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●2006年、メディア革命の始まりか。

1615年、瓦版発行。1868年、新聞発行。1925年、ラジオ放送開始。1953年、テレビ放送開始。2006年、パソコン・テレビ本格普及開始。1953年以来、マスメディアの王者としてわれらの生活の大草原に君臨してきたテレビが、いま、その無敵の牙を抜かれようとしている。とって変わろうとしているのが、パソコンで番組を見るパソコン・テレビだ。このパソコン・テレビがマスメディアの大草原の王者の座につくのは時間の問題である、という意見をもう見逃すわけにはいかない。普及速度が想像以上に早いからだ。かつて新聞が王者であり、ラジオが追い上げ、次いでテレビが天下を取ったようにマスメディアの大草原の変遷は、振り返って結果論からみるとごくごく必然の成り行きとも思える。昨年から浮上したパソコン・テレビの波は、ギャオ、第二日本テレビ、民放テレビ局数社と電通による新会社の設立、スペースiの3月スタート、とすでに大きな渦を起こし始めている。だが、テレビが本当に王者でなくなるのか。パソコン・テレビが地上波テレビを飲み込み新しい王者になりうるのか。これは実に興味深い。ライブ・ドアがなぜフジテレビに触手を伸ばしたのか。楽天がなぜTBSとの提携を考えたのか。それは、従来のテレビの限界を見据えた行動であり、ブロードバンドの可能性を実感してのことだと思う。なぜ民放各社が巨大なメディア価値をもつ既存の地上波放送と敵対するパソコン・テレビに手を出すのか。本来禁じ手であるこの行動にも時代の大河の流れに逆らいきれない凄まじい圧力を感じるのはわたしだけではないだろう。

●テレビよ、どこへ行く。
そこで、テレビの衰退(かどうかまだ不明だが)の理由とパソコン・テレビの浮上(かどうかまだ不明だが)の理由をみてみよう。この両者の関係が、陰と陽、裏表であることに注目してみる。まず第一には、それまでの映像文化の牽引力であった映画と比較し、お茶の間で自由に鑑賞できるという極めて個に近い状況を実現して歓迎されたテレビだが、実際には家族みんなが同時に見る機会も多く、個に徹することが不可能であったという事実。(自部屋で個人で見ることはできるのではあるが)。それに引き替えパソコン・テレビは個に徹することができる。とにかくパーソナルである。これが強い。映画に対するテレビの登場の強烈さとは違うインパクトをもち、いっそう明確に差別できる特質である。第二に、テレビの中途半端な双方向性よりもはるかに優れた双方向性をパソコンがもっているということである。やがて、テレビがデジタル化されると双方向性はさらに高度になるというが、いま現在パソコンには確実に水を空けられている。第三に、番組(コンテンツ)である。テレビはあまりにも雑に番組を作りすぎた。視聴者に媚び、視聴者に飽きられた。獅子心中の虫である。もう切り替えは無理であろう。これまで独り相撲であったから仕方のないことである。だが、強力なライバルが現れた。双方向でコマーシャルを見てすぐ購買できるパソコン・テレビに広告主が動いたらどうするのか。パソコン・テレビは即購買につながる。効果あっての広告である。テレビに新しい道はあるのか。デジタル化に対する期待は大きい。





イラスト:松本隆治


●コミュニケーションは不死鳥の如く。

それは印刷機の発明のように、それは蒸気機関車の発明のように、それは飛行機の発明のように、いま、コンピュータというハードの発明は世界を飛躍的に変えようとしている。それらの発明の偉大さは紛れもないことである。世の中は大きく変わって行くのだろう。だが、人間がココロというソフトを大切にする以上、ハードだけでは社会が成立しないことも自明の理である。ココロの交流。情報の交換。それは不滅だ。イヌはイヌ同志、ライオンはライオン同志、鳥は鳥同志、イルカほイルカ同志、ミミズはミミズ同志、各々の会話や情報交換は生きるためのビタミンである。必須条件である。人間と人間、そのコミュニケーションは不滅である。心配はコミュニケーションの方法と質である。バーチャルで満足すればそれでいいではないか、という理論にはどこか恐いものがある。ココロを伝え、本質を伝えるのは人と人のリアルなふれあいではないか。テレビもパソコン・テレビもケータイも、ふれあいにはとてもかなうものではない。ふれあいこそが世界を救うのです。年頭に当たり、不滅の「ふれあいコミュニケーション」に乾杯する意味で、メディア状況をのぞいてみました。