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「明治・大正・昭和業界三世代史」のコラム

■「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」を設立して団体を統合一本化 ■2018年3月5日 月曜日 12時41分33秒

全国他団体の組織化を決め、結成に到る斡旋を連盟側に一任

《昭和十五年》 この当時は、業界の救済的団体として人気を高めていた金銀製品商連盟は、その事業とする金銀製品の買入が第一回に次いで第二回に亘り行われた昭和十五年六月の頃、突如として時計、眼鏡、装身具業界全般を統一した団体の結成を提唱して来た。これは金銀製品の買入れ事業を通じて業者側の便利さを眼の辺りにしたことから起った必然的な声であった。そこで、金銀製品商連盟では、業者側の要望に応えて次のような設立趣意書を配布した。

「結成ノ趣意書」

政府が所謂七・七禁止令ヲ以テ奢侈品ノ全面的管理ヲ断行セヨトスル時二当り、全国ノ時計、装身具業者モ亦進ンデ現時局二対処スル充分ナル認識ヲ以テ国家ノ新体制二順応スべク且ツ斯業経営ノ将来ノタメニモ全国関係業者が一大団結ヲナスベキコト(当然考慮セラルベキ問題デアル。
当時の業界世論に応じて金銀連盟は右の趣意書を配布すると共に六月十日右団体の設立小委員会をまず開催した。この日集った団体は、連盟関係の外からは、次の十団体名があげられ、その代表者が列席した。

△東京貴金属品製造同業組合(久米武夫、松山繁三郎、溝口万吉)、▽大阪時計貴金属商工組合(中里治三郎)、△神戸明石時計貴金属小売商組合(柴崎安雄)、△東京時計側工業組合(在間朋次郎)、△神奈川県時計眼鏡商組合連盟(石田修一)、△全京都時計貴金属商組合(小西一郎)、△名古屋時計商業組合(水渓直吉)、△東京輸出金属雑貨工業組合(梶田久冶郎)、△東京装美会(越村暁久)、△東京腕時計バンド卸商業組合(外園盛吉)。

この委員会では、満場一致で全国他団体の組織化を決め、結成に到る斡旋を連盟側に一任することに決定した。而して、この決議に基き、連盟側では急速に推進を計り六月二十九日、十六の関係団体の代表二十八名の参集により、全国を統一する団体の結成は時宜を得たものであるという意見で一致し、その結果七月五日、東京・神田・一ッ橋の学士会館において設立委員会を開催する運びとなった。新団体の名称は、「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」に決った。かくて連合会は同年十月二十四日盛大に開催した。

■団体名は「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」に ■2018年3月5日 月曜日 12時40分42秒

設立の趣意としては

《昭和十五年》 今ヤ我等業界ハ政府ノ金国策二即応シ生業報告ノ実ヲ示シツツアルコトハ銃後国民トシテ本懐トスル所ナリ、而シテ国際情勢ノ発展ニヨリ愈愈緊迫セル国家ノ現勢二鑑ミ我等業界二於テモ新タナル指導原理ノ下二新体制ヲ確立シ以テ国策二順応スルト共二、業者生活ノ安定ヲ期シ併而将来ノ国際経済戦二寄与セザルベカラズ、玆二業界ノ有志相図り社団法人金銀製品商連盟ノ斡旋ヲ得テ全国組合連合会ヲ組織シ政府ノ指導ノ下二別二定ムル所ノ綱領ニヨリ叙上ノ目的ヲ達成センコトヲ期ス。

綱 領
@ 全国業者ヲソノ職能技術二応ジテ製造、卸、小売ノ業態二従ヒ新体制二帰属セシムベキ限界ヲ定ムルコ卜
A 日常生活二必要ナル工芸資材ニツキ適当ナル限度ヲ定ムルコト
B 生産資材ノ配給斡旋機関ノ統一ヲ図ル事
C 商品ノ適正円滑ナル配給ヲ図ルコト
D 政府ノ低物価政策二順応スル価格ノ規正ヲ図ル事
E 我国ノ特能タル美術工芸ノ技術保存二務ムル事
F 現存スル製作技術、設備、資材及販売機構ヲ以テ努メテ輸出振興ヲルコト

選任された役員
▽会長=東郷安、▽副会長=宮村暦造、▽常務理事=川名啓之、亀山末義、越村暁久、五味行長、外園盛吉、松山繁三郎、森川浅次、▽顧問=矢板玄蕃(その他省略)。
(注)連合会の称号は、眼鏡業界の要請を容れて「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」と改められた。
かくて連合会の結成を見るや、商工省からは逸早く業界事情の調査方を要望し来り、特に七・七禁止令により販売を禁止せられたる手持商品の実態に関しての諮問があったので連合会では直ちに全国の加盟団体にこれらの申告を手配した。連合会がその使命の前に活動したのはこの調査が第一歩である。

■連合会が企図した手持ち商品の展示会を東京美術倶楽部で開く ■2018年3月5日 月曜日 12時39分46秒

商工省、大蔵省、警視庁、東京府市市長ら大勢を招いて

《昭和十六年》 商工省からの調査、即ち七・七禁止令による業者手持の巨額な商品の届出に伴い、これを如何に処置すべきかの根本的対策を考究すべき必要が起って来たのは当然である。その一つの方法として連合会が企図したものは業界商品の展示会であった。販売を禁ぜられたあらゆる商品を一個所に陳列、商工省、大蔵省、その他の当局者を招請し、処理に関する適当な指示を仰ぐというのがねらいだった。昭和十六年、一月二十四日、東京美術倶楽部でその展示会を開催した。そしてその席に招請した人達は次の如くである。
(商工省)商工大臣以下二十七名、(大蔵省)大蔵大臣以下十七名、(警視庁)経済保安課長以下八名、(東京府市)府知事以下八名、(その他)東京商工会議所会頭以下十九名、(業界関係者)二十四名。
かくして商品展示会における実情に基づき、昭和十五年二月一日を期して禁止商品処理対策のための協議会が開催された。
商品展示会ノ目的ハ官民相互ノ認識ヲ具体化シテ新進路ヲ見出スコトニアリ。連合会ハ此ノ機ヲ逸セズ加盟団体代表宅ノ手二依り商品別二一貫シタ参考資料ヲ作図シ関係官庁二示シテ処理解決ノ途ヲ見出スベキデアリソレニ向ツテ努力スル。
という東郷連合会長の主張に依って、新たに禁止商品処理対策部会なるものが設けられることになった。その部会の組織に就いては、所属組合関係から委員を選出して小委員会を作る事とし、三十四名の委員が指名された。
また対策部会の活動は、逐次その目的達成の緒に就き、全国業者にとっても大きな期待の的となった。然し、その後において刻々と変化する時局の流れは、余りに慌ただしく、連合会というものの活躍を促がすべき機会にあわずして、年を閲みすことになったので、その間、東郷会長は連盟会長の辞任と共に連合会々長をも辞せられることになった。遂に昭和十八年六月の連盟役委員会において連合会の存否が議題に供せられた結果、当分は存続せしめるということになった。

■日本美術工芸品輸出株式会社を創立しようと新しい構想が ■2018年3月5日 月曜日 12時38分57秒

金銀連盟の前進体制

《昭和十六年》 戦局は次第に大きくなり、昭和十六年遂に大東亜戦争へと拡大していった。そのおかけで時計業界への打撃はすこぶる大きくなった。この頃、業界に存在する事業団体の種類は、金銀連盟という一体制に限られるようになって終った。だからこの連盟は、業者の手持商品を集めたものの、その処理という段階になって輸出会社を作ることにした。同時に並行して、一本化した全国的組織の組合作りの考え方が浮上してきた。別項参照)
業務の前進という点から考えたのであろう。日本美術工芸品輸出株式会社を創立しようと新しい構想が打出されるようになって来た。然しこうなって来ると、これまでやってきた連盟の事業は、時計貴金属商が持つストック品の処理という目的に重点がおかれていただけに、業者側としては時局性から考えて、新たに設立しようとする日本美術工芸品輸出KKという会社設立の目的は、金銀製品を更に一歩加重した範囲の完全なる新規の事業体になるものだという批判が投けられるようにもなって来た。
業界内部の意見がそのように傾いた状況を取上げたのは、当時の業界紙としては本社がただ一社。もっともこの頃は、既に一、二の業界紙しか存在しない時代でもあった。そんなような空気の中ではあったが、金銀連盟を作り上げたことで強気の波に乗っていた矢板玄審氏と、越村暁久氏の献策が進んでいった。日本美術工芸品輸出KKは、兎に角設立することになった。この会社の設立の記録を参考のため記すことにする。

■「日本美術工芸品輸出株式会社」の創立経過 ■2018年3月5日 月曜日 12時38分5秒

全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会の結成の時と同じく

《昭和十六年》 聖戦既二四年ヲ閲シ我皇国ハ大東亜建設ノ理想実現ノ為メー高度ノ国防体制ノ確立ヲ婀シソノ国策ノ基調ハ声明セラレ各種産業ハ業種別二凡テ公益先ノ理念ノ下二統制アル団体ヲ整へ以テ新体制二順応シツツアリ。
我業界二於テモ構想ヲ新ニシテ激動ノ渦中ニアル業者ヲ扶ケ輸出事業二全力ヲ尽サシメテ海外新市場ノ開拓ヲ図り併圜外貨ノ得得ヲ期セントス。
日本美術工芸品輸出株式会社ハ上記ノ趣旨二基キ政府指導ノ下二社団人金銀製品商連盟ヲ母体トシ関係有志ニヨリ設立シタルモノニシテ洽ク之ヲ公開シテ業界ノ進展二資セン亊ヲ期ス。
以上の趣旨によって輸出会社が創設することになった。その議の起ったのは昭和十五年八月二十九日に役員会を開いた席上で、然も全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会の結成の時と同じくしている。

■日本美術工芸品輸出社の創立発起人 ■2018年3月5日 月曜日 12時37分6秒

会社の事業目論見書

《昭和十六年》 一、本会社(日本美術工芸品輸出株式会社卜称ス、ニ、本会社(資本金五万円(一株五抬円)壱千株トシ第壱回払込金壱万弐千五百円(一株拾弐円五拾銭)ヲ以テ事業二着手シ必要二応ジ第二回以後ノ払込ヲ行フモノトス(註=後二「資本金拾万円、第四回払込金弐万五予円」卜改ム)、三、本会社(公益優先ノ新体制二則シ組織アル統制ノ下二社団法人金銀製品商連盟ノ蒐集セル商品其他貴金属工芸品ヲ輸出スベク必要ナル事業ヲ行フモノトス(註=後ニ「コノ会社ハ国家ノ輸出統制ノ下二金製商品其他貴金属宝石及美術工芸品ノ製造売買及輸出並二此等二関シ必要ナル事業ヲ行フモノトス」卜改ム)
この会社設立発起入会が開催されるや、引続いて第一回払込を行うという超スピー度ぶりで、創立発起人には次の諸氏があげられた。
▽社団法人金銀製品商連盟=安藤善親、池田嘉吉、生駒権七、岩佐公崑、江藤順蔵、梶彦兵衛、梶田久治郎、亀山米義、久米武夫、越村暁久、小林伝次郎、坂本正造、武藤跌次郎、在間朋次郎、鈴木一郎、関屋延之助、田中淳一郎、東郷安、中里治三郎、中村善太郎、野村菊次郎、土方省吾、丸木真、外園盛吉、松田幸治邱、松山繁三郎、宮本英三、山崎亀吉、山岡清、矢板玄蕃、吉田庄五郎の各氏。
然しここまでは、一応進んでいたが上海及び南方に対する輸出状況と時局の急激な推移がからんで輸出会社の創設必要条件を見ることがなくなり、此の計画は一時留保の形となって越年した。然し、昭和十六年に入って再び此の計画の実行を促し、五月五日、商工省鉱山局、物価局、貿易局の課長級事務官等十数氏が連盟側代表と会談した。
この結果、商工省当局は急速且つ積極的に設立されるよう希望するところがあったので連盟でも一応同調に傾いたが、これに対して商工省当局としては、次の意見を持っていた。つまり、連盟が資材の配給及び業者の指導監督に当ることは結構であるが、輸出の事業目論見は既存商社の権益を阻害する結果ともなる憂いがあるとした。従って連盟としては、まず一商事会社を設立して置くことを良氏として、そうなれば其の業績の如何によっては、商工省公認とする事を考慮することあるべしという意見が述べられた。これによって設立機運は漸次促されたのである。
然し、反面業界の事情もこんがらかるようになって来たことから、結実の運びに到らずしてその侭持越しの形となっていた。そこへ又戦局のかれいさが加わって※だので、十八年七月に到って連盟解散の声があげられるようになり、状勢の変化と共に遂に流産の悲連に終っている。

■東郷安会長が、昭和十八年六月に連合会の会長を辞任する旨表明 ■2018年3月5日 月曜日 12時36分13秒

金銀連盟の解散と清算

《昭和十六年》 理想と現実は、常にマッチし難いものであるという実態がここに現示されるようになった。即ち、金銀製品商連盟としての事業は、国策的見地から理想的に進められてきたが、それを基盤に一歩進めた全国組織の統一、日本美術工芸品輸出KKの設立問題などが生れて来た派生条項を中心に、業界方面からはいろいろな批判が投げられるようになってきたのである。このような雰囲気に堪え難い感情に包まれていた会長の東郷安氏は、昭和十八年六月の連盟役員会の席上で、連盟と共に連合会の会長を辞任する旨表明した。遂に十八年七月二十四日の役員会において連盟の解散が議決されるに及んで、連合会も自然消滅の運命を辿ることになった。
以上のような時の状勢から第五回目の上海出荷を最後に金銀連盟の事業は創設の使命に対して終止符を打つことになった。連盟は、ここに有終の美を遂ぐる如かすとの結論に到達したのである。解散に関する一切の処理は、八月二日解散許可申請書を大竹商工両大巨に提出、八月二十五日解散許可の指令に接し終幕となっている。解散時の管理と清算状況は次の通りである。
一、銀行預金=約 一、九〇七、〇〇〇円
二、見本商品その他の資産=三〇、〇〇〇円
三、借入金ナシ
江藤順蔵、梶田久治郎、久米武夫、原清、中里治三郎、▽窩柯暦造▽矢板玄蕃(▽印は代表清算人)の諸氏が決定せられ、当局より解散許可せられるや直ちに清算人の登記、解散の公告、基本金の返済委託商品の返品、推定債務の支払等予定通りに清算事務を進捗せしめ、十一月十八日解散公告期満了、期間中新規債権の申出もなく清算も滞りなく終了、その剰余財産の処理については、主管当局の指示に依り左の通り処分を了して竝に光輝ある終幕を告げたのである。
一、財団法入財政金融会へ寄付=五〇〇、〇〇〇、〇〇円
二、社団法人金銀運営会へ寄付=一、二〇五、〇〇〇、〇〇円
三、預金及現金以外の資産は一括して社団法人金銀運営会へ寄付
四、桐友会及桐花報国会へ 各一万円寄付
斯くして連盟の最後を飾る解散式は、諸般の準備を終り、九月二十一日麹町丸ノ内大東亜会館に於いて関係官民百数十名が列席して厳粛に挙行された。
足掛け五年、丸四年の極めて短い存在に過ぎない連盟ではあったが、その間、金に関する国策に順応して政府の施策に寄与し、支那事変に始まって大東亜戦争に到るまで前述の業績が示す如く、業者提供の金製品の活用によって、職域奉公の実を挙げ得たものである。解散時に際し、連盟は大蔵大臣より感謝状を授与せられた光栄に浴した。

■戦時体制下、社団法人金銀製品商連盟設立の時の足取り ■2018年2月28日 水曜日 15時9分47秒

会長の選定には男爵の東郷安氏を起用することに決めた

《昭和十四年》 時計とその附属品、貴金属宝石類の総てが販売を禁止された昭和十四年
頃の業界は、戦争のための対策ということで、ただあわてふためいていただけで、これといってまとまるものは何一つとして見られなかった。
聖戦の趣旨に応えて一億国民は、ただ奉公の至誠に燃ゆるのみという状態であった。
この時計貴金属業界を代表して貴族院議員に政治籍を置いてあった山崎亀吉氏が考案して、大蔵省の銀行畑の古手役員の矢板玄蕃という人を活用、埋もれた貴金属品の処理について相談したものである。その結果、会長の選定という件について、男爵の東郷安氏を起用する案が出来上った。それによって「金銀製品商連盟」なるものを設立しようという機運になったのである。
この話は、私が梶田、越村氏などと一緒に中支那方面への経済視察から帰ったばかりの夏の頃、山崎氏から梶田氏に相談があり、それから越村氏が私に意見を求めたものである。
その結果発足へのコースをとったのである。かくして、昭和十四年の十月五日、東京会館で設立認可の披露会が催されている。従って戦時下におけるこの当時の業界体制は、この団体一本の息吹きにしぼられたものといって過言ではない。社団法人金銀製品商連盟設立の時の足取を辿ってみると次のような概要である。

■昭和十四年七月二十九日「社団法人金銀製品商連盟」が発足した ■2018年2月28日 水曜日 15時8分51秒

大蔵省の肝いりで連盟の設立趣意書などが決まる

《昭和十四年》 「金二関スル国策ハ現理事変進展ニツレ益々其重要性ヲ増加シツツアリ我等金銀製品販売ヲ業トスル者ハサキニ政府ノ国策二順応シテ金地金蒐集二当り多大ノ国家的貢献ヲナシ得タルハ銃後ノ国民トシテ密カ二本懐トスル所ナルモ今ヤ全国策ノ遂行ニツレ更二業者保有ニカカル金銀製品ヲモ挙ゲテ之ヲ中央二蒐集シ、独り国家財政ノ根本ヲ培養スルニ努ムルノミナラズ、進ンデ其ノー部ヲ海外二輸出シ仍テ以テ外貨ノ獲得二資スルコ卜ハI属国策二順応スル所以ナリト謂ハザルペカラズ」。
この計画は、昭和十四年の六月十日大蔵省迫水金融課長、西原事務官臨席の下に、山崎首長を主唱者として細沼浅四郎ほか九氏の業界代表者が設立協議会を開いたのに始まり、以来数次の準備委員会を開催して着々と結成の歩が進められたのである。
この間、政府側からと関西業者の代表者を網羅し、全国の団体としたい希望もあったので、第一回設立協議会には大阪から辻田峰次氏ほか、中里、生駒、梶、江藤の四氏の賛同を得て、かつ業界外からは、男爵の東郷安、矢板玄蕃の両氏が参加した。かくして七月二十九日の設立委員会となり、社団法人金銀製品商連盟の発足を見ることになった。
この委員会には、東郷男爵を会長に、矢板氏を専務理事、越村暁久氏を常務理事に推挙、創立委員長に山崎亀吉氏を顧問に推戴し、兼ねて評価委員長を委嘱し、滋に機構の大綱が完成することとなった。
紆余曲折を経て設立までに漕ぎつけた亊は欣快に堪えない。役所(大蔵省の調)としてはこの連盟に対し全幅の支持を為すものであり、各位は一体となって、この事業の完遂に当られん事を切望する……というのが、席上における大蔵省の迫水課長の激励の辞であった。

■社団法人金銀製品商連盟の事業計画書 ■2018年2月28日 水曜日 15時7分18秒

政府指導の下、国庫に収納又は輸出を試すものとする

一、 本社団法人は、「社団法人金銀製品商連盟」と称す。
二、 本社団は、国策に順応し貴金属製造卸業者及小売業者より商品たる金銀製品及び宝石類その他を蒐集して、政府指導の下、国庫に収納又は輸出を試すものとする。
三、 本社団は、この目的を達成するために、定款第四条に則り、以下の事業を行うもの
とする。
(イ) 同業者が保有する金製品の買い入れ及びその処分。
(ロ)同業者が保有する銀製品の買い入れ及びその処分。但し、本項(イ)と必ずしも同時に行うものに非ずして時局の推移により必要と認められる場合において行うものとする。
(ㇵ)同業者が保有する製品たる貴石類の買い入れ及びその処分。
(二)金銀白金に代用すべき地金の配給斡旋。
(ホ)この他この社団法人の目的達成に必要なる諸事業。

■連盟設立当初の協力者が役員に選ばれる ■2018年2月28日 水曜日 15時6分29秒

東郷安会長、矢田玄蕃専務理事、越村暁久常務理事らが誕生

《昭和十四年》 因にこの間、設立の機構及び定款事業計画案などに関して、数次の会合に参加した主たる人々は、
《東京》 東郷安、山崎亀吉、矢板玄蕃、関谷延之助(日本百貨店組合理事長)、土方省吾(服部時計店代表)、細沼浅次郎(東京貴金属品製造組合理事長)、野村菊次郎(東京時計商工業組合理事長)、亀山末義(東京眼鏡組合)、越村暁久、梶田久次郎、溝口万吉(東京装美会)、山本信助、水野伊三郎(日本金地金梶j、伊藤重次郎、土屋好重(日本百貨店組合書記長)。
《大阪》 中里治三郎、生駒権七、梶彦兵衛、辻田峰次、江藤順蔵(大阪貴金属商工組合)

かくして、この社団法人金銀製品商連盟は、昭和十四年八月二日、社団法人設立の願いを東京府を経由して大蔵省、商工省の両大臣に提出、八日には日本工業倶楽部において東京関係の業者組合代表を招き、懇談会を開くと共に、大阪、仙台、札幌、金沢、新潟、広島、福岡の各地においても業者懇談会を開いた。これは、全国の業界にこの事業を周知せしめることに努める一方で、矢板専務理事が機構、事業の遂行の段取りや当局との打ち合わせとその進行に画した。実に目まぐるしいまでの活躍の中、九月二十八日付を以って大蔵省、商工省の両大臣から設立認可の指令が下され、重大局面を担って生まれた晴の子に「社団法人金銀製品商連盟」の名札が付けられることになった。
そして十月五日、東京会館で盛大な設立披露会が行われた。次いで十月十六日には、設立登記も終了し、二十六日には神田・一橋の学士会館で臨時の社員総会を開催、業界紙を交えて業界に設立宣言をした。当時の役員は下記の通り。
▽会長=東郷安、▽専務理事=矢田玄蕃、▽常務理事=越村暁久、▽理事=生駒権七、江藤順蔵、梶田久次郎、亀山末義、梶彦兵衛、野村菊次郎、中里治三郎、▽監事=関屋延之助、土方省吾、▽顧問=山崎亀吉、服部玄三、御木本幸吉、大沢徳太郎。

■金銀製品の買い入れ制度が実施される ■2018年2月28日 水曜日 15時5分30秒

買入れの価格設定と処分方法の評価委員会が結成された

《昭和十四年》 連盟の設立から三カ月がたち、連盟の活動もすくすくと育っていった。設立認可に先立つ九月中旬、独り立ちの仕事に就いた。「同業者が保有する金製品の買い入れについて」の諸般の手続きが着々と進められ、買い入れ商品に対する価格設定とその処分方法を決定すべき評価委員会が結成され、九月の二十二日に一橋の学士会館で結成式が行われた。

■金製品の買い入れ評価とその基準 ■2018年2月28日 水曜日 15時4分21秒

東京、大阪の有力業者を評定員、実務員に委嘱して

《昭和十四年》 昭和十四年から十六年まで続けられた金銀商品連盟の事業の中には、買い上げ評価委員会を設けて、連盟が買い入れた商品の選定とその買い入れ価格の決定審査が行われた。従ってこの審査委員会においては、この連盟が買い入れるべき商品を選定し、各々の価格表を作成したのである。買い入れ基準表原案の作成に当たっては、まず時計、貴金属、眼鏡の三部門に分けて、各展示会の調査検討を行い、適正価格を算出し、製造、卸、小売りの三種別に、高価な買い入れ価格を定めるなど、煩雑と苦心とを要したのである。第一回目の買い入れ基準は下記の通り決められた。
(イ) 時計側(機械ナキモノ菊座及びかん付、但シ七宝、宝石入ヲ除ク)
(ロ) 時計鎖(提鎖、腕鎖、コートチェーンヲ含ム)
(ハ) 指輪(甲丸、印台、高彫、但シ石ノ入ラザル無地物二限ル)
(ニ) 眼鏡枠(生地枠ニ限ル)

昭和十四年の十月いっぱい、あらゆる準備で忙殺された連盟は、各府県の代表的業者を地方委員に、また夥して買入商品のために東京、大阪の有力業者を評定員、実務員に委嘱して、事業の普及と集荷の促進を期する朧立を終った。
次いで、迫水金銀局長の特別の斡旋で日本銀行の倉庫借用願を提出し、君島文書局長と再三折衝の結果、ようやくにその許可を得て、十月十五日から受入を開始した。そして第一回の買入商品を最も安全に格納する事が出来たのである。民間としては、ほとんど前例のないことだといわれている。雄々しい第一歩はかくて踏み出されたのであった。

■金銀製品の買入について全国布告を図る ■2018年2月28日 水曜日 15時3分23秒

各地からの売却申込処理に火の車のような苦闘の日が続けられた

《昭和十四年》金製商品の買入方法については、かねて全国道府県知事、総務部長、経済
部長、警察部長等に協力を求める一方、各商工会議所の会頭とも連繋して全国の業者数を調査していたのであるが、その数、実に一万三千余に上る事が判明し、これ等に対して一斉に供出方を呼びかけたのである。刻々と集る各地からの売却申込処理に、火の車のような苦闘の日が続けられた。そして昭和十四年はその繁忙の裡に暮れ、この買入の受付は十五年の一月末日にまで及んでいる。
昭和十五年一月、静岡市の大火に際しては十九、二十日の両日役員会を開催し、同方面からの売却申込商品に対する緊急評価及び買入の件を決定した外、職員を特派して買入代金の現地払いを実施するなどの抛置をとったので罷災者の感銘を得た。
買入商品が殺到したのは十五年の十二月頃である。従事者の不馴れと処理の正確を期するためとに依る努力は実に涙ぐましいものがあった。時に微宵して、商品買入の決定を急いだことも屡次に及び、職員の執務はほとんど連日にわたり早朝より夜半に至るまでの奮闘振りを示すに到った。

■昭和十七年で買い入れ事業を終了した ■2018年2月28日 水曜日 15時2分34秒

日本興業銀行からの借入金総額三百万円を十七年七月二十八日を以て完済した

《昭和十四年》 社団法人金銀製品商連盟の評価委員会は、爾来時宜に応じて、昭和十四年度には十二回、十五年度には二十五回、十六年度には十五回の会合を開催した。十七年度以降は、買入れを打切ったのでその開催を見なかった。この買入資金は、専ら融資命令に依る日本興業銀行からの借入金を以て充当したものであるが、この借入金は、総額三百万円を限度として逐次必要額の融通を受けるべきことを条件とし、十四年十月十日付を以て、同銀行の宝来総裁へ借入の申込みをし、同年十二月十一日の金十万円の借入を最初に、昭和十六年二月十四日現在の三百万円を限度として、昭和十八年七月五日には全額の返済を完了した。
この間、昭和十六年十月三十一日には、金資金特別会計から三百九十万円の融資を受けたが、是も十七年七月二十八日を以て完済した。しかも是等の借入金返済は総て連盟の業務に依る剰余金を以て決済し得たのである。

■金銀製品商連盟の基本財産三万円は創立と同時に日本興業銀行の定期預金に ■2018年2月28日 水曜日 15時1分48秒

資金の出資者氏名は

《昭和十四年》 社団法人金銀製品商連盟の基本財産三万円は、創立と同時に出資額を定めて取り纏め、昭和十五年一月十五日を以て日本興業銀行の定期預金に託し、保管したのであった。出資者と出資額は次の如くである。
▽服部時計店:1,000円、▽日本百貨店組合:七、五〇〇円、▽大阪貴金属商工組合:
三、五〇〇円、▽日本金地金株式会社:二、〇〇〇円、▽東京装美会:一、〇〇〇円、▽金森安平:五〇〇円、▽小林伝次郎:五〇〇円、▽大日本時計株式会社:五〇〇円、▽鶴巻栄松:五〇〇円、▽東京時計商工同業組合:五〇〇円、▽東京貴金属品製造同業組合:五〇〇円、▽御木本真珠店:五〇〇円、▽吉田庄五郎:五〇〇円、▽生駒権七:三七五円、▽江藤順蔵:三七五円、▽梶彦兵衛:三七五円、▽中里治三郎:三七五円の合計三万円。
第一回の買入が一段落すると同時に、早くも第二回の買入計画が樹立され、二月二十日の役員会において第二次買入商品の基準表作成の件を申合せている。かくして三月十二日には、山崎商店ほか三店から第二回買入商品の見本七十一点を蒐集するまでに進んでいた。
第二回買入商品の基準表作成と前後して、金時計側の供出を促進する目的から、定款の第四条第五項に基づき、代替時計側の配給斡旋を行う亊となり、東京時計側工業組合の協力を得て、その事業を開始したのである。当時、代替時計側払底の折柄だったので、この企てはまことに時宜に適した措置として歓迎されたのみならず、各府県に於ける金時計側の蒐集処理をも極めて簡易ならしむることを得たのであった。

■同連盟が如何に頻繁に会議をしていたか ■2018年2月28日 水曜日 15時0分51秒

当時の記録 第二回買入と委員名で分かる

《昭和十五年》 ▽昭和十五年・一月十三日、評定員懇談会を開催、▽昭和十五年一月十九日、中央物価統制協力会議へ加盟、▽昭和十五年二月一日、金製品蒐集区域ヲ植民地域へ拡張スル件ヲ決定、▽昭和十五年二月三日、大蔵省ヨリ金地金売買業者指定証ヲ下附サル(本件ハ遂年期間ヲ更改シテ継続セラル)、昭和十五年二月五日、金鍍金液使用ノ件許可サル、昭和十五年二月二十日、役員会二於テ越村常務理事辞任ノ件ヲ承認。
此の第二回買入に関しては、一般事務の促進と共にその操作を容易ならしめるために、業界人の中から見識のある士を常任委員に委嘱して業務の担当に任せしめる事となり、昭和十五年四月十七日を以て荒木虎次郎、川名啓之、梶田久治郎、亀山末義、後藤清貞、長谷川恵章、外園盛吉、松山繁三郎、溝口万吉、森川浅次の十氏に夫々委嘱してその快諾を受けた。(長谷川氏は同年八月二十三日辞任、同年十月二十九日加藤清十郎氏を後任に推す)

■常任委員会の使命 ■2018年2月28日 水曜日 14時59分59秒

取扱商品買入基準表の原案ノ作成や商品処理二関スル宣伝、連絡等

《昭和十五年》 随時常任委員会ヲ開催シ左記事項ヲ委嘱シ実情二即スルコトヲ期ス
@ 第二回取扱商品買入基準表の原案ノ作成、A商品処理二関スル宣伝、連絡其他日常ノ事務
事項ノ処理。
常任委員会において、五月一日、同二十一日の二回に亘って全国連合会長及び組合長宛の出荷勧奨状を発送して全国時計及貴金属業者の認識を促し、業界新聞に右に関する共同声明書を発表した外、東京においては各区の小売組合支部長会議に出席して、出荷勧奨に努めるなど、その労苦は筆舌に尽し難く、古品、新品の鑑別、業者よりの質疑応答等、しかもこの間、委員会並に小委員会を開催すること四月二十日を第一回として実に二十七回に及んでいる。
特に第二回の取扱商品買入に関しては、協議すること十数回にして六月二十六日、基準表を決定発表したのであった。
(イ)男子用提物(方針「虫付」メダル類)カフス釦、金貨枠、ネクタイ止、ネクタイピン、パイプ、ナイフ、シャープ、コ―トチェン、カラー止釦、カラー止鎖、横ピン、バックル其他金製品頽一切。
(口)婦人用帯止金具、頭髪用品、短鎖提、羽織紐、其他金製品一切(以上何レモ石ノ入ラザル無地物二限ル)。
(ハ)石ヲ主トシタル製品ノ空枠(指輪、帯留、カフス釦、頭髪用品、其他)
(二)主トシテ金ヲ以テ製作シタル商品一切。
業界への出荷勧奨については、一方ならぬ苦心を払っている。既にこの勧奨は二月中旬から開始せられ、常任委員会の結成と共に本格的に呼びかけられたのである。その結果は、五月、六月頃に入って、各地からの供出漸く旺盛を極めるに至った。従って各方回ともその供出者の便利に資すべき対策の考究を必要とするに至ったことは勿論、矢板専務理事は後藤常任委員と共に職員を引率し五月二十七、八の両日名古屋市に出張、同方面の業界代表者の熱心な協力を得て、業者から商品の受入を行なうと共に事業目的に関する懇談を遂げ、帰途静岡市にも立寄って同方面の業界代表者とも懇談する等の足跡がある。

■東京と近畿で金製品の集荷と輸送 ■2018年2月28日 水曜日 14時58分42秒

警官十数名の護衛のもとに、日本銀行内の連盟倉庫へ安全に収納した

《昭和十五年》 一方東京方面においては、新市内同業者のために六月中旬を期して左記四力所に商品の持込所と持込日を指定して、職員出張の上これらの受入を行ない、七月四日には、横浜市において神奈川県下業者のために、石田組合長以下幹部の斡旋を得て、またその月の中旬には、近畿地方業者のためにも同様施設を催した等、スピード行動を続けたものである。即ち
▽東京方面は渋谷・東横デパート(六月十八日)、浅草松屋デパート(六月十
九日)、大塚白木屋デパート(六月二十日)、新宿伊勢丹デパート(六月二十
一日)。
▽近畿方面では、大阪実業協会(七月十五日より二十日まで)、神戸・湊川勧業館(七月十八日)、京都商工会議所(七月十九日)。
近畿地方の蒐集商品は、矢板専務理事以下多くの教職員が同地に出張し、各地組合長その他幹部の非常な努力により予想以上の蒐荷を得、現品を数十個の行李に収めて東京へ愉送した等、連日に亘り酷熱炎暑の下に各地の蒐荷が行なわれたものである。
そこでこの荷物は、造幣局が蒐荷の保管を引受け、また輸送途中の沿線各府県警察部の協力を求め、移動警察の申送りによる護衛を受けて東京駅に到着するや、堀留、丸ノ内両警察署の警官十数名の護衛のもとに、日本銀行内の連盟倉庫へ安全に収納したなど、物々しい光景を呈したものであった。

■第二回目の買入商品の受付は、昭和十五年七月一日を以て開始 ■2018年2月28日 水曜日 14時57分39秒

業者側各委員延べ人員は三千三百人の多数に及んだ

《昭和十五年》 ▽昭和十五年二月十日:業界新聞二対シ第一回取扱商品ノ出荷勧奨ノ件発表、▽昭和十五年四月十二日:矢板専務理事京阪神出荷勧奨会開催ノタメ同方面へ出張、▽昭和十五年四月二十四日:出荷勧奨懇談会開催。
第二回目の買入商品の受付は、昭和十五年七月一日を以て開始した。広汎に亘る買入だけに此の操作における繁忙さは、又想像の外にあったのである。此の買入は、昭和十六年二月二十五日を以て終末したのであるが、引続き第三回の買入れが計画され、その年五月十七日を以て次の如く買入案の骨子を発表した。
一、石入金製品処理ノ件=@連盟預り分買入ノコト、A業界保有分向上、B取外シタル石、原則トシテ買入レザルコ卜、二、評価方法ノ件=@担任委員制ヲ設ケ評価委員中ヨリ担任者ヲ疋メテ評定ヲ指導シ委員会二於テ(各担任委員ノ報告二依り裁決スルコ卜、三、買入方法=(イ)石ノ等級、種類ノ分類、(口)石ノ大小、鶩目ノ決定(ハ)商品ノエ料、等級ノ決定、四、石入金製品の予想点数および金顴(省略)=もっともこの第三回分は主として預り分の処置であったが、此の間、業者以外の一般国民からの金製品供出もあって、一切の取扱いの終了を見たのは十六年の十二月はじめてあった。商品の買入は是を以て一段落となったが、買入れ商品の処理については、業者側各委員が熱心に商品の鑑別、価格の評定、金性調べ等に協力しその延べ人員は三千三百人の多数に及んでいる。

■供出量の府県別比率 ■2018年2月28日 水曜日 14時56分44秒

東京、大阪、愛知、兵庫、福岡、京都の順

《昭和十五年》 この当時の全国に亘る供出量を百分比として、これを府県別に見ると次の如くなっている。
▽東京:二四・三、▽群馬:〇・六、▽千葉:〇・七、▽長野:一・一、▽山形:〇・三、▽大阪:一七・三、▽静岡:一・八、▽和歌山:一・六、▽福井:一・九、▽広島:二・九、▽新潟:一・四、▽島根:〇・三、▽愛媛:〇・六、▽大分:一・二、▽熊本:〇・九、▽沖縄:〇・一、▽朝鮮:〇・三、▽神奈川:三・七、▽栃木:一・二、▽岩手:一・〇、▽福島::〇・六、▽京都:四・〇、▽青森:〇・一、▽奈良:〇・九、▽岐阜:〇・七、▽滋賀::〇・七、▽富山:〇・九、▽山口:一・四、▽徳島:四・〇、▽ 高知:〇・三、▽佐賀:一・一、▽宮崎:一・二、▽北海道:二・三、▽台湾:〇・一、▽埼玉:〇・九、▽茨城:〇・六、▽宮城:〇・三、▽山梨:〇・四、▽秋田:〇・二、▽兵庫:四・九、▽愛知:五・四、▽三重:一・三、▽石川:〇・九、▽岡山:〇・九、▽鳥取:〇・八、▽香川:〇・九、▽福岡:四・二、▽長崎:一・八、▽鹿児島:〇・四、▽樺太:〇・一計100となっている
かくて商品の供出者へは、感謝状を送付し、当局へも十二月三十日付で買入終止を報告した。

■蒐集金製品の輸出事業の展開とその終結 ■2018年2月28日 水曜日 14時55分46秒

事業着手の第一歩としてブラジル輸出品展示会を計画

《昭和十五年》 金銀連盟が当時の貴金属業者からその保有する金製商品を蒐集した事業
は、連盟設立の主眼であり、政府の時局策に順応したものである亭はいうまでもない。しかし、この蒐集のために一定の機構を整え、多数の人員を配し、且つその減り工料を加算した商品代金を支払った等の細かい点にまで及んだ事業を行ったことで連盟としては相当の金額を損失したということから、その損失を補填する意味と、また、一つには、国内物資不足の対応策として輸入物資の引当のために連盟が集めた金製商品を輸出品資材に当てはめることがよいとして、輸出向に転用したことが注目された。このため昭和十五年三月十九日にブラジル同輸出品展示会を学士会館で開いたのが連盟として、この種事業着手の第一歩であり、四月十三日にはブラジル向輸出品の見本写真の携行方を外務省の三浦事務官に依頼した。
輸出に関する記録としては、昭和十五年五月七日の第一回輸出相談会において討議された結果、中南米方面ならびに印度南洋方面に対して具体的な運行策を講ずることを申し合せた。第二回相談会開催の折には、輸出向商品の選定について、各出席者から専門的な意見を徴されたが、こうなってくると時計、貴金属界との因縁関係は漸次薄らいでいくことになった。しかし、当局としては時局下、輸出振興の国策にも一助するという状況下であったので、この面の事業に服部時計店、御木本真珠店などが事業面を通してタイアップしていた記録がある。
しかし、この中、直接巡連盟が輸出面に手を下したのは、上海と広東とであり、当時この連盟がこの両方面への進出を企図した所以は、一:金銀、宝石類が軍需又(生活物資二非ズシテ高価ナル外貨獲得資材ナルコト、ニ:未開地ナル共栄圏、特二南方諸地方二於テ(金製品ノ需要旺盛ナルニヨリ商品トシテ有利二売却シ得ルト同時二、従来ノ手段二依リテハ蒐集シ得ザリシ物資吸収、従ッテ華僑工作ノー端二資スルコトヲ得ルコト、三:軍需対策トシテ(関係当局ニョリ物資交換所ノ如キモノヲ開設スル事ヲ得バ金(ソノ最高ノ効用タル使用の基礎トシテ活用セラレ通貨タル軍票ノ信用二好結果ヲ及ボシ得ルコト、四:国内的二ㇵ製造販売禁止セラレタル貴金属製品ニツキ特二我国伝来の特技トシテ尊重シ得ル象嵌高彫其ノ他ノ技術ヲ輸出二依り保持シ得ルコト。
という点に外ならなかったのである。

■全国時計装身具関係の組合連合会の結成にまで努めたが ■2018年2月28日 水曜日 14時54分3秒

全国時計組合連合会との軋轢は勢い非常なものとなっていった

《昭和十五年》 就中上海への輸出に就いては輸出許可の指令に接した直後から企図されたもので、各方面の情報を蒐集し得たところに従い、まず矢板専務理事が上海の実情視察から帰京するや、さらに十六年一月、矢板専務理事と久米、中里の両理亊(組合代表)が同行して上海に渡り、専ら輸出商品の販路開拓に努めた。
上海方面への出荷は下記のとおり。
▽第一回(昭和十五年一月二十二日)、▽第二回(昭和十六年五月二十九日)、▽第三回(昭和十六年十月十三日)、▽第四回(昭和十六年十二月十八日)、▽第五回(昭和十八年一月二十日)。
以上の前後五回に及んで手持商品の殆んど全部を処理し得たことになった。当時金銀連盟では、矢板氏の肝入りでいろいろの面で活躍をし、全国時計装身具関係の組合連合会の結成にまで努めたものの、これと対照的にこの頃、野村東京時計商工同業組合長をかつぎ出して設立を急いでいた全国時計組合連合会との軋轢は勢い非常なものとなっていった。
この連合会というのは、昭和十五年の当時、警視庁が業界新聞に対する株式制組織命令を出したその結果によって出来上った時計光学新聞が主体となり萍走したもので、そのバック的存在となった東洋時計の工場長、浦田竹次郎氏がこの間に食い込んで、いろいろと策戦をめぐらしたのである。この結果団体の表面に立った野村連合会会長は時によっては苦杯をなめる場合もあったようである。光学新聞社なるものは山本、竹雅、大野、鳥越ら各社代表部が集まって結成されたものだけに、寄せ物は離れるの例えの如くで、戦争が苛烈化した昭和十八年当時、警視庁当局からの廃刊命令を待たずに山本氏は分け前を取って退いて終った等、同社の陣営は崩れた。何れにしても、昭和十六年に勃発した大東亜戦への宣言のあとは、国民は総じて戦争にまつわる職域関係の行動以外には、その自由が許されない状態に移行していったのである。

■四百人を超える技術者の放流 ■2018年2月28日 水曜日 13時2分57秒

本紙が「時計の修理職人」の斡旋を無料で行っていた時代

《昭和十二年》 私の商品興信新闊社の方針は、新聞事業が本来であるという信条であったのを、どこかの欄で書いたが、戦前における当社は、新聞紙上に紙上紹介欄を設け、時計の修理職人の肩書と就職の斡旋を無料で行っていた。そのため人によっては、私自身が採用テストを行った上で、希望の時計店へ直接差向けたものもある。「お陰様でいい職人が参りました」と喜ばれたものである。その紹介が何年も続いたのだからザット四百人にも余ることになっただろう。私が必要に応じて地方に出向いたことがある。すると店にいる店員や技術者連の顔がほころびて、やがて店先へ出て来て、「藤井社長、その節はありがとうございました」と礼を言われたことが少なくなかった。そんな事があったので、斡旋者数を数えてみたらザット四百」人は超えたろうという結論に辿ったのである。然し、昭和十二、三年頃から、「徴用だ、出征だ」ということで、それらの人達の行方については皆目不明であっただけに、健在でありうる数が果していくら存するかなど、休息時のはなしの種になる程度のものであった。

■東京市会議員の選挙に勇奮した頃の私のハッスルぶり ■2018年2月28日 水曜日 13時2分7秒

学友たちの卒業試験の障害になることを思出馬を断念した

《昭和九年》 私は新聞事業が発展したそのあとの平常な状態が続いていた昭和九年の舂に東京市(都制施行の前)の市会議員の浄化選挙が行なわれることになったので、立候補への勇気を奮い起したことがある。その時は、明明治大学法科を終える年の春だったの言論戦の助けに望んでいた学友達は、積極的に応援してくれる約束をしてくれたのだが、卒業試験の障害になることを思うと、それが痛ましくて準備は完了していたのだが遂に断念した。その時の経験から推して選挙という場の侯補者の心中など十分洞察することが出来る。

■山田時計店の山田徳蔵社長が当時の時計卸売業を語る ■2018年2月21日 水曜日 16時43分58秒

服部時計店の常に揺るがぬ営業方針を尊敬した

《昭和四十年》 創業は昭和五年、終始一貫して精工舎製品の専門卸を看板にして三十五年たった今日、時計卸界の最先端を行く老舗の山田時計店。この山田時計店を創立し成功した山田徳蔵氏は、現在服部時計店の大株主でもあり、不動産会社をはじめ一族を盛った関連会社も設立しています。意志堅固なその山田徳蔵氏は、一体どのような心境で創立をし、成功を収めるに至ったかを以下本人の回顧談に基き知ることにしましよう。
先ず且R田時計店社長の山田徳蔵氏は、昭和四十年で満六十五才、元気かくしゃくとしている人です。現在の山田時計店は、山田徳蔵社長に長男の山田秀夫氏が取締役副社長の陣容で営業しています。
当時の山田徳蔵氏は、「私の店は昭和五年に独立し、服部時計店とお取引を願って以来三十五年の才月を経てまいりましたが、私か精工合製品専門の取扱卸商をはじめたいと考えたのは、たしか大正七、八年の頃と思います。その頃は、第一次大戦が終った後、漁夫の利を得た日本の好景気な時代でありました。つまり黄金時代とでも申しますか、懐中時計は金側と金クサリをつけて飛ぶように売れた時代です。当時の景況というものは、現今と違い売手市場でありました。好景気がもたらす需要増大によって、毎月のように物価は上り、時計もその例にもれず値上りしていったわけです。その好況は大正九年の舂頃まで続きました。しかしそのような情勢の中にあって、精工舎製品は常に定価制が実行され、官制商品の如く扱われていたものです。商品の受注は、注文受付制度をとっており、申込順に出来上り製品が出荷されたのですが、製品仕上りの途中で値段に変更があった場合でも、既注文品はその申込当時の値段でなんら変りなく出荷されたものです。例えば、七円の定価のときに注文したものが、製品の出荷前に十円に値上げすることに決まった場合でも、注文当時の旧価格の七円で仕切られたのです。ですからこの場合の値段は、値上りの巾利益と卸利巾のダブル計算ができることになり、非常に有利であったわけです。さらに、出荷された機械に金側を取付けて販売していた状態でありましたので、当時の卸商という商売は、ほとんどの業者が大変利益をあげたものです。しかし、こうした好景気もそう永くは続かなかったのです。大正九年、神戸の鈴木商店の倒産が起きたころから経済界には一大パニック時代が到来したのです。これを機に、服部時計店の取引制度も改められ、従来の注文価格制度から出荷時の取引価格制へと切換えられたのです。この切換えが服部時計店と取引をして以来、初めにして最後の変更であったわけです」。
■大正十二年の大震災で焼失した頂り品の修理品を全て新品にして返した ■2018年2月21日 水曜日 16時41分14秒

精工舎製品の取扱いに更に一層意欲を強める機会となった

《昭和四十年》 こえて大正十二年の大震災では、服部時計店も大平町工場も全部焼失したにもかかわらず、被災者に対する温情なる処遇と、そしてまた小売部においても、焼失した頂り品の修理品を全て新品にして返したという事実を目撃した私は大変感動したものでした。これは服部時計店の家憲の賜物であると信じ、精工舎製品の取扱いに更に一層意欲を強める機会となったのであります。私か精工舎製品の専門店として卸商をはじめたのは、前述のような経過からみて服部時計店の品物であれば信用を欠くところなしという信念を持ったから他なりません。私が開業した当時(昭和五年)の時計卸業界の同業者は次の如くでした。
東京地区=吉田時計店(東洋時計)、鶴巻時計店(英工合)、金森時計店、小林時計店、矢島時計店、天野時計宝飾品KK((ㇵイフス組立)、今津時計店、見沢時計店、竹内時金堂(広瀬氏)、名古屋地区=野々部時計店、今津時計店、服部時計店、勝川時計店、堀田時計店、大阪地区=中上時計店、冨尾時計店、今岡時計店、岡伝商店、北出時計店、沢本平四郎時計店。京都地区=大沢商会。
■時計の製造面では、東京、名古屋、販売面では大阪勢 ■2018年2月21日 水曜日 16時40分23秒

需要の中心は五型、八型、十半物、その価格は

《昭和四十年》 この他にもいくつかの商社がありましたが、製造面では、東京、次に名古屋、販売面では大震災の痛手があってか、大部分は、大阪勢に推され気味でした。
大震災の後も順次片づけられ、昭和五年後における時計界は販売競争が激化していきました。精工舎製品には、定価があるので、おとり商品のような時計があちこちで見られ、乱売合戦のような傾向が見られ始めました。そういう訳で価格は制約されないが、自由な立場で価格競争が行われ、次第に激しさを増していったのです。従って、腕時計では精工舎製品でも、なるべく完成品を敬遠する傾向がはっきり表れてきました。
この頃の需要の中心は、五型、八型、十半物であり、更にスイス物をバラにして輸入し、国内で組み立て、安売りしたから価格競争が始まった。その頃のセイコー以外の卸の値段は、
十型クローム側(十石入)=三円前後
十型クローム側(十五石入)=三円五十銭
八型クローム側(十石入)=四円二十銭
八型クローム側(十五石入)=四円七十銭
精工舎製
十型クローム側(七石入)=五円八十銭
九型クローム側(七石入)=六円二十銭
八型クローム側(七石入)=七円二十銭

これらの他、別名と称して文字板を変えて、四十銭安くして売られた時計も出回り始めました。更に、「ネーション」の名称で格安品が発売されることになった頃には、吉田時計店など、ほとんどの卸商群も割り入って、このネーションの組み立て時代に突入したものでした。
■服部時計店の財力は大変なものだった ■2018年2月21日 水曜日 16時39分21秒

不景気で一年、二年売れなくても生産したのを倉庫に積込んでおく余裕がある
 
《昭和四十年》 前述のように、スイス物の格安組立品には到底太刀打ちできなくなった
セイコーは、遂に景品付特売を断行することになりました。一回の出荷数量十万個を単位で宣伝することになり、業界紙にも堂々と特売広告が掲載されたものです。
この事は、国産時計の企業性についてとかくの批判を投げていたようです。それにもまして、財力についての服部時計店の評判は相当なものでした。私の耳に入った噂は、「服部時計店の財力は大したもので、不景気のために一年や二年の問、一個の時計が売れなくても毎日生産したものを倉庫に積込んでおくだけの余裕があるというほどのものでした」。
話は戻りますが、セイコー九型の出来たのを披露するために、取引関係卸商を星ケ岡茶寮に招いたことがあります。初代の服部正一社長に中川支配人、湯川卸部主任の接待で、モリスを型取った非常に具合のいいものを披露しました。私は今津文三郎氏の代理で出席しいたのですが、初代の服部社長以下、喜びに満ちた顔で話された当時が今なお想い浮かんできます。
さて少し前の時代に戻りますが、その頃の時計業界は、特に卸業界では他製品を仕入れて、これに自家製商品のマークを付けて売ることに努めたものです。ですから、腕の輸入品などの多くはバラ機械を入荷して、これに自社製の銘柄をつけたものです。競争時代の最も激しかった様相が、このことでも判ると思います。
大物商品では名古屋製品を仕入れて、自家商品のマークにはり替えたものです。つまり自由競争が、余りにも激しい所から、資本力の闘いとなった時代でありました。
特にこのような商品は通信販売に用いられたものでありました。
■当時、流行った通信販売、 ■2018年2月21日 水曜日 16時38分9秒

儲かり過ぎて失敗した経験も

《昭和四十年》 通信販売で有名だったのが、東京の加賀屋商店(野尻雄三氏)、名古屋の小菅時計店(小菅甚左衛門氏)、奈良の保険堂等で、立派な案内書を定期的に発行していたものです。それは丁度、現在の週刊誌を良くした体載で、それに定価表を付けたので小売店の仕入には便宜をしたものです。その後、加賀屋さんが整理されたことがあったので、その原因を尋ねたところ、性来気らくな野尻さんがその経験を詳しく話してくれました。
「確かに通信販売というものは、成績が良かった。仕入れは手形で、売りは現金という条件だから金の余裕があり過ぎた。そのため、いろいろの仕事に手を出したことが倒産した原因である」と述懐したのです。
つまり、儲かり過ぎて失敗したということになったわけです。野尻さんは、私と年が相当違いましたので、何事でもいろいろ親切に教えてくれました。この時も、「君は若いから私のようなテツをふまぬように」と訓諭されたことがあり、今更ながら感慨深く考え出されます。
■私が精工舎専門の卸を目指し始めた頃 ■2018年2月21日 水曜日 16時36分31秒

銀座一丁目の山崎商店の山崎亀吉社長に憧れていました

《昭和四十年》 話は少し戻りますが、シチズン時計が操業していた初期の頃の話です、創始者の山崎亀吉さんは屋号を清水商店といって、日本橋馬喰町四丁目で貴金属製作所を営んで盛大にやっておられました。その後日本橋通一丁目に清水ビルを建設されたのを機に、山崎商店と改称したと記憶しています。また銀座一丁目に山崎商店の小売部を開設したのはこれに続いたものです。その頃私は、山崎社長を非常に尊敬しておりました。なぜかというと、大正初期の頃、電話が非常に少なく、私の勤めていた今津時計店にもありませんでした。ときどき山崎商店へ電話を借りに行ったものでした。
ある時、当方の客筋から山崎さんを通じて電話があり、私がまいりましたところ四十才位の立派な男の一が「電話はこちらでございますから」と丁寧に案内してくれたので、恐縮しながら帰ってきたのですが、主人に話しをしたところ、その人こそ社長の山崎亀吉さんであることを聞いて驚いた次第です。山崎さんは、私のような小僧に対しても、同じ人間として丁重に扱われたのに畏敬の念を抱いた次第です。
山崎さんの、人を差別しない態度に大きな教訓を受けたのです。確か大正十一年頃だと思いますが、十七型の懐中時計が尚工舎から発売され、その披露会が下谷の伊予紋(当時は下谷で一流に属しており、現在は松坂屋の発送部になっているところ)で開かれました。発表されたシチズン時計は、十七型でウォルサムの形に似たものでありました。この頃から、将来私は時計の卸商として独立したいものだと考えるようになったのであります。
そのころ私の実兄が名古屋で各種の卸商を営んでおりましたが、上京の際など時計業界の話題が出てよく論議したものです。そこで私か、兄に精工合専門の卸をはじめてはどうかと勧めてみました。当時は日本広しといえども、精工舎専門はおろか、何々専門などいうような時計の卸商社はありませんでした。それどころか、セイコー製品は融通品位にしか取扱っていなかったのが多かったようでありました。そんなことから、私は兄に対し精工舎専門卸を相当強く進言し全面的な協力を申し出たのですが、いろいろな事情でその実現を見なかったのであります。それでは、東京で私が始めたらいいではないかという事になりましたが……。
その当時、主人の今津時計店のご子息が幼少ですぐには、商売の跡目には間に合わない状態でありました。そこで世問にありそうな話と同じく、私を今津の跡取りという相続人の話が持ち上がったのです。男の本分として、はなはだ困ったことではありますが、さりとて足跡でケルというようなことも出来ないので、今津時計店にいなければならないような境遇になったのです。そのような訳で、私が独立した昭和五年に到るまで精工舎専門卸店の夢を抱いて数年、独立の機会を待っていたような次第です。精工舎専門卸店として独立しようと考えたのは、何かの想い付やアイデアなどから取り入れたものではなく、信念にもとづいて考えた結果の真剣そのものの創業企画であったのです。
■シチズン時計の起死回生に努めた中島与三郎氏の功績 ■2018年2月20日 火曜日 15時30分47秒

その間の努力と功績は特記する必要がある

《昭和10年》 我が国の腕時計工業が歩んできた過去を振り返ってみると、時計工業そのものに選別をつけた服部時計店の精工舎と雖も易易たるもので、今日の地歩を占めたのではないようだ。
型・デザインにと改良を積み重ねていった中にも、とりわけ性能の完成度という点については進歩を築く上に一段と苦心と努力が払われていたであろうことは、十分想像が出来る。
従ってシチズン時計の場合も同様に再建は容易でなかったわけである。シチズン時計が今日の隆昌を招くに到ったその間の努力と成功へのコースの中には、いろいろ他の詮索を許さない苦労もあったであろうが、取りわけ尚工合時計研究所時代から、そのまま埃にまみれて埋もれ放しになっていた生産技術のそれを起死回生に努めたその間の努力と功績は特記する必要がある。
シチズン時計を再生復活させたその功労者は、中島与三郎初代社長である。昭和十年に但しくも八十四才を以て天寿されたその後で、シチズン時計が発行した中島与三郎伝(福田某氏の内容を一読した)が、故人中島氏の個人的生い立ちなどが十分に盛られており、シチズン時計の再起に及んだ場合のものも認められてはいるが、苦心を払った当時の心境を記してないのを見て私は残念に思った。この機会に、特に在りし日の中島与三郎氏が、シチズン時計の再生復活を終生の事業とし、奮起した当時の経路について少しく記すことにする。

■私が中島さんと知り合った経路 ■2018年2月20日 火曜日 15時29分55秒

下谷村でも顔であった中島さん

《大正十三年の春頃》 当時私が下谷村と呼んでいた時計卸畑を廻っていた頃、巣鴨にあるナポルツの時計工場(ヱルーシュミットエ場)の本間さんという人に会った。本間さんは時計の商売をするため卸屋巡りをしていたのである。本間さんが、「シュミットさんに会って広告でも貰いなさいよ」といってくれたので、それから巣鴨の同工場へ足を運ぶようになった。巣鴨の工場へ行った時、私は最初鈴木良一さんに会って広告を頼んだのだが、「中島さんの許可を得ないとダメ」ということだったので、それ以来、中島さんに会う機会待った。そしてまた、スイス人のシーネフさんにも会うことになった。それから二、三度行く内に、横浜山下町の居留地に震災直後の昭和十三年頃、バラック建てのナポルツ商会を訪問したことがある。その時、中島さんに会い、少しく顔見知りになった。その頃の思い出を尋ねたことからわがままな頼みも聞いてくれるようになった。それ以降ここだけは私にとっては親身のようになつかしさが湧いて来たところである。
外人では、シーネフさんの外にアベックという人がいて、日本人では中島さんの外は鈴木良一さん、本間さん、加藤さん、桜井さん、安西さんという方々に会う機会があり、今でも顔なじみである。それらが二、二年続いているうちに時計界の情勢にもいろいろの変化が生じてきた。中島さんは下谷村にも時々足を運ぶようになってきた。しかも輸入時計についてはうるさい税関上のことなども湧き上がってきていた。
私は欧州に行ってから事業の都合で時計業界に入る事になって二十五年間も時計一筋に専門的に働いてきた。
人間というものは生命に限度がある。だから私は出来ることなら生きている中に何かの事業を残して死んでいきたいと思っていた。その意味でシチズンを回生出来るなら、終生の事業にしたいと思っていたと漏らした。「それは立派ですね」と語り合ったものだ。

■昭和五年六月二十八日、資本金二十万円でシチズン時計株式会社を設立 ■2018年2月20日 火曜日 15時27分14秒

深い馴染みの中島与三郎氏が起業家の立場で起死回生

《昭和三年》 本社主催の業者大会が終ったある日、中島さんが私の社を訪れて二人で懇談した事あった。話題は、「時計とその製造」という話になった。「シチズン時計の製造機械の全てが埃に埋もれているのは惜しい」という話題に移った。しばらくしてから、再度中島さんが私の社を訪問した際に、私が「シチズンの再生を進めてはどうか」と中島さんに自分の意見を言った時、初めて中島さんが私に次のように意中をもらした。
私はその話合いに基づいて、当時銀座一丁目の山崎商店と共に尚工舎工場の管理の立場にあった田中地金店を訪れて故人となった田中一郎社長に尚工舎に埋もれている時計機械部分の全部の譲り受けについて下話しをしてみたところ、「あれが役に立つならいくらでもいいよ、私が安田銀行に話をしてやる」といってくれたので、それを中島さんに報告した。それは昭和三年の秋頃だと記憶している。
そのような経過をたどった後、中島さんはシチズンの起死回生についての相談を金森時計店、小林時計店(川村支配人)、京都の大沢商会(森田支配人)を訪れて、それに協力を求めるためにはるばる単身出張したことがある。その時、私は旅先で中島さんに会って聞いている。このとき大阪の富尾時計店の社長に一応意見を求めたようである(これは現社長の話)。
かくして、昭和五年六月二十八日、資本金二十万円でシチズン時計株式会社を設立、自ら初代社長の座に就任したが、会社設立直前、初代社長就任を回避するような気持を私にもらしたことがあった。私は、「それは絶対グメですよ」といったことを覚えている。シチズン機械の譲り受け価格は、安田銀行の担保計算の関係で、最初は二十万円がとこを主張していたものだが、結局は五万を割った四万七千円という金額になったというから中島のおとっつぁんも、如何すべきものかとあとで苦笑したことがあるのを思い出した。それから二、三年を経て、一応時計の生産体制も順調になったように見られた昭和八、九年の頃のことかと思う。シチズン時計会社への入社、または販売会社の設立という案を私に提唱されたことがあった。中島さんは、シチズンの再生復活を図っただけでなく、生産即消費という企業者の立場についても常に苦慮されていたその事実を身近に感じたその時には、再度感動せざるを得なかった。
[注]中島与三郎氏については、私は深い馴染みを感じていたので、常におとっつぁんと呼んでいた。中島さんには、私と同年輩の倅がいて、下落合で薬剤店を経営していたので親交を計ってくれといわれたことがある。働手の私はその機会を得ることが少なかったまま戦争へ突入してしまったというのがその後のコースである。
それから後の同社は、現社長の山田栄一氏の努力が奏功して、シチズンは日本時計工業の一翼を担い、堂々世界に雄飛しつつあるのは慶賀すべきであるが、その基礎を作ったのは、故人の中島おとっつぁん(与三郎)の功績で、特筆絶賛するに価するものがある。同社の現況の主なるものをあげれば要項次の如し。
シチズン時計鰍フ生産能力は、月間四十五万個、資本金三十億円、本社:東京新宿区角筈二丁目七十三番地。取締役社長山田栄一氏。工場=淀橋工場:新宿区戸塚町四―八五六番地、田無工場=東京都北多摩郡田無町一六五〇、
販売所シチズン商事株式会社(東京都台東区御徒町一―十二番地、取締役社長山田栄一氏、専務取締役太田敬一氏。

■あわただしい上海での動静 ■2018年2月16日 金曜日 12時47分53秒

四仙路ホテルを抜け出すことを考え、日本人経営の万歳館という旅館に移動

《昭和14年》 急遽上海に帰ってはみたが、当時の上海の状況はあわただしかった。一行が宿泊していた四仙路ホテルの地下室には、今なお戦争のため惨殺された四千人に余る支那兵の一群が屍となって埋められていて、夜ともなれば蠢き出すという伝説が出廻っており、一行の気持は落ちつかなかった。
その事実を宮沢氏に聞いてみたところ、「その通り」だという事であり、更に驚いた。もっとも、既に宮沢氏自身が民団副長の肩書の手前、何事につけても民心の緊張感を求めようという気持があったから言ったのであろうが、しかし上海の事情にうとい一行は、この情勢の変化で急に物さびしさが感じられた。
思案の末、四仙路ホテルを抜け出す事を考えたが、逆手を用いられまいものでもないという思惑も手伝い、表面は何気なく装うことでホテルを出ようと申合わせた。そして一行は日本人経営の万歳館という他の旅館に移ることが出来た。
早速一行の打合せが行われて次の帰国の段取りが進められたのだが、船の都合が見当らず、またまた思案にふけった。私は一層のこと、支那に居残って市場作りに精出すか、または帰国した後、改めて出直す方法もあると考えたが、私の胸中に浮かんだ事は、一行十一人が仏租界内の夜の遊楽街を遊んで歩いたらどうだろうか。そしてドックレースや投球競技の妙技の賭け事を通じて楽しむ等、その晩一行を引き連れて仏租界内の「いろは」というスキヤキ屋に入ったその時、突つぴでもない状況を目撃した。
その時の話だが、長崎出身のそこの女将が、「誰か一人居残って貰いたい」と哀願した言葉を思い出したのである。仏国の少将が保護してくれているのだから格別危険はない、ということを聞かされた。それでも余り心持ちのいい居残り組ではないとも考え直したので、私も一行と共に帰国することを決意したのである。
船は二日間待って、ようやく次の便船に乗ることが出来た。この船は、沈没した照国丸より小さく、船足はおそく丸三日かかった。しかし海原から見る日本は緑につつまれて実にスガスガしく立派であった。外国から帰って来る日本人の眼には、日本国は今でもこのときのように緑の国であり、立派な存在であると私らの心にクッキリと彫むことが出来た。
そんな気持でいた私達一行を乗せた船は、横浜港に安着するや汽車で早速帰宅の途についたのである。車中で聞いたラジオからは、戦争のために資材統制令が又又強化され、各種の資材使用制限令が発令されていた。越村氏と共に、お互い心の中でこの統制時代に処して、何かなさねばならないという心境を新たにしたのであった。

■クロームという新しいメッキ処理法が登場 ■2018年2月16日 金曜日 12時47分1秒

想い出のエピソード一題

《昭和初期》 時計業界は腕時計の流行から腕時計の側に対する魅力に注がれていた。この頃の時計側(ケース)は、主としてニッケルでありニッケルの仕上げにメッキを施しものに改良されたものがクロームという新しいメッキ処理法のものが登場した。だからクローム仕上げの良質なものは、デパート辺りで売られているのは殆んどが舶来品ということになっていた。それだけに、この頃平野陸三郎氏を組長にしていた東京時計側組合では、クロームメッキの良質仕上げを主たる問題にしてガクガクの論を交わしていたものである。だがそれがいつになっても一向に改良されないままであったので少しくあせり気味など持たれていた頃のことである。大阪・日本橋の堺筋通りに大薮商会というのが生れ、当時この店がクロームメッキの一手引受けを業務としていたので一時的ではあったが大いに鳴らしたものである。
大薮商会は、正木さんとの商標権問題を起こしていたが、そんなことは弁護士任せで、日本橋の家では、毎晩酒盛りをやらかしているとの噂が四辺にがった位であるから大した景気を見せたものである。だがその後、その大藪商会は日ならずして沈黙して終ったようである。
その当時、私達六社の新聞社に対して全段通しの一頁広告が大薮商会から何度か出され、大いに収入を得たものだ。クロームの発明者といった正木さんは、それほど賑やかでなかったことの経過を見ると、商売というものは宣伝が如何に必要であり、そのための広告など大きく打出すところに戦果があるということの現実をこの時証明されたような気がした。

■サンプラチナの始めの頃 ■2018年2月16日 金曜日 12時46分12秒

想い出のエピソード二題

《昭和初期》 サンプラチナは、昭和初期の物資が欠乏していた時代を当てこんで売込んだ白金代用の金プラチナで、呼称「サンプラチナ」と呼ばれていた。昭和二年十一月に創業した「三金研究所」がこれを発売した。社長の加藤信太郎氏はその年に上京、私の社に朝晩となく訪れ、その宣伝方法で協力を求めてきた。その頃加藤さんは私に、「藤井社長、サンプラチナが成功した暁には、御社の社屋を三階建にして差上げます。本当です。どうか面倒を見て貰たい」という懇願ぶりであった。サンプラチナと名称はつけたものの、地金が堅くて金の代用どころか白金の代用にはなおのこと、なかなか利用の役には立て難いというものであった。然も業者関には一片の面識もないズブの素人の加藤さんだったのだ。然しそうこうしている中に貴金属品に関する統制が一層強化される時代になり、業者側でも堅いのが難点ということで作業の点で芳しいものではなかったのだが、さりとて所用資材が欠乏する時代に変っていった頃からは、これを使わないということにもなり、漸次観念化された時代ともなったのである。統制が強化されたおかげである。
それをチャンスに貴金属組合やその関係方面に使用方を説いて廻った中で、眼鏡方面への開拓に一歩を進める必要から、サンプラ地金の取扱業者の選択について相談をかけられた。だが地金業界の事情では、堅いという特質があるだけに、積極的な協力ぶりをとるのに少しく逡巡していたのであった。ある晩加藤さんが私の社に押しかけて来て、狙いをつけていた古森宮貴金属にその取扱い方を頼んでくれというのであった。勿論小森宮さんは加藤さん自身には未知の人であったので、私か紹介して始めて知ったという事である。古森宮さんのお宅を訪問していろいろ懇願した結果、それでは店のものがどういう物か一応相談してみようというところまで漕ぎつけた。
この頃は現当主の古森宮さんは、学生であり、専務の福ちゃんだけか残っていたのだと思う。そうして漸くして頼み込んだ結果、小森宮貴金属が、サンプラ地金の発売元として永続しているという現況を聞いている。このエピソードは、かって大阪時計業界の某卸店が、密輸事件からの脱落を条件に金五万円の謝礼金を出す約束したのをホゴにしたのに次ぐ第二番目のエピソードである。

■白金事件と代償の一万円 ■2018年2月16日 金曜日 12時45分19秒

想い出のエピソード三題

《昭和二十年》 これは、終戦の年、昭和二十年五月頃のことだと記憶しているが、私の社が二十年の三月十日の帝都大空襲の災害で丸焼けになったので群馬県の鬼石町にあった日本ニッケル会社社宅に疎開した時のことである。隣りに寄居していた人から金田屋の主人金田某が死んだという悲報を聞かされた。その金田氏は、駒込警察署を通じて東京地検で取調べを受けていた戦時中の物資統制令に違反した事件である。その時の証拠物に提出したのは、戦時中に買い上げたダイヤモンドを輸出することによって外貨獲得という線を打出したいから許可して貰いたいという業界の陳情運動をしたときの関係書類を一括風呂敷包みにしてあったものを参考上必要だから届けてほしいという頼みであった。それによって私は元富士前町の金田氏の居宅に届けたのである。但しこの代償に金一万円也の予約報鴟金を支払う件を約束されたのである。これを実行されないまま彼は捕われの身となり悲報に接したという経過である。つまりこの場合の報奨金流れが第三番目になる話。

■日本橋大伝馬町に所在した村松本店の卷 ■2018年2月16日 金曜日 12時44分32秒

貴金属業界秘話その一

《昭和12年》 貴金属品を取扱う業者の頭の中には、誰かれなしに何か潜んでいるのではないか?と聞きたくなるほど、他に倍するお金儲けへの執着心が秘められているようである。このことは業者全部に該当する言葉ではないかも知れないが、兎に角これらにまつわるエピソードともいえるものを二、三紹介してみよう。
☆村松本店の卷=日本橋大伝馬町に所在して、明治から大正、昭和の時代にまたがった頃の村松本店といえば当時の貴金属業界では第一人者的存在であった。四角の中に犬印を以て商標としていたから、この角犬印の品物は何所へ出しても通りが良かった。
村松万三郎代表の下に青木という支配人がおり、性格温厚であったが一角の筋が通っていて格式を重んじた人だった。この青木さんが他の想像もつかない業者筋のある店の奥座敷の真ん中で、何やら低頭しながら静座しているような格好の場があった。話から推測したところでは、支払いの期限についての事のようだった。万が一にもそんな筈はないのだが、と思っだのだが、そのあと暫らくして村松本店が整理することになったのだと聞いたのだから驚いた。温情らしく持ち掛けて品物を大束に売り込むなどの向には決して油断がなりませんぞ、というのがここでの第一幕。

■商標権譲受の件でで雪の中の旭川行き ■2018年2月16日 金曜日 12時43分42秒

貴金属業界秘話その二

《昭和12年》 話は少しズレるが、昭和十二年二月十二日のことである。北海道の旭川
市というところは全道を通じて北面に位するので冬は酷寒の地ということになっているだけに寒さと来たらすこぶる厳しい所だ。私はその極冬の二月十二日に旭川市の明治屋本店に辿りついた。明冶屋は人も知る北海道の時計界では最も古参に属する店であり、卸商
でもある。私が所用で辿りついたときは、当時のご主人は佐藤音次さんであり、頗る元気だった。その健康さときたら、寒い最中でも風呂に入ってから素肌に手拭を引っかけただけで堂々としていたほどであるから驚く。元気そのものであった。その音次さんの話だと、明冶屋は明冶六年に道庁吏員として開拓団のひとりとなり、旭川に渡来したもので、その機会に土地を得たものだとの説明であった。
従って、それから延びた明冶屋のこと、土地は何所までが自分所有のものであるかは、終戦後の固定資産税調査が行われた結果、始めて判明したというほどである。
その明治屋の元当主である音次さんが亡くなってから現当主の門冶氏が引継がれているのだが業務の中心は時計が主のようである。
その明冶屋さんは、元来物ごとに明細をつくす型の人だけに、その商標類に関することでは、とてもではないが他の想像も許さないほど沢山の所有権を持つていた。その中に東洋時計のマークである「TOYO」なるものが日本文字とローマ字の何れからでも他の食い込みを許さいないよう明紀しており、登録権を所持しているのである。
私は昭和十一年の暮が押し迫ってから、吉田時計店に呼ばれ、当時の支配人であった佐藤健三氏(現佐藤時計店社長)から、その権利の譲受けの交渉役を頼まれたのである。それによって酷寒の二月十二日、旭川市の明治屋に辿りついたのであるが、始めて見た冬の旭川は雪に埋もれていた。そして道路の中央に雪で作った門をくぐり、歩くように出来ていたのに驚いた。もっとも旭川まで到る函館からの汽車の中でもストーブがあって、それにマキや石炭を投げこんで室内を温めていたのを見て驚いたのである。
そのような事情で、佐藤門治さんに対して、吉田時計店からトーヨーなる商標権の譲り受けを頼まれた所以を話したのだが一向に聞き入れてはくれなかった。明冶屋さんは、この外にも、自転車、お酒、時計などについて、いろいろな商標権を持っていた。だがそれをお金に代えて喜ぶような性格の人ではなかったから、当然この場合の譲受けの話について断ったのが当然のことであった。終戦後に於てもオリエント時計から、再度に亘りこの交渉のダメ押しをしたことが失敗に終っている。

■八紘一宇の限界を指した頃の勇猛ぶり ■2018年2月16日 金曜日 12時42分27秒

昭和十四年の頃の研交会の卷から

《昭和十四年》 一般世相は既に戦争気運が高まりつつあった頃なので、国民感情も次第に高まりつつあった時である。業界情況にしても、金銀の使用禁止、金属製品の使用制限等が打出されたそのあとだけに、勢い戦争そのものの行手について論ぜられるようになっていた。従って国民の気分も硬化しつつあったといっていい。特に私は、兵隊籍を持たないが故にというところから、その年の春に中支那方面の産業視察のため十一人の貴金属業者と共に現地の視察に行った直後だっただけに戦争に対する批判にも一段と意気ばんでいた頃だった。
この頃の時世に、一段関心を持っていた東京研交会メンバーは、戦争という刻下の状況判断の資料のために、特に検討を行う方法を選んだものだ。昭和十四年六月の頃だと思う。その時の研交会の幹事は天野君。天野君の友人の陸軍士官学校出身の鈴木貞一さんと一緒に、十三年の二月ころ、上海の空中戦で有名をとどろかせた野村名パイロット(大尉)を我々の席に呼んだのである。そのときの会場は上野公園前にある山下という料亭であった。二階の広い日本座敷で全員と来賓の二入が紹介されて時局について話し合った。
この研交会というのは、会員間での研究と親睦を目的に作られており、毎月十一日を定例日として会合する規定が今でも実行されている。従ってこの日の話題は上海戦闘の功労話から、いろいろと話題がはずんでゆき、「私達青年層の戦争に対する所見はどうですか」と鈴木さんから問われた。そこで私はトップを切って、意見を吐いた。過般私が上海を中心に中支の一部を実地に視察してまわって来た関係から意見の持ち合わせが少しくあり、しかも急激なところまで行きそうになることを恐れるからでありますと予め伺ったところ、その点絶対に保証するということであったので、これからの話には全員が緊張して相対することになった。その席にいた鈴木さんは、当時陸軍糧秣厰の課長で少佐か中佐であったと記憶している。そして言論がこと軍関係に及ぼう物なら、理由の如何を問わず直ちに首がスッ飛んでしまった軍政時代であっだのだから、この点をとくに念をおしたのも無理はない。陸軍大臣は東条英機中将の時代であったはず。
当時の戦闘状況は中支を兩下して兩支を攻略中であり、最大の要衝重慶を目がけて猛烈に爆撃を続けながらもついに、戦線は八絃一宇を呼称して東南アジアを席巻せんとして大平洋領域まで併呑しようとする鋭い勢いを見せかけていた時であった。私は意見を極めて率直に吐き出し次のように話した。

■一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して遂に企画院総裁にまで昇任した ■2018年2月16日 金曜日 12時41分32秒

陸軍士官学校出身の鈴木貞一さんに話を聞く

《昭和十四年》 「軍では八絃一宇を呼称しているが、その意味は天からのぞき見た一連の眼界を悉く平定するという謂にあるものと思う。然りとして、戦争は陸続きの最尖端、シンガポール辺で終息さすべきだと信じている」と。ところが、間髪を入れずに、それを説く理由は何か?と鈴木さんが鋭く反問して来た。そこで私は主張を次のように続けた。
「私は先に幸い中支方面を視察して見て、その広大な地域に驚いた。仮りに、軍の攻略が成功して全支那を平定することが出来たとしても、これを統繝するために天皇が直接支那大陸まで出禦することは許されないものだと推定する。そうだとすれば、攻略成った支那大陸は出先軍官だけになり、宛ら往時の徳川幕府時代の行政に陷るはいうまでもない。国乱れて忠巨出づの反対の戦果が成って反乱が起こる懸念なしとはしない。だから天皇は日の出る国日本に止まって、その手の届く範囲で政治を行なうべきである。従って目下進行中の支那大陸での攻略戦果は、南支を將介石に委ね、中支を緩衝地帯にして統治を収め、北支を満州に属領として手中に帰す事にして、事態の平定を計らなければ果てしない広域戦争のために、国力の自信に問題か起きて来る危険性がある。これは私たち青年層が見ている「八絃一宇の定則」であると思っていると語った。
この時の鈴木さんと野村さんの眼光は静かではあったが鋭かったように覚えている。従って言うだけはいったが先様の結論がどういうふうに出て来るかに瞬間少しくおののきの気持さえ手伝っていたが、佐官服姿の鈴木さんは口を開いて、「私も同感です」とこう答えて私の手を固く握った。そこで一同の緊張はたちまち崩れ去り、女中払いをして戸障子をしめた室内は明け放たれて、盃を交わして上海戦争当時の名パイロット野村さんの上海攻略の経験談などを中心に歓談したのであった。その鈴木さんは、そのあと間もなく東条首相に呼ばれて一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して遂に企画院総裁にまで昇任したのである。
序であるから話は後の分までここに結びつけるが、その鈴木さんが大東亜戦争時代の企画院総裁という肩書にある限り、戦争はシンガポールでお終いになるはずだと私は思っていた。そこで後日、軍需省航空兵器総局に判任官として勤め、時計部主任を担任していた当時の私はいろいろな計画がこの時の状況から割出してみたのでズサンに終ったことがある。
■国民運動という指標で日米親善国民大会を日比谷で催した ■2018年2月16日 金曜日 12時40分42秒

日米親善国民大会を開いた時の情景

《昭和十四年》 第二次世界大戦を起した日本の立場そのものの発端は、満鉄沿線の鉄路約一尺を切断したことから国際間の紛争へ、そして戦争へとかり立てられたのである。元来、戦争というものは偶発的に起るものではないということがその間の現実を見て判る。“小人が閑居して不善をなす”などということとは違って、国と国との闘いになるのだから、そう容易に行えるものではない。然し戦争という事実は、計画に基いて行われるものであり、その源は思想的企画の予定行動に基くものであるようだ。
日本が事変を起して行ったその動機は、この狹い日本本土に六千万人とも七千万人もの国民が生きられる訳がないではないかという一筋の観点から来た心理関係の侵略思想が発生せしめたものであるというのが明らかな事実となっているらしい。それが支那事変に拡大して行ったと米英両国の連合外交が相携えて、日本を経済封鎖という戦略により押えつけようとした行動の現実性が、ひいては大戦争を誘発せしめたものである。
戦争当初からこの問題は、表立って話題にされていたし、又その事実が公然と認められてもいた。しかし、当時は国民皆兵式の一大戦争にかり立てられていたので、さして気に止める事もなかったようである。そこで私と三木武夫君と話合った結果、国民運動という指標で日米親善国民大会を日比谷で催したらどうかということを話合ったものだ。これに参加したのは何れも明治大学の友人ばかりたった。当時の社会情勢は米国に対しては、直接抗戦的な行動をしている訳ではないのだが、然し英米両国の経済封鎖そのものを緩和させることが日本の戦略的行動の範囲としては必要であるという見地から、この日米親善国民大会の開催プランが組まれたのである。
■三木武夫君が歓迎委員長の全責任を委託されることになった ■2018年2月16日 金曜日 12時39分52秒

来栖大使の遺骸が米国の巡洋艦で送り届けられる事になったお礼として

《昭和十四年》 三木武夫君が代議士になったばかりの二年生である。確か昭和十四年の秋だと記憶している。兎に角決行することに決めた。そして日比谷公会堂を会場に決めたのだ。この時の交渉は一切三木武夫君が当った。そして院外団からの妨害行動の予定も予想はしていたのだが、会場の一部でビラ撤きなどのヤジ行動が起こり、少しく喧騷じみた場面も見えたようだったが、それでもやるだけはやってのけた。この日の費用は確か外務省から出して貰ったと記憶している。
大会の決議文は、当時の米国大統領ルーズヴェルト氏とフーヴァー上院議員議長宛に電報を打った。その情況は逐一三木武夫君から私(本社)に報告されていた。つまり本社は私設本部といった格好であり、私が参謀総長の役を引き受けていた。
こんな事は大したことではないように考える事もあろうが、それが後になって特別な結果となって表れた。その一節を紹介すると、戦争がだんだん激化して行く内に日本と米国の国民感情が浙次悪化して行くようになった。所がその駐米の来栖大使が突然死去したのである。この頃は日米間の国民感情は既に悪化の一途を辿っていた時だっただけに、その大使の遺骨がどのようにして送られてくるものか、あるいは、また日本側から大使の身柄を受取りに行くようなことになるのかということなどの論議が湧き、日本国民全体の注視の的となっていたのである。然しやはり米国は大きい襟度を持って来栖大使の遺骸は国寶の礼として米国の巡洋艦アストリヤ号によって送り届けて来るということに通達された。
そこでこの送って来る米国巡洋艦についての歓迎の礼は誰がやるのがいいか、という議論が外務省と海軍省の中で巻き起こっていた。
その結果白羽の矢が立ったのが、先に日米親善国民大会を開いた責任者の三木武夫君に声がかかり、歓迎委員長の全責任を委託されることになった。
■帝国ホテルを本部に前後八ヵ月間に亘ってホテルの部屋を使った ■2018年2月16日 金曜日 12時39分10秒

巡洋艦の艦長以下乗組員1,800人に対する記念品の選定等

《昭和十四年》 このときの所要日数は、帝国ホテルを本部にして前後八ヵ月間に亘ってホテルの部屋を使っていた。その経費も一切の支出の費用も三木武夫君一人が采配をふっていたのだから大分利益になった筈である。私がこの場合少しく手を染めたのは、巡洋艦アストロヤ号の艦長以下乗組員1,800人に対する記念品の選定という役を引うけた事だ。そこで一儲けしょうということで梶田久冶郎氏と合月商店から出て独立していた道斎浅四郎氏にも相談して記念品作りの見積り一切を完了した。ところが先方から記念品等の贈答品は一切辞退するという事になってしまったのだ。金儲けということには案外運のない私であったが、この時ばかりはかなりがっかりした。
一個800円だったから何十万円かの注文になるので相当の利益になる計算だったから惜しい限りであった。この時の状況が、当時米本国に報告されていたので、三木武夫君が終戦後の軍事省参与官という閼係議員の立場でパージにかけられることになったときの難を免がれたという大きな恩典に浴しているのが特記される。
■「日本一最年少議員の三木武夫君の声を聞く」講演会を開く ■2018年2月16日 金曜日 12時38分21秒

私がその前座で、明治大帝が読んだ詩吟の一節を披露

《昭和12年》 この序で、三木武夫君との関係について少し話してみる。昭和12年四月の始めに最年少議員に当選した三木武夫君を東京駅のホームに出迎えしたのが私だ。三木武夫君とは、その年の10月ごろ、諏訪の片倉会館に同行して、一緒に処女演説を行った良い思い出がある。会場には千数百人が集っていた。集会の表題は、「日本一最年少議員の声を聞く」という事であった。私はその公園の前座に立つことに決まったのだ。雨の日の午前十時頃、京橋の路上で出会って、そのまま諏訪行となったのだから取分け演題というものがない。そこで三木武夫君が所持していたポケット帳の中から見出しだのが、明治大帝が読んだ詩吟の一節である。「夜朦艟に駕して遠洲を過ぐ、満天明月思いゆうゆう、何日の日かわが志を遂けんや一躍雄飛五大州」。私がこの詩を読んで大喝采を浴びたいい思い出がある。

■寒山寺の茄藍の中にある建物の壁には何一つ落書されていない ■2018年2月6日 火曜日 15時42分58秒

支那の智識人は宗教心には強い尊敬心を払うものだ

《昭和14年》 その次に、寒山寺に詣でいろいろ物色した時に感じたことは、寒山寺の茄藍の中にある建物の壁には何一つ落書されていないことに注目をひいた。然も支那では到るところに沢山の子供がいて、日本人を見てはシーサン(先生)シーサンさんを連呼して物乞いをしていたのである(その当時)だから、日本における場合なら極めて簡単に何かの落書をして壁のキレイさなどは見られたものではないのに比べれば大変な相違であると感嘆した。
その次に、寒山寺の寺院の苑内でいろいろの土産物を物色していた。そこの住職も手伝い、ニ三の寺坊が手まめに応待していたが、格別日本人だからといって特別の態度も見せてはいなかった。ところが私か指さした南無阿弥陀仏の六字の称号を求める段になると私を取巻いて見ていた支那人の大勢が突然私の傍から遠のいて円陣を張った。そしてはるか離れた小屋で土産物の応待に努めていた住職を手招きで呼んでくれた。すると、その住職は、手早くその場を処理して私のところへやって来た。私は六字の称号三枚求めて六十銭の代金を支払ったところ住職は自分の名刺を取出して私に渡し、合掌敬意を表された。そこで私も商品興信新聞社長名入りの名刺を出して交換した。そのあと住職は私を案内して本堂までの茄監を見せて回って呉れた。この本堂には十五尺にも余るような大き三枚の宝来山に千羽鶴の絵巻軸が掛けられていたので、これを指さして売りますか、と聞くと、二百円と答えたので、このとき路傍における商人のときの状況を想いだして、値段は負かりますか?と反問して見た。するとこのとき物静かな足どりで案内していて呉れたその住職は、くびすを返すが如くに後についている私の姿を振り向きもせず、ツト彼方の寺坊に飛び去って離れて行って終ったのを覚えている。そこで直感したのだが、支那の智識人は宗教心には強い尊敬心を払うものだという、実感にうたれたのである。

■石橋爆破事故とその時の恐怖感 ■2018年2月6日 火曜日 15時42分20秒

一時は戦場的光景のおののきを感得させられたものである

《昭和14年》 江州に着いたので、名勝地の西湖のほとりにホテルを求めてから附近の情況について聞いて見た。当時はこの西湖の対岸にはときどき機銃の射声が聞えたという。だから遠くへ出て行けないことは勿論のこと、夜ともなれば、ホテルからの外出も禁じられていた程だった。そこで早朝(五時頃)西湖のほとりにやって来た三十才余の青年と筆談を行なって情勢判断の一つにもしたいものだと思い、越村氏と共に対談して見た。するとその青年は曰く、「将介石もダメ、日本の東条もダメ、東洋に人材乏しきを憂える」と書いて見せた。支那というところは地域も広いが人間の気持もすこぶるスケールの大きいものだということを知って感嘆した。
その日は、午後一時の汽車で上海に戻ることになっていたので一行は、早朝ホテルを出発。加藤信太郎氏を除いた十人が西湖のほとりにあるお店でライスカレーの食事をしていたところ、そこへ顔色を変えて飛込んで来たものがあった。それは早朝西湖の駅を出発した加藤信太郎氏であったので驚いた。バックして来た理由は、石橋の鉄橋が匪賊のために爆破されたので開通の見込みがないという説明であった。これを聞いた一行は驚いた。行くに道なし、戻る方法もなしというのであったのだから、心中は瞬間ではあるが、正に暗黒そのものの観を呈したのとその当時を思い出す。加藤氏の報告によって、一行は兎に角一刻も早く西湖を立って上海への引きあげる方向へ急行することに決めた。
そこでヤンチャオ(人力車)を呼んでしゃにむに駅まですべりこみを敢行したのだったが、このとき既に駅頭では日本人に限り随時列車への乗込みを許すという臨戦体勢がとられていた。その他の一般旅客の乗車は一切禁止されていた辺りから見て、勝てば官軍という言わざの通り、戦いには勝たなければならないものだと痛感させられた。
然し爆破された石橋は、山田乙三閣下と再び同行することになったおかけで間もなく仮橋を作ることに成功したので、上海に無事着くことが出来たが、途中匪賊の襲撃などの不安予想もあって、一時は戦場的光景のおののきを感得させられたものである。

■南京地区の状況視察のときの快味 ■2018年2月6日 火曜日 15時41分31秒

足便が乏しいので軍の自動車に便乗する外なかった

《昭和14年》 南京にはその翌日上海を経て到着した。そして南京では当時第一級の飯店とされていた南京ホテルに落着いた。ここを中心に中山陵とかの名勝地を見物したのだが、足便が乏しいので軍の自動車に便乗する外なかった。
明大の先輩達がいる関係でこのときも利用することを得た。中山陵に詣でて始めて支那の姶祖、宗民時代のことなどの一節も想い浮かばなかった。南京の市衝はつい先だって日本軍が占領したというそのすぐあとのことだっただけに市街の建物は爆破のキズあとがまだ生生しく残っていた。
だから私達の一番眼を惹いたのは、印度巡警が警棒を振ってチャンピーやヤンチャオ連中に威厳を示し追払っていたことなどがある。
私達がその夜宿った南京ホテルは第一級のホテルであった。だから宿泊人は相当なものだということが判断できる。そのせいなのかとにかく、どこからか支那服に身をまとった美人が一人の紳士に伴われてきたとしても、このホテルへは一切入所を許さない。そのために印度人の巡警が棒をふるって入るのを妨害している光景が、私達の眼の前で展開されたので一面の興味をそそった。
またヤンチャオが客を求めてこのホテルの前に群かって来ようものならインド人の巡警は警棒をふるって力の限りにその車の覆いをたたきこわすように振り回してもいたので、少しく敗戦者の哀れさを感じないではいられなかった。
このような光景の南京の街に私達の眼を惹きつけたものは、銀貨の買入に進出していた石福貴金属興業KKの出張所であった。

■石福貴金属興業は、事業場拡張の為上海に次いで南京にも出張所を ■2018年2月6日 火曜日 15時40分37秒

政府が資材統制のため

《昭和12年》 前にどこかで述べたように、支那事変開戦のために貴金属地金界にも一大異変がまき起っていたのだ。統制という画期的時代の現象が政府の資材統制のために余儀なくされた。そして昭和十二年の十二月二十八日、日本貴金属株式会社が設立されて、東京、大阪、名古屋の地金業者が一括加盟して政府が指令する統制資材の集荷の役を負うことになったものである。そのために石福貴金属興業KKは、その事業場のことから上海に次いで南京にも出張所を出したのであろうことなど読めてはいたが、外地で見る知人の名や姿の実際にぶつかると何となく懐しいものである。そのように市街の状況を視察して歩いたが、ある一定以外の地域への出入りはここでも厳禁されていた。それは、支那人の一部がスキをねらって日本人を襲う危険があるからだと説明されたのである。しかし恐いもの見たさという気持が手伝ってか、私はその翌朝早く、その禁足地区に単身立入って見て廻ったが別段これという危険な感じはうけなかった。
中山陵地区の史跡を見学した夜、私の友人である明大の先輩達の好意で士官集会所に案内されることになった。ヤンチャオに乗ってグズつく車夫をクツ音でベンタツしながら程遠からぬ士官集会所に走らせたものだ。この集会所は街の情景とは趣を異にしていた。特級酒の白鹿、月桂冠、菊正など、何でも、それにカシワ料理をふんだんに出してくれた上に、銀めしというごちそうである。一切は特務機関の計らいだけに余人の想像もつ  かないものだった。支那事情についての説明では、支那全土を掌どるものは少なくとも中支の勢力を掌握するために、揚子江経済という支那の特有事情を知る必要があるという一巻について、新政府の経済部門の某要人から聴くことができた。従って揚子江を通じての経済力が大きい代りに、また揚子江を中心にした戦争経過という面も大きくかつ永びくものであるという点など想像されたのである。こんなことについて語ってくれたそのあと、更に南京第二飯店に一行を招待してくれた。その席には將介石四十七号嬢というのが加って私らに酌をしてくれたとい酒席もあって一同をヤンヤといわせたものである。以上のような経過を辿ったので一行は急に偉くなったような気持ちになって支那大陸への進出という谺想の夢を肥に大きく描いたものもあったであろうが、翌朝私かホテルのカウンターをのぞいて見ると、朝日新聞の記者が連絡電話で上海における日本艦隊の矢地第三艦隊長と英国艦隊の間にチャンバラ事件が突発したので飛行機ででも帰れない事となった。

■蘇州、江州を経て兩京を見る ■2018年2月6日 火曜日 12時28分6秒

上海から半分に仕切った二等車の半分に私達の一行が乗る

《昭和14年》 一行は蘇州、江州地区を視察してから南京を訪れ、更に武漢地区に足をのばす予定にしていた。上海から、半分に仕切った二等車の半分に私達の一行が乗り、他の半分の席には中支方面派遣参謀総長の山田乙三閣下以下秦大佐らの幕僚連が随行していた。従って各駅停車で然も停車のその都度、その地区内の治安状況の説明が地方自治会委員の代表者に依って行なわれていたので、軍隊の用件で行ったのではなかった私達の一行も、当時の軍の行動とその地域内の状況範囲が手に取るように読みとることが出来、すこぶる愉快であった。
お陰で私達一行は山田閣下(日本大人)と同じように、日本人の誇りを鉄道を守備する支那兵からも捧げられていたので少しく誇らかな気持で歩いたものだ。

■中支那方面視察中のところどころ ■2018年2月6日 火曜日 12時27分24秒

最初二百円と唱していた掛け軸が結局ただの五円で売買することになった

《昭和14年》 中支派遣軍参謀総長山田乙三閣下の一行に加わっているが如き感じで、閣下一行と同行していた私達の中支那方面経済視察団は、その視察の眼を各地区の都市の実情調査にも転ずることにした。その中に織り込まれた一コマ、蘇州寒山寺に詣でて感じた点を追想してみよう。
寒山寺に詣でる途中の沿道に立ち並んでいる商人から一行中の越村氏が掛軸を求めるべく値段の交渉を始めたので私と一行は興味を持ってその成行きを見守っていた。越村氏が指差した掛軸は最初二百円(当時)と唱していたが、だんだん値切って結局ただの五円で売買することになった。支那人という商人は物に対して馬鹿げて吹っかけるものだという印象をこのときの状況から知ることが出来た。

■支那の市場支配権の獲得交渉へ ■2018年2月6日 火曜日 12時25分53秒

在上海日本軍第三艦隊上海派遣軍駐屯部隊本部を訪問する

《昭和14年》 上海三日目の一行の視察行動については、前夜に打合せで「11人が揃って歩く必要のない所へはそれぞれ希望のところに行こうではないか」という話になり、希望者は双方の何れへでも随行することにした。私は中支方面の市場調査を目的としての行動をとることにしたので、早朝出発して、在上海日本軍第三艦隊上海派遣軍駐屯部隊本部を訪問することにした。
朝七時三十分にホテルを出て埠頭に第三艦隊から差廻してもらった、且っての独乙軍の占領艇でフートンに渡ることになった。(注・フートンとは丁度月島を本土と切離したような感じのところ)。ここに第三艦隊の司令部があったのだ。私は、秩父宮の御前砲射を行なったことの栄誉を持つ服部大尉に面会した。そして支那における市場支配の構想について説明を求められたので、格別資本金は大して必要としないが経験者の派遣によって実際的に支配してみせる、その代替物として日本で作った軽金属製品を与えて日支人国民間の交流を計りたいというのが私の希望であると抱負の概要を説明した。

■安田保全株式会社が市場の支配権の獲得の交渉にやってきていた ■2018年2月6日 火曜日 12時25分5秒

資本金によって事業を企む安田保全より君の企画を取りあげることになった

《昭和14年》 ところがその当時すでに丸の内の安田保全株式会社から安田という人が資本金二百万円を持って私の考えと同じように市場の支配権の獲得の交渉にやってきたという話をこのとき聞かされた。その結果ともかく、少佐に説明の要点を伝えてくれることになり約一時間のあと出てきた大尉が興奮して、「君の勝だった」と私の肩をたたいで説明してくれた。
それは大隊長の矢地少佐がいわく、「軍は国民的な観念によって、賄ってくれる人を選ぶことにするのだから資本金によって事業を企む安田保全KKより君の企画を取りあげることになった」と説明してくれた。
だが、少佐殿が所用のため南京へ行って帰ってからまた合うことを約束して大隊本部を辞去した。そのあと服部大尉は私たち一行を軍用自動車を駆っでフートン地区の実状視察に案内してくれた。フートンにいる民間日本人は、私達の外には二・二六事件に連座した山岸中尉の姉さんが宣教師となって渡っていただけで、あとは皆無だと聞かされた。だから私達の乗る軍用車によって馳駆する道すがらは異様な感じをもって見ていたようでもあった。
このフートン銀座を経由して支那農民の総てが生鮮な野菜物をかついで対岸の仏祖界に売りに行くのである。この売込み物資を一括して取扱ってやることそのものが市場性を持つものであると私と服部大尉は現状の動きを眼の前にして語りあい、既に市場開発の際の企画が立案されたような感じでながめたのである。この間、交渉成立の実現を眼の前にして私に同行した一同は喜びと驚きの眼をみはったのである。

■上海の市街を見学、中国の知恵を学んだ ■2018年1月22日 月曜日 13時33分1秒

電車もバスも車掌が私腹を肥やす

《昭和14年》 上海二日目の朝、一行はそろって上海の市内見学を行った。宮沢さんの案内で電車やバスにも乗って見た。電車の切符は、12枚切るので、6枚で足りさせて3枚を車掌に払い、それでOKとなる。つまり車掌が3枚分を私腹してお客が3名分安く乗ったことになる。この説明をして代金を与えるとその車掌は納得するのである。それを実践して見せてくれたのがバスであった。バスの場合も同様だが、このバスは英国系の会社経営になっていたので、監督が時々乗車して切符の点検をやるそうだ。その時、自分の儲けた分も、客からも不足分を無造作に徴発して補うことをやる。それでその場は通るのだった。英国人の監督は、支那人のそれらの行為が通有性であることを知っているせいか、訳もなく徴発を行っていた。

■上海のデパートの配置を見学 ■2018年1月22日 月曜日 13時31分30秒

服部時計店の大田さんにご馳走になった

《昭和14年》 上海のデパート上海公司、信信公司などの見学をした。上海のデパートは一、二階が百貨売場で、三階は喫茶と食堂、四、五階が娯楽場とキャバレー、六、七階以上がホテルという日本では考えられない建物となっていた。デパートを見た後、上海の競馬場前にあったモダンなエンパイヤホテルで昼食を取った。このホテルは英国型の経営スタイルで、まさに豪華そのもの。夜は、上海飯店で広東料理の珍味をご馳走になった。この飯店には、服部時計店の大田上海出張所長さんが招待してくれて、接待を受け一同は感謝した。当時の上海の状況は、上海の中央部を包囲して、四方に敵(支那側)の機銃座が据え付けられていた。何時でもチャンスがあれば、即時開戦という体制を物語るもののようであったので、何となく私たち一行の眼にも戦争というものの本質に、疑問視した上海見学であった。

■揚子江を巡り着いた四仙路ホテルでの第一夜 ■2018年1月22日 月曜日 11時20分1秒

50本入りのスリーキャッスルが50銭で、旨かったこと

《昭和14年》 初めて見る支那大陸は、我々一行の眼には鋭く映った。まず船は揚子江を巡りつつ進んでいったが、この頃から海水は黄色みを帯びているのに異様な注目を引いた。上海の埠頭に着くと、チャイニーズ達が船内にタバコ売りの為にどやどややってきた。確か一箱5銭だったと思う。50本入りのスリーキャッスルが50銭でこのたばこは旨かった。タバコを止めていた私だったが余りの旨さに、また吸い始めてしまった苦い経験がある。
宮沢氏と私は、先に世話をして上海に送っておいたM氏の出迎えを経て、四仙路の四仙路ホテルに案内してもらった。これから20日間、上海の町で起こったエピソードは?
上海について思いついたのは、かって先に上海を訪れた千野善之助や大学教授の一行が、一人でヤンチャオ(人力車)に乗ったために、横道に引きずり込まれて半殺しの目に合い、ほうほうの体で逃げてきたことだった。半面、それだけに興味を深めた上海の第一夜に突入した。

■上海での一人歩きは危険であった ■2018年1月22日 月曜日 11時19分17秒

出かける時は必ず予約したタクシーに乗ること

《昭和14年》 ウースンの波止場を歩き出した一行の眼には、初めて見る上海の空気が何となく深くより深く味わいたい気持ちだった。上海は異国ではあるが日本が戦争に勝ったお陰で街で見る日本人の姿は何となく強く感じられた。だが反対に戦争に敗れた支那人の気持ちを考えると、何となく複雑な気持ちだった。
支那人たちは、店先で表の道路に向かってうどんのようなものを食べていた。それは、自分は食事を取っているぞという事を誇ろかにしているポーズであることを知って納得した。
宮沢さんは、上海で時計組合と蓄音器組合の組合長を務めている傍ら居留民団副長もやっているので、実質的には団長格で上海には詳しい人。
20年もの上海暮らしの宮沢さんが言う上海の町の歩き方とは。
つまり昭和12年の春に上海戦争がはじまり、支那人は日本兵に大量虐殺されている。その恨みもあって、日本人が少数で街を歩いていると突然被害を被ることがあるという。単身人力車に乗って、横道に連れ込まれて金品を取られた事例もあったことから、街の一人歩きは厳禁されていた。夜出かける時は、流しのタクシーではなく、予約して素性のわかるタクシーを使うことを教わった。

■到着一夜にして、はしゃぎ過ぎて大失敗の件 ■2018年1月22日 月曜日 11時18分33秒

「酔いざめの水は、下戸知らず」大いに反省した

《昭和14年》 上海での夜食が終わった後、上海の夜の美しさは格別であった。外出時の注意を聞いた後だけに、外出をためらっていたが、興味を持った連中だけでホテルを抜け出した。
この四仙路辺りは、一応戦争は終わったという事になっていたが、上海の外廊には機銃野座が、当時も据え付けたまま相対峙していたのであった。それだけに夜ともなれば支那人の家の雨戸は垂れているので深刻な淋しさが想像できた。その不気味な支那の街を私と越光、加藤、溝口の4人で、一人の支那人に3円の手数料を払い、夜光潜航行動を実行した。当時は一人に一円づつを払うと何でもやってくれる時代だった。スリルを味わい夜の11時過ぎにホテルに帰った。おいしいお酒の後だけに、枕元にあった保温瓶から飲んだ水のおいしかったこと。今でも忘れない。外国旅行をしたことがなく、かつその土地の水についての知識がなかったため、第一夜にして大失敗をやらかしてしまった。上海はとてもきれいな水が沸いている都市だが、どんな水でも生で飲んではいけない性質だったことを後で聞かされた。「酔いざめの水は、下戸知らず」と言われていたが、この時ばかりは支那というところは、国が大きすぎる割合に、生きるための条件には恵まれていない国であると思った。

■中支那への進出と経済開発を描いた視察行 ■2018年1月19日 金曜日 15時17分48秒

上海から上陸、両国民間人の心の交流を図りたいと祈念

《昭和14年》 この頃私が構想していたのが、輸出金属工業組合の設立で真鍮製品の生産過程が呑み込めたので、この生産品を売り捌く為には戦争の相手国である支那大陸に嘱望することが適切だと考えた。なぜならば日本は支那と好んで戦争をしたわけでなく、米英諸国が連携して支那と繋がり、日本を経済封鎖したことから勃発したもので、日支両国民は心からの戦いを干していないが為に、家庭用品を通じて両国民間人の心の交流を図りたいと祈念したものである。
その方法には、組合員の手による軽金属製品を通じて両国国民の交流を図ることが第一と考えた。支那行きの下調べをした結果、最初の上陸地を上海に決め、そのには知人の宮沢洋行、服部洋行がいたのだ。また二年前に時計修理の就職を世話した人が上海に居て、第三艦隊の専属時計師として勤めていたことが分かり、利用することが出来た。更に明治大学の先輩たち中支那の新政府の要人となって渡支しているとの事活用させてもらった。

■中支那経済視察団を編成して、神戸港を出発 ■2018年1月19日 金曜日 15時16分59秒

乗船した照国丸が上海滞在中に支那艦艇から撃沈されたことを知って驚いた

《昭和14年》 5月10日、中支那経済視察団を編成して、神戸港を出発した。
参加メンバーは、私を含め、越光曉久、加藤清十郎、中川敏二、梶田久治郎、梶田善次郎、谷田賀良俱、高橋洋二郎、加藤悦三親子の11名。神戸港では、大阪の研交会のメンバーに見送られて元気に出発した。
船は、昭和5年の第一次欧州大戦当時、日本が日英同盟の線で加担した時の戦利品の照国丸三万五千トンの船だった。一行は、外国航路は初めての経験であり、上海到着まで三日間を要した。この間船中では、同船していた京都大本願寺の大谷光瑞ゲイ下と会談、中支方面の状況を拝聴した。
中支那視察の目的は、中支那の経済視察の他、場合によっては、日支人間の国民交流を計ることを希望しているというと、称賛された。大谷光瑞ゲイ下は、上海にある西本願寺に出向くための船旅であった。しかし、この照国丸は、私たちを乗せたのを最後に支那艦艇から撃沈されたことを上海に滞在していたホテルの新聞で知り、お互いに顔を見合わせ無事を喜び合った。

■昭和初期の国産腕時計の品種 ■2018年1月19日 金曜日 13時24分59秒

価格形成の最終委員会は、第二回目も東京・銀座の服部時計店で


《昭和15年》 時計に関する価格形成の最終委員会は、第二回目も東京・銀座の服部時計店楼上で行われた。当時の国産腕時計の品名は、
▽精工舎=セイコー、モラール、クラウン、ネーション、地球レース、ダリア。
▽東洋時計=ロックル。
▽第日本時計=シチズン、ゴールドスター、オペラ、サイレン、エリアン、ニュートン、ノーブル、レークランド、エクスラプリマ、カメラ、ナンコ―、ハンザ、シモンズ、ラッキー。
▽英工舎=アジア、センター、オルター。
▽村松時計=キーホード。

■腕時計と懐中時計の販売価格が決まる ■2018年1月19日 金曜日 13時23分54秒

昭和15年11月6日、商工大臣によって発令された

《昭和15年》 商工省告示第697号、価格統制令第7条の規定により、腕時計(輸入品を除く)および懐中時計の販売価格を左のとおりとする。昭和15年11月6日に、小林一三商工大臣によって発令された。
『10型(クローム側)』
☆7石(製造)¥550、(卸)¥590、(小売)¥800
☆10石(製造)¥600、(卸)¥640、(小売)¥850
☆15石(製造)¥700、(卸)¥740、(小売)¥950
『防水又は防塵二重側』
☆7石(製造)¥720、(卸)¥760、(小売)¥970
☆10石(製造)¥770、(卸)¥810、(小売)¥1,020
☆15石(製造)¥670、(卸)¥910、(小売)¥1,120
『九型(リボン釻)』
☆7石(製造)¥605、(卸)¥645、(小売)¥865
☆10石(製造)¥655、(卸)¥695、(小売)¥915
☆15石(製造)¥755、(卸)¥895、(小売)¥1,015
『八型(リボン釻)』
☆7石(製造)¥675、(卸)¥720、(小売)¥965
☆10石(製造)¥715、(卸)¥770、(小売)¥1,115
☆15石(製造)¥825、(卸)¥870、(小売)¥1,115
『懐中時計
17型ミニスタークローム側パリス7石
(製造)¥800、(卸)¥870、(小売)¥1,160
商工省が発令したこの価格表について
@ この価格表は、補正切天府に非ざるものの価格とする。A爪石および提石は、鋼を使用留守ことを得るものとする、B中古品はこの価格表の6割とする、C小売業者において販売後一年間の保証(買い主の責任に基づかざる損傷の場合は、無料で修繕する者の保証)をなす場合にありては、前各表小売業者販売価格に一円を加算することを得るものとする、D文字板及び剣に夜光塗料を施したものは、前各表価格の50銭マシとする、E朝鮮、台湾、樺太、関東及び南洋群島向けのものにありては、前各表価格のI銭増、支那向けのものにありては、前各表価格25銭増とす、F製造業者、販売価格及び卸業者の販売価格は、買主の店先価格とし、小売業者販売価格は、売り主の店先価格とする。

■大阪時計卸商業組合が設立され、冨尾清太郎氏が初代の理事長に就任 ■2018年1月19日 金曜日 13時22分28秒

東京の卸組合が、大阪に尻を叩かれた形で、「五日会」として結成した

《昭和15年》 時計業界の情勢は、以上のような経過で、すこぶる観覧をきたしていた。時計の卸業界は、舶来時計の輸入禁止、置き、目覚時計の製造禁止によって品物は需要に反比例して払底をかこっていたからヤミ値段が高まるばかりの状況となっていた。
そこで時計の卸業者の中から、決起するものが現れ、卸商業組合の結成を図る動きが出始めた。東京側では、大手の参加する動きが少なく、惜しくもこの計画は頓挫した。
所が大阪では、大阪時計卸商業組合が設立され、冨尾清太郎氏が初代の理事長に就任した。頓挫した東京の卸組合が、大阪に尻を叩かれた形で、「五日会」との名称で遅ればせながら結成に漕ぎつけた。
服部時計店の別館でその準備会を開き、設立に関する取り決めを行った。この時、服部時計店からは服部玄三氏が代表として名を連ねている。役員として、中島与三郎、広瀬幸一、金森舛太郎、吉田庄五郎、鶴巻栄松、小林伝次郎の7人が発起人となり、資本金5万円、一口200円、四分の一の払い込みで250口を持って設立した。
このようにして戦争による業界の影響は、とみに激しさを加えて行ったが、当時小売価格の混乱を防止する意味で、協会価格の認定を申請したのは、神奈川県時連が最初であった。その結果、昭和15年2月に認可を受けているが、しかしこれから業界は、暴利行為等の通り締まり規制の強化に従って、随所で違反事件が勃発した。

■国産時計メーカーが昭和13年5月初めて組合を設立、生産内容を公表 ■2018年1月18日 木曜日 11時26分37秒

当時の組合員は14社、出資口数128口、一口の出資金は500円

《昭和13年》 戦争が始まってから最も革新されたものには、国産時計メーカー群の集散状態が取り上げられる。時計業界の英雄とも称される服部金太郎翁の経営する精工舎と雖も戦争という非常時代においては、唯我独尊的行動は許さなかったことになる。その現われは、組合という絆の下に諸般の統合が行われることになってしまった。群雄割拠した時計メーカー群は、昭和13年5月25日に初めて組合というものを設立することに動いた。当時の組合員は14社、出資口数128口、一口の出資金は500円。第一回の払込金額は125円、合計1万6千円で組織された。
昭和13年7月19日、設立許可がおりて、生産に必要な資材の配給が行われた。それによって、生産数量が記録されるにいたって、初めて各メーカーの生産内容が公開されるに至った。
当時の組合員と役員名は
@ 兜桾博梃v店工場精工舎、A椛謫精工舎、B葛g田時計店、C第日本時計梶AD樺゚巻時計店工場英工舎、E芝浦マツダ工業椛蛻芻H場、F東京時計製造梶AG東洋時計鰹續工場、H東京電気時計梶AI沖電気時計且ナ浦工場、J蒲Y工社、K渇h計社,L(合)銓工舎林時計製作所、M褐エ口電気製作所。
A 役員:▽理事長=篠原三千郎(精工舎)、▽理事=吉田庄五郎、(吉田時計店)、鶴巻栄松(鶴巻時計店)、国安卯一、西尾光太郎、▽監事=鈴木良一、田代軍蔵、千葉辰次郎の諸氏。

■昭和14年の「九・一八発令」は国内の経済統制令だった ■2018年1月18日 木曜日 11時24分52秒

当時の腕時計、掛時計、置時計、電気時計の生産量

《昭和14年》 九・一八(昭和14年9月18日)発令というのは、戦争の為に行われた国内の経済統制令であり、その目的は価格のクギ付けであった。
即ち、昭和14年9月18日現在の価格でストップ令が出されたのである。この統制令によって受ける影響は、その当時生産されていた時計と関連商品を項目別に当たってみよう。
『腕時計』
☆昭和10年:165,962個、☆昭和11年:235,661個、☆昭和12年:1,131,901個、
☆昭和13年:1,447,529個。
『掛時計』
☆昭和10年:543,069個、☆昭和11年:10,570,501個、☆昭和12年:892,221個、
☆昭和13年:609,639個。
『置時計』
☆昭和10年:1,930,234個、☆昭和11年:2,155.829個、☆昭和12年:2,244,210個、☆昭和13年:1,457,599個。
『電気時計』
☆昭和10年:79,675個、☆昭和11年:92,352個、☆昭和12年:441,493個、
☆昭和13年:170,152個。
『輸入懐中時計』
☆昭和14年10月:179個、☆昭和14年11月:205個、☆昭和14年12月496個、
☆昭和15年1月:123個、☆昭和15年2月:447個。☆昭和15年3月:257個、
☆昭和15年4月:444個、☆昭和15年5月:16個、☆昭和15年6月:18個、
☆昭和15年7月:22個。
『輸入懐中時計ムーヴメント』
☆昭和14年10月:444個、☆昭和14年11月:482個、☆昭和14年12月1,329個、
☆昭和15年1月:1,160個、☆昭和15年2月:1,388個。☆昭和15年3月:1,446個、
☆昭和15年4月:629個、☆昭和15年5月:932個、☆昭和15年6月:630個、
☆昭和15年7月:863個。
■時計は国産の腕を主体に、文字通り引っ張りだこの状態 ■2018年1月18日 木曜日 11時12分7秒

国家総動員法が発動されることになった

《昭和14年》 戦争に伴う諸般の政策を遂行する傍ら、低物価政策をあえて行ったのであるが、ついに方法の行き詰まりをきたして国家総動員法が発動されることになった。
これは同年9月18日の現状価格にくぎ付けするという意味なのである。従って、国内の各業界は、一大混乱状態に陥ったことは言うまでもない。
時計業界もご多分に漏れず、昭和13年以来輸入が禁止されていたので、時計は国産の腕を主体に、文字通り引っ張りだこの状態であった。
古物品と言えども、需要の目標となってきたので、ヤミ価格の問題は、随所で台頭してきた。
■銀座服部時計店別館で一般機械器具価格形成委員会の時計小委員会を開催 ■2018年1月18日 木曜日 11時11分14秒

商工省物価局の呼びかけで

《昭和14年》 商工省では、状況に対処するため、統制規則に基づいて、各業界ごとに物価統制の小委員会を設けていった。時計界では、昭和14年の4月ごろから商工省物価局の呼びかけに応じて、資料の収集に努めた。その上で7月3日、銀座服部時計店別館で一般機械器具価格形成委員会の時計小委員会を開催している。
当時の服部時計店の支配人は、故中川総支配人の後を継いだ土方省吾氏であり、その時のメンバーは下記の通り。
始関物価局第二課長と鈴木、上園両事務官、岡田、上田両東京事務官に、業界筋からは、服部時計店の土方、村松英三の両氏に加え、西尾光太郎(中央時計工久美理事)、東京小売組合の野村理事長、松屋の金子角太郎氏が主席している。
これに需要者側として通信省の購買第一課長を加えた12名で、公定価格を決定すべき、品目に関する政府諮問を行った。その結果、昭和14年5月、奢侈品等の製造販売制限規則を公布、支那事変記念日たる7月7日施行で1個50円を超える時計の販売が禁止されるに至った。この時には、芝支部から選出されていた梶山平三郎氏もこの委員メンバーに加えられていたと記憶している。
■時計は戦時需要増のため値段が引き上がるだけだった ■2018年1月15日 月曜日 15時59分0秒

輸出入に関する臨時措置の法律商工省第31号で白金地金の配給統制規則が制定された

《昭和12年》 昭和12年法律第920号で、輸出入に関する臨時措置の法律商工省第31号で白金地金の配給統制規則が制定された。このような発令は、戦争が拡大するにつれ、次々と発令され貴金属品や時計附属品を扱う生産業者は、私が作ったこの輸出業組合に入る以外に道はなかったと思う。そんな状況だから組合事業はスムースに進んだ。しかし、私は時計業界にも顔を出していたので、当時の国産時計メーカーは、すでに軍需工業への要求に片寄らざるを得なくなっていたようで、恐らく時計の生産面では思うようにはいかなかったようである。だから時計の価格は、品不足によりますます高騰していった。また輸入制限によりスイスからの輸入も途絶えていたようで、時計は戦時需要増のため値段が引き上がるだけだった。
■輸出組合を退陣、金一封を資金に、中支那方面の経済視察団を募集 ■2018年1月15日 月曜日 15時58分17秒

東京都から助成金として25万円を受領

《昭和12年》 私は輸出組合を作ってから商工省との関係も良好で、当時東京都から助成金として25万円を受領した。それを契機に昭和13年4月の総会で組合事業から身を引き功労金として金一封を貰った。その金一封を資金に、中支那方面の経済視察団を募集して決行した。多くの人は私の退陣に慰留してくれたが、組織というものの新陳代謝と”姑“的立場から退くことで、諸般の事情が軽やかになる事を願って速やかに退陣した。
■昭和14年、値上がりを抑制する手段であった9・18が発令 ■2018年1月12日 金曜日 16時32分42秒

品不足の為に商売が思うようにいかない経営不振に陥る時計卸商ら

《昭和14年》 昭和14年には9・18が発令されて物品販売価格についても制限搢置が採られることになった。これは資材使用制限による物品の僅少化から来るものへの値上がりを抑制する手段であった。
小売界の店頭価格も定価どおりに売っている店は少なく、品あさりをする時代となっていた。時計卸業界では、舶来時計の輸入禁止、置き時計、目覚まし時計の製造禁止に伴って、商品不足、その影響で需要インフレが旺盛となっていたので、商品界の動きは活発化していた。
その一方で打ち出したのは、9・18であるが、事実はこの抑制策に反比例して物価が上昇していたのが事実だった。しかし反面、品不足の為に商売が思うようにいかない経営不振に陥る時計卸商らが散見された。
■国産時計が外貨獲得の為に海外へ輸出 ■2018年1月12日 金曜日 16時31分49秒

逆に国内の需要を満たすために品物は引っ張りだこで、景況を見せた

《昭和14年》 支那事変が長期化するにつれて、経済統制は一段と強化されることになり、これに対する9・18令による価格厳守が各方面から要望された。その当時の時計の卸価格は、下記の通り。
ステンレス変形腕時計・ナルダン=180円、(同)ロンジン=150円、(同)オメガ=250円、(同)モバード=200円、(同)チソット=180円、(同)バルカン=80円、(同)ロレックス=80円、(同)ウオルサム=70円。
以上のような状態で、舶来時計の輸入が禁止されからすでに二年も経つのに、依然として値上がりが見られた。そのため国産時計が外貨獲得の為に海外へ輸出しなければならないのだったが、逆に国内の需要を満たすために品物は引っ張りだこという景況を見せ、値段が闇価格になった。そんな中、物価統制令が引かれて、更に暴利行為などの取り締まり規制が発令されるようになり、警察の取り締まり強化が始められ、各業界も協定価格の設定が要望されるようになった。
■昭和13年4月の組合の総会で組合事業から身を引く決意をした ■2018年1月12日 金曜日 14時17分13秒

功労金を資金に、中支那方面の経済視察団を募集して決行した

《昭和12年》 私は輸出組合を作ってから商工省との関係も良好で、当時東京都から助成金として25万円を受領した。それを契機に昭和13年4月の組合の総会で組合事業から身を引く決意をした。辞任することについて各氏から留意する言葉が聞かれたが、組合という組織から身を引くことによって、若い人たちに姑的立場から抜け出したい気持ちもあり、新陳代謝の意味も込めて身を引いたのである。辞任する功労金として金一封を貰った金を資金に、中支那方面の経済視察団を募集して決行することにした。
■昭和12年12月28日に貴金属業界に一大画期的な現象が起きた ■2018年1月12日 金曜日 14時16分18秒

金地金の大手の田中、徳力、石福の3社が結合して日本貴金属株式会社を設立

《昭和12年》 従ってこの時代は、金の使用が制限されていたので貴金属業界はまさに火が消えたような状態となっていた。だから貴金属業界に一大画期的な現象が起きたことになる。昭和12年12月28日に日本貴金属株式会社が金地金の大手取扱業者の田中貴金属、徳力商店、石福貴金属工業鰍フ3社が結合して設立した。この現象は、戦争がもたらした貴金属業界の画期的現象ともいえる。そしてこの日本貴金属株式会社の事業は、白金地金の統制規則に従い、かつそれを徹底させることにあった。
■時計は戦時需要増のため値段が引き上がるだけだった ■2018年1月12日 金曜日 14時15分31秒

輸出入に関する臨時措置の法律商工省第31号で白金地金の配給統制規則が制定された

《昭和12年》 昭和12年法律第920号で、輸出入に関する臨時措置の法律商工省第31号で白金地金の配給統制規則が制定された。このような発令は、戦争が拡大するにつれ、次々と発令され貴金属品や時計附属品を扱う生産業者は、私が作ったこの輸出業組合に入る以外に道はなかったと思う。そんな状況だから組合事業はスムースに進んだ。しかし、私は時計業界にも顔を出していたので、当時の国産時計メーカーは、すでに軍需工業への要求に片寄らざるを得なくなっていたようで、恐らく時計の生産面では思うようにはいかなかったようである。だから時計の価格は、品不足によりますます高騰していった。また輸入制限によりスイスからの輸入も途絶えていたようで、時計は戦時需要増のため値段が引き上がるだけだった。
■商工省で大見えを切った昭和14年当時の意気 ■2018年1月11日 木曜日 16時40分26秒

玉置事務次官の胸中に深く食い入る機会を得た

《昭和14年》 この当時を思い浮かべて一番記憶に残る事柄を挙げてみる。
先ずアメリカからの輸入のナンバー1の銅線屑の資材配給の許可が組合設立の最大の目的であったわけだから、他の事務的なことは、ひと時の点検を行った後は事務員に任せて、私はこの資材の許可入手に専念した。この組合設立申請時に提出した輸出実績の統計表に手に入れたものを改めて資材割り当て申請書にも添付して商工省へ提出した。
当時の係官は、玉置事務次官だったがこの頃は未だ少壮官史の域だった。私はその割り当て許可を獲得するために一つの大芝居を打たなければならなくなった。商工省が木場町にあった頃で、その部屋には50人以上の係員がいた。そんな中でテーブルを叩いて怒鳴ったのである。驚いた室内にいた人たちは、玉置事務次官をはじめ総立ちになって私の怒号を押しなだめに努めた。挙句の果て、室外に退去命令を出すとまで意気まいて抑えたのだが、私は腹の中で有象無象はどうでもいい、直接的な係官である玉置事務次官の胸中に深く食い入る機会を作ることに目的があったのである。この騒ぎで私の目的は図に当たった。
■一芝居打ったことで、申請許可が下りた ■2018年1月11日 木曜日 16時39分41秒

チャンス到来とばかりに資材の配給についての申請事情を説明した

《昭和14年》 玉置事務次官から私が申請している国力振興のためにするという要件について問うてきたのだ。チャンス到来とばかりに事細やかに、資材の配給についての申請事情を説明した。業界は業務展開の為に一日も早く解説することを待ち望んでいると訴えると了解してくれたのである。この場面を見てくれたのが、三金の加藤さんと他の二人であった。その日の夜、商工省から速達で配給許可書が届けられ大いに喜んだ記憶がある。
■硬骨漢の性格 ■2018年1月11日 木曜日 16時38分48秒

硬骨漢の性格が誘いの手に乗る私ではなかった事が幸いした

《昭和14年》 その次のエピソードは、当時組合の事業というものはこのような資材の配給がどこでも専一に行われていた。私は商品興信新聞を発行している傍ら組合の面倒も見ていたので、組合事務長を兼ねた理事者の肩書で事務を行っていた。更に資材配給の再割り当てが欲しい為、各所の伸銅製作所から賄賂を使ってまで資材の供給を図ったものだ。勿論私の前にも札束を積んで、誘いの手は多くあったが、そのような手に乗る私ではなかった。硬骨漢の性格がここでも現れ、理事だった宮田伊太郎氏が「藤井君は硬すぎるよ」と笑いながら言われたことを覚えている。お陰で当時統制違反の罪に問われることもなく、それが私の誇りであった。
■時計附属界の大転換時代に備えて ■2017年10月30日 月曜日 15時44分2秒

東京輸出金属雑貨工業組合の設立当時の経過

《昭和14年》 浅草鳥越の井村組合長宅に決めてあった東京時計附属品製造同業組合の組織を戦時体制時代に急遽作る計画で、輸出に関する統計実績を作った書類が、申請締め切り日にようやく間に合った。輸出工業組合への切り替えの可能性が生まれた。急遽、新生組合の許可が下りたらどうするかの緊急役員会が招集された。勿論新規に組合を設立しようとしているのだから、準備会は何回も開かれるのが当然であるが、貴金属業界では、唯単に政府(当時は商工省)の指令に従うより仕方がなかった。当時の商工大臣は、岸信介氏の前任者だったような気がする。
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■軽金属の輸出メーカー組織として「東京輸出金属雑貨工業組合」が発足 ■2017年10月30日 月曜日 15時43分19秒

軽金属の輸出メーカーとしての体制つくり

《昭和14年》 この岸信介さんが一般物資に対する統制令を出していた。しかし、昭和7年頃から始まった戦争状態は、次第に拡大しながらも国民は慣れ始めてきた。統制令では、金の使用が禁止され、地金の銅の使用も禁止令が出ても、それに対処する方法がまず先んじられた。昭和11年には金に対する使用制限が発令され、真鍮地金の使用についても品種や量的に制限を受けるようになった。それへの緊急対応策を打ち出そうと努めたのが井村氏が組合長を務める東京時計附属品製造同業組合であり、その改組した新組合であった。その名も東京輸出金属雑貨工業組合で、資材使用許可の認定が正式に降りた。貴金属業者が真鍮地金業者に転換しようとしているときだけに何れも真剣そのものであった。結論としては、軽金属の輸出メーカーとしての体制で組織として踏み切ることに決めたわけである。改組して新組合になった時の会場は、小森宮さんの貸家の二階であった。当時の役員は、中野新助、小森宮、井村松五郎、浦田竹次郎、青山仁作、大須賀正太郎、青木房吉、持田憲作、山田乙二、宮田伊太郎、中村竹松、梶田久治郎、谷田賀良倶氏など。
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■金属資材を取り扱う業務の団体作りに奔走、喫煙具団体を作る ■2017年10月30日 月曜日 15時42分20秒

当時の地方庁では、工業畑の団体や組合には補助金が出されていた

《昭和14年》 何故このような方途を採ったかというと、当時の地方庁では、工業畑の団体や組合には補助金が出されていたので、完全な金属資材を取り扱う業務の団体作りに奔走したのである。以前にも述べたが、東京徽章工業組合を設立して、政府から補助金として現金15万円とフレクション7台を譲り受けた。
組合の資本金一切を決めるための発起人会を作り、扱い品目の内容をまとめた。この時の資本金は15万円で、第一期四分の一払いだったとおぼえている。品種は、時計クサリ、時計針、ネックチエーン、ブローチ、腕クサリ、バックル、徽章、コンパクト、喫煙具、ライター関係を新規に加えた。
当時時計関係には、喫煙具類はあまり含まれていなかった。ライター関係者を新規に加えることにより組合員の開拓にもなり、商工省への顔も経ち、定款に取扱品目の条項を挿入した。当時顔を出したのが、金丸氏と広田氏であり、両者が活躍して組合を作った。当時の組合所在地は、東京・台東区の寿町のお風呂屋の隣に面した50坪の二階建てを買い取って事務所に改装したもの。補助金25万円が決まっていたのでいとも大らかな組合発足体制であった。
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■英文のカタログの発行を世界に発送した ■2017年10月30日 月曜日 14時17分16秒

当時としては、大きな決断だった

《昭和14年》 昭和14年の頃、戦争はますます激化していた時代である。この頃の企画として、国産品を輸出に向けるための方策を推進することが必要となってきた。当時は、輸出金属雑貨工業協同組合を設立した直後であり、更に中支那方面の外国市場の実施調査も行った後だったのでそんなことも考慮に入れたものだった。光村原色版印刷会社と交渉して全英文のカタログの発行を考えた。スポンサーには、セイコー、シチズン両社に加え、真珠、時計バンド、眼鏡類に加えて、喫煙具業界の協力を得て発行することになった。このカタログは世界の主要国に発送した。当時、日本製品が今のように世界的に人気があったわけでなく、このカタログが取引上に大いに役立ったというわけではない。それでも専門新聞社がこのようなカタログを発行した点では、各界からある程度認められたようだ。
当時としては、大きな決断だったようだ。
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■支那事変が急速に進展、英米連合軍との戦争勃発に ■2017年10月27日 金曜日 15時20分59秒

産金法施行令で貴金属業界事情も勢い急変する

《昭和12年》 この頃支那事変が急速に進展、いつ何が起こっても可笑しくない時代になっていた。英米連合軍が、日本の対満進出を阻止する手段として経済封鎖を断行、戦争の発端が余儀なくされたのである。そこで徴兵制の強化とその影響が物資の統制にまで行くとは国民は予想していなかった。戦争によって金の需要度が高められ、政府は産金奨励を行ったが、一面、消費規制の面でも抑制策をたてた。昭和12年8月に、産金法施行令が出たので、ついには金の使用は制限せざるを得なくなり、貴金属業界事情も勢い急変することになった。
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■疲弊する貴金属業界に立ち上がったのが東京時計付属品同業組合 ■2017年10月27日 金曜日 15時20分13秒

輸出組合への組織替えの構想が持ち上がる

《昭和12年》 貴金属業界はこの頃から火が消えたような状態になっていった。業界では、業界の救済する道はないかという緊急会議が各地で起こっていた。しかし同業組合では、何も結論は出ず、無策すぎるという声が多く上がった。何しろ本来が原材料を扱ってない立場の卸業界であり、術がなかった。この時、生産者連盟である東京時計付属品同業組合が対応策に乗り出した。やはり中間流通業ではなく、製造業者の時計付属界の井村組合長を筆頭に、顧問の小森宮、浦田竹次郎、梶田久治郎、谷田賀良俱、中野新助、青木房吉、山田乙二、宮田伊太郎の諸氏が協議の結果発案したのが、輸出組合への組織替えの構想であった。
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■商工省輸出振興課に書類を提出、設立許可書の出を待った ■2017年10月27日 金曜日 15時19分26秒

輸出実績やら用紙や書式形体なるものを用意して

《昭和12年》 中野新助氏の自宅から「この状態から救うには輸出業務への切り替え以外ない」として、現在の東京時計付属品同業組合の輸出実績を調べ、輸出組合への設立の手伝いをしてくれと懇願された。一時は辞退したが、気丈な中野新助氏と小森宮氏とが共になって男と見込んで頼むと頭を下げたのだから、否応なしに引き受けることにした。しかし、当局への書類の提出期間はあと5日、というように差し迫っており、徹夜で書類づくりに追われた。
書類を作りにしても輸出実績など、そう簡単には作れずに行き詰っていた頃、中野氏の長男が当時中近東へ輸出した実績があると聞いたので、統計に用いられる用紙や書式形体なるものを用意してもらい、更に輸出先の状況を聞いて参考にするなど、大いに役立った思いがある。何とか書類を作り、当時の商工省輸出振興課にて提出、設立許可書の出を待った。
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■「東京装美会」が1月浅草の料理屋で盛大に設立された ■2017年10月27日 金曜日 14時11分25秒

越村曉久理事長、専務理事に溝口万吉、後藤清貞両名を揃え

《昭和12年》 兎に角、東京装美会の設立は12月12日頃、満州から帰ってきた越村氏との間で聴寝られた。発会式は翌年の1月6日、浅草裏田浦の草津亭で挙行された。と維持の貴金属業界では、第一線の天野、山崎、御木本、金忠、溝口、藤田の各店に加え、伝統最古参の村松商店の一族が加わって、賑やかに行った。当時の会員数は52名、事務所は三筋町の越村氏宅においた。役員としては、理事長=越村曉久、専務理事=溝口万吉、後藤清貞、理事=谷口賀良倶、梶田久治郎、藤田貞一、巽重雄、荒木虎次郎、在間朋次郎、長谷川恵章、外園盛吉、加藤清十郎。
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■支那事変特別税法というのが発令されるなど ■2017年10月27日 金曜日 14時9分57秒

当時は貴金属品への課税軽減運動が流行っていた

《昭和12年》 当時世の中は満州事変を通じて戦時体制の色を濃くしていた時であり、何かが起きたら団体が必要になるという概念がどこかにあったのだろうか。何となく活動期に入る機運が生まれていたように見えていた。かくして時世の進展につれ支那事変特別税法というのが発令された。当時は貴金属品への課税軽減運動が流行っていた。金及び金製品の買い上げに協力するようになっていた。
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■ダイヤモンド10割課税が一挙に一割に下がった ■2017年10月27日 金曜日 13時0分2秒

業界団体が生まれる兆しとなった

《昭和12年》 ダイヤモンド10割課税を一挙に一割に下げた功績は、当時昭和12年の貴金属業界には大きく響いた。当時、ダイヤモンドを扱っていた店は貴金属専門店というだけでなく一流の時計販売店であれば扱っていた。当時、物品税の引き下げに活躍した私の行動は各方面から称賛された。当時私は「商品興信新聞」の発行者として、「10割課税が一割に下がった」として号外を出したものだった。
このような業界の事情の中で貴金属業界の中に団体を作らなければならないという風潮が生まれ始めた。昭和12年11月になったころ、東京の貴金属業界には、細沼浅四郎氏を組長にした「東京貴金属品製造同業組合」しか団体はなかった。僅かに時計組合があっただしかも当時は毎日シルクハットにモーニングというスタイルで店に出社していた時代で、年に一度の総会をやるぐらいで組合活動などの仕事はしてなかった。
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■東京貴金属品製造同業組合は生まれたが ■2017年10月27日 金曜日 12時59分16秒

組合事業はほとんどなかった

《昭和12年》 、細沼浅四郎氏を組長にした東京貴金属品製造同業組合の書記長に大室乙弥という役人上がりの男がいた。彼は、養女のてる子さんを育てるために新橋でレディーメードの洋品店を営んでいた。その片手間で組合の書記を務めていたのだから、ほとんど何にもしていなかった。この状態に不満を募らせた業界人が、他の団体つくりに奔走した。その一人が越村暁久と仲良しの後藤清貞、梶田久治郎氏らが協力したそうだ。
浅草・三筋町に事務所を持っていた越村暁久氏が私に相談を持ち掛けてきた。越村氏は硬骨漢溢れる人で満州方面へ営業で歩いた人である。当時御徒町の駅前にあった手島製作所という貴金属卸商があった。そこの店の債務整理をしたことから貴金属業界の事情を知ることになり、業界入りして団体つくりの相談を持ち掛けてきた。
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■当初は27名で東京セイコー会を設立した ■2017年10月27日 金曜日 12時52分49秒

中央区を中心に各店を回り、情報収集に努めた

《昭和3年》 時計業者の全国大会の成功は当社にとっても大きな成果をもたらした。まだ20歳の若き青年であった私は、全国をまたに歩き続けた。先ずは、神田・旅籠町の坂野商店を皮切りに、須田町に移転した金森商店は資金力にモノを言わせて、時計の取引、金融面でも大きく活躍していた。集まってきた人たちは、大阪の沢本さん、エルシュミットの中島さん、エデキンの清水さん、日瑞貿易の川野さんなど、多彩な面々。八重洲の小西光沢堂の小西さんと森川時計店、銀座に進めば石井時計店、更には伊勢伊時計店の秦さん、平野時計店、玉屋、御木本真珠店を回るのが常だった。終戦後私の社が復刊してから時計業界は、関東セイコー会が存立していた。膝元の東京にセイコー会がないのはおかしいということで、当初は27名で東京セイコー会を設立した。
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■大正から昭和にかけた時代は、銀座にあった大沢商会の存在が大きかった ■2017年10月27日 金曜日 12時51分55秒

蓄音機業界では、銀座十字堂、銀座ヤマノ楽器店、三光堂、ビクター等

《昭和3年》 大正から昭和にかけた時代は、銀座にあった大沢商会の存在が大きかった。京都出身の大沢商会は、飛ぶ鳥を落とす勢いの商社だった。中でも岩沙兼松常務がすこぶる私と相性があった。近所には天野商店、小西光沢堂、たまには神保町の三直商店、上野の吉田時計店、村上時計店など懐かしい顔ぶればかり。京橋には業界では最古参と言われる溝口万吉商店があり、そこから出て成功を収めた涌井商店、上野商店の両店が華やかな業績を上げていた。
その他、蓄音機業界では、銀座十字堂、銀座ヤマノ楽器店、三光堂、日東貿易,日畜、ビクター等の各営業所が点在していた。
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■ブタ箱入り66日間の苦悩をなめた ■2017年10月24日 火曜日 14時53分1秒

昭和10年当時の業界新聞陣営のご難

《昭和10年》 人間というものは、その時々の環境次第でその人の性格が表れるものである。私たち専門新聞陣営が昭和10年6月6日に突如として起こった、新聞社14社が総検挙された事件は、未曽有のものだった。6月6日の朝の5時、社の表戸と裏戸をどんどんたたく者がいた。朝早くから騒々しく戸を叩かれてうるさかったものだから、「こんな朝早くから人をたたき起こして何だ」と怒鳴りつけた。本富士警察署の刑事だった。デカの態度から推測して何かがあったと直感した。身体に直接触れることは無かったが二人の刑事が前と後ろで挟み撃ちして連行した。しかし、警察沙汰になるような悪いことをした覚えがないので連行は不満やる方なかった。本富士署は私の社から5分ほどのところにあった。取り調べもしないまま1週間以上もブタ箱入り、しかも面会すらさせずに、腹が立った。この間家宅捜査やらとで証拠集め。この頃のデカ達の目には、人を見れば泥棒か刑事違反者にしか見えない時代であった。人権侵害も何もあったものではない。
検挙された理由は、経済情報社という題号で発刊していた山本某の発行していた新聞が、時節柄の暴力新聞という立場で検挙された。その調べの中で、他の社のネタを出せば返してやるとの口車に乗って、他社の新聞社7人程の名前を挙げて「共同で運動会を開催する資金集めをした」(本人の供述から)というネタを提供していた。結果的には、私らの二人が起訴されその中の一人が懲役6カ月の懲役となった。
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■昭和8年の夏、三木武夫元総理を渡米させる ■2017年10月24日 火曜日 14時52分13秒

私の処生感

《昭和初年》 大正15年に業界紙を創刊した私は、当時住居を別にして上野広小路に本社オフィスを置いていた。だが事業を伸ばすためには、住居とオフィスを兼ね備えた立地を選ぶ必要がるとして昭和元年、本社の現住所である文京区湯島に移した。アクセスの良さもあり、現在の住所には満足している。
昭和4,5年から書生を事務所に住まわせ、昼間仕事をさせた後は、夜学に通わせていた。私の人生観は「若者を勉学にいそしませ世の為になる人に育てること」を使命にしている。その使命感からか、昭和7,8年頃には書生の数は7人になっていた。昭和8年に三木武夫君を本社の社員として渡米させることにした。昭和8年の夏、横浜港から飛びだった。
かくして三木武夫君は昭和10年の夏に帰国した。8月12日の夜だった。私が66日間という長い間ブタ箱入り生活をして帰ってきた翌日、三木武夫君の帰国話を説明した途端、釈放された。三木君にこの事を説明したところ「世の腐敗さを嘆いて割腹して責めを負う」と表明した。
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■昭和8年に「満州地方大座談会」を開催 ■2017年10月24日 火曜日 14時48分17秒

業者大会を連続して5年連続して開催してきた

《昭和8年》 業者大会を連続して5年連続して開催してきたその翌年の昭和8年に「満州地方大座談会」を開催した。それは満州から北支、中支方面に亘り、本社社員として活動していた長山正夫君が同地方の実情視察を望んだので、それに対応させるための処置であったのだが、業界の為に奉仕し得ることに役立てればいいという望みの他にない。私が業界の為に努力を惜しまないという気持ちがある限り、人生を通じての奉仕活動は今後も何ら変わらないはずだ。
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■日本時計学校技術研究会を設立 ■2017年10月24日 火曜日 13時17分40秒

多くの賛同者を得て

《昭和7年》 「時計の技術書」の出版事業を考え始めた頃から、何はともあれ時計技術者を集める必要性に駆られた。当時、根本氏がタッチしていた技術協会というのがあったので、当社で「日本時計学技術研究所」という名称で設立した。当時の賛同者は、蔵前の酒井亀太郎(酒井時計店)、下谷練堀町の原田久治郎、中御徒町の大比良忠成(大比良技術研究所)、御徒町の根本、渋谷の千野善之助、豊島の長谷川、巣鴨のO・R・アベック(ナポルツ商会)等の陣容で研究団を結成、時計技術書の編集に入った。先ずは、フランス語の原書を和訳したのを基本に、毎晩、解説に努めた。
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■フランス語を日本語に和訳することの難しさを ■2017年10月24日 火曜日 13時16分52秒

判読し難い内容の解説に苦しむ

《昭和7年》 この解説を行うには、時計部品の名称が判らなければならない。座金のことを日本語では、“だるま”と称し、他の名称はついてない。フランス語を日本語に和訳することの難しさで壁にぶつかった。そこでアベック氏に指導をお願いした。時計に関する初歩の勉強が始まった。
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■セイコー製品専門卸の山田時計店が開業 ■2017年10月23日 月曜日 15時19分4秒

山田社長の決意と心強さと終始一貫した姿勢に心を打たれる

《昭和5年頃》 当時画期的なデビューを飾ったのがセイコー製品専門卸の山田時計店であった。それなりに売り上げを上げていた時計卸業界だけに、この専門卸というタイトルには驚いたようだった。時計業界は、競争による価格の低迷でほとほと困惑していた時期でもあっただけに、業者間の競争は卑劣を極めた。
昭和5年5月ごろ、銀座にあった服部時計店東京営業所の卸部で服部の中川総支配人と会っていた時、山田時計店の山田徳蔵社長が現れ、そこで山田社長に紹介された。その時、山田社長は「すでにいろいろ数多くの卸商が存在する中で、専門卸商の名前で開業するのは、将来に亘り精工舎一本でやっていく決意をしたからです」とその決意のほどを語っていた。中川総支配人は、「しっかりおやりなさい」と山田社長の方をたたきながら激励していたのを思い出す。この時の山田社長の決意のほどが伺われ、その心強さと終始一貫した姿勢に心を打たれ、若い後輩の人達に伝えなければと思った。
時計卸商団体の「五日会」が誕生したのが昭和8年11月5日、30名の会員を有して発足した。勿論精工舎専門卸として堂々たる経営ぶりを見せていた山田時計店もメンバーの一員。山田時計店が独立開業した当初の資本金は、確か5万円であったような気がする。いまでは何と巨億の資産と聞くが。
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■米国の時計ブランド「スタンダード」製造機械設備の譲渡はなし ■2017年10月23日 月曜日 15時18分13秒

最終的にはソ連の国営時計会社に譲渡された?

《昭和5年》 「スタンダード」という米国の時計ブランドをご存じだろうか。ダラウオッチの類のごとく見られ余り有名ではなかった。第一次大戦後、倒産の憂き目にあったと聞いたが、そのスタンダード時計の製造機械設備の一切を捨て値で見切るから買わないか?という話を持ってきた。持ってきた主は、明治末期の頃、時計修理技術者として単身米国に渡り、自己資金でロスアンゼルスに「天賞堂」という称号で時計の小売店を営んでいた山口県出身の渡辺金次郎という人である。その渡辺さんが、昭和の初めの頃、故郷の日本を思い出し、日本に帰ってきた。その時当時の私の文京区の会社に立ち寄ったことから懇意になった。
元来、渡辺さんは本紙(当時の題号は商品興信新聞)の購読者であり、当時の時計業界の状況を良く知っていた。当時の日本の時計業界には、精工舎だけが存在しており、その他は小物の時計メーカーしかなかったので、成り立つと予想していたのだろう。この話を持ち込んできたのは、昭和5年、6年頃だったと思う。米国のスタンダード時計会社の既存設備用具一式の譲渡品目表を持参して、相談してきた。
渡辺氏は、当時200万ドルを持参しており、その半分の100万ドルを出資して、もう100万ドルを日本の業者に出資してもらい、スタートしたいという構想だった。私は、時計事業の難しさや当時の経済状況などを説明してこの話は断念すべきであると主張した。当時の村松時計製作所が莫大な投資で苦しんでいる状況を説明して、納得してもらった。
然し、渡辺氏はスタンダード時計会社から預かった譲渡表を当時の吉田時計店に持ち込んだが、成立はしなかったようだ。そのごある政治家の仲介で再び吉田時計店に持ち込まれたことがあり、変な因縁のようなものを感じた。その時も譲渡の話は締結されなかった。しかし、この話はソ連の国営時計会社に譲渡されたと聞いたが、事実のようである。
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■指導的立場から「時計の技術書」の出版事業を考える ■2017年10月23日 月曜日 15時17分9秒

明大法学部に籍を置き、学問的書物の出版を

《昭和7年頃》 当時の景気はさほど悪くはなかった。業界事情も至極平穏であり、私は一つの出版事業を考えてみた。それが「時計技術書」の出版事業である。私は昭和6年の春から明治大学法学部に籍を置いていたので、毎日朝八時半までに新聞社としての仕事を処理して、あとは思いカバンを提げてお茶の水まで通っていた。学校では年長という事もあり、学級委員になり、総務委員に選抜された。明大はこの頃学徒4千余名数えていただけに3科を牛耳る総務委員の地位は相当強かった。全国の専門校から集まった猛者連の中から選出する総務委員は4百数十名の中から選抜されるので選挙戦は壮絶なモノだった。三尺の秋水も躍れば、ピストルも登場するなど、学園の自治と自由を叫びながらも、その当時から政界の動きもこの方面には反映していたようだ。
当時時計界には、時計に関する書物は何一つ存在しなかった。このような経緯から案出したのが、時計の修理という学問的書物である。
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■昭和5年、セイコー専門の時計卸業・山田時計店が誕生 ■2017年10月20日 金曜日 10時54分6秒

創業者・山田徳蔵さんの“先見の明”

《昭和5年》 昭和5年、時計卸業を志した山田徳蔵さんは、開業にあたりまずは服部時計店を訪れた。当時の服部時計店の支配人であった中川豊吉さんは、「山田さんがセイコー専門の時計卸業を始めます」と私に紹介してくれた。当時、セイコー専門卸店はなかったので意外な選択だったが、これが将来に大きな成果となって表れた。その堅実主義一点張りの経営で、今や服部時計店の大株主の場に座っている。噂によると、山田徳蔵さんが食べる昼食の一週間のスケジュールは、決まっていたそうだ。
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■時計側の菊座専門メーカー・野口製作所は、すでに創業30周年 ■2017年10月20日 金曜日 10時52分47秒

忘れてはならないのが内助の功・内田専務さん

《昭和5年》 時計側の菊座専門メーカーの野口製作所の発展は素晴らしかった。その昔、隅田区の横川橋に居た時は、岸とかいうメッキ工場の片隅でコツコツとモーターを動かし作業を続けていたが、最近では業績が上昇して、現在の足立区に本社や作業所を本建設、全て理想的な会社作りを果たした。今では、代表や理事長など公的立場で社会に貢献している。
野口製作所の発展に忘れてはならないのが内田専務さん。昭和4年の12月3日、野口製作所の創立30周年記念祝賀会が盛大に行われた。
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■東信商会の依田社長の強みは、調和を大切にする人柄 ■2017年10月20日 金曜日 10時52分1秒

鶴巻時計店で修業したのが功を奏した

《昭和5年》 東京時計卸商業協同組合の理事長の重責を担っている東京・池袋の東信商会の依田社長は、現実主義者と評されていた人。その昔、鶴巻時計店で修業したのが功を奏し、商魂たくましいながらも、人と人との調和を大切にする人柄が、組合員の間からも伝わってきた。
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■大沢商会で出会った人たちが関西で顔なじみに ■2017年10月19日 木曜日 15時25分0秒

時計関連の野尻、沢本、中島、鈴木、鶴巻、天笠、冨尾、今岡社長

《昭和初期》 私が業界を中心に、その他か各界に亘り新聞を通じて飛び歩いている中で、印象に残ったことを紹介してみる。
私が大阪を飛び歩くとき、大阪の一歩手前の京都で下車することが多かった。昭和初期の頃、大沢商会をはじめ、2,3店は尋ねたものだ。京都近辺では、大沢商会は老舗であり有名だった。大沢商会の森田支配人は、名刺を通じて訪れた者には、その都度金一封1円を与えていたのである。俗にいう“わらじ銭”の意味があったのかもしれない。
当時大沢商会の扱い品目は、自転車が主品で時計はそれ以下であった。時計の卸部に岡田さんという主任が居て関西での卸店回りでは、よく顔を合わせていた。またこの大沢商会は所要のない人はかたくなに入れてもらえず、門前払いもよく聞いた。当時時計関連の野尻、沢本、中島、鈴木、鶴巻、天笠、冨尾、今岡など時計関連の社長人が大沢商会を良く訪れていたので、顔見知りとなった。
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■大阪の冨尾、中上時計店の両者が納め、力量を高めた ■2017年10月19日 木曜日 15時23分45秒

昭和の初期7年頃に時計の乱売問題が起きた時

《昭和7年頃》 昭和の初期7年頃に時計の乱売問題が起きた。当時は東京の五日会と大阪の共益会(卸団体)、名古屋の同志会を含めて販売価格の協定を結ぼうとしたことがあり少し騒いだ。その頃は、冨尾、中上時計店の両者が威信の対立を示していたが、難航した末に、東京側との協定が結ばれ、関西側の組合員をなだめる際の両者の力量は大したものだった。両者ともに大阪での時計会では大物として評価されたものである。大阪時計会の卸畑界にも、岡伝蔵商店という最も古く信頼のおける店があった。岡伝商店は、支払いの良さではほかに引けを取らず、信頼度は抜群で、一、二を争っていた。

大阪の変わり種と言えば大阪時計材料店の山内岩戸という人

豪快で鼻っ柱の強い人であったが、案外と涙もろく

大阪の変わり種と言えば大阪時計材料店の山内岩戸という人だ。商売柄時計油は取り扱っていた。その時計油でいろいろ話題をまいていた。
東京・神田の山内材料店の舎弟に当たる日地で、昭和の初めに私を自分の店の地下室にある倉庫に案内し、自分に対する諸々の噂について打ち消すことに努めていた。豪快で鼻っ柱の強い人であったが、案外と涙もろく、人の良さもうかがえた。
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■服部翁を崇拝していた大阪の今岡時計店の今岡芳太郎さん ■2017年10月19日 木曜日 15時22分23秒

時計側界の大御所林精機鰍フ社長の父親林太郎氏と一緒に芸者遊びを

今岡時計店の今岡芳太郎さんも勇敢な人として知られていたが、商人としては一風変わった人だった。
服部翁の現存中は、上京の折には直ちに服部翁と会談、商魂たくましくも取引面など直接談判したという。それだけに服部翁が故人となられてからの今岡さんは、上京の都度服部翁のお墓参りと、時計美術の本社を訪れたものである。
ある日今岡社長が料亭に一席を設けてもらったことがある。当時時計側界の大御所である林精機鰍フ社長の父親林太郎氏と一緒に芸者遊びをした思い出がある。
その今岡さんの紹介で酒豪の沢本平四郎さんのお宅を訪れたことがある。沢本さんいわく「人間というものは、大地を踏みしめながら歩くようにすれば、間違いは起こさない」という教訓を得たおもいでがある。いい想いで出ばかりである。
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■スイス交易の当時支配人だった川瀬善博さんが ■2017年10月19日 木曜日 15時21分7秒

東京で昔のスイス交易商会を受け継いで会社を経営している

神戸の商館周りをしていた時、スイス交易の当時支配人だった川瀬善博さんが、現在、東京で昔のスイス交易商会を受け継いで会社を運営している。あの堅実一本主義でやってきた川瀬さんがとつくづく感心した。
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■江沢さんの息子さんが持ち帰った舶来玉(ロール)の貴重さ ■2017年10月19日 木曜日 12時37分55秒

銀座天賞堂の三田工場から生まれた工業素材

《昭和2年》 この時代は、経済界の恐慌時代で、銀行の取り付け騒ぎがあったころ。東京徽章メダル商組合の工場建設の事業が終わると、今度は浦田さんが私を埼玉県の与野市に建設を進めていた新設中の伸銅所を見に行った。大きな煙突には、何も書かれていなかったのが、二度目に行ったときには東洋時計伸銅所という文字がクッキリと書かれていた。
そこで浦田さんは、私に「伸銅所になくてはならないのがロール(玉)である。この伸銅の善し悪しにあるのだ」と説明した。勿論、すでに伸銅作業は続けられていた。原料を火に入れ、それをインゴットに型入れした後の伸銅の仕上げは、伸銅ロールの如何にかかっている。真鍮の地板は平たく、精密板に出来るかどうかにかかっている。東洋時計の製品の精度の如何にかかっているのだから、重要なことだ。
銀座6丁目にある江沢金五郎氏が経営する天賞堂の三田工場の一部にメタリコン工場があり、その工場で使っていたロールは、江沢さんの息子さんが洋行した際に持ち帰ったもので、日本の工芸界には最も貴重な素材価値となっていた。
貴重さを思い知らされたのは、この後、私が東京輸出金属雑貨工業組合を設立し、東京中の伸銅事業を査察して全国を回った際に役立ったのである。
このロールについては、故人となった金銀のロー引圧伸をしていた小森宮さんもその真価について語ってくれた。そんなことで浦田さんとは親交が深くなった。その親元であった吉田時計店との話し合いの場が多くなってきたのも、こんな関係からだ。
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■三輪豊照氏はジュエリーデザインに大きな関心を持っていた ■2017年8月16日 水曜日 15時40分47秒

業界の進歩にも大きく寄与したようだ

《昭和初期》 東京・湯島に本社を置く三輪屋商店が輝いていた。代表者である三輪豊照氏は当時からジュエリーデザインに関してかなりの知恵を絞っていた。当時三輪屋が主催した催しに参加したメンバーは80名にも達したという。同社は、当時一等に3千円という破格な賞金を付けて技術者の競争心をあおった。自作の装身具を持ち寄って優秀なデザインの作品に賞金が贈られた。このようなことでこの時代から新しいデザインが生み出されるようになり、業界の進歩にも寄与したようだ。
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■当初は27名で東京セイコー会を設立した ■2017年8月16日 水曜日 15時26分7秒

中央区を中心に各店を回り、情報収集に努めた

《昭和3年》 時計業者の全国大会の成功は当社にとっても大きな成果をもたらした。まだ20歳の若き青年であった私は、全国をまたに歩き続けた。先ずは、神田・旅籠町の坂野商店を皮切りに、須田町に移転した金森商店は資金力にモノを言わせて、時計の取引、金融面でも大きく活躍していた。集まってきた人たちは、大阪の沢本さん、エルシュミットの中島さん、エデキンの清水さん、日瑞貿易の川野さんなど、多彩な面々。八重洲の小西光沢堂の小西さんと森川時計店、銀座に進めば石井時計店、更には伊勢伊時計店の秦さん、平野時計店、玉屋、御木本真珠店を回るのが常だった。終戦後私の社が復刊してから時計業界は、関東セイコー会が存立していた。膝元の東京にセイコー会がないのはおかしいということで、当初は27名で東京セイコー会を設立した。
■銀座にあった大沢商会の存在が大きかった ■2017年8月16日 水曜日 15時25分28秒

蓄音機業界では、銀座十字堂、銀座ヤマノ楽器店、三光堂、日畜、ビクター等

《昭和3年》 大正から昭和にかけた時代は、銀座にあった大沢商会の存在が大きかった。京都出身の大沢商会は、飛ぶ鳥を落とす勢いの商社だった。中でも岩沙兼松常務がすこぶる私と相性があった。近所には天野商店、小西光沢堂、たまには神保町の三直商店、上野の吉田時計店、村上時計店など懐かしい顔ぶればかり。京橋には業界では最古参と言われる溝口万吉商店があり、そこから出て成功を収めた涌井商店、上野商店の両店が華やかな業績を上げていた。
その他、蓄音機業界では、銀座十字堂、銀座ヤマノ楽器店、三光堂、日東貿易,日畜、ビクター等の各営業所が点在していた。
■東洋伸銅所へ舶来玉(ロール)を斡旋が ■2017年8月14日 月曜日 14時35分39秒

親元である吉田時計店との話し合いの場も多くなっていった

東京徽章メダル商組合の工場建設の事業が終わると、今度は浦田さんが私を埼玉県の与野に建設を進めていた新設中の伸銅所を見せにつれて行った。大きな煙突に難の字も書いてなかったのが、二度目に行ったときには、東洋時計伸銅所という文字がくっきりと示されていた。伸銅所にはなくてはならないロール(玉)の入手について浦田さんが私に注文を出して来た。原料を火入れして、それをインゴットに型入れした後、伸銅仕上げの急所は、伸銅ロールの如何にかかっている。真鍮の地板が平たく、精密板に出来るか、出来ないかにかかってこのロールの善し悪しにあるのだと説明した。従ってこの地板仕上げの良否が直接東京時計の製品の制度に影響するものであるから重要なモノであった。銀座六丁目にあった天賞堂(江沢金五郎経営の時代)の三田工場の一部にメタリコン工場があり、その工場で使っていたロールは、江沢さんの息子さんが洋行帰りに持ち帰った日本の工芸界には貴重なものとなっていた。
東京輸出金属雑貨工業組合を設立し、東京中の伸銅事業を査察して回った際の判断材料に役立った。ロールの味については、個人となった金銀のロー引き伸ばしをしている小森宮さんも、その真価について後日私に語ってくれた。親元である吉田時計店との話し合いの場も多くなっていった。
■日刊紙面を賑わしたのが「ダイヤモンドの世界的密輸事件」暴露! ■2017年8月14日 月曜日 14時2分11秒

捜査取り調べ調書の捜査系図の全貌を見ることが出来た

《昭和8年》 昭和8年10月、ある日突如日刊紙面を賑わしたのが「ダイヤモンドの世界的密輸事件」暴露!の見出しであった。しかも加納さんの家で合った業界人十七名の名前がずらり新聞紙上になお連ねたのである。事件の概要は、満州及び大連、上海を基点として神戸、大阪に陸揚げされたダイヤモンドを、東京方面の業者に密輸入を行う目的で売買されたものであり、世界的大事件として取り上げられていた。
その氏名の中には、神戸のシャルホープ・ヌーレタクラという外人を含め、国内有数の業者十数名が名を連ねていた。この事件は、東京に移され、結局それぞれ処罰されたが、業界としてもその成り行きに注目していた。ある日、その被疑者の家族に頼まれて、警視庁の鈴木刑事部長を尋ねた。本人の身柄釈放を懇願したところ、昨夕巣鴨に送った後だったという知らせを聞いた。その後、密輸事件に関する捜査取り調べ調書の資料を私に見せてくれた。それで捜査系図の全貌を見ることが出来た。
■法律そのものの原理を身に着けておく必要がると感じて ■2017年8月14日 月曜日 14時1分29秒

明治大学法科に通い、新学期の開講早々、総務委員に抜擢された

《昭和8年》 その時、捜査線上に記されたたった一人の名前が、鉛筆で書き換えられていたことをハッキリと覚えている。懇意にしていた人に関する被疑事件は、結局起訴されて一審、二審、三審まで進み、大陪審にまで至った。弁護団の陣営では、整然と陳弁に努めることの準備は怠らなかった。当時弁護士界の第一人者と言われた秋山弁護士が鋭く突いた。事件関係の周円形が、中間で一部を欠如している事実が存在する以上、密輸事件としての完成を防げることになる、と堂々と法律上の解釈を述べていた。
その事件の法廷は、昭和9年まで続き、最終判決の場で無罪となったが、故買の罪は免れなかった。私はこの時の情景を目のあたりにして、痛感した。人間というものは、真実を述べ、ベストを尽くした場合、一歩の主張がどうであろうとも、勝者の側に軍配が上がるものだと痛感した。従って、人間そのものの人格を価値づけようとするためには、人そのものを創り上げていかなければならないことを悟った。その結果、当時は極めて忙しい身であったが、法律そのものの原理を身に着けておく必要がると感じて昭和6年の春から明治大学の法科に通うことにした。新学期の開講早々、総務委員に抜擢され、延いては六大学の連絡会幹事に抜擢され、勉強に励んだことが無駄ではなかったと思い出させる。
■当初は27名で東京セイコー会を設立した ■2017年8月10日 木曜日 16時51分50秒

中央区を中心に各店を回り、情報収集に努めた

《昭和3年》 時計業者の全国大会の成功は当社にとっても大きな成果をもたらした。まだ20歳の若き青年であった私は、全国をまたに歩き続けた。先ずは、神田・旅籠町の坂野商店を皮切りに、須田町に移転した金森商店は資金力にモノを言わせて、時計の取引、金融面でも大きく活躍していた。集まってきた人たちは、大阪の沢本さん、エルシュミットの中島さん、エデキンの清水さん、日瑞貿易の川野さんなど、多彩な面々。八重洲の小西光沢堂の小西さんと森川時計店、銀座に進めば石井時計店、更には伊勢伊時計店の秦さん、平野時計店、玉屋、御木本真珠店を回るのが常だった。終戦後私の社が復刊してから時計業界は、関東セイコー会が存立していた。膝元の東京にセイコー会がないのはおかしいということで、当初は27名で東京セイコー会を設立した。
■時計業界には蓄音機業界も含まれていた ■2017年8月10日 木曜日 16時49分2秒

大正から昭和にかけた時代は、大沢商会の存在が大きかった

《昭和3年》 大正から昭和にかけた時代は、銀座にあった大沢商会の存在が大きかった。京都出身の大沢商会は、飛ぶ鳥を落とす勢いの商社だった。中でも岩沙兼松常務がすこぶる私と相性があった。近所には天野商店、小西光沢堂、たまには神保町の三直商店、上野の吉田時計店、村上時計店など懐かしい顔ぶればかり。京橋には業界では最古参と言われる溝口万吉商店があり、そこから出て成功を収めた涌井商店、上野商店の両店が華やかな業績を上げていた。
その他、蓄音機業界では、銀座十字堂、銀座ヤマノ楽器店、三光堂、日東貿易,日畜、ビクター等の各営業所が点在していた。
■初めての精工舎の工場見学を企画、全国から500余名が参加 ■2017年5月17日 水曜日 14時5分17秒

全国の時計業者を集めて「第一回全国大会」を開く

《昭和3年》 昔から石の上にも3年という諺があり、私が主宰した「商品興信新聞」なる時計専門紙も曲がりなりにも3年を迎えた。そこで新しい事業として時計業者の意見統一を図るため、本紙主催の「精工舎の工場見学」という企画を考えた。震災後、東京・中央区の銀座2丁目にあった服部時計店仮営業所の中川豊吉支配人を訪ね、私が企画した工場見学について頼んでみた。体重20貫という巨体を揺らして会ってくれた中川支配人は「素晴らしい企画」と褒めてくれた。当時の服部金太郎社長に聞いてくれることになった。翌日、見学許可が下りて、その内容について説明することになった。服部時計店の大塚宣伝部長を交えて太平町の精工舎事務局と綿密な打ち合わせをするように指示を受け、当日の参加メンバー及びのリストの提出など精工舎の河田常務に届けた。大会は5月5日、午前8時から見学できることになった。参加者は地元の東京は勿論のこと、北は北海道、西は大阪、九州、更には上海地区を代表して上海時計商組合長の宮沢網三氏までが参加したのだから、会場の賑わいときたら、想像を絶した。見学者は500余名に達した。

■全国大会の会場を上野・精養軒にして全国から500名の業者が集う ■2017年5月17日 水曜日 14時4分34秒

成功裏に終了した全国大会

《昭和3年》 かくして工場見学は、8時30分きっかりにスタート、⒛名を一団に分けて編成し、腕章を付けた案内人により順序よく参観した。工場内は、紅白の幕が張られ、その歓迎ぶりは大変なモノ。しかも休憩所にはお菓子とお茶が用意され、更にはお弁当までも用意してくれる待遇の良さ。これが、「世界の時計セイコー」が業者に施した善意であった。
会場を上野・精養軒にして設営人が首を長くして待っていたが、開会時間の13時を過ぎても先着陣が到着しない。二十人を一組にして、見学する時間を見ると、参加者が500人を超えているのだから、間に合うはずがない。ついには開会時間が14時30分を超えていた。
本紙の藤井勇二社長が開会宣言、ついで商工省の牧野良三参与官が床次商工大臣に代わって「国家経済と日本の時計工業」と題する講演が行われ、好評された。
続いて上海時計商組合長の宮沢網三氏はじめ、各地の組合長らが順次挨拶、盛大に終了した。
■時計業界の全国大会が定着、5年間続いた ■2017年5月17日 水曜日 14時3分45秒

昭和3年に行った「精工舎の工場見学」によるもの

《昭和3年》 昭和3年の第1回の帝国ホテルを皮切りに、昭和4年の第2回同じく帝国ホテル、昭和5年の第3回は東京会館、昭和6年の第4回と昭和7年の第5回は上野精養軒と5年連続で全国大会を開催、定着した。翌年の昭和8年、日本と満州両国間の業者大座談会を開催、これも時計業界内では大きな出来事として後世に語り継がれた。過ぐる昭和6年に勃発した満州事変で日満の経済的に両国間のつながりが深まったことにあった。この時計業者による全国大会の成功は、昭和3年に行った「精工舎の工場見学」によるものであり、この企画を受けてくれた精工舎の服部金太郎社長に感謝する。

■プロとしての目を肥やし、メンツで臨む交換会 ■2017年5月9日 火曜日 11時5分1秒

昭和初期の交換会「セリ市」

《明治10年》 横浜で時計組合が初めて出来たころから開時会と評して、時計などの交換市場が東京市内の貸席を会場にして毎月定期的に開かれていた。
確か、昭和2,3年のころ、京橋の組合員時代の知り合いであり、神戸税関当時の関係で付き合っていた松林互三さんという人が、京橋の桶町にいた。その松林互三さんに連れていかれた交換市場の取引状態を見ていると、時計のほか、交換会が終わってから、松林さんが出品したダイヤモンドのセリが始まった。松林さんの手から離れたダイヤモンドは、出品者の思う値段には届かないまま叩かれてしまうのが多く、その都度テッポー代として金5円を払うことになる。それが6,7回続いただろうか、最後のダイヤモンド一つをセリで売ることにした。だが売り価格は原価を切ることになったとこぼしていた。交換市場とは、プロの目で出品した品物の値段をつける真剣勝負の場であり、一度場に臨んだからには一品も売らずに帰るのは、商売人として顔が立たない。そんな各具で場に臨んでいるのだと説明してくれた。
■昭和19年から軍需省航空兵器総局に判任官として勤め ■2017年5月9日 火曜日 11時4分20秒

時計の交換市場の開設を企画、時計・貴金属業者を一堂に集めることに成功

《昭和20年》 8月15日、大東亜戦争終結の大昭は発令されたその年の10月のことである。当時戦争の為、新聞の発行を中断せざるを得なかった関係から、昭和19年から軍需省航空兵器総局に判任官として勤め、時計修理を専業とする日本計器工業鰍フ代表者として連日役所の時計部に詰めていた。この経験から時計の交換市場の開設を企画した。現在の稲荷町にあった三津和屋の三階広間を会場にして交換市場の開催に踏み切った。これで疎開先などバラバラになっていた時計・貴金属業者を一堂に集めることに成功した。
■東京での二世団体「東京研交会」が誕生した ■2017年5月9日 火曜日 11時3分20秒

昭和5年2月21日紀元節の日に東京・帝国ホテルで発会式

《大正15年》11月に大正天皇が崩御され、昭和元年が生まれた。この年はさほど景気は良くなかった。一般的にはぼやけていたような年であった。従って、昭和2年を迎えるための新年号というものは、黒枠付きの大正天皇御崩御を打ち出していたので、全体的には地味な経済状態であった。そんな中、東京での二世団体が誕生した。それが「東京研交会」だった。そのころ大阪の時計材料界で主導的立場にあった富尾時計店の令息・富尾清太郎さんが商用の為上京するたびに必ず、東京・銀座の平野時計店のご主人、平野峰三さんのところに顔を出していた。かくして昭和5年2月21日紀元節の日に東京・帝国ホテルで発会式を行った。参加メンバーは、平野昌之(小売)、吉田庄五郎(時計卸)、天野国三郎(宝石卸)、野村康雄(小売)、小柳政重(眼鏡小売)、吉田幸男(眼鏡卸)、松本武司(時計材料)、橋倉利平(蓄音機卸)、小西孝信(眼鏡小売)、古川清太郎(時計小売)、大場孝三(時計小売)、秦伊兵衛(時計小売)、村松鉄三(宝石卸)、石橋幸太郎(宝石卸)、秦藤次(時計小売り)、山岡保之助(時計小売)、岡田政人(時計卸)、藤井勇二(時計美術)の18名。
■大戦前の国産時計メーカー群の状況 ■2017年5月9日 火曜日 10時5分57秒

精工舎とシチズン時計が群を抜いていた

《大正15年》 日本における時計工業は、掛時計に次いで懐中時計、腕時計の順に開発されてきた。精密を要する懐中時計または腕時計メーカーの存立は、精工舎の事業企画が発展して懐中時計に次いで、大正15年に腕時計を発売した。同社は大正14年に腕時計を作り始め、同15年に懐中時計とともに腕時計10型を発売している。
シチズン時計は大正7年に山崎亀吉氏が経営していた尚工舎製作所内に時計研究所を設立、時計の製造を目論み、懐中時計を発売した。そのあと昭和5年、中島与三郎氏の英断でシチズン時計を再建、ミドーとスターを模倣した腕時計の製作を開始した。このほかに、時計の卸を経営していた鶴巻栄松氏が設立した栄工舎は、大正13年に発足、昭和2年から目覚まし時計に次いで、スリゲル、電気時計などの製造を開始、腕時計は昭和10年に着手し、昭和12年、センター、オルターのブランドで市販を開始した。
■オリエント時計は昭和25年7月、一億円の資本で生まれ変わった ■2017年5月9日 火曜日 10時4分35秒

東洋時計と浦田時計製作所と共同で工場を設けて置き時計の製造を開始

《大正9年》 オリエント時計は、東京・黒門町の時計卸の吉田時計店の直轄工場の東洋時計と、大正9年東京・小石川に設立してあった時計側工場の浦田時計製作所と共同で巣鴨に工場を設けて置き時計の製造を開始、昭和8年埼玉県上尾に同工場の移転拡張を図り、腕時計の製造を昭和18年、南多摩郡日野町に鉄筋コンクリート三階建て工場を完成したまま軍需品工場に転換する状況をたどっている。オリエント時計は昭和25年7月、一億円の資本で生まれ変わった。
■昭和5年、再建して復活したシチズン時計 ■2017年4月20日 木曜日 15時24分57秒

資本金30億円、時計の月産35万個生産能力を持っていた

《昭和5年》 シチズン時計の現況はセイコー時計と並んで日本製時計の中野キリン児的存在として広く海外にまでその性能を誇っていた。その発祥は、昭和5年、再建して復活したシチズン時計鰍フ初代役員には、日本の貴金属業界で横綱格であった東京・日本橋の山崎商店(旧清水商店)社長であった山崎亀吉氏を取締役会長にし、中島与三郎氏が取締役社長に就任した。しかしこの会社設立にあたっては中島さんが、かねてエル・シュミット工場時代の取引先であった小林時計店、金森時計店、大沢商会、澤本時計店、大阪の富尾時計店などに相談を求め、その間の働きぶりは、すこぶる活発であったようだ。当時のシチズン時計の現勢力は、山田栄一社長、大田敬一専務を業務の主軸に置き大きく羽ばたいた。資本金30億円、時計の月産35万個生産能力を持っていた。

■リコー時計 ■2017年4月20日 木曜日 15時23分50秒

針がいらない時計「ハミルトン」の発売もあり、人気を高めていた

《昭和5年》 リコー時計は,前身のタカノ時計を改称したものであるが、カメラ界で有名なリコーカメラの名声とともに、大衆に対する宣伝は大きい。社長である市村清氏の構想は一際大きく、リコー時計の勢力倍増の為に必要な新工場の建設は、岐阜県恵那町に建設された。完成の暁には月産30万個を生産するという構想を発表している。ハミルトン社との提携により、針がいらない時計「ハミルトン」の発売もあり、人気を高めていた。同社の生産能力は月産10万個と称されていた。

■精工舎は、大正12年の関東大震災の災害復旧を俟って翌年の13年に至り復興作業に ■2017年4月20日 木曜日 13時58分36秒

服部時計店から売り出された9型、10型の腕時計にスイス勢が深い関心を

《大正12年》 服部時計店の工場である「精工舎」は、大正12年の関東大震災の災害復旧を俟って翌年の13年に至り復興作業が緒につき、腕時計の製造にも本腰を入れる段階になった。
腕時計が生産された最初は、大正14年で初めに9型を発売した。よく15年には10型腕時計を発売したが、この頃から精工舎の腕時計製作部門については、外部から注目が集まっていた。特に、スイス勢からの関心が高く、服部時計店から売り出された9型、10型の腕時計を手に入れ、動き具合をテストしているほどで、このような状況からして日本の腕時計工業の将来性にスイスの時計業界では深い関心を寄せていたものである。

■精工舎では大正15年、16型堤時計を完成している ■2017年4月20日 木曜日 13時56分44秒

昭和20年の8月15日、終戦に至りいよいよ時計製造での本格化へと移行

《大正15年》 精工舎では大正15年、震災当時の災害から立ち直ることが出来たのを契機に、その年に16型堤時計を完成している。続いて昭和2年に8型腕時計の製造を開始し、同年3年には、腕時計の生産に備えるために2300坪の工場を増築、5年間という歳月をかけて完成させた。昭和7年には、腕時計の最小小型の5型を発売する域にまで伸展した。かくして昭和12年に日華事変が始まったことから、軍需品の受注関係が生じて腕・懐中時計の工場を分離して第二精工舎を資本金500万円東京・亀戸に設立した。しかしこの間、服部金太郎翁は昭和9年3月1日、確たる業績を残し、惜しまれながら他界した。続いて戦時状態の拡大により、昭和20年までは軍需面の瀬さんが中心となり、時計の製造は、作業継続という範囲に縮小せざるを得なかった。昭和20年の8月15日、終戦に至りいよいよ時計製造での本格化へと移行していく。当時の精工舎の生産状況は次の通り。▽昭和35年=3,690個、▽昭和36年=4,740個、▽昭和37年=5,700個、▽昭和38年=6,080個、▽昭和9年=7,442個(単位千個)。

■廉売合戦で「業界損失防止案」なる決議書を作り、決着をつけた ■2017年4月3日 月曜日 15時2分20秒

東京・大阪・名古屋の三都材料組合連合会

《昭和7年》 東京の五味材料店と小峰材料店対立抗争劇は、昭和7年以降の材料界における廉売合戦の口火を切った。このようなことから、東京時計原料組合と関西時計材料組合の「時盛会」、名古屋時計材料商組合の各代表者たちが集まって、事態の収拾に乗り出した。その結果、三都連合会の名において、「業界損失防止案」なる決議書を作り、実行を声明する話し合いを付けた。それは、昭和7年7月のころであり、世の不景気風によって来た影響の締めくくりとした。

■「業界損失防止案」なる決議書の内容 ■2017年4月3日 月曜日 15時1分33秒

会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものである

《昭和7年》 為替の変動甚だしく、かつ財界も極度の不況の結果、同業者の競争激甚となり、あるいは商報に、あるいは広告に破壊的な相場の出現となり、同業者の迷惑一方ならず、これを放置すると、ついには救われない結果を見ることになるとして、三都材料組合連合会が、緊急理事会を開いて、以上のような決議文を作成、会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものであるとした。

■特別な技術が必要となったため東京の時計材料店がその存在感を示し始めた ■2017年4月3日 月曜日 14時31分47秒

大正から昭和にかけての時計材料界

《大正12年》 大正12年の関東大震災が世の中の状況を一変させた。東京の時計材料界は小売業だったため、ほとんど業務は起こらないで復興は遅れていた。それでも大正13年ごろからは小売業が復活するに向けて活発化してきた。時計の種類も大物類は別として、身近な必要な腕時計や懐中時計の類が多かったので材料部品もそれなりに用意されている。小売りの注文が主として一個合わせというものが多かった。震災によって特に時計への修理という必要性が起こってきたからであろう。ところがこの頃、腕・懐中時計の場合でも舶来品の扱いが多かっただけに、修理品も舶来品の取扱量が主力であった。だが舶来品の部品は完全に揃っていなかっただけに、天真のホゾまたは真というような合わせものの仕事になると特別な技術が必要となった。だから東京の時計材料店がその存在感を示し始めた。日本橋の伊藤材料店、神田の榊原材料店、須田町の山内精材料店、下谷の五味材料店、小峰材料店といったところだ。この頃、横浜、静岡という遠隔地からも注文があリ、繁盛していた。

■時計の修理に携わる業者が繫栄し始めた ■2017年4月3日 月曜日 14時30分54秒

時計の側合わせ、側直し、メッキなどの需要が高まる時代

《昭和初期》 この頃、時計の側合わせが流行していた。時計の側合わせ、側直しなどの営業は、日本橋・馬喰町の高木メッキ工場、大井町の吉原工業所はメッキと側の修理を行っていた。それに幡ヶ谷に工場を持ち、都内を駆け回っていた金栄社のぞんざいは大きかった。金栄社は、側のへこ直し、側の一個合わせを看板に掲げて評判も良かった。そのあと、セイコーやシチズン時計の卸売りを行うなど同社の発展は目覚ましい。社長の荒木虎次郎氏は、80歳で、時計業界では最長老者として尊重されていた。

■近常時代の東京の時計材料界 ■2017年4月3日 月曜日 13時47分38秒

銀座・天賞堂、服部時計店なども扱っていた

《昭和初期》 東京の時計材料界は、明治時代からの材料界の元勲である三十間堀の近常が輸入商の王座としての誇りを持っていた。このほか、銀座・天賞堂、服部時計店なども扱っていた。昭和の初期時代、東京市内にあった時計材料店は小川静、山内材料店,榊原材料店、小島商店、小峰材料店、五味材料店、大田材料店、馬場喜一郎、八田商店、松下商店、伊藤材料店、吉田昌一、上岡実、海野幸保、松本吉五郎、中村徳松、高橋井五郎、小松沢国之助、足立治郎吉、荒木虎次郎、木村健吉、水谷平吉、南岡正躬、宮島伊三郎、清水幸、岩永商店などがある。

■白金の価格が安かった為、愛国メダルを売り出し、話題となった ■2017年3月15日 水曜日 11時36分14秒

当時の時計の輸入税は、重量税であり完成品は2円40銭

《昭和11年》 この頃白金の価格が純金の2,3割高という安値の時代だったので、山崎亀吉翁は、白金製の愛国メダルを売り出し、話題となった。側には、純白金だけでは不適当なので純金を少量混ぜ硬度度を調整していた。当時はほかにも白金側のナルダンやロンジンなどがあった。当時の時計の輸入税は、重量税であり完成品は2円40銭、ムーブメントが90銭となっていた。また製造工賃は、18金の男物堤時計、専売側、パリス側とも5円から6円50銭、腕時計は3円50銭前後で、18金はへり込みで380円という値段だった。
その後、景気が悪くなり競争も激しくなってきて、腕時計のパリス側の工賃が1個、1円となり、80銭に下がり、中には50銭、30銭まで値下がりした。ついには、金ろうを使うべきところ、真鍮ろうを用いたり、また金性を落としたため、ノーマーク物まで出現するようになった。

■昭和5年のころ、時計材料卸界が廉売合戦で想像を絶する混乱ぶり ■2017年3月14日 火曜日 13時15分2秒

3都連合会の代表が「業界損失防止案」を作り話がついた

《昭和5年》 時計材料卸の五味商店と小峰商店の対立劇は、他地区の同業者にまで広まっていた。昭和5年ごろの時計材料界は、廉売合戦でその混乱ぶりが想像を絶するものがあった。そこで昭和7年7月、東京時計原料組合と関西時計材料組合、名古屋時計材料商組合の3都連合会の代表が集まって、時局収拾の為に話し合った結果、「業界損失防止案」なる決議書を作り、実行に移す声明で話がついた。

■昭和7年7月7日、3都市時計原料商組合は「業界損失防止案」を可決した ■2017年3月14日 火曜日 13時14分3秒

賛同者は、時計材料に関連する全国の業者多数となった

《昭和7年》 当時は為替の変動や財界の極度の不況により、業者間の競争が激化し、破壊的な相場の広告が出現するなど、3都市時計原料商組合は緊急会議を開き「業界損失防止案」なるものを決議して、全国の業者に発令したのが昭和7年7月7日。その内容とは、
@ 定価表は、一般的に普及した商品及び再低価格品の価格を時の相場により、協定した建値以下で販売することを禁ずる。
A 本会員は、商道徳を重んじ、他人に迷惑を及ぼすような挑戦的な宣伝、または、虚偽の広告を行ったものを不徳行為と見なし罰する。
B 業界を攪乱するがごとき不当廉売をするものに商品を供給するものにまで、取引の停止を求める。この三項目に違反した者には警告を発し、改められない場合は連合会決議により売買の取引停止とする。
賛同者は、時計材料に関連する全国の業者多数となった。

■当時の懐中時計側は、無双側(両ふた)時代から専売側、バリス形片ガラス時代 ■2017年3月14日 火曜日 13時13分1秒

材質は、金、銀,洋伯、赤胴を使用していた

《大正5年》 大正5年の第一次大戦後の好景気を受けた当時の懐中時計側は、無双側(両ふた)時代から専売側、バリス形片ガラス時代に移った。
このころの材質は、金、銀,洋伯、赤胴を使用しており、精工舎では、斜子無双側を作っている。赤銅側には、花鳥や富士山などの彫刻色とりどり、象嵌などは、骨董価値のあるものが多かった。

■この頃の時計側工場は専属工場がほとんど ■2017年3月14日 火曜日 13時10分46秒

主として金側の堤時計が大流行していた時代で、少しづつ腕時計用に

《昭和11年》 この頃の時計側工場は専属工場がほとんど。吉田の浦田工場、加賀屋の白石工場、大沢商会の脇工場、天野の尚工舎、平野(精工舎の元地金部長)工場、金栄社は金森、藤田の専属、新本の斎藤工場、鶴巻の竹内工場など。
このころは、主として金側の堤時計が大流行していた時代で、少しづつ腕時計用になっていった。金栄社では、銀側の16型レナー用を作り、2円で卸していた。

■大正から昭和にかけての時計材料界 ■2017年3月13日 月曜日 16時44分57秒

大正13年ごろからは小売業が復活するに向けて活発化してきた

《大正12年》 大正12年の関東大震災が世の中の状況を一変させた。東京の時計材料界は小売業だったため、ほとんど業務は起こらないで復興は遅れていた。それでも大正13年ごろからは小売業が復活するに向けて活発化してきた。時計の種類も大物類は別として、身近な必要な腕時計や懐中時計の類が多かったので材料部品もそれなりに用意されている。小売りからの注文が主として一個合わせというのが多かった。震災によって特に時計への修理するという必要性が起こってきたからであろう。ところがこのころは、腕・懐中時計の場合でも舶来品の取扱量が多かっただけに、修理品の場合でも舶来品が多かった。
だが舶来品部品が完全に揃っていたのでないので特別な技術を持った技術者がいないと、注文に応じるわけにはいかなかった。材料店もこのような一個合わせの特殊な注文に応じる店はいつでも満員だった。
■東京皮革時計バンド工業組合は、昭和13年東京・浅草で135名のメンバーで発足 ■2017年3月13日 月曜日 14時49分40秒

昭和5年、16名の発起人によって設立した「東京腕時計付属品商工組合」が開祖

《昭和13年》 東京皮革時計バンド工業組合は、昭和5年2月、小宮増太郎氏ほか16名の発起人によって腕時計用皮革およびリボンの製造販売業者並びにその付属品販売業者85名で結成した「東京腕時計付属品商工組合」が開祖で、その後戦時体制に移るに従って次第に発展、昭和13年11月28日、東京・浅草で135名のメンバーで発足した。出資総額は2万5千円。
理事長:若林善治、専務理事:春山錦造、理事:谷口誉四郎、岡部太郎、山崎福太郎、宮田伊太郎、越村暁久、藤巻勝範、原徳太郎、監事:長島次郎、大熊喜佐雄、平岩徳三郎の諸氏。
■昭和31年、全国組織の「全国時計付属品卸組合連合会」を設立 ■2017年3月13日 月曜日 14時48分50秒

波乱含みの付属品業界の生い立ち

《昭和22年》 時計バンド業者を集めた組合は、「東京時計付属装身具工業協同組合(美装組合)」と「東京時計バンド装身具卸商業協同組合」の二つの団体が存続している。
美装組合は、大卸団体で東京時計バンド装身具卸商業協同組合は小売店向けの団体ということになる。この両団体のメンバーが歩み寄り一本化して、昭和22年「東京時計付属装身具工業協同組合(美装組合)」を設立、涌井増太郎氏を初代理事長に据えた。以降、村井寅吉、安藤喜男、長谷川恵章、遠藤僖一、今田正雄氏の順に経過している。
組合の中で商品を供給する「睦会」と「これを受け入れる側の立場の二派があり、利害が反する二派となり、ついには昭和31年、「東京時計バンド装身具卸商業協同組合」は全国業者の一本化を図り、東京組合を主体として大阪、名古屋の同業団体に呼び掛けて「全国時計付属品卸組合連合会」を設立した。この組合は、組合員の相互便利機関として毎月1日を定例日として商品展示会を開催して業績を上げた。
■繫栄する業態に、生産・直売のマルマンが参入、業界内は波乱含みの動き ■2017年3月13日 月曜日 14時47分29秒

企業体が一部整理倒産という憂き目を見た時代となった

《昭和37年》 時計バンド業界の商況は、戦時中は自国製の時計バンドが主流だったのでリボン類に次いで皮革品が主力製品だった。終戦後は、アメリカ製の金属時計バンド(S式)の流入により、商いは旺盛を極めた。それが影響したか国内産のS式バンドが流行し始め、伸延可能なパーフェクトバンドのパテント問題が起こり、ドイツのロジ社との間で紛争問題が勃発した。エバー式のパテントの商材をもって争った「東京時計付属装身具工業協同組合(美装組合)」が勝訴して平静化した。この間、生産・直売のマルマンが出現、業界内は波乱含みの動きを見せていた。昭和37年ごろから金融界の新しい処置による影響で、不健全な組織体による企業体が一部整理倒産という憂き目を見た時代となった。
■昭和3年5月に「東京時計付属品研究会」と称した団体が草分け ■2017年3月10日 金曜日 15時14分24秒

腕時計バンド業界の由来

《腕時計バンド業界》 時計付属業界の団体作りの始まりは、昭和3年5月に東京・浅草寿町の料亭「吹き上げ」で発会した東京時計付属品研究会と称した団体が草分けであろう。その団体の初代会長となったのは、合月商店系の外園盛吉氏である。当時時計付属品と貴金属品の販売で一大勢力を誇っていた合月商店の店主・前川案山子が商品の円滑な仕入れを狙いとして設立されたものである。
更に昭和5年2月、時計バンドメーカーが発展してきたのを機に初代組合長となった小宮増太郎氏ら16名の発起人で東京腕時計バンド商工業組合を設立した。
■高級品のコードバンが出現したのは、谷口の「ホマレバンド」がトップ ■2017年3月10日 金曜日 15時13分35秒

皮革バンドの最初は、低品質だったが需要が高まるにつれて高級品に

《腕時計バンド業界》 時計用バンドは、その当時時計のケースがパリス側で作られていた関係で、これに使用するためのリボンが用いられていた。このリボン釻のもパテントが付けられていたことから、意匠問題や構造問題から来たらしい。
昭和の時代になって初めて革バンドが使われるようなった。皮革バンドのメーカーでの最古参は、池上彰治氏。皮革バンドの最初は、低品質だったが需要が高まるにつれて高級品になり、コードバンが出現したのは、谷口の「ホマレバンド」がトップだったと思う。
■多くのブランドが乱立、宣伝活動が活発化し競争が激しくなった ■2017年3月10日 金曜日 15時12分40秒

意匠登録やパテント問題などの問題が飛び出し、活況を呈した

《腕時計バンド業界》 時計バンドの需要が高まるようになったころの付属品業界は、本所・両国の大熊喜佐雄、浅草・並木の谷口誉四郎、牛込・矢来の丹羽留吉、上野・下谷の木村大資、浅草・鳥越の井村松五郎、浅草・山野の若林善治、浅草・柳橋の山崎福太郎、浅草・寿町の中野新助、本所・両国の石田国三郎、赤坂・新町の平岩商店があげられる。この中でブランドとして宣伝に努めたのが、ヤナギバンドの山福、ホマレバンドの谷口、軍人バンドの大熊、矢印の丹羽、地球印の平岩などで、宣伝活動が活発化し競争が激しくなった。そこへ、意匠登録やパテント問題などの問題が飛び出し、活況を呈した。
■昭和40年、日本眼鏡卸組合の設立20周年を祝して盛大な式典を ■2017年3月9日 木曜日 15時21分25秒

東京眼鏡小売、東京レンズ協同組合、東京眼鏡枠工業組合の各団体が

《昭和20年》 井戸理事長らの発奮により全国の業者を一丸とする全日本眼鏡商工組合連合会を結成、官界と医療界、眼鏡業界間の連絡協調を計るなど、更には視力衛生問題に絡んで眼鏡販売に対する認可制問題等に対処するなど文字通りの活躍が見られている。
同組合は先に、日本眼鏡卸組合の名において眼鏡の歴史を編纂刊行したが、昭和40年11月3日、日本眼鏡卸組合の設立20周年を祝して盛大な式典を、東京・文京区の椿山荘で行った。東京には、この組合のほかに、佐野義雄理事長が率いる東京眼鏡小売商協同組合があり、メーカー団体では、東京レンズ協同組合、東京眼鏡枠工業組合の各種団体が存在している。

■欧米流の眼鏡検眼技術を習得する為に青年二人が渡米 ■2017年3月9日 木曜日 14時15分18秒

吉田眼鏡店の吉田幸男氏と京橋の金鳳堂の小柳政重氏

《大正末期》 眼鏡業界の歴史を紐解くと「レンズ」は、13世紀ごろイタリアのヴェネツィアで作られたことが記されている。日本にメガネが入ってきたのは、奈良天皇の享保2年に宣教師が大内義隆に望遠鏡とともに献上したというほか、天文2年にフランシスコザビエルが持ってきたとする記録が残っている。
また日本に眼鏡として初めて輸入されたのは、寛政5年に浜田弥平衛という人が、南蛮に渡ってメガネの製造を習得し、長崎にいた生島藤吉という人に伝授した記録が残っている。
そんな古歴に関することではあるまいが、欧米流の眼鏡検眼技術を習得する必要から、眼鏡界の青年二人が大正の末期に洋行している。その人は、時計界の各支所で眼鏡学の講師の経歴を持った吉田眼鏡店の吉田幸男氏と京橋の金鳳堂の小柳政重氏の二人である。
■昭和20年8月、戦災から復帰した同業者を集め、業界再建に努めた ■2017年3月9日 木曜日 14時14分15秒

昭和16年12月8日に至り、日本は大東亜戦争へと突入した

《眼鏡組合》 従って、大正の末期ごろは、眼鏡小売組合、卸商組合、レンズ組合、枠などの各種団体がそれぞれ別動体をとっていた。しかし、いずれの時代も眼鏡に関する部門は、卸組合が中心となって活動していた。昭和14年当時、部制実施について改められた卸組合は、四転して東京眼鏡光学器卸商業組合と決まった。このころ戦争はますます酣となっており、組合関係は、安西俊治氏が団長となり、北志那方面の皇軍慰問団を編成、一か月にわたって実施した。且つまた、統制令に関しては、公定価格の作成という仕事も生まれたほどであったから、戦局はいよいよ思わせるものがあった。かくて昭和16年12月8日に至り、日本は大東亜戦争へと突入した。これからは、勤労奉仕に軍需工業にと協力体制をとる以外に処置はなかった。かくして昭和20年8月15日に悲しむべき敗戦の日を迎えたのである。
かくして組合は、戦災から復帰した同業者を集め、業界再建に努めた小島秀海氏のあとを受けて、昭和24年8月、井戸武義氏が理事長の座についた。
■明治30年1月10日、「東京眼鏡商組合」が組合員65名で発足した ■2017年3月8日 水曜日 16時12分5秒

組合長には、田中栄太郎、副組合長に佐々木房太郎両氏が選任

《眼鏡の由来と眼鏡界》 明治30年1月10日、加藤菊太郎と杉若重エ門両氏が発起人になって「東京眼鏡商組合」が発足した。組合長には、田中栄太郎、副組合長に佐々木房太郎両氏が選任され、組合員65名で発足した。明治40年、小林清五郎氏が組合長に就任した時から「重要物産同業組合法」へ昇格運動をおこし、明治40年11月東京眼鏡製造販売同業組合を設立している。大正10年、岩崎広松氏が組合長となり、大正15年、鈴木定吉氏が組合長になってから、この当時の組合員の発言はすこぶる活発になり、常に賑やかな総会風景を呈した。
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■大震災を契機にした眼鏡界、次第に芽生えの時期が到来 ■2017年3月8日 水曜日 16時9分57秒

大正12年9月1日の関東大震災では、ほとんどの業者が被災

《眼鏡の由来と眼鏡界》 大正12年9月1日の関東大震災では、ほとんどの業者が被災し、死亡した組合員は29名を数えた。組合では、被災救援金を借り込むという状態で振るわなかった。しかし、震災後の復興力が緒に就くと、次第に芽生えの時期が到来した。
このころの眼鏡界は、組合の名称が示すように、製造・販売業者を一括して組織されていた。従って販売店がお客の立場という関係で、常に主位にあるように動いていた。
組合行政では、神田の五味行長、小柳重憲、民野勇、鈴木金蔵、谷勇、村田嘉兵衛、亀山末義、加藤亀太郎ら小売りの面々に、時計界から向島の鈴口茂美氏などが加わって、賑やかな総会風景を展開している。
■当時の眼鏡組合の会議風景は、正に甲論乙駁といえるもの ■2017年3月8日 水曜日 16時8分47秒

議論の場ともなれば、まさに物すさまじいばかり

《眼鏡の由来と眼鏡界》 メーカー畑では、小沢元重、佐野義雄、奥田平衛、卸界からは、井戸武義、吉田幸三郎、田中喜八の諸氏が役員として参画している。当時の眼鏡組合の会議風景は、正に甲論乙駁といえるものであり、一言一句が議事法に則るものでなければ許されなかったというほどだ。俗称「神田組」と称された五味、谷、鈴木の三氏は発言なしでは、済まなかったようである。平野組長によって、時計関係では同業組合への昇格は見たものの、公認組合としては、この眼鏡組合のほうがはるかに先輩というだけに、議論の場ともなれば、まさに物すさまじいばかりの光景が見られた。
■昭和21年全国水産品評会で二等賞を獲得した ■2017年2月24日 金曜日 15時46分0秒

この受賞が御木本幸吉翁が公の場で受賞した初めてのもの

《昭和21年》明治20年の頃、真珠は輸出商材としては極めて有望な品物であった。だが横浜や神戸では、外国人相手の取引となると、品質が良いものは羽が生えたように売れていた。最も良質な真珠は、数千個の真珠貝の中から僅かに二、三個程度しか採ることが出来なかった。そんな中、昭和21年6月、全国水産品評会が東京の京橋木挽町の厚生館で開催され、御木本幸吉翁がかねてから改良を重ねていたイリコと真珠を出品、二等賞を獲得した。この受賞が御木本幸吉翁が公の場で受賞した初めである。御木本幸吉翁はこの時の光栄に鑑みていよいよ真珠貝の培養試行を決意した。昭和21年9月の頃、御木本幸吉翁はアコヤ真珠貝を沢山集め、その飼育培養のスタートを切っている。
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■アコヤ貝から出来た真珠は小さいが形が整っていて正円形のものが多い ■2017年2月24日 金曜日 15時43分55秒

御木本幸吉翁の養殖の研究結果

《昭和21年》御木本幸吉翁は、この時、何の貝の中にできる真珠が最も良質で、人工的にどうしたら創り出せるか、頭の中で考えた。その結果、長年の経験からアワビ貝から出来た真珠は大きいが、形が歪んでいて光も鈍い。アコヤ貝から出来た真珠は小さいが形が整っていて正円形のものもあり、色合いの美しいものが多い結果となった。真珠の品質は、その母貝の如何により粗悪品と良質品が生まれることが判った。この判断は水産業的に見ても大きな前進となったといえる。更にこの養殖技術を推進していく事に決めた。
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■御木本パールの始祖、御木本幸吉翁が開発した養殖技術 ■2017年2月23日 木曜日 14時46分29秒

世界に誇る日本の養殖真珠

《明治21年》 貴金属宝飾品業界の歴史中で忘れてはならないものに、日本産の養殖真珠の世界進出がある。日本の真珠は、明治21年頃、三重県の鳥羽町にあった御木本パールの始祖、御木本幸吉翁が装飾品の中でも特に珍重がられる真珠の養殖を開発、世界に打って出ていた。日本の真珠の採取量は極めて少ないにもかかわらず、その需要は年々伸びていた。御木本幸吉翁は、伸びつつある真珠の需要に着目して、アコヤ貝の中に稚貝を入れて養殖真珠の技術を開発した。日本の養殖真珠は、御木本幸吉翁の苦心研究の結果生まれたもので、この頃より世界的な発明品として世に謳われるようになった。
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■真珠に対する保険とその対策を取らなければならないと決意した ■2017年2月23日 木曜日 14時45分43秒

志摩国海産物改良組合理事の立場にあった御木本幸吉翁

《明治21年》 明治維新以来、真珠の需要はますます著増の傾向にあり、特に明治12,13年頃は品質の良い伊勢真珠が、乱獲の兆候が見られた。この頃、日本国の真珠生産状況は、三重県志摩の英膚湾、肥前の大村湾、能登の七尾湾などから産出され、生産額は1万円は下らなかったようだ。保護増殖の途が講じられないまま、真珠に対する需要増を見せる反面、生産量は逆に減少した。
御木本幸吉翁がこの対応策に腐心し続けている明治20年の頃は、僅かに2,3千円程度に落ち込んでいたのである。当時、志摩国海産物改良組合理事の立場にあった御木本幸吉翁は、真珠に対する保険とその対策を取らなければならないと決意したのである。
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■白金製の愛国メダルと銘打って一個20円で売り出したことがあった ■2017年2月23日 木曜日 13時54分29秒

当時白金の需要を高めるために地金協会のメンバーが

《昭和11年》 貴金属地金の中で白金の価格は、常に高い価格が付けられていた。ところが昭和11年頃、その白金の価格が金の価格に比べて二、三割しか高くない時期があった。当時白金の需要を高めるために、白金製の愛国メダルと銘打って一個20円で売り出したことがあった。確か山崎亀吉さんのデザインで徳力商店、田中貴金属、石福貴金属などの地金協会のメンバーが率先して対応したのを覚えている。
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■白金の価格についてはソ連の投機筋がかかわっているとの説が有望 ■2017年2月23日 木曜日 13時53分13秒

白金地金の用途は工業用ないしは軍事用

《昭和11年》 この白金が過ぐる30年ごろには、匁単位で2千円近くに低迷したことがあった。この時地金メンバーたちは、白金の需要の将来性について検討したところ、「こんな安値で止まるわけがない」との結論に達した。ところがその発表した翌日、途端に高騰し始めたという奇跡的な変動があったと聞く。白金の価格については、ソ連の投機筋がかかわっているとの説が有望であった。
因に、この白金地金の用途は常に工業用に使用されている。それだけに軍事用に関することで需要を伸ばした時には、その及ぼすところが自然大きく、かつ厳しい制限を受ける例がある。日本では白金が採掘されないので、輸入に頼るしかない。従って、こと軍事用の時代に入ったとなると、この白金の取り扱いに関しては、国の管理規定に違反するような事態に迫られる場合が多かった。従って、この場合の処罰が極めて厳重すぎるほど厳罰が採られたのも、白金に絡む事件が多発、命脈を断つたものが前後三件に及んでいる。
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■大正11年当時からのダイヤモンドに10割課税、撤廃運動始まる ■2017年2月22日 水曜日 14時59分48秒

世間が目まぐるしく変化していた時代に、この重税だけが取り残されていた

《昭和11年》 貴金属業界の景気は、時計業界とは不可分の関係にあるものなので、余りいいとは言えない。この頃はダイヤモンドに10割という重税が課せられていた。業界としてこの10割課税は重税であり、この悪税を撤廃する動きが始まった。この悪税は、大正11年当時、浜口内閣総理大臣が不景気の為に緊急財政を打ち出した、その時のゼスチャー的物産として決められたものであり、以来そのままになっていたもの。ところが、満州事変が起きたりして、世間が目まぐるしく変化していた時代に、この重税だけが取り残されていたのである。
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■ダイヤモンドの10割撤廃運動が始まり、悪税が撤廃された瞬間 ■2017年2月22日 水曜日 14時58分49秒

大蔵省の主税局長に悪税の説明をして、本会議で取り上げられた

《昭和初期》 ダイヤモンドの10割撤廃運動が始まった。明治大学のクラスメートに相談したところ、九州出身の仲間から、2・2事件で災禍で倒れた高橋是清大蔵大臣の懐刀と言われた知能明晰な人・大塚司先生が出てきた。大塚先生を経由して陳情を展開、大蔵省の石渡主税局長あての紹介状をもらい、早速石渡主税局長に会いに行き、重税の説明をした。その時は、衆議院本会議に、ダイヤモンドの税率問題が上程されることになっていたことから、石渡主税局長が説明、提案どおり可決された。大正時代からのこの悪税が撤廃された瞬間であった。
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■三輪豊照氏はジュエリーデザインに大きな関心を持っていた ■2017年2月13日 月曜日 14時21分55秒

業界の進歩にも大きく寄与したようだ

《昭和初期》 東京・湯島に本社を置く三輪屋商店が輝いていた。代表者である三輪豊照氏は当時からジュエリーデザインに関してかなりの知恵を絞っていた。当時三輪屋が主催した催しに参加したメンバーは80名にも達したという。同社は、当時一等に3千円という破格な賞金を付けて技術者の競争心をあおった。自作の装身具を持ち寄って優秀なデザインの作品に賞金が贈られた。このようなことでこの時代から新しいデザインが生み出されるようになり、業界の進歩にも寄与したようだ。
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■貴金属店の有名な刻印が80有余に上っていた ■2017年2月9日 木曜日 14時58分9秒

貴金属の品位を保証し、店の信用を保持する

《昭和年代》 しかし貴金属の品位を保つということは、その店の信用を保持するということで、貴金属メーカーでは、自店のマークを宣伝したものである。当時の有名なマークは、服部時計店のツバメ印、村松本店の犬印、天野宝飾店の日章印、松本常治郎商店の兎印、細沼貴金属工業の菱H印、溝口万吉商店の三ツ柏印、井村商店の重ね松葉に一の字印、巽商店の三階松印、合月商店の月に合の字印など。この他にも朝日商店、喜多村保太郎商店、三輪屋商店、中善商店など有名な刻印が80有余に上っていた。
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■「平和博覧会」で起きた盗難事件がきっかけで刻印がデビュー ■2017年2月9日 木曜日 14時57分21秒

品割捜査に協力、警視庁の刑事たちも印を確認した

《昭和年代》 貴金属の品位を保証し、店の信用を保持するマークで思い出すのが昭和の初めころ、上野の不忍池湖畔で「平和博覧会」が催された。その時、出展物の盗難事件が起こり、警視庁の刑事たちはこの刻印マークを知らせる事により、品割捜査が成功すると考えた。当時の業界紙が各店のマークを掲載し始めたのが、刻印の初めである。
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■展示即売会が始まったころ ■2017年2月9日 木曜日 14時56分26秒

宝石の販売が増え始めた

《昭和年代》 貴金属業界の形態は組合規約に盛られた内容なものが常であり、あまり変わり映えがしない。昭和5年の春に勃発した国際的なダイヤモンドの密輸事件もようやく片付き、時代に即した技術上の改良など、業界ぐるみで問題の解決をした。
このころから貴金属品の流行は旺盛になった。卸業者が小売店を訪問して販売する他に、時期を決めて、販売店を招待して展示即売会を催した。当時、依田忠商店が翡翠やサンゴの展示会をしたのが初めてで、以来、細沼商店、中村善太郎商店が新作発表会などを催した。
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■設立早くも産業組合を設けて大蔵省に陳情、米貨の払い下げなども ■2017年2月8日 水曜日 16時38分41秒

現在の東京貴金属装身具卸商業組合

《大正時代》 日本の貴金属業界の組合事業としては、設立早くも産業組合を設けて大蔵省に陳情、米貨の払い下げを受けて地金商と業者間の地金の配給上の円滑化を計った。大正15年、細沼組合時代に金位検定事業を推進、東京商工奨励館内に東京貴金属品検定所を設置して金品位の保存に努め、昭和4年、造幣局に移管した。引き続き昭和14年まで銀地金の配給事業を行った。なおこの組合は、昭和15年東京貴金属工芸品卸商業組合に改組、中村善太郎氏が初代理事長を務めた。以降、松山繁三郎氏に代わり、現在の東京貴金属装身具卸商業組合に改称した。
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■販売側よりも彫金界の方が勢力を持っていた ■2017年2月8日 水曜日 16時37分54秒

歴史ある東京貴金属装身具卸商業組合

《昭和初期》 昭和初期の貴金属業界の動きは、時計業界の激しい動きとは対照的に貴金属卸組合にメーカー側の工芸品協同組合などが分散して、それぞれが独立している。
昭和6,7年頃の貴金属業界は、東京貴金属装身具卸商業組合が一本で何事も押しまくっていた感がある。
貴金属業界の動きを紐解くと、その昔明治26年に創立された日本金工協会に淵源するものである。従って、大正3年9月14日に東京一円の同業者を包括して設立した東京貴金属品製造同業組合には、海野勝E、黒川義勝、平山寛亭など、の彫金界の大家が居て、服部時計店、小林時計店、村松本店、天賞堂、玉宝堂、玉屋などが販売店側に加わっていたが、組合の力はこの彫金界が勢力を持っていた。
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■金性をごまかすニセモノが出回り始めた頃 ■2017年2月8日 水曜日 16時37分2秒

貴金属に対する魅力が理解され始めた頃

《大正年代》 この頃の一般人は貴金属に対して魅力を持ち始めた頃だ。ダイヤモンドとなるとまるで別世界の人達が持つような高嶺の花のように思われていた。従って貴金属品に対する見方が変わってきた。貴金属品の品位の低いニセモノが出始めたのも、この時代からである。指輪と金クサリの金性の品位についてとかくの問題が出始めた。貴金属だけでなく時計の金側の金性落ちなど。この時代の時計は堤時計が全盛であり、時計の堤クサリには、金の目方が多く付けられていた。そこに目を付けたのが、クサリの駒つなぎにまで銀ろーを使ったものまで出回るようになった。1本の鎖で何百円もする時計が売れるようになった時代だから。
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■明治時代からの貴金属業界とその経路 ■2017年2月8日 水曜日 13時22分1秒

日本で最も古い貴金属業界団体「日本金工協会」

《日本金工協会》貴金属品とは、金・銀・プラチナ等の素材で製作した美術・工芸装飾品を総称したモノを言い、貴金属宝飾品の業者団体の創生は明治時代だった。
その最も古い団体は、明治26年ごろに創立した「日本金工協会」であった。貴金属業界の草分け的存在の「日本金工協会」のメンバーは次のような諸氏の名が挙げられている。
▽美術工芸家=海野勝E、海野美盛、豊川光長、塚田秀鏡、船越春E、平田宗幸、黒川義勝、桂光春、香取秀真、平山寛亭。
▽販売業者=小林時計店、服部時計店、天賞堂、玉宝堂、大西白牡丹、村松本店、玉屋など。
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■貴金属そのものが高貴な方たちの「特殊な愛好品」であったことが伺える ■2017年2月8日 水曜日 13時21分17秒

初代会長には、金子賢太郎画伯、名誉会長として宮内次官や財閥の名前が

《日本金工協会》日本で最も古い貴金属業界団体「日本金工協会」の初代会長には、金子賢太郎画伯、副会長には日本美術学校長の正木直彦氏、名誉会長として宮内次官、宮中顧問官と財界の三井家の人達を選んでいた点からしても、貴金属そのものが高貴な方たちの特殊な愛好品であったことが伺える。
「日本金工協会」が毎月開いていた上野の作品展覧会や競技会などには天皇陛下の臨席もあったと聞いている。
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■大正3年「東京貴金属品製造同業組合」が設立された ■2017年2月8日 水曜日 13時20分20秒

組合員は67名、賦課金月額5円の時代

大正3年9月13日、東京市芝区新橋5丁目2番地に「東京貴金属品製造同業組合」が設立された。初代組合長には、山崎亀吉氏、2代目は、細沼浅四朗氏、3代目は、久米武夫氏が就任している。組合員は67名。賦課金月額5円。
役員には、松山繁三郎、溝口万吉、伊沢栄太郎、細沼浅四郎、池田嘉吉、田中一郎、高木新次郎、野村菊次郎、黒川義勝、松村伊助、宮本庄吉、
戦争の為その姿は、変えられているが、当時の組合規約に盛られている内容がほかの組合とは異なる点があるので、参考の為に抜粋した。
組合員資格としては、貴金属製造並びに美術工芸装飾品(盃、花瓶、茶器、置物、)、貴金属、装身具(指輪、帯もの)、賞牌、徽章を製造販売するもの。但し金・銀・プラチナ又は、合成金にしても付則第5条に定める金質を有するもの。組合員が製造する貴金属製品には金質を表示する刻印を成すべきものとする。
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■政府が30万ctのダイヤモンド民間買上げ ■2016年11月24日 木曜日 15時22分51秒

ダイヤモンドの密輸入が横行した時代

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 昭和19年頃から政府は戦争に向けた必要な物資の民間買い上げを始めた。中でもダイヤモンドは小売値より2〜3割高く買い上げてくれ、総量で25〜30万ctのダイヤモンドが各地のデパートを窓口に集められた。金、プラチナなども同じく買い上げられていた。

昭和23年は、増長するインフレを克服しようと政府は莫大な復興資金を基幹産業に入れたが、上手くいかず明けて24年、輸出による日本経済の自立を基本方針に、インフレ抑制策(ドッジ・ライン)を強制、一挙に不況へと転落した。この年の為替は360円だった。 
このころからダイヤモンドの密輸入が横行し始める。新しいカットのダイヤモンドが市場に出回り始めるが、メレ―価格は暴騰し、カラット当り10万円〜15万円の値が付いた。
 昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発、日本の産業は朝鮮特需ブームに沸く。宝飾業界も活況を呈した。
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■大正7年、第一次世界大戦が勃発、日本は空前の好景気に沸いた ■2016年11月24日 木曜日 15時19分43秒

発展から暗黒へ

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 大正7年、第一次世界大戦が勃発、日本は空前の好景気となり消費に沸き立ち、宝飾品が飛ぶように売れた。戦争の為、欧州におけるダイヤモンドの生産量が低下し、宝飾品は完全に売り手市場になった。しかし、大正12年の関東大震災、財政難から宝石に対する10割という輸入関税が課せられた。その結果宝石の密輸の横行が始まった。主に上海、北京あたりから。
日本の経済はますます混迷を深め、浜口内閣は緊急対策として金輸出を解禁したが財政は逼拍、宝飾品の売れ行きも下落、業界も疲弊した。
昭和15年7月7日、奢侈品等製造販売制限規制が施行され、業界は大打撃、世にいう「七・七・禁令」。小売価格25円以下の商品以外は販売を認められず、業界は完全に息の根を止められた。大正4年からの25年間は天国と地獄を味わった波乱万丈の年だった。
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■宝石を身に着ける風習が浸透、和風小物店や時計店で宝石を扱う店が増えてきた ■2016年11月24日 木曜日 15時17分16秒

鹿鳴館の時代は日本国の“宝石元年”

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 明治10年の終わり近くから20年代の初めにかけて、いわゆる鹿鳴館と呼ばれ、ひたすら欧風化を目指し、煌びやかな舞踏会など上流社会が誕生し、女性たちの身は燦然とした輝く宝石で飾られた時代であった。この鹿鳴館の時代を日本国の“宝石元年”と言って過言でない。
明治30年から読売新聞に連載された「金色夜叉」にダイヤモンドが登場、宝石を身に着ける風習がゆっくりと浸透、和風小物店や時計店で宝石を扱う店が増えてきた。
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■昭和41年に宝飾品類に課せられた15%の物品税の撤回運動など ■2016年11月24日 木曜日 15時14分9秒

宝石業界100年の歩みが始まる

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 昭和41年に宝飾品類に課せられた15%の物品税の撤回運動や、宝石の輸入自由化、日銀ダイヤモンドの鑑定、CIBJO OF JAPANやジュエリー協会の設立など宝石業界でも大きな動きがあった。
1953年は、政治史上でも有名な吉田茂総理大臣が「バカ野郎解散」を行った年である。その後第5次吉田内閣が成立、昭和27年の対日講和条約と日米安全保障条約の正式発効を踏まえて、国民の意識の中に“敗戦”“戦後””新生日本”などが雑居し、国情が落ち着きを取り戻した感がある。
昭和45年頃から日本経済は好景気に入り、大手商社や化粧品業界、呉服業界に至る様々な企業が宝石の販売に乗り出してきた。商品知識の乏しい販売員に宝石を扱わすことになるため、補助的な機能である鑑別書が前面に押し出されることとなった。
いわゆる、熟練した販売員を養成するには時間を要するため、素人のような販売員を店頭に立たせるには、鑑別書に頼よわざるを得なかった。その場限りの企業の方針が、業界全体に蔓延してきた時代だ。
1952年は、皇居前広場を血で染めた第23回メーデーの悲惨さの記憶が薄れる中で、国民生活は豊かになっていった。小型婦人用腕時計“南京虫”が大流行、街頭のテレビに人気が集まりかけた時代。
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■今岡時計店社長の今岡芳太郎さんは、商人として一風変わった人として知られていた ■2016年11月24日 木曜日 15時7分12秒

関西での顔なじみ

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 今岡時計店社長の今岡芳太郎さんは、商人として一風変わった勇敢な人として知られていた。主としてセイコーの時計を販売していた今岡さんは、上京するたびに服部時計店の服部正次翁と会談し、商魂たくましく取引面でも直接交渉したという。それだけに服部正次翁が故人となられてからの今岡さんは、上京の都度に服部正次翁の墓参りに精を出したそうだ。時計の他に、古い銀貨を扱い事件に巻き込まれたこともあるが、戦争がさせた物資不足に絡む事件だった。
あるとき今岡社長が時計業界の大手セイコーの時計部品メーカー蒲ム精機製作所の林市太郎社長と一緒に日宗右衛町の料亭に招待してくれた時のことである。しこたま料亭で御酒を飲み、大阪・南場のキャバレーに芸奴十余人を伴って遊んだ時、裏面に粋な図柄のある芸奴の羽織をもって踊った今岡社長が大喝采を受けたことを今でも忘れられない光景だった。
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■28年6月6日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催 ■2016年11月24日 木曜日 15時3分31秒

輸入時計の団体発足

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 昭和27年6月7日、上野・精養軒で輸入時計懇話会を開催、大沢商会から岩沙、増田、日本デスコ・加藤、ヘラルド・コーポレーション・草日、スイコ・鹿野、シイベル・ヘグナー・小倉、リーベルマン・亀田、中央時計・肥田、平和堂・高木、堀田時計・小田切、シュルテル商会・大洋貿易、相互貿易、シュリロ貿易などが集合した。
この懇話会が話し合いを重ね、翌28年6月6日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催、大盛況をおさめた。

2世たちで作った東京と大阪の研交会

大正15年という年は大正天皇が崩御した年で景気が良くなかった。大阪の時計材料界で主導的立場にあった冨尾時計店の令息清太郎さんが商用で上京するたびに、時計業界の二世会の話が出ていた。
大正16年2月11日の紀元節、帝国ホテルで二世会「東京研交会」が発会式を挙げた。メンバーは、平野昌之(小売)、吉田庄五郎(時卸)、天野国三郎(宝卸)、野村康雄(小売)、小柳政重(眼小売)、吉田幸男(眼卸)、松本武司(材料)、橋倉利平(畜卸)、小西孝信(眼小)、古川清太郎(小売)、大場孝三(小売)、秦伊兵衛(小売)、村松鉄三(貴卸)、石橋幸太郎(宝卸)、秦藤次、山岡保之助、岡田政人、藤井勇二(本紙社長)。
この研交会は、毎月11日を例会日にして勉強会を行っていた。大阪研交会は、大正12年冨尾時計店肝いりで創立された。
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■28年6月6日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催 ■2016年11月24日 木曜日 14時56分44秒

輸入時計の団体発足

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 昭和27年6月7日、上野・精養軒で輸入時計懇話会を開催、大沢商会から岩沙、増田、日本デスコ・加藤、ヘラルド・コーポレーション・草日、スイコ・鹿野、シイベル・ヘグナー・小倉、リーベルマン・亀田、中央時計・肥田、平和堂・高木、堀田時計・小田切、シュルテル商会・大洋貿易、相互貿易、シュリロ貿易などが集合した。
この懇話会が話し合いを重ね、翌28年6月6日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催、大盛況をおさめた。

2世たちで作った東京と大阪の研交会

大正15年という年は大正天皇が崩御した年で景気が良くなかった。大阪の時計材料界で主導的立場にあった冨尾時計店の令息清太郎さんが商用で上京するたびに、時計業界の二世会の話が出ていた。
大正16年2月11日の紀元節、帝国ホテルで二世会「東京研交会」が発会式を挙げた。メンバーは、平野昌之(小売)、吉田庄五郎(時卸)、天野国三郎(宝卸)、野村康雄(小売)、小柳政重(眼小売)、吉田幸男(眼卸)、松本武司(材料)、橋倉利平(畜卸)、小西孝信(眼小)、古川清太郎(小売)、大場孝三(小売)、秦伊兵衛(小売)、村松鉄三(貴卸)、石橋幸太郎(宝卸)、秦藤次、山岡保之助、岡田政人、藤井勇二(本紙社長)。
この研交会は、毎月11日を例会日にして勉強会を行っていた。大阪研交会は、大正12年冨尾時計店肝いりで創立された。
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■戦時中の組合法の改正が行われ3団体が統合し「東京時計眼鏡小売統制組合」を設立 ■2016年11月24日 木曜日 14時52分5秒

東京時計小売組合の概史

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 東京時計組合は、戦時中の統制経済法に従って組合法の改正が行われ、以下の3団体(東京時計商工業組合、東京眼鏡光学器小売商業組合、東京府下時計眼鏡商工組合)が統合し、「東京時計眼鏡小売統制組合」を設立した。同組合の会員数は1,404名、総出資口数1,685口となっている。理事長=野村菊次郎、理事=山岡猪之助、白山鎮博、千葉豊、金山重盛、監事=中山文次郎、関口鹿十郎、内田亀楽の各氏。
昭和22年協同組合法に基づき「東京時計眼鏡小売商業協同組合」と改めた。その時の組合員は、1,120名、関誠平氏を理事長に、常任理事(千葉豊、金山重盛、中山文次郎)の他、理事11名、監事3名。昭和24年5月に東京中央区新富町に時計会館を建設、組合事務所とした。
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■戦後5年の昭和24年春ごろ、時計小売業者間から全国的組織の結成が叫ばれていた ■2016年11月24日 木曜日 14時47分17秒

全時連の結成

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 戦後5年の昭和24年春ごろ、時計小売業者間から全国的組織の結成が叫ばれていた。全時連結成に尽力した人たちは、名古屋の恩田茂一氏に加え、関時連会長の関誠平氏(東京)、近畿連会長の江藤順蔵氏(大阪)、千葉豊氏の4氏であった。全時連は、昭和24年5月9日、東京・新富町の時計会館で発足したものだが、その一年前に上記の4氏が東海道線御油田駅前の「引馬旅館」に集まり、準備会を開いたのが戦後における全時連のスタートとなっている。
次いで第二回目の会合は3月13日、伊東の大和館で開らかれた。結成した全時連の役員の顔ぶれは、会長=関誠平、副会長=千葉豊(東京)、江藤順蔵(近畿)、恩田茂一(東海)、常任理事=原(東海)、川本(近畿)、安部(九連)。関東勢はまだ役員に入っていなかった。
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■明治時代から懐中時計ぐらいだったから付属品としてはヒモ、鎖ぐらい ■2016年11月24日 木曜日 14時44分48秒

時計付属業界

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 日本の時計付属業界は、明治時代から懐中時計ぐらいだったから付属品としてはヒモ、鎖ぐらいで、堤時計の外側サック類に止まっていた。それが大正年代に入ってから腕時計が市販されるようになり、ニッケルやクローム側の腕リボンが出現、それ以来革バンドの時計ベルトが登場、皮革製品改良に拍車がかけられた。
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■大正8年11月5日、野尻雄三、吉田庄五郎、小林伝次郎、鶴巻栄松らの提唱で発足 ■2016年11月24日 木曜日 14時41分19秒

東京の唯一の時計卸団体である五日会

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 東京の唯一の時計卸団体である五日会は、大正8年11月5日、野尻雄三、吉田庄五郎、小林伝次郎、鶴巻栄松らの提唱で発足した。発足の目的は、販売価格協定を主眼に、大阪や名古屋などが連携して、春秋2回の売り立て会が行われたという記録がある。
そのころ資金力があったのが須田町の金森時計店。西の横綱は大阪の沢本平四郎氏であった。同氏は岡伝商店に在籍し、独立してダイヤと時計の卸業を営んでいた。
貴金属業界での資金力は、上野の金田屋・金田徳治、池之端の三輪屋・三輪三輪豊照、原清右衛門、名古屋の水渓商店・水渓直吉、大阪の角谷栄蔵などが名を連ねていた。
当時の時計卸業の勢力図は、御徒町の吉田時計店、加賀屋商店、大正5年に上京して開店した鶴巻時計店の3店が激しく争っていた。この他に、服部時計店、矢島時計店、天賞堂、山崎商店、天野時計宝飾店、エルシュミット工場、小林時計店などがあった。
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■天智天皇の御代、6月10日に水時計を作ったことを記念して「時の記念日」 ■2016年11月24日 木曜日 14時36分44秒

「6月10日」時の記念日と宣伝活動

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 天智天皇の御代、6月10日に水時計を作ったことを記念して「時の記念日」と制定した。以来日本では時の記念日活動を起こしたのは大正9年、当時の伊藤博文公が、西欧文化の進展に伴って日本国民の生活改善を計り進めることが始まりであったという。
大正13年5月、神田・一橋会館で社団法人中央生活改善同盟会が主催する「時の記念日事業活動に関する打ち合わせ会」が開かれた。会議には、社会的にも著名な吉屋のぶ子氏はじめ12,13名が集まり、協議の結果、6月10日の時の記念日に街頭宣伝事業を敢行することを決め、ビラ30万枚を東京全市に配布することに決めた。
当時は、日本橋、京橋、神田地区の業者で「東京時計商工組合(日京組合)」と「山の手八組合連合会」の二つの団体が存在した。当時、組合の代表として大勝堂の槙野さん、伊勢伊の秦さん、錦綾堂の大西さん、紺野時計店・紺野さん、富士屋時計店・近藤さん、京橋の森川時計店、八丁堀の川名さん、銀座の石井さんらが結束して、ビラ巻きに努め、大成功をおさめた記録がある。
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■大正5年東京製作所が生まれて電気時計の製作を開始 ■2016年11月24日 木曜日 14時33分48秒

大正9年吉田時計店が東洋時計製作所を興し置き時計の製作を開始

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 大正5年東京製作所が生まれて電気時計の製作を開始、大正7年隆工社がマルテー置時計を発売、同年尚工社が時計研究所を設立、大正9年吉田時計店が東洋時計製作所を興し置き時計の製作を開始している。
更に、10年雄工社が、同年8月東京時計製造鰍ェ50万円を投じて目黒に工場を建設、14年には鶴巻時計店経営の英工社、15年には村松時計店が池袋に工場を建てた。

関東大震災の時計業界

大正12年9月1日午前11時58分突如襲った関東地方の大地震。関東地区のほとんどの地域が壊滅状態。だがその復興は以外にも早かった。震災の被害で立ち往生をしていた市中の焼け跡は三日も過ぎた頃から立ち退き先の立て札が立ち始め、焼け跡へ復帰するバラック建ての工事が始まった。11月には、銀座の服部時計店と上野・池の秦の吉田時計店が仮営業所を開設、翌年の春には、池之端の加賀谷時計商会、広小路の鶴巻時計店、浅草の見沢万吉商店、浅草橋の今津時計店、日本橋の大西時計店などの卸商達が商売を始め、他業界に比べて明るさを見せた業界であった。   
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■時計商組合が設立されたのは明治10年、横浜の居留地に出入りしていた業者が作った ■2016年11月24日 木曜日 14時29分14秒

東京時計商工業組合

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 日本において時計商組合が設立されたのは明治10年、横浜の居留地に出入りしていた業者が作ったのが始まり。このころから毎月定期的に開催していた「開時会」は、明治23年9月に創立されている。初代の組合長は、八官町の小林伝次郎氏で、二代目は新居氏、3代目として服部金太郎氏が引き継いだ。
このころの東京地区の組合活動は、日本橋・京橋・神田の100名前後の業者と山の手8地区を含め設立した山の手組合は400名程度であった。大正14年頃、「関税問題」が浮上して服部金太郎氏は役員を辞退したが、大正12年大震災が起き、大同団結が叫ばれるようになった。大正14年ついに合同総会「東京時計商工業組合」が東京・日比谷の松本楼で開催、組合最初の創立時から30年が経過していた。初代組合長は、神田の吉川仙太郎氏が就任した。その後昭和2年に銀座の平野峯三氏が2代目組合長に、正式組合として認可された。3代目は、上野の野村時計店の野村菊次郎氏が就任している。
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■服部時計店は明治14年、個人で経営した事業の一切を受け継いで大正6年改組 ■2016年11月24日 木曜日 14時25分47秒

精工舎の偉業

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 兜桾博梃v店は、服部金太郎翁が明治14年以降、個人で経営してきた事業の一切を受け継いで大正6年改組したもので、精工舎は同社の工場である。明治25年5月、東京・本所に仮工場を設け、初めて掛け時計の製造に着手、16名の従業員で発足した。
明治28年中国に掛け時計を輸出したのを皮切りに、29年22型シリン式懐中時計を製造、32年には服部金太郎翁が欧米視察に赴いた。帰国後設備の一新を図り、新しい技術の導入で新しい時計の完成を見た。明治37年の日露戦争の際は軍需品の製造に努め、39年欧米の工場視察に赴いている。
帰国後は工場の施設の改善に努め、新しい形の時計を作成した。その後第一次欧州戦争勃発に及んでは、ドイツ国から、豪州、インド、南米、南ア、欧州諸国に大量輸出をした。
当時は時計に加え、蓄音機、扇風機などの製造もしていた。大正12年9月1日、関東大震災に遭遇、工場の全ては灰と化したが、翌13年3月には各種の時計を製造、早くも災害後2年にして震災前の業績までに復興している。昭和7年には最小型の5型腕時計の完成を見ている。
昭和12年に時計製造部門を江東区亀戸に移転、第二精工舎として分離、写真用シャッターなどの専門工場として太平町に工場を移した。しかし昭和20年3月の戦災により、同工場施設の約30%が焼失、同年8月終戦の為一時工場を閉鎖するまで残存施設によって操業を続けていた。
昭和21年1月操業開始以来、次々と新製品を開発、同年末には月産2万5千個を数えるに至った。
昭和21年4月、戦後初めてシンガポールへ目覚まし時計3,600個を輸出したのをはじめ、海外からの注文も多くなっていた。
このように精工舎の時計の生産は、亀戸の第二精工舎を軸に、上諏訪精工舎、鎌ケ谷精工舎などで増産された。昭和39年に開催された東京オリンピックで競技の計時時計が従来までのスイス製オメガに変わり、セイコーが担当することになり、“世界のセイコー”となった。
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■袋物、小間物も扱う業者を集めて明治10年に時計組合が作られた ■2016年11月24日 木曜日 14時20分37秒

組合創設の始まり

時計だけを専門に使う業者が少なかったため袋物、小間物も扱う業者を集めて明治10年に時計組合が作られたのが初めてである。設立の最初は、51名のメンバーで立ち上げている。

交換市場の開設

時計組合が出来てからは、毎月2回の時計の交換市場が開かれた。その一つが日本橋西仲通りで開いていた「弘時会」、このほか神田明神境内で開いていた「開時会」の二つの市場があった。
このころから商売人の種類には、市場取引を通じて売買するものと、商館からの仕入れ品に限り売買するものにと分かれていたようだ。
日本に初めて貿易商館が出来たのは文久2年、そのころ日本で時計を扱った最古の商館ファーブル・ブラント商会をはじめ、コロン商会も開館している。また慶応3年に横浜町通りに時計台が建設されている。
関西方面における時計製造初期を記録した大阪時計製造会社は、明治22年12月、当時の大阪時計業者21名が20万円の出資金を集めて設立したもの。同社は大阪市の桃谷に時計工場を設け、高木市兵衛氏によって発足した。同社が製造した商品は、当時の明治大帝に献上した記録がある。大阪時計製造会社は社長に土生正泰氏を就任させ、従業員35名で、掛け時計の製造を開始した。
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■当時盗難品の行方を追う警視庁関係から組合の創立を呼びかけられてきた ■2016年11月24日 木曜日 14時18分17秒

横浜居留地時代の素描

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 池内氏が取引書の古事記に綴られていたものによると、明治初期の横浜居留地の商館時代の素描は次のようなものである。
日本の港が外国人に開港するようになってからの国内取引の貿易は急進展を見ている。明治元年の頃、横浜港の居留地には早くも外国商館が立ち並んでいた。その数、およそ十余軒に及んでおり、これらの商館を通じて時計、宝石などの商品取引が活発化されていた。
輸入懐中時計も鍵巻きの時代から竜頭巻き式のものに改められてきた。明治初期の時計商は、時計だけでなく商館が扱っている袋物、小間物類に至るまで扱っている。そんな中、時計に対する需要が高まってきた中、当時盗難品の行方を追う警視庁関係から組合の創立を呼びかけられてきた。
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■日本における時計業としての草分けは、江戸時代 ■2016年11月24日 木曜日 14時14分50秒

明治初期の時計業と組合発祥の由来

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 日本における時計業としての草分けは、江戸時代、東京・八官町の小林時計店の始祖・小林伝次郎氏が創生したとされている。享保二年小林伝次郎氏が創業した時計鍛冶屋が時計師の名を高め西欧との鎖国の夢を破り、江戸が東京に変わる頃、尺時計を製造して江戸文化に貢献していた。
明治3年以降、横浜港太田町4丁目に開業した立正堂時計店の若松治助に従事していた池内氏が明治⒑年に横浜港の戸長、島田豊寛氏という人から当時、「時計組合を作れ」という命を受け、設立したのが日本における時計組合のはじめであったという記録が残っている。
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■時計の発祥は、2,600年前(西暦紀元前700年)、エジプトで発明された日時計 ■2016年11月24日 木曜日 14時12分8秒

時計の創始時代

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 この間社会現象としては、昭和6年に勃発した満州事変から支那事変を経てついに第二次世界大戦という人類未曽有の悲惨な苦難時代に遭遇した。続いて大正・昭和にかけてのどん底景気時代から戦時中の七、七禁令や奢侈品などへの十割課税を一挙一割に引き下げる運動など、様々な情報が記載されています。発刊から40年という記念するべき年に、筆者が体験した諸般の記録や資料に基づき三世代にわたっての業界歴史の収集に努めたものです。

時計の発祥は、2,600年前(西暦紀元前700年)の頃、エジプトで発明された日時計が発祥とされている。以来幾星霜を経て西暦9世紀の半ば頃、イタリアのハシフック僧正が初めて歯車を利用して時計を作ったのが機械式時計の端諸を開いたもので、今より約400年前の十六世紀、懐中時計が開発され、以来進化して今日のような実用的な時計に至っていると伝えられている。
わが国では、38代天智天皇の御代、紀元1321年6月10日、水時計が作られたのが始まりで、機械式時計が輸入されたのは、室町時代の末期か徳川時代の初期と言われている。その頃の懐中時計は鍵巻きで、高貴な方しか所有出来なかったもので、一般的には知られていなかった。明治13、14年頃から竜頭巻きに改良されたのが古代史に残っている。
時計王国スイスの時計産業について調べてみると、十六世紀の頃、ヨーロッパ全土で起こった宗教革命の時代に、フランス革命がイギリスに伝わったことから、農業国のスイスに産業革命が及んでいる。雪に閉ざされた期間、生計のために金属家内工業に慣れていたスイスの機械製造業者が、手細工による時計作りが始まったという。その起源は、ル・ロックル生まれのスイス人・ダニエルという人が渡米し、歯車によるボンボン時計を作る機械を持ち帰った時から始まったといわれている。
しかし最初は、叩き鍛冶屋の方式で掛け時計を作ったものであると説明されている。
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■大正3年9月東京貴金属品製造工業組合が設立されている ■2016年11月24日 木曜日 14時6分3秒

昭和初期の貴金属界

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 大正3年9月東京貴金属品製造工業組合が設立されている。このころ貴金属に対する関心と、特にダイヤモンドや金に対する関心は高かったようだ。そこで金の品位についての問題が発生した。
そこで登場したのが、製品に刻印するマークである。服部のツバメマーク、溝口万吉商店の三つ柏、三輪屋、タツミ等、続々とマークが台頭してきた。
この頃から卸業者が小売店を回るようになってきて、小売店の仕入れに供する展示会が流行り始めた。
大手の三輪屋さんが初めてデザインコンテストをするなど新しいスタイルの展示会が流行り始めた。この頃ダイヤモンドに10割の課税がかけられた。この頃から組合が充実して、撤廃運動の声が上がり始めた。

昭和11年頃貴金属地金の白金の相場が安かった。当時は地金協会のメンバー(徳力、田中、石福)は、白金の将来性について「こんな安い価格で止まっているわけはない」と説明していた。白金の用途は、工業用で、特に軍事用での扱いが多かった。

大正12年、当時の浜口内閣当時、ダイヤモンドに10割課税が決められた。
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■明治26年に創立した「日本金工協会」が組合の草分け的存在 ■2016年11月24日 木曜日 14時1分10秒

明治時代の貴金属業界

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 貴金属品とは、金、銀、プラチナ等の素材をもって作られた美術、工芸装飾品を総称したモノを言い、その業者団体の創生は明治時代であった。
明治26年に創立した「日本金工協会」が組合の草分け的存在だった。メンバーには、美術工芸家の海野勝E、海野美盛、豊川光長、塚田秀鏡、船越春E、平田宗幸、黒川義勝、桂光春、香取秀真、平山寛亭。販売業者は、小林時計店、服部時計店、天賞堂、玉宝堂、大西白牡丹、村松本店、玉屋などがあり、会長には金子堅太郎伯、副会長には美術学校の正木直彦学校長、名誉会長には宮内庁の技官と三井財閥の人が就任している点から見ても、貴金属そのものが高貴で特殊な愛好品であったことがうかがえる。
この「金工協会」は毎月上野で開いた例会に天皇陛下の臨幸があったほどである。
大正3年9月13日、東京貴金属品製造業組合が設立された。初代組合長には山崎亀吉が大正14年まで、二代目が細沼浅四朗、三代目:久米武夫が就任したが戦争によりその姿は変えている。当時の組合員数は67名、賦課金として月額5円、3円、2円となっている。役員には、久米武夫組合長、▽副組合長=松山繁三郎、溝口万吉、▽名誉顧問=伊沢栄太郎、細沼浅四郎、山崎亀吉、▽参与=池田嘉吉、田中一郎、高木新次郎、野村菊次郎、黒川義勝、村松伊助、宮本庄吉、鈴木喜兵衛、▽評議員=加藤清十郎、梶田久治郎、巽重雄、谷口加良俱、中村善太郎、越村暁久、後藤清貞、喜多村保太郎、三輪豊照、水野伊三郎、森岩吉、世木延七。
組合の事業としては、設立早くも産業組合を設け、大蔵省に米貨の払い下げを受けて地金商と業者間の地金配給上の円滑化を計る自自統制を陳情している。大正5年、細沼浅四朗組合長時代に金位検定事業を推進、東京商工奨励館内に東京貴金属検定所を設置し、金品位の保存に努め、昭和4年造幣局に移管した。引き続き昭和14年、まで金地金の配給事業を行った。なおこの組合は、昭和15年東京貴金属工芸品卸商業組合に改称、中村善太郎氏が初代理事長に就任したが、途中解任され、松山繁三郎に代わり、東京貴金属装身具卸商業組合に改称した。
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■明治・大正・昭和『業界三世代史』 ■2016年11月24日 木曜日 13時54分38秒

初代代表である藤井勇二が私的感覚で綴って発刊したもの

 この書は、本紙(時計美術宝飾新聞)の初代代表である藤井勇二が大正15年5月に時計、貴金属を主軸に蓄音機、眼鏡、徽章、喫煙具の専門紙を創刊、新聞が業界に生まれて40年になった昭和40年11月、明治から大正、昭和にかけての業界事情を『業界三世代史』と称し、私的感覚で綴って発刊したものである。著者は発刊当時65歳。96歳で永眠した。
 この間社会現象としては、昭和6年に勃発した満州事変から支那事変を経てついに第二次世界大戦という人類未曽有の悲惨な苦難時代に遭遇した。続いて大正・昭和にかけてのどん底景気時代から戦時中の七、七禁令や奢侈品などへの十割課税を一挙一割に引き下げる運動など、様々な情報が記載されている。発刊から40年という記念するべき年に、筆者が体験した諸般の記録や資料に基づき三世代にわたっての業界歴史の収集に努めたもの。
今後の業界に役立つものとして掲載する。
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■新コラムスタート ■2016年8月12日 金曜日 15時43分30秒
新コラムスタートします。

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