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ニューヨーク5番街57丁目でタクシーを降りる。結婚指輪を買うためだ。彼女はティファニーのショウウインドウをのぞきこみ、振り返って彼を見上げ、微笑む。大きくなくてもいいのよ。指が疲れるから。なに、指が骨折するほど大きなダイヤを買ってあげるさ。昨日もいったように中2階の特別室に招待されているわけじゃないから、大きいといっても限度はあるけどね。ティファニーの中2階の特別室は、最低でも1000万円以上のものしか置いていないという評判だ。ティファニーが王侯貴族を客としていたときの名残をいまもとどめているのだ。カリナンやコイヌールがほしいなんていわないから大丈夫よ。彼女が笑う。カリナンは、昨夜彼から聞いたダイヤモンドの名前だ。3024カラット。1905年に南アフリカで発見された世界最大のものといわれている。昨夜、2人はホテルのバーにいた。バーは空いていた。だが、テーブル席でなくカウンター席に座った。古いが手入れの行き届いた重厚なウッドのカウンターをひと目見て彼女が気に入ったからだ。彼はバーボンウイスキーを頼んだ。奥さまは何をお召し上がりになりますか?品のいい、高齢のバーテンダーが彼女に開いた。奥さまという言い方が彼女を喜ばせた。ジンベースのカクテルを彼女は頼んだ。2人はグラスを合わせた。明日はティファニーに行こう。彼がいい「朝食を食べに?」と彼女が聞いた。そうだ、ついでにダイヤを買おう。結婚指輪ね。うれしいわ。カリナンという世界最大のダイヤがある。掘り出されたときは片手では握れないほどの大きさだった。なにしろ3024カラットだ。でも、これは買えない。もちろん、ティファニーには置いてない。南アフリカ政府に買い上げられ、エドワード7世のバーズデープレゼントとして献上されたんだ。アフリカからイギリスに運ぶのに苦労したという話だよ。盗まれるからね。まだ、飛行機がなかった時代だから大変だ。結局、普通小包で送ったらしい。あら、普通小包なの?せめて書留で送ればいいのに。誰でもそう思うだろう。そこで石ころを詰めた書留小包をダミーとして同時に送った。どうしたと思う?盗まれたの?そう、1時間足らずのうちにダミーは盗まれた。厳重な警戒の書留より普通小包のほうは安全だったというわけだ。おかしいわね。当たり前のようでいておかしい話だわ。彼女は、3杯日のカクテルを注文しながら笑った。いま、カリナンはどこにあるの? 5つに分割されてイギリスのロンドン塔の宝物殿で眠っている。眠らせておくなんて残念だわ。だけど、もともと地球の懐深く眠っていたものだからね。それはそうね。彼はバーボンのお替りを頼む。高齢のバーテンダーが穏やかに微笑む。もうひとつコーイヌールという有名なダイヤモンドがある。それはティファニーにあるの?それを買ってくれるの?バーテンダーが彼に向かって片目を閉じて見せる。これも買えない。大きいの? うん、大きすぎる。指を骨折する。14世紀にインドで発見されたが、発見されたときは800カラットあった。なるほど、わたしの指こは少し大きすぎるわね。彼女は自分の左手を間接照明にかざしていう。コーイヌールは数奇な運命をたどって有名になったダイヤなんだ。じゃあ、いらない。数奇な運命はごめんだわ。最初に手に入れたのはムガール王国の国王だった。18世紀にペルシャのナジル・シャーの手に渡り、シャーが暗殺されるとアフガニスタンのアーマッド・アブダリの手に渡った。その後、アーマッドの息子たちの王位継承にまつわる争いの中でダイヤはカブールやラホールを転々としたという話だ。希少が生んだ数奇な運命というわけね。そうだ。シーク戦争の後、イギリスの東インド会社のものとなったが、1850年にピクトリア女王に献上された。そのときは原型を保っていたが191カラットになっていたという話だ。カリナンもコーイヌールも、わたしはいらないわ。ムーンリバーを歌いながらティファニーで朝食を食べれば、それでいいの。それが、2人の昨夜の会話だった。ダイヤモンドも今でなくていいのよ。彼女がいい、必ずいつか買うよ、ティファニーで。彼がいった。彼女が茶色の袋からフランスパンを取り出し、振り向いて彼を見てうれしそうに笑った。ティファニーではもちろん朝食は食べられない。あなたと結婚できるのね。それだけでいいの。いつか買うさ、必ず、骨折するようなダイヤの指輪。彼がいい、フランスパンを口に運んだ。ゆっくりとムーンリバーの曲がティファニーに流れた。二人の耳には確かに聞こえた。


文・高野耕一
絵・佐川能智