ジャンケンポンよ「アイコ」でしょ。女も男も「アイコ」でしょ。生命と生命は「アイコ」でしょ。

日本人はすばらしい感性を持っています。そのひとつが「バランス感覚」です。
勝と敗だけでなく、表と裏だけでなく、右と左だけでなく、そう、ジャンケンポンのあの「アイコ」でしょ感覚。これからの時代のキーワードになるかも知れませんね。



謹んで新年の御慶びを申し上げます。さて。

新年に当り、象形文字ならぬ「たかの式性形文字」と勝手に命名した文字をご披露させて頂きながら、思う処のあれこれを書かせて頂く。
あらゆる面で人間は、地球上の生物の中で特別な存在として君臨している。仕方なかろうとも思うし、努力の結果と言われればその通りであろうし、なりゆきと叫ばれればそうかも知れないとも思う。
村を造り、町を造り、社会を造り、国を造り、神を造った人間は、確かに特別な存在と認めざるを得ない。

ところが問題は、その特別の比重の度合い「特別度」である。過剰なる「特別度」が、さまざまな方面で宇宙が与えし均衝の大地を突き破り、マグマとなって火柱を上げてはいまいか。どうもその辺りが気になる。そのマグマのスケールは、小さいものから、中くらいのもの、大きなものまである。種類もさまざまであり、弱い生物を滅亡の危機に追いやり、これは守らなければならない種であると叫ぶとか、自然環境がとか、いじめの問題とか、街角のこぜり合いから凶悪犯罪、果ては戦争まで、まあ人間は驚くほどの「特別度」を発揮している。

どれもこれも人間が勝手にやって勝手に困ってるだけの話じゃないんですか。個の「特別度」もあれば、種の集合体の「特別度」もある。この「特別度」は、最近口にする「ジコチュウ」自己中心思考にも似ている点がある。人間は「ジコチュウ」なんですかね。それも極めて他に迷惑をかける「ジコチュウ」と言うべきか。

虎だってライオンだって亀だってミミズだって「ジコチュウ」だ。だけど、ここまで他に迷惑はかけない。また「特別度」は、「本音度」とも近い意味合いを持つ。社会とか集団には、本音と立て前のバランスが必要だ。むしろ社会は立て前で成り立っていて、どこまで本音を出せるか、言えるかのサジ加減であろう。「本音度」を高めて豊かになればそれにこしたことはないのだが、なかなかそうはいかない。

社長、おれはあんたが気に入らない、なんて言いたくても言えない。上司とケンカして会社を辞めた人間を何人か知っている。だが、ケンカして上司が辞めていったという話は開いたことがない。
隣りの美人の奥さんに、好きです、なんて口が裂けても言ってはいけない。

「本音」とは実に耳ざわりのいい美しい響きを持っているから、誰でも受け入れたくなる。そこに大きな落し穴がある。「本音度」を高めたいのなら、まず、人間の質を高めてからでないと大怪我をする。子供は本音を出すものであり言うものであるから、幼稚園に始まって小学校中学校と、そこで社会性である立て前を学んでいく。家庭の躾の中で「立て前の美学」を教えていく。と言いたいところだが、幼稚園や学校や家庭でも、もはやそんなことは教えない。立て前に美学なんかあるか。立て前なんて、なんか嘘の固りみたいで気持ち悪い。これでは社会は成立しない。

立て前のすぐ横には「ガマン」がいるのである。ガマンの大切さを知らねばならない。アメとムチ。これが必要。アメばかり与える大人がいて、アメばかり食べている子供がいれば、そりゃ社会にはひずみが起る。 親にも学校にも、つまり大人たちに、子供に対する愛のムチがない。愛のムチなんか知らない大人もいる。愛のムチがない上に、なにやら愛さえ失いつつあるのではないか。



■ つづき ■


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