高野耕一のエッセイ

2014年1月9日 木曜日 16時27分18秒
子規に聞け。


元日の 人通りとは なりにけり(明治29年)。新年の 白紙綴ぢたる 句帳哉(明治33年)。万歳や 黒き手を出し 足を出し(明治26年)。正岡子規、正月の句である。子規は、句もとっつきやすくて好きだが、その日本文学の分析には驚愕する。そこらの学者の比ではない。それは、学者の目ではなく、芸術家の目による分析だからだ。適確に古の文学を分析批判し、その上自分で作って見せるから、その説得力に舌を巻く。江戸元禄の3大文学者といえば、芭蕉、近松、西鶴だ。その芭蕉に厳しい目を向ける。文学者としてより、芭蕉には宗教における教祖同様に多くの信仰者がいたという。芭蕉の句を読み、その句に感動するのではなく、ただただ芭蕉の名声を敬い、あこがれ、会話でも芭蕉と呼び捨てにせず、翁とか芭蕉翁とか中には芭蕉さまと呼ぶ者もいた。芭蕉を神のように崇め、本尊として祀る者までいて、まさに芭蕉俳句教の教祖である。なぜ、芭蕉が教祖のように敬われたのか。それは、平民的でやさしく、わかりやすい句だからだ。それまでの句のように、気品品格重視のいかにもむずかしい言葉だけが価値あるものとはせず、俗語を嫌がらずに駆使して俳句の世界を著しく拡大した。平易な俗語であっても、その配合、その調和性によってすばらしい俳句ができると主張し、実際に作って見せた。だが、子規はいう。そんな芭蕉の句にも駄句が数多くある、と。芭蕉はその生涯において1000余の俳句を作った。子規が上出来だと認める句は、そのうちの200余、わずかに五分の一である。古池や 蛙とびこむ 水の音…。物いへば 唇寒し 秋の風…。芭蕉の句のすばらしさは、古の俳句の模倣をせず、自ら開発したところにある、と子規はいう。平民的な俗語を縦横に使い、自らの句を開発した芭蕉。考えてみれば、詩人による詩、小説家による小説、学者による論文、政府広報、会社の会議資料、企画提案書、それらのなんとむずかしい言葉の多いことか。わかってもらいたいと願う心よりもいいたいことをいう、という文章によって綴られ、それがあたかも格式や教養のように思い、あるいはあたかも価値あるものと思うだけの空々しい言葉のなんと多いことか。むずかしいことを平易な言葉で綴ることは高度な力量を要するから、それが書けないだけなのだ。さらに子規は、こう芭蕉を称賛する。平民的だからといってそれだけで貴重なのではなく、信仰者が多いからといってそれだけで真に価値あるものでなく、それだけ多くの人々に敬われるのは、そこに非凡な才能がある証だ。ましてや、芭蕉には多くの有能な弟子がいる。それを見ただけで芭蕉の偉大さは揺るぎないものだ、と。ここで芭蕉と別れ、子規の話に戻ろう。子規の和歌と俳句の分析が面白い。和歌の美と俳句の美は、同じか違うか。そこに触れる。一般の歌人は、滑稽な歌を見てこういう。俳句としては面白いけれど、歌としてはいまいちだ。一般の俳人は、古い形式にとらわれた句を見てこういう。和歌なら興味深いが、俳句としてはつまらない。和歌と俳句は、このように異なる美をもつものか。子規は、反対する。どっちも同じ文学だという。それ以上に、和歌も俳句も文章も小説も、その美も面白さも同じものだという。和歌で面白いものが俳句ではつまらないとか、俳句で面白いものが小説ではつまらないとか、そんなことがあるわけはないのだと看破する。それぞれの文体にそれぞれの長所があり、和歌では表現しやすいが俳句では表現しにいとか、俳句では表現しにくいが小説では表現しやすいとか、それだけのことだという。子規のこの分析に、目から鱗が落ちた。この才覚はどこから生まれたものか。江戸という差別に凝り固まった時代の価値観が崩壊し、明治という大海のような真っ平らな時代の価値観から生まれた才覚か。いや、やはり子規個人の才覚と見るべきだろう。新しい日本には、物事を正しく分析判断する、子規のこの才覚が必要だと思う。



2014年1月9日 木曜日 16時26分21秒
愛しき日々。


キリストはそれを愛といい、仏陀はそれを慈悲という。この2つの心のあり方は、同じようではあるが、やはり違う。愛には、どこかカラリと晴れた青空のような明るさがある。慈悲にも明るさはあるが、むしろしっとりと苔むした名刹の庭のような感覚がある。慈悲に含まれる「慈しむ」という感覚がそうさせるのだろうか。結婚し、40余年の時が過ぎた。恋だ愛だと騒いで結婚し、息子も生まれた。当然のことながら妻と息子を愛していた。綾小路キミマロではないが、あれから40年、いま家族に対する感情は単なる愛ではない。愛着という言葉があって、好きな人、好きなもの、好きな場所などに使う。この言葉には熟成のための時間の蓄積が必要だ。だが、愛着という言葉は、どこか人間的な温かさに欠ける。どこかよそよそしいというか、事務的な響きがある。「愛しい」という言葉がある。愛とか好きとかの感情が、時の力を借りて熟成されると、この言葉がしっくりとくる。愛着よりもはるかにいい。妻や子に愛しさを感じる。このほうがいい。愛しさは、仏陀のいう慈悲とは違うが、近いものを感じる。慈しむにはどこか上から目線があるが、愛しさにはそれがない。秋たけなわの10月吉日。われら國學院大學空手道部OB会の有志が、箱根強羅の湯宿に集結した。その日はいかにも秋らしい日で、空は青く晴れ上がり、青空を背にすっくと富士が雄姿を見せた。鰯雲が秋空にいく筋もたなびいた。紅葉が始まっている。赤穂義士は47人で吉良邸に討ち入ったが、拳のツワモノどもは17人で強羅の温泉に討ち入った。静岡から5代浅井先輩が参加された。先輩は長年教育の場にいて、いまは勇退され、「毎日釣りをして暮らしている」という。細身で飄々としているが、眠狂四郎のように燃える情熱を内に秘める。同時代の部員でヤクザ組織に就職した男がいたが、「もし学生に迷惑をかけるようなことがあれば、おれは刺し違えるつもりだった」という。拳伝説を語れば9代の次呂久英樹先輩は、分厚い本の2、3冊も書けるほどの武勇をもつ。沖縄八重山出身。監督として國學院大學空手道部を日本一に導いた。道場では神の如き強さを発揮し、道場外でも多くの伝説を作った。10代小原栄哲先輩は、その風貌、その精神はサムライそのものだ。静岡で小原建設という会社を経営する。焼津に道場をもち、当然のように後輩の面倒を見る。夜、小原先輩の部屋を訪れた。「おい、この株を買っておけ。買え。損したらおれが払ってやる」と、とんでもないことをいう。帰ってその話をし、だから株を買おうと妻にいうと、「バカ」と一言で片付けられた。11代青柳先輩は、もはや怪物としか表現できない。海坊主のように頭を剃りあげ、いまにも飛びかかりそうに腰を曲げ、風のように移動する。現役時代は最高の主将だった。空手にまだ武道の香りが残っている頃だった。とある事件を起こし、そのすべてを正面から受けたのが青柳主将だった。無口だった。青梅に住み、だんべ言葉を話した。後輩たちは、その言葉さえ真似たものだった。無口だった分、この旅では壊れたラジオのようによく喋った。12代越三晋先輩は、全日本でも指折りの強さだった。少年のような甘いマスクで相手を油断させた。そう書くと先輩にポカリとやられそうだが、60年の伝統をもつ空手道部の中でも伝説的な強さだった。その強さは、攻撃と防御のバランスの見事さだ。攻撃一筋の空手道部で、受けの重要性を示した男だった。湯煙の中で、多くの武勇が懐かしく語られた。飲み、笑い、湯に浸かり、それら武勇のすべてが過去のものとなり、愛しい日々となった。だが、ふと思う。愛しさには、時間の蓄積が不可欠だが、単純に過去のものではない。あの日々は、今日も自分の中で生き生きと呼吸をしている。いまに生きる愛しいという感情。妻や子どもに対する愛しいという感情は、まさにいまのものだ。道場に行き、接する空手道部の後輩たちに感じるものは、愛というよりも、いまに生きる愛しさだ。それは、単に歳を取ったせいだろうか。



2014年1月9日 木曜日 16時25分17秒
巨鯉のうしろ姿


巨鯉のうしろ姿が好きだ。それも、大きいうしろ姿ほどいい。巨鯉を釣り上げ、大きさを測定して川に返すのだが、そんな時80センチを超える大物は、川芯に頭を向け、少し前下がりの態勢をとり、ゆったりと尾を二三度振って別れを告げると、釣り上げられたことなどすっかり忘れ、いかにも川の王者の風格を漂わせ、悠然と自分の縄張りに帰っていくのだ。進水したばかりの潜水艦が初めて深海へ向けて潜航するように、その姿はいかにも堂々としていて気持ちがいい。思わず、ありがとうと頭を下げたくなる。巨鯉は、川の中央の深みにいる。自分の道をもっている。コリドーのようなもので、日に一度か二度わが道を回廊するのだという。おそらく餌を求めての回廊だろうが、地域の顔役が自分の縄張りで己を誇示するようなものだと、わたしは思っている。鯉釣師たちは、巨鯉のその回廊を想定して餌を打ち込む。巨鯉は、川岸近くに現れるという釣師もいる。事実、朝夕には、確実に餌を求めて岸辺に寄ってくる。岸辺の積み重なった石の間に棲家があるのだ、という釣師もいる。だれもが見てきたようにいうのだが、川底に入って見てきた者はだれもいない。どの説も正しいと思う。だから、釣師たちは、巨鯉はここにいると各々に信ずるポイントに餌を打ち込むのだ。川の中心部に向けて餌を遠投するのは、今川さん、有村さん、武内さんだ。ガード下のコンクリートの橋脚の、さらにその先の深みにまで遠投する。川は、岸辺近くの数メートルあたりで一度深くなり、中心部に向かって一度駆け上がり、再び深くなっている。そこに正真正銘の大物がいると、3人は頑なに信じ、川岸近くに餌を入れることをしない。その頑なな姿勢には敬意を表する。わたしなどは、とにかく釣りたい一心で、竿を2本出し、遠投と近場に餌を投げ込む。彼らは巨鯉だけを狙い、仕掛けも「くわせ」の2本針である。わたしのような「吸い込み仕掛け」は、大物のチャンスはあるものの小物もかかる。吸い込みの団子餌は、魚寄せ効果が高いため、巨鯉よりも中型小型の鯉、鮒、ニゴイ、ハヤ、ときには鯰やブラックバスまでなんでも釣れる。1本針2本針の「くわせ」仕掛けのほうが、真っ向勝負をしている潔さを感じるのだが、飽きっぽいわたしは、ちょくちょく釣れなければ退屈してしまう。そこで、「吸い込み仕掛け」を使う。「吸い込み仕掛け」は、遠投がきかない。遠投すると着水の衝撃で団子が割れてしまう危険性があるからだ。せいぜい30メートルほどの中投となる。今川さんや有村さん、武内さんの遠投の潔さが羨ましいが、なかなか吹っ切れないでいる。先日、朝霞からきたという二人ずれの若者が、83センチの巨鯉を釣り上げた。彼らは、機関銃の台座のような最新式の道具を使い、大物狙いの「ボイリー仕掛け」で堂々と巨鯉と対峙した。その台座は、ラインをフックしておくと、獲物が当たった時にピピーッと音が知らせてくれるのだ。わたしのように120円の鈴ではない。だが、鯉にはそこまで見えないから、わたしには最新式の道具は不要だ。それに、やれ10万以上するとか、いや20万くらいだとか、最新式は高い。止めておく。朝霞の若者は、さらに60センチを釣り上げ、嬉しそうに笑った。「この川はゲストにやさしいんだよ」と、わたしは負け惜しみをいった。先週夕方、鯉が近場を回遊する時刻、餌に使っているコーンを撒き餌にしておびき寄せ、80センチを釣りあげた。この2ヶ月、巨鯉どころか鯉の顔さえロクに見ていなかったわたしには、われながらの快挙だ。回りの鯉釣仲間が帰った後だ。本当は「わーいわーい」と見せびらかしたいのに、なぜか仲間が帰ったあとに鯉は釣れる。「わーいわーい」といいたい根性がいけないのだ。そうと知りつつも残念に思ってしまう。情けない。釣師としては、まだまだ未熟者である。背後のラブホテルにネオンが灯り、川面にうっすらと赤みが映る。80センチの巨鯉は、まるで釣り上げられたことも忘れ、堂々と尾を二度三度振って自分の縄張りに帰っていった。「ありがとう」とそのうしろ姿に声をかける。やはりわたしは、巨鯉のうしろ姿が好きである。



2014年1月9日 木曜日 16時23分57秒
『時代の風』


葵の旗が時代の風を浴び、揺れる。先端で龍馬の風が吹く。1965年、京都。「いざとなったら斬りもうす」。西郷がいった。「斬るのかい、龍馬を」。勝が、西郷のでかい顔をのぞきこむ。それも仕方のないことか。もはや、自分にも西郷にも手の届かないところに龍馬は、行ってしまった。それでも勝は、「龍馬を生かしておきたい」と思う。「勝さん、徳川も龍馬を斬らなきゃならんときがくる。新撰組を押さえることができもうすか」。西郷が、目を閉じる。龍馬を西郷に会わせたのは、勝だ。龍馬は西郷を一目見て、西郷の顔の大きさよりも、人間としての大きさに心を打たれた。勝も西郷も、龍馬の人間性が好きだった。その若さが好きだ。若い情熱が好きだ。龍馬には、荒削りだが、理想がある。多くの志士たちがポリシーもなく、ただただ流行のごとく尊皇攘夷を叫び倒幕に振り回されるのと違って、理想に向かう知恵と勇気がある。なによりも、新しい時代を自分で切り拓く行動力が素晴らしい。千葉道場で剣を学び、勝海舟から世界を学び、下関の伊藤助太夫から商業を学んだ龍馬には、「時代を託してもいい」と、思う。だが、「それは夢にすぎない」と、落胆せざるを得ないことも事実だ。坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、三人が考えている日本の明日の姿は、違う。もはや、徳川幕府の崩壊は回避できない。それは、勝もやむを得ないと覚悟している。幕臣とはいえそれほど重要なポストにいるわけではない。さらに開国を唱える勝には、幕府内の敵も多い。幕府の意見もばらばらだ。西郷も、倒幕は必要だと思っている。だが、それは徳川の崩壊ではない。徳川が大政を奉還すればいい。薩摩は、長州の頑固者と違って、徳川そのものに必死の敵意を抱いているわけではない。むしろ、島津公は好意さえ抱いている。龍馬も、もちろん倒幕ありきだ。そして、西郷同様に徳川を壊滅しようとは思わない。まずは、大政奉還だ。そこまでは、三人とも同じ意見だが、その先、新しい日本の形が違う。三人の立場が違う。勝は、大政を奉還してもいいから、天皇の下に徳川を置くことを考える。だが、ここまできてしまった以上、それでは薩摩、長州、佐賀をはじめとする諸藩が許さない。となればイギリス式の議会制しかない。天皇の下に徳川を筆頭とした議会を置く。あくまでも徳川を生かす。「おれは、なんといっても幕臣なのだ」。そのために薩摩の協力は不可欠だ。西郷の力が欲しい。仇敵長州を押さえこむには、薩摩、会津、水戸、紀伊を一つにできるかどうかが鍵だ。西郷は違った。日本という国も大事だが、西郷は薩摩を愛している。薩摩の安泰がまず優先だ。国は、大久保利通や小松帯刀にまかせる。薩摩、長州、佐賀、土佐、熊本、諸藩が参加する議会制であっていい。だが、勝には悪いが、徳川は表舞台から一切手を引かせる。「おいどんは、薩摩の武士として、薩摩のために生きる」。龍馬は、もっと違った。倒幕後、大政奉還を果たしたら、イギリス式の国民代表制議会を築く。そこには、もはや武士はいない。士農工商という身分を排除し、自由を基本とした人間主義だ。それが、勝にも西郷にも理解できない。龍馬は、土佐を脱藩した男だ。組織人ではない。フリーの人間だ。「おまえはそれでも武士か」と、土佐の先輩武市半平太に問い詰められた龍馬が、「わたしは、坂本龍馬です」と答えたが、それが龍馬の大きさだ。だが、組織より人間を優先させる夢の理論だ。勝も西郷も、龍馬が好きである。しかし、龍馬の夢は徳川にも薩摩にも反する。「勝さん、自由ってなんでごわすか」。「そうさな、龍馬の自由は、海だな」。「海?」「土佐は身分制度の厳しい藩だ。だから初めは、下級武士からの開放だったろう。不自由からの自由さ。だがいまは、違う。世界を知ってしまった。海だよ、龍馬の自由とは、海だよ、人間だよ」。勝海舟が、寂しく笑う。龍馬を斬ったのは、だれか。龍馬を斬っても時代の風を止めることはできない。日本の未来のためでなく、自らの損得のために龍馬を斬ったとしたら、悲しいことだ。2013年、秋、渋谷、ハチ公前。明日の日本を夢見る龍馬たちが、自由の風を求めて交差点を渡る。斬ってはならない。




2013年10月15日 火曜日 13時46分30秒
ぼくの細道


ホットコーヒーが似合う朝、女は男に別れを告げ、ツバメが銀座に別れを告げた。ホットコーヒーが似合う朝、人生という川には澱みが必要だ、と教授が言った。ホットコーヒーが似合う朝、ぼくは南に向かう列車に乗り、ぼくの細道に旅立った。ぼくは、一茶の句に惹かれる。芭蕉も好きだが、一茶の句の日常生活をまる裸にする飾らない表現に惹かれる。「やせガエル 負けるな一茶 ここにあり」。「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」。自分の句に自分が登場してしまう。自分の句の中に自分の境遇が描く。それまでの句にある芸術性や風雅な感覚を捨て去ったところに大きな魅力がある。その掟破りがいい。彼の境遇は悲しい。父の再婚によって新しい母がきた。だが、その母は一茶に冷たい。弟ができるといっそう冷たい仕打ちとなる。見かねた父は、一茶を江戸に奉公に出す。辛い奉公暮らしの中で、句を覚えた一茶。いつも弱い立場の目線で句を作る。「やせガエル」は、一茶自身のことだ。「一茶 ここにあり」と、自分で自分を励まし、勇気づけなければならない寂しさ。「雀の子」は、一茶そのものだ。「お馬」は、冷たい母であり、横暴で勝手な世間だ。「そこのけそこのけ」と、冷たい母と世間に居場所を奪われた。従来の句の、美しいとか感動的という既成概念は見当たらない。気ままに知らない町で立ち止まり、知らない川で釣り糸を垂れる。初秋の風が川原に吹き始める午後、ついつい居眠りをする。ふと見ると、釣り竿の先に赤トンボが止まって羽根を休めている。まるで時間が止まったようだ。都会では考えられないひととき、ぼくが人間にもどる時間だ。そこで一句。「鯉釣りの 竿で昼寝か 赤トンボ」。一茶のようにうまくはいかないが、そのときぼくは、赤トンボになる。こいつ、ふて腐れて昼寝かよ、と思いながら、やはり自分もどこかふて腐れて生きているのかな、と自戒の念もこめてみる。横を見ると、仰向けになってアブラ蝉が死んでいる。白い腹に秋の陽が射している。「お陽さまに お腹さらして さらば蝉」。季節は残酷だ。残酷な季節に美を求めるのは、日本人独特の感性か。やがて陽が傾く。そろそろ竿をしまって立ち上がる時間だ。さて、今日はどこで眠るか。草むらで鳴くコオロギの声が心細い。「どん底を 這って生きよと 秋の虫」。なにやら、自虐的になってくる。芭蕉の旅の目的はなんだったろう。俳句づくりが目的か。漂白こそが目的か。それとも噂にあるように幕府の隠密だったのだろうか。「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」。「静けさや」の頭の部分で芭蕉は迷った。「山寺や 岩にしみいる 蝉の声」。これも悪くない。さて、「静けさや」と「山寺や」のどちらがいいか。「古寺や」もある。「岩にしみいる」が秀逸だが、ぼくは、芭蕉の句づくりの姿勢が好きなのだ。この迷いが好きなのだ。文章を書くという作業は、迷って迷って最後はエイヤッと気合で書くしかないと思っている。なにかを活かすということは、なにかを捨てること、まるで人生そのものだ。ところが、実はぼくはとても未練がましいところがあって、メモ用紙一枚捨てるにも躊躇する。妻に叱られる。なんにでも潔い妻の性格が羨ましい。「鯉釣りの 竿で昼寝か 赤トンボ」の句にしても、「鯉釣りの 竿で遊ぶな 赤トンボ」とか、「竿先で だれを待つやら 赤トンボ」とか、メモ用紙が黒くなるほどあれこれ書きつけて迷う。挙句の果てに、「不惑の歳」をすぎると迷いを楽しむ「楽惑の歳」になる、などと図々しい屁理屈までつける。芭蕉は最後に嘘をついた。「荒海や 佐渡に横たう 天の川」。荒海なのにどうして天の川が見えるんだ、と訳知りがいう。なるほどと思う。真偽はわからない。でも芭蕉は、象徴概念として表現したのだろう。佐渡とはそういう荒さと清涼さをもつ所なのだよ、といいたかったのだ。嘘ではなく、象徴概念の表現だ。広告コピーを書くとき、この芭蕉の象徴概念の手法が勇気を与えてくれる。さあ列車に乗って、ぼくは、ぼくの細道の旅をつづけよう。



2013年9月30日 月曜日 13時33分53秒
永遠の250分の1。


写真家飯塚武教が、突然亡くなった。彼と知り合ったのは2年前だ。銀座に「ピク光洋」という映像会社があり、そこで飯塚の写真と出会った。
中国の写真だった。海底が天に向かって突き上がったような、とげとげの山頂をもつ山々が、深い霧の奥にある。山々は、霧の濃淡と溶け合い、その色とカタチを自らの濃淡によって、まるで生き物のように呼吸をしている。
わたしが衝撃を受けたのは、その深い霧が単なる空間ではなく、時間の経過さえ写し撮っているということだった。写真は本来、凹凸もなく、時間経過もなく、一枚の平坦な表現物に過ぎない。だからこそ、写真家たちは奥行きを求め、立体を求め、そこに生き生きとした存在感や生命を写し撮るのだが、飯塚の写真には中国4000年の歴史が鮮やかに写し撮られていた。
当時、中国の兵法書「孫子」を執筆中だったわたしは、飯塚の写真に息を飲んだ。霧が晴れたその奥に、20万人の兵士がじっとこちらを窺っていると想像させた。三国志の曹操の軍勢が、息を潜めている。いや、息遣いや密やかに交わす声、馬の嘶きまで聞こえてくる。飯塚は、数千年の時を見事に写したのだった。
ある時、銀座をふらふら歩いていると、6丁目の交差点でばったり飯塚と出会った。飯塚とわたしは同年代であり、なんとなくウマが合った。それまでほとんど会話をしたことがなく、お互いに挨拶程度のつきあいだった。「どこへ?」「あっち」「わたしはこっち」「いつか一杯やりたいね」。そんな会話で右と左に別れた。ウマが合うというのは、大きな力だ。相手を理解したいとか、親しくなりたいとか、少々のことは笑って許しちゃうからねとか、理屈ばかりの世の中で理屈を越える力が、ウマだ。そんな折に飯塚の写真と出会った。群雄割拠の中国、春秋・戦国時代、野望と欲望を胸に英傑たちが、ただただ勝利を求めて生き抜いたその舞台を、飯塚はつい昨日のことのように写している。
電通という恵まれた環境の中、ディスカバー・ジャパンのキャンペーン写真を撮り、中国の写真も30年以上撮りつづけたと聞く。「写真、使わせてくれない?」。わたしは、「孫子」に入れ込む写真を飯塚に借りたいと思い、無理を言った。飯塚は、例の穏やかな笑顔で、「こんなのあるよ。あんなのあるよ」と、数百点以上の写真を並べてくれた。その一枚一枚に驚く程の物語がある。たった1回のシャッターチャンスのために寒風の中、一週間も石のように待ちつづけたという。たった一枚の写真のために、千キロの道を車に揺られて行くのは当たり前だと笑う。「中国に写真を撮りに行ったのではなく、中国で暮らしたのだな」と、いつもそう思わせた。これまでの出版物の写真は土門拳の一番弟子で、仏像や国宝を撮らせたら右に出る者はいない写真家藤森武に頼んでいた。高校の同級生である藤森に甘えてきたのだが、今回は無理やり飯塚に頼み込んだ。藤森も世間では有名な写真家で、当然のことながら誇りがある。わたしは、唯一の恋人を裏切るような行為をしているのだ。渋谷の居酒屋で、わたしは藤森に頭を下げた。「無理を聞いてほしい。中国の写真に関しては飯塚に勝るものはない」。藤森武は、酒に酔うふりをしてくれた。飯塚にそれを伝えると、「悪かったね」と、一言いった。名人は名人を知る、一言だった。
本の打ち合わせで飯塚とは3回か4回会うことになった。「終わったら飲もうな」。それが二人の口癖だった。本はできた。飯塚の写真が見事に生きた。本の最終校正の後、飯塚は東大病院に入院した。余命2ヶ月。面会ができない。嘘だ。飲もうと約束したじゃないか。本ができあがり、出版担当者が飯塚のもとに届けた。飯塚は、この本に満足しただろうか。その言葉もなく、逝ってしまった。たった数ヶ月の付き合い、たった一回の仕事、酒さえ飲まないのに友人というのはおこがましいが、わたしには永遠の友となった。次の仕事の約束もしたじゃないか。シャッター速度は、250分に1だけではない。だが、わたしは思う。飯塚は、レンズ越しに永遠という時間を見つめ、250分の1のシャッターを切りつづけた見事な男だった。ありがとう、飯塚武教、いつか必ず一杯やろう。



2013年9月20日 金曜日 13時27分6秒
水平敬意


「水平敬意」という言葉はない。言葉には、具体的な行動をともなうものと、単に概念だけのものがある。もともと「平等」という言葉があまり好きではない。いまひとつ信用できない。解釈が一律でないために、だれでも自分に都合よく理解する。美しい響きをもったこの言葉は、具体的な行動をともなうがゆえの長所と短所をもっている。それに対して「敬意」という言葉は、抽象的で概念的だ。もちろん抽象的概念的ゆえの長所短所をもっているが、こちらのほうが具体性も行動性もない分だけホッとする。そこで、「平等」の短所について考えてみた。日本の「平等」は、もともと「機会の平等」を基本にしてきたが、いつの間にか「結果の平等」の方向に流されている。「機会の平等」とは、わかりやすくいえば選挙制度だ。だれにでも立候補の機会は平等に与えられが、当選か落選か、この結果は平等ではない。これが、日本の平等の基本原則だ。ここに一つのおにぎりがある。体重120キロの相撲取りがいて、体重40キロのお婆さんがいる。おにぎりは、同じ大きさのものを1つづつ渡すのが平等なのか、体重に応じて、相撲取りに3個、お婆さんに1個渡すことが平等か、これがわからない。どちらも理屈は通る。正しい答えが得られない。小学校の運動会で徒競走をやる。親たちは、自分の子どもが他のだれよりも早く走り、一等賞になるよう夢中で応援する。一等賞になった子は、意気揚々と1と書かれた赤い旗の前に並び、ノートや鉛筆をもらう。親はにこにこ笑って見ている。だが、これはぼくらの時代の運動会で、いまは横一直線に並んで、手をつないでゴールすると聞く。この「機会の平等」と「結果の平等」の決め方がわからない。民主主義と共産主義の違いかなあ、と漠然と思ったりするが、どうも釈然としない。さらに、現実社会は競争主義だから、「結果の平等」などほぼない。AKB48なんか、それはもう過激な競争で、平等なんかどこ吹く風。大企業と零細企業のどこに平等があるのか、と考えると頭が痛くなる。宝くじだって、買えばだれにでも当選するチャンスは平等にあるけれど、全員に当たることはない。言葉は概念をともない、価値観を含む。言葉が、価値を生み出す。「平等」という言葉が生み出す価値はたくさんある。だから大事な言葉だ。だけど、どうも信用できない。そこで、ふと思いついたのが「敬意」という言葉だ。「これはいい言葉だぞ」と思った。さらに、「水平敬意」という概念に思い当たった。厚い心の雲間から一条の光が差し込んだ。うれしくなった。こんな言葉はないけれど、この概念はもともと世界中のどこにでも浮遊している。ヨーロッパにはあるね、という友人もいれば、アジアにもあるんじゃないの、という友もいる。つまり、心ある人々の心には存在する概念だ。「水平」というのは、文字通り「横一直線」という意味である。「敬意」というのは、「敬う」という意味で、これは心が抱く価値観だ。簡単にいえば、「だれにでも、なんに対しても同等の敬意を払う」ということになる。自分以外の命に対して「同等に敬う心」をもつ。そういうことになる。これは心の問題だから、現実社会で競争があって、勝ち負けが生じてもおかしくない。「敬意」は、具体的な行動や現象の根底にあり、現実の行為とは違う次元の心の価値観だから、しっかりと固めておけば、現実社会での責任は問わない。だが、「平等」という言葉には、責任がある。だれもが「平等」と判断し、納得しなければならない。各自勝手に解釈するから、真の「平等」は存在しない。男女雇用機会均等法が施行されても、相変わらず区別差別が存在する。「平等」という概念には賛成するが、現象を見ると疑問が沸く。だから、行動や現象にとらわれない「敬意」という概念にホッとするのだ。さて、そこで「水平敬意」だ。人は、自分以外の命、たとえば老若、男女、外国人、犬、猫、鳥、花、樹木、虫等に対し「水平敬意」を抱くことができるか。できる。心の持ち方ひとつ。日本古来の神道の概念。これをみんなと語ってみたい。この言葉が流行ると、みんなきっと、もっとすてきな人間になると思う。



2013年9月20日 金曜日 13時14分37秒
ワイン通?不通?普通?

ワイン通?不通?普通?

決してワイン通ではない。むしろ不通だ。高校のとき銀座のバーでアルバイトをして、カクテルはいくつか覚えたが、ワインの勉強はしなかった。機会がなかった。その頃、ワインというより葡萄酒といっていた。ロマネコンテなる高貴なワインを知ったのはずっと後のことだ。酒通で知られる作家が、自宅の建前のときにぶらさげて持って行き、日本酒の一升瓶といっしょに大工さん連中と回し飲みをしたという。贈った出版社の担当がびっくりして、「先生、ロマネコンテはそういうワインではありません」といい、「じゃあ、どういうワインなんだ」と、作家は開き直った。担当は、「1本10万円です」と答えた。作家は絶句し、深呼吸をしてから、「それを先にいわんかい」と、拳を振り回したという逸話がある。四谷にあるワイン協会の重鎮の酒場で、ロマネコンテを飲んだ。著名な写真家にご馳走になった。「ロマネコンテが何本か残っていますが」。オーナーが写真家の耳元でそっといったのは、有名女優がいっしょだったからだ。「おお、開けよう」。写真家が胸を張り、見栄を張った。有名女優がいっしょだったからだ。「もう1本、頼むよ」。1本を飲み終わると、写真家が追加注文した。有名女優がいっしょだったからだ。そして、もう一本。計3本を飲んだ。有名女優がいっしょだったからだ。翌日、写真家が虚ろな目でいった。「1本20万だってさ」。わたしには、ロマネコンテのうまさがわからない。だが、20万円の価値はわかる。3本で60万円。軽自動車が買える。腰が抜けた。ある年、フランス国営の船会社のコピーを書いた。担当のフランス人女性が、ワインの試飲会があるからと誘ってくれた。目の前の卓上に100銘柄を越えるワインがずらり並んでいる。わたしには、味の差がわからない。「これは、雨に濡れた子犬の味ね」なんていわれても、まるでわからない。当たり前だ。雨に濡れた子犬を、わたしは飲んだことがない。「これは、陽を浴びた枯れ草の味ね」。わからない。陽を浴びた枯れ草をくわえたことがない。わたしは、牛じゃない。しばらくして、ワインボトルの首に数字が書き込まれていることに気づく。168、255、380とマジックで書かれている。「これ、何ですか?」。聞いてみると、値段だという。いわゆる卸値だという。168は、168円。255は、255円。380は、380円だ。「こんなに安いのばっかりなの?」。そう聞くと、「この380円のワインは、日本では5000円以上になるかしら」と、平然とした答えが返ってきた。わからない。ワインのすべてがわからなくなった。わたしは、ワイン通ではなく、ワイン不通だ。いまでは、うまければいいじゃないの、と割り切って、ワイン通のご意見をストーリーとして聞いて楽しんでいる。ある年、フランス以外の国のワインが突如として、おいしくなった。オーストラリアワインのコピーを書いていたときだ。「なんで?」と聞いた。「数年前にフランスでワインの規制緩和があったせいでしょう」と、担当がいった。それまでフランスでは、ワイン職人の海外流出を禁じていたのだという。規制緩和により、腕のいい職人たちが、世界に散ったのだという。カルフォルニア、チリ、アフリカ、オーストラリア、エトセトラ、どこの国のワインもおいしい。ここ最近では、妻は、マイバスケットで買う480円のチリの赤ワインがうまいといい、わたしは、480円のアフリカの白ワインがうまいと思う。亡くなったバンジャケットの石津健介さんと、ワインの話をした。「先生は、さぞ高級なワインばかり飲んでいるのでしょうね」。とんでもない。石津先生は、顔の前で手を振った。「仲間とうまいワインの発見ごっこをしている。今度、1本持って青山の事務所にいらっしゃい。ただし、1000円以下のワインだ」。その約束が果たせなかったのが残念だ。味は、イメージ。あるコピーライターがそういった。正しいと思う。耳で味わい、目で味わい、鼻で味わい、舌で味わい、喉で味わう。だが、「雨に濡れた子犬の味」というイメージは、おそらくわたしには永遠にわからない。おいしいワインをお飲みですか?



2013年9月6日 金曜日 16時37分29秒
恋せよ龍馬


写真家が、恋に落ちた。カウンターの中から、いつも皮肉をこめた眼差しで、六本木の街と風俗と時代を俯瞰で見つめているわれらが写真家は、45歳になる家庭もちだ。
だが、恋する男はだれでも少年だ。お相手は、高知出身の売り出し中の女優。23歳になる彼女は、漆黒の長い髪と憂いを含んだブラックパールの瞳をもち、太平洋で磨かれた素肌は健康的な琥珀色だ。のびのびとした美しいプロポーション。笑顔にまだ少女の面影を残す。
彼女主演の映画のポスターを撮影して写真家は、恋に落ちた。六本木、酒場「L」は午前零時を回り、客たちは引き潮のように帰った。
次の満ち潮は、午前二時だ。「あら、お出ましよ」。カランという扉の音が鳴ると、窓際のスタイリストが振り向いて言った。写真家がカウンターの中でうなづく。飾り気のない白いシャツとホワイトジーンズの彼女は、まっすぐにカウンターに向かい、座った。
写真家が、慣れた手つきでスコッチのボトルとグラスとアイスペールを差し出す。二人ともムンク貝のように押し黙ったままだ。それで十分会話している。グラスにウイスキーを注ぐ彼女の黒真珠の瞳は輝きを増し、写真家に向けられっぱなしだ。30分もしないうちに彼女は、われらに爽やかな笑顔を残して帰った。
そんな日々が続いた。だが、次の映画にクランクインすると、彼女の姿を見ることはなくなった。週刊誌は、二人の破局を伝えた。「破局もなにも、恋なんかなかったさ」。写真家は小さく笑った。嘘の下手な男だ。
「写真の勉強をしたいというから教えただけさ」。横顔に、恋を失った少年の切なさがあった。有名小説家と次の恋が噂される頃、彼女はアジアの子どもたちを撮影した写真展を開き、好評を得た。「高知出身のあの娘は、坂本龍馬そのままだ。人と出会って自分を高めて
行く。おれともそうさ。恋なんかじゃなかった。でも、いい写真を撮った。うれしいよ」。六本木の恋は、草原をわたる疾風のように、一瞬で駆け抜ける。だが、この街の切ない恋風は、女と男を成長させる。
tagayasu@xpoint-plan.com



2013年8月12日 月曜日 12時29分22秒
銀座玩具箱


初めて銀座で働いたのは、高校2年の時だ。銀座と新橋の間にまだ運河があった。「銀座九丁目は水の上」という神戸一郎の歌の通り、泥だらけの運河に赤いネオンが映っていた。高校生のわたしは、とにかく銀座に憧れてバーテン見習いの仕事をした。学校にはナイショだった。部活が終わると吹っ飛んで銀座に行った。なにもかも未知の街は、すべてが興味深かった。8丁目の路地裏にあるバーの鍵を開け、店の掃除をし、グラスを磨き、カウンターを磨き、ウェイトレスたちの夜食を作った。一日のバイト料500円は大金だった。帰りはタクシーで下落合に帰ったが、その料金が500円だった。店の前に「コンパル」という美人喫茶があって、コーヒー代が800円と聞いて目を回した。ウェイトレスはみんな女優のような美人で「これならコーヒー代が800円でもいい」と、納得した。東宝の人気スター宝田明と競演した香港の人気女優「ユーミン」が、一日ウェイトレスでコンパルにきた時は、店は大騒ぎとなった。顔見知りになったウェイトレスのお姉さんが、高級レストランに連れていってくれた。下落合では見たことも聞いたこともない洋食を食べさせてくれた。うまかったかまずかったか覚えていない。きっと美しい顔に見とれていたのだ。普段はかわいいと思っていた同級生の女の子たちが、みんなイナカモンに思えた。日劇の踊り子さんたちが、お客さんといっしょにきていた。大手銀行の新橋支店長が、「こちら賠償さんね、こっちが三田さんね」と、若い踊り子を紹介してくれた。賠償千恵子さんと三田佳子さんだったと思う。その支店長さんが趣味で絵を描き、「絵が売れた。これチップ」と、500円札をくれた。悠々とした紳士で、ブラック&ホワイトウイスキーをゆっくりと口に運ぶ穏やかな表情を見て、「こういうオトナが日本を支えているんだな」と感心し、安心もした。宮坂文彦さんというバーテンさんが、兄のように面倒を見てくれた。兄のないわたしには、すてきな兄だった。いつも糊のきいたワイシャツを身につけ、高級なネクタイをしめた品のいい人で、成城大学の出身だと聞いた。カクテルの作り方、シェーカーの振り方を教えてくれた。人との接し方を厳しく教えてくれた。格闘技ばかりしていたわたしに、人を不愉快にしない目配りを教えてくれた。言葉づかいの一つひとつを教えてくれた。店が終わった深夜、タクシーで六本木の「チングリ」というバーに連れていってくれた。乃木坂の近くだった。「チングリ」とは、ドイツ語で「頭脳」という意味だと店名で知った。六本木には米軍キャンプがあって、プロレスの力道山の店があった。町中がキラキラ輝き、不夜城だった。本を読みなさい、大学に行きなさい。宮坂さんは、いつもそう言った。「バーテンは一生の職業じゃない。きみは大きな世界を羽ばたきなさい」。自分がバーテンのくせにそう言った。バーテンをやってみたいと思ったのは、石原裕次郎の影響だった。映画「錆びたナイフ」「俺は待ってるぜ」を観て、「男は必ず悔いるような過去をもち、それでも夢にすがり、バーテンとしてひっそりと街の片隅で暮らすものだ」と、高校生のわたしは思い込んだ。銀座の旦那衆にいろいろ教わった。老舗の苦労と喜び。金持ちの苦労と喜び。男女の美しいストーリーと醜いストーリー。親子兄弟の美しい物語と醜い物語。友情の儚さと大切さ。銀座のバーは、学校では学べない人間の生き方を教えてくれた。あれから月日は流れ、いま、わたしは銀座にいる。弟の勤めている会社が銀座にあり、ちょくちょくお世話になっている。弟の世話になる情けない兄貴になっている。銀座は変わった。いいも悪いも含めて変わった。「それでいい」と思う。「それがいい」と思う。街は生き物だ。時代に敏感でいい。流れていい。流されるのではない、自分で流れるのだ。そうして発展していくものだ。銀座は、わたしにとって玩具箱のような街だ。そう、「遊び飽きたらまた明日」。わたしのようなよそ者にとって、銀座はどう変わろうとも、永遠に日本一の見栄っ張りの「憧れの街」なのだ。
tagayasu@xpoint-plan.com



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