜や魚が、横で息を飲んで見守っているが、ふたりはもう意地の張り合い。ねえねえ、旦那方、そろそろ焼いてくれませんかとピーマンが言い、そうだそうだと虹鱒が手を合わせて頼むから、やっと先に進む。肉がホット胸をなで下ろす。うまい。みんなで食べるから、なおうまい。美しき軽井沢の夜が更ける。
なあ帰ったらトランプやろう。なあトランプやろ。マサヨシくんが言い、七並べにするか、ババ抜きにするか、と聞くので、ババ並べはどうだ、と言って奥さん連中ににらまれたのは他でもないわたしだった。
(追)今年、とうとうホリちゃんは蜂に刺されなかった。かわりにカミサンが足の指を骨折した。どうなってんのかね、この夫婦は。そして、浅間山のミネよりも悠々としたマサヨシくんの奥さんのミネンコさんに感謝だ。(おわり)
(高野耕一 takano@adventures.co.jp)
■歴史の隙間で。(上) ■2006年7月10日 月曜日 14時1分36秒
ニューヨークが「ニューオレンジ」と命名された事実はあまり知られていない。それもその筈である。たった半年間だけなのだ。ニューヨークは、以前ニューアムステルダムと呼ばれていた。先住民族であるインディアンから二束三文でマンハッタンを買い取ったのはイギリスでもフランスでもなく、オランダだった。だから、ニューアムステルダムなのだ。
1626年のことだ。マンハッタンの売買価格は、当時の金額で60ギルダーであり、現在の物価でもせいぜい100ドル程度だという。この話を猿谷要さんの本(文芸春秋・世界の都市の物語)で読んだときは、わたしは猿谷さんに心底より感謝したものだった。アメリカという国の呼吸みたいなものを感じたからだ。
興味をもった。歴史の面白さを改めて知らされたのである。歴史は生きているんですね。小中学校のときにこういう本と出会っていれば、わたしはきっと歴史学にのめりこんだと思う。オランダがマンハッタンを買い取ったとき、わが日本ではすでに徳川の治世なのだ。
いまでこそ世界のアメリカであり、超大国だが、それなりに必死に生きていることを想像させ、親しみをもった。なにやら大金持ちの家庭事情をのぞいたような気分である。歴史が浅いね、アメリカは。まだまだ腕白坊主ですよ。
さて、話を戻しましょう。オランダは、ニューアムステルダムの町を開設する当初から、農場で働かせるための黒人たちを奴隷としてアンゴラやブラジルから輸入していたという。1664年8月のこと、イギリスの快速戦艦4隻がニューアムステルダムに攻撃をしかけた。イギリスの艦隊の指揮官は、リチャード・ニコラス。国王の弟ヨーク公に、このオランダの植民地である島を奪い取って与えようとしたのだ。オランダの総督スタイブサントは、勇猛果敢な男で、軍を率いて迎撃態勢に入った。だが、多くの町民に説得され、ついには島を明け渡したのだ。
イギリスの指揮官ニコラスは宣言した。「われわれをここへ派遣されたヨーク公の名を讃え、今後、この地をニューヨークと改名する」と。
(高野耕一 fujita@adventures.co.jp)つづく。
■歴史の隙間で。(下) ■2006年7月10日 月曜日 13時49分43秒
オランダの統治は38年で終止符を打ったのである。同時に「ニューヨーク」の誕生でもある。話はこれで終わらない。1673年、オランダは、イギリスとフランスを相手に戦争を再開した。8月7日、23隻のオランダの船団が1600人の兵士を乗せて、ニューヨーク港に進撃した。船団を率いるのは、コーネリアス・エバーツェン提督だ。「われらは、われらのものを取り返しにきたぞ」と叫んだ。島での戦闘は2日で終わった。イギリス軍は敗退した。ここに、ニューヨークは、ニューオレンジと名を変えて改めてオランダ統治により再スタートした。このニューオレンジという名は、オランダの新国王オレンジ公ウイリアムの名から取ったものだ。このまま治まっていれば、いま、われらがニューヨークと呼んでいる世界有数のビッグシティを、われらは「ニューオレンジ」と呼んでいるのだ。ところが、そうはいかなかった。半年後、オランダとイギリスの協定により、島はイギリスに返還され、再びニューヨークと命名されたのだ。なんだかニューヨークをオランダとイギリスが勝手にやりとりしているようで、腹も立つけど、なんか奇妙な親近感がわくのだ。
戦争とは、こういう奪い合いなのだということをしみじみ感じ、愚かと稚拙を知るのだ。そして、この半年間の「ニューオレンジ」について多くの歴史家が黙殺していることにも興味を覚えるのである。(高野耕一 fujita@adventures.co.jp)おわり。
■ニューオレンジ(一)・上 ■2006年7月5日 水曜日 13時25分31秒
8月7日、午後2時、船団は目指す島に近づいた。暑い日だ。わしらは疲れきっていた。わしは旗艦の後部甲板にいた。銃を掲げながら、わしは島の周辺を見渡した。今でもその時に見た美しい景色は、昨日のことのように目に浮かぶ。海洋に近い河口のその島は、数万年前の氷河期の氷河によって磨かれた頑強な岩盤を持っていた。やがてできる聳える摩天楼群はその頃はまだなかった。河辺に沿って広く長く、緑の台地と緩やかな家々が続いていた。のどかな田園風景だ。長い航海で海しか見ていなかったわしらの目には、その島の森も丘も、ポツンポツンと点在する木立に囲まれた農家も、天国の庭のように見えたものだ。まるで宗教画のようだった。その島の政治上の重要性や経済上の必要性を、わしら若い兵士はまったく知らなかった。わが提督殿がどれほど知っていたか、それさえわしには見当もつかなかった。提督殿はその島の諸々の重要性よりも、むしろ島を奪還することそのものに意地になっているだけのようにわしには思えた。貿易の拠点としての重要性は確かにあった。頭ではそれは理解できるが、それはわが国の暴力的で一方的な意見に過ぎない。そのために敢えて戦争に持ち込み島を奪いとる大義など宇宙のどこを見たってありはしない。38年間わが国の所有であったその島が9年前に突然無法に他国に略奪されたとしても、本来は先住民族のものであり、わしらの国が先住民族を騙すように二束三文で買い取ったに過ぎない。その島は当然のごとく先住の人々のものであり、わが国だろうがどこの国だろうが領土権を主張する大義などは微塵もありはしない。歴史の語る真実こそが価値を持つ。それを信ずるしかない。(高野耕一 fujita@adventures.co.jp)つづく。
■ニューオレンジ(一)・下 ■2006年7月5日 水曜日 13時23分52秒
わしはそう思う。歴史の語る真実こそが正義だ。ただ都合がいいというだけで自分の領土にしようとする国々の理不尽な論理を認めれば、世界は修羅場となる。他国を暴力的に自分のものにしようとする植民地意識は、若いわしにはただの強盗としか思えなかった。わが国は国土が狭いのは仕方のないことだ。喉から手が出るほど他に領土が欲しいという気持ちはわしだってわからないわけじゃない。わが国の全国民がそう思っているのもわかる。それを頭で思うのは仕方がない。考えまで規制することはできないからな。だが、妄想は妄想に終わらせておくことだ。それを実行していけない。いかなる理由があろうと侵略だけは絶対に許されない。侵略などという代物を神が許すはずがない。神に背いて何を信じろというのだ。なあ、若いの。その時、わしはまだ20歳で、いまのきみたちと同じくらい若かった。わしにとって後にも先にもたった一回の戦争経験だった。戦争とは生きながらの地獄だ。戦争の恐ろしさの一つは、貧乏とか夢のない暮らしをさせてこんなことなら死んだほうがマシだと国民に思わせることだ。その諦念がやけを起こして戦争を許す気分になるのだ。戦争は何が何でも絶対に起こしてはならない。そのことだけを伝えたくて、わしは思い出したくはないその島の戦争体験をきみたちに話そうと思う。話は、船団が島に到着したところから始めよう。まあ待て、若いの、もう一杯ビールのお替りを頼む。冷たいやつをな。そう、わしもそのときそう呼ばれていたんだ、なあ、若いのってな。あの勇敢な男たちに。(高野耕一 fujita@adventures.co.jp)おわり。
■友よ。(上) ■2006年6月26日 月曜日 14時36分10秒
駒沢通りを環八に向かい、駒沢公園を過ぎた右側に寺がある。ちょうど駒沢公園と日体大の中間に当たる。交差点の角に深沢不動尊があって、そのすぐ隣だ。通りに面して門があり、門を入ると本堂に続く石畳があり、左右は駐車場である。石畳に立つと正面にどんと威風堂々の姿を見せる本堂があって、晴れた空に鷲が羽を広げたような立派な大屋根が聳える。寺としては驚くほど大きくはなく、壮大な森の中にあるわけではないが、都会の寺としてはその壮観に思わず誰もが息を呑むのだ。身が引き締まる。しかし、なぜかこの空間にほっとする。友人が住職を勤めている。正確には息子さんにメインイベントの座を譲り、悠々自適な立場にある。だが、この和尚、悠々自適ではない。これまでポルシェで中央高速をぶっ飛ばし、ハーレーダビッドソンのローライダーで東名高速を駆け回り、ジェットスキーのレーシングチームを持ち、大きなトレーラーにマシンを積み込んで、やれ北海道だ、やれ青森だと飛び歩いた男、なかなか悠々なんかしていない。テニスコートでは小柄な体がいたちのようにスピーディに動く。スポーツ好きのためか、とにかく体の切れがいい。打球は、ひとの2倍も3倍も回転するぐりぐりのトップスピンボールで誰もが目を回し、返球に苦労する。それを見て口をあけて笑う和尚の顔は、チャーリーブラウンのように愛嬌に溢れる。和尚だから性格は真っすぐなはずだが、ボールは真っすぐとは縁遠く、これまで見た打球の中では最もアクの強いものだ。いや、もしかしたら和尚だから性格も真っすぐと思うのは思い過ごしかな。日本中の和尚が性格がいいとは限らないだろう。
(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■友よ。(下) ■2006年6月26日 月曜日 14時35分22秒
これは、和尚のために雨の中を飲み屋まで車で迎えにくる奥さんに聞くしかない。とはいいつつ、バーべキュウに行った川辺で川中のゴミを集めている姿を見ると、われらは感動するのだ。さて、この和尚、こともあろうに寺の入り口にイタリアンレストランを開いた。数年前になる。すわ宗教戦争になるぞ。これはバチカンに対する壮大な皮肉、いや挑戦である。バチカンのあの塀の中に道場六三郎が和食の店を出すようなもの。よく世田谷区長が許可したな。われらの適度に無責任な発言に対し、だって檀家の皆さんが集まるときだって、和食だけでは飽きるでしょ、とチャーリーブラウンは笑うだけだ。このイタリアンレストランでわれらテニスクラブの仲間たちは、やれ忘年会だ、やれクリスマスパーティだと大騒ぎをするのだから、先の発言の無責任さが計り知れるというものだ。忘年会はとにかく、クリスマスパーティはワイン片手にピッツァを頬張り、ふと本堂の大屋根を見上げ、なんだかキリストと仏がいっしょに宴会をやっている気分だな、などと不思議な気がするのだ。このレストランがテレビで何回か放送された。ご近所の芸能人も訪れるという。店の奥の小さなテラス席はなかなかいい。星空を見上げながらシェフご自慢の料理に舌鼓を打ちながらワインを飲む。静かなひととき。帰りは駒沢公園でもふらついてみるか。そんな気になる。でも、バチカンがいつまで黙っているだろうか。たとえ、ダビンチ・コードのごとくバチカンと全面闘争となろうが、われらは和尚の味方となって戦う覚悟はできている。(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■日本武士道(上) ■2006年5月16日 火曜日 14時45分17秒
『GORIN宮本武蔵』を昨年ピエブックスより出版していただいた。読みやすい、読みにくい、写真がいい、本の体裁がいい、とそれはいろいろなご意見をいただいた。ありがたいことである。読みにくい、というご意見の方にこうお答えした。実はだいぶ読みやすく工夫しています。しかし、武蔵の五輪書の原文は驚くほどの名文であり、噛み砕き、読み砕かなければ彼のいわんとするところが理解できないほど深いのです。難解です。わたしどもは武道家次呂久英樹師とともに武道家の眼を縦横に使うことにより独自の解釈を加え可能な限りわかりやすく書きました。そうお答えしている。逆に、読みやすくしすぎてはいないか、というご意見もいただく。物を造る、書く、においては、個にして普遍という壮大な矛盾を帯びた理想を抱いているが、これがなかなかうまくいかない。中に、わたしたちが武蔵を臆病と書いたことに対し、武蔵を臆病というのはどうか、というご意見もいくつかいただいた。臆病なわけがない。勇気がなければ勝負には勝てない。命のやり取りなどできるはずがない。その通りだ。このご意見は予想していた。臆病だからこそ最大の勇気を奮うことができる。最大の勇気を搾り出すために敢えて臆病になる。臆病だから敵をとことん極めてから戦いに臨む。大仰ではあるが、逆説的に書くことにより武蔵の精神に触れようと努めたのである。いずれにしても多くのご意見にこの場をお借りして御礼を申し上げたい。そしていま、GORINに続き日本武士道を書こうと準備を整えているところだ。
■日本武士道(下) ■2006年5月16日 火曜日 14時44分36秒
日本武士道、と敢えていうのは「この時代だからこその視点」で著してみたいからだ。世界の中で日本はいまどうしたらいいのか。われらが世界に対し、日本人はこういう人間である、と説明する場合なにをもって語るのか。まさに、新渡戸稲造が武士道を著した動機と同様であるが、内容はかなり変わってくるはずだ。新渡戸稲造が武士道を書いたあの時代、世界が日本を知らなかったのである。表向きであっても300年近くの長い鎖国の後の開国であった。知らないはずである。だが、いまはいまで日本が見えないのではないだろうか。知らないのではない。見えないのである。アメリカという分厚い壁が立ち塞がっていることにもよる。経済大国という幻影は、国の真の姿ではなく、単なる現象に過ぎなかった。世界はアメリカに目を向け、日本の財布を探る。日本はアメリカの顔を見て、財布の紐を開け閉めする。日本の意思。これが、世界の国々には見えないのである。見えないはずだ。無いのだ。ここが、新渡戸稲造の時代、明治時代とは大きく違う。明治時代は、日本に武士道という思想があったのだ。だから彼はそれを世界に知らしめればよかった。現代は、日本に思想が無いのだ。おそらく新しい武士道は、日本人のために書かれるのだろう。思想が無い、というとお叱りを受けるかも知れない。お叱りの言葉は日本の気骨だと思えばうれしい話だ。ただ、武士道というと、経済に疎い、だとか、戦争になるんじゃないか、とか、身分制度がどうとか、中には切腹やテロまでうんぬんする実に浅薄なイメージしか持たない人もいて、それもまた現代的に新たな解釈が必要となりそうだ。黒船、明治維新、そしていま、革命や改革には自分の強烈な意思、確固たる信念がなければならないのだと思う。(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■春の海(上) ■2006年4月18日 火曜日 15時7分19秒
海は正直である。季節に敏感に反応する。春は海からやってきた。アスファルトの通りから岸壁を越え石段を数段降りると突然砂浜に出る。小さな湾には波はなく、すぐ横のハーバーに出入りするボートの起こすさざ波が押し寄せるだけだ。昨日まで身を切るほどに冷たかった浜辺の水はぬるみ、ゴム草履の足に確かな春は訪れた。遠く江ノ島が霞んで見える。沖の釣り船が蜃気楼のように霞んでいる。なるほど、これが春霞か。景色も時間もなにやら薄皮を一枚被せた感じだ。ひねもす「のたり」である。しかしまあ「のたり」とは実に見事に表現したものである。午前10時。寝ぼけ眼の太陽はまだ佐島の上空にある。持ってきた折りたたみの椅子を広げ、缶ビールのプルトップを引き抜き、一気に飲み、大きく息を吐く。なにをそんなに急ぐんだ、と海が軽く笑っていう。まあ、ひと口目はそういうものさ、これがうまいのよ、と弁解がましく答える。徳栄丸の船長の声が岸壁の上から聞こえ、黒い顔を皺だらけにして石段を降りてくる。缶ビールを1本渡す。船長の皺がさらに深くなる。船長は横の岩に座り、缶ビールを開ける。頭にタオルを巻いている。近くの漁港の半纏を着ている。船長と2人で缶ビールを掲げる。ナニに乾杯ということもないが、かすかに心の通い合いがあってうれしい。「潮がよお・・・」船長が息をついてからいう。「潮が春になってなあ」そしてうなずく。船長の黒い顔を見、沖に目を向ける。水平線の辺りが眩しく輝いている。「ほらよお、あそこな」船長が指をさす。東側の沖のほうだ。
(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■春の海(下) ■2006年4月18日 火曜日 15時6分32秒
「色がちがうだろ。あれは春の海の色だな。うん。冬にはねえ色だなあ」。明るい色だ。「明るいですねえ。のんびりした色だなあ」。わたしがいう。「一度、沖に行ってみたいなあ。海で暮らすのが夢だったんですけどねえ」。船長がわたしを見る。「ここから見てると平和だがよう。海はわかんねえぞ。陸で暮らすモンはよ、海がいいっていうけどな、海は突然裏切るのよ」船長は遠く沖に目を向ける。「おれたちは親の代からさ、海がなくちゃあ生きていけねえようになってるけどなあ。いま、ほれ、あそこに白い船がいるだろ、こっちに向かってる船な、あそこよ、あそこら辺には大きな岩礁があってな、大波があるとオッカネエのよ。何隻も沈んだもんな。あんな近くだぞ。いまは平和だなあ。そうよ、今朝もよ、ほとんどの船が大漁だ。だがよ、海は平気で裏切る。明日はわかんねえ。うん、明日はわかんねえなあ」。大いなる恵みを与える反面、多くの命を飲み込んだ海。後で知ったのだが徳栄丸の船長の父も嵐の海に沈んだという。「おれも海で死ねば最高だなあ」足元を見る。岸辺にぴちゃぴちゃ寄せる波は春の「のたり」である。「まあ、人間よりもいいかなあ」船長がいう。「人間だって平気で裏切るもんなあ」わたしは苦笑する。痛いことをいう。「海のほうが正直ですよ」わたしはいう。「きっと、海のほうが正直です」「そうかもしんねえなあ」「絶対にそうですよ」海は残酷でもあるけれど、こんなにもやさしい顔をし、惜しみなく恵みを与え続ける。海は裏切るけれど、そこに欲深な計算はない。人間はちがう。欲により裏切るのだ。やがて、船長とわたしは佐島の近くに昼飯を食べに行き、海はまだ穏やかな微笑をたたえていた。(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■リ・ジャパン。 ■2006年4月7日 金曜日 13時36分54秒
リハビリとは、リ(取り戻そう)・ハビリティ(人格)ということなのだ、という話を聞いた。例えば交通事故により手を失った者が、手を取り戻そうと願うのは当然のことだが、例え手を取り戻すことが不可能であっても「まず、人格を取り戻す」ことが最重要なのである、という。その通り。リハビリとはそのことなのである。手を取り戻すことができたら、それに勝るものはない。だが、手を取り戻すことが不可能である以上「人格を取り戻して以前にも増して強くなれば」それは凄いことである。人格を「自信」に置き換えてみよう。
人はいつも「自信をもって生きる」ことが望ましい。だが、これが難しい。それは「自信というものは、自分で失うのではなく、他人や社会によって失わされることが非常に多い」からだ。「人格というものは、自分で失うものではなく、他人や社会によって失わされることが多い」ということだ。子どものころより築き上げた「自信・人格は、他人・社会によって失わされることが非常に多い」のだ。「失わされる」という言葉は不自然であるから「奪われる」「破壊される」と強く言う。「自信や人格は、他人や社会によって、奪われ、破壊されるもの」である。こうなる。さて、こう考えた場合、わたしたちは大いなる矛盾を感じる。そして、単純に次の二つのことを想起する。他人や社会に破壊されることのない
「強い自信を身につけ、強い人格を形成する」ことが一つ。そして、自信や人格を破壊することのない「人にやさしい人間を増やし、人にやさしい社会」を構築するということが二つめ。そういうことだろう。では、まず、一つ目を検討しよう。人は「どこでどうやって自信をつけ、どこでどうやって人格を形成する」のだろう。「基本は家庭」だ。「学校」だ。「父であり、母であり、先生」である。そして「友だち」や「町内」である。さて、どうだろうか。子どもに「自信をつけ、人格形成の手助けをする」父であり、母であるか。子どもに「自信をつけ、人格形成の手助けをする」先生であるか。しまった。こんな難しいほうに話をもっていくつもりではなかった。これでは、リハビリの話が、リ・ファミリーとか、リ・スクールとか、極論すればリ・ジャパンになってしまう。家庭を、学校を、国をリハビリしようという壮大な話、空論となる理論となりそうだ。ま、たまにはいいですか。構造改革って国のリハビリだし、金融改革だって銀行のリハビリだ。そう考えると、家庭や学校のリハビリはどうなっているのだろう。リハビリは「自信や人格を取り戻すこと」とした場合、以前と同じ形にするのではない。家庭は、家庭の自信や人格「家庭格」をもち、学校は、学校の自信や人格「学校格」をもつことが必要なのだ。そういった「家庭格」や「学校格」をもてますか。その「格」を創る基本の思考・思想はナンですか。でも、家庭格や学校格が確立されれば「自信・人格を奪うことのない社会」人格のある「社会格」が確立されることになるのです。なんだ、先に言った二つのことって一つのことだった。これは一石二鳥の話だった。教育は言葉から。正しい会話から、まず始めましょう。
(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■チュウの尋ね人。 ■2006年3月31日 金曜日 16時3分27秒
ぼくは、犬。種類はトイプードル。名前は「チュウ」。本名は「チュウバッカ」といいスターウォーズに登場するキャラクターから頂戴したものだというが、ぼくはそんな長い名前はいらない。ぼくの耳は気が短いのだ。チュウのチの字で反応する耳なのだ。夏目漱石先生のとこの猫みたいには名前がないのも味気ないし、犬を「犬、犬」なんてそのまんま呼ばれるのはもっと味気ない。今は「チュウ」で一応満足している。一才になった。生まれて3ヶ月目にいまの家に飼われることになった。家族は3人。息子のGさんが、僕の実質上のご主人だ。散歩はもちろん、ドッグランに行くのも砧公園に行くのもGさんといっしょ。カットに行くのもいっしょ。ぼくが腹をこわしたとき、医者に連れて行ってくれたのもGさんだ。ぼくのすべてを面倒見てくれる人だ。だから、人生相談をするならGさんだとぼくは決めている。N子さんはこの家の奥さん。ぼくの食事はN子さんがくれる。眠くなるまで抱いてくれる。買い物にも連れていってくれる。町を歩いていて「まあ、かわいい」なんていわれて喜んでくれるのはN子さん。うちのチュウは、足が長いでしょ、顔がちいさいでしょ、とテレビタレントを褒めるように自慢するのもN子さん。だいぶ前になるが、公園でよその奥さんから「あら、トイプードルってもっと毛が巻いてるんじゃない」とかいわれて「なによ、あんな人とは一生口をきかないから」と激怒してくれたのもN子さんだ。それほどぼくを可愛がってくれているのだ、と感謝している。あの頃ぼくはまだ小さかったから毛の色も今と違っていたし、今ほど毛も巻いていなかった。だが、もう色も金色に落ち着き、他の犬たちが嫉妬するほどきれいな巻き毛になっている。さて、ついでに紹介するのがこの家のご主人のKさんだ。朝から晩まで、ぼくはKさんを噛んでいる。噛みやすい人格なのだ。ぼくの玩具的存在で、玩具という点から見れば実に貴重品だ。ぼくはいつも3階のリビングにいるが、GさんやN子さんが階段を下りていってしまうと淋しいから大騒ぎをする。大騒ぎの果てに「淋しいオシッコ」や「淋しいウンコ」をしてしまう。淋しいんだから仕方がない。階段を上ってくる音を聞くとうれしくて立ち上がり、ぴょんぴょん跳ねる。だが、Kさんが階段をおりていっても、あ、そう、とばかりに寝たまんまだ。淋しいオシッコもしない。Kさんが階段を上ってきても、首を回してちょろっと見るだけ。Kさんが会社から帰っても、ちょろっと見るだけ。ぼくが退屈して、おい、手を噛ませてくれ、と頼むときだけはとても重要な人だ。よく観察していると、Kさんは、N子さんからも軽い存在として扱われている。だから、これからもぼくは安心してKさんを玩具扱いにしようと思う。ぼくは今の暮らしに満足している。親分のGさん、母を知らないぼくの母親のN子さん、玩具で子分のKさん、みんなとの暮らしに何ひとつ不満はない。だが、ひとつだけ心配がある。それは、ぼくのいた等々力のペットショップの吉田さんが、そこを辞めてどこかへ行ってしまったことだ。いいお姉さんだった。会いたいと思う。吉田さん、今どこにいるの?知っている方がいらしたら教えてください。
(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■日本一歌のうまい焼き芋屋さん ■2006年3月31日 金曜日 15時59分19秒
深大寺は、週末の昼下がりの穏やかな空気の中にある。昨日まで降っていた雨はすっかりあがり、空は青く、高い。その澄み切った青いキャンバスにすっくと伸びる森の木々の輪郭がはっきりと描かれている。降り続いた雨が埃を掃ったためか、ハイビジョン映像のように鮮明だ。神代植物公園の脇を入った駐車場に車を滑り込ませる。通りを挟んだ空き地にドッグランがある。金網で囲っただけの犬の運動場である。横幅20メートルくらい、縦は50メートルくらいだろうか。かなり広い。それが2面並んでいる。左側は大型犬、右側は小型犬のものだ。愛犬チュウはすでに息を弾ませて駆け回る体勢にある。先にテツのお参りをしよう。息子がいう。テツとは先代の愛犬の名である。息子が小学生の頃から16年間ともに育ってきた三河犬である。純血種ではない。もともと紀州犬と柴犬のミックス犬で、徳川家により狩猟犬として改良されたというが、それも定かではない。その上、
テツが純血の三河犬であるかどうか、それも疑わしい。だが、勝てば官軍、飼えば家族である。テツは、日本犬の誇りを持ち、強く、賢く、忠実であった。猟犬でありながら水を極端に嫌ったことだけが、やつの弱点だった。水が嫌いな猟犬なんかいるの。そう妻がいうたびにテツはすごすごと犬小屋に隠れた。だが、スヌーピーだって草むら恐怖症の猟犬だ。テツよ、恥じることはない。テツの墓は深大寺にある。ドッグランに背を向けて深大寺に向かう。神代植物公園に沿った細い道を歩く。すれ違う人の数も多い。犬を連れている家族も多く、お互いの犬を一応誉め合っておく。マイクを通して歌が流れてくる。歩きながら誰もが耳を奪われる美声である。力強く、透明な歌声。伸びがある。張りがある。思わずカラダが動く。犬たちも歩みを止め、歌声に聞き入る。聞いたことがある声だ。歌声は、道の傍に止めた軽4輪車からのものだった。はあるばある来たぜええ、函館えええ、焼き芋おおお、と聞こえる。茨城県旭日村の焼き芋売りである。石焼き芋のトラックであ
る。これがなんと、サブちゃん、北島三郎の声である。もちろん本人ではない。本人ではないと思う。いや、サブちゃん本人か。そんなわけない。それほど似ているのだ。歌がうまいのだ。声がいいのだ。その伸びのある美声が神代植物公園の深い森に響き渡り、高い青い空に広がっていくのである。目を閉じるとNHKの紅白歌合戦のステージが浮かんでくる。なにやら焼き芋がただの焼き芋とは思えないのだ。皮をむいて歩きながらかじりつくなんて、とてもそんなことはできない空気である。そのためかどうかわからないが、みんな歌は聞くが芋は買わないのだ。まさか拍手をしたりテープを投げたり、サインをもらう人はいないが、芋が買いにくいのだ。サブちゃん独特の節回しに同調して吠える犬もいるんじゃないだろうか。きっと芋もうまいはずである。この次は芋を買わなければサブちゃんに悪いな、と思った。(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■トリノよ、がんばれ。(上) ■2006年2月15日 水曜日 15時31分42秒
フライングの反則で失格となった選手は、目を赤くしてナニカを堪えている。氷上を呆然と滑走しながら唇を噛む。トリノからのライブ映像。女子500メートル・スピードスケート。日本はいま、深夜だ。日本から4人の選手が出場している。冬季オリンピック3回出場の日本のエース岡崎朋美は、開会直前風邪で体調を崩した。34歳という年齢にも疑問を抱くものもいるが岡崎はその限界説を厳しい練習で跳ね飛ばし、明るい笑顔を見せる。大菅と吉井のダブル小百合は、弾ける若さで勝負に賭ける。ここまで日本はメダルなしである。女子モーグルの上村愛子は4位。コークスクリュウを決めたが、ナニカが足りない。ナンだろう。コークスクリュウという女子では彼女しか成しえない最終兵器だが、まだ自分のものにしていない危うさを感じたのはわたしだけか。それとも滑り全体のまとまりというか、なめらかさをベースにし、豪快にコークを決めるメリハリがあればと思った。ごめんなさい、素人が。さて、男子500メートル・スピードスケートは惨敗。ハーフパイプも惨敗。もはや、何でもいいからメダルを。金なんていわない。銀などと欲張らない。銅でいい。銅、大歓迎。メダルならもうアルミでも何でもいい、と少々焼け気味である。女子フィギアの美女軍団も、どうも日本のテレビを見ていると金銀銅のメダル総なめのごとく見えるが、わたしはもうだまされない。テレビスタッフの気持ちはわかる。わたしもスタッフならそうするが、エコひいきが過ぎるんじゃないか。期待感ムンムンの映像を流しすぎはしないか。ミキティが4回転を決めて3位に入れば上出来、くらいに思っていたほうが落胆しなくてすむ。(つづく)
■トリノよ、がんばれ。(下) ■2006年2月15日 水曜日 15時31分3秒
話は氷上にもどる。女子スピードスケートの面々は、軽い笑みを見せるほどリラックスしている。いい。いいと思いつつ、まてよ、とも思う。リラックスのしすぎではないか。そう思う。始まった。500メートルを2回滑走して、その合計タイムで勝敗を決める。フライングが多い。審判が厳しいのか。観客から審判に対してブーイングが起こる。優勝タイムは38秒近辺だという。2人で滑走する。100メートルのタイムが10秒の前半ならいい。日本選手のタイムがいまいちだ。38秒の後半である。それにしても、外国選手の体格のよさには息を飲まされる。滑りが豪快である。テレビ画面から風を切る音が聞こえてきそうだ。コースに覆いかぶさるように駆け抜ける。だが、雑である。力で押し切ろうとさえ見える。それに対し、日本選手の走りは繊細である。美しいのである。豪快と繊細、力と美しさの勝負である。岡崎が出た。あの岡崎さえ華奢に見える。スタートラインに立つと、すばしっこい少年にも見える。号砲一発、いいスタートだ。早い。100メートルの入り10秒前半。悪くない。氷をしっかり捕まえ、氷に乗る。氷上の水すましだ。コーナーでも速度は上がる。1回目、38秒の前半。3位のタイムである。よし。興奮してウイスキーのお替りだ。2回目はさらにいいタイムになるだろう。だが、負けた。4位である。決して悪くはない。しかし、岡崎にはメダルを取って欲しかった。それにしても、と思う。日本選手は精神的に弱いのではないか。フライングで失格となった選手のように、涙ぐむくらいの気迫が欲しい。オリンピックはオリンピクニックじゃないんだからね。おわり。(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■優しい時間(上) ■2006年2月9日 木曜日 10時56分15秒
元旦に、今年は優しく生きようと決め、氷川神社で500円の賽銭を投げ、神に誓った。寺尾聡さん主演のテレビドラマ「優しい時間」が実にしみじみとココロに浸みたことが原因だ。かみさんも食い入るように見ていたから、きっとココロを打たれたのだと思う。脚本は「北の国から」の倉本さん。吹雪ばかりが印象に残るドラマなのに、とてもあったかい。登場人物はいずれも個性的なのにまるで毒がないのは倉本さんの、人を見る目のあたたかさなのだろうと感銘した。寒いのも暑いのも嫌いだが、人のあたたかさは大歓迎だ。外の吹雪は、きっと社会の象徴としての吹雪なのだろう。それでも人はあたたかく、力強く生きていこうという設定だ。同時に、昨年出版した拙著「GORIN・サムライたちへ」で書き残している点で気になっている活人剣に思いを馳せていたことも原因のひとつだ。活人剣。人を活かす剣。わたしの場合、空手だから活人拳となる。どんな拳か。明快に答え
が出せないでいる。優しさは、活人拳の答えに深く関係しているような気がする。ドラマの中でもいろいろな事件が起きる。寺尾さんだって優しいだけではなくて、時には強い。でも、優しい。強いけれど、優しい。ドラマの中では成立していた「優しさが強さ」は、実社会で成立するのだろうか。「優しさが武器」になるだろうか。これは、答えを理論的に追求するよりも、実行してみる方がいいのではないか、答えはそこから見出せるのではないか、そう思った。
■優しい時間(下) ■2006年2月9日 木曜日 10時55分34秒
今年は優しく生きる。そう決めて1ヵ月。早や決心は揺らいでいる。息子も優しさを実行して傷ついたから、わたしは頑なに「優しさは強さ」を身をもって示さねばならないのだ。でも、ここの所、それは相手によりけりだ、と思うようになりつつある。嫌なことではあるが、そう思う。なぜか。優しくしたらズに乗ってくる人間が多いことを知ったからだ。人間て、そういうもんですかねえ。優しくするとズに乗るもんです
か。それとも、そやつが悪いやつで、いいやつは優しさを理解するのでしょうか。腕力と暴力について、むかしひとつの結論を出した。悪に対して振るうのは、腕力。善に対して振るうのは、暴力。そう結論づけて生きているのだが、いまの時代、なにがあっても手を出した方が悪いという風潮である。武蔵にとっても、空手家にとっても解せない世の中である。平気で弱いものをいじめる風潮は、どのような状況においても拳を振るうことがない、という甘い環境が創ってきた悪癖だ。活人拳は、拳を振るわないのではなく、人を活かすために拳を振るうのである。いや、ちがう。拳を振るうより、拳を隠したうえでの優しさこそが活人拳である。ここで諦めてはいけない。ズに乗って「言葉の暴力」や「無口の牙」を向ける者に負けない「強い優しさ」を学ばなければならない。同時に「優しさが強さになる社会」を築くために自分になにができるのだろう、と考えなければならない。(高野耕一)
■エルビスで喧嘩。(上) ■2006年1月19日 木曜日 16時21分33秒
先日、数日にわたってNHKで「エルビス・プレスリー」の特集がオン・エアされた。エルビス、ああエルビス。いまの若い人たちには、もはや何の思いも感傷も知識もないのだろうけれど、わたしたち50歳代から60歳代には、映画俳優ジミーことジェームス・B・ディーンとともに「もう神様だもの」なのだ。エルビスは、歌手だ。ロカビリー歌手だ。ロカビリーとは、ロックとヒルビリーのいいとこ取りをした音楽だと聞いているが、どんなジャンルなの?と問われると困ってしまい「エルビスのあれよ」と答えるしかない。高校生の頃熱狂的なファンが多く、いまでも鮮明に覚えているのは、授業中に座る椅子に小さな座布団を作るのが流行っていて、その座布団にエルビスの名前とか歌っているカッコウとかギターなんかを刺繍した連中がいた。わたしはしません。わたしは、裕次郎、ジミー、エルビスの順番だった。それに、自分で刺繍するのではなく、ガールフレンドに刺繍させ
るのが当時の男子高校生の正しい粋がりだったから、もう死んだって自分でなんか刺繍はできない。もてない男は座布団さえなく、尻から風邪ひいて笑われたもんです。というわけで、わたしは刺繍をしなかった、ではなく正しくは刺繍をしてもらえなかった、もっと正しくは刺繍をしてくれるガールフレンドがいなかった、になる。
■エルビスで喧嘩。(下) ■2006年1月19日 木曜日 16時20分58秒
日本でもそんな状態だったから、アメリカではさぞかしと思ったら、片岡義男さんの本にこんなのがあった。まだ無名のエルビスの歌をラジオのDJが流した。すると問い合わせの電話で放送局の電話がたちまちパンクした。.DJは繰り返し流した。ある少女は、電話が通じないので父親のトラックを走らせ放送局に向かった。カーラジオでエルビスの歌を聞く。涙があふれて仕方がない。やがて涙でトラックの運転ができなくなり、路肩にトラックを止めて泣いていた。いいでしょ。いい話だし、エルビスの凄さが伝わるでしょ。エルビスは元々トラックの運転手で、19歳でデビューした。街から街へとライブを続け、やれ100人、やれ200人、はい終わった次の街、という具合でアメリカ中を走り回っていた。NHKテレビにある街の女の子が登場した。当時の高校生だから、いまは正確には女の子とはいえない年齢になっている。3人だ。ペギーとバーバラともうひとり。すでに皺の目立つ顔だが、もう高校生のようにはにかんで、目をきらきらさせていう。「エルビスのコンサートに行くために赤いドレスを買ったわ」「エルビスのコンサートに行くために綿つみのバイトをしたわ」そういう。感動した。泣きたくなった。いまの日本でもこんな娘は絶対にいると思う。幸せな娘だ。尊敬する。その心を大切にしてほしい。エルビスは人気が高まると映画に出始め、10年以上もライブ活動がおろそかになる。ダメねえ。妻がいう。いいじゃないか。わたしがいう。ライブは続けるべきだったわ。もっといい歌が歌えたわよ、と妻。わかってるよ、映画も面白かったし、ダメはないだろ、いまさらしょうがないだろ、とわたし。エルビスで喧嘩すんなよ、と息子が笑う。(高野耕一)
■ペットボトルペット ■2006年1月10日 火曜日 15時11分3秒
あけましておめでとうございます。正月休みはゆっくりできましたか。私は愛犬とグダグダと過ごしていました。恒例の茨城県土浦のかみさんの実家にも行きませんでした。休みのグダグダ、これもいいですね。なにやら人生はグダグダがいいのかな、なんて正月早々思ってしまいました。朝起きて、軽くビールを飲み、愛犬に世の中のあれやこれやを話す。フィギアスケートの美姫ちゃんのデキがイマイチなんだよな、から始まって小泉総理は頭がいいんだろうが独りよがりがいけないな、
に至るまで話してみる。チュウ(愛犬の名)は、なるほどねえ、という顔で私を見、まあ犬も大変だけど人間も大変ですなあ、などと同情の眼差しでこちらを見る。今年は雪がひどいねえ、と私。夏が暑いと冬が厳しいとは昔からいわれてますねえ、とチュウ。昔からっておまえまだ1歳じゃないか、と私。いえいえ経験は浅いけど勉強はしてますから、とチュウ。トイプードルって頭がいいっていうからなあ。頭がいいですよ、好奇心も強い。ほう、自分でいうか。トイプードルに限らず
犬は頭がいいんだ。人間がうまくつきあってくれたらまあ最高のパートナーになるね。でもおまえ、小便決まったところでしないじゃないか。え、そうきたか。でもね、それは躾が悪いからだ。なに、おまえ、自分の罪を他人の責任にするのか。それが正しい犬のあり方か。人間じゃあるまいし、他人のせいにするのは人間だけでいい。空行く雲も、公園のイチョウの木も、台所のゴキブリも、他人のせいには決してしないだろ。わかってます。あたし、そこまで落ちません。正しい犬のあり方で生きていきます。えらい、それでこそ犬だ。犬は犬らしく、人間は人間らしく、これだよ。なんでも自由というと、犬らしい人間とか、人間らしい犬とか、わけのわからんことになる。この「らしさ」は重要だ。いいこといいますねえ。賛成です。私、犬らしく生きます。とまあ、こんな会話でビールをもう1本飲みグダグダ過ごしました。そんなチュウとのつき合いで改めて発見したのですが、こいつ実にペットボトルが好きなのです。もともと飲み終えたペットボトルに異常な興味を示し、がちがちに締め付けたキャップを手と口で開けるのが得意です。何時間かかろうとキャップが開くまで絶対に諦めません。親の仇を討つ勢いです。ペットボトルを渡すともうこっちを見向きもしません。で、どんなにきつく締めたキャップでも、必ず開けてしまいます。感動します。犬によるキャップ開き世界大会でもあればきっと上位入賞です。キャップを開くとそのキャップを放り投げて遊びます。夢中になるとガオガオ唸りながらすべての作業をやってのけるのです。そしてこの正月休みに気がついたことは、どうやらペットボトルに好き嫌いがあるのではないか、ということです。サントリーの「伊右衛門」と伊藤園の「おーいお茶」を比べると、なぜか「おーいお茶」のほうが好きのようです。夢中になります。それよりも「一」ですね。いま、一番のお気に入りは。ウーロン茶よりも日本茶です。でも、午後の紅茶は好きです。あるときふざけて飲み終えたコーヒー缶を渡したら凄い勢いで怒られました。なにすんだ、このやろう。そう吠えられました。今年は犬年、犬に教わることも多いのかな、と考えさせられた正月でした。(高野耕一)
■土曜の宵酔い(上) ■2005年12月20日 火曜日 6時21分45秒
土曜日、宵の口、世田谷は大蔵ランドにほど近い「船千」にいる。仄かに灯る提灯が冬の冷たい風にゆらゆら揺れている。この提灯が赤でないところがいい。池波正太郎の鬼平犯科帳に出てくるようなローソクの灯を想わせる暖かい色の提灯だ。凝り性の店主が提灯にもこだわったのかと思うのだが、確かめたことがないから実際のところはわからない。釣り好きの店主が自分の舌にかなううまい魚しか出さないという店で、刺身の醤油の小皿ほどの小さな店だ。そんな小さな店だから店主の目も心も行き届くというものだろう。年の瀬も押し詰まった日、テニス仲間7人で暖簾をくぐる。店の奥の調理場に面した小さなカウンターには5人分のイスが並んで置かれ、入り口に近いスペースには4人掛けのテーブルが3脚置かれている。4人掛けのテーブルの壁側がベンチシートになっているので、並んだ2脚を寄せ合って座る。その日は7人である。タナベさんご夫妻、イサカさん、クシビキさん、フジイさん、ホウシヤマさん、わたしである。まずは恒例の乾杯。「きょうはいいマグロが入ってるよ」。カウンターの奥で店主がいい「マグロか、いいねえ」とイサカさんがいう。おでんの前にマグロを頼む。大トロである。ほんのりとピンクのしましまがあり、たっぷりと脂が乗っている。だが、口に入れると少しも脂を感じさせず柔らかな風味がゆっくりと広がる。滑らかで逆らうところがこれっぽっちもない。味に深みがある。うむと唸る。「なかなかのマグロです」魚の専門家であるタナベさんの言葉に店主は満足げだ。
(つづく)
■土曜の宵酔い(下) ■2005年12月20日 火曜日 6時21分6秒
マグロの次はおでんである。「こんな日はおでんだねえ」フジイさんがいい「ほら、よそうわよ。好きなものをいって」とタナベさんの奥さんのフミちゃんがいう。「いやあ、アフリカが変わりますねえ」フジイさんがいい「どう変わるの?」と熱燗を飲みながらわたしが尋ねる。熱燗はわたしとイサカさんが飲んでいる。「この前ね、ダイヤの仕事でね、アフリカに行ったのよ。ダイヤの視点から見ると、アフリカは変わるねえ」「資源力に自分たちが気がついたってこと?それで変わるの?」わたしが聞き「そうかもしれませんが、アフリカはそう簡単には変わらんでしょう」タナベさんが答える。タナベさんは昔アフリカで暮らしていた。アフリカ沖で漁をする船団を管理していた。「何年いたんでしたっけ?」「7年くらいです」タナベさんはマダガスカルにいた。「ほら、割り勘負けしないようにたくさん食べて」酒はつきあい程度のクシビキさんにフミちゃんがいう。「もうじき旦那がくるのよ」クシビキさんがおでんの小鉢をフミちゃんに渡しながらいう。「旦那だって飲まないからねえ」イサカさんが徳利を持ち上げわたしに手で進めながらいう。「タナベさんも熱燗いきますか?すみません、熱燗もう一本」わたしはカウンターの奥に声をかける。今日はホウシヤマさんがおとなしい。喋りだしたら壊れたラジオのように言葉が止まらない彼をクシビキさんがコントロールしているようだ。表をヒュウと風が走り、提灯が揺れた。まもなく、今年が去年になり、来年が今年になる。わたしたちは相変わらず飲んでいる。「相変わらず」に感謝して今宵も飲んでいる。(高野耕一)fujita@adventures.co.jp
■寝相の研究?(上) ■2005年12月9日 金曜日 11時58分34秒
寝相によって体力回復が図れ、寝相によって幸運さえも掴むことができる、といううまい話がないものかと思い、寝相の研究を始める。文献を漁っているが、これがなかなか見つからない。近くの世田谷区立桜ヶ丘図書館は蔵書も多く大変便利で、テーマがあるといち早くそこに探しにいくのだが、どうも寝相だけはいい文献が見つからない。そこで、自分で「寝相道」を創作することをごろ寝しながら思い立った。なにはともあれまず、権威付けをしておこうと思う。こういういかがわしいものは権威が大事である。「寝相道」の発祥時期を推古天皇の御代と仮にする。あくまでも仮の話だ。中国は北方の眠民族により伝えられたとこれも仮にしておこう。平安時代に貴族の間で流行し、鎌倉、室町と隆盛を極めたがその後一時中断し、江戸時代になってから復活されたとしよう。流派を「寝相道鼾寝陰流」と名付ける。断っておくが眠狂四郎の円月殺法とはまったく関係がない。そう、だからわたし、寝相道鼾寝陰流50代宗家である。カミさんにいうと「ばか!」と目でいい、ごろ寝する私をまたいでどこかに消えてしまった。さて、わが流派には寝相の基本型が4パターンある。まず最もオーソドックスなところからいくと1つ目が仰向きである。「自然体寝の型」と呼ぶ基本中の基本の型である。2つ目が体の右側を下にする「右半身寝の型」である。3つ目が左側を下にする「左半身寝の型」。そして4つ目が俯せに寝る「逆寝の型」あるいは「顔無しの型」と呼ぶ型である。(つづく)fujita@adventures.co.jp

■寝相の研究?(下) ■2005年12月9日 金曜日 11時57分51秒
自然体寝の型は真上ないし少し斜め下を仰ぎ見て天井の節目やシミを数えながら寝る極めて正統な型だが、これにもいくつものアレンジ型がある。体だけを天井に向け顔を微妙に右に向けると「右自然体寝の型」となり、左に向けると「左自然体寝の型」となるのだ。くだらない。なに、くだらなくてもそう決まっているのだから仕方がない。自然体寝の型においても手の位置により3つの構えがある。両手を胸に置いて寝る型を「自然体寝の型・胸構え」といい、両手を尻に置くと「自然体寝の型・尻構え」となるのである。両手を自由に置きたいところに置くのを「自然体寝の型・勝手構え」という。胸構えは昔から「悪い夢を見る」といわれ嫌われるが、それは単に息苦しく感じるからであると思われる。そこで実際に調査をした結果、かなり高い確立で悪い夢を見たという報告を受けてびっくりした。尻構えは逆に「いい夢を見る」といわれている。もちろんこれも調査したがいい夢を見たという報告はなく、なんかやたらと寝にくいと聞いている。調査といっても相手はカミさんだけだから、信憑性には欠ける。右自然体寝の型にも左自然体寝の型にも、それぞれ「胸構え」「尻構え」「勝手構え」がある。「右自然体寝の型・胸構え」とか「左自然体寝の型・尻構え」と呼んでいる。年も押し迫ってバカなことを、とお思いでしょうが、この話はしばらく続くことを覚悟してください。次は各型の効用である。fujita@adventures.co.jp(高野耕一)
■プランどすえ。(上) ■2005年11月19日 土曜日 8時17分24秒
プラン(PLAN=計画)ドゥ(DO=行動)スィー(SEE=検査・チェック)を舞子風にいってみた。懐かしい言葉だ。塩ジイこと塩川正十郎さんの本を読み改めて話題にしたくなった。塩ジイのいうには、このプラン・ドゥ・スィーの一連の流れが日本とアメリカでは大違いだという。ほほう、である。で、なぜ日本とアメリカとを比較するかというと、どちらも自由主義・民主主義国家だから「プランどすえ」がいかに機能するかは極めて重要な問題だからだ。日本はアメリカに比べスィー(検査・チェック)の機能が極めて弱い。ちなみにチェック機関である公正取引委員会略して公取の人数だけを比べてみても、700人しかいない日本に比べアメリカは10倍の7000人の職員がいるという。単純比較して日本のチェック力はアメリカの10分の1に過ぎない。アメリカは日本の10倍のチェック力なのである。このチェックの厳しさは社会にどういう影響を与えるか。それが大問題だ。チェックの厳しいアメリカは、プランとドゥには極めて自由だ。個人の責任や能力に応じて自由にプランでき、自由に行動できる。だが、後のチェックは厳しい。大学にしても入学するのはラクだが、卒業するのが大変という具合だ。日本はというと、チェック機関が弱いからプランやドゥを自由にさせると後のチェックができない。あるいはチェックが甘くなる。好き勝手な国となる。じゃあ、どうするか。プランとドゥを先に押さえてしまえときた。先手先手と規制をかけてしまえ。プランやドゥをする前に規制してしまえばチェックはラクだ。(つづく)
■プランどすえ。(下) ■2005年11月19日 土曜日 8時16分34秒
なるほど、日本の大学は入学するのが大変だが入ってしまえば遊べ遊べである。アメリカではとんでもない天才が現れたりするが、日本はとんでもない才能はただとんでもないだけとばかりに開花する前に削られ消滅してしまう。子どもに絵を描かせると、小学校低学年くらいまで豊かな才能を発揮するがその後みんな普通の子になってしまう、と絵画の先生は嘆く。知り合いの大学病院の医師も研究を続けるためにアメリカに渡った。子どもたちは自由にプランする力を失う。自分の人生のプランさえ規制され、親や先生のプランに従うしかない。親や先生も都合が悪くなると「自分の人生だから自分でプランしなさい」と平気でいう。「やりたいことはないのか」とくる。あれはダメこれはダメの挙げ句に、はい自由にといわれてもねえ。子どもはどうすればいいの。なにかする前に、危ないからダメの一言。小学校の運動会でも、並んで手を繋いでゴールインさせる学校があると聞く。松井やイチローは、そんな国にいたくはないとさっさとアメリカに行った。高邁で愚かな教育論をぶつ前に、子どもの才能を大空に放ち、もっと自由に飛翔させてはどうだろう。子どもの純粋な夢を大海に放ち、もっと自由に泳がせてはどうだろう。子どもの未来の夢のプランを先回りして潰してしまう国に未来はあるのだろうか、と首をかしげてしまう。プラン・ドゥ・スィー。自由か不自由かニッポン。(高野耕一)fujita@adventures.co.jp
■鯉は深みへ(上) ■2005年11月8日 火曜日 15時20分55秒
何度も雨が降り、秋はその度に深まった。そして、われらの大物たちは流れの中央の深みへと潜り込んだ。大物たち、70センチを越える巨鯉たちにとって春のノッコミといわれる産卵期のみ岸辺に近づくが、本来流れの中央の最深部こそ彼らの棲み慣れた深みである。猛暑の夏の炎天から逃れる場所であり、厳寒の冬を越すにもまた格好の場所であるのだ。その頃のわれらは、東京都と神奈川県の県境に横たわる第一級河川である多摩川にいくつもの釣り場をもっていた。その釣り場については目に見えない川底の地形までもがありありと想像でき、鯉の回遊するコースまでもが読みとれた。どの辺りにどんな形の深みがあるのかとか、深さはどれくらいかとか、その深みの周辺には根がかりする朽ちて横倒しになった大木があるとか、石やコンクリートの邪魔物があるとか、あそこの駆け上がりは急傾斜であるとか、それらを想像し語り合うことはむしろ楽しくもあった。鯉の気持ちになり、川底に自分を置き、その位置から流れの状況、川底のあれこれを見、探ることも釣り人として愉悦の瞬間であった。われらとは、息子とわたしと妻である。息子はわたしより想像力を働かせ、いつも狙いを定めて餌を打ち込むのだった。われらの釣り場を川の上流から思い起こし並べてみると、是政、京王多摩川、調布の堰上、和泉多摩川の小田急線陸橋の上流側と下流側で、下流側は堰上の大きな溜まり、東名高速下、第三京浜下が容易に浮かんできて、いずれも川の流れと釣り場の環境を思い描くことができる。(つづく)
■鯉は深みへ(下) ■2005年11月8日 火曜日 15時20分12秒
だが、ある時期、川砂利の採集により川の様相は激変した。第三京浜下の流れの変化は致命的でさえあった。川岸はずたずたに傷つけられ、巨鯉が居着く川底は大きくえぐられた。流れそのものも歪められ、見る影もないのである。ヘミングウェイによると、彼が「青い河」と呼び愛したメキシコ湾に流れる海流は、人類が登場する以前から青く流れ、やがて人類が消滅しても変わらず流れているのだろう、という。そこに大自然に対する畏敬の念があり、同時に人間の不遜を感じさせるのだが、われらの「青い河ならぬ茶色の河」は、人間のなんらかの意志により大きく歪められた。息子と釣りに行く機会はいまはなく、妻は寂しがるが、われらの家族も愛する多摩川のように変化しているのだ。社会という流れは、砂利採集業者のごとくわれらの家族の流れを変えて行くのである。あの大物たちはどこに行ったのだろう。鯉は抵抗することもなく、新しい深みを求めて去ったのだろうか。秋も深まった。鯉たちはどこの深みにいるのだろう。さて、わたしはというと妻同様、家族の流れを変えられることには実は反対なのだ。ましてや他の力により歪められることは許せないのである。風の流れにしたがい自然のままに変化することはいい。鯉にもわが家にも居心地のいい深みが必要なのだ。少なくとも心の中に不変の「青い河」が必要なのだ。(おわり・高野耕一)fujita@adventures.co.jp
■いままでにない宮本武藏。(上) ■2005年10月14日 金曜日 12時29分5秒
宮本武藏の「五輪書」の現代意訳版を10月に出版させていただいた。自分で誉めるが、実に読みやすい本ができた。きれいですね。皆さん、まず写真を誉めてくださる。これはうれしい。高校の同級の藤森武くんに撮ってもらった写真だが、彼は土門拳氏の弟子でいまや仏像を撮らせたら日本一という写真家だ。ぱらぱらと本を開いてまず写真に目がいくのも当然の話だ。また、武藏の生まれ故郷を訪ね、京都、熊本まで足をのばして撮った写真が実にいい。一枚一枚の写真に武藏の息づかいが感じられる。美しい風景写真のように爽やかに撮りながら、武藏の執念のような内面までも写し取って、数々の戦闘を彷彿させるところがいい。ふと時間の流れが写真の中に見え、それがまたいい。うん、まず、写真を誉めたな。と大きく頷き、さあくるぞ、私の書いた文章を誉めるぞ、とばかりに全身を耳にして相手の言葉を待つ。このサイズがなんともユニークでいいですね。あれ、本を誉めるのにサイズでくるか。うん、まあ、これも福士くんと諸隈くんという編集者のセンスで、私も気に入っている。なんでも誉められるのは私は好きだ。だから、サイズを誉められてもうれしい。次だ。次に必ず文章にくる。構えて待つ。相手の顔と本を交互に見ながら待つ。(つづく)(高野耕一)
■いままでにない宮本武藏。(下) ■2005年10月14日 金曜日 12時28分26秒
出版社はどこ?相手はゆっくりと奥付なんか見始める。待て、待ってくれ。本を誉めるのに出版社の名前が必要か?講談社なら誉めて、集英社なら誉めないとでもいうのか?幻冬社なら許せて、青春出版なら許せないとでもいうのか?ピエブックスだこのやろう。このやろうとはいわない。ははあ。ははあってなんだ、ははあって?ピエブックスじゃ悪いか。もういいから好きにしてくれ。でも、本当に読みやすいですね。なに?きたか。ホントにきたか。もうこっちはかなり疑心暗鬼になっている。もはや卑屈でさえあるから、そっぽを向きたい。でも、誉められたい。ああ、誉められる。うん、どう答えようか。結構苦労したのよ。いやいやたいしたことはないが、まあまあね。答えはこれかなあ。本当に字が大きいところが読みやすくてがいいですね。殴る。いや、殴らない。顔が引きつる。言葉が出ない。あのねえ、字の大きさを誉められたってうれしくないでしょ。いや、うれしい。もうなんでもいい。誉められるんなら、なんでもこい。この次呂久英樹ってどんな人?なんでもどうぞ。五輪書を共著してくださった次呂久先輩は、國學院大学の空手部時代の監督であり尊敬する武道家である。この文章も読みやすいですね。え、突然きたの?ううん、もう突然でも突撃でもいい。きてくれればいい。文章を誉めてちょうだい。私、もう涙ぐんでます。よろしければ全国の書店で買ってください。よろしければ文章も読んでください。(高野耕一)

■二人の天才。 ■2005年10月13日 木曜日 12時28分12秒
かれこれ20年くらい前の話だ。青木雨彦さんの本に長嶋と王の話が載っていて、これが記憶の隅にいつもひっかかっている。こうして書いてしまえば、このひっかかりももっと心地よいものになると思うのでここに書かせてもらう。長嶋とは巨人の長嶋茂雄さんのことであり、王とは同じく王貞治さんのことだ。当時の巨人の監督である川上哲治さんが、二人の天才のあり方を実にうまく比較表現されている。例えば、ハシゴをかけたとする。その上り方を比較しているのだが、王さんはハシゴを一段一段しっかり確認しながら上る。それに対して長嶋さんはというと、上れという前にもう上にいる。このようなことだったと記憶している。私たち長嶋と王が活躍したON時代のジャイアンツファンなら、なるほどねえと頷かされる話である。もちろん、どっちがどっちという話ではない。二人とも天才であるのだから。これは、どっちが好きかという話であり、天才にもいろいろあるなあと感心する話なのだ。王さんは、荒川さんという師匠について昼夜を問わずバットを振り、フラミンゴ打法という一本足打法を完成させ、世界の王となった。凄まじい努力が見える。努力に勝る天才なし、である。そういうと長嶋さんが努力していないように聞こえるが、なに、長嶋さんだってキャンプ中、真夜中に突然起きあがってパンツ一枚でバットをブンブン振り、寝ている同室の選手の頭を叩き割りそうになったという努力ぶり。だが、長嶋さんの天才たる所以は、まるで努力なんかしてないもん、と見えるところにある。天才に勝る努力なし、とは演出家・つかこうへいさんの言葉だが、まさしく長嶋さんはそう見える。天賦の才。生まれついての天才に思える。ビューンときた玉をね、こうバーンと打ち返す。これね、これがいわゆるバッティングの極意ね。長嶋さんはこう教える。こんな話も聞いた。元阪神の4番バッター掛布さんが、現役時代に電話で長嶋さんにバッティングについて尋ねた。よし、掛布ちゃん、ちょっとバット振ってみて。うんうん、いいねえ、その振りよ、それよ。そう答えた。もう一度念のためにいいます。電話です。テレビ電話じゃない。ね、天才でしょう。この長嶋さんと王さんの比較が川上監督のハシゴ上りの話だ。当時の名解説者小西得郎さんが、ハシゴなんかなくたって長嶋なら上っちゃうでしょう、といったとも書いてあったと思うが、これも長嶋さんを実にうまく言い当てていると感心させられる。その二人の天才が切実に懐かしく思える今年のジャイアンツの成績である。頼むぞ、原監督。(高野耕一)fujita@adventures.co.jp
 
■ダイヤモンドのような日々 ■2005年10月7日 金曜日 14時43分11秒
最近、昭和の本が数多く出版され、いずれも好評なのだそうです。時代が平成に変わって17年が過ぎ、過ぎ去った日々を懐かしむこともありますが、昭和という時代の中でキラキラと輝いていた何かを見出そうという気持ちも強くみんなの中にあるようです。例えば食にしても、昭和30年代の日本の食はアメリカをして栄養バランスが理想的であるといわしめました。例えば教育にしても、先生や親を敬うという原始的かつ実にシンプルな価値が礎としてありました。ともに暮らす町の人たちはみな家族のように助けあっていました。貧しくても夢や希望が光を放っていました。自然も豊かで、子どもたちも元気でした。振り返ってみると、それは宝石のような日々です。ダイヤモンドのように輝く日々のようにも思えてなりません。しかし、ただ懐かしがっていたのでは絵に描いたダイヤモンドです。活力があり、だれもが右手に夢を、左手に希望を握って暮らせる日本にするために、昭和のキラキラをなんとかして活かしたい。それは、私たちおとなの義務ではないかと思うのです。007の映画のタイトルではありませんが「ダイヤモンドよ、永遠に」であります。(高野耕一)
■キラキラと輝いたダイヤモンドの時代。@(高野耕一) ■2005年10月7日 金曜日 14時41分10秒
私を磨いてくれたのは東京・新宿区の下落合という町でした。

《*べーごま》
べーごまは、学校で禁止されていた。勝ったら取り、負けたら取られるのが 子どもにはよくないという理由だ。だから、べーごまは路地裏遊びになった。ホンキとウソンキの取り決めもあった。子どもにもウソンキは人気がなかった。勝つと半ズボンのポケットがべーごまで重くなるからそれがほこらしくうれしいのだった。
■キラキラと輝いたダイヤモンドの時代。A(高野耕一) ■2005年10月7日 金曜日 14時36分40秒
《*エビガニ釣り》
エビガニは池や貯まり水や小川にいる。どこにでもいる。スルメを糸でしばって釣る。エビガニのいそうな穴の前にスルメをたらす。そっと赤いハサミが穴から差し出され、スルメをつかむ。ゆっくりじっくり、スルメを引っ張る。エビガニが穴からじわじわ出てくる。あわてるとエビガニはスルメを離して穴に逃げる。エビガニの大きく赤いのをみんなは真っ赤チンと呼んだ。
《*ローラースケート》
ローラースケートは長ぐつの上から履く。そのまますっぽり脱いだり履いたりできるからだ。ただ滑るだけに飽きるとローラースケート缶蹴りやローラースケート鬼ごっこをする。みんなヘルメットや膝あてなんかしていない。だからいつもだれかが膝小僧に赤チンを塗っていた。
■キラキラと輝いたダイヤモンドの時代。B(高野耕一) ■2005年10月7日 金曜日 14時34分54秒
《*絵日記》
夏休みは絵日記を描く。毎日描かなければいけないのにうんと早く描くか、夏休みが終わりそうになってあわてて描くかどっちかだった。8月の適当な日に家族で海に行ったと7月に描いておく。弟が病気になって結局行かなかったけれど、そのまま提出する。絵日記には小さな夢が描かれることがある。
《*鉄棒》
逆上がりができない子が、クラスには必ずいる。みんなが笑う。その子は体育が嫌いになる。放課後、お母さんが教えている。校庭には暑い日差しが照りつけている。お母さんはいつまでも教えている。
■キラキラと輝いたダイヤモンドの時代。C(高野耕一) ■2005年10月7日 金曜日 14時33分39秒
《*ガム》
麦畑の麦の穂を引き抜いて麦の実を取りだして噛む。いくつもいくつも口に入れて噛む。麦の実はやがてガムになった。学校の行き帰りにはいつも口の中でガムを作った。
《*井戸》
町のあっちこっちに井戸があった。大通りではなく路地裏とか裏庭にあった。だれが使ってもよかった。子どもたちがかってに使った。夏には井戸の中にスイカが冷やしてあった。
暑い日に井戸を見つけるとうれしかった。鉄製の短い筒と取手がたのもしかった。
■キラキラと輝いたダイヤモンドの時代。D(高野耕一) ■2005年10月7日 金曜日 14時32分24秒
《*夕涼み》
夕方になると父さんが表に水を撒く。縁台に座って団扇でぱたぱたとあおぐ。首に手ぬぐいをかけている。家の中は暑い上に狭かった。銭湯帰りの同級生が通る。浴衣を着た同級生の女の子が眩しかった。スイカが出るとみんな集まった。
《*クワガタ》
お寺の境内の森に一本の木があって、それはみんなには秘密の木だった。クワガタが採れる木だからだ。採れるのは雌のクワガタが多かった。カナブンも多かった。ときどきは雄のクワガタも採れた。雄のくわがたをサイカチと呼んでいた。夜中に砂糖水を木にぬっておいて朝早く採りにいった。なぜか秘密の木はすぐみんなにバレた。
■ウサギという名のカメ。(上) ■2005年10月7日 金曜日 13時45分54秒
東急世田谷線若林駅近くのペットショップでカメを買った。夏が腕まくりをする季節で、見上げる空には積乱雲が立ち上がっていた。なぜカメを買おうと思ったのだろう。その辺りがとんと思い出せない。一緒に金魚とメダカを買ったのをみると、無性に生命が愛おしく思えたのかもしれない。そんなことが度々ある。買い物の途中、大きな木に出会うと立ち止まってじっと見上げ、一本一本の枝の流れを目で追うこともある。散歩の途中、しゃがみ込んで道ばたの草花の風に揺れる姿を見つめることもある。気がつくと話しかけていたりするから、そんな時は自分で気味悪くなったりする。きっと疲れているのだ。疲れた心が純な生命にふと寄り添うのではないか、と思う。カメはわが家の3階のベランダにいる。ベランダじゃないでしょ、テラスといいなさいテラスと、と妻に叱られるがどうもわたしの年齢になるとベランダとテラスの明快な区別がつかない。屋根がなくて板敷きならもうベランダである。あんたがベランダなんていうから、わたしは洗濯物を干しちゃうのよ。妻は彼女なりの理屈でこちらを攻めるが、どうも話のつじつまがあっていないような気がする。(高野耕一)
■ウサギという名のカメ。(下) ■2005年10月7日 金曜日 13時45分13秒
カメをピンクのプラスチックの洗面器に入れ、ベランダに置いた。洗面器の中央に半分に欠けた植木鉢を逆さに置いて、カメの部屋を作った。暑い夏の日射しから身を守るために、カメは喜んで部屋を活用した。そのうちカメは逃亡する快感を覚えた。気がつくと洗面器にいない。部屋をめくってもいない。ある日、ベランダの観葉植物の陰でのんびりくつろいでいるカメを見つけた。手足と首をだらしなく伸ばしているので死んでいるのかと思ったが、指でつつくと、こりゃとんでもないあられもない姿をお見せして、とばかりに照れくさそうに首を引っ込めた。部屋に戻してもすぐ逃げる。観葉植物の鉢がいくつも並んでいるのに、いつも同じ鉢の陰にいる。カメにも花の好き嫌いがあることをわたしは知った。あまり逃げるので、カメに名前をつけることにした。ハリソンがいい、と妻がいう。なんだそりゃ。わたしが聞く。ハリソン・フォードじゃないの、バカねえ。バカはどっちだ。リチャードはどう?リチャード・ギアか。懲りない女だ。太郎はどう、浦島太郎。息子がいう。それなら許せる。ああでもないこうでもないと、家族会議は大騒ぎのていだ。こうしよう。わたしが結論を出す。ウサギという名前にしよう。わかりやすいしな。妻と息子がそっぽを向いて部屋から出て行った。わたしは今日も逃亡したカメを「おーい、ウサギよう」と追いかけている。最近は、カメが逃げると愛犬チュウが吠えて教えてくれる。(高野耕一)
■アゲ言葉、サゲ言葉(上) ■2005年9月17日 土曜日 8時31分54秒
最近、言葉を職業に選んだことを悔いる瞬間がある。職業病である。言葉に内包される悲喜こもごもが妙に気になるのだ。突然横っ面を張られたような暴力的な言葉を使う人の顔を、はっと見直しても、あれ、どうかしたの、と怪訝な顔をしている。悪気はないのだ。悪いことを言った意識などまるでなく、平気でへらへら笑っている。悪気がないからいいというものではないし、意識をしなかったからいいというものでは絶対にない。例えば、会社の上司のものの言い方。これは実はむずかしい。部下のやる気を平気でぶち壊す言葉を使っている上司がいる。ある部下が意気揚々と帰社して部長に報告する。仕事が思いの外うまく片づいて早く帰ることができました。そういうと、おい、手を抜いたんじゃないだろうな、と部長の返事。アホでしょ。バカでしょ。誉めてもらおうと期待していた部下は、もうカチンときた。この次は映画でも観て時間を潰してから帰ろ。こうなる。で、いい上司となると、そうか、こんなに早く仕上げたか、きみも仕事ができるようになったな。部下は気分がいい。よし、この次もがんばるぞ。映画なんか行かないぞ。おわかりですね、この違い。前者はお先真っ暗の会社。社員は違う会社に鞍替えしたほうがいい。後者は可能性がいっぱいの会社。どんどん働いてえらくなりなさい。さあ、回りをよく見てください。普段の言葉ひとつで部下のやる気や才能を片っ端から潰している上司がいるでしょ。
(高野耕一)fujita@adventures.co.jp
■アゲ言葉、サゲ言葉(下) ■2005年9月17日 土曜日 8時31分13秒
さらに、話の論点をすり替えてもカエルの面になんとやらで、まるでへっちゃらな上司がいる。頭のいい部下は、論点のすり替えなどすぐ見抜き、この部長アホじゃないか、逃げていやがる、と見透かされてもとんと気がつかない。いや気がついていてもわざと論点をすり替えて、自分の都合のいいことだけを喋る上司がいる。これはもう手に負えない。やがて、部下も回りの人間も真剣に聞く耳を持たなくなる。会議でも、その意見はなんのために、どの方向に向いた意見かがまるでわからないとんちんかんをいう上司がいる。意見が目標に向かっていない。自分で目標を失っている。そんな上司ほど、失敗すると部下の責任にする。困ったものだ。家庭でもよくある話だ。子どもが朝起きてお母さんにいう。明るくいう。おはよう。礼儀正しいいい子である。いい子だ。早くないわよ、もうお昼でしょ。答える母。いやな母だ。お母さん、ほら、100点取ったよ。そう、この次はどうかしら。いやな母だ。お母さん、今日はいい天気だね。暑すぎるわよ。この母で子どもが不良にならなかったら奇跡である。なんでも反対する。悪い所を探す。そんな家庭でいい子が育つわけがない。旦那だって絶対に出世はしない。旦那だって、ぐれてやる、とばかりに盛り場をふらふら歩くのがオチである。伊丹監督がその昔アゲマンを登場させて映画を作った。言葉にもアゲマンがあればサゲマンもある。アゲマンつまり「アゲ言葉」は人を幸せにするし、成功に導く。だが、サゲマンつまり「サゲ言葉」は人を不幸にし、ダメにする。いつかこの「アゲ言葉、サゲ言葉」を整理して本にしてみたいとも思う。少しは日本も気分のいい国になるだろう。(高野耕一)fujita@adventures.co.jp
 
■軽井沢物語(2)上 ■2005年9月6日 火曜日 15時40分26秒
西垣さんのテニスコートは、フジイ邸から林道を歩いて5分ほどの所にある。雑木林と果樹園に囲まれたテニスコートは5面あって、通り沿いの3面はオーナーの西垣さんの丹念な手入れのためにコンディションはいつも上々だ。奥の畑から隔離された2面は、体育会のバリバリのテニス部の連中がハードな練習をするのにもってこいだし、都会からはるばるやってきたカップルが人目を忍んで打ち合うにもいい。女の子の光る汗を男の子が拭いてやっても誰も文句はいわない。青く霞む遠い浅間の嶺を望みながらそんな光景に出会うと、おじさんたちは嫉妬心も忘れ、吉永小百合と浜田光男主演の日活の青春映画を思い出すのだ。吉永小百合はいい家のお嬢さんで、浜田光男は学生服の似合う貧しい苦学生だ。身分が違うからと親に交際を反対された二人が束の間の小旅行を楽しんでいるという設定だ。その想い出のシーンの中のラケットはウッドのフレームだ。奥の5番コートの先の野菜畑の中にロッジ風の犬小屋がある。5番コートからかなり離れている。いつかフジイ家のマヤ嬢がその犬小屋にボールをボカボカぶつけた。よくまあそこまで飛ばせたなあと思う距離だが、それ以来西垣さんの愛犬のレドリバーは恐怖のあまりテニスコートから姿を消した。お菓子の家のようなかわいいクラブハウスは通り沿いにあって、クラブハウスと通りの間に赤と青のパラソルで陽光から守られたガーデンチェアが置いてある。クラブハウスからコートは1番2番3番と並んでいる。われらは雑木林の隣りの3番コートでゲームを楽しんでいる。(高野耕一)
■軽井沢物語(2)下 ■2005年9月6日 火曜日 15時39分42秒
タナベさんとホリちゃんが組み、ミヤモリくんとわたしがペアである。ホリちゃんは、軽井沢で2年連続でスズメバチに襲われている。3年連続で刺されたら確実に死ぬと奥さんのマコちゃんにいわれ、今年は命がけで軽井沢にきている。ホリちゃんの打ったボールが大きくアウトする。気圧が低いからボールが飛びすぎるんだ。ホリちゃんがいう。東京なら確実に入ってるもんなあ。わたしがいう。ということは、今のは「軽井沢ボール」ですな。ミヤモリくんがいう。なるほど「軽井沢ボール」か。タナベさんが青空を吸い込むように笑う。ホリちゃんが打つ。また「軽井沢ボール」だ。打つ。またまたアウトする。これは「軽井沢ボール」ではなくて、ただのアウトじゃないか。ミヤモリくんが途方に暮れた顔でわたしを見ていい、東京でも思いっきりアウトだな、とわたしが答える。ボール1個2個のアウトならまだしも、3メートルも5メートルもアウトして、それって気圧が低いからよ、軽井沢ボールよ、と清々しくいうホリちゃんにわれらは口をあんぐり開ける。そのうちホリちゃんはフェンスを越して小川を越えて雑木林にボールを打ち込んだ。雑木林で微睡んでいた番の鳥がぱっと飛び立った。ホリちゃん、さすがに今度は低気圧のせいにはできなかった。でも、ホリさん、ハチに刺されなくてよかったですねえ。フジイ邸への帰り道、タナベさんがぽそりといった。まだわかりません。わたしは答えた。9月現在、ホリちゃんは元気だ。(ちなみにテニスコート西垣は、0267−42−7963です。気分のいいオーナーの西垣さんが電話に出ます)(高野耕一)
■軽井沢物語(1) ■2005年8月17日 水曜日 13時21分5秒
日射しは強いが、木陰に入ると風が冷たく心地よかった。青空を目指して気持ちよく伸びる杉木立が、鬱蒼とした木陰を作っている。杉の木の足元には緑色の生き生きとした苔の絨毯が敷かれている。風が動くたびに木漏れ日が揺れ、苔の絨毯の上にのたうつ蛇のような縞模様を作っている。国道18号線とプリンス通りの交差点近く、成沢の杉林の中にフジイ邸はある。昨年まであった成沢の交差点脇の軽井沢乗馬倶楽部が今年はなくなり、空き地になっている。この辺りの住所を南平台と名付けたのはフジイ氏の父だと聞いた。当時、三木総理と親交があっての命名だという。東京より蝉の声が少ないのは標高が高いためだろう。杉林の所々にブナやナラの雑木の集団があり、辺りにはまだ空き地が多く残っている。空き地には石垣が組まれている。どの石垣も苔むしていて、組まれた石と石の間からシダ科の雑草たちがうつむきながら顔をのぞかせている。空き地は、緑の芝生が敷き詰められているものがあれば、自然のままに放置されたものもある。いずれも別荘予定地だった。だが、そこに建物が建てられる気配はなく、黄色や淡いピンク色の小さな花が涼風に揺れているだけだ。芝生は陽光を浴びてきらきらと輝いている。細い小川にせり出す堤の雑木にからみついた赤いカラスウリの実を鳥がつついている。さほど広くない林道が邸の前を走っていて、夕立の後には所々に水たまりができた。昼間でも仄暗い林道は、人も車もほとんど通ることがなかった。ときどき地元の燃料屋の軽四輪が上下に揺れながら走るのを見るくらいだった。近所の別荘に出入りする車や人と出会うこともなかった。林道の入り口には手打ち蕎麦の店があった。杉木立をすかして目を凝らすと遠くに里山を従えた浅間山が、威風堂々と構えている。その毅然とした姿に、都会の手垢で汚れた心が洗われ思いだった。軽井沢の駅からフジイ邸までは歩いて30分くらいだろうか。その間にはプリンスホテルがあり、プリンスホテルのゴルフ場があった。駅とプリンスホテルの間に広大なショッピングモールがあって、週末には渋谷の駅前のように客でごった返した。カミさんと風の吹くままにプリンス通りを駅に向かってぷらぷら歩くと、雑木林の切れ目切れ目に童話に出てくるようなかわいいペンションがあり、立派な門構えの農家が目に映った。田舎風の蕎麦屋があった。蕎麦屋の前にはのぼりが立てられていた。のぼりが風に揺れていた。陽を浴びるパターゴルフ場には、老夫婦の姿があった。ログハウスの別荘販売の不動産屋があり、緑に囲まれたカフェテラスがあった。瀟洒なホテルのレストランでもあるビートルズ・カフェは明るい日射しの差し込む大きなガラス窓がプリンス通りに面している。今年、フジイ邸には楽しい仲間が集まった。タナベさんご夫婦、近くに別荘を持つホリさんご夫婦、ミヤモリさんご夫婦、ムネカタさんご夫婦、クシビキさん、フジイ家の愛娘マヤ嬢。ビートルズ・カフェの朝食セットを食べながらカミさんと軽井沢の空を見上げた。いい夏がそこにあった。(高野耕一) 
■清原は二千を夢みたか。 ■2005年8月9日 火曜日 14時31分56秒
私の周りには異人が多い。愛すべき異人である。偉人はそれほど多くはない。類は友を呼ぶというから、これは仕方のないことである。異人と偉人。声に出せば同じ響きをもっているが、意味はまるで違う。辞書的にいえば、異人は異国の人、外国人のことであるが、ここでは異人を他とはちょっと違う人、常識から少しはずれた人という使い方をさせて頂く。偉人とは、偉大な人のことであり、偉大なことを成し遂げた人ということで、これは辞書の通りである。偉大といえば、時計美術宝飾新聞が2000号発刊という偉大なる快挙を遂げた。創業者の偉大さを改めて目の当たりにする思いだ。偉人である。と同時に、継続は力だ。継続に心血を注ぐ現社長にも拍手である。2000号が3000号を目指す道程で、現社長もまた偉人になってゆくのである。いや、おれはすでに偉人だと現社長は叫ぶだろうが、まだ異人でいいのではないですか。ということで、今回はこの2000という数字にスポットをあててみる。カラスの行水、早風呂の私は、湯船に浸かって200まで数えるのがやっとだから2000という数字なんか生まれてから数えたことがない。2000円札だってほとんど見たことがない。わが妻がときどきワーイワーイなどといい、ひらひらと2000円札を見せびらかすぐらいしか縁がないのだ。とにかく2000はもの凄い数字であり、天文学的数字とさえ思える私である。もっとも風呂で2000まで数えていたらのぼせてひっくり返
るのがオチだ。スープを作るんじゃないんだから。私は鰹節じゃないんだから。そして、ふと思う。この2000という数字は、読売ジャイアンツ清原選手には夢の数字であったことを。史上31人目の2000本安打という偉業を達成した清原選手に改めて拍手を送りたい。続いてヤクルト古田選手にも広島野村選手にも拍手を送る。清原選手は2000本を打つために年平均110安打を打ったのだが、われらのミスター長嶋茂雄は145本を打っていたのだからやはり天才である。これは日本プロ野球選手の中でもダントツだと聞く。大リーグのイチローはいまのペースでいくと日米合わせて3000本安打達成も夢ではないという。これは凄いですよ。日本では張本しかいない。プロ野球選手にとっても夢のまた夢である。先日、友人のIご夫妻とカラオケ三昧の時を過ごしたが、私は奥さんに、旦那を異人から偉人にしなさい、それができるのはカミさんだ、などと生意気なことをいった。まあ、心からの友だし、酒の席だし、本心からそう思うのだからいいだろうと勝手に決めた。若くして社長になったIは、愛すべき異人でありなかなかの人物だ。そして古今東西、異人が偉人になるにはカミさんの強力な援護が必要であるのだ。今回は時計美術宝飾新聞の2000号を祝しながら、二人の異人を紹介した。(高野耕一)
■下落合に帰ろう。(上) ■2005年7月27日 水曜日 12時23分29秒
線路際にだだっ広い麦畑があった。神田川を赤く染めて夕陽が沈む頃になると赤紫色の麦畑の上空を鬼ヤンマが飛び交った。柵を飛び越す山羊のように、ぼくらはヤンマを追って肩の高さほどに育った麦の穂を飛び越えながら麦畑を駆け回るのだ。小さな鉛の錘を30センチくらいの長さの糸の両端に結んで、ヤンマの進入路に投げ上げる。錘がくるくる回転して黄昏の空にふわりと浮かぶ。ヤンマには小さな錘が虫に見えるのだ。羽を翻してヤンマはそれを追う。ヤンマが錘を捕らえようとするその瞬間、くるりと糸に絡まって落ちてくるという寸法だ。このヤンマ捕獲方法をぼくはいつ誰から教わったのだろう。弟にはぼくが教えた。氷屋のマモルは兄貴のノボルから教わった。魚屋のゲン坊は、ヤンマを追いかけるのに夢中になって肥溜めに落ちた。肩までスッポリと漬かった。みんなで臭いゲン坊を引き上げたが、ズックを片方無くした。ゲン坊は泣きながら棒で肥溜めの底を探ったが、ズックは見つからなかった。お姉ちゃんに怒られた。お姉ちゃんはズックを無くしたことを怒ったのではなく、肥溜めに落ちたことを心配し、心配しすぎて怒ったのだった。ゲン坊は一週間くらい臭かった。エビガニ釣りのうまかったのは、アライくんだ。線路脇の小さな湿地帯がぼくらの猟場だった。フジイナリの池のほうには真っ赤チンと呼ばれる大きいエビガニがいた。ドジョウもいた。酒屋でスルメを買って糸に結んでエビガニを釣った。エビガニ釣りは針をつかわないから、そろそろと手元に引き上げる技術が必要だった。エビガニの食い意地だけが頼りの釣法だった。(高野耕一)
■下落合に帰ろう。(下) ■2005年7月27日 水曜日 12時22分45秒
ある時、魚屋のゲン坊が刺身の切れっ端を持ってきたので、それをスルメの替わりに餌にしたらエビガニがぞろぞろ釣れた。エビガニはスルメよりも刺身のほうが好きなことがわかった。それからはエビガニ釣りには必ずゲン坊を誘うことにした。フジイナリは小学生の足には遠かった。時々しか行かなかったが、行く時は網を持って行った。フジイナリでドジョウを採るとみんなが目の色を変えて覗きにきた。ヒーローになれた。ドジョウは網で採るのだ。エビガニよりドジョウのほうがぼくらの価値観では上だった。印刷屋のサトルはドジョウばかりを狙った。だけどなかなか採れないので、帰りはいつも手ぶらだった。サトルはそれでも諦めなかった。枇杷の木は高橋先生の家の庭にあった。みんなで枇杷を採りに行った。枇杷は柿よりも高級だった。イチジクは柿よりも高級、でも枇杷よりも下だった。枇杷はスイカと同じくらいに高級だった。ぼくが枇杷の木の枝に乗り、下で待つ仲間にもぎった実を投げた。みんなは帽子で受け取った。ガラガラと玄関の開く音がして高橋先生が庭に出てきた。みんなは蜘蛛の子を散らすように逃げ、ぼくは枝に残された。枝にしがみついて、葉に隠れるようにして息を殺した。ふと下を見ると、脱いだズックが枇杷の木の根本にぱらんぱらんと脱ぎ捨ててあった。ぼくはズックを脱いで裸足で木に登ったのだった。先生がズックを拾い上げ、揃えてこちらに向けて丁寧に置き直した。先生は上も見ずに玄関に引き返した。ぼくらは次の日、先生の家に謝りに行った。先生は枇杷をやまほどくれた。西武新宿から電車でふたつ目なのに、下落合はその頃いなかだった。今の子どもたちにはいなかが足りない。子どもたちよ、下落合に帰ろう。(高野耕一)

■生類憐れみの具体例(3)上 ■2005年7月27日 水曜日 12時12分39秒
ミナミくんに詫びなければならない。2人で盛り上がった事業計画を無に帰してしまったからだ。この事業計画は、題して「101匹ワンちゃん・モモチュウプロジェクト」といい、ミナミくんの家のトイプードルのモモちゃんとわが家のトイプードルのチュウの間で子犬を量産し、莫大な利益を上げるというものだった。トイプードルの子犬はペットショップでほぼ10万円で売られている。ということは一匹半額の5万円で引き取ってもらっても、101匹で505万円になる。ミナミ、タカノ両家で分け合っても252万5000円づつだ。悪くない。配当金については、当然雌犬のほうが取り分が多い。配当比率はわからないがミナミくんちのモモちゃんが雌犬だから、仮にミナミくんちが一匹3万円、うちが2万円としても、取り分はミナミくんちが303万円、うちが202万円になる。うん、悪くない。ここでわれらのプロジェクトの弱点に2人は気がつく。101匹の子犬を一気に産むなどとうてい期待できないことに2人は言及せずに計画を進めてきた。うちのモモにはかなりの負担になりますな。そりゃそうです。10匹20匹ならともかく、101匹は大変だ。いや、10匹20匹でも大変ですぞ。とりあえず子犬を3匹として計算してみる。納入価格15万円。取り分はモモちゃんが10万円、チュウが5万円。事業計画は少し縮小されたが、ま、いいか、それが現実に近い。まてよ、1匹はヤマカワくんちに7万円で売るっていう手もあるな。
(高野耕一)
■生類憐れみの具体例(3)下 ■2005年7月27日 水曜日 12時11分39秒
ほほう、2万円の売り上げ余剰金が出ますな。よし、一杯おごるといって説得しよう。でもヤマカワの旦那、酒では釣れんかも知れんですな。よし、狙いはカミさんだ。カミさんに絞る。カラオケつきの一杯ということで説得しよう。そうですな、それですな。ミナミくん、本当にすまん。実は、わが家のチュウがこのプロジェクトに応えることができなくなった。昨日、去勢した。なんと詫びていいのか。壮大なプロジェクトをわたしは霧散させてしまった。われらの老後の安泰を確約する計画が露と消えた。ヤマカワさんちの売り込みに成功したら、イサカさんちにも売り込む予定だった。フジイさんちも候補だった。それだけを見てもこの事業は順風満帆、必ず成功したはずだった。なぜ、去勢したのです。うん、ごめん。おれも反対したんだが息子とカミさんが決めた。うちではカミさんの声は神さまの一声でね、逆らえない規則になってる。ほう、うちと同じですな。神さまはどこも絶対ですな。去勢したい人間は何人かいるんだが。ほう、誰です。うん、例えばFさんな、まだカミさんを泣かしてると見たが。なるほどなるほど、わかりますな。いけない、今日は人間の去勢の話ではなく、われらの事業を去勢してしまった話であった。(高野耕一)
■不登校Aくんへ。(上) ■2005年6月23日 木曜日 13時13分36秒
わたしは、わたしの河に棲んでいる。わたしの河は、わたしの速度で流れ、わたしの呼吸で波打ち、わたしの心の色に輝き、わたしの気持ちの通りに澄み、わたしの気分の深さをもち、わたしに都合のいい大きさで流れる。わたしの河はわたしに棲みやすい。安堵する。心底安堵する。それは当然だ。わたしの河なのだから。わたしの心の中にある、わたしのイメージの河、わたしが創った河なのだから。わたしはその河を頑なに守り、河はわたしを強固に守る。わたしは日々、社会の海に出て泳ぐ。仕事の海を泳ぐ。色々な人と出会い、その人の河で泳いだりする。疲れたりイヤになったりすると自分の河に逃げ込む。わたしの河はいつでもわたしの心の中にあり、好きなときに逃げ込める。人はわたしの河を覗く。気に入ればわたしの河で泳ぐ。気に入らなければそっと自分の河に戻って行く。気に入る人の河は、わたしの河に似ている。流れが合う。色も合う。香りも合う。泳ぎやすい。心地よい。だから、その人とは素直に自然につき合える。少々の努力は、わたしも惜しまない。たくさんの人々の河が集まって社会の海を構成しているのだから、少々の無理や妥協や努力はしなくてはならない。社会の海が泳ぎやすいときは、わたしの体調のいいときだ。
つづく。(高野耕一)
■不登校Aくんへ。(下) ■2005年6月23日 木曜日 13時12分54秒
だれかの河を泳ぐときは、そのだれかとウマが合うときだ。みんなそれぞれ自分の河をもっている。自分だけの河を心にもっている。自分のリズム、自分の色、波、香り、澄み具合、濁り具合、深さ、澱み、早さ、大きさ。みんな自分の河を泳いでいる。河はその人の人生だ。社会の海も泳ぐ。社会の海の水に合う人は、喜々として泳ぐ。悠々と泳ぐ。いつでも自分の河に逃げ込める器用さを身につけている人もまた、余裕をもって泳ぐ。Aくん、
きみは魚だ。Hさん、きみも魚だ。わたしも魚だ。わたしは、社会の海を悠々と泳ぐこともあるが、アップアップ流されることもある。気に入らない人の気に入らない河で溺れかけることもある。仕事だから仕方ないけれど、そんなときは素早く自分の河に逃げ込むことにしている。その人をそれ以上嫌いになる前に、そっと自分の河に帰る。家庭の湖が泳ぎにくいのは困る。学校の沼が肌に合わないのは困る。親の河では泳ぐ気がしない。先生の河では息がつまる。それでは本当に困る。だが、逃げ込む自分の河の存在に気がつかない魚は哀しい。哀しみの波間をひとり漂うのはつらい。Aくん、Hさん、心に河を創ろう。悠々と泳げる自分だけの河をもとう。魂が安らぐ河に棲もう。どうしようもないときに逃げ込める自分だけの河だ。河は天国だ。命の源泉だ。いつでも逃げ込もう。元気になったら社会の海に出るもよし、気に入った人を招くの楽しい。いま、きみたちに必要なのは、キラキラと輝く自分だけの一本の流れだ。なぜなら、きみたちは魚だ。傷つきやすい銀の鱗をもつ魚だ。おわり。(高野耕一)
■『ジュンヴァンボーイ』 ■2005年6月9日 木曜日 13時44分20秒
VAN「ヴァン」の創設者であり、僕らの青春期のカリスマ的ファッションリーダーである石津謙介先生が天寿を全うされた。93才だという。数年前、石津先生と仕事をご一緒させて頂いたのは、きものの「三松」の撮影だった。先生がデザインされた男物のきものを先生自らお召しになり、モデルになられた。「間違いだらけの車選び」の徳大寺先生もご一緒にきものを召しモデルになられた。「モデルの柄じゃないし撮影するほうなら慣れているが、撮られるほうはなあ」と照れくさそうに笑いながら石津先生は、そうおっしゃった。目白の元貴族の屋敷跡と聞く広い庭だった。初夏の陽を浴びる若々しい緑に先生は目を細めた。何か話をしないか。その間に撮ってもらおう。先生の言葉に、私はカメラのフレームに入らないよう先生から1メートルほど離れて立った。先生、酒の話でもしますか。ワインはお好きですか。男の話は単純で酒か女か夢がいい。うん、ワインは好きだよ。いま、ちょっと凝ってるな。先生は世界の高級ワインを飲み尽くしてるだろうから、ロマネコンティとか銘酒に凝っているのでしょうね。いや、それがねえ、そうじゃないんだ。1,000円のワイン。これがキーワドでね。1,000円でいかにいいワインに巡りあうか。これに凝ってる。先生、達人の域ですね。それは究極を極めた人の発言です。若い人じゃあ当たり前すぎてつまらない。味を知り、舌の肥えた先生がおっしゃるから、1,000円のワインにも興味が湧きます。宮本武蔵の五輪書の空之巻を思い出します。極めて極めて行き着いた先にある空。ある所を知りてなき所を知る。行き着いたからこそわかる超現実的現実論ですね.おいおい、そんな凄いもんじゃないんだ。1,000 円も出せば十分にうまいワインがある。ただそれだけのことだ。先生、1,000 円のワインなら2・3本もって事務所に伺いますよ。5・6本にしたまえ。事務所の地図な、あとで渡すからな。その約束は果たせなかった。あの頃,青山通りが輝いていた。ヴァンといえば泣く子も黙った。飛ぶ鳥はバタバタと落ちた。ヴァンの仕事をしているコピーラーターやアートディレクターに強い嫉妬心を覚えた。わが空手部の同期生・花松忠義くんにいたっては、ヴァンに就職してしまった。双璧にジュンというファッションメーカーがあり、それらを愛する男たちは、ジュンヴァンボーイと呼ばれていた。きょうも青山通りを車で走りながら、先生を思い出す。見上げる雲のように無垢の自由を感じさせてくれた笑顔だった。石津先生、安らかに。1,000円ワイン、お送りします。(高野耕一)
■逆回転腕時計の頃 上(高野耕一) ■2005年5月20日 金曜日 14時9分42秒
むかし、逆回転腕時計を開発した。評論家の竹村健一さんと何度か仕事をごいっしょさせて頂いた頃だ。先生を「泥沼から評論する男」と勝手にキャッチフレーズをつけ、本の出版のお手伝いもした。先生はいつも「トンチンカンなほうが人間楽しくていい」といっていたが、その影響もあったのだろうか。ある日、文芸春秋のページをペラペラめくっていて、ふとひとつの記事が目に留まった。確か朝日新聞の特派員で白石さんという方の記事だ。ケープタウンの公園で散歩の途中に日時計を見たという話が掲載されていて、南半球の日時計だから北半球の日時計とは逆の目盛りが刻んであって当たり前だが、なんだか不思議な気がした、という。時計の針が逆に回転する。面白い。日時計だから、影が逆に回るのだ。笑っちゃう。これを腕時計にして腕にしたらなにやら不思議な気分になりそうだ。欲しい。とっさにそう思ったことを覚えている。当時、オリエント時計のコピーを書かせて頂いていたので宣伝部長と課長に相談すると「面白い」といってくれた。だが、売れるかどうか、商品として魅力があるかどうか、まるで読めない。どうかねえ、と聞かれても「とにかく、わたしが欲しいだけ」と正直に答えるしかなかった。とりあえずプロトタイプを創ろう。宣伝課長が工場に掛け合ってくれた。ゼンマイをひとつ加えればいいとか、いやひとつ抜くんだとか大騒ぎをしていると、工場の技術の方が笑って、電池のプラスとマイナスを逆にして入れれば針は逆に回ります。いとも簡単に答えをだした。(つづく)
■逆回転腕時計の頃 下(高野耕一) ■2005年5月20日 金曜日 14時8分58秒
仕上がったプロトタイプを腕にした。六本木の酒場でチラチラ見せる。隣の女性客が、1時を11時と間違えて終電に遅れた。青春が帰ってくると叫んだのは酒場のマスターだ。10万円で売れと現金を突きだしたのはカメラマンだ。竹村さんが「俺の話がヒントだろう。よこせ」と迫る。売れる。そう思った。実現までに1年かかった。新発売のコピーを書いた。南半球の象徴である南十字星にちなみサザンクロスと命名した。調べるといくつか面白いことが見つかった。当たり前だが南半球では、庭は北側斜面がよい。逆だから。朝顔のツルが逆に巻く。なるほど。水道の吸水口から流れる水が、北半球とは逆に渦を巻く。本当か。だったら赤道上を航行中の船の排水口から流れる水は、どっちに渦を巻く。この解答は得られなかった。新聞社にも聞いた。船会社にも電話した。コピーに書く確証は得られなかった。広告を出す前に日経新聞のパブリシティに掲載されると、なんとあっちこっちから問い合わせが殺到した。予約も殺到した。オーストラリアからも買い付けに訪れた。うれしかった。当時、時代も、そこに生きる男も女も、面白かった。余裕があった。勇気があった。すぐ香港から類似品が発売された。ジャパン・アズ・ナンバーワン。夢も健在だった。頑張ろうニッポン。(おわり)
■■三つの真実に勝る一つの嘘。(上) ■2005年5月16日 月曜日 18時27分17秒
真実は嘘の衣服をまとっている。真実は見栄の仮面を被っている。嘘の衣服をまとい見栄の仮面を被り、真実は事実という人間が理解しやすい姿となってわれらの前に現れる。真実が素っ裸で街を闊歩することはまずない。真実が嘘の衣服をまとうのには理由がある。真実は傷つきやすいからだ。恥ずかしがり屋で弱く臆病だからだ。真実は裸の赤ん坊のように弱く、傷つきやすく、汚れやすい。そのことを知っているから、自らその身を守るために嘘の衣服をまとう。その上、人間は寂しく悲しい生き物だから、損得が絡むと平然と真実に嘘の衣服を着せる。見栄の仮面を被せる。われらは嘘と見栄の汚泥にまみれた上辺の事実だけを眺めているのだ。だから事実だけを見て無責任な判断をしてはならない。それは単なる事実であって、真実ではないからだ。事実がまとう嘘の衣服を脱がせ、裸にし、そこにある真実の姿をすがめ眺めつしながら初めて口を開かなければならない。事実から嘘という衣服を脱がせろ。事実から見栄という衣服を剥ぎ取れ。だが世の中、真実剥き出しでは成立しないこともまた真実。そう思う。汚い嘘、美しい嘘、悲しい嘘、虚しい嘘、建設的な嘘、嘘どもが渦となって真実を覆い隠し、世界中を駆け回っている。その嘘どもを凝視していると、ひとつひとつの嘘の顔が見えてくる。それぞれの嘘の顔、色、香り、味などが見えてくる。(高野耕一)
■■三つの真実に勝る一つの嘘。(下) ■2005年5月16日 月曜日 18時26分32秒
嘘にはブランドがあり、それぞれの特長があることがわかる。ビトンのような嘘、アルマーニのような嘘、フィラの嘘、ナイキの嘘、タッキーニの嘘、ユニクロの嘘、無印良品の嘘がある。さらに、人に人格があるように嘘にも人格がある。嘘格である。下品な嘘と上質の嘘、それが嘘格である。回りのウマの合う友人を思い浮かべてほしい。同じ嘘格の衣服を着ている友人ではあるまいか。許せる嘘、許される嘘。嘘の色、香りが同じ相手こそが、ウマが合う友人なのである。お互いの嘘が読めるから安心できる。同じブランドの嘘の衣服を着ているからセンスもわかる。嘘がわかるから真実も見えてくる。本音が見える。本音でつき合える。だから、ウマが合う。三つの真実に勝る一つの嘘というものがあると西欧の古い諺はいう。真実以上に美しい嘘があるという。その美しい嘘にすがって生きることもある。人間たかだか生きて100年。錆びず、枯れず、美しいままで100年保つ嘘なら、それは真実に勝る嘘かも知れない。あるいは1000年続く嘘なら、われらは「それこそ真実だ」と勇断せねばなるまい。本物とはダイヤモンドのごとく、その価値が変わらずに長く続くものをいうが、真実においてもまた永続は強い背骨だ。どのみち素っ裸の真実で暮らせないのなら、いつまでも錆びることのない美しい平和な嘘の衣服をまとって暮らしたい。ちなみに、男の嘘は優しい嘘が多い。(高野耕一)
■生類憐れみの具体例A(高野耕一) ■2005年4月19日 火曜日 14時12分44秒
16年間いっしょに暮らした三河犬のテツは、いま、深大寺で眠っています。テツを失った悲しみに、もう犬は絶対に飼わない、と貝殻に閉じこもっていたカミさんが、先日ふいにトイプードルを買ってきました。赤茶色のくるくるした巻き毛の小さな小さな犬です。テツは日本犬で体重20キロに達しました。大違いです。体重3キロ、身長30センチにも満たないトイプードルは名前の通り、まさにトイ、玩具、ぬいぐるみです。動いているのが不思議なくらいです。まさか電池で動いているんじゃあるまいなと、子ども立ち会いのもと腹をさぐったり背中を見たりして確認します。バカなことを、とカミさんがキッチンから白い目で見ています。案の定、電池もなくスイッチらしいものもありません。あったらカミさん、泡吹いてひっくり返るでしょう。
スターウォーズという映画に出てくるチュウバッハに似ているというので、子どもがそのままチュウバッハと命名しました。長い名前なので呼ぶたびに舌を噛み、このままでは命も危ぶまれるので、いまはみんな省略して「チュウ」と呼んでいます。当人?は、オレ、何でもいいもんね、とばかりにベランダを駆け回っています。大事にしないとカミさんに怒られるので、あっちこっち噛まれても私は笑っています。あのう、と文句をいおうとすると「なによ、血統書がないあんたが血統書つきのチュウにブツブツいうのはおかしいでしょ」と実に説得力のあることをいうのです。
先日、テニス仲間のミナミくんのうちでも犬を飼いました。ミナミくんは、まさにばりばりの日本人、性格は武士、魂はサムライ、黒澤明の映画に出てくる北町奉行所の与力のような男ですから、犬を飼うなら日本犬と誰もが思うところです。でも、トイプードルにしました。どうやら水泳の達人である奥様のご意向ではあるらしいのですが、着物姿の懐に小さなトイプードルを抱いて、ヒュウと風に吹かれる北町奉行所のミナミくんの姿もこりゃなかなかの見ものであろうと思うのです。うちの犬は雄、ミナミくんちは雌。ということは「子犬を作ってひと儲けできるな」と、ミナミくんとビール飲みのみにんまりする今日この頃ですが、その目論見が見事にはずれた、と大笑いしたのは友人のイノウエさんです。血統書の付いた犬を飼い、数十万円をかけて名犬との間に子犬を作りました。高いですねえ。いや、結構高いもんですよ。で、儲かりました?子犬一匹十万円以上ということでしたが、話だけでね、これが売れない。え、売れない?そう、で、うちは犬で溢れてる。全部飼ってるから。あらま、ミナミくん、改めて打ち合わせをせなあかんな。そうだ、クラブのヤマカワさんちに売りつける手もある。うちの犬、まだ5ヶ月、ミナミくんちの犬、まだ2ヶ月。時間はたっぷりあるから、まずヤマカワさんの説得から始めるか。 
■生類憐れみの具体例。(高野耕一) ■2005年3月18日 金曜日 10時9分20秒
土曜日の宵の口。経堂で仲間とグラスを交わしている。テニスの帰りである。馬事公苑の馬が通りすがりにお辞儀をしたというエピソードをもつ長い顔、太い眉、鋭い眼光を穏やかな笑みに包むラストサムライ、M氏が隣りでジョッキを握る。この男、話のわかる男だが、筋の通らぬことは大嫌いである。肝が据わっている。頭がいい。常識を曲げずに捕らえる判断力が光る。下ネタも言語道断たちまち無礼打ちとくる。同じ下ネタでもM氏の場合、性格的なものか下品にならない。剥き出しにならず、ストレートに溺れず、工夫とユーモアがあるから会話に奥行きがある。笑いに化粧された哲学がある。
先日もある宴の最中に下ネタ大好きで会話の九割が下ネタというF氏を捕まえて絡んだ。やい、寝るんじゃねえ、気に入らねえ、なに、指を怪我しただと、そんなの怪我のうち入らん、痛いだと、人並みなこというんじゃねえ、10年早いんだ、いいか、痛いってのはこういうことだ。突然F氏の痛がる指をつまんで振り回した。本気である。痛がるF氏、泣きながら先に帰ってしまった。
テーブルの前にはうちの細君とYさんの奥さんがいる。M氏とは犬の話をしている。ペットショップに行ってきてね。コッカスパニエル、あれがかわいかったなあ、うちの奥さんが気にいったようでね、あれになるだろうなあ。とM氏。いいじゃないの、品があるもの。とわたし。そういえばさ、小川さんちな、知子ちゃん、女優の、あのうちにコッカスパニ
エルいたんじゃないか。女優小川知子さんのお宅はわが家の数件先で、わが家とは犬友だちだ。確か、直美ちゃんちからもらったっていう犬がそうだったと思うぞ。直美ちゃん? うん、相良直美ちゃん。犬はいいよ。うちなんか犬がきてからカミさんと喧嘩しなくなっちゃった。うん、絶対いい。ところでどうなの? Yさんちは?旦那と仲良くしてる?仲がいいも悪いも口をきかないんだから。じゃ、犬だ。なあ、Mさん、犬だよなあ。そりゃあ犬だ。夫婦喧嘩は犬も食わないっていうけど。ちがう。最近の犬は食う。ちゃんと食う。よく食う。結婚して30年も経てば夫婦間も冷たくなる。当然だ。その潤滑油が犬だ。犬に限る。猫は駄目だ。気まぐれだから必要なときにいてくれない。自己中心だから、喧嘩の仲裁なんかしない。むしろ、喜んで見てる。欲しいなあ。とYさんの奥さんがいう。旦那な、Yさんな、あれで気のやさしい男よ、犬なんかきっとかわがっちゃうぞ。犬を肴に酒が進んだ。その日は生類憐れみの日となった。はたしてYさん宅では犬を飼うか。また、報告します。
■『泳ぐ宝石たち』上(高野 耕一) ■2005年3月10日 木曜日 16時46分41秒
ゆらゆらゆらとワイングラスの中で宝石が揺れている。背、腹、尾で優雅なベールが風に舞うように静かに揺れる。透けて向こう側が見えそうな薄いベールは、体に似合わぬ大きさだ。色は、ビンテージもののワインの赤。深く気品漂う色だ。息子に言わせると「こいつは金魚に見えるが金魚ではないんだ」となる。「闘魚だ。ファイティング・フィッシュだ」と言う。「おれには金魚としか見えないが」とわたしは答える。
「こいつが餌を食う瞬間を見ていないからだ。他の金魚に襲いかかる瞬間を目撃していないからだ。こいつは小さいが、水中のライオン。河の虎だ。獰猛なハンターだ」と息子。「いわれてみると、小さいけどとんでもない顔をしてるな」とわたし。「で、おまえ、こいつが他の金魚を襲う瞬間を見たのか」「見てない。聞いたことを話してるだけ」と涼しい顔。なんのこっちゃ。しかしこやつ、不思議な魚である。やっと反転できるほどの狭いワイングラスの中。水も半分。金魚草もいらぬ。お世辞も愛想もなし。なんにもなし。その留置場のように冷たい部屋で、じっと黙って暮らしている。よく見ると、ゆらゆらゆら、ひらひらひらであるが、とにかくじっと息を潜めていらっしゃる。なにかを狙っている気配。紛れもない殺気だ。(つづく)
■『泳ぐ宝石たち』下(高野 耕一) ■2005年3月10日 木曜日 16時45分57秒
この美しき宝石、華麗なる殺し屋、正式名を「ペダ」と言う。ペット屋の親父の発音が正しく、わたしの耳が正常に作用していれば「ペダ」に間違いはない。10センチに満たないほどの小さな体である。熱帯産、つまり熱帯魚だ。あまりに獰猛で、同じ水槽の中ではいっしょに暮らす魚はいない。調べると色はいろいろいるらしい。環境で色が変わると聞く。顔はアロアナに似て口をキッと結んでいる。唇の両端がグッと下がっている。威張った顔だが、見方によればかわいいとも言える。さらに調べると、同じ水槽に他の金魚を入れても平気だ、との情報を得た。ペグ同士が闘ってしまうのだ、と言う。事実、世田谷のそのペットショップでは金魚と同居している。だが、よく見るとペダの回りには他の金魚はよりつかない。結構こみ合っている水槽ながら、ペダの回りだけに妙な空間がある。ペダがベールを揺らせて移動すると他の金魚たちも移動してペダから遠ざかる。一定の距離を保っている。ペダの移動は、ペダの回りの空間を含んだスペースごとの移動となる。なるほど、ケニアのライオンとシマウマやインパラの関係、距離である。泳ぎは早くはない。察するところこいつは、待ち伏せハンティングの名手、物陰に隠れていてパッと獲物に食らいつく狩猟の達人かも知れぬ。数日前、冬の寒さに耐えきれず、水中のライオン、泳ぐ宝石「ペダ」は死んだ。(おわり)
■街が街だった頃(高野耕一) ■2005年2月22日 火曜日 16時56分43秒
渋谷に恋文横町があった頃。鯨屋は風情のある下田家風の造りで、公園通りはまだなかった。西武百貨店ももちろんなく、街の中心部から少しはずれた辺りにはピンク映画の上映館がぽつんとあった。わたしは渋谷の丘の上にある大学の学生で空手部員だった。蛮カラという言葉がまだかろうじて生きていた。道玄坂を上ると50円で天丼を食べさせる店があってよく通った。クランク状に曲がった突き当たりにはストリップ劇場があって、学割で入場できた。酒が1合25円、合成酒が15円だった。合成酒とは天然の原料を使わず科学的に作られた酒で、飲むと翌朝必ず頭痛がした。梅割焼酎が25円で、焼鳥は10円だった。井の頭線のガード脇の油じみた焼鳥屋で、焼酎2杯と焼鳥を5本食べるとちょうど100円だった。物足りない顔をしていると、居合わせた青学の女子学生が奢ってくれた。彼女たちは深窓のご令嬢に見えた。蛮カラな空手部は深窓のご令嬢に人気があった。優越感あるいは母性本能をくすぐるのだろうか。
渡哲也さんは、まだ学生で青学の空手部だった。ピー子姉さんはゲイだ。ハリウッドスターのトニー・カーチスに似た彫りの深い顔をしていた。瀬戸内の高校のとき、機関車通学で、小一時間かかるのだが近隣の女子校生たちが彼目当てに同じ列車に乗り込んできたという。片っ端から頂いたわよ、トイレで毎朝、もう食べ放題よ、100人?そんなもんじゃないわ。そういってピー子姉さんは口元を手で隠し、目を艶っぽく流して笑った。
やがてそれが問題となり石で追われるように故郷を捨てた。東京オリンピックで外人相手に荒稼ぎをし、花を飾って引退した。ある大学の相撲部OBだけで経営されているゲイバーに連れていってくれたのもピー子姉さんだった。その店で三島由紀夫さんを紹介してくれた。三島さんが肩を叩いて何かいった。酔っていてよく聞き取れなかった。赤いベストを着たお姉さん?が、ちゃんと国を守れといったのよ、と教えてくれた。オスッと答えた。
安藤組に履歴書を持参して入社した空手部の先輩がいた。渋谷のやくざだ。愚連隊ともいわれていた。わたしの現役のときに銃弾に倒れた。最後の大物だといわれた。学校には内緒で葬儀に参列した。応援団も参列した。雨が降っていた。蒲田の質素な川辺の家だったと思う。先輩のお母さんが泣いていたのが忘れられない。ピー子姉さんはゲイだけが住むマンションを造って、そこの賄いをやっていると聞いた。ゲイ仲間が資金を出し合ったのだ。ゲイはゲイらしく、やくざはやくざらしく、学生は学生らしく見えたあの頃。青春は青春らしく、おとなはおとならしく、渋谷は渋谷らしかった。「らしさ」とは本質があって、それがシンプルに見えることだろう。韓国ドラマを見るとこの頃を思い出すのはなぜだろう。
■あの頃の男には顔があった。【上】(高野 耕一) ■2005年2月17日 木曜日 15時8分34秒
昔。アメリカ第35代大統領ジョン・F・ケネディが暗殺され、翌年には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された頃。新宿に一軒のスーパーマーケットがあった。それは日本で初めてのスーパーマーケットだった。たいそう流行っていて、わたしはまだ学生で、そこでアルバイトをしていた。
経営者は、尾津喜之助さんとおっしゃる香具師の大親分だ。ときどきふらりと店に顔を見せていた。長身で鋭い眼光。いつも黒い着流しを着て飄々と歩いていた。顔が合い、挨拶をすると袖から大きな財布を出し、おう、と一万円札を差し出した。しわのまったくないピン札だ。その頃、一ヶ月働いて2万円のバイト代だった。うれしかった。強くなれよ。親分はそう言った。
初めてアルバイトに行ったとき、喜之助さんは刑務所に投獄されていた。理由は、人づてだが、ある新聞社が理不尽な記事を載せたということで喜之助さんが怒り、輪転機に砂をぶっかけて2・3日使えなくしたからだと聞いた。刑期を終え出獄した喜之助さんを社員全員で祝った。草加の別邸だった。来てくれないか。空手の演武を見せてやって欲しい。父の友人の喜之助さんの義弟にあたる安二郎さんに頼まれた。安二郎さんがアルバイトの紹介者だったからだけではなく、とても男気のあるひとだったことと、なにより大親分と会えることに興味があって引き受けた。学校や部にばれたらそれこそ大変なことになるだろうが、もう時効だ。(つづく)
■あの頃の男には顔があった。【下】(高野 耕一) ■2005年2月17日 木曜日 15時7分41秒
草加の別邸には広い庭があり、熊がいて、孔雀は放し飼いにされていた。池には屋形船が浮いていた。たくさんの草加の街のひとたちが招待されていて、立ち並んだ屋台でラーメンやおでんを食べていた。屋台はすべて親分の傘下のもので無料だった。子どもも大勢いて、喜之助さんは子どもたちのうれしそうな姿をニコニコと眺めていた。祝いに駆けつけた全国の親分衆や喜之助さん、安二郎さん、そして一家のひとたちや街のひとたちの前で板を割り、瓦を割り、空手の型を演じた。日本一になれよ。そう言われた。そのとき初めて喜之助さんから1万円をもらった。むき出しのピン札だった。店のガム売場の浅川さんは、片腕がなかった。サンドイッチマンの両目の潰れた男は、ウエルター級のボクサーで、
チャンピオン笹崎を倒した唯一の男、タイガー小池こと小池実勝さんだ。わたしの上腕筋に触れながら、小池さんはいい筋肉だと言った。ぼろぼろの新聞の切り抜きを尻のポケットから出して、6ラウンドよ、6ラウンド、おれのな、右フックが当たってよ。見ると笹崎が倒れていた。小池さんはボクシングのことしか覚えていなかった。その試合のことしか覚えていなかった。よれよれの垢じみたワイシャツの小池さんがくると、浅川さんは内緒でガムやパンを渡した。もちろん喜之助さんが知ってもなにも言わないだろう。親分は亡くなり、もう尾津組の名前を聞かない。安二郎さん、浅川さん、小池さんの消息も知らない。だが、顔は忘れない。男の顔だ。全力で時代を生きた男たちの顔は忘れることはない。そしていま、わたしは自分に顔がないことを反省するのだ。(おわり)
■結果論の裏側。(高野耕一) ■2005年2月17日 木曜日 11時23分34秒
強い者が勝つのではなく、勝った者が強いのである。春夏の甲子園の高校野球で耳にする言葉だ。
その通り。と叫びつつ、企業もそうだし世の中みんなそうよ、という説に、いや待てよ、となにかが躊躇させ自信がない。その結果論的発想の裏に葬られる、汗と血にまみれた球児たちの努力はどうする。結果はまだ見えなくても毎日会議会議で努力するお父さんたちの命がけの時間はどうする。プロセスだ。プロセスこそ大事だ、とおっしゃる方々も当然いて、もうああでもないこうでもないと百人百葉。百花繚乱。てんでんバラバラ。収集がつかない。でも、甲子園じゃ昔っから「勝った者が強い」といわれているからなあ、とK大学野球部出身の友人が頑張る。だが、極寒のグランドで、猛暑の球場で、黙々と涙の猛練習を重ねる球児たちにむかって、それはムダよ、なんてとうていわたしにはいえない。いやいやプロセスこそが一番、などとあっという間に寝返ってしまう。それだけ甲子園では運にも左右されるってことさ。と、友人は結論づける。
営業だってそうだ。努力してます。おおそうかそうか、だけではダメ。数字が欲しいのよ、数字が、と雄叫びを上げる上司は間違っていない。遊んでいたってきっちり売り上げを上げる社員は正しい。結果よ、結果。そこで、ふと思う。
遊んでいたって、という言葉にひっかかる。遊んでいて成功する。遊んでいて優勝する。どうもゲせない。遊んでいて成功する御仁に対する嫉妬か。それもある。それが大きい。
でも、高校球児は遊んで勝つことはない。汗も血も絞れるだけ絞っている。そうなんだ。結果往来とは、寝食を忘れ、夢中でプロセスを築き上げた果ての言葉なのだ。結果往来なんてぶん殴られても口にしない努力の裏付けのある結果往来だけが結果往来なんだ。結果しか信用しない血も涙もないヤツは、結果往来と口が裂けてもいってはいけない。努力をバカにしてはいけない。
松井さんやイチローさんのことを誰も結果往来とはいわない。あの天下無敵の新庄さんだって結果往来じゃない。
やっぱり結果往来とは、一切の努力をしないものにこそふさわしい。努力してるヤツの横を遊びながら追い抜いていく。努力なんか大嫌い。才能に勝る努力なし。天才。
そうなんです。若い社員がいう。努力なんて才能のない凡人のすること。もっというと、努力しなきゃ成功しないんなら、成功しなくたっていいんです。勝たなくたっていいんです。
恋愛だってそうです。待ち合わせの場所に汗水鼻水たらして辿り着いても、遅刻よ、とプンとそっぽをむかれておしまいですからね。生まれついてのイケメンにはかなわないですから。
おい、それって寂しくないか。わたしの教育が悪かった。
甲子園だって、結果の裏側を教えなくてはダメだ。
■【優秀賞】《もし1時間半待っていなければ…》(京都府・松岡茂長・52歳) ■2005年2月17日 木曜日 11時19分15秒
30年前の初冬、大学4年生だった私は荻窪駅北口に立っていた。彼女が来ない―。デートを約束した時間から1時問半が過ぎていた。あいにく指定した喫茶店が休みで、外で立って待つしかなかった。
「もう帰ろう、もう5分だけ待って帰ろう」と、何度も時計を見ながら冷えた路上で寒さに耐えていた。背中を丸めながら彼女が現れる方向をじっと見つめていると、「来た、ついに来た!」ビルの角からようやく姿を現した彼女は、何と衆目を一身に集める鮮やかな着物姿だった。スラリとした長身を、白地に大柄の赤い花をあしらった付け下げで包んだ姿は、荻窪駅の北口周辺を行き交う人たちの目を引いた。誰もが振り返った。息を呑むほど美しかった。今からこの人とデートできるのかと思うと、体中の血がたぎった。1時間半待たされた腹立ちは完全に消えていた。理屈抜きに「結婚したい」と思った。若者の単純な直感だった。しかし彼女には、大きな欠点があった。時間の観念に乏しいことだ。「何時に待ち合わせだから、何時から支度をしなければ」と言う時間の逆算ができないのだ。出身は東北。広大な平野で育ったせいか、時間には大らかだった。それを除けば欠点はない。逆算不能症”に目をつぶって、結婚した。爾来27年が過ぎた。
いまだに妻は時間の逆算ができない。夫としては日常生活に苦労が絶えない。勤めから帰ってきても、何時に夕食にありつけるか、それすら分からない。手先は器用だし一生懸命料理を作るが、完成時間の見当がつかないのだ。世問からは「美しい奥さんをもって幸せね」などとお世辞を言われる。理想的な夫婦だと思われている。逆算不能症”だということは極秘にしてあるから。だが、いい。生涯妻には待たされっぱなしでも、私はご満悦だ。こせこせ生きるより、ゆったりと大らかに彼女のペースに合わせて暮らしてきた。それで出世が遅れようがチャンスを逃そうが、かまいやしない。そんなことは、ちっぽけなことだ。人生は大車輸が回るごとく歩めばよい。回る速度は遅くても、一回転で進む距離は大きい。
30年前のあのとき、1時間半待たずに帰っていたら、友だちがうらやむ気長で「ゆとり屋」の今の私はなかった。妻に感謝だ。それにしても、当時の1時間半は辛く長かった。大車輸の良さが分からない青年が、よくぞ辛抱して待ったものだ。待たされた辛さを彼女に分かってもらいたくて、婚約指輸に添えた贈り物は、大きな文字盤のペンダント時計だった。それを身につけてくれたのは、プレゼントしてせいぜい2,3ヶ月だけだった。別にいまさら恨みごとを言うわけではないが、鳴呼……。http://www.hotta-group.co.jp/lexia/
■《「一年後新聞」発刊》(高野耕一)(上) ■2005年2月1日 火曜日 13時36分47秒
それは突然始まった。広告は夢を売っていたよな。友がいい、そりゃそうだ、いまだってそうだ、と私が答えた。グビッと一番絞りの生を2人は飲んだ。大きく息をはいた。ホントかいな。そんな美しきクライアントがいまどきいるか。と返され、ムッと押し黙った。確かに。夢を売るどころか、この国には夢がない。夢じゃ食えないからな。友がいい、私は頷きつつ、寂寞としてくる心を酒で復興させようと試みるのだ。四谷駅前の酒場だ。酒場には夢がある。2人はそう思っている。とくにこの立ち飲み酒場は気が利いている。うまい。安い。大きな酒問屋がやっているのだから、当たり前っちゃあ当たり前なのだが、近頃この当たり前がなくなってきているからむしろ新鮮に思える。過剰なサービスはなし。むしろぎこちない。それがいい。酒問屋の社員がたまたま酒場に配属されたのであろうが、それが初々しい。酒の種類も多い。それも当たり前。つまみも旨い。店長である開発部長が酒好きで酒通ときている。それならつまみが旨いのも当たり前。で、この酒場はよく利用させてもらっている。よし。私は腹を決めていった。おれ、一年後の新聞をつくる。なんだそれは。友が日本海産の貝柱をつまみながら、またばかなことを、という目つきで見る。視線を跳ね返す。それはな、夢と希望に溢れた新聞だ。(つづく)
■《「一年後新聞」発刊》(高野耕一)(下) ■2005年2月1日 火曜日 13時36分3秒
名付けて「一年後新聞」だ。みんなでつくる。インタ−ネット新聞だ。ほう、ネットなあ。すぐ電話して「itinengo.net」を、おれはとる。ほんとにやるのか。この世界、おれが救わなくてだれが救う。みんなで夢みてやる。ということで、11月1日に「一年後新聞」は創刊された。ネットについては、本紙藤井社長にアドバイスを頂いた。「一年後新聞」へのアクセスは、いま友人と知り合いがほとんどだが、なぜか小学生や中学生が覗いてくれる。読者が記者で、記者が読者、つまり一年後の自分でもなんでもいいぞ、といっているのでアクセスが増え、記者も増えはじめた。一年後のサッカー、一年後のプロ野球、一年後の経済等々。普通の新聞と違い、いいたいことをいってくる。普遍と個の比重からみれば、圧倒的に個が多い。それがネットのいいところではあるが、勝手が過ぎてもいけないので、掲載しないものも当然ある。これで夢が育まれるかどうか、それはわからないが、やらないよりいいか。と、友と酒場でグラスを傾ける。よろしければ「itinengo.net」にアクセスしてみてください。(おわり)
■人を殺す言葉(高野耕一) ■2005年2月1日 火曜日 13時21分40秒
人はその一生においてすべてを出し切ることなんか、とてもできやしない。ぼくらの年代が精神形成の上で圧倒的な影響を受けたヒーローでさえそうであった。ただ明るいだけのラスベガスのネオンのように生きたエルビスも、心のガレージに貯めこんだ溢れるばかりの闇をぼくらに見せず、闇は増々深くなった。ド近眼のジェームス・ディーンは、自己の憂うつをナチュラルに表現しようとし、人々がその憂うつに賞賛を送ると同時に、最も大切にしていたナチュラルを失うこととなった。われらが兄貴、石原裕次郎も、礼儀作法をしっかり叩き込まれた坊っちゃんが、理不尽な社会に噛みつく不良であり続けることができなかった。後年のテレビドラマでは体制に属する警察を舞台にし、裕次郎は裕次郎を捨てた。人は、自分の心を殺して生きるか、相手の心を殺すかするものである。心は言葉に乗って相手の心に入る。その両方を生かすオトナは少ない。両方を生かすには2つの条件が必要だ。知性とやさしさである。コピーライターという因果な渡世を送ると、言葉を通して相手の心がわかる。コピーライターは耳で書け、というくらい相手の言葉に潜む心を読むようになる。企業の心や商品の心を代弁するのであるから、心が読めなければ職業にはできない。会議での発言でも、自己の地位を守るだけの発言はすぐわかる。愚かも知性も読める。自己中心も相手へのやさしさも読める。会議の目的に真っすぐに向う若い意見に感動もする。ただ頑固に自分を正当化しようと圧力をかける重役氏の浅はかさにガク然とする。いつか「人を殺す言葉・人を活かす言葉」を本にまとめてみたいと思うが、会社の同僚、上司、部下、友人、そして大事な家族、それらの言葉は、時に勇気を与え、時に致命的とも思える重傷を心に与える。人は、自分に向って放たれた言葉により、勇気あるいは重傷を受ける。言葉はエネルギーにもなり、弾丸にもなる。世の中、キレイ事だけでは通用しないことは重々承知である。だが、ただ反対していれば、ただ批判していれば人気を得るようなテレビ司会者や政党の薄っぺらさから何がうまれるだろう。日本人は会議ベタであるが、それは言葉ベタであり、心の表現が下手なのだ。とくに会社のトップ・上司のみなさん、部下には知性とやさしさのある、人を生かす言葉を。そして世の奥方諸君、旦那は今苦しい社会で戦っておられるのだから、旦那を生かす言葉を。人生たかだか長生きして100年じゃないですか。すべてを出し切るなんてできやしない。だから、日々勇気と夢のあるお言葉を。それでいいじゃないですか。
■『こちら愛知県警ですが。』(高野耕一) ■2005年2月1日 火曜日 13時17分13秒
ルルルルルル。電話がなる。暑い日の午後。広告代理店の部長T氏は、休日の午睡を電話によって破られ、ボーッとした頭で受話器を取る。(こちら愛知県警ですが。)受話器が言う。愛知県警か。県警ねぇ。ナニッ警察か。頭のボーッが一瞬にして吹っ飛んだ。警察が何の用だ。オレが何をした。いや、してないしてない、オレはしてない。
(Tさんですね。愛知県警交通安全課です。)あ、名前を知ってる。は、はいっ。(実は息子さんが交通事故を起しました。)え、あ、息子か。息子、息子、そうだ名古屋支社勤務だ。
息子が事故、やつは営業だ、車に乗っている。死んだのか。怪我か。重傷か。(息子さんは無事です。)警察が言う。あ、無事か。よかった。(ただ衝突した車に乗っていた相手の方が怪我をして病院に運ばれまして。)え、そうか、事故の相手か。受話器の向こうからファンファンファンとパトカーか救急車の音。(その方は女性の方で、ま、命には別状なさそうですが。)よかった。(いま、こちらに息子さんもいらっしゃいますし、相手の女性のご主人もいらっしゃいます。息子さん、取り乱していらっしゃるので、お宅の電話番号を聞くのがやっとでしてね。携帯電話も事故の際に壊れちゃったと言うし。)
息子を、息子を出してください。T氏は叫ぶ。(話が出来るかどうか、ちょっとお待ちください。ほら、出られるか。どうだ。)泣き声。泣いている。嗚咽で喋れない。おい、M男、M男。警察が代る。(M男さん、先刻からずっと泣きどおしでね。事故相手の女性のご主人に代ります。)え、事故相手の。(モシモシ。)ご主人の声。この度は息子がとんでもないことを、申し訳ありません。もう詫びるしかないT氏。(家内は意識不明です。とにかく息子さんが信号無視で家内の車のドテッ腹に突っ込んだんですからね。)いや、申し訳ありまん。T氏の汗は、とっくに冷や汗に変っている。女房も出かけてる、こんな時に。(あ、警察ですが、これは刑事事件にしませんから。民事でいいでしょう。警察は介入しませんから、保険会社の方と話してください。)
(モシモシ。A保険のアジャスターをやっているBと申します。息子さんが乗ってらした車はレンタカーで、対人500万円加入しています。)また、ファンファンファンとパトカーか救急車の音。(いま、示談の話をしていますので、そこにメモ用紙ありますか。)メモ用紙、メモ用紙、はいありました。(口座番号を言いますから書き取ってください。いいですか。保険金が出ますが、それは入院費にするとして、とりあえずの示談金としてえ〜と今回は50万円をお振り込み下さい。)50万円か。よかった。その程度で済むのか。まてよ。そこでふとT部長は思った。すみません、こちらからもう一度電話しますから、そちらの電話番号を。(え、こっちの、では私の携帯番号を言います。)携帯番号?おかしい。電話が切れた。T部長は一度切った電話を取り上げる。愛知県警の電話番号を調べ、電話をする。(交通安全課?うちにはありませんけど)いやはや最近のサギは実に巧妙です。効果音は使うし、泣き男なんか最高の演技だ。皆様、くれぐれもご注意を、とT部長。そうだ、愛知県警にしては名古屋ナマリがなかったなあ。これ、ほぼ実話です。
■『命より健康』と妻が言い。(高野耕一) ■2005年1月31日 月曜日 17時10分43秒
大変なことが起こりました。いえ、笑い事じゃありません。覚えてますかね、すでに芸能界を引退してしまった一世を風靡した美人タレントと、お笑い芸人の恋とその破局。私、自慢じゃありませんが、ミーハーであります。ま、当時の彼女の人気は凄かった。美人で極めて才媛ときた。チャンネルをヒネると(このヒネるの言い方がそもそも古いなあ)どの局にも東洋系の切れ長の瞳が、男たちに熱い視線を放ってくる。その彼女、こともあろうにお笑い芸人と恋をした。お笑い芸人を決してコケにしているわけではない。嫉妬しているのです。早い話が。
だから破局を知った時は雀のように小躍りしました。問題は、その破局の原因です。彼女の怖るべき潔ぺき症。これです。なにしろ白手袋をして冷蔵庫を開けるらしい。その白手袋は当然冷蔵庫専用のもの。となると気になるのは、白手袋が彼女の家に何種類あるのか。トイレ専用、テレビ専用、キッチン専用、ガーデニング専用、クルマ専用、自転車専用・・・。いやいや、それより恋をしたお笑い芸人と手を握る時もデート専用手袋か。キスをする時は、こりゃ手袋じゃない。防毒マスクか。ベッドインはどうなる?いやはや破局も仕方なしだろう。この怖るべき、そして必要以上の潔ぺき症。なにやら小泉内閣に似てはいまいか。
改革ね、改革。潔ぺきね、潔ぺき第一ね。これである。改革あるいは潔ぺきさえ実行すれば、中小企業の2万や3万潰れたってスリ傷カスリ傷である。つまり、潔ぺき、健康こそが命より大事、健康なら命なんかどうでもいい。そんな馬鹿な発想はあり得ないとコリクツコイズミ大将はおっしゃるだろうが、やってることは白手袋で冷蔵庫を開けたり防毒マスクでキスしようと同じ事。年間3万人を超えた自殺者なんて眼中になく、大企業を救えば中小企業は救われるという何とも江戸時代的発想、明治大正時代にはアクビの出そうな発想で、竹中白手袋なんかに、ま、実験実験とやっている。政治のことはアホらしいので放っておきたいのだが、選挙が頭にあるものだからついつい筆がすべってしまう。ところで冒頭の大変な事が起ったの、大変である。何を隠そう私の妻は、かの芸能人や小泉大将と同様、「白手袋人間」なのであり、命より潔ぺき、命より健康、なのである。それが先日「カンピロリバクター」とかいう(これ正確かどうかわかりませんが)南方の動物が持つ菌にやられ、死ぬか生きるかの目に会いました。いやいや、無菌に近い潔ぺきは怖いですね。人間も、国も。潔ぺきも大事だけど、大事なのは命だもんね、やっぱり。
■《結果論の裏側》(高野耕一) ■2005年1月25日 火曜日 17時33分26秒
強い者が勝つのではなく、勝った者が強いのである。春夏の甲子園の高校野球で耳にする言葉だ。その通り。と叫びつつ、企業もそうだし世の中みんなそうよ、という説に、いや待てよ、となにかが躊躇させ自信がない。その結果論的発想の裏に葬られる、汗と血にまみれた球児たちの努力はどうする。結果はまだ見えなくても毎日会議会議で努力するお父さんたちの命がけの時間はどうする。プロセスだ。プロセスこそ大事だ、とおっしゃる方々も当然いて、もうああでもないこうでもないと百人百葉。百花繚乱。てんでんバラバラ。収集がつかない。でも、甲子園じゃ昔っから「勝った者が強い」といわれているからなあ、とK大学野球部出身の友人が頑張る。だが、極寒のグランドで、猛暑の球場で、黙々と涙の猛練習を重ねる球児たちにむかって、それはムダよ、なんてとうていわたしにはいえない。いやいやプロセスこそが一番、などとあっという間に寝返ってしまう。それだけ甲子園では運にも左右されるってことさ。と、友人は結論づける。営業だってそうだ。努力してます。おおそうかそうか、だけではダメ。数字が欲しいのよ、数字が、と雄叫びを上げる上司は間違っていない。遊んでいたってきっちり売り上げを上げる社員は正しい。結果よ、結果。そこで、ふと思う。遊んでいたって、という言葉にひっかかる。遊んでいて成功する。遊んでいて優勝する。どうもゲせない。遊んでいて成功する御仁に対する嫉妬か。それもある。それが大きい。でも、高校球児は遊んで勝つことはない。汗も血も絞れるだけ絞っている。そうなんだ。結果往来とは、寝食を忘れ、夢中でプロセスを築き上げた果ての言葉なのだ。結果往来なんてぶん殴られても口にしない努力の裏付けのある結果往来だけが結果往来なんだ。結果しか信用しない血も涙もないヤツは、結果往来と口が裂けてもいってはいけない。努力をバカにしてはいけない。松井さんやイチローさんのことを誰も結果往来とはいわない。あの天下無敵の新庄さんだって結果往来じゃない。やっぱり結果往来とは、一切の努力をしないものにこそふさわしい。努力してるヤツの横を遊びながら追い抜いていく。努力なんか大嫌い。才能に勝る努力なし。天才。そうなんです。若い社員がいう。努力なんて才能のない凡人のすること。もっというと、努力しなきゃ成功しないんなら、成功しなくたっていいんです。勝たなくたっていいんです。恋愛だってそうです。待ち合わせの場所に汗水鼻水たらして辿り着いても、遅刻よ、とプンとそっぽをむかれておしまいですからね。生まれついてのイケメンにはかなわないですから。おい、それって寂しくないか。わたしの教育が悪かった。甲子園だって、結果の裏側を教えなくてはダメだ。
■『広告がヘタねえ』(高野耕一) ■2005年1月24日 月曜日 14時17分21秒
広告がうまい企業が減った。うまい広告は商品を売る。いまは不景気で商品が売れない。だから、広告費を減らす。理屈である。
だが、とコピーライターであるわたしはいう。広告は商品を売るためのものではなかったか。予算を縮小するのは致し方ないとしても、広告がヘタになることはないではないか。それには理由があるのです。ものが売れなくなって宣伝部にしわ寄せがきた。宣伝部がないところは宣伝担当者ですね。売れない責任は営業部にくるのだから、ほら宣伝部はどいておれ、となった。いうことがいちいちごもっともである。
その、ごもっともが落とし穴だった。営業部が営業のプロであるように、宣伝部は宣伝のプロなのである。不思議なことに、宣伝はだれにでもできる、とお思いのかたがいらっしゃる。そこで、例えば新入社員の意見なんかを聞いてみる。悪いことではない。ターゲットが若い人だから、若い人に意見を聞く。
いいです。ところが、意見を鵜のみにすることがある。誰でも、清原のあの打ち方じゃだめだとか、松坂のあの時のあの内角攻めはいかんとか、そりゃいいます。いいますが、実際に、じゃ、あんたやって、といわれたらギブアップです。当然だ。でも、広告はやってしまう。若い社員に落ち度はない。もし、運がよく、その社員のセンスが上等なら成功することもある。社長が自ら広告を見る場合も同じで、誰も社長に逆らえない。社長にセンスがあればうまくいくこともある。
プロというのは100打席のうち70本から80本はヒットを打つ。広告に失敗がない。なぜなら、広告づくりのプロとしての基本を知っているからだ。コンセプトという言葉もだいぶ一般用語になってきたが、その正確な意味も重要な役割もわからないまま使ったり、だからコンセプトなんかつくることもできない。
広告に限らず、映画でも小説でも絵画でも「WHAT」と「HOW」があって、「何をいうか」と「どういうか」が基本中の基本だが、そんなことは知ったこっちゃない。広告は、コピーひとつ、デザインひとつで大きく売り上げに反映される。そして、うまい広告をつくる企業、つまり広告の重要性を知る企業はいい企業です。社長、もう多数決の広告は止めましょう。プロに頼みましょう。例えば、わたしであるとか。プロの力を一番知っているのは、おそらく社長自身だと思います。
■《大賞》□結婚祝い□(園部貴之様、四十歳、埼玉県) ■2005年1月17日 月曜日 16時39分36秒
「お前も所帯を持つのだから、もう少し身なりに気をつけろ」結婚式の当日、先に式場へ向かう事になっていた私の身支度を見て、父はそう言うと、箪笥の一番上の引出しから小箱を取り出した。「これをやる、持って行け」有無を言わさぬいつもの態度で、父は私に小箱から取り出したロレックスの腕時計を押しつけると、背を向けて新聞を広げた。
頑固者の父は公務員であった。子供の頃は、周囲が農家か商店の子供ばかりで、公務員という父親の職業は、少し誇らしかった。しかし、物心がついた頃には公務員という存在が「小役人的」な安定感や事なかれ主義の代名詞として使われている事に、理由も無く恥ずかしく感じたりするようになっていた。
中学生になった時、父から初めて腕時計を贈られた。初めての電車通学には必需品で、ひどく嬉しかったのを覚えている。だが、その時計を身につけていた頃は、始終父と衝突していた。自我に目覚めたばかりの中学生にとって、父の存在はうるさいだけでハンカチは二枚持て、時計はいつも三分進めておけ、などという小言も小役人の処世術そのものでうんざりしていたものだった。
次の時計を手にしたのは、大学に入学した時で、やはり父からの入学祝いであった。シンプルな文字盤と無骨な作りが妙に気に入っていて、学生向けの安っぽい時計だったが、結婚式の当日まで愛用していたものだ。式場へ向かう車中で、私は父のくれたロレックスを左手首にはめた。この時計は、父が勤続三十年の記念に、自ら買ったものだが、それまで本人が身につけている所を見た覚えが無かった。案外、入手した時から私に譲る気だったのかもしれない。私は緒婚する時にまで、父から時計を贈られたのが少し照れくさく、苦笑いを浮かべた。
やがて式も披露宴も無事終わり、私と妻は、学生時代の友人たちが催してくれた新宿での二次会に出席し、楽しいひと時を過ごした。私たちは愛読していた庄司薫の「さよなら怪傑黒頭巾」にちなみ、新婚旅行先を箱根・熱海三泊四日と決め、友人たちの万歳三唱の中をロマンスカーで出発することにしていた。ところが、荷物の受け渡しに手間取った為、駅についたのは出発間際になってしまった。いくら何でも、列車に乗り遅れては酒落にならない。私たちは慌てて連絡通路を走った。―まずい、発車時間だ。ホームヘの階段を駆け上がる寸前に見たロレックスは、無情にも発車時聞を指していた。ところが、ホームヘ駆け上がった私たちを迎えたのは発車のベルではなく、三十人以上の友人たちの歓声であった。ホームの時計は、発車三分前を指していた。父が贈ってくれた結婚祝いの三分間に、私たちは友人たちの万歳三唱と、クラッカーの炸裂音と、車内の人々の暖かい爆笑に包まれていたのだった。http://www.hotta-group.co.jp/lexia/
■【優秀賞】《「チクタク」が伝えること》上(千葉県・大橋友和様・30歳)  ■2005年1月12日 水曜日 16時58分46秒
僕の持っているいくつかの腕時計を見ていると数年前実家を立て直した時に他の荷物に紛れて無くしてしまった手巻きの腕時計を思い出す。それは父の物で以前一度だけ探したのだが、結局見つけることは出来なかつた。それ以来、心の中でいつでもその腕時計が「忘れないで」とチクタクと鳴っている様な気がしていた。
そして僕は結婚式を一ヶ月後に控えた頃、もう一度、父の腕時計を探そうと思い立った。その週末、披露宴の打ち合わせは彼女にまかせて僕は実家に向かった。「時計と披露宴どっちが大切なの!」と彼女の機嫌は悪くなったが結婚式までに父の腕時計を見つけて自分の物にしたくなったのだ。
久しぶりに帰った実家で、僕は朝から押入れや物置を探したけれどいくら探しても見つからない。夕方になって諦めかけた時、「あった!」もう使わなくなったカラオケ用のテープが入っているケースの中にマイクなんかと一緒にしまわれていた。「どうしてこんな所に…」僕は首に下げていたタオルで汚れた手を拭いてからゆっくり、腕時計の竜頭を巻いてみた。長い眠りから覚めたように針が動きだし、少し黄ばんだシルバーの文字盤と傷ついた風防が懐かしく、僕を喜ばせた。
父はいつでもこれだった。毎朝、会社に行く前は同じ時間にゼンマイを巻き上げ、帰宅したらまず腕時計を外して、ポケットのハンカチで軽く拭くのが習慣だった。それを見ていたその時の僕は、いつも同じ腕時計をするのはカッコ悪く思えたし、第一手巻きの腕時計はえらく時代遅れのモノにしか見えなかった。一ヶ月が過ぎ、僕はやっと見っけた父の腕時計を磨いて、ベルトを新しいモノに替えた。段々と自分のモノになってきた気がする。「明日の結婚式にはこいつをしよう…」。(つづく)http://www.hotta-group.co.jp/lexia/
■【優秀賞】《「チクタク」が伝えること》下 (千葉県・大橋友和様・30歳) ■2005年1月12日 水曜日 6時19分45秒
教会の控室でタキシードに着がえた僕がバッグから大切そうに腕時計を取り出したのを見て介添人さんは「腕時計はみなさんお付けになりませんが…」と言った。僕は「腕時計ではなく、懐中時計が正しいんですかね」と聞き返しながら腕時計をはめた。
その時、毎日どんな服でも同じ腕時計をしていた父を思い出した。確かに服装に合った腕時計選びは大切なことだ。しかし父は一本の腕時計を精一杯、大切に使ったのではないだろうか。そのことを考えた時、時計を何本も買っておしゃれを気どっていた自分が急にカッコ悪く感じた。
今になって思えば父は「一つのモノを大切に思い、それが自分にとって価値のあるモノだったら一般的な考えや他人がそれをどう見ようと気にしなければいいんだ」とでも言いたかったのではないだろうか。僕はこれから家庭を持つ、子供も産まれるだろう。その家族に言葉を使わず、何か大切なことを伝えることが出来るだろうか。父の腕時計を通じてそんな事を考えながら僕は結婚式に向けてゼンマイを巻き上げた。(おわり)http://www.hotta-group.co.jp/lexia/

■◆☆《揺れる町から》☆◆ ■2005年1月7日 金曜日 20時52分34秒
この間はお見舞いの電話ありがとうございました。
日曜日の夜。NHKの大河ドラマ「新撰組」の最終回が終わろうとする時刻。
宮田明さんから二回目の電話があった。一回目はこっちから必死になって電話をしたのだった。
お気をつかっていただいて。宮田さんは、手さぐりするようなゆっくりした口調で丁寧に話す。
あの時はまだ動転していて、なにをお話したのかもわからなくて、申し訳ありませんでした。まだ余震が続いている時期でしたから。
いえ、もう大丈夫です。ええ、だいぶ落ち着きました。
ありがとうございます。そう、宮田さんは、新潟中越地震の中心地、長岡市学校町に在住している。マンションの三階。地面がぐにゃぐにゃうねっているんです。
初めは部屋の中にいたんですがね。マンションがこう丸ごと誰かの手でね、揺さぶられているような。もう部屋がゴムみたいにうねるもんですから、すぐ外に飛び出してですね、ええ、そうしたら地面が海みたいにですね、波打ってるんです。そりゃ恐かったですねえ。宮田さんは、前回の電話と同じことを繰り返し話す。ご本人がそれに気がついて話をされているのかどうか、それはわからない。あれはこの世のものではありませんよ。わたしは、改めて想像さえ及ばない自然の力に脅威を感じるのだ。宮田明さんは、テレビコマーシャルの演出家だ。数年前に引退した。そして、奥様の実家のある長岡に移住された。現役の宮田さんは、天才だった。数多くの広告賞を取り、クリネックスのコマーシャルで、世界の頂点に立った。若いわたしは宮田さんにテレビコマーシャルのいろはを教わった。天才の長所はそのまま短所にもなる。宮田さんを理解できない人たちもいる。宮田さんは豪放な性格だ。豪放な性格で繊細緻密なアイディアを練り上げる。高野さん、資生堂のコピー、書いてくれない。ある日、宮田さんから電話があり、宮田さんを訪ねた。宮田さんは等々力の秀和のマンションに住んでいた。目黒通りの陸橋のすぐ横にあった。

朝、コーヒーを飲みながら、宮田さんはマイクを握った。陸奥ひとり旅を歌った。さあ、高野さんも歌って。え、わたしは朝からマイクは握りません。酒が入ってから、酒がないと歌なんてとてもとても。わたしはスタジオのような音響設備の整った部屋に照れた。それに、やっぱり酒がなくてはカラオケはねえ。宮田さん、マイクを握ってください。歌を歌いましょう。早くあの頃の笑顔を取り戻してください。わたし、いまなら喜んで宮田さんのために歌いますから。(高野耕一)


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