HOME|管理|一覧 |
▼F.H誌を読む(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
|
|||
―不況対策 準国営化の試み 小谷年司 一七九四年のフランスは大革命後七年目で、前年にはルイ十六世に続いて王妃マリー・アントワネットをギロチン台に送り、極左派が議会を専有した頂点の年だった。主導者は狂信的な革命家のロベスピエールで、政敵となると、右も左も次から次と処刑し続けたので恐怖時代と言われている。しかしこの年の七月には彼自身も、たった一日の政争に敗れ、断頭台行きとなり、極左革命は鎮静化に向かう。フランス国内では、王党派の反乱は拡がっており、諸外国も革命が輸出されるのを嫌って、革命政府を倒そうと、フランス領土に攻め込んでいた。欧州内が不景気となっていたのは当然で、外国市場に頼っていた隣国のジュネーヴはその煽りをまともに受けていた。食べて行けなくなった多すぎる時計関係の職人をリストラして農作に転業させようとして、うまく行かなかったのは、これまでに述べた通りである。 一七九四年の終りに、政府の職人統括部門は、エボーシュ(基盤地板)製造を再編成し半国営化した。「国営基本ムーヴメント製造機構」である。最初は今も中央駅前の大きな通りに名を残しているシャントプーレに設置され、時計産業には大いに貢献したが、国には高くつきすぎて、一七九八年には閉鎖せざるを得なくなっている。 同じく一七九四年に考えついた苦しまぎれの対策は、真鍮製時計製造を開始しようとした試みであった。金に代えて安い銅の合金を使って、高価なせいで売れなくなった金時計に多大な資金を調達する必要を避ける方策である。とりあえず、失業保障といった施し金ではなく、仕事の対価としての正当な賃金を支払うことはできた。考え方は基本的に正しかったが、新規事業の手さぐりの試行錯誤に金がかかりすぎ、一年で撤退することになる。 失業対策に頭を悩ました政府は巧妙な方策を考えついた。これは二十世紀初頭の不況時にもジュネーヴ及びスイス連邦が採用して効果のあった方策でもある。一七九四年の時点でのジュネーヴ政府は、下請けの職人・職工に仕事を発注する商人やエタブリスール(組立完成業者)に低金利で資金を融通することにした。その目的は、と趣意書にはこうある。「もしもこの貸し付け金制度がなければ、商人達は万が一を怖れ慎重に考え過ぎて、販売に供する時計の数を控え目に見積り、最低限の部品発注しかしないだろう」。 貸し出し総予算二十万リーヴルのうち、一七九四年には九万七千リーヴルが、時計業十四社に実行されている。水門が開かれた感があって、外装ケース、宝飾品、七宝エナメルの職人や彫り師が競ってこの天の配剤に申し込むようになった。おそらく、貸し付け基準は、フランスにならって左傾化していた政府のことだから、愛国心や革命志向の程度によるものだったであろう。画家のサン・トウルスはエマーユ七宝画の名手としてその普及に貢献したことで三百ルイの融資を受けている。 一七九七年三月三十一日には政府財務局のファブリーク全体への貸付総額は四八万五千フロリンに達している。言わば国が時計及び宝飾業の所有者になった格好だが、今後の方針については、なすすべを全く知らなかった。「この金額が、国庫に戻ることは当面なかろう。ジュネーヴ共和国の国庫は無限の金脈と考えられているみたいだ。」と時の財務長官が悲観的な発言を残している。 当時では、部品や半完成品を集めて、完成品の時計にする過程をフランス語でエタブリール(確立)すると言い、その事業所や従事する人をエタブリスールと呼んだ。部品などはカウンター越しになされるので、事業所の別名はコントワール(カウンター)とも言う。だからこの時点で失業対策事業として組織は直訳すると「国立カウンター」とか「愛国的時計仕上げ処」となる。ヘンな日本語だが。この組織の経過には一番に興味深いものがある。 経営方針は、かなり前衛的な人々の間で討議され、特に「革命同胞クラブ」が主役であった。だが財政面での協力は金のある階級に頼まざるを得ない。援助を求められた金持ち側は、革命派からは暴力を振るわれたこともあるので一切耳を貸さない。一株百リーヴル、計八百株の応募先をどうみつけるのか。「革命派女性連合」が全員でたった一株の応募に応えたが、後は誰も続かない。全く手づまりになった哀れな現状に対し何人かの裕福な連中や、かっての貴族的富裕層までが同情的な態度を取るようになって来た。国家全体の利害に関する問題においては、冷淡な態度で処すべきでないという声明までが多くの署名入りで発表されるに至る。署名者の中には、以前登場したH・R・ド・ソーシュールの名もみられる。対立する政治的要素が合体して、かえって国家救済のための失業対策事業の傑作に結びついたと言える。言わば昔のニューディール政策と言って良い。 一七九三年の十月には、総株八百のうち七百株の応募があった。一月から稼動していた「愛国的事業所」は事業を継続進行することができるようになった。十月末には三千八百個分の時計を完成させるための部品の発注が四四九人の時計師に出された。時計師には五六二人の助手的働き手と、六四人のケース組立職人(ボアチェ・ボアートとは外装ケース)がついている。足すと、その仕事に従事する総人数は一〇七五人になる。かなり成果の出た数と言えるだろう。 しかし一方、同じメダルの裏側ということもある。部品を引き渡されたカウンターの向う側の事業所は、千個は売れても残り二千八百個の嫁入先が見つからなく、立往生となった。資本金は売れない在庫のために焦げ付き回らなくなった。もはや、新しく資金を導入するか、カウンターを止めるか、二者択一のジレンマに陥ってしまった。 個人投資家は、例えいくら愛国心に燃えていると言っても、それ以上の事業の進展は無理とみて、新規投資の意志をなくしていた。一方清算閉鎖は不可能であった。何百人もの労働者が職を失い、惨めな生活に追いやられる。悲惨な生活は反乱者の温床となる。救済案は当然国家に対しての要請となる。他に種々救済対策を講じている上に「愛国事業所」の破局回避が加わる。一九七四年以降、社会主義的な全面的な国営ではなく、準国営と言っても経営を主として政府補助金の形で助け、自主性を重視する方式が採用される。この傾向は次第に速度を増して行った。 |
|
|||
フランスの脅威 十八世紀末頃のジュネーヴのファヴリック(時計業)の人々は倹約を美徳の最善たるものとは考えてなかった。仕事が繁昌している限り、現世を大いに楽しんでいた。暗雲が地平線に立ちこめ始めたのを見て、贅沢の習慣のしみついてしまった人々はどうこの経済危機を切り抜けようとしたのか。 フランス大革命以前の一七八六年ぐらいから、すでに危機の兆候は現れており、欧州内の市場は収縮しつつあった。職人達は政府に度々陳状書を提出していた。外国人が親方になるのを拒否すべきで、減少しつつある仕事の機会を、ブルジョワと出生市民という上位二階級にのみ優先して与えるべきといった要請である。 すでに工房の親方の総数は過剰になっていた。「多数の親方は直接の註文がなく、辛くても仲間の下請けをせざるを得なくなっている」と一七八七年に時計ケースに機械を組み込むギルドが請願書に記載している。 そして一七八九年、フランス大革命が勃発する。人々の国外逃亡が始まり、革命につきものの通貨危機、革命期に政府が国家資産を担保にして発行した紙幣、アッシニアの下落などで破産する人が三人に二人にもなった。この余波は他の贅沢品産業に対してと同様、時計産業にも押し寄せて来た。一七九二年にはフランスと革命に反対する諸外国の戦争が始まる。戦争は、僅かの休止期間があったものの長く続き、一八一四年から一八一五年にかけて終息するまでに、欧州全体の古い体制が引っくり返ってしまった。つまり、革命から始まって、ナポレオンが出て没落するまでの歳月である。 かくて、すでに小さくなっていた重要な欧州市場は次々と消滅する破目となった。註文の少なくなったジュネーヴのファブリック内でも、倒産の連鎖が発生した。たとえ、仕事が少しあっても、手取りは驚く程少ない。多くの人々は失業者とならざるを得ない。対策はどうするべきか。ファブリックの職人や工員の数を減らせばどうか。現代のリストラである。それはあくまで理屈にすぎなくて現実にどうすれば実行可能になるのか。往々にして突飛なアイデアだったが、いろいろな計画案が次々と提出された。 革命初期のパリでは「デュシェーヌ親父」という一種べらんめぇ口調で書かれた絵入り新聞が大人気で過激な革命気分を煽り立てていた。ジュネーヴでも「仲間たる親父ペレの意見」という新聞が一人のカビノチェの手で発行されていた。いわゆるアジビラである。パリのを真似た、地の人の言葉の激しい文体で、ファブリックの連中は畑仕事に追いやれと試案を出している。「百姓の数は減るだろうから、することは今よりあるだろう。何もしなくてぶらぶらしていることはない。」だがペレ親父の意見に忘れ去られている事実が一つある。土仕事に戻れと言うが、この狭いジュネーヴの領土内にどれ程の土地が残っているのか。 一九九二年にフランスはサヴォア地方を併合して、ジュネーヴを完全に包囲するようになり、占領化の意図が現実化しつつあった。まず抵抗の牙を抜くために、経済封鎖を行い、食糧、生活必需品の入るのを差し止め、商品の出るのを押えた。孤立は国内が廃墟と化すことを意味し、ジュネーヴは独立をすぐに諦め、降伏するかと思われた。だが一七九三年になっても、飢餓に瀕しているにもかかわらずジュネーヴは断固として開城しなかった。 少しでも食糧を得て、悲惨な状況を打開するべく、政府はジュネーヴ共和国内の田舎に散在する未開墾地の利用に乗り出す。一七九四年の法令では、殆どが細分化された土地だが計三二四ヘクタールが利用可能と見積られている。各地で質素だが快適な家屋を建築するコンクールが開始され、土地を優先的にあてがわれるのは多くがカビノチェであったが、前渡し金、農器具、種子、乳牛などが提供されることになっていた。だが大地へ戻ろうというこの壮大な計画は一切の成功をみなかった。街中の生活に長年親しみ慣れた職人を百姓に変えるのは困難で、物質上と心理上の障害は乗り越え難いことが判明しただけであった。武士の商法といったところか。 その代わりもう少し地味な対策で我慢することになった。市中に近い城壁、といってもその足元に拡がる斜面が耕地に利用できそうだと気付かれる。そこを方形の小さな家庭菜園みたいに分割して分配することを、一七九三年と翌年に政府は布告している。分配先は主としてファブリックの失業者であった。権利を得た者の義務として一定量のポテトを栽培するよう定められた。ポテトは多産で、狭い場所でも植え付け可能、しかも栄養価高く空腹を満たすに最適の食材であった。ところがペルーから移植されて百年以上経つのに、まだ多くの人が健康に害があると信じていた。この偏見を打破したのが、パルマンチェというフランス人の薬剤師で、この時代の人である。当時のポテトの別名はパルマンチェの塊茎と称された。現在でもメニューにパルマンチェの名があればポテト関連の料理を指す。ただまだポテトの効用が確立されてなくて、日常の食べ物にしようとする人々と悪魔の食べ物という迷信にとらわれている人々との論争は続いていた。これはポテト栽培を進める政府の先見性を示すエピソードであった。十九世紀の半ば、アイルランドのポテトに病原菌が拡がり、大飢饉となったことはよく知られている。長く続いた偏見の残像があるのか。ポテトをパンに代えて主食とするのは貧しい人々であった。ゴッホの「じゃがいもを食べる人々」という初期の作品はその状況を証明する。 話は外れてしまったが、菜園区画の権利を得た人々は、すぐに自分のものだとする所有本能が働くのか、柵囲いを作ったり、生垣や溝で境界を作り始めた。いつ戦争が始まるや解らない緊迫状況下なので、敵襲に備えねばならない。城壁下の斜面地に障害物があると防衛にさしさわるのではないか。早速お布令がでて、あらゆるおかしな境界線は取り払われることになった。この菜園の経験はそれなりに成果を生んだようで、一七九八年のナポレオンによって併合されるまで続いた。 実戦の損害なしの屈服ではあったが、傘下の独立国としては認められず、ジュネーヴはフランスの一県となる。完全フランス化するにはナポレオンはいろんな国を占領していて忙しく、軍用金を徴集するだけでかなりの自治権を許していた。ジュネーヴが主権を回復し、同時にスイス連邦の一員となるのはナポレオン没落後の欧州再編成が討議されたウィーン会議の結果であった。 |
|
|||
「ジュネーヴの時計製造」コンスタンティノープル 昔から人々の往来が交錯する土地には市が立った。日本でも二日市、八日市といった町にその名残りがある。ジュネーヴ製の時計の主な売先は市の立つことで知られた町々であった。イタリアのアレッサンドリア、リボルノ、ジェノバ、ヴェネチアの市にジュネーヴ人はよく商売に出張していた。ほぼ全てが地中海に面していて、海の向うのオリエント諸国にも開かれた港町である。フランスでも、ランス、ルーアン、トロワ、オルレアン、リヨン、パリの城門に近いサン・ドニのルランディといった町の有名な市でも、ジュネーヴ人の姿が見られた。特に、北のノルマンディの岸壁地方のギブレイとかである。ここと南仏のヴォーケールは馬喰市で特に名高かったが、ヴォーケールを通じて地中海沿岸地方をカバーできた。時計商人は近場のスイスのズルザッハ、オーストリアのリンツの市を見逃さなかった。 しかし時計の需要が活発で高かったのはドイツの市であった。ブレスラウはポーランドとモスクワに通ずる市で、ダンチッヒは北国とスカンディナヴィア諸国へ。他の市を圧倒し、断然力のあったのはフランクフルトであった。このマイン川沿いの大都市には、十から十二のジュネーヴ商館の出張所が常設されていた。 ドイツやヴォーケールでの市の開催日が近づくと、ジュネーヴ市内は熱気に包まれる。急いで商品群を揃えなくてはならない。日頃はのんびりと仕事をしている工房のカビノチェ達(職人)も残業を厭わなくなって仕事に励む。十八世紀のビラに「市にどやされ、せっつかれ、飛び上がって野良の節句働き」と書かれた風刺画が残っている。 このような臨時開催の市ばかりではなく、ジュネーヴの時計業には、常時製品販売のできる重要な、いわば植民地があった。ジェノバ、ルーアン、マルセイユ、パリ、ロンドン、トルコのイズミール等々。ジュネーヴ出身の時計師のファジィ一族の数人は十八世紀のモスクワに住んでいた。 その時計植民地の中でも一番有名な場所はコンスタンティノープルである。一四五三年にオスマン・トルコ帝国によって落城したこのビザンチン東ローマ帝国の首都は、すでにイスタンブールと改名されていたが、ヨーロッパの人は三百年近く経っても5昔の名称で呼んでいる。懐かしさのためか、いつか取り戻そうとする思いか、いずれにしてもキリスト教世界とモハメッド教世界との相克の根は深い。オスマン・トルコ帝国全土からペルシャに至るまで、ジュネーヴの時計や宝飾品が二世紀にわたって流通していくのを確保した都市がコンスタンティノープルであった。一六〇二年にはすでに時計職人の親方が徒弟をつれて、ボスフォラス海峡の両岸に拡がるこの町を訪れている。一六五二年にはあんまり多くのジュネーヴ人が住みつくようになって、異教の地であるのを良いことに気ままな生活に走りすぎる若者達を監視規制するべく、ジュネーヴ教会は、指導する宣教師を派遣せねばならなかった。一七〇九年には五十人のジュネーヴ人が、サルタンの都に住んでいた。一七二五年には八十五人。一七三七年にはその数、百六十人に達した。現地の職人の親方は必要とする徒弟や助手を出身地のジュネーヴから呼び寄せるのが通例であった。 地中海の旅は危険に満ちていた。嵐で破船といった海難事故もあれば、海賊の横行もあった。積荷をねらうだけでなく、船をまるごと強奪したり、乗客、乗務員を異国の奴隷市場に売り払ったりする。そのために、雇用契約は前もって来航者が有利になるよう公証人による証書にして作成されていた。マルセイユからボスフォラス海峡までの船旅で「神の加護願うも空しく、蛮族の虜になりし際は身元引受人の親方が身代金を払うべし」と証書に記されていた。 時代が下るにつれ、危険は増す一方だったにも拘らず、本国からの人材調達にはこと欠かなかった。世間は神秘に満ちた異郷コンスタンティノープルの魅力を讃美してやまないので、行ってみたいという願望の方が勝っていたためである。家庭持ちの時計職人の中にも、冒険心にかられて単身で渡ってくる者もいた。サルタンの都に単身赴任の親方は、偶々帰郷する同郷人をみつけると金を払って留守居を守る妻への便りを託した。一番有名な例は時計師イサック・ルソーの手紙である。のちに偉大な思想家として欧州中に名を馳せることになる息子のジャン・ジャック・ルソーは多少の虚栄心から、ジュネーヴ市民であった父はサルタンの宮殿のおかかえ時計師だと言っている。この場合の市民は普通の意味ではなく、ジュネーヴに存在していた四階級の最上階級で、時計職人の親方になれる身分を示唆している。しかし父の仕事の現実は、ボスフォラス海峡にのぞむ街に住んでいた同郷人同様にジュネーヴ製の時計を修理したり再生したりの日々であった。父のイサックがトルコに向けて出発した時はすでに一児をもうけていた。妻の強い願いの便りで故郷に戻って来たが、その後で生まれた息子は自伝「告白」で苦々しく回想している。「父は何もかも捨てて帰った。わたしはこの帰宅がみのらせた悲しい果実である。十か月経って、わたしは病弱な子として生まれた。わたしが生まれたために母は死んだ。こうしてわたしの誕生はわたしの不幸の最初のものだった」。 余談になるが、ルソー一家は時計師の名門であった。ジャン・ジャックが哀しみを込めて美しく教養のある女性だったと涙ぐむ見知らぬ母の実家も時計師だった。四代前のディディエ・ルソーはパリ近郊の出身の時計師だったが、職人はおおむねプロテスタントなので、カトリック側からの圧迫を嫌って、一五四九年にジュネーヴに亡命している。その息子がジャン、次の世代がダヴィド、そしてイザックという家系である。これら一族の製作した時計はルーヴル美術館を始め、欧州の多くの美術館が保存しているので、注意して探せば今でもお目にかかれる。 ジュネーヴの時計産業(ラ・ファブリック)は絶大な努力で開拓した諸国の販路のおかげで、一七五〇年から一七八六年に絶頂期に達している。ところが一七八九年に勃発したフランス大革命が全欧州に激震をもたらし、経済どころの騒ぎではなくなった。当然「ラ・ファブリック」をおそるべき危機に陥れることになる。それにしても、フランス大革命への気運を一番醸成したのは、時計師になりそこねたジャン・ジャック・ルソーの思想だったこととは皮肉な話である。 (終) |
|
|||
小谷年司 十八世紀の終わりには細かい分業から成り立っている時計作りをシステムごと外国に移植しようとする試みがいくつかあったが、結局実現はしなかった。そんな動きはあったものの、ジュネーヴ内での時計業は年々着実に発展し続けていた。勿論、度々の難局を迎えたが、その度に乗り越えることができた。 ここで、厳格な正確さには多少問題があるにせよ、その情勢を推測できる数字を挙げておく。ジュネーヴ市長だったモーリスは一八〇五年に、時計業に携わる人数が一七六〇年から九〇年にかけて約四五〇〇人いたとみている。あるフランスの史料によると一七八三年と八四年の両年には、市内及び近郊ではあるが、フランス領のジェックス地方やフォシニーで、時計業に約二万人の人々が働いていたと確認している。時計の地板作りと、そこから少し進んだ基本的なムーヴメントの制作にフランス側で約六千人が従事していた。現代でいうとエボーシュの生産と言ってよい。一方、時打ちの鐘とか文字板はまだスイス連邦に入る以前のプロシャ領だったニューシャテル公国内で二千人が従事して制作にあたっていた。ジュネーヴで仕上げられる時計の下請けである。 一七八八年のジュネーヴ国勢調査によると時計業では成人男子二六八五名が働いていると報告されている。しかしこれに見習いや、未成年の手伝いや女性の人数を加えなくてはならない。ほぼ同時代人にジュネーヴ近郊生まれの高名な地理学者というか地政学者に、オーラス・ベネディクト・ド・ソーシュールという人がいた。この権威者が、ここから、時計業には三千人が雇用されていたとみなしている。時計業以外を含めたファブリック全体で五千人が働いていたに相違ない。当時のジュネーヴの総人口が二万六千人ぐらいだったから扶養家族を考慮に入れると、人口の中で大多数を占めていたことになる。ちなみに、現在のジュネーヴ市の人口は二十万人弱、スイス国内全体における時計産業の全雇用者は、景気によって前後するが、五万人弱というところだろう。 十八世紀の後半といっても、いまだに欧州全体では、王と貴族と僧侶が社会を取り仕切っていたアンシァン・レジーム(旧体制)の時代であったが、商人、法律関係者、文筆業といった自由業、つまりブルジョワジーの台頭もめざましかった。一七八九年に起きたフランス革命も、ふつうの日本人の目からみると、ムシロ旗を押し立てた大がかりな農民一揆の成功に似たようにみえるが、主役は一般市民ではなくて、これらのブルジョワ階層だったとするのが、定説である。 ブルジョワ階層の中でもとりわけ商工業者を理論的に勇気づけたのは英国の経済学者アダム・スミスであった。人々が自己の利益のために働けば、それがそのまま社会全体の利益につながるとする楽観的な自由貿易論者であった。その影響を若い頃に強く受けたのが、ジュネーヴ生まれの経済学者ジャン・シャルル・シスモンディで、富は幸福をもたらすと言っている。ところがスミスよりも五十歳も年少だから、時代も変わり、後年には宗旨替えして、社会主義傾向が強くなったそうである。一八〇四年に、そのシスモンディは、「ジュネーヴのファブリック全体が繁栄していた時期は一七八一年から八六年にかけてであって、年間平均四百八十六万五千フラン相当の金銀や貴金属を、使用していた」と考察している。 時計作りにまつわる種々の技術が、それだけでジュネーヴにもたらす富についてもフランソワ・ディヴェルノワ(前出)はこう書き残すことができた。「ジュネーヴ人は多くの工房を支えるためや、ヨーロッパの全ての港に出店している商館のビジネスを確保するために莫大な経費を支出し続けたにも拘わらず利益は大きかった。それはさらに巨大な余剰金となってフランスに投資され、金利だけで毎年五十万スターリング・ポンドにのぼっていた。英国やアイルランドへの投資は別にしてである。これだけでも繁栄ぶりは明らかだろう」。 ファブリック(時計製造業)の成功は勿論、製品の質の高さに帰するが、同時に販売組織が優秀であったことにもよる。サヴァリィ・デ・ブリュロンの「商業辞典」(前出)によると、「そこが如何に遠方であろうとも、ヨーロッパ諸国が船をさし向けるような場所ならば、ジュネーヴ人を見ないことはない、政府派遣の通商担当官とか、あるいは代行の下働きであっても。又、ジュネーヴの多くの人々は通商のために船一艘をチャーターすることも辞さなかった」。ジュネーヴの商人達は大陸のあらゆる場所に連絡網を持っていた。 船に積み込む商品は、百貨全般に及ぶが、ジュネーヴ人は時計や宝飾品の場所を必ず見つけ出した。船の行く先は近東諸国、ペルシャ、トルコ、中国であった。トルコ向きには、トルコ趣味、中国へは中国趣味のデザインの時計が作られていた。 スイスは山国だから、湖上船はあっても、遠洋航海可能な船舶を持っていないのは当然である。海港の領土もないし、チャーター以外の方策はない。スイスの通商使節がオランダの商船に乗って日本に初めてやって来たのは幕末の開港後の一八五九年であった。この際のイニシアティブを取ったのは、ジュネーヴの時計業ではなく、大量に時計を作り始め新しい市場を必要としていたニューシャテル州のジュラ山中の時計業者の団体であった。ジュネーヴはどちらかというと、カビノチェの伝統を守って高価な時計、例えば華やかな彩色をほどこしたエマーユ七宝ケースの時計の方に軸足を移していた。 すでにジュラ地方には百ばかりの時計業者があり一八五八年に組合が結成された。今のFHを強力にしたような輸出振興策を活動の目的にしていた。その長になったのが国会議員のエメ・アンベールであった。第一次使節団は調査以外にさしたる成果なく帰国したので、アンベール自身が団長兼公使格で、一八六三年にオランダの軍艦に搭乗して来日、翌年まで滞在して、幕府との修好・通商条約の締結にこぎつけている。アンベールが滞在中の日本の印象を書きとめた「幕末日本図絵」は当時の日本を知る貴重な文献となっている。 さてジュネーヴに視点を戻すと、非常に高価で特殊な時計は蒐集家向けにまとめると、移動させるには、金はかかるが早い配送専用駕籠便とか、それより安い共同郵便馬車が使われたが、いずれにしろ気が遠くなる程時間がかかった。商人は町々の得意先を訪れ、宮廷にも出入した。フランソワ・ド・リックのようにマドリッドの宮廷で、大きな商いをしていたといった例もあった。 |
|
|||
小谷年司 戦略的に時計を中心とした産業(ファブリック)をそのまま アイルランドに一部転出させようとした計画もあった。その斡旋に立ったのがフランス大革命の大立物であり、一時は仏共和国の首相を務めたこともある稀代の雄弁家のブリッソ・ド・ヴァルヴィルである。ブリッソ派とも呼ばれた急進ジロンド党の領袖で、英国の支配下にあったアイルランドに肩入れをしていた。後年ブリッソは超左翼のロビスピエールとの政争に敗れて、ギロチンにかけられている。その助手格でこの計画を推進したのが、前述のルソーの友人だったフランソワ・ディヴェルノワで、アイルランドの副王(国王は英国王)にジュネーヴの産業について詳細な報告書を提出している。一方文才にも恵まれていたブリッソは、アメリカの独立運動に刺激され、「ジュネーブのフィラデルフィア人」なる政治文書を公刊して、ブルジョワ階級は故国を捨てた方が良いと進出を唆していた。一七七六年にフィラデルフィアではアメリカ独立宣言が採択されている。 当時のアイルランドの政治情勢は、英国の支配下にあったといえど実に混乱しており、社会全体が百%英国議会の決定に従っていた訳ではない。独立心の強い、武力で抵抗する領主もまだまだ多く存在した。それに、カトリック、プロテスタント、さらに英国国教会まで加わって宗教的党派の対立も激しかった。そのうえ民衆の小反乱が頻発して複雑を極めていた。そのゴタゴタは廿世紀にまで持ち込まれて、アイルランドが曲がりなりに独立したのは一九三七年、しかも北の方は英国領のままだったから、一応争乱は収まったにみえるが、問題はいまだに解決していない。 ブリッソが説くところによれば多くのアイルランドの領主が新移住者には土地を提供すると言っているし、ジュネーブ人には居住権が文書で与えられ、独自の文化的慣習を守ることも、法制の維持にも干渉しないから、自由で平和な暮らしが保証されていると楽観的である。さらに高等な教育研究施設であるアカデミーが将来設立される計画という。事実、アイルランド南部のウォーターフォードシャーには新しいジュネーブの領地ニュー・ジュネーヴの場所まで決定されていた。しかし、土壇場になって、英国本国はこの問題に関心を示さず、美しい計画は挫折してしまった。 なおこの計画に動いたディヴェルノワは、ナポレオンの没落後まで生きていて、欧州再編の各国の取り分をどうするかのウィーン会議にジュネーブ代表のピクテ・ド・ロシュモンの協力者として出席している。この会議でナポレオンのためにフランスの県にされてしまったジュネーブはスイスの連邦国の一つになる。また、二人は協力してスイスの永世中立条約を起挙し他国の許可を受けている。 もう一つの計画の方はほぼ一瞬ではあったが輝かしい成功に達しかけたことがあった。オーストリア帝国の皇帝、ヨーゼフII世、あのマリー・アントワネットの実兄だが、言わば開明君主で、ルソーの説く「自然に帰れ!」という自然を大切にする気運が世に満ちていた頃だから、農業を重要視していた。同時に、矛盾するようだが起こりつつある重商主義にも影響されていた。貴族や僧侶が直接手がけない分野だからだろう。 一七八五年七月三十日に発令された法律では、自領内の町、コンスタンツで、ジュネーブ人が時計製造のアトリエやら、インド更紗風のプリント工房を設立する際の諸条件が明示されている。コンスタンツは、現在、スイス、ドイツ、オーストリアの三国の国境になっている、美しいコンスタンス湖(ドイツ語でボーデン湖)に面した数々の風光明媚な観光保養地の一つに過ぎないが、かっては欧州の南北を結ぶ要路にあり、絹、羊毛製品の重要な産地であった。 この法律で、ヨーゼフII世は移住者には住民を容易に得る手段を提供すると言明している。従来の生活文化をそのままに移住すること、関税の特例の通用、兵役義務の免除、諸税支払いの不要をも保証している。あまりに有利な条件だったせいか、二年後の一七八七年には、五百人のジュネーブ人がコンスタンツに居住していた。居住区は、関連する仕事の職人が近くに住めるようにグループ分けされて計画的に作られていた。三分の二の住民が時計業であった。一七八七年に書かれた記録によると、「そこは一種の共和国で、自国の行政官を持ち、自国の法律があり、自国の信仰や儀式を持っていた」とある。 だが、移民達の特技やそれによる成功が、元々からの住民の嫉妬を買ったことは言うまでもない。そしてヨーゼフII世は崩御した。ジュネーブでも政治情勢が変わった。一七九二年にディヴェルノワ達保守派が政権に返り咲く。ファブリックを形成するブルジョワ階級の権益が守られることになる。移民達は、自分達の気に入る政府となったことを知りジュネーブへ帰国した。「移住者達は、新しくできた憲法を楽しみたいと願ったのだろう」という一七九三年に書かれた手紙が残っている。産業を丸ごと、ひとと共に移植する実験は、十八世紀の終わりで完全に風化することになった。ただ面白いのは、移住民のなかにベネティクト・デュフールという人がいて、一七八七年に、コンスタンツで生まれた息子が、ギョーム・アンリで一八四七年、六十年後に将軍となるかのデュフールである。この人物はスイス人にとって誰知らぬものはいない国民的英雄と言って良い。その伝記はスイスの本屋に行けば必ず置いてある。将軍に任命されたのは、スイス国内のカントンが、農民と都市住民の政治的権利の平等、職業選択の自由、ギルド(スイスではツンフト、あるいはコルポラション)の支配排除などを、認める側とそうでない側の戦いに、認める側の立場に立ったカントンの連邦軍の将として、反乱の連邦軍を撃破するためだった。デュフールの攻撃は迅速を極め、僅か一ヶ月以内で敵対するカントンを降伏させるに至った。しかも死傷者総数が約五百名だったという。この内戦の終結で真の意味でのスイス的連邦国家が成立したとされている。内戦にもカトリックとプロテスタントの抗争が深く絡まっているのだが、アイルランドのように仇敵感情があまり後を引かなかったのはスイス人の知恵というのか良識と言うべきか。 スイスは国民皆兵制で、永世中立国であることは世界中に認められている。常備軍は万一のために存在するが、戦いがある時にしか将軍は任命されない。その後、第二次大戦の際に総動員令が出され、将軍は選出されたが、ナチス・ドイツとの戦端は開かれなかった。デュフールは、実際に戦った最後の将軍であった。 |
|
|||
「ジュネーヴの時計製造」 十八世紀末のジュネーヴ国民階層間の身分闘争は激しい暴力沙汰の結果、平等が実現したものであった。二世代以上住みついて、なんらかの公職について、やっと市民とかブルジョワと称することができた。この選ばれた人達だけが、市政や有利な職業を占有していた。時計職人もその一つであって、これが下方からの不平不満となっていた。差別と弾圧の激しさに不平派の中には、内部の闘争を諦めて集団で逃げ出す人々もいた。我慢して多少便宜的な暮らしをするよりは、今の生活を捨てて危険を覚悟で亡命した方が良いと考える人がいるのも当然である。 ラ・ファブリック(時計業一般)が、地域にとって役立つという評判が集団亡命移住を容易にした。時代はまさに重商主義の勃興期で、君主の多くは新しい産業を自国に誘致しようと、時計職人に甘い入国許可や、著しい特権を与えるのにやぶさかではなかった。要するに引っ張り凧だった。国に役立つ産業には特例を与えるのが肝要とされるのは常識だろう。 自身はすでにエリート市民となっており、高名な時計師一家の出であったルソーは、時計彫刻の徒弟として修行中の十六歳の時に、突然国を捨ててフランスを放浪した。美少年でもあったし、頭もよかったので、目をかけてくれるお金持ちの夫人やその他種々の幸運に出会って、思想家として時代を代表する人物となった。多くの著作を残しているが、その基本的思考は、始めから一貫している。人間は生まれながらに平等であり、自由であって、同等の権利を持つという主張である。この点から、フランス革命の成立を理論と心情の面から用意したと言える。六十六歳でパリ郊外で没したのが、フランス革命の十年前にあたる。当時では、ルソーは危険思想の持ち主であり、一時は故国ジュネーヴでもフランスでも逮捕状が出ていた。ジュネーヴの階層間の争乱の頃は、ルソーはニューシャテル領に住んでいた。今でこそスイスだが、その頃は新興プロシャの飛び地領で、開明派のフリードリッヒ大王から滞在許可をもらっていた。ジュネーヴからは崇拝者と自称する人が多く訪ねて来たらしい。ルソーは大抵はスパイと用心していたが、なかには信用できそうな人もいた。その一人が、ニューシャテルの出納長の従兄弟のフランソワ・デイヴェルノワという男で、ジュネーヴの顔役みたいな地位だったらしい。一種の情報提供者としてルソーは接している。一七六八年に、ある機会を捉えてこの男に出した手紙のなかで、不平不満派のジュネーヴ人に出国をうながして、ルソーは書き送っている。 「こうなると最後の手段を取るしかありません。あなた方の手を同胞の血で汚すより、本来ならば自由の天地を護るべき城壁が、暴君の巣窟となったからには奴等にくれてやるべきです。みんなで出て行くのです。みんな一緒に。なにかの鎖にしばられなければならないのなら、少なくとも偉大な君主の鎖の方が、あなた方の同胞のいやらしい我慢ならぬくびきよりましです」。 特にジュネーヴに隣接する地方はこの国際都市の時計業に対抗できるセンターを創出する気は満々であった。この点に関しては後にフェルネやヴェルソワという地区で、ヴォルテールやジュネーヴ職人が試みた時計業について述べることにする。 近隣地区ばかりでなく、遠国でもジュネーヴの時計業を誘致する動きは多かった。政治的立場とは関係なく各国の元首から個人の時計職人にも声がかかった。例えば、フリードリッヒ大王の父のフリードリッヒ・ヴィルヘルム一世が一六八六年に、一七六五年には、ドイツ人だがロシアの女王エカテリーナ二世が時計職人を招いている。 ついでながらここで、スイス時計産業史の泰斗アルフレッド・シャピュイが一九三八年にローザンヌで出版した「フリードリッヒ大王と時計師達」に触れておく。ちなみに、シャピュイがE・ジャケとの共著で、一九五三年に出版した「スイス時計の技術と歴史」は不朽の名著と言ってよい。広汎な知識と、スイス時計産業への愛著で読者を今でも魅了する。 一七六五年以降、フリードリッヒ大王によってベルリンに招き寄せられたニューシャテルやジュネーヴの時計師達がどんなキャリアを送ったかを興味深く語っている。同時に、時計師達が一七八一年にベルリン郊外にあるハーヴェル河畔のフリードリッヒタルという地区に集められて、一種の時計団地を作ったが、うまく行かなかった失敗談もある。 前回で述べたように一七二八年のジュネーヴ階級争乱では、保守派のブルジョワ階級がとりあえず勝利したが、不満派は収まらず、小競り合いが絶えなかった。そこに、ベルン、チューリッヒ、サヴォア・サルデーニャといった近隣国が兵を出して介入し、その助けで市議会が勢力を盛り返した。ところがそうなると外国軍に占領されたようになった現状に怒ったブルジョワが本格的に国を出て行くようになった。コルノーはその年代記のなかで出国者は二千人に達したとみなしている。一七八二年に和解条令が発布され多くのブルジョワは間もなく帰還したが、そのまま外国に残った人々もいた。 時計職人達へのオファーはどれもこれもバラ色で魅惑的であった。ジュネーヴ職人への誘いかけは、スイスの各地ばかりではなく、神聖ローマ皇帝選定侯のプリンス・バーデン・ドゥルバッハや、ヘッセ・ホーブールの地方伯、ノイシュタット伯爵夫人、それにトスカーナ大公からもあった。遠くはアイルランドからもあったが、詳細は次号に譲る。 ジュネーヴで時計産業が興ったのは、十六世紀中期にカトリックから弾圧された新教徒が、カルヴァンの庇護を求めて逃げ込んできたのが起因である。商人や職人階級はほぼ新教徒であった。それがフランスでアンリ四世が即位して、ナントの勅令を発布し新旧の和平が成立したので、一応収まった。しかし孫のルイ十四世は強力な王政を確立し、ナントの勅令を反故にして、公に新教徒を差別したため再び亡命が始まった。一六八五年のことで、以後四十年間で六万人がジュネーヴに逃げ込んだとされる。 ジュネーヴ史では第二次避難と呼ばれるが、第一次からは百年以上経ってギルド制は整備されていたので、新しい競合相手は排除される。一部はドイツに又出て行ったが、残った職人達は、ギルドの管理体制の及ばない、不便なジューやジュラの山中で、しかもフランス語の話されている未開地で仕事をせざるを得なかった。一年の半分が冬で、屋内での仕事が土地の事情にもあっていた。これが定説だが、一方には人為政略的な時計業の移転もあったのも事実である。 |
|
|||
「ジュネーヴの時計製造」11 争乱の時代 一七八九年のフランス大革命からナポレオンが登場し没落するまでの僅か二十五年は、全欧州の古い社会構造を良くも悪くも根本から揺り動かしてしまった。ましてやナポレオンによって一時的にせよフランスに併合されてしまったジュネーヴの受けた衝撃は大きい。ここで大革命以前までのジュネーヴ時計産業を取り囲む社会構造をみてみる。 ジュネーヴの時計産業関係者は、独占意欲に満ち溢れていて、一寸でもジュネーヴでない要素が入ってくると徹底的に排除して、公正とは言い難い程かたくなであった。表立っては平等を宗とする小さな共和国ではあった。が、その市民組織構造は複雑極まりなかった。人々の階級が何重にも定められ、政治的にも経済的にも階級によって明白な格差が存在した。時には堪え難く、不当でもあり、常に争いの種になっていた。 階級の一番下は、「外人」及び一時的に移住している「仮居住民」で、市民の資格なしの扱い。その上が、政府から滞在許可証を発行してもらった「住民」で保護が受けられる。この「住民」にジュネーヴで子供が生まれると、やっと「出生住民」に格上げされる。この資格を子孫が何代か引き継ぐと、もう一つ上の「ブルジョワ」の仲間に入るチャンスが出てくる。「ブルジョワ」は市議会に席を得ることができる。そうなると息子達は立派な最上級の「市民」となり、市議会議員への選挙権を有するだけでなく政府の重要な職務や法官に推挙される資格を持つ。まるで東ローマ帝国でかって存在していたようなややこしい階級制度は経済にも大きな影響を及ぼしていた。「ブルジョワ」と「市民」階級は、所有する政治的特権を自分達の職業上の特権を得るために利用する誘惑につい負けてしまう。そのやり方は、カルヴァンの時代に、主としてフランスから多くの移民が来た、いわゆる「第一次移民」期から変化している。その頃のジュネーヴの階級意識はゆったりして自由であった。 「ブルジュワ」資格を得たい人間は税金を払わねばならなかった。十八世紀になると税は巨額となる。一六〇〇年から一六五〇年にかけては金貨千五百フロリンから二千フロリンへ。さらに一七〇〇年には五千フロリンに上り、一七五〇年頃には一万から二万フロリンと天文学的数字となる。この頃になると「出生住民」階級の数も増大しているのは、「ブルジョワ」に簡単になれないのだから当然である。一フロリン金貨は約3グラムの純金を含有している。 経済的観点からみても、「ブルジョワ」と「市民」は高度な商業活動、つまり時計産業を独占しようとする。軽くみなしている低度の職業を「仮居住民」や「住民」にまかせておきたい。石やレンガ積みの職人、石割り工、石膏職人の名簿を調べても、十八世紀中に一人の「ブルジュワ」の名前もない。「出生住民」は親が移民という点で外人要素はまだ濃いが、地元化して「ブルジョワ」と同じく、真正のジュネーヴ人と自身をみなすようになるが、経済的な権利でもほんの僅かしか与えられてなかった。 政治的な権利を持っていない階級に対する時計業のギルドの対応はどうだったか。最初の階級規約は、一六五一年のもので、ごくおだやかに「市民」と「ブルジョワ」だけが親方になれる、とある。一六七三年には一歩踏み込んで、この二つの階級所属者のみが、市議会が認可する特例を除いて、ギルドの一員になれるとしている。一六九〇年には「出生住民」は見習いにもなれないと規定している。「市民またブルジュワでなければ、何人も見習いとみなされない」とある。かくして十七世紀の終わりには、ジュネーヴ時計業は上位二階級の要塞と化していた。「出生住民」が、何らかの手段で市議会から特別認可を取り付けても、ギルドに入るには莫大な税金を払わねばならなかった。市議会政府の戦略も巧妙であった。政治的上位の貴族系は、何でも反対の「否認派」と称されていたが、経済面だけは、政治面での権力増大を忘れさせようとして、多大な特権譲歩をしてきた。「出生住民」に対してすらも、彼らの意を迎え、規定違反をしてまでも、ギルド加入を容認することもあった。その時々の政治情勢の微妙な変化に従って、バランスは左右に傾いた。 |
|
|||
機械化の始まり 小谷年司 元々ギルド(仏語ではコルポレション)は、個人個人の意向で成立した職人組合である。彫刻職人のギルドは一七一六年に結成され、市議会から認証されている。当時のフランスはルイ十五世の幼少期で、摂政のオルレアン公が国を事実上支配していた。その安易な貨幣政策は多くの贋金造りを各地で生んだ。ギルドを作れば、自国内や隣国ジュネーヴ市の彫刻職人の闇行為を防止できると考えたオルレアン公の意向に迎合したとみなされている。ただ、公の疑惑に正当な根拠があったか、正しかったかは判らない。だが、五十人ばかりいた彫刻職人はギルドの規定や管理に従わざるを得なかった。 職人仕事の分業化は次々と新しい分野を作って行く。時計作りの技術習熟でも分業化が進む。手作り時計が頂上に達するのは、一七八五年頃だが、その頃の規定では、時計を最後まで仕上げなくても、重要な部品、未完成の時計、文字板回り、時打ちの歯車機構などを作れば、親方になれる希望が与えられている。これらの専門職だと、修行期間は短くなり難易度も軽く、必要な知識も減少する。以前の厳格な親方の資格が甘くなってきたのも、成長して来た近郊の部品供給職人に頼らねばならない状況から脱却して自前で行きたい方策の反映とも言える。 宝飾貴金属の仕事でも細分化が活潑になっている。当時のサヴァリ・デ・ブリュロンの「商業辞典」によると、金銀の鎖のジュネーヴ職人は一七五〇年の時点で英国の職人に匹敵するし、ドイツ職人には勝ると記述されている。優秀な仕上げが認められ、宝飾業は大発展を遂げる。「完璧な趣味の良さが染み込んでいる」と前記サヴァリの辞典にある。十八世紀も後半になると、ジュネーヴ製の宝飾品全体の需要が高まって、一般の工房では、ギルドの内規によって職人の数は制限されているにも拘らず、無視しても見逃されるようになった。なかには五十人もの職人をかかえる工房すらあった。こういった自由化は当然危険を内蔵している。十八世紀も終わりになるとインチキの金商の宝飾品が作られたりして、過去の高い評判がゆらぐこともあった。 フランス大革命寸前、一七八八年に職人業の再調査が実施され、ジュネーヴのファブリック(時計製造業)内の分業の明確化が決定されている。金銀細工、宝飾加工、宝石製作、宝石カット、エマーユ七宝描き、ギョーシュ細工、時計組立て、ケース製作並びに機械組込み、針回りの細工、針作り、文字板作り、ピニョン歯車作り、時打ち鐘作り、冠形脱進器作り、バネ作り、磨き屋(女性も)、鉄の磨き屋、表面仕上げ屋、金箔塗り(女性も)、クロック作り、鎖作りの女性、蝶香作り、時計商人等々。十七世紀の初めから比べると、二百年でどれだけ分業が増えたことか。その後も工作器械が導入されて、大量生産のラインが始まると、分化はさらに進む。一八七〇年の時点で一つの時計を作るのに百人の専門職が必要となった。勿論現代では機械が分業を吸収するようになっているのは言うまでもない。 元々からギルド制はどこでも常に工房の拡大や器械の採用には抵抗するに決まっている。この反感には親方間で一種の平等を確立して、競争を避けようという意識が底にある。法令では、徒弟の数は一人又は二人、助手格の職人を一人又は二人と決められている。原則としては五人で仕事をする訳だが、ファブリックが需要に応じられぬ程の好況期に出会った一七八五年の法令では、例外的に助手を三人まで使うことが許されていた。この時期は先述したように宝飾業も大受けに入っていた。 十八世紀に発明された工作器械は、仕事に速さをもたらすことは誰でも解ってはいた。だが職人達は市議会と掛け合って、歯車や各部品を制作するに当たって、これがあれば早く作れる打ち抜き、切断、プレスする器械や、ゼンマイ・バネの製作器械の使用禁止令をかち取っている。十八世紀後半になると、英国ではジェームス・ワットが蒸気機関を発明して産業革命が始まっている。フランスでは百科全書が出版されて、種々の機械に関する実用的な知識が多くの人に行き渡る。一七九五年に器械を導入した工房では六十人の職人が危うくパンにありつけない状態に追いやられたケースもあった。カビノチェ達は時々激しい行動に走る。同時代の英国の労働者の真似をしたのか、怒りにかられたあまり、器械の打ち壊しに及んでいる。最初の打ち壊しは、一七九四年に小さな工房の手作業中心の作業場で起こった。器械を使ってムーブメントの基盤となるエボーシュを作ろうとしたのだった。胎児みたいな初歩の器械は市中で仕事をするカビノチェに直接打撃を与えた訳ではない。それ以前に、ジュネーヴ近郊と言ってもよいフランス領のジェクス、クリューズ、シオンツィエといった町でエボーシュを作ってジュネーヴへ納めている下請け業者にとって痛手だったのである。特にジェクスやフォシニーという地区は、兵隊にかり出される若者が多く、人手不足で、注文に十分な対応ができていなかった。同地区に一七九五年に似たような工場が始業したが、既存の工場も加えて三ヶ所共、相呼応するかのようにつぶれてしまった。 いくら職人が反対しても、器械は入ってくる。産業革命の大きな流れには抗し切れない。ギルド制が立ち行かなくなるのは時間の問題であった。ギルド制の消滅は、工作器械使用の法的障害を取り除いた。十八世紀ではまだ非常にゆっくりと新発明の工作器械は用いられて行くのだが、将来には、ファブリックの全システムを破滅に追い込まざるを得なくなる。 カビノチェという言葉が出たので、この言葉はジュネーヴだけで通用する言わば方言なので、時計関係者必携の一九六一年に初版の出たベルナーの時計辞典の説明をかかげておく。フランス語、英語、ドイツ語、スペイン語、四カ国併記なので便利だが、日本語も欲しい。時計術語は特殊すぎて、どの言葉でも解りにくい。 「カビノチェ」 ジュネーヴでは、職人達はファブリックのためにカビネット(往々階上の小部屋)で仕事をした。カビノチェとは必ずしも時計職人ではなく、宝飾細工師でも彫り師でも宝石研磨工でもそう呼んだ。要するにファブリック内の職人であればよかった。カビノチェの性格は、一般に直情、辛辣で知られる。 |
|
|||
言うまでもないが、時計製造には二つの基本要素を必要とする。一定の速度を確保する振子とかテンプの類、あるいは一定に振動する音叉とか水晶とか。一方にはそれらを動かすエネルギーも必要で、錘、ゼンマイ、電気の類。電気系は動力の保持は簡単に理解できるが、機械時計の錘やゼンマイは、放っておくと力が一挙に解放されてしまう。エネルギーを溜めて少しずつ出させる工夫がいる。そのために人間は脱進器という絶妙の機構を発明した。エネルギーをぼちぼちと言わば間歇的に制止しながら供与することが可能になったのである。初期のは冠形脱進器と言われるものだが、和時計は全部この機構だから、どこかで御覧になっていただければ、単純だけど実に巧い工夫だと感心されるだろう。この機構のついた時計は十一世紀頃からあるとされ、年代が下るにつれて小型化されて行き、携帯可能な時計になる。但し精度は頼りなかった。振子の等時性はガリレオによって発見されたが、時計への応用はホイヘンスの功績である。振子は精度をもたらすが、振動に弱いし、長さが要るので、室内用の時計に使えても、携帯用には使えない。懐中型の小さな時計が正確な時を刻むようになったのは、現在のようなテンプとアンクル脱進器の登場以後であって、十八世紀の後半と言える。古い冠形脱進器と棒テンプの組合わせではいくら小型化しても、精度の点で分単位の表示は無理で時針一本の表示であった。分針を加えて二針にしたのは、大体一六九〇年頃、英国の時計師ダニエル・クェアだとされている。二針が一般的になるのは十八世紀の初めであり、針の動きを保護するために文字盤をガラスで覆うようになるのも同じ頃である。 時代はだいぶ遡るが、すでに十六世紀においてジュネーヴの時計製造は順調に発展していたと言える。当時の時計ケースは全くの宝飾品で、そこに時計職人が機械を組み込んでいた。宗教改革期のジュネーヴでは、かって重要な産業の一つであった、ミサとか典礼に使用される宗教儀式用の宝飾品のような器具の制作が一切禁止された。「カトリックの法王庁や偶像崇拝の礼拝に使用される十字架、聖杯、典礼用器具の製造を禁ずる」という布告が一五六六年に出されている。突然制作を禁じられて、宝飾職人達は需要の大きかったフランスやサヴォイの得意先に売れなくなってしまった。それで仕方なく時計のケース作りに専念せざるを得なくなった。本来ならば技術が消滅するところだったが、この事情が時計作りに有利に働いたと言える。 力がついてくれば、権利を主張したくなるのは当然である。宝飾職人と時計職人はお互いに結束して、自らの職業領域を正確に規定法制化してもらって権益を確保するようになる。一六〇一年、ジュネーヴ市参事会は関連業者の請願によって、時計職人の職業的身分に関する法規・法令を承認する。内容は一五六六年に宝飾職人に対し認められたものとほぼ同じで、一、二の追加事項があるにすぎない。 第一条にはこうある。「会合はまず神への祈りで開始されなければならない。参集者は神の照覧の元、神の栄光を汚し、市の発展と利益を忘却することなきよう、神の善導あらんことを祈願すべし。」 実際的な規定では、徒弟の修業期間は五年間で、親方は一度に一人の徒弟しか取れない。宝飾の親方は二人だから厳しさは倍になっている。同じ様に競争を制限する意志が働いていて、徒弟期間が過ぎても、若い職人にはもう一年御礼奉公が義務として課せられていた。それからやっと、親方免状を得るための免状取得作品(ギルドでは「傑作」と言う)の、懐中時計か置時計のどちらか一点の制作にかかれるようになっていた。 このような身分制の確立によって、ジュネーヴの時計製造は強化され、新しく発展するようになる。その評判は十七世紀に入って高まる一方だった。 一五九八年、フランスでは傍流だったアンリ四世がナヴァール国から王位について、本人は新教徒だったのに、いわゆるトンボ返りをして旧教に改宗する一方、国内の新教徒を認める折衷案で、両派の戦いが一番激しかった内乱が一応収まった。この有名な「ナントの勅令」 で平和が戻ってきた。 フランス、ドイツ、イタリアではリヨン、ボーケール、フランクフルト、アレッサンドリエといった市の立つ都市から出てくる商品で溢れるようになってきた。スイスに新教徒として逃げ込んできた人々が先導者となって、これら亡命者達との故郷とのつながりが復活したことが、この商流発展の小さくない要因となっている。 ジュネーヴの人々の積極的果断さが良く出た例がある。一六〇二年、地中海を渡る危険を冒して、一人の時計師が時計部品一式を持ってイスタンブールに上陸した。遺っている公正証書によると、徒弟を一人同行させる約束をしているので、その若者と一緒だったのであろう。証書によると、もうすでに老齢となっていたカルヴァンの後継者、ジュネーヴ教会の主導者テオドール・ド・ベーズの部下だったアントアーヌ・ド・ラ・フェの甥とある。 同じ年に同じジュネーヴ人で、ブラウスやカラーを作る職人が、このボスフォラス海峡に面した以前のコンスタンチノーブルに上陸している。後にこの都市で、一種のジュネーヴ植民地を形成する先駆者だった。イスタンブールでのめざましい成果と繁栄が、次にジュネーヴのファブリック、特に時計製造が近東諸国を通り、ペルシャ(イラン)まで浸透して行く道筋を確約することになった。 哲学者のルソーが代々時計師の家業であることはよく知られている。ルソーの伝記を読むと、父のイザークは家族と離れて、五年以上もイスタンブールへ単身で行っていたと言う。トルコとヨーロッパは宗教も対立しているし、政治的には常に敵対関係にあったかに思える。居心地は悪かろうと思うが、そうでもなかったらしい。オスマン・トルコがコンスタンチノーブルを落城させ、東ローマ帝国が滅びたのは一四五三年である。その二年前にはハンガリーに侵略し、ウィーンも危うく占領されそうになった。ハンガリーはその後、百四五年もトルコ帝国である。ところが敵の敵は味方という訳で、フランスはあろうことかハプスブルグ憎しの一念でトルコと同盟を結ぶ。そのせいで、トルコはフランスに治外法権を与えたが、ジュネーヴもその時に一緒に得ている。その史実を知って、植民地というより、同国人が固まって暮らしている租界みたいなものかと、中国天津の日本租界で育った私には納得が行った。 |
|
|||
シャルル•キュザンのこと︲ 小谷年司 俗説では懐中時計の発明をニュールンベルグの時計師ピーター・ヘンラインによるものとしている。いわゆる「ニュールンベルグの卵」と呼ばれるが、玉子とは関係なくてドイツ語の小さな玉子(アイアライン)と小さな時計(オイアライン)が混同されたらしい。玉子型の時計も制作されたが、時代は少し後である。ただドイツだけで、時計の小型化が進行していたのではなく、フランス、イタリア、英国でも携帯できる時計はできていた。ヘンラインは一五一〇年頃から大き目の円形ピルケース型の懐中時計をいくつか制作しているが、発明というより改良といった性質のものである。 かくの如く、時計作りの始まりは各地の同時進行であった。フランドル、ドイツ、イタリア、ロレーヌ、特にフランスではブルゴーニュ、中央高地のヴェレとかフォレ、ロワール河流域の各地方と多くが数えられた。ただ「ニュールンベルグの卵」型の携帯時計まで作れる職人はジュネーヴにはいなくて、その技術は上記のいづれかの地方から移住した職人がもたらしたものであった。 ジュネーヴの言い伝えでは、小型時計の創始者は、シャルル・キュザン(Cusin)とされている。その名は後に市の街路の名になっている。キュザンはブルゴーニュのオータンという町から移住してきて、一五七四年に時計を作ったとされ、名声と資産を得たという。しかしこの評価はごくまぎらわしい。キュザンはジュネーヴ時計製造業の唯一の創始者とは言えない。生涯を調査すれば明らかである。歴史は正直で、確かな史料が新しく出てくると、いくら地元の人々が愛着を感じている言い伝えでも嘘となる。キュザンの創始者としての名誉が覆されるような古文書が次々と出てきた。時計製造業(ファブリック)の貴重な言い伝えを擁護したいある老権威の怒りを買うことになったがどうしようもない。いくら大切な言い伝えだとしても、真実は曲げられない。当のキュザンが移住してくる以前の一五五四年から一五七四年にかけて、ジュネーヴには十六名の職人が、原文の時計師の綴りが昔のことで少しずつ違っているが、その職業名で市役所に登録されている。このリストでは完全ではなく、また完全を期することも今や出来ない。失くなった登録簿も少なくないからだ。キュザンはどうしても創始者とは言えない。 とはいえ、キュザンは人間としては面白く興味深い男だった。道徳的には大いに問題があるが、波乱に満ちた生涯を送っている。ここでキュザンの生涯をかいつまんで辿ってみる。生地はブルゴーニュの小さな町オータンである。旅行者にとっては十二世紀頃のロマネスク文化遺跡でしかないが、今でも金属加工業が盛んらしい.この町で大砲やオルガン、時計などを作っていた職人の家で生まれている。父親の仕事場で見習い修行を終えた後、新教徒だったために故郷を離れざるを得なかったと後年自身で述べている。丁度その頃は、フランスで宗教改革を巡って新・旧両教徒間の闘争が一番激しかった時期にあたっている。一番良く知られている事件が「聖バルトロメオの大虐殺」で、一七七二年八月、三千人のパリの新教徒が二日間で旧教側の手で殺害されている。フランスのあらゆる地域で新教徒は迫害されていた。 もっともらしい理由だが、現実には別の動機で町を出たらしい。オータンの裁判所に、馬、時計、その他の物品を盗んだ嫌疑で出廷を命じられている。しかも同じ裁判が、一五七四年、移住したばかりのジュネーヴの裁判所でも蒸し返されている。三度目に提訴され敗訴し、訴訟費用全額支払いも命じられている。 その後は大人しく職人技を磨くことに専念したらしい。そのうちに、新しく避難してきた男は腕が立つという評判が拡がるようになっていた。市参議会は、市のシンボルであるサンピエール教会の時計に時を打つ鐘の機械を設置するように依頼する。その結果に満足した参議会は、一五八七年、ジュネーヴの正市民たるブルジョワジーの地位を贈呈している。キュザンの名は、この新しい祖国の国境を越えはるか遠く知られるようになった。 一九八七年には、公証人を通じての正式契約で、サヴォアにある町の一市民のために、人間の手や腕と同じ動きをする義手の制作を手がけ、金貨で十四エキュというかなりの額の報酬を得ている。それでも浪費癖のあったキュザンは金に困っていたのか、その年の末に、市参事会はフロリン金貨五十枚という補助金を出してやっている。すぐれた職人としての評判は、遠く今のボルドーあたりのナヴァール王国の宮廷まで届いていた。一五八八年、当時のナヴァール国王、すぐ後にフランス国王となるアンリ四世は、書簡を通じ、ジュネーヴ市参議会に、しかるべき待遇と十分な報酬を与える条件で、ナヴァールへキュザンを派遣する依頼をしている。アンリ四世は宗教戦争をとりあえず休戦に持ち込み、ブルボン王朝の祖となった名君だったが、まだ戦争の行方が判然としない時期だったので、キュザンはこの喜ばしい申し出を危険回避のため断らざるを得なかった。 キュザンがオータンを出奔した時も、窃盗前科一犯みたいなものだったが、ジュネーヴから姿を消した時の事情も同様だった。一五九〇年市参事会は市中モラール広場にある塔時計を修理させるべく前金を渡した。修理に取りかかる以前にその金を持って逃走。参事会は自宅の家具を差し押えはしたものの、キュザンは行方不明。その後の消息は一切絶えている。行き倒れとか、そのような死者の記録も一切ない。 騒々しくスキャンダルにまみれたキュザンの生涯に比べ、一方にはコツコツと勤勉で、陰気かもしれないが、実りのある仕事に従事した職人達がおり、それらの人々の名は不当にも忘れられている。キュザンよりも無名のこれらの人々の方が、真のジュネーヴ時計産業の創始者としての名誉が与えられるべきと思われる。この人達が時計制作の技術を、次の世代の弟子達に伝えることによってファブリックの基盤は固められたと言える。キュザンがジュネーヴにいた時代でも十五、六人の外国人時計師がやってきてキュザンより先輩達に合流している。 「附言」 この連載はジュネーヴ時計産業史の古典であるアントニー・バベルの「ジュネーヴのファブリック」という文献によっている。一九三八年に発刊された本だから内容に現代の目から見て奇妙に思える点もあるが、当時はキュザンの功績について、大きな議論があったと想像されるので、原典に沿って述べることにした。了承されたい。今ではキュザンは全く無視されている。 |
|
|||
町の広場の塔時計や寺院用の大きな室外時計が作られ始めたのはほぼ十四世紀に入ってからだが、室内で使用される小型の机上時計や個人で携帯できる時計が普及するのは十六世紀から十七世紀にかけてであった。大時計の製作にかかわったのは錠前や鍛治職人の系統だったとして、小さな時計は宝飾職人の領域であった。 カトリック教国のフランスやイタリアの大きな聖堂へ行くと、必ず聖具室(サクレスティアン)という別室があって、金銀で作られた典礼用の道具が、保管展示されている。日本の社寺の宝物殿である。展示物の精巧な細工をみると、その技術が時計作りに向かったことが一目瞭然である。時計の初期開発が祈祷の時間を知るべく、修道僧達によってなされたことも納得できる。 ジュネーヴの本寺、サンピエール聖堂は静かな旧市街にあるが、態々訪れても、建築は別として、中へ入っても、あっけに取られる程何もない。同じ聖人の名のついたローマの聖ピエトロ大聖堂のまばゆいばかりの絢爛豪華さとは対照的である。ジュネーヴが貧しかったからではなくて、厳格な新教徒でフランスからやってきたカルヴァンが、一五四一年に政権を確立して以来、華やかな室内装飾や聖具の使用を一切拒否したからである。カトリックでは僧侶の媒介で人は真の信仰を得る。プロテスタント(新教)では、聖書のみを通じてしか真の信仰はないとする。元はマルチン・ルッターが言い出したことだが、カルヴァンはその一番の急進派となった。新教徒は、都市の住民、商人や職人に多く、カルヴァンの庇護を求めて逃げ込んで来た。丁度、個人用の時計の所有が貴族や成功者の間で流行になりつつあった時代である。 ジュネーヴの古文書を辿ってみると、カルヴァン統治から少し下った一五六五年から一六〇三年の間に、宝飾職人のギルドに三七人の徒弟がいたと記されている。さらに一六六七年というと、隣国のフランスとサヴォア公国からの侵略の脅威にさらされたジュネーヴが、城壁の強固化に人手が必要とした頃で、各種職業のギルドから人を出している。六十人の宝飾職人がボランティアとして城壁建設に参加している。一六八六年に、グレゴリオ・レティというイタリア人が「ジュネーヴの歴史」という著作の中で八十人の親方と二百人の職工がいると書いている。やや下って一七三〇年には一九五人の親方がおり、一七九八年、ジュネーヴがナポレオン台頭期のフランスによって占領合併され、単なるレマン県となった年だが、ギルド連盟が廃絶となっている。二二九人の親方がジュネーヴと共に存在の権利を失うことになった。ついでながら、ジュネーヴがフランスから離れ、正式にスイス連邦に加盟するのはナポレオン没落後の一八一五年のウィーン会議での決定によってであった。 時計のケースのことをフランス語ではボアートという。ケース作りはボアチェだが、ケースだけを作る職人ではなくて、ムーヴメントに文字板を取付けて、ケースに組み込む工程をする職人である。これが発展して時計メーカーとなるのだろう。一六九八年に、このボアチェ(ケース作り)のギルドが宝飾職人ギルドから三四人の親方によって独立結成された。一七七六年になるとこのギルドには二三四人の親方がおり、一七九〇年までに一八四人が新しく親方になっている。一七八八年にはジュネーヴのボアチェ工程の親方、職人合わせて総数四七五人を数えていた。しかも女性や見習いはこの数の中に入っていない。ちなみに同じ年、ギルド体勢外になるが、宝飾職人七八人、宝石カッターが二二人、宝石商百十一人がいた。 十七世紀から十八世紀にかけて、宝飾業の発展は瞠目に値する。しかし十六世紀後半から少しずつあまり目立つことなく始まった時計作りは、その後他の職業を凌駕していき、「ファブリック」(製造業総称)の中ばかりでなく、ジュネーヴ市政の中でも絶対の主導的地位を占めることになる。 ジュネーヴは、かっては驚く程栄えていたのに、十五世紀末から十六世紀の初めにかけて、全く暗い時代に入っていた。稼ぎ頭であった見本市も今や死に体である。様々の民族衣装を着たいろんな人種の商人が群がっていた街に人影はない。人口は減り、財産を失った住民は去ってしまった。当時のジュネーヴ人の修道僧で、隣国のサヴォア公にジュネーヴ侵攻の意図ありと痛烈に抗議して、シオン城に幽閉されたこともあるボヴァールがこう書いている。「街の舗道の敷石の間からペンペン草が生え茂り、家主連中は借家人が屋根を直してくれるなら、タダで貸しても良いと弱気この上なし。」果たして、ジュネーヴは落ちぶれ、貧村となるのか、それとも町は死に絶える運命にあったのか。 しかし回復は突然に始まる。カトリックを追放し宗教革命に走ることで、カルヴァンを指導者に迎えたおかげで、フランス語圏のプロテスタント運動の中心地となり、この信仰のために祖国をも捨てざるを得なくなった人々の目指す場所となった。ドイツ、英国、フランドル、イタリアから多くの人々が逃れ来て、この避難の町の住民となった。十六世紀後半、国内で苛烈で血で血を洗うような宗教戦争が展開されたフランスから避難してくる人が特に多かった。かくてジュネーヴという小さな共和国に再び人口が増え始め、人々の生活にもリズムが戻って来た。そのうちに土地も狭くなるだろう。利用できるあらゆる場所に家屋を増設せねばならぬだろう。それも家屋には上へ上へと階層を重ねなくてはならない。 新しく避難して来た人々には、当然ながら辛く貧しい生活が待っていた。しかしその中には、僅かな手持ちの資金、つまり自分の職業に使う道具で道を開き困難や逆境を乗り越えることのできた人々もいた。ほぼ全員が、これまで従事して来た仕事に必要な知識を持っていたし、やる気も十分で新しく生活を築こうとする意志も強かった。この人達が、それまで活気が落ち込み続けていた町に、新しい活動をもたらすことになった。金箔、飾りひもやレース、絹織物、靴下、リボンといったものに関する仕事である。勿論、時計作りがある。 この新教徒の第一回避難(後年、一六八五年に再発するのでこう呼ばれる)以前にジュネーヴでは、公共の大時計の修理ぐらいはできる錠前屋はいたが、時計を作れる人はいなかった。政府の公式名簿にも、中洲にかかる橋上の時計や、モラール(場所の名)やサンピエール大聖堂の時計を修理した親方達の名や、何人かの修理専門家のリストは残されているが。ジュネーヴの真の時計作りはここから始まっている。 |
|
|||
町の広場の塔時計や寺院用の大きな室外時計が作られ始めたのはほぼ十四世紀に入ってからだが、室内で使用される小型の机上時計や個人で携帯できる時計が普及するのは十六世紀から十七世紀にかけてであった。大時計の製作にかかわったのは錠前や鍛治職人の系統だったとして、小さな時計は宝飾職人の領域であった。 カトリック教国のフランスやイタリアの大きな聖堂へ行くと、必ず聖具室(サクレスティアン)という別室があって、金銀で作られた典礼用の道具が、保管展示されている。日本の社寺の宝物殿である。展示物の精巧な細工をみると、その技術が時計作りに向かったことが一目瞭然である。時計の初期開発が祈祷の時間を知るべく、修道僧達によってなされたことも納得できる。 ジュネーヴの本寺、サンピエール聖堂は静かな旧市街にあるが、態々訪れても、建築は別として、中へ入っても、あっけに取られる程何もない。同じ聖人の名のついたローマの聖ピエトロ大聖堂のまばゆいばかりの絢爛豪華さとは対照的である。ジュネーヴが貧しかったからではなくて、厳格な新教徒でフランスからやってきたカルヴァンが、一五四一年に政権を確立して以来、華やかな室内装飾や聖具の使用を一切拒否したからである。カトリックでは僧侶の媒介で人は真の信仰を得る。プロテスタント(新教)では、聖書のみを通じてしか真の信仰はないとする。元はマルチン・ルッターが言い出したことだが、カルヴァンはその一番の急進派となった。新教徒は、都市の住民、商人や職人に多く、カルヴァンの庇護を求めて逃げ込んで来た。丁度、個人用の時計の所有が貴族や成功者の間で流行になりつつあった時代である。 ジュネーヴの古文書を辿ってみると、カルヴァン統治から少し下った一五六五年から一六〇三年の間に、宝飾職人のギルドに三七人の徒弟がいたと記されている。さらに一六六七年というと、隣国のフランスとサヴォア公国からの侵略の脅威にさらされたジュネーヴが、城壁の強固化に人手が必要とした頃で、各種職業のギルドから人を出している。六十人の宝飾職人がボランティアとして城壁建設に参加している。一六八六年に、グレゴリオ・レティというイタリア人が「ジュネーヴの歴史」という著作の中で八十人の親方と二百人の職工がいると書いている。やや下って一七三〇年には一九五人の親方がおり、一七九八年、ジュネーヴがナポレオン台頭期のフランスによって占領合併され、単なるレマン県となった年だが、ギルド連盟が廃絶となっている。二二九人の親方がジュネーヴと共に存在の権利を失うことになった。ついでながら、ジュネーヴがフランスから離れ、正式にスイス連邦に加盟するのはナポレオン没落後の一八一五年のウィーン会議での決定によってであった。 時計のケースのことをフランス語ではボアートという。ケース作りはボアチェだが、ケースだけを作る職人ではなくて、ムーヴメントに文字板を取付けて、ケースに組み込む工程をする職人である。これが発展して時計メーカーとなるのだろう。一六九八年に、このボアチェ(ケース作り)のギルドが宝飾職人ギルドから三四人の親方によって独立結成された。一七七六年になるとこのギルドには二三四人の親方がおり、一七九〇年までに一八四人が新しく親方になっている。一七八八年にはジュネーヴのボアチェ工程の親方、職人合わせて総数四七五人を数えていた。しかも女性や見習いはこの数の中に入っていない。ちなみに同じ年、ギルド体勢外になるが、宝飾職人七八人、宝石カッターが二二人、宝石商百十一人がいた。 十七世紀から十八世紀にかけて、宝飾業の発展は瞠目に値する。しかし十六世紀後半から少しずつあまり目立つことなく始まった時計作りは、その後他の職業を凌駕していき、「ファブリック」(製造業総称)の中ばかりでなく、ジュネーヴ市政の中でも絶対の主導的地位を占めることになる。 ジュネーヴは、かっては驚く程栄えていたのに、十五世紀末から十六世紀の初めにかけて、全く暗い時代に入っていた。稼ぎ頭であった見本市も今や死に体である。様々の民族衣装を着たいろんな人種の商人が群がっていた街に人影はない。人口は減り、財産を失った住民は去ってしまった。当時のジュネーヴ人の修道僧で、隣国のサヴォア公にジュネーヴ侵攻の意図ありと痛烈に抗議して、シオン城に幽閉されたこともあるボヴァールがこう書いている。「街の舗道の敷石の間からペンペン草が生え茂り、家主連中は借家人が屋根を直してくれるなら、タダで貸しても良いと弱気この上なし。」果たして、ジュネーヴは落ちぶれ、貧村となるのか、それとも町は死に絶える運命にあったのか。 しかし回復は突然に始まる。カトリックを追放し宗教革命に走ることで、カルヴァンを指導者に迎えたおかげで、フランス語圏のプロテスタント運動の中心地となり、この信仰のために祖国をも捨てざるを得なくなった人々の目指す場所となった。ドイツ、英国、フランドル、イタリアから多くの人々が逃れ来て、この避難の町の住民となった。十六世紀後半、国内で苛烈で血で血を洗うような宗教戦争が展開されたフランスから避難してくる人が特に多かった。かくてジュネーヴという小さな共和国に再び人口が増え始め、人々の生活にもリズムが戻って来た。そのうちに土地も狭くなるだろう。利用できるあらゆる場所に家屋を増設せねばならぬだろう。それも家屋には上へ上へと階層を重ねなくてはならない。 新しく避難して来た人々には、当然ながら辛く貧しい生活が待っていた。しかしその中には、僅かな手持ちの資金、つまり自分の職業に使う道具で道を開き困難や逆境を乗り越えることのできた人々もいた。ほぼ全員が、これまで従事して来た仕事に必要な知識を持っていたし、やる気も十分で新しく生活を築こうとする意志も強かった。この人達が、それまで活気が落ち込み続けていた町に、新しい活動をもたらすことになった。金箔、飾りひもやレース、絹織物、靴下、リボンといったものに関する仕事である。勿論、時計作りがある。 この新教徒の第一回避難(後年、一六八五年に再発するのでこう呼ばれる)以前にジュネーヴでは、公共の大時計の修理ぐらいはできる錠前屋はいたが、時計を作れる人はいなかった。政府の公式名簿にも、中洲にかかる橋上の時計や、モラール(場所の名)やサンピエール大聖堂の時計を修理した親方達の名や、何人かの修理専門家のリストは残されているが。ジュネーヴの真の時計作りはここから始まっている。 |
|
|||
「ジュネーヴの時計製造4」 ギルド制 十八世紀後半に、英国から現代文明の基盤となる産業革命が始まったが、それ以前の産業はほぼ手仕事であった。後には集団的に仕事をするようにもなったが基本は手仕事(マニュファクチュール)だった。はじめは職人が個人の家で仕事をして出来上がったものを商人が買い上げ、それを売りまわるという形態である。今でもそうだが資金を持っている側は強い。商人側がまず共同戦線を張って職人側に対し有利な立場に立とうとする動きが発生するのは自然である。その駆引が長く続く訳はない。現代の労働組合と経営者との関係と同じで、要は商品が売れるかどうかである。まぁ、これがギルド(組合)の始まりで、長年にわたりヨーロッパの各地で法制化されてゆき、ギルド制になったといえる。ギルドは、アングロサクソンの言葉で、フランス語ではコオペラションという。協力して仕事をする意味だが現代英語に転用されコーポレーションとなって、ギルドとは関係ない。 法制上の保護を受けた各種のギルドが結成され、政治的にも強力な地区もあれば、そうでもないところもあり、ジュネーヴでギルド制が確立されたのは比較的遅く宗教改革の時であった。以前の司教領で共和制に移行する前のジュネーヴでも職種別の相互扶助団体は存在していた。一四八七年の教区内のお祭り名簿には三十八団体が登録されている。これらの団体は専門職別というより宗教的な集まりで、友人や一定地区の住人達で成り立っていた。しかし多くは同業者が共通してあがめる聖人のもとに、グループ化されていた。ジュネーヴの宝飾職人は、七世紀のフランスの司教で、自身も宝飾職人であった聖エロアの加護のもとで集まっていた。こういった宗徒団体は、宗教的な活動のほかにも、慈善、社会福祉活動にも活発で、相互扶助の意識が強かった。一方では、酒盛りに終わる賑やかなお祭りを組織して市政担当者を不安に陥れることもあった。なんとなく、博多山笠祭りの「流」や阿波踊りの「連」、祇園祭の「山鉾」が連想される。 宗教改革の時期、つまりカルヴァンがフランスからやってきて、ジュネーヴの権力を握った一五四一年のことだが、以来市民は規律、道徳を強制されたといってよい。プロテスタント原理主義者だったカルヴァンは、市議会に要請して、これらの祭りを禁止させている。「祭りでは恐るべき迷信と風俗の退廃がまかり通っている。自分たちだけには許されるとする放埓さと行動をとりすぎだ」と一五五七年、公に非難している。宗徒諸団体への弾圧は、宗教改革派政権の贅沢禁止策の一面であった。 ジュネーヴで法制的に諸ギルドが整備され始めたのは十六世紀の後半で、市政からではなく、仕事上必要性から職人たちの側からの自発的な運動によってであった。カトリックからの弾圧で外国からの新教亡命者の多かったこの町では、フランス、ドイツ、イタリアで確立されていたギルドの例がすぐにお手本となった。 貴金属の正しい純度(金性)の設定と運用のルールを作るためには、まず宝飾職人の団体が必要と認識されたらしい。使用する貴 金属の出来るだけ高い純度が、昔からの得意先をつなぎ留め、新規先を獲得する最も確実な手段である。とりあえず厳格に金性を守っているパリの宝飾職人たちに対抗しなくてはならなかった。だが内部では、地位が確立している職人が高純度を支持するに反し、これから商売を伸ばすには安い低純度の地金を使うほうがいいとする派もあって、一五五七年から一五六六年にかけて両派間の論争が絶えなかった。市議会が裁定に乗り出し、一五六六年四月八日にギルド制を初めて公式に認定するに至った。「宝飾職人、両替商、宝飾販売に関連する様々な職業」についての法が定められ、法令が鳴り物入りで発布された。両替商が入っているのは、欧州各地で固有の金銀貨が鋳造されており、年度や場所で異なる純度をもっていたからである。金性は純金を二十四金として二十一・五金に定められた。また、製品には作られた場所と作った職人の名を刻印することも。おまけに、細工の方法、仕上げ上の注意、品質保全について細部にわたる取決めがあった。面倒で厄介と思う職人も少なくなかった。職人志願の人にとっての職業教育にも十分な配慮が払われている一方、今後の過当競争を避けるために、同業者として認可される人数を制限する規約ともなっている。 これらは、中世の終わりから十八世紀の初頭にかけてのギルド制の一般的傾向である。ギルドは徒弟制度でもあり、徒弟の期間は四年で、あとはあちこちを旅して経験を積む。そのあと卒業制作ともいうべき作品を、地元のギルドに提出、親方の資格ありと認められたら、親方になれる。といっても親方の近くで開業するわけにはいかないから新しく親方にすぐなれるわけではない。また親方は同時に二人までしか徒弟をとれなかった。この規則は絶対で徒弟が外国人であっても簡単には追放できなかった。せいぜい軽い税金をかけるぐらいが関の山であった。 ギルド全体の運営はいわば、理事長格の男のもとに、仲間たちの互選で二人の親方が執行し、市議会から委託を受けた一人の有識者が監査する。これらの役員は製品の品質に目を光らせ規則違反者に罰金を科する。ギルドは共同資産を蓄積、親方や仲間、寡婦や子供が困った時はそこから援助する。街を訪れている外から来た同じギルドに属する職人には必要なら路銀を提供する。いわば同業相互扶助共同基金みたいなもものであった。 十六世紀の終わりになると、明らかにギルドの規約順守の気配が強くなり、余裕のある職人層はさらに使用地金の金性向上を主張したりして、小さな職人層との間に争いが再燃している。表向きにはギルド構成員はすべてが平等とはなっているが、二つの階級が内部では対立していた。近親的なギルド間の境界がはっきりしていないので、ギルド間でも訴訟が絶えなかった。理由は大抵ばかげていた。ある時、店舗のことで、宝飾職人のダイヤモンド業の二つのギルドの間で、子どもの喧嘩みたいな争いが起こった。結局一五五九年に市議会が仲裁に入っている。なんと和解案はごく乱暴なもので、この際というか、宝飾職人とダイヤモンド業、宝石原石業の三つのギルドを合併させてしまっている。 ニュルンベルグの歌合戦で優勝したら教会で見染めた宝飾ギルド親方の娘と結婚できると知った騎士が苦労の末宿願を果たす。ワグナーの楽劇「マイスタージンガー」の話だが、十六世紀のギルド制礼賛に終わっている。長大な曲だけど台本片手に聞けば、ギルドの精神がよくわかる。 |
|
|||
「ジュネーヴの時計製造」3 時計の前段階の宝飾作り 小谷年司 ジュネーヴの宝飾作りは、一二九0年の史料に言及されているが、その後十五世紀の終り頃までにどう発展したのか、よく解っていない。隣接する当時のサヴォア公爵領には上得意が多く、ジュネーヴには公爵家ご用達の免状を貰っている職人が十五、六人はいた。名前から判断すると、多くは他国の出身と思われる。中世でもジュネーヴは人間だけでなく、種々の要素のルツボだった。国際性がすでにジュネーヴの特質となっていた。十五世紀には二十人ばかりのドイツやイタリアの宝飾職人が上級の市民権を得ている。三代住まないと江戸っ子とは言えなかったように、ジュネーヴ人も、住んだ年数やら仕事の内容によって市民権の階層が法的に決められていた。上級の市民権はなかなか貰えない。 スイス連盟に加入する前のジュネーヴは司教領といってお坊さんが支配する独立の領土であった。モーツアルトが生まれたザルツブルグも同じで、雇い主だった領主コロレード大司教とソリが合わず、国を出奔したことはよく知られている。日本でも一向宗の蓮如とか宗教指導者が一定の領土を確保したこともあったし、信玄や謙信は僧籍をもって戦っていた。 ジュネーヴは、スイス、フランス、ドイツ、さらにロバに荷駄を積んでしか通れないようなアルプス越えのイタリアからの道といった、ヨーロッパの主要道路が交わる場所だった。そこで開かれる市は、ヨーロッパ内の交易で最も重要とされていた。十二世紀から十四世紀までは順調に発展し続けたが、ほどなく不利な状況が現れてくる。 まずフランス王のルイ十一世が自領内のリヨンの市を興隆させようと、ジュネーヴの市をつぶそうとする。サヴォア公国のルイ公爵が、ジュネーヴを併合しようとしてこれに協力する。一四六二年以来、二つの国はジュネーヴの交易路に沿った自国の領土からあらゆる妨害を加える。 この難局だけならジュネーヴは乗り切れたかもしれない。だがもっと恐るべき事態が襲い掛かりつつあった。アフリカ喜望峰を回る海路の開発やアメリカ発見といった、十五世紀末以来の地理上の諸発見が短時間で強大な逆風となった。新発見は全ヨーロッパ経済の主軸を揺るがし、主たる通商は地中海海岸から大西洋へと移ってしまった。 この現象はどのような影響をジュネーヴに与えたのか。それまでジュネーヴの市は、地中海世界と北部及び中央ヨーロッパを結ぶ一種の階段であった。地中海沿岸のイタリアと南仏一帯を豊かにすることによって発展してきたと言える。この地域が顧みられなくなり、ヨーロッパ全体に客を持っていたジュネーヴの市は、単に一地方だけが相手の格落ちとなってしまう。ヴェニスやジェノヴァ、南仏の港町ボーケールと同じ運命を辿らざるを得なかった。 ただ最盛期には、遠くは地中海沿岸のアフリカやら、当時はアジアと人々が呼んでいたレバノン、エジプトからも何千という商人が、ジュネーヴに集まって来ていたので、地元のいろんな手仕事が発達する絶好の縁となっていた。外国人の多く来る市では、度々宗教的や民族的な祭りが催され、近隣の人々を魅きつける。宿屋は満員となり、宝飾品を買って帰る人も出てくる。市で在庫を売り尽くした商人は、故郷で必要とされる製品を買って帰る。隣国サヴォアの田舎者も貴族も、初めは贅沢品に腰が引けていたが、次第に自信をつけて宝飾品や信仰のための高価な図像をジュネーヴへ買いに来るようになった。 ジュネーヴには早くから、宝飾職人が集まっている地区があった。今でも存在しているクロワドール街(金の十字架)である。十五世紀に、職人は多くいたので金商の刻印(ポワンソン、英語のホールマーク)を作り、金銀の純度を一四二四年に規定している。画期的な制度というよりは従来の慣行を正確に細かく文書にしたものであった。ジュネーヴで材料に用いられる金銀の一部は地元で産出する。金は、モンブランの急流アルヴ川やローヌ川で採れる砂金。今はフランスのオートサヴォア県のフィエル川や支流のシェラン川でも採れた。銀は同じサヴォア地方のタランテーズ鉛鉱で産出。 十五世紀初頭にはすでに、後にジュネーヴの華となるエマーユ七宝の技法は知られていた。サヴォアの公爵宮廷にあるいくつかのエマーユは、金細工師、彫り師、七宝職人が緊密に協力していることを示している。 当時、ヨーロッパで一番繫栄していた国はブルゴーニュ公国であった。ブルゴーニュ公爵はフランス王家の出身であり、臣下にも当たる。勿論、ワインで有名なブルゴーニュ地方の領主である。それが、結婚によってフランドル地方、現在のベルギー・オランダの領主を兼ねるようになる。フランドルの商工業、ブルゴーニュの農業とが相まって莫大な富をもたらした。首都はディジョンだが、宮廷生活はほぼ今のベルギーの北のヴェニスと呼ばれたブリュージで繰り広げられた。その華やかな様子はホイジンガーの名著「中世の秋」に活写されている。 しかし栄華も百数十年で終わりが来る。四代目の公爵はなかなか血の気の多い男で「向こうみず」のシャルルというあだ名だった。信長のような男で、すぐ攻めに行く。アルザス地方を侵略しようとした時にスイス連盟軍がその防衛の援助に立ち上がった。この時同時に、遠い親戚筋のサヴォア公家を「向こうみず」はそそのかして、ジュネーヴを巻き込み、レマン湖北のヴォー地方の侵略を企てる。ところが、フリブールとベルンというスイス連盟軍が、「向こうみずのシャルル」率いる無敵ブルゴーニュ軍を打ち破り、敗走させる。翌年、一七七七年、再戦したが敗戦したシャルルは、戦死して事実上ブルゴーニュ公国は滅びる。 こんな歴史上のエピソードとジュネーヴの宝飾業とどんな関係があるのか、不審を抱かれるかもしれない。実は、スイス連盟軍に敵対し、コソ泥的に領土まで侵略しようとしたと、フルブールやベルンに追及され、降伏したジュネーヴは二万六千エキュ(一説には二万八千)という大金を賠償金として支払わされることになった。一四七七年のことで、資産状況調査によると、金工とか金扱い人、ダイアモンド扱い人とかラテン語の官職名を得ている職人が十二名いたとある。殆どがジュネーヴで最裕福層地区である聖マリア・マドレーヌ教区の住人であった。宝飾細工師は金持ちの代表であった、のちに皮革業者やラシャ業者の後塵を拝するまでは。 ちなみにジュネーヴ全市民の資産総額の十二分の一に当たるとされる巨額な賠償金はすぐには払えなかった。しかしその交渉過程において、ジュネーヴがスイス連盟に加入する第一歩を踏み出したとする史家もいる。 |
|
|||
「ジュネーヴの時計製造」2 小谷年司 欧州の春は復活祭(イースター)で始まる。十字架にかけられたキリストの復活を祝う祭日で、春分のあとの満月の次の日曜日に行われる。月齢は年によって移動するから、このような祭日は移動祝祭日と言う。日本でも成人の日のように移動するようになったが、人為的で、ハレの日という原義の感覚はない。元々キリスト教二千年の歴史の中での祝日だから、人々の心の中に確固とした位置がある。 ヘミングウェイは若い頃パリで、無名の作家修行をしていた。「パリで青春の日々をすごすと、一生その想い出はついて回る。丁度移動祝祭日みたいなものだ。」と自伝的回想小説「移動祝祭日」の初めに記している。同じ経験をしたものにとって、その気持は痛い程よく解る。「面白うてやがて悲しき鵜舟かな」の芭蕉の心境に通じるものがある。もしその時分のヘミングウェイに会いたければ、ウッディ・アレン監督の映画「ミッドナイト・イン・パリ」を御覧になるといい。 かって十万人の来場者で賑わったバーゼル・フェアは毎年、復活祭のすぐ後ぐらいに開催されるのが常であった。北国の春は、北海道同様、桜、芝桜、木蓮、黄水仙等、一度に色とりどりの花をつける。バーゼル・フェアには長年よく通ったから、その鮮やかな光景がまず眼に浮かぶ。冬の寒さが、長く厳しいだけに人々の表情には春を迎える喜びが満ち溢れている。フェアそのものが、春のシンボルに思えていた。 今春、突然スイスを代表するような大銀行のクレディ・スイスが破綻か、というニュースが飛び込んで来た。スイスにはマーチャント・バンクといって資産管理や投資コンサルタントみたいな、主としてユダヤ系の、世界中の資産家を顧客に持つ小さな銀行が多い。堅実かつ永続性のある経営で名高い。クレディ・スイスもこの路線で、世界中を相手に活動を大がかりにしすぎてバブルがはじけたと思われる。というのは、数年前に日本にある現地法人から、個人の取引を勧誘されていたが、四億円以上の遊んでいる現金を持ってない顧客は相手にするなという指示があり、当然乍ら落第となる経験をした。そんな上客が多いのと、担当者にたずねると、沢山おられますとのことで、日本人にも金持ちが多くなったと唖然となった。つい二、三年前のことである。顧客対応も派手で、スイスの企業特有の地味さに欠けていた。 バーゼル・フェアも、やっぱりスイス企業らしくない、リスクの多い拡大に次ぐ拡大が裏目に出て破綻してしまった。コロナで絶えていた見本市は各地で復活しているが、バーゼルは休止のままである。バーゼル・フェアに別の形で対抗というか併立していたジュネーヴ高級時計サロンの方は、今春から「ウオッチ・アンド・ワンダー」という呼称で開催されることになった。時計とその驚くべき不思議、ぐらいの意味だが、日本語にはなり難い。今回からはジュネーヴに本拠を置く、ロレックスとパテックが参加することとなった。欠場の両横綱がやっと出場するジュネーヴの本場所と言えよう。高級時計がスイスの時計産業全体を支えている現状からみて、将来どうなるか楽しみである。 バーゼルとジュネーヴは地政学的にみて、中世以前からもヨーロッパの南北を結ぶ、交通と交易の要所だった。バーゼルはライン河沿いの良港で、海運に便利。大きく重いものを運ぶに適している。ライン河とかドナウ河、あるいはジロンド河といったヨーロッパの大河は深くて川幅広く、船は海を航行するのとほぼ変わりなく、しかも大海につながっている。ボルドーのフランス人達は河のことを海と言って来た。一方ジュネーヴは小さな舟が楽に動けるレマン湖の湖畔に位置し、平地でもあるから、人間が集まり易い。国際性はそこに由来する。元々スイス時計発祥の地でもあるし、国際会議のための大ホテルが沢山あり(高価だが)、整備された空港も近い。電車も極く便利である。パリやミラノからでも三時間で特急が結んでいる。日本人にとって、バーゼルよりはるかに行き易い。それにフランスに隣接しているだけに、食べ物は、はるかに美味しい。言語もバーゼルのスイス・ドイツ語に対し、フランス語であり耳にやわらかい。 余談はさておいて、本論のジュネーヴの時計製造(ラ・ファブリック)初期に移りたい。前回、時計作りが多くの下請けが形成する分散集約型構造から始まったと述べた。この構造だと、商品は完成して販売・回収されて現金化されるまでに時間がかかる。誰がその間の資金手当をするのか。どうしても商業資本となる。つまり職人や働き手は、現金を手にすることのできる、しかも貯えのある商人に頼らざるを得ない。その支配下に甘んずるという一種の危険が存する。商人の言いなりになったりうまく利用されたりする。「そうは問屋が卸さない」という諺が日本にあったのも、同じ状況である。これは小売業支配のことだが、資本の強さを示している。 しかしジュネーヴの時計製造(ラ・ファブリック)の構造は例外であった。景気の良かった時代が続き、時計・宝飾品・エマーイユ七宝(線を立てない七宝、人物像や細密画用)の需要は強かった。商人達も沢山作って欲しくて、働き易い環境作りに努力したし、引き渡し時に文句をつけることも少なかった。勿論十分なお金も払っていた。賃金や報酬も鰻上りに上昇した。商人はできるだけ職人を快適に働かせたかったのである。個別の独立した室内で仕事をする時計職人(カビノチェ)の生活は、かくして、他の分散集約型の製造業や産業革命時の工場労働者プロレタリアの生活とは全く異なっていた。 「ラ・ファブリック」の驚異的な発展の要因はいくつかある。まず一つはジュネーヴで度々開かれる市(いち)である。ヨーロッパでは最重要視されていた、この市(いち)は中世の宝飾職人にとって、良い刺激となっていた。続いて宝飾品作りに近い時計作りにとっても同様になった。初期の時計は時間を計る道具であると同時に宝飾品でもあった。 十六世紀の宗教戦争時代のジュネーヴは人口過剰で、職人の数も多かった。信じる新教を棄てるよりは、信仰に生き、亡命生活も厭わない。確固たる信心と気力と行動力に溢れた人々だった。時計・宝飾品を作るには、極めた知識、器用さと熟練の技術が要る。こういった職人が多くジュネーヴに逃げ込んでいた。一方、地元には原材料が無かった。運送手段が不安定で、高くつく時代に、ジュネーヴは重い原材料を使う仕事は向いてない。原材料軽く、運ぶに楽、廃棄物なし、入魂の手作業のみが必要、これが「ラ・ファブリック」の要請だった。クロノメーターマルチンムーブメントの九割が手仕事の価値である。以上がこの小さな共和国の経済の主導権を「ラ・ファブリック」が取る条件となった。 |
|
|||
「ジュネーヴの時計製造」@ 小谷年司 テォフィル・ゴーチェといえば、十九世紀前半のフランスの大詩人とされるが、同時代人にヴィクトル・ユーゴがいてやや影が薄い。多彩な人でバレエの「シルヴィ」の台本やら紀行文など著作は多岐にわたっている。その「イタリア便り」の中で、町と名産品は切っても切れないと言っている。ブラッセルと言えばキャベツ、港町のオステンドは牡蠣、ストラスブールはフォアグラ、ニュールフォベルグは玩具、ジュネーヴは時計。人々はつい大きな複雑時計を連想する。歯車、シリンダー、発条、脱進器、テンプがチクタクと音を立てて、いつも動いてる。住宅は二重蓋の懐中時計に似て、ドアは時計の鍵のような錠前で開け閉めする。これが十八、九世紀の時計の都の与えてくれるイメージだった。 ジュネーヴには時計・宝飾業界以外にも、多くの商工業が存在した。地政学的に見て、ヨーロッパの中心に位置し、東西南北に行き交う要路にあるから交易には有利であった。インド更沙の生産でも知られていたし、金融業では堅実さと正直さが買われていた。そのために市民は豊かな生活を享受していたが、他国からねたまれていたことは否めない。 フランスの作家スタンダールは紀行文の中でこう書き留めている。「ジュネーヴ人が窓から飛び出していくのを見たら、迷わず後を追うがよい。儲け話にありつく確率は一割ある。ある侯爵の話である﹂。またヴォルテールは、ジュネーヴ人の生活水準の高さの理由を聞かれたと答えている。「まずは時計を作っていること。次に新聞や雑誌をよく読んで、あなた方の負債や借金に付け込んで、どのくらい儲けられるか巧妙に計算できるからです」。ヴォルテールは、啓蒙思想家であり、一時はジュネーヴに住んでいて、今でも記念館が市中にある。ヴォルテールには、進歩的な面と抜け目のなさが併存していて、晩年にはジュネーヴ近郊の故郷フランスの領土内で時計製造を試したりしている。 金融業は重要だが多くの人々が従事する必要はない。その点、時計や宝飾にかかわる職人の数は多い。部品作り、彫り師、エナメル七宝職人から組立完成の時計師まで。これらの職人群は、市内でもローヌ河右岸のサン・ジェルヴェ地区に固まって住んでいた。ここに若き日の哲学者ルソーも、時計彫り師の見習いとして住み込んでいた。ルソー家は代々有名な時計師だったので、最後のカビノチェの一人と言える。カビノチェとは、建物の階上の小部屋(カビネ)を工房にして時計関連の仕事をしている職人のジュネーヴにおける総称である。ルソーは修業中のある日、突然職場放棄して、フランスへ逃げ出し、波乱の生涯を送ることになる。後年友人の百科全書編集者のダランベールにこう書き送っている。「サン・ジェルヴェに行ってごらんなさい、ヨーロッパ全ての時計がここで作られているような気がしますよ」ちなみにダランベールの百科全書の時計のページは、当時の技術が美しい図版付きでよく解って興味深い。 これらの職人や職工は、誇りを込めて、アーティストと自称して、いわゆる「ラ・ファブリック」を形成した。ファブリケーというのは、フランス語で作るという動詞でファブリックは工場という意味、町工場というニュアンスはある。何を作っていてもいいのだが、時計だけを指すようになったのは、十八世紀初頭である。ジュネーヴでは「もの作り場」が「時計作り場」を意味するほどになっていたと言える。定冠詞をつけて「ラ・ファブリック」とは時計宝飾にかかわる職人とその生産技術を言った。ただ、その定義からは、経営者の方針の元で、多くの職工を集めて製造する大きな工場や、流れ作業で大量生産を機械でこなす工場は除外されていた。 とはいえ、「ラ・ファブリック」にとって気がかりなのは、機械生産が勝利するかもしれない日のことである。一七九八年の時点でカビノチェの一人が、独りよがりの面もなきにしもあらずだが、こう書き留めている。「私たちは、ラ・ファブリックという最も完成した時計製作の体系を有している。これは工場という本来の意味とは全く関係がない。ジュネーヴの町全体が時計の工房なのである。ジュネーヴの時計職人は自由で独立した人間として仕事をする。私たちは全て大なり小なり、アーティストなのだ」 「ラ・ファブリック」の人間は特権階級になっていて、カビノチェと呼ばれていた。その本義は前述のとおり、小さな工房で仕事をする人で、広い建物内の工場で、人々が集団でする仕事を軽視するところがあった。現在の地位に安住している態度、金銭的余裕のある日常生活、その生活様式には、他人から敵意に近いねたみを持たれることも多かった。時代もだいぶ下って一八七三年のことになる。明治時代に入った頃だから、ジュネーヴから遠く離れたジュラ山中の時計産業も盛んになっていた。ジュネーヴの時計作りは、豊かさを確保するためであったが、ジュラ地方は、山地で土地貧しく、交通不便で、貧困を克服するためのものであった。欧州のインターナショナル運動のジュラ地方連盟が、苦々し気な声明を出している。「カビノチェは労働貴族の一種であって、ジュネーヴでも広大な工場で働いているのが真のプロレタリアートだ」 「ラ・ファブリック」としては、輸出が命である。市場初めから世界全体である。これは現在のスイス時計の事情と変わらない。無限にあるような小さな工房から作られる製品が、どうして遠くの世界まで届けられるのか。 「ラ・ファブリック」の構造は、分散集約型産業の究極と言える。十八世紀のスイスには同じ構造の例が多い。スイス東部の木綿の生地織物、サンガレンの刺繍業、チューリッヒの絹織物、バーゼルのリボン作りなど。だが、究極のあとは、下り坂だった。例外はジュネーヴの時計産業で、技術的や心理的な要素が絡んで十九世紀寸前まで、古い構造が持続した。 分散集約型の産業では、仕事は下請け職人の小さな工房で、比較的簡便な道具を使ってなされる。必要な資金は、起業家と資本家が合体したような商人が供給する。「ラ・ファブリック」の原動力はこの種の商人と時計を最終的に組立て、完成品にして販売するエタブリサール(仕上げ屋)であった。エタブリールとは、英語のエタブリッシュで、作成するとか確立するという意味である。彼らは職人に前払い金や原材料を渡して発注する。諸外国の景気変動、流行の気まぐれも研究熟知している。トルコや中国の趣向に合う時計も必要だ。しかも遠隔地へ売った支払を回収するには何カ月も、時には数年も待つことになる。ぶどう酒の産業も、ワインが現金化するまで気の遠くなる程時間がかかるのと軌を一にしている。 (次号へ続く) |
|
|||
「ジュネーヴの時計製造」 スイスの時計産業が二十一世紀に入って大量安価のクオーツ時計に対抗して生き残ったばかりでなく、かってない繁栄に転じたのは、歴史的文化価値を側面に有していたからだった。その事情は和服の場合とよく似ている。今となっては、日常生活で和服を着ている人は、はなはだ少ない。五十年前の日本の百貨店の呉服の売上げが総売上げの三割以上を占めていたとは信じ難い。第一、殆んどの百貨店の前身は呉服店である。では呉服業が消滅したかと言うと、そうとも言えない。産業として湯衣みたいなもので努力している面もあるが、製作に手がかかり、美しく高価な和服は、今でも確実な需要がある。自身は着なくても、優雅に和服を着こなしている人を見ると羨ましく感じる人は多い。自分もいつかはという思いに駆られるだろう。 時計作りと和服の仕立ての工程もよく似ている。それはいろんな職人の分業で成り立っている点である。生地の機織りから始まって、染色、図案、刺繍、縫製、販売、その他が異なった職種であり、異なった作業場で行われる。時計作りの初期段階と同様である。分散産業様式と言える。文化の裏打ちという共通性から和服の例えを取り上げたが、納得してもらえるだろうが、説得性はやや弱い。やっぱり、スイスの時計の文化性が成り立って行った歴史そのものを追う必要がある。 近代の産業の一貫製造方式は、アメリカのフォード工場から始まったとされる。それより少し前に、アメリカの時計産業もフォード車と同様に同じモデルを大量に一工場内で、一貫生産しコストを下げ、大衆の手に届く価格を実現し、繁栄した。その代表選手がエルジンやウォルサムだった。昔ながらの分散産業形式に頼っていたスイス製時計は太刀打ちすることができなかった。スイスはアメリカ市場は失ったが、壊滅しなかったのは、アメリカ人一般が、広大な自国の市場さえ確保すれば満足して、輸出にあまり熱心でなかったからとされている。当たらずと言えど遠からずというところだろう。ウォルサムは、第二次大戦後倒産し、次に興り、一時は世界一の売上げを誇ったブローバも、シチズンに買い取られた。アメリカでの時計製造はほぼ消滅している。 本来の意味でのスイスの時計産業は十六世紀半ばにジュネーヴで始まったというのが定説である。当時、小国ジュネーヴを支配していたのが、コチコチの新教徒カルヴァンだった。キリスト教徒が、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)と二派に別れて、まさしく殺し合いの宗教戦争の時代だった。特に激しい争いはフランスで起こっていた。カルヴァンは、北フランスの人で敬虔な神学者であると同時に恐るべき独裁者で、元々温厚な国だったジュネーヴをラジカルな新教徒の国に変えてしまった。フランスの新教徒をユグノーと言うが、商人や職人にユグノーが多く、あちこちで弾圧され、カルヴァンの庇護を求めてジュネーヴに逃げこんできた。なかでも特にフランスで発達していた時計や宝飾品、エナメル(エマーイユ)技術の職人が多くいた。ただカルヴァンは、ローマ教会の虚飾を一切排除したので、宝飾職人には豪華な聖具の用命がなく実用的な時計を時計職人と協力して作らざるを得なかったという。ローマ法王のいるピカピカのサン・ピエトロ大寺院と、ジュネーヴにある同じ名のサン・ピエール本寺と比べてみると、旧教と新教の宗旨の差が一挙に理解される。新教の教会内は、余分な装飾が一切ない。神と直接、祈りで対決する場所である。スイスの時計産業は新教徒達の手で始まったというのを心に留めておくべき史実だと思っている。 この十年来、FH誌に目を通し、記事のなかから、私達に役立ちかつ、興味の湧きそうなものを選んで、印象や、感想を記してきたけど、長くやっているうちに場当たり的になってきた。ニュース性のあるものの紹介は、日本のFH代表の中野俊子さんに今後はおまかせしたいと考えている。文化的背景を追うには、じっくりと細く同じテーマを扱った方が、読者の本質的な理解を得る正しい方法だという気がしている。そこでまず「ジュネーヴの時計製造」を今年は取り上げる。毎回なるべく面白く書くつもりではある。どうか古いといってお見捨てなく。温故知新という言葉もある。 大学ではフランス文学を専攻したので、イタリアとフランスに留学(というより遊学)した後、食うに困り、父の会社(現栄光ホールディングス)に拾ってもらったけど、商売も経営学もさっぱり解らない。そんな頃に、辻調理師学校のオーナーの女婿で、実際の経営者だった辻静雄と知り合い、この人は六十才で亡くなったが、生涯の友となった。早稲田の仏文出だったが、新聞記者から私学経営者となった。料理は全く素人だったが、勉強家で、多くの料理研究書を原文で読み、著作を出版し、瞬く間に日本一のフランス料理の研究家として知られるようになった。学校経営の腕前も見事だった。それを横でみていて、まず己が商売の時計や宝石の正統的な勉強をするのが先決と始めたのが、基本的文献の蒐集と、読破だった。よく父にお前は商売はアカンけど、長男だからしょうがないが、勉強するだけまだマシやとからかわれた。すでに三十才を過ぎていたからずい分晩学である。 その当時の時計の文化史みたいな研究者は少なく、山口隆二という一橋大学の教授だった方が一人で気を吐いておられた。この先生が岩波新書から出版された「時計」(一九五六年初版)は、今でも通用する名著である。「日本の時計」という和時計の研究のための入門書もある。幸い我社の名は業界で知られていたので、すぐにお見知り頂き、弟子入りの形となった。当時、外国、特にスイス、ドイツの時計業界のニュースを伝える時計専門月刊誌「国際時通信」を協力者の日野須磨子さんと二人で出されていて、外国情報に飢えていた日本の時計関係者に購読者が多かったが、先生の死後数年で廃刊となった。時々この雑誌に時計史に関する論文を載せてもらった。山口先生は難しい方で、歯に衣を着せず批判されるので、仰言ることは正しくとも、多くの人とはすぐ疎遠になってしまわれた。御本人にはほぼその理由がお解りになっていなかった。よく叱られたが、最後まで弟子だったのは、私だけかもしれない。膨大な先生の脈絡のないだろうトラック一杯の蔵書はセイコーミュージアムに寄贈されたが、整理するのが大変だろう。生前先生は、時計の研究をするには、時計文献だけに頼っても仕方がない、その国の文化や歴史を知らなくては、とよく言っておられた。 この文は、アントニー・バベル著「ジュネーヴの時計製造」(一九三八年)を祖述しようとする試みへの序文となる。本文は次回書き始めたい。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「ジュネーヴの時計製造」 スイスの時計産業が二十一世紀に入って大量安価のクオーツ時計に対抗して生き残ったばかりでなく、かってない繁栄に転じたのは、歴史的文化価値を側面に有していたからだった。その事情は和服の場合とよく似ている。今となっては、日常生活で和服を着ている人は、はなはだ少ない。五十年前の日本の百貨店の呉服の売上げが総売上げの三割以上を占めていたとは信じ難い。第一、殆んどの百貨店の前身は呉服店である。では呉服業が消滅したかと言うと、そうとも言えない。産業として湯衣みたいなもので努力している面もあるが、製作に手がかかり、美しく高価な和服は、今でも確実な需要がある。自身は着なくても、優雅に和服を着こなしている人を見ると羨ましく感じる人は多い。自分もいつかはという思いに駆られるだろう。 時計作りと和服の仕立ての工程もよく似ている。それはいろんな職人の分業で成り立っている点である。生地の機織りから始まって、染色、図案、刺繍、縫製、販売、その他が異なった職種であり、異なった作業場で行われる。時計作りの初期段階と同様である。分散産業様式と言える。文化の裏打ちという共通性から和服の例えを取り上げたが、納得してもらえるだろうが、説得性はやや弱い。やっぱり、スイスの時計の文化性が成り立って行った歴史そのものを追う必要がある。 近代の産業の一貫製造方式は、アメリカのフォード工場から始まったとされる。それより少し前に、アメリカの時計産業もフォード車と同様に同じモデルを大量に一工場内で、一貫生産しコストを下げ、大衆の手に届く価格を実現し、繁栄した。その代表選手がエルジンやウォルサムだった。昔ながらの分散産業形式に頼っていたスイス製時計は太刀打ちすることができなかった。スイスはアメリカ市場は失ったが、壊滅しなかったのは、アメリカ人一般が、広大な自国の市場さえ確保すれば満足して、輸出にあまり熱心でなかったからとされている。当たらずと言えど遠からずというところだろう。ウォルサムは、第二次大戦後倒産し、次に興り、一時は世界一の売上げを誇ったブローバも、シチズンに買い取られた。アメリカでの時計製造はほぼ消滅している。 本来の意味でのスイスの時計産業は十六世紀半ばにジュネーヴで始まったというのが定説である。当時、小国ジュネーヴを支配していたのが、コチコチの新教徒カルヴァンだった。キリスト教徒が、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)と二派に別れて、まさしく殺し合いの宗教戦争の時代だった。特に激しい争いはフランスで起こっていた。カルヴァンは、北フランスの人で敬虔な神学者であると同時に恐るべき独裁者で、元々温厚な国だったジュネーヴをラジカルな新教徒の国に変えてしまった。フランスの新教徒をユグノーと言うが、商人や職人にユグノーが多く、あちこちで弾圧され、カルヴァンの庇護を求めてジュネーヴに逃げこんできた。なかでも特にフランスで発達していた時計や宝飾品、エナメル(エマーイユ)技術の職人が多くいた。ただカルヴァンは、ローマ教会の虚飾を一切排除したので、宝飾職人には豪華な聖具の用命がなく実用的な時計を時計職人と協力して作らざるを得なかったという。ローマ法王のいるピカピカのサン・ピエトロ大寺院と、ジュネーヴにある同じ名のサン・ピエール本寺と比べてみると、旧教と新教の宗旨の差が一挙に理解される。新教の教会内は、余分な装飾が一切ない。神と直接、祈りで対決する場所である。スイスの時計産業は新教徒達の手で始まったというのを心に留めておくべき史実だと思っている。 この十年来、FH誌に目を通し、記事のなかから、私達に役立ちかつ、興味の湧きそうなものを選んで、印象や、感想を記してきたけど、長くやっているうちに場当たり的になってきた。ニュース性のあるものの紹介は、日本のFH代表の中野俊子さんに今後はおまかせしたいと考えている。文化的背景を追うには、じっくりと細く同じテーマを扱った方が、読者の本質的な理解を得る正しい方法だという気がしている。そこでまず「ジュネーヴの時計製造」を今年は取り上げる。毎回なるべく面白く書くつもりではある。どうか古いといってお見捨てなく。温故知新という言葉もある。 大学ではフランス文学を専攻したので、イタリアとフランスに留学(というより遊学)した後、食うに困り、父の会社(現栄光ホールディングス)に拾ってもらったけど、商売も経営学もさっぱり解らない。そんな頃に、辻調理師学校のオーナーの女婿で、実際の経営者だった辻静雄と知り合い、この人は六十才で亡くなったが、生涯の友となった。早稲田の仏文出だったが、新聞記者から私学経営者となった。料理は全く素人だったが、勉強家で、多くの料理研究書を原文で読み、著作を出版し、瞬く間に日本一のフランス料理の研究家として知られるようになった。学校経営の腕前も見事だった。それを横でみていて、まず己が商売の時計や宝石の正統的な勉強をするのが先決と始めたのが、基本的文献の蒐集と、読破だった。よく父にお前は商売はアカンけど、長男だからしょうがないが、勉強するだけまだマシやとからかわれた。すでに三十才を過ぎていたからずい分晩学である。 その当時の時計の文化史みたいな研究者は少なく、山口隆二という一橋大学の教授だった方が一人で気を吐いておられた。この先生が岩波新書から出版された「時計」(一九五六年初版)は、今でも通用する名著である。「日本の時計」という和時計の研究のための入門書もある。幸い我社の名は業界で知られていたので、すぐにお見知り頂き、弟子入りの形となった。当時、外国、特にスイス、ドイツの時計業界のニュースを伝える時計専門月刊誌「国際時通信」を協力者の日野須磨子さんと二人で出されていて、外国情報に飢えていた日本の時計関係者に購読者が多かったが、先生の死後数年で廃刊となった。時々この雑誌に時計史に関する論文を載せてもらった。山口先生は難しい方で、歯に衣を着せず批判されるので、仰言ることは正しくとも、多くの人とはすぐ疎遠になってしまわれた。御本人にはほぼその理由がお解りになっていなかった。よく叱られたが、最後まで弟子だったのは、私だけかもしれない。膨大な先生の脈絡のないだろうトラック一杯の蔵書はセイコーミュージアムに寄贈されたが、整理するのが大変だろう。生前先生は、時計の研究をするには、時計文献だけに頼っても仕方がない、その国の文化や歴史を知らなくては、とよく言っておられた。 この文は、アントニー・バベル著「ジュネーヴの時計製造」(一九三八年)を祖述しようとする試みへの序文となる。本文は次回書き始めたい。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
スイス時計の強み 明治維新の始め、政府はチョンマゲを外人に対して恥ずかしいと思ったのだろう、断髪令を出した。当時のざれ唄に、”ザンギリの頭を叩いてみれば文明開化の音がする”というのがある。この文明は、西欧文明を指している。文明とは国を超えた広域性を持ち、人種にかかわらず普遍性を持つことが前提となっている。法律や政治制度から文明の利器と呼ばれる飛行機、鉄道、車から、マクドナルドのハンバーガーに至る。一方、文化は地方性を持つ。言葉がその一番の例である。司馬遼太郎は文化を定義して、それにくるまっていると、心が安らぎ、楽しく安全でさえあるものと、旨い事を言っている。文明は客観、文化は主観ともいえる。文明的な観点から見ると、進んでいるとか遅れているとかの議論は可能だが、対象が文化となるとその議論は意味をなさない。アフリカ原住民の美術と最新の西欧美術と進歩の度合いで優劣を論じても意味はない。 スイスに時計製造業が根付いたのは、欧州全体が宗教戦争で揺れ動いた十六世紀中頃であった。ドイツのルッター、フランスのカルヴァンといった人々が、ローマ・カトリックの形式化した教義に反抗して、新教と旧教との一大闘争が始まった。ドイツでは比較的早くほぼ新教徒(プロテスタント=抗議する人々)の領域になった。だが、フランスでは王侯貴族から下は庶民まで二派に分かれ、言葉通りの殺し合いが長く続いた。フランスでは、新教徒をユグノーと呼ぶ。そのユグノーの本拠地として、サヴォア公園から独立したばかりのジュネーヴに、新教を普及する神学者のカルヴァンは招致された。しかし間もなく、権力者としてジュネーヴを支配するようになる。そこへ多くのユグノーたちがカルヴァンの庇護を求めてジュネーヴへ逃げ込んで来た。ユグノーには商工階級が多く、時計や宝飾品の職人も少なくなかった。カルヴァンは、典礼用の豪華な聖器具を不要としたし、宝飾品も虚飾として排斥したから、飾り職も時計師も協力して時計作りに専念せざるを得なかった。時計作りはジュネーヴ領内で確立されるようになったが、時代が下がるにつれ職人の数も増えてくるし、いつまで領内で独占するようにはいかなくなる。技術は少しづつ、ジュネーヴから北東の方向、ジュウやジュラ地方へフランスとの国境沿いに拡がっていった。今でも時計製造に従事する殆どの人がフランス語を母国語としている理由である。FH誌でも基本は仏語で、同時翻訳に英語となっている。 時計作りが、山岳地方の田舎へ伝播していったのは、この地方では一年の半分が冬で積雪の為野外作業が不可能で、時計の部品作りや、組み立てが冬の間の仕事として室内で出来る利点があったためである。ジュラ地方へ行くと今でもこういった兼業時計農家が往時の姿で保存されていて様子を知ることが出来る。いろいろな工作機器を一家に備え付ける訳には行かないから、各農家が得意とする部品を専門に作って、それを集めて組み立てる業者がいたのが実情であった。フランス語でエタブリールは組み立てるという意味で、エタブリサールは商品に仕上げるこのような業者を指す。これに対し自社内で全てを製造する一貫メーカーをマニュファクタールというが、すべてを自社内で作っている工場は、一、二の例外を除いてはいつでも殆どないと言って良い。マニュファクタールだから高級品だとも必ずしも言えない。昔は正しかったかもしれないが。 スイスの時計産業が近代化されてから、全体として苦境に立たされた時期が二回ある。一度目は、まだ時計といえば懐中時計の時代で、アメリカが南北戦争から立ち直り、ウィンチェスター銃のような銃器製造の精密技術を時計に転用して、ウオルサムやエルジンが台頭した十九世紀末である。あたかも鉄道が全米に普及して、正確な時計の需要が急増した。幸いアメリカ市場が大きく、輸出にまで手が回らなかったから助かったものの、スイス時計はこれまでの重要な米国市場を失った。アメリカは大量生産の技術開発によって精度の高い時計を手頃な値段で市場に提供していた。スイスは場当たり的な改善で手造り時計の生産を続けたのでその差は歴然となった。スイス人は律儀だから売り方も現地の人に任せきりだった。一八七六年のフィラデルフィア万博で、ウオルサムはじめとするアメリカの時計会社の展示を調査したスイスの時計技術者は、腰が抜ける程驚いて、このままではスイス時計は消滅すると警鐘を鳴らしている。なんとなくセイコーから始まった日本のクオーツ時計の攻勢にほぼ土壇場にまで追い詰められたスイス時計の一九八〇年前後のことを思い出す。これが二度目の最大の危機だった。 時計は正確な時間を知るための文明の利器である。クオーツ、電波受信、太陽電池、防水耐震、安価と揃えば天下無敵の筈である。人はどうしてそっちの方に行ってしまわないのか。合理的に考えると全くわからない。日本とアメリカの消費産業の担い手の共通点は、安くてかつ品質の高いものが最終的に勝利するという哲学である。ほとんどの消費者もそう考えるだろうから、普遍的文明観といってもよい。誰でも同じものなら安い方を買うと考える。 この二度の危機からスイス時計産業を救ったのは、究極的には、時計作りが、スイスの土着の文化だったからだ、と思われる。アメリカの産業は第二次大戦が始まると共に利益の高い軍需の方に移り、時計はおろそかになり衰亡した。戦後すぐ最大手のウォルサムは倒産した。アメリカ資本が買った多くのスイス時計工場もみんな消滅した。日本でも全メーカーがクォーツに走り、これまでスイスとの競争で培ってきた機械時計作りはほぼ放棄してしまった。スイスでの復活をみて、再び取り上げ始めたのは最近のことである。 スイスでは約五万人の人が時計産業に従事している。五万人と言えばさして大きな数ではないが、時計製造地域は限定されているので、ル・ロックルやらショードフオンのような時計の町に行くと殆んどの人が時計関係者である。あたりの田舎道を走ると、聞き知った時計メーカーや部品メーカーの社屋の前を通り過ぎる。スイスの時計事業所は、大まかに言うとまとまっているが分散型である。道路があまり渋滞しないせいか、大きな工業団地を作って、一緒になれば効率的という発想は全くないみたい。仕事上で人に会っても、日本のように学校を出て就職して始めて時計のこと知ったという人は少ない。親子代々とか、子供の頃から時計作りに親しんでいるとかの人が多い。時計に関係のない地方のスイス人からみると、一種の尊敬の念と共に、変りものとみなされることもあるようである。時計作りが、文化とみなされる所以でもある。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
オーデマ・ピゲ(A・P)の思い出 腕時計が日常生活用品として誰しもが持つようになったのはそう古い話ではない。腕時計の国内年間総生産量は、昭和初に二十万個以下を乱高下していたが、昭和二年(一九二七年)の年産五万個から急激に上昇し、百六十万個台になるが、日米開戦後は逆に急落、終戦の年にほぼゼロになっている。それまでの総量は約二千万個で、そのほぼ半数は輸出されていたから、国内消費に回されたのは二十年で千五百万個、年平均七十五万個にすぎない。いくら人口が少なかったとはいえ、普及していたとは言えない。スイスやアメリカの時計は、上等舶来ものとして庶民の手には届かなかった。 人々が時計を買えるようになり始めたのは一九五〇年の朝鮮動乱で、日本の景気が好況になり始めた頃からだった。まだ銭湯の番台には、「時計預かります」と表示されていた。それから約十五年、日本の時計産業は大きく発展し、一九六四年の東京オリンピックではセイコーが全種目の計時を担当するまでになった。当時の時計の命は精度であった。セイコーの時計は質においてもスイス製に後れを取っていないことを世界の人が知ることになった。 それでも時計通の中には、普通の国産はスイスの高級時計より正確ではないと信じている人が多かった。機械時計の精度は、ほぼ組み立ての最終段階の微妙な職人の手による調整で決まる。手作りの高級スイス時計に初めから量産目的の国産が、日差数秒の世界ででは追いつけない。精度の横綱はパテック・フィリップで両大関がオーデマ・ピゲとヴァシュロン・コンスタンタンだった。単に創業に関与した二人の人物を組み合わせた名称に過ぎないが、長くて発音しにくいことと歴史の古さが合わさって、オメガとかロンジンと呼びつけにする感じと違って、うやうやしく感じたのは事実である。横綱、大関とか番付けを付けたが、人気番付であって、いづれがより正確であった訳ではない。 このような超高級時計は、ほぼ幸運に外国に行けた人が無理算段して買って帰ったもので、時計屋さんでも多くはその名を知らなかった。当時の輸入時計事情は、以前この紙面で詳しく説明したことがあるので割愛するが、いろんな段階で中間業者が絡み、関税も三割と高く、日本の小売値定価は、スイスの小売値と比べ三倍近くになっていた。だから高級時計は余程の金持ち相手にしか商売が成り立たなかった。その様子が少しづつ変わり始めたのが、一九七〇年の大阪万博からであった。延べ六千万人が出かけたという現代のお伊勢参りであった。その動機は西欧諸国を中心とする外国への憧れであった。門をくぐれば、現実から非現実の世界へ、祝察の場へ入っていける。この時点から、日本経済は上昇しバブルに入っていった。無数の人が外国に出かけ、土産にスイス時計を買って帰国した。それでは国内の小売市場を圧すると関税はゼロとなり、高価な時計も売れ始めた。 その頃、オーデマ・ピゲは私の会社の取り扱いブランドであった。今は存在しない東京のスイス系商社「デスコ」から仕入れ、卸売りをしていた。ロイヤルオークが一目でわかるロレックスの単一モデル戦略を狙って開発され、今年が五十年というからその頃だろう。当時の社長のジォルジュ・ゴレイさんが、その販売促進に来られたりした。オーナー系の出身と聞いたが、太っちょで丸顔、いつもメガネが鼻からずり落ちそうになっているスイスの田舎のおじさん。人柄の良さと、優しさが表に出ていた。「ゴレイさん、ゴレイさん」とデスコの社員までが親しげだった。 次の社長はがらりと変わって、スコットランド人のスティーブン・アーカート。細身で見るからに切れそうなハンサムで、一寸したジェームス・ボンド。ある夜、一緒に大阪新地のクラブに行くと、酔ったホステスに気に入られた。帰りに車まで送っていくから、背負ってくれと頼まれ、赤ん坊を背負うように歩いて行った。道行く人は大笑い。仕事の話よりもこの姿を憶えている。良き時代だった。バブル同様良き時代は続かない。アーカートは長く社長の座にあったが、卸売りはしないとなって、交際はなくなった。自身もオメガの社長となって活躍したが、もう引退したと聞く。 まだゴレイさんが在任の頃、APの本社工場に行ったことがある。ジュネーヴから北東へ登り道を二時間、フランスとの国境近くの小さな村、ル・ブラッシュス。ヴァレ・ド・ジュウという原っぱに道が一本通っていて両側にある集落。その一軒が工場で、きれいだが小さかった。当時は百人もいたかな。デスコの人に町に一軒しかない隣のホテルに連れていかれるよと言われた。ゴレイさんが、矢張りスイスの旅籠屋みたいな「オテル・ド・フランス」でお昼をご馳走してくれた。最近AP社がこのホテルを買収、実にモダンな最高級ホテルに改築している(FH誌今年十号)。 さてAP社本体はどうだろうか。一九九四年に九千万フランだった売り上げが、昨年は十六億フランになっている。約二千二百億円。こんなに売り上げを伸ばした社長は誰なのだろうか。取引がなくなると解らない。 その人が三十年間在職し、十年社長をやったので、したいこともあるし今年止めるという新聞記事が出ていた(FH誌本年第九号)。オーナー会長のジャスミン・オーデマさんとの対談形式で紹介する。 「あなたは若いころから気性の激しい人だったからね、言い出したら自分の事だから聞かないでしょう。仕方がないわ。よくケンカしたけど、あなたにはあなたはボルドー・ワインのように年々成熟したと思います。はじめは火山みたいでどうしようもなかったけど。でも社長になってもらっていて本当に良かった。一緒に仕事をするのが楽しかったわ。あなたは人が好きで、ユーモアがある。役員会でも噴き出すことが何度あった事でしょうか」 「社長としての最大の業績はと言われると、考えるまでも無い。人だ。人が育ったこと。自分がしたという点では、二千五百人の社員のトップとして、全員を自分の船に乗せたというのが誇りかな。魅力的な会社にするとは、入社当日から居心地の良い環境を作る事だった。その努力を惜しまなかった。だから社員と一緒になって今の繁栄を築き上げられた。勿論美しい時計、素晴らしいムーヴメント、他社にない製品の構想を練ったりはしたけど、結局実現するのは、人と人の調和という人間的な側面なのだ。一番うれしいご褒美は、社員たちからの肯定的な評価と意見をその視線から読み取るときかな」。この舞台から去り行く社長の名はフランソワ・アンリ・べナミアスという。 次期社長は、ほぼ公募で、男女を問わず、会長・社長が相談して選ぶことになっている。今頃は決まっているかもしれない。(栄光ホールディングス会長、小谷年司) |
|
|||
「ブライトリング」 夏休み寸前号のFH誌には、六月二十九日にコロナで中断していたFHの実質総会が二年ぶりに開催された報告が出ていた。本年初頭から五月までの輸出額総計は、前年比十二・八%の増加で、高級時計の躍進のお陰らしい。同じ号の巻末に、新聞からの転載記事だが、高級時計の花形の一つであるブライトリングの社長ジォルジュ・ケルンとのインタビューがあった。 ケルンはリシュモン・グループに在籍していたが、五年ほど前に退社して金主グループを説得してブライトリング社を買収し、経営にあたっている。元々一八八五年にサンティミエで創業した時計メーカーで歴史は古い。はじめからパイロットの時計部門に突出していて、評価は高かった。百年近く家族経営だったが、クオーツが勢いを増してきた頃に、当主ウィリー・ブライトリングが売却してしまう。買ったのは、クオーツ以前には安価時計の代表格だったロスコップ式(ピン・レバー)の大量生産工場を経営していたアーネスト・シュナイダーである。彼自身もパイロット経験があり、いくつかの試行錯誤の後に、現在のブライトリング発展の基礎をほぼ作り上げたと言える。現在はケルンが、更に発展させつつある。ケルンのインタビューを読むと、高級時計製造業経営の核心を突いた発言が多く、含蓄に富んでいる。自社製品自慢のありきたりな、決まり文句は少ない。本来ならば、一問一答をそのまま翻訳すればいいのだが、要点をまとめておく。以下の文、ケルン自身の言葉とみなして読んで下さい。ブライトリングの現在の生産量は二十五万個、雇用者総数千五百名。主要工場はグランジュとラショードフォンの二カ所。 経営に携わってから五年になるが、根幹となるべき四つの基本軸を徹底的に見直したために大きな変化に繋がった。まずブランドのポジショニング、製造そのもの、表明すべき価値観、それに販売戦略。 以前は、私達は作るだけで、販売はほぼ他者に頼っていたが、現在は一体化して、販売網と市場のコントロールが本社で出来るようになった。全世界で販売拠点が千五百ケ所、専門のブテックが百六十店。二年がかりで再編確立し、同時にブランドの再構築にとりかかった。デザインは一目でブライトリングと認識できるものとすると規定した。以前はやや大袈裟で、ピカピカしていかにもパイロットという感じだったのを、トーンを落とし、よりスポーツシックにしている。航空という領域は重要だが、それだけが専門というブランドではない。空だけではなく、海、大地の要素を組み込んだ。これは一九三〇年代に、ウイリー・ブライトリングがすでに考えていたことの復活に過ぎない。 価値観の面でも贅沢な感覚をもう少し柔らかに消費者に訴えたい。仲間内の贅沢を楽しもうという、長続きする形の広告・宣伝をしたい。ゴルフ、テニス、フォーミュラー⒈、ではなく、もっとリラックス感のあるサーフィン、トライアスロン、ラグビーが良い。同じ贅沢でも社会に責任を持ち永続性を求める。製品でも製造工程でも、化粧箱に至るまで、プラスチックの使用は控え、海中汚染を避ける。今やブランドは環境に対する全面的配慮無しに存続し得ない。消費者にとっても、投資家にとってもそれが最大の関心事になっている。 他の高級ブランドはアイテム数を絞り込んでいるのに反して、ブライトリングは拡大してはいると言われているが、外見上はそう見て、製品のリファレンスは増やしてない。横に拡がっているのは、当社の歴史的な伝統を再確認しているためだ。歴史の豊富な遺産のと言える。ブライトリングは元来は総合的な時計メーカーであり、専門家用の特殊時計から一般の人の為の時計まで製造していた。 ブランドを確立するという事は、長い歴史の中で多層化して見えなくなっている固有の要素をコンパクトにまとめて、可視化し首尾一貫させる行為だ。サッカーと同じで、花形プレイヤーを多く集めても、システム化していないと勝ってはしない。かってブライトリングの顧客は、歴史的モデルの蒐集家か、航空機マニアのどちらかで、両者の相互関連は全くなかった。現在では私たちの努力で両者がつながるようになっている。顧客の四分の三が入れ替わり、新しい層になっている。 今日では消費者はまずブランドで購入する。次にデザイン、そして機能となる。私が業界に入った三十年前は、一番は性能だった。機械が良いかどうかである。今は選択の順番が逆転してしまった。消費者はブランド固有のデザインや歴史を求めている。二十年前よりも時計に文化を求める欲望がはるかに強くなっている。 価格戦略では、私達時計の単価は五十万円から五百万円の間が主力で、市受精から見ていい位置にいるのではないか。勿論旗印としてトウールビヨンとか、金側とか更に高価な時計も作っている。それに婦人用の時計も手掛けているが、当面は需要が少なくとも発展の可能性は高い。 スイスの時計産業全体は成長しているように見えているが、落伍する個別企業も少なくない。そのうちに自動車産業と同じように一ダースぐらいの強力なブランドにビジネスが集中するだろう。ブライトリングの成長は年率で二十〜三十%だが、六十%ぐらいの伸びる可能性はある。製造能力はかってない程充実していて、年々売り上げ記録を更新していてもまだ余力はある。当社のスローガンは、「今始まったばかりだ」としている。世界的に偉大なブランドの創成期と自負している。 現在の主要な市場は米、英、仏、独、伊で、他の国でするべきことが残っているし、中国はほぼ手付かず。まだ手探りの状態だ。売り上げ六割増計画の中には中国は入ってない。売り上げ増には生産増が前提になるが、自社工場を増設する気はない。重要な部品を供給してもらっている下請け工場に新鋭の機械を貸与して、協力してもらう。下請けは過去の過剰生産の悪夢におびえているから、安定した発注を期待している。それに応えなければならない。特に今のようなコロナの時代には。自社内で全ての部品を作れるような会社は何処にもない。発注が一度途絶えると、下請けが再出発するのが難しくなったり、時間がかかったりする。製造も自己完結ではなく、循環するものだ。 ネット販売や見本市、仮想空間などについて、ユニークな見解を披露するケルンとの対談はまだ続くが紙数が尽きた。ブライトリングの今後が楽しみである。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
「近江神・漏刻祭」 美しい湖から流れ出る川口に位置する町という点で大津はジュネーブに似ている。琵琶湖と背面の山々との土地が狭いので大津はまるでリボン、何処が中心街なのか解らない。気の毒に由緒あるきれいな町なのに、大津というと琵琶湖しか浮かばない。近江神宮はV字型の左側上の湖岸に近い山中にある。 例年、神宮で開催される漏刻祭は、コロナで一般参拝が中止となり、神宮と関係者だけで実施されていた。今年は幸い三年ぶりに公開となり、多くの人々と共に参拝することが出来た。時期は梅雨の最中だが、この日は晴天の日が不思議に多く、今年もそうだった。FH日本代表の中野綾子さんも東京から参列されていた。 神事の印象の爽やかさと湖畔の景観の美しさは心に残るものである。多くの人々に行ってもらいたいと願って、仲間同士の雑誌に昨年一文を草した。業界の人々への誘いともなればとここに再録した。一日を割いて、足を伸ばして下さるきっかけとなれば幸いである。 若い時には時間が無限にあるような気がする一方、豊富過ぎて使い道のない時には退屈で死にそうになる。それが嫌さにちょっと地下鉄に乗るにもポケットに文庫本を入れて出た。それが今はスマホである。電車に乗るとみんなスマホを見ている。公園のベンチに長時間座り込んで、何もしないでいる老人を見ていると、よく我慢ができると思ったりしたが、もはや他人事ではない。過行く時間を惜しんでいるのが解ってくる。退屈している時間も貴重なのだ。ひょっとしたら「時よ、止まれ!お前はあまりにも美しすぎる」とゲーテのファウストみたいに、独り言をつぶやいているかもしれない。 時間は人生と同じように止まることはない。享年、または行年何歳というが、人生は誕生から死に至るまでに流れた時間の総和である。自分と共に生きた時間は自分の死と共に消滅するのか、それとも見殺しにして同じ歩みを続けるのか。答えに正解はない。物理的にみれば当然後者である。作曲家のベルリオーズは「時は偉大な教師である。しかも不幸にして教え子を一人残らず殺してしまう」と言ったそうだ。しかし主観的に見れば自分の存在を可能ならしめ、生涯生活を共に過ごした固有の時間は、死をもって消滅するともいえる。時間について考え始めるとキリがない。 六月十日は時の記念日である。この日には大津にある近江神宮で「漏刻祭」が催される。漏刻とは水時計の事で、階段のように水の容器が積み上げられ、水が上から下へ漏れて行き、その量で時刻を知る所からそう呼んでいる。近江神宮の祭神は天智天皇で、近江に遷都したときに、漏刻を設置し、時間を鐘や太鼓を鳴らして知らせ始めたのが、今の暦で六月十日に当たる。日本書記の記述にのっとっている。 「漏刻祭」はお祭りというよりは、一時間ばかりの神事である。近江神宮の歴史は古くない。昭和十六年に昭和天皇の発願によって創建されており、その翌年からこの神事が始まった。水時計だから、当然人手がいる。その技術者の長が漏刻博士、その上司の天文観測で吉凶を判断する陰陽頭と次官の陰陽介が管理責任を負った。今では時計業界に関係する人々が毎年入れ替わり、この三役に扮して、時間を大切にすることを神前に誓う。その時の扮装は、それぞれ位階によって異なる赤黒青の古代風の衣冠束帯である。最新の時計を奉納するからこれまた華やかな古式采女装の女性がこれに従って神殿に昇る。以前、漏刻博士役としてご奉仕した経験があるが、ヴェネチアの謝肉祭の仮装行列に加わっている気分で楽しかった。コスプレを楽しむ若い娘たちと気持ちを共有する。最も、神事だから前夜から神宮に一泊して齊戒沐浴して身を清めておく。遊び心は控えねばならない。近江神宮は、一山丸ごと広大な神域となっているから、本殿のあたりは輝く緑の樹々に囲まれ、晴天の下にあると、うやうやしい気配があたりに漂う。白衣の神官たちの無駄のない動きが美しい。祝詞の響きも耳に快い。悠久の時が流れ自然と敬虔な気分に誘われていく。 そんなこともあって、以来時の記念日には毎年見物人として通うようになった。今年はコロナの関係で例年の采女の参加はなく、女舞楽の奉納もなく、簡素化されていたが、祈りの方に集中されていて、それはそれでよかった。 近江神宮の南には三井寺があり、市役所に繋がる。この一帯は行政地区で行き交う車は多いが人影はまばらである。かっての都は何処にあったのか。諸説ある中、近年の発掘で、神宮にほど近い、錦織と判明した。市役所に抜ける狭い公道に面した住宅街の中である。どう思ってもここに宏壮な宮殿があったとは思えない。滋賀の都は天智天皇の薨去によって五年程しか続かなかった。秀吉死後、家康への政権移行に似て、争いが起こり、次の皇位は実弟の天武天皇に渡り、都も飛鳥地方へ戻ってしまった。(壬甲の乱)。 元々近江遷都は評判が悪く、沈没船から鼠が去るように人がいなくなったのか、瞬く間に廃墟と化した。十六年後、夫の天武天皇亡き後を継いだ持統天皇が行幸する。父の天智天皇と過ごした昔を懐かしく思ったせいかもしれない。宮殿の跡は一面の雑草におうわれて見る影もない。あたりには初夏の霧が立ち込めている。湖面から波の音が聞こえてくるかの如くである。随行していた柿本人麻呂が女帝の心中を推し量って、歌を詠んだ。 「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けばこころもしのに古(いにしえ)おもほゆ」 「さざ波の滋賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも」 夕暮れの湖畔に立つと昔の思い出が、次々と脳裏を横切る。あの人この人に会いたいと思うが、湖畔の景色は同じでも、今はかなわぬ夢。過ぎ去った時間は戻らない。 参拝の帰途、車はこの辺りを通る。このあたりの景観は古代とそう変わってなさそうだ。右手に迫る比叡山、左手に光る琵琶湖を見て、影も姿も無くなっている滋賀の都を一瞬に通り過ぎる。時間は全てを失わせる。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「世情の行方」 手元にあるFH誌最新号(六月九日刊)によると、今年に入ってスイス輸出は好調だったのが、四月にはややブレーキがかかったと報告されている。というのは皆さんご存じの中国内のロックダウン対策で、中国への輸出額が、前年比で半減してしまったからである。それでも全体としては七・三%と本年第一四半期の七・四%の伸長率をほぼキープ。対日本は十八・ニ%の拡大で、四月だけで見ると、ダントツに景気が良い米国に続いて、すっかり縮小してしまった香港に金額面で肉薄する世界第三位の市場になっている。シンガポールが三割近く躍進して、日本とほぼ同じ市場規模になっているのは、香港に替わる中継貿易基地となりつつある現象だろう。その他の諸国への輸出も軒並み好調なので、中国さへ回復すれば、これは香港経由分を含めてすぐに戻るだろうから、スイス時計は当面万々歳といえる。 とはいえ、輸入国である日本側から見ると、売れているのは超高価な時計ばかりである。スイス側の統計を見ても、通常価格の時計群は、それほど輸出が良い訳ではなく、出荷額単価三千フラン以上(小売りでは百万円前後と推定される)の価格帯の伸びが、四月で十一・五%である。第一四半期は十六・九%であった。これは伸長率であって、金額的にもっと多く貢献している筈である。ファッションに関する品目に近年特に目立つのは高価なものが当たり前のように売れていく傾向である。時計に関しても同じで、より高価な物への関心が強い。セイコーがいち早く高価路線に転換したのは賢明だったと言える。本来消費市場なるものは、すそ野が広がることで高い山が出来てくることになっている。現在の時計市場は、狭い裾野に高い山が林立している感がある。スイスの低価格帯時計が低迷しているが、競合する日本の各メーカーの輸出状況が好況かというとそうでもない。時計の消費市場構造が日本と同じようになっているのだろう。それにしても百万円以上する時計を簡単に買える階層の人々がどのくらい残っているかは気がかりである。 もう今や夢の話に近いが日本の経済大発展は、安く良質の製品を大量に生産する技術を磨き上げ続けることによってなしとげられた。かくてメイド・イン・ジャパンは世界を席巻した。同時に国内経済は潤い人件費は上がり、生産の海外移転が始まった。人件費がいかに安くとも、大量生産の為の機械を持ち込まない限り、更に安くはならない。近視眼的に見れば敵に塩を売るようなものである。基本的な技術さえあれば、生産できるようなものの市場を日本は失った。 ただ国内では「どこよりも良い品をどこよりも安く」という企業家精神が、すべての業種に跨って支配していて、生活者としての国民一人一人にとって嬉しい現状となったが経済的には長いデフレを招く結果となった。物価が上がらないこと自体は、インフレよりはるかにいいと思うが、社会や経済の停滞をもたらす一面がある。人々の心理がつい保守的になる。このままではいけない、何とかしなければという思いが改革やイノヴェーションの動機となる。ところが現在のようなデジタル社会になる以前では、方向性が個別ではあるが感覚的につかめていた。勿論、個人によって判断は異なるが、世界はどっちの方向に向かっているか、認識しやすく行動も自ら決まり、仲間も簡単に見つかった。今はまさしくクラウド・ファンディングの世界である。ネット上で、手探りで投資を募す事らしいが、ここでは英語の原義「雲中模索」を意味する。この世は何処へ行くのか、雲をつかむような話になっている。 最近の国会の議論を見ても、揚げ足取りや証拠を突き付けての追求には熱心だが、質疑応答の中で、将来的にヴィジョンが討論されることはない。首相の答弁そのものが、原則論ばかりで、先行きの事は我々同様あまり読めてない気がする。全てが、やってみるまでは解からないという返答に聞こえる。国民は漠然とした不安と、形にならない不満を抱えているが、それが何処から来るのか確実に把握できていない。今はどうにかなっているから「まぁいいか」と現状追認となる。野党の代案は大抵が場当たり的人気取りみたいなところがあって危うい。 政治家にしろ、社会活動家にしろ、今や信念の人が存続しにくくなっている。信念の人であっても、人間である限り欠陥はある。「下僕にとって英雄は存在しない」という諺がある。SNSの一発が、その人を社会から葬り去ることが、今ではありえる。SNSには総合的判断はない。用心ばかりしていると、信念も発揮できなくなる。 このコロナの三年間で、十年分はネット社会が進捗した。ネットとは網である。個人個人が見えざる網に絡み取られて、生活をしている。このネットは双刃の剣で、便利でもある。使えば使うほどに絡んできて、時には動きが取れなくなる。ひと言かければ済むところメールする。メッセージの内容が他愛なければ問題はないが悪い時もある。かけられた言葉は大抵すぐ忘れるが、文字は残り、恨みも残る。テレビもラジオも電話もない場所は、想像できるが、スマホのない場所は想像できない。多くの人にとってスマホは命の綱であり、同時に束縛でもある。この悪魔的な両義牲!スマホをみれば、あなたの行動はほぼ解る。つまり網の中に捕らえられている。 NTTが将来、社員の本来の職場を新居として、出社は出張扱いとする方針を発表した。コロナ期間中に普及するようになったテレワークの徹底化である。通信業だから可能と思えるが、私の会社でも外回りの営業部員を除いて在社社員は一日中画面ばかり見て仕事をしている。テレワーク化する可能性は、心理的な面を除くと、かなり高い。離れた支店同志の連絡は大抵テレビ画面である。テレワーク化が進むと、ネット上では多くの人とつながるけど、それはほぼ情報の交換に終わり、人と人との血の通った付き合いは少なくなり、孤独感が深まるのではないだろうか。父も母も毎日家にいるけど、二人とも忙しくて、ろくに話もしない。日本中がそんな家庭だらけになる日も近いのでは。毎日出社しなくても良くなったら、人口が分散するといいのだが、どうだろう。直接肌で感じる情報の重要性が増し、人肌恋しいという感情が加わり、かえって都市に住みたがる人が多くなるかなと考えたりする。時計業の将来を予測する前に、現実の社会の行方について考察しようとしてこんな悲観的見方となってしまった。人生残り少ない老人の繰り言とみなされたい。(栄光ホールディングス会長・小谷年司) |
|
|||
「病後妄言」 いきなり私事から始めるのは申し訳ないが、前回の原稿を書いてから病気になって、約半月間入院した。幸い点滴注射だけで治った軽症だったが、コロナの影響で外部からの面接は一切禁止、精神的には留置所に拘留された感があった。成人してから見舞客として病院には行くが自分が本格的に入院した経験はほぼない。病院とは入院すると病人にされてしまう場所ぐらいに考えていた。今回入院したのは、自宅にすぐ近い宝塚病院といって、私立のどこの衛星都市にもある病床数百五十ぐらいの中型病院であった。医療機器に最新のものがあり、病室もまあ新しいビジネスホテル並みで明るい。個室料差額一泊七千円を払えば、消灯もなければテレビは終夜みていても差し支えない。シャワー室は予約制だがいつでも使える。患者用のサロンがあって、一種の図書室兼ティールームにもなっている。もっともコーヒーはなくて日本茶のサーバーしか置いてない。入れ替わり立ち替わりくる看護師さんも実に親切で、小さな希望は二つ返事でききとどけてくる。そんなことは自分でして下さいといわれる自宅とは大違いである。こういった完全看護付きのホテルのごとき病院は、ふた昔以前は夢の施設であって数もごく少なく、金銭に余程余裕のある人しか入れなかった。それが健康保険でほぼまかなえるのだから良い世の中になったと思う。もっとも七十五歳になると企業に属していても、企業の保険料負担はなくなり、ある程度収入のある私達夫婦を合わせて年に八十万円程払っている。医療費の負担は三割となっている。(収入が少ないと一割)。それでも待合室にいる老人たちの数の多さをみると国家財政における医療補填費の多額の歳出に悲鳴を上げる政府の気持ちが解らぬでもない。これまでは、町の開業医としか病気でのお付き合いが殆どなかった。大抵は看護師さんを二、三人、受付が一人という模様である。医師は注射もできれば医療の殆どを一人でもすることができる。他の人は助手であって仕事の割合の殆どが医師である。労働量も多い。だから収入の全部が医師の懐に入って助手に給与として分配する。 ところが今回入院してみると、治療が大きな病院においては完全に分業化して、システムとして機能していることがつくづくと実感された。緊急の手術を要する場合を除き、患者はまずMRとかエコーとかレントゲンといった機械検査にかけられる。まず人間ドッグの速成コースに入れられたとみて良い。素人にはさっぱり解らないそのデータをみて病状によって担当となるその専門の主治医が決められ、コンピュータ画面をみながら司令塔として方針を定め、配下の看護師に通達する。その方針はすぐ書面となって患者にも同意を求められる。もっとも患者にしても同意するしか仕方がない。開業医のように患者のゴタゴタ話に耳を傾ける問診に時間は費やされない。主治医も多くの患者をかかえて多忙である。人間だから休日も必要である。すぐれた病院とは「病気になった人間」を受け入れるところではなく、ある人間が体現している病気を、最少のリスクで治療するところとなっている。最少のリスクとは、最大の保険をかけることで過剰医療になる傾向は強い。昔は患者や遺族が世話になった病院や医師を訴えるということは例え不満があってもしなかったが、今は当たり前になった。病院側は万が一の訴訟に備えて医学的には万全の処置を施したという証拠を用意する。万全の心構えは医療現場の質向上には役立つが、結局はコンピュータに残るデータである。普通一般の企業でも、職場へ行くとすべての職員がコンピュータ画面を相手に仕事をしている。病院でも同様。というかそれ以上である。看護師だって施療する時は必ずパソコンを携えその指示に従っている。病院そのものが一種の機械工場に思える時があった。コロナ発生以来三年、その間日本でも三万人を越える人が感染で亡くなった。隔離され防護服でロボットみたいな人々から治療を受け、家族、友人の誰にも会えずに遺骨とされてしまった人々の心情につい想いが至る。 今はコロナがやや沈静化して、あまり聞かなくなったけど、一時「医療関係者」の数が十分ではないから報酬を予算から出すとか、引き上げろという議論が盛んだった。この言葉の中に医師は含まれるのだろうか。公式的にはそうだろうがどうも速成のきかない医師とか、検査技術者は入ってない気がする。要するに医療に従事する労働者的側面の強い看護師や介護師を指す気がしてこの言葉には一寸した差別を感じる。というのは、入院患者の目からみると実際に治療にあたっているのは、殆んどがこの人達だからである。戦争で言うなら司令官が医師で参謀本部が検査でデータを作る人々で、戦場で戦う兵士達にこの人達があたる。外科手術の時だけは、外科医が先頭に立って闘うという図式だろう。外科医が何となくカッコよく見えるのはそのせいかも知れない。いずれにしろ、自分の今回の経験だけから判断するのは危ういかも知れないが、日本の医療のシステム化はかなり進化していて、いくつかの病院がエゴイズムを離れて連携をすれば政府の怖れているような医療崩壊は防げる気がする。また、AIがさらに進んでコンピュータデータの解析を多くの症状から学んで判断を下せるようになると、外科以外の診療医は不要になるのではないか、という気にもなった。 時計や宝石業向けの新聞に、素人の医療論を書いても仕方がないのだが、この三十年に病院のあり方に関する認識がすっかり変わってしまっていた経験を伝えたかったためである。 人間は自分の持つ価値観に従って生きている。個人的な価値観もあれば国民に共通な価値観もあるが、人類共通の価値観もないことはない。だが価値観は変化する。絶対的な価値観はない。この世の中に沢山の宗教があるだけでそれが解る。そんなに難しい価値観の変遷の歴史を辿らなくとも私達の周りの業界をみてもこの三十年の変化は激しい。一番重要な変化は、品質が良くて安ければ必ず競争に勝てるという価値観が大いにくずれつつあることだろう。消費と使いすてるの意味である。消費者は物品を購入する時には使いすてとまで行かずとも役に立たなくなって手元におくつもりでいた。だから安いことに価値判断があった。ところが物品に投資価値があるとみなすと値が高くとも気にもならなくなる。骨董気狂いが世に多い理由である。この機運が、今の時計宝飾業界を救っている。高額美術品の世界でも同様であって、あの写真をなぞって描いたようなアンディ・ウォーホールのマリリン・モンローの顔が二百億円以上で落札されたときいて唖然としてしまった。クリスティやサザビーで落札された値段はいくら高くても、後にそれが常識となる。その値のよってきたる理由はなにかというと伝説の値段という以外にはない。クルマだって時計だって宝飾品だって、超高額品の値は「伝説の値段」である。それは長期に亘っての細心製品戦略と莫大な費用を投じてのマーケッティングによって作られたものである。 高額なものが売れる傾向はいつまで続くか、それは勿論社会全体の景気とか株価の動向に作用されるだろうが、基本的には持続可能な循環型社会を作る機運が一方にあるから、しばらくは続くだろう。 私のような後期高齢者にとって、高級ハンドバッグというと十万円、時計は三十万円、クルマは一千万円の値を浮かべる。ホテルは五万円、温泉旅館は一泊二食付きで一人二万円、高級すし屋は一万円強、フランス・レストランは二万円弱。それを娘に言うと、貧乏人は仕方がないわね、その倍出しても無理じゃない、若い女性とは付き合えないね。と一蹴された。値段感覚だけでも完全に時代遅れとなっている。個人生活の面でも貧富格差は歴然としてきているが、販売される商品価格の面でも同じ傾向が明確である。 (栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「高級時計財団のこと」 「人間、不平等起源論」を著したルソーはジュネーヴ人であり、名物時計師の家系に繋がっていた。少年の頃の時計修行中、意地悪な親方が嫌になって、フランスへ放浪の旅に出てしまう。親方が良ければ、社会思想家よりも優れた時計師になってたかもしれない。ルソーは、人間社会の不幸は原始時代のある男が出てきて、杖でぐるりと境界線描き、「ここは俺の土地だ」といったことから始まった。ルソーが生きた当時は、王侯、貴族、教会の坊主とその一族が富をほぼ独占していた時代である。あらゆる拘束と習慣を嫌ったルソーは、彼らだけが何故富を専有できるが理解できず、それを解明するための本を書いたので、理想の政府も論じていて、単なる無政府主義ではない。しかし、このルソーの説は、後のフランス大革命の起爆剤となる。 「人間は生まれながら自由で平等である」ところが、財産の私有を認めると、個人の能力には差があるから、貧富の差が生じるのはやむをえない。貧から搾取するから富が生じる。搾取をなくして貧富の一切ない社会が成立すれば、人類は幸福になると考えた人が多く出た。「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」と言った、孔子にもその思想の芽はあるが、なんといっても代表格はマルクスである。格差ある資本主義社会はやがて自滅し、社会主義が全地球を覆って始めて素晴らしい新世界が生まれる。これがマルクス主義者の御託宣だった。つい五十年昔の事だが、多くの信者がいた。その後の中国やソ連邦の変化を見ても、貧富の差はなくならない。現今やっぱり資本主義だという事になっているが、その基本は、その資本が産業の地道な投資に回され、製品となって販売され、そこからの利益が又資本に戻ってくるシステムだろう。しかし作れば売れるという甘さはもう市場にはない。目新しいもの、イノヴェーティブなものでないと人は振り向かない。そのお金は物造りより株式投資などにまわる。利益は消費に回らず、ほぼ再投資になる。経済力とは、国民総生産の総計であって、個人投資の占める割合は大きい。日本はお金を使わない人が多いから、さっぱり総生産が増えない。コロナで一人当たり十万円、総額で十三兆円を配ったが、大方は日常家計の方に回ってしまったと考えられる。悪銭身につかずというが、政府がくれるのは良銭だから身についてしまった。経済力(総生産)で金メダルはアメリカ、銀が中国、銅がかなり離されて日本だ。EUを一国とすると日本はメダル外となる。アメリカや中国の様子を見ると、人々が町に出てどんどんお金を使っているかに見える。よく働き、よく遊んでいる人が多い。宵越しの銭は持たないのが元気の印か。当たり前の話だが、消費にお金が回れば、景気は上昇する。町の飲み屋街に、夜ともなれば、通行人の肩と肩とが当たるようになっておれば、景気は良い。結局、沢山の若者の登場がキイだろう。 コロナ以来三年間の不要不急の外出を控えよ、運動で従来型の消費は戻っていない。コロナ対応で新しくできた食事の持ち返りとか、ネット商売がその穴を埋めるには至ってない。消費全体が袋小路に入ってしまったといえる。幸い日本では、超富裕層の高額消費が堅調で、買い物でも旅行でも高価なレベルが好調、それもあくまでも資産価値がある、或いは経験の価値を有するものに向けられている。FH誌最新号(三月・二十四号)をみると、この二月の輸出額は全体で前年比二十五%も伸びている。その伸長組の主役はやっぱり十万円〜四十万円の高級時計である。二月に始まったロシアのウクライナ侵攻がどのくらい今後影響があるか解らないが、この二つの市場はスイス時計にとってはさして重要な位置を占めてないので、輸出額への大きな障害になる事はあるまい。 この間朝日新聞にある経済学者がこんなことを書いていた。消費財の生産者はこれまでのように役に立つとか、安いとか、新しい製品であるあることとか、実用的な効能を強調するのを止めて、もっと文化的な視点とか、商品や企業の倫理性とエコロジーや持続可能社会の実現に役立つとか、そっちの方の宣伝に金を使った方が良いという提案だった。 CO2の問題もそうだが、長い目で見ると人類は瀬戸際に立っている。まだ多くの人が自分たちが生きている時ぐらいは、大丈夫だろうと思っている。天然資源をむやみやたらに開発して、日本や米国、中国みたいに、大量生産、大量消費に向かい続けることはできない。確かに、まだついでに感はあるがこういった広い意味で文化性に配慮した商品は、沢山出ているが、その為その商品を買う人はまだ少ない。 文化事業は、企業としては余った金があるときにするものだという考えの中小経営者は多い。企業の発展や、利益の為にやっているのに、担当者の中には変なのが、その反対ばかりするのがいる。金の無駄遣いに過ぎないと嘆く。 カルティエを中心とするリッシュモングループとオーディマ・ピゲとジラール・ぺルゴ社が協力して高級時計財団を設立したのは二〇〇五年であった。現在はスウォッチグループとロレックスを除いて有名な高級四十三ブランドが加入している。理事はAPのジャスミン・オーデマさんを始め、創立の会社三社から出ているが、評議員らしき人は、三十人もいて、多士済済である。東洋人らしき人も五、六人いるが日本人はいない。この高価という点だけが共通だが、性格が異なるブランドが多く参画しているのが面白い。 今年のバーゼルフェアはなかった。ジュネーブの高級時計ショーは三月三十日〜四月五日まで開催された。出展者は高級時計財団にほぼ重なり、ロレックスやパティックも参加している。主として商談のために訪れるプロの商人に向けた展示会。開催中、毎日各メーカーから専門家が出てきて、持続可能商材についての説明がなされたと聞く。まさしく時宣を得た講演で、透明性、責任の持てる材料の使用など、持続可能な商材などいろんな観点から討議されたという。出展したグランドセイコーの高橋社長は講演者になっている。 商談会は「ウオッチズ・アンド・ワンダーズ」というという名で呼ばれ、一般人も参加できる催しは、「ウオッチ・アンド・カルチャー」と呼ばれている。この「時計と文化」の催しは四つに分かれている。一つは「ゲイト」つまり入門編で、これはたくさんの画像が出てくるインスタグラム(a watches_cler)で見て頂くしかない。ばらばらの画像ばかりだが見ると時計の魅力にはまるようにできている。目玉の時計の展示は、歴史的な名品約百点に、APの為にロイヤル・オークをデザインしたジェラルジェンタの仕事が特集されている。これは、四月十五日〜五月八日まで。ジュネーヴ市中で展示。もう一つの活動は、時計製造に関する高度な知識のセミナー。最後に一番重要なのは、世界中に散らばっている時計の販売員や技術者を教育する「アカデミィ」、学校。授業は十一の言語でなされる。これまで八年間で二万人が受講したという。今年はリモートで行われた。来月は香港大学でもでも講演が予定されている。金儲けするにはいろいろと努力がいる。 (栄光ホールディングス会長・小谷年司) |
|
|||
「ブランド迷想」 どうやらコロナも重症化率の低いオミクロン株になって、おぼろげながら先が見えてきた感がある。三年前に感染が始まった時には、あの一九二九年に起こった大恐慌のような経済的破滅が世界を覆いつくすのではないかと心配したぐらいだった。自分の会社の存続はどうなるのか、暗い予感さえした。ところが、意外に、世界経済も会社も、それほどの影響は受けなかった。私たちの業界自体も全体としてどうやら生き残っている。失業者が町に溢れ、生活苦に喘ぐ人々が多数出ることはなかった。業種によって被害の差は大きいが、逆にコロナが追い風になった産業もあり、世の中は分からない。先の世界大恐慌はニューヨークの株式市場の暴落が引き金となったが、コロナ下でもアメリカや日本の株価は最高値を更新した。首をかしげざるを得なかったが、要するに、金利ゼロ時代の金余りが原因らしく、特に富裕層の財布はコロナの影響を全く受けなかったとみられる。自分自身の事を考えても、外出制限があって、外食の機会も少なくなったりで、以前よりは遥かに消費支出は少なくなった。富裕層に属してなくても、年金生活者とか、給料が一定の収入が確保されている大多数の人々も、生活は不便だが、食べるに困るような状態に追い込まれなかったように思える。感染された方々は気の毒だが。要するに不要不急の外出が制限されたとともに不要不急の支出も減少している。会社の経営に例えるなら、売り上げも減ったが、経費も減ったという均衡縮小の状態が続いたと言える。個人への助成金は、一律バラマキだから、大した額は受け通る側にはならなかったが、事業者へのいろんな助成金は、かなり役に立ったかのように思える。兎に角この三年間の政府の場当たり的な施策に不満のある向きも多かろうが、国民をパニックに陥らせなかったことは評価されても良い。ただこの三年で貧富の差が明確に浮き彫りされたことは否めない。 日本ではアメリカのように、ごくわずかな富裕層が富をほぼ独占している事にはまだ至ってないが、その傾向は強い。これは世界中同じで、あの共産国中国でも所得格差は激しくなる一方で、習近平は「みんなで金持ちになろう」運動を先導しているぐらいだ。数字が正確かどうか自信はないが、いわゆるニッパチの法則で、日本では所得上位二割ぐらいの富裕層が、八割の富を保有している気がする。その位の割合でないと、コロナ下での消費者経済の意外な堅調の説明がつかない。この場合の富裕層の定義は生活必需品や用途のための支出は、考慮せずとも暮らせ、収入のある人々とする。 我々の時計宝飾業界でも、売り上げの低さを支えているのは、ごく高価なブランドの製品や、高価な宝飾品である。市場は野球で言うとホームランだけで勝ちを稼いでいるチームの様相を呈している。売る側から見ると、一個一万円の時計を月に百個売るのと、一個百万円の時計を月に一個売るのとは、同じ結果になる。効率は後の方が良いかもしれない。極端に言えばこんな状態になっている。富裕層にとってコロナはあまり経済的にはマイナスの影響を与えてない。資産運用で富は増え、日常生活は不便の為、いらざる支出は少ない。生活必需品は足りている。普通のものを買っても仕方ないから、珍しいものや資産価値のありそうなものと本人がみなしているものを買う。当然対象は高額品になる。 この階層が所有する八割の富の購買力は、コロナ以前より発揮されているのではなかろうか。物の消費だけでなく、コトの消費にも発揮される。旅行業界は勿論全体としては低迷しているが、クレジットカードの情報誌などを見ても、一泊二人で十万円以上する温泉旅館とか、一人五十万円もするような 特別仕立ての列車旅行とかが好評のようである。事実、私自身もつい先月コロナ枯れで格安にしてくれた京都のホテルに泊まり、せめて夕食ぐらいはと、二、三、有名なお店に電話したら、「満席どす。すんまへん」と断られた。全国的に知られたお店ばかりだったので、ブランドは強いと改めて痛感した次第。いずれにしろ、一般大衆とはあまり関係のない高額な物,コト消費が景気の下支えをしてきたと言える。 さて日本の時計市場は小売価格で約九千億円とみなされている。日本製の時計がその三分の一、あとはほぼスイス製である。スイス時計と言ってもたくさんのメーカーがある。全部が売れているわけではない。ロレックス、オメガ、パテック、カルチェと良く知られているブランドだけが売れているのだ。売れ行きの上からベスト十五ぐらいブランドでほぼ九割のシェアを占めるだろう。少しでも時計に関心のある人ならだれでも知っているブランドである。知られざる名品というのは、今や死語であって、知られていないものはそれだけで名品ではない。ブランドというものが単なる呼称でなく、重要な意味を持つようになったのはこの六、七十年来である。二〇二五年には大阪で二度目の万博が開催されるが、前回は一九七〇年だった。六千万人の入場者があったことで知られている。その頃の大阪のキタ新地にはピアジェという高級クラブがあったし、シャネルやランバンというスナックもあった。店主はしゃれた店名ぐらいに思っていたのであろう。そのうち、知的所有権侵害で訴えられて、その手の名前は全てなくなった。「俺が宣伝してやっているのにどこが悪い」と開き直った人もいたと聞く。さすが大阪人だが、その頃の普通の人の認識はその程度だった。中国本土でも同じようなブランド認識の発展段階を経ているのも無理はない。 この五十年間で人々がブランドというものに大きな信頼を寄せるようになったのは、その名が昔からよく知られてきたからという理由ばかりではない。ブランドの所有者が、ブランドを確立するために支払った努力と費用に対し、消費者が無意識ながら敬意を感じているためである。 例えばシャンパーニュというブランドを例にとる。シャンパーニュ地方で作られる発泡酒全体の呼称だが、この名を聞くとシャンパーニュのブドウ畑が目に浮かび、お祝いの席の華やかさを感じ、泡立つ黄金色の液体を想う。そのイメージを人々が抱くようにシャンパーニュの人々は努力してきた。ブランドの名を聴いただけで、製品の優秀性のイメージだけでなく、会社の経営哲学とか、いろんな要素が一瞬にして想起されなければならない。有名だからだと言ってピエール・カルダンの名で、トイレのスリッパを作るような時代ではなくなっている。ブランドが強力なメッセージと今日ではなっている。(栄光ホールディングス会長・小谷年司) |
|
|||
「リモートの時代」 ワンマン経営というと、とりあえず目の敵にされる。しかし企業の経営は規模の大小に拘わらず、会長や社長といった人の双肩にかかっていると言って過言ではない。第一、会社の創業は殆んど一人の力である。プロ野球でさえ、優秀な選手が揃っているからとて優勝するとは限らない。言わばワンマンな監督の手腕が必要となる。ワンマン経営の欠陥は、当人の能力と人生観にかかっているだけで形態が間違っている訳ではない。企業経営と国家経営は、本質が異なるけど、大ていのすぐれた指導者はワンマン性が強い。今年の冬のオリンピックだって、習近平の独裁カリスマ性がなければ、コロナ禍でのスポーツイベントとしてあれだけの成功を収めることはできなかっただろう。民主主義の論議は別として、昨夏の東京オリンピック前後のゴタゴタに比べ、開会式から閉会式に至るまで、終始一貫流れるようにスムーズに演出されていた。 民主主義は確かに手間がかかり、時間もかかる。企業の役員会で、議会でのような長い詮索のあと、多数決で方針を決めていたら、倒産は間違いない。多数決というのは、事が決まれば少数派も決議に従うのが原則で、法律が決まりみんなが従うことになっている。ところが現状となると反対派は不満を抱いたままで、意見を変えず残っているから、ヤヤこしくなる。トランプ前大統領の退き際が良い例である。あの民主主義のチャンピオンのリンカーンですら、会議の席上で、票数では私の方針は否決だが、大統領の権限で私の言うことを聞いてもらうと言ったという。かって東京都知事を長年勤めた美濃部亮吉は懸案だった橋梁工事に関して「一人でも反対者がいる限り、橋はかけない」と少数派擁護の民主主義者の権化みたいな科白を吐いたけど、都民には嘲笑された。全会一致は、独裁がまかり通る社会である。民主主義はややこしい。 その点会社経営は楽で、トップが決断すれば終りである。あとはその決断が正しかったかどうかである。もしも対立者がいても、従うのが嫌なら辞めることもできる。国民を辞めることはなかなか難しい。余裕のある企業なら、日の目をみるまで窓際族で我慢という手もある。 本誌の読者は多くは家族経営を含めて、企業の経営者、つまり商売人だろうから、いろんなことが自分で決められるという点で恵まれている。大企業では、経営者の企業での活動と私的生活は別だとするが、大体は混然一体となっている。人間は二つの人格を完全に分離して生きることはできない。勢い経営方針にも、個人の生き方とか、人生哲学が反映する筈である。ところが、毎年この新聞に載る年頭所感は、誰でもが口にするような常識的一般的な見解を披露しているものが多い。あるいは、我が企業だけが可愛いいといったものとか。時計・宝飾産業を社会全体の中で俯瞰した議論はない。また、面白くて奇抜な発想に感服することも少ない。 このような不満を洩らしたくなったのは、スイス時計クロノメーター協会が、年頭にあたって、秋に開催される大会での問題提起を公表しているのを知ったためである。(FH誌本年第一号一月二十日刊)ここに列記する。 一、時計製造者は女性に対して、製品の購入者としてだけでなく、働く女性として十分な配慮をしているだろうか。女性に対し特別な商品開発がなされているか。 二、製品に関しての保証については、マーケッティング戦略上だけの保証ではなく、現実的で技術面での製品寿命を延ばす努力がなされているか。例えば擦り減らない材質の使用など、製品全体の信頼を確保しようとしているか。保証の考え方が確固としておりそれを更に強化する努力を払っているか。 三、グリーンな製造方法、持続可能性、エコロジーが実現されているか。時計産業が社会に寄与できることは何か。リサイクルや工程の短縮化によって、自己完結を目指しているか。消費者の期待にどう応えているか。 四、時計のフェアは伝統的な多数の出展者のある形態から、単一ブランドのショウになる傾向が強くなっている。来場者に共通するビジョンはどう変化しているか。 この中で第一項だけは商売に直接つながるから、時計産業の経営者は真剣に対応しているが、あとは考えるのがシンドイことばかりである。女性相手の製品開発だって、男社会の眼で考えるかぎり、やさしく女らしさを表現するものばかり出てくるだろう。そんなもの嫌だとする女性にはどうするのか。 これらの問題提起から、ネット販売という重大な問いかけが抜けている。コロナで店頭へ出かけるのが難しくなり、ネット販売は急速に拡大した。全購入の四分の一ぐらいに迫りつつある。ネット販売のアキレス腱は、商品の信頼性である。だから返品自由をうたっているが、そうは言っても手間がかかるし、売る側にもコストの問題がある。特に高価な商品は難しい。 製品を納得して買ってもらうには、工場見学が一番有力である。ビール工場なんか一度見学すると、そこのビールのファンになる。少なくともある期間は。ビールや酒やワインの醸造所はあちこちにあるが、時計工場は少ない。見学される方も有難迷惑かもしれない。ましてやスイスの工場は遠すぎる。ところが、コロナでリモートでの会話や接触に人々がすっかり慣れたせいで、リモートでも工場見学が可能になった。昨年、ジュラ地方とは別にニューシャテル一体が、新しく時計産業遺産としてユネスコから認定された。それを機にこのあたり一帯にある時計工場が集まってリモートによる工場見学を始めた。その代表が今はLVMH傘下のゼニスである。訪問日は、毎週金曜日の朝、日本語での案内もあるようである。(http://explorewatch.swiss) 一度ネット訪問をしてみたいが、時差もあって、こっちは夜だし、操作も厄介なので行ってない。とりあえずFH誌にのっている写真と編集長のヴェィユエミエさんの記事で誌上探訪だけはした。ゼニスは古い歴史を誇る工場だし、昔のままの姿の工場もそのまま保存され操業もしている。近代化するべき場所はそうなっているし、古さがそのまま新しい魅力となっているから工場訪問は楽しい筈だ。工場はいろんなエピソードにも富んでいる。見学の終わりには現流品の時計も売ってくれるようだ。なにしろ工場直売、安くはしないだろうが少なくともニセモノではない。 そのうちに、日本の工場も真似するようになるかも知れない。ただ日本の工場の特長は製造工程の極端な自動化と完成品の品物管理にあるから、ふつうの人がみてもあまり面白くない。余計なものが一切ない。ありのままではなく演出が必要だろう。 (栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「新年妄想」 コロナは三年目になるので、ワクチンの普及でそろそろ収束かなとほのかに期待したがオミクロン株の登場で空しくなった。外国とは簡単に往来できない、日々の行動もいろいろ制約を受ける。不要不急の外出は控えよ、と言われる。まぁ、命の危険もなくはない。爆弾が天から降ってこないだけで、一種の戦時下と言って良い。戦っている将兵は医療従事者にあたるだろう。米国では、第二次大戦中の戦死者よりも、コロナ戦での落命者数の方がはるかに多いのに、民衆が意外に楽観的なのは不思議でならない。感染者七千万人、死者八十六万人という数字は、日本人なら気が狂いそうになる。しかも僅か二年である。子供のころに、いつまで続くかと思われた先の戦争も数えてみると三年と九カ月であった。コロナとの戦もあと一年と九カ月も続くのだろうか。 二年前にコロナのニュースを聞いた時には、唖然となった、一九二九年のニューヨーク株式市場の大暴落が引き金となった世界大不況が目前にある気がした。株券は紙切れとなり、食い詰めた失業者が町に溢れるのではないかと想像した。 ところが、最初の衝撃からすぐ立ち直った株価は日本でも反騰して今でもコロナ以前より高値で止まっている。平均しても企業の業績は悪くない。確かに人の移動に関連する業種、航空・交通・観光は極端に悪い。外食が悪いといえど、食品そのものの需要は伸びている。それは住宅地にある食品スーパーをのぞいてみればわかる。コロナ以前より活気がある。一方コロナで急速に上昇した業種も少ない。まずマスクや消毒液、医薬品、間仕切用のプラスチックボードに至り、リモート使用のパソコン機材に続く。数えたらきりがない。ワクチン会社など、どれだけ儲かっているだろうかと下司の勘ぐりもしたくなる。売り先は支払いの確実な国家が相手で、製造即売上げとなる。軍需産業と同じ構造で儲からないはずはない。素人考えだが、要するに儲ける側のプレーヤーが交替したに過ぎない。ただこの選手交代に伴う軋みをカバーする為に、政府はわけのわからない言葉の一つである財政出動なる行為に及んでいる。要するに国債発行という借金をして、個人や企業に助成金をばらまいている。 長年商売に従事してきたが、財政学には全く不案内で、こんなことがいつまで続けられるのかよく解らない。コロナで生活が苦しくなるだろうと政府は一人に十万円を配布したが、その予算が十三兆円だった。バブルのころの知り合いに、銀行の借金など返さなければいいんだよ、借りっぱなしで利息だけ払っておけば会社なんか永遠だと、うそぶいた豪の者がいた。恐らく国家はそれでもつのかもしれない。お隣の韓国は財政破綻して、一時デフォルトに陥ったが、国を売りに出したわけではなく、間もなく立派に独立国家として、立ち直っている。 先日、日本国民全体が持っている金融資産が二千兆円を超えたと新聞が報じていた。もしも国債の償還前の総発行額が千兆円に膨らんだ時に、その全部を払い戻せなくなり、踏み倒しても国民にはまだ半分は残っている。政府は土下座して謝ればいいのかも。外国の債権者にはそうはいかないが、日本国債は殆んどが日本人または日本企業の所有と言われている。そういえば日本が戦争に負けた時に、国債は勿論のこと、貯金、証券や年金がほとんどないに等しくなった経験をしたっけ。 これからはまじめな話になる。バブル以降、賃金はそれほど向上していない。貯金の金利はほぼゼロである。それにもかかわらず、金融資産全体が増えているのは、貧富の差が激しくなっていることを意味している。世界中同じような傾向がみられ、消費のされ方に大きな変化が出る。富める人々は、もう生活必需品はいらない。そうでない人は、少しでも生活を楽しむために、対費用効率の高い、お金の使い方を工夫する。両者の消費傾向は、全く異なってくる。寿司屋の回転すしと超高級店の存在がその例である。お金持ちが回転すしに行かないとは言えないが、その逆は殆んどあり得ない。グルメ誌に登場するような洗練された高級すし店の値段は普通人には理解しがたい。それでも有名ならば、払える人たちで満席となる。一方、回転すしにも人は多い。そして一昔前までは、どこの街角にあり、近所には気安く出前をしていた店が、すっかり姿を消してしまった。中間層がすっぽり抜け落ちている。あらゆる消費部門にあって、このような極端な価格差を持つ、市場二分化の傾向は十年ぐらい前から目立ってきたが、コロナで急加速したように思える。私たちの時計宝飾業界でも全く同じである。寿司は安くても客は来るが、ここでは状況はもっと厳しい。高額なものしか売れてない。しかも有名なブランドに限られている。ブランドでも沢山あり、相撲を例にとると、新弟子から横綱まで、それぞれの取り組みに観客はそれなりに座っていて、場所全体が賑わっていた。そして今のコロナの時代は、横綱、大関と三役だけの取り組みにお客が来るだけになっている。 ここで何故そうなるのか、買う人の対場になって考えてみる。高価な時計、宝飾品、車、バッグ何でもいいが、いまそれらを求める人は、買いたいものの本質的な機能を求めているのではない。バッグでいうなら、丈夫で持ち歩きに便利で美しいデザインを求めているのではない。それ等の条件を満たし、かつ手ごろな値のものは、探せばこの世にいくらでもある。しかし、それは世に広く知られているブランドでなければならないし、一般人にはなかなか手が出ない値でなければならない。しかも一目でメーカーの名が解る外観を呈してないといけない。それで自分自身にも他人にも放つオーラを楽しんでいる。このような高額なものが、自分にとってごく当たり前な日常的なものだという優越感もあるだろう。「法外な値段が消費を促す。何故ならば虚栄心の前には障害物はない」と毛皮について作家のバルザックは言っているが、虚栄心もバッグの所有者の心理にもあるだろう。だが今の購買者の様子を見ていると虚栄心からだけとは思えない。「見せびらかすのが大好き」という陽気な人ばかりではない。何やら心の中にうごめいている不安感、我々の世代にはよく理解できない満ち足りた人生への空虚感を鎮める効果があるのかもしれない。だから高価な上に入手が難しいという磁場が必要とされるのではないか。 神や魂が、この世に下りてきて、よりつくところを依り代という。昔の人は珍しい岩や木をよりしろとして崇拝した。ひょっとすると、高価ブランド品も現代人のよりしろではなかろうか。答えは、民族学者に聞いた方が良さそうだ。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
「ナルダンという時計」 辞書を必要とする読書とか書き物をするために書斎の机に向かう時、一種のジンクスで置いてある古い金側の懐中時計の時間を合わせネジを巻く。時計はまるで命を与えられたの如く、コチコチと秒針が動き始める。さあ仕事にかかるかという気分になる。時計は百年ほど昔のユリス・ナルダンで、ルロックル・ジュネーヴと白い文字板に書かれてある。工場はルロックルにしかなかったから、ジュネーヴには何らかの出先機関があったのだろう。ジュネーヴと書き足すだけで、時計の値打が上がったと思われる。ルロックルは田舎だった。 でも、戦前の日本、スイス時計の中で一番名声の高かったのはナルダンだった。ロンジンやモバードも知られていたが、時計業界に長年身を置いた父が一番敬意を払っていたのはナルダンだった。戦後だが仙台にナルダン堂という大きな時計屋さんがあったのも、その名残である。 そうなったのは一九〇四年、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を、決死の思いで打ち破った日本海軍の軍艦に搭載されていたのがナルダンのマリン・クロノメーター(以下マリクロと書く)だったからである。船の正確な位置を知るためにはできるだけ精度の高いマリクロが必要とされた時代である。しかもこのモデルは、前年に製品化されたばかりであった。提督の東郷平八郎の信頼する機種であった。この事実が知られ、その後は世界中の海軍から採用されるようになった。マリクロといえばナルダンという時代が四十年も続いたが、同じ製品の上にあぐらをかいていると、必ず落とし穴がある。第二次大戦になると、米国海軍は国産のハミルトンを使うようになり、交戦国の日本もセイコーを使っている。皮肉なことに両社とも、ナルダンの巧妙なコピーであった。特にセイコーのはスイスの専門家が見ても、スイス製としか思えなかったという。残念ながら、日本の軍艦は殆ど沈没させられてしまったから、このモデルは僅かしか残ってない。 どうしてもナルダンの工場をみたいという父に付き合って、ルロックルを訪れたのは一九七〇年頃だったと思う。ナルダンのお家芸だったマリクロは、一九六三年にエボーシュ社がクオーツで開発していた。同じころ、セイコーもクオーツで卓上用のマリクロを製品化している。腕時計にクオーツが出現する前段階である。ナルダンは、クオーツ化の潮流を無視した為主力のマリクロ市場を失い、没落せざるを得なかった。その窮状に米国のベンラス時計会社が資本参加して、助けられたと思いきや、すぐに金主の方が倒産してしまった。仕方なく普通の時計生産で生き残りを試さざるを得なかった。私たちはこんな頃に工場を訪問した。相手をしてくれた人は、ナルダン家の最後の人だった気がする。十九世紀に建てられた煉瓦造りの広い工場だったが、がらんとして職工の人影も少なく、尾羽打ち枯らした感があった。時計に限らず倒産寸前の工場には、無気力という空気が流れている。帰途、父が落胆した表情で「あのナルダンがなあl」と嘆いていたことを今でも覚えている。セイコーが旭日昇天の勢いだった時代である。 ルロックルはジュラ山中の小さな町で人口一万人。時計関連の工場が多い。ここから六キロ離れたラッショードフォン市とこのあたり一帯が、時計産業文化遺産としてユネスコに登録されている。ルロックルの町中に、時計を手に持つ男の銅像が建てられている。当地の時計産業は、この人に始まるとされるダニエル・ジャン・リシャール、三百五十年ほど前の人。彼が少年のころ、父親の鍛冶屋を手伝っており、手が器用なことで知られていた。そこに馬商人が来て、ロンドン製の時計が壊れたので直せないかと持ち掛けた。少年は時間をかけて時計を直した。同時に同じものなら作れると思い時計作りに専念することになった。聞き書きみたいな当時の文書に残っている話だが、一人で時計は作れる筈はなく、いろんな人が部品を作り、手伝ってくれる環境がすでに形成されていたと推定されている。後のエタブリスール(部品を買い完成する業態)のはしりだったとされる。実在の人物で、製作した時計も現存していて、ムーブメントに署名も彫ってある。以来、ルロックルは偉大な時計師たちを輩出している。 ナルダンの初代レオナルド(一七五四〜一八四三)は中部フランスの出身。二代目がレオナール・フレデリック(一七九二〜一八五九)、三代目が偉大な時計師とされるユーリス(一八二三〜一八七六)で、その才能は若いころから際立っていて、父を始め優れた教師にも恵まれた。二十一歳の時に、両親から借金して独立、店を持ってから二年後に、文字板に製作者の名を記さず納品するのが慣習だったのに、時計に自分の名、ユリス・ナルダンを書き込む。この年一八四六年を創業の年としている。長い歴史を持つ家族経営の名門は、一九八〇年代、終わりをつげ、東南アジアで時計部品を作っていた、ロルフ・シュナイダーの手に渡る。この時点でナルダンの命脈は尽きたと思った業界人も少なくない。 ブランドを買い取っても、名が売れているからだけの理由で存続を期待してもうまく行かない。ブランドが長い間で築き上げてきたイメージというが、DNAを研究、活用しない限り、ブランドに払った金は無駄遣いとなる。私たち時計業界も、世界の有名なファッションブランドに金を払って、時計を競って作ったが、長続きはしなかった。自社工場で時計を作っているファッションブランドだけが生き残っているのが良い例である。 その点シュナイダーという人は賢かった。ナルダンはマリクロで名を成した。マリクロの利用は天体の動きと密接に関係している。天文学の知識なしにマリクロは役立たない。天体観測をしなければ、いくら精度の高いマリクロも無用の長物に過ぎない。シュナイダーは買収後、間もなく幸運にも天才的な時計作りのルードウィッヒ・エシュリンを協力者に迎えることが出来た。天文学・科学史・哲学に通じ、かつ時計も作れる人という。一九八五年にガレリオという天文腕時計が発売され、続いてケプラーも出る。天文学好きには、こたえられない名称とそれに相まった機能を供えていた。これが時計メーカーとしてのナルダン復活のフアンフアーレとなった。 FH誌本年第十四号(十月二十一日刊)にナルダン創立一七五年記念モデルの紹介が、詳しく出ていた。解説付きカタログと言ってもいい。普段は熱心に読まなく、写真だけで済ます記事だが、時計の名がトルピァ―ル(魚電艇)というのが、ナルダンらしい。それに直径四十二ミリでフラットな時計の文字板が、アラビア数字とアールデコ調の感覚で老齢者には実に美しい。暫く鳴りをひそめていたナルダンに新しい風が吹くだろう。そう思うとこの文になった。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
「世代論議」 世代交代と言う時の世代は大体三十年間を指している。おそらく語源は英語のジェネレーションに由来するのだろうが、元々は生殖とか生産を意味している。そこから同じころに生まれた人々のことだとか、生まれた子供が親にとって代わって活動するまでの三十年間を目安として指すようになった。最も現代では親が元気で三十歳ぐらいでは、子に負けないから四十歳になっているかも知れないし、時代の変化が余りにも早いから、二十年間になっているかも知れない。スポーツ選手にとって世代は十年ぐらいだろう。世代の格差は、現実に社会的な仕事に従事している五十代から六十代の人々に大きな壁となっている。極端な例になるが、性差別、セクハラ、パワハラはタブーとして頭に入れていても、心から理解している訳ではない。自己反省しても世情理解と心的認識のギャップを痛感することが多い。 コロナがやや落ち着いたので、つい先日、岡山、福岡へ主張する機会を得た。駅近辺と繁華街を歩いてみたが、久しぶりだったせいか、外観の変わりようには、改めて驚いた。我が街大阪も、再訪する旅人の眼には、同じように変化しているのだろうが、連続的に眺めているので、強い衝撃は受けない。自分の娘の成長にはあまり気づかないのに、十数年ぶりに会う知人のお嬢さんがすっかり大人の女性になっているのに驚くのに似ている。単に街の様相が新しくなっているのではなくて都市構造そのものが変化している。駅周辺は街外れで、利便性からオフィスが集まってくる場所で、一級の商業地区ではなかった。今や駅そのものが一大デパートとなっている。商店街の横や階上を電車が走っている。それにつられるようにして近辺も商業近化しつつある。中小ホテルが林立し、あたりが活性化する。ターミナル駅の概念は、世代によって異なってくるのは当然だと言える。 さなぎが蝶になる変態や、ギリシャ神話で人間が動物や植物になることをメタモルホーズという。外見の変化と本質の変化が同時に進行する時に使われる。今それが、福岡や岡山だけでなく、全国各地の都市で起きている。訪問者が初めて訪れた時の印象は長く記憶されるのが常で、再訪の時には街の変化についていけない。動物学に「刷り込み」という現象がある。動物の赤ん坊は生まれ落ちた後、すぐ授乳してくれる動物を親と思い込む。猫の子でも、何らかの状況下で、犬から母乳を与えられると自分は犬だと信じ込む。最初のこの刷り込みが人生を決定する。人間も若年時には何かを刷り込まれると、ほぼ生涯はなれない。一般論だが、若いころ米国に留学した人は米国びいきになるし、欧州やアジアの諸国に留学した人は余程のことがない限り、その国を好きになる。 一つの世代にとっても、共通する刷り込みは多い。共通は共感と違って、社会への判断が同じ基準に立っていることを意味する。学生は学校や社会に対し反抗的であって、時には過激な行動に走る。従業員は常に給与や待遇の向上を要求し経営者と対立する。どう対応するかは別にして、みんながこんなものだと思っていた。学生運動や労働運動は、法律で規制しないと日本は破滅すると考える人も少なくなかった。所がどうだろう、今の世代になると、法律が最低賃金を傘上げしたり、労働時間を短縮し、休日を増やさないと、日本経済は長続きしないと考える人が多い。 経済そのものを見ても、倹約して貯金することが、貯金が産業育成に廻り、善とされたが、金余りの今日では通じない。つい一世代前までは預金集めに狂奔していた銀行が、預金があれば手数料が稼げる金融商品を売りつけようと虎視眈々としている。金余り現象などということは、かって日本人は経験したことがなかった。だから自分の財布に金が余っていようがなかろうが信じられないのである、若い世代の金持ち以外は。だから古い世代はこわごわ使っている。倹約は美徳の呪文から逃れられなくて、何か言い訳を見つけないと使わない。 経済成長率の伸長率を善とするならば、個人消費の占める割合が半ば以上あるから、お金を使わない人は成長率にブレーキをかけていることになる。個人消費の伸びが低いから景気が良くならないと聞かされると、理論では正しいとしても、首をかしげてしまう。全くの空想だが、日本人全員が、それぞれ余ったお金を全部無駄遣いしてみたら、どれだけ好況になるのか見て見たい気がしないでもない。誰かシュミレーションしてくれないものか。コロナの始まりの時、一人当たり十万円づつ頂いたお金、合計十三兆円近いお金の効果は、どうだったのか。我が家の場合、別に使ってしまったのではなく、家計に交じり込んでしまって行へ知らずになった。こんな家計の人間が貰うべき補助金ではなかった。 経済学者は、軽いインフレが経済発展をもたらすと主張する。人口の三分の一を占める老人世代は、それでも物価は安い方で嬉しいとしか感じない。高くなれば買い控えをする。当たり前の人間の心理であって、値上がりする前に買っておこうとは、これだけ物が溢れる社会が長く続いた後だから試みない。コロナのマスクや消毒液の時も値上がりはすぐ収まった。この世代が多く残っている限り、デフレ脱却は難しい。インフレで収入が先に上がり、あとから物価が上がるならいいが、逆に決まっているから用心する。 FH誌の別冊「潮流」は、宝飾時計の半期に渡る世界の現状分析や将来展望などの予測が載っていていろいろと参考になる。最近号を読んでも、コロナ下で驚異的な発展を遂げつつあるネット販売についての考察が多い。もう一つのトピックは中古市場の拡大である。中古市場の拡大に関しては、日本でも街中であれだけ多くの買い取り専門店が見られることからも実感される。これまでのマーケティングでは、商品が一旦、消費者の手に渡ってしまった後は、もう考えなくて良かった。逆流してまた市場に戻ればどうなるかはq考慮の外だった。時計や宝石は耐用年数の長い商品だから、消費者から市場に戻てくると、当然「使用済商品」の市場が出てくる。古物というと、ガラクタか、価値のある骨董品の世界になって趣味の追求だから、一般人には関係がなかった。所が、高級ブランド品が、製造量も増え、逆流品も増えてくると、当然購買客も増えてくる。ネット販売が主となるから、今でも三分の一がネット経由で、三年後には半分近くになるとみなれている。 実を言うと私の世代ではネットを安全に理解することは不可能である。私自身旅行関係以外ネットで注文することはほとんどない。世代による理解度のギャップを本稿では訴えることに終始した事を許されたい。人は世代を超えられない。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
「夢の時計修理店」 昔は按摩さんと云えば大抵盲目の人を想像した。町の時計屋には歩行障害の方が多かった。五十年以上前だが、セールスマンと共に時計がぎっしり詰まったカバン持ちとしてお得意さんを廻った頃は、足の不自由な店主が珍しくなかった。ご両親が、終日机の前に座って、食べていける職業を子供に願った結果だろう。まだ日本では、身障者に対する差別感は、健常者に強かった。時計屋さんの中には足が悪くても、差別に奮起して大きな商いをされているお店も少なくなかった。しかし、大きな時計工場の工員になる以外に、町の修理屋さんになることを目指す普通の若者は少なかった。 今は時計好きが増えてきて、サラリーマンになるより時計の修理で生計を立てたいと考える若者も少なくない。それにこれだけ高級時計が売れているのだから、修理技術者には当然チャンスはある。この世界は、基礎知識をしっかり学べば後は全て知識と技術の拡充と、向上心と指先の器用さにかかっている。頭脳労働者と言っても良い。ただ一定の技術水準で止まってしまえば単に時間を売る労働者と変わりはない。 時計を修理に出すと、このモデルは製造中止で部品がなくなっているから直せませんという答えがよく返ってくる。クォーツ時計の部品はほとんどが大量生産の電子系で、一個だけ作れないのは納得がいく。だが機械時計なら、どんな修理も可能なはずである。でないと世界中の時計博物館に展示されている時計はみんな止まったままとなる。修理不能は人手のコストがらみであって、優れた技術者の手にかかれば直せない機械時計は理屈からみてない。そうは信じるものの、友人から親父の形見だと古い時計の修理を頼まれても、現状としては、大抵ことわらざるを得ない。 日頃からこんなことを考えているのだが、FH誌(本年第十一号、八月十九日刊)に転載されている雑誌に面白い記事が目についた。スイスの田舎町の修理屋さんの話である。 ジュネーヴからバーゼルへ北東四十五度の直線を引くと、ほぼそれが山脈添いのスイスとフランスの国境線になる。この国境の両国側で歴史的に時計産業が発達している。このほぼ直線の国境線がバーゼルに近づくところにこぶのようにスイス領が小さく飛び出している。くっついてはいるけど飛び地みたい。ここが伝統的時計産業地域の終点と言える。一番大きな町はポラントリュイといって、人口八千人足らずの、まぁ田舎町だろう。行ったことはないがガランとした街並みは想像がつく。そこにこの記事に登場する「時計クリニックにて」というお店がある。「にて」がついているのは、修理だけでなく、店で起こる種々の出来事を意味しているらしい。オーナーの名はクリスチャン・エチェンヌ。 田舎住まいでも、業界ではこの人の名を知らない人はない。今は主として小さな下請けしかないが、昔の時計町だったポラントリュイには今も時計学校が存在している。クリスチャンの家は代々の宝石カッターだったが、この時計学校を卒業し、ロレックスに職工として採用される。しかし二ヶ月半で大きな工場は性に合わないとして辞めて、ローザンヌの宝石店に勤めるが長続きはしない。自分の街が余程好きなのか、二十三歳の時、戻ってきてパン屋の跡を借りて修理屋を開業する。数年間どうやら食いつないでいるうちに、一匹狼の腕利きの職人が良い仕事をするという評判が立ったと思われる。一九九六年、ル・ロックルのルノー・エ・パピ社が複雑時計の組み立てができる人間を募集しているのを知り、願い出たところすぐに採用される。在宅勤務が条件として認められたのは、よほどの力量が認められたと見る。ポラントリュィとルロックルの距離は遠いが、車で往復二、三時間、通えぬ距離ではない。ルノーもパピも技術者で、各種の複雑時計、特にトウ―ルビョンの制作では独壇場の感があった。のちにAP社の傘下に入るが、多くの高級メーカーがその協力を要請していた。その縁で、クリスチャンは、APやGP、パルミジャーノ、オメガ、グルーベル・フオルセイ、リシャール・ミルといったそうそうたる一流ブランドの人々と知り合いになった。これが本人に言わせると一大転機だった。 ある時、グルーべル・フォルセイの口利きでリシャール・ミルの為に、プラネタリウムという、天体の動きを模型で知るクロックを作る仕事を引き受ける。千四百個の部品をパズルのように組み立てる厄介な仕事で完成まで四年近くかかっている。写真で見ると天体時計とはいえ、大金持ちのおもちゃみたいだが、二〇〇七年に完成した時には大きな話題となった。翌年には東京で公開展示されている。日本の時計雑誌「タイム・シーン」に名畑政治という人が、特集記事を書いておられるので、ネットで検索することをお勧めする。 クリスチャンは、机にかじりついて、こんな特殊な仕事ばかりしているわけではない。地元の時計学校の先生もしていれば、オメガに頼まれて、古い四十から五十年代のオメガ・コレクションの修理もしていた。各地のアンティック時計市に出かけ売り買いもしている。ネットで見るとロシアの時計が面白いと言ってスターリン臭い時計を売りに出している。セイコーもあればシチズンもある。高級品一本槍といったスノップなところがない。アメリカ製のウオルサム時計のムーブメントを取り出して、どうだいパテックに負けない程美しいだろうと、取材の雑誌記者に嬉し気に笑いかけたという。 他人の名で時計を作ったり、古時計の売買をしたり、世界中から送られてくる難しい時計の修理ばかりせずに、自分の時計を作って売ったらと、近年は言われるようになり、やっと腰を上げ、「クリスチャン・エチェンヌ、ポラトリュイ」というブランドの時計を昨年から発売することになった。使用しているムーブメントは、ロレックスやパティックがかつて使用していたVALJOUX7751と22、それに主として学校の教材用のVALOUX23。ネットで見ると7751を使った月令表示、月、曜日表示、自動巻き中三針が、デザインが変哲もないにしても千六百フランは良心的という気がする。時計はシンプルに限ると公言してはばからない彼の生活態度が出ている。さして広くなさそうなお店では、@古時計の修理と鑑定と販売、A工場の為の複雑時計の組み立て、B時計コンサルティング、Cプロトタイプ又は一品時計の制作、D時計史の研究、といったところが主なる営業らしい。それに有料予約制で、アトリエ内を案内してくれ、八百ユーロで一対一で時計セミナーをしてくれるプログラムもあるらしい。行きたい気になるね。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
「スイスクロノメーター協会」 コロナ再び激増のうっとおしさに加えて、今年の夏も又猛暑が続く。老人優先でワクチン注射は二度済ませたが、コロナから自由になった、コロナフリーで自由に行動するぞという気にはなれない。勿論効能を百%信じていないせいもあるが、心が晴れやかにならない。東京オリンピックの開会式で、IOCのバッハ会長がオリンピックのもたらす人類の連帯意識に力点を置いた演説をしたが、空虚に思えた。コロナの方がより強い連帯感をもたらしてくれる気がする。自分だけがワクチンを接種されたから良いのではなく、皆が受けて、みんなで安心という連帯感がないから、浮かない気分に漂っているのだろう。だからこれまでの自粛生活を続けている。国内、海外を問わず、どこでもビジターは歓迎したくても、し難い状況にある。暑いからと言って、スイスへ避暑に出かける訳にはいかない。あちらでも同じ状況だから、たとえ行けたとしても面白くはなかろう。遠来のオリンピック選手を気の毒に思うのは当然である。まるでローマ皇帝時代のコロッセオでライオンと戦わされる監禁中の奴隷みたいなものだ。命の保全の代わりにメダル。それでも国ごとの競技となると、テレビで観戦しても、熱が入る。手に汗を握る。受郷心や愛国心は本能的なものだろうか。 本年第九号(六月二十四日刊)のFH誌を見ても、コロナ事情は日本と同然らしいが、あまりそれを嘆く感情的記述は見当たらない。観光立国であるのに、外国からの客はさっぱり来ない。スイスでは、観光産業のメーターはホテルでの宿泊数で示される。外国人の宿泊数はこのところ七〜八割減だが、スイス国内の人々の宿泊数は回復しつつある。例年は夏になると外国人がスイスに殺到するが、スイス人は涼しい国内よりも暑いスペインやフランスの南、イタリア、ギリシャに出かける。 なにしろ夏休みが三週間以上はある。避暑でなくて向暑である。どうして天国みたいな夏のスイスから離れるのか不思議である。ない物ねだりも人間の本能か。コロナのお陰で日本同様国内旅行に人々が向っているのはご同慶の至りである。最も規制には従順なスイス人のことだから、うるさい外国人の来ない休日を楽しんでいるに違いない。 ベルギー人と並んでスイス人は、世界でも最も冷静な民族性で知られている。何事が起きても興奮のあまりこれまでの生活様式を大きく変えたりしない。時計業界でもその性格が判然としている。過去の蓄積があるせいか、当面の競争相手である日本には先を越される心配がないせいとで、この一、二年の輸出減は止むをえないと捉えている節がある。ただ退潮だったこの二年近く、この際とあらゆる時計のメーカーが独自の新製品開発にせっせといそしむ気配が濃厚である。 それをいちいち紹介するのは写真なしでは無意味だから省略するが、目を見張る時計が次から次へと登場している。しかもどれもメーカーの個性が十分に発揮されている。技術的に手が込んでいて、日本のメーカーの機械式時計の現状に比べると、はるかに工夫に富み、時計機構のアクロバットの様相を呈している。非常に高価な時計の分野では、その顧客層がどれだけ増加するか予測がつかないにしても、日本の機械時計工学は、トラック二周も三周も離されている。追いつこうとするならば、残念ながら後姿は遠い。当然異なる選択肢もあることに異議はない。 時計の必要条件は精度と作動持続性にあって、普通の勝負では機械時計はクオーツに勝ち目はない。作動力に関しては、僅かな気圧や温度の変化をエネルギーに変えてゼンマイを巻き上げるしかないが、小さな時計では当面絶望的である。精度だけでもクロノメーターで対抗するしかない。 クロノメーターとは、普通の腕時計の大きさで、日差がマイナス五秒プラス八秒以内に収まるものをいう。この規格を検定するのがスイス・クロノメーター検定協会で、発足は一九七三年、日本時計産業の台頭で公的なお墨付きで差をつけようとしたのかもしれない。前身は一九三九年にFHの肝いりで始まった業界内での規格判定団体だった。現在は略してCOSCという。ややこしいが、これとは別にスイス・クロノメーター協会という大きな団体がある。こちらは通称SSC。設立は一九二四年で、すぐに百年になる。設立の目的は、スイス時計産業の技術面の向上、生産上の知識の共有化、時計に関するあらゆる技術を学ぶ学生たちと架け橋となるといったことがあった。この協会の記事が同じ号のFH誌に取り上げられていた。 現在の会員数千四百人。時計製造業者、技術者、専門職および時計に関する様々な製造会社からなっている。先述のCOSCもFHも含め、殆んどの時計関係団体が協力を申し出ている。その主な活動は、「研究日」「朝食会」「時計調整競技会」となっている。 「研究日」とは字義そのもので、会員が集まって、ある技術的テーマについて終日研究発表や討議が交わされる年に一度の一日である。今年はコロナ下にも拘らず、九月二十八日、ローザンヌにある近代的なスイス技術コンベンション・センターで開催される予定。参加は、メンバーは当然のこと、学生、そのほか誰にでも開放されている。例年は七百名以上が参加しているが、今年はネットでも見れるから外国在住の人には、かえって便利になるとSSCは言っている。今秋のテーマは、「時計製造業において新しいコンプリケーション(複雑)時計とは何か」となっている。まさしく時宜を得たテーマに思える。一番参加してもらいたいのは若者たちで、SSCは世界七十の時計学校、時計関係の学科のある大学、訓練センターに、ネットでの参加も呼び掛けている。参加者の中から数年後には、SSCに新しい刺激を与えるような人が出てくると信じている様子である。 「時計調整競技会」は、現在二十五の訓練センターで進行中で、今年は百三十八名が挑戦している。優秀者は「研究日」か、国際クロノメーター大会の当日に表彰されることになっている。 「朝食会」は、年二回、スイスのいろんな時計産業の中心地を選んで、午前中に朝食を取りながら、ごく専門的な報告会を四回開くことになっている。またSSCは年二回会報を発行しているし、アプリを使ってネットで接触可能にもなっている。 この協会の理事は、三年に一度全員代わるようで、今年からジャガールクルトで二十五年勤めたミッシェル・ファツォー二が理事長に就任している。ヴァレ・ド・ジュウ時計学校を出て、ジュネーブ大学で財政学を専攻している。この人事から見てもスイス時計業界の機械時計の強みが垣間見られる気がする。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「万物は流転する―へラクレイトス―」 子供だった頃、抗し難いものとして「地震、雷、火事、親父」とよく聞かされた。今や親父の地位は女権の拡大と共に、全く失墜してしまった。「地震、雷、火事、洪水、流行りの病にテロ、原発」が平時の災難となった。戦争はそれ以上だが、往事とは、かなり状況は変わっている。 デジタル社会になったのは、各人が携帯を持つようになった今世紀以来である。スマホの普及によってデジタル化は加速されたが、この二十年の出来事に過ぎない。この間の世界の変化は如何ばかりか。情報量保存の無限の拡大、その中から取捨選択して望む情報を 捕捉する手段が確立されて、各人にまるでアラジンの魔法のランプが与えられた気がする。これさへあれば、居ながらにしてなんでも知ることが出来る。しかし一方、誰かがいつでもあなたを捕らえることもできる。スマホを持ち歩くと誰かがあなたの位置を知ることが出来る。何をしたか解らなくても、動いた場所は特定される。今の車には、ナビとかカメラが大抵装備されている。再生すれば、あなたが何処に行った、車内でどんな行動をしたか直ぐわかる。かりにこれらが、マイナンバーに連動されたらどうなるだろう。どう考えても恐ろしい。監視社会は何も中国や北朝鮮のような全体主義国家の専売特許ではない。自由な民主主義国家においても、デジタル化で同じようなことが出来るようにはなっている。便利極まりないデジタル化は、双刃の剣であって、常に危険と共に進化する。その進化は誰も止めることはできない。昔は、こうすればこうなるという人々に共通の方程式があった。コンピューターの出現は、人々に大きな利便性を与えたばかりでなく、この世の方程式を破壊してしまった。 私たちの業界でも、デジタル化は事務作業の大きな助けになったが、同時にネット販売業という、アナログの頭では理解困難なライバルを生み出した。確かに、生活必需品のように買うものが決まっている場合にはありがたい。店に出向かずに済み、安いしすぐに届けてくれる。宅急便の普及と時を同じにしていた。時間と労力の節約にもなった。面倒な買い方をせずに済む。ところがネット購買に消費者が慣れてくると、余裕が生まれてくる。現実のお店での買い物同様、遊びが生まれ、楽しむようになる。所詮慣れとは恐ろしい。それが現状である。買い物は大抵ネットでするという人々も少なくない。実物を見たり、触ったり、試着してみたりしないと、判断がつかない商品だけが、辛うじて網(ネット)の外にある。それもメーカーやネット業者に絶大な信頼があると、どうなるか解らない。結局、非日常商品に関しては、ナマとバーチャルな買い物経験を比べて、どちらが楽しいか、消費者次第になる。これまた時代の変化である。 商売とは語源的に売り歩くことを意味している。商いと行商はほぼ同じ意味で、当然売る方に力点がある。商品はメーカーの手元から河の流れのように消費という海に向かう。高度経済発展の頃は、海に水があふれることはなかった。ところが十年ぐらい前から、市場が満杯になりにつれ逆流が始まった。この現象は、耐久消費財、特に時計宝飾品、高級ファツション製品において著しい。これまで買う一方だった消費者に、不要になったものが、少しでもお金になるなら、売りたい気分が生じてきたのである。 元々日本人は、古い宝石や時計は没落した人が手から手放したもので、縁起が悪いと手を出さなかった。古着やバッグ、靴も同様であった。古着は落ちぶれた人のものであった。サザビーやクリスティの扱う高価な歴史的価値のある商品は、一般人とは関係なかった。骨董品の時計や宝飾品を買う人はモノ好きとみなされていた。 ところが金がグラム千ドルを超すようになり、常時価格が上昇する時代になって、買取屋さんが雨後の竹の子のように出現した。ちぎれたネックレスや指が太くなって入らなくなった指輪といった金製品の査定は、即座だからである。今や新聞のチラシは、売る広告よりも買う広告が多い。買い取り専門店はどの町にもある。業界外の人から、近頃宝石の商売は如何ですかと聞かれると、全然だめです、商買をしている方は繁盛しておられますが、と答えている。買われた宝飾品は何処へ行くのかは、つまびらかにしないが、事情通によると売り先は殆ど外国らしい。国内に多く還流しないことを望みたい。一生大切に持って、娘や嫁に欲しがられるような宝飾品のみを売ってこなかった私たちにも責任があると自省するしかない。利は元にありと言って仕入れは大切だが、買うことに専念する仕事は面白いのかなとつい思ってしまう。アベコベの状況になった気がする。 今年の二月にでたFH誌の別冊「潮流」には、時計・宝石の中古品市場の傾向が出ている。世界的に見ても,高価中古品の販売は、コロナ期に入っても確実に成長を続けている。その成長率から判断すると、二〇二五年まで毎年、十五%〜二十%の増加が予想されている。これに対し新品の年成長率の予測は二%〜三%である。中国では中古高額品に対する購買意欲は特に強く、巨額な売り上げに達している。魅力は当然価格訴求にあり、高級品を買う人の六割が中古品に向かっている。コロナでスティホームを強制されていた影響も多い。中国では高級品全体の売り上げの五%が中古品とされている。 勿論、中古品成長のキイはネット販売である。試しにWatchoxとか、英国のWatchfinder(カルチェGが買収)や、アフリカのTopwatchといったサイトを検索してみるといい。そこには新品しか扱っていないお店にとって、恐ろしい光景が現れる。あらゆる高級ブランドの時計が表示価格と共に際限なく画面に登場する。コロナ下でも二十五%売り上げを伸ばしたWatchoxではアジアからの注文客の一点平均は三万ドルらしい。時計は小さくて送りやすい。西欧の会社は、ニセモノを扱わないという信用か。 ロンドンのNinety、米国のAnalog Shiftといった小さなウェブ専門店も、多店舗展開しているチェーンや投資家に買い取られている。再販が再販を生み、市場に流れてくると新品の市場戦略にも大きな障害をもたらし、対策を講じなければならない日が早く来るかもしれない。ネットの伝播力はコロナ菌同様、早くて広範囲である。終わりにFH誌による中古品市場の図表を付けておく。(栄光ホールディングス会長、小谷年司)。 |
|
|||
ウオッチメイカー コロナ下で閑だろう、退屈している時計屋に持って来いの本があるよと、この表題の推理小説を貸してくれた。 作者は、ジュフリー・ディーヴァ、今や人気作家となったアメリカ人で殆どの作品が池田真紀子の流麗な翻訳で日本でも出版されている。「ボーンコレクター」がベストセラーになったから、読まれた方も多いだろう。どうもこの題名がおぞましく、ディーヴァーを読む気にはなれなかった。しかもどの作品も五百頁はある長編だ。 ところが「ウオッチメイカー」は、読み始めると面白くて、一気に読み終えてしまった。主役は科学捜査官のリンカーン・ライム、刑事時代の職務中事故で四肢麻痺となった車椅子生活のシャーロック・ホームズ。同僚の警察官やFBI職員に指示して難事件を解決する。 今回は、正体不明で時計好きだとしか判明していない、プロの殺し屋を追い詰めていく。さしずめ、ホームズの宿敵であったモリアティ教授といった役どころ。傲慢・冷血で犯行には精密な計算の末に実行する。 無論、面白さはストーリーが次から次へと意外な展開をするところにある。そっちの方はこれから読まれる方々に任せて、殺人の現場必ず置き時計を残しておくウオッチメイカーの言動がいかにも時計好きらしく、時の哲学や広汎な時計史の知識を披歴する。犯行時に鍵を空ける時でも、錠前作りから時計作りへ発展したのだと相棒に呟いたりする。メトロポリタン美術館へその相棒を連れてゆき、「古代の時計展」を見せる。ギリシャの時代に作られた太陽と星の動きを計算する「デルフォイ機構」を前にこんな感興を伝える。(この機構が果たして実在するのか知らないが)「古代の人々は、時間は独立した力と考えていた。他の何物にも備わっていない力をもった一種の神だとね。この機構は、その考え方を象徴するものだとも解釈で来る。この世の全員がそういうふうに時計を捉えるべきだと思うよ」 確かに犯罪者にとって、時間は犯行時に最重要性を持つが、この言葉には、時間の本質性に迫るものがある。この本の扉には、エピグラフが掲げられ、こう書かれている。 私の姿は目に見えない。 だが、私はつねにいる。 力のかぎり走るといい。 私から逃れられる者はいない。 力の限り戦うといい。 私を打ち負かせる者はいない。 私は私の論理で人を殺す。 法のもとで罰を受けることはない。 さあ、私は誰だ? “時”さ 勿論、ウオッチメーカーは一匹狼の殺し屋だから現実的でもある。時計について哲学ばかりする訳でもない。史上始めて海上用に耐える正確な時計を作り、大英帝国の世界制覇に大いに貢献したジョン・ハリソンについての演説もあれば、フランス大革命後、僅か十数年の間だったが採用された奇妙な暦の言及もある。その知識の披露は簡素にして正確、恐れ入る。時にやや世俗的になって、ロレックス、パテック、ブライトリングの名も出てくれば、現代の名工ジェラール・ジェンタまで登場する。この本のサイドストーリーは時計の要約された歴史となっている。 ウオッチメイカー愛用の時計はブレゲだ。現代ものではなく、ブルゲ本人が、フランス革命直後に制作した懐中時計。なぜ、この時計を好むのか、ブレゲこそ史上最高の時計師と信じていることもあるが、当時このような時計を持つことのできた特権階級に自分を比していたからだ。時計を持っていれば、約束の時間に現れればいいが、そうでなければ、先に行って待っていなければならなかった。時計を持つことによって時間をコントロールできる。その道具を作った時計師(ウオッチメイカー)は神の如き存在ではないか、という理屈らしい。 しかしこのブレゲは、最後には捜査官ライムを出し抜くことは出来ず、逃走時に手強かった敵への記念品として送り付けられる。時間・月例表示・永久カレンダー・耐震装置付・ルビーのシリンダー脱進器-金側。 「FH誌」本社第五号は(三月十一日刊)偶然にもブレゲ特集が組まれていた。今年はブレゲにトウールビヨンの特許がおりてから二百二十年目に当るからである。懐中時計はふだん垂直にぶら下げられ、持主の動きと共に揺れは激しい。時間をみる時や就寝の時間には水平になる。テンプの動きが重力のかかり方によって変わるので、生まれる姿勢差を僅少にするため、テンプをいはば宙吊りにした工夫である。トウールビヨンとは、元来のフランス語では小さな龍巻ぐらいの意味である。テンプを囲うカゴみたいなものが常に動き回っているところから、ブレゲが命名したとみなされているがそうではないらしい。FH誌によると、現在ではすっかり忘れられた天文学用語で、唯一の回転軸をめぐる宇宙全体のシステム、ないし太陽系星雲全体のエネルギーのことを指していた。ブレゲはこれを意味したと言う。そう言えば、小説「ウオッチメイカー」の中でも「神は宇宙のムーヴメントを創り、ゼンマイを巻いて流れるようにしたという。神は偉大な時計師だ。」という一節もあった。 FH誌はまた時計創作という天空に、トウールビヨンは彗星のごとく出現した天才的なアイデアだったが、時と共に廃れるのは止むを得ないにしても、完全に消えさる事はなかったと記している。確かに。復活するのは、一九八〇年代であり、以来、腕時計に組み込まれて高級時計のシンボルとなっている。 現在、在り場所の判明しているブレゲのトウールビヨンの数は、ストウディヴァリウスのヴァイオリンの数よりはるかに少ない。十二個が公共施設にある。大英博物館に五個、スウォッチのブレゲ記念館に三個、あとは英国、イタリア、ニューヨーク、エルサルムの博物館に分散している。あとの十五個は個人所蔵。四十個ぐらい作られたはずだが、あとの十数個は行方不明。ひょっとすると、どこからか出てくるかもしれない。航海用に使用されたものもあったらしく、オーストラリアのブリスベンに名を残している航海者トーマス・ブリスベンも所持していたという。 スイス生まれで、まだルイ十六世や王妃マリー・アントネットが健在のころ、王宮にあったヴェルサイユ時計学校で修業したブレゲに思いを馳せると空想は尽きない。その時計を手に入れたいと思うが財力はない。今のブレゲすらも手が届かない。せめて手元の古いナルダンの懐中時計のネジを巻いて命を吹き込むか。(栄光ホールディングス会長、小谷年司)。 |
|
|||
「ネット販売の行方」 世界中を旅しても都会のきちんとしたホテルに宿泊すると、大抵は部屋にテレビがあって、CNN(米)やBBC(英)の国際放送を見ることが出来る。地元の番組は言葉が解らないと面白くないけど、ニュース中心の英語放送なら、何となく解る。それにしても世の中では信じられない様な事件が次々に起きるのには驚くしかない。昨年から長引くコロナ蔓延もそうだが、軍国少年だった幼稚園生から小学生にかけての対米開戦と負けるはずのない日本の降伏もそうだった。父の仕事の関係で日本租界のあった天津で暮らしていたから戦況の実感がなかったのである。引き上げてきて見た大阪は一面焼け野原で、その印象は強烈であった。その後の復興、経済発展も長いスパンではあるが、事件と言えるやも知れない。もう一つ、自分の現実の生活に密着した事件は、信じられない程のデジタル社会の現出である。個人的な見解というだけではなく、多くの日本人にとって、この百年は敗戦と平和が続き、バブルが終わるまでの時代、インターネットの時代、それにコロナの時代という区分になると思われる。個人生活の基盤が揺るがされ、新しい局面が生まれることになる。 十数年前から、海外の旅先で必ずと言って良いほど見ていたCNN放送を自宅でも見ようとスカパーという有料番組会社と契約している。同時に見ることが出来る囲碁番組やミステリー・チャンネルを見るほうがCNNより長くなっているのが現状である。ミステリーでは、ホームズやポワロといった古典的な探偵が活躍するものも多いが、新しい現代の犯罪を取り扱った作品も多い。最近の映画では、現実生活を反映して、小道具としてスマホがしょちゅう使われている。容疑者を逮捕した警官は必ずスマホを没収する。スマホには犯人の全ての状況証拠が入っているからである。今の日本でも、現状を見るとスマホは完全にプライバシーの金庫となっている。電話をかけたいからスマホを貸してくれないかとは言い難い。番号を言ってかけて貰って通話が終わったら、目の前で返すのが、最低のエチケットだろう。我が家では、娘でも自分のスマホを触られるのを嫌がる。片手に収まる小さな機器の画面の裏に、他人の眼から見られた、自分の人生が、つまらない事まで全く記録されていると考えるとデジタル文明の怖さを感じる時がある。 アマゾンに本を二、三回発注すると、その後画面を通じて、あなたの好みそうな本を数冊紹介するから如何ですかと言ってくる。AIが発注書の傾向から判断するのだろうが、当たっていて気持ちが悪く、大きなお世話だと言いたくなる。スマホにはアンドロイド(自動人形)といった名の機種もあったりしておぞましい。でもこう考える人間は少ないから売れているのだろう。場所の案内から医療手術までできるロボットの発明、車の自動運転の先進技術は、一種のアンドロイドである。若者が先端技術を好むのは当然である。電車に乗ると若者は必ずスマホを眺めている。日常生活の、何かを調べることならスマホがすぐに解決してくれる。しかし余り頼りすぎると、自分の頭だけで問題を解決する能力がなくなりはしないか、と心配になる。しかも日進月歩で使い易くなってきたから、今や老若男女を問わず、電車内ではスマホを見ている。I・T技術の発達は、人間を煩わしい雑務から解放して、より人間的でかつ創造的な充実した生活に向かわしめるものであると聞かされているが、現実はI・Tに追い回されている。一斉にスマホを眺めている姿を見ると、人生はそんなに忙しくしなくてもぼんやり考えているだけでも楽しいよと呟きたくなるが、その声は通じない。 そうは言うものの、スマホは小さな巨人である。画面が小さくて商品が見ずらい欠陥があるもののパソコン同様ネットで買い物ができる。殆どの人がネット購入可能になっているのが現状である。 FH誌の別冊「潮流」の二月号には、コロナ感染下で全世界の高級身の回り品のデジタル販売が、不調の店舗売りに代わって、驚異的に伸びたことが報告されている。感染が沈静化している中国では、ネット大手「アリババ」の高級品部門「TMALL」では昨年すでに二百二十%の前年比増加。アメリカでも昨年九月までの一年間でネット販売百三十三%の増加という。 フランスはネット販売の先進国であった。随分昔、固定電話がプッシュフォン・デジタルに変わった頃の話である。まずデジタル機能を利用して、電車とか劇場の予約から始まり、支払いも可能となり、商品の販売にも用いられ始めた。ミニテル・システもと言って世界から注目されたが、何しろ操作が合理的でも複雑でややこしい。よくこんなことやるな、流石デカルトの国だと思ったが、パソコンの登場で、すぐに姿を消してしまった。その後、本格的にネット販売が始まったのが二〇〇〇年で、毎年右肩上がり、順調にしかも滑らかに伸びて、二十年後の昨年は千百億ユーロ(十四兆円)になっている。しかも昨年は、コロナで旅行・観光関係の売り上げが四十一%も減少して、なお九%の伸長だから物品だけだと三十二%も増加したと伝えている。 日本でも当然ネット販売額は上昇しているだろうが、手元に資料がないので何とも言えない。時計・宝石に限れば、実用品のようなものは伸びているが、画期的な数字ではない気がする。FH誌でも、日本はアジア諸国に比べてネット販売は活発ではないと指摘されている。その理由を考えて見ると、テレビや雑誌などの従来のメディア販売が盛んで、デジタルが苦手で生活に余裕がある高齢者が多く利用すること。支払いの面で売り手を簡単に信用しない事。画面上の商品が本物かどうか解らないこと。返品が果たして可能かどうか解らないこと。誰でも知っている信用のおける高級ブランドは、ネット販売に積極的ではない事などが挙げられる。要するに今までのお店と買い手との間にある共有の商業道義のようなものがまだ確立されてない点にある。更に、日本は実に便利で、お店や百貨店は近くにあるし、宅配も楽という点も見逃せない。しかし、先進国中心のネット販売と消費者の信頼関係が確立されれば、販売高は着実に増えるだろう。(栄光ホールディング会長 小谷年司) |
|
|||
時計業界を中心に今後の経済を見る 「スイス時計産業同盟」、その欧文の頭文字を取って通称「FH」には、スイス国内の時計関係業者約四百社が加盟している。時計関連の業者は殆んど全て入っていると言っていい。本部はビエンヌにある。社員は約四十名。 香港と東京に常設支部があり臨時的な調査員網は世界各国に張っている様子。その目的はスイス時計の優秀さをPRする政府と連携してスイス時計の輸出を世界中の国を相手に潤滑化するブランド名や特許と言った知的所有権を保護し、偽物時計の排除を世界各国に呼び掛け、時には各国官憲の摘発行為の手伝いも辞さない。 活動は、加盟各社相互の利害関係にも配慮してスイス的な中立の維持に努めているため地味だが一貫している。スイス時計の全体が繁栄すれば、加盟各社のほとんどがその恩恵を受けるという立場である。個々の加盟事業者の有為転変は個別的な問題とする。 活動の内容は、年に二十回ほど発行される機関誌「FH誌」を読めばよく解る。A4版の大型雑誌の体裁で普通六十頁前後、全紙アート紙で美しい写真が豊富に載っている。仏・英の両語併記だが、写真を見ているだけでも楽しい。誰でも購入できるし、ネットでも無料で公開している。記事は必ずフランス語が先で英語が後なのは、時計産業の中心地がスイスのフランス語圏内にあることからだ。 日本はスイスと並ぶ時計王国である。日本のFHにあたる日本時計協会は何をしているのか、長い間時計業界に身を置いているけど、よく解っていない。この際、聞いてみようと電話をしてみた。身分を明かしていくつかの質問をしたが、はかばかしい答えは得られなかった。日本の場合はこの手の電話に用心するのは当然だろう。加盟企業はセイコー、シチズン、カシオをはじめ現在八社、専従員三名、ほかに加盟各社からの適時派遣四名というお答えで、活動内容の月報は、会員及び関係者にしか配布していないとのことだった。恐らく会員の八社は確立した大メーカーで、お互いに競合関係にあるため、調査とか統計とか無難な分野を除き、共通の目的を有するには難しい状況なのだろう。消費者意識の調査なども、FHの東京は手探り感覚でやっているが、大メーカーの立場に立つと、電通や博報堂に頼んだ方が早いし信頼性も高いとなるだろう。どうしてもこの種の協会は、日本では政府に対する窓口となる。それに日本人特有の身内、業界秘密主義が加わる。現在、議会をはじめ会談や議論の透明化、可視化などとやかましいのは、秘密好きが強いことの証拠だろう。 さて「FH誌」の別冊に「TENDANCE(風潮)」という冊子が年二回程出版される。これは写真入りで、文化的な時計好きの一般人が読んでも楽しめる記事が多い本誌と異なって、時計業を仕事としている人々向けの経済レポート。過去の統計を調査し、今後を予測する記事ばかり。数表が多いが、上手にグラフ化されていて理解しやすい。但し、業界人向けなのでフランス語版のみ。勿論ネットで読むことは可能。 実を言うと、この一年「FH誌」を読んでいて、コロナの影響が意外と取り上げられてないので、わざと無視しているのかと考えていた。スイスでもほかの欧州諸国同様、多くの感染者と死者は出ている。今年の二月発行のレポートでは、コロナの影響が正面から論じられている。まず総論から紹介する。 去年の始めの時点では、コロナは中国の地域感染病みたいなもので、二、三カ月すれば収まるものと考えていた。これが推定した四倍以上も惨い結果をもたらすとは。二月になっても世界的に見て、感染が沈静化したとは見えない。 昨年一年のスイス時計輸出額の成果は、年末の三カ月で四・三%昨年比減まで取り戻したが、年間で二十一・八%の減となった。それも春以来、中国市場における主として高級品の驚異的な躍進に救われての結果だった。 コロナで店頭販売が激減した代わりに、販売チャンネルのネット化が大きく発展した。コロナ対抗手段とは言え、この元々からの傾向が、加速化されたに過ぎない。一方、コロナ第三波の襲来で、各国は色々な処置を講ずるだろうから、消費の回復はまだ待たねばならない。しかし、スイス時計産業としては、昨年末の回復基調、各ブランドの努力、スイス時計そのものの魅力などが、今後有利に働いて、今年の後半には本格的に回復し、昨年実績を上回るのは確実とみている。昨年度のロスの半分は取り戻し、二〇二二年になると、あとの半分をカバーして、二年前の実績に戻るだろう。 この予測は当然、世界経済の今後の展望を反映している。OECD(世界経済協力機構)もワクチンの普及速度から見て、今年中に経済は回復するとみなしている。すぐにとは行かないが、コロナ感染の抑え込みの努力とワクチンの普及を前提としてこの二年間に世界の経済成長率は直線的とは行かぬにしても伸びるとみる。二〇二〇年に成長は降下したが、二〇二一年には世界で四・二%以上は伸びる。翌年は三・七%伸長して二年前の水準に戻る。最も、今年すでに八%の成長が予想される中国のお陰だが。 スイスそのものも、昨年は一九七〇年(セイコーのクオーツが世界を席巻し始めた年)以来の大不況だった。スイスUBS銀行の予測でも、今年は全産業部門で回復するとしている。ワクチンのみが経済安定の長期化をもたらす。人口の少ないスイスは、有利であって、夏に向かうこの三カ月で経済は徐々に回復し、年末には三%の成長率が年間で見込まれる。OECDの予測では、今年の経済成長率をアメリカ三・二%、ヨーロッパ三・六%とみている。私見だが、日本は二・三%なので、この増加率をもう一年繰り返すと、二年前のGDPにもどる。スイス時計業界だけを対象にした予測と一致する。企業の売上げと、GDPを比較するのは当を得ないかもしれないが、二年後に売り上げを二年前と同じにすれば経営者としては、ギリギリ及第かも知れない。みんなV字回復を狙っているだろうが、平均的・客観的に見ればこうなる。 このリポートは、マッキンゼイ社の日本の消費者意識の調査結果を報じている。コロナ以来、意識はすっかり変化し、ごく限定高級品の市場は戻っても、並品の多くは、ネット購入となった。元に戻るのは、一年はかかるとみる人が七十%で、消費はフィットネス、食品、子供用品に向かい、宝飾にはなかなか戻ってこないという。困ったものだ。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
時計業界今後の展望 昨年の今頃は、コロナによって約百年前のニューヨーク株の暴落から始まった世界大恐慌の二の舞かと恐れたが、人々の生活は不安感からまだ逃れていないにしても、経済そのものは、思ったほど荒廃していない。人々が移動したり、集合したりして成り立つ業種は悲惨だが、コロナが却って利益をもたらした業態も少なくない。それは株式市場が市場最高値を更新した事実からでも読み取れる。使うところがないから、金余りで株式に向かったカジノ投資と云われる。しかし株には、企業の現在の経済活動と保有資産の裏付けがある。ルーレットのように一か八かの賭けではない。業績の悪い企業は買われない。企業の活動は当然世情の反映であり、株価に現出する。株価はやはり景気の指数であって、投資に関心を持たない多くの一般人には、実感されないかもしれないが、現在は短期的にでも好景気なのである。残念ながら好況は偏在していて、我が時計宝飾業界に微笑んでくれてはいないが。個人の生活を顧みても、コロナによって収入の減った家庭が殆どだろうが、外出制限等で支出も減少しているから、定収入が保証されていて少しでも黒字家計だった家は、キャッシュフローではあまり変わってないと思われる。企業でも似た現象は起こっている気がしなくでもない。これまで何らかの理由で収支ギリギリが、それ以下の状態で暮らしてきた家庭や個人は、コロナで苦しんでいるから、自助努力の手段を提供しながら公私の援助をすべきだろう。一律に一人十万円の援助をするなど、愚の骨頂であった。余っているところからお金をもらってきて足りないところへ持って行くのが正しい政策である。国民一人十万円、総計十二兆の総花的な支出は、全員が貰っている疚しさから誰も苦情を申し立てていない。バラマキは鼠小僧次郎吉以下の正義発想である。 春が近づくにつれ、国内でもどうやらワクチン接種が始まった。収束が視野の中に入って来た。コロナで困っている人達にとってももう少しの辛抱である。一年前にはあれほど人手不足が叫ばれていたから雇用はある程度もどる。この苦難の一年でネットやデジタル環境は五年分は進歩整備されたから、慣習上できなかった無駄が省かれるようになった。在宅勤務などで、必要な仕事かどうかがあぶりだされている。これまで低いと言われて来た日本のサービス効果は、改善されているだろうから、単純な雇用ブームにはならないだろう。 「FH誌 」の今年の第一号に、昨年十一月のスイス時計輸出統計が出ている。十一月一か月だけ見て見ると、全体としてコロナ到来以前同月比で三・ニ%の減少で収まっており下げ止まりの感がある。回復の主要な原因は、前年比七割以上の伸長を示した中国市場である。世界で米国を凌ぐ第一の市場に躍り出た。スイス全体の輸出額は、昨年の十一か月間で、前年比二十三・五%減であった。 日本はというと、十一月の単月で見ると、中国以外の他国は減少にとどまっているのに比べて、二・ニ%増。国内でも時計市場総体は、不調なのにスイスの超高級有ブランドだけが特出している優者偏在現象を裏付けている。「FH誌 」の論調も、市場は世界的に落ち着いてきたとみなしている。昨年度の二十五%ぐらいの市場縮小から、如何に早期に立ち直れるかが問題視されていて、これは国内においても、例外的に伸長したブランド除き、殆どの時計メーカーの課題となる。 ロンジン(スイスブランド中、売り上げ第四位、一昨年度の年商約二千億円。ちなみにほぼ同時時のセイコーウオッチの年商約九百億円)も、小売価格十五万円〜五十万円の価格帯の他の時計同様、日本でもコロナ以来苦戦中だが、昨年新しく社長に就任したマチアス・ブレシャンとのインタビュー記事が、この号の「FH誌 」に掲載されている。昨年までのフォン・ケネルさんは、三十年以上社長を務めあげ、売り上げを十倍以上にした功績は大きい。年齢はやや下だが、社長になる前から親しい付き合いが続いたほぼ友人であった。血の気の多い親分肌で、陣頭指揮型の経営者で社員から「親父」と慕われていた。ブレシャン氏は、写真の細面に鋭い眼光から見て、参謀型の冷微な人物に思える。ウィーン大卒、オーストリア人、五十七歳。三十二歳でスウォッチ入社、ハミルトン、ラドーの役員を経て現職。自分の経営スタイルを「厳しく、かつ人間的」と言明する。彼自身による近況説明は次の通り。 昨年は順調にスタートしたと見えたが、コロナで三月からの四か月は惨憺たる成績だった。ロックダウンで殆どの小売店頭が閉まっていたのだから手の打ちようがない。八月に入ってから売り上げは前年比を上回り始めた。十二月に入って三割近く上回っている。アジアに頼りすぎという人もいるが、中国やインドは大きな国だから、まだまだ可能性はある。他の地域では、やはり米国と欧州だ。上品でいかに時計らしいロンジン、デザインに現代性を加えて拡大してきた。男性用女性用もほぼ同じ個数が売れているのも強みである。特に若い世代にはSNSを利用して知名度の向上を目指す。 五十万円位までの価格帯は、他のブランドに比べて低いかもしれないが、この価格設定位置を見直す気はない。同じグループの上にはオメガがあり、下にはチソットがある。ブランドのマーケッティングに関しては、必ずその領域にマッチした手法がある。例えば、宣伝一つにしてもロンジンは、馬術とスキーの世界に特化している。販売方法、販促、流通といったすべての面で、自己の立ち位置を明確にして、外れないのが肝要である。ロンジンの価格帯でも、多数の消費者にとってすでに高額である。製品の値は、必ず品質を反映して、しかも値打ち感を与えなければならない。 ロンジンには長い歴史があり、過去に多くの名品を打ち出している。その積み重ねがロンジンのDNAであり、アイデンティティである。ロンジンをロンジンらしく見せなければならない。今後魅力的なデザインを発展させ、新しい技術を採用するにしても、この線を外すことはしない。外観には常にロンジンの歴史と精神が表現されていることが、一番大切なことではなかろうか。 まさしく優等生的談話で、耳を傾けるべき点ばかりである。だが現状がうまく行っているから感心させられるのだが、その反対なら理論倒れに聞こえるに違いない。特に前任者のフォン・ケネルさんが試行錯誤を重ねて、方向を求めて迷走していた時代を知っているので特にそう感じる。ブランドは一旦確立されると強い。そうなると、理論装備は後でついてくる。人と時代と資金と理論と意思が隅々うまく混ざり合った時に、ブランドが確立される。不思議なアマルガムではある。(栄光ホールディング会長 小谷年司) |
|
|||
新春雑感 昨年はコロナに始まりコロナに終わった。しかも新年からの感染者数の急拡大で、国内では未だワクチンの接種が始まってなくて、収束のメドが見えない。新年を言祝ぐ気にはなれない。一方、株価は米国でも日本でも最高値を付けているし、日本人全体の生活が苦しくなったと訴えているようにTVや新聞からは思えるが、コロナのお陰で業績良好な企業も少なくない。売る側と買う側が直接会ってしか売り上げの出来ない飲食業とか小売業や移動させるのにどうしても集団を作らざるを得ない交通機関にとって、現状は全く手の打ちようがないことだけは、確実である。 我々の時計宝飾業界も、不要不急の外出同様、基本的には不要不急のものを売って成り立っている。対面商売だから、窮地に陥っているのは当然である。しかも、宝飾品の効用は社交性の上にある。誰かに値打ちとか趣味の良さを認めてもらって、心が高揚する。 資産価値の高い宝石を、得心の行く安値で手に入れ、一人部屋にこもって眺めては悦んでいる人もいるかもしれない。コロナ下でも、そういう人の話も聞くが、まあ例外だろう。一番恐ろしいのは、酒を断った人が、酒をもう買わなくなるように、宝飾品もそうなる事態になる事である。しかし、宝飾品の歴史は古代エジプトからも、弥生時代からも続いているから、楽観視するしか仕方がない。とにかく、コロナが収束して、人と人が以前のように安心して、握手し、抱き合い、肩を組んで祝盃を上げられる日の来るのを待つしかない。それまで、今できることをすることが重要で、あとはどうにか生き延びる努力をすることである。歴史を紐解くと、こういった伝染病は、ある日を境にして突然嘘のように消えてしまうことが多い。今年一杯はかかるかも知れないが、考える時間がたっぷりあるときに、アフターコロナの事について思いをめぐらした方がいい。 コロナからの連想では気の毒だが、トランプ大統領が一月二十日にホワイトハウスを去った。彼は自分がまだ本当の大統領だという自負を、政敵バイデンの就任式への出席を拒否して、海兵隊と連邦政府の大統領専用機を乗り継いで、出発の祝砲に送られてフロリダの自宅へ戻ることで表した。出発を前にして多く集まった支援者に対して、自分の功績を誇り、必ず戻ってくると言って、巨大なエアフォース・ワン機のタラップを登って行った。その実況を見ていて、フォンテーヌブロー宮殿の前で、敗戦の結果エルパ島に流される前に配下の将兵に涙で別れを告げるナポレオンの姿に重なった。トランプの心理は分からないでもない。あの選挙戦の僅差から見ると、トランプの主張のようにインチキがあったとは思えないが、少なくともこう考えていたに違いない。俺への票はみんな俺の支持者だった。バイデンへの票で決定的だったのは、単に俺が嫌いだった人間たちの票だ。そこには何の意味もない。これを票に数えるのは間違っている。だから俺が本当の大統領だと。あの往生際の悪さは、こう憶測する以外にはなさそうだ。それにトランプが負けたのはバイデンに対してではなく、コロナのような気がする。まるで中小企業の創業社長のようなワンマンぶりや縁故採用者を平気で重視する実にユニークな大統領だった。相手が誰でもサシで勝負するのが好きだった。気に入らない事を提言する部下はすぐに首にした。 アメリカは議会制民主主義である。日本も同様である。議会で討議される事柄には、常に複雑な要素が絡んでいる。専門的知識を持つプロが必要である。議員がプロの知識を学び、選挙民に代わって討議する。選挙民の結論は、大抵好きか嫌いかになって、必ずしも正しいとは限らないから、政治のプロたる議員に代行させる。 長年議会制が続くとプロの存在が強くなる。閣僚は大抵その筋のプロで、その意見を聞きながら首長が決断を下すのが普通だが、トランプには即断即決の気分が強く、特に反対意見には全く耳を傾けなかったようだ。プロの意見ばかりを尊重していると、安定しているがどうしても、固定した社会を構成することになる。その点、トランプのアマチュアリズムの政治は、アメリカ人の政治意識、その根本にある民主主義とは何かという思考の覚醒をうながした気がする。 トランプがTVの画面から退場すると、今度は就任式に移った。これまで就任式の実況を見たたことはなかったが、初めての今回は、事情が事情だっただけにとても面白かった。二週間前の議会へのトランプ支持者の暴徒乱入事件とコロナがからんで、一般人の観衆ゼロ。静かでごく儀礼的な行事と思いきや、流石ミュージカルの国、実に楽し気で和やかな祝祭的演出だった。議事堂をバックにしたステージというのが良い。この議事堂は南北戦争に勝利した記念にリンカーン大統領が建設させたものらしい。入口の正面に椅子に腰かけたリンカーンの大きな肖像がある。フランク・キャプラ監督の名作「スミス氏都へ行く」の中で、田舎から出てきた一年生上院議員スミスを演じたジェームス・スチュアートがこの前で民主主義への素直な憧景を示す姿が半世紀以上経っても忘れられない。 参列者の中には、ブッシュ、クリントン、オバマなどの元大統領の姿が見えて、開式の前に和やかに話を交わしている。全員集まった所で、まずレディ・ガガが「国歌」を、続いてヒスパニック系歌手ジェニファー・ロペスが「我らが大地アメリカ」、三人目に男性歌手ガース・ブルクッスが黒人霊歌「アメージング・グレース」を歌って式が始まった。これらの曲に人種融和を訴えるバイデン新大統領の意図が込められている。これを聴いただけで目頭が熱くなった。就任式とか開会式には、音楽は外せない。どんな演説よりも心を打つ。商業主義に走りすぎている現在のオリンピックにはあまり共感は持てないが、それでも「争いを止めよう、代わりにスポーツの平和な戦いをしよう」という理念が伝わってくる開会式なら見てもいい気になった。 大統領の宣誓は、最高裁判所長官の口移しでなされるが、職務に忠実で公正を保つという常套句の外に、アメリカ合衆国憲法を忠実に守るという一句があるのは、新鮮な驚きであった。歴代日本の首相にほぼないがしろにされている日本国憲法を気の毒に思った。最高裁判事の〇✕査定に全く無関心だった自分を反省した。現行憲法を所定の手続きを経て、変更する事には異議はない。しかし、一旦定めた以上は、守らねばならないという気がする。アメリカが定めた憲法という認識があるせいか。 肝心の就任演説は、理想主義の色濃く、感動的ではあったが、あの紳士的で優しく、しかもプロ中のプロであるバイデンがどこまで理想を貫き通すだろうか。(栄光ホールディング会長 小谷年司) |
|
|||
コロナの年の終わりに 今年もあと一か月となった。歴史年表にはコロナCV19が世界を震撼させた一年と記録されるだろう。世界中の人びと同様、私たち日本人の全てがコロナによって振り回された年として終わるだろう。年初、これは大事になるかもと不吉な予感があったが、前回のサーズがやってこなかった記憶が残っていて、日本は大丈夫とたかをくくっていた面もある。 東京オリンピック開催も可能かなと願っていたが、空しかった。今は来年に延期された開催も危ういと感じられる。たとえ、万全の予防措置を講じて開催に漕ぎつけたとしても、それは国家の面子の為だけであって、民族の祭典とはならないだろう。 今日現在でも米国では、毎日二千人ぐらいの人がコロナで死んでいる。ヨーロッパ諸国でも、英仏伊西の四か国の死者の累計は、各国五万人前後となっている。その他の欧州諸国の惨状もスイスを含め似たり寄ったりである。それに引き換え、本家本元の中国や台湾、 韓国では、どうやらコロナの勢いは収まっている。その中間の西欧に近い自由で民主的な我が日本は、とりあえず土俵際で踏みとどまっているが、今の感染増加状況ではどうなるか解らない。日本では個別的な案件では、政府が強権を発動することはあったが、国民全体に強権を発動することは、戦後なかったと言って良いから、右往左往するばかりである。 夜の外出禁止令など思いも及ばぬだろう。 ただ、このところ朗報が入って、米英で今年中にワクチンが実用化されそうである。 アメリカでは、 ワクチンを受けたいという人は半数で、あとの半数はまだ危険そうだから 「止めとく」という日和見派だそうだ。安全性の保証が百%無い限り、怖いから嫌という見派だそうだ。 安全性の保証が百%無い限り、怖いから嫌という感情は良く解る。しかし、 それも時間の問題だろう。例えワクチンが出回ったとしても、社会に見えるような効果が現れるには、 少なくとも半年は要する気がする。 コロナ患者が全く無くならなくても、 希望と展望さえあれば人は楽観的な行動をとるようになるものである。それまでは、 今後の半年から一年、コロナを恐れながらも、何とか人々が生きる状態が続く。 英国のジョンソン首相もトランプ大統領もコロナに感染したが無事治った。 治癒したのは、一流の専門家たちが治療にあたり、 高価な投薬があったからだと誰しもが考えている。 回復は喜ばしいが、浅ましいひがみ根性が出てくるのは、コロナ禍が様々な局面で貧富の格差を、日々のニュースによって認識させるからだ。貧富の格差は盲腸の手術でも出てくるはずだが、いつ感染するかと全ての人々が恐れているコロナとは異なる。 不思議なことに、いや金融の専門家は金余りで当然とみなすやも知れないが、不況感溢れるこの世で、株価は下落せず、最高値までつけている。従ってこの 一 年は、富裕層は被害を蒙っているどころか、富を増やしているのだ。資産家だけでなく、密を避ける社会構造全体が、直接接触のない情報交換を選んで、ITの真価が急速になった。その分野で働く人達の急激な収入の増加も感じられる。 コロナ禍で交際による消費は生まれない。 個人消費はモノに赴く。 その事実は時計の販売にも明瞭に反映している。取扱店が限らている有名な高級ブランドは堅調だが、中・低価格品となると、スマートウオッチ系を除いては、全く低迷している。無論旅行客が来日しない要因もある。従って小売店間の貧富の格差も激しい。こういった負の連鎖から抜け出すには、コロナによってあぶりだされた現実を冷静に受け止めて、 自店の存在意義をどこに求めるかを、ゆっくり自問するべき時だろう。コロナは現在苦しんでいる小売店にとって、生き残れば決して将来不利に働らかなかったと思われるに違いない。試練の時と考えるしかない。 コロナが急激に日本を襲ってきた今年の始めは、まさかと思いつつも一 九二九年にニューヨークの株式暴落が始まった世界大恐慌の再来かと内心恐怖にかられた。幸か不幸か、 世界の多くの国々が、サラリーマ ン一家に例えると、給料が七掛けになった程度で終わっている。 大恐慌から米国が回復し始めたのは、一九三三年にルーズベルト大統領が取ったニューディール政策からである。失業対策、住居及び公共建設、資金の貸付等々、人が働き場所を得て、そこから収入が得られるようなあらゆる分野に政府の金を注ぎ込んだ。犯罪でなければ、いかなる仕事であれ、雇用の確保は経済の発展につながるというのが、政策立案者の 一人である経済学者のケインズの考え方であった。 今回の安倍・菅両内閣のとった 一人十万円給付とか家賃軽減とかゴートラとかも一種のニューディール政策かも知れないが、あまりにも志が低すぎる。 政府は金持ちの旦那ではない。ニューディールの底に流れるものは、個人の自主、 独立を基本とするアメリカ精神があった。 今回の日本のコロナ対策の 一部である経済的支援は、国民全部をおもらいさん〞 にしてしまう始まりといえる。物乞い精神を植えつけるのは良くない。そのうちに強請になる。財政出動というのは、本当に困窮している人や企業が急場を切り抜けて自立するためのものである。 十分な生活が出来なくなった人に百万円を進呈するのは良いが、 コロナでも安定した収入のある人に十万円上げてどうするのと言いたくなる。 公平のように見えて、公正ではない。政府の金といっても、 今の日本は国債という借金まみれである。 究極的に国債は国民へ の借用証書である。それは後の世代が税金で払うしかない。国債には償還日があるが、その時になれば新しい国債を発行すれば支障は起きない。よくこんな事をして国は持つなと素人には思われるが、他国も同じような事をしているので、均衡が保たれているのだろう。 国民は十万円をもらったら得をした気分になって後の事を考えない。 国家百年の計は、 現今の政治家の頭の中にないみたい。例え自分なりにお持ちになっていても、それを言葉に出した途端、言葉尻を捉えられて、苦境に立たされることを恐れている気がする。 お役人の差し出す書類を棒読みする答弁の様子を見るとうんざりしてくる。 ご自分のお言葉でお答えになったらどうですかといいたくなる。日本語が表現力のない抽象的でうすっぺらな言語に思えてくる。国会での答弁は、検事と被告の答弁ではない。 その点、次期大統領の選挙に勝ったバイデンさんの勝利演説は、やっぱり素晴らしかった。 あの気の弱そうで、実行力に欠く印象しか持てなかった人が、別人のように雄弁を振るった。「我々はまず、アメリカ人だ。全アメリカ人よ、党派を超えてともに歩もう。私は全てのアメリカ人の大統領になる」。 実現しそうにない呼びかけだが、その理想主義は心を揺さぶってくれた。(栄光ホールディ ングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
コロナのスイス時計産業への影響 コロナ感染が拡大されると信じられている冬樹に入って欧米では、さらに感染者が増えている。隣国のドイツがスイスとの往来に厳重な制限を課して、二週間の隔離を強制している。更に危なさそうなフランスとスイスは国境を接していて、特に時計業界では、住居がフランスで毎日国境を越えて通ってくる従業員も多い。ジュネーブの中央駅や空港では、「これよりフランス」という出口がある程の接触度である。時計製造の側面からみても、コロナによる大きな被害があるはずである。ところが几帳面に予定どうり発行される「FH誌」を見ても、ヒステリックな反応は殆ど見られない。臨時休業や在宅勤務が報告されているが実に冷静である。多くの記事がコロナ無視といってよい。自分たちの力では、解決できない問題を、とやかく論じても仕方がない。今できることを黙ってやろうとする、感情に走らないスイス人特有の大人の知恵だろう。 スイスは輸出と金融、 観光で生きている国である。 殆どすべての他国から見てスイスは輸入超過国である。 輸入しているのだから見合うものを買えとスイスに要求されても、 四国程度の広さで冬が長く、それも山ばかりの国土と八百万の人口では無理な話である。 時計ばかりでなく、 あらゆる製品を世界の国々に満遍なく片寄りのないよう、リスク ヘ ッジして売ることに努めている。一方的な輸出だから、 その統計をみれば相手の国の事情が正直に反映する。 FH誌には、 輸出先相手国の別統計が毎月速報として出ている。 紙面の都合で毎月とは行かないが、今年の一月、二月、四月、八月の実績の図表をここに掲げる。 国別番付の推移と前年同月比の増減に注目されたい。 一月の時点では実に順調な滑り出しで、 民主化デモ激化で減った香港の二十五%減を相殺して、 全体で九 ・ 四%伸びている。 年初ではコロナの影響は見られない。 ところが、 二月になってそれが突然現出し、 香港六割減、 中国半減、 だがその他の国は、 まだ大丈夫。 さらに四月になると被害甚大。 何と全体では八 一 ・ 三%減となる。 売り上げ前年比二割、 普通の商店なら倒産目前の数字だ。 ただ中国だけが、 マイナスではあるが、 踏みこたえていて、 全体輸出の三分の 一 を占めている。 感染を国家権力で低めに抑えたことと、 国民が海外旅行できなくなったことの相乗効果とみなせる。 前半六か月は、 五月、 六月と各月五割近く前年比で輸入を増やしたV字回復の中国市場を含めても、全体として三五 ・ 七%減。 四月〜六月の四半期で六 一 ・ 八%減。 八月単月の数字では、 全体で十一 ・ 九%の昨年対比減で、 下落にやや歯止めがかかっているとFHは見ている。 ただ中国のみがプラス五割近く伸長しているが、 これは直接購買地が、 中国海外から国内に移動しただけとFHは伝えている。 輸出減は早急に回復することはなく、 昨年の過去最高だった数字に戻るまでには長期間、 ひょっとすると数年かかるかも知れないとFHの観測は悲観的である。結局はコロナ以前に人々が普通に持っていた安全な生活感をいつ取り戻せるかにかかっていて、それには時間がかかるという事だろう。 特殊な高級ブランド品に対しては、 未だに根強い需要がある日本とは、やや異なるが、FHの見方ではコロナで特に高級品が痛手を蒙っている。直接的には、移動が難しい現状では、金のかかる海外観光旅行が不可能になった。そしてそれに伴う買い物も、中国人は国内で高級時計を買うようになった。バッグや靴などの高価皮製品や宝石に次いで、高級時計は犠牲になっている。全世界の業者は、“コロナなりせばの夢を追わず”、この高級品市場の現実を見つめて対応を図り、制限の多いコロナ経済を前提として生き残る道を探るべきだと、FHは勧告している。日本人なら、そんなこと解っているよ、現実にどうすればいいのだいと言いたいところだが、調査報告だから結論はない。 詳しく知りたい方は、FHの別冊「TENDANCES(潮流)3/2020」をお読みください。 ses@frg.swiss に申し込めば送ってくれます。 付言になるが、デモにコロナが追い打ちをかけた香港市場の凋落である。不動産、金融、観光といった他の面でも同じだろう。香港の唯一の力は経済力である。民主化への直接的政治行動はその力を弱め、結果として中国にアキレス腱を切られた。香港の再起は難しいと統計からも読み取れる。(栄光ホ−ルディングス株式会社会長、小谷年司) |
|
|||
FH誌ひろい読み 2020年前半のスイス時計の業績 本年旧正月、新節の頃は、まだ多くの中国人旅行者が大阪心斎橋を闊歩していた。まさか新型コロナは来ないだろうと楽観的な大阪商人は「武漢がんばれ!」という垂れ幕を商店街に掲げていた。コロナが容赦なくやって来て、「中国人は来ないでください」 となった。 インバウンドを当て込んでいたホテル、商店、薬屋、食べ物屋みんな閑古鳥が鳴いて、 悲鳴を上げている。 通行客溢れ、中国語が飛び交っていた心斎橋近辺は、昔の落ち着きが戻っている。商人たちはあの喧騒が一日も早く始まってほしいと願っている。 果たしてそうなるだろうか。 人間に旅への欲求はなくならないから、いずれは観光客の数も増えてくるだろう。ただ数年来の強烈な買い物熱に浮かされてやってくるとは思えない。それは近年外国に出かけた日本人の行動様式から推定できる。あまり買い物はしない。恋人に振られた気分になり、良い夢を見させてもらったとあきらめて新しい道を探るほうが賢明である。 そうは言っても僅か半年余りでコロナのワクチンや新薬が、最先端の医療技術が躍起となっても開発がおぼつかないのに、新しい道を見つけるのは至難の技で、手探りだから時間がかかる。取りあえず対症療法をやりながら現状分析をするのが大切だろう。 FH誌の夏休み明けの本年第十一号(八月二十日刊)に、今年前半のスイス時計輸出実績が出ていた。 コロナ禍のなかった今年の始めは順調な滑り出しだったが、三月に急落、四、五月は殆ど休業状態に陥った。後半七月の一か月だけ実績を見ると中国だけが頼りという面もあるが、少しづつ当初のショックから市場は立ち直りつつある感がする。前半の数字は輸出総額六十九億フランと、前半同期、百七億フランから大きく引き離され、三十 ・ 五%減である。最初の三か月は、中国向けが打撃を受けただけで、全体としては七 ・ 四%落ちたに過ぎないが、あとの四〜六月がいけない。コロナ拡散で六十一・八%も下落、この六か月で悪夢の終わりとは行かないが、かってなかった衝撃から、正常化への長い道のりに差し掛かったと見る。今の数字は別として、時計市場に見られる各種の要因の変化をみると、現状脱却のヒントがある。当面、まだ通年全ての結果が確定している訳ではなく、下落率も回復の時期も不明である。消費者のスイス時計に対する信頼の確保がまず回復の鍵であることは間違いない。現状ではすべての視線が中国市場の好転に集中しているが、お隣の香港はデモとコロナで死に体である。欧米の市場はご存じの通り。欧州全体の観光は元に戻るのに三年はかかるようだから、高級ブランドは時計を含めてしばらくは売れない。中国の国内消費は加速がつくだろうが、戻るには何年もかかるだろうし、すぐには全世界の落ち込みを補完できない。世界全体でスイス時計の輸出が平準化して正常に戻るには、長期間を要するだろう。 今年一年では、予想として時計輸出は全体で前年比三割減とみる。しかもメーカーによって大きな格差が生まれる。この前半六か月でも、推定小売値(五万円〜十五万円) のランクの時計輸出総額は半分に、全体の輸出総額の七割を占める小売値百万円以上の高級時計の下落率は三割となっている。七月に入っても全体の数字は改善されず、前半の三分の二で止まっている。但し中国だけはV字回復しており、前年から五割も増えている。 FH誌の解説から離れ、 以降私見となる。 中国市場への輸出額は、前半の六か月でも十五%弱しか減ってない。他の市場と比べるとごく軽傷である。七月に入って急にリバウンドした背景をどう見るか。一 つは外国に行けなくなり、国内で買い始めたのだろう。スイス時計にとって満更でもない話だが、あり難い話でもない。これまで外国で買っていた人が、同額の時計を国内で買ってくれるなら良いが、そうはいかない。 十年ばかり前だが、スイス高級時計が役人の袖の下に使われるというので、習近平が汚職防止令を出し、高い税金とか持ち込み制限とかの措置を講じ、香港では 一時売れなくなった。だが数年で売り上げは戻った。中国人が自分用に買って楽しむようになったと見る。更に、中国国内で売り上げが伸びていると仮定したら、時計にとって正常で健全な市場が形成されつつあるとみてよかろう。中国と香港を比べて香港の方が輸入総額が多かった昨年までがおかしかった。 かって日本人旅行者は、スイス へ行くと必ずと言って良いほど時計を買った。今は殆ど買わない。中国人も、そのうち日本へ来ても時計や薬、電化製品を買わなくなるだろう。 個人消費の増大は経済成長率を押し上げる。その点では、中国経済はコロナで意気消沈する他国に比してやや堅調とは言えないか。 終わりになるが、スイスのコロナ事情を調べると、九月二十日の時点で感染者数約五万人、死者二千人強とある。日本の約八万人対千五百人に対して、総人口が八百万人だからかなり厳しい。しかし時計に関しては、スイス国内市場の影響力は少ない。輸出が九十五%で、残りの五%の殆どが観光客向けである。コロナの勢いはまだ終わらないが、 生産力が弱まっているとは見えない。作れるけど売るのはどうするかが悩みのようである。(栄光ホールディ ングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「スイスよもやま話」 八月「FH誌」は夏休みである。スイスでもコロナ事情は日本と似たり寄ったりの様子である。日本の夏はだんだんと気温が上昇してきて、地球温暖化が身近に感じる。十年ほど前になるが、頻繁に大阪に来る香港の友人が、日本の夏の方がずっと暑いといったことがある。香港の夏のむぅとくる外気の熱気よりは楽だと反論したが、今ではうなずかざるを得ない。今年のように殺人的な猛暑が突然やって来て居直られると地球は燃えている感じが強い。ウィルスは暑さに弱いと聞いていたのに,、さっぱりコロナの勢いは衰える気配なく、暑さにうっとうしさを加えてくれる。それにマスクが息苦しい。今は世界中がコロナで海外への旅の可能性は消えている。だがやっぱり夏は爽やかなヨーロッパのどこかで過ごしたい。冬はハワイか、沖縄。春と秋は日本で。常時でも実現は難しいが、夢ぐらいは抱いていてもいいだろう。 山歩きはあまり興味はないが、平地から山を眺めるのは好きである。今年は残念ながら中止になったが、十数年来エプソンさんのご招待に甘えて、松本で八月に開催されるオザワキネン音楽祭に足を運んでいた。市中のどこからでも眺望できる北アルプスの山々の風景は心を慰めてくれる。富山の町から仰ぎ見る感じの立山も良い。実を言うと、我が家の玄関に立つと、背はかなり低いが六甲連山が目前に拡がっている。確か論語に「仁者は山を楽しむ」と言うのがあった筈だ。 その点スイスに行くと山だらけだ。ジュネーブの湖岸沿いの散歩道からは、湖のはるか向こうの空中にモンブランが見える。夏の暮れ方、冠雪が夕映えにバラ色に染められる。レストランの戸外の席に座って、良く冷えたスイスの白ワインの杯を湖でとれたペルシュ(淡水のすずき)の空揚げを肴に傾ける、と夢想するだけで心が蕩ける。湖岸をさらに西へ車又は電車で一時間余り行くとローザンヌを過ぎて、ジャズ音楽祭で有名なモントルーと言う町に着く。湖水に面したシオンの古城を近景にして背後にはギザギザの稜線を持つ鋸山が佇立している。ホテルの窓からも見えて、見飽きない。山は町から遠望するに限ると山好きの友人に言うと、「怠け者の美学」と冷笑された。山は辛い思いをして登ってこそ、その美しさは倍増するそうだ。 スイスで一番美しい姿の山はマッタ―ホルンだと人々は言う。確かにその通りと賛同するが、この山は他の山々に視界を遮られるられていて、近くまで行かないと見えない。ジュネーブからイタリアへ向かう列車の途中の駅で乗り換えて、ふもとの町ツェルマットへ向かう。山峡を走っていく路線だが、突然あの山角帽子の先が少し歪んだマッターホルンが姿を現す。まさに千両役者の出番という気がする。その感動は何物にも代えがたいが、ツェルマットの町はいけない。というのは、マッタ―ホルンの門前町で、町全体が山のお陰で潤っている。町中、土産物屋、食べ物屋、登山用品店、旅館だらけ。住民全部が観光業に専念している。町の住民の生活がさっぱり見えてこない。これだけ商業化されていると、マッタ―ホルンが気の毒になる。町から眺めて楽しむ山ではなく、これこそ登って、初めて価値の出る山だろう。 そもそも趣味の登山などという、危険で暇人のする道楽は山岳国の住民にはなかった。英国では十八世紀後半ぐらいから始まったとされている。エベレスト初登頂に成功した英人ヒラリーが、どうして山に登るのかを問われた時、そこに山があるからだと答えた話は誰でも知っている。山男らしいカッコいい返答だが、実は答えになっていない。一番乗りの功名心が裏にあることが解っている。エベレストの以前に一番乗りの熾烈な競争があったのはマッタ―ホルンの初登頂で、成功したのはウィンパーという英国人であった。ただ頂上を極めたのは良かったが、帰路八人の仲間のうち四人が滑落して命を落としている。このあたりの事情はウィンパー自身の書いた回想録に詳しい。一八六五年の夏で、日本では慶応元年、山登りなど、山伏か天狗のすることと思われていた時代である。この間TVを付けると難攻不落だったマッタ―ホルンも、すぐ下にコンクリート造りの山小屋ができていて、そこから日帰りで頂上まで往復できる様子が放映されていた。勿論ガイド付き、登山経験者に限られるようだが。 山の話はさておき、国家としての成り立ちについて少し書き足したい。スイスは昔から一つのまとまった国として存在していない。現在スイスに隣接している国々、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリアの封建領主の所領だった地域が、少しづつ独立して連邦を形成した国である。始まりは、ルッツェル湖に臨む四つの州のうち、ルッツェルを除く三つの州が、ハプスブルグ家の代官ゲスラーの暴政に反乱を起こして同盟を組み、スイス連邦として独立した出来事だった。この時に活躍したとされるのがウィリアム・テルであった。元々、ハプスブルグはスイス出身の豪族で、スイスの山中では発展がないと考え、オーストリアの方に転出して長い。所領から得られる年貢や税は、代官任せだったようである。このスイス側の勝利の年が一二九一年で立った僅か三州だったが、この年をスイス建国の年としている。その後、ルッツェルもハプスブルグの支配を脱してスイスに加盟する。こういう風に隣り合った州が次々と独立して連邦を形成するようになった。ナポレオンが一時は、ほぼ全土を占領したが、没落後ウイーン会議で、永世中立国になる事を認められ、大体今の姿になっている。現在は二十六の州(カントンという)と半州からなる連邦共和国体制である。この成立事情を見ても、四つの言語が公用語であり、風俗習慣も従来の伝統を守る事を良く理解される。しょっちゅう住民投票で物事を決めるのも不思議でないし、日本のような市町村合併はあり得ない。 あっても住民投票にかけての上だ。 従ってスイス人は、愛国心より郷土愛が強い。しかしながら、郷土偏愛だけでは郷土が成り立たず、他の郷土と共存して始めて国家全体が成り立つことを良く知っているから、あらゆる面で対立よりも話し合いでお互いが成り立つことを考える。それならば、博愛主義者ばかりかというとそうでもない。自分の利益を確保する事を知る人ばかりである。その辺の兼ね合いが、微妙極まりない。冷静というか、現実的というか。国政においても、それぞれの分野を担当する閣僚が七人いて、その中から一年づつ持ち回りで大統領が出て、うまく行く国なのだ。スイス人に聞いても今の大統領が誰か知っている人は少ない。 スイスに時計産業の歴史や今後の展開を知る上でも、こう言った文化的理解を持つ必要があると思い、あえてこの文を記した次第である。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
デジタル社会 コロナで身動きが出来なくなって半年が過ぎた。経済の動きも、統計上の数字よりもかなり低く、半分以下に減少しているように実感される。その理由はあらゆる人が集中心を欠いているためだ。十人以上集まると危険だという。殆どの職場にはそれ以上の人が集まるので、当事者の心が浮足立つのはやむお得ない。在宅勤務と言っても職種にもよるが、体の良い休日から大して離れてないのが実状だろう。 FH誌は、スイスもコロナ禍は続いており、相変わらず電子版で配信されている。本誌は、郵便事情が悪いせいか、二、三か月遅れてくる。最新の電子版第十号によると、今年の五月までの時計輸出結果が出ている。前年比で三十五・八%と急落している。五月に入ってやや持ち直して六十七・九%。日本向けは五ヶ月で七十四%もへっている。かなり厳しい現状で、七、八月は夏休みに入るから、大変だろうと思われるが、FH誌の論調は、それほど悲観的ではない。基本的にはPRも兼ねた会報なので、危機感を煽り立てたところで、時計業界がコロナを退治できるわけではない。今やれることをやるだけというスイス人、の合理主義なのだろう。 最初電子版は慣れてなかったので、パソコンの画面に抵抗があった.。頁はクリックして順番にしかめくれないし、細い文字は極端に読みずらい。眺めていても紙面のように情緒がさっぱり 湧かない。請求書のチェックをしている気になる。紙の頁をぱらぱらとめくって考えをあちこちに散歩させることが出来ず、論評するには不向きである。きっと年代の差から来るものか。ただ 雑誌や書籍が、印刷され製本される前に、コンピューターの中で完成されていることが、明確に解ったのは収穫であった。まるで胎児が成人となって分娩されるみたいと、昔の人間には思える。 本作りは、コンピューターで原型モデルを作れば、あとはボタンを押すである。印刷業や製本屋は副次的な役割を果たしているに過ぎない。建築における設計と施工の関係、つまりソフトと ハードの関係も同じである。両者とも、生産には重要だが、近年比重は増々ソフトに移りつつある。日本が技術立国であると自讃しているのは主としてハード面である。 アメリカの大統領がいくら自国製品を買えと言っても、長年の間モノ作りが外国依存になって、今ではハード面では弱くなっているので、米国民はきかない。でも米国経済が世界一であるのは、ソフトの面の強さである。モノつくりは日本が一番、自信を持てというが、多くの経済人は、それだけでいいのかと将来を憂えている。 特にコロナによって人と人とが直接接しないように会社や学校が試みるならば、どうしてもデジタル機器を利用するしかない。コロナが収まっても、デジタル化の進行は必然である。ただ、パソコンやスマホの画面は、現実のように思えるが、操作可能な電子信号にすぎない。あたかもあるかのようなバーチャルな世界で、週刊誌の記事のように何かしか加工されている可能性がある。それにもかかわらず、日本もまたデジタル技術の開発に進まないと未来の繁栄はない。現状はあまりにも遅れすぎていると、多くの識者は主張する。確かにその通りであるから、ネット難民たる私は黙らざるを得ない。でも安全で便利で豊かな生活が、人類を十分に幸せにするか、どうか。デジタル社会に落とし穴はないのか。 もうすでに現実となっているが、デジタル通信は社会に大きなねじれを作る。自分の不利益になるときにはプライバシーの保護を主張する人たちが、平気でSNSで私生活を他人の眼にさら け出す。アメリカのこの秋の大統領選挙では、郵便投票を実施するかどうか問題となっている。投票者が増えると世論調査の結果が選挙の結果に反映されるから、支持率が下落しているトラン プさんは猛反対している。もしも選挙がみんなネットになると、ポスターも画像で足るし、コストも安くなる。同時に、事実上、無記名投票ではなくなる。政府は無記名とするというだろうが、投票者の補促は可能である。マイナンバーがないと投票権が無いと言い出せばなおのことである。数回実施されると、投票する必要はなくなる。候補者の名が出ただけで当落は決まる。 世界中の言語には、様々な文字があるが、デジタル語には、ゼロと一の二文字しかない。この二文字が究極的には、世界共通語になりつつある。新しい文字の発明と言える。二千五百年前のギリシャの哲学者ソクラテスは文字の発生について興味深い発言をしている。かいつまんで書くとこうなる。 文字を発明したのはエジプトのある神様で、それを王様の所へ持って行った。文字を学べば、エジプト人の知恵は高まり、物覚えが良くなる。記憶と知恵の秘訣だと説明した。王はこう答 えた。成る程新しく素晴らしい技術だが、これを発明する力を持った人と、それを使う人々にどのような利益や害をもたらすかを判別するのは別な人なのだ。文字を知ると、記憶する訓練をしなくなり、忘れっぽくなって、思い出すのに自分の心中からではなく外の書き物からすることになる。文字から得られるものは記憶そのものではなく、思い出すとっかかりに過ぎない。知恵も外見のもので真実の知恵ではない。先生や先輩から親しく教わらなくても、物知りになるために、本当は何も知らなくても見かけは博識家となる。また知者であるという自惚れだけが発達して付き合いにくい人間となる。 この王様の話にソクラテスの創作が混じっている気がするが、その後で自分の言葉で付け加えている。 言葉と言うものは、ひとたび文字に書き残されると、それを理解する人の所でも、全然訳の分からない人の所だろうがお構いなしに転々とめぐり歩く。話しかけたい人にだけ話しかけ、そうでない人には黙っていることは出来ない。誤解された時には書き手の説明がいる。文字に書いたものは、自分だけでは身を守ることはできない。書き手の保護を必要としている。多くの書かれた言葉は、弱いものだが、ただ中には自分を守る力もあり、語り掛けるべき人に語り、黙すべき人には口を閉ざすものもある。学ぶ人の魂の中に知恵と共に書き込まれる真の言葉によるものだ。言い換えれば、ものを本当に知っている人が語る生命を持ち、魂を持つ言葉である。 これはプラトンの「パイロドス」という本に書かれている話だが、電車の中で乗客が一斉にスマホの画面に見入っている光景を見ると、いつもソクラテスの言葉を思い出す。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「人種差別」 コロナ危機も小康を得たようで、六月末ともなると、人々の動きもマスク着用や接近自粛でぎこちないけれど、少しづつ戻りつつある気配がする。食料品も買い出し以外にも、普通の買い物に人が出るようになった。まぁ私たち業界の時計・宝石は不要不急の商品だから、回復はまだ先のことだろう。FH誌もまだ新しいのは手元に届かない。電子版は私のパソコンには入ってきているが、全体にザクっと目を通すのが精一杯で、繰り返して紙面を読んで考える気にはなれない。最近号の巻頭言を読んでも、そのうちにまたもとに戻るし、その兆候も見られるとあるので、コロナ被害は当面さしたることもなかったのであろう。FHは製造業者団体である。毎日の売り上げに一喜一憂する小売業とは性質が異なる。例年、七月、八月は殆ど休業だから、多少、夏休みが早めに来たぐらいの受け止め方かもしれない。恐らく深刻なニュースは今後出てくることになろうから、今回は異なった話題で勘弁して頂きたい。 ヨーロッパでは、コロナに関しては日本よりは厳しい現状とみられるが、経済活動を再開し、人々の移動が始まった様子である。安全になったというのではなく、感染による被害と経済活動停止の 損害を天秤にかけて、経済を選んだと思う。いつまでも何もしないで家で待機している訳には行かないという居直りである。大事に至らぬ事を神頼みするしかない。 初めから居直っていたトランプ大統領の足元は今酷いことになっている。さすがに強気のトランプでも、恫喝的交渉は人間でないウィルスが相手では通じない。NY州知事のクオモが当面コロナに対抗するには、全員の感染検査しかないと主張し実行しているのに対し、検査するから感染の数が増えるのだから、検査は止めろとヒステリックになった。さすがに側近もこの発言に驚いて、ジョークだったと苦しい助け船を出している。 トランプの苛立ちに拍車をかけたのは、白人警官の黒人容疑者殺害に発する、あらゆる人種差別撤廃のデモである。「黒人の命は大切だ」運動である。日本人の目からすると、これまでのトランプ なら「白人の命も大切だ」とうそぶけたかも知れない。しかし、ホワイトハウスのある地元ワシントン市の市長は有色人種であり、近くの道路に「黒人の命は大切である」と大書されて、足元で大規模なデモが展開されたら心穏やかでない。しかも人種差別撤廃は建前とは言え、アメリカ憲法の根底であり、国是である。いかに大統領とはいえ賛同せざるを得ない。モノ言えば唇寒しコロナ風〞今の トランプの心情汲みて余りある。果たして再選なるか。 「人種差別反対運動」は、すぐさまデモなど安全にできる筈もないヨーロッパに転移した。人種差別は人間の心底に根ざしていると思う。それを克服しているのは、良識と理性と同情心に過ぎない。どの要因も危機が迫れば簡単に捨て去られる。日本に落とされた原爆も人種差別の表れである。あれだけ戦況が絶対優位にあったから、もし交戦国が白人社会であったら実行しなかったに違いない。日本人は何を考えているのか、何をし出すか解らない。だから落とす。 翻って、日本人一般の事を考えると、人種差別は甚しい。一人一人が胸に手を当てて考えれば分かる。私の娘の一人はオーストラリア人と結婚して、以来現地に住み、二人の子をもうけ、普通の生活をしている。まぁ良い亭主と一緒になれたと胸を撫でおろしている。相手が白人であったからで、もし原住民のアボリジニ人が相手だったら、いくら優れた人物であっても、真正な愛で結ばれていよう が、今のように安楽な気持ちでおれる自信はない。恥ずべきと自覚はしているが。 日本人は外国人がお客さまであり、生活に直接介入や参入したりしない限り、人種差別はしない。おもてなしの心に溢れている。そうでなくなると、突然国粋主義者となる。日本政府が移民を制限するのも、多くの移民を認めて、対立が起こった時に解決策に自信がないせいだろう。「ガイジン」というのは、昔は白人を意味していたが、西欧人は、この言葉に差別を憶えるという。今は多国籍の外人が日本には多い。「差別を感じない」と言った外国人に会ったことが無い。オーストラリアはついこの間まで、白濠主義と称して白人優位の社会であった。所が広大な国土に対し、人口が少なかったので、移民を受け入れざるを得ず、多国籍文化社会に転換せざるを得なかった。今後日本も人口が減少して、もっと多くの移民を必要とするだろう。将来起こるかもしれない移民との闘争を避けるために、我々の心の中にある差別意識を払拭する必要がある。公平な心を持つ両親には、公平な心の子が育つ。いじめの撲滅にもつながる。対症療法ばかりでは仕方がない。 最近の新聞報道を見て、やはりと思った。オックスフォード大の一学寮の壁面にあるセシル・ローズの肖像を取り除くという。ローズは私たちにとっては、先ずデビアス社の創業者である。次に政治家として、アフリカ大陸を北はカイロから南のケープタウンまで、鉄道を通し、大英帝国の支配下にしようと試み、その実現に貢献した植民地主義者であった。牧師の息子で、オックスフォードの学生 だった時、体を壊し、療養に南アメリカに住む兄を訪ねて行ったのがダイヤモンドとの係わりの初めだった。一八七一年当時、キンバリーでダイヤモンドが掘り起こされ、一種のダイヤモンド・ラッシュが起こっていた。はじめは木綿農場で働いていたが、ダイヤモンドの方が金回りが良さそうだと考え、ダイヤモンドの小さなデビアス鉱区の採掘権を買い、ダイヤモンドを掘り始めた。水やアイスクリームまで売ったらしい。近くのキンバリー鉱山へ行くと、多くの人がダイヤモンドの採掘をしていた。雨が降るとみんな排出水に困っていた。それを見たローズは、蒸気機関の排出ポンプを使うのが一番と思い、金を工面して、高価な排出ポンプを一台仕入れ、抗夫達に貸し出した。これが後半ダイヤモンド王となる起因となったとされる。ローズの目的は金だけではなかった。だからローズは二十一歳の時、オックスフォードに戻り、法律家となって戻ってくる。この法律の知識がダイヤモンドの鉱区を次々と買収するのに役立った。ローズはダイヤモンドから上がる利益を確保するには独占しかないと信じ切っていた。その戦略の効力は二十世紀が終わるまで続き、百年以上にわたりデビアス鉱山に莫大な利潤をもたらした。 後年政治に転進して、南ア植民地の首相に選ばれるが、隣国をクーデターで一気に併合しようとして失敗、本国の英国政府は面子保持のため解任する。大英帝国の為に大きな貢献をしたが、四十九年の人生の晩年は余り報われなかった。栄誉を称える為に、かってローデシアとその名を冠した国は、今はジンバブエとなった。その像が巨額の奨学基金を寄付した母校から消えるとは。アングロサクソン優位の象徴だからという。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
コロナ閑談 政府の緊急事態宣言が出てから、全面解除まで約四十日程、殆ど外に出ずに過ごした。感染病の偉い先生が「百%対応は簡単です。コロナウイルスは、人から人へ移動するのだから感染者と接触しなければ絶対安心です」と言っていた。宝塚という郊外の街のそのまた郊外の住宅地の老人二人の生活だから感染の心配はない。 戦時のように爆弾が天から降ってくることはない。かっては宝塚に帝国海軍の航空隊が駐屯していた。少年とはいえ、前の大戦の記憶があるから、戒厳令下にあるような気分には何かしら陥っていた。 毎日新聞に各地方の感染者と死者の数が出始めて、コロナ日記を書こうかと言う気になった。所が老人だけの二人暮らしというのは、忙しく、夜ともなるとテレビのコロナ関連番組をあちこちのチャンネルで見るのに追われ、考えを書き留める時間が無くなった。我が家の有料テレビには、アメリカのCNNや英国のBBCが入るので、それも熱心に見ていた。時差の関係で肝心な放映は日本の深夜ぐらいから始まる。朝起きしない人は録画を見るしかないが、そんな面倒なことはせずに、思い切って朝寝をしていた。起きてしばらくして早い昼食となると、一日のすぎさることの早い事。人生の終末に向けて、特急に乗ったみたいなものである。 武漢でのコロナ発生から約半年になって、いろんなメディアでいろんな人の意見を聞いてわかったことは、感染を避けるためには、他人との接触を避ける以外に、本当の解決策を知っている人は病 理的にも社会的にもいないという事だった。結局は戦時下での戒厳令と同じ、都市封じ込めが最善の処置でしかなかったのは、皮肉である。これなら小学生でも思いつく。実行が厄介なだけだ。 CNNの番組で一番心に残ったのは、ニューヨーク州のクオモ知事の定期的なコロナに関する記者会見であった。ニューヨーク州はアメリカの中でもコロナ被害が凄まじかった州で、死者が一日千人 を超えた日もあった。言わんとする内容は、他の首長と殆ど変わりはない。ただこの人の演説の中には、アメリカの古き良き時代の素朴なヒューマニズムがある。政治家としてより一人の人間として淳々として説くところがある。自分の家族の話も良く出てくる。公人と私人と分けるのではなく、全人格で語っている。情操の豊かさが言葉の隅々に出てくる。例えばマスクの着用についても「マスク は愛なのだ。自分の命が愛おしいと思って着ける。他人への思いやりから着ける。感染しないことは自分の住む地域を愛することに繋がり、ひいてはアメリカへの愛となる。どうか厄介でも着けてく ださい」と。感染検査を皆が受けるよう要請した時でも、検査員を壇上に呼び、自らが検査をしてもらってこんなに簡単なのだと訴えかけている。この人が出てくるたびに、どうして日本の政治家は 首相を始め、自分の言葉で語らないのか、そこに思いが至らざるを得なかった。 「つれづれなるままに、ひぐらし、硯にむかいて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」と兼好法師は「徒然草」を書き始めているが、このものぐるおしさ〞は、世間でコロナウイルスが猛威を振るっていると、心中により強く起こってくる。人々の暮らしは、基本的に働いて、報酬を得て成り立っている。その人たちの所得から出てくる税金とその人たちの働いている営利企業から出てくる税金で国家は成り立っている。教育も医療も年金も働いている人がいる前提の上で成り立っている。働く人がいなければ、全てが崩壊する。働いて収入を得ている人に保証するのならば、理屈は通るが国民一人一律十万円を支給するというのは、全部で十三兆円になる巨額で、苦し紛れの案としか思えない。さらに全部で三十兆円の支援金を予算に立てると政府が言うが、財源はない。財源の為に緊縮財政を他の部門ですることもできないだろう。殆どが福祉や医療に向けられているからだ。むろんお役人の給料も大きい。結局は国債発行に頼る ことになり、究極的には国民からの借金となる。余程の好況がコロナ終息後に訪れない限り、経済はインフレとなるだろう。幸か不幸か、世界の事情は全く同じで、外貨を買ってもリスクは同じなので インフレ率はそう高くならないかも知れない。 コロナの始まりの頃、クオモ知事がソーシャル・ディスタンスと言い出した時「社会的距離」と頭の中で翻訳して、マンション一室かなんかで、他人と離れて暮らすと思いこんだが、そのソーシャルは社交ダンスのソーシャルだった。人との付き合いの距離を取って、握手もハグもしないことと解かった。今や各国が国境を閉鎖して、国と国の距離を保つようになった。日本国内でも県境をまたいで出歩くなと言っている。 この傾向は、英国のEU離脱とか、コロナ以前に始まっていて、コロナはこれに加速度を付けたに過ぎないという人もいる。これまでは、集中化が政治や経済でも発展へのモーターだった。 下請けが安い地域にいくら多様に分散していても、コンピューターと輸送能力の発展で、発注者に利益が集中する仕組みとなっていた。これがコロナで大きくつまずいた。スイスの時計産業がコロ ナ以前から、部品の多くを国内で調達の運動を起こしていたのは賢明だったかもしれない。集中化から分散化へと世界が動きつつあるのは否めない。日本人には、西欧的整然とアジア的混沌と両方に 対する嗜好がある。どうしてアジア人にコロナの被害がより少ないのか、理由は不明だが、人の集まる所よりも、少ない方が安全と誰しもが考える。大勢が群がる場所への恐れ、それを避けたりする心 理的傾向は、コロナ終息後も人々に残るだろう。西欧的整然と日本的安穏がより好まれる機運が生まれる。それが日本中のまだ魅力を保有している大小を含めた各地方都市の個性ある発展に結び付けばと願ってやまない。 今回のコロナ禍で心ある多くの人は、死がそう遠くないことを知ったに違いない。死について考えることは、生について考えることである。いわば人間の条件に付いてを考えることになる。最低の条件は、衣食住凌げて、飢えることなく、雨露はけど、寒くなければ、静かに暮らせる。病気は辛いから、医者や薬が必要だ。この四つの条件が一つでも欠ければ貧しいという。それ以外はまあ贅沢となるか。役にも立たない事で時間をつぶすのは馬鹿げている。家族を養ったり、人々の役に立つためにしなければならない仕事は多い。余る時間は殆どないはずだろう。ここまで窮屈に考えることも無かろうが、突き詰めるとこうなる。但し、これは「徒然草」にある文章である。 「人、死を憎まば生を愛すべし、存命の喜び、日々に楽しまざらんや。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにあらず、死の近き事を忘るるなり」。これは原文で引用する。 今回は散漫なよしなし事ばかりの文章になってしまったことを許されたし。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
悲報きたる コロナ禁足を守って四月後半は自宅暮らしであった。不要不急の外出は避けるべしと要請されたところで、八十を超えた老人の用件はおおむねそうである。スティ・ホームと言われると自分だけ怠けているという疚しさが消えて、安心して自宅でゴロゴロしておられる。TVを見たり、本を読んだり、CDで音楽を聴く一日に終始するが、根が怠けものだからあまり苦にならない。 それにしても世界は、あっと言う間に悲惨な姿になったものだ。大分前に「エイリアン」というアメリカの恐怖映画があった。人類の滅亡を願って思考力を持つアメーバーのような正体不明動物が、 地球を襲う話だった。コロナ来襲の状況もこれに似ている。コロナ・ウイルスにあたかも悪意があるかのような気になってくる。現在アメリカでの死者は五万人を越し、英仏伊西の四か国では二万人を 越す。日本では幸いにして四百人ぐらいだが、いつこれらの欧米諸国に追従するかしれない。まさしくエイリアン(異星人)との戦争で、人々が恐怖にかられるのは無理もない。もっともっと恐怖心に 駆られて、慎重に対処することを識者は望んでいるだろう。 あの衛生大国のスイスの現状はどうだろうか。同じように小さな国のベルギーでも六千人の死者を数えている。スイスのことは新聞にはあまり出ないので、友人のスイス領事に電話で聞いてみた。 感染者は三万人ぐらいで、死者は千二、三百人という。スイス人は冷静かつ合理的で規制に従順だから、この程度で済んでいるのではないか。ただドイツ語圏では少なく、ローザンヌやジュネーブのあるフランス語圏で感染者は多いという話であった。ある程度行動の自由は許されているが、そのうちに厳しい規制が始まるかも。勿論、会社や工場は閉鎖し、自宅での仕事になっている。時計工場は、主としてフランス語圏にあり、早々に就業停止を実行していて、生産はほぼ止まっている。 「FH誌」も郵便事情のせいか手元に届かない。本年の六号と七号は電子メールで送られてきた。我が家にはスマホとアイパッドしかないので、雑誌一冊をざっと目を通すには具合が悪い。六十頁ぐ らいあるので、スクロールするのが面倒だ。スマホで新聞を読む人がいるけど、記事をスポット的に見るにはいいけど、紙面をパッと開き、勘所を押さえて、興味ある記事だけを走り読みすることが出 来ない。兎に角四月十六日に発刊された「FH誌」の最初の頁、編集長ヴィ―ユミエ女史の巻頭言に眼を通した。各事業所が閉められて在宅勤務になっているが、コロナ騒ぎもそのうち終わるだろう、その時までFHも協力を惜しまないから頑張ってくださいと、意外に楽観的だった。四月二十四日の日経MJ紙が伝える「スイス時計産業受難の時代」という内容とは離反している。日経によれば、コロナ需要の激減、香港市場の極端な不振、フラン高、アップルウオッチの急成長が、スイス時計産業の四重苦となっている。 恐らくコロナの完全終息まで一年はかかるだろう。人々は在宅テレワークに慣れざるを得ない。他人と直接触れることなく、生活や仕事をするには、ITに習熟するほかない。ほぼ全能のスマホを十 二分に駆使するのは普通人には不可能である。一部の機能を時計に連結して、単純明快な使い方をしたのが、アップルウオッチである。札や紙幣に触れることなく、かざすだけで支払いが出来る時計 がその一例である。コロナ終息後のサラリーマンの勤務様式には大変化が起こり、毎日定時に出勤しない人が多くなる。いわば自由業化する。その傾向は社会全体に広がり、消費の形態にも大変革をもたらす。アップルウオッチの成長は、その路線上にある。かって生活必需品だった時計になり代わるだろう。 ITを使いこなせないと生きていけない社会が完全に到来する前に、この世におさらばできると安心していたが、コロナの加速力で、そっちの方が早く来そうだ。小学生だって楽々と操作できるのだから、年寄りだってできない筈はないと信じて、IT機器に立ち向かうしかなさそうである。 長い間一種の反目関係にあったバーゼルとジュネーブの時計宝飾フェアが、今年は黄金週間中に日を接して開催することに、話し合いで決まっていた。勿論、今回のコロナ騒動で中止になった。今年は十数年ぶりに、あたかも季節は良し、出かけるかと思案中だった。 北国の春は、長い冬の暗さに比べて、同じ世界とは思えぬ程美し い。復活祭が済むと、あらゆる花が一度に咲く。ドイツ語で「美しき 五月」という。本当の春は五月から始まる。 大好きな五月、早く来てよ 樹々の芽を緑にしてくれよ ぼくのために、小川のほとりに 沢山のすみれの花を咲かせてよ すみれの花をみたくて仕方がない もう一度大好きな五月 ああ また野原を歩き回れたらなあ これはモォツアルトが作曲した僅か二分余りの歌曲「春への憧れ」の初めの一節である。子供の思いを伝えているので、旋律は単調で美しく、本当に五月の青空のように清澄で、一度聞けば憶えてし まう。誰でも聞けば、聞き覚えがある筈である。この旋律は、最後のピアノ協奏曲第二十七番の終楽章からの転用である。ここで歌われているのは、目前の春の光景ではなく、「春よ来い」という強い願望である。これを聞いていると、コロナの終息と読み替えたくなる。モォツアルトがこの二つの曲を作ったのは、死の数か月前だった。その時は、まさか死が背後に迫っているとは、曲想の明るさから察して、思わなかったに違いない。それだけに、この透明感に溢れた曲を耳にすると、かえって胸を打たれる。 そんなことを漠然と考えていた日に電話があって、大阪の心斎橋にある時計商である老舗中の老舗・藪内時計店会長、薮内正明氏が突然亡くなられたという報に接した。「まさか」と声を飲んだ が、コロナ感染による肺炎だった。つい二ヶ月ほど前、一緒に会食をしたばかりで信じられない。いつも温顔に笑みを絶やさず、本当のジェントルマンだった。他人の悪口をこの人の口から聞いたことがない。私と同年だったから、六十年以上続いた取引先のオーナーとの関係を超えた友人となっている。若いころから今日まで心根の優しさは終生変わりなく、良きキリスト教徒だった。訃報を聞いたところで、駆け付けることも出来ず、別れの儀式も一切、不可能の暗澹たる思いが心中深く拡がって行き、今でもわだかまっている。ご冥福を祈るとか、君の魂は神と共にあれとかいう哀悼の言葉がど うしても出てこない。我が悲しみには、不条理な死に対する行き所のない憤りの念が混じっている。 (栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司)__ |
|
|||
新型コロナウィルス 新型コロナ(ウイルス)の脅威が全世界を覆っている。 今年の始め頃は、中国・武漢で起った対岸の火事ぐらいに思えたのに、前回のサーズの時と異って瞬く間に世界中に拡がった。騒ぎ始めた頃は東京でオリンピックができなければ、ロンドンに前回の施設がまだ利用可能だからこっちでどうだという提案があったという噂が流れた。 しかし今の英国はそれどころではない。スコットランドではすでに全てのパブを閉店という要望が政府から出されている。イタリアはまるで十四世紀のペスト流行の時みたいにお手上げ状態で死者の総数は中国を上回った。隅々パリとオーストラリアのメルボルンに娘が住んでいるので電話で様子を聞いてみると、どちらの町でもカフェやレストランはしまっているし、会社への出勤も止められている様子。町には人がいないと言っていた。 三月二十二日と二十三日のアメリカCNNのニュースをみていたら、クオモニューヨーク州知事が記者会見をしていた。一時間程の実況放送が二晩続きであった。その時点でのアメリカ全土死者数は三百人ぐらいだったが、知事はまるで市中戦が起っているかの如き緊迫した口調であった。このままではニューヨーク州が亡びるという危機感をにじませていた。 コロナがいつごろ終息するか、今のところ誰も解らない。ワクチンの開発には一年はかかる。それまで州と国は具体的に何をすべきか。彼が数え上げた数字に裏打ちされた対策の数々はここでは記さない。ただ感銘を受けたのは全てのスピーチが殆どメモをみることなく、自分の言葉で語られていた点であった。多民族国家で多くの人種に理解を得ねばならない条件下にあっても、日本の政治家とアメリカの政治家とはいかに異ることか。全てが解らない英語でも心から心へ伝わってくる。 どこかの首相のよく言う、丁寧さも必要だが、相手の心に響く訴え方の方が重要である。 クオモ知事は言った。私の提言は明らかに経済活動に大きな打撃をもたらす。しかし打撃は一時的なものだ。経済とは何か、それは結局人間が生きていてこそ成立するものだから、コロナ対策を最優先する。現在ではこのよく解らない敵に冒されない唯一の手段は人と人が接触しないことにある。春の日のニューヨークは美しく心が浮き立つ。昨日も多くの人が街中や公園に出ているのをみた。生粋のニューヨークっ子である私も、気持ちは理解するが、人の集まるところに顔を出すのは止めよう。合理的に行動すれば、経済活動も続く。今日、店頭にあるマスクやトイレットペーパーは明日もある。食料品も同じ。冷静さが人を救う。社会的に人々は離間するが、精神的にはつながっている。アメリカは、世界恐慌からも第二次大戦からも、立ち直った。コロナぐらいに負ける筈がない。 感動しましたね。ケネディの名演説「きみたちは国家になにをしてくれるかを問うより、国家になにを貢献できるかを問うべきだ」を思い出してしまった。日本では「言魂」という。言葉には魂が入っているべきだ。日本の政治家が近年使う用語には全くこれが欠けている。個性の出る発言には、するどさがあって誰かを傷つける部分がでる。従って官僚の作った原稿を棒読みにする。四方八方隙な く作ってある。役所、警察、税務署からくる通達に似てくる。それに慣れた政治家はうまく行けば功績に、失敗すれば言い訳になる言葉を選んで語る。かくて言葉の力が衰え行く。もう言葉尻をとらえる習慣は止めたらどうですか。このままだと、国会の答弁は六法全書の口頭篇になりかねない。 よく考えてみると、コロナ禍は、人間の行動について新しい視点をもたらしたと言える。まず感染者に貧富の差別はない。民族にも関わりない。全く平等に襲いかかってくる。これが、人類の連帯感を生みだしているともいえる。それに、これまで長年経済成長率のトップランナーであった中国から始まり、独走が止まったことも意味が深い。米国もコロナによって経済は停滞するだろう。 町中でみかけるマスクは、他人からの感染を避ける道具であって、いはば一種のエゴイズムの発現でもあった。ところが今や、自分を守る効用と共に、他人に対する思いやりエチケットになってい る。無自覚の被害者がそのまま加害者にならぬ配慮ともなっている。ここに大きな位相の転換がみられる。 これまでのマーケティングのねらいは、いかにして、ある一ケ所に多くの人が集められるかであった。ターミナルの開発、ショッピングセンター、音楽・スポーツイベント、アミューズメントパークなどなど。オリンピックしかり。 つまり人が多く集まれば善であった。それをコロナは一瞬にして壊滅せしめた。人の集まりは悪となった。一旦、外出禁止を強いられて沢山人の出る遠くへ行くことがなくなれば、人々は本拠地近 くで日常生活の楽しみを昔のようにみつけ出すかも知れない。昔の人は、祭りの日をハレ、毎日の勤勉生活をケとして、ハレの日を稀な時として享受した。マーケティングはケの日を排除して、一年中 ハレの日にすることに専念して来た。クルージングなどはその典型で、船にのっているかぎり毎日がハレである。コロナは、これを逆転してしまった。時として人生にハレの日があることは悪くない。しかし、それは内発的なものではなければならない。作られたハレの日に踊らされて来た日本人にコロナは良い警告を与えたとも言える。ひょっとしたら、シャッター銀座とばかりとなっている地方都 市に賑いがもどるかもしれない。 WHOの本部があるくらいだから、スイスは世界的な衛生国であり、全ての外国人に対しパスポート検査があるにも拘らずコロナの侵入を防げなかった。ゴールデンウィークに予定されたジュネーヴとバーゼルの見本市も、連続した日程を狙った新企画も内容の革新もすべて繰りのべ。しかしその内容はコロナの後ではさらに変化せざるを得ない。一月の時計輸出が好調で、昨年一年間の前年比輸出も、香港政変による大減収にも拘らず、対中国向けがカバーして微増になっている。でも今後は強気一方とは行かない筈である。 コロナはいずれおさまる。それまでの不況の期間に、すべての企業が、もとに戻るのではなくて、いかに変わるかを考えなくてはならない。コロナは新生のチャンスを与えてくれている。当面、人と直接接触することのないネット通販が好調なのは解るが、ネットには人工コロナウイルスがいつやってくるかも知れない。小さな偶発事によって全てが失われる危険度が高い。 コロナ発生以来、三ヶ月、全市民が拘束されたような武漢の人達のことを考える。きっと三十年前の青空がよみがえり、河川や池の水も澄んできただろう。それをみた人々の心や行動やライフスタイルに変化がないとは考えられない。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司)__ |
|
|||
時計ジュネーブ大賞 東京オリンピックの開催が危ぶまれるような「コロナウイルス」の勢いである。果たしていつ終息するのか。切に開催可能となる事を願っている。 オリンピックは全人類のスポーツの祭典となっている。同時に祭典の商売ともなっている。開催期ごとに、発展のための目的ばかりでなく、必要以上に金儲けの目的の為の投資が増え続けている。完全な企業体と、この百年間になってしまった。第二次大戦時の中止は、まだオリンピック関連の投資が少なかったから、中止は「あぁ残念」で済んだ。再開から八十年近くたった現在では、中止または延期による経済的打撃は、特に開催国日本にとって計り知れぬほど大きい。 近代オリンピックの起案者クーベルタンは、競技に勝利するより、参加することに意義ありと言った。今やこれは僅か数名の選手団しか送れない小さな国への慰めの言葉であって誰も信じてない。選手はメダルを取るために参加している。その為にあたら青春の全てを犠牲にして練習に命を懸けるに値するかどうかは別にして、目的を達すれば、一生食いはぐれはない。選手の所属する企業や団体は、商業的名声と価値を獲得する。勝者が母国にもたらす国民の喝采と歓喜のために、国は選手育成のために莫大な予算をスポーツ振興と称して計上する。メダル確実とみなされた選手が病に侵され「がっかりした」と発言した大臣は非人間的と糾弾されたが、個人的に知らない間柄としては本音だろう。このように本来はアマチュア・スポーツの場である筈のオリンピックではすべてがお金で回っている。 十数年も前の事だが、スイス・レマン湖畔ローザンヌにある国際オリンピック本部を見学したことがある。立派な資料館に案内されただけであったが、白くモダンな広大な本部全体は、美しく調和が取れていて、細部にまでお金がかけられているのが見て取れる。オリンピックはやはり金である。 小学校の運動会で一等とか二等とかで勝った子を表彰するのは差別だから止めようとする試みがあった。参加することに百%意義を認めようとしても、駆けっこは勝ったり負けたりするので面白い。それを無視すると、参加する意義まで消失しはしないか。老人のハイキングではあるまいし。勝者を称えるのはどうやら人間の本能に帰する気がする。人間の欲望のひとつに名誉欲がある。名誉には拍手だけでは十分でなく、表彰状やメダル、トロフィーが要り、地位・金品の裏付けがあって始めて欲が満たされる。トロフィーとは、敵を倒し分捕った戦利品が語源である。カップは勝利の美酒を満たす容器である。誰かに打ち勝って手にする賞牌である。 大相撲でも美人コンテストでも、アカデミー賞でも、勝者にはトロフィーが渡される。一種の儀式であって、古来、授賞には祝祭性が伴う。 祭りには、気分高揚があり、多くの人々の注視を浴びて、催し全体の価値を上がる。これがあらゆるコンテストの効用であり、金儲けの仕組みが拡大する機会となる。コンテストが公正に見えれば見える程人気が高まる。出来レースの競馬には観客は来ない。近年あたりを見聞すると、あらゆる分野でコンテストやコンクールが大流行である。ランク付けは、その分野の品質向上に資するところ大かもしれないが、一方では心然的に金儲けに繋がっている。将来的にその分野全体の、即時的に当事者の。例えばゴルフの賞金王などというのは、その関係を明示している。昔気質のゴルファーならゴルフは金か、と嘆くだろう。 時計の世界でも、毎年その年の優れた時計を表彰する制度がある。二十年前に発足した「ジュネーブ時計大賞」略してGPHG。 GPはグランプリ、Hは時計、Gはジュネーブ。映画祭の賞と同様、いろんな賞がある。ダイバー時計の賞をセイコーが受けているが、GPHGの名前はまだ日本では業界でも浸透していない。 二〇〇一年に財団法人のちに公益財団法人として、その年に商品化された優れた時計を表彰して、時計産業の発展に貢献することを目的として設立。発起者は、ジュネーブ市と県、ジュネーブの「タイムラボ時計精器研究所」及びラ・ショードフォン時計博物館とエディプレスという情報グループ。これらが中心となって理事会を形成するが、技術的な提言をする評議委員会を持つ。三年前に代わって理事長に就任したレイモン・ロレタン氏は経済外交の官僚上がりで、これまでの地味な活動から一転させ、世界の注目をひく活動を開始したようである。 賞はエントリー方式なので、例えばロレックスのようにエントリーをしない時計は当然審査の対象にならない。それが客観性をやや欠く結果になっている。賞のトップはグランプリ。その他にイノベーション賞とか、大胆な試みに対する賞とか、時計に啓示的革新をもたらした賞とか、説明的な名のついた特別賞がある。その他に十四部門の賞がある。故本的には一個づつ。セイコーが得たダイバー賞もその一つだが、時計学校生徒の最優秀賞というのもある。 エントリーは五月に受付がある。まず書類選考。実物が無くても良し。国籍を問わず応募でき、七個まで提出できる。昨年は二百個が提出され、十四部門で各六個づつが候補作として残った。この選考もなかなか厳正な審査員の入札制で、公証人の立ち合いの元という。これらの候補作がまず世界中の人に見てもらう為、あちこちで展示される。昨年は、シドニー、バンコク、メキシコ、ジュネーブ、ドバイと巡回している。その後ジュネーブに戻ってきて最終審査にかけられる。 表彰式の数日前に審査員はジュネーブで一堂に会し、一日缶詰にされ、検討する。そしてまず、十四部門の賞を決定する。時計そのものの検討質問は許されるが、誰を受賞者にするかは秘密の入れ札である。同点の時は、委員長決済。結果は表彰式まで審査委員間の秘密となる。 グランプリの審査はややこしい。各審査委員が最も推す時計を提出する。そこで討議が始まり、まず六個を残すための入札をする。そのあとまた討議され、最優秀作一個の入札となる。あとの三つの特別賞も同じ方式で選ばれる。その結果は、審査委員にも表彰式当日まで知らされない。ではどんな人が審査委員になるかと言えば、スイス人に以外からも出されていて、専門家、蒐集家、ジャーナリスト、時計史家、小売店主などで、毎年四分の一は交代する。大賞を得た企業のCEOは翌年自動的に審査委員になる。 昨年も十一月七日に、ジュネーブのレマン劇場で開催された表彰式では、大賞「金の針」には、オーデマ・ピゲの薄型ローヤル・オーク、永久カレンダーが選ばれている。写真で見ると映画祭さながらの華やかな演出である。「FH誌」の昨年の第十五号と十七号の記事を参考にしてこれを記した。 (栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司)__ |
|
|||
FHの活動について 「時計産業にとって新しい年だった今年もゆっくり終わりつつある。このニ〇一九年は激動の年として記憶されるだろう。バーゼルに代表される時計見本市は、時代の流れに揺さぶられ、ブランドの流通形態も全く新しい方向を目指さざるを得なくなっている。中古品の二次市場が確立し、新品の前に立ちはだかるようになった。フランスと香港での市民デモが政治ばかりでなく、経済にも不安定をもたらした。その他の諸問題を数え上げると際限がない。キリストの誕生をかって待ち望んだこの季節に、私たちはそれでもプラス思考に立って、来るべき二〇二〇年が時計業界に何がしかの安定をもたらしてくれることを期待したい。 今年最後のFH誌をお送りするに当たり、常日頃注意深く読んでくださる読者の方々に御礼を申し上げたい。 あなた方は記事に眼を通すばかりでなく、いつも大きな励ましを下さった。年間十八冊の発刊を通じて私たちはあらゆる情報を追い、各ブランドの活動状況、各社の新製品、下請けを含む各工場の現況について精力的に紹介するばかりでなく、あなた方にこの時計産業と言う、目まぐるしく動く惑星の上で何が起こっているかを理解していただくために、時計分野の周辺の出来事も出来る限り取材した。来期もまた、続けて諸々の情報を伝えることに喜びを感じている。 二〇二〇年一月十六日号でまたお会いしましょう。その間、クリスマスから新年にかけてはゆっくりとした休暇をお楽しみあれ」。 これが昨年のFH誌最終号の巻頭に乗っていたFH誌編集長ジャニーヌ・ヴィユミエさんの挨拶であった。なかなかの名文に思ったので忠実に訳してみた。FH誌の内容に付いて実に要領よく簡潔にまとめられている。 写真で拝見するとジャニーヌさんは、面長で、長い金髪、黒縁のメガネが知的な雰囲気を醸し出している。表情には冷静かつ、利かん気のジャーナリスト精神が出ている。この女性が編集長となって数年になるが、以来約五百の時計業界会員間に配られる会報が全く変わった。内容も当たり障りのないニュースが殆どだった。資料としては役立つけど、全く面白くなかった。でも今は違う。週刊誌よりやや大きいサイズとなり、全ぺージにアート紙が使われ、鮮明で美しい記事に沿った写真が紙面の半分を占めている。下請け業者の広告も、洗練されていて雑誌発行の財政的支援と言う感じがない。 記事は仏・英語併記が原則である。編集が視覚に訴える点を強調しているのは、高級ホテルの室内に置かれている広報誌と似通っている。業界人は是非購読されるといいと思う。特に日本の時計メーカーの人々にお勧めしたい。製造して売る立場から、つくった情報誌だから、買わせる立場に立って、時計ファン相手に作られる商業誌とは全く違う。 それでも基本は会員の会費で成り立っているから、会員の某社が倒産したとか、内輪もめで経営が傾きつつあるとか、買収劇の真相とか、経営者のスキャンダルなど、その類の記事は取り上げられない。恐らくジャニーヌさんは、他人の不幸は蜜の味と感じる業界人にしょちゅうう合っている筈だから、その点の内情には良く通じているに違いない。私が現役の頃は、バーゼルの初めの年に二、三回はスイスを訪れていた。若ければ、遇たるにスイスを訪れ、ジャニーヌさんのもとを訪れ、一杯やりながら、さりげなく噂話を聞き出し、我が心の底に少しはわだかまっている下司根性を満足させたい気がなくでもない。最も彼女がそれに応じてくれたかどうかは別の話。 最も、多少とも問題のある業界の出来事は、地元の地方紙が伝えるから、その記事がFH誌の巻末に転載されている時もある。煽情的な内容のものは掲載されないから、キナ臭さを嗅ぐにすぎない時が殆んどだが、これがジャニーヌさんの読者サービスかも。特に興味深いのは、一業社に偏することが許されないのが、編集の基本だから、本編では扱い難い経営者へのインタビューを、新聞記事からよく転載していることである。 特に、私達日本でもよく知っているブランドの経営者との一問一答が面白い。往々にしてその経営者がいかに現状を把握しているか、現在の問題的が社内ではどこにあるのか、今後何をすべきか、全て現実的な返事が戻ってくる。インタビューをする人が上手だと目標の具体的な数値や、達成目標期日まで、引き出してくる。実際に銀座なんかにある、そのブランド店の繁栄ぶりを見ていると信じられないが、経営者に常に不安と戦っている。有能な経営者ほどそうであって、彼らの高給は不安の報酬かも知れない。とにかく、不安のない人生があり得ないように不安のない経営を目ざすのは現代では難しくなった。企業が世界的になればなる程、経営者は地雷がどこに埋められているかも知れない野原を行く気になろう。 新聞などで日本人の経営者へのインタビューを読んで感じることは、多くの人が肝心な点をうまく避ける技術に巧な点である。世間の情勢について騰々と論じたり、業界の動きを説明するのが上手だが、自社の現状とか、具体的な数値目標になると口が重い。他人のことはどうでもよろしい、あなたは自分の会社を一体どの方向に持って行きたいのか具体的に教えて下さいと、うまく突っこめる記者がいない。これは明確な仏英語のせいなのか、あるいは日本語そのものが曖昧なのか、いつも考える。人間は結局、自国語で考えざるを得ないから、日本的伝統思考に左右されやすい。 FHの会長はパッシェさんである。十五年以上はその職にあるだろう。それまでのFH会長はたいてい業界の重鎮で、名誉職ぐらいに思っているのか、外部からみると何の仕事をしている人か判明としなかった。日本のFH支部代表もリストさんという親日家だったが、仕事の内容は業界人でもよく解らなかった。しかし、パッシェさんは先頭に立って仕事をするのが好きな人で、スイス時計業界全体の発展にも助けられて、大きくFHの存在感を高めた功績者でもある。当然日本支部も今の所長の中野綾子さんの活躍で業界における重要度を増している。 そのパッシェさんが昨年最後のFH総会で、一年間のスイス時計産業の総括をしている。 簡単に報告しておく。年間の輸出は金額で昨年より増加する予測だが、数量では減少する。金額で貢献したのは、主として高額品でしかも超高額品であった。しかし、各社各様の難しい現実に直面しているのは事実である。額も量も増している時は無難だが、これが跛行状態になると工業社界にとって大問題になる。この点については機会をみて考察したい。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
バーゼルとジュネーブ お役所仕事と人は言う。あまり働いているようには見えない人間への評言である。私のような老人が若い頃、区役所の窓口へ行くと、中年過ぎの課長とおぼしき人物が、ひときわ大きな机を前にして、お茶を飲みながら新聞を拡げている姿を良く目にした。悠然として窓口に人が並んでいようが一切気にしない。幸い今となってはそんな光景はなくなった。窓口では笑顔で素早く対応してくれる。でも聞くと多くは派遣の人達みたい。最近我が町、宝塚の市役所が中途採用正規職員数人を新規募集に踏み切った。百倍以上の狭き門だったという。同じ仕事の量の対しては、同じ報酬を払うべきだと信じているから、正規と派遣ではこれだけ差があるのかと改めて認識した。正規だと安心して働ける意識が強く働くことに通じているのかどうか、倒産などすることのない役所の事だから、判然としない。 良く働いたうえで成果が上がると相応の収入が得られる仕組みが、やはり企業や社会がスムースに発展する基盤に思われる。この世界には適者生存の原則についていけない人も、かなり存在する。働いて成果を上げた人々と、それによって利益を得た組織が社会的弱者を救うという構造が理想的な社会だろう。今はうまくいかないけど、兎に角その目標に近づこうとするが、国のお役人の責務という気がする。 所が現実のお役人は、規制の権化としか見えない。よく言えば安定した機構を作り上げることに目的がある。安定は往々沈滞に繋がる。社会を活性化させるには、自由な競争による成果主義と、その為の規制緩和しかない。この新自由主義が果たして分野によって百%正しいかどうか疑問の余地はあるが、その結果生まれたのが国鉄のJR化であり、郵政の民営化である。出発時には、多少のひづみが出ても、現状に素早く対処できる面では功を奏している。現在は空港も民営化しつつある。いやしない限りお役人の経営感覚では、世界の早い潮流にはついていけないだろう。 国際見本市なども当初はお役人の仕事だった。土地や建物は公的な資金がないと賄えない。金を出したのだから、運営も役所の手でやってみるが、予算のつかない、収入だけでの経営はお役人には不向きである。やってみるが赤字続きで、結局は専門の業者に頼らざるを得なくなるのが落ちである。 毎春催される時計宝飾品の見本市「バーゼルワールド」もMCHという民間会社が経営している。バーゼルは、アルプスの南と北を繋ぐ遥か昔からの交易要地だった。大規模な見本市が生まれたのも地政的に当然であった。「バーゼルワールド」もその前身から数えると歴史は百年近くなるだろう。四十年ほど前は、見本市経営委員会みたいな、半官半民の組織が経営にあたっていて、それこそお役人式にのんびりしていた。会場にも牧歌的雰囲気が漂っていた。それがMCHの経営になって一変した。丁度日本のクオーツ時計におされ気味だったスイスの時計産業が復活する時代にあたっていて、スイスの業者だけでなく世界中から出展する企業が出てきた。MCHは拡大主義に走り、会場を拡充し、あらゆる手段を使って、出展者と入場者の増大を図った。 出展社は時間外にパーティやカクテルを開催し、まるでお祭りのようになった。しかし右肩上がりは長くは続かない。近年、出展料の高さが効果に見合わないとする業者が出展を辞退し始めた。昨年は、かって最大の出展者であったスウォチグループが不参加だったことが決定的な打撃となり、見本市に人が来なかったという。そこでMCHはこれまでは貸しブース業だったことを反省して、高飛車に終始した責任者を更迭し、方針を一新した。例えば、出展社と共有する空間を広く設けるとか、来場者のこれまでの頭痛であった宿泊問題をバーゼルのホテル組合と話し合って予約を取りやすくするコンシェルジュ業務をするとか努力することになっている。 ちなみにMCH全体の今年前半の業績が出ているのをみると(FH誌本年十三号、九月二十六日刊)六か月で収入二億七千二百万フラン(約三百億円)、前期比二十三・七%減で、損失は百万フラン。昨年は、二千百万フランの利益を出しているから、倒産かと想像していたがそうでもなさそう。バーゼルの設備投資からどれだけの損が出るか解からないが、再投資の余裕はありそうだ。復活を期待したい。 MCHの拡大化・大衆化路線に反揆を感じたカルティエを中心とする高級時計メーカー十数社が三十数年前に、バーゼルを離れジュネーブで独自の見本市を組織した。通称SIHH(国際高級時計サロン)は、バーゼルの開催期間は春だが、こちらは一月開催。世界の有力小売業者は、必ず両方の出展メーカーと取引があるから、二度スイスに出張しなくてはならない。大量生産の時計を扱っている限り、メーカーは見本が出来るころには、需要を予測して生産に入るのが常だから、見本を見てから発注量を決めても問題はなかった。見本市はショーで済んだ。しかし単価の高い時計を作る側は、見本ですぐ発注してもらい、製造にかかりたい。強いメーカーだと、今発注してもらはねば、納期が遅れ、販売機会を失うのは、両社にとって耐え難いでしょうと、やんわり又は、きつく迫ってくる。しかも日本人はアウェイに弱い。製造から販売までの距離を出来るだけ短くするかが、トータルマーケティングの要諦で、「貴社はその重要な出口です」とおだてられる。「何だい、作ったものが売れたら店じまいをする銀座の小さな餅屋と同じか」と思うが黙っている。つまり効果的でかつ強い印象を与える発注会にするのがSIHHの目的で、この傾向はいつの間にかバーゼルにも伝染してしまった。 しかしSIHHに属している三十社余りは、高踏的な態度を続けていくのにも限度があると考えたのか、来年から大改革に手を付けることにした。先ず名称「時計と目を瞠る驚き、ジュネーブ」(Watches&Wond.Guneva)それに日程、バーゼルワールドが四月三十日〜五月五日に対して、四月二十五日〜二十九日と変更。この英断に拍手を送りたい。次に門戸を拡げ、多くの人が入場でき、かつ高踏性を外さないプランも発表されている。(FH誌本年十五号) 秀節は美しき五月、バーゼルは、ドイツ語圏、ジュネーブはフランス語圏、景観も人情も異なるが共に美しい二十万都市。両都市を結ぶ線上は、時計産業ベルト地域である。来年は多くの日本人業者、メディア、時計愛好家が喜んで行かれるであろう。但し黄金週間で、旅行者が多く、高くつくのはお気の毒。(栄光ホールディングス会長 小谷年司)。 |
|
|||
「ヴェネーチァ」にて さしたる理由はなかったが、まだ行ける間にイタリアのどこかの町に行きたくてベニスに来ている。本当は「ヴェネーチァ」とネーの音節にアクセントがあるが、ベニスと表記する。学生の頃から何度か訪れているけど、一日、二日滞在して、名所や名画を急ぎ足で巡っただけで、これではこの古い稀有の海上都市の真価は解らない。今回は思い切って十日間留まることにした。 こんな不思議な人工島を潟の上に造成し始めたのは、五世紀の頃だったという。陸上からの異民族の侵略を止める最善の策だったみたいだ。以来、千五百年、ナポレオンに降伏するまで、ど の国からも占領されたことのない独立共和国であった。なんだか日本の歴史と似ている。ナポレオンが没落した後は、対仏連盟防衛国の分け捕りで、オーストリアのハプスブルグ家の領土となった。イタリアというのは、単に地域の総称でイタリアという国なんか存在しない。とうそぶいたのは、オーストリアの宰相でナポレオン以降の欧州をどうするか「踊る会議」の舵取りを取っ たメテルニッヒではなかったか。 確かにイタリアの歴史を理解するには、日本の戦国時代を連想すればいい。イタリアには関が原の合戦がなかったから、いわゆる大小の都市国家が、長い間お互いに戦って、領土を取った り、取られたりしながら存立していた。ヴェニスの長年の宿敵は、イタリア半島の根元の反対側にあるジェノヴァだったが、交易の為の制海権がかかった海上戦が主で、ベニスが勝利した後で も本土の領土には変化がなかった。 ベニスの資産は、全て船による東邦諸国との交易で得られたものである。ヨーロッパの商品を積んで、今のイスタンブールから黒海沿岸にかけての地域に持って行く、シリア・イスラエル・エジプトも入る。帰りは、香港を中心とする東方の商品を船に満載して帰る。往復で儲かるノコギリの商法である。しかも、その利益は、ほとんど国家に帰属した。光ばかりでなく富は東方か ら来た。というのは、商船を保護して同行する軍船は国営だし、その戦闘員やオールの漕ぎ手も官史だった。軍船の乗組員も奴隷ではなく、ヴェネーチァ人であった。というのは、奴隷はいざという時、祖国のために戦わないから。給料はどうかというと、手荷物程度の個人的な交易は公認だったから、良い収入になるし、経験が後の資産作りに役立ったらしい。 ベニスと言えば、海上から見るピンクのレースで出来ているような総督府だろう。実際行ってみるとかなり広い。しかし、大きな体育館みたいな議事堂から元老院とか、十人委員会室とか、 ゆっくり見て回ると、館内装館・絵画・彫刻の豪華さにド肝を抜かれるとともに、ベニス共和国がいかに政治的汚職を避け、個人の支配を回避するシステムになっているか、ほとほと感心す る。議会には議決権はあるが、提案権はない。議員の総員約千人から最盛期二千人ぐらいまでの全貴族のみ。あとの階級は市民と一般民に分かれる。総督は議員の中から選ばれるが、選挙方法 にもしきたりがあって、終身制だが、老齢の政治に錬達した人がなる仕組みになっている。 総監だけが有給で、他の議員は無給。総督は六人の補佐官が付いていて、彼らの承認なしには何も決定することは出来ない。二人以上同行しなければ外国にも行けない。議員は世襲制であった。日本の場合も世襲制を怪しいと言わずに世襲議員は無給にしたらどうだろう。バカ息子は自然に脱落するだろうし、賢い息子はしばらくは親がかりでも立派な政治家になりはしないか。 ベニスの迷路のような通りを歩いてみると、際限なく宮殿や寺院が現出する。とにかく中に入らなくても外壁の装飾だけでも美しい。この街全体の宝石箱のような富はどこから生まれてきて残されたのか。交易と平和からとして結論せざるを得ない。しかし、ベニスの栄華の上昇は、ポルトガルのアフリカ廻りの航路、コロンブスによる北米廻りの航路の開発で陰りが出てくる。ベニスには、人口が二十万人足らず、植民地開発という思想はなかった。スペイン、ポルトガルにはそれがあった。富は商売からではなく侵略から来るようになった。おかしなことに、ベニスのベルリーニ一族やチチアーノといった芸術の開花は、国家没落期に始まっている。絵画に残された女性の中で、最も美しいと勝手に思っているベルリーニの「マクダラのマリア」に、今回一番先にアカデミア美術館へ会いに行った。彼女は初めて出会った六十年近く前と同じ、両手を胸元に組み、うるんだ清純な瞳で前方を眺めていた。美しさと若さは変わらない。こちらは、かくも老いた。 ベニスには、今は産業らしきものは一切ない。全て観光で成り立っている。過去の遺産で如何にして食いつないでいくかは、町の景観をいかに美しく保つかにかかっている。百年来それが課題であり、その一つが美術の祭典、ビエンナーレで、百二十年以上、二年に一度ずつ開催され、丁度今年がその年にあたっていた。昔の造船所跡のやや不便な場所で行けなかった。しかし、それに合わせて、いろんな市中美術館で過去の名品とモダンアートを組み合わせて展示していた。 カ・ドーロ(貴金の屋敷)という昔の宮殿では、奇妙なインスタレーションを見かけた。大きな箱が置いてあって、半透明のスリガラスの上に直径二メートルほどの時計文字盤が描かれてあ る。中に恐らく作者であろう男がいてうすぼんやり透けて見える。せっせと進みゆく時針と分針を描いて時間を表示している。ご苦労さんな事だが、ハッと胸を打つものがあった。一分は、すぐ経って消えては新しく描く。君の時間もこうして過ぎて行っているのだよと言いたいのだ。昔のイタリア人ならだれでも知っている詩句が心中に浮かんできた。 青春は うるはし されど はかなし 幸せはすべからく 今手にすべし 明日の日の 定めなき故 (栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
心斎橋「大丸」の新築開店 この九月二十日に「大丸」が開店した.。旧建物を壊し、四年がかりの大工事であった。以前のヴォーリズが設計した美しい外壁と一階の内部装飾を残した難工事に見えたが、見事な仕上がりであった。一階の入館した時の雰囲気が昔のままだったのに多くの来場者は満足の様子であった。ヴォーリズの趣向は二十世紀初頭のニューイングランド・クラシックと言えばいいのか、ロンドンの老舗ハロッズ百貨店と似た印象を受ける。 北隣にある「大丸」北店は、元々は長年のライバルであった「そごう」のビルであった。「そごう」が改築する以前はモダニズム建築の旗手であった村野藤吾設計の直線の美しい外観で、様式は対照的だったが、「大丸」と並んで御堂筋の美観を形成していた。米軍占領期にいち早くPXとして接収されたのは、銀座の和光同様その美しさが目だったためだろう。勿論建築は古くなれば使い勝手が悪くなる。しかし「そごう」が全くの新築に踏み切った時は残念でならなかった。 「大丸」の心斎橋店は、ヴォーリズの居心地の良い親密な空間を作る才能の全てを出し尽くした建築であって、それがある程度保存されたことは喜ばしい。心斎橋筋は今では中国人他のアジア人で溢れているが、大阪人の心の拠り所である。祝祭日には心斎橋に出ようとする気分は残っている。見た目だけでも古いものが残っているのに安心感がある。 ただ最新の百貨店経営は、貸し店舗業になっている様相が強い。時計や宝飾の売り場でも、新しい「大丸」では、いわゆる三つ壁の店内独立店を強いブランドは構えるようになっている。そこには百貨店雇用の売り子はいない。独立店舗を構える程の実力と百貨店側から認めてもらえないブランドは、その他大勢として平場に美しくではあるが纏められている。ブランドとの力関係が判然としている。 かって「大丸」のスローガンは「良いものを安く」であった。これがスーパーの出現で無意味となった。いまは「高くても良いものを」に代わっている。購入スタイルの変遷を痛感せざるを得ない。以前からブランドの性格から考察して「グッチはグッチのお店で買って始めてグッチになる」と結論していたが、現実もそうなりつつある。そう信じている購買者層の量的ではないが質的拡大は目覚ましい。 ついでながら建築家のヴォーリズについてひと言。活躍の中心が関西であった為に、他の地方では知る人は少ないが、神田にある山の上ホテルには彼の作風が良く出た設計である。一九〇五年、二十五歳の時に滋賀県の近江八幡商業学校にYMCAの斡旋で米国から英語教師として赴任している。現在でも近江八幡はひなびた水郷の街である。明治の頃は教師とはいえ米国人は珍しかっただろう。熱心な教師だったが、課外や私生活で行ったキリスト教の布教活動が近隣の僧侶から猛烈な抗議が出て、すぐに解雇される。しかし人間的な魅力に富んでいたため、ついていく人が多く、メンソレータムの製造で有名になった近江兄弟社の創業に繋がる。兄弟で経営している意味ではなく、英語のフラタニティ(兄弟愛が原義)の訳で友愛会とか共済組合のことである。利益を個人の為でなく、布教の為、同志の為に役立たせる思想はカトリックの修道会に始まるが、当時の日本の若者たちには新鮮で多くの賛同者を得るに至った。怪しげな活動に見えなかったのは、旧綾部藩主、一柳子爵の米国留学帰りの娘と結婚したことからも来ている。その妻の実兄が大阪の財閥加島屋広岡家(大同生命等)の後継ぎ養子となって、こちらからの援助もあった。それに、建築家志望だった知識を生かし、いろんな建物を建てた実績も寄与したことと思われる。 妻は神戸女学院の出身で、その縁からか、学舎が神戸から西宮に移るとき、キャンパスの殆どを設計している。隣接する関西学院も同様である。幸いにこの二つの大学は我が家から車で十五分の距離にあり、時に訪れたりする。まさしくミッション・スクールの語感にふさわしい。緑の多い丘の上の学舎で、アメリカの古い小さな大学が連想され、こんなに自然と調和のとれた環境で学べる学生は幸せという気がする。ヴォーリズは、生涯千件以上の設計を手掛け、日本に帰化し、戦時中も日本に住み、一九六四年日本人として死去している。 「スイス経済大臣の来日」 六月にスイスの大統領が来日して、安倍首相と両首脳のサミット会談を行ったが、ニュースにもならなかった。両国間の関係は、平穏で無事のせいだろう。スイス政府は経済一本で国際政治には深入りしない。永世中立国の強みである。続いて七月に経済科学相ギイー・パメリンが来日して、日本の経済産業相と今後の両国の経済関係について協議している。随行したのがFH会長のパッシェさんで、その報告が夏休み明けのFH誌(第十一号八月二十九日刊)に載っている。 まず、パッシェさんの見る日本の現状はどうだろうか。日本の人口は一億二千七百万人。世界で米、中に続き、ドイツを上回る三番目の経済大国。但し、経済成長率を見ると、二〇一七年は一・七%増、二〇一八年は〇・八%、二〇一九年は一%ぐらいで、二〇二〇年のオリンピック・イヤーは〇・五%と予測されている。アベノミックスの目標と期待から全く外れている低成長。政府の借金は、GDPの二・四倍という先進国の中では最劣等生。借金嫌いのプロテスタント精神の持ち主であるスイス人やドイツ人にとって気絶するような数字だろう。これも付け足しだが、借金は主として国内からだから、外国に迷惑をかけることは少なく、先送りしていけば問題ないという楽観的な日本人エコノミストもいる。失業率は二・ニ%と低いけど、消費は伸びず企業も投資意欲が少ない。その中で消費税が十%に上がる。日銀は二%のインフレを目標にしたが昨年は一%に留まった。老人は増える一方で、中若年労働者は少なく、年を取っても人々は働いている。人手が少なく、やっと外国人を受け入れるようになった。これで大丈夫かという訳である。 然し、スイスにとって日本は、EU、米中に次ぐ四番目の交易国である。しかもスイスの輸出超過。薬品の次に大きな輸出品は時計である。昨年の時計輸出額は十三億四千万フラン(約千五百億円)で、対日輸出総額の二十%にあたる。今年になってからは前半でほぼ八億フランで前年比二十一・八%増と絶好調である。この数字は現実の小売市場からも実感される。消費意欲無しとは時計については全く矛盾している。当面だが、日本とスイスの間には貿易摩擦はほとんどないので会談は友好裡に終わったという。但し、EUと同じように自由貿易協定を結ぶよう要請したとあった。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
この世は全てマーケティング 永井荷風の「墨東綺談」は、男性の老人の為の小説の傑作である。人生を半ば諦めた世代だと今読んでも、大きな慰めとなる。荷風本人らしい主人公が、夏になると自宅近辺のラジオの音がやかましく聞こえてくるのが嫌で、毎夕外出する。六十近くでも独身だから、個人営業の売春婦が多いという玉ノ井あたりに散歩に出る。そこで雪という気立ての良い娼婦に出会って、短期間の情事と恋愛の中間のような関係を持つ。何だそれだけの事かと言わずに、老境に入った男性には是非読んで欲しい。 この作品が朝日新聞に掲載されたのは昭和十二年で、私の生年に重なる。四年後には、米国との戦争に突入する。アメリカなんか恐れるに足らんという戦意高揚が叫ばれ、それが世論となっていった時代であった。当然私も軍国少年として育った。 そんな時代にこのように不埒な物語が大新聞に「一億火の玉、撃ちてし止まん」の大合唱の記事に並んで掲載されたのが不思議でならない。作品の中には、用心深い荷風の事だから反戦的な言辞は一切ない。ところが、ごく最近に読んだ本から、荷風がラジオから逃走して散歩に出ると書いたのは、国家がラジオを通じ戦意高揚をいつもがなり立てていた事への密かな抗議ですよと教えられた。そういえば、この作品は「私はほとんど活動写真を見に行ったことがない」で始まっている。ラジオと映画は、国家のプロパガンダを周知徹底させる最強の手段であった。荷風は、あえて活動写真というすでに死語になりつつあった言葉を微妙に選んで批判したに違いない。俺はラジオや映画が主張することは容易に信じないから、耳や目をふさいでいるよと。 ヒットラーはラジオと映画というメディアをナチズムの宣伝に最大限利用したマーケッティングの天才だった。ヒットラー主催ともいえるベルリンのオリンピックは、昭和十一年にあった。前畑頑張れ!のラジオ放送で日本中が沸いたように、世界中に実況の音声が流された。記録映画の監督にはレニー・リーフェンシュタールという偉大な女性が起用され、世界中で放映された。その「民族の祭典」は今でもネット動画で見ることが出来る。実は「ナチス・ドイツ民族の祭典」であった。それは別として、オリンピックの国家主導的商業主義はこの時の始まったと言える。 人間の集団は、原始時代でも家族を中心として、安全のためにグループ化する本能を持っている。その傾向を利用して、多くの人をひとつのことに関心を寄せさせ、一つの方向を目指すようにするのが、マーケッティングと言って良い。元々マーケットとは、商品が販売される市場のことである。貨幣経済になってからは、市場で販売されてあらゆる物品は、現金化される。生産されて、あるいは刈り取られて、現金化されるまでの過程は、必要悪のごたごたに過ぎない。理想は作っている現場に買い手が来て、全部買い上げてくれることだが、現実はそうはいかない。いかにしてこの状態に持っていき、かつ発展するかがマーケッティングの肝要と言って良い。投資をいかに早く回収するかの手段ともいえる。同時に如何により多く金を使わせるかに尽きる。マーケッティングの手法は、商品相手だけでなく興行、政治、選挙、宗教、思想といったモノでない世界に及んでいる。 第二次大戦が終わり、世界の先進地域で人々の生活が豊かになり、消費に関心が集まるようになってマーケッティング手法が多様化し、発達するようになった。貧しい国では、商品のマーケッティングは要らない。生活必需品を作っておけばかってに売れる。「消費は美徳である」という言葉の出現に倹約がそうであった私たちの世代は、驚いたが、今や個人消費が経済発展の鍵になっている。「欲しがりません勝つまでは」が「欲しがろう、経済戦争に勝つために」になっている。いかに欲しがらせるかが、商品に関してのマーケッティング戦略の中核で、各社がしのぎを削っている。 これまでは、資金的に恵まれた企業が順当に優位性を保つことが出来た。消費者を洗脳するために、新聞、雑誌、テレビといった中央集中的でお金のかかるメディアに力を注げばよかった。所が、突然ネットというゲリラのようなメディアが力を得てきたせいでややっこしくなった。私のようなアナログ人間が、必要にせまられネットを見る時、横に出てくる広告が、何の役に立っているのか判断に苦しむ。ところが今年になって、テレビに使われる広告費の総額とネットの総広告費と同じになったと言われる。ネットの出現によって、小企業が大企業と対等に渡り合えると聞くと嬉しくなるがマーケッティングがさらに複雑になることは否めない。大企業のアキレス腱がいよいよ露わになる。 近年ウナギの稚魚が減少して蒲焼の値が高騰している。個人的な判断だがウナギを食べなくても死ぬことはないのだろうから、皆食べなければいい。そうすれば時間が経てば安くなっていつでも食べられるようになるはずである。松茸であろうが、キャビアだろうが同じである。自由経済の世界では、価格は需要と供給のバランスで必ず決まる。人々が食べなくなれば、値は必ず下がる筈である。この力学に対抗できるのは政府のような公共の力と独占の力だけの筈である。世界中の石油が独占されたとしたら、石油の値は上下しないだろう。ある程度まで成功した企業が望むのは、爆発的な発展ではなくて、安定した成長であることが殆どである。小さな範囲であっても、独占を目指すマーケッティングを取るのは無理もない。確かに人間には、食えないとなると食べたい、買えないとなると買いたくなる非理論的な天邪鬼の本性があるから難しい。 車でも、パソコンや時計でも普及していない時は大きな成長が望めた。自然の収穫ではなく大量に生産されるから、皆が所有するようになって市場は満杯に必ずなる。あとは買替え需要しかなく行きづまる。しかし例え松茸が安くなり、食べたいと思う時に手に入っても、何処産のものは旨いという優劣は出来るだろう。商品のブランド化もそのカテゴリーの製品が容易に売れなくなった時に発揮される。「FH誌」にエルメスの時計の若い最高責任者の談話が載っていて興味深かったので紹介しようと思ったが、前段で字数が尽きてしまった。次の機会にしたい。 ただ言えるのは、現代社会の全ては、マーケッティング理論によって操作されていると言える。時には荷風のように、自然に入ってくるように見える情報を拒否して、世間に背を向け自分自身の眼でみることも必要ではないかと思い、番外編となってしまった。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
買い取り業 競馬狂と骨董狂はよく似ている。大穴を一度でも当てた人はいつまでも忘れないし、思わぬ掘出し物を見つけた人も同様である。いつも夢よもう一度と思っているが、現実はそう甘くない。競馬にも骨董にも関心がなくとも一発当てるのを好む心理は万人共通である。TX番組「お宝拝見」が人気があるのもそこからきている。視聴者の多くは骨董なんかに興味はない。鑑定依頼人の期待と一瞬の結果待ちに同調してスリルを味わうからである。 一般論だが先祖や親の遺した書画骨董の類は殆んどニセモノといってよい。いやそうだと信じておくのが人生の知恵といえる。にも拘らず、古物市は大人気である。高い安いは別にして、掘出し物を探す人で一杯である。旅に出て天気の良い日に、青空骨董市に出会ったりすると嬉しくなる。楽しいが、こんな場所で財産になるものを見つける確率はゼロである。高級商店街にある、いかにも由緒ありげな、ドアを開けるのに勇気を要する老舗でしか、本当に良い物は手に入らない。万事お金が必要である。 お金持の初心者は自分の眼に自惚れがあるから、もっと安いところで手に入れようとして、たいていは痛い目に合う。こうして鑑識眼は鍛えられるのだが、そうなるとかえって購入は立派な専門家に頼った方が賢明と判ってくる。すぐれたコレクションは蒐集家の強烈な個性と手伝う人の冷徹な知識の協力で成り立っている。しかしどんなコレクションでも、時が経てばいづれどこかの美術館に入ったり公開される機会が訪れるから、鑑賞する側から見れば有難い。だがガラス越しに見るのと所有して常時手元に置くのとでは、資産という観点からでなく、雲泥の差がある。何が何でも自分のものにしたいという執念の成果である。お金では計算はできない。 蒐集家は狂気と紙一重のところで生きている。ある日本の実業家は数十億円で落札したゴッホの画を、死んだ時には棺の中に入れてくれと発言して、文化財に対し非常識だと批判されたことがあった。しかし、このやや狂った心理は解らぬでもない。なにかを本気になって集めた人は同感するだろう。それに古代中国の皇帝や、エジプトのファラオは同じことを考えていた。殉死の観念も同じ発想の線上にある。若い時ヘボ画家だったヒットラーは戦争の最中に美術品を次から次へと没収して自分の蒐集に加えていた。戦況がどう変わるかもわからないのに、よく気分的に余裕があったと思うが、これも一種の狂気だろう。悪い例を引いたがこの物狂いがないと個性のある蒐集家は存在しない。物狂いの集めた品々には、一貫した特有の魅力に貫かれている。 こんなことを書いたのはFH誌(本年第八号、五月十六日刊)に、ある蒐集家が持っていた八百点に及ぶ歴史的逸品の時計が、ロンドンのサザビーズ社によって競売にかけられるという記事が載っていたからである。この「時の傑作」と呼ばれる、ルネッサンス期から現代に至る時計が、七月二日にロンドンで始まっているジュネーヴ、ニューヨーク、香港と来年の十月まで、巡回して競売される。総額は二十億円から三十億円とみなされるが、競売の事だからはるかに上回る額になるだろう。勿論ポピュラーなところでは、オリジナルの古いブルゲ、ランゲ、デント、ベルトゥー、パティック、バセロン等が目白押しである。二世紀屈指の英国人時計師でブルゲの優れた研究書を刊行しているジョージ・ダニエルの幻の懐中時計「スペース・トラベラー」もある。八百点全部一度には出なくて、ロンドンではとりあえず百六十点からはじめるとあった。ほんとは全品が大英博物館に入ればいいのだが、EU離脱で揉めている英国の現情だから、買う余裕はないだろう。それにしても、これだけのものが一堂に集まることは今後もないだろうと思うので、入札は出来なくても見てみたい。どんな蒐集家なのかも知りたい。 こういった骨董市場は新しい製品の市場とは全く別の世界である。お遊びの世界と言って良い。落札した時計も収蔵が目的で身に着けることはない。新しい製品は製造者から、卸・小売りを通じて、あるいはその中間を省いて消費者の手に渡る。それが終点、ピリオドであった。その地点から逆流する事は考慮する必要はなかった。中古品の流通など無視して良かったのである。 しかし近年になって市場に商品が溢れ、消費者の身辺にもあふれるようになった。耐久消費財だと新しいものを買おうとすれば前のものを処分しなければならない。引き取ってもらうのが慣例になって、買取に繋がる。断捨離が流行語になり、質屋通いは恥だったのに、いつの間にか家庭人が不用品を売るのが平気になった。それにネットでの売買には恥も外聞も関係ない。かくして買取屋さんが雨後の筍のように商店街に現れるようになった。支払いを長くして、現金で売るから、その差がキャッシュ・フローを生み、商売が繁栄するという我が業界の長い常識が全く覆されている。我々の商売は「売ります、買ってください」なのに「買います、売ってください」でどうして商売が成り立つのか、最初は不思議だった。利は元にありというからきっと仕入れ値が安いのだろう。高価買い入れなどと看板に書いているのを見ると、それまで余程買い叩いていたのかという気になる。 心斎橋筋を歩くと、表通りも大手のお店があるが、一寸横丁に入ると買取屋さんばかりが乱立している地区すらある。お互いの競争も激しかろうと同情したくなる。大抵お店の目玉は、エルメスとヴィトンのバッグ、ロレックスの時計、カルティエのジュエリーのように世間に名の知れたものばかりで、その手のものを好む客は、数軒回って値踏みをする筈である。競売こそしないが、全体がサザビーズのようなオークションハウスの役を担っているのかも知れない。ひょっとすると品不足のモデルだと各店が値段協定を暗黙裡にしているのかも。 二次市場(中古)は、手仕事である美術骨董品は、量に限りがあるが、工場で生産される物品はこれに如何に対応するかが今後の大きな課題となるだろう。自動車は壊れる。古い名車を維持するには金がかかりすぎる。宝石は壊れない。時計は壊れるが機械式だと修復可能である。長い時間この世に残る。乾いた土地に雨が降ってすぐ滲み込んでしまうようになるのが、理想の消費のされ方である。ところが降った雨水がまたじわじわと地上に戻ってくると、どうなるのか。高額品のアキレス腱と言って良い。(栄光ホールディングス会長、小谷年司) |
|
|||
時計の専門誌「ヨーロッパ・スター」 今から四百年前のフランス人、デカルトは、近代欧米文明の思想的基盤を築いた哲学者とされている。代表作「方法序説」で学問の方法を説いているが、自伝的な人生読本としても得るところが多い。その中に森の中で迷った旅人は如何に処すべきかを語った個所がある。あっちへ行ったり、こっちへ戻ったりしてはならない。じっとしていても仕方がない。とにかく、行く方向を見当付けて、あくまでまっすぐ進み続ける。そうすれば迷いっ放しの場所よりは マシな処に出ることは間違いないと言っている。 昨年ノーベル賞に輝いた本庶佑氏の講演を以前に聞いたことがある。自分はガンの治療方法ともう一つ大きな発見に幸いにも恵まれたが、初めからそんな結果が出ると思って研究を続けたわけではない。何かよく解らないけどコツコツとやっているうちに光明が射して来た感じなのだ。初めから、これはモノになると確信できるような基礎研究はない。だから出来るだけ多くの基礎研究に金を出すべきで、結果を最近から判断して助成金を出すやり方は間違っている。今でも思い出すが、高校の英語の参考書にエジソンの言葉が出ていた。天才とは、九十九%の汗(パースピレーション)で一%の霊感(インスピレーション)から成る。なにか森に迷う旅人と似てないだろうか。最も日本の森は、下生えが密生していて歩けないが、欧州の森は歩きやすい。官憲に追われた盗賊や革命家が逃げ込むには絶好の場所であった。 こんな前置きを書いたのは、若い頃学者への道を諦めたのも、すぐには結果のでない勉強を忍耐強く続ける性向が自分には欠けていると早々に悟ったせいもあった。勿論、当面食べていけないという焦りも手伝った。結果がすぐ出易い商売の世界に入ったのは二十代の後半で、前の東京オリンピックの二年後。丁度時計の輸入が許可制になったころで、経験がなくても、外国語が多少通じるというだけで、スイスとの交渉の通訳ぐらいの役に立った。スイスからぼつぼつ売り手が来日していた。雇い主であった父は、英語がペラペラの外国商社勤めの日本人を商館番頭と言って毛嫌いしていたが、下手な英語使いの息子を重用してくれた。全く良き時代だった。 当時、日本では時計専門誌など存在してなかった。車の雑誌すらなかったと思う。時計の世界情勢を知ろうと思うとスイスで発行されている「ヨーロッパ・スター」という主として業界用の月刊誌に頼らざるを得なかった。何故か、名簿で調べるか無料で送ってくるので役に立った。FH誌が会報であるのに対して、これは購読料を取るので、よりジャーナリスティックであるし、広告主の意向を忖度した記事もある。創刊は一九二七年というから九十年近く続いている。この雑誌が創刊号からデジタル化して、多くの人が見れるようになったことがFH誌の本年第五号(三月二十一日刊)に詳しく載っている。巻頭の編集者ヴィユミエ女史の紹介は次の通り。 「ヨーロッパ・スター」社が時計産業界に金脈を提供することになった。業界の九十年間に渉る膨大な史料のデジタル化である。まず一九五九年か二〇一八年までの過去の雑誌、六万頁のデジタル化が完成し、今年中に、一九二七年からの分すべてが完成する。二十万頁以上となる。これで長い時計の歴史がすぐに閲覧可能となった。時計のプロでもアマでもすぐにアクセス出来るという快挙である。この号では、一九六〇年から始まる時代を十年つづ一区切りにして、写真入りでこの雑誌の論調を検討する。 この十年づつに分けるのは、明らかに十年を節にして業界は激変しているので、大賛成である。全部の十年を紹介したいのだが、紙面の制約から、とりあえず六十年代の業界がどうだったのかを思い出して見たた。 一九六十年(昭和三十五年)の日本はというと高度成長期の入り口でまだウロウロしていた。その年に大学は卒業したが、私のような文学部出身にとって就職先は絶無から、職種によってはあるかもという感じになっていた。日本人にとってもオメガに代表されるスイス時計が憧れで、仕方なく日本製を身に着けていた。持つならスイス製をとみんなが思っていたから町の店頭には密輸時計が氾濫していた。多くは駐留軍の商店PXからの横流しであった。政府から輸入枠を許され正規に輸入されたものをA,密輸物をBと呼んでいた。繁盛している店は、大抵Bを扱っていた。「あいつはB屋だ」というのが妬みを込めた蔑称だった。一九六四年に東京でオリンピックがあり、一九七〇年には大阪万博があって、社会は安定に向かいつつあったが、六〇年代の終わりには学生騒動が長引き、混迷の時代が続いていた。発展は次の七十年代年にやって来る。 FH誌が「ヨーロッパ・スター」から読み取った六〇年代はこうなる。 欧州では戦後はすぐに終わり、マーシャル計画が経済の復興に大きく貢献した。若い世代は、新しい空気を吸い込み、生き生きと生活を楽しむようになった。生活習慣も、音楽もファッションも一変した。親父たちの時計は、灰色で陰気で、昔ながらのデザインで老いぼれていた。時計も時代に即して変わらねばならない。もっとカラフルになって「消費社会」のリズムに合わせるべく変身すべし。「ヨーロッパ・スター」は、業界は上品な婆さんたちみたいに構えてなく、ツイストを踊れと言っている。 一九六三年は、日本でもスポーツ時計への関心が深まっていた。翌年のオリンピックの公式計時装置にセイコーが選ばれたからである。この年「ヨーロッパ・スター」もスイス時計産業全体に、もっとクロノメーター製造に力を入れよと勧告している。FHもそれに従って、同年クロノメーター・キャンペーンを張っている。 面白いのは、この年に早くも時計における香港市場の重要性に言及していることだ。第二次世界大戦終了の時の香港の人口は、六十万人だった。それが四百万人(現在はその倍以上)になって、町は急速に近代化しつたった。生まれたばかりの中国人民共和国の窓口に超資本主義の香港があることが、時計の大きな市場を形成すると「ヨーロッパ・スター」は予告していたという。 又、一九六〇年の七月六日にロレックスの創業者ハンス・ウィルスドルフが七十九歳で逝去した時、追悼記事がこの雑誌に出ていて、真のパイオニアであり、将来の大きなビジョンを持っていたと書いている。 一九六三年にまだ留学生だったが、スイスに来た父のお供をして、オメガとロレックスの本社を訪れた。オメガはすでに高層の近代工場だったが、ロレックスはジュネーブ市の商店街の階上にタコ足みたいに拡がった町工場であった。この雑誌の洞察力にも敬意を表したい。興味があればwww.europastar.com/club(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
追想 「フィリップ・シャリオール」 このフィリップは、「シャリオール」(FH会員)という名の時計を製造している男である。いや今ではあったと言うべきか。自分の名をブランド名にすると、何処へ出かけて行っても宣伝になるから実に便利だ。わざわざ呼ぶ必要がないと冗談を言っていた陽気な南仏人が亡くなった。七十七歳にもなっているのに、カーレースのサーキット上で、まるで名ドライバー、アイルトン・セナのような事故死だった。2019年二月二十七日、しかもその日は、私の誕生日だった。 「年を考えろよ。レースなんて止めとけ」と言ったが、「今の車、特にレース仕立ては、安全だ」と主張していたし、第一他人の忠告に素直に耳を貸す性格ではない。 ジュネーブ市内にあるシャリオール社から、自宅のあるフランス領のメジェーヴまで、帰る車に同乗すると、高速に入るや、すぐに百キロ以上に加速する。「止めろ、止めろ」と怖がるのを横目で見て、「大丈夫と」大笑いする。この恐怖のドライブの犠牲者は、さぞかし多かっただろう。 メジェーヴは、フランス有数の高級スキーリゾートで、彼が所有している家は、大きなアルプス特有のシャレである。資金的に余裕があるようには見えなかったが、立派な自宅や別荘を買って、それをテコに融資を受けるのは巧みだった。事業を始めた頃には、香港の海を見晴らす豪華なマンションを購入して、招待してくれた。アメリカの保養地デンバーにも別荘を買って、スキーに来いと誘ってくれたが行かなかった。パリにも住居を持っていたし、バンコクにも素敵なマンションを構えていた。彼の規模の商売でどうして可能なのか不思議でならない。こっちは売り上げだけは彼の会社よりはるかに大きかったけれど、借金経営で、頭を悩ませているから全く理解できなかった。銀行からの借り入れがなくなって、会社が自己資金だけで回りだして、初めて自分の為に自由にお金を使えるものと思っているから彼のやり方は永遠に理解できないだろう。 それでも一度、大阪のサウナ風呂へ一緒に行ったとき、南仏の城館の写真を見せてくれて、改装費を含めて五億円で買えるので半分出さないかと相談を持ち掛けられたことがある。その位は借金に余裕があったので、大いに気はそそられた。コートダジュールに二、三度行ったことがあって、引退したら、老後は南仏に住みたいなどと、ノー天気なことを夢見ていた。1989年に出た、ロンドンの一介の広告マンが、南仏に家を買って一年間暮らした経験を書いた本「南仏のプロヴァンスの十二か月」が世界的ベストセラーになっていた。親友だった調理学校長の辻静雄さんが、「ブルゴーニュで城を買ったぜ、一度来いよ」と言っていた。(それは今、彼の学校になっている)しかし、サウナの熱が冷めるころには理性を取り戻し、提案は断った。半分半分と言っても、元来が南仏マルセーユ出身のフィリップが使うのが九十五%で、こっちは年に一回行くのが精々かなと考えたこともあった。投資としてなら単独で所有しないと。そしてその後バブルは崩壊した。それまで順風満帆だったシャリオールも苦戦を強いられ、我々二人とも、お城どころではなくなった。 フィリップに初めて会ったのは、彼がカルティエの香港やニューヨークの現地法人の代表を辞めて、独立したすぐ後だった。日本のカルティエの総代理店だった三喜商事の堀田社長の紹介だった。 堀田さんの義弟が、京大仏文科の同級生で顔見知りだった。どんな人ですかと聞くと、普段は温厚な堀田さんがこんなことを言った。カルティエの連中は、えげつないのばかりだけど、シャリオールさんは、一番ましで人情が通じます。丁度代理権の問題で、堀田さんは窮地に立たされていたせいだろう。 付き合い始めると、それらしき外国名のブランドだと何でも売れる時代だったから、商売は順調にスタートした。数年後のピーク時には、年商が十二億円にもなり、フイリップ自身がしょちゅう来日するし、仲良くなるのも早かった。南仏の人特有な開け拡げさがあったし、アイディアも豊富だったし、冗談も多かった。俺がカルティエの時だったら、それは断固ノーだ。しかし今の立場では強く言えないし、妥協しようと良く当方の言い分も聞いてくれた。 二人でよく日本全国を巡って、各地の取扱店や社員相手にセミナーを聞いた。彼はテキストに基づいた真面目な講義は苦手だったが、ひとたび自由に自己主張し始めると、言葉に羽が生えたように雄弁になった。彼が乗ってくると、通訳のこちらもアドリブも加えてつい力が入る。二人で人々をアジるのは実に楽しかった。日本人は、新参のブランドに対しては、まず懐疑的立場をとる。すぐに熱狂したりしない。商品の小さな欠陥を指摘したりする。そんな時、フィリップは言い訳をあまりしない。日本に俺は最初カルティエのライターを売りに来たが、火打ちレバーをひねるのが固く、なかなか火がつかない。蓋を開けてマッチで火をつけた。でも売れた。何故ならカルティエだったから。製品が優れているのは、大切だがもっと重要なのはブランド・イメージが浸透しているかどうかだ。クレームに改善の努力は惜しまない。日本で製品検査をパスしたら、全世界でパスする。しかし、ブランド確立は一朝一夕にはできない。技術ではできない。皆さんの共感とお互いの努力で少しずつ出来上がっていく。その努力を払ってくれませんか。ブランドさへ確立したら、どんな問題でも問題ではなくなるのです。この返答は見事だったと今でも思い出す。 今のカルティエは買収されて、リッシュモン・グループに入っているが、以前はシルヴァマッチというライター製造業のロベール・オックという人がオーナーだった。百円ライターが出来て、将来に不安を感じたこの人が、傾きかけていた老舗のカルティエの名を借りて、ライセンスでライターや時計を作り始めたのが大当たりとなった。その利益で、母屋のカルティエを買収することになる。このオックさんの下で働いていたのがフィリップで、ブランド再興の過程を細部に至るまで、知りぬくようになっていた。この経験が、自らの名をブランド化できるという自信に繋がったと思える。残念ながら、こと志半ばで、世を去った感がする。 フィリップの本葬は、バーゼルワールドに合わせたためか、三月三十日パリの古くて格式高いサンテチェンス・デュモン寺院で正式のミサが施行された。その後、コンコルド広場に面する超名門クラブ「オートモビル・クラブ」で偲ぶ会があり、両方に参列した。実に盛大で、華やかな人生を送った彼に相応しい儀式だった。日本で災害があるたびに、世界中のどこにいても自宅へ電話してくれた彼の太い声が、もう聴けなくなった。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
ハイ・エンドのみんな 「みんながそう言っている」「みんながそうしている」と私達は、皆という言葉をごく自然に使ってきた。自分の主張をあえてみんなの言葉に見せかける時もあれば「みんなそうだよな」という単なる民主主義精神の発露の時もある。しかし今の時代、はたしてその皆は一体誰なのか。一九九〇年ぐらいまでは、「みんな」は誰かはみんなが理解していた。一九七〇年の大阪万博では、みんなが万博に出かけた。六千万人の入場者がそれを証明している。みんなが欲しがるものも共通していた。電化製品とか、車とかマイホーム。消費財の製造業では、皆が欲しがるものを見つけて大量に安く作れば、成功疑い無しだった。主として、機能を売っていたからである。今でもこれは、「みんな」がお使いの便利な商品やサービスですと言う売り方はまだ通用している。しかし、その退潮は明らかである。消費者の方はみんなと同じのは嫌うから、ワンランク上とか、オンリーワンとかの言葉に誘惑される。オンリーワンといった所で、孤独で単身で人のやらない冒険に挑戦する訳ではない。当たり前の消費生活でオンリーワンは、在り得ない。幻想にすぎない。気分だけを味合わせる商業用語に過ぎない。 広告の博報堂には消費者文化研究所があって、最近「みんなとは誰なのか」という「みんな」の意識がどう変化したのかを追った小冊子を出している。今から一世代ぐらい前は多くの人の人生経路は、似たり寄ったりだった。男はみんな進学するから大学に行き、皆就職するから会社に勤める。結婚してマイホームを建て、定年まで勤めあげる。女性は学校を出て数年腰掛就職をして結婚し、二十五歳前後で初産を経験し、育児と家庭に専念する。みんな横並び。問題が起こっても、近くに相談相手が見つかった。しかし、女性が仕事を続ける機会が増え、女性の一生が異なるようになり、皆の感覚が分割されるに至った。仕事をする独身女性と平穏な家庭生活を送る専業主婦とはみんなの感覚を共有できない。男性も同じで、転職や合併によって職場の同僚ともみんな一緒という気にはならない。労働組合運動の低調もみんな意識の欠落から来ている。 博報堂の結論によると、今のみんなは、SNSで見つけだすという。「乳離れの幼児」をどうするかに困ると、このキーワードをネット上の#(ハッシュタグ)の次に打ち込む。昔は母親や友人に相談したのに、今はすぐネット上で相談に乗ってくれたり、苦労話を分かち合うようになるらしい。みんなとは#(ハッシュタグ)仲間になりつつあるという。 さて時計ではこの十数年来、高額時計の独壇場になっている。お金持ちしか相手にしてないと言ってよい。お金持ちと簡単に言っても、年収がいくら以上といった数字では捕らえられない人が相手である。昔のお金持ちには、金持ち皆さんと言って良い共通の生活パターンがあった。豪邸に住み、使用人を多数雇い、社会的体面を保つには金を使うが、消費には慎重だった。遊興に費やすことは一般的には嫌った。高価な買い物も、金持ちが持ってしかるべきものと決まったものに限った。金持ち間の「みんな」が存在していた。ところがネットや投資といった少人数でできて、短期間で金持ちになる人たちが登場して富裕層の「みんな」も分化してきている。新しい富裕層は、彼らのチャンピオンだったアップルのS・ジョブスに代表される。いつもGパンにTシャツでメディアにも現れる。そのままで町も歩けば誰も大金持ちとはみなさない。この新しい富裕層をうまく捉えたのが、二〇〇一年創業の時計「リシャール・ミル」といえる。 これまで宝石を使わない超高価な時計というと、パティックかAPに決まっていた。それが今や平均単価で、使用する宝石に頼ることなく一番高いのがリシャール・ミルである。 リシャール・ミルは本名で一九五一年生れのフランス人、時計の町であるブザンソンの大学で経営学を学ぶ。フランスの時計会社であるマトラ社で働いていたが、セイコーに買収されたため、営業職で残留し、一九九四年四十三歳までセイコーのフランス市場拡大のため努力した。のち高級宝飾店が次々と時計製造にも興味を示すようになり、パリ・ヴァンドーム広場の老舗宝石商モーブッサンに招かれ時計の開発に従事。その以前にこの会社の作る時計の日本代理店に名門の噂に魅かれて一時なったけど、製品は赤子の手になるような素人臭さであった。リシャールはとりあえず成果を上げて、コンサルタントとして独立、ガラスで有名なバカラ社の時計を作っている。同時に自分の名を冠した時計を、技術的にはApの系列で高級機械、特にトゥールビョンに強いルノーエパピ社の協力を得て創出した。 それから十八年経過した時計の売上げは、リシャール自身が公表するところによると、三億フラン(三三〇億円)生産個数四六OO個で、前年度より二割増という。従業員は百六十人。今年は五二OO個生産する予定。小売平均株価が二十万フラン(二千四百万円、フェラーリ一台分!)だが、それでも需要に生産が追いつかない。自身でも理由が解明できないようである。というのは、この価格の時計を購入する層はマーケティング対象の前人未踏の分野らしく、専門家に頼っても需要予測が難しいらしい。強いて理由を問われるならば、とリシャールは言う。時計は常に特殊で創造性に富むものにする。生産数は限定する。特定の店でしか扱わない、しかも他のブランドとは一緒に売らない。ネット販売はしない。若いブランドだけど、中古時計市場で高価を呼んでいるのは、新品に対し五年無料保証と二十五年の有料保証をつけているせいだろう。しかも購買者層が年々若返っているのに希望が持てる。 ジュネーヴの時計サロンには綺羅星のように高級時計ブランドが参加しているが、今年を最後にリシャール・ミルは出展しない。注文を取るのが目的だが、開催以前に注文が殺到しているから、出展する理由がない。それに、最近、高級リゾートの町サントロペの近くにワイン畑つきの城を購入した。今年中に改装を終えるから、サロンの時期を利用して3。ジャーナリストや仲間を呼んで楽しい時を過ごす方が、pR効果は高いだろうとリシャールは上機嫌である。 リシャール・ミル社には、もう一人社長がいる。ドミニック・ゲナという人だが、ふだんは表に出て来ない。営業と財務の関係だろうという噂だったが、この人のインタビューがFH誌に出ていて、なかなかの人物であることを知った。論調はほぼ同じであえて紹介はしない。二人の緊密な協力関係がうかがえる。ドミニックの方が少しきついかな。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
贅沢なマーケティング 庭の紅梅白梅が満開である。梅は桜と違って気付かぬうちに花が咲く。三月は大阪に大相撲の春場所が来る。街には、まだ寒いのに浴衣一枚で歩く力士さんの姿が散見されるようになる。梅の花は、天神様と切り離せない。「今の俺は九州に左遷されたが、京の我が庭の梅たちよ、主人がいなくても春風が吹き始めたら忘れずに咲いてくれ」、そのように御門を始め心ある人々も俺のことを思い出して欲しい。「主なきとて春を忘るな」と天神さん、すなわち菅原道真は梅に託して、嘆き節を残している。その怨念をおさめるべく全国に天満宮チェーンがあるが、京都の北野神社はその総本山で、梅の名所でもある。俳人蕪村に「白梅や北野の茶屋に相撲取り」という句がある。その門前に有名な粟餅屋があって、いつ行っても並んでいる人が絶えない。午後になると、すんまへん売り切れましたと早々と店じまいにかかる。勿論、季節や天候によって、作る量は計算済だろうが「売り尽くしセール」はせずに済む。「売り尽くし」は単に言葉の綾で、この大量生産の世の中で売りつくされるものは、そんなにある筈がない。売り尽くされた筈の商品が翌週に店頭に並んでいたりする。 その代わりに思い付かれたのが限定品セールで、限定品には限定品たる資格が厳として存在するべきなのに、売り手の身勝手な限定品が多すぎる。それに飛びつく買い手も買い手だが、安易な投資話にコロリと騙される人々が多い世情だから、金余り現象の一つかもしれない。それには、今買っておかないと無くなるかも知れないという強迫心理も働くようである。そうなると買ったからどうなんだという、論理的判断は失われてしまう。この種の失敗は、可愛いもので、自分を含めてだが、しなかった人はいないだろう。そうでなければ、懐疑心に満ちたコチコチの堅物で、付き合っても一向に面白くない人になっている。失敗は成功の母というが、人間性の肥やしともいえる。 商売のやり方としては、北野神社前の粟町屋さんとなるのは一番理想的である。毎日、最低の原材料以外の在庫なし、掛け売りなし、宣伝費なし、企画費なし、新製品の開発費も必要なし。家族が暮らしていければそれでよしという原則でのれんを守っているようだから、他人を雇はずにすむ。他人を雇うと、辞めた時、見よう見まねで独立して競争相手になるおそれも無きにして非ず。昔は、そばの「藪」とか「砂場」とか、のれん分け制度があって、新店は遠く離れた競合しない場所でするという了解があったが、今はその恩義も仁義も地に落ちてしまっている。 もう十年以上前の話だが、銀座の一等地に高い家賃と改装費を払ってイタリアの宝飾ブランドのアンテナショップを開設したことがある。当時は服飾店以外はブティックとは称さず、あくまで人々の反応をみる販売片手のアンテナであった。銀座の商売はそう簡単にはいきませんよと近くの老舗「サンモトヤマ」の二代目社長の尾上さんから、開店前に忠告を受けたが現実はその通りになった。高額な家賃がそのまま赤字になる上に運営でも赤が重なる悪銭苦闘の毎日であった。近くのルイ・ヴィトンの繁盛ぶりを見ていると、新弟子と横綱ぐらいの差があった。うらやましいを通り越して、ブランドビジネスはいかにあるべきかの勉強にもなった。しかし、これまた、近くに小さな小さな「空也」という最中屋さんがあって、前を通ると「本日売り切れ」という紙が連日貼られている。これには見るたびに切ない気持ちに襲われた。大阪商人には、「儲けてなんぼ」という想念が強い。アンテナだろうが何だろうが、何時までも赤字を垂れ流す訳にはいかなくなって二年ほどで閉店してしまった。このタイプの店は、メーカーが直接経営する以外に成功は訪れないというのが得た教訓であった。 小売業としては、粟餅屋さんとか空也さんが理想と言ったけど限界はある。というのは 家族の肩に労働力がかかっていると、利益は全て家族に還元されるが、急激な発展はない。人間には楽して金をもうけたいという本能が強い。資本家・経営者・労働者が同じだと搾取はないけど、拡大も望めない。持っている金を使って楽してもうけようとする集団を資本家と呼んでよい。その仕組みを苦労して考え出すのが企業家である。楽して稼ぐための呪文みたいなのがマーケティングといわれる。 市場が枯渇していた五十年ぐらい前には、マーケティング技法は不要だった。人々は生活に必要かつ便利で安価な製品を求めていたから、それさへ作り出せば、あとは人目に付く売場に並べさえするば良かった。要するに百貨店に置いてもらえれば勝ちであった。日本の消費財製造業はおおむねこの線に沿って発展して来た。商品を良質に、安価にしようと思えば、優れた機械を設備して、人手を減らし大量生産に走りださざるを得なかったのが当然の帰結となる。 しかしその結果、モノが溢れてきて、人々がもういいよと言い出すと行き止りになる。本質は変わらないが目先だけ異なる新製品を連発しても先は見えている。つまり世の中全体が、画期的でこれまで無かったモノとか消費の形態しか求めなくなっている。新しいことにしか、ビジネス・チャンスはない。短期的に金を儲けようと思うと、既存の業種では難しい。そこで、新しくこれまでなかった需要を創造するというマーケティングの登場となる。普通はこんなものが欲しかったモノやサービスを見出すことを指す。さらに進んで不要と思われていたモノやサービスを、あたかも人生に不可欠という幻想を現実化させるのが、贅沢のマーケティングである。オートクチュールの世界では昔から有ったけど、購買し得る階層はごく限られていた。 時計という商品に限ってみると、性能面では、殆んど完成している。クオーツ・ソーラー・GpS・完全防水で終着駅である。あとは、TT連結面しかない。 だがスイス時計は性能面では劣る機械時計が主力なのに繁栄を保っている。高価な高級呉服のように思えるが、縮小どころか市場は拡大している。FH誌を読んでいると、いろんな経営者が成功している自社のマーケティング戦略について卓説を披歴している。いくつか紹介して、考察したかったが、紙面がつきた。又別の機会に書くことがあるだろう。 要点を言えば基本は北野神社の粟餅屋の素朴なマーケティングと同じ。買う人に欲求を生じさせて、かつ待たせる。製造卸販売を目指す。需要より供給をやや少な目にする。ヤセ我慢して売れる商品を売れるだけ作らない。その上で、そのブランドに対するイメージを常に豊かにふくらませることで、持続的な拡大を計って行くことに要約される。会員数の限られた有名なクラブに、どうにか入りたいという心理を人工的に作り上げていると言える。但し立派なクラブであることが前提だけど。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
合成ダイヤモンドの行方 昨年の秋、デビアス社が自社で開発した合成ダイヤ(以下こう記す)を使用した宝飾品をライトボックスの名で米国市場向けに先行販売すると表明して以来、人造ダイアの世界が急に脚光を浴びることになった。 これまでは、業界人にとって合成ダイヤは偽物という位置で、ダイヤの評価を混乱させる厄介者であった。真贋をいかに鑑別するかが問題であったのに、突然主役に躍り出た感がある。各種の鑑別手段がある中で、やっとサリンという毒薬みたいな名の優れた鑑別機器が登場して、ひと安心といったところであった。ところが専門家に聞くと、合成ダイヤ製造者と鑑別法の競り合いは、いたちごっこみたいなもので、長期間安心とは行かないらしい。 知的所有権の観点からみると、コピーだと自ら名乗り出ても、販売は法的に許されなくなっているが、天然ダイヤにはそんな権利は付いてないから、合成ダイヤと自称したときからは、偽物の嫌疑はかからない。売れるかどうかは別にして大手を振って販売することが可能である。マーケティングの世界での勝負になる。 昨年夏、ライトボックス発売前に、デビアスの社長である旧知のスティーブン・ルシアさんに会ったら、合成ダイヤの繁殖を抑えるすべはないから、自社で作り、鉱山から産出されるダイヤとは全く違うカテゴリーとして確立するために発売に踏み切ったと明言していた。デビアス社は工業用に合成ダイヤを製造してきたから、技術を転用するのは容易である。毒をもって毒を制するというか、消費者に合成と天然の差を明確に知らしめて、土から出てくるダイヤの価値を強化させる苦肉の妙案ともいえる。 ローマ法王が、プロテスタント派の伝導をもしてもいいよ、カトリックが正統だという事が良く解るだろうと言明したようなもので、大方の業界人はびっくりしたと言っていい。なに、「デビアスだって合成ダイヤはそれはそれで商売になると考えているとさ」とうがったことをいう人もいる。デビアスにとっては、独占を放棄して以来の苦渋の決断であったに違いない。 今年の大阪での新年互例会でも、合成ダイヤが話題の中心になっていた。大阪の小売側の辰巳貞一理事長も米国のネットで手に入れたという白とピンクの半キャラットぐらいのライトボックスを披露していた。また、天然ダイヤの取扱業として名高い宝飾卸の名門「今与」が最近、合成ダイヤ専門の小売店を開店したということで、出席した今西社長に質問する人も多かった。 ライトボックスの実物を観察する限り、カラットで小売八百ドルの代物にはどうしても見えない。天然なら十倍、二十倍はしそうである。他の合成ダイヤに比べても五分の一という。最も昨年夏に聞いたデビアス社の話では、製造原価はカラット三百ドルぐらいになったと言っていたから、これからも売れる見込みがつけば、大量生産によってもっと値段は下がるだろう。しかも美しい色は付け放題である。そうなると、合成というより、レプリカダイヤと名付けるべきかもしれない。 昨年の最終FH誌(第二十号)に、転載だが、合成ダイヤに関する記事が大きく載っていた。とても興味深い見出しがついている。「合成ダイヤは、はたして倫理的代替物か」。つまり天然ダイアのエコロジー面をついている記事である。一カラットの天然ダイヤを現出させるには、二百五十トンの土くれや鉱物を処理し、五百リットルの水を必要とする。巷間ではダンプカー一杯の土から、やっと一カラット分がと言われているから、こんなものだろう。現在世界でダイヤの原石の年間採掘量で、うち二割が宝石となる。こういった自然破壊を嫌う人の為に、合成ダイヤが生まれたとこの記事の書き手は言っているが、どうも俄かには信じ難い。 この記事の欄外のコラムによると合成ダイヤは蒸気化させた化学物質を変換させる製造方式とある。珪素の基盤を超音波のレンジに入れ、超高温度のプラズマで熱して、種々混合ガスで照射し続けること四、五百時間で完成。養殖した石とも言われるとある。もっとも字面通り訳したつもりだが、当方理化学の知識は皆無に近いので正確かどうか、責任は持てない。 現在の合成ダイヤは技術的完成にはまだ達してなくて、さらに純粋で、製造に難しい合成ダイヤの開発に取り組んでいる若い会社もある。レマン湖畔ローザンヌにあるレーク・ダイアモンド社である。ローザンヌ工科大学と連携して二年前から取り組んでいる。合成ダイヤを他社に供給するだけではなく、系列に「フロリサン(花盛りの意)」という宝飾品会社を作り、昨年から販売を開始している。 その他にも、高級宝石商のひしめくパリのヴァンドーム広場には、合成ダイヤ専門店「フランセ・クールベ」が出店し、チェーン店化を進めている。又、「ダイアモンド・ファランドリー(鋳造の意)」という合成ダイヤモンド製造会社には、映画俳優のデイカプリオが投資しているという。勿論、映画「ブラッド・ダイアモンド」に出演して、ダイヤの非エコロジー面をつぶさに知った経験からだろう。 二千十四年には、合成ダイヤの生産量は年間三十五カラットだったのが、二年後には四百二十万カラットと驚異的な伸長を記録している。 ここまでは合成ダイヤの将来については極く楽観的なのだが、天然ダイヤに混入して販売される可能性の防止となると、論調は弱まってしまう。性善説に立脚しているせいである。石の固有の戸籍を追うシステムを確立するとか、法定を厳守するとか、ゲーム参加者全員の自主的規制しか提案できなくなってしまっている。宝石業界の長い歴史にかんがみても、全員に適用不可能とみる。その点では、自社鉱山産出の天然ダイヤについては固有のフォエヴァー・マークを印字して、出自を追跡可能にし、合成ダイヤはそうであることを明確にして販売するデビアス社の方針はいかにも英国発らしい現実性を持っている。エコロジーの面はしばらくペンディングにして。ダイヤ鉱山のエコロジーよりも、もっと緊急に問うべきエコロジー対策が他にある気がする。 終わりに私見を。宝石の要素は、硬くて破壊され難いこと、多年の使用に耐えること、それになによりも美しいこと。希少性と、数値では表せない神秘性、神話性がそれに加わる。合成ダイヤに後半の要素が欠けている。チャザム社製のエメラルド、アレクサンドライト、京セラ製のルビイ、サファイアも理想的な美しさを有していたが市場性を獲得するに至らなかった。〇・五カラット以上の、脇役にならない地下深く何百万年も埋もれていて、陽の目をみた天然ダイヤの魅力は永遠(フォエバァー)だと信じたい。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
ジュネーブ時計グランプリ スイスは核となる強力な王国が近辺諸国を武力で併合した国家ではない。ちいさな領国が七百年ぐらいかけて、話し合いで対等に合併に合併を重ねて出来上った国である。スイスの民主主義はそこに発している。国土は主として山の多い寒冷地だから、農業で豊かにはなれない。自給自足だと生きるだけが精一杯で生活は厳しく、三百年前までは貧乏国であった。国を離れて出稼ぎする人々も多かった。主たる職業は傭兵で、スイス気質は職業に忠実だから、戦っても強かった。常備軍ができるのはナポレオン以来だから、各国の君主はスイス兵を喜んで雇った。フランス大革命の際も王宮を守る筈のフランス近衛兵は革命軍の強攻にいち早く逃げ出したが、金で払ってもらっているスイス兵は命を的にして戦ったとされている。 欧州で旧教対新教の激しい宗教戦争が始まったのは十六世紀半ば以降で、新教徒の国であったジュネーヴには、フランス、イタリアで迫害された新教徒が難民となってなだれ込んで来た。新教徒の多くは手工業者で、絹織物、印刷、時計宝飾の技術が導入される機縁となった。 新教徒は基本的に質素な生活をするよう求められるので、宝飾業はふるはず、時計製造業に協力することになり、こっちの方が発展していく。といっても職人の世界は厳格なギルド制に支配されており、親方同志が以前の日本医師会のように競合を避けるのが当然であった。親方の数は決まっている。そこで親方になれなくても実力ある職人は新天地を求めて、ジュネーヴから出て、ジュラの山岳地帯へ出て行くようになった。一年の半分は冬で外での作業は不可能だから、室内での作業は向いている。今では時計産業に携わる人々がフランス語を話す根源はこんなところにもある。 それでも百年後の十八世紀には時計がジュネーヴの主要産業に成長していた。三〜八人規模のカピノチエといはれる小工房が沢山あり、一七二五年には人口の二割、一七八八年には四割が働いていた。総数は二万人、女性も多く近郊の人々も就業するようになり、年に十万個の時計を作るようになっている。ちなみに現在の総人口は十八万人である。 その後、安い時計はスイスのジュラ地方の新興勢力に取って代わられ、ジュネーヴは高級な時計で太刀打ちせざるを得なくなる。一八二八年には、いわゆる一貫生産を目指す近代工場のはしりであるマニュファクチュールと従来のカピノチエが百軒以上も共存して、五千人が働き、主として高級時計を十万個製造しても世界からの需要をまかない切れなかったという。この頃に同じスイス製でもジュネーヴ産は高級だと評判が確立されたのであろう。余談になるが、ユリスナルダンの百年ぐらい前の懐中時計を机上に置いて愛玩している。文字盤に工場のあるジュラ山地のルロックルとジュネーヴ名が併記されている。ジュネーヴの名声を使うために出張所かなにかを置いたのではないかと推測している。 勿論その後も順風にばかり恵まれた訳ではないが、ジュネーヴの人達にはよそのスイス時計とは違うという優越感がどうしても残っている。ジュネーブ・スタンプなどもその表れであろう。お高くとまってやがるというコンプレックスが他の地方の人々にあるような気がする。 こう言った事情を思いながら、本年第一九号のFH誌(十一月二九日刊)の「ジュネーヴ時計グランプリ」の記事を読んだ。この名を冠した財閥が主催する、アメリカ映画のアカデミー賞授与を時計に転用した広報活動の一種である。今年で十八年目になる。内容を紹介する。 十一月九日の夜、グランプリ授与式は千八百人の招待客が市内レマン劇場に集り大盛会のうちに終了した。司会はフランスの喜劇役 者エドアール・ベアとカナダの歌手ヴェロニック・ディケールで軽妙な話術で会場は笑いに包まれていた。写真で見ると赤じゅうたんを敷き詰め、背後に巨大なTV画面をつるした豪華な舞台である。 特別賞はブランパン、オメガ、ウブロを一流ブランドに仕立て上げたJ・C・ビーバーに与えられた。謝辞に立ったビーバーは「長年業界に貢献したために頂き、感動しているがまだ引退する気はない。時計は私の生涯の情熱の全てであった。四十四年間時計とともにあって飽きることはなく、生き甲斐となっている。人は情熱から引退することはできない」と時に涙ぐみつつ、熱弁をふるって一同から万雷の拍手を得た。業界のディノザウルスと呼ばれても、LVMH時計の総監督には意気軒昂たるものがあった。 この表彰式にはトップの「黄金の時計針賞」だけでなく、アカデミー賞同様多くの部門に分かれていて、十七を数える。全部で七十二点の候補作品は、九月末からベニス、香港、シンガポールに移動して公開展示され、ジュネーブのルーブルとも言う歴史美術博物館に戻り、最終審査に委ねられた。その後受賞が決定された後ウィーンへ巡回する。どうして日本には来ないのか、その事情はよく解らない、 今年の大賞グランプリは「ボヴェ一八二二」という時計だった。一八二二年というのは、清朝唯一の貿易港であった広東で、この時計の創業者の長男であったエドゥアール・ボヴェが時計の販売拠点を築いた年であった。この会社は、その後半ば忘れ去られたとはいえ、生き返って二〇〇一年にレバノン系のフランス人パスカル・ラフィに買収され高級時計として、完全復活を遂げた。ラフィさんと一度大阪で食事をしたことがあるが、スイスの田舎の城館を買って工場に改装したり、アイディアにあふれた人だった。時計に対する思いの深さに、こちらがタジタジになった記憶がある。授賞式では、年産二〇〇〇個だが、これで十分として公表している。「おめでとう。良かったね」と言いたい。 「ジュネーブ・グランプリ」は、身びいきと批判されるのを避け、公平という国際的信用を得るために、スイス製以外の時計のエントリーも受け入れている。今年はスポーツ時計部門賞をセイコーの「プロスペック・ダイバー」に与えているし、ドイツののノモスやオーストリアのハブリングも受賞している。一七の賞のうち、独立系が一〇を占めるのも記事は強調している。 内情を記すと,参加ブランド一〇六のうち提出された時計一九五、一次予選で七十二個が残り、最終的は十七個が受賞対象となった。 新しくこの財団の理事長となったレイモン・ロルタンは、「もっともっと多くの時計製造業者が参入されることを願って止みません」と演説を締めくくっている。解説者によると、これはジュネーブの顔とも言うべき、ロレックスとパティックの二社に参加を暗に勧誘しているということらしい。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
「大企業よ、おごるなかれ」 今を去る半世紀以上昔の話から始めることを許されたい。当時まだ二十代の半ばであったが、パリ留学中の春休み、北欧へ車で向かう途中、ハンブルグを通過したことがある。その頃のハンブルグの港は、横浜よりはるかに大きかった。車を止めて港湾で休憩していると、向こうから、悠々と日本の貨物船が入港してきて、目前を通って行った。見ると日章旗が船上でへんぽんと翻っている。それを見た時、「ああ日本だ」と胸に湧き上がって来た熱い想いを未だに忘れられない。その頃は、安保闘争が盛んな時代で、とりあえず左翼の学生だった。戦時中の愛国少年が、敗戦を機にすっかり心変わりして、「君が代」や「日の丸」を毛嫌いするようになっていた。ところが、 日本人に会うことも少なかった外国で「日の丸」を見てどうして涙ぐんだりするのか。その時に愛国心というものが、人間の本性に存在するのを悟った。 さて、四年年前の統計でやや古いが、世界の時計メーカーの販売額とシェアーを列記する。全体を百パーセントとして数字は%で表示する。 ▽スウォッチ・グループ十九・二、▽リッシュモン十六・三、▽ロレックス十二、▽フオッシル六・二、▽LVMH四・三、▽シチズン時計四・一、▽セイコー三・六、▽パテック三・二、▽カシオ二・六、▽AP一・八、▽その他二十七・五。 今はカシオが上昇したり、順序に多少の変化はあるが、大体の目安は付く。 スウォッチ・グループが最大であるのは変わらなく、最近で一番良かった年であった二〇一五年の年商は八十四・五億フラン、純益は七・七億フランだった。一兆円売って一千億円かせぐ会社とみていい。この二、三年業績はやや低迷していたが、FH誌の本年度第十三号(八月三十日刊)を見ると今年の前半六カ月の売り上げが出ている。売り上げは四十二・六億フランと前期としては、新記録、純益は何と六十七%も伸びて四・六八億フラン、前年の純益率七・六%から十一%に向上している。この調子だと、今年は最善の年になるだろう。ご同慶の至りである。スイス時計全体の動きも好調で、数字こそ一・三%の微増だが金額では、十・四%も上っている。 先日、日産のゴーン会長が関税法違反で逮捕され、会社としてのガバナンスが機能していなかったといわれている。ガバナンスとは、元々統治という意味だが、会社が規則や法律にのっとって、会社が自らチェックする動きと言っていいだろう。 この二十年間で倒産同様の会社の経営を引き受け、その剛腕で、見事スウォッチ・グループに育て上げた故ニコラス・ハイエックの功績は大きい。ハイエックの賛美者も多いが、最近目にした文書では、スウォッチ・グループぐらいガバナンスの欠けている会社はないと書いてあった。ある調査会社の採点によるとコーポレート・ガバナンスでは、百点満点中四十四点で、上場時計会社中最低という。その理由は、上場会社で株式保有も過半数に達していないのに、ハイエック一族が経営権を親子で引き継いで離さないことらしい。 一九七〇年代、日本のクオーツに押され、オメガ・チソ等を持つSSIHが倒産寸前となる。その時の融資銀行団が頼ったのが、コンサルタントのハイエックだった。一方に一九三〇年代にスイス時計産業全体の発展のために作られた国策会社のASUAGがあり、ここも成績は芳しくなかったが、主としてエタを中心とする部品供給会社として、新製品スウォッチの開発も進んでいたし、十分な力を有していた。ハイエックは一貫して時計を作れば必ず利益が上ると信じて、強引に銀行団を説得して、この二つの企業を、弱者が強者を飲むという形で強引に合併へ持ち込んだ。スイス人は愛国心が強いから、時計産業を自分達の大切な伝統と考えている。ASUAGはスイス人の時計愛のシンボルであった。それをハイエック一族の私有にしてしまったと非難文書は言っている。スイス人の愛着を一つの企業がタダ乗りしたと言わんばかりである。又、最近成立した、時計がスイス製と表示するためには、六十%(価格で)以上がスイス国内で作られていなければならないという法規も、スウォッチGの独占力を強化するためだとこの論者は主張している。 この主張が正しいかどうかが解らないが、新自由経済論者なら言いそうなことである。一時日本でも、アメリカ流の規制緩和が流行ったことがある。経済の発展は、世界中の技術や商品の流通の自由自在にあって、あらゆる形態の独占を排除し、経済上の国境はなくすべしと主張する人が多かった。このアメリカ産の理論は今や影がうすくなっている。 戦後エスペラント語が人気を得て、世界が一つの国になるという世界国家論さへ現れた。それは必ずしも夢ではなくて、ヨーロッパ連合EUが成立したが、難民が他国より押し寄せてくるに至っては、人類愛よりも愛国心の方が、各国共強くなっている。いざとなると国家も個人同様自分が大切になる。 アメリカは自由の国である。国家はいかなる営利企業にも関与せず、企業は経済上の論理と法律に従って生存すると、アメリカはいつも言って来た。倒産しても誰も助けないよ、人は自分で生きなくてはいけないというのが向うの原則とみんな思っていた。ところがトランプ大統領の出現で様子がすっかり変わってしまった。愛国心に訴えることがいかに大切かは、外国人にとっては全く面白くないが、よく解る。 話をスウォッチG批判にもどすと、この文書の書き手は、チューリッヒ大学の研究員二人でれっきとした学者である。批判は、ハイエック一族に対する個人攻撃ではなく、年次報告書に不透明な部分が多いとか、スイスの公正取引委員会が、スウオッチの行動を十分に監視していないとかのカバナンス不足の指摘に終止している。 愛国心とか愛社心がカバナンスの目を曇らせることが多々あるスウォッチの場合でも、カバナンスの水準は低いが、企業イメージの人気投票では、スイス国内で常にトップスリーの中に入っている。国民的信頼を得ていると言って良い。そんな風潮の中で批判するのは、スイスの時計全体の品質を難じているかの如く見られがちらしい。よく似た例はフォルクスワーゲンで、近年大問題になった排気ガスの虚偽申告では、ドイツ国内では誰でも知っている公然の秘密であったが、vwを非難することはドイツ工業を非難する非国民とみなされるから誰も公やけに言わなかった。長い間名声を保ち、政府とも深くかかわって来た企業は、夜郎自大となり勝ちで、自己満足で固まっていて批判するのは難しい。アメリカでは叩かれたが、ドイツ本国でのvwの人気は落ちなかった。こう言われてみると、日本の東芝も、あそこまでなる前に、みんなが知り乍ら黙っていた例を連想する。愛国心は美しい感情だが、国家の問題的な行為をしばしば見逃してしまう。愛社心も同じである。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「ミュージアム雑感」 小学校の三年頃までは中国の天津市の租借地といわれた一種日本の領土内で育ったが、敗戦で日本へ送還されて以来、還暦を越すまで大阪に住んでいた。現在は宝塚の住民だが、兵庫県といっても完全に大阪圏で、神戸は心理的に遠い。子供の頃初めて野球を見たのが甲子園の阪神タイガースの試合で、以来、トラキチ、まあ根っからの大阪人である。 自分の会社のある大阪の心斎橋へ出ると、当今は買い物客の殆んど中国人を中心とするアジア人となっている。先日、台風の被害で関西空港が閉鎖された数日間、町は閑散としていた。あの 賑やかな人達が来てくれなければ、大阪の商売はどうなるのか、如実に証明された気がする。だが彼らが、何故グリコ走者の大看板のある道頓堀界隈のケバケバしい色彩の氾濫を好むのがよく解らない。アジア的混沌に親近感を抱くのだろうか。大阪人でも若者が好むから、発散するエネルギーに共感するのか。年寄りは通り抜けるだけで疲れてしまう。 外国人の姿は少ないが、近代都市、水の都としての大阪の美しい場所は市役所を中心とする、淀川と堂島川に挟まれた中之島一体で、最近は昔のように川の水も緑に戻り、美しく整備されている。その一画に、市の東洋陶磁美術館がある。以前は、なかなか風情のあった洋風の銀行会館があったのを、壊して、二十年程前に建てられた。 商社の安宅産業が破綻した時に、主力の住友銀行が担保として押さえていたオーナーの安宅さんが一生かけて蒐集した東洋陶器の名品の数々は、「安宅コレクション」として、その世界では知らない人はいなかった。当時の価値で二百数十億円の評価といわれていた。競売にでもかけて、売却してしまえば貸金の返却の一部になったであろうが、大阪を代表する銀行としての面子はつぶれる。文化財を散逸させるのは企業の名誉にかかわると、銀行は市に寄贈を打診した。ところが市の方も流石大阪人、しかるべき土地は提供するが、美術館の建物と、今後の運営に必要な十分な財源も寄附しろと要求。つまり持参金付きの建物。なにしろ向いにある、大阪のシンボルといっても良い中央公会堂を、相場師の岩本栄之助が、全額寄付して建てた実績がある。ちなみに岩本は完成を待たずして、相場に失敗して自殺している。泣き面に蜂の住友は、グループを糾合して資金を集め、市の要請に応じた。民が官に頼らず、官が民を頼るのが、実に大阪らしい。江戸の頃から、大阪の橋は近隣の家々からの寄付金で建造されたという伝統は、今でもいろんな面で残っている。 つい先日ここで開催されていた「高麗の青磁」という展を観た。主軸は元々この分野に強かった安宅コレクションだったが、今から千年も前にあの繊細きわまりない青磁が朝鮮半島で製作されていたとは奇跡に近い。現代のすぐれた模作も展示されていたが、昔の美しさの再現は難しそうだ。それに、今さらながらに痛感したのは、北米の老獪な産油業者に手玉に取られ破綻した安宅さんは人をみる目はなかったかも知れないが、陶磁器に対しての鑑識眼の確かさである。よくぞ、このような銘品ばかりを集めたなと、くる度に感嘆せざるを得ない。住友がよくこれを残してくれたと、大阪人として有難く思っている。大阪市民は入場無料である。 私の子供時代には、美術館や博物館は殆んど公立で、課外授業の勉強にいくところだった。無味乾燥の記憶を持つ人も多いだろう。ところが近年になって、美術館博物館を面白くして魅力を増し、入場客を増やし、収入を増加させる動きが顕著になって来た。興行化してきたとも言える。絵はがきかカタログぐらいしか売っていなかったのが、ミュージアム・ショップとなり、入場者の便宜の為に出していた学校の食堂みたいのが、カフェやレストランになった。美術館でも西洋の大手のところでは、館長二人制を取り出している。学術研究で優れた館長と経営や企画に優れた館長の二頭立てである。その分野で本当に好きな人がきてくれるだけで成り立てばいいのだが、残念ながら来る人の数が少なければ財政面で継続不能になる。たとえ企業が援助してくれても、なにがしかのリターンがないと長続きはしない。来館者が多いということは裾野が拡がることで、やはり最重要課題である。 時計は性質としては計測器具であるが、形態としては美術要素が強いから、集めて展示するところを美術館とするか博物館とするかは微妙である。ロレックスの本社は美しいエナメルの装飾時計の見事な門外不出のコレクションを誇りにしているが、もしこれを公開するなら美術館になるだろう。FHの管理するラ・ショードフォンの時計展示場は、時間測定技術の歴史と進歩と人間の文明のかかわりを重視しているから博物館だろう。英語ではどっちもミュージアムだから便利である。ミュージアムと呼ぶことによって概念は漠然としてくるが、親しみやすい。最近改名した「セイコー・ミュージアム」の方が以前の「セイコー資料館より語感として一般に開かれている気がする。ミュージアムで大切なのは、まず展示品だが、もっと重要なのは展示品を研究して、成果を発表したりする学芸員である。キュレーターというが、やっと立派な職業名として日本でも定着するようになった。それだけミュージアムが人々の日常の社会に入ってきたことを示している。どんな分野であれ、ミュージアムに行くのは楽しい。いつも通る高速通路横の大看板に「明太ミュージアム」という広告があって、いかなる展示か想像するだけで面白い。 ここで九月二十七日発刊のFH誌に載っていた小さな時計ミュージアムを紹介しておきたい。 チューリッヒ中央駅から、湖に向かってバンホーフ(駅)通りという繁華街がある。沢山時計屋さんがあるが、中にベイヤー(BEYER)という老舗がある。一七六〇年創業、八代続くベイヤー家の経営だが、店舗の地下がミュージアムで、時計を買わなくても入場できる。千個以上の収蔵品があるが、常時三百個が展示されている。古時計を買い始めたのは先代で、一九五三年、戦後アメリカ兵が時計を買ってくれはじめ、景気が良くなり始めたころだった。現在は紀元前から始まる計時の器具の歴史と関連する器具が展示されているから、博物館系列である。私自身も二、三度訪れたことがあるが、やや手狭なのは仕方ないとして、充実した展示という印象を持った。スイスには、沢山いいミュージアムがあるが、ジュネーブか、もっと山の中のジュラ地方に点在する。忙しい、チューリッヒにしか行けない旅行者に一見を勧めたい。昨年は一万一千人の入場者があったという。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
「クオーツ時計」 水晶に電流を流すと、正確な振動を繰り返すことはずいぶん昔から知られていた。振り子やテンプよりもこの性質は時計に向いていると考える人が多かったのは無理もない。この試みに初めて成功したのは一九二七年アメリカ人のマリソンだった。精度は第一号の水晶時計で、日差百分の二秒、十年後には千分の一秒に縮まった。この時計の装置は大きすぎて、移動が難しく、天文台や研究所に設置されていたにすぎない。水晶時計は、製造するのは難しいが理論としては簡単である。機械時計のように脱進器等という力学ダムは要らない。この十乗ぐらいに水晶の発振を設定して、それを半減十回すれば、一秒づつの運針となる。一直線方向である。問題はいかに小型化するかである。この研究開発は、一九五十年の終わりから、日本、スイス、アメリカ、フランスで同時に熱を帯び始めた。 電気を使った時計のトップランナーは、意外とフランスであった。第二次大戦前からリップ社がブサンソンで、製品化を始めていた。本格的には一九五二年に、スウェーデンのエリクソン社とアメリカのエルジン社協力で、最初の電気モーター腕時計が完成している。電気時計といえば「リップ」という時代があったことを憶えている人もいるだろう。「世界の時計」の著者、リュシアン・トリュブによると、開発者のフレッド・リップは、この時計についてパリの科学アカデミーで講演した際、聴衆の中にブローバ社のオーナーである、アルド・ブローバーがいたという。感銘し、大きなヒントを得たと思ったアルドは、さっそくビエンヌの自社工場に行き、電気技術者のマックス・ヘッツェルに「将来の時計はこれだ」と説くと、マックスは良い返事をしなかった。トランジスタで制御する音叉を使ったほうが賢明だという。時計業には殆ど機械工学出身の人々が従事していたが、マックスは、チューリヒ工科大学で、電気振動を専攻した若い社員だった。アルド社長は、この青年の提案を受け入れ、アメリカから最新のトランジスタを送り届けた。一九五三年にマックスは音叉時計のプロトタイプを完成し、すぐに特許を取る。ところが腕時計の大きさにするまでは、なかなか進まない。五年たっても出来ないのでビエンヌ工場の責任者は業を煮やして、「もうこの時計は中止だ」と宣言する。マックスは諦めきれずに、オメガに転職希望を打診する。オメガ社は喜んで採用するが、電子時計の仕事はさせないよと言ってきた。その理由は、音叉時計の特許権はブローバ社にあるので裁判のゴタゴタに巻き込まれるのが嫌だったのと、オメガはこっそり、ジュネーブのバツテレ研究所と水晶時計の開発をスタートしていたためとされている。マックスの動揺を察知したアメリカ本社のアルド社長は、ニューヨークに一九五九年に転勤を命じ、音叉時計の製造を続けさせた。一九六〇年にやっと市場に出たのがあの有名な「アキュトロン音叉時計」だった。後期のものに比べてやや大型だったが、外から音叉と電気回路が見える宇宙時代のデザインで、百五十ドル前後とやや高価だったがベストセラーとなった。これが当時世界一の時計の売り上げを誇るようになるブローバ繁栄の推進力となった。 ところが現在でもそうだが、技術革新によって急激に発達した企業は、オチオチ安心することはできない。常に新しい研究開発を続けてないと、現有の技術を追い越し、陳腐化させる技術がいつ現れるかも知れない。安心していると、あっと言う間に一周遅れの走者になるかも知れない。ブローバ社は、音叉時計の特許を一切公開しなかったので、他社はクオーツの自力開発に乗り出さざるを得なかった。クオーツを削り出して、電流に正確に反応する部分が非常に高くついたから、音叉のほうが有利と見ていたのか、売れ行きにあぐらをかいていたのか、一九七〇年に入ってカリフォルニアのステーティスティックという電子部品会社が、厚さ〇・一ミリのクオーツを組み込んだ電子回路で印刷する方法を考え出したところからブローバの運命は急転する。この特許の使用に飛びついたのがセイコーとスイスのエボーシュ社であった。特許料を払ってでも、六十ドルぐらいかかっていたこの部品が六セントになり、クオーツ時計の大量生産による安価化が実現するようになる。相当後になってからの話だが、エボーシュ社とシチズンがブローバからライセンス許可を得て、音叉時計の製造をしいているが、クオーツ時計との併行販売はうまくいかず、時すでに遅しの感があった。 ここで私的な想いで話になるが、ブローバアキュトロン全盛期に、パテックやショパールを日本市場で育て上げた一新時計の西村隆之社長が、ブローバの日本総代理店となったとき、大阪の私の会社に訪ねられてこられた。要件は、セイコーの卸売りで全国をカバーしていた当社に、販売協力の要請であった。西村さんの生前を知る人は、陸士・陸大をトップで出たと言われるこの人の思い込みの激しさを記憶されている向きも多いだろう。ブローバこそ世界一の時計工場です。ブローバ社と運命を共にしませんかと、当時私の会社の社長をしていた父に熱情を込めて説かれた。父は西村さんと異なって、現実的な商売人であった。アメリカはよう知りませんし、セイコーとは心中してもええと思ってますが、ブローバにはそれ程の思い入れはありません、我社で売れる数ぐらいは売らしてもらいます、というつれない返事だった。その時の西村さんの憮然たる表情を忘れることはできない。父はかってセイコーに勤めた人間でもあった。もっともその後西村さんは婚姻によってセイコー服部家と一時的だが縁続きになったし、ブローバ社は今や主客転倒して下請けのシチズンの傘下に入っているから世の中なにが起きるか解らない。 父がセイコーに命をかけると胸をはったのは私情もあったが、一九六四年の東京オリンピックでクオーツ時計も一部駆使して、全時計を担当して以来、旭日の昇る勢いにあったところから、ある程度前途を見通していたせいもある。 果して一九六八年に最初のクオーツ腕時計のムーヴメント製作に、成功している。スイスのCEH(電子時計研究センター)と同じ時期にである。商品化されたものは一九六九年の末に、セイコーとロンジンがほぼ同時に発表している。新しい時代が来たという感動が多くの業界人の胸中にあった。 こんなことを思い出したのは、新聞からの転載だが、元のCEHの所長だったルネ・ルクルト氏が百歳になってインタビューを受けたという記事がFH誌に(本年第九号五月三十一日刊)載っていたからである。CEHはクオーツ開発のために一九六二年にアメリカ系のスイス人が作った研究機関だったが、あとでFHやオメガなどが参加して一種の公的機関になった。この人はFHに入り、一九七一年にロレックス入社、八十一年にCEHの所長になっている。ロレックスのクオーツは、どうやらこの人の設計らしい。この人の受け答えも年のせいか、ロレックスのクオーツ・ムーヴメントは僅かしか作られなかったが、外見は重厚で芸術的だった。電子製品とは程遠く何か違うかなという気にさせられた。この人の返答にもそんなところがある。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
企業博物館 ブリュージュにて 「暑さ寒さも彼岸まで」と言うから、もう今年の夏の暑さは忘れられたのかもしれないが、それにしても酷かった。 七月の末に社用でアントワープに行ったついでに同じくベルギー国内にあるブリュージュに寄った。美しい文化遺産に認定されている古都で、町中に運河が張り巡らされているので、北のベニスと言われている。北海にごく近く、中世では貿易の中継地として大いに繁栄した。その頃は、フランスのブルゴーニュ候国の領土で、首都ディジョンに次ぐ副都であり、領主はほとんどこの街に滞在していた。その後、羊毛貿易が衰退すると共に、急速に町は寂れ始め、いつの間にか忘れ去られたと言ってよい。後継ぎが女性しかいなかったために、婚姻によってブルゴーニュからハプスブルグ帝国に吸収されたせいもある。十九世紀には、「死都、ブリュージュ」という小説が世界的になるほど、静まり返った町となっていた。 停滞した古い町が発展しなかったお陰で昔の街並みと生活様式が残っていて、現代になって呼び物になることがある。中仙道の宿場町、妻籠や馬籠の規模を大きくしたと考えれば良い。しかし何といっても人口十万の環境都市だから、人々が厳しい法律で全ての建築の外観変更が一切許されない中で現実に生活している。 丹波に篠山という街がある。江戸屋敷跡が青山墓地という名で残っている青山藩五万石の城下町であった。明治になって鉄道が遠くを走ったためにすっかりすたれてしまった。近年、昔の町がおおよそ残っていたし、しかも空襲に合わなかったので、多くの観光客が訪れるようになっている。高度経済発展の時は、「丹波篠山、山がの猿が」のデカンショ節の町かと誰も相手にしなかったが、今や重要な観光資源である。事情はよく似ている。タイムスリップしたような気分になる。 ブリュージュに行ったときも、今夏の異常な暑さは、ヨーロッパも同じことで、直射日光にさらされると頭がくらくらした。でも湿度が低いから日陰は涼しい。丁度夏休みの時期だったせいか、驚くほどの数の観光客が中世の町中に溢れていた。何しろ三百キロ離れたパリから日帰りの観光バスが運行されている人気スポットである。 この町を訪れた理由の一つは、ダイヤモンド博物館があると聞いたからである。何故ここなのか。アントワープがダイヤモンド取引所の中心地であることはだれでも知っている。ダイヤモンドの研磨方法を御百年以上も前に発明したロディウィツ・フォン・ベルケムという男が、ブリュージュで研磨業に携わっていたという事実から存在するらしい。ブルゴーニュ候の宮廷に伺候する貴婦人をモデルにした当時の人物像を見ると、美しい宝石を着けている。当然多くの宝飾職人が存在したことが考えられる。ベルケムは実在の人である。 ダイヤモンド博物館は市内の中心部にあった。隣接して宝石の小売店があったので、何だ客引きの手段かと一瞬ためらったが、物は試しと入ってみた。こじんまりしているが、要領よくかつ興味深くダイヤモンドの歴史と文化が理解できるように写真やら図解が展示されていた。工具やレプリカも豊富にあった。見慣れているので遠慮したが、研磨の実演もあった。日本の業界人にとっても一見の価値はあるように思われた。御徒町界隈にこのぐらいのものをバブルの頃に業界人がお金を出し合って作るべきだったかもしれない。 ダイヤモンドは一番固い物質だから、これを研磨するには結局ダイヤモンドパウダーを使用するしかない。その方法を一四七六年にこの町でベルケムが発見したと、この小さな博物館に大きく書かれていた。これは一種の伝説であって、一人の男が突然発明するような技法ではない。これまで長い間に蓄積されてきたやり方にベルケムが新工夫を加えたぐらいが真実だとされている。研磨工もそうだが、中世の職人は全てそれぞれのギルド(組合)に属していて、職業上の秘密は外部に漏らさないのが原則であった。ベルケムは、口八丁手八丁だったから発明者にされたに違いないというのが定説である。 外に出て考えたのは、たとえ動機が商売であって、企業が小なりとはいえ博物館を持つ意義についてであった。 以前にも書いたことがあるが、セイコーの社長であった服部謙太郎さんが今のセイコー・ミュージアムの前身である資料館を作られた時、これは社員の内部教育の為で、商売や宣伝に使うことはしたくないと言われたことを思い出す。ご本人は慶応大学の助教授から実業に転身された学者文化人であった。企業家になった以上は、企業の発展に専心すべきだとするピュリタニズムからの発言だが今となっては、誤った見識に思える。 企業家が個人の趣味で集めた高価な美術品などを展示するのは、企業の威容を内外に示す効果はあるが、企業または産業企業博物館とは別の話である。ルーブル美術館だってフランス王家の美術品を民衆に見せてやることから始まっている。 現在はIT産業が全盛で、この種の仕事の全容は、頭の中とコンピューター画面上で殆どなされている。現実にそこで稼働しているのを、目で見たり、触ったりすることが出来ない。例えば、日本人にとってタクシーは一つの共通なイメージを持っている。外観ですぐそれとわかり、メーターが付いていて、手を上げると運転手が止まってくれる。しかしムーバのようなアプリが汎用化されると、どんな車が解らないのが、すぐ目の前に来て、目的地へ行ってくれるようになる。移行手段が抽象化される。こんな風な抽象化が、あらゆる分野で進行しているのが現在である。 そんな中、伝統的なモノづくりの産業は、今や全て文化遺産になりつつある。スイスの時計産業を見ればよく分かる。今何時と聞けばスマホがすぐ答えてくれる世界である。いかに最新のテクノロジーが使われていても、機械時計の製造は文化遺産である。 産業ないし企業の文化を残すには、博物館しかない。おそらく近い将来、ごく趣味的な者を除いて、生活必需品はネット注文で賄われることになるだろう。ネット購買が習慣になると、必需品以外も買う人が多くなる。しかし、画面はあくまで画面で、手で触れる実感を味わうことはできない。3Dで飛び出してもバーチャルはバーチャルである。そんな時代に博物館が人と製品や企業を人間的に結びつける有力な手段となる。商売としての博物館が、購買動機を作る場所だけでなく購買した人が、満足感を得る絶好の場所になるのではなかろうか。(栄光ホールディングス会長、小谷年司) |
|
|||
クロノメーター規格 終日閉居の生活が多くなると、腕時計を外す時間が長い。機械式のモノだと、いつの間にか机上で動かなくなっている。書き物をする机は、気分によって変えている。その一つに百年ぐらい昔の懐中時計のユリース・ナルダンを置いて、ネジを巻き、時間を合わすのを、考えをまとめる準備運動にしている。手巻きだから、その机を使わない日があると、止まってしまうが、巻き上げるとコチコチ健気に動き出すのが、生命を与えたような気がする。ドリーブ作曲のバレーの中で自動人形のコッぺリアが、突然ネジ切れで死んだようになっているのが、再び可愛く踊りだす情景をつい連想する。このあたりが、機械式時計の魅力だろう.。懐中時計は古いから、もっと整備すれば違うだろうが、一日に五、六分は遅れる。まぁ、そのまま置いてある。正確な時間は、あたりにいくつもあるクォーツ時計に任せればいい。 クォーツが一般化するほんの三、四十年むかしは、とけいの価値は正確度で決まった。パテックがセイコーより高いには、より精度が高いからだと、単純に信じられていた。俺の時計はクロノメーターだから、ラジオの時報に殆ど合っていると自慢する輩もいた。その頃は、自動巻きも少なく、毎日巻くときには、時間を見る。時計好きは、時報と突き合わせたりするだろう。なに、止まっている時計だって、少なくとも一日二度は正時を指すさと負け惜しみを言ったものだった。 当時は、確かクロノメーター証書は、スイスの天文台が発行していたはずだと思って、ネットで検索してみた。規格の基準は、一九三〇年頃までは、日差マイナス一秒、プラス十秒、その後は今と同じマイナス四秒、プラス六秒以内となったようである。進むのは多少許されるという基準が面白い。日常生活の中でも、進みよりも遅れが気になって、すぐ直したくなる。時間に遅れては損をするという思考が本能に根差しているのだろうか。“時は金なり”が現代人の心に沁みついている。 確かにスイスでは、ニューシャテルやジュネーブの天文台がクロノメーター検査をして証書を発行していた。また毎年精度を競うコンクールも催していて、日本の時計も参加することが出来た。丁度、東京オリンピックの一九六四年、セイコーが始めて応募、結果は百四十四位と、百五十三位で、スイス勢の横綱相撲であった。セイコーは毎年挑戦し続け、四年後に上位を殆ど占めるに至った。困惑したスイス側は、翌年からコンクールを中止した。ジュネーブ天文台のコンクールでも、一九六八年、機械式時計部門で上位を独占、こちらも翌年から中止となった。ニューシャテル天文台は、一九七〇年に新しい方式で再開したが、州政府の介入で、外国からの参加は認められなくなった。この辺りの事情は、友人の阪大准教授のイブ・ドンゼさんが、日本時計産業史である「スイスに追いつけ、追い越せ」の中で書いている。 現在のクロノメーター証書は天文台の検査方式を、概ね引き継いだ中立公共機関である「COSC」が発行している。「公的なスイス・クロノメーター検査機構」の頭文字をとると「COSC」となる。発足は一九七三年であった。FH誌の第十二号七月十二日刊に関連記事が出ているのでかいつまんで紹介する。 この検査は、ISO三一五九の国際基準によって行われている。あまりにも専門的になるので説明は省くが、細目はネットで検索することが出来る。翻訳もある。要は、機械時計を日常的に使用するためには、日差マイナス四秒、プラス六秒以内に収めれば合格と考えてよい。 さて、この「COSC」が一つの団体かと思うとさにあらず。ビエンヌとル・ロックルとサンチェミエの三か所に分かれ、それぞれの町が本体から、場所と機械を提供してもらい、作業員は地方公務員として、各町の管理下に働いているという不思議な構造となっている。作業員は、各地七十五名から九十五名ぐらい。「COSC」の社員は全体で三名。検査は持ち込まれた裸のムーブメントに対してのみである。完成品に対して検査を行ってくれという要請は強いが、一日平均六万個も来るから、そうなると人手不足で、年中無休の現在でも難しいのに対応し切れないという。年間に約二百万個をこなし、合格率は九十六%前後に定着している。検査費用は、ムーブメントの性質に応じて、一個十フランから百フランぐらいまで。 例えば、ロレックスやオメガ、ブライトリングは、ほとんどの製品をこの「COSC」に検査を依頼してくるが、他にも五十ブランドぐらいは、ここで証書をもらっている。つい昨年までは、ブランド別に年間検査数も発表していたが、昨年から秘密主義をとって公表を止めてしまった。私見によれば、ジュネーブ市がジュネーブ・シールという同種の検査制度を敷いたり、カルティエの主導するグループが独立した検査機関をフルリエに作ったりしたせいだろう。愛国心の強い狭い国土のスイスだが、その中でもこうしたさらに狭い郷土愛が発揮されるケースがよくみられる。江戸時代の日本みたい。 現実的なお金の面からみると、ル・ロックル市の財政は公開されていて、歳入の項に、昨年度は「COSC」から二百五十万フラン(約三億円)入っている。ビエンヌ市も同様の金額が入金されている事を広報担当者が認めている。サンチェミエは、間接的にではあるが二百万フランぐらいを得ているようである。ほかの地方公共団体が、指をくわえてみているわけにはいかない財源に思える。では一層のこと、「COSC」を例えば、ロレックスとかオメガの工場内に持ち込んだらどうかという議論がよく出たそうである。その計画は常に暗礁に乗り上げたという。そういえば、アルバの時計が全盛の頃、製造を担当していた塩尻の工場の一部に、当時の通産省の輸出検査部門があったことを思い出した。日本製の品質を海外に保証するために輸出時計には、一点づつ、公認許可マークが必要だった。生産数があまりに多いので、運び出すのは効率が悪い。日本の進んだ工場の生産された品質は、すでに法的な規制を十分にパスするに値したので、何を二重手間をやっているのかと、任してくれとけばいいのにと、工場側はやや馬鹿にしていた。見ていて同じ敷地にあると容易に談合にならないかとの危惧もあった。しかし、最近あちこちの大企業が手抜き工程や検査をしていることが次々と判明し、それが決して品質を損なうものではないのにしても、慢心恐るべしという気がする。 最後に機械式時計のクロノメーターについては、今時、先端産業や汎用(天文台、航空機など)の世界では出る幕がない、クロノメーター証書など、マーケッテイングの道具に過ぎないという意見もあることを記しておく。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
「クオーツ時計」 水晶に電流を流すと、正確な振動を繰り返すことはずいぶん昔から知られていた。振り子やテンプよりもこの性質は時計に向いていると考える人が多かったのは無理もない。この試みに初めて成功したのは一九二七年アメリカ人のマリソンだった。精度は第一号の水晶時計で、日差百分の二秒、十年後には千分の一秒に縮まった。この時計の装置は大きすぎて、移動が難しく、天文台や研究所に設置されていたにすぎない。水晶時計は、製造するのは難しいが理論としては簡単である。機械時計のように脱進器という力学ダムは要らない。二の十乗ぐらいに水晶の発振を設定して、それを半減十回すれば、一秒づつの運針となる。一直線方向である。問題はいかに小型化するかである。この研究開発は、一九五十年の終わりから、日本、スイス、アメリカ、フランスで同時に熱を帯び始めた。 電気を使った時計のトップランナーは、意外とフランスであった。第二次大戦前からリップ社がブサンソンで、製品化を始めていた。本格的には一九五二年に、スウェーデンのエリクソン社とアメリカのエルジン社協力で、最初の電気モーター腕時計が完成している。電気時計といえば「リップ」という時代があったことを憶えている人もいるだろう。「世界の時計」の著者、リュシアン・トリュブによると、開発者のフレッド・リップは、この時計についてパリの科学アカデミーで講演した際、聴衆の中にブローバ社のオーナーである、アルド・ブローバーがいたという。感銘し、大きなヒントを得たと思ったアルドは、さっそくビエンヌの自社工場に行き、電気技術者のマックス・ヘッツェルに「将来の時計はこれだ」と説くと、マックスは良い返事をしなかった。トランジスタで制御する音叉を使ったほうが賢明だという。時計業には殆ど機械工学出身の人々が従事していたが、マックスは、チューリヒ工科大学で、電子振動を専攻した若い社員だった。アルド社長は、この青年の提案を受け入れ、アメリカから最新のトランジスタを送り届けた。一九五三年にマックスは音叉時計のプロトタイプを完成し、すぐに特許を取る。ところが腕時計の大きさにするまでは、なかなか進まない。五年たっても出来ないのでビエンヌ工場の責任者は業を煮やして、「もうこの時計は中止だ」と宣言する。マックスは諦めきれずに、オメガに転職希望を打診する。オメガ社は喜んで採用するが、電子時計の仕事はさせないよと言ってきた。その理由は、音叉時計の特許権はブローバ社にあるので裁判のゴタゴタに巻き込まれるのが嫌だったのと、オメガはこっそり、ジュネーブのバツテレ研究所と水晶時計の開発をスタートしていたためとされている。マックスの動揺を察知したアメリカ本社のアルド社長は、ニューヨークに一九五九年に転勤を命じ、音叉時計の製造を続けさせた。一九六〇年にやっと市場に出たのがあの有名な「アキュトロン音叉時計」だった。後期のものに比べてやや大型だったが、外から音叉と電気回路が見える宇宙時代のデザインで、百五十ドル前後とやや高価だったがベストセラーとなった。これが世界一の時計の売り上げを誇るようになるブローバ繁栄の推進力となった。 ところが現在でもそうだが、技術革新によって急激に発達した企業は、オチオチ安心することはできない。常に新しい研究開発を続けてないと、現有の技術を追い越し、陳腐化させる技術がいつ現れるかも知れない。安心していると、あっと言う間に一周遅れの走者になるかも知れない。ブローバ社は、音叉時計の特許を一切公開しなかったので、他社はクオーツの自力開発に乗り出さざるを得なかった。クオーツを削り出して、電流に正確に反応する部分が非常に高くついたから、音叉のほうが有利と見ていたのか、売れ行きにあぐらをかいていたのか、一九七〇年に入ってカリフォルニアのステーティスティックという電子部品会社が、厚さ〇・一ミリのクオーツを組み込んだ電子回路で印刷する方法を考え出したところからブローバの運命は急転する。この特許の使用に飛びついたのがセイコーとスイスのエボーシュ社であった。特許料を払ってでも、六十ドルぐらいかかっていたこの部品が六セントになり、クオーツ時計の大量生産による安価化が実現するようになる。相当後になってからの話だが、エボーシュ社とシチズンがブローバからライセンス許可を得て、音叉時計の製造をしいているが、クオーツ時計との併行販売はうまくいかず、時すでに遅しの感があった。 ここで私的な回想になるが、ブローバアキュトロン全盛期に、パテックやショパールを日本市場で育て上げた一新時計の西村隆之社長が、ブローバの日本総代理店となったとき、大阪の私の会社に訪ねられてこられた。用件は、セイコーの卸売りで全国をカバーしていた当社に、販売協力の要請であった。西村さんの生前を知る人は、陸士・陸大をトップで出たと言われるこの人の思い込みの激しさを記憶されている向きも多いだろう。ブローバこそ世界一の時計工場でブローバ社と運命を共にしませんかと、当時私の会社の社長をしていた父に熱情を込めて説かれた。父は西村さんと異なって、現実的な商売人であった。アメリカはよう知りませんし、セイコーとは心中してもええと思ってますが、ブローバにはそれ程の思い入れはありません、我社で売れる数ぐらいは売らしてもらいます、というつれない返事だった。その時の西村さんの憮然たる表情を忘れることはできない。父はかってセイコーに勤めた人間でもあった。もっともその後西村さんは婚姻によってセイコー服部家と一時的だが縁続きになったし、ブローバ社は今や主客転倒して下請けのシチズンの傘下に入っているから世の中なにが起きるか解らない。 父がセイコーに命をかけると胸をはったのは私情もあったが、一九六四年の東京オリンピックでクオーツ時計も一部駆使して、全計時を担当して以来、旭日の昇る勢いにあったところから、ある程度前途を見通していたせいもある。 果して一九六八年に最初のクオーツ腕時計のムーヴメント製作に、成功している。スイスのCEH(電子時計研究センター)と同じ時期にである。商品化されたものは一九六九年の末に、セイコーとロンジンがほぼ同時に発表している。新しい時代が来たという感動が多くの業界人の胸中にあった。 こんなことを思い出したのは、新聞からの転載だが、元のCEHの所長だったルネ・ルクルト氏が百歳になってインタビュー記事がFH誌に(本年第九号五月三十一日刊)載っていたからである。CEHはクオーツ開発のために一九六二年にアメリカ系のスイス人が作った研究機関だったが、あとでFHやオメガなどが参加して一種の公的機関になった。この人はFHに入り、一九七一年にロレックス入社、八十一年にCEHの所長になっている。ロレックスのクオーツは、どうやらこの人の設計らしい。ロレックスのクオーツ・ムーヴメントは僅かしか作られなかったが、外見は重厚で芸術的だった。電子製品とは程遠く何か違うかなという気にさせられた。この人の返答にもそんなところがある。ロボットによる生産は嫌いとか言っている。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
近江神宮の漏刻祭 六月十日は「時の記念日」である。父の日や母の日といった西洋に由来するものではないし、十一月二十二日を「良い夫婦の日」とするような語呂合わせの記念日でもない。れっきとした歴史的根拠がある。「日本書紀」に現代語に直すと、こんな記述がある。 「漏刻が新築の独立家屋の台座に設置され、始めて時刻が打ち鳴らされた。初めて使用された漏刻は天智天皇が皇太子の時に自らの手で試作されたものである。」 漏刻とは水を容れた数段の箱を、次々と漏れ落ちるように重ね最後の箱の浮きの高さで経過した時間を知る仕組みになっている水時計である。皇太子時代に作ったとされる漏刻の置かれた場所は飛鳥で近年発掘された水落遺跡とされている。いわばお役人達の出退勤時間を知らせるべく始めて漏刻が用いられたのが、今の暦では六月十日に当る。「書記」によると西暦で計算して、場所は近江の都で六七一年四月二十五日とある。 水時計そのものの存在は、当時の留学生や渡来者から得た知識で、自らが発明したのではないだろうが、天智天皇は非常に個性の強い人だったから、あの方なら作りそうだという感覚は一般に強かったに違いない。想像される水時計のレプリカは近江神宮の庭に置かれているし、中国のオリジナルと想定され、精緻で巨きな模型が諏訪の時計記念館にある。 日本に天皇制が確立されたのは、天智天皇が中大兄皇子だった時代に、盟友藤原鎌足と謀って、政治を専横していた蘇我蝦夷、入鹿親子を誅殺した「大化改新」とされている。徳川政権を滅ぼし王政復古で近代日本の出発となった明治維新との連想で、私達の世代では小学校の教科書でも大きく扱われていた。 天智天皇が近江遷都を決意した理由は、親日国百済を再興しようとして、唐と新羅の連合軍相手に朝鮮半島に出兵し、白村江で壊滅的な敗戦を喫したのが原因とされている。ひょっとすると敵は大和の地まで追撃してくるかも知れぬという恐怖感があった。近江は内陸地だから安全といっても、今の感覚では、車で一時間余りだからさして遠くない。当時は敵が大阪湾に達しても、容易には攻め込まれない遠隔の地であった。近江は琵琶湖に面し古代でも物産豊かで、とんでもない田舎ではなかった。 それでも長年温暖な大和に住み慣れた人々にとって、天皇独断の近江遷都は不評であったことはいろんな史料が伝えている。不幸にして遷都二年目に鎌足に死なれ、四年目には後継者に指名される可能なしとみた長年の協力者の実弟大海人皇子が宮廷を去る。左右の腕を失った形の天智天皇は五年目に逝去。享年四十六歳。新都造営は道半ばであった。吉野に形だけ僧となって引退していた大海人皇子は、兄の実子大友皇子の即位を認めず、クーデターを敢行する。短時日に近江政府軍を蹴散らし、大友皇子を死に追いやり、大和で皇位につき、天武天皇が誕生する。(壬辰の乱) 近江大津京の存在は実質四年間であった。廃都となって十八年後天智天皇の娘であり、天武の皇后が、夫の死後持統天皇になって近江に行幸する。もうその時は、何もかも消滅していて春草がぼうぼうと生え、あたり一面みるも悲しき有様であった。その時随行した柿本人麻呂が絶唱を残している。 淡路の海 夕波千鳥 汝が鳴けば こころもしのに 古思いほゆ 近江神宮は、この場所のほぼ近辺に、昭和天皇の勅願によって昭和十五年に創設された。祭神は当然天智天皇である。神宮としては、一番新しいが、敷地が六万坪近く、山の一画を占めているので、すでに神さびた雰囲気が漂っている。 毎年ここで、時の記念日の昼に、漏刻祭が催される。人間は時間の中で生きている。時間と人間の存在は、切り離すことが出来ない。時間には、内的なものと公益的なものと二通りある。ある一人の個人の生涯、生と死の間に流れる内的な時間と、誰の上にでも平等に過行く時間とは、全く異なる。昔の漏刻も、全ての人が共有する時間を伝える時計であって、いわば公共的時間の観念を人々に植え付けようとする試みであった。 今年の漏刻祭には、雨という予報にやや恐れをなして行かなかった。数日後、神宮の総代(理事)会に出席することになっていたし。この日は、梅雨の最中でも、必ず晴れるというジンクスがある。後日、宮司の佐藤久忠さんに、「如何でした」とお伺いしたら、儀式は野外でも大丈夫でしたが、後半の奉納女人舞楽は屋内になったとのご返事だった。 時刻制が、陰陽寮の活動の一部として完備されたのは、八世紀のことで、漏刻の保持は休む訳にはいかないので二交代制であった。漏刻博士と十名の部下が一組の二チームが勤務していた。時刻とまとめて言うが「時」は、季節によって長さは変わるが、昼と夜の時間を六等分して、平均二時間。刻は時の四分の一の長さ。時を告げるには、太鼓が、刻を告げるには鐘が使用されてという。まるでミニッツ・リピーターみたい。 儀式は、主として時計関係者が、陰陽頭、陰陽介(次官)、漏刻博士の三者に扮し、それぞれの階級を示す昔の衣冠束帯を着けて、時計を神前に奉納する。宮司の祝詩があったが、全体の流れはこれだけのことに過ぎない。しかし、これがなかなか面白い。奉納役の当事者になると、前夜は神宮に宿泊して斎戒林浴をしなければならない。本人達は、教わった通りに出来るかどうか緊張するが、舞台に上がった役者になったつもりになれば、度胸が据わってくる。見るほうに回ると、普段は背広姿の人々が学芸会の小学生みたいにコチコチになって演技しているのを見るとおかしくなる。知った顔だと余計にそう思う。動作のぎこちなさは、補助役の白衣の神宮達の動きの滑らかな美しさと比べてみると一層目立つ。後半の恒例である女性による神楽舞も、実に楽しい。基本的に野外の神事なので終了したときの清々しい気持ちは何事にも代えがたい。特に頭上は青空が広がっていれば、申し分ない。境内には、小さいながら時計博物館があって、儀式の前後に訪れ、時計の歴史を楽しむことが出来る。 さて、全国の時計関係者の皆さん、是非一度は「漏刻祭」へお出かけください。 なすことなしに過ごした一年と充実した一年と、同じ時間なのか、充実していると思っていても、単に忙しかっただけの時間だったに過ぎなかったのか。時間と人生の在り方について考える良い機会にもなります。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
2018年バーゼルフエア 良き時代のアメリカ映画では、女性を口説く時の最上の小道具は、ダイアモンドとシャンパンだった。もう少し詩的な表現なら酒とバラと言ってもよい。シャンパンは、正しくはシャンパーニュと言って、一度でき上がった、白もしくはピンクのワインを、さらに、ビンの中で再発酵を一年がかりでさせた、手の込んだ発泡酒のことである。値が高いのはやむを得ない。フランスのシャンパーニュ地方にある僧院の修道僧ドン・ペリニョンがこの方法を発明したとされている。この名を冠した通称「ドンペリ」は最高級シャンパンとして宝石のブルガリや時計のタグホイヤーと共にルイ・ヴィトンのグループが最も力を入れている製品の一つである。シャンパーニュ地方には、昔の灘や伏見のように、シャンパン造り酒屋が沢山ある。シャンパン好きに言わせると、「ドンペリ」なあ、でもほかにもっと美味いのもあるよ、好みだけどね、となる。つい五十年前には、ワインに炭酸ガスを吹き込んだようなものまで含めてシャンパンと称して売られていた。 現在ではある土地の名産を、他の土地で、作られるものにつけることは盗用とみなされるのが常識となっている。 フランスのワインには、原産地呼称法という産地の名を守る法律がある。シャンパーニュのワイン業者は、他の地方の業者がこの名を使うことを、法の名をかりるばかりでなくあらゆる手だてを使って差し止めてきた。「シャンパーニュ」という名の香水が発売された時も、訴訟して販売停止にした。シャンパーニュ地方から一歩でも離れた土地で作られた発泡酒はシャンパンと名乗ることはできない。一時は「シャンパーニュ方式で作られた」とラベルに書かれたボトルもみかけたが、最近はお目にかからなくなった。確かに、同じ方式で作られる発泡酒は、世界中に沢山あって、真のシャンパンの味と遜色のないものもある。原則として値も安い。いくら本物と変わらないといっても、他人に振舞う時には、くたくだしい説明を要する。シャンパンはシャンパンで済む。これがブランドと言うべきもので確立されるまでには、長い歳月と努力と幸運が要る。ローマは一日にして成らず。 スポーツの大会ではオリンピックが絶対のブランドであるように(同じ金メダルでも、オリンピックと世界選手権では、どうしてあんなに輝きがちがうものか)宝石時計の見本市では、バーゼルフェアがある。今でこそ、業界人は春になったら行くべき見本市となっているが、一世代ぐらい前はそうでもなかった。少なくとも、普通の業界に関係のない人々は、その存在すら知らなかった。業界人といえど多くはバーゼルという町がどの国にあるのか知らなかっただろう。他の、パリやミュンヘンといった名の大都市でも宝石時計の見本市が開催されて来たが、バーゼルだけが飛び抜けて有名になったのはスイスという地の利もあろうが、主催者の努力と投資の結果といえる。 バーゼルフェアの絶頂期は、八年前で、出展業社は二千社に及んでいたが、年々減少の一途をたどっており、今年は五百社に落ち込んでいる。スイス時計業の低迷と連動しているかというと必ずしもそうではない。確かに、最近二年間のスイス時計の輸出は前年割れが続いたが、それ以前は異常とも言うべき成長を示していた。しかも今年に入って復調し始め、前年比を取り戻しつつある。FH誌本年第六号によると、今年二月の輸出は前年比十二・九%増で、香港市場の回復が三五・七%と著しい。米国が二六・三%、中国が二一・七%、続いて良いのが日本で六%増加している。(すべて前年比)。二月に関する限りは、V字型の復活である。それにもかかわらず、バーゼルフェアへの出展業者への減少に歯止めがかからない。今年は、メイン会場から、モバードグループとエルメスが去った。サントノーレも場外に展示場を持った。何故かと経営者に直接聞いてみたら、展示するのに一回に一億円もかかって高すぎてやっていけないと嘆いていた。モバードは、十一億円が節約できると会長が発言したことが報道されていた。確かに出展するのが高くつくというのが、減少する最大の理由だろう。出展業者は、スイスばかりでなく、他国からも多く、特に宝石部門は殆んどそうである。そっちにも不満があり、来る客は時計業者ばかりで商売にならないという事であろうか。近年ブランドの力が強くなり、時計専門店が宝石まで扱う余裕がなくなってきている。昔は小売店は時計・宝石と同時に販売していて、時計も宝石も仕入れていた。宝石デザイナーのギメル穐原さんも、バーゼルは止めて、五月のジュネーブのショーに出展された。 今年バーゼルに行ってきた我が社の社員の報告によると、会期も二日減って六日間になったのに、入場者も少なく感じられ、寂しい限りですと言っていた。FH誌に載っている写真を見ても、正面入り口の壁面に大時計のある広場でも、人影がまばらで往年の雑踏と喧騒が嘘みたい。私がバーゼルに通ったのは、二千社の出展があった頃までで、行くたびに朝日の上る勢いで会場が拡大されていた。新参の香港から来ているような出展業者のパビリオンへ行くには、遠すぎて構内のミニバスを使ったぐらいだった。それに毎晩いろんなブランド主催のパーティがあって、大抵客寄せの為に、普段宣伝に使っている有名人が姿を見せいていた。それこそ、酒とバラの日々であったけど、十年行かないうちにバブルははじけた様子である。 バーゼルフェアは「バーゼルワールド」が今の正しい呼び方で、スイスのMCHという、いろんな見本市運営専門会社が経営管理をしている。年商五億フラン(六百億円)という規模の会社で、今年はバーゼル展示会場の評価損で一億フラン(百二十億円)を計上している。前期予想の経常利益の総額に相当する。それだけバーゼルフェアへの過剰投資及び不振が大きな負担となっている。 バーゼルフェア側には当然、危機意識があって、閉会寸前に異例の記者会見を開いている。ロレックスさえも来年は出ていくという風評が流れているのを聞き知ったせいかもしれない。勿論来年は、ロレックスをはじめ、スウォッチも、パティックも、LVMH、ショパール、シャネル、ブライトリングも出展すると声明を出して、動揺している中小出展業者を安心させるためであった。出展料を今回一割値引きしたが、余り効果はなかったようで、もっと魅力ある提案を秋までに出したいと、案件を先通りした感がある。 果たして出展料が半額になったからと言って、出展希望者は殺到するだろうか。お金に換算できない魅力を、再構築することこそ「バーゼルワールド」の責務のような気がする。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
クロックあれこれ 今年の第五号(三月二十日)のFH誌にニューシャテル地方の一般紙からの転載だが、一寸面白い記事が出ていた。ニューシャテルは電子時計に関する研究機関もあり、時計の精度コンクールで有名な天文台もある。スイスにある時計の町の一つといってよい。ジャケ・ドロの作った、手紙を書く人とかクラヴサンを弾く女性という自動人形も博物館でみられる。長い間、プロシャ国王の領土だったので、ドイツ的な科学精神も町の伝統の一つになっている。そのプロシャ的感性で、優雅で華麗なクロックが沢山作られていた。ひょうたん型の贅沢な置掛両用の飾り時計として、一種のステータス・シンボルとなっていた。この特殊なクロック製造の歴史を追った硯学アルフレッド・シャピュイ教授に「ニューシャテル・クロック」という大部な著作もあるぐらいである。町の中心部は湖畔にあるが、クロックは、山地のあちこちで作られていた。 新聞記事に取り上げられている人物は、かって地元で沢山作られていたが今は忘れられたクロックの修復を職業とする四十前後のクリスチァン・ルーツである。十二年前から、奥さんのお父さんが創業した「アンティーク・クロック・パンデュランティック」という工房を引き継いでいる。 この仕事はやる人も殆んどいないし、とてもニッチな分野だと、彼は言う。祖父母ぐらいまでの時代には、どの家にもあったぐらいだったが、今はこの手のクロックを家に飾る人はみかけない。今、持っている人は蒐集家か、親譲りかどちらかになっている。どっちにしても、保有しているクロックには思い入れが濃い。ニューシャテル製のクロックを持っている人は修理のために遠方からでも、やってくる。ここには、技術が残っていると考えているのだろう。動くように直すだけならたやすいが、修復を目的とするなら、当時の様式、昔の技術、機質の知識、時代の文化や歴史に通じておかねばならない。作られた時の姿に、限りなく近く戻すのが原則なのだ。だから機械だけではなく、金を塗る職人、古い上等の家具を扱う職人、エナメル七宝やニス塗りの職人との協力が欠かせない。鑑定や修復の方法に疑問が生じると、文献に当たってみる。それでも解らないときは、専門家の優れた仲間がいるから、相談する。そこまでしても不思議に感じることがあって、考え込むのもこの仕事の楽しみの一つだね。 彼は修理依頼主との感性とうまく付き合って、修復をするよう説得すると言うが、私の日本での経験からすると、多くの依頼主は、時間が止まったままでは気持が悪いから、費用を安くして兎も角動くようにしろと仰言る。ついでだが、どこか引き取ってくれるところはないかと頼んでくることもある。骨董市場で高価な和時計なら別だが、これは完全に修復できる人が見つからない。文化の伝承という面で、この記事は考えさせられる。 さてこれからは、雑談となる。近年クロックの業界は、全く低迷している。ついこの前までは、時計屋さんの店頭と言えば、壁に沢山のクロックが展示されていた。今はそんな光景にあまりお目にかからない。売り場が分散していろいろのライフスタイルを表現するお店に、沢山並ぶようになった。しかも、百円ショップに行くと、三百円ぐらいで掛時計や置時計が買える。百円ライターが高級ライターを市場から放逐したと同時に、高級ライターの存在価値そのものまでも破壊してしまった状況に似てなくもない。喫煙者が減少し、煙草の値が上がって、喫煙が一種の奢侈行為になりつつあるから、火をつけるのも高価な道具の方が似つかわしいとはいかぬようだ。お金持ちには、あなた方の一時間当たりの収入は、一般人よりはるかに高いのだから、その高価を得ているあなた方の時間の経過を測るには、高い時計を買ってくださいと、よく説くのだが、商売人の勝手な論理と受け止めてくれるだけである。しかし、幸いなことに、お金持ちには高価な時計を好む人は多い。クロック業界も、こういった階層が現れない限り不況からの脱却は無理だろう。 クロックが売れなくなった原因は、昔は各家庭に常識としてあった応接間を別に作るという概念がなくなったせいであろう。応接間に家族は常時入らない。客人が来た時にだけ使用する。完全に他人に見てもらう家具だけで構成されている。そこでは、旭日型と称するウエストミンスター寺院チャイムの時計が定番であった。応接間程は各家庭にはなかったが、洋館建てのお屋敷には広い玄関があった。あんまりガランとしてはいけないからグランドファーザー・クロックが置かれていた。他人の家を訪れるという習慣が少なくなり、今や客は家族が日常暮らすリビングルームに通されるようになった。リビングに装飾的なクロックはそぐわない。よそ行きの服みたいなものだ。学校にも、玄関には、卒業生や父兄が寄贈したグランド・ファーザーが大抵設置されていたものだった。今では、田舎の古い温泉宿ぐらいでしかお目にかかれない。 みんなが持っているスマホの時代に時計は完全に不要となった。そこでポケットに入っているスマホの捕促具として腕に着けるスマートウオッチが登場したが、これが果たして時計として付けている本人が、認識しているかどうか。時間を知らせるのは機能の一つに過ぎない。 では何故、高価な時計に人気が集まって売れているのか。当事者としては、うれしい現象だが合理的な説明がなかなかつかない。売る側の強力かつ、莫大なマーケティング費用をかけて、神話を作り上げる努力にかかっている事は理解できる。しかし時計は、正確に時間を告げる道具と定義して、人間の購買動機はコストパフォーマンスを重視すると考えると訳が分からなくなる。女性が効果の如何をあまり問うことなく、高価なるが故に効力もあるとみて化粧品を求めたがる心理と同じかと類推するぐらである。高名なブランドは、他者への贈り物とする際には、絶大な力を発揮する。説明不要な共通の認識が前提にあるから。客を接待する時は、有名なあの鮨屋ののれんをくぐるけど、自分一人だとあんな高い店は行かないね、安くて同じぐらいうまい店には行くさという人がいる。これが普通人の行動パターンだろう。他人が貰って無条件に喜ぶブランドの物を自分への喜びにしようと、転位させてみるのが購入動機かも知れない。「自分へのご褒美」という流行語をつい思い出す。元々この言葉自体も変な日本語なのだが。(栄光ホールディングス会長、小谷年司) |
|
|||
エルメス時計のお話 今やすっかり世界に通じる言語は英語になってしまったが、第二次世界大戦が始まる前ぐらいまではフランス語が少なくとも外交上での公用語であった。今でもオリンピックのアナウンスでフランス語が使用されているのは、勿論オリンピック再興の立役者がクーベルタン男爵というフランス人であったせいもあるがその名残りである。フランスも中国に似て、自国の文化が世界最高と思う中華思想が強い。一般のフランス人は今でもとりあえず日本の文化がすぐれていることは認めても、世界に冠たる文化はやっぱりフランスだよと信じている人が多い。 文化は言語によって伝承する。したがってフランス政府は世界中のフランス語を教える教育機関へ色んな形でお金出して来た。日本でも、日仏会館とか、アテネ・フランセとかアリアンス・フランセーズがある。 日本政府は遠慮がちというか外国人に日本語を教える学校を作り、外国人が日本語を習得してもごく特殊な内向的日本の文化を理解しないだろうと先走ってあまり予算を使ってこなかった。しかし経済発展の背景のもとに、アニメとか和食のブームが出てきて、クールジャパンとかもてはやされるようになり、地味な海外での日本語普及に政府が目を向けるようになって欲しい。 人間の思考が母国語から離れることが難しいように、文化と言語は不即不離である。その国の言葉を学べばその国への親しみが形成される。たとえスパイが敵国語を学ぶにしてもそうなるケースが多い。 さて、仏政府から財政援助を受けているアリアンス・フランセーズの本校はパリにある。フランス語を学ぶ外国人はたいていこの学生街の学校へ通うことになる。実を言うと、私もこの学校へ六十年近く昔通った。 大学でフランス語を専攻して、パリ大学へ入学したものの、授業に出ても講義のフランス語がさっぱり解らない。これは駄目だと思って仕方なく耳を慣れさせる為に、補習授業と思い行ってみた。二十人ぐらいの小クラス編成のやり方、雰囲気は、京都の日仏学院とそっくりで、へんに懐かしかった。あとで多少理解するようになったソルボンヌ(パリ大学の文学部)での講義より、ここでの授業が後年、人生にはずっと、役に立った。担任の先生が生徒達を自宅へ招待してくれたりする。学校側の強制ではなかった。今はもうそんなことはないだろう。名物教授の一人にマダム・コーラという教え上手で、中年の愉快な先生がいてその人がエルメスという店のことを初めて教えてくれた。エルメスは成熟したパリジェンヌの憧れの店なの、あの絹のスカーフの肌ざわりの良さ、柄の美しい色合い、高くてなかなか手が出ないけど、絶対に欲しくなるわ、と投げキッスの身振りまでしたことを、六十年前だけど昨日のように憶えている。 エルメスは元々、貴族階級や大金持ちのために、皮製の馬具を作る商売から始まって、皮製品に加えスカーフやネクタイを発売するようになっていた。その頃は、パリにはフォーブル・サントノレ街に本店が一軒あるだけだった。勿論、学生達は、セーヌを越えた右岸の名だたる高級商店街に出没することはない。エルメスの顧客である富裕層は、避暑地や避寒地に移動するのでサーヴィスの為にお金持ちが集まるドーヴィルやカンヌなどに支店を設けていた。保守的だが趣味の良い、伝統的なお金持ちだけを相手にしているだけで経営を保てたのであった。 FH誌の今年の第三号(二月二十二日刊)には、昨年のエルメス社全体の業績が発表されている。すでに日経新聞などで報道されているから、詳しくは書かないが、全体の売上げは昨年比で一割弱上回っていて好調である。年商は五千五百五十万ユーロ(約七千億円)だが、時計の売上げは、横ばいで振るわないから長年これまで出展してきたバーゼルを去って新しくジュネーヴサロンの方に進出したのも、新しい境地を開拓したい意欲の表れだろう。 同じ号に、時計の最高責任者であるギョム・ド・セーヌ(創業者から六代目、61歳)の新聞インタビューが掲載されている。パリの超エリート大学の政経学院を出て、ラコステ社とかシャンパンのアンリオ社で修業、エルメス社に入り、四十歳でビエンヌにあるエルメス時計会社のトップになった。今もその職を続けながら、今は全社の副社長として本家のデルマス一家を補佐している。エルメスは上場しているが、一族で六割以上の株を保有しており、数年前に良いものは何でも欲しがるヴュトンのアルノーが、買収を試みたが見事に撃退されたのは記憶に新しい。 この「エルメスもまた純粋にスイス時計である」と題された質疑応答は、いかにもオーナーらしい、歯に衣を着せない発言に終始して面白い。時計の売上げは、全体のたった三%の五百万ユーロぐらいだが、今後の展望はどうかと問われて次のように答えている。 エルメスの売上げの半分は、皮革製品で、それが機関車だけど、長い目で見ると時計も宝石もエルメスの品質中心主義で行けば、必ず良くなる。エルメスそのものが女性に強く、製品の男女比は四対六だが、六十五万本も売れるネクタイは、男のものだ。売るのは、説明が要る時計の方がネクタイより難しかろうから、世界で三百十七か所の直営店(売り上げの六割を占めている)、が役に立って来るよ。確かに男の購買客は、時計はまずエルメスとはまだ考えないのかもしれない。しかしアジアでは、風向きが変わりつつある。高級時計のムーヴを作るヴォーシェ社の株を四分の一取得して以来、ケース工場も文字板工場もスイス国内で買収して、近代化しながら一貫メーカーになっている。ジュネーブ時計大賞にも二度輝いた。一九九五年に初めてバーゼルに出展した時は、女性向きのクオーツがほとんどだったから、やはり量を売らねばならなかった。ところがそれが、アクセサリーの値段帯となっている。今後は本格的な自社生産のスイス高級時計メーカーとして、認められなくてはならない。これまでのバーゼルには、感謝しているが、ジュネーヴサロンに鞍替えした。戦略的な理由だよ。 売価を気にせず常に最高の品質を追求して、成功してきたのがエルメスという気迫が伝わってくるインタビューだった。(栄光ホールディングス渇長、小谷年司) |
|
|||
『ブランドとネットの共存は可能か』 二〇一ニ年から四年間、年間総輸出量が、二百二十億フラン前後で高止まりしていたスイス時計産業の一昨年は、百九十四億フランと前年から一割下落、昨年はやや回復の兆しが見えたが、僅かニ・七%の伸びに終わり、二百億フランの線には達しなかった。 日本への時計の輸出は、十二億三千百フランで、前年比二・六%微減であった。香港、アメリカ、中国、英国に次ぐ世界第五番目の市場である。これにイタリア、シンガポール、ドイツ、フランスと僅差で続く。但し、アメリカ市場が四・四%の減で、しかも年末の十二月は、前年から一割も落ちている。米国経済は好調なのに、高価格帯の時計が少なくとも、これまでの伝統的な小売チャンネルでは売れなくなってきていると、FH誌は大いに危惧の念を抱いている。 全体としては、予想以上早く回復しているのに、アメリカはどうなっているといういら立ちがスイスにはある。(FH誌本年第二号、二月八日刊) 伝統的な小売店を脅かしているのが、ネット販売網。中国では、JD・COMという巨大ネット販売業の時計部門が昨年前半六カ月で、あらゆる出自のブランドごた混ぜだったが、何と一千万個の時計を売ったことで業界の耳目を驚かせた。 丁度スイス時計の半年分の総生産量と同じである。中国では、アマゾンとアリババとJDが三大ネット業者とされている。JDだけで、顧客リストの総数は二億六千六百万人という気の遠くなりそうな数で、日本の総人口の二倍である。全中国に三百三十五か所の発送基地があり、主力の一つの上海にある「アジア・NO1基地」では、一時間に三万件の出荷をするという。総従業員数、一万四千人。アリババの「贅沢館」に対抗する高級品専門のサイト「トップライフ」を開設している。リチャード・リュウという男が創業して二年だが、最近四億ドルを投資して、英国のファッション専門のネット業「ファーフェッチ」の大株主に収まった。フランスのマクロン大統領が訪中した時には、二年間で二十億ユーロのフランス製品を売ると約束している。 中国における個人的な贅沢品、つまりファッション、バッグ、時計などの市場規模は、約二百億ドルで、大体日本と同じだが、ネット販売は七%になるとされる。従ってよく知られていないブランドにとってネットは無視できなくなっている。日本では、国土が狭い理由もあって、ある程度有名なブランドはネット販売とは一線を画すべきというのが定説である。 ところで今年一月に開かれた確立された三十五の著名なブランドの展示会「ジュネーブ・サロン」にJDの時計部門の責任者であるベリンダ・チェンの姿が見られた。数年前ならどのメーカーにも相手にされなかっただろうが、今年は違う風が吹いたようだ。多くの人が商談に応じたようである。彼女が若くて、美人だったせいもあるかも知れない。ジュネーブの地元の新聞が、彼女をインタビューした記事がFH誌に写真入りで転載されている。ネットに関しては、“触らぬ神にたたりなし”態度だったブランドも実績には弱いらしい。 エベラールとH・モーザーとは、ネット上でブティックを開店する契約を早速もらったわ。ゼニスとショパールは販売契約を交わし、ミドーはすでにネットにのってます。去年の十月から年末までの三カ月で時計の売上が前の年の三倍以上になったことは、新しいブランドを導入することによって中間所得層が質がいい優れた製品に目覚めたといえるわね。 ネット上で炊飯器と一緒に並べられるのは嫌だと、皆さんによく言われるのですが、確かにその通りだと思います。ブランドは歴史とイメージを大切にするのは当然です。ですから、いつもブランドと話し合い、顧客を絞り込むようなキャンペーンを打っているの。例えば、ショパールの平均単価は、八十五万元(約百五十万円)するけど、絞り込まれた顧客にしか案内しないし、配送する時だって、美しい時計のボックスみたいに正装した人に持たせているわ。ホテル客にバラを届けるようにね。うちのネット販売は、ブランド直営店と補完関係にあると考えて頂きたいの。直営店がカバー出来ない地域をネットでカバーしてる風にね。 ヨーロッパではネット上で人気を博している中古時計の販売も、昨年の十月から手掛けてみたけど、まだよちよち歩きね。中国人は、今人気のしかもピカピカの線製品が好みみたい。他に色目を使っている時計はありませんかというご質問だけど、ここだけの話、最新のAPロイヤル・オークとか豪華なカルティエね。この二つのブランドは、何としても私たちの顧客にその真価を見出してほしいわ。 彼女とのインタビュー記事で一番驚いたのは、これはネット業界に関して私が全く知るところがないせいだろうが、その価格構成である。ネットも日本の百貨店のテナント同様で、一種の委託業態で買取はしないみたいだ。最も、回転が高度に早いと納入する側にとっては買取も委託もほとんど変わらないともいえる。もう一度彼女に答えてもらう。 頂くマージンは、もちろん長期展望に立って仕入れ先(彼女はこれを得意先クライアントと言っている。この言葉遣いに大きな意味がこもっている)との交渉になるけど、基本的に画面上で販売が成立したものは五%ね。それにマーケッティング費用と配送費はメーカー持ち。うちの特色は配送システムの完備だけど、常に整備向上してるからほとんど完璧。有名ブランドすらも、自分のネットで売れたものでも配送を依頼してくるのよ。卸部門もあるけど、マージンは低くなるわね。直営店をあちこち作り、従業員に給料を払う、固定費を考えるとそれほど高いとは思わないけど。 巨大な売り上げの可能性を背中の後光に持つこんな理論的で頭の切れるビジネス・ウーマンを相手にするメーカーは大変だなと、つくづく同情心が湧いた。同時にネット販売について考えこまざるを得なかった。 伝統的な買い物形態とは何か。先ずほしいものがある、あるいは見出す。それに決めて何らかの包装をしてもらい、支払いを済まし、持って帰るか、しかるべき配送をしてもらう。簡単に言うとこのサイクルで買い物は終了する。それが移動もせず、一気に楽々と終わるのがネット販売である。全てを滑らかにするのが、システムである。システムを制する者が勝者となる。JDやアマゾンの事例がそれを教えてくれる。それだけでは、味気ないと思う人だけが現実のお店に足を運ぶのだろうか。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
『今年のガイヤ賞』 日本の博物館は、西欧文明に追いつくにはこれも必要と明治政府が教引に輸入した制度の一つで、国民を教化することを第一の目的としていた。明治期に設立された東京・京都、奈良の洋風建築の国立博物館がそれである。戦後も博物館は、まず学ぶ場所であり入館者は少なかった。ガランとしてかび臭かった。五十年前のルーブルもほぼ同じで、入場するのに待つことはなかった。週に一度、入場無料の日があって、私たち貧乏学生はその日を狙って行くのだったが、それでも人は少なかった。この五十年間の間に、博物館や美術館が私たちの日常生活に、百貨店やスーパーのように入ってきて、人気の展観が来ると、新聞やTVの情報も手伝って、今や二時間待ちといった行列が出来たりするようになった。もっとも、サッカーやポップ・ミュージックと違って、時間を持て余している老人が多いが経済発展に重要なコト消費にちがいない。 もう四十年も昔だが、セイコーが亀戸にあった旧工場のレトロな建物を、セイコー資料館と作り直した。といっても、一般向けしない展示だった。当時セイコーの社長だった服部謙太郎氏(現在の真二会長の御父上)にお会いしたので、セイコーの時計やグッズを売ったり、催しをしたりしたら如何でしょうかと、すぐ商売気を出したがる大阪人らしい提案をした。温厚な服部さんは顔を一寸曇らせて、資料館を作ったのは、うちの社員に展示を見て勉強してもらい、セイコーの時計に誇りを持たせるのが目的で、宣伝するためではないと言われた。服部さんは入社前は母校の慶応大学で若くして日本史の助教授として教鞭を取っておられた学究らしい発言だった。日頃の言動も堅実地味で、出張の際出迎えに行った社員がグリーン車の昇降口を探していたら、普通車から降りてきて慌てたというエピソードの持ち主だった。資料館は、向島に移り、近年セイコーミュジアムと改名した。向島まで社員が行くのは大変だし、セイコーの社員数も激減しているから、当初の方針を維持するのは難しいだろう。はじめは、勿体ないお金の使い方と思っていたが、ミュジアムの本質は来館者の教化にある。楽しませるのも教化の一手法に過ぎない。この点でやっぱり服部さんは正しかったと今では思うようになっている。 ロンドンの大英博物館に行くと、現在はかなり商業化しているが、まだ啓蒙精神が十分に残っている気がする。学ぶだけでは退屈だろうから、楽しく学習する企画や展示が展開されているが。同様の試みが日本でも始まっているが余り人気がない。それより目玉を呼んできた方が、入館者が増えると考える商売第一の関係者が多そうだ。博物館とディズニーランドとは本質的に異なるのに。 大英博物館でも、ルーブルでは立派な時計展示部門がある。上野の科学博物館にも小規模だがある。ヨーロッパの都市博物館には、必ずと言っていい程、時計展示がある。しかし行ってみると、どうも他の展示物に気を取られてしまって、時計だけの展示室だけに集中しないと、その博物館が何を訴えようとしているかが気付かない。優れた学芸員がいないと単に並べているだけという展示になる。 その点スイスには、時計専門の博物館が沢山あって、時計好きには便利といえる。幸いFH日本代表の中野綾子さんがその一覧表を作成しているので、FHへ問い合わせることが出来る。 中でも、一番に訪れるべきは、ラ・ショードフォンにある国際時計博物館だろう。めったにお目にかかれないような名品はないけど時計史の全体像がつかめる構成になっており、時計の未来にどうつながるかの展望もある。人間と文化と時計がどうかかわっているかをテーマの博物館であって、好事家達だけのものではない。館長も常に時計研究では最高レベルの人が選任されている。 元々は、雑多な伝来の収集品を展示する博物館として一九〇二年創設されたが、四十年程昔に訪問した時は、FH(本部はビエンヌ)と合併前の時計商工会議所の陰気なビルの一階に間借りをしていた。森の風景に囲まれた美しい現在の建物に移転する以前のことである。青少年が来るので常時展示してないが、ここのポルノ時計は知る人ぞ知る蒐集品である。二度目に古い方のビルを訪れた時、紹介状を貰って担当者に会い、アレを見せてくれと頼んでみると、いやいやながら二、三点奥から出してきてくれた。これも懐かしい思い出である。新しい博物館は整然としていて、そんなことを頼めるような雰囲気ではない。 この博物館が十数年前から、時計界のノーベル賞というべきガイヤ(大地の女神)賞というのを創設して、毎年秋分の日に受賞者を表彰している。部門が三つに分かれていて、時計技術部門、時計学術研究部門、時計事業経営部門となっている。今年選出されたのは、技術からジャン・マルク・ヴィーダーレヒト(67歳)、学術からローランス・マルティ女史、経営からは、フランス人のリシャール・ミル氏(66歳)。(FH誌本年第十六号の記事)。 先ずリシャール・ミルは、業界人なら今や誰でもご存知のブランドであり、そのオーナーである。一ケ作りではなく、シリーズで同じ時計を作っているメーカーとして平均単価が一千万円前後と一番高価な時計を作っている。創業は一九九九年で、製品の販売を開始したのが二○〇二年と、僅か十五年の歴史に過ぎないが、瞬く間に世界中の若い大金持ちの心をつかんだといえる。南仏に生まれ、フランスの時計都市ブザソンで経営学を学ぶ。入った会社が後のセイコーの傘下にあったマトラ社に買収されたために、マトラ社が破綻するまで営業の責任者であった。その後、パリの高級宝飾店モーブッサンの時計部門長として活躍したのち独立。 ローランス・マルティは、手堅い社会学的な地方色の濃い中小企業の研究で知られ、スイス・ジュラ地方の時計産業ばかりでなく、あらゆる産業との個人的接触を重ね、成功モデルを共に模索してきた。著作も多い。 ヴィーダーレヒトは、大メーカーの為に、画期的な機構のオリジナルな機械時計を設計、製造するアトリエ「アジャンホール」(ジュネーヴ時計工房の略語)の社長。ジュネーヴ時計学校を卒業後、三年間シャトランという時計会社で修業し、一九七八年独立。現在は妻と息子二人を含む三十人のスタッフで年間数百個の時計を大メーカーの下請けで作っている。ショパール、ヴァンクリフ、エルメス、ハリー・ウインストンの先進的な話題作の多くは、ヴィーダーレヒトの手になっている。皮肉な見方をすれば、彼と契約するコネとカネがあれば、立派な時計メーカーとして通用するともいえる。スイスブランドの強みは、逆に見れば、こんな人があちこちにいる事かもしれない。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
香港で考える 昨年のクリスマスの時期には、例年のように香港で避寒の休日を過ごした。香港といって、観光するようなところもなし、買物も昔のように安くもなし、その歳で今更買物でもなかろう、何しに行くのと問われたりする。勿論その通りだが、日本の冬に比べると格段に暖かいし、セーター一枚で街の散歩が楽しめる。ホテルの屋外の温水プールで泳げる。食べものも、美味しい。中国のいろんな地方の料理を味わうことができる。海に近い広東の料理と奥地の激辛の四川の料理とは全く違う。北京料理もあれば楽しめる。ホテルの屋外の温泉プールで泳げる。食べものも、美味しい。中国のいろんな地方の料理を味わうことができる。海に近い広東の料理と奥地の激辛の四川の料理とは全く違う。北京料理もあれば上海料理もある。食べもので中国の地方色を知るのも悪くない。 街歩きといえば、香港が中国に返還されてすでに二十年経つが、幸いなことに、まだあちこちにイギリス植民地の残影が辛うじてある。今でも神戸へ行くと、明治の外人居留地のたりに、西欧のハイカラ文化が感じられる。同じようなノスタルジーを、香港ではより強く味わうこと ができる。例えば、植民地時代と同じ緑の船体のスター・フェリーに乗って海峡を渡ると、西欧の文化に憧れていた若い時の記憶が立ちもどってくる。それに神戸の居留地は今やブランド・ブティックやカフェばかり。香港には町中に、英語の本だけを扱っている本屋さんがある。 ここで、本棚を眺めてすごす一時の楽しさ。かって大阪にも洋書を多く揃えた「丸善」があった。しかも我がオフイスに隣接していた。「丸善」はなくなり、今では中国人の旅行者相手の薬スーパーになっている。自分で本屋さんに行くことはない。アマゾンで検索すれば、どこの国の本でも買えるよという世代には、横文字の本ばかり並べている洋書店に入った時の一種の胸のときめきを理解できないだろう。長年読もうと思っていた本を買って来て、他にすることもなく、ホテルのプールサイドで頁を開くのも、香港の楽しみの一つである。 毎年、同じ時期に香港を訪れることには、商人としては別の利点がない訳ではない。時計・宝石業界では、業況に関して、一番国際情勢に敏感な都市である。町にひしめく、大から小までの時計宝石店を少し眺めているだけでも、ややおおげさだが世界の景気の動向が読み取れてくる。香港の人は一般に古いものにとらわれず、新しいものにすぐ飛びつくから、小売屋さんは世界の最先端を行っている。 しかも香港はスイス時計最大の輸出先である。近年は年末に一度だけの来訪になったが、定点定時観測によって、かえって業界の流れの変化が大きく長期的につかめるようになった気がする。 香港での不動産価値の暴騰は慢性的なもので、当然家賃の高さに反映する。店舗の家賃の高さの水準は、おそらく世界一だろう。売れなければ、小売店はすぐ閉店せざるを得ない。日本流の我慢は 通用しないから、営業している店は損はしてないと言える。何が売れているのかもすぐ解る。 日本では株価が上昇を続け、ビットコインなど訳のよく分からない仮想通貨が高騰している。偶々香港へ行く機内で読んだニューヨーク・タイムズ紙には、単なる投機にすぎない恐怖が強いという記事が出ていた。二、三年で百倍になるようなものにはマユツバで当たるのが常識といえる。ゲームの参加者全部が儲かるシステムを信じる人々があるようだが宝くじや競馬のように、多数の損失の上に、一部の人々が利益を得るのが原則である。参加者全員がもうかるには、この場合参加者を国民とみて、国全体の経済力を徐々にでも上げていく政府の地味な努力しかない。 しかし、日本の現状からみると、株や投機や企業の売却・併合といった日々の努力とは関係のないいろんな分野の利益が生まれている。盛んといっても良い。昔は貯金の一種として株を買い配当は、預金利息に代わるものであった。今は配当は、余禄にすぎない。多くの人は値上りをねらって株を買う。株は上がらねば株式市場の魅力はない。起業家も昔は創業した会社を家業と捕え、社員は家族同然と考えていた。株式を上場することは本質的に、他人に会社を売ることだが、上場してもまだ自分のものと思っている人が多かった、今では、会社が成長すると、簡単に高額の利益を得て手放すオーナー経営者も多い。 昔、山本夏彦という作家が、人気役者が舞台の上で一万円札を着衣一面に フアンから貼りつけられている写真を論評して、この人達の一万円と普通人の一万円とは性格が異ると書いた。汗を流して得た金と同じに考えると人生を誤るよと言った。現在では、芸能人ばかりでなく、お金持程あぶく銭を稼ぐ機会が多い。二日間程、天皇陛下のお召列車より豪華な特別仕様車にのって、一人五十万円以上かかる国内の旅が、超人気で予約が困難などという記事をみると、世の中どうなっているのかと考え込まざるを得ない、コト消費に人々の関心が移っているというが、コト消費にすぎない。 このような現状をみると、日本経済もややバブル化しているとみなさざるを得ない。ただそのバブルがお金持階層と、将来をあまり気にしない、収入はみんな 使おうとする一部の若者の間で生まれているのは、救いである。バブルがはじけても、借財という形で残らないからである。かってのように負の遺産が残るのではなく、不景気がやってくるだけの話。堅実な中間階級層が残っているかぎり、不況の克服は可能である。当面はこれらのバブル層と、外国人旅行者が我々の業界を潤してくれていることも否めない。 こんなことを考えているよ、と偶々香港のホテルの露天風呂で一緒になった、中国系アメリカ人の若い投資コンサルタントに話をすると、そうだな、アメリカでもどうやらバブルみたいだよと笑っていた。トランプ大統領にかき回されているアメリカ社会が、どんなバブルか、一瞬ニューヨークへ行ってみたくなったけど、アメリカはどうも性に合わない 妻に付きあって、香港随一のショッピングセンターになっているオーシャン・ターミナルに行ってみた。世界中のあらゆるブランドの立ち並んでいる長い長い室内大通りである。クリスマス・イヴとあって、その人出の多さに驚いた。アメリカではクリスマス時期だけで小売店は年間売り上げの四割を稼ぐと聞いているが香港でも同じみたい。若者ばかりで、冷やかしに来ているのは殆んどいない。高級ブティックであろうが、普通の店であろうが買物客で溢れている。カルティエにもヴァンクリフにもグラフですらも人が入っている。バブルはここにもあった。残念ながら時計店にはそれほど客は入っていなかった。やっぱり、習近平の袖の下禁止令が利いているとのこと。自分用に金持ちはスイスで買うようになっているらしい。 FH誌によると、スイス時計の香港向け輸出は、昨年十月が前年比十五・八%増、十一月は四・四%増となっているから、回復基調とはなっているようである。 (栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
日本とスイスの「民主制の構造の違い」 株式会社というのは、株主の委託を受けて、企業界の経営に当たるのが原則で、何よりも株主の幸福が優先するはずである。現実はそうなっていないから株主総会が紛糾したりする。多くの株主は不満があっても、内容が良く解らないから、多少の配当があれば黙っていて総会にも出ない。 民主主義国家の運営もこれに似ている。国民一人一人が国の株主みたいなもので、主権在民と憲法では規定されている。しかし国民が直接政府を選んで政治を委託するのは、手続き上難しいので、議員選挙による間接民主主義政治をとるしかない。日本ではどの自治体でも同じである。それに候補者とその所属する政党を選ぶとき、有権者は大体党と人は同じとみなす。もし仮に、今の自民党のように共産党が多数を制し、首相が選出されたとしたら、議員の数が半数以上あるのに、支持率が半数を割ることはあり得ないだろう。理論的には合わない。それが今回の安倍首相の突如解散につながった遠因だろう。今回の総選挙は、私が正しいかどうか、国民投票で行こうと決断した気がする。 今や国民投票が世界の潮流になりつつある。英国がEUに留まるかどうか国民投票にかけて、政府の意向とは逆に脱退と民意は出てしまった。英国民は理想より現実を選んだといえる。 世界中の経済はネットの出現で、国境がネットの上では消失してしまった。ところが実生活では、ある一定の限られた地域で、限られた人間関係の中で、人はくらしている。今の生活を良くしたい、少なくとも現状は守りたいと思うから、ナショナリズムに走る。将来良くなれば、少し我慢すれば、その分後で戻ってくるという理念に酔う事はない。 恐らく米国民がトランプを大統領に選出したのも、そのような国民的な感情をバックにした国民投票的な意識からだとみなされよう。「アメリカ・ファースト」と言ってアメリカの庶民は熱狂したが、言葉の裏を返せば、アメリカさえ良ければいいと同じである。雇用を増やすために、アメリカ製品を買えといっても、このネット時代に熱狂した庶民は、あえて高価なものを購入するだろうか。世界一の経済大国が、二億人の人口を満足させられないのは何故かと日本人一億二千万人のなかのひとりのわたしは考える。問題は富の偏在にあって、これを何らかの形で是正しない限り、自動車工場を国内にいくつ作っても無駄である。同じ問題は、日本も中国も直面しつつあるが、米国ほどではない。お金儲けが、投資活動のように頭脳に頼るようになればなるほど、富は偏在する傾向にある。芸術活動を経済行為とみなすのは気が引けるが、小説家や画家の世界を見れば明瞭である。一将成って万骨枯れるといってよい。 小池都知事が言い出した都民ファーストという言葉の本来の意味は、まず住民の意志を尊重しようという事だろう。しかし東京都民だけが良ければ、あとの人はどうでもいいともとれるから心に響かない。「アメリカ」という言葉がアメリカ人にもたらす感情とは全く異なる。「江戸っ子」ならいざ知らず、都民だと胸を張る人はいない。それに、都庁をはじめとして、都内の仕事に通う他県人は沢山いるはずだ。 住民ファーストの思考法はスイスでは、初めから徹底している。国家としてのスイスは、カントンと称する二十六の州からなる連邦制だが、基本はあくまで一人一人の住民におかれている。三千近くの市町村が最も重要な自治体で、ここで集団採決された決定は、全てに優先する。帰属する州が決定に介入するのは、自治体内部からの提訴があった時のみである。州は一種の国家みたいなものであるから、余程のことがない限り国は口を出せない。自治体では、十八歳以上の成人には主権が憲法で保障されている。例えば、外国人がスイス国籍を獲得するには、前もってどこかの市町村の住人として認められてなければならない。帰化は政府が先に決めるものではない。 スイスの政体は、他の民主主義国同様に、両院制の議会政治である。上院は、各カントンから二名づつ、人口比は一切考慮されずに選出される。各州の利益が平等に主張される仕組みである。二十六あるカントンのうち、三つの副次的カントンからは出ないから計四十六議席。下院は、約三万人の選挙区から一人が選出され、少なくとも各カントンから最低一人が選ばれるシステムになっている。総議席数は二百。その中から、閣僚七名が四年の任期で任命される。 七人で国家行政が運営され、大統領は分野兼任で任期一年だから、事実上持ち回りである。スイス人でも大統領の名を知っている人は少ないといわれるのも無理はない。権力が腐敗する時間がない。癒着するにも短すぎる。省庁も首都ベルンに集中してなくて、各地に分散している。 これは一番重要なことだが、政府がある施策を実行しようと、両院の合意を取りつけた後でも、猶予期間が二ヶ月あるから、市民は政府決定に異議を申し立てることが出来る。有権者五万人の反対署名を集めれば、政府は実行の賛否を国民投票にかけなければならない。民意が何処にあるかをよく知ってないと日本のように議会で強行突破しても無意味である。当然ながら、世界に認められた永世中立国とはいえ、外国から攻撃され突然戦時体制になった時は例外である。 今でも、山村地帯の自治体では、年に一度広場に全住民が集まって、懸案事項を裁決する大会が開かれるところがある。スイスの住民ファーストの民主主義の原型で、その伝統は今でも都市部にも残っている。公共的な事業、駐車場の建設からバス停の位置に至るまで住民投票にかけられる。スイス人は、なんでもかんでも投票するから、毎日曜日は投票所通いで忙しいとからかわれる。民主主義は難しい。完遂するには、努力が要る。だがそこには少数反対意見に対する配慮が常にみられる。 世の中にいろんな人がいるから、話し合いに徹しようというのが民主主義で効率は非常に悪い。多数決は最終の便法にしかすぎない。安倍首相が街頭演説中に下品な気にさわる野次に耐えかねて、思わず「あんな人達に負けるわけには行かない」とスポーツチームの監督みたいに口走ったのは心情として解らぬでもない。かって韓国の盧大統領は反対派に玉子を投げつけられた。感想を求められて、うむ、民主主義の味がすると言った。そのぐらいのユーモアが欲しかった。社長なら、社員の首は切れる。嫌な株主には株なんか売ってくれとも言える。競合相手は倒すこともできる。しかし国民には国民をやめろとは言えない。戦前は「非国民」のひと言で片付けることができた。現在はそうは行かない。日本の民主主義はまだ成熟中である。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
休暇の話 今年の夏は関東では雨の多い嫌な天気に終始したようだ。関西は逆に酷い暑さが一日の休みもなく、涯しなく続いた二ヶ月だった。香港の友人は、大阪の夏は香港より暑いとよく言う。まさか、いつも室内では、寒い程冷房をかけているせいだと反論するが、当っている日も確かにある。 そんな時にいつも夢想するのは、スイスで夏休みをすごすことである。今を去ること、半世紀以上昔に、留学生だった頃一度だけ、スイスで夏をすごしたことがある。ルッツェルン市郊外のメッゲンという小さな、湖を見下ろす村の、避暑客用の下宿屋さんで暮した日々が今でも忘れられない。先日、「起きたけど寝るまで特に用もなし」というシルバー川柳を見せられて、思わず笑ってしまったが、その村の別荘を借りてヴァカンスをすごしにやって来る中流階層の毎日は殆んど、そんな風であった。「ヴァカンス」とは、元々「空っぽ」を意味するフランス語に由来する。日本人の「ヴァカンス」のように、予定やら遠出やゴルフでつまってない。時間を無駄に過ごすのは貧しい人のできる最高の贅沢と考えている節がある。名刺に「家ナシ、電話ナシ、車ナシ、時間アリ」と印刷したのをくれた人がいた。当時まだ大学院休学中だったので、帰国したら提出する筈の修士論文の骨組みだけでもと意気込んで、車に文献まで積み込んでスイスへ来たものの、ついあたりを見回すと、生来の怠け根性が首をもたげて来た。まあ、帰国しても論文は提出されることはなかった。 ルッツェルンは六万人の小さな村だが、美しい町として観光客に人気が高い。何処からみる風景も絵になる。郊外の丘から見返る町の景観も美しい。メッゲン村からみる夏の光景は、眼下の湖に青い水が光り、あたりに拡がるなだらかな緑の丘、晴れ上がった空、朝から心が浮き立ってしまう。対岸には、湖面から高く切り立っている私営の高級リゾート地、ビュルゲンシュトックがみえる。むかし、一度行った時も、いかにもお金持の訪れそうな雰囲気に気押されたが、何故か数年間閉鎖されていた。今年、カタールの資金が数百億をかけて、リノベートして再開したという。別にそんなところへ行かなくとも楽しい時間をスイスで過ごすことはできる。 メッゲンの後には、名山リギの秀峰がみえ、あたりは白い花を一杯つけたリンゴの樹が散在する緑の牧草地である。だらだらと道を下って行くと湖に達する。岸は小さな遊園地になっていて、ミニゴルフなどがあり、遊泳地にも指定されている。夏休みの家族たちで賑わっている。いつか、ヘルシンキ郊外の湖畔ホテルに泊まったことがある。戸外サウナがり、前が湖、水温はどうかなと従業員に尋ねると、温かいよと言った。サウナで火照った体で飛び込んだら冷たくて心臓が止まりそうになった。そういえば夏の南仏ニースの海岸でも、トップレスで陽に肌を焼いている女性群を横目に、小石ばかりでゴロゴロ歩き難い浜から水につかってみたが、冷たくて泳ぐ気が失せてしまった。白人は概ね低い水温に平気みたい。ところが、ルッツェルン湖の水は、近くに氷河が落ち込む場所もあるのに、琵琶湖の水のように温かった。ひょっとするとあの場所だけだったのかも知れない。 毎朝のように泳ぎに出かけて行った。そして午後は大抵ルッツェルンの町へ食事に出かける。図書館へ行って勉強すべきだったが、どうも怠け癖がついてその気になれない。旧市街の繁華街の突き当りが、丁度川中の狭いロイス川が湖から流れるところで小粋なテラスカフェがあった。コーヒーを飲みながら水面を眺めては、ぼんやり時間を過ごすのが常であった。水は澄み切って、いかにも涼しげだったことを、今でも鮮明に想い出す。今もあのカフェは存在しているだろうか。 こんなことを思い出したのも、代理店をしているクロノスイスの本社が時計業界に珍しくルッツェルンにあって、社長の若いオリヴィエ・エプスタインさんと大阪で会食する機会が出来たためである。会うと仕事の話をしなくてルッツェルンの話になる。お土産にはいつもメッゲン産のワインを頂くので、飲むとあの楽しかった夏の日々への思いに至る。 さて、七、八月はスイスの長い夏休みの季節である。時計業界では労使総括協定が結ばれていて、来年度の夏休みはこうなっている。七月十六日(月)〜八月四日(土)まではすべての企業は休日。その前後一週間は、どの週を休みにするか企業の自由。企業によっては四週間続けて休日にする所もある。従業員には、全体で六週間の有給休暇があるが、残りは自由にとって良い。夏にスイスに行っても仕事にならないと日本人がボヤくはずである。出張するには一番うれしい季節なのに。 スイスの有給休暇は、大抵他の業界でも似たり寄ったりだろう。スイスには資源もなければ、国内市場も小さい。時計でも観光客を含め国内市場は5%しかない。輸出と観光と金融で食べている国で、これだけの有給休暇がある。移民の条件も厳しい。日本の産業もこの労働条件で競争力を保持することを考える必要がある。 今年上半期のスイス時計の輸出。 FH誌本年十三号(八月二十一日刊)に成績表が出ている。 この二年ほど下降線を辿ってきた時計輸出にもやっと歯止めがかかったようで、前半は昨年並みになった。特に第二四半期の三%増が貢献している。七月の速報でも三・八%伸びているようで、年度末への期待感が生まれ始めている。前半の覧表をつけておく。 ここで注目すべきは、日本国内では相変わらず一般には好調と見られているスイス時計は、スイス側から見ると一割減となっている。金額でも人口の少ない、英国やイタリアの下位にあり、ドイツとほとんど変わらない。輸入業者はもう少し努力すべきと、スイス側では考えているだろう。六カ月で約六百億円だから、年に千二百億円、小売値を三倍として、約四千億円弱、これに最近低下気味の並行輸入が加わって、あくまで推定だが、四千五百億円ぐらいが市場規模だろう。(栄光ホールディングス渇長 小谷年司) |
|
|||
休暇の話 今年の夏は関東では雨の多い嫌な天気に終始したようだ。関西は逆に酷い暑さが一日の休みもなく、涯しなく続いた二ヶ月だった。香港の友人は、大阪の夏は香港より暑いとよく言う。まさか、いつも室内では、寒い程冷房をかけているせいだと反論するが、当っている日も確かにある。 そんな時にいつも夢想するのは、スイスで夏休みをすごすことである。今を去ること、半世紀以上昔に、留学生だった頃一度だけ、スイスで夏をすごしたことがある。ルッツェルン市郊外のメッゲンという小さな、湖を見下ろす村の、避暑客用の下宿屋さんで暮した日々が今でも忘れられない。先日、「起きたけど寝るまで特に用もなし」というシルバー川柳を見せられて、思わず笑ってしまったが、その村の別荘を借りてヴァカンスをすごしにやって来る中流階層の毎日は殆んど、そんな風であった。「ヴァカンス」とは、元々「空っぽ」を意味するフランス語に由来する。日本人の「ヴァカンス」のように、予定やら遠出やゴルフでつまってない。時間を無駄に過ごすのは貧しい人のできる最高の贅沢と考えている節がある。名刺に「家ナシ、電話ナシ、車ナシ、時間アリ」と印刷したのをくれた人がいた。当時まだ大学院休学中だったので、帰国したら提出する筈の修士論文の骨組みだけでもと意気込んで、車に文献まで積み込んでスイスへ来たものの、ついあたりを見回すと、生来の怠け根性が首をもたげて来た。まあ、帰国しても論文は提出されることはなかった。 ルッツェルンは六万人の小さな村だが、美しい町として観光客に人気が高い。何処からみる風景も絵になる。郊外の丘から見返る町の景観も美しい。メッゲン村からみる夏の光景は、眼下の湖に青い水が光り、あたりに拡がるなだらかな緑の丘、晴れ上がった空、朝から心が浮き立ってしまう。対岸には、湖面から高く切り立っている私営の高級リゾート地、ビュルゲンシュトックがみえる。むかし、一度行った時も、いかにもお金持の訪れそうな雰囲気に気押されたが、何故か数年間閉鎖されていた。今年、カタールの資金が数百億をかけて、リノベートして再開したという。別にそんなところへ行かなくとも楽しい時間をスイスで過ごすことはできる。 メッゲンの後には、名山リギの秀峰がみえ、あたりは白い花を一杯つけたリンゴの樹が散在する緑の牧草地である。だらだらと道を下って行くと湖に達する。岸は小さな遊園地になっていて、ミニゴルフなどがあり、遊泳地にも指定されている。夏休みの家族たちで賑わっている。いつか、ヘルシンキ郊外の湖畔ホテルに泊まったことがある。戸外サウナがり、前が湖、水温はどうかなと従業員に尋ねると、温かいよと言った。サウナで火照った体で飛び込んだら冷たくて心臓が止まりそうになった。そういえば夏の南仏ニースの海岸でも、トップレスで陽に肌を焼いている女性群を横目に、小石ばかりでゴロゴロ歩き難い浜から水につかってみたが、冷たくて泳ぐ気が失せてしまった。白人は概ね低い水温に平気みたい。ところが、ルッツェルン湖の水は、近くに氷河が落ち込む場所もあるのに、琵琶湖の水のように温かった。ひょっとするとあの場所だけだったのかも知れない。 毎朝のように泳ぎに出かけて行った。そして午後は大抵ルッツェルンの町へ食事に出かける。図書館へ行って勉強すべきだったが、どうも怠け癖がついてその気になれない。旧市街の繁華街の突き当りが、丁度川中の狭いロイス川が湖から流れるところで小粋なテラスカフェがあった。コーヒーを飲みながら水面を眺めては、ぼんやり時間を過ごすのが常であった。水は澄み切って、いかにも涼しげだったことを、今でも鮮明に想い出す。今もあのカフェは存在しているだろうか。 こんなことを思い出したのも、代理店をしているクロノスイスの本社が時計業界に珍しくルッツェルンにあって、社長の若いオリヴィエ・エプスタインさんと大阪で会食する機会が出来たためである。会うと仕事の話をしなくてルッツェルンの話になる。お土産にはいつもメッゲン産のワインを頂くので、飲むとあの楽しかった夏の日々への思いに至る。 さて、七、八月はスイスの長い夏休みの季節である。時計業界では労使総括協定が結ばれていて、来年度の夏休みはこうなっている。七月十六日(月)〜八月四日(土)まではすべての企業は休日。その前後一週間は、どの週を休みにするか企業の自由。企業によっては四週間続けて休日にする所もある。従業員には、全体で六週間の有給休暇があるが、残りは自由にとって良い。夏にスイスに行っても仕事にならないと日本人がボヤくはずである。出張するには一番うれしい季節なのに。 スイスの有給休暇は、大抵他の業界でも似たり寄ったりだろう。スイスには資源もなければ、国内市場も小さい。時計でも観光客を含め国内市場は5%しかない。輸出と観光と金融で食べている国で、これだけの有給休暇がある。移民の条件も厳しい。日本の産業もこの労働条件で競争力を保持することを考える必要がある。 今年上半期のスイス時計の輸出。 FH誌本年十三号(八月二十一日刊)に成績表が出ている。 この二年ほど下降線を辿ってきた時計輸出にもやっと歯止めがかかったようで、前半は昨年並みになった。特に第二四半期の三%増が貢献している。七月の速報でも三・八%伸びているようで、年度末への期待感が生まれ始めている。前半の覧表をつけておく。 表 ここで注目すべきは、日本国内では相変わらず一般には好調と見られているスイス時計は、スイス側から見ると一割減となっている。金額でも人口の少ない、英国やイタリアの下位にあり、ドイツとほとんど変わらない。輸入業者はもう少し努力すべきと、スイス側では考えているだろう。六カ月で約六百億円だから、年に千二百億円、小売値を三倍として、約四千億円弱、これに最近低下気味の並行輸入が加わって、あくまで推定だが、四千五百億円ぐらいが市場規模だろう。(栄光ホールディングス渇長 小谷年司) |
|
|||
『職人気質』 今年の夏、京都の近代美術館で、「ヴァンクリフ・アーペルのハイジュエリー展」が開催されているので見に行った。この展観から、二つの点が印象に残った。ジュエリーは商品だから、絵画のような芸術とは異なり公立の美術館で公開するものではないという考えが、かっては一般的であった。ブラックやダリの作った宝飾品ならよろしい、ラリックならまだ許せるとかいう程度だった。生前、石川暢子の作品が、東京国立博物館の法隆寺館で、数年前に展示されたころから、ジュエリーが公に鑑賞するだけでいい芸術の一ジャンルとして認められ始めたように思われる。もう二十年近く前に、年長の友人だったエリザベス女王の宝石デザイナーのアンドリュー・グリマが、壮重なロンドンのギルドホールで展覧会を開いたことがある。是非来いというので、出かけてみると、売るのではなくて見るだけの展示会だった。展示会の後で、当時ミシュラン三ツ星のレストランがロンドンにもできたというので話題になった「ガヴロッシュ」で御馳走してやるというのにつられて行ったものだが、食事の味は忘れたが多くの一般人がグリマの作品を見に来るのに感心したことの方が強く印象に残っている。宝飾品は、お金持ちだけが相手ではなく、普通の人が見て楽しめるように世界が広がっていた。日本でも、こうなれば良いと思っていたのがこの「ヴァンクリ展」で、多くの入場者が楽しんでいるのを見て、やっとその時代が来たかと感慨が深かった。この九月にも、名古屋の松坂屋美術館で、友人のギメル穐原かおるさんが、回顧展を開くという。多くの来場者があって、優れた宝飾品に対する認識が広がれば、業界の為に喜ぶべき現象かと思われる。 もう一つ、「ヴァンクリ展」で印象が強かったのは、ヴァンクリーフのデザインが優れているばかりでなく、宝飾品加工技術にも万全を期していることが強調されていた点である。勿論、素材の吟味が厳しいことは当然である。その職人の技術の優秀性を際立たせるために、江戸末期から明治にかけての日本の名匠が作った精巧な陶磁器、七宝、ガラス製品、彫刻の飾り物、布などが展示されていた。その完璧な技術を見ていてこのような技術の伝統は生き残っているはずだから、日本の宝飾品も発展の要素があるという希望が湧いてきた。 宝飾品は基本的には大量生産とは無関係だから、時計産業とは構造が異なる。しかし、時計造りでも、昔のような時計師が復活するとは思いも及ばなかった。数人の助手を使うにしても、ほとんど一人アトリエで時計作りをする仕事が成り立つとは思えなかった。日本の時計産業は、垂直型の全ての部品を自社内で調達するから個人で時計を作ることは難しい。その点、スイスは昔から分業制が普通だから、可能性は高い。それでも垂直型、つまりマニファクチュールが時代の流れになりつつあるときに、時計師など成り立たないと思われていた。その時代逆行を可能にした人の一人にフィリップ・デュフールがいる。 デュフールは一九四八年時計産業がジュラの谷間に生まれ、サンチェの時計学校を卒業している。その後、ジャガー・ルクルトやスウォッチの前身であるジェネラル・ウォッチに勤務し、時計師復活の始祖であるジェラール・ジェンタの元で修行している。一九八六年、オーデマ・ピゲの依頼で、時打ちのミニッツ・リピーターの懐中時計を六個作っている。それを時計用語ではグランド・ソヌリーというが、のちに腕時計に造っている。一九九二年のことで、そのころから個人時計師に注目が集まるようになってきた。彼のモットーは「時計とは壊れやすい品物」という。元々時計学校の入り口にこの言葉が刻まれている。 FH誌第十一号、六月二十九日号にデュフールのインタビューが出ていて実に興味深い。彼のアトリエは、昔のジュラ谷間の時計学校の一階を占めている。仕事机は五人分あるが、一つしか使ってない。つまりデュフールは七十歳になっても一人で時計を作っている。仕事場には、昔の工具、機械が今でも使えるように整備されている。アジア人のファンから贈られたお土産も沢山飾られている。 元々、今みたいに時計師の作る時計が大人気になるとは考えていなかったと彼は言う。若い時は自分だけの小さな世界で生きていて、注文の電話すらかかってこなかった。今となってみると、競売にかけられた自分の時計に高値が付くことを見れば、それで良かったと思っている。だがマーケッティングには一切投資しなかった。優れた時計さへ作っていれば、それが一番の宣伝となる証拠ではないだろうか。大切なのは謙虚であることだ。何も発明したわけではない。すでにあったものからインスピレーションを得たに過ぎない。作る時計は、飾り少なく単純だ。クロノグラフもトゥールビヨンも月齢もない。ただ品質においては一切妥協しなかった。外から見えない内部をおざなりにしない。作り上げた時計は、まず自分が気に入るものでなければならない。作っている過程で喜びがないとつまらない。 見てくれは単純なシンプリシティというシリーズをこれまで二○四個作っている。それには十二年かかっている。今は中国人の収集家に要求されたミニッツ・リピータに、有名なエナメル職人の文字板を乗せようと頭を悩ませている。あとはもう手探り。シンプリシティの新製品を出すべきかは解らない。売る方については心配ない。週に3度はEメールで注文が来る。どうして作るかの方が問題なのだ。五万フランで売った作品が後で競売にかけられて、二十五万六千ドルで売れたりして、もっと高くしないのかと言われているが、新しいシリーズを発表するなら別だけど、その気はない。「競売で高値がついても君には関係ない。不公平だと思わないか」と言ってくれる人もいるが、そうは思わない。落札者は僕を信じてくれたのだもの。きっと数年後転売して儲けることを期待している。それが僕にとっても喜ばしい。注文主の百万長者は、大抵僕が七十歳になってもまだ働いているとは思ってはいない。それに僕は個人として楽しく生きがいのある生活を送りたい。注文主に解ってほしいのは、僕が幸福であること、やっている仕事が好きだし、仕上げる時計にも喜びを感じている点だ。近くのマニュファクチュールから、機械を買ってケースを着け、名前だけ付ければ簡単に金儲けができるかもしれない。だが人生哲学に反するから嫌だね。 まだまだ、スイス時計産業の将来とか、デュフールの長広舌は続くのだが、紙面が尽きてしまった。しかし、紹介した部分だけでも真の職人魂がいかなるものか分かるのではなかろうか。人柄も買い手に時計を通じて伝わっているに違いない。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「夏に想う」 暑い日が続く。今年は豪雨と猛暑の夏である。夏はスイスで過ごすに限ると、仕事にかこつけて行こうと、昔は思ったが、あいにくスイス時計産業は一カ月ぐらい平気で夏休みをとるので出張しても仕事にはならない。業界人お馴染みの一月ジュネーブサロン、三月から四月にかけてのバーゼルワールドのスイスしか知らない人は一寸気の毒である。夏の晴れた一日、はるか彼方に秀峰モンブランが白く輝いて見える日、レマン湖畔の町を結ぶ連絡船に行くあてもなく乗ってみる楽しみは味わえない。湖岸を走るシンプソン・トンネルを抜けてミラノへ行く列車に乗って見るのも楽しい。ニヨン、ロル、といった小さな町を通り、ローザンヌに至る。そこを過ぎると前方はるか頭上に、のこぎりのようなダン・デュ・ミディ連峰が見えてくる。前面にはションの城が浮かんでいる。そこからの列車はローヌ河渓谷に入り、マッターホルンへ乗換駅ブリークを通る。このあたりに源流のあるローヌ河は、川幅が極端にふくれた形のレマン湖となり、ジュネーブからまた細くなり、フランス領に入り、リヨンを経て南下し、地中海に、まるで細い静脈で出来たカマルグの沼沢となって流れ込む。世界で最も美しい流域を持つ河である。 千八百年、イタリア遠征のナポレオン軍の若き竜騎兵として従軍した作家スタンダールは、その時レマン湖畔での行軍中の印象をこう往年追想している。 ロルだったニヨンだったか確かではないが、突然丘の上の教会から、高く響く鐘の音が聞こえてきた。そこで丘に登ってみた。美しい湖面が、眼下に広がっていた。鐘の音は、感動する心を恍惚とさせる伴奏となり、気高いものにしてくれた。完全な幸福に一番近づいたという陶酔感があった。このような時の為に生きてきた値打ちがあるのだ。(アンリ・ブリュ・ラールの生涯) 今でも教会の鐘の音を聞くと幸せになる人は多いだろう。鐘はクロッカとイタリア語で言い、クロックの語源でもある。私の家のすぐ近くに、聖心女子学院というカトリックの学校がある。朝になると、お祈りの時間なのか、ヨーロッパの鐘の音が聞こえてくる。イタリアの古い街を歩いていた想い出がよみがえったりして和やかな気分になる。 ジュネーブは山紫水明、美しい町だが、国際機関が沢山あり、外国人が多い。ロシアはじめ、いろんな国の革命家のアジトでもあった。フランス大革命の理論的支柱となった、ルソーやヴォルテールもこの町と関係が深い。ルソーは時計職人見習いだったし、ヴォルテールなんぞは時計工場も経営していた。しかし、現在は湖畔に並ぶ多くの超豪華ホテルを見ていると、おカネのにおいがプンプンする。丘の上の旧市街も、観光の為近年すっかり整備されて、裏町というのがなくなってしまった。裏町や横丁の行き止まりのない町は面白くない。 ロレックスが本社を今の広々とした場所に移転する前は、市中の市電が通る繁華街の通りから、ほんの一歩上がったところに工場兼本社があった。ビェンヌにある、建ったばかりのオメガの工場の後で訪問したものだから、つぎはぎの迷路みたいな、何と古びた会社だという印象が強かった。何しろ半世紀以上昔の話である。日本の代理店は、リーベルマン社で、丁寧な紹介状を書いてくれていたせいか、晩年には気難しい帝王の観があった、アンドレ・ハイニガーさんが、愛想よく工場を案内してくれた。美しい美術館のような新工場に移ってからも、毎年一度ぐらいは、ジュネーブに行き、ホテルから電話すると、今日手がすいているから遊びに来いと応答してくれて、昼飯をよくご馳走してくれた。下手な冗談が好きで温かい人柄だった。年と共にかたくなな面が出たが、基本的には、信頼のおける人柄は変わらなかった。 ジュネーブのロレックス工場の見学は、何度もしたが機械油と金属が削れる匂いが一切しなかった。だいぶ後になって分かったことだが、ムーブメント製造に関する、そういった工程は、ビエンヌにある別の工場でやっているらしいという事が解ってきた。そのロレックス・ビエンヌは、ジュネーブのロレックスが二○〇四年に買収するまでは、まったくの別会社で、それまではお互いに独立しながらも協調的な経営を続けていた。本体のロレックスより、ジャン・エグレールという人が一八七八年に創業したこっちの会社の方が古い。元々はドイツ人だったロレックスの創業者ㇵンス・ウィルドルフは、時計の商売の修行をラ・ショード・フォンの時計屋でして、ロンドンの支店長となり、商才に長けていたので一九〇五年にロンドンで独立している。ロレックスの名を使い始めたのは一九二〇年である。その頃から、機械はエグレール社(後に改名してロレックス・ビエンヌ社)で、デザイン、ケーシングやマーケッティングはロレックス社と分担している。このエグレール社との協力がなければ今のロレックスはなかったであろう。 FH誌の第十一号(六月二十九日刊)には、ジャン・エグレールの孫で、ロレックス・ビエンヌの社長を一九六一年から四十年と務めたハリー・ボレール氏の追悼記事が掲載されている。享年八十五歳。法学及び経済学博士で学究肌の温厚篤実な人柄だったらしく、人前に出ることをあまり好まなかった。写真を見ても実に優しい好好爺という風情がある。ビエンヌの街を愛して、新工場もビエンヌにあることを固執したという。スウォッチのニコラス・ハイエックに次いで四人目の名誉市民に推挙されている。その時の言葉として「どうして私のようなものがそんな名誉に値するのか。仕事を一生県命しただけ。普通の人と同じなのに」。FH会長のパッシェさんも、その人柄に一目置いていて、ビエンヌの時計産業ひいては、スイス時計産業にとって最重要人物だったが、お話ができるのも楽しみだったと追想している。ブランドを持って販売する会社と、専業下請け工場の関係は微妙である。往々にして衝突が起こる。ロレックスの名声を創り上げたのに、エグレールとH・ウィルスドルフ、続いてH・ボレールとA・ハイニガーの協調が大いに貢献してきたに違いない。またジュネーブはフランス語圏、ビエンヌは独仏語圏。片や古い高級時計のイメージ、片や新興時計産業の中心地、この二つのイメージをロレックスがうまく融合してきたともいえる。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
ムーブメント製造業の悩み もう憶えてられる人も少ないだろうが、時計経済史の権威だった山口隆二という方がいた。一橋大の先生だった頃に岩波新書で出版された「時計」は、六十年後の今読んでも名著といえる。この先生から時計全般に渉って手ほどきを受けたのだが、当時からすでにセイコーを始め日本の時計が旭の昇る勢いにあった。高い関税障壁で国内産業は保護されていた上に、ドルが三百六〇円の時代であった。スイス時計は高値で、一般人には高嶺の花であった。先生は毎年、二、三ヶ月、大学退官後はスイスに時計産業を研究の為に滞在されていた。その時に収集された膨大な資料・文献は全部セイコーミュージアムに寄贈されている。日本にいる私達は日本の時計が安くて優秀だから、外国でも売れていると信じて疑わなかった。又関税のおかげで、日本のメーカーは国内で高く売り、海外へは安く輸出していたが、消費者は国益のためだと容認していた。今のトランプ大統領なら激怒するところだろう。全ての産業が保護主義の元で成長したといえる。クオーツ時計が出現するはるか以前の話である。 ところが、山口先生は、日本のメーカーはコスト・ダウンが下手だからスイスのピンレバーもの(ロスコップ)には勝てんよと、よく言っていて、不思議に思えてならなかった。日本は世界に冠たる能率向上王国だと思っていたからである。それが実現されるのは、スイスと同じ出発点から同時にスタートしたクオーツの時代に入ってからであった。同時にスイスのロスコップのメーカーは全部姿を消す破目となった。なかには先を読むに敏な男がいた。ロスコップの大手だったウィリー・シュナイダーは、本式の機械時計を製造していたブライトリングが売りにでていたのを、買い取った。(一九七九年)ブライトリングの旧オーナーはクオーツの進出に一種のパニック状態に陥ったためといわれている。シュナイダーの手にわたったのが、ブランドとしてのブライトリングにとって幸いとなった。本人は電機技師であり、パイロットでもあった。それが現在の大発展につながっている。そのブライトリングが今年のバーゼルで、ロレックス系のチユードルとムーヴの相互交換を公表している。世の中何が起るやら解らない。 日本のメーカーは、時計だけではなく、大量に作ることによって安価・高品質を作るという手法で発展して来た。発売時 は高価だったクオーツも、今やセイコーでもシチズンでも年間一億個の生産能力が十分ある。仮に一ケ百円として一年で百億円の売上げとなる。かってフランスのセイコーで働いていたリシャール・ミルが創始した時計は、一ケ一千万円である。年間に三千個ぐらい作っているようだが、工場出し裸値にすると百億円と推定される。もう少し多いかもしれないが、三千個を売るのと、一億個売るのとどちらが効率的か。市場が空腹なら一億個売るのには苦労しないだろう。一個、一千万円の時計に空腹な市場はない。創造しなくてはならない。それには、富裕階層に対する高度にソフイスケートされたマーケッティングが必要とされる。日本の経営者は、技術や設備に巨額を投資することは、それ程いとはない。しかし、マーケッティングのような実体のない宙に消えてしまうような、結果が必ずしも約束されているのでもないことに、お金を使うことは慣れてない。経営者のヴィジョンと勇気によりかかった行為でもある。工場設備があるから、沢山作らねばならない、一方、単価の高いものを売れば、利益も上るし、数も少なくてすむから、手間はかからない。今の日本の時計産業は二兎を追わざるを得ない矛盾をかかえている。今後はこの問題をどう解決するかが、時計だけではなく全ての製造業の議題といっていい。 こんな感想をもったのも、FH誌の第九号(七月一日刊)にのったムーヴメント・メーカーのセリタ社の新聞記事を読んだからだ。 スウオッチグループのETA社は、セリタ社同様、ムーヴの一貫生産をしてきた。景気の良い年が続いたので、競合相手に塩を送るのは止めた、グループ内のブランド以外には供給しないと宣言していたが、今年あたりから不況になって方向を転換したようで、バーゼルにも出店したという。これまで、ETAの動向に右往左往させられた、供給先のブランドこそ良い面の皮だろう。 セリタ社というのは、そういったETAの動向で急激に成長した独立系企業である。現在の社長はミゲル・ガルシャというスペイン人で、始め求人広告の発送係として入社し、才能を発揮して地位を登りつめ、ついには、オーナーから会社を譲り受けたという破格の人間らしい。今年五十才。 業績は三年前まで絶好調であった。自社一貫生産ムーヴ百万ケ、スウオッチ部品組立ムーヴ五十万ケを年間で生産していた。ところが一昨年から注文が減り始め、今年は半分になるという。ドイツ及びスイス二工場、工員五百人の一割を減らして対応している。主として安い初歩の機械ムーヴを生産している。外国のコピー業者に売っている噂があるが、九割がスイス国内向けと、社長は否定している。昨年の秋、ETAへの発注量を九五%減らしたといって、苦情が来たが、売れないのだから仕方がないと、動じなかった。景気の良かった一昨年、本社工場の隣の大きなビルを買い取ったが、今はそのままである。どうするのかと記者に尋ねられて、平地にして二年後には四千平米の新工場を建設する計画と強気である。受注量は増えると信じているが、当面は最善のムーヴを最善の価格で最善のサービスで供給することしかないとカッコ良い。やっぱりスペインの血か。そして弁が立つ。ガルシヤ氏の言葉をそのまま引用してみる。 現在のような危機の時代では、時計の針を正時にもどさざるを得ない。多くの有名ブランドが、巨額な設備投資をより高く売るために、中三針カレンダー付きのような簡単なムーヴメントを自社内で生産するべきか、疑問を抱くようになって来た。マニュファクチュール信仰から少しずつ離れて行くだろう。あんまり全てがうまく行きすぎると必ず落とし穴がある。スイス時計産業は何よりも量産の上に成り立っている。小さな多くの下請け業者を支えているは量産だ。値が安くなるのもそうだ。高級ブランドが、なんでもかんでも、自社のアトリエでしこしこ作り始めたら、下請けは窒息して息絶える。それはブランドにとっても決して良いことではない。 この言葉に拍手する向きも多いだろう、セリタ社が息絶えることのないように願ってやまない。果して社業の回復や如何に。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
「中国内のニセモノ事情」 今でも、道頓堀や心斎橋は中国旅行者で満ちている。賄路厳禁やら高関税で、高級品を買う中国人は少なくなったけど、クスリ屋さんや日常品を扱う店は相変わらず黒山の人だかりである。今年のFH誌第八号(四月十八日刊)には、何故中国人が国内で買わない原因を示唆する新聞のルポルタージュ記事がのっている。かいつまんで紹介する。 広州の時計市場は、小さな町ぐらいある。ピンクと青に塗られた七つの商業ビルをくねくねした通りが結んでいる。インド人を中心にロシア、アフリカ、中東から毎日何百人のバイヤーが訪れてくる。中国一というよりは世界一といってもよいコピ—時計センターである。三千人以上の売手が、集まって、ロレックス、フランク・ミュラー等々の時計が小さな店頭にびっしり並べている。売り子は機械の優秀なこと、出来の良さを声高に訴えかける。スイス製のモデルは何でもある。よりどりみどり。国全体がコピ—王国で、FHの調べによるとスイス時計の年産二千五百万個に対してコピ—は年三千万個以上売られている。スイスに入ってくるコピ—の八十四%が中国ないしは香港発である。コピ—は時計だけではない。その額は増える一方である。中国経済発展の度合いは、皮肉にもコピ—作り発展に比例している。先進国はかって、人件費の安い、台湾、韓国、中国と順番に生産拠点を移して来た。そこで現地の人々もコピ—する技術を学んで行った。先進国の工場が撤退後も、人々は許可なく同じ製品を作り続けた。 広州時計市場の店頭にあるのは殆んどが、雑な作りで売価は二千円から一万円止まりである。時々、売場には静寂の時間が訪れる。全店が一斉に商品の上に白布を掛ける。パトカーが回っているという情報のせいだ。しかし又、元の喧騒が戻ってくる。安全とみると、売り子は、客の様子をみて、もっと良いものがあるが、見たいかいと切り出す。ならついておいでよ、と女性の売子が、あいまいな笑いを浮かべて、歩み出る。後に従うと、エレベーターの前にとまった。肩越しに視線を投じて、つけられてないか確めて、そのビルの七階に上る。前には鉄製の扉がある。電子キーの番号を押すと、隠しドアが開き、ガランとした部屋に案内される。さらに奥に扉があって、又キーを押す。開けゴマ。小さな部屋に続いていて、すごい時計が並べてある。ウブロのビックバン、ジャガールクルトのレヴェルソ、オメガのシーマスター等々人気高価モデルの数々。みんなオートマで本物と区別がつかんとルーペで調べていた同行のインド人が呟く。本物が四十万〜二千五百万円するのに、こちらは三万〜三十万円の間。実物をチェックした香港の専門家は九十%本物に近いという。 中国での最初のコピ—はプラスチックの玩具、Tシャツ、人口皮バックだった。時代と共にコピ—も進化する。今となると、中国の工場では何でもコピ—が作れる。時計、化粧品、粉ミルク、電子機器、自動車部品、薬品に至るまで。品質も高くなった。薬など効能も似てるものまである。昔は外箱を見ただけで解った、錠剤は砂糖を固めただけだった。今は効き目のある原料を調達してくるとノヴァルティス製薬会社の人はいきどおる。 中国の経済は依然に比べ、格段に洗練されて来ており、大卒の中国人は、スマホの最新モデルをすぐコピ—できるように、原料を安く買い、新しい機械を使って製薬する技術を習得している。さらに以前は、店頭で販売せねばならなかった為、発覚する危険は大であった。今は、捜査し難いネット流通が使えるから、コピ—は跋扈する一方と人々はみている。 当然だが、名がしられ、品質が信頼されているブランドが狙われる。ロレックス、薬のロッシュ、ノヴァルティス、重工業のABBと、スイス製のターゲットにこと欠かない。みんながニセのロレックスを腕につけているとなると、イメージが傷つくこと甚だしい。笑い話ではなくなる。ブランドは、持つ人の感情やら思い入れと深く結びついている。コピ—はその関係を破壊すると、FHのミッシェル・アルヌーはいう。 中国人がコピー全盛時代を謳歌しているかもしれないが、スイス側も全力を挙げて戦っている。スイスには、アンチ・コピー活動の団体STU(SELECTIVE TRADEMARK UNI ON(ユニオン)優良商標連合)があって、FHも入っている。中国全土に、百三十人の捜査員を活動していて、コピ—の摘発に連日努力している。昨年一年だけで、七七三一回出動し、四百万個の時計、万年筆、サングラス、バッグを捕捉している。 現状ではコピ—は八十%ネットで販売されている。コピ—と判っても製造場所を突き止めるのが大仕事だ。先ず注文して不良品だとクレームをつける。教えてくれる返送先は局止めか私書箱だ。そこで、こっそりGPS装置を入れておくと、製造場所が判る。だが、現場に行っても、工場には外壁が張りめぐらされている。入場者検査は厳しい。アラブ石油成金の大量発注者に変装して、社員と称して弁護士も同行してもらう。コカコ—ラのびんに小型カメラを仕込んで、こっそり証拠写真をとる。又は捜査員を従業員として送り込み証拠固めをする。それができて、やっと中国経済警察に告発が可能となる。そんなことをしても、もぐら叩きに似ているらしい。 コピ—完全追放はどうしても中国政府による本気の対応が必要不可欠である。なによりもまず、アリババやタウパウといったネット大手に法律の網をかける政治的決着が必要とされるだろう。 中国総合知的所有権保護センターという中国の会社があった。電機産業の大手であるABBは、製造しているスイッチ類のコピ—対策にこの会社を利用していた。そして見事にコピ—の全面追放に成功した。ところが、ABBの唖然としたことに、この会社そのものが、コピ—を製造し始めた。勿論、事前に渡された青写真や全情報を利用した上の裏切りである。当然、ABBは二〇一五年に、法廷闘争に持ち込んだが、判決は無罪であった。 この記事を書いたリポーターのクレマン・ビュルゲが,中国政府の対応に多少の危惧を感じているのは、この事実を知ったせいかも知れない。彼はABB本社に、反応を確かめようとしたが、ノー・コメントと撥ねつけられている。中国で、他にも大きな事業展開をしているABBと中国政府の間で何らかの秘密の協約でもあったかと、疑っているかも知れない。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
銀座シックスの盛況を聞いて だいぶ昔だが、歌手というより晩年には俳優となったイヴ・モンタンがビアホール(フランスではブラスリーという)のボーイ長の役を演じた「ギャルソン」という映画があった。元々少年一般を意味するギャルソンは、カフェなどのボーイのことである。以前は注文するのに客は「ギャルソン!」と大声で呼んだ。そのうちに差別用語性を帯びてきたので、今では「ムシュー!」と声をかけるようになった。働き者のギャルソンのモンタンが定年で職場を去ることになり、超一流のレストラン「ラセール」で、仲間が送別会を開いてくれる。このレストランは今でもシャンゼリゼにあって繁盛している。会食の終わりに、モンタンが、やっぱり一流の店は味もサービスも我々とは違うと、しみじみ語るシーンが印象に残っている。高級レストランの給仕頭は、メートル・ドテル(ホテルの主人)といって威張っている。料理を作るシェフと客あしらいをするメートル・ドテルの資質が一級のレストランを成り立たせる車の両輪とされている。これは普通の製品と高級ブランドの製品の差とも比較できる。ただ食べもの屋で一生勤め上げたモンタンですらそうであったように、普通のフランス人は三ツ星レストランにはほとんど私生活では行かない。一生行ったことがない人が多いだろう。あれは外国人観光客が、金持ちが行くところと思い込んでいる。そこには分相応か不相応かという斟酌が働いているのだろう。 パリに留学する日本人学生は、大抵アリアンス・フランセーズという半国営の外国人に初歩のフランス語の読み書きも教える学校へ通うことになる。日本の大学でフランス語を学習したつもりでも、パリの大学の講義へいきなり出席しても、最初は歯が立たない。何を言ってるのかさっぱり聞き取れない。耳が慣れるまで聞く努力をある期間する必要がある。普通六カ月はかかるだろう。私の場合もこの学校に行かざるを得なかった。もう五十年も前の大昔のことだが、マダム・コーラーという名物オバさん教授がいた。言葉を教えるのもユーモアたっぷりで(フランス語ではエスプリ・機智といってユーモアに辛子がたっぷり入っている)上手だったが、フランスの風俗・習慣といった文化の領域についても教わることが多かった。ある時、エルメスの話になってスカーフやバッグは素晴らしい、あのお店で買い物をするのは、私たちの夢。普通の人はなかなか行けにのよ。と普段は皮肉たっぷりの様子が一変して特別な敬意を表したことを懐かしく思い出す。それがバブルの時代の到来とともに、エルメスのフォーブール、サントノーレ街の本店の店頭に、日本人のおじさんやおばさん、お嬢さん方が溢れるようになった。そして今はアジアの人達である。 以前は、エルメスのような高級ブランド店は、財布の中を気にせずに買える余裕のある一部の階級を顧客にして成り立っていた。五十年前のパリの百貨店には高級ブランドはほとんどおいてなく、その点では日本の百貨店の方が先を行っていた。一般人は高級ブランドについて無知だったし、無関心でもあった。そのうちに情報化が進み高級ブランドの存在が一般人の間にも知られるようになった。そしておずおずとブランドピラミッドの底辺にあるネクタイとかTシャツ、革小物などに手を出し始めた。持つことによって人目を惹くことが判り、贈ることによって、より深く、強く感謝されることを認識した。価値の共有化とも、民主主義化と言っていい。モノの価値そのものより、そこに刻まれた記号の重要性が拡大されてくる。ブランド側も、顧客層の拡大つまり民主化がそれがもたらす単価の低下を考慮しても採算が取れる(特にグローバル化によって)ことが解り、いかにして記号の価値を高めるかに全力を傾注するようになった。高級ブランドのマーケッティングは偏に、ここに重点がおかれている。知る人ぞ知る名を知らない人でも知るようにしなければならない効果が上がるようになった。現代は、モノではなく記号を消費する時代と言っていい。 高級ブランドでは概ね実用性に不必要な品目を取り扱っている。全く同じ目的を持つ同品質の商品は必ずはるかに安価なものがほかに存在する。高品質だから高価になるというのは一種の神話である。人は記号にお金を払っているのだが、人間は必ずしも合理的に行動するとは限らない。満足度は計数化することはできない。 昔、浅草に住む人はめったに銀座になんか出なかったという。山の手と下町では、人の心情が全く違っていた。つまり人々は自分の領域にこだわって生きていたから、世間の広さを知らなくても自分の生き方と調和しない消費はしなかった。突然、近くで高価な買い物をした人を見ると、一夜成金、成り上がりとうさん臭く思った。ひと時流行した一点豪華主義という言葉にも、軽蔑感がにじみ出ていた。日常の買い物をはじめとして消費生活の様式でも分相応という考え方が強かった。あのお金持ちの渋谷栄一も、物事を判断し決断する時に、社会の役に立つかを考えると同時に分相応かどうかを自問しろと言っている。ところが今やそのタガは全く外れてしまった。金はあるんだ、ロールス・ロイスに乗ってどこが悪いと思う人ばかりになった。高いお寿司屋さんで、常連の中高年のおじさんが一杯飲んでいて、そこに青年が入ってくる。青年はいろいろうんちくを言って注文する。そのうち酔ったおじさんは、「おい若者よ。利いた風な口を利くものじゃない。ここは君のような分際の若造が来る店ではない」と怒鳴りたくなるのを必死に抑えている。そんな光景が心に浮かぶ。 こう言った風潮は高級ブランドにとって間違いなく強い追い風になっている。しかし、若者たちのブランド志向は考え方を変えてみると異なる様相を呈してくる。社会現象として見るのではなく、民俗学的にみると、ブランド品とは、神社でもらう護符のような呪術的な意味合いを持つようになっているのではないだろうか。持っていると心の支えになり、身を守ってくれるお守りと言えるかもしれない。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
小人と巨人 自分が会社経営に専念していた時には、あまり周りを見回す余裕がなくて、しかも経営学を学んだこともなく、唯我独占のやり方だったせいか、経営全般についてわかってなかったことが多い。現業から離れてみると、見えてくるものがある。その一つに経営者は、自分の世代を超えることが出来ないという冷酷な事実である。平たく言うと、年を取るにつれ、人は少しづつ世の中の流れについて行けなくなって、次の世代、更に次の世代が何を考えているか、感覚的にとらえることが出来なくなる。かっては偉大であった創業経営者が、長らく最高責任者の地位にありすぎたためだけによる経営の破たんを私たちは日常的に見聞する。往々にして、成功者は、昔の戦術や方策に固執する。以前には斬新で輝かしい戦果をもたらした方法が一世代も経つと研究され真似され陳腐となる。時代の要請とも微妙に合わなくなる。老齢となった経営者は、窮地に陥れば陥るほど、昔の自分の成功例を再び採用しようとする。今の政府もそうであって、オリンピック招致や大阪万博の開催も一種のアナクロリズム(時代錯誤)である。日本が十分に繁栄していれば、オリンピックも万博も不必要である。繁栄には戦争だと言い出すよりマシかも知れない。 新しい着想は必ず人口層の中心である世代から出てくる。何が多くの人の心を動かすか、直感的に理解しているからである。日本は世界に冠たる老人国になっているから、老人を対象とする産業では、若めの老人の中には、新しい発想をする人も出るだろう。しかし、それは別の話である。 仕事柄、今でも時計小売組合といった会合にたまに出ることがある。今の時計小売業の主力は、大都市の百貨店、電気製品の大ディスカウンター、中都市にあって、有名ブランドを幸いに占有化することが出来た小売店、それにブランドが東京、大阪の一等地で展開する直営店、それに多くの店舗をショッピングセンターに持ち、売り上げを店舗の数で確保するチェーン・ストアーである。売り上げ単価は低い。昔は日本全国の町々に時計屋さんはあった。大抵町の商店会の中心人物であった。小売店組合は、そういう人たちが主となっているが、疎外感が強い。私ごとになるが、私の会社もそういったお店のおかげで発展することが出来た。しかし、若い店主が会合に主席することはほとんどない。会合は老人ばかり。ナポレオン旗下の将兵達の同窓会に似ている。親分が没落したのに、過去の栄光が忘れなれない。次の世代に賭けようとする意欲に欠けている。 いま小売店で一番大切なのは、何が売れるかを探すより、何を売ろうかと考える主体者の意志である。店頭に置けば自動的に売れるような商品は、いずれ大量販売店がかっさらっていくか、メーカーの直営に近い形態をとるに違いない。こんな自明な事柄から目をそらし、まだ置けば売れる商品を夢見てる。 すべての商品が有り余っている日本で は、製造者から最終購買者まで一本の線で繋げようとするのが、マーケティングの原理である。この線が短ければ短いに越したことはない。通販やネット販売が盛んなのがこれを証明している。理想的に言えば、二百年以上も昔のスイスのように、自前で時計を作り、自分で売れば一番いい。ここまで極端でなくても、既成のビッグブランドに頼ることなく、これなら売ってみたい、世の中に愛用者を広げたい、しかもあくまで主体性を確保しながらという時計店経営者が出てくることを期待したい。 「FH誌」の今年の第三号にお伽話のような時計工房の記事が出ていた。この工房は、フランスの国境に近い山中にある。昔から夏は農作、冬は時計作りという地域で、小さな時計関連業者が今でも点在している。経営者の名前は、ジャッキー・エピトー。社員は三名、あとは下請け。ブランド名は「ルーディス・シルヴィア」で、工房のある村の昔の呼称。エピトーは、十二年前自前の資金として十万フランを用意して創業した。ブレゲのトゥールビョンに思いを馳せ、脱進器の二つある特殊なムーブメントを作り、二〇〇九年バーゼルに出展。確かな手ごたえを得て翌年商品化。といっても昨年製品にした総数は、十数個で僅か。ただ単価は二十五万フラン前後というのは驚きで、しかも完売した。フェラーリ一台の値段だが、購入者は世界中の金持ちや蒐集家が主として個人的コネで買ってくれるらしい。しかも発売以来赤字になったことがないという夢のような話。今後年に五個ぐらいは増産を続け、百個以上は作らないと考えているそうだ。ちなみに最高価値時計として今人気のリシャール・ミルの年間推定生産量は三千二百個である。これまで一月にジュネーブで開催される高級時計サロン(SIHH)の時期に合わせ、小判鮫的な展示場をジュネーブに持っていたが、今年からは止めたそうである。私たちには考えられない時計工房があるもので、うれしくなる。そういえば、いつかスコットランドのピットコロリという夏目漱石も遊びに行った村で、社員二人のモルトウィスキー工場を訪れたことがあった。「エルダワー」という銘柄で日本でも有名なバァーには大抵置いてある。 こんな小さな工房とは対照的な巨大企業がスウオッチ・グループである。同じ号のFH誌に昨年度の業績が詳しく載っている。スイス時計産業全体の三分の一を占める売り上げを計上しているから、全体の傾向が推し量れると思うので簡単に紹介する。 総売り上げ七十五億五千三百万フラン(約九千億円弱)。前年比十・六%減、うち時計・宝飾部門七十三億五百万フラン、前年比十・七%減。経常利益八億五百万フラン、利益率十・七%、前年比四十四・五%減。純益五億九千三百万フラン、純利益率七・九%、前年比四十七%減。減収減益ではあるが立派な成績である。一方、ブルガリ、タグ・ホイヤー、ショーメ、ウブロを擁するルイ・ヴュトンの時計宝飾グループが五%の売り上げ増を発表しているので、悔しい思いをしているだろう。 ただスウオッチ・グループには、モード的な要素もあるが、先端技術と積局的に取り組み、新鋭工場にも多くの投資をしている。中国やブラジルでは、VISAと組んで支払いの出来るスウオッチを発売している。そのうちに日本でも時計をかざせば、車のドアが開き、エンジンもかけられ、改札口も通過でき、自宅のドアの鍵の開閉もできるそんな時代は目前である。スウオッチがその先駆者となるかもしれない。(栄光ホールディングス会長 小谷年司) |
|
|||
「価値の転換」 FH誌の今年の第二号(二月九日刊)には、昨年のスイス時計全体の輸出実績が載っている。二〇一六年の輸出総額は前年比十%減で、二〇一一年の実績に逆戻りしている。原因はスイスフラン高、ヨーロッパを訪れる観光客の減少、中国政府が取った政策(賄賂の禁止と持ち帰り品課税)の三つにある。しかし、やや下げ止まりの傾向が見えてきた。今年は回復するやも、というのがFH誌の編集長の見方である。果たして如何に推移するだろうか。具体的な数字を文末に掲げておく。 さて、近年大型客船に乗って、各地を巡るクルーズが人気ということである。地中海やカリブ海を巡る生涯に一度の夢をはたす類のものばかりでなく、日本周辺を巡るクルーズでも、高価なのに参加者は多いらしい。 もともと客船は人をある場所から遠くへ運ぶ、最善の手段であった。明治・大正の頃は、外国へ行くには船を利用せざるを得なかった。初期の留学生だった鴎外や漱石も西回りで、ヨーロッパに行き、記録を残している。船がいろいろと寄港地によるのは、乗降客のためと、必需品を補給するためで、乗客を見物させるためではなかった。時間があるので、乗客サービスのために、一時的に上陸させたに過ぎない。そのうちに、船会社の方も競争するようになって、長旅を退屈させまいと、いろんな手を編み出すようになる。寄港地でのツアーもその一つであろうし、船内を豪華にして船中でのアトラクションなども考えつく。その頂点が一九一二年に氷山に衝突して沈没したタイタニック号であろう。東洋と欧州を結ぶ航路は、ビジネス客が主だったから、豪華客船は少なかったが、欧州と米国を結ぶ大西洋航路の方が、より華やかであった。それでも、船にだけ乗って往復する客は皆無だっただろう。 第二次大戦後、航空機の急速な発展によって、人々は早くて便利な空の旅を利用するようになった。船はモノを運送する手段であって、人の移動は飛行機に限るのが当然となった。ビジネスは時間との勝負である。遊びに出かける人も時間は少ない。ところが目的地に行くためでなく、船に乗ってあちこち見物し、船上での娯楽や社交、閑暇を楽しみながら、もとの場所に戻ってくるクルーズが脚光を浴びるようになった。手段が目的となる。これを価値の転換という。 汽車旅行の転換の始まりは、主としてパリとイスタンブール間を一八八三年に運行し始めたオリエント・エクスプレスだろう。客車はよく映画に出てくるのでブルーに金の美しい車体に見覚えのある人は多いだろう。有名人で優雅で裕福な人たちの専用車ということで、これに乗れば、金持ちのクラブに入会した気分を味わう優越感を与えるマーケティングで大成功した。今となっては、飛行機なら二時間で行けるところを、何故二日も三日もかけて飛行機代の何倍もの費用を払っていくのか解らない。現在でも運行しているようだが、詳しくはグーグルで調べてください。但し、テッチャンと仇名される人々がいて、鉄道時刻表に載っている路線には全部乗ったという豪の者が時々いるから、合理性で判断できない。全国の飛行場を結ぶ空路は全部飛んだという航空マニアには会ったことがない。鉄道は別物らしい。 日本でも最近二泊三日で百万円を超すような豪華列車が出現し、予約を取るのが難しいとか。目的地に行くため、快適さを買ってファーストクラスを利用するのは理解できる。しかし、単なる物見遊山に、あらかじめ決められたコースと供応を受けるため、いくら豪華な車内とはいえ、巨額を惜しまない神経はよく解らない。もう少しマシなお金の使い方があるだろうと思うのは貧乏人のひがみ根性で他人の口出しすることではないのだが、話のタネに値段次第では、乗ってみたい気が動かぬでもない。ここにも価値の転換がある。 時計とは時間を正確に計測する機器である。百年ぐらい前から、日常的に使用され始めた腕時計に限って言えば、技術的に言って防水性のある堅牢なケース、クォーツ、太陽電池、電波制御を備えておれば、腕時計に与えられた条件は全て満たすといってよい。デザインは問わない。個人の好みが左右する。一万円で手に入る。 しかるに何故はるかに高価で精度ではクォーツと電波制御に劣る機械時計でスイス業界がこの十年来繁栄してきたのか。それは時計の価値の転換が、クォーツ時計の氾濫と共に人の心に形成されたためだろう。物理的な性質を時計に求めるのではなく、もっと感情感覚に訴える要素を求める層が存在していた。それに沿ったマーケティングを各社が意識的に形成してきたためであった。それが今、また曲がり角にきていることを以下の図表は示していないだろうか。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
香港私記 父は晩年になって、私達三人息子に何か頼みごとをする時、「親孝行したい時は親はなし」とよく言った。ごく最近評判になったアニメ映画「世界の片隅に」をみた。先の戦争が始まる頃に、広島から呉へと両親と仲人が決めた、親子同居の家庭へ嫁いで行った、年若い娘の物語だった。実家も嫁ぎ先も、当時ではごく普通の庶民の家。新妻が夫の両親に向って最初の挨拶が、これから長く親孝行をさして頂きますのでよろしくであった。今時のお嫁さんは、決して言わないだろうと思い、少し感動した。親孝行という言葉自体が昔の重さを失っている。 又、一方実の子供でも平気で虐待する現在の風潮にも思いが至った。親孝行をする子は、決してそんな親にはならないだろう。ただ子供を可愛がるにも潮時がある。大きくなりすぎて時すでに遅しということもある。 子供が小さい頃は、仕事もあったし、それにかこつけたこともあって、出張、東京勤務に明け暮れていた。スイス出張で、保養地の高級ホテルに泊ったことがあった。食堂の隣席で、いかにもブルジョワらしい家族が、食事をしていた。十二、三才の男の子を頭に三人の子連れである。常に家族で旅をしているらしい様子が、きこえてくる会話から察することができた。躾けがよく行き届いていて、両親も優しさのうちに威厳も保っている。子供を連れて、親のレベルで旅をするのは、面倒であるし、費用もかかる。世界をみせるには、これ以上の幼年教育はない。金銭の余裕があれば、これが親の義務かなとつくづく感心した。家族を経済的、精神的に束ねるところから、親孝行の観念が根付くのだろう。 いつかそんな親になりたいと、思っているうちに、三人の子供達は成長してしまって、親と一緒に出歩くのは嫌がる年になってしまった。西欧社会、特に都市部では、親離れ、子離れの時期が早い。成人してから、両親の家で暮しているのは世間体が悪いと、子も感じるし、親もそう思う。小学校ぐらいから、子供を寄宿学校に入れてしまう家庭も少なくない。動物が、一人歩きできるまでは、子供の面倒をみるが、後はほうり出してしまうのによく似ている。獅子は子供を千尋の谷間へ突き落とすという。五十年前に学生としてフランスで暮した時、何度か一般家庭の夕食に招かれたことがある。子供に対する躾けは厳しくて、まさしく半人前の扱いだった。夕食中に、別室で寝ていた子供が、夢でうなされたのか、泣きながら出てきた。あやすのかと思ったら、母親がたち上がり、ピンタを加えて、寝てきなさいとしかりつけたのには、驚いた。一同もそれは当然と見守っていた。年端も行かない子供は訳が解らないからと、甘やかす日本と、犬と同じように小さい時に調教しなければならないという教育感の相違がでていた。 ある時、オランダの町で市電にのった時、小学校通いの子供達が、空席にすわりこんだ。車掌が出てきて、お前達はすわるんじゃないと、耳を引っぱって全員立たされていた。これは日本のお母さん達にみせたい光景であった。今はどうなってるだろうか。世界的な少子化傾向で、子供の値打ちが高まって、子供の扱いも甘くなっているような気がする。 さて、十年程前にクリスマスの季節に、香港へ遊びに行った。たまたまオペラハウスで、チャイコフスキーのバレー「くるみ割り人形」をみた。御存知の方も多いだろうが、これはクリスマス・イヴの大人達の晩餐会と、早く寝るように言われた招待主の息子と娘のみる夢の物語である。バレーは前夜に降り積もった雪が朝日にキラキラ輝いている目覚めで終る。音楽は甘く、踊りは美しい。世界中でクリスマス恒例の催しになっている。観客には子供連れが多い。あの子供達はきっといつまでもクリスマスとバレーを憶えているだろう。自分が決まった時期に決まったことを子供たちとすることが少なかったことを七十になって後悔した。以来、遅なきながら、かなりとうの立った娘をできるだけ同行して、クリスマスを香港で過ごすようになった。 昨年末は娘が仕事の都合で来れなかったけど、やっぱり遊びに行った。といっても何するわけでもない。バレーだって、日本で見ようと思えば見れないことはない。二百回近く若いころから香港に行っているけど、知らないところも沢山あるが、名所見物という気にはなれない。買い物にも興味はない。冬といっても温暖だから、街歩きは楽しい。全く買わない真のウインド・ショッピングも、世の中が分かって面白い。年に一度の定点観測だからどんなブランドに勢いがあるのか、どんな時計や宝石が売れているか、仕事の上でも、多少の老化防止にもなる。世界一のスイス時計の輸出市場である香港は、前年比で二割ぐらい低下していることは、店頭からでも感じることはできた。 一番のメインストリート、ネーザン路の裏側に、昔からある英書専門店「スウィンドン」書店がある。もう大阪には洋書屋さんが亡くなったので、必ずここに寄ってみる。いつものように沢山買い込んで郵送してもらったが、生きているうちに読めるかどうか。 クリスマスの香港の夜のイルミネーションは文句なく素晴らしい。まさしく光の洪水である。これを見るでもだけでも香港へ来る値打ちがある。バブル期に、銀座で鳴っていたジングルベルの響きが、心中に立ち戻ってくる。懐かしいあのクリスマスのバカ騒ぎ、浮かれ節。 もう一つ香港で欠かせないのは、船腹を緑に塗った渡し船、スターフェリーである。海底トンネルで地下鉄も車も走っているので、今や無用の長物化しているが、滞在中一度は乗って船中からの景観を楽しまなければ香港に来た気分になれない。何十年もの昔、まだトンネルのなかった時代、これが唯一の島と半島を結ぶ交通手段だった。夜遊びが過ぎると、終船が出た後は、島のホテルに戻れない。仕方なく、ワラワラといった個人の渡し船を探して、海峡を渡った遊治朗の気がチラッとよみがえる。 それに、今でも香港の最大の魅力は、料理だろう。昔の香港のグルメ達は舌が肥えていたので、行きつけの店でおいしいものを注文した自宅で使っている料理人に指示するみたいだった。同じ店に行っても連れて行ってくれる人で、どうしてこんなに味が変わるのかと考えたことが度々である。それがいつの間にか西洋風にうまい店とそうでない店に替わってしまった。ミシュランは確かに信頼に足るガイドである。しかし頼り過ぎても失望する。香港でおいしいものに出会うには、同じような味の趣向を持つ人に連れて行ってもらう事。あるいは、自分が今、食べたいものを店側に理解させて、相談して作ってもらうのが最善の方法というしかない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
スイス時計の一つの選択肢 スイスの時計産業の未来は、高価な富裕層を顧客とする時計を作って行くしかないと考えている人達がいる。カルチェがその代表的なメーカーだが、毎年一月に開催されるジュネーブサロンがその基本的な思考を反映している。彼らが作ったのが高級時計製造財団で、高級時計の存在価値を高めるために、いろんな努力を払っている。その一つに、毎年十一月に有識者を一堂に集めて、丸一日の公開フオーラムが八年間続いてきている。今年は十一月の九日にローザンヌで行われたことがFH誌第十九号(十一月二十二日刊)に大きな報告記事として紹介されている。 前半は、ヴェドリーヌ元フランス外相とか、アメリカやアラブ世界に通暁している高名な専門家や未来学者によって、今後の世界状況がどう変化するか、各人の意見が発表された。丁度、ロナルド・トランプ氏が大統領に選ばれた翌日で、要約の文章から見ても各講師がひどく動揺している様子が見られて面白い。言っていることは、ポピュリズムの台頭であるとか、保守主義の復活とか、体制保持への嫌悪とか、日本の新聞の論調とほとんど変わらない。 中に「二〇三八年の世界」という著書のあるヴィルジース・レソンという女性の学者は、こんな講演をしている。 可速的に変化しつつある現在の世界では、確かな事実は二つしかない。まず未来は、予測されるようには決して進展しない。次に未来は我々が今決断することによって形成される。様子を見ている時間はない。経済面から世界的傾向を分析すると、まず全体として資源が枯渇しつつある。生命の元である水資源、ココア豆も、建設の為の砂利も。乱獲によって、多くの魚が絶滅の危機にある。そして働き口すらも。私たちは大変な変動の中にあって、解決策を模索中だ。明瞭な対策の一つは、より少ない資源を使って、よりよく生きることだ。共生的な経済活動が重要となる。 もう一人、ヨーロッパで強い影響力を持つ百人にある雑誌で選出されたスイス人の未来学者、ジェルト・レオンハルトはこういう。 人口頭脳によって操作されるデーターベースは、新しい石油みたいなものだ。アップルとか、グーグルとかフェースブックに集まる膨大な資金を見れば、テクノロジーが世界を推し進めているのは一目瞭然である。テクノロジーの進歩は、全てをデジタル化して自動制御する時代に入っている。当然の結果として、オンライン化が必然となる。人工頭脳は人間の持つ、認識判断の力を持つようになる。日常的な業務は、どんな部分でも機械がするようになる。それはもはや、現在の延長上にある世界ではない。人間と機械が全く新しい関係を持つ世界である。人間が機械に牛耳られることは、決してないようにせねばならない。 余談だが、こういう議論を呼んでいると、老兵の私なんかは空恐ろしくなってくる。十年前ならそれは夢物語だろうで済んだ。しかし、今やすべてが現実になりつつある。私の新しい車は、ナビに話しかけ、行き先を告げると、声で案内してくれるシステムになっている。ナビが進化しているだけで車が特に高価ということはない。乗っていると、その他にもいろいろと忠告してくれるので、自動運転もさして遠い未来ではないのが理解されてくる。運転手という職業はなくなるだろう。あるいは、運転手を雇っているということが、別の意味を示すようになるかもしれない。丁度時計が正確な時間を示すという用途以外の意味を持つに至ったように。自動運転が普及すれば、それに合わせて通路も街の構造も変化するだろう。裏通りも路地も、袋小路もみんななくなるかもしれない。それまでは生きていないだろうが、そんなところで生活をしたくはない。今でも、大手不動産業者が開発した、全体がコンクリートと青と緑の中間色みたいなガラスとピカピカの大理石の大きなビルに行くと、これはどうやら私が居るところではないと思ってしまう。トイレを借りるには絶好な場所だけれど。 さてフォーラムの後半は、時計ブランドの経営者三人の登場となる。カルチェのCEOシリーユ・ヴィニュロン、APの副社長オリヴィエ・オーデマと機械のミニチュア模型か時計がよくわからない製品で知られるMB&F社のオーナー兼兼デザイナーのマキシミリアン・ビュッサー。 前半の有識者の抽象的な議論に比べて、実務を現実にこなしている経営者の話だから、ブランドの奥にある考え方が伝わってきて興味深い。 近年度の業績にやや暗雲の見られるカルチェのヴィニュロンはその悩みを隠さない。クラシックな音楽に現代性を持たすにはどうすればよいのか。ラップのリズムを持ち込むわけにはいかないだろう。カルチェの今の立場はクラッシック音楽みたいなものだ。高級ブランドとしては誰しも認めてくれ、人気の時計は以前から続いたモデルが多い。ブランドとしては、今の若者におもねるような戦略を取るべきではないが、若い世代の注目も引かねばならない。重要なのは世界中の販売拠点で、ここには手に触れる商品も、夢もある。ここからどう若い世代にアッピールするのか、方策はまだ未定である。特効薬の調製を検討中であるとのこと。 それに引きかえ、APの販売は順調らしい。この時計不況の時期にどうしてときかれるのだがねとオリヴィエ・オーデマは答える。これまでの決断が功を奏したようだ。販売を一本化したこと、製造個数に制約を加えたこと、中国市場に力点を置きすぎなかったこととの三つだ。十年前に我々は如何なる会社かと考えた。答えはこうだ。時間を告げるよりも、まず心に訴えかける、複雑な機械時計を作るメーカーだとね。 最後にマキシミリアン・ビュッサー。製品の最初の二文字MBは彼の頭文字。Fはもう一人の協力者。時計は、時間も知ることのできる機械の彫刻として、世界中に少ないけど、熱烈な愛好者がいる。ありきたりの製品ではなく、あくまで創造のオリジナリテイを出すために、出荷製品の量にも販売額にも自ら上限を決めている。マキシミリアンは言う。うちのスタッフには上の地位に上れるプランも作れないし、毎年給料を上げる訳にも行かない。しかし、デザイン的に多少は気狂いじみてるかも知れないが、時計作りの冒険に参画して、良い仕事をしたという誇りを与えることができる。それに、仕事場の環境も、快適ですばらしい。 これが、フォーラムの要約であるが、はたして高級時計の販売に実際役立がどうかは疑問である。日本のメーカーや協会にはできない内容のフォーラムであるので、あえてくわしく紹介した次第である。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「マーケッティング」 年のせいか、若者達の言葉遣いに引っかかることが多い。たとへば、コンビニで買物をする。一万円札を出してお釣りをもらうとしよう。レジの若い女性は、「一万円から頂きます」と言う。一万円から代金をもらいますの事だろうが、なんだかヘンな気がする。頂くのなら、一万円を、である。しかしこの言葉違いもそのうちに慣習化して、正しくなるのかも知れない。又食べ物を買う時に、この商品はいくらいくらですという。食べものは、私の世代にとって、商品という感覚は少ない。商品というのは、買い手にとって、何らかの代金を払って、その利用価値を得ることを意味している。現実に何らかの役に立つものを意味している。おみくじは買うとは言わない、商品ではないから。食べものにも、食べることが重要であった世代には、神聖性が存在した。商品とは、売り手と買い手の間に、利益という段差があるために、必ず対価性なるものが、求められる。これだけ払うのだから、相応の見返りが得られるのが商品である。食べものだって空腹で求めるのではなく、贈物として選ぶ時には商品となる。教育だって医療だって、宗教ですら、対価を求める時は商品となる。かくて、この世に存在するもの全てが、商品となってしまった。愛と幸福と健康は金で買えないというから、そんなことはないと主張する人々はとりあえずほっておいて、精神的な事柄にふれず、モノの世界で議論を進める。商品にはそれぞれ効用がある。商品購入の最大の動機は効用である。出来るだけ安価にその効用を一般に提供するというのが、かっての日本の産業人の最大の課題であった。水道の栓をひねると水が出るように電化製品が安価で手に入れば人々は幸せになるだろうと、松下幸之助は考えた。栓をヒネれば水はとまるが、生産は設備投資をするやとまらない。当初はいつでも水が飲めて幸せだった。栓のとめ方を忘れて家中洪水となった。生産過剰がすぐにやってくる。効用というものは、そんなに沢山必要ではない。そこで、さらに新しい効用を持つ新製品を作り出し、旧製品には引退してもらはねばならない。これが、工業生産物のサイクルで、最新のIT機器ですら同じである。新しいテクノロジーは、ユーザーを常に飢餓状態に追い込む。ビジネスの場合はより一層激しい。ライバルに負けまいという意識が働くからである。 ところが、個人の消費財の世界になると、ガラリと様子が変ってくる。電話は相手と通ずれば良い。TVはうつれば良い。冷暖房器はある程度利けばよい、冷蔵庫は冷えれば良い、時計は時間が合えば良い、といった商品の持つ基本的な効用で満足する人が多くなればどうなるか。幸か不幸か日本製は長持ちすること半永久的である。新しい製品は殆んど売れなくなる。もしも、日本人が昔の日本人のように勿体ないと言って、今所有しているものを壊れるまで買い換えないとなると、国民総生産指標は激減するに違いない。現在の一般人の購買欲求を支えているのは、商品の効用性ではなく、商品市場を提供する側のマーケティング操作である。 マーケティングの要諦は何か。消費財の場合、欲しがらせることに尽きる。どうすれば人がそれを欲しがるかの研究である。化粧品の場合は容易である。つけると美しくなると信じさせれば必ず売れる。使用前、使用後の映像が効果を発揮する。もしも広告通りに変化するなら、その化粧品は他社を圧倒するはずだが、なぜ現実はそうならないのか、いつも不思議に思う。 時計の場合のマーケティングは、他の製品と同様、まずブランドの認知度の拡大にある。しかし、多くのブランドは、ある程度知られているし、高価なTVや新聞雑誌メディアを多用することなく、もっとソフィスティケートされたPR手段を使う。 FH誌には、毎号「短信」という各ブランドのPR欄がある。最近の数号から例を拾ってみる。 タグ・ホイヤー。英国のサッカーチーム、マンチェスター・ユネイテッドと提携。ワールドカップで優勝したドイツチームのデフェンダー、ミュンヒェンのマツダ・フンメルをキャラクターに登用。 ロレックス。九月九日より三日間、英国南部のグッドウッド・リヴァイバル、クラシック・カーレースのスポンサー。初回以来12年連続。一九四○年から六十年製のスポーツカー競技。観衆のほとんどは当時の服装で。同じく九月、イタリア・サルデニアのエメラルド海岸で、地中海最大のヨットレース、マキシ・ヨット・ロレックス・カップ開催。 インターナショナル。チューリッヒ第十二回映画祭のスポンサー。IWC社長のジョルジュ・ケルンと女優のウマ・トゥルマンが最優秀映画監督、長編と短編の二人に、賞金十万フランを授与。 オメガ。九月初め、避暑地のクラン・モンタナの豪華でゴルフ場で開催される「オメガ・ヨーロッパ・マスターズ」を主催。優勝は、スウェーデン人のアレクサンドル・レノン。オメガのマスター・クロノメーターを会長のレイナルド・エシルマンが授与。 オーデマ・ピゲ。スイス人でAP社のキャラクターであるテニス選手のスタン・バブリンカが、八月のUSオープンでジョコビッチ選手を破って優勝。副賞に特別製のロイヤルオーク・オフショア・クロノを贈る。 ロンジン。九月ローザンヌの乗馬大会のスポンサー。名騎手ロバート・ウィッツ・タカ―の模範演技と二十五歳以下の若い騎手たち三十人が九カ国から参加して、馬術演技会を開催。 ジャガー・ルクルト。十年来、映画と深い係わりを持ってきている。八月末に幕開けしたヴぇネチァ映画祭に協賛。祝賀会を開き、社長のダニエル・リエドが主催して、多くの客を招待。 ブルガリ。来年度からキャラクターにイタリアの絶世の美女モデル、リリーィ・アルドリッジを採用。 オリス。キャラクターの曲芸飛行士ドン・ヴィト・ウィプレヒティガーが、アメリカのネバダ州のレースに参加。フォーミュラー・ワン・ゴールドで二位に入賞。スイス人だが、最も才能のあるアクロバット・レーサー。 シャリオール。北仏のお金持ちが集まる避暑地・ドーヴィルで開催の女子ポロ競技選手権の公式計時を担当。 読むのに退屈したと想像するが、一体こんなことが、時計の売れ行きと本質的にどう関係するか。有名人に愛用されているのを宣伝するだけがマーケティングの全てではないにしても。不思議と言えば不思議な話である。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ニセモノ退治 ヨーロッパ諸国に現在突きつけられている大きな課題の一つに難民の受け入れがある。英国のEU離脱の原因にもなっている。難民は当初、無一文に近いから、多少の不正をしても生活費を稼がねばならない。強盗とか麻薬の密売に比べると、犯罪性は軽いかもしれないが、ニセモノの販売に走る人たちも多い。この頃は見なくなったが、外国人がニセモノを並べた臨時の店をよく心斎橋筋の路上で広げていた。警官が来ると逃げ出したが、十年ぐらい前までは、イタチごっこみたいだった。 ブランドの知的所有権を法的に主張する国際的団体が、世界にいくつかある。フランスの製造者連盟(ユニオン・デファブリカン)とか、国際トレードマーク協会とか。FHもその一つであって、事業目標に一つにニセモノ撲滅が掲げられている。こういった団体の努力で、日本人の間でも、ニセモノを作ったり、売ったり、することは、犯罪であるという考えが確立されてきた。それどころか、ニセモノを買ったとしても、空港の税関では、ニセモノがお土産の中にあると没収される。拳銃、麻薬と同等の扱いで、罰せられないだけである。一般に日本人が、法に従順なことは意外な面で役立っている。今や大勢の中国人を中心とする外国人が訪日して、買い物をしてくれているが、その大きな動機は、日本ではニセモノを売ってないところにある。 つい先日のことだが、高級時計のフランク・ミューラーが、フランク三浦という安い時計を売っている会社を商標権侵害で告訴したが、敗訴した事件があった。売価も百分の一だし、デザインンもよく似ているといってもおそまつで、冗談みたいなものだからという理由で、裁判所も見逃してよろしいという判断だったと推定される。しかし、スイス人の法的感覚はスイスの機械時計の仕組みのように精密だから、腹の虫が収まらなかったに違いない。こういうのを関西人はナンチャッテと笑い飛ばすが、実はその裏に、お高く留まっているモノに対する批判がある。ブランドの目指すところは、宗教におけるような絶対性であって、風刺の対象にされることも好まない。ブランドは神聖にして犯すべからず。 FH誌の第十四号にはチェコのプラハのニセモノ市の話が出ている。市場の写真が出ているが、三十年前の上野のアメ横を想像してもらえばいい。商品がうず高く積まれていて、時計その他のあらゆるニセモノを売っている様子である。関係者は、ほとんどが一昔前の難民であったベトナム人という。プラハ市内でこんな店が百軒以上あり、その他、オーストリアやドイツとの国境のところにも点在している。これまでも裁判沙汰になっていたが、二○一二年にプラハ市の地方裁判所は、売り手も買い手もニセモノと明確に認識しているから、知的所有権の侵害にはならないという判決を下している。この判決には、一般庶民の感覚が良く出ていると同時に、グローバル時代にやや乗り遅れているチェコの国民性も出ている。私たち日本人も、かってはニセモノと断っている相手から、それを知りつつ買った、何処が悪いという感覚があった。誰も迷惑していないのではないか。この議論は次元が異なるかもしれないが、差別用語の禁止論に似ている。目の見えない人がいないところで、メクラと言ってどこが悪い。昔はそれで通った。しかし、今では通用しない。世の中は変わったのである。 商業的な知的所有権は、はじめは何となく世の中の人が一定の団体又は個人に属していると感じているもので、社会的に確立され、法制化されるまでには時間がかかっている。昔なら、ソバ屋開業するのに「更科」と名乗っても恐らく、近隣に同名の店舗がなければ、誰からも苦情は持ち込まれなかったであろう。もし今、誰かが商標権を所有していたら、許可なしには不可能に近い。 プラハの地方裁判所の判決は、当然上級の裁判所で争われ、結局EU裁判所の判決に従うことになった。その結論は、今年の七月に出された。ニセモノ造り及び、その仲介者、売り手及びニセモノを売っていると知りながら、店舗を貸与した者を含め、罰せられる。インターネット・サイトにも同じく適用される。FH誌は、これを大きな勝利だったと報道している。 無論、EUの結論が、すぐにチェコの国内法になるわけではないので、法制化の資料提供の会合が、二百名からなる内外の専門家が参加して九月にプラハで開催されるとFH誌の第十六号が伝えている。チェコ内の「アジア・マーケット」からニセモノ・スイス時計がなくなることが直近の目的とFHは言っている。 FH誌のニセモノ退治は一種の執念のごとくになっていて、十五号では、FHはインターネットで、世界中のウエブを検索して、警戒している記事を出していた。昨年一年で、六十五万件、今年は八月まで百万件で、数の多いのには、ソーシャル・ネットワークに当たったせいと言っている。中国本土でもニセモノ造りは膨大な中国のソーシャル・ネットワークに連絡しているので、今年から本格化する香港FHからの警告は十億件になるかもと、冗談交じりに心配している。 同じ号でス・ドバイの金市場のマンションをFHの手引きでの手引きで、地元警察が急襲して一万六千個のニセモノ時計を押収した報告があった。 香港の町並みを歩いていると、こっちは香港に住んでいるような様子でいるつもりなのに、どうして日本人と解るのか、「シャチョウ、ニセモノ時計アルヨ」と男が近づいてくる。この頃はあまり付きまとわれないが、沈静化したのかとおもったらそうでもないらしい。ニセモノ売りの相手も地元化した様子である。観光客が歩くのは、もっぱらペニンシュラホテルのあるネーザン道の南端だが、北へ行くとだんだん庶民化してゆき、モンゴックという賑やかな地域となる。そこに女人街といって、安価な女性ものを扱う商店の立ち並ぶ通りがある。ニセモノは店頭になく、裏の部屋にあって、売り子は写真を見せてくる。FHの関係者がまず探りを入れ、外の売店の前に立っていると連携している捜査官がその場所を知る。数日後、税関警察が踏込んだ結果、バッグや時計ニセモノ二千六百本押収、約三万香港ドル相当。三人を逮捕した。 九月には、香港で第三十五回目の時計博覧会が開催されている。FHは、ここにも主催者の了承を得て、八人の監視員を派遣して、商標権の侵害やデザイン盗用の有無を綿密に調べ、今年は四十七件の侵害を博覧会の倫理委員会に提訴、善処を要請している。FHは私立探偵がというなかれ。ニセモノ退治は世界中のビジネス・モラルの確立に役立つだろう。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
スイスの時計経団連 今年の夏もやっぱり猛暑だった。日本で一番暑い日々は、やっぱり広島、長崎に原爆が投下された八月の初旬だろう。体感される気温に、あの業火に焼かれた人々への思いが焦熱感を高める。 ついこの間、友人で東大の名誉教授である平川祐弘さんが、「原爆がなぜ日米戦争に使用されたか」と題するとても興味深いエッセイを送って下さった。アメリカの大統領は、退職後必ず回顧録を出版するといってよい。大抵ベストセラーになる。現職時代の政治信念のメッセージとして、米国民は受け取る。 日米開戦を望んで決断したのは、ルーズベルト大統領で、その前の大統領はフーバーであった。フーバーの任期は、丁度大恐慌の頃と合致し、その後始末に苦労したが、戦後来日してマッカーサーと親しく会談したりして、一九六四年九十歳歳で亡くなっている。 フーバーも死ぬまで回顧録を執筆し、死後これを出版しようとしたが、遺族が目を通し「こんなものが世の中に出たらえらいことになる」と封印してしまった。そのうちに邦訳が出るようだが、それが二〇一二年になって名門スタンフォード大学の手で出版されるに至った。 平川さんのエッセイでは、この回顧録と日本側の事情が解りやすく要約されている。結論を言うと、ルーズベルトやその急死で後を継いだトルーマンは、日本の降伏如何にかかわらず、何が何でも原爆を投下する決断をかなり以前から下していた。フーバーは「原爆は落とす必要はなかった。すでに降伏の前兆が明らかであった」と書いている。私たちは、本土決戦とか言って、日本の抵抗が強かったので、米国は仕方なく原爆を使用し、やっと戦争が終わったと長い間信じ込まされていた。恐らく原爆の恐ろしさを知った、投下の最高決断者だったトルーマンも、朝鮮戦争の結着に原爆を使いたいといったマッカーサーを、良心の痛みから解任したのではなかろうか。今年はサミットの帰りにオバマ大統領が広島の慰霊碑の前で頭を下げた。演説の中で明確な謝罪の言葉はなかったと批判する人々もいたが、行ってくれただけで画期的なことだと思う。もしもフーバーの回顧録が出版されていなかったら、ありえなかったのではと思われる。米国の原爆使用について、疑念を抱く世論も、米国内でも少しは醸成されているのだろう。 今年は日本の敗戦から七十年になる。米国が占領し始めると、日本全体が左傾し始めた。資本家、経営者は悪、労働者は善、ソ連のように、社会主義国家になると、国民全体が幸福になるという信念で、社会全体が浮き上がっていた。時計業界でも戦後すぐ、上尾の東洋時計(現オリエント時計)の猛烈な労働争議があった。私のような小さな会社でも、共産党オルグが入って、労働組合が結成された。一九六一年の頃である。まぁフーテンの寅さんの隣の印刷所に毛の生えた程度の経営状態だったのに。学生だった私は搾取とかなんとか言ってるより労使が協調したほうが、ずっと良い待遇を得られるのにと思っていた。オルグ系の組合員はすぐにストライキを打ちたかったが、そうなると会社が潰れて、全員失業するのは目に見えているので、元々の社員間に幸い同調者が出なかった。それからしばらくして、経団連と総評という対立しながらも妥協していく労使関係が確立し、日本は高度成長の時代に入っていった。 スイスの時計業界にも経団連のような組織がある。フランスやイタリアを旅していると、しょっちゅう電車や飛行機のストに出くわす。元々彼らは働くのが嫌でストをしているのかと思いたくなる。スイスでは、そんな目にあったことがない。時計製造業界でも、スイスの隣国フランスでは大きいストで経営不調に陥いる企業が多かった。スイスの時計産業の経団連は、どう機能していたかという記事がFH誌本年第十二号(七月十四日刊)に載っている。正式の名称は「時計及び精密工業の経営者連合」という。結成されたのは、一九一六年で、今年その百周年の祝賀会が、首都ベルンの伝統あるホテル、ベルビュー・パレスで開催された。現在の会長は女性のキャロル・デコステール。連合に参加している企業は、百六社で、一万三千人の従業員を雇用している。時計業界で働く人々は約五万人とされているし、FH参加の企業も四百数十社だから、日本の経団連同様、比較的大手の企業だけが参加している様子である。しかし、この連合が従業員と協定した事項は、概ね全時計産業の守るべき目安となっている。 第一次世界大戦の際、一九一四年から十八年の間に、スイスに大インフレが訪れて、パンの値段が八%、砂糖が九十五%、ジャガイモ九十三%、牛肉百二十二%上昇した。それまであったスイスの労働組合連合は、病気や障碍者、失業者を救済することを主眼としていたが、生活危機を迎えて、社会的地位の向上や労働条件の改善を、賃金増加と共に求めて、次第に先鋭化しつつあった。ロシア革命の前夜であり、多くの革命家がレーニンをはじめとしてジュネーヴに潜んでいた時代であった。時計業界では、労働条件の改善以外にも特殊な事情がある。今でこそ、時計の部品を自社内で調達する会社が多くなってきたが、百年前は、ほとんど下請けを買いたたいて、名のあるメーカーといえども組み立てていた。スイス人は独立心が強い。下請け業者も、同じような部品を作っている同志が結合して組合を作り、メーカーに値上げの交渉をする共同戦線を張るようになる。 労働者と小さな下請け業者との争いを打開すべくスイス時計の経団連は、最初ベルン州に事業所を構えるメーカーによって結成された。主唱者は、ロンジンのバチスト・サヴォア、オメガのポール・エミール・ブラント、タヴァンのアンリ・フレデリック・サンドスの三人。みなさん当然、オーナーである。スイス人は独立心が強いが、一方感情に走らず、現実的でもある。結成以来、労使協調が進み、組合との交渉は基本として一九三七年以来一括となっている。労使交渉は社内で揉めても双方に良いことは少ない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「スイスと日本の時計産業の今」 経済面だけではなくて、普通の日本人として、今後世界はどう変わっていくかを考えた時、どうも良い方向に行くより、悪い方向に向かう気がしてならない。三十年前は、そうではなかった。将来については、楽観的であった。右肩上がりの思考が当然だった。そのうちにソ連も弱くなり、米ソ緊張が解けて、世界平和が訪れ、住みやすい社会が来るだろうと思っていた。ところがソ連が崩壊し、アラブ社会が平和を乱し、中国の台頭も問題視されている。アラブ民族に言わせれば、西欧が口を出すから、こうなるというかもしれない。政治情勢は無論のこと、経済的に世界が成長するのは難しい。これが多くの人々の漠然たる予感ではないだろうか。世界は破滅に向かっていると人々が信じた状況はかって、中世に日本でも西欧でも存在したから、それほど案じることはないが、将来の見通しの暗いのは困る。 さしもの拡張を誇ったスイス時計産業も、このところ低迷気味である。FH誌第一号(六月三十日刊)によると、今年はこれまで、下降線を辿り続けている。五月に至っては、前年比9・8%減、四年前の同月に及ばない。まあ三年以上は絶好調だったとも言える。各市場みんな前年比割れなので、細目は省く。傾向として超高級と安価が打撃を受け、中級品が健闘している。アメリカ市場が2%の下げで止まっているのは、クロック類の輸出がカバーしたせいとあった。スイスでもクロックが生産されていたのだ。 さてそのスイス製だが、何をもってスイス製と表示するのか、十年来国会や公的審議会で議論されてきた。つまり、それ以前ははなはだ怪しげなスイス製の表示が横行してきたことを意味している。この度、もめにもめていた表示基準が、やっと法制化され、今年の六月十七日が発効となった。その基準は二つ。一つは原価の六十%は純スイス製であり、ムーブメントは少なくともスイス組立て。二つ目が時計とムーブメントの技術的な開発がスイス国内で実施されていることである。事情によって延期に認められるが、二○一九年一月には完全施行となる。 スイスはEUに加盟していない。ジュラ地方のつい隣のフランスも昔からの時計製造地域で下請け工場も多い。ドイツも優れた部品を提供できる時計業者がいる。イタリアには優れたデザイナーが多い。まあ六十%もやむを得ないかという気がする。日本ならば百%と主張したがるだろうが。それにスイスでは、時計工場のオーナーには外国人が多い。ロレックスの創業者はウイルスドルフでドイツ人、ショパールの現オーナーはドイツ人、パティックは元々ポーランド人、スウォッチのハイエックさんだって元々レバノン人、タグホイヤーはヴュトンでフランス人、カルティエグループは南アフリカのルパートと外国人オーナーを並べていくときりがない。 フランスからスイスに毎日時計産業で働くために通ってくる労働者も少なくない。中国資本の時計工場の中で働く人に、中国人は少なくないと思われる。ラ・ショードフォンの街では、たくさんの中国人に出会う。時計職人が多くジュネーブに亡命してきて、時計産業の基礎を作った十六世紀の頃の首相格はジャン・カルヴァンで、この人は生粋のフランス人でしかも北仏出身だった。時計の街とされるニューシャテルを中心とする地方は、長い間プロシャの領土だった。独立してスイス連邦に入ったのは、明治維新の前夜ぐらいに過ぎない。日本人の純血主義は通用しない。独仏伊にロマンス語の四つが公用語で、しかもほとんどの人が英語を解する国には世界にない。 スイス時計に陰りが見えているのに反して、日本の時計は、やや好調のようである。FH誌の最新号(7月14日刊)にスイス側からみた昨年の日本時計産業の総括記事が載っていた。 一寸、成績表を並べてみる。 ▽シチズンホールディングス=三千四百八十三億円(6・0%増)、▽セイコーホールディングス=二千九百六十七億円(1・1%増)、▽セイコーエプソン(オリエントを含む)=一兆九千二百四億円(0・6%増)、▽カシオ計算機=三千五百二十三億円(4・1%増)。 右は総合の数字だが、いずれも時計部門が売り上げに良く貢献している。時計部門別の上昇率は、シチズン3・4%、セイコー6・5%、エプソン4・5%、カシオ4・7%となっている。好調が維持されたのは昨年の前半6か月で、全社時計部門平均で12・1%も上昇し、今年に入っての三か月では、カシオ3・7%、セイコー13・9%、シチズン3・7%、エプソン2・5%と軒並み下落している。 純益面からみると、カシオだけが1・8%、増加しているが、シチズンは25%にあたる百三十二億円分が減っている。会社組織の再編成による費用が莫大だったのが原因という。セイコーは44%下落して、百二十一億円の純益となった。エプソンも59・3%も利益が落ち込んだ。会計処理に係る損失が多大という。 来年度の決算予想は、一〜三月が悪かったせいで各社とも控えめである。シチズンの予測は、アジア、南米市場が難しいとみて1%の伸び。セイコーはもっと悲観的で、中国・香港市場不況を考え2・7%減の売り上げ予測。日本国内におけるグランド・セイコーや機械時計の強み、ドイツ、台湾市場の好調、オーストラリアにおける新しい戦略展開をもってしても、売り上げ全体の維持は困難らしい。カシオだけが強気、楽観論で、5%の売り上げ増を予想している。但し、時計部門でどのくらい伸びるかは発表していない。しかし、時計では、アナログ時計の充実、電波GPS機能を持つハイブリッド時計の強化、そしてブルートゥースを使って、スマホに連結するスマートウオッチの販売努力を宣言している。エプソンのウェラブル機器部門(時計事業部改称)は、輸出市場を頑張るしかないとみて、7・7%の下落を予想している。 日本の国内時計市場を展望すると、FH誌によれば、現状はまだしっかりしているが、おおむね成熟しきっている。老齢化によって、腕時計が必要性を持っているかどうかも、解らない。こうなれば、外国市場しかないと全メーカーは思っている。シチズンは、二○○八年に買収したブローバ社と共同して、部品購買と販売の活動に乗り出そうとしている。セイコーは、アジア、中東に現在六十八店舗のブティックを百店舗まで増やす計画である。カシオは、現在八店舗あるGショック店に三、四店舗増やす予定である。 これは、スイス人記者による記事だが、なかなか良く書けている。敵を知り、己を知れば百戦危うからずの心が生きている。数字はそのまま写してあるので誤りがあれば、指摘願えればありがたい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ブランドとマーケッティング 昔はよく生活必需品という言葉が使われた。今はこの言葉が思い出されるのは、地震とかいった災難に遭遇した時だけである。私達の生活を見回しても、食料品以外に必需品を買っている人は殆んどない。本人は必需品と信じて買っているが、客観的にみると、たいていは不要なものを買っている。おそらく余程困窮している人でもなければ、二年ぐらいは、食料品以外は、一切なにも買わなくても生活していけるだろう。現在の日本で氾濫している商品で生活必需品なるものは極端に少ない。 スーパーの売上不振がよく報じられているが何故か行ってみれば解る。不振は食料品からでなく、衣料とかその他の一般商品が係っている筈である。生活に必要なものをなるべく安く提供しようとするのが、基本となっている。ところが消費者の方は、そんなものを一向に必要としていない。極端に言えば、必需品なんかいらないのが現状なのだ。私達業界にあてはめてみると、宝石類は元々、必需品ではなかった。動乱の多い国家に住む人々は、いつ国を追われるやもしれないから、金や宝石を買って万が一に備える。ところが我国の歴史では、人々がそういう行動に出ることはなかった。婚約指輪は、一種の必需品だが、あれは、デビアスが、長年にわたって、莫大な宣伝費を使って結婚する男女に植えつけた意識にすぎない。結婚十年目には、ダイアを妻に贈ろうというスイート・テン・キャンペーンは残念乍ら定着しなかった。十年経った日本の夫婦は一般的にさほど、センチメンタルではない。いずれにしろ、ダイアモンドは婚約や結婚にどうしても必要なものではない。時計はかって必需品であったが、今や、その必要性は無限に低下している。 実は先日、大阪の時計宝石売商組合の会があって、その席で、私達はこんな不急不要なものを売って商売しているのだから、そこをしっかり認識して、経営する必要があると申し上げた。三十年ぐらい前から、日本の時計メーカーの方々にもいつも同じことを申し上げて来た。人が要らないものを欲しがらせるにはどうすれば良いのか。日本のメーカーのクォーツ攻勢に惨敗したスイスのメーカーが復活したのは、不要なものを欲しがらせるマーケテイングを編み出したからといえる。高級ブランドの世界は一種の人工楽園である。そこで楽しむ人を、いつまでも楽しまさなくてはならない。少しでも綻びが生じると、楽園は崩壊する。そのために製造から販売に至るまで不断の注意を要する。ブランドの楽園性を守るためには、直営店化するのは、事の成行である。この辺の事情は薬屋さんと化粧品屋さんの例を思えば解りやすい。薬屋さんは必需品を売っている。化粧品屋さんはそうではない。従って、取扱いのブランドしか扱っていない店が多い。百貨店の売場に至っては全部直営店である。 少し視点が変るが、このあいだエズラ・フォーゲルという日本経済分析で有名な学者が、新聞で面白いことを言っていた。要旨はこうである。日本の製造業の技術力が全体として世界一であることを認めるのにやぶさかではない。今後しばらくそうあり続けるだろう。しかしこの二十年、日本経済が低迷しているのは、産業の形態が全く変ったからだ。サービス、インターネットを中心とするIT、通信、金融、投資の方に重点が移ってしまっている。日本の技術力が、こういった、はっきりした形のない、とらえ難い部門に、どうからんで行くのかが、将来の大きな課題だろう。 確かに、日本に比べるとアメリカの方がリーマン・ショックから早く回復している。索引力はかってのGMとかフォード、USスチールではない。スマートフォンであり、アマゾンであり、ペイパル(支払いシステムの会社)である。アナログ人間である私には、よく解らないが、事実は事実。世の中がすっかり変ってしまっている。私だけでなく、日本の産業界全体が老化しているのではないかと思う。銀行は工場があって製品があって、流通していれば、金を貸すだろう。しかし頭の良い連中が十人くらい集まって、朝から晩までコンピュータ画面の前で、とんでもない計画のプログラムを考えているような会社にはきっと金を貸さないだろうと想像する。だからいくら金融緩和しても貸し先は増えない。 日本経済にとって、輸出は重要である。アベノミクスの円安高価で輸出は好調かというと国民総生産に占める割合は大して変わらない。やはり国内消費のほうが重要であって、僅か二%の消費税増税が先延ばしになったのも消費意欲がそがれるのを恐れた政策である。消費が必需品の購入に当てられるなら、要るものは要るのだから、そう心配することは無い筈である。 この世は不急不要の消費で成り立っている。 カプコンというゲームソフトを作る大きな会社がある。創業者の辻本憲三さんは、成功したお金で、カリフォルニアに、東京山手線の円内ぐらいの広さのぶどう畑を買ってワイン作りを始めた。最初はいろいろ苦労されたようだが、素人の強みというのか、日本人の感性の生きた、繊細な高品質のワイン作りを可能にされた。そのケンゾー・ワインは今や高価だが、知る人ぞ知るワインになっている。ある時、酒席で、辻本さん自身がこう述懐されたのが、強く印象に残っている。 カリフォルニアは日光の豊かな土地だから、ワイン造りはそう難しくない。安いワインなら、誰でも造れる。しかし、私には始めからその気はなかった。ゲームソフトは遊びだから、良いものを作らなければ、誰も買ってくれない。安いワインは世に溢れている。私しかできないものを造りたかった。又、販売を酒屋さんにお願いすると、彼等は既成概念で頭がつまっているから、新しいワインなど相手にしてくれないし、置いてくれても、店の奥でホコリをかぶるだけだろう。だから、一流のレストランか料理店に直接買ってもらう努力から始め、客の反応を確かめるために大阪や東京に直営店も持つようになったのです。 どうせ不必要なものだから、面白くて良いモノを作らないと、世に受け入れられないという、辻本さんの発想は、我々の仕事でも大きなヒントになる。不必要なものを、マーケッティングに莫大な費用を投じて必要品と思わせることに成功したのがビッグ・ブランドです。そんなに金をかけなくとも、やり方がない筈はない。時計や宝石は不必要な分野と強く認識することによって、知恵が発揮されると信じる。お金のない人のマーケティングは、自分のやりたいようにして、それを楽しんでくれる客を見つける以外にない。従って教科書は存在しないのが当然である。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
FH誌ひろい読み 番外編 斉藤洋介さんを悼む ワールド通商の斉藤洋介さんが五月十二日に亡くなった。数か月前から病状が重いと聞いていたが、残念の思いが強い。斉藤さんとは、仕事の上でのお付き合いばかりで、友人として日常的に交際をすることはなかったけど、心を許した友であったことは、お互い認識していた気がする。斉藤さんが相手なら、どんな問題でも、友好的な解決に達することが出来ると、最初にお会いした時から直感した。数ある取引先の仲間でも稀有の関係だった。 栄光時計は、ごく早い時期からスイスの商社デスコを通じて、ホイヤー社のストップ・ウオッチを取り扱っていた。今でもお元気と聞くが、若かったオーナーのジャック・ホイヤーさんは積極的な経営者で、競争相手だったレオニダスを合併し、スポーツウオッチの分野で次々と魅力的な製品を作り出していた。ストップ・ウオッチならホイヤーという定評があって、日本でもよく売れていた。デスコの担当者は、時計の卸売りセールスマンとしては飛び抜けた才能を持っていたまだ新人の増田さんであった。日本市場の成績が良いということで、増田さんと私を、ジャック・ホイヤーさんが大阪の道頓堀にある小さな座敷に招いてくれた。 その時の彼の時計マーケティングについての弁舌のさわやかだったこと、会食中一人で喋り続けてとどまることがなかった。名門チューリッヒ工科大学で電機工学と経営学を専攻と聞いた。その時に時計の世界でのセールスマン教育の重要性を教えてもらった。 そのうちに、前の東京オリンピックの公式計時を担当したセイコーがスポーツウオッチの部門で力を付けてきて、高価なホイヤーは売れなくなり、いつの間にかデスコも取引がなくなった。 今調べてみると、ホイヤー社が破綻したのは一九八二年(昭和五十七年)であり、ピアジェが所有していたム―ヴメントの製造会社レマニアに無償で譲られたという。その三年後、アラブ系のTAG社(Tecnique Avant Garde)に売却され、以後タグ・ホイヤーの名で市場に復活することになる。 丁度日本では、バブルが最高潮であった。斉藤さんのワールド通商はどこでこの名を知ったのか、輸入して雑誌、新聞で通信販売を初め、再びホイヤーの名が国内に現れるようになった。斉藤さんという方は、シャイな性格で時計業界には知り合いもいないし、自分で売るしか方法を知らないので、通販という方法を選んだという。私の方の会社でも、ホイヤーという時計が手に入らないかという要望もあって、担当者が掛け合い、仕入れさせてもらっていた。一年、二年もしないうちに、通販の広告が利いたのか、月の仕入れ額が二千万円近くになった。(後日には二億円以上になった) 現金決済だし、当時の仕入れは現在とは異なり、手形が常識であった。ロレックスのみが、唯一の現金決済であった。そこでこれを手形にしてもらい、もう少し値切ろうということになった。交渉は僕がすると、部下と二人で当時溜池にあったワールド通商を訪れたのが斉藤さんとの最初の出会いであった。 実は通販という新しい形態で、こんなに売れている商品を扱っている会社の社長だから、きっと新しいピカピカのオフィスへフェラーリに乗って出勤するような気鋭の青年かと思っていたら、菜っぱ服を着て、小柄で五分刈りの風采が上がらない人が、ニコニコ笑って斉藤ですと現れた。オフィスもなんだか貧相な貸しビルだった。その時の返答は「私どもには、お金はありません。小さな会社で銀行も貸してくれない。従って手形で支払ってもらう訳にはいかない。値引きの方も得た利益は、すべて宣伝費に廻して、将来にかけているので我慢して長く取引してください」と丁重に断られてしまった。しかし言われることはもっともなので、すぐに引き下がった。部下には、社長が交渉に出て行って情けないと思いまへんかと、冷やかされたが、斉藤さんという人に会ったのが幸運だと心中思っていた。そのとき斉藤さんは、面白いことを言った。私はこれまで自動車部品をオーストラリアへ輸出することで、何とか生きてきた。時計で失敗しても、そこで得た利益を全部なくしても、元の商売に戻れば同じです。 斉藤さんは自分自身の予想に反して、タグ・ホイヤーの代理店として、大成功された。しかし代理店は所詮代理店である。特にうまくいくようになると、御免左様ならといつ契約を切られるかもしれない。こういった危機認識はいつも持っておられた。現実的に、斉藤さんの代理店経営の戦略は百%、本社の言い分を聞くというやり方である。その中でどうして代理店の経営が成り立つのか考えることに徹しておられた気がする。代理権を売却されたホイヤーの場合でも、フランク・ミューラーの場合でも同じである。これと見定めたブランドには徹底的に尽くす。 その間は損して得取れの精神で行くと考えておられた。こういう境地に達する代理店経営者を見たことがない。利用し尽されて、放り出されることがなかったのは、ひとへに斉藤さんの人徳と欲望の少なさによるところであろう。 スイスの時計ブランドの経営者は、日本人が持っているお得意先の意向を迎える気質に欠けている人が多い。特にブランドの名声を確立した人には妥協性がない。傲慢は、ブランドの属性であると、カルチェで育った友人のフィリップ・シャリオールが私に言ったことがある。こういう人たちを相手に交渉することに、斉藤さんの後半生は過ごされたといっていい。しかし、代理権の対象をホイヤーから、まだ海のものとも山のものとも日本人には解らなかったフランク・ミューラーに移して、大成功しても斉藤さんは虎の威を借りなかった。第一もともとから、表に出ることを好まれなかった。新聞や雑誌のインタビュー出られたこともない。自社の行事でも表の花形は社員まかせであった。業績が好調な時でも、いやいや内情は火の車で、本社との交渉で頭が痛いと言っておられた。恐らく、この人の為なら一生県命仕事をしようと思う社員ばかりであった気がする。 近年、フランク・ミューラーウオッチランドの仕事を全て、本社に譲渡しましたとの電話を頂いた。斉藤さんは、喘息もちで、酒は飲まない。食べ物に拘らない。ゴルフはしない。宣伝用に一億円もするマクラーレンを買っても、運転免許書は持ってない。社長としての交際も向いてないからといってされない。仕事一本の生活と思われた。これでやっと好きなことに、きっと今度は苦労のない仕事になるだろうが、専心できるだろうと心中で祝福した。それがこの度の訃報である。業界は優しさとユーモアを経営の武器にした素晴らしい人物を失った。私は大切な友人を失った。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
工具と仕事場 フォルクスワーゲンがディーゼルの排ガス規制報告に虚偽があったと昨年米国で大きな問題となった。昨年一年売り上げが、その影響で五%減って、二千億円ぐらいの赤字に陥ったという。日本では、売り上げ台数が四割近く減少したらしい。前に走っている車のVWというマークを見ると、問題はディーゼル・エンジンで、ガソリン車ではないのになぁと気の毒になる。まさしく、風評被害、公害対策も重要だが口害対策も企業は心がけねばならない。良きにつけ悪きにつけ、消費者は本質とは無関係なところに購買決定動機を持つ。 ロッシーニのオペラ「ゼヴィリアの理髪師」に、悪口を広めたり、人を陥れるのが最強の手段であるという愉快なアリアがある。はじめは陰口をあちこちでささやき(トウィット)する。そのうち噂が広まり大きな暗い影となって、当人の周りに広がって行き、破滅させることが出来るとバリトンが歌う。ご承知のようにロッシーニの音楽の特徴はクレッシエンド(少しづつ大きく速く)である。小さな噂が、だんだん成長し、終わりには巨大になる様子が見事に音楽で表現されている。聞くたびに今の社会の風刺にもなっていると思う。 VWは性能の確かな車である。二十四歳の時にパリに留学(実は遊学)したとき、父にねだって初めて買ってもらったのがVWのカブトムシであった。パリで父の知り合いであったユダヤ系フランス人に、どの車を買うかの相談をしたら、俺はユダヤ人だからヒットラーが作った車は使わないが、カブトムシは丈夫で故障しないから良かろうと勧めてくれた。本人はユダヤ系企業であるシトロエンのDSというまるで大きなゴキブリのような車に乗っていた。カブトムシの値段は一九六一年当時千ドルだったので、当時のレートで約四十万円弱。 わが青春のカブトムシは、ヨーロッパ中走り回ったが一度も故障しなかった。帰国しても乗っていたが、丁度東京オリンピックが開催された一九六四年に 名神高速道路が大阪、京都間で開通し、よくこの道を往復した。ヨーロッパでやっていたように、アクセルを床まで踏込んで走ると時速百二十キロ出るのだが、空冷だから音はやかましい。エンジンはびくともしなかった。当時日本製の車で、こんなことは怖くてできなかった。デザインに愛想がないこと以外にVWの車の性能には、今でも信頼を置いている。メッサーシュミットの戦闘機、ライカのカメラ、ゾーリンゲン地方の刃物の品質を絶対に信仰していた世代である。 一般的にそのころの車は、道路も悪かったし良く故障した。ガソリンスタンドに必ず小さな修理工場が併設されていた。大体内部は乱雑であった。工具類は散らかっていたし、何がどこにあるやら修理工本人以外は解らない状態が普通であった。アメリカのシェル石油が直営スタンドを出し始めた頃で、修理場とはこれほど整然としているかと驚いた。全ての工具が使われてない時は、置くべき場所に、見た目にも美しく置かれている。さすがアメリカと感心した記憶がある。当時の一般市民の台所も、調味料、鍋、残り物が乱雑に置かれていて、今のように食べてない時は、何もなく整然としているお宅は少なかった。つまり道具を誰でも使えるように整然と収納する習慣はまだ普及してなかったといえる。 まだ太平洋戦争が始まらなかったころ、父は中国の天津で服部時計店の支店長をしていた。社宅と事務所は同じ建物の中にあった。今で言うサービスセンターも併設されていて、十数人の修理職人、主として日本人が働いていた。子供のころから修理の現場を見るのが好きで、いろんなことを職人に聞いていると、父から邪魔したら駄目と良く叱られた。今思い出してもそれぞれがバラバラに独立して個々の仕事に精を出しているようで、整然とした職場という記憶がない。ついこの間まで、時計屋さんといえば、修理の収入が主で、販売はなおざりにされていた。一日中、机の前に座って仕事のできる職業というので、時計屋さんには足の悪い方が多かった。店の奥に小さな修理場があり、コツコツと片目ルーペを目につけて壊れた時計を直すのに専念していた。それは子供の頃よくなじんでいた光景であった。しかし、もうそんな街の時計屋さんはクオーツ時計の出現と共に、急速になくなってしまった。昔の時計職人は、調理人の包丁同様、道具を自分の所持物のように大事にしていた。ねじ回し一つでも、なにしろこれはベルジョンだからな、使いやすいし、大切だということを言ってるのをよく耳にした。今でもベルジョンの工具は、権威を保っている。 西欧人は不器用だから、道具が発達する。日本人の職人は器用だからあまり道具に頼らないという俗説がある。いまどきの大工工事現場を見ていると、昔のように神業のようなカンナの使い方をする人は少なく、大抵機械で済ましているから、この説の正当性は怪しいものだが、ある程度当たっている。道具は、熟練工がしても、見習いがしても、同じ成果が得られるべく作られる。習熟という領域が低いところから高めるために道具は開発されていく。ベルジョンの時計工具にはその哲学が見られる気がする。 「ベルジョンは創業二百二十五年、今だイノヴェーションにあくなき追及を怠らない」という新聞記事がFH誌の本年第三号(二月二十五日刊)に載っている。 フレディリック・フォールという人物が、ルロックルで起業したのが一七九一年だから、フランス大革命の最中で日本では、江戸の寛政三年に当たるから古いことは古い。ただブルゲがパリで時計師として活躍していたから、もう工具屋さんが商売になったのだろう。一九一一年になってからジュール・ベルジョンが入社して経営の舵取りになり、一九二七年に株式会社ベルジョンと称している。一九八九年までは、ベルジョン家の人が経営していたが、現在ではラウジミール・ゼンナーロが社長で筆頭株主になっている。 ベルジョンの本社は、本部と工場と二つに分かれているが今でもルロックルにある。従業員は約六十名、研究開発に六人が専従している。以前は二割が技術系で、八割が営業系だったが、今は技術系が六割、営業マンが四割だそうである。ベルジョンは、時計机(ベンチ)、やネジ回し、もちろん電子式のも含まれる、時計製造や修理に必要なあらゆる工具を製造しているが、地元でも名前だけは有名だが、何を作っている会社か、ほとんどの人が知らないと、社長のゼンナーロはわが社の製品は、九十%スイス製なのにとボヤいている。写真では五十がらみの品の良さそうな好人物に見える。こんな工具でも年に百点近くの新製品を送り出すほど、技術革新は早いらしい。製品の八十五%時計工業用、十%は宝飾工業用と社長は言っているが、あとの五%はなに用だろう。ひょっとすると医療用かも。日本でもまた、時計修理のアトリエが店頭開示されるのが流行になっている。脇役が脚光を浴びるかもしれない。(栄光ホールディングス株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
昨年一年間のスイス時計産業の成績表 丁度、現在の中国人が外国で爆買をする様子を見ていると、かって日本人が同じような行動をしていたのを思い出す。パリのエルメスやヴィトンの店頭に日本人が溢れていた頃、スイスに行った日本人は、必ずと言っていいほど、当時としては高い時計をお土産に買ったものだった。珍しいからでなくて、国外の価格差が、あまりにも大きかったせいもある。 日本人に海外旅行が自由化された一九六〇年代の終わりから、よく時計小売店の方々と香港にご一緒した。帰りに個人用持ち帰り制限、時計3個までという規制があって、小売店の方たちはオメガやロレックスを買って帰ってきた。時計屋が小売値で買ってどうするか、と聞くと、これで旅費が出たと笑っていた。つまり香港で小売で買っても、国内の卸値で仕入れるよりはるかに安かったのである。しかも、売り上げ伝票は不要。仮に沢山買って正式に輸入しようとしたら、税関は日本の正規代理店の同意書が必要と言ってくる。当然同意などするはずがない。変なところで商社と政府がつながっているという気がしたが、そのうち並行輸入が始まった。外貨が日本に溜まり過ぎて、輸入促進の外圧が強くなった余波と記憶している。 そのころは、時計の流通機構の複雑さは、当事者でも理解できなかった。たとえば、パテックだと、当時は香港に日本市場への権利を持つ人がいて、その代行権を執行しているに日貿商事が国内にあった。販売の総代理店は一新時計であった。パテックの名声を広めたのは、一新時計の功績と思える。先代社長の西村さんは、旧陸軍士官学校・陸軍大学卒の頭の切れる人だった。銀座にあった自社ビルに大きな屋上広告を作り、どこからでも見えるようにするような、時代に先駆けた感覚を持っていた。ただ私のような関西出身の商人は、市場におもねる点がある。市場性を重視し、自分の意思を市場の要請に重ねようとする。西村さんはいかにも軍人出身らしく、市場を牛耳ろうとする姿勢が強かった。その考え方の一つに、小売値は卸値の倍にすべきだという説である。今有名な世界的ブランドが各地に展開している直営ブランドならば、可能なシステムだから、将来を見据えた戦略ともいうべきだが、いくつもの流通段階で、マージンが抜かれていた当時では、表示小売価格があまりにも高くなってしまう。平行輸入が増加するか、値引きが一般化するか両方だろう。西村さんは、それはメーカーの意思でコントロールできる筈と強気だった。その後メーカーの意思はどうなったか。輸入も卸も、小売りもすべて直営化する方向に向いていった。地球が狭くなり、世界を一つの市場としてみなすと、小売値の決定権をメーカーが持っことが,一番、重要となる。世界市場の小売価格を決定することになって、メーカーの力はますます増大した。最も力の強いものが値を決めることが出来る。入札の談合も、強力な業者の話し合いではじめて成り立つ。太平洋戦争の時も、日本政府は物価統制法を布いた。民主主義の社会では、ありえない。ある強者が値決めするのを独占という。二十一世紀に入るまでは、デビアス社がダイヤモンドの値を決めていた。その独占も終わってしまった。かってのダイエーの中内功は、値は消費者が決めるといって、安売りの路線を突っ走ったが、生活に必要なものを売っていればいい社会が続いていたら、今でも繁盛していただろう。 時計・宝飾業界に君臨しているブランドは、日常生活とは全く関係のない、いわば非必需品を扱っているので、市場支配のマーケティングは、ソフィスティケーションの極みになっている。豊かで文化的で、内面的にも充実した生活を送るには、これはなくしてはと思わせる戦略である。ここ十数年のスイス時計の躍進は、その線上で実現したといえる。テクノロジーの面からみると時計の進歩は、IT関連機器と比べてみると無いに等しい。しかし、さしものスイス時計産業も、このところ苦戦を強いられている。今年もバーゼルワールドは、例年ほどの集客がなかったようだ。 今年のFH誌二月十一日に発行された第二号に昨年一年間のスイス時計産業の成績表が掲載されている。通年総輸出額二一五億フラン(約二兆五千億円弱)で前年比三・三%減、下降線を辿っている。 原因は、フランの高騰、香港市場の輸入調整、中国経済の下降、中近東の政治の不安定、ルーブルの下落、テロへの不安で、今年は、前年並みが最善と予想される。総額の九十五%が完製品の輸出で、三十六%減、総数は二千八百十万個で、数は一・六%しか減ってない。しかし、この数は二年前の実績に戻っており、年間の輸出減は、四十六万個であった。輸出数全体の八十%が機械時計。輸出先の地域別でみると、アジア諸国が半分、ヨーロッパ諸国が三十%、アメリカが十%弱といったところ。日本が一・九%増と健闘している。香港は二十二・九%減と激しい。昨年末の商戦期に香港へ行って、時計店の店頭に客がいない光景がよみがえった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
バーゼルワールド2017 三月の声を聴くと多くの業界人はバーゼル出張の心づもりをすることになる。イースターはキリストの復活を喜ぶ祭りだが、この祝日は移動祝祭日で、三月二十一日以降の満月の次に日曜日になっている。毎年日が異なる。今年は三月二十七日。因に昨年は四月五日、来年は四月十六日。昔からバーゼルの時計・宝飾見本市は、復活祭の休日が始まる寸前に会期が設定されている。今年のバーゼルワールド(数年前からの公式呼称)は三月十七日から二十四日まで開催される。 三月のバーゼルはまだ寒いが、四月に会期がずれこむ年だと、北国の常として一度に花が咲く。柳が芽を吹き、連ぎょうや黄水仙、紫色の木蓮、桜や芝桜が満開、目にも鮮やかである。花の復活祭という言葉がぴったりの様相が道のべに繰り広げられる。冬の間、やや陰気に見える街並みが親し気になってくる。 業界人の多くにとって、バーゼルは見本市に通うだけの街だろうが、学生の身分として、この町で過ごした夏の数日は私には忘れられない。二十五歳にもなって、パリの大学で勉学の真似事をしていたもののフランス文学なんか専攻していても、将来それで食べられる保証もないし、将来どうなるか、非常に鬱屈した気分で過ごしていた。バーゼルの大学には、十九世紀末に二人の人物が教鞭をとっていた。一人は哲学者のニーチェであり、一人は歴史家のブルックハルトである。二人の著作から大きな影響を受けていた。特にニーチェ。俺の思想や行動は、凡百の人間には解らない、人の批判なぞ、構わず好きなように思索して生きろというニーチェの考え方は気に入ってはいたが、自分の才能には自信がない。ニーチェは、二十四歳ですでにバーゼル大学の教授だったではないか。西欧への憧れで心が満ちていたから、欧州に滞在できるのはうれしいが、このままでは単純なる知的浮浪者に過ぎない。知的生産人になるには、どうすればいいのか。現在でも同じ課題は抱えぱなしだが、こんなことばかり考えていた時の夏であった。本当に大切なのは、目の前にある問題を着実に、疑わず解決していくことだが、若いころは、こんな方便みたいなことをしても目的に到達するかどうか解らない、もっと簡便な方策を夢見てしまうものである。ニーチェだって、少年の頃ギリシャ語やラテン語のややこしい人称変化や挌変化を覚えてなければ、後年の思想家はなかった。 ニーチェは大学の講義と同時に、バーゼルの高等中学校上級生のクラスを受け持っていた。ギリシャの文献をテキストとしてなされる演習は、厳しいが論理的で、しかも感動を与えるものであったらしい。私の京都大学でも、原文のテキストを読み込む演習は、どの先生も素晴らしかった。学問をする喜びが往々にしてあった。フランスの大学では、こっちの言葉が未熟であり、先生の個性に魅了される経験に至らずじまいだった。まあ四、五年の我慢が必要かと今となって思うが、その時は解らない。美術史でもアンドレ・シャステルのような大先生の演習にでたが、二、三回で止めてしまった。仲間がいない、忠告してくれる先輩がいないのは悲しい。一年間でも真面目に出席していたら、どこかの大学の美術史の先生になってたかも知れない。 バーゼル見本市に毎年通ったが、著中抜け出して、ライン河を見下ろす大寺院(ミュンスター)の庭に時々行った。とうとうと流れる青々とした川面を見ていると、昔のことを思い出す。現在はフェアに出張してきても、市中に泊まれる幸運に恵まれることもなく少なく、通いだし、アポからアポへと多忙なうえ、夜はパーティが目白押し、気の毒極まりない。バーゼルは、街そのものが魅力にあふれた文化都市である。一日ぐらい時間を作って見物に費やす値打ちはある。美術館も多いし、音楽会にもこと欠かない。食べるものもおいしい。 私が通い始めた頃の五十年程度昔のバーゼルフェアは実にのんびりしていたものだった。小さなメーカーは、人待ち顔で、オーナーが外に立っていたし、有名なメーカーも簡単にブースの中に入ることが出来た。バーゼルワールドを組織しているのは、MCHグループという企業だが、今年のFH誌第一号に、百年の歴史が紹介されている。昔の写真が出ていて懐かしい。 もともと、この時計宝飾展の始まりは、「スイス製品総合見本市」で、開催主体は協同組合形式で、ムーバと呼ばれていた。ムーバとは、MUBAで、MUSTERMESSE(見本市)のMUとBASEL(バーゼル)のBAの組み合わせである。歴史上バーゼルは、アルプス以南がくる産物を、ライン川を利用して北へ運び、北の製品を南に送る絶好の交換地点であった。独・仏両国に国境を接する利点もある。この地で見本市が発展したのは、地政学的根拠がある。公共性の強い見本市としてはムーバはスイス最大で、一番古く、一九一七年に始まり、以来毎年春に開催され、発展を続けている。中立国のスイスでなければ、第二次大戦中も開催されたというのは考えられない。はじめはスイスの全産業製品の見本市だったが、まず林業からくる木工関係の製品展がホルツ(HOLZ)として、五十年代に独立。続いて建築関係はスイスバウ(SWISSBAU)となり、ガーデニングがジャルディーナ(GIARDINA)、そして時計宝石がバーゼルワールドで、それぞれの分野で世界規模と言われる。 のんびりしていたと評したのは、組織が協同組合であったためと、時計部門でいうと、日本製のクオーツ時計が世界を席巻して、スイス時計業界が沈滞していたせいだろう。一九八〇年代になって、スイス時計にも活力が出てきたし、見本市も効率的な組織に変貌した。二〇〇三年、チューリッヒの見本市とムーバは合併し、MCHスイス見本市株式会社となった。二〇〇九年に、ホールディング化、MCHグループとなった。バーゼルやチューッリヒのいろんな見本市を傘下に収めるばかりでなく、これまでつみあげたイベントの知識経験を生かして、展示会場の建設会社「エキスポモビリア」、技術系イベント会社「ウィンクラ―」、ローザンヌの展示会設営会社「エキジビット・アンド・モア」やアメリカの同種会社などを保有している。日本の「リード・ジャパン」などにも声がかかっているかもしれない。ムーバは、こんなに拡大しているだが、スイス人はまだ活動の一部門であるバーゼルワールドのことをムーバと呼び続けている。習慣が固有名詞したためだろう。昨年のムーバは、九十九回目で、出展者数も六百十六社、入場者は十三万二千人。付記するとブランド千五百、参加国七十か国、メディア四千三百人。オンラインだけ参加のジャーナリスト三千人。出展者を含めると総勢十五万人になる。バーゼル市全体の人口にほぼ等しいから、ホテルも不足するはず。百年目の今年が盛会であることを願ってやまない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ホンコン宝飾市場に思う 年始から国内株式市場は下落を続けている。年末の日経平均株価は一万九千円台だったのが、一月二十五日には一万六千七百円と落ち込んでいる。下落率は、ニューヨークダウより大きい。引き金は、中国経済の先行き不安だろう。それに先立つ中国株の暴落もある。三年前の日銀の大量金融緩和政策は、結果として株価の上昇を生み、富裕層に安心感を与え、百貨店から高額物が動き出し、消費を引っ張り上げたが、この傾向が今後も続くとは限らない。同じく消費の拡大に貢献した中国人を中心とする爆買傾向も継続するだろうか。爆買の恩恵を被っている時計小売店は、その減少を覚悟しなければならない現状だし、爆買いなんか関係ないよという小売店も、また外国人需要が少なくなってもたらされる不況からの影響から逃れることはできない。その上、時計を製造する側からの論理からすると、市場が厳しくなると、小売市場における自社製品の囲み込みを強化して、弱い囲い込みの数は減らしてでも、売り上げと利益を確保するか、売上拡大のために、新しい出口、ネットとか他業種の売り場を開拓するしかない。いずれにしろ、既存小売店には不利な風が吹くことになる。既存小売店には、いよいよその存在価値が、消費者側からも、納入業者からも問われることになる。今年はきっと難しい時代に突入することになる。この予測が外れてくれることを書いている本人が一番願っている。 さて話が脇に外れるが、昨年末例年のように香港で休暇を過ごしてきた。クリスマス前後になると、普段でも派手な電飾の町が、春節(旧正月)も控え、一層華やかになり、夜の街の輝きは壮観である。海辺のオペラ劇場では、「くるみ割り人形」のバレーを、クリスマス・イブに子供が見た夢の話だから、数回にわたって必ず公演している。馬鹿みたいに、良い老人になっても毎年これを見に行く。香港バレー団の踊り手は、世界に通用する。英国のバレーの伝統と、中国雑技団の示す体のしなやかさを併せ持っている。チャイコフスキーの甘美な音楽に合わせて踊る彼らの美しさに酔いしれる。舞台装置の豪華さには、一日だけの公演で移動する日本のバレーとは違って桁違いに金をかけている。はねてから外へ出ると、イブの夜は、香港中の若者が出てきたような人出。街角で何も起こってないのに交通が遮断され、多くの警官が整理に当たり、平和なデモのごとき様相で、雑踏はノロノロ進む。単なるクリスマスの町のイルミネーション見物に群衆があふれているに過ぎない。冬とはいえ日本の春の宵の気温である。 こんな夜遅くの賑わいに、香港の景気は良いのかと思うとそうでもないらしい。ホテルにあった地元の英字新聞を読んでいたら、「大手宝飾店は、香港の観光地としての魅力が、中国人にとって薄れてきたので、その対応に迫られている」という記事が出ていた。 香港における大型宝飾チェーンストアの乱立ぶりには、長年驚かされてきたし、その繁盛ぶりに日本の業者の一人として常に羨望の念を禁じえなかった。 「周大福」、「謝瑞麟」、「六福」といったチェーンストアーの大型店が、どの街角でも軒を連ねていて、お客がひっきりなしに入っている。日本の客待ち顔の宝飾店では考えられない。繁華街の四つ角が「周大福」に占拠されている場所さえあって、共食いにならないのかと余計な心配をしたり、どうして商売が成り立つのか不思議であった。この十年来中国本土からの客がそれほど多かったといえる。 新聞の報道によると、売り上げの半分は、中国本土人によるものだったそうだ。現状の家賃の高さに音を上げて、「謝瑞麟」はもっと地元の人に、今ある中心地の店舗を移すといっている。家賃は半分になるし、顧客のサービスは向上し、売り上げも安定する。現実には一等地の店舗を一店閉め、代わりに地元の人々が行く場所に三店オープンしている。「六福」の方は、やっぱり一等地に限る、中国人は戻ってくる。但し、今の家賃は払えないといって、目抜き道りのネーザン街にあった、家賃一か月二百万香港ドル(三千万円)の大店を、同じ通りの小ぶりな店に移転している。家賃は四分の一以下で、売り上げは変わらないそうだ。 最大手の「周大福」は、どうせ中国人が買ってくれると考えて、中国本土内の免税地区に出店したり、中国人旅行客が行きそうな韓国に進出し始めている。そのうちに日本の百貨店に 「周大福」がテナントとして出てくる可能性もある電器店の「ラオックス」のように。「周大福」の資本力には誰も敵わないから。そうなると日本の宝石チエーン店は震いあがることになろう。最も、新聞記事は、今や香港の一等地の家賃が下がっているのを、カルチェのような世界的ブランドは、絶好の進出機会とみなしていると報じている。 さりながら、日本人の宝石離れは、近年ますます顕著である。縮小する一方の百貨店独自の宝石売り場にその兆候が出ている。カルチェ、ブルガリ、ショーメといった世界的に有名ブランドは独立して城を構えている。宝石類は原価率が高いので、直営店で小売している。一方、日本最大の宝石商は今やネットジャパンで、年商二千億円という。商売の基本は、宝石をすでに所有している人から買い入れるところにある。本来の売り先から買っている。古い不要な宝石を売り、新しいものに買い替えるならば、業界は活性化するが、多くは「断・捨・離」の生き方の一環である。生活苦から手放すのではない。昔から引き出しの奥で寝ていた指輪やネックレスをもっていったら、温泉旅行に行けたとか、おいしいステーキが食べられた程度の奥さん方が多い。あんなものがお金になって良かったと考えていたりする。 しかし果たして宝飾品は、人生に不要なモノか。宝石店は時がたてば、不用品になる宝飾ばかりを売っていたのか。売り手側にも、考え直すことが多い。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
『時計雑感』 明けまして、おめでとう御座います。国内の時計販売は、昨年末までは、いわゆるインバウンド景気に支えられて、好況のうちに終わりそうです。日本人は外国へ行って、沢山買物をするという常識が、いつの間にかひっくり返って、外国人、特に中国を始めアジア人が日本で莫大な買物をするのが常識となりました。心斎橋に出ると、通りに飛び交うのは、中国語で、一体、どこに自分は住んでいるのかと思われる程です。大丸・松坂屋グループの自店売上調査結果によりますと、昨年八月から十月までの免税売上は、総売上額に対し東京地区で約四十五%、大阪地区では二十二%となっています。ちなみに他地区ではまだ四、五%です。希望的になりますが、この傾向が今年も続けば、時計産業は安泰を保つとおもわれます。安倍内閣には、中国や韓国とおおっぴらに事を構えて欲しくないと、商人として願う次第です。経済成長がかなりの環境破壊を長年にわたってもたらして来たと言えど、日本にはまだまだ美しい風土と文化、人情が残っています。わざわざ遠くから、買物だけでなくとも訪れる価値のある国です。国内では時計の小売在庫投資が著しかったので、それがどのくらい販売につながるかが、今年の鍵です。 しかし、長年の高度成長を誇ったさしものスイス時計業界の長期予測は、スウオッチのような個別企業の鼻息の荒さは別として、全般的に悲観的ないしは慎重です。FH誌の十一月二十五日号によると、一昨年十一月には前年比三%あった時計輸出成長率が、少しづつ右肩下がりになり、昨年八月にゼロに落込み、十月には、マイナス三%に下落しています。これは十月の対香港輸出が四割も減ったこと、対米が十二%減、対日本が、一昨年伸び過ぎたため、伸長率がゼロとなったのが大いなる原因でした。 FH誌を読む利点は、こういった客観的な統計数字を知ることにあります。数字も大切ですが、企業のPRみたいな宣伝めいた記事やFHの地味な活動報告と共に、まあ退屈の部類に入ります。それを多少救っているのは、アート紙の紙面に鮮明印刷された写真です。人によって興味の有方は違いますが、本年十七号の十月二十九日発刊のFH紙には、私にとって興味深い記事が珍しく掲載されていました。その二、三を紹介したい。 「アントアーヌ・シモナン」 時計好きには二通ります。一つは勿論、時計そのものを買いたがる人、つまり蒐集家のタイプ、もう一つは、文献から入って行くタイプ。時計が面白くて、いろいろ買い漁っているうちに、知識があった方が、効率よく買えることが解ってきて、勉強を始めるのが前者。元々、時計も科学史や文化史を構成するから、まず本から行こうとするのが後者。一橋大学で経済史の先生をして、時計史研究の第一人者と目されていた山口隆二さんは、後者の代表でした。この先生に会うと、あの本を買ってあるがとか、この本は読んだかと、実にやかましかった。先生のおかげで、元々の本好きもあり、ある程度の文献が手元に集っています。ホッタの先々代、つまり以前の堀田時計店の堀田両平さんは、なかなかの趣味人で、もともと時計集めの道楽の方がお好みであったような気がします。ところが山口先生と知り合いになられて、文献も沢山おもちであったのは、先生に強引に勧められたからでしょう。亡くなられて、時計関係の蔵書は跡継ぎの、これまた故人になられた堀田邦彦さんが国会図書館に寄贈された。実は、膨大な量の図書を持つ国会図書館のことだから、死蔵されているのではないかと心配していたら、現在のホッタの社長である峯明さんから「きちんと整理されて堀田文庫として利用されています」と教えてくれた。一方山口先生の文献は、トラック一台分、先生の死後セイコーミュージアムに遺贈された。先生の性格から見て、金目の希講本よりも素人にはボロ紙、研究家には重要な資料が多かったと想像します。整理が大変だろうが、今頃は付いている時期でしょう。いずれにしても、東京では時計史の研究をするのが、便利になったといえます。 さてシモナン氏だが、業界でおなじみの人が多いでしょう。今年七十七歳。ビエンヌの時計学校を出て、出版業を経営すると同時に、ローザンヌの時計学校の校長を一九七六年から二○○三年まで務めています。スイスの骨董時計協会の機関誌「クロノメトフォリア」の編集長も長くやっていた。ついでながら同様の権威ある機関誌が、英国にも米国にもあるが、この方がスイス時計産業の現在につながっているだけに一番水準が高い。 シモナン氏が出版した本で、一番有名なのがジュネーブ時計学校の先生だったフランソワ・ルクウルトルの書いた「複雑時計」という技術書で三十年間、版を重ねている。今後サイドビジネスみたいだった時計専門の本屋さんに活動を集中するらしい。出版のほかに三千点もの本を在庫しているという。今後も長生きして活動されることを。時計関係の宣伝ではない本を見つけることは年々難しくなっています。 フェルディナン・ベルトゥー ベルトゥーは、一七二七年スイスに生まれた時計師で、ひょっとしたら時計史では二十歳年下のブレゲより大きな役割を理論的な著書とマリンクロノメーターの制作で果たした人かも知れない。十八世紀では、航海に絶対に必要とされたのは、洋上の揺れや気温変化にも影響されないで正確な時を刻む時計であった。経度は、その時計によるしか知ることができなかった。 ショパールは、一八六〇年にショパールがクロノメーター懐中時計を鉄道用に開発して名を挙げたブランドであった。今の経営者のカール・F・ショイフレが技術の伝統にもどろうとして、ベルトゥーの名を冠した会社を設立し、その名にふさわしい時計を現代の名工たちを起用して作ろうとしたのも無理はない。その第一号の腕時計がFH誌一七号に写真入りで紹介されています。昔の技術を見事に芸術化した稀代の名品で、時計機構がこれほどまで、芸術的感興を与えることができるのかと感心しました。 スウォッチのデザイナー 三十年ほど昔、スウォッチの第一号が世に出たとき、もっさりしたプラスチックのデザインで、こんなもので日本の時計に対抗できるのかと、アルバ時計の発売元としてやや胸をなでおろしたものでした。ところが安物であるはずのプラスチックケースの時計が急激に力をつけはじめ、市場を確保するようになった。その理由は、デザインの新奇性以外にはありません。一九八〇年代にマリーズ・シュミットとベルナール・ミュラーの男女のデザイナーが共同でデザインに当たっています。初期の六年ばかりは、二人だけでデザインを起こしていたので、その原資料が四千点ばかり手元に残っていました。昨年の四月に五千八百個の実物のスウォッチが九億円で競売されたので、サザビー社がこっちのほうを十月十日に競売にかけた。いったいいくらで落札されただろうか。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
人口のはなし 小学生の頃、「鬼畜米英、一億火の玉となって戦おう」というスローガンあちこちでみかけた。戦いが終ってみると「一億総ざんげ」となった。一億人というのは、誇張で、終戦の年、一九四五年の日本の総人口は、七千二百万人であって、人口が一億を越すのは一九六七年(昭和四十二年)である。日本が満州とか中国に海外進出するのは、あの狭い本土だけでは、食べていけないからだと、小学校では教えられた。植えつけられた既成観念はなかなか取れない。人口が多すぎると、国はもたない、貧乏人の子沢山と信じ込んでいた。私の小学校は中国の天津にあった芙蓉国民学校である。ごく最近の朝日新聞によると、終戦時に海外にいた日本人総数は六百三十万人、その半数が軍人・軍属で、残りが民間移住者であったという。我が家もその中に入っている。日本政府は、軍人の帰還はともかく、民間人三百万人も帰国したのでは、住宅も食料も不足して混乱状態となるとみて、一種の棄民政策をとった。「居留民ハ出来得ル限リ定着方針ヲ執ル」と政府は敗戦の前日、各在外公館に暗号電報を打っていた。道理で、私達家族も帰国まで、便が少ないとの理由で一年ぐらい待機させられた。 人口の多さが、弱点ではなく長所と認められるようになったのは、中国が経済発展をし始めた頃からだろう。それまでは、あんなに沢山の人がいたのでは、インド同様、永遠に貧困にあえぐことになると思われていた。中国も一人っ子政策を取らざるを得なかった。文化大革命より以前に、広州へ行ったことがあるが、街に溢れるおびただしい子供達の数に驚いて、これだけの数の人間をどうして養うのかと心配した。公園など公共の場所には大きな看板が、一寸みるのが恥しい図入りで、避妊方法が示されていた。その中国が、今や人口減を気にし始めたとは。 人口数が経済や政治に、決定的な影響を及ぼすと言い出したのは、人口の増加を悲観的な視点でとらえた古典的なマルサスを別として、最近ではエマニュエル・トッドというフランスの学者である。日本の今流行の人口論はみんなこの人から出発しているといっていい。文芸春秋十月号にのっているトッドの「幻想の大国を恐れるな」という、人口十三億人の中国と如何に対処するかの論文は実に有益である。 多くの人口が経済成長率に役立つようになったのは、国内消費が経済に役立つからである。無駄使いをやめて貯金しようという昔の教えは、全く反対になった。六〇〜七〇%というのが日米のGDPに占める個人消費率である。中国は三十五%というから、昔の日本と同じで、まだ一生懸命働いて、輸出で稼いでのが現状のようだ。確かに中国人が消費する意欲が強いのは、日本における彼等の爆買いの様子をみてもよく解る。トッドはあまりにも中国は外需に依存しすぎると言うが、はたしてこの傾向が続くものだろうか。国内でも消費がどんどん上昇するに違いない、と外需依存の頃の日本を知る私には思われる。もしも外需依存によって経済成長が可能なら、それも当時国にとって悪くない気がする。安倍内閣は、円安に踏み切ったが、正式の輸出の数字がさしてのびていないのをみると、先進国間の貿易では、安いから、必ずしも飛躍的にモノが売れるという単純なことでもないらしい。 スイスの内需比率がいかなるものか知らないが、時計だけみても内需は旅行者の買う分を入れても、五%ぐらいしかないから、おそらく低いものだろう。七百万という総人口からみても、スイスに内需の拡大を求めるのは無理な話だ。 昨年は日本とスイスが国交を始めて五十年であった。それを記念して大阪でも「スイス・モデルを考える」という題でセミナーがあった。基調講演をした上田篤という老建築家が余程のスイス好きらしく「日本も浮かれていないで、スイスの質実剛健な生活や思考を学ぶべきだ」と主張していた。そういえば、戦後すぐに日本は東洋のスイスになるべきだという議論が流行ったことを思い出した。道徳講話としては成立するが、現実的に日本はスイスにはなれもしない。人口が違うことが、歴史や文化の差より、大きい。福祉国家の例としてスウェーデンやデンマークの例がよく持ち出されるが、人口の差を無視して同等の比較を日本とすることはできない。 FH誌を読んでいると、従業員が十名から数十名の工場がよく登場する。日本人の感覚でみれば小企業にすぎない。ところが社会的にどれだけの職場を確保して食べさしているかと考えれば、総人口比になってくる。十人働く職場は、日本の百五十人に匹敵する。しかもスイスで製造業に従事する人は全部で六十万人、少ない気がするが労働人口の中で製造業従事者の占める割合が欧州の中で一番高いという。 円安で輸出が期待した程増加しなかったのは、すでに海外生産に頼っていた部分が多かったせいと思われる。スイスはスイスネス法案で長年論議されているように、国内生産志向が強い。今年の始めに、ユーロをスイス中央銀行が一定額を買って、両通貨のバランスを取る方策を止めてしまった。ギリシャ危機でユーロの下落をおそれたためである。スイス人の堅実さをほめたいところだが、当然フランの高騰を呼び、輸出が難しくなった。時計の輸出も、前年度を辛うじて維持しているものの下落気味である。六十万人の製造業従事者も、経営者同様強い危機感をいだいて、全ワーカーを束ねる一種の労働組合連合が、この九月十一日に、スウオッチのニック・ハイエックを始め、著名な三人の工業経営者をよんでシンポジウムを催している。我が国で言えば、連合が主催して経団連のお偉方に意見や方針を拝聴する会みたいなものである。まあ、よってたかって、スイス中央銀行の決断は怪しからん、時期が悪いという合唱になる。スイスでも工場を国外に移そうという動きはある訳で、ハイエックはスイス国内製の重要さを指摘して、いくら困難があっても、国内でイノヴエーションをすすめ、国内の総力を集め、スイス製の優位を保たねばならない、とどこかの国の首相みたいな景気の良いことを言っている。スウオッチの好業績からくる自信だろう。とにかく、このFH誌第十五号にのっている新聞記事は面白かった。 人口論雑話のついでに。スイスの六十万人の工場従事者のうち、時計関係では約一割の六万人が働いている。事業所の数は六百五十七ある。一種の産業別労働組合があって、集団的に労使交渉が行われている。夏になると、一斉に工場が閉鎖休暇となるのはその交渉による例である。大体八五%ぐらいがこの協定に参加していて、残りは小さな企業である。日本と違って一社だけ抜け駆けというのができない産業構造がスイスらしい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「おことわり」 つい先日のことだが、中之島にあるなじみの鮨屋によった。まだ宵の内だったので、客は誰もいなく、五十代の主人と雑談になった。むかしは、つけ台にのった鮨には目もくれず、煙草をふかしながら酒ばかり飲み、話に夢中な人がいたなあ、禁煙が常識になって良かったと言うと、その代わりITバブルも敵いませんで、鮨食べながら、ケータイばかりみていると答えた。店にも多少敬意を払ってもらいたいという気持が表情に出ていた。四十前後、頭は剃り上げ、黒服にノータイ、リボンにカードをぶら下げ、高級外車でのりつける姿は、傲岸にみえて仕方がない。ITをさっぱり理解しない老人のひがみか。しかしこういった人達が、高価な時計を買って下さる重要な得意先である。悪口は自重した方が良い。 高級時計の愛用者というと、以前は個人のお金が自由になる自営業者、開業医、俳優業、プロスポーツ関係者、及び明確な職業名のあてはまらない人々であった。それが、ITでお金もうけをした若者達が常用するに至って、高級時計のフアンはふつうのサラリーマンの間にも増えて来た。かって一ヶ月分の給料以上の金額を一個の腕時計に支払って買うのは、若者としては法外な行為とみなされていた。しかし今や、普通になっている。それだけの価値があるのだから、買える人は買えば良いのではないか、というのが世間の見方になっている。一点豪華主義といった、画一された価値にのっとったものでもない。その為に他の出費を切りつめるのでもない。時計の愛し方も、いろいろあるな、と機械ものに関しては徹底的にコスト・パーフォマンス重視の人間は考える。高級時計の製造者にとっては実に嬉しい状況である。 料亭やらレストランのオーナーにも時計好きが多い。京都の祇園にある、忠臣蔵の大石内蔵助が放蕩のふりをして通ったという、「一力 」の先代も名だたる時計マニアであられた。「一力」の近くに「丸山」という料亭がある。建仁寺の南にも、もう一軒ある。二つ共、昔の町屋を買い取って、建てるより高い費用をかけ、昔通りに完全に修復して、料亭として使っている。材木から始まって調度の隅々まで、主人の丸山さんの意志が明白である。完璧主義は当然調理まで及んでいて、味と美の両方を追求して止まない。この人も無類の時計好きで、当方が時計屋と知っているから、時計の話をし、いつも、調理のヒマに顔を出して行く。このあいだも京都国立博物館で、琳派に関する見事な展観を見たあと祇園の店によってみた。入り口のカウンター席で食べていると、その日は忙しくなかったのか、長く話し相手をつとめてくれた。時計の話ばかりでなく、自分の話もしてくれた。主人は、和服のメッカである西陣界隈で育ったという。西陣の着物屋の話をきいて、スイス時計産業の成立とよく似ているのでハッとした思いがあった。 西陣では、一枚の和服を仕上げるためのあらゆる工程が、独立した職人の分業になっているという。織り、描き、染め、縫い取り、刺繍等等。白い絹の原反から、あとは仕立てれば良いだけの反物にするまで、いろんな人の手を経る。主人は子供の頃、あちこちの職人さんの家へ使いに出されたと言った。美しい和服は、全て一級の職人さんを選んで作られる。優れた料理同様妥協のない世界である。私の母は着物道楽だったが、すれ違った女性の和服の質を言いあてた。ああ、ええもん着てはる。 一枚の和服は、西陣というコミュニテイの共同作業の産物である。ひとりの業者が全ての職人を雇って一貫生産しているものではなさそうだ。コミュニテイの歴史文化がそこで作られる和服に反映している。バブルの初期、豪華で高価な総絞りというのが流行したことがある。手作業で絞るのだから、人件費の安い韓国で絞ったものが、やや安価で出回った。母は実物を店頭でみて、一言でこんなもんあかんと言い放った。現実はその通りになったが、手作業がかかわる限り文化的伝統を移植するのは、至難の技である。移植可能なのは、すぐれた機械による大量工業生産品である。 生活を快適にする必需品は、良品で安価であればそれに越したことはない。正確で堅牢な時計はついこの間までは必需品であった。クオーツ時計の出現は、人々の欲求を満たした。安価良品を作る技術において日本は世界に類をみない。日本の経済発展は安かろう悪かろうの概念を駆逐したところにある。 ところが、ケータイの普及と共に、時計の必要が消滅したといってよい。時計を腕につけているのは、慣習的に見やすいと言う理由にすぎない。時計をつけ忘れたからといって慌てる人は少ないが、ケータイを忘れたとなると心穏やかにしていられないのが、現代である。時計が不要になってから、スイスの伝統的な機械時計が復活した。太陽光で動き続け、電波で正確に時間を制御する時計に比べれば、手巻き時計などは、クランクを手で回して、エンジンを始動させる初期の自動車みたいなものだ。自動巻きといっても、二日も机上に放っておけば止まってしまう。それが何故今の若者達の関心を買っているのか。勿論、各高級メーカーの巧妙なマーケッテイングの影響ということもある。しかしマーケッテイングだけで、説明できないものがある。カルチエやヴイトンは、フランスの、グッチやブルガリはイタリアのブランドである。それが時計を発売するとなると、スイス製を強調する。一時的に、日本の時計メーカーに名を貸したOEMが流行したこともあった。歴史を誇るファッションブランドはみんな名前貸しから手を引いた。日本制の質の高さを知り抜いていたにも拘わらず。スイス製にこだわるのは、やはり時計の生産がスイスの歴史と文化に結びついているせいだろう。私のこれまでの文章はグルグル回りをしてきたに過ぎない。 F・H誌と表記したのは頭文字を取った「FEDERATION HORLOGERE」(スイス時計産業連盟)の広報誌で、年に二十回発刊されている。この連載を始めた頃は、ザラ紙をホッチキスで綴じたような貧相なものであった。スイス時計の隆盛に従って装丁も立派になり、オールカラーの写真入り、殆んどが、仏、英両語の併記になっている。七十頁程に、連盟の事業報告、加盟組合員約四百社の様子、目立つ新製品の紹介、地元新聞の時計関係記事の転載がつまっている。広報誌だから、抑制された筆致だが、それだけに信用できる。商業時計雑誌のように広告主に迎合した誇張はない。これを読めば二週間ごとに、スイスの時計業界で何が起っているかよく解る。これまで適当な記事を選んで、解説とも印象とも言える文章を書いてきたが、マンネリになって来たのを感じて、月一回の連載を編集長に頼んで変えていただいた。今後は、各号ごとの論評にならないがご了解下さい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
時計製造の分業 今号のFH誌には、時計のケースや、機械部分に彫刻を施す専門家への取材記事がのっている。金銀プラチナ素材の彫刻は、現在でも、機械化されていない。殆んどの工程が手彫りである。幾何学的練り返しの、パターンは、いわゆるギョシネ彫りは機械を使うが、その時でも手作業は重要である。芸術的な模様となると、多種ののみを使った手作業になる。手彫りだと陰影やら光の輝きを計算しつつ仕事が進められるそうである。この専門家はラ・ショードフオンの工芸学校に入学したが、コンピューター使用の部分が少なくて、彫刻の仕事を選んだという。日本でも時計の裏盤の記念文字の彫刻を頼んでも、たいていはコンピューター文字で、実に味気ない。スイスに送って、彫り込んでもらっても、英字は良いが漢字は駄目である。今や、インターネットの時代だから、金属手彫りの名手がいれば、必ず需要があると思う。もしも、お知りの方は御教示願いたい。 時計には、いろんな種類の分業があって、彫りとか磨きとか、二十ぐらいに分かれている。それぞれメチェ(フランス語では職業、熟練、役割といった意味になる)例えば、工芸学校の工芸は、アール・エ・メチェという。芸術性と職人技を同時に学ぶことを目的とした学校である。ヨーロッパだと、大きな都市に必ず工芸学校があり、学校教育の中で重要な位置を占めている。我が大阪にも、いい工芸高校があるが、大学でないために、忘れられつつある存在である。へんな大学へ行くより、高校の段階で、みっちり職人技と審美眼を養う方がいいと思うのに、学卒でないと肩身が狭く感じる社会なのか。 時計の中で、一番地位の高いメチェは、完成品を仕上げる組み立て工である。ウオッチメーカーと英語では言っている。時計の制作初期段階では、一人が時計を全部作っていた。分業になっても、その技術に対する尊敬が持続したのだろう。時計作りも、中世以来のギルド制であった。フランス語ではコルポラションという。英語のコーポレーションにはこの意味はない。親方がいて、弟子に立派な職業教育をするこのシステムは同時に排他的同業組合で、法律で保護されていた。スイスでは、ジュネーヴで時計産業が始まったといえるが、時計のギルドの政令は一六〇一年にすでに発令されている。一六九八年に時計ケースのギルドが独立し、一七一六年時計彫刻師のギルドが制定されている。 時計市場が拡大し始めたのが十七世紀の後半からで、このあたりから分業化が急速に歩み始める。一六六〇年頃に、ゼンマイを専門に作る職人達が出て来ている。同時に易しい仕事、下げ鎖とか、機械やケースの磨きの簡単な部分には女性の職工が従事するようになった。そのうちに地板と、歯車をその上に組み上げて完成する職人とが分離してきた。地板はエボーシュのことである。地板は工程に熟練を要さないので、ジュネーヴ市外の職人に外注するようになる。十七世紀には、エナメル琺瑯絵の職人が加わる。ジュネーヴのエナメル絵は、他が真似することが出来ない特産品となった。ちなみに一七八五年、あとで出てくるジャン・ジャック・ルソーの死ぬ三年前だが、この頃のジュネーヴ時計師は景気が良くて、注文に応じられないぐらいであった。それまでは親方一人につき内弟子は二人まで、親方の手伝い二人までと決められていたが、手伝いを三人まで認めると政令は改正されている。いろんなメチエの親方のトップにいるのは組立職人の親方であった。 ジュネーヴの街は、レマン湖の岸辺は美しいし、近代的な商店街も人目を引くが、やっぱり少し丘を上った、サン・ピエール教会のあるあたり、旧市街が魅力的だ。そこの中心街、昔の銀座通り、グランリュー(大通り)の中ごろに、ジャン・ジャック・ルソーの生家があって、一寸した記念館になっている。少年の頃、ルソーは時計師の修行に出されたと言うが、実は時計彫刻の親方に弟子入りしたのである。五年で一人前に育て上げる契約で金を払い、住み込みで修業するのだが、ルソー十五才、親方は二十一才。かなり乱暴な男だったようである。自由人的な性格を持っていたルソーにとって、仕事ばかりの生活は辛かった。その弟子生活の様子が自伝『告白』に描かれている。仲間達のバッヂ用のメダルをこっそり彫っていたら、贋金を作るのは相成らんと、ぶんなぐられた。という話が出ている。三百年も前の話だから、修業はそんなものだろうと読んでいて思うが、文句をつけるのは流石、人間平等説、幼児教育寛容説のルソーらしい。ルソーは三年間我慢したが、ある日突然、親方の元を逃げ出し、放浪の旅に出てしまう。衝動的にみえる家出が後年の大思想家ルソーを作るが、これは又別の話である。 ルソーの父イサックも祖父ダヴィドもかなり名の知れた時計師で、作品も残っている。当時のジュネーヴの社会は、フランスのように王制ではなく、共和制であったが、それでも身分制度が存在していた。それは五つに分かれている。一、市民(生粋のジュネーヴ生れ)二、町民(市民の子だが、生れが他国)三、出生民(住民の子だがジュネーヴ生れ)四、住民(在住外国人)五、隷属民(市外に住む農民など)。参政権は一と二とにあり、時計師もこの二つの階層のみ許された。ルソー家は市民階級に属したから時計作りを仕事にすることができた。 ルソーの思想は、一七八九年のフランス大革命の背景となる。革命はジュネーヴにも波及してフランスに併合される。ナポレオンの失脚後、独立し、スイス連邦に加盟することになる。合併されるまでジュネーヴは小さいながらも独立国であった。韓国人が日本人に対して往々愛憎併存するような同じ気持をスイス人はフランス人に対して、心の底に抱いていることが感じられる。 フランス革命直前、ルソーが生きていた時代のジュネーヴの時計産業は、三人から八人ぐらいの工房が沢山あり、一七二五年には、十人の男のうち二人が、一七八八年には十人の男のうち四人がそこで働いていた。一七八四年の統計によると、女性、郊外地区の住民合せて五万人が時計作りにかかわっていたという。年間生産量は十万個であった。工房の中で、特に、部品を組み立て、最終製品に仕上げする人々を、カビノチエと呼んでいた。カビネ(小部屋)から来ている。ジュネーブ製の品質が優秀とされたのは、多くのカビノチェが競争して品質の良さを争ったためとされている。 部品を買って来て、組立てて売る企業をエタブリサールと言い、部品を社内で作る一貫生産する企業をマニファクチュールという、と書かれ、マニファクチュールの方がすぐれている印象を与えられるが、時計製造の歴史的流れをみると、必ずしもそう単純なものでもない。それを知ってもらいたくこの稿となった。なお前号のFH誌が手元に見あたらず一号飛ばしたことを了承して頂きたい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
時間と人間と時計 「時間は私たちを包み込み、私たちを形作っている。私たちはそんな時間の中で生きている。でも私としては、時間を良く理解したと思ったことはない。時間が折れ曲がったり、元に戻ったりするとか、時間の体系には今の時間の体系と異なって併存するものがあるという学説のことではない。私が分からないというのは、時計の秒針がコチコチと原則的に刻む普段の生活の時間である。秒針ほどけなげなものはない。時間が鉄を叩き延ばすようにどんどん延びていくのを、私たちに教え告げる苦労と言うか、小さな喜びと言うか、その役目を担っている。感動すると針は早く進み、その逆を感じる心の動きもある。時は進行する度に時は失われる。そしてある時点になると時は決定的に失われ、後に戻ることはない」。 つい先日、香港で本屋に寄ると、英国の現代作家ジュリアン・バーンズの小説「終わりの感じ」を見つけ、気楽に小説を楽しもうとホテルのプールサイドで読み始めたのだが、冒頭からこの一節が出てきて、考え込んでしまった。 時計は時間を測る機械だが、測られる時間に関しては、誰も良く解ってない。大哲学者のカントも時間の説明については、お手上げで、時間と空間は人間の意識の底にある二大直観形式と言ったそうである。良く解らないけど存在することは、否定できない。多くの人もこのように考え納得しているだろう。 秒針の動きを見ていると、未来に向けて直線に進んでいる気がする。もしも、生まれた時をゼロとするデジタル表示をするなら、人は今何歳かと意識する代わりに、今生後何百万何千秒と言うことも出来る。そんな個人的時計も出現するかもしれない。時が未来に向かって、まっしぐらに進行するという考えは、キリスト教徒が、キリストの生誕をもって起源元年としたところから始まったとみなされる。 時間には、直線性と循環性があるのは、誰でも知っている。夜が明け日が暮れ、一日が終わり次の日が来る。一年も春夏秋冬がめぐり次の年になる。その年も十干十二支の組み合わせで、六十年に一度もとに戻る。明治までは、年は、西欧の十進法と違って六十進法で言った。日本史の勉強は厄介だが、ことあるごとに、明治以前は年号が変わった。時間は年号とは関係なく繰り返されるが、循環するその期間内で新しい決意が生じ、変化が生まれ、いい方向に向かうだろうという期待が生まれる。 また同じ時間でも、江戸時代は不定時制だから、季節によって昼と夜の時間の長さが異なった。和時計の職人たちは、機械が必然的にもたらす等時性を、文字板の表示のコマを可動にしたり、歩度の異なる脱進器が、昼夜交替する工夫をした。人々にとって昼と夜の時間の長さの隔たりは当然であった。時間の長さは、季節によって違うように、人によっても違うとも思われていた。時間の長さが同じと認められたのは、明治六年、西洋暦法及び定時制が採用されて以来である。それまでは、時計は輸入されていたが、定時制との差があって普及することはなかった。輸入時計にはややこしい換算表が付けられていた。 その頃スイスでは、時計産業が成熟しつつあり、輸出先を求める機運が高まりつつあった。ただジュネーブ製の時計は人気が高く、売り先にはさして困らなかったようである。幕末近く、幕府はオランダに技術留学生の一団を送っている。その一人は、スイスに出向いて、パティック・フィリップで研修している。帰国して、大阪造幣局に技官として出仕している。 大野規周という人物であった。この人物については、後日触れたいと思っている。明治六年、明治政府は大規模で長期の欧米使節団を、西欧文明を実地に学ぶために組織した。岩倉具視を団長に、新政府の梶をとる要人が殆んど加わっている。米国から欧州各地をめぐり、翌年にはスイスに行き、ジュネーブのパティック・フィリップの工場を訪問している。すでに工場内の分業は確立し、工場外の下請けを含めて三千人の工員が働いていたと報告書には記載されている。大野規周からの進言でこの工場を訪問したものと思われる。 昨年は日本とスイスとの国交が樹立されて百五十年になった。スイスからの交易使節団が横浜に来たのが一八六三年で、生麦事件が起こり、長州が連合四か国と戦争したり、薩英戦争がおこったり、激動の年であった。幕府にとって、どこにあるのかわからないスイスとの交渉に乗り気になれなかったのは無理もない。結局一年ぐらい待たされ、日本人が良く知るオランダの仲介もあって、翌年に修好通商条約を結んでいる。実は、その四年前に一度使節団が来ていたのだが、代表がリンダウというプロシャ人であったこと、その性格が悲観的であったことでうまくいかなかった。このリンダウと同行して、日本に滞在して商売を始めたのが、ジラール・ペルゴーの義弟であった。今回の使節団の代表は、エメ・アンベールで国会議員であったが、ラ・ショードフォンの出身で、今のFHの前身で五年前に設立された時計製造業者連盟の会長でもあった。エメは、時計やオルゴールは、江戸の住人にとっては、空想上の産物だが、そのうちに売れるようになると、考えていたらしい。長引く交渉の合間に、銅版画家を連れて、日本の各地を歩き、日本の風俗を印刷して、スイスで出版している。「幕末日本図絵」として講談社の学術文庫に入っているから、あの著者かと気づかれる人も多いだろう。使節団六名の中には、知る人も多い。時計製造業のファーブル・ブラントがいて横浜に居残り商館を経営するようになる。司馬遼太郎の小説「峠」に登場する。ブラントもペルゴーもル・ロックルの出身だから、ラ・ショードフォン地区の時計業者の利益代表と考えてよかろう。ジュネーブより大量生産が進んでいて、販売先の拡大がより必要とされていたとみる。 スイスの政治家が通商の拡大に全力を注ぐのは、今号のFH誌の大統領をはじめほぼほぼ全閣僚が、自由貿易協定終結の為に、インドを訪れた報告でも良く解る。勿論FHからも随員がでている。かって、ドゴール大統領は池田首相と会談した後、あれは政治家でなくてトランジスターラジオの商人だと言った。当時は、情けないと思ったが、今はそれでよかったと思うようになった。理想主義も必要だが通商主義も両両あいまって、平和に貢献し得るからである。年々政治の中でも経済の力が強くなる。 なお、エメ・アンベール使節団に関するいろいろな資料の展示が、八月二十日から二十五日まで東武百貨店池袋のワールドウオッチフェア催事場の八階で催される。多くの人が見られることを願ってやまない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
『時計技術の将来は?』 昔の商人の子弟は、いくら裕福な商家でも跡継ぎの長男は、なかなか大学なんかにやってもらえなかった。商人が学問すると、他に興味を持ってろくなことにならない。家業がおろそかになるというわけである。大抵は、地元の商業学校に行かされるのが普通であった。成績が余程良いと、小学校から先生が父親に会いに来て、普通の中学を志望させるように説得に来たという話を良く聞く。中小工場主の息子たちはそれが工業学校だった。 戦前の日本の商工業の発達は、小学校で義務教育は終了であったから、中学段階での五年間の商工業学校の実務教育の充実にあった。大阪のことしか良く知らないが、その子は公立の天王寺商業とか私立の大倉商業、または都島・生野・西成の工業学校出というと、尊敬の目で見られたものだった。勿論、名門中学から三高・京大と言ったコースを進む人に対する尊敬とは異質だが、そういったエリートは庶民の我々には関係ないと、多くの人は考えている。 敗戦後の日本の教育の失敗は、東大出を中心とする旧帝国大出のエリートが官僚を占有し、軍人の言うがままになったと米国が判断して、エリート教育を排除した事だった。いろんな種類の教育を望んで自由に受けられるようになったのはいいが、この七十年の間にすっかり学歴社会になってしまった。新制商業高校も工業高校も三年間で実務の腕も大して磨けない。出世も早いし、給料も良いから、みんな普通の教育を受けて大学を目指すようになった。しかし、大学は六年生の医学部を除いて、すぐに役立つ実務教育を施すところではないと一般にみなされている。商学部出の新卒は、果たして決算書を読み取ることができるだろうか。まして作るとなるといかがなものか。機械工業出身の新卒は、旋盤を使えないと、例えば時計の設計が出来るかしら。恐らくそんな実務は大学では教わっていなかったというに違いない。日本の場合、実務は大抵就職してから、企業内で教育されることになっている。外大のロシア語科を卒業した学生は、本来ならば明日からモスクワの街頭へ放り出されても、仕事が出来るべきである。それを当然と考える雇用主も本人も、日本にはいない。難しい外交官試験に通ったところで、国費で一年ぐらいは語学研修をさせてくれるのが日本である。 スイスでも、職工は時計学校出身だけでは不足らしく、ヴァレ・ド・ジュは、ブランパンやブレゲ、エタの工場のある地区だから、スウオッチが特にいくつかある時計製造の職種であるマイクロメカニックの養成機関を作っている。細かい部品の作業をするので、熟練工を必要とするが、現地の学校だけでは人は賄いきれないと、本号に載っている。 日本にある時計学校は、東京ヒコ・ミズノ時計学校や近江時計学院、あるいは大阪の時計小売組合のやっている職業訓練学校があるが、そのほかにあるかどうかは知らない。しかしどの学校も、修理技術の習得が主たる目的で、製造する人を教育するものではない。中には自分で作りだす人も出てきているが、ごく例外である。学校と言っても、水野さんの所だけが三年制で百八十人の生徒がいて、独占している形だが、あとは十名程度の生徒で、これだけ機械式時計が売れてる現状から見て、修理の職人を確保するだけでも将来大変だろう。 修理職人の多くは、職業としてこの道に入ってくる。毀れた時計を直すにしても、部品が存在するものしか直したがらない。自分で部品を作るのは手間がかかって仕方がないし、高額を請求するわけにもいかない。根が本当に機械好きなら、何とか動かそうとするものである。時々、車のメカニックで、ぼろぼろになった昔の自動車をピカピカに修復して、喜んでいる人に会うが、日本の時計修理職人で、この種の方にはめったにお目にかからない。頼めば出来る人はいるが、レストアー(修復する)ことに純粋な喜びを持つ人はいない。 今は時めく、フランク・ミュラー、P・F・ジュルヌ、アントワーヌ・プレジュ―ゾ、クリストフ・クラレアンといった名時計師の面々も、みんな少年のころから時計機械好きで、修理から出発した人である。彼らはみんな、手作りでたった一個の時計を制作することができる。しかし将来、製造機械の方が発達して、手作りの技術は埋没されてしまうことを恐れている。こういった技術は保存する努力をしなければ、失われることは必至である。江戸時代の職人の彫金や金蒔絵を再現できる人は稀少となった。 前記の名時計師たちと同じような経歴で、ヴァレ・ド・ジュの大メーカーに勤めて、独立した人にフィリップ・デューフールがいる。彼と「グル―ベル・フオルセイ」というブランドで、とても複雑で高価な時計を作っているロバート・グル―ベルとステファン・フォルセイの三人が語り合って、どうすれば手作りの、まず簡素なデザインで三針・手巻き、昔のブレゲが作ったようなトゥールビョン付きの時計を作る技術を誰に教えようかということになった。この計画は二千九年に始まり「時計の生成」計画と名付けられた。白羽の矢を立てられた継承者は、パリのディドロ職業訓練学校の時計の先生をしているミッシュル・ブーランジェだった。先生のミッシュルが、今度は生徒になって、月に一度、ラ・ショードフォンまでやってきて、右記の三人のほかにも、多くのグル―ベル・フオルセイ工房の専門家から教示を受けていた。 六年計画だったが、この度第一号が完成、販売に付されることになった。実物の引き渡しは来年末になる。その後十一個同じものが作られるが、この売り上げの一部は、技術保存のための財源に用いられる。どのぐらいの値がつくのか、一寸楽しみである。 この記事は、以前に少し紹介しているが、今号では、実物の写真も出ていたので詳しく紹介した。 日本的に考えれば技術の伝承など、親方が内弟子でもとって、こっそり、着実に伝えればいいと思うが、こんな仕掛けで世間を騒がせないと、一般の関心は得られないと見たのだろう。そのうちにパリの南西郊外にアトリエを持つミッシュル・ブーランジェさんが日本で講演をする日が来るかもしれない。 カルチェも一九九三年以来、スイスカルチェ時計制作学校というのを持っている。その学校が時計学校であろうが、職場であろうが経験三年未満二十五歳以下の職人相手に、六四九七というムーブメントを使用したかったデザインコンテストを毎年していて、今年の結果が出ていた。入賞作品を見ても、モダンアートみたいで、時計とは思えない。しかし面白い。賞金としてカルチェの時計というのも面白い。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
アーミーナイフ 日本人の性格を好戦的にみた、米国政府は、第二次大戦の勝利後、占領国日本に武力放棄を根幹とする新憲法を作らせた。確かに、国家間の紛争の解決に武力を行使しないという理念は、理想として素晴らしい。それが空理空論であることは、生みの親である米国が、以来七十年、戦争ばかりして来た事実が証明している。しかし、その間、我が国は平和憲法を巧みにあやつって戦争に係ることを回避して来た。正しい戦争よりも、悪い平和の方が良いというのが実感である。 ところが、安倍内閣になって、その方針がやや怪しくなってきた。基本的には、これだけ世界が狭くなり、徳川期の鎖国平和主義みたいなことは、言ってられない。世界平和と民主主義の番人でもある同盟国の米国にも多少の義理立てもある。海外で軍事行動の援助ぐらいは当然だろうという論理で、そのために憲法第九条を改正する必要があるなら、国民投票でという腹案らしい。しかし、ここには大きな要因が論議されていない。それは、誰が戦うのかという観点である。今の自衛隊は社会学的にみると応募によるサラリーマン集団である。命を張ってまでも、任務を遂行する人がどのぐらいの比率でいるだろうか。かつての日本帝国軍人とは比較になるまい。平和ボケは国民の間だけではなく、自衛隊でも蔓延している筈である。戦死者が百人単位で、輩出した場合どうなるか。国民に兵役の義務という意識がないかぎり、国民投票など無意味である。 その点、永世中立国であるスイスは今でも国民皆兵である。兵役に適さない人は、社会奉仕を強制される。女子は志願制である。常備軍は極端に小さく、一旦事あれば、全員が参戦の体勢を取る。ハリネズミ式防衛で、やわな中立ではない。 国民軍という思考は、ナポレオンが打ち立てたもので、それまでの軍隊はたいてい傭兵制であった。その頃までのスイスは非常に貧しく、主たる収入源の一つは、出稼ぎの傭兵であった。スイス人の傭兵は、勇猛果敢の上に契約に忠実なスイスらしい律儀さで、知られていた。傭兵はいざ土壇場になるといつ裏切るかも知れない。今でも、スイス人の衛兵がヴアチカン公国で、ミケランジェロのデザインした制服でガードしているのは、その伝統の残りである。 スイスのお土産の代表は当然時計にチョコレートにアーミー・ナイフがある。アーミー(陸軍)といっても、スイスの赤地に白十字の国旗がついていると星条旗や日の丸がついているのと異なって剣呑な気がしない。国のイメージは、その国の人にはなかなか解らない。よくご存知の色々な道具が収まっている便利な万能ナイフである。何故こんな平和的なナイフにアーミーとついているかというと、スイス陸軍の支給する小銃を解体するために作られた道具から出発しているからである。百年も昔の話だが、陸軍は元々ゾーリンゲンのドイツ製を使おうと予定していたのだが、カール・エルスナーという男が、スイス製でも十分に立派なナイフが出来ると立証したので採用されることになった。ドイツ勢の価格攻勢に耐えるため、エルスナーは、家庭向けの刃物や髪剃り刃などを開発し、多様化によって、アーミー・ナイフの利益をカバーした。いろんな道具が一体になった万能型が売り出された一八九〇年のことである。これが、アーミー・ナイフの製造元、ヴィクトリノックスの出発点であった。会社の現在の公式名称もヴィクトリノックス・スイス・アーミーである。 この会社の新聞記事が、この号のFH紙に転載されている。 アーミー・ナイフは一社の專売でなくて、もう一つヴェンガー社が作っていた。時計とナイフをセットにしてアメリカで一九九一年に売り出したところ、これがアメリカ市場を瞬く間に席巻して、その名は米国中に知れ渡った。いつか、バーゼルに行った時、アメリカの時計商が、ヴェンガーはよく売れるといってカタログを見せてくれたが、何だこれはヴィクトリノックスのコピイではないか、と思った程、ヴェンガーの方は日本では知られていなかった。 もう一つ面白い事実は、アメリカにヴィクトリノックスを輸入していた会社が、ご本尊より先に一九八四年に時計を作ることを思い付いて、スイス・アーミーの名を商標登録して、アメリカで時計を売り出し、これが成功してスイスのラショードフオンに工場まで作り、購買者にとっては実に紛らわしい事態になっていた。本来ならば本家争いの泥仕合になるところ、二社は、話合いで二〇〇二年に合併し、今の社名になっている。又、この会社は二〇〇五年にヴェンガー社を買収している。 こういった会社だから工場をあちこちに分散しているので、業績好調の折り、時計部門はヴェンガー発祥の地デレモンにまとめようとする、ヴィクトリノックス社の方針発表が記事である。小売四万フラン以下が、若者向けのヴェンガー(クオーツ)その上が二千フランまでの、機械式を含む、やや高い年齢層のための時計はヴィクトリノックス。工場には二年間で三千二百万フラン(五十億円)の新規投資するらしい。ケースもスイス製と表示する権利を得るための自社製造の予定という。(つまり今は外国製ということ)現在の行員数は百五十名だが、二十名は増員の予定になっている。 FH誌の編集者はこの会社についてこんな紹介、囲み記事を入れている。紹介しておく。 一九九〇年以来、刃物のヴェンガーとヴィクトリノックス二社は、製品の多様化を計って来た。ヴィクトリノックス・スイス・アーミーの時計発売は一九八九年、ヴェンガーは一年先行。多様化は時計だけでなくカバン類にも及んでいる。「ニューヨークが攻撃された二〇〇一年十一月十一日以後、免税店でのポケット・ナイフの売上げは激減した。以来多様化の要請は緊急課題となった」と時計の責任者のベヌーナ氏は言っている。ヴェンガー社の破綻は、他にも要因があったが、スイスのシンボルのような名を埋没させるに忍びなかったし、アジア人の手に渉ることも阻止するために、ヴクトリノックスはニ〇〇五年買収に踏み切った。二〇一三年まで、両方が刃物を製造していたが、今はヴェンガーではやっていない。ヴェンガー工場で、ヴクトリノックスが製造している。ヴェンガーの主力は、時計と鞄である。グループ全体から見ると、時計の売り上げが二〇%である。 余計なお喋りと、ナイフ屋さんの時計の話で紙面が尽きてしまった。終わりにもう一つ、三人の優れた時計師が協力して、まったくの素人に、自分だけの時計を自分で作れる工房「INIITI,UM」というのを作った記事を紹介したり、入門すると、一日か二日で、高級時計が組み上げられるシステムになっているらしい。この世に一つしかない時計を持てるのは興味い話。時計道楽もここに尽きるか。詳しくは、www.initium.chを(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
今年の「バーゼルワールド」 バーゼル時計宝飾展が「バーゼルワールド」と固有名詞化されて数年が経つ。バーゼルから毎年春に発信される時計宝飾品の全世界的な情報との意味を込めての命名だろうが、毎年全世界の耳目を集めつつある。富裕階級の消費生活にはあまり興味を示さないはずの「朝日」にもその記事が載るようになった。フランスのインテリ層の読む新聞「ル・モンド」もバーゼルワールド特集号を組みようになって久しい。バーゼルワールド」は、ディズニーランドと同様、公共性をある程度保ちつつも完全な営利団体である。 「バーゼルW」によって、業界の繁栄が促され、更なる発展を願って出展し、同展が拡大するという好循環が長く続いている。時計・宝飾の世界が意外と狭いというのも、「バーゼルW」の強化に繋がっている。七夕の伝説ではないが、一年に一度でも合っていれば、永く続くうちに親交も生まれ得る。しかも、この世界は主としてユダヤ人、華僑、インド人で成り立ってきた。これらの人々の間の情報共有傾向は非常に強い。今でこそ、出展業者も来訪社もアポイント、アポイントと多忙だが、つい十年ほど前までは、人気ブランドは別にして、大抵の出展業者は、商談よりも近隣外交、つまりおしゃべりの方に時間を費やしていたような気がする。注文をくれないのは客でないという世知辛さは、ごく近年の風潮である。そんなのんびりした時代でも、多くの業者が出費を嫌わず出展したのは、毎年春になると世界中からなじみの、あるいはその予備軍の顧客が訪ねてきてくれるという期待があったからである。こういった交易市の伝統は、バーゼル市の歴史に繋がっている。昔からバーゼルは領主の町ではなく、商人が差配する町であった。会場では、よく「また来年バーゼルで逢いましょう」と握手して別れる光景が見られたものであった。それを言われるたびに、靖国で逢おうでなくてよかったと内心思いつつ手を差し出していた。中世のバーゼルは神宮ならぬカトリックの司教の領土であったことからの連想である。最近は、乗るか反るかの厳しい交渉が多いので、そんなこと言ってはおれない。今が勝負の今日の世界は、今年悪くても、来年は頑張ろうね、、世の中風向きもあるしね、は通じなくなった。風待ちが許されるのは老朽化した船にだけである。 今号にはFH誌の編集長ジャニ―ヌ・ヴィユミエ女史の詳しい「バーゼルW報告記」が載っている。巻頭に彼女が上手く要約しているので引用する。 今年はコンピューター連動の時計特集の観があった。「連動性」という言葉を使っていろんな形の時計が、いろんなメーカーによって発表されていた。現物の時計は、数か月以内に、あるいは来年には市場に登場するインテルとか、グーグルと提携して、睡眠時間とか、スポーツのリズム、支払い期日などを時計が指示してくれる。時計が、時間だけを知らせるだけでなく、コンピューターと連動して、別の役に立つ神話時代の始まりで、どこに着地するかは時間がかかるだろう。 確かに彼女の言うとおりで、行き先は混頓としている。ただ携帯が出現したお蔭で、もう時計が不要になったという議論は、この種の時計の出現で成り立たなくなったのは確かである.例えば、今号に紹介されているフレデリック・コンスタンの「バーゼルW」発表の新製品スマ―ウオッチの外観は、普通の時計と全く変わらない。しかし、制御は、アイフォーンやアンドロイドのアプリで行われ、持ち主には時間表示の観念で情報を伝えるシステムになっている。時計か携帯か二者択一とか、両者併存ではなく、二つあって初めて目的を果たす時計となっている。セイコーエプソンが、今年からこれまでのウオッチ事業部の名を廃止して、ウエラブル(着用可能物)事業部とした。エプソンが何を考えているか理解できるような気がする。 今回「バーゼルW」でコンピューター連動時計を年末に発売すると同様に名乗りを上げているのがタグ・ホイヤーである。インテルとグーグルとの共同開発。新しく社長に就任したギイ・セモンが新聞記者の質問に答えて、この連動時計という列車は、どこへ着くのか解らないが、乗ってみないことにはどうしようもないと言う。五十二才のギイはフランス人で、ブザンソン大学の物理学科出身、航空技術専門家で、フランス空軍のパイロットでもあった。十年来、タグ・ホイヤー社にあって、主として技術開発のトップを担って来た人物。何処へ行くやら、解らんといっても、かなりの予測はついている筈。I・T方面が、連動時計にはついて回るが、時計部分はまだしも、そっちの方の開発は一社だけでは資金的に無理だと分析している。今や、LXMHの時計部門のトップになったクロード・ビーバーさんの秘蔵っ子らしく、「ビーバーさんと仕事が出来るのは、良識の世界に生きることだ」と言っている。 将来のことはさておき、今年のバーゼルWの数字を概観すると、出展参加国が七十、出展関係者を含め、入場者が十五万人、うち報道関係者のジャーナリスト、四千三百人、オンラインの開催発会には三千人のジャーナリストが参加したと報告にはある。いかに、展示会の成果が広報活動に依存するかの好例といってよい。 報告の中にJ・デュシェーヌさんの訃報が伝えられていた。同氏は、「バーゼルW」の出展社代表協議会の委員長を寸前まで二十年間勤めていた。FHの副理事長であり、その他業界団体の要職を兼任していた。前号のFH誌にその詳しい経歴が紹介されていたが、六十年間に渉って、ロレックスの広報活動に従事し、特にゴルフ、テニスのスポーツ業界におけるロレックスの名声を確立した功績がある。時計業界全体が悲しみの色に包まれたというから、彼の暖かい人柄と終始おだやかで対話を重んずる態度が、信頼をかち得ていたのであろう。 もう長らく会っていなかったが、昔はロレックス社を訪問する度に、接待後に出て来た姿が懐かしい。大柄で、早口、実に愛想の良い人だった。ある時、本社工場を訪れた我々グループを、ジュネーブの町外れ、レマン湖に面した美しい借景のレストラン「湖の真珠」亭に招待してくれた。御馳走になったレマン湖の大きな鱒の白ワイン蒸しの美味しさは忘れられない。デュシェーヌさんというと、鱒の思い出につながる。恩着せがましい態度も一切なかった。心から弔意を捧げたい。その後何度か同じ店に出かけたが、二度と同じ鱒料理を味わえなかった。幻の鱒同様デュシェーヌさんも幻の人となった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ブランドはどうして成立したのか もう故人になったが、英国人で非常に有名な美術史家で、ケネス・クラークという人がいた。人間味の溢れた専門的な研究も、ダ・ヴィンチやレンブラントについて残しているが、その広汎な学識を使って、一般の人々のために、美術を楽しむ入門書も書いている。文明の歴史を解説したTV番組もNHKで連続放映されたから、憶えておられる人もあるかも知れない。この人の自伝を読むと、生れは、非常なブルジョアで、家業は紡績であったが、一生、広大な屋敷に住み、何もせずに遊んで暮したという。このような境遇の英国人は二十世紀初頭沢山いたらしく、アイドル・リッチ(怠けもの大金持)と総称されていた。 そういえば、昔は金持は有閑階級という懐かしい言葉で呼ばれていた。金持とは、何よりも、ぶらぶら暮しても、働かなくて食べられる人々であった。まあ、難しく言うとこうなる。 「労働を回避することは、たんなる名誉と賞讃に値する行為であるだけでなく、まもなく礼節を保つために不可欠なものになってくる。名声の根拠としての財産の強調は、富の蓄積の初期段階では不可欠である。労働の回避は、慣例的な富の証拠であり、社会的地位の刻印である」(ヴェブレン『有閑階級の理論』高哲男訳) 今の日本人にはどうもこの観察は当っていない気がする。元々勤勉な民族だし、貧富の格差が大きくなりつつある現在でも、金持も、そうでない人も同様に仕事で忙しい。プー太郎が尊敬される文化は日本にはない。 時計や宝石の世界で、長らく生活していると、人生に不要なものを売る知恵ばかり働かしてきたという気がしないでもない。もっともあたりをも回してみると、フアッションを始めとして、同じみたいだ。もしも全員が、必要なものを、必要なだけ買うという、企業の在庫管理の手法をとると、経済はたちまち停滞するに違いない。ところが幸いに、人類は古代から不必要なものを必要としている。ポリネシアの酋長には貝殻の大きな首輪が要ったである。 前記のヴェブレンは、こういったものを顕示的浪費という言葉を当てている。まあ、ミセビラカシということ。首輪のもう一つの価値は、専有的独占である。排他的享受という。地位が高くなれば、顕示的浪費にも排他的享受の道も自然と近づくが、地位が高くなくとも、道はあるよというのが高級ブランドの誘いといえる。 ヴェブレンは宝石について、こういっている。宝石が美しければ、美しい程、値は高く、希少となる。しかし、値が安ければそうした違いは決して生まれない。 昔からよく、安物買いの銭失い、と言われた。安物は品質が悪いから結局は損をするとの意味だが、現代の日本では、安くても品質に心配はない。TV通販が繁盛する理由である。一方、安い服は人間を安っぽくみせるという心理的圧迫も人々は持っている。どうせ家で使うものだし、安くてもいい、とも思っている。もしも、日本の社会がもっと社交的になって、自宅に人を招いたり、招かれたりするのが当たり前になると、安い家具や食器は使われなくなるだろう。 ヴェブレンは、実に興味深い考察をしている。安上りの生活様式をしていると、充分な収入を得る地位にないと思われるのが嫌で、やめるようになったが、そのうちに安上りの生活そのものが、不名誉で価値がないとみなす習慣がついてしまった。世代交代ごとに、称賛に値する支出をするという伝統が引き継がれて、「安かろう、悪かろう」の思考が定着してしまった。だから誇示しようとしない、個人的な消費でも、本来的に浪費的支出をするようになっている。モノの中に、過剰な価格の印を認めたり、モノの使用価値と関係のない差別性を求めたりするうちに、モノの効用の評価基準が変わってくる。所有する誇り、とどうモノとして役立つかの評価が、区別されなくなりひとかたまりで評価される。モノが十分に役立つ条件をそなえていても持つことの誇りとか名誉を与えるものでなくてはいけなくなっている。 ヴェブレンの本が書かれたには、一九二九年の大恐慌以前で、まだアメリカにはスーパーマーケットが台頭していない頃だった。しかし、「今日では、多少共名誉に値する要素を含んでないモノを供給する産業分野は存在しなくなった」という彼の言葉は、百年後の今日のブランド全盛万能時代を見事に予告している。 こんなことを長々と書いたのは、今号のFH誌に、LVMHのライバルのケリングが近年買収したジラール・ペルゴーの新社長に就任したアントニオ・カールチェの記事がのっていたからである。 ヴィトンに代表されるLXMH社、グッチのケリング社、両社共に、売っている製品は、我々は一生買わなくても、実生活に影響は一切ない。 ところが両社共、高級ブランドの巨大な牽引車、旭日昇るが如き業績である。名誉を刻印したものばかりを世に出しているせいだろう 時計でもケリング社はベダを買収、昨年は、ユリスナルダンを買収している。ジラール・ペルゴー、畧してGPには以前から、資本参加し、五年前にオーナーで、GP再興に大いに寄与したイタリア人ルイジ・マルクーゾが死んだあと、支配株主となっている。マルクーゾの息子二人が後を継いだが、業績不振で、今や中国資本となったコルムから、社長だったカールチェを引き抜いて、新社長に据えつけた。彼との一門一答が新聞から転載されている。このGPと、ジャンリシャールという時計が、彼の領域である。要点は以下の通り。 G・Pの今年は何とか黒字にできるだろう。今は年産一万五千個はいかないので、四万個ぐらいまで行くとブランドとして安定するが、道は遠い。GP個有の三つの矢型渡しのモデルは、十五万フラン以上もするが、こんなに特色のある時計が、この高価格帯しかできないというのも惜しい。二万フランからの入門型も完成に近い。一方年間二千個で低迷しているジャンリシャールは、二千フランを中心に数万個単位の量生産に転じたい。今でも日本では好調だからうまく行くだろう。これまで時計業界は、世界共通の出荷価格でやって来たが、今後は地域差をつけるようになる。今回欧州向けに七%上げ、スイス、アメリカ、アジア(日本を除く)向きには上げてない。等等。 G・Pは、幕末にオーナー一族がスイスから売り込みに来日して、横浜に住みついている。日本人が親しく感じるのも無理からぬ話。今後の発展をいのりたい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
FHのニセモノ退治 テレビの「なんでも鑑定団」なかなか面白い。百万円と信じていた親の遺品が壱万円だったり、大したものではなかろうと思っていたガラクタに法外な値がついたり、期待と現実のドラマが楽しい。たかがブリキのおもちゃとしか見えないものに、数十万円の値がつくと、知らない世界があるものだと思う。それにしても絵画骨董の世界は、まあ贋物ばかりだ。父が掛け軸好きで、中国の天津にいた頃からよく買っていたが、本物と言われたものは一枚もなかった。若い時、小遣いにしようと自慢の谷文晁作を一本、こっそり頂いて近くの道具屋に持っていくと、見るなり「あきまへんな」と言い放った。そ知らぬ顔で戻しておいたが、その行方も今や解らない。作家にとって、贋物が出ても、名誉の勲章みたいなもので、何も困らない。作れば相応の値で買ってくれる人がいるからである。偽者のほうが安いから、値を負けろとか、そっちで済みますよという人はいないだろうし、たとえいても相手にしなければいい。生きてるうちに成功した作家というのは、経済学的にみれば、生産能力と需要の釣り合いがうまく取れている状態を言うのだろう。例えば、大観のような著名な作家が、贋物対策で警察に行った話は聞いたことがない。 ところが、時計のような工業製品となると話が違ってくる。当社は量産メーカーではありませんと胸を張ってみせても、個人の芸術家から見ると、数が違うのである。それに年々ブランドの重要性が増してくる。ブランドを作り上げるには、最新の努力と多額な投資を必要とする。油断すれば、一朝にして力が失速する。売れているのだから、偽者を見逃してやろうとは行かないらしい。蟻の一穴になるやも知れぬ。FHがこの数年贋物退治に躍起となっているのも、わからぬではない。 以前、FHが地元警察の協力を得て、ドバイの贋物市場を急襲した話を書いたが、贋物市場は過去三年間で三十万個のニセスイス時計をドバイで押収され危険が迫っているせいか、同じ首長国でも隣のアジュマンに移動している。写真でみると、大きな体育館みたいな建物に、中国城・中東中国商品売場中心を漢字で大書している。そして英語とフランス語で同じように。こんな砂漠に近い町に消費があるわけでなく、中継地に過ぎない。今月のFH誌には、このモールを地元警察とFH担当者が捜査令状を持って出かけて行き、一万八千個の時計を押収した報告が出ている。我々の心の奥底では、贋物をそれと解りつつ、売り買いしてどこが悪いという気分がまだ残っている。日本以外の東南アジア諸国ではもっとその気分は強いだろう。食べる為には仕方ない人々もいるやも知れぬ。しかし、ブランドはもうすでに通貨みたいになっている。いかなる理由があろうとも通貨の偽造は犯罪となる。この通念の定着にはFHの執念深い摘発も大いに役立っているとみる FHはニセモノ退治には、外交的手腕も発揮していて、この二月に、北京で、FHと、中国時計連合会の首脳陣と、両政府の要人を含めた合同会議を開催している。FH会長のパッシェさんはアリババのようなインターネット・サイトで堂々と偽物が売られるのを阻止するよう中国側に協力を求め、本物の見分け方のセミナー開催の助力を申し出ている。又中国の諸税の高さを指摘して、減額しなければ、外国で、中国人は沢山時計を買って帰るのではないかと示唆もしている。時計産業など一方的に中国側の輸入超過ではないかと思っていたら、殆んど製品だろうが、スイスの中国に対する輸出は、昨年は三・一%下がって、総額十四億フラン、逆に中国からの輸入は、これは部品が主だろうが、七%上昇して八億八百万フランになっている。つまり、このままスイスが中国以外に輸出拡大し続けると、時計分野で入超国になりかねない。スイス製の表示で、スイス国内で長年もめている事情の一端が露出している。 ローマ皇帝マルクス・アウレリウス 毎号のことだが、FH会員各社の新製品が一つのブランドに重ならないよう、一点づつ紹介されている。その中に、私の会社が代理店をしているサントノーレのエッフェル塔をテーマにした時計が紹介されている。塔が起工される一年前の一八八五年にパリでサントノーレが創業しているので、百三十年記念モデルを、年号に合わせて一八八五個の限定生産という。塔に使用された同じ鉄材を使用して、鉄骨構造を連想させるパターンに仕上げてある。あらゆるメーカーがこの類のことをやって来ているのだが、果して、時計とエッフェル塔がどんな関係があるのかよく解らない。私のようなパリ好きが買うのかなと思うが、いささか心もとない。 そんな懐疑的な人間にもこれは欲しいと思う時計が今号のFH誌に大きく紹介されていた。現代の時計作りの名人であるクリトフ・クラレは、以前から、神話などの歴史をテーマとする時計を製作していた。クラレもリヨン出身のフランス人である。今年、満を様したかのように皇帝マルクス・アウレリウスに捧げる時計「アヴェンティクム」を発表した。「アヴェンティクム」とは、ローマの属領であったエルヴェシア(スイス)の首都で、現在は人口二千五百人の寒村アヴァンシュである。アウレリスの皇帝だった二世紀頃は人口二万を超えたといい、野外劇場もあって現在している。一九三九年、ここの古い水道から、マルクス・アウレリウスの黄金の胸像がほぼ完全な状態で発掘された。 マルクス・アウレリウスは、哲人皇帝と言われている。一ニ一年生まれ、一八の没。養子として皇帝になったが、いかにも養子らしく、ローマ帝国を永続させるための努力を、常に払いながら一生を送った。常に、おそらく自分の為にいろいろ感想を書き残した。それが「自省録」として残っている。日本では、岩波文庫に神谷恵美子の名訳がある。そこから一節を引くと 「人生の時は一瞬にすぎず、その運命ははかり難く、その名声は不確実である。肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては、夢であり、煙である。人生は戦いであり、旅の宿りであり、死後の名声は忘却に過ぎない。しからば、導くものは何であろうか。一つ、ただ一つ哲学である」 この記念モデル、金で六十八個、ホワイト金で三十八個作られるという。いくらかは書いてないが高値の花だろう。せめて愛蔵している皇帝の横顔の入ったローマ銅貨をピン止めにして胸に着けるぐらいが我が分際か。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ネット社会 マーク・ザッカ―バーグがまだ大学生の時にフェイスブックのアイディアを思いつく次第を描いた映画があった。「ソーシャル・ネットワーク」という題が付けられていた。この題をそのまま日本語にすると「社会的な連絡網」となり、何のことやら良くわからない。老齢者だと社会保障とか、医療保険を連想するかもしれない。そうでなくて、実はスマホを使ってするフェイスブックや、その他のラインやツィッツターなどのように、他人と発信し合って、蜘蛛の糸のように、世界中にはりめぐらせられつつある情報網を意味している。個人は社会から独立してるかのように見えるが、ひとたびインターネット機器を使い始めると、個人の発信した情報は大げさだが、世界を駆け巡る。個人がいつの間にかいわばソーシャル・ネットワークに絡み取られている。 大分以前だが、アマゾンに良く本を注文していた。数回注文すると、向こうからあなたの好みの本はこれこれしかじかと題名を教えてくれるようになった。概ね当たってなくもない。これを便利と見るかどうか。そのうちに、気持ち悪くなって画面を開かなくなった。論文のための文献探しならまだしも、趣味の読書に余計なお世話という気になる。まだ君の知らない分野だってあるんだぞと威張ってみても無益である。一冊でもその分野の本を発注すると必ず追いかけてくるだろう。まるで、コンピューターと将棋を指すが如く勝ち目はない。本はふらりと本屋に入り、自分なりに主体性を持っている気で買うに限る。 世界中に携帯までも含めて、三十億台のIT機器が現在し、増え続けているという。世界中の人々は、どこにいようが、同時に情報を共有する可能性を持っている。一般人にとって本気のハッカーは防ぎようがない。プライバシーの尊重を言う人が、メールで自分や友人のプライバシーを他人の眼に平気でさらしている。つまり人は、何らかの形で、ソーシャル・ネットワークにつなげられざるを得ない。繋げるをフランス語では、コネクトと言うが、つい先日発売されたアップル・ウオッチのようなコンピューターに繋がる腕時計をコネクトされた時計と名付けている。その先は当然ソーシャル・ネットワークである。 このネットワークが、形成されたころから、商品(時計を含む)のマーケッティングが大きく様変わりしてきた。レストランのガイドブックとしてミシュランが有名で、知らない土地へ旅するには、手放せない。知識と経験のある編集人たちが匿名で各店を回り採点している。このように誰かが書くというのが、これまでのガイドである。ところが一方、お店に行った各個人の評価をまとめて出す、ザガードのようなガイドも出てきた。今インターネットでホテルを予約しようとすると、かっての利用者の採点が必ず出てくる。利用者つまり消費者が、大きなソーシャル・ネットワークを形成している。権威になびくかと思うと、必ずもそうでなく、広告宣伝にも弱くもなく強くもなく、気まぐれで不気味な存在である。しかも無視できない実態がある。最近のテレビ番組では、視聴者のメールがすぐにテロップになって出てくるのも、一方的に放送会社が番組を制作するのではなく、ソーシャル・ネットワークを取り込んだ方が得策と考えているためだろう。 先日慶応大教授の井上哲浩さんの講演を聞いて、これまで漠然としていた考えが、一般消費者の代わりにソーシャルの概念を導入することで一挙に整理された気になった。井上さんによると企業はソーシャルを外部資源とみなすようになっている。資源だから役に立つものとして取り入れている方が、企業の効率化に役立つ。ソーシャルで「いいね」のつぶやきが採れた商品は、大々的な宣伝費をかけずに売れる。ソーシャルの意見をうまく取り入れて作った映画や本や漫画は、失敗がない。ソーシャルというのは、アメーバ―のように正体不明の怪物だが、メッセージという形で必ず正体を現してくる。ソーシャルからの良き反応をいかに取り込み、企業の内部資源にするかが、企業の課題となっている。 この話を聞いて、時計会社が何故あれだけ、色々な人物をブランドの顔として使っているのか、良く理解された。勿論最初はブランドより、広く有名な人を用いて、ブランド名を広めたいところから始まっただろう。この人も使ってます、素朴な安心感もある。ブランドの顔になる有名人は、アンバサダー(大使)と呼ばれている。ゴルフ、テニス、野球、サッカーをするのに時計は不要である。でもなぜ有名プレーヤーを起用してアンバサダーにするのか。人の行動にしても、飛行機の操縦もしないのに、何故パイロット・ウオッチがいるのか、十メートルも潜らないのに、何故三百メートル防水のダイバーウオッチがいるのか。合理的な人間には良くわからない。どのブランドにも大使を起用するには、各々の理由があるだろう。その人物なりイベントをソーシャル資源の内部に取り込むという観点から抑えると解らないでもない。 スイスの時計業界は、古いが、有名ブランドで先祖代々、創業者以来脈々と同じ家族でやってますというのは、皆無である。代替わりしたり、身売りをしたりしている。斜陽になった有名ブランドを買い取るケースを見ていると、あんな巨額の金を払うくらいなら、初めから、新しい名の時計を新しい工場で作った方が安かろうにと何度も思ったことがある。だが時計の場合は、歴史的価値というのがやっぱり重要視される。歴史というのもソーシャル・ネットワークが形成されない時代からも、ソーシャルな要素として重要な資源とみなされ値段がつく。古い倒産しかかったメーカーを買収した新しい企業主は必ずと言って、昔の工場の歴史を細目に渉って調べ上げ、豪華本として出版している。これは今の流れでいうと、社内のソーシャル資源の外部化となる。どの会社も良く調べてみるとソーシャル資源はあるものである。トイレが綺麗とか、美人やイケメンの社員が多いとかに始まり、立派な研究施設を保有しているとか。あるいはエコロジーに関心が強いとかの社会的に好意を持たれるソーシャル要素を、ソーシャルの外部資源化に持っていくのが、マーケッティングの最大の眼目だと井上教授は言っている。 ロッシーニのオペラ「セヴィリアの理髪師」で有名な「悪口のアリア」がある。悪口を触れ回っていると、初めは誰も信用しないが、そのうちに、噂は段々と大きくなって、言われた人間はこの町に住めなくなるというのだが、その逆をいくのである。クチコミでもそうなのに噂はネット上になると急速に広がることもある。自分の周りがいよいよ不気味な空間になっていて、実は困惑せざるを得ない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「今の日本は平和ボケ、戦争して良く成るわけない」 つい先年のことだが、自衛隊は暴力装置と発言して、物議をかもした政治家がいた。軍 事力とは当然その性格を持つている。宣戦布告をするかしないうちに、真珠湾を爆撃するのも、原爆を無警告で落すのも、暴力装置の発動である。その後は日本が、幸いにも戦争に巻き込まれずに七十年間が過ぎた。こんなにも長い間、平和が続いたことは、徳川政権以来なかった。世界でも珍しい。人類は有史以来、戦争に明け暮れて来たといって良い。戦争は外国だけで戦われても、ましてや国内戦だと、その国のあり方を、それこそ暴力的に変えてしまう。日本は、とにもかくにも七十年間同じ路線を走って来た。全ての経験が積み重なって、知恵となり、人間に例えると、そこそこの人生を送って自己満足にひたっている老人みたいになっている。私自身、この七十年の日本を、小学生の頃から見て来た。戦乱で家族の経済生活が、ご破算になり、貧しい暮しから少しづつ脱却して行く様子もはっきり記憶している。畏友の平川祐弘さんが、昨年「日本人に生まれてまあよかった」というベストセラーになった新書本を書かれた。批評精神に満ちた優れた内容だが、私は、ごく単純に、この本の表題のような気持でいる。このままでは、日本は立ち行かなくなる、{その通りとは思う}という焦りから、今の日本は平和ボケと自嘲する人も多いが、戦争をして良くなるものでもなかろう。 私の父は九十四歳まで生きたが、晩年よくこう言っていた。長生きすると面白いで、考えられんかった新しいことが起こりよる。こちらも、ややその境地に達しつつある。 時計の世界でも、クオーツ時計の出現は画期的な事件であった。僅か三十数年前のことにすぎない。誰しもがこれで機械時計は、真空管ラジオのように過去の遺物になると信じ込んだ。時計に高い金を払うのは、精度と、それを維持する堅牢性の為であった。どうして高くて精度の低い機械時計が生き残れるだろうか、と考えたのは当然であった。誰も現在のスイス機械時計の繁栄を予想した人はいない。日本の機械メーカーはいっせいにクオーツ化に向って突き進み、スイス勢を圧倒し、世界市場を一時的にだが制覇した。 今でこそアメリカに旅した多くの日本人は食事が不味いと不服を言うが、戦後すぐの食糧難の時代に、px横流しの缶詰めの戦線食は、食べてみて日本兵は飯盒を持ち歩いて、ご飯なんか炊いて戦っているから、戦争に負けたという人がいるぐらい豪華だった。明治以来日本に入って来た文物は、たいてい工場で作られる。均質の大量生産物であるが由に珍重された。手作りの職人の作るクッキーよりも、森永のビスケットの方を上等とした。時計などの機械ものに至っては、工場でしか良い製品はできないと考えるのが常識であった。ところがスイスでは多少事情が異なる。元々手仕事から出発し、基本的に部品調達網が時代を追って発達して来たので、必ずしも工場制マニュファクチュール{この場合はマルクスの用語}に絶対の信頼がおかれている訳ではない。時計作りの原点はやはり優れた職人の手作業というところがある。しかし、これに気づいて、クオーツ時計の全盛期に手造り時計の良さを信じて発展させた初期の人達は主に外国人であった。 その代表と言ってよいのは、マルセイユ生れのフランス人で、パリにいた叔父の時計店を手伝い、難しい時計の修理から、製造を手がけていたフランソワーポール・ジュルヌであった。若い頃からその才能は、注目を浴び、スイスの独立高級時計師アカデミー(略してAHCI)の会員に迎えられたり、ガイヤ賞を得たりしていた。二十七歳になった一九八五年にパリでそれまで世話になった叔父の店の隣で独立している。その二年ぐらい前から、すでに一人前と自分で意識していたのか、一昨年に創業三十年のお祝いをしている。パリよりは、時計を作るのには便利なスイスに出てきて、これまた、天才的な電気技師から、時計に転業した、まるでダ・ヴィンチのようなフランス人、パスカル・クールトーがスイス領サンクロワで持っていたアトリエでしばらく働き、一九九六年ジュネーヴで店を開いている。 今でこそ、時計マニアならだれでも知っている名前だが、二年前には全く無名であった。十数年前に、東京・青山にP/F・ジュールヌという時計専業店が出店し、しかも手つくりだけあって、手が出ないほど高いと聞いて、そんなお店が成り立つものかと不思議に思った記憶がある。伝統的かつ、工業的生産物である時計だけが、世界市場に適しているとしか考えなかったのは、不明の至りである。いつまでも世界の事情は同じとは限らない。それでも時計製造者としての才能と共に、経営者としての才能が両立しなければ今の成功はおぼつかなかったであろう。ジュルヌの場合、両立した希有の例である。フランク・ミューラーにヴァルタン・シルマルクという敏腕の経営者が横にいなければ、今の名声は確立しえなかったと言える。 ジュルヌの現状はどうかと言えば、従業員が百五十名、うち六十五名がジュネーヴの本社、残りがフランスに向かう街道の町メランで働いている。ここではケースと文字板を作っている。部品も殆んどが自社生産、小売りも自前。年間生産量は約八百五十個。値は二万フランから七十万フランまで(三百万円〜一億円)当然だが、生産力の拡大は狙ってない。 この号のFH誌には、ジュルヌへのインタビュー記事が掲載されている。彼の返答がなかなか面白い。要約してみると。 僕はフランス人だからね。やっぱり十八世紀の貴族向けに作られたフランスの時計から影響をすごく受けている。偶々といってもいいけれど、真鍮を一切使わず金ばかりの時計を作りたくなった。もともとローズゴールドは真鍮より硬いしね。贅沢品と真鍮は合わないよ。でも加工業者がいなかったので、二〇〇五年までは、仕方なく真鍮を使っていたが、社内で金の加工が出来るようになって、機械は全部金。アルミで作るスポーツモデルは、例外だが、女持ちは、真鍮を使っている。女性は高いと敬遠するし。コストの殆んどは人件費だから、金の値が上がっても使う量は限られているし、加工した金の在庫は金繰りが必要だが何とかなるだろう。それに、これは当社でしか作っていない。うちで一番高いのは、一億円のグランド・ソヌリー。これは年間三個の生産。一番沢山作っているのが、百二十個のクロノメーターブルー。僕の時計を買ってくれるのは主として収集家だから、もちろん世代も替るし、中古市場にも買ってくれた人の為にも、力を入れている。骨董時計の研究から入ったから、収集家の心理は良くわかっている。 もっと経営面での彼の見解をお知らせしたかったが、残念ながら紙面が尽きてしまった。尻切れトンボで申し訳ない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」 芭蕉に「行く春を近江の人と惜しみける」という俳句がある。近江人は奥床しいというイメージが出てくる。一方「近江泥棒に伊勢乞食」と言われ、厳しい商売をする人々というイメージも関西にはある。江戸には、伊勢出身の商家が多く、その代表が伊勢丹である。近江からは大阪に出てくる商人が多数で、特に明治以降、繊維関係で財を成した伊藤忠に代表される企業は、殆んど東近江の五箇荘近辺に固まっている。西武の堤家もそうである。西武の創業者・堤康次郎は、政商として強引すぎる欠点もあったが、偉大な企業家であった。ついこの間、堤清二氏が父康次郎の生涯を記した「父の肖像」は、父の生き方に対する批判と愛情の混じった秀作という話を滋賀県出身の人にしたら「ああドテヤスか」と言われたのに、一瞬たじろいだ。ドテは、土手で堤のことである。五箇荘の人々には「売り手よし、買い手、世間良し」で三方得という商売の理念が、昔からあった。堤康次郎は、政治家として世間良しの世界を作ろうとし、実業家としては、売り手良し、買い手良しにとどまったために、特に活動の中心が関東にあり、地元の人々からは「ドテヤス」などと呼ばれたのかもしれない。 自分が学者の見習いから、食べるために、いわば恩恵的に父の会社に入れてもらった時に一番面白かったのは、結果がすぐ出ることだった。文学の研究などは、結果はすぐには出てこない。一生県命に努力しても、結果が良く成るかどうかは解らない。駄目だと言われても、評価する方が悪いと居直りも出来る。その点、時計の卸業みたいなものは、簡単である。結果は売り上げ一つと言って良い。明晰極まりない。これが実に気持ち良かった。毎日、売り上げをどうして上げるかを考えておけばいい。もちろん、高度成長の始まる以前の需要が供給を上回る良き時代であったが。それに、複式簿記というシステムが実に新鮮に思えた。貸借対照表なるものに、人類の知恵の最高の表現を見た気になった。会社には大学と違ってこんなに見事に、かつクールに出来上がった通信簿があると感服した。 会社経営の本質は利益の追求である。「売り手良し」に徹底することになる。「買い手良し」も所詮は、自己の利益につながるから、ワンセットと見てよいが、「世間良し」はどうなるのか。利益を上げて、それだけ税金を払えば、自動的に「世間良し」に繋がるという考えもある。しかし、今の肥大した公務員の世界では、税金の無駄遣いが良く発覚するように、効率的社会奉仕とはなりえない。個人・法人ともに高額納税者が一般の人からは、羨望の目を浴びても、尊敬されることは稀である。やっぱり、お金を出すからには、それがどう受け取られて、どう使われるかを自分で見たいのは人情である。何か世間の役に立つことに使ってくださいと、お金を差し出す奇特な人は少ない。寄付という行為にも、やっぱりエゴは働く。ところが、日本には、そもそも寄付という考え方が、段々人々の間で希薄になっている気がしてならない。心の痛みをもたらす情景は、TVとか新聞とか間接的にしか伝わってこない。お金を払うという行為は、何かの対価であると考える習慣が子供の時からついている。「心付け・チップ」を出すこともなくなり、サービス料として勘定書きについてくる。 私の父は、身内の目から見ても俊敏で、利益に敏い商人であったが、私生活では、無類の寄付好きであった。汚く儲けて、綺麗に使えと日頃言っており、会社では経費の使い方にあれほど厳しいのに、良くあれだけ寄付をするはと思ったものであった。父は服部時計店出身である。初代の服部金太郎のあるエピソードを読んだときには、ははぁーんと頷く点があった。 渋沢栄一は常日頃、どんな利巧な人でも社会があるから成功することが出来る、だから成功した人は、社会に恩返しするのは当然だと言っていた。服部金太郎も、渋沢の勧誘に応じて、しょっ中寄付に応じていた。ある時、日本倶楽部で、博文館の大橋新太郎と将棋を指していたら、渋沢が現れて、対局中の二人に、今イタリアの骨相学者に合ったら、百七歳まで生きると保証されたよと、ニコニコ顔で報告した。服部は突然駒を投げ出してこういったそうである。「えっそりゃ大変だ。渋沢さんに百七歳まで生きられちゃ、これからどれだけ寄付金の御用があるかもしれん。将棋どころじゃありません。もっと稼がなくちゃ」 これは渋沢さんの息子であった秀雄氏の伝えるところだが、この種の話は、服部金太郎が信頼した大阪支店長・山岡光盛氏も知悉していたはずである。父は生涯、山岡さんをはじめは上司、のちには師として尊敬していた。この方もかなりの寄付好きであった。父はこの方の土地を借りて家を建てて住んでいたが、土地バブルの時、借地権が数千万円で地上げ屋に地主了解のもとに買い取られたことがある。父は、全額を地元の福祉協会に寄付してしまった。 この父のお供をして初めてビェンヌのオメガ本社を訪ねたのは、一九六三年であった。父が一番感服したのは製造設備でなく、働く母親女工のために、工場の敷地内に設けられた託児所だった。もう半世紀昔のスイスで、女性に参政権のなかった時代であった。社会的コストを企業が負担しているのを見て、父は「さすがオメガやな」と言った。 オメガで一九八三年以来、中軽度障碍者の就労を目的とした包装、発送、彫刻と言った障碍者にでも出来る作業の部門を発足させている。その後オメガが、財政危機に陥り、頓挫しそうになったが、とにかく十八年間従業員食堂の一隅で継続していた。一九九三年にエトリ―ヴ財団として独立することになって、ビエンヌ市内に移転している。現在派遣を含めて三十人に仕事場を拡張。一週間に最低二十二時間、多くて三十三時間(通常人の六割から九割)の仕事が与えられている。もちろん仕事は、ISO基準に準じているから、派遣後一年すると常雇になり、普通人同様の待遇となる。当然だが職場や発注主にはスウオッチ系が多い。財団収入は一二一万フランだが、その六割(約一億円)は身障者の仕事が稼ぐという。 今号には、エトリ―ヴ財団の報告が詳しく載っている。日本でも政府の指導で、全社員に対し一定の割合で身障者を雇用する義務を担っている。私の会社でも指導に従っているが、なかなか積極的になれず、汗顔のいたりである。積極的な企業も多くあるが、まだ珍しいケースだろう。企業エゴイズムから少し脱出して、コストに社会福祉参加の費用を持ち込むのが、一般通念となれば、デフレ対策の一つにもなるだろう。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
冬のマントは脱ぎすてられた。 寒さと風雨の外套は。 お日さまの光輝く縫い取りの きれいな上着を全身に 日々はまとって現れる。 あらゆる鳥やけものども じぶんの声で歌いだす。 冬のマントは脱ぎすてられた。 泉も小川も河すらも 銀細工師の水玉の 同じ柄した服おろす。 冬のマントは脱ぎすてられた。 今年の冬は寒かった。三寒四温というが、温となる日は殆んどなかった。この古詩は、フランスの中学生なら国語の時間に必ず出てくるので誰でも知っている。早く春が来ないかと願いながら、詞華集をめくっていたら、昔習ったこの詩があって、一寸ふざけて訳してみた。欧州の冬はもっと寒く長いので、春の到来を喜ぶ気分が良く出ている。FH誌とは関係ないが、今年のバーゼル見本市の開催時期が三月と早いので、こんな日が来るかどうか。 バーゼルに対するジュネーブで開催される高級時計見本市(SIHH)は一月の開催である。仕事なら仕方ないが、いくら美しい町でも、一月のジュネーブにはいきたくない。バーゼル見本市は、今では正式にはバーゼル・ワールド(BW)と称するが、百貨店であるのに対しSIHHは、専門店街といえる。二十五年前により、静かで、選ばれた人たちだけがやって来る贅を極めた展示会にしようと、バーゼルから独立した形で、五社の出展から始まった。最初は飛ぶ鳥を落とす勢いのカルティエを中心とするグループ五社であったが、そのうちに主旨に共鳴する参加者も入り、現在は十六ブランドで形成され、広さも第一回の四千五百平米から四万平米に広がっている。総入場者数は、約一万千名。これに対してバーゼルは、出店社数千五百社、十五万人の入場者。今号のFH誌には、SIHHのトップ、ファビェンヌ・ルポ女史のインタビューが出ている。SIHHとBWは競争対立関係ではなく、お互いに補いあっていると言っている。私たちは個人的かつビジネスエリートの会合を作りたかったので、最初から考え方が異なる。それにスイス時計産業史のなかで、ジュネーブが果たした大きな意義を再生せしめた功績もあると彼女は主張している。しかし、ジュネーブの両横綱であるロレックスもパティク・フィリップもそっぽを向いてBWの重鎮におさまっている。この二社が将来SIHHに出展する日が来るだろうか。かっては、ジュネーブ製を誇りとしていた二つのブランドが、国際的な名声を得て、ジュネーブの方がこの二社を持つ事を誇りにする時代になっている。 余談だが、フランス語で「ファブリック」は、英語になったファブリケーション(製造)から連想されるように工場・製造所という普通名詞である。ところが定冠詞をつけて「ラ・ファブリック」というとジュネーブでは時計工場を意味する。工場と言えば、時計工場のことだった。 二〇〇九年からSIHHサロン(見本市と呼ばず優雅な性格を示すためフランス貴族社会を連想させる言葉を使用)は、バーゼル直後の四月開催から一月に変更した。アジアの業界人は二度もスイスへ足を運ばなくてはならないと、当初は悪評高かった。それでも、こんなことは力の勝負である。いつの間にか業界人は新年と春先の二度はスイスに出かけざるを得ない状況に慣らされてしまった。 これについて前記ルポ女史は、ブランドは日程前倒しで新製品の発表に大変だったが、いざやってみると、一年の計は元旦にあり(とは言ってないが)やっぱりその年の潮流や傾向を決めるのは年初にかぎる。それに、SIHHの開催に合わせて、小さな独立ブランドがジュネーブのホテルの部屋を借り切り、発表会やパーティをするようになった。これも成功の裏には、犠牲もあるということね、と女史は歯牙にもかけていない。 スイスは九州ほどの広さの国だが、人々の愛国心はもとより、郷土愛がとても強い。いくら尾羽打ち枯らし無一文になっても、法的に立証された生まれ故郷に帰ると、最低生活は保障されるらしい。こんなことを昔、ロンジンジャパンの社長だったJ・J・アッカーッマンさんに聞いたことがある。日本にだって憲法にのっとった生活保護制度があるが、生まれ故郷に戻っての上というのが違う。日本も故郷帰還を条件にしたら、地方活性化に役立たないだろうか。江戸時代は、幕府という中央政府は存在したが、各藩は一種の治自体であった。今のスイスのカントン(州)制みたいなものである。ところが参勤交代制度があって、地方も徐々に江戸化された。国替えなんかされると、行政部門丸ごとどこかへ飛ばされるので、愛郷心は育ちにくい。おまけに明治維新となると、藩長土を始めとする反幕側の諸藩は新しい権力を求めて上京する。天皇陛下まで、首都東京に新政府は京都から引っ張り出す。戦後七十年を顧みると、東京への人口集中は更にすさまじい。かくして東京は住み心地はさしてよくないが、日本で一番住みやすい便利な町となった。不便な故郷に帰りたいたとはだれも思わない。愛郷心は名のみとなる。故郷に錦を飾ると言ったって今の若者は解らないだろう。言葉だって、東京弁が標準語となり、スイスの四ヶ国語併存とはかなり異なる。 ジュネーブを除いて、時計工場は大抵田舎にある。工場主は大抵我が町が自慢である。そして大都市嫌いである。ジュネーブ刻印は優れた品質の時計に与えられる偉大な証明であり、歴史も古い。それは解った、では我々の町の刻印を作ろうではないか。それで十年前に始まったのが、フルリェ刻印である。フルリェは時計の町として有名だが、人口千名前後の村落だろう。この近くに一部の工場を持つ三つのブランド、ショパール、パルミジアーニ、ポヴェの三社が検査と証明書を出すフルリェ財団を作った。時計が全部スイスで組み立てられていること。スイス・クロノメーター規格をカバーすること。磁場・衝撃、防水・経年変化の基準値をパス。外見及び仕上げの美しさ。それにフルーリ・テストという日常における人間のあらゆる手の動きを予測する検査機械に入れて、制度を保つことの五点が証明書の条件という。手作りではない工業生産品の時計なら、いかなるブランドでも、中立的に検査して証明書を発行するという。この号で写真いりで財団が紹介されている。内部はモダンで、外見は古い城館風で趣がある。検定料がいくらするか書いてないが、十万円高くていいからフルーリ証明書付の時計を外見は同じでもくれと言う時計おたくが出てくるかもしれない。世の中はどうなるか解らない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
『今岡俊明さんを偲ぶ』 日本人の百貨店は、どのようなものを扱うか、どのブランドを選択するかについてのマーケッティング戦略は決めるが、実際の売り場の商品は買取ではなく、委託売り上げ、販売員も納入業者という形態がほとんどである。これをテナント制と業界用語でいう。テナント側から見ると、のれんと場所と集金の手間なしに売り上げが取れ、手数料を払うだけで済む。テナントは黒子役に徹すればいい。特に時計・宝飾部となると、専門知識と多額な在庫負担が必要なので、百貨店にとってもテナント制はありがたい。かくて日本中の百貨店の特に時計部は、テナント制となった。一種の協同経営だが、生殺与奪の権は百貨店側にある。 近年、百貨店同士の競争が激戦となり、系列化するようになって、テナントが競合先と掛け持ちするのを百貨店が嫌うようになった。現在では、テナントも大体系列化されている。 ところが、九州は奈良朝時代から、副首都として大宰府がおかれたところだから、現在でも百貨店のテナントは地元の業者で(近年、熊本の“つる屋”が例外として)固めている。一種の地産地消である。中でも、博多大丸と下関大丸、井筒屋の小倉、黒崎の両店、長崎浜屋の時計部のテナントをそれぞれ系列的に別会社にして経営しているのが今岡俊明さんであった。今岡さんとはこの二十年ばかり親交があった。お元気だった数年前まで、電車や飛行機に乗るのが平気な方で、良く来阪され、長時間仕事の話をしたものだった。人見知りの強い性格の方だったから、納入業者の中でも少数の知己と親しく深く付き合うタイプであった。業界の催事、お祭り的な社交行事を嫌って、ほとんど顔を出さなかった。頭の良い人だったし、細い体つきで、長寿の相があったが、昨年の大みそかに福岡の自宅で亡くなられた。享年八十四歳であった。 この二月十日に福岡の西鉄グランドホテルで「お別れの会」があり、弔辞を読めと遺族から依頼され参会してきた。弔辞となると、やはり長い間の人との付き合いを回顧することになる。業界人として生き方に尊敬すべき点の多かった人だったから、その一端を披露して故人に捧げたい。 大阪に戦前からの老舗時計問屋に今岡時計店があり、昨年だかに百周年を迎えている。戦前の大阪は“そうは問屋が卸さない”と言われるほど、勢力があり今岡家も例外ではなかった。ご自宅もみな何百坪という豪邸を構えておられた。今岡家をはじめとして日本堂の比田勝家、中上時計店の中上家、岡伝蔵商店の岡家、富雄時計店の富尾家など、みな然りであった。今岡さんは本家の出ではないが、育ったのは立派な屋敷だったと回想しておられる。 小学校は秀才校の奈良高等女子師範付属(奈良女子大)で、中学に相当するのは、戦前宝塚にあった海軍航空隊、これも戦争中のことだから、よほど成績が良く、体力がなければ入れなかったに違いない。このころから、自分の道は他人に頼らず自分で切り開く心構えが形成されつつあったとみられる。もう少しで特攻隊員になっていたかもしれない今岡さんの運命は十六歳の敗戦で一転し、今岡本家に就職する。本家にはすでに跡継ぎのご養子がおられ、セイコーの代理店の社長になっておられた。今岡亀治さんといい、カメさんの愛称で業界人に親しまれていた。昔から船場の大旦那さんは、商売は番頭任せという気風で、カメさんにはそんなのんびりした風情があった。 今岡さんは就職はしたものの、結核を患い療養生活を余儀なくされるが、回復した二十一歳の時、転機が訪れる。下関大丸が開店した時にテナントとして入店する。二年後、博多大丸が現在の立地ではなく呉服町に開店した時に、下関を弟の道弘さんに譲って、テナントとなる。その当時の大丸の売り上げでは、テナントだけではやっていけなく、セイコーの卸を兼業するようになり、本家から独立。依然として経営は苦しかったが、この時、門司港から韓国へのセイコー輸出ルートを開発したのが、今の会社の経営基盤となった。売り上げが現金で入り、支払いは今までの信用で手形で支払う。当然手元に多額の現金が入るが、今岡さんは多くの甘い若い社長のように、散財しなかった。全部会社に再投資した。これまで資金繰りの苦しさを知っているから、仕入れに実に厳しく、一品ともゆるがせにしなかった。荷もたれ品を安易に返品しなかったのも、信用をますます高めることになった。経費の使い方にも厳しかった。ご本人が遊ばないから、交際費など必要と思ってない。たとえ食事の席でも、話は仕事ばかり。真面目な方であった。自ら実践することを社員にしてみろと教えるから、聴かないわけにはいかない。卸業から身を引きテナント業に専念したがこれも同じであった。 こう書くと、気難しく退屈な人物みたいだが、男児がいなかったのでご養子の剛さんを迎えると、経営の責にあたるまで、徹底的に教え込んだ後は、大いに隠居生活を楽しまれた。 十数年以前の初めてのご夫妻スイス旅行に、少しご案内したが、以来十年ほど、春から夏にかけて、ご夫妻だけでアパートの一室を借りて、一か月ばかり暮らされた。あの人ぐらい本当の体で知った本当のスイス通は業界にはいない。外国に行けなくなった後は、阿蘇の別荘暮らし。阿蘇に遊びに来いと誘われたが私はとうとう行けなかった。でも贅沢を我が身に許すことをしない人だった。最大の人生の贅沢は、死の床に家族とともにあって、自宅の窓から望める志賀の島の光景だった。羨ましい人生と言うべきだろう。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
世界を侵食しつつあるグローバリズム グローバリズムは世界を侵食しつつある。いつの間にか日常生活に嫌応なく入っている。野球のボールカウントすら、ストライクよりボールを先に言うようになった。九回裏、ここ一球で勝敗の決する瞬間は、やはり二死満塁、カウントはツーボール、スリースリーでないとどうも土壇場感が出ない。どうでもいいようだが。 グローバル・スタンダードが重要と言うが、その基準は誰が決めるのだろうか。多くは白人を中心とする先進諸国の人々が作る国か組織である。あれはアメリカ・スタンダードと極論する人も多い。日本の会計基準とアメリカのと異なると、会社の財務を判断するのに不便、つまり株の売買が容易でないと言うので、すっかり米国様式になった。国債だって世界的格付けがあって、三Aとか、破産寸前の三Bとか、第三者機関が付けてくれて、世界中が格付の変化に大騒ぎする。ごくありきたりのレストランの評価でも、ガイドブックのミシュランの格付けがグローバル化している。成る程フランス国内での格付には信頼するに値するが、イタリアへ行くと、その評価に首をかしげざるを得ない。フランス料理を出す店には適用されるが、地元密着の美味しいお店は、避けて通っている。日本でも、和食店にミシュラン採点はあっているだろうか。便利なガイドブックの一つに過ぎないような気がする。旅人の要求を満たすにはベストだろうが。 伝聞だが、英国の調査機関が世界中の大学のベストランキングを出していて、その百位以内に、日本では東大と京大しか入っていないという。英語を使用言語としない大学はそんなものかという気がする。閣僚や高級役人が悔しがって、教育に力を入れるべきと言っても、ご本人たちがせいぜい、その二つの大学出ぐらいだから、予算の増額を要求するのが関の山だろう。ランキング入りしたけりゃ、世界のベストテン大学の卒業生を多数採用して、エリート教育をする学校を作るのが早道。小学校から英語を教えるなどとは、無駄な撒き餌を広い海面にして回るみたいなものである。英語よりもっと大切なものを今の小学校は教えてない。私の孫二人は日豪混血児で、完全なバイリンガルだが、子供服の宣伝モデルぐらいならまだしも、帰国したところで勉学に有利だとは思えない。 さて、今号のFH誌には、ローザンヌの有名な経営学を教える学校が実施した「優秀な国際的な人材を育てるのに、どの国が一番か」という調査結果ランキングを初めて発表したという報告が出ている。二十以上の指標とか、世界中の有識者からの四千三百あまりのアンケートを分析し、二十五年間にわたる各国の競争力の変化を比較した結果らしい。我田引水みたいだが、一位は当然スイス。二位がデンマーク、三位ドイツ、四位フィンランド、五位マレーシア。アメリカが十二位、ブービーに近くなると、ベネズエラ五十九位、ブルガリヤ六十位。残念ながら日本が何位かは記事に載ってない。まったく無視されている。ここでいう人材とは、経済とか技術面の人々のことであるから、小国が上位を占めているのは仕方がない。日本で、はたして、若い人の才能を見出した時に、みんなでそれを育てて行く雰囲気があるかというと、否定的にならざるを得ない。出る釘は打たれるという諺まである。研究でも、ある業績を上げると、グループの成果にして、その主役個人を表に出すことは少ない。大抵謙譲の美徳を発揮する。しかし若い時には、功名心に流行り、多少は生意気というのが優れたビジネスマンになる可能性は高い。 日本の時計業界でも、開発の責任者がスターになることは殆んどない。ましてや、いくつかのムーブメントを設計しても、それは社内だけの話で、独立でもしない限り新聞が取り上げたりはしない。今号のFH誌に、カルティエ時計部門の設計を担ってきたキャロル・フォレスチェという女性への取材記事が載っていた。キャロルは、二〇一ニ年のジュネーブ時計大賞表彰で、その年の最優秀時計師賞を得ている。話が生き生きと面白く、かつカルティエという時計会社で、設計者が個人としてどんな扱いをされているのかが解る。臨場感を出す為に、女性言葉で訳出する。 男が多い設計の職場で働いて、居心地はいいかという質問だけど、現場の組み立てなんかで、手先が器用な女性の方が、小さな工程を少しづつ、進めるために、たくさん働いている一方、技術開発部には女性は少ないわね。 私の一家は、みんな時計技術者だったわ。父も、母も兄妹みんなそう。パリ生まれで、スイス人ではないのよ。父が修理工房をやっていて、その中で暮らしていたの。そのうちに時計をばらすようになったけど、兄のように直すより、ばらして、どうなっているのを見るのが好きだった。父はげんなりしていたけど、ばらしてしまって仕掛けに納得いくと終わり。元に戻さない。普通の時計から、パーペチュアルの時計まで分解し、何冊かの文献を読んでるうちに、何となく時計が面白くなってきた。子供の頃みんながマイケル・ジャクソンに夢中だったけど、私だけは偉大な時計師に心酔していた。シャンゼリゼの時計店にダニエル・ロートが来ていてサインをおねだりしたりね。 父に時計学校に行きたいというと、スイスに行けと言ってくれた。十六の時、ラ・ショードフォンに来て、卒業して免状を貰い、そのまま就職して居付いてしまったの。パリには戻らなかった。だって時計工場なんかないのだもの。 その頃、カルティエが新しいムーブメントの開発技師を探していたけど、時計の技術を磨きたい人には、宝石店さんのイメージが強かったし、初めはあまり乗り気ではなかったわ。でも二年契約というので、会社がどんな考えか解らなかったけど名も通っていたし、折角だからやってみるかと思い入社したのが始まり。 今の状況はね、三十五人の仲間とムーブメントの制作に従事している。殆んどが真の技術屋さんばかり。主として、ジュネーブ・スタンプものとか、高級品。はじめから正しい考えで展開していかないと駄目。画面で設計図の発展を見て、細部の仕上げに入っていく時が一番楽しいわ。 カルティエで素晴らしいのは、時計の形で売れるか売れないかが決まるわけではないの。形はデザイナーと設計者と何度も話し合って決まるわ。いつも何か改善出来ないかを考えてばかり。もっと故障がなく、使いやすくとか。 私たちが作る新しい考えで設計したプロトタイプは、実際使ってみると、問題が出てきて、袋小路にはまってしまうこともあって、まったく初めから出直しになる。予想なんか出来ないわね。昔からあるムーブメントの改善とは違うもの。発表期限が来て、仕上がらずにマーケッティングの人たちと衝突することもあるけど、シナリオはいつも書いたとおりに行かないことを彼らは最後には解ってくれる。妥協ね。でも結局正しい道はテクノロジーが教えてくれるのよ。 日本の時計設計部門で働く人も、同じように仕事をしているのだろうが、みんな会社のことをこんなにフランクに話す人は少ない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
むげに消失させられない過去、整備された公開資料館が必要 我が家には本と音楽CDが溢れている。生きてるうちに読める筈はないのに、いつか読む日もあるだろうと買ってしまう。今のように中古市場が発達していると、昔は高くて欲しくても変えなかった本やCDに出会うと、つい手が出てしまう。CDは、かけておけば運転しながらでも聞けるが、本は集中しないと読めない.ましてや、文献となると集中度に知識がいる。教育と文献は、経済活動においても欠かすことのできない要素である。時計産業にも、過去を知る足がかりとなる文献は、必要不可欠である。技術は過去を否定することによって長足の進歩を遂げるが、過去を熟知しなければ、否定もない。おそらくこれまでの発展の歴史を研究し抜いて否定するに至るのだろう。 時計製造は分業で成り立っている。素材を磨くだけの人もいれば、石のセッティングだけの人もいる。彫刻の専門家もいる。主役は組立工だが、それも全部するとは限らない。最終的には、時間を調整する人がいる。まったく同じ機械でもクロノメーターとそうでないのがある。クロノメーターを調整する人は腕前である。最近のタグホイヤーがクロノメーターにはこだわらないという声明を出したのは、調整する職工とクロノメーター協会に提出しても免状を得るコストが高くつくからだろう。昔の機械式時計には、簡易歩度調整器がテンプのところについていて、進んだり遅れたりすると、自分で裏蓋を開けて、+とか−に微調整したものであった。要するに機械時計の精度は調整次第である。クオーツですら、使う水晶によって精度は微差でも異なる。 ロンジンの工場はサン・ティミエという冬は雪に閉ざされた山中の田舎にあり、二百年近く操業している。はじめは、いろんなところから部品を買ったり、組み立て済みのモノを買って、売っていたが調整が上手いと言うので名を成した伝統がある。すでに物故して七年になるが、ロンジンにフランク・ヴァウシャーという名物調整工で、複雑時計の専門家がいた。一九四七年に入社して、退職するまで四十七年間ロンジンの為に働いた。ニューシャテル(サン・ティミエから小一時間、車で下った湖畔の町)の天文台のクロノメーター・コンクールは一八六〇年から始まっている。ジュネーブは更に古く、一八一六年である。フランクは、ジュネーブでも入賞しているが、主としてニューシャテルで活躍して、最高のギョーム賞を二十八回、クロノメーター承認時計を二百六十五個も出している。この調整工という職種は、杜氏みたいに、あちこちの工場に出向き、一種の臨時専門職であった。ロンジンとかオメガ、ナルダン、ゼニス、バセロンと言ったところが、正社員としていたという。ところが一九七二年のクオーツ・ショックで、コンクールはなくなる。微調整も無意味になって、フランクも「リンドバーグ」のような特殊な時計を制作する部門に移らざるを得なかった。その頃の時計職人が持っていた文献が日ごと失われていくのを見たフランクは、「全ての過去をむげに消出させる訳にはいかない」と将来の為に買い集め膨大な時計産業技術と歴史資料になっていた。 この号のFH誌では、この資料全部がサン・ティミエに数年前に新設された「ジュラ州経済研究資料センター」に寄贈された記事が出ている。サン・ティミエは、人口五千人足らずの小さな町だが、ロンジンを中心として時計業は多い。フランクもそこで学んだ当地の時計学校は、数ある学校のうちでも、歴史も古く一、二と評価されている。文献は、選別し、分類してないと意味はない。日本の図書館が近年寄贈を喜ばない傾向にあるのは、人手がないので死蔵の恐れが多いためである。堀田時計店(現ホッタ)の先々代の両平さんの時計関係資料も立派なものであったが、国会図書館に寄贈されたあとどうなっただろうか。しかるべき利用者がいるのだろうか。 サン・ティミエの資料センターでは、ヴォ―シャーの資料も選別・分類の上、一般に公開している。ロンジンの社長を長く務めているフォンケネルさんは、野人風なのに時計文献に深く興味を持っていて、私の会社の書棚を見ては、なかなかよく集めているねと褒めてくれた。他のスイス人の経営者で私の本棚に興味を示した人は少ない。この十年来、パリやロンドンで古い文献を見つけると買ってみるが、新しいのはあまり沢山出版されすぎて買う気になれない。地道な研究が少なくて、ブランドの片棒担ぎが多い。ロンジンの文献も、このサン・ティミエのセンターでニ〇〇八年に選別・分類されている。 フランク・ヴォ―シェーの文献は技術的なものが多いようだが、これについて京大で経済史を教えているスイス人のイヴ・ドンゼさんが、いかにもスイス人らしいコメントを書いている。 「この資料の一番重要なことは、各企業が競争相手のコピイすることではなく、違いを強く認識させること点にある。この二十年来、アーチストとしての時計作りの時代に回帰しつつある。時計作りの伝統は、再び注目をあびつつある。ブランドは、職人アーチストの持つ深い時計作りの知識や技術とのかかわりを明確化したいと思っている。これがマーケッティングの根源という議論になっている。」 クオーツの出現が機械時計の危機であった。その頃はもう機械時計は終わりとほとんどの人が思っていた。今の復興を予測した人は少ない。携帯電話をみんなが持つようになり、これで時計が日常生活での必需品の役目が終わった。クオーツも終わりと思えたが、しかるに今でも時計は売れている。携帯どころか今や、スマホ、タブレットといったみんなある方法でつながっていく製品群が大流行である。メガネや時計にも組み込まれた新しい製品がある。(英語ではコネクトされる製品群という)こんな時代に果たして時計がいつまで売れるか。危機感を持つ人は多いはずである。日本にも、日本の時計産業の為に、やはりよく整備された公開資料館が必要ではないだろうか。辛うじてセイコーミュージアムがあるが、メーカー色が強すぎて一般の利用に向かない。各地に転在する時計に限られた博物館は観光客向けである。東京国立科学博物館の時計部門は産業と連携する気分が少ない。 この号のFH誌には、昨年の十一月にローザンヌで開催された高級時計フオーラムの報告が載っている。現在の社会は、技術の発展によって大きな影響を受け激動している。このまま続くのか、収まるのか。将来の経済状況の主流派どうなるか。急速に変化する社会に高級ブランドはどう受け入れられてもらうのか。若者たちは社会の動きにどう反応するかなどが今回のテーマである。 このフオーラムは毎年開催されていて、今年は四十四回目という。リッシュモン・グループを主とする高級時計財団と投資銀行大手のジュリウス・ベアーの協力で、一級の講師を選んでいる。エルメスのCEOアクセル・デュマが語り、他の方が現代の若者の行動規範を語り、「スローライフ」の提唱者が、プラグを抜き、ボタンをOFFにして、のんびり生活をすすめ、作家が真の幸福は自己の中にしかないと青い鳥みたいなことを言っている。こんなフオーラムを主催するところに、今は繁栄の極にある高級ブランドの危機感を垣間見る気がする。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
瞬く間の十年の歳月で大きな仕事を成し遂げる 人間五十年、化天のうちに比べれば、夢幻の如きなり」と信長が好んで謡って舞ったという。化天とは、八千歳まで生命が続く極楽の一種である。男の寿命は、日本では五十歳から八十歳に伸びたが、やはり夢幻であるのは変わりない。女性にとっても「花の色は移りにけりないたずらに、我が身世にふるながめせしまに」なる思いは、いつまで経っても変わらないだろう。 ましてや、十年ひと昔というが、十年の歳月は瞬く間である。しかしその十年で、大きな仕事を成し遂げる人々も多い。自分の人生でも十年ごとに輪切りにして、回顧してみると、それぞれの十年の節目がターニングポイントになっている気がするものである。 今号のFH誌には、創立十周年になる超高価・超精密機構の時計を作るグル―ベル・フォルセイ社の紹介が出ている。そのブランドの名が明示するように、会社はロベール・グル―ベルとステファン・フォルセイという二人の時計狂の青年の出会いから始まっている。ロベールは、フランスのアルザス生まれ、父がグル―ベル時計店を経営していたので、小さい時から時計屋になるつもりであった。複雑時計に魅入られて、一九八七年インターナショナル社に入り、同社の複雑時計製造に従うことになる。一九九〇年、ルロックルにあるルノー・エ・パピ社でプロトタイプ作りに専念し、経営陣に加わえられる。蛇足かも知れないが、この会社もジュリオ・パピとドミニック・ルノーの二人が共同で作り、その後AP社の資金援助を得て、APの複雑時計は、ここで制作されている。ロベールは一九九九年に会社を離れ、二年後にステファンと協同して「コンプリタイム」という会社を作る。もともとは、ルノー・エ・パピのように他の高級ブランドへ機械を売るつもりだった。 一方、ステファン・フォルセイの方は、英国人でロンドン郊外約四十キロの小さな町で生まれている。機械好きの父親の影響を受け、一九八七年頃から古時計の修理専門職人としてロンドンの有名な高級宝飾時計専門店「アスプレー」で働いていた。そのあと、スイスの学校ヴォステップで時計の勉強をし、一九九二年ルノー・エ・パピ社に入り、ロベールのチームに入る。意気投合した二人は、その後退社独立と行動を共にする。最初は下請け専門を狙っての会社だったが、自信がついてきたせいか、一九〇四年に「グル―ベル・フォルセイ社」を創立して、その名をブランドにした時計を発売する。 バーゼルに出品した初年から高評だったというが、当時としては奇妙な形の時計で、どうして人がこれを腕に着ける気になるか解らなかった。デザインと機構には一種の論理性が存在しているところに、前衛性を好む、機械好きが魅了されたのだろう。一個だけでも高価なトゥールビヨン機構を二つも四つも一つの時計に装備するのだから、恐れ入るより他はない。十年たった今のデザインはすっかり洗練され、しかも内部の精密機械の動きが、可視化されていて、最も進化した機械時計といった感がある。発明者だったアブラム・ルイ・ブレゲ(一七四七〜一八ニ三)の時代から機構的には発展がなかったトゥールビヨンにいかにもモダンな技術的加筆を施した点に魅力があったようだ。 従業員百二十人を有するこの会社の工場はガラスと鉄とコンクリートのモダンな三階建てだが、斜めに建てられていて、半分地中に埋まっているように見える。隣接する事務棟は、まったくジュラ地方の昔の木造農家。この意外な対照が製品にも出ている。 この二人は、すでにニ〇〇九年にガイヤ賞を受けているし、製品はあちこちで金メダル級の表彰を受けている。スイスの時計産業を牽引しているのは、巨大なブランドだけでなく、自分たちのような独立した時計制作者であるという自負を持っている。三年前から上海の一等地であるバンドに、「タイム・アートギャラリー」を作り、自社製品を展示するとともに、グル―ベル・フォルセイとほかのジャンルの芸術家と協力して制作した時計に関する作品、またフィリップ・デュフォールとかヴィアネイ・ハルタ―といった現役の名時計師の時計を展示している。またジュネーヴでは「時計の誕生」という企画を作り、パリの時計学校の若い先生ミッシェル・ブーランジェを見つけてきて、まったくの手作りで手巻きのトゥールビヨン付、三針の腕時計をデュフォールも指導協力して、作らせてみたりしている。次の世代を作り、伝統の保持にも熱心である。よくぞ十年で、起業ばかりでなく、社会的な活動も出来るものかと敬服する。十年一日の如き当方は脱帽するのみである。 ジャン・クロード・ビーバー 景気の良い話の後だが、既存の大企業に目をやると、多少暗い話がないでもない。一九〇八年のリーマン・ショック後、破竹の勢いで発展を続けたスイス時計業界全体にもやや陰りが出てきている。 見出しに名を挙げたビーバーさんは、一度しか言葉を交わしたことがないが、容姿は赤ら顔のラガーみたいだが、大声で話し暖かな感じの魅力ある人だ。ざっくばらんな人柄。最初は眠っていたブランパンを立ち上がらせ、オメガの経営に当たった。スオッチを離れ、ウブロを買収し、自分ごとLVMHに売り込んだ。今やヴィトンの持つタグ・ホイヤーやゼニットを含む時計部門のトップになっている。この九月にタグ・ホイヤーが四十六人をリストラし、ジュラにある新鋭ムーヴメント工場で技術者四十九人を休職にしている。ついでながらカルティエも何人かを休職させている。 これを聞きつけた地元の新聞が、ビーバーさんにインタビューをしている。要約すると次の通り。 タグには千六百人いる従業員のうち四十六人が辞めてもそれほど重大ではない。休職についても一時的なことで戦略的な理由ではない。クロノグラフのラインは、二本も必要ないと判断したからだ。タグの中心的価格帯は、千五百から五千フランの間で、高い自社ムーヴメントを使うよりETAやセリタを使う方が有利と判断した。スイス時計全体では、成長率を四〜六%と見ているが、タグは今のところニ・七%しか伸びてない。中国市場が不調のせいでもない。タグは全体の五%、ウブロは三%以下しか中国に売ってない。その点ゼニスは多少こたえている。でも中国を重要な市場としてとらえていることに変わりはない。今後も開拓に努力する。 この十年ウブロは、一度も売り上げが前年比を割ったことがない。今年も十三%伸ばしている。今や外国を含め五百人の人々がウブロの為に働いている。ブランパンの時もブランドを確立するのに十年かかると言っていたが、ウブロも全世界から認識されるまでに十年かかっている。サッカーのワールドカップの公式時計にしてもらったのが役立った。 多少の不安はあってもビーバーさんの怪気炎は止まりそうにない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ボジョレヌーボ解禁日に見るマーケティングの成功例 十一月の第三木曜、今年は二十日が、ボージョレ・ヌーボーの解禁日である。ブルゴーニュの南にある広大なボージョレ地区でたくさん摘まれるガメイ種のぶどうを晩夏に収穫して、せいぜい一ヶ月ぐらいでワインに仕上げた安酒である。紫色がかった華やかな色合とフルーテイな味わいで誰にでも好まれる。ただスノッブなワイン好きは、眉をひそめる。第一、年を経ても一向に良くならない。昔はカフェで主として立ち飲み用に、安売りされたワインであった。解禁日を作り人気をあおったのは、誰の発案だったのだろう。ボージョレの業者の中に賢いのがいたものである。 デビアスの婚約指輪のダイヤモンド・キャンペーン、チョコレートのヴァレンタイン ・デイと並んで、マーケティングの見事な成功例といえる。 時の記念日を国民の休日にしようという運動があるが、そんな持って回った販売促進よりも、六月十日は、時計を誰かに贈る日のキャンペーンをおこした方がいい気がする。ただ日本の場合、メーカーはセイコー、シチズン、オリエント、カシオぐらいしかないし、お互いに競争相手だから、どこが金を出すかが問題になる。デビアス社ですらも、あの婚約キャンペーンに、他の鉱山のダイヤモンドがタダ乗りするのを嫌って、止めてしまったぐらいである。日本が高度成長を謳歌し始めた時代、つまり一九六四年の東京オリンピックから、七〇年の大阪万博の頃、国内市場におけるセイコーのシェアは七割に近く、幹部達が独占禁止法に触れぬよう細心の注意していたような良き時代であった。春になると進学した学生に時計を贈ることが一種の習慣になっていて、四月は時計屋さんのかき入れ時であった。全国に時計小売店の数は三万軒近くあったとされ、ほとんどが加盟していたいはゆる全時連とセイコーがタイアップして春の時計祭りを催すと面白いほど時計が売れた。今、八十歳前後の時計関係者は、夢のような昔と懐かしく思い出すだろう。シチズンも又よく売れていた。安くて良い消費材なら、あとは宣伝さへすれば売れたのである。大量生産に素直に対応してくれる大量消費社会、いわば水をいくらでも飲み込む砂地が存在したのである。一方スイス時計は、かつての設備投資にひきずられ、新しい生産技術の導入がおくれていた。だから一九七二年頃から急速に輸出が低下し始め、十年後には、数量で半数以下に落ち込んでしまい、スイス時計産業は消滅の危機にあった。クオーツのせいだろうと推測される向きも多いだろうが、機械時計の生産量すらも、その時は日本がスイスに追いついていたのである。 勿論それ以後のスイス時計産業の目覚しい回復は、機械時計に対する需要が、どこにでもあるクオーツに嫌気をさした高額所得者に多かったことに帰因する。しかし、スイス側における、特にスウオッチによる新しいマーケティング手法の貢献度も無視しがたい。 毎年、ワインの評価を改訂して出版されている本に、ワイン研究家ヒュー・ジェンソンの「ポケットワイン・ブック」がある。ワインのミシュランと言っていいヒューさんとは以前よく一緒に食事する機会があったが、オックスフォード大出の真面目で誠実な人物で真のワイン好きである。その二〇一四年版をみると、ボージョレ・ヌーボーのことを、別にけなしている訳ではないが、飲物というよりイベントと評している。イベントは出来事という英語だが、お金をかけた催しと訳した方が通りがいい。 隔週毎に手元にくるFH誌をみても、各ブランドによるイベントの報告だらけである。今号でも、全六十頁のうち半数近くが写真入りイベント報告である。予算に合わせて、それぞれのブランドが、イメージにふさわしい企画をしており、まあいろんな工夫がものだと感心する。イベントとは非日常を編み出すお祭りである。人間はお祭り好きだとつくづく思う。そのうちに、三社祭の御輿や、祇園祭の山鉾に、ロゴの入ったのが出現するかもしれない。あなおそろ しや。 なかには宣伝とは直接関係のないイベントもある。この号のFH誌では予告になっているが、十一月八日に、ラショードフォンからルロックルに至る時計製造業が集っている地区が、世界遺産に指定されたのを記念する第六年目の催しが行われている。ジラール・ペルゴー、チソ、タグ・ホイヤー、ユリス・ナルダン、グローベル・フオルセイ、といった有名工場の扉が一般に開放され、ルロックルの美しい城館時計博物館、ラショードフオンのモダンな時計博物館も開放、ほぼ両市をつなぐ鉄路を一九五〇年代の「時計号」という電車が走る。これなら行ってみたい気がする。それに概ねは秘密主義の時計工場が、これに参加するとは、今の繁栄を誇る自信の現れかもしれない。 同じようなイベントとして時計産業の発展につくした人々に、ラショードフォンの時計博物館が与えるガイヤ賞の授賞式がこの九月十八日に行われた。小さいながら時計業界のノーベル賞は、技芸・学術・経営者の三部門に分かれる。学術賞は、元ニューシャテル大学教授で、スイス時間の基準となる原子時計の開発者、ピエール・トアン博士(六八歳))、経営者賞は、自身が科学者であり、金属の表面処理の研究所から今や時計産業に欠くことの出来ない検査機関会社を作り上げたアンリ・デュボワ(七八歳)にあたえられた。 技芸賞は、フィンランド人のカリ・ヴティライネンがもらっている。フィンランドのタピオラにあるよく知られた時計学校を出て、現在は五十二歳だが、二十六歳の時に、ニューシャテルにある時計技術研修学校ヴオステップに入り、複雑時計の製作勉強に励んだ。二年後、パルミアジーノ社に入り、難しい時計の修理や、一個作りの時計に専念する。三十七歳から四十歳まで、今度はヴォステップで教鞭を取った後、独立する。時計アカデミーの会員として四年後に作品をバーゼルワールドに出品。昨年は紳士時計部門でジュネーヴ時計産業大賞を獲得している。故国フインランドでも、二〇〇七年に最優秀時計師賞を得ている。 たまたま、今月のFH誌には、カリ・ヴティライネンの近況が載っていた。現在の従業員は十五人で年生産量は五十個未満らしい。場所はモティエといってニューシャテルから三十キロの人口千人足らずの村にある。新聞のニュースになったには、ローザンヌ近くにあった文字盤製造工場の大手ダイアルテック社が倒産したのをカリが買い取って新しく文字版製造会社を作るという発表である。まず支配人と五人の従業員から再出発させるらしい。もちろん自社使用以外に高級文字板を作って商売をすることになる。この小規模が実にこのましい。スオッチグループが数百億円かけてハリー・ウィンストン社を買収した話と違ってこちらの理解範囲にある。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
友人から送られてきたショパンの新譜CDを何度も聴いた。ピアノ演奏曲第二番へ短調。カーチャ・ブニアティシュベリという若い女性のずいぶん変わった繊細極まりない演奏だったが、丁度ショパンがこれを書いた十七、八歳頃に、初めてこの曲を聴き、この世にこんな美しく、憧れと憂いに満ちた音楽があると、胸を震わせた昔を思い出した。ショパンは、生涯に二曲しかピアノ協奏曲を書いてないが、二曲とも二十歳前に、ワルシャワで作曲している。二番の方が一番より作曲年代が早い。この曲が初演されたのは一八三〇年の春で、その年の暮、ショパンは二十歳になるかならないかで、パリに向けワルシャワを発った。生存中は、二度と母国ポーランドの地を踏むことはなかった。 この年パリでは、七月革命が起こっていた。ナポレオンが没落して、ブルボン王朝がフランスを再支配していたが、王制が廃止され、王家の一員でより民主的という評判のルイ・フィリップが君主となっていた。ごく近年のことになるが、一九六八年にパリで始まった学生デモは瞬く間に世界に広がり、日本でも学生たちが、反体制派となって大学を占拠しようとした。 ショパンの生国ポーランドは、歴史的に隣接諸国(ロシア、プロシャ、オーストリア)に分割されてばかりいる不幸な国で、常に政情不安であった。ポーランド人の心の中には、祖国を統一復興させたいという気持ちがいつもあった。パリの革命の流れは、すぐワルシャワに届き、一八三〇年から三三年かけて支配しているロシアの傀儡政権を倒すべく、何度かポーランド人が奮起するが、失敗に終わり、そのたびに国外追放者や亡命者が多くでる。その行き先は大抵パリかジュネーヴであった。 今号のFH誌には、今年創立一七五周年を迎えたパティック・フィリップ社の特集が出ている。一八三三年にポーランドから移住してきた貴族、アントワーヌ・ノルベール・ド・パティックも政府の弾圧に耐えかねての亡命と思える。故国を出たのはショパンが年末に出国した翌年の一八三一年で、その時は祖国を追われた一万人の同胞と共であった。その中にボヘミア(チェコスロバキア)出身のフランソワ・チャペックなる時計師がいて、二年後この貴族がジュネーヴに定住する気になった時に知り合ったようだ。 六年後の一八三九年、パティックはジュネーヴの市民資格(生粋のジュネーヴ生まれの称号、時計製造許可書)を持つ男の娘と結婚、五月一日この娘の叔父トマ・モローと前記チャペックの三人で時計製造会社「パテック・チャペック商会」を発足させる。ジュネーヴでは、家の中で集めてきた部品を組み立て、必要とされる特殊な部品は自作して完成させる、いわゆるカビノチェがたくさん存在した町であった。カビノチェの語源は、部屋を意味するカビネ(英語のキャビネット)から来ている。時計製造会社と言っても、最初はカビノチェの一つに過ぎなかったに違いない。最初から素人でも、美しく精巧な時計を作ろうという理想を抱いていたパティックはすぐに、チャペックの時計師の腕前にあまり信を置かなくなったらしい。商売の方は、パティックの広いコネのお蔭で初めから順調だった。一八四四年、創業五年後、パティックはパリの勧業大博覧会に出かけて行って、フランス人の時計師ジャン・アドリアン・フィリップに出会う。当時の時計は、懐中時計で殆んど鍵巻であった。この人は、竜頭で巻く機構の発明者でもある。日ごろからチャペックに不満を抱いていたパティックは、共同経営を解消し意気投合したフィリップに、もう一人どうやらポーランド亡命者仲間らしきヴァンサン・ゴストコフスキーなる人物と三人で翌年新しい会社を作る。最初は「パティック商会」だったが、一八五一年一月に「パティック・フィリップ商会」と改名している。パティックはのちにジュネーヴの市民資格を得るが、元々はポーランド人、最初の協力者はチェコ人、次はフランス人ポーランド人らしき外国人。現代のスイスを代表するブランドが、外国人によって始められているのが面白い。ロレックスの創始者のハンス・ウイリスドルフも生粋のバヴァリア出身のドイツ人だった。あのスウオッチの救世主となった偉大なニコラス・ハイエックもレバノン人だ。ジュネーヴで新教派の首長として権威をふるったカルヴァンもフランス人。カルヴァンのお蔭で、新教徒であった宝飾品や時計の職人達がジュネーヴに亡命してきて、今のスイス時計産業の始まりとなっている。スイスではヘイトスピーチなんかしていられない。矛先がどこへ行くやら解らない。 パティックは身体は強健ではなかったが、商売の為には欧州ばかりでなく、ロシア、アメリカまで時計を下げて足を伸ばし、すぐれたセールスマンでもあった。二十年間ぐらいで、パティック・フィリップという時計の名は、世界に轟く様になった。パティックは一八七七年三月一日、六十五歳で逝去している。二十歳になるレオンという息子がいたが、一万フランの終身年金を会社から受け取る代わりに、一切の権利を放棄したという。事実、レオンは一九二七年に七十歳で死ぬまで受け取っていた。一万フランの値打ちはよくわからないが、今ですら百万円以上だから、かなり巨額だったろう。こんな記事を読むと、この息子がどんな生涯を送ったか、想像をたくましくしたくなる。 会社はその後順調にに発展したが、一九二九年のアメリカ大恐慌で、決定的な痛手を受ける。債権は回収できず売り先も失った。困った経営陣は、納入業者でもあり、高級文字板のメーカーであったスターン兄弟会社に救いを求める。シャルル・スターンは手を差し伸べていくに、結局株を一九二一年には、全部買い取らなくなり、会社はスターン一家のモノになる。これまでの協同経営とは異なり、シャルル・スターンの経営の手腕が、既にある程度確立したブランドの上に十分発揮されることになる。シャルルの子息がアンリ。その子息がフィリップ、その子息のチェリーが現社長で四代に渉り優れた経営者が続いているのは、多くの人が知るところである。この号では、スターン家が所有しているパティック社の発展にも多く触れられているが、業界では衆知のことなので言及しない。 一度だけだが、三代目社長のアンリさんに日本でお会いしたことがある。丁度、私の父の年代で、心優しい感じの方だった。パティックの日本の販売を受け持っていたのが、一新時計の前身一心堂さんで、西村隆之社長さんが一九六五年前後に連れてこられた。ジュネーヴに行く機会があって、パティック・フィリップには尊敬の念を抱いていたから、一度訪問したいと工場に直接問い合わせた。すると西村さんから電話があって、「なんで行くのか、私が許可しなければ会えないよ」と叱られた。おそらく代理店交渉の下心でもあるかと誤解されたのだろう。当時は、代理権の争奪戦の時代であった。外国へ行ってよいブランドを見つけて、代理権を貰うと金儲けにつながった。 ジュネーヴに行っても、なんとなくこのことが心に引っかかって、パテック・フイリップ時計博物館に入ったことがない。この次は冥土の土産に見てこようかと思っている。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ダイヤモンド余聞‐セシル・ローズ 何かの都合で、FH誌の今回来るべき号が、スイスから来ず、読むことができなかった。九月の末に、六本木のアークヒルズ・クラブでのある会合で、ダイヤモンドの話をしたので、その一部を記して、紙面を埋めさして頂く。 松本清張という作家は、勿論推理小説の大家であったが、鉱山に異常な興味を抱いていた。暗い情念を持つ人物達は、陰うつなヤマの光景や、深い坑道が会うせいか。初期の短編に「山師」という作品がある。能楽師上りだが、金鉱の発見に特殊な能力を持つ男が、徳川家康に認められ、佐渡金山の効率化に寄与し、次第に全国の金山開発に成功して出世する、大久保石見守長安の物語である。又後年には、石見銀山から始まる陰々としているが、血湧き肉踊る面白さを持つ大長編、「西海道綺談」を書いている。よく世に知られている中篇に「佐渡流人行」がある。江戸期の佐渡金山での、地下深い現場に下り、湧き出る水を地上に汲み上げる労役の厳しさを的確に描いている。「多くの鉱山が露頭堀りや斜坑の安易な濫堀をやって竪抗の困難を避けたのは、一つは水の処置が出来なかったからである」と清張は書いている。 二十年程前に、デビアスの本社があるキンバレーを訪れたことがある。最初にダイヤモンドが多量に採掘された場所である。そもそもダイヤモンドが見つかったのは、一八六六年平地で遊んでいた少年が光る石をみつけて以来だから、鉱山というのは間違っている。抗穴といった方が正しい。平地を五百近くの鉱区{日本では敷といった}に分別、権利を買った人間が、各々勝手に掘り進んだから、初めはよかったろうが、掘り進むとえらいことになる。深さの異なる穴ができるから、危険きわまりない。雨水がたまると掘れないから排水しなくてはならない。その初期の時代に採掘者達に排水ポンプを貸して、大もうけをしたのは、自分も鉱区を持ってダイヤモンドを掘っていた今のデビアス社の創業者である若者のセシル・ローズであった。キンバリー鉱の掘られた穴は、直径一キロ近くあって、今や地表から三百米程下に青い水面をみせて静まり返っている。人々はこれをビッグホールと呼んでいる。高所嫌いには近づくのもおそろしい。 セシル・ローズといったところで、今の若い日本人は殆んど知らないだろう。ローズ自身が策謀し侵略し創出した、南アフリカのローズの国、ローデシアは、今やジンバブエやザンビアとなって独立している。私の子どもだった頃は、世界の偉人伝というと必ずといっていい程ローズの名が入っていた。ローズは一言で言うと、カイロから自分が首相となった南端のケープ共和国まで、全アフリカを英国の支配下に置こうとした男であった。夢想家であり、かつ行動家であったところは、満州国建国に関わった石原莞爾将軍によく似ている。ローズは牧師の息子であり、石原も、日蓮宗の強烈な信者であった。両人とも戦後の評判は悪い.極端な帝国主義者として断罪されている。 たまたまダイヤモンドの話をする前夜に、ホテルのバアで、作家でエコロジストのC・W・ニコルさんとカウンターで隣同士になった。相手は英国人というか、ウェールズ人だから、今はローズの考えは、非難されてるでしょうと話しかけると、「いやそうでもないよ。考え方は今からみると正しくないが、彼が生きた時代に人々がどの様な考え方をしていたかも考えてやらないとね」と穏やかに言った。自然を守る姿勢は強いが、日本の捕鯨は認めているニコルさんの面目が躍如としていた。歴史認識を現在の立場だけから持つのも多少問題がある。 キンバリーは行ってみると気候の良い土地で、暑くて湿度が高いというアフリカのイメージから程遠い。元々からだが頑健でなかったローズを十七歳の時に、ここで働いている兄の下へ、健康の為送り込んだ親の気持がよく解る。ローズは、ダイヤモンド鉱夫たちに排水ポンプを貸して稼いだ金で、オックスフォード大学へ入学、アフリカでの仕事と学業を兼ねて、八年かけ二十八歳で卒業する。 当時の南アは、ダイヤモンド熱に浮かれていたが、採掘された原石は、好不況の相場によって値は左右され、採掘業者はしばしば苦境に陥った。ダイヤモンドは生活必需品ではない。この値を安定させ、安心して鉱山業に打ち込めるのは独占するしかないという信念を持ち出したのは学生の頃だろう。以来、英国人らしい不屈の精神で、ローズは他の鉱区買収を開始する。大学を卒業する一年前、すでにに、デビアスダイヤモンドを設立している。短い期間に、それだけの実力を蓄えたのは、鉱区の買収にかなり汚い手を使ったといわれる。一番得意としたのは、安売りで、買収目的とする鉱区の供給先に安い価格で提供し、相手が力尽きたところで買収する手法であった。当時同じような考えを持ったバーネイ・バルナートという男が居て、この二人が激突すること長きに渡ったが、結局金持ち喧嘩せずで、両者和解し、一八八八年、デビアス・合同鉱山会社が設立される。ローズ弱冠三十五歳、大富豪となる。 ローズは策謀家で、往年部下に人を得ず、策士策におぼれることがあって、ケープ国首相を追われ、失意の生涯を終えるが、ダイヤモンドに関する面白いエピソードをE・ブルートンという人が書きまとめている。 まだ前記バーナートと競争関係に在る頃、彼の仲間を自分の事務所に呼んで、机の上に百六〇の山に分けた、計二十二万カラットのダイヤの原石を見せた。誰もこんな沢山の原石を見た人はいなかった。ローズの提案は、五十万ポンドの値打ちがあるが、七十万ポンドで買って欲しい。ただし当面安く売ってもらっては困るというのが条件だった。ローズは退室し、一同が合議して七十万ポンドの値を受け入れる。会議室に戻ったローズは、答えを聞くやいきなり机を傾け、初めから仕掛けをしていたバケツに、全ての原石を混入させてしまった。バケツ一杯のダイヤを一度は見たかったとローズはすまして言う。どうか皆さんで分けてください。かしこいバーナートは、この狂言の意味をすぐ悟る。再び分類するには、六ヶ月はかかるだろう。その間、我々は安売りどころか分配もおぼつかない、時間稼ぎだと。果して、ローズが予想したように、売り出される頃には価格は上昇に転じていた。 ローズという人間の天才性は、ダイヤモンド鉱山の独占ばかりでなく、新聞という新聞を買収したことにも表れている。ただそれは、私欲の為でなく、すべて祖国イギリスに奉仕したいという信念から出ていた。カイロからケープタウンまで鉄道を引こうという大構想を抱いていたが、ボーア戦争が始まったために、着手できず、戦争が終わる寸前一九九二年四十九歳で死んでいる。独身だったため資産のほとんどは母校オックスフォード大学に寄贈され、ローズ奨学基金となった。クリントン大統領もこの奨学生の一人である。ダイヤモンド事業は、のちにアーネスト・オッペンハイマ―が加わり、大きく発展する。ローズの場合は大英帝国のための独占であったが、オッペンハイマーは、それをダイヤモンド産業全体のための独占に転換していった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
若者に伝えたい「日本人三人にノーベル賞」受賞の快挙 一夕、最近のことだが、日本人は優秀だという話題が友人達の会食の席で上った。優秀だが日本の住み心地が良すぎて、近年の若者は外国へ行きたがらない。武者修行を避ける傾向があって、実力を試す機会がなければ才能が磨かれないのではないかというのがわれわれ老人たちの疑念であった。 その会合から数日後、青色ダイオードの開発者である日本人の三人にノーベル賞授与の発表があった。その中で、企業内の研究者として実用化に成功した方が、中村修二さんで、この特許に対する企業からの評価が低すぎると提訴、六億円有余の和解金で妥協してアメリカに行った。その提訴の詳しい内容は知らなかったものだから、研究を可能にした自分の会社を訴えた変な人という記憶がぼんやりあっただけであった。これで中村さんの言い分がグローバル的には正しかったことが、全世界に証明されたことになる。 偶々TVを見ていたら、今はアメリカの大学で教授をしている当の中村さんがインタビューに答えていた。日本の職場で不満を持てば、アメリカみたいにどんどん転職すればいい。そうすればレベルが上がる。まだ日本では難しいだろうから渡米すれば良い。ちゃんとした研究内容なら人は認めてくれるし、起業につながることなら、お金を出すベンチャー資金はすぐ嗅ぎ付ける。英語なんか話せなくても大丈夫、要は中身なんだからという要旨で、アメリカ社会の持つ活力が感じられた。 これは本当か嘘かわからないが、サムスンがあれだけ躍進したのは、定年で役員になれなかった東芝やパナソニックの技術者を多く採用したためだという噂話を良く聞く。半導体製造の機械を購入した際に、使用方法の指導者としてサムスンかって日本技術者の派遣を要請していた事実もある。 時計業界では、日本の優秀な時計技術者がスイスへ行って活躍したという話しは聞かない。なぜかと言うと一九七〇年に始まったクオーツ時計の躍進によって、日本の機械工学の専門家が、機械時計の設計や製造に突然興味を失ったことに帰せられるであろう。 最近、東京大学出版会から、小牧進一郎という方の「機械式時計講座」が出版された。小牧さんは東大の応用物理から第二精工舎に入社され、一九六八年度のニューシャテル天文台のクロノメーター・コンクールで、上位四位を独占したセイコーチームの立役者の一員であった。以来スイスでは、天文台のコンクールを中止してしまった。 この本の中で面白いことが書かれている。時計の精度に密接な関係を持つ調整器回りの構造要因、五四頃目のうち、この四十年間で明らかに進歩が見られるのはわずか二項目しかないことである。つまり、四十年前の機械式時計の精度と現在の精度とは一向に変わり映えしていないということである。今から五十年前のクオーツ出現以前の時計の値段は、正確さで決まっていた。パテック・フィリップがセイコーより高価なのはより正確であったからであった。コンクール首位独占でセイコーがその神話を破壊した。しかも時を同じくしてクオーツ時計が出現した。クオーツ時計の精度は機械式時計に比すべくもない。電源のある限り圧倒的に正確である。当然良くて安いものが絶対という日本人が信じていた社会だったから、経営者も技術者もクオーツ時計の開発に専念し、機械時計は捨て去られた。日本製のクオーツ時計は瞬く間に世界を席巻し、スイス時計産業をほとんど壊滅状態に陥れた。ピェールイヴ・ドンゼさんの「スイス時計産業史」によると、一九七〇年の今のスォッチグループの全身であるASUAG社とSSHI社の売り上げを足して十六億四千万フラン(約千六百億円)、同じ頃、セイコー一社だけで三千億円を軽く超えていた。 現在、クラッチ付のミッション車がオートマチック車に変わることはないと思っているように、誰しもが機会時計の時代は終わったと思っていた。 今のようにスイスの機械時計が世界の高級時計市場を独占するようになったのは、やはり機械式時計の持つ文化的な力によるものとしか考えられない。 スイスだけだなく、ドイツにも時計作りで知られる町があった。旧東ドイツのグラスヒュッテである。懐中時計ではグラスヒュッテ産の中でもランゲの名は高かった。しかし東ドイツの工業政策の中で、もう時計産業はほぼ滅亡かと思われていた。グラスヒュッテはかって寂れた鉱山町であって、町の復興のために、時計学校を作ったのが、パリで時計修行をしたフェルディナン・アドルフ・ランゲ(一八一五~一八七五)だった。今のランゲ&ゾーネの創業者である。ドイツが第二次大戦で敗北。東ドイツ政府が工場を没収したので、曾孫に当たるウォルター・ランゲが西側に逃げ、フォルツハイムで時計関係の仕事をして生活していた。ところが、ベルリンの壁が消え、西ドイツ政府は、ランゲに特別の安値で提供するから、先祖の工場で製造続けることを条件に買い戻せとの依頼がくる。ウォルターは六十五歳になっていたが、工場の再建に着手する。その後の発展は良く知られている。二〇〇三年、工場そのものは、事のなりゆきで、リッシュモン・グループに編入されたが、九十歳になった今日でも、現役で仕事をしている。ランゲ&ゾーネ社の顔といってよい。こういうのも歴史が持っている文化的な力がランゲの再建の力を貸しているという記事が今号に出ている。 続いては、今号に地元新聞から転載された生臭い話。七月末に、いろんな部門でヴィトングループと競争しているケリンググループのフランソフ・アンリ・ピノーがユリス・ナルダンを買収したと発表した。市場は、スォッチとリシュモン・グループとそれに数字を公表しない(推定売り上げ四十五億フラン)のロレックスで満杯である。それに何を今更と、記者のステファーヌ・ガッシェは疑問を投げかけている。経営利益を比べると、スォッチ二四・四%、リシュモン二四・三%、LVMH宝飾時計部門八・九%、ケリング九・五%、エルメス三二・四%、モバード一二%、シャネル二五%。世界の市場支配率はスォッチ一九%、リシュモン一六%、ロレックス一二%である。 新しいブランドを買っても、大きな利益を期待できない。ナルダン買収に五億五千万フラン(推定)払っても、どう採算を取るつもりなのかと記者はいう。リシュモン社総師の、ヨハン・ルパートは、「欲しいブランドはまだいくつか残っているが、盛業中で売りに出てない」と暗にパティック、AP、ショパール、ブライトリングを指している。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
今年はスイスと江戸幕府が通商条約を結んで百五十年 今年はスイスと江戸幕府が、公的な通商条約を結んで百五十年になる。一八六四年二月六日、明治維新の僅か四年前であった。その時の使節団代表が、一八五八年に結成されたスイス時計連合の会長だったエメ・アンベールで、日本滞在は長くなり締結まで交渉が一年近くかかっていた。随員の一人が時計造りに経験のあるファヴル・ブラントであった。使節団が帰国してからも、横浜の居留地に商店を構えて、不定時制の時代であったため日本人があまり必要としない、時計や必要としている館んや大砲を打っていた。 司馬遼太郎が「峠」を書いたとき、開明派の長岡藩家老河井継之助の西欧文明の家庭教師としてファヴル・ブラントを登場させている。河井は小説の中で、度々横浜の商店を訪れ、長逗留して、スイスや欧米の事情を尋ねている。幕末の在日外国人というと、ペリーや英国公使のパークス、仏国公使のロッシュに代表されるように、尊大で日本人を見下した人物に描かれることが多いが、司馬さんは、ファヴル・ブラントを今の平均的スイス人と同じように穏やかで謙虚な、河井と対等な付き合いをする友人に設定している。日本で一生過ごす欧米人に共通な性格を与えている。 当時、スイスの重要輸出品目は繊維製品と時計であった。エメ・アンベ ール自身が代表となって来日する以前に、両品目の販路拡大を求めて日本に小さな使節団を送っている。その中の一人が、後半ジラールペルゴーとなる時計会社の社主の一族であったフランソワ・ペルゴーであった。早速横浜で商売を始めたが、二年間で莫大な損失を重ね、時計連合本部の屋台骨を揺るがせるに至っていた。その後始末をアンベールの仕事であった。彼はもともと完成品を売ることよりも、部品を供給して日本国内で組み立て生産をする方に興味を持っていた。それが将来日本の時計製造業につながっていく。その過程は、別の長い話になる。興味のある方は、最近出版された、京都大学で経済史を教えているイヴ・ドンゼさんの「追いつき、追い越せ」(日本時計産業史)を参照されたい。 日本・スイス国交樹立百五十周年を記念する催しが、スイスらしい地味さで、あんまり目立たないにしてもあちこちで開催されている。実は先日、その種の催しがスイス大使館との協力で大阪で開催された「今、スイスから何を学ぶか}というテーマの有識者によるシンポジウムであった。聴衆の一人として聞いていたが、人口八百万、国土は九州並みの広さ、それも殆んどが山で、海はないという国からあまり学べることはないという気がする。なんといっても人口の差は大きい、しかもスイスは二十六の独立色の強い、州(カントン)と準州に分かれた連邦共和国である。市民個人の意見が政治を左右する、直接民主主義の成り立っている国である。リンカーン大統領の言った「国民の、国民のための、国民による国家」がうまく機能している。国民の所有する国家となると、税金とかいろんな責務が生じるからなるべく逃げたい、国民によると言ったって投票には面倒だからいかない。国民の為だけは大いに要求したい。むろんその中には私も入っている。これが残念ながら日本の現状である。スイスから真に学ぶべきことは一つしかない。それは国民皆兵でかつ、永世中立を遵守して、国外の戦乱には一切関与しない。ハリネズミ戦略である。しかし今の日本では採用することはできないだろう。 今号のFH誌は、夏休み明け号で、百五十周年事業の一つとして、スイス政府首脳が7月に来日し、甘利明経済産業大臣と赤羽一嘉副大臣と自由貿易協定の締結に向かって協議した報告が載っている。書き手は随行した会長のパッシェさんである。 別稿にも本年前半六ヵ月間のスイス時計輸出実績が出ているが全体としては三%成長している。昨年一年の日本への輸出額は十一億五千五百万フラン(千五百億円見当)で、国別で見ると第六位であった。それが今年の前半では、前年比二五・五%も伸長して総額六億五千八百万フラン、対中国を抜いて第三位に浮上している。使節団の団長の大統領(といっても閣僚が毎年回り持ちする)のシュナイダー・アマンや特にパッシェさんなんかの眼には、日本経済が完全回復していると映ったに違いない。自由貿易協定が結ばれるのは、欧州諸国の中で、スイスが皮切りで、これを機に日本は近隣アジア諸国との同様な協定の締結に弾みがつくとパッシェさんは言う。時計の関税がゼロという点から見ても、スイスと日本の自由貿易は、ほとんど実施されているみたいだが、他の国との交渉はそう簡単ではない。 フィリップ・デュフールのこと スイスの時計は今でも、田舎に小さな工場があり、そこで家内工業的に丁寧に作られているから、品質がすぐれているという神話がある。有名ブランドはその申請を利用して、たいてい近代的装備の大きな工場で製造されている。なかには例外もあってデュフールはその神話を具視している人物の一人である。一九四八年、ヴアレー・ド・ジュウの時計の町、ル・サンチェ生まれ、地元の時計学校を卒業して、いくつかの国内外の時計工場で勤めたあと、三十才で独立して、以来故郷の町で、数人の助手を使い、時計を作っている。 アトリエのドアには「複雑時計製作」という看板があり、なかには、一切、電子を使う機器はなく昔の工場の雰囲気が濃い。機械はみんな中古だよ。要らなくなったのを重さで買ったものだ。ヴアレー・ド・ジューの各家には、殆んど時計作りの間があってね、みんな手先が器用だった。近在には有名なメーカーはないが、精巧な部品作りが多く、組立て屋さんに重宝がられていた。高度の部品が作られていたよ、ラ・ショードフォンなんかと違うね、とデュフールはお国自慢をする。ジュ・ド・ヴァレーは二百年前のシリコン・ヴァレーといってよい。ジュネーヴの奥の院ともいえる、車で一時間程山へ上ったフランスとの国境にある。ル・サンチェには、昔の部品工場を改造した時計博物館があって、この十月一日、十一月八日、十二月四日にデュフールが実技を公開する。ご本人は写真でみても温厚誠実そうな人柄で、会ってみたいなと思う。日本人唯一の独立時計師会会員、菊野昌宏氏もこの人の激励と推挽で、スイスで認められるようになったという。これは今号に転載されている地元新聞の記事から転載されたものである。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
『サイトウキネンと小沢さん』 夏の間はFH誌の発刊も一か月休みである。私の『FH誌を読む』もしたがって夏休みとなる。八月の終わりに、例年のように初めからの大スポンサーであるセイコーエプソン社から松本のサイトウキネン音楽祭へ招待されたので、その経緯を書いてみる。 どうして沢山おられるセイコーのお得意先から、私を招待してくれるようになったのか。もちろん昔のアルバ時計販社の社長として、アルバの製造を担っていたエプソンの塩尻工場を訪れたという縁もあるだろうが、販社の株式のすべてを服部セイコーに買い取ってもらってから、直接の縁は切れて長い。おそらく、どなたがあれは無類のクラッシック好きだと吹聴してくれたに違いない。 サイトウキネンとは、指揮者の小沢征爾、秋山和慶さんたちが中心になって桐明学園の先生だった斎藤秀雄さんの葛藤薫陶を受けた仲間とともに、先生を讃えるために作ったオーケストラである。楽員は世界中に散らばって活躍しているので、演奏会の度に集まってくる臨時の楽団である。あまり評判がいいので、毎年決まったところで、決まった時期に開催しようと、主導者の小沢征爾を中心に、開催地探しの後、松本に決めて、一九九二年の夏から始まったのがサイトウキネン・フェスティバルである、実ははじめ我が町大阪の隣町、奈良も候補地に挙がっていたのだが、小沢さんの要請に応えられず、お釈迦になったと聞く。奈良だとまたきっと違った形になったかもしれないが、松本が正解であったに違いない。というのは、小沢さんの人柄と熱心な啓蒙活動で、町を挙げての祝祭になっているからである。市民が何かの形で参画している。奈良のような古い文化財のあふれている町では、それでなくても観光客は来るし、クラッシックのような西欧文化が、町中に浸透するのは難しい。今でも、クラッシック音楽に関しては、奈良は、小沢さんの要望したような立派なホールもその後建てられているが、不毛の地に近い。 西洋音楽が、欧化政策を教育に持ち込んだ明治政府の後押しで、日本に普及し始てから、精々百年余りである。「蛍の光」も「殖生の宿」もスコットランドの歌である。ドレミファソラシドという西欧音階は、明治までの日本には存在しなかった。技術は、異文化の世界でも簡単に消化されるが、文化はそうはいかない。世界中で日本人ぐらい外国の文明や文化を素早く取り入れる民族はないが、クラシック音楽は、一部の人々が愛好するところにとどまっている。茶の湯だってそうかもしれないが、誰だって気持ちを落ち着かせて飲むことはできる。作法は難しいが、利休も茶の極意は、静かな心で湯を沸かし、茶をたて、飲むだけと言っている。私は銭湯に行くのを好み、毎夕のように出かけるが、銭湯の仲間たちに、ベート―ヴェンを聴かせると、三分もしないうちに逃げ出すだろう。カラオケでは、私より上手に違いないが。 小沢成爾さんは一九三五年生まれ、私より二歳年長、生まれは私同様満州である。お父上の小沢開作は満州国の政策を作った満州国協和会の重鎮で、時の関東軍参課の板垣征四郎や石原感爾と連携して活躍し、当時名の知れた人物である。板垣は東京裁判で有罪死刑、石原は東条英機に嫌われて引退していたため、有罪を免れた。この二人の名を取って、父上は征爾と命名したと言われている。 幼いころ、日本の統治下にあった満州や中国で育った人々は一概に、中国人に対し後ろめたい気持ちを持っている。普通の町を歩いている中国人に対し、理由のないほのかな優越感を抱いていたからである。大人になって、小沢さんや私のように欧米に留学して白人社会で暮らすと、どうしても小さいころの中国人の気持ちを理解させられることになる。夏目漱石のロンドン留学生活のいわれなき劣等感が分かるようになる。小沢さんが音楽生活の中で、中国を重視、いろんな意味で、学生たちへの直接的な援助や中国のクラシックの音楽の向上に手を貸しているのは、立派と思う。 オーケストラの指揮者とは何をしているのか.棒はリズムを刻むが、音は出せない。楽団員は、指揮者を時折チラッと見るだけで、大抵は楽譜を眺めながら演奏している。ところが、指揮者の振る棒の先から、まるで音楽がふりまかれるような気がする時がある。そんな時は、大抵すぐれた演奏である。小沢さんは、棒だけでなく、体全体で指示を出す。これに表情が加わる。天衣無縫というか、テレ屋の日本人にはなかなかあそこまではできない。今回偶々楽団員の一人と夕食を共に過ごすことがあった。若い優秀なコントラバス奏者だったが、小沢さんは耳が素晴らしい、小さな点でも、よく気が付かれ、指示を出されますと、尊敬の念を隠さなかった。世界の名だたる指揮者のもとで演奏したことのある人なので、小沢さんに寄せる楽団員の信頼の高さを知った。 もう四十年近く前になるが、旅行でモスクワ滞在中に偶然、当時はサンフランシスコ交響楽団の音楽監督をしていた小沢さんが、楽団を率いてチャイコフスキー・ホールで演奏したのを聞いたことがある。ブレジネフのソ連時代である。旅行者特権で切符をインツーリストに手配してもらったが、会場の入り口で人品骨柄いやしからぬ老紳士が、もし切符が余っていたら、分けてくださらぬか、と頭を下げて頼まれたのに、断らざるを得なかった。共産ロシア社会の裏を見た感があった。チェリストとして有名なM・ロストロポーヴィッチが地元から共演していて、ドヴォルザークの有名な協奏曲を弾いた。その頃、ロストロポーヴィッチは自由主義者として政府から要注意人物として睨まれていて、海外演奏どころか、個人生活でも自由に行動できなかったらしい。この曲には、望郷とか、何かに憧れる思いを切々と訴えるものがある。チェリストの自由な社会に対する切望が、朗々と歌い上げられていて、泪の出るような名演だった。後年小沢さんとロストロポーヴィッチは親しい友となり、サイトウキネンにもやってきている。 いつかカラヤンが上野の文化会館でベルリンフィルを指揮したときに、近くに小沢さんがいた。小沢さんはカラヤンの弟子である。演奏が終わると、拍手の時、小沢さんだけが、客席で立ち上がり、手を叩くと同時に「ブラボー、ブラボー」と大声で連呼していた。まだそんな習慣が日本に根付かなかったころである。他の人なら、キザと見えるが、ご本人は一向に構わない。好きなように自己表現しても許されるのは人柄だろう。来年からサイトウキネンがオザワキネンになる。体に気を付け、ぜひますます活躍してほしいと心から思う。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
FH総会について 英国の貴金属製造者組合の本拠、ゴールド・スミス・ホールで、打刻された金銀の品質検定の刻印が、ホール・マークの始まりである。人々が安心して貴金属製品を購入する目安となって、各地でホールマークを入れることが普及した。日本が真似をして、日の丸を、造幣局で打刻したが、英国では制作者も判明するように、刻印は沢山あっても、自主規制で一覧表でチェックする。日本人の何とか、お上で一つにまとめてくれれば、有難いという性向がでている。ホールマークをフランスではポアンソンと言い、これまた辞典のような一覧表がある。調べるのは面倒といえば、面倒である。デビアス社が自社刻印の入ったダイアモンドをフォエヴァー・マークと称するのも、ホールマークのひそみに習っている。ジュネーヴ地方で作られた時計に、いはゆるジュネーヴ・スタンプを刻印するのも、ジュラのような山の中で、寄り合い所帯みたいな時計の作り方をしている連中とは違うのだよと言いたいためであった。昔の話ではあるが。 スイスは民主主義とはいえ、ジュネーヴでは階級が五つに分かれていた。上から行くと、市民、町民、出生民、住民、服従民。市民というのは、いはば生粋の江戸っ子、いやジュネーヴっ子。その子だが、ジュネーヴ生まれでないのが町民。あとは類推されたい。服従民というのは郊外に住む農民達である。時計産業に従事できるのは、市民と町民だけであった。山中の農民が畑仕事の暇に作る時計と同列に扱われてはたまらんというジュネーヴ人の気持も分からなくはない。しかも相手は旭日昇天の勢いをつけつつあった時代だったから。 このホールマークの精神は地域が拡大されスイス・メイドの印刷か刻印、それを暗に表示するスイス国旗の使用になっている。昔のように百%自国内生産であれば、簡単である。現代では、私達の生活をみまわしても、百%メイド・ジャパンの製品は殆んど見当たらない。日本よりは更に資源の少ないスイスにおいては、なにおか言わんやである。時計でも、外国で生産して、最後の仕上げに少し手を加えて、スイスから輸出したら、スイス製となりかねない。日本人同様、この手の表示には神経質なスイス人は何をもってスイス製とするか、時計だけでなくあらゆる分野の製品について、その定義を公的な審議会で六年以上、議論を重ねて来た。スイスネス法案という。これが連邦議会で昨年承認されている。時計の細目については、まだ決定していないので、今年の六月に開催されたFHの総会で、七年前に法制化するように提案された諸項を再確認を得る決議がなされている。 スイス製と表示するためには。 機械時計に関して、八〇%(金額で)以上がスイス製であること。ムーヴメントについても同様。クオーツ時計及びその部品に関しては六〇%以上。デザイン 及び時計のプロトタイプの制作もスイス国内であることが望ましい。技術的なデザインとムーブメントのプロトタイプも同様。完全実行までに五年間の猶予が設けられている。 今年の総会は、初めて時計産業とはあまり関係のない地域のヴァレー州の小都市マルチニ―で開催されている。 冒頭の会長ダニエル・パッシェさんの挨拶に、昨年度の時計産業の輸出額は絶好調の新記録で、二一八億フラン(約二兆四千億円)に達し、今年に入っても三・三%増加しつつあるとあった。写真を見ても、百名ぐらいが参加したのだろう。楽観的な気分がみんなの表情に出ている。 この席で、シンガポール、韓国、日本、香港に続いて中国とも自由貿易協定が締結されたとの報告があった。それによると、中国の時計関税(現行30%)が十年間で、六十%減額になり、初年度は十六%下がることになる。中国への輸出があまり芳しくない現在、スイスにとっては朗報と言える。 もう一つ現代のホールマークの関係になるが、FHの要請によってスイス政府がロシア政府と交渉して、貴金属をケースに使用してスイスで刻印している金商保証がそのままロシア国内で、法的に通用することになったことも報告されている。 ところで、わが国のホールマーク制度に法的な根拠はない。日本ジュエリー協会(JJA)は、金商表示に関して、細部にわたるガイドラインを出しているが、会員に対してすら強制力は弱い。K18とはPt900といった表示とともにメーカーのマークを打刻してあっても、その内容に関しては、メーカーの良心に頼るのみである。JJAの公認制マークを作ればいいが、あとの責任は取り切れない。ホールマークが定着するには、やはり長い歴史が必要である。 FHとスイス政府は協力して、パテントや商標と言った知的財産権の確保に関して、インド政府と継続交渉中という報告も総会でなされている。日本のメーカーの要請に従って、日本政府が時計輸出に関して動いた話は聞いたことがない。国内規制の改定ぐらいなら、動くだろうが、通商外交は、大体国会議員の要請で動く。議員が動くと外交も動くというパターンだろうが。繊維、自動車、鉄鋼となると、すぐ政治問題が絡んでくる。もっと小さな品目で政治に絡ませず、しこしこと通商外交を日本もすべきと思う。日本の時計メーカーはみんな政治家に対し距離を置いている。それはそれでいいことだが、政治献金になんかに頼らずに、理詰めで日本政府に行動してもらうことができないものだろうか。 日本とスイスの国交樹立百五十周年 一八六三年幕末、長州や薩摩が外国と戦端を開いた激動の年に、オランダ船をチャーターしてスイスの通商使節団が来日した。団長は、ニューシャテル出身のラ・ショードフォン時計連盟の会長エメ・アンベールだった。エメはかなり民俗学に通じた人だったらしく、幕府と交渉中、いろんなところを見て回り、今なら写真を撮るところだが、随行の画家にエッチングで記録させ、膨大な幕末図鑑を発刊している。その訳は講談社学術文庫に入っている。幕府のぶらかし外交(のろのろの意味)は意外な文化的副産物を生む。交渉は、結局翌年一八六四年二月六日に、修好通商条約の締結で無事終了した。 実はその五年前に、スイスの通商使節団が来たが、代表がリンダウというプロシア人で幕府は相手にしなかった。ニューシャテル州は、長らくプロシャの属領であったから、スイス側としては、違和感が少なかったのだが。アンベールの随行員の一人がフランソフ・ぺルゴーで、ジラール・ぺルゴーの義理の弟であった。時計工房として、いわゆるこのG・P社が設立されたのは一八五二年で、七年後に日本までやってくるというのは開拓精神にあふれている。いずれにしろ最初に直接日本にやってきた時計業者で日本に住みつき、自社の時計を輸入し、一八七七年横浜で没している。彼以前にリンダウについてやってきて、時計や銃を輸入したファーブル・ブラントがいるが、生粋の時計人ではない。しかしこちらの方が司馬遼太郎の小説「峠」の中で主人公・河井継之助に西欧文明とは何かを教示する人物として登場するのでよく知られている。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
エタブリサールとマニュファクチュール こんな暑い時は、スイスの風景を思い浮かべて夢想にふけるのが心の避暑になる。最近のFH誌は、全部が鮮明なカラー写真で、本文の記事とは関係のない風景写真が多い。僅か千六百部しか印刷されていないスイス時計業界の会報誌だが、読みやすくなっているのもふんだんに添えられた美しい写真のお蔭である。 時計産業の密集している地域は、ジュネーヴから始まり、東北のフランスとの国境に沿ったジュ―川の流域とジュラ地方へ登っていき、そこから山を下ったニューシャテル湖沿岸までのフランス語圏である。大都会のジュネーヴは別として、特に外国人がスイスでイメージするような景色は展開されない。 年中氷雪を頂く峻険なアルプスは美しく、山男女の心を惹き、単に遠くから見ても魅せられるが、インターラーケン、グリンデルヴァルト、ツェルマットという山好きの人々が集まる町は、すっかり観光地化されてしまって、町中がショッピングセンターになっていて味気ない。マッタ―ホルンを仰ぐツェルマットなど一般車が入れないようにしてあるが、それでも人は沢山やって来る。ここから見るマッタ―ホルンは、秀峰の名にふさわしく、胸躍る眺望だから仕方がない。レマン湖越しに、バラ色に輝くモンブランも美しいが、やっぱりこちらに軍配を上げたい。ツェルマットへ至るには、ジュネーヴからイタリア行きの電車に乗り二時間、シンプロンのトンネルの手前で乗り換え、山間を登る支線を使うけど、あの高いマッタ―ホルンがなかなか見えてこない。このお預けが、期待を増してくれる。 この車線は乗換へのブリッグ駅ぐらいまでは、ローヌ河沿いに走っていく。もちろんはじめはレマン湖沿いだが、レマン湖はローヌ河が途中で膨れ湖になったといってよい。ローヌ河はジュネーヴで流れだし、フランスで最も重要な河川の一つになるが、湖に入り込むローヌ河はまさしく氷河の溶け出す水が走る渓流である。このあたりはヴァレ地方と言って、日照時間がスイスで一番長い。ブドウが良く成り、ワイン作りが盛んである。今となると本当のスイスの田舎はこのあたりかと思う。 「天と地の丁度真ん中に立ち止ったような地方、パンのように熱く、手を差し伸べてくれる神に捧げられたような完全な美しい地方」と晩年この地に住み、没した詩人のリルケが、こううたっている。プラハに生まれたリルケは一生放浪の生活を送った。俳人の山頭火同様身一つの放浪であったが、貧しくはない。若くして名声を得てパトロンに常に恵まれた。大抵は城館暮らしで、女友達にも事欠かなかった。それでいて難解な、人間は存在の重みにいかに耐えられるかという詩を書いた。ヴァレ地方に住むようになって、フランス語で詩を書くようになった。フランス語で書かれた詩は私でも多少解る。いやそんな気がする。 リルケが最後に住んだ石の塔屋のような館、ミュゾットはシェールという町にある。数年前中に入れないかと外をウロウロしていたら、住人みたいな爺さんにあっちに行けと怒鳴られた。ひっきりなしにリルケ愛好者が来るみたい。記念館は別の所にある。 リルケの友人に繊維業で財を成したオスカー・ラインハルトという男がいて、リルケがこの中世の城館を気に入ったと言うと、それを買って無料で貸したという。この人がいかに金持ちであったかは、出身地のウィンタトゥール(チューリッヒの北)に行ってみれば解る。収集品を町に寄贈した美術館が二つもあって、一つはドイツ、スイス系の画家の作品館。もう一つは、郊外の私邸を美術館にした「レーマーホルツ館」。ここは小ルーブルと小オルセーと言ってよい。いちいち名を上げないが、古今の傑作が揃っている。洋画の好きな人はきっと目を丸くするだろう。 ウィンタトゥールには小さな時計博物館がある。今でもあるか知らないが、クロック専門の展示で、中世以来の鉄でできた色んなスタイルの掛け置き時計が並んでいた。ここはドイツ語圏なので、ドイツ系の鍛冶屋が作ったものだろう。ウィンタトゥールとバーゼルを結ぶ線の北は、ドイツのシュバルッヴァルト地方で、鳩時計の産地として有名である。ドイツの鍛冶屋が創るクロック機械の影響と、ジュネーヴに来たフランス時計の伝統が、スイス時計産業の初期の形成に寄与している。 スイスの時計産業は、長い年月に渉って、自然発生的に成長してきた。全部の部品を一人で作るのは難しいこともあって、部品ごとの分業が始まり、時計作りは、自分では作れない部品を買い集め、完成するようになってきた。そのために近くにいる必要性があるので地域性も出てくる。そのうちに自分では部品を作らないが、買い集めてきて、組み立てて販売する業者が出てくる。いわゆるエタブリサールの成立である。更に部品もなるべく自社内で作ろうとするマニュファクチュールが出現する。だが未だにスイスでは、近代化したエタブリサールの世界が基本としてあるので、時計製造は現代でも資金と知識と更にコネがあれば起業は難しくない。日本は全部マニュファクチュールなので、カシオ以来、目立つような時計メーカーが出ないのはその為である。 この号のFH誌には、近年台頭著しいフレデリック・コンスタン社の創業者ピーター・スタス(六十一歳)との対談記事が出ているので取り上げてみる。スタスはオランダ人で香港のフィリップス(電器)に勤めていたが時計好きが嵩じて奥さんのアレッタと協力してジュネーヴで時計を作り始める。フレデリック・コンスタンという名は、時計業では存在しないから、パテック・フィリップのような二文字がジュネーヴ産の高級時計としての響きが高いから選んだのだろう。高級のやや下の価格帯をねらった戦略であったせいか、一九九二年の本格的創業以来、順調に売り上げを伸ばしてきた。最初は当然エタブリサールであったが、十年前からジュネーヴ郊外のプラン・レ・ウァツットに、ロレックスやバセロン、ピァジェの新鋭工場と並んで、機械時計生産工場を作り操業している。相当な投資をしたが、この十月にはやっと月産二千個に達するぐらいで、まだ供給に追いつかない。その他を含め、昨年の売り上げ個数は十三万個、今年は十四万個を目標にしていると、スタス社長は強気。来年は千五百万フランを投資して、工場を拡大し自社生産ムーブメントを年産三万から四万個、生産総数を五年で二十五万個に持っていきたいという。得意先を国別でみると、アジア三十%、ヨーロッパ三十%、ロシア十%、中東もそのぐらい、アメリカが十五%というから、バランスが取れている。販売拠点は全世界で二千七百、それを三千五百に増やし、直営店を作るつもりはないと言い切っている。販売は拡張大衆路線、イメージと品質は高級路線、取扱店舗を減らして一店舗当たりの売り上げを増やす今の高級ブランドと反対の行き方だが、このハイブリッド商法の行方はいかに。結果はどう出るだろうか。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
今や観光は時計と並んでスイスの重要な産業 大阪の夏は蒸し暑い。京都の祇園祭の七月十八日から暑くなり、二十五日の天神祭でピークに達して、そのまま八月後半まで堪えがたい暑さが続くのが例年である。暑さ凌ぎはお祭りであって、七月一日の生魂神社の祭りから三十一日の住吉大社の祭礼まで、毎日街中どこかの神社でお祭りがある。天神祭は神様が船に乗って河渡りをする祭りなので、昔は浴依がけ、団扇片手に涼みに出かけたのだろうが、今や岸辺までコンクリート、見物人の混雑で涼しさどころではない。祭りはテレビ画面で見たってまったく意味がない。やっぱりこの目で見なくてはと、人々は出かけていく。近くのビルの窓から川面の船の行列を見る手がなくもないが、場所の数が限られているし、ほとんどが私的な空間である。 そんな暑い日日にFH誌に目を通していると、今頃スイスにいることができれば、どんなにか涼しいかと思う。スイスというと、アルプスの高い山と氷河の光景を思うが、時計産業が展開している地域には、いかにもスイスといった映画向きの、ヤッホーと叫びたくなる風景はない。でもどこへ行っても、その場所にふさわしい日常的な美しさがある。昨年、標高二千米の美ヶ原高原へ登ってみたが、展望台で冷たい外気を吸い込むとスイスの山の匂いがした。スイスが懐かしいと強く思った。観光客向けの売店の雑然とした、買ってくれそうなものは、なんでも置いてあるという無秩序に暗然たる気持ちに襲われたせいもある。商業主義と美観を両立させる努力が、スイスでは田舎に行っても払われている。日本の多くの都市を貫通する幹線道路の両側を見ると、焼き肉屋、回転寿司、ファミリーレストラン、薬屋、スーパー、電気店、家具店、ホームセンター、洋服店などのチェーン店が、これ見よがしのケバケバしい看板を立てて林立している。これらの店舗が産業経済を潤しているのは認めるが、一方地元商店街を圧倒して、荒廃させてしまった。多くの若者たちの美意識も変えてしまった気がする。車に乗る人には便利でも、荒涼とした風景にしか見えない。私が住む宝塚市でも同じような光景の幹線道路が貫通しているが、なるべくそこは走らないようにしている。ヨーロッパの町では、寂しい工場地帯を通り抜けることもある。しかし人工的に醜くしてしまっているロード・サイドはない。日本ぐらい便利な国はないが、便利のために、美しさを犠牲にしていいものだろうか。 スイスは風景の美しさで知られているが、人々がその風景を賞でるようになったのは、そう古いことではない。二百年ぐらい前からという。今や観光は時計と並んでスイスの重要な産業の一つだが、その時計も、スイスではロクな時計は作られてないと英国人に酷評されていたのも、そのくらい昔。なぜスイスが観光立国になったスイス各地のホテル建設の歴史を書いた新書本が最近出版された、「観光大国スイスの誕生」(河村秀和著・平凡社刊)。暑さ凌ぎに読み始めると、著者は東工大の建築科出身で実に良く調べてあり感心した。ここに登場するたくさんのホテルには、大抵泊まったことがあるか、その建物の外観を見たことがあるかのどちらだが、そんな歴史があったのか、そんな有名な作家や芸術家が投宿してたのか、その折に知っていればなあと何度も思った。文学の該博な知識も著者は持っている。時計に関係のある人にとって、春のバーゼルフェアに行くとなるとホテルを取るのが頭痛の種である。スイスのホテルには恨みが数数あるだろうが是非一読をすすめたい。次回のスイス旅行の役にたてられることを。知識を得る楽しさがこの本にはある。 FH誌には、時計業界の愛用者の変化とともに、スイス国内のホテル稼働日数が毎月ごとに報告が記載されている。宿泊日数は、確かに人の動きを反映し、この本でその数字を見るのが面白くなった。今号ではなく、前号のFH誌に今年三月の宿泊数が出ている。スイス全体の宿泊数は三千二百万泊で、外国人がそのうち千八百万泊で半数を超し、全体として微増と言ったところ。もちろんアジア関係の宿泊数は増えている。中国、韓国、アラブ諸国が昨年比三割以上、日本も十五%増えている。総人口八百万人でこれだから、日本に直すと一か月で五億泊となる。成長産業の数少ない日本だから、観光はもっとも成長可能な分野である。我が国の景観は戦略のひとつとしてもやっぱり美しく保つ必要がある。 この宿泊数統計でもそうだが、FH誌に公表されている数字はおおむね信用する気になれる。一つは国が小さく人口が少ないから統計が取りやすい。もう一つは、昔から民主主義が確立していて、各個の報告する正確な数字がまとまると全体に役立つという認識の強さもある。まだ日本では、お役所の要求してくる数字もいやいや提出する気分も強いので、統計に狂いも生じるという気がする。官庁の力が隅々までゆき届く許認可業界は別として。更に、いざ統計を取るとなると、数字の分野別精度にこだわりすぎて、専門家でない限り何が何やら項目が多すぎて解らない。お隣の中国となると、エコノミストは中国政府の経済成長率の一%の違いに目の色を変えるが、果たしてどのぐらい正確なものか、多くの外国人は疑いを持っているに違いない。あんな大国で、あんなに多くの人口の国で、どうして正確な調査が短期間で可能なのか不思議である。 さてその統計だが、今号には昨年の五月から今年の四月に至るまでの時計輸出結果が出ている。五月の昨年比六%増加から、少しづつ落ち込み八月には二%増となり、その後はそのラインを上下している。四月の輸出先国別にみると、香港(二〇・二%)、アメリカ(一〇%)、日本(六・八%)、イタリア(五・七%)、ドイツ(五・六%)、フランス(五・三%)、一六・五%も前年より減った中国は八番目になり、その他諸国の四六・五%の中に入っている。一国だけに頼ることが少なくなっただけ、スイス時計産業としてはより健全になったといえる。 もう一つ、スイス・クロノメーター認定協会の昨年一年間の認定書発行の統計を巻末にブランド別一覧表にして付けておく。ダントツの八十五万件以上を獲得するロレックスは、自社内に協会の支部があるようだ。かって日本では、輸出する時計の品質を保証するため、単品ごとにクロノメーター規格ほどハードルが高くはないが、通産省の輸出検査を必要とした。アルバを主に生産していたセイコー塩尻工場の中に、数量が多いため政府の検査機関があった。公的なものと独立した私的な工場が同じ屋根の下にあって、癒着話を聞かないのは、両国民の美徳と言っても良い。(履行時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
好況であったスイスでもスウォッチみたいに順風満帆とは限らない 人口約五百万人のシンガポールの一人当たりのGNPは日本の倍である。国土は極小、産業は無に等しい。カジノを含む観光はあるが、殆んどが投資とみなされる。 シンガポールが独立するかしないかのころ、一度華僑たちの円卓昼食会に現地で招かれたことがある。当時は、宝石の中つぎ卸商がシンガポールでも存在していて、その仕入先にくっついて行ったのである。現地の住人ばかりの会食であったが職業の異なる人々の間で、石油の買い付けの話になった。その道のエクスパートらしいのが、今みんなが投資すれば、一ヶ月で何パーセントの収益と投資額が回収できるという提案がなされた。一人当たり、かなりの額になるがあまり論議もなく、一同が集金に同意したのは驚いた。君も出すかといわれたが、若者の身としてそんな金はあるはずもなく断った。連れて行ってくれた宝石卸商に聞くと、みんながみんな知り合いでなくとも、昼飯の席でこんな儲け話は良く出るし、言い出したやつは信用できるからね。あいつに金があれば、一人でするだろうし、宝石のロットだって、すぐ換金できる話なら、俺も友達に資金援助を頼むさ。われわれ華僑は相身互いさ、という話だった。華僑社会の真髄を垣間見た気がしたが、同時にここには株式投資の本質がある。 株式とは、事業に直接介入しない代わりに、事業主に必要な資金を渡し、利益配分にあずかるシステムである。元々は、金がないから礼は弾むし、少し融通してくれないかという信頼関係から出発している。株主総会などというものも、基本的には、事業にどれだけ金がかかってどれだけ配当するかの説明会に過ぎない。金の賭けか方がけしからん。事業内容も怪しげだとなってくるのは仕方ないが、一株株主の抵抗となると、株主は事業の助っ人であり味方という出発点が転倒してくる。 今号のFH誌には今年の五月十四日に開催されたスウオッチ・グループの株主総会の取材記事が出ている。場所はグランジュという田舎町に新築されたばかりの巨大な室内自転車競技場。三千人の株主が、招集に応じてやってきた。まず会長のナラヤ・ハイエックから、取得した最初の頃のオメガやロンジン、チソットというブランドが気息奄々たる状態にあって、今の繁栄から想像もつかなかったと、また三十年前のスウォッチの導入が、スイス時計産業の再建に大きく役立ったという開幕の言葉があった。現在は利益ばかりでなく社会的および環境的に有害な材料は製造に一切使用しない、原材料供給者にも同じ事を強制している。会社の方針として、いかに社会に役立つかを重要視しており、その他の例としてある眼科総合病院への財政援助、海底保護への協力、「国境なき医師団」への寄付といったものがあると彼女は続ける。 それから話題は前期に買収したハリー・ウィンストン社及び中東で三百六十の小売店舗チェーンのリヴォリ社の買収、またスイス国内の多くの工場の拡充、社内研修センターへの新しい投資を行い、昨年一年間で九百名の雇用をスイス国内で実現した。世界中でいまや三万三千六百人の従業員を擁している。 そのあと、弟のニック・ハイエック社長が立って新しい製品の発表など実務的な面に言及している。インターネットに直結する時計はすでにスキーヤーたちが好みのゲレンデを選べる文字盤の時計を一九九六年に発表し、二○○四年にはチソットのハイTという名の時計、天気予報とか、星占い、スポーツの結果などを表示する時計を発売している。この分野は有望なので、開発計画会議をしている段階だが、何を出すか発表にはまだ時期早々である。 全体の昨年度の売り上げは、八十八億一千七百万フラン(一兆円弱、一フラン=一一三円)で前年比八・三%増、利益十九億二千八百万フラン(二千二百億円)、前年比二○・二%増。配当一株につき普通株が七・五フラン、議決権なしの株が一・五フランという報告がなされた。 普通なら株主の誰かが壇上に出て、苦情やら要請を述べるのだが、全員が経営陣たちの努力に謝意を示すだけだったという。土産として全員に七○フラン紙幣(こんな額の紙幣があるのか)をデザインしたスウォッチが配られた。ちなみに現在のスウォッチ一株の値は、普通株が五二四・五フラン、議決権のない株が九四・一フラン、配当率は、両者とも一・五%前後。たいした率ではない。しかし、三千人も株主がわざわざやってきてくれる企業が日本にあるだろうか。 時計が近年全体として好況であったスイスでも、みんなスウォッチみたいに順風満帆とは限らない。利益の幅が大きく儲けやすそうな時計業も、十年以上持つところは少ないという。 身近な例では、私の会社が日本の代理店をしていたミッシェル・ジョルディは、エーデルヴァイス花柄の時計が大ヒットし、一時は新聞紙上でも故ニコラス・ハイェックと並び称される経営者のスターだったが、十年もたたずに、資金不足でつまずいてしまった。再起に奮闘中である。がいる。 ジュネーヴ製というと高級という印象があるが、その地に工場がるデーウィット(DE Witt)社も、一九九九年の創業だが、十年目を乗り越えるのが大変だった。元々ジェローム・デ・ヴィットというナポレオンの弟で、ドイツのウェストファリア国王となった男の子孫が作り始めた時計である。デ(DE)が名前の前についているのは、貴族の出身を意味する。時計作りに長けていたので、由緒ありげな名前と自社内製造にこだわって、極端に高価な時計が人気を得たが、財政的に行きづまり、協力者は逃げ出し、取り扱い店も金を出してくれない。そこで小さな食料品店を経営している奥さんに助けを求めた。この奥さん、かって女の競売人としてパリの有名な競売店ドルオーで鳴らした女性である。持っていたジャコメッティ、ピカソ、カルダー,デュビュフェやバスキャといった収集家にはよだれの出そうな絵を十億円近くでサザビーで売り、社長として旦那の会社に資金参加して立ち直らせつつある。山内一豊の妻が、へそくりの金で二頭の馬を買い、二人で戦場に駆けつけたような話である。女社長は、トゥルビョンや複雑時計ばかり作って売るのが能でない、もっと手ごろな値のものを(といっても百万円)出そうといって、十周年記念にステンレス側の限定で二百個を昨年出している。どうもこれが立ち直りの始まりのようである。現在社員は六十人、銀行が見るところ年商は三千五百万フラン(五億円弱)らしい。年間三千個以上は作らないと言っている。この話は、ほかの記事からの転載だがなかなか面白い。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
スイス人による日本時計産業史概況 毎年、六月十日の時の記念日に大津の近江神宮で、漏刻祭が催される。云うまでもなく、この神宮は、天智天皇を祭神とし、その都、近江京の近くに昭和十五年勅願によって造営された最後の神社である。日本書紀に天智天皇が水時計{漏刻}を作らせ、太鼓で時間を知らせたとあることから、祭りの起源としている。殆んど毎年、これを機会に、時計業で食べさせてもらっているのを感謝して、参拝するようにしている。苦しき時の神頼みの感のある年も多いが。なかなか雅趣のある祭なので、多くの方が、遠方からでも来られるといいがなと思う。今年もFHから新しく日本代表になられた中野綾子さんが来られていた。 わざわざ東京から来られて、神社内の時計博物館ぐらい見て、そのまま帰ってしまう人も多い。少なくとも、数キロ足をのばして、北の古い寺社町坂本とか、南の三井寺とかを見物されればいいのにと心中老婆心がもたげる。 三井寺も広壮な男性的な伽藍で国宝も多く、一見に値する。三人の天皇、天智、天武、持統、が産湯に使った水の井戸のあるのにちなんで、こうよばれるらしい。 明治の初めに、いわゆるお傭い米人教師として旧東京帝大へ政治学の教授として勤務したフェノロサがいる。美術の造詣も深かったから、日本美術の魅力をよく知り、排仏気質が強かった時代に、多くの仏教美術を破壊から救った。岡倉天心はその愛弟子であった。フェノロサと同じハーヴァート大の先輩でお金持ちの医師J・S・ビゲローも、来日するや日本美術の虜となり、財力にまかせ名品を買い集めた。フェノロサは後に文部省勤務になって美術行政に携わるようになった。、この二人が初期天心のパトロンといっていい。二人の協力で東京美術学校が創立されて、天心は初代校長に任命される。 日本の美術を素晴らしい、世界に通用するといいだしたのが、この二人でその墓が、二つ並んで、三井寺の搭頭である光明院にある。二人共、キリスト教徒ではなく、日本の戒名を持つ仏教徒として葬られている。今は寺も人手がないらしく、しかも、かつての三井寺の寺城の広さがしのばれるような、山上にあるので、荒れ果て訪う人も少ないようだ。墓も苔むしている。すぐ下に、琵琶湖の美しい眺望を眼下にする新しいマンションが建っているのだが。 だいたい日本人は外国人に評価されて始めて、真価を識るところがある。浮世絵もそうだが、桂離宮だってブルノー・タウトがいなければどうだっただろうか。富士山などは、ユネスコの世界遺産に認められなくとも、一向に痛痒を感じないと考えるが、一旦指定されると人が競って出かけて行く。アニメだって、そうである。外国人のニッポン発見に、日本人が弱いみたい。新奇な観点があり、足元をすくわれる気がするせいだろう。我々にとって当たり前のことが、外国人が何故かという疑問を生じさせることがある。 確かに外国人の視点から見ると、日本のいろんな局面での現状が、明確になってくることが多い。三十年ほど前に出た「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」というエズラ・フォーゲルの本は、日本の産業人を鼓舞してくれた。そしていつまでもナンバーワンで存在し続けるものと確信していた。しかし、一度日本は駄目だと外国のエコノミストたちに分析されだすと、その通りと小さくなるか、技術的にはいかなる国にも負けないと国内で肩をそびやかすだけになる。冷静に現状を分析して、新しい戦略を取るのが苦手である。時計業界は特にその傾向が顕著である。 最近スイス人による日本時計産業史概観ともいうべき本が刊行された。今号のFH誌には、この本の紹介がでている。タイトルは「スイスに追いつけ、追い越せ」。著者は我が年少の友人、ピェール・イヴ・ドンゼさんである。ドンゼさんとは、大阪大学の特別研究生として来日した数年前に知り合ったが、すぐ産業史家として力量を発揮し、現在は京都大学の准教授になっている。一九〇八年に新著と対になる「スイス時計産業史」を出版している。ラ・ショード・フォン時計博物館の名誉あるガイア賞を受賞している。若いが堅実な学究である。 書評をなぞらいながら、内容を紹介してみる。もう昔の記憶になってしまったが、一九六〇年から八〇年にかけて、セイコーとシチズンの急成長によって、スイス時計産業はあやうく消え去るところであった。そこから立ち直ったのは、ETA社内の構造改革、スウォッチのような新製品の開拓、高級品への転向などの施策が一九八〇年になって、かっての栄光をスイス時計産業が取り戻した要因である。日本がクォーツでスイスよりはるかに進歩していたというのは、誤解であって技術としては同じレベルにあったのは事実である。 「スイスに追いつけ、追い越せ」というのは一九四〇年代後半のセイコーのスローガンであった。両国間の競争は、長い歳月にわたるもので、ドンゼ氏の綿密な検証は重要である。 本書の叙述は年代的に大体三期に分かれている。一八五〇年から一九四五年までが、日本の時計産業が根付いた時代であった。セイコーの創業は一八八一年、シチズンは一九三〇年。技術をうまくスイスやアメリカから取り入れただけでなく、初めから量産を目指していた。一九三〇年代の中ごろには、セイコーはすでに世界最大の時計生産工場となっていた。 第二期は第二次大戦後の一九四五年から八五年まで。軍需産業の生産技術から学ぶところが多く、機械式時計の大量生産技術でスイスを圧倒するに至る。ニューシャテル天文台(一九六七年)とジュネーブ天文台(一九六八年)のコンクールにおけるセイコーの圧勝は象徴的な出来事であった。そしてクォーツ時代になって日本勢の独壇場となる。 第三期が一九八五年以降、現在まで。このころに入って、日本製の時計は不振の時代に入っていく。その原因はセイコーもシチズンも、製品の新しい位置づけを本気で再点検しなかったこと、それに従ったマーケッティング戦略を創造しなかったことにある。それに技術至上主義、確かに技術によって世界をリードしたが、その技術偏重がまた弱点となっている。 このように総括しているが、興味深いので ドンゼさんに「一冊下さい」と電話で頼んでみるとドンゼさんの手元にも届いてないという返事だった。ドンゼさんは、日本に住んで長い、奥さんも日本人で、良くスイスにも戻っている。両国の事情を知り抜いている。この人の分析には日本の時計関係者には耳を傾けるべき正しい点が多いはずである。参考のために原著名、出版社を記しておく。 EDITION ALPHIL 「RATTRAPER ET DEPASSER LA SUISSE」P IERRE-YVES DONZE@alphi_ch.(39Fr.506p) (栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
6年後の東京オリンピックでは国産計器の使用を見たい ブラジルでのワールド・カップが、この稿の出る時には開催中である。サッカーはブラジルの国技といっていいから、国民の熱狂的支持を受けた上での開催かと思うと、かなり熱狂的な反対者達も多いようだ。二年後はリオデジヤネイロでのオリンピックが開かれる。TVや新聞によると果して開催できるかと危ぶむ声も多い。 オリンピックの計器の担当は、スウオッチとオピンピック委員会との長期契約によってオメガが担当することになっている。ではその次の東京ではどうか、これまたオメガである。五十年前の東京での計器担当はセイコーで、我々の産業愛国心が大いにそそられたし、事実セイコーの発展の出発点となった。せめて、東京オリンピックでは、国産の計器が使用されるところが見られるといいが、契約からみてスウオッチが譲歩するとは考えられない。日本チームが、ワールド・カップで優勝する確率よりも低いだろう。 前号のFH誌では、リオでのオリンピックでの契約確認は決まったみたいなもの、とオメガの社長のスティーヴン・ウルクハートが、発言している。その発言の中でブラジル市場について、ブラジルでの小売値は、南米の人々がよく買物にでかけるマイアミでの小売値より八割高いことに言及している。普通の正規流通網を使うとどうしてもこうなるので、マージンを他者に出さない直営店しか、当面の方策がないそうで、オメガブティックは現在リオに二軒、サンパウロと首都ブラジリアに一軒という現状。数字としては、世界的に好調なオメガとしては、今のところ大したものではないという。 ブラジルへは一度しか行ったことがない。ロスアンジェルスから飛行機で夜着いたのだが、機内アナウンスで、今下にみえる町の光が目的地のサンパウロですというが、いっこうに降下せず、どんどん飛んで行く。心配になって乗務員にきいてみると間違いなくサンパウロの新空港を目指していると答える。ついてみると、町まで百二十キロだそうだ。大阪へ帰るのに名古屋に着いた感じがした。それ程国土は大きい。おおまかな数字だが人口は二億人足らず、同じぐらい広いオーストラリアにはその十分の一しか人口がない。消費するのは人間だから、市場としては大きい。人口構成をみると、白人系が五割、メスキートと呼ばれる混血、及び、日本人に代表される東洋人が三割、アフリカ系黒人が二割程である。問題は、最下層を形成するアフリカ系の人々の生活向上をどう政治的に取り組むかにかかっている。ブラジル経済の驚嘆すべき発展といっても、実情は困難に満ちている。資源は豊富であるから、人々が正しく努力をすれば、豊かな国になれる筈である。 そこで、ブラジルの時計事情に詳しいオリエント時計の社長の宮川さんに、最近のことを聞いてみた。ブラジルではまだ贅沢品とみなされる外国製時計は、七,、八種の税金がかけられ、海外との価格格差が倍近くなるという。勿論人口からみて時計はよく売れるが、その殆んどがブラジル国内で生産されたものである。人気の一番はなんと、現地生産のテクノスで、次はオリエントという。セイコーもオメガを擁するスウオッチも現地生産を試みたが、うまく行かなかったようである。一般にブラジル人は熱しやすく、生活は自己中心で、規範に従いたがらないとされる。自然児的傾向が強く、進出したスイス人や日本人の工場経営者や技術者の苛立ちは解る気がする。 日本でもかっては、海外価格差は、ブランド品の場合特に多かった。車も同様であった。アメリカ政府は、日本が米国車を輸入出来ないようにしているのは、関税や流通面で、難しい障壁を立てているからだと攻撃したが、日本人は売れる車を作らないから売れないと内心うそぶいていた。車でも時計でも、その頃は、性能が良くて、みてくれが美しく、使い勝手が楽で、安いというのが売れる絶対条件であった。いろんな障壁に守られて日本の消費財メーカーはこの条件を満たす物では世界に冠たるものとなった。日本は三割だった時計の関税はすぐにゼロになった。ブラジルの産業の将来は解らないが、ブラジルや中国の高い関税を日本の産業は批難する資格はない。 エルメス時計の将来 今号には面白い新聞からの転載記事がいくつかある。ハリー・ウィンストンを約千億円で買収し、その社長に収まったスウオッチのネイラ・ハイエックとの対談。エルメスの時計部門の社長、リュック・ペラモンへの取材記事、同じくロンジン社長、ウォルター・フォンケネルへの取材、チソの社長フランソワ・チェボーとの対談。みなそれぞれに面白い。又、FH誌が作った創業百十周年のオリス特集も興味深い。時計商業誌に出るような、センセーショナルな取扱いをしていないのがいい。最近の若い商業ジャーナリストの筆致を追っていると、TX販売で、商品やメーカーの美点をこれでもか、これでもかと並び立てるタレント達が連想されてならない。 香港の友人の話によると、現在では、香港の時計小売は振るわないようである。一昨年実施された要人に高級品を贈呈することは賄賂とみなす政令が本土で決まったために、特に高級時計が売れないそうである。エルメスでも全体の売上げは昨年一年で十三%のびたのに、時計が一%しか上昇しなかったのは、このせいだとリュック・ペラモンは明言している。そっちの方の需要がなくなっても、海外旅行をする中国人が増えていて、旅行者全体の五、六割の売上が中国人によるものとみなされている。日本人も中国人もエルメスとシャネル好きである。シャネルはやや派手なので、熟年層日本人にはエルメス派が多い。これは個人的な観察だから、当たっているかどうか解らない。時計に関しては、中国市場の激減をカバーして昨年は三割売上がのびたようである。欧州ではドイツと英国とスイスで伸びが著しく二割。肝心のフランスでは、ぼつぼつといったところ。すでに市場が整備され沢山のブティツクが以前からあるので、仲々のびない。フランス人は、税制が変わり、いよいよお金を使わない。おまけにフランス人の多くはブランド志向ではない。ペラモンによるとインドネシアは有望だが、インドには期待できない。流通がややこしい。金持ちは外国で買い物をする。関税を始め、種々の税金が劇的に下がらないかぎり、エルメスは無理だろう。アメリカも景気が回復している割に、さほどのびてないが、期待できる市場なので投資は続けたい。ロシア人は高級時計好きなので、現地法人を作った。今後のキイ・マーケットになり得る。 市場別予測とは別に、製造面では、機械式ムーヴメント製造で名高いヴォーシェ社の株 を四分の一保有、文字盤製造のナテベル社、高級ケース製造のジョゼフ・エラール社を買 収して、立派な一貫メーカーになっている。もっともこのヴォ―シェ社は高級ムーヴメン トを二十五個単位から誰にでも売りますという広告を出している。一体どうなっているの だろう。平均単価も、二千ユーロから四千と倍になっている。もはや時計のエルメスはバ ッグ屋さんのサイド・ビジネスではなくなっている。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
百年前のバーゼル・フェアとの違い 今年のバーゼル・フェアも大成功だった様子である。出展業者千五百社、四十カ国からの参加。十五万人強の入場者、うち四千人がメディア関係者。このフェアがスイス製品の見本市と出発したのは一九一四年で、百年前のその頃の展示といえば、ジュラやジュウの山岳地帯で、雪に閉ざされた家々で女性たちが冬の間、営々として組み立てた時計を並べたにすぎなかった。今の華やかさとはいかに違うことだろうと、FH誌の主幹ジャニーヌ・ヴイユミエ女史は書いている。 十年余り、フェアにご無沙汰しているが、三十年ぐらい前には、毎年通っていたので、あののんびりした館内の雰囲気は懐かしい。今のように約束がないと有名ブランドのブースに入れないということなくて、ふらっと訪ねてみても、大メーカーの社長すら、今丁度来客だから、あとで来てくれと愛想がよかった。中小メーカーの経営者となると、大抵、手持ち無沙汰の客待ち顔であった。新製品はみせるだけで、その場で発注する、今のようなスタイルもなかった。ロレックスの日本側でも、フェアで発注してもらっても困るよ、よさげなモデルはいつ来るか解らないのだから、と自嘲的であった。夕方から、各メーカーがホテルでパーティをすることもあったが、主催者が簡単な挨拶をして、夜は退屈をもてあましている時計関係者がヤアヤアとグラス片手に、なじみの顔を探す会であった。 ところが、パーティの呼物に、いつからか有名人が来るようになった。二十年も昔のことだが、どこかのメーカーのパーティにドイツ・サッカーチームの監督になったベッケンバウアーが来たことがあった。いくらサッカー音痴でも、この人の名前ぐらいは知っている。出かけて行って、一緒に写真を撮ってもらったのが嬉しかった。今でも卓上に飾ってある。この号に出ているいろんなブランドのためにパーティに出たサッカー選手はファルカオ、ロバート・ピレス、映画に転向したというエリック・カントーナ。誰も私は知らない。時代の流れは激しい。パーティそのものも、ブランド同志が競い合い、工夫をこらし派手になっている。今年のエルメスはライン河畔のブラジリアという会場で四百人、タグ・ホイヤーは八百人をスイス軍の兵隊宿舎を借り切って招待し大パーティを催したという。こうなると、昔のようにチョコチョコとパーティのはしごをする訳には行かないだろう。豪華なる饗宴も又、世界中から来る客やメディアに対するブランドのデモンストレーションになる。以前のバーゼル・フェアは、何か良いブランドや商品が隠れていないか、輸入商が探し回る場所であった。今やひっそり隠れて居ては死ぬ外はない。どんな小さな出展者でも、目立つべく必死の努力を惜しまない。 私の会社でも、毎年バーゼルへ数人出かけて行くが、その出張予定をみると、アポイント、アポイントと時間刻みで、殺人的で、気の毒になる。こんなことは止めて、一日ぐらい閑を取ってあの美しいバーゼルの町を見物したらと、ノド元まで言葉が出そうになる。働く若者は、パソコン片手に、ぴっちりとスケジュール通り動かないと安心できないらしい。しかも,人口二十万人ぐらいの町に一週間で二十万人近くの人が入って来てはホテルの部屋数は足らない。バーゼルは観光が売りの町ではないからフェァがない時はガランとしている。多くの人は近隣の町に泊って、フェァに通はざるを得ない。当然時間はない。夜はパーティがある。市内見物など、とんでもない話になっている。 バーゼルはスイス最大かつ唯一の港湾都市である。市中を漠々とライン河が流れ、世界中につながっている。この位置が見本市の成立に大きくかかわっている。水利の便が、長年の間に、この町を富まして来てた。人は領主達の町ではなく、ブルジョア(富裕商人層()の町と呼ぶ。それはフェァを訪れ、ライン河の反対側の旧市街を歩くとよく解る。旧市街には昔からの大きな邸宅が立ち並んでいる。 この町がいかに裕福であったかは、美術館に行ってみれば、さらにはっきりする。小さいけど、蒐集品の質の高さは、驚くべきものがある。スイス随一と言える。イタリアルネッサンス期の名品も多いが、なによりみるべきは、ドイツ・ルネッサンス期の大画家、ハンス・ホルバインの作品だろう。イタリアの画家の筆は優しいが、ドイツの画家は気候を反映して厳しくて硬い。ホルバインの「横たはるキリスト」をみると、今十字架にかけられ、苦しんで息を引き取ったばかりの遺骸の、上向いた髪の横顔が生々しい。胸のつまる思いがする。しかし、一番好きなホルバインは「大きな黒いベレーをかぶった青年」というデッサンである。青年の遠くをみるような表情は美しい。その先に希望がある。複製を買って来て、若い頃から住んでいたマンションの玄関に飾ってあった。この絵にはもう一度会いたいと思う。この青年の年の頃、眼下にライン河をのぞむ、大寺院(ミュンスター)の庭の壁にもたれて、ある夏の日、河の流れを眺めていたことがある。論語に孔子が弟子たちとともに川の上に立ち止った時の言葉がある。「逝くものは、かくの如きかな。昼夜をおかず」。上から見るラインの流れを見るとこの情景を思う。心中は漠然たる悩みがあった。親の脛かじりの留学生活、学業で立つ自信もなく、実業に進む意欲もなく、中ぶらりんの思い。バーゼルの大学では、ニーチェは二十台の始めに教授になっていた。敬愛する、イタリア・ルネッサンス史の大家ヤーコプ・ブルックハルトもここの大学の先生だった。宗教改革の頃の思想家エラスムスもこの町に住んでいた。ホルバインの手になるとても良いエラスムスの肖像画が美術館に残っている。美術館に行って、ホルバインの青年像をみると、何となく心が和んだ。 この美術館にはもう一つ気に入りがある。ピカソの「道化師」という大きな作品。悲しい道化師ではなく堂々とした静かな座像。ピカソは言っている。人はどうして絵を解ろうとするのか、咲く花の美しさを解ろうとするか、小鳥の唄を解ろうとするか。まさしく、この作品はそこに在るだけで、胸が熱くなる。バーゼルはフェアだけに行くにはもったいない。 バーゼル・フェアに行く人に、時間があれば、勧めたいのは、ラ・シオードフォンまで足を伸ばして、一九七四年に新築されたモダーンな地下にもぐり込むようにして、時の世界に人々を誘い込む時計博物館である。時と人間のかかわりをテーマにした、単に時計を並べ解説があるというのではない、新しい概念の博物館で、色々な企画も、常に人間と時計の関係が扱われている。今号のFH誌には、四十周年の記念展の記事が、写真入りで七頁も費やされている。元々は、地元の人々の蒐集品が、母体であったが、色々な人の努力と財政的援助で、現在のように美しい展示に定着し、かつ発展しつつある。この建物が完成する前は、FH本部のいかめしい閉鎖的な建物の一部が、博物館にあてられていて、古ぼけた旧帝国大学的標本室みたいと感じたことがある。世界中の美術館、博物館が、この半世紀に多くの人に開かれた楽しい場所に変身している。こんな田舎にもその波はおし寄せている。美術好きにルーブルが欠かせないように時計好きにはここが欠かせない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
米国基準のグローバル・スタンダード グローバル・スタンダードなるものは、“地球上基準”ということだが、米国基準と言っても良い。現代の文明のシステムは、ほとんど西洋のモノサシを使って作られている。知的所有権というのも、その典型だろう。発明特許、著作商標権・意匠登録、デザイン、それに近年では、肖像権とか、ネーミング・ライツという変なものまである。西洋の個人主義の産物で、個人が努力して得られた成果は、それは他人が侵しては相成らないという思想である。このこと自体は当然だろうが、形として存在しないものに、個人の所有権を拡大してきたのは、比較的近年のことである。町の写真屋さんでも、上手にとれた肖像写真はウインドウに飾ってあったものであった。撮られた側でもたまたま飾ってくれたとうれしく思うのがふつうであった。今や有名な俳優が、たとえその写真館が撮った写真といえども、本人の許可がなければ店頭に飾れない。無名の人たちがやるスポーツ競技は、テレビに放送されると、関係者みんなが喜ぶ。オリンピックになるとTV局は莫大な放映権料を払わなくてはならない。オリンピックを盛大にしたのは、長年見物人たちが育ててきたためと思われるが、今や間接でも料金を払わねばならないとTVでも見れない仕組みになっている。なんだか少し変だと思わざるを得ない。選手を育成するのもカネ、その力を発揮させるのもカネ、それを見て楽しむのもカネの社会となっている。 腕時計はクオーツの生産技術が発達して、モジュールだけなら日本製の優秀な製品が一個百円前後で、購入可能である。千円とか、二千円で町で見かける時計は、それを内蔵しており、アジア製といえども日常に使って問題はない。人件費や製造コストの高い日本、特にスイスでは、当然値段ではこれと競争にならない。時計は付加価値、つまりイメージとなって、すでに一世代経っている。スイス時計の価値は、偏にイメージにかかっているといってよい。 イメージを支えるものは、冒頭に述べたすべて形のないものである。知的所有権のかたまりと言ってよい。西欧個人社会で発達した概念で、西欧文明を取り入れるのにやぶさかでない。日本でも定着するのに時間がかかったし、アジアやアラブの諸国では、コピイは悪という思いは、一般民衆の中にはあまりない。形のあるものを盗むのは泥棒だが、形のないものは単なる借用ぐらいに思っている。 偽物時計の絶滅をFHが組織の最大目的としているのも故なきではない。偽物製造こそ、知的所有権の侵害の第一歩であり、西欧文明の恩恵に浴する限り、守らねばならぬ商業道徳とするからである。 今号のFH誌では、アラブの金持ち国であるカタールへ行って、高級ブランド品の知的所有権を何としても守り、ニセモノを排除すべきかと、時計業以外の人々も同行して、FHが政府要人に講義してきた報告が載っている。しかもカタール政府の要請によるものであった。カタールの首都はドーハであり、サッカーファンなら必ずや「ドーハの悲劇」を覚えているだろう。ワールドカップ出場権をかけた試合に日本チームが敗退した地である。もうすぐワールドカップがブラジルで開催される。次の開催地はロシア、その次の二○二二年はカタールである。カタールは、人口三、四十万人の国だが、お隣のアラブ首長国連合のドバイ同様、石油のお金でドーハにも近代高層ビルが乱立している。大会開催の総予算が千五百億ユーロでソチの冬季オリンピックの投資を上回るというのだから恐れ入る。オリンピックとかワールドカップとか、世界中の人々の耳目を集める大会を開催すると、発展途上国だと、発展に勢いづく。大金持ち国のカタールは、発展途上国と言えるかどうか知らないが、少なくとも、西欧化が進むだろう。FH誌の報告では、これを「文化の津波」と表現している。 スイスにおける移民問題 人口の老齢化が進む日本では、人口ピラミッドの基盤である若年層を外国からの移民で補うという考えがでてきている。政府も現状の一時的な人手不足を懸念して移民法を緩やかにしようとしている。しかしその目標とするところは、安い労働力を手早く調達することにあるので、社会的には大きな問題を将来引き起こすようになるだろう。ヨーロッパ先進諸国の抱えている難問題は、移民の対処である。 スイスのように、政府的に安定している国でも、移民がスイス人の職を奪うことについては神経質である。スイスは自由で、民主的ないい国というが、それはお金のあるお客さんに対してだけである。移民には厳しい。 経営者の観点から見ると、同一労働、同一賃金というのが一番好ましい。同じ値の機械には、同じだけの仕事をしてもらう。ところが相手が人間となるとそうはいかない。日本は年功序列がまかり通り、リストラの波はかぶったが、幸運な年代はそのまま、定年を迎え、年金生活に入っている。その年金は、少なくなりつつある、より若い世代が負担することになっている。理論的に少ない数が多くの数を養うことが不可能なのは誰の目にも明らかだが、政府は正面切って、対応しようとはしない。年金を貰っている方は、生きているうちぐらいは何とかなると思考停止だが、本当は何ともならない。流れの先は滝である。これが日本の現状である。 経済を発展させようと思えば、必ず人手がいる。コンピューターで人手を減らせる時代はもう終わったと思う。コンピューターの使い手がより多く必要となっている。少数精鋭主義は経営者の夢に過ぎない。多数精鋭を作る方が正しい。 今号のFH誌によるとスイス国内の時計業界で働く人の総数は、この十年間の好調で、四万人から五万八千人増加した。売り上げ総額は、ほぼ倍増している。売り上げの三割がEU向けである。あと二年で、更に三千二百人ぐらいの人が必要だろうと予測されている。ところがスイス国内の国民投票でこの二月に、集団移民禁止法が可決された。実をいうと、スイスの時計従事者の半数が外国籍である。国境のことをフロンといい、毎日フランスやイタリアの国境を越えて働きに来る人をフロンタリェという。半数の外国人のうち一万七千人がこのフロンタリェで、あとの一万人強が国内在住者である。この移民禁止法が成立したため、当面の問題はなくても、業者の中には、工場拡大をあきらめたり、増産計画を中止してりするところが出ている。スイスの時計産業の経営者協議会は早速、シュナイダー・アマン大統領と会談し、この法令の施行に反対の立場を表明したという。これまで、大きな投資が行われていたのは、フロンタリェの通いやすい、南のテッシーノ、北のジュラ地区、それにジュネーヴであった。在スイス移民の制限は、まだしも、フロンタリェまで法律が関わってくるのは困ると業界人は心配している。 もうだいぶ前になるが、ジュラの時計の町、ラショードフォンのスーパーに入るとたくさんの中国人労働者がいるのを見て、驚いた記憶がある。平和なスイスでも移民問題が顕在化するだろうという予感はその時からあった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
財団名、財団を見る目、日本と欧米の違い 何故か、高級時計や宝飾品も消費税が上がるとなって、駆け込み需要品目の中にはいって、三月まではともかく売り上げは好調であった。高価な品目は、三%ぐらい税率が上がっても、あとで値引きしてもらえばいいのじゃないか、と思うのだが、人の心理はそうでもないらしい。ブランド物は、値引きしないという意識が定着しているせいか。 消費税の増率は日本だけの問題であったが、スイス時計の輸出は、今年に入っても好調である。本年一月の統計が出ているが、前年絶好調な年に比べても、総額で十六億フラン、五・六%増加している。市場国別にみると、香港が七・七%減。一月に香港に行ったとき、時計関係者は一様に、中国政府の方針として、高い時計などをご機嫌伺いと称して、要人に送ることを禁止しているので、さっぱり売れないとこぼしていた。それに引き替え、中国への輸出は一・八%伸びているのは、一般の人が買う中級品以下が好調のせいだろう。対米国向けが二二・八%増と驚異的。日本へは、一七%伸びている。もともとのパイは小さいだろうが、アラブ首長向けが三一%も伸びている。ついでながら、この次の号に載っている二月の統計を見ると、昨年同月比、全体で八%増の十七億フラン。香港は、一挙に回復、十八・七%増、わが日本は何と四四・六%増。デパートの高級時計売り場が潤った事実を裏書きしている。スイス時計の最大のお客さんは、それでも香港で約二〇%、次がアメリカの一〇・五%、その次が日本で六・三%、わずか〇・四%の差で中国を抑え、二月は銅メダルである。 オーデマ・ピゲの財団の活動 財団は英語のファウンデーションの訳である。ファウンドとは基礎を築くという意味から、寄贈された一定の資産を基盤として、その運用から得られるお金で社会に役立つ活動を、営業目的とせず展開する組織をいう。基本的には、無税である。これを利用しようとして、戦後たくさんの財団法人が出現した。しかしたいていの場合は、理事長や理事に、基本資産を寄贈した本人やその息のかかった人が就任することが多い。法律的には、そうではないがお金のない一般人から見ると、財産隠しと見られてしまう。競艇の上がりを基盤にする笹川良一財団も、個人名がついている限り、社会性がみれないとされ、日本財団と改名された。日本人は往々にして、個人より団体に信頼を置く。山田太郎商店より「株式会社ヤマダ」の方が立派と思う。挨拶の場合でも、三菱商事の何とかですといい、名前は何とかですが偶々三菱商事に勤めていますとは、大概の人は言わない。 パナソニックの創業者、松下幸之助の基金で、毎年五千万円の賞金を、世界中から応募してくるいろいろな分野の学者から一人を選んで表彰している。日本国際賞という無機質な、なにかいかにも中立で公正かつ無気力な団体が出しているという感じである。どうして松下幸之助賞にしないのですかと、会食の席で隣り合わせた審査委員長の宮原元阪大総長に尋ねると、個人名や社名を付けると課税されるからとの答えであった。まだ存命の京セラの稲盛さんが、出される賞金が課税されるのは、この理論からすると当然だから、京都文化賞と味も素っ気もない名になっている。個人の名を付けることはどうしても、わが国では、売名行為とみなされる。町名や通りの名に個人の名が冠されることも、豊田市のような例外はあっても稀で、仕方なくついている感がある。NYのケネディ空港とか、パリのドゴール空港とか、ドゴール広場とか、ちなんでつけられた人物に対する敬意が、時には反感もあろうが、感じられる。きっと日本の役人なら、ダイナマイトのような殺傷能力のある火薬の発明者の名前のノーベル賞には課税するところだろう。はたしてスウェーデン政府がノーベル賞に課税しているかどうか知らないが、恐らく国家事業になっているからには、そうではないだろう。 かっていくつかの財団法人に関係したこともあるが、莫大な資産が分散することを恐れて財団法人を作り、それを寄贈し、一種の相続税逃れとなってるような例もないではない。あとで、遺族の誰かが財団の理事長に収まり、給与の形で、余得にあずかるのである。本来ならば、他人に差し出した資産だから第三者のものだからおかしいのだが、日本では財団の名に寄贈者個人の名がついていると、その個人の縁故者が財団を運営するのが当然という気分がある。したがって戦後雨後の竹の子のように、無税の特権を有する財団法人ができ、今やその整理退治に政府や地方治自体が躍起となっている。 スイスの時計業界に関係した財団は多い。ロレックスを保有しているウィルスドルフ財団(創始者の名から採られた)時計好きの製薬業者が創ったサンドス財団、これはフランスだが、カルティエの文化芸術財団等等。スイスの財団の内部がどうなっているかまったく無知だが、スイスのいろんな社会制度から見て、日本よりずっと密室性が薄く、社会性が豊かという気がする。スイスのビジネスマンが、あれは財団だからというとき、金にならんことをやっているけど、良くわからんが人々のために仕事をしていることに、多少尊敬の念を込めている。利益を目的としない活動は、日本の企業にとって長い間悪徳であった。宗教家の領域であった。近年、NPOとか、ボランティアの活動が多くなり、事情は変わりつつあるが、まず企業の利益、次いで社員の待遇、株主の配当は最少限、社会奉仕活動は、企業に役立つことを前提に、というのが未だに大勢である。 今号のFH誌には、オーデマ・ピゲ財団の自然保護活動の現状がのっている。スイスとフランスの国境に近い、小さな町ルヴラッシュに時計工場があるが、財団の本部もここにある。財団が結成されたのは一九九二年で、理事長は、時計会社のオーナーの一人であるジャスミン・オーディマという女性。財団の目的は世界中の森林の保護である。この人は、一度宮崎に来たことがあるが、宮崎郊外の森林が、無残な開発の犠牲となっているのを、子供たちに昔の森の姿の大切さを教えて、植林を自分たちの手でする運動の検分のためだった。またコロンビアである地区では、アヘンのケシ栽培のため、従来の畑が枯葉剤で整地されているのを、ヨーロッパの基金が買戻し、現地人たちが昔の農法で畑を耕す運動をしている。財団もこれだけでなく他の同種の運動に助成金を出している。工場そのものも、エコロジカルなエネルギーの使い方をしているようで、財団と同じ経営方針を取っている。競馬を主催して金を儲けて、人助けに金を使うのは、ないよりましだが、矛盾を感じづにはいられない。「罪滅ぼし」かなという気がする。皮肉な見方をすれば、APのような高価な時計を身に着ける贅沢の罪滅ぼしに、原始林保護に多少は役立っていると意識を購買者に植え付けていると、言えるかもしれない。いや素直にAP社の善意を認めるべきだろう。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
“すぐれた職人”必ずしも“すぐれた経営者”ではない 昨年暮れに佐村河内守という一風変わった名の作曲家の作品が、全部他人の作るものだったことが判明して、これまでのファンが失望した事件があった。以前に音楽友達が、これ聞いてみるかいと、佐村河内人気の源泉となったヒロシマ交響曲のCDをくれた。中身は、世紀末ロマンチシズムの濃い、苦悩を情熱と甘さで大げさに表現した音楽で、マーテーやラフマニノフをごっちゃにした作風だった。現代のクラッシック作曲家では、こんなものは気恥ずかしくてかけない代物だが、聴いてみて素人受けする魅力があった。 代作そのこと自身は、怪しからんというものでもない。ダイヤを仕入れにアントワープ行く人が、必ず見物による画家ルーベンスの大邸宅に行ってみると、彼の作品は殆んど弟子達の筆によるものであるのを実感する。いくら外交官も兼ねていたといっても、画筆一本であんな多くの作品を残せる訳もないし、あんな豪勢な家に住めるはずはない。構想とか肝要な部分にルーベンス以外には、出来ない不可能な表現があるから、信頼されたのだろう。 「赤と黒」の作者スタンダールも、若いころは他人の仕事に手を加えて、自作として発表していた。音楽と絵画についての主要評論は、みんな他人の作品の借り物である。ところが今読んでみると、事実関係を借用しているオリジナル部分がつまらなくてスタンダールの加筆の部分が断然光っている。この作家の魅力に取りつかれた読者なら、どの部分がスタンダールか、大抵見当がつく。他人の仕事に息を吹き込むことが贋作なのか。土台は借り物であるのを公表しないことが、剽窃とされる。 政治家、財界人の著書も大抵自分で書いていないのは常識である。ゴーストライターに書かしたからと言って、その事実は非難する人はいない。内容の主旨、主張の方が重要と誰しもが思っている。有名なレストラン経営者が、料理の腕はなくても、この料理は、私がプロデュースした料理ですといって、美味しければ、顧客は満足する今の世である。実際に作ったのは私ですと、調理場の料理長が異議を申し立てることはない。業界紙の年頭所感なども、多くが本人が書いたものとは思えない、ありきたりの文章が多い。おそらく総務部の誰かに書かせたものであろう。 すべての仕事に共通することだが、本来ならば仕事の出来が素晴らしいかどうかを判断するのが大切だが、仕事の作者の名で判断する方が簡単なので、ついそちらに注意が向く。作者が異なったりすると、裏切られた気になる。ところが、シャネルもディオールも死んでから長い。現在の両社のファッションは、ご本人と違うデザイナーの作品であるのは当然である。ひょっとすると二人が生きていた時代よりはるかに知名度が高く信頼されている。あの世から見れば代作に過ぎないものに。 真に貢献した人の名を公表するのを英語では、クレディト(信頼)を与えるという。 映画の終わりに、長々と出てくる固有名詞群がそれである。あの佐村河内も実際の作曲には誰々の手を煩わしたと言明していれば、事情は異なったかもしれない。クレディト(信頼)が欠けたとはこのことか。 時計はいかに手作りと言っても、一人で作れるものではない。芸術作品のように、個展を開いてそこで売れる類のものではない。それに制作の段階で、個人制作の要素が強くとも、商業作品だから、売れるシステム、いわゆるマーケティングとか資金集めが必要になってくる。フランス料理研究家であり、調理師養成学校の経営者でもあった辻静雄さんは、私の親しい友人でもあったが、良くこう言っていた。「料理の腕の立つ男はたくさんいるが、レストランを開いて、流行らせることのできる奴は、その中で僅かしかいないよ」と。すぐれた職人が必ずしも、すぐれた経営者になれないのは、フランク・ミューラーの例を見ても良くわかる。彼は子供のころから時計修理の天才であった。ジュネーヴの時計学校を出て、パテックの時計博物館の収蔵品の修復に従事する間に、時計制作技術を身に着けたという。その後、自分の名で時計を作り始めたが、時計のケースメーカーであったアルメニア出身の経営感覚に秀でたヴァルタン・シルマケスに会わねば今の成功はありえなかっただろう。これは、後年に起こった両者の確執と妥協的和解がそれを証拠だてている。 パテック・フイリップ社もポーランドからの亡命貴族で金主の経営者ノルベール・ド・パテックとすぐれた時計技術者アドリアン・フィリップとの幸せな出会いがあったからこそ成功がもたらされた。 フランク・ミューラーに続いて昨今の高級時計のスターは、リシャール・ミルであろう。この会社もミルの名前のあとに隠れているが、共同経営者のドミニック・ゲナも忘れてはならない。ただし、この人も技術畑出身ではないようである。 前号のFH誌で、このゲナ氏がジュラ地方の新聞に単独インタビューを受けた記事で、その受け答えの様子が、いかにも会社を代表している自信にあふれていたので、面白く感じた。その内容は、次に出てくるミル氏の発言と同様なので割愛する。 ミル氏はかってセイコーのフランスの子会社で働いていた社員で、イェーマなどというフランスの時計の営業部長の職にあった。一九九四年セイコーを去って、モーブッサンに映ったが、安楽だが鳴かず飛ばずの時代であった。二○○一年に転機が来た。それはおそらくAP社の コンサルティングをしている間に、その子会社でトゥールビョン制作に特化したルノー・エ・パピ社と親しくなったからだろうといわれている。その年に自分の名を付けた桁外れに高価なトゥールビョンを売り出すことで、一躍有名になった。トゥールビョンはルノー・エ・パピ製であった。 今号のFH誌には、ミル氏のインタビューが転載されている。以下要約してみる。 二○一三年の売り上げは、三千個弱、一億三千二百万フラン。日本円にして約百五十億円。工場蔵出し価格の単価は五百万円近くになる。本年は、金額・量ともに一割増を見越している。複雑な時計の常として女性向けは現状二十%しかないのが三分の一ぐらいまでに上げるのを目標にしている。現在世界中で、ほとんどが合弁だが十六のブティックがある。それを二十四、五か所に増やす。ミラノ、ロンドン、アブダビ、ソウル、モナコ、ミュンヘンが予定地。 これだけ急速に成長すると、資金的にも苦しくなるし、大きなグループが傘下に置きたくなるのも当然かと思われる。事実昨年は、グッチなどを持つ、ケーリング社のフランソワ・アンリ・ピノーから買収の交渉があったが、条件が合わず不調に終わった模様である。その間の事情について「値が合わなかったのか」と質問されて、実に曖昧な答えをしている。一旦、会社を売ろうと考えた経営者二人が、気を取り直して今後どうかじ取りをしていくか楽しみである。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)。 |
|
|||
新年のジュネーヴ・ショウについて テレビの選挙速報を見ると、開票率がまだ数パーセントなのに、当確者の名が出てくることがある。不思議な気がするが、調査を統計学上の算定でそうなるらしい。視聴率もそうだが、見られている何千台かのTVの台数につけた機械で全体の数字が出る。時計の新製品を出すときも、試作品を銀座あたりの人の出入りの多い店舗や街頭で、反応をみていけそうだがどうか、判断したりする。私自身の経験から見ると、出す側は楽観を優先するし、調査会社も行き掛かりの上でそうなる。結果は必ずしもというか、大抵というかうまくいかなかった。事前の市場調査でヒット商品が生まれるのならこんな楽なことはない。消費の傾向調査なんかも、ヒントを与えるだけで、競馬の予想屋に近い。予想が当たるなら、誰も予想屋なんかやってない。ヒット商品もまた、エジソンの言を俟つまでもなく「九十九%の汗(パースピレーション)の努力と一%のインスピレーション」で出てくる。当たるか当たらないかは、時の運である。しかし生活していくうちで、どうしてもこれがあると便利という製品がある。生活文化が低かったころの電化製品がこれに当たる。人々のニーズを実現する技術力があれば、その製品を作れる会社は、繁栄した。あとはいかに安く作るかにかかっている。日本の消費財メーカーが躍進したのはこのパターンである。 日本憲法の第二十九条にはこうある。「全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。第九条の戦争放棄の頃は、よく議論されるが、こっちの方がもっと重要と思われる。国民総中流化となった頃から、最低限度は実現化ずみとみなされるようになった。しかし最低限度は、相対的であって、ハードルは国全体が富むにつれて上がっていく。軽自動車に乗って行っても、ある場所から次の場所へ素早く人を運ぶ車本来の機能は変わらない。グリーン車と普通車の差みたいなものに過ぎない。同じ目的地に同じ時間に着く。しかし人は、そこに格差を感じるようになる。 さて時計や宝飾品は今や無用の長物となっている。時計に代わって携帯電話が必需品になったが、時計がついている。かって、デビアス社は、婚約指輪を必需品として、一大キャンペーンを張った。成功したキャンペーンの史上第一位に輝く金メダルであったが、婚約に続く、結婚指輪が式に欠かせない必需品となって、婚約の方はややかすんだ感があった。 時計もかっては、入学の贈り物として必需品だったから、作る方も楽であった。ターゲットが決まっており、数百万人単位で日本人は上級学校に進んだからである。 日本のメーカーは必需品を作るのは得意だが、需要を創造するのは苦手とする。購入者の気に入るものは、あれこれ差し出すが、これを買いなさいと心理的強圧を加えるのができない美徳の持ち主である。安くて良質なものを作り出す競争をして、その結果、大量生産に走り、大量の商品を市場に流し、売れる可能性のある出口があれば飛びついて、売れ残りが出れば、安売りをしたり、させたりする。大量に売るためには、出来るだけ多くの売り場で人目に立てばよしと考えた。これは大量生産、大量販売がよしとされた時代の考え方で、日常生活に不必要な贅沢品の販売には通用しない。 もう今は昔、全時連という時計小売店の全国組織が強力だった時代に、安売りの店に流れないように時計のメーカーに個別製品番号を付けて流通経路を明確にしろとの要請があった。番号は刻印できるが、経路を負うことは数が大過ぎて不可能と言ってメーカーは拒否した。コンピューターの容量が少なかったから、一応本音の回答であった。 ロレックスは早くから日本市場で、購入者が返信はがきを直接輸入元に返信しないと有利なアフターサービスを受けられない状況を作っていたから、購入された時計の品番と流通例路が判明し、流通在庫の数を把握していた。私の会社は代理店をしているので、このころ小売店の在庫過多でなかなか仕入れてくれないと、出来の悪いセールスマンみたいにこぼしたら、何を言ってるのですか、お宅の在庫と納入先小売店の在庫は、売れた保証書の請求カードから逆算することができます。在庫は増えてません。販売努力が減っているのですと、指摘され赤恥をかいてしまった。 生産されてから、消費されるまでの流通経路を把握するのは、特に贅沢な製品の場合必要不可欠である。創るのは私、売るのは裏方では成り立たない。この傾向が確立されたのは、コンピューターの処理能力が一挙に拡大された二十五年ぐらい前からだろう。同時に、メーカーが代理店に出来た在庫の注文を取るだけでなく、事前発注を要請するようになったのもそのころである。以前は問屋も小売店も当面売れるものを仕入れるのが賢明な経営で、メーカーとリスクを共にする考えは少なかった。今や売れているものだけ売るという方針でやっていけるのは、著名ブランドの取り扱いに関する限り、余程の大量販売店でしかできなくなっている。同じ考えでも相手が中小小売店ではメーカーの方が寄り付かない。また取扱する小売店の数は、製品の販売戦略によって変わるが、多ければ多い程よいというものでもない。最小限必要な数を狙った方が効率的ということが言われ始めたのも同じころである。ちょうどカルティエが名声を日本で確立した時で、取扱店舗の数を絞れば、売り上げは逆に増えると主張するのを聞いて、当時半信半疑だった。正価維持、限定店舗、流通経路の正確な把握、競合相手との差別化、直営店の設置、時計業界では異端とも思える政策を取り入れたのが、売れるという力を背景にしたカルティエであった。過去とのしがらみのない、外国人のマネージャーにして初めて実行が可能だったといえる。 今まさにバーゼルワールドの開催中である。伝統の古い見本市なので、出展社が多く、お祭り気分が強い。もっとコンパクトで、近代的なビジネスの場として、カルティエのグループが主体となり、バーゼルから離れたにブランドが開催するようになったのが通称“ジュネーヴ・ショウ”、正確には高級時計国際サロン(DIHH)である。はじめはバーゼルのすぐ後に、ジュネーヴで開催されていたが、独立性を強調するためか、途中から一月開催になった。一年に二度スイスへ行くのは面倒と世界中の小売店に最初不評であったが、強引に押し切っていつの間にか、定着してしまった。実は私も初めに招待されたことがあるが、入場証を作るためいろいろ個人資料がいるから提示してくれという。名指しで招待するぐらいだから、別に入場券だけくれれば行くと言ったら、その後一切音沙汰がなかった。話にならんと思われたのだろう。行ってきた社員たちの報告によると、初めのころからバーゼルの会場とは違って、ソフィティケートされた雰囲気の中で、機能的にビジネスが行われる場として設営されていたという。社長(私)なんかのように商品のことも解らず、注文もできない人が行くところではありませんと社員に脅された以来敬遠している。でも内心は百聞は一見にしかずとも思っている。 今号のFH誌にはバーゼルの報告が出ている。速いものでもう二十四回年の開催になるらしい。開催時期は一月二十日から二十四日まで。来場者は小売店、代理店とメディア関係者のみで招待者に限られている。今年の来場者総数は、前年比9%アップの一万四千人。うち千三百人がメディア関係者というのがすごい。高級時計がメディアの情報伝達なしに成立しない事が解る。参加した十六社が、それぞれ個性を発揮した新製品を発表、人々の注目を集めていた。今年の文化的な小展示は「天文学の娘たる時計」をテーマにしている。 時計製作現場の一工員から、時計を販売する一売り子に至るまで、精密時計の各部分が調和して動くような、流通政策をとることが、高級時計の生命線となっている。麻雀の一気通貫みたいに整然としたマーケッティングを示すみたいである。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
FH誌は「事実のみを伝える客観的記事が主」 FH誌の論評は、今回から新年号になるが、言うまでもなくFHはスイス時計産業連盟(FEDERATION HORLOGERE)の略称で、スイス国内の殆んどの時計関係の製造業が四百社ばかり会員・準会員として参加している。日本の時計協会に相当する。ただし日本の場合は、垂直構造、つまり一貫メーカーばかりだから、競争相手の集まりになって、全体の利益や権利のことしか共通目的にならない。日本の殆んどの協同組合が同じような構造になっていて、外部への請願または圧力団体にはすぐなるけど、内部でお互いに切磋琢磨することはめったにない。その点、スイスでは製造業間のやり取りが複雑で入りくんでいるから、お互いの情報が重要になり、機関誌の役割は高い。会員には公平という原則から、事実のみを伝える客観的記事が主である。主観的評価のない記事は面白くない。 発行回数は、年二十四回。夏・冬の一か月休刊の隔週誌である。発行部数は千六百部、外部の人の購読料は、年間スイス国内三百十フラン、海外は五百五十フラン(航空便)である。昨年から写真は全部カラーになり、六十頁もあって商業誌のように立派になっている。年間六万円は高いなーという気もするが、物価の高いスイスだから仕方がないか。詳しくはネットで(WWW.fhs.ch)。 フランス語の小説を読むより退屈するが、勉強と思ってこの雑誌を毎号読んでいると、スイス時計産業全体の流れがどちらの方向に向かっているか、ぼんやりではあるが解ってくる。 今号の記事にショパール社のニューシャテル州フルリェにあるエボーシュ・フルリェ工場が(4層、五千百平米)。五年間かけて修築され、厳しいエコロジー規格合格を証明する「ミネルジー」表彰を受けた報告がのっている。詳しい説明は省くが、徹底的な省エネ、最小限の排出物、あらゆる面でのリサイクル化などが実施されている。ここでは、昨年七千個を作り、来年には一万五千個のムーブメントを製造する計画になっている。以前から、永続性のある贅沢を標榜して、今回と同じ「ミネルジー」規格に完全にのっとった工場をジュネーブにショパール社は二○一二年に新築している。 ショパールはショイフェレ兄妹が両人で社長をしている会社で、どうも時計部門が男性、宝石部門が女性の担当のようである。ハッピーダイヤモンドと言って、文字盤の中でダイヤが動き回る派手な時計が日本でも大当たりしたが、今の世代になってエコロジーにずいぶん関心が強いらしい。「責任ある宝飾品機構」のメンバーに二○一○年来ショパールは参画している。責任あるという言葉は、紛らわしいが、製造・販売の過程において、責任のある行動をとっている宝飾業という意味だろう。金とか、ダイヤモンドを使用しても、紛争地経由の金やダイヤは避けて、由来の明確なものを選んでいる。近年、英語でエスィカル・コンシューマーという表現が良くされるようになった。倫理的消費者という意味だが、出来るだけ世間に迷惑をかけないものを消費または購買しようとする考え方の持ち主を指す。特に高価なぜいたく品は、差し迫った日用のものとは違うから、この考えは、購買者の良心に強く訴えかける。高級品の平行輸入品は嫌で、多少高くても正規取扱店で買いたいと思うのも、安心感だけではなく、同じ心の動きだろう。以前家人に良くこう言った。グッチはグッチの店で買って、初めてグッチになると。モノの有り余っている時代に、さらに一つバッグを買い加える行為に筋の通った、心の豊かさの方が重要だろう。食料品のようなものでも、安全への志向の方が強いのだろうが、氏素姓の明確なものが、スーパーでも人気がある。スイス山中のフルリェという町も人口の少ない自然豊かな田舎に過ぎない。そこに莫大な投資をして、超エコロジカルな設備作っても、注目する人は少ないかもしれない。ショパールは、あえて戦略的にそれを作った。製品の魅力の一つとして、それを受け入れる購買者も出てくるだろう。 FH誌の記事構成は、五部に分かれている。一部が公式活動報告、二〜四部が会員各社に関するニュース、新製品の紹介は、大メーカーが中心ではなく、公平なもの。それに各会員の公的情報。たとえば、各社のニュースの一つとして先ほどのショパールのフルリェ新工場の紹介が大々的に出ているが、別のコラムには「クロノメーター・フェルディナン・ベルトゥー株式会社」をショパールが設立したという報告が出ている。ブレゲの方がすっかり有名になってしまったが、ベルトウーも、同じスイスに生まれながらルイ十六世治政のフランスで活躍した時計制作者である。その頃は、洋上における経度測定のための正確な時計は船舶、特に軍艦には絶対必要とされていた。ブレゲが宮廷人に人気があったが、ベルトウーは、マリン・クロノメーターによって、国家に仕えていた。時計設計に関して多数の著書を残し、時計史において理論家としても不滅の名声を保っている。二○○六年にショパールは、この名称の権利を買収し、新工場のあるフルリェ近くで生まれたベルトウーを名を冠した名品を世に発表したいとショイフレ社長が明言している。 過去の名時計師たちの名が次々と復活していく現状はうれしいが、彼等が時計史に果たした真の役割とは違った方向の製品になりはしないかと気にかかる。現代の評価が歴史的評価を曲げる恐れは十分ある。 FH誌でやっぱり一番面白いのは、第五部の地方一般新聞の時計関連の記事の転載である。トップがつい本音を地方紙と思って漏らすこともある。トップの答え方にも、その企業の特色が出ている。トップといっても、LVMHのアルノー氏とか、リッシュモンのルパート氏とか、スウォッチ・グループのハイエック氏とか、本当のボスは登場しない。ブランド部門の最高責任者で実務家でもある人々との対話が多い。 今号では、ロンジン社のフォン・ケネル、タグホイヤー社のステファ―ヌ・リンダ―両社長。その他に、ヴィクトリノックスのブラジル支社長カール・キーリ―ガ、フランク・ミューラーグループのオーナー、ヴァルタン・シルマークとの対談が出ていて、興味深い。 例えば、タグホイヤー社のリンダ―氏。ジュラ地方のシュヴェネにクロノメーター製造新鋭工場を作り、昨年五万個を生産、三年後には倍増して、ロレックスに次ぐクロノメーターの自社内生産をすると発表している。記者団は、宣伝費を貰っているメディア関係者と違って、突っ込んだ質問をする。ホイヤー社は、セイコーからムーヴメントやテンプ回りを購入している珍しい会社だが、今後どうするつもりか。答えの方は、ブルガリに行った前社長のクリスト・ババンに代わったばかりの新社長はやや歯切れが悪い。スウォッチがムーヴを売らなくなることを予想して四、五年前からセイコーから買っている。セイコーの品質は我々の信頼に足る。一九六九という新しいキャリバーには、セイコーとサントス財団のアトカルパ社、二社からテンプ回りを買う。アメリカでは、まだ十万円ぐらいの初めてスイス時計としてホイヤーを買う人が多いから、セイコーのクオーツは重要である。記者団は、今後一貫メーカーとして、テンプ回りを含め全部自社製造するという答えがほしかったのだろうが、どうも曖昧な内容になってなっている。最後の「一体どのぐらいの年間販売量か」と聞かれても、数を公表するのは社の方針ではないのでね、五十万個から百万個の間ということだ、と大雑把な答えになった。 リンダ―氏に比べて、ロンジン社の我が友ウォルター・フォン・ケネルの記者会見は自信に満ち溢れている。自社の業績の好調さは、知れ渡っているせいか、視野はスイス時計業界全体を展望している。一九七〇年頃までは、技術が先行し、市場がこれに従った時代であった。しかし現代では、市場に技術に従わなければならない、何よりも市場が優先するという考えを披歴している。全部要約しないが紙面がなくなってしまった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
FH誌は「事実のみを伝える客観的記事が主」 FH誌の論評は、今回から新年号になるが、言うまでもなくFHはスイス時計産業連盟(FEDERATION HORLOGERE)の略称で、スイス国内の殆んどの時計関係の製造業が四百社ばかり会員・準会員として参加している。日本の時計協会に相当する。ただし日本の場合は、垂直構造、つまり一貫メーカーばかりだから、競争相手の集まりになって、全体の利益や権利のことしか共通目的にならない。日本の殆んどの協同組合が同じような構造になっていて、外部への請願または圧力団体にはすぐなるけど、内部でお互いに切磋琢磨することはめったにない。その点、スイスでは製造業間のやり取りが複雑で入りくんでいるから、お互いの情報が重要になり、機関誌の役割は高い。会員には公平という原則から、事実のみを伝える客観的記事が主である。主観的評価のない記事は面白くない。 発行回数は、年二十四回。夏・冬の一か月休刊の隔週誌である。発行部数は千六百部、外部の人の購読料は、年間スイス国内三百十フラン、海外は五百五十フラン(航空便)である。昨年から写真は全部カラーになり、六十頁もあって商業誌のように立派になっている。年間六万円は高いなーという気もするが、物価の高いスイスだから仕方がないか。詳しくはネットで(WWW.fhs.ch)。 フランス語の小説を読むより退屈するが、勉強と思ってこの雑誌を毎号読んでいると、スイス時計産業全体の流れがどちらの方向に向かっているか、ぼんやりではあるが解ってくる。 今号の記事にショパール社のニューシャテル州フルリェにあるエボーシュ・フルリェ工場が(4層、五千百平米)。五年間かけて修築され、厳しいエコロジー規格合格を証明する「ミネルジー」表彰を受けた報告がのっている。詳しい説明は省くが、徹底的な省エネ、最小限の排出物、あらゆる面でのリサイクル化などが実施されている。ここでは、昨年七千個を作り、来年には一万五千個のムーブメントを製造する計画になっている。以前から、永続性のある贅沢を標榜して、今回と同じ「ミネルジー」規格に完全にのっとった工場をジュネーブにショパール社は二○一二年に新築している。 ショパールはショイフェレ兄妹が両人で社長をしている会社で、どうも時計部門が男性、宝石部門が女性の担当のようである。ハッピーダイヤモンドと言って、文字盤の中でダイヤが動き回る派手な時計が日本でも大当たりしたが、今の世代になってエコロジーにずいぶん関心が強いらしい。「責任ある宝飾品機構」のメンバーに二○一○年来ショパールは参画している。責任あるという言葉は、紛らわしいが、製造・販売の過程において、責任のある行動をとっている宝飾業という意味だろう。金とか、ダイヤモンドを使用しても、紛争地経由の金やダイヤは避けて、由来の明確なものを選んでいる。近年、英語でエスィカル・コンシューマーという表現が良くされるようになった。倫理的消費者という意味だが、出来るだけ世間に迷惑をかけないものを消費または購買しようとする考え方の持ち主を指す。特に高価なぜいたく品は、差し迫った日用のものとは違うから、この考えは、購買者の良心に強く訴えかける。高級品の平行輸入品は嫌で、多少高くても正規取扱店で買いたいと思うのも、安心感だけではなく、同じ心の動きだろう。以前家人に良くこう言った。グッチはグッチの店で買って、初めてグッチになると。モノの有り余っている時代に、さらに一つバッグを買い加える行為に筋の通った、心の豊かさの方が重要だろう。食料品のようなものでも、安全への志向の方が強いのだろうが、氏素姓の明確なものが、スーパーでも人気がある。スイス山中のフルリェという町も人口の少ない自然豊かな田舎に過ぎない。そこに莫大な投資をして、超エコロジカルな設備作っても、注目する人は少ないかもしれない。ショパールは、あえて戦略的にそれを作った。製品の魅力の一つとして、それを受け入れる購買者も出てくるだろう。 FH誌の記事構成は、五部に分かれている。一部が公式活動報告、二〜四部が会員各社に関するニュース、新製品の紹介は、大メーカーが中心ではなく、公平なもの。それに各会員の公的情報。たとえば、各社のニュースの一つとして先ほどのショパールのフルリェ新工場の紹介が大々的に出ているが、別のコラムには「クロノメーター・フェルディナン・ベルトゥー株式会社」をショパールが設立したという報告が出ている。ブレゲの方がすっかり有名になってしまったが、ベルトウーも、同じスイスに生まれながらルイ十六世治政のフランスで活躍した時計制作者である。その頃は、洋上における経度測定のための正確な時計は船舶、特に軍艦には絶対必要とされていた。ブレゲが宮廷人に人気があったが、ベルトウーは、マリン・クロノメーターによって、国家に仕えていた。時計設計に関して多数の著書を残し、時計史において理論家としても不滅の名声を保っている。二○○六年にショパールは、この名称の権利を買収し、新工場のあるフルリェ近くで生まれたベルトウーを名を冠した名品を世に発表したいとショイフレ社長が明言している。 過去の名時計師たちの名が次々と復活していく現状はうれしいが、彼等が時計史に果たした真の役割とは違った方向の製品になりはしないかと気にかかる。現代の評価が歴史的評価を曲げる恐れは十分ある。 FH誌でやっぱり一番面白いのは、第五部の地方一般新聞の時計関連の記事の転載である。トップがつい本音を地方紙と思って漏らすこともある。トップの答え方にも、その企業の特色が出ている。トップといっても、LVMHのアルノー氏とか、リッシュモンのルパート氏とか、スウォッチ・グループのハイエック氏とか、本当のボスは登場しない。ブランド部門の最高責任者で実務家でもある人々との対話が多い。 今号では、ロンジン社のフォン・ケネル、タグホイヤー社のステファ―ヌ・リンダ―両社長。その他に、ヴィクトリノックスのブラジル支社長カール・キーリ―ガ、フランク・ミューラーグループのオーナー、ヴァルタン・シルマークとの対談が出ていて、興味深い。 例えば、タグホイヤー社のリンダ―氏。ジュラ地方のシュヴェネにクロノメーター製造新鋭工場を作り、昨年五万個を生産、三年後には倍増して、ロレックスに次ぐクロノメーターの自社内生産をすると発表している。記者団は、宣伝費を貰っているメディア関係者と違って、突っ込んだ質問をする。ホイヤー社は、セイコーからムーヴメントやテンプ回りを購入している珍しい会社だが、今後どうするつもりか。答えの方は、ブルガリに行った前社長のクリスト・ババンに代わったばかりの新社長はやや歯切れが悪い。スウォッチがムーヴを売らなくなることを予想して四、五年前からセイコーから買っている。セイコーの品質は我々の信頼に足る。一九六九という新しいキャリバーには、セイコーとサントス財団のアトカルパ社、二社からテンプ回りを買う。アメリカでは、まだ十万円ぐらいの初めてスイス時計としてホイヤーを買う人が多いから、セイコーのクオーツは重要である。記者団は、今後一貫メーカーとして、テンプ回りを含め全部自社製造するという答えがほしかったのだろうが、どうも曖昧な内容になってなっている。最後の「一体どのぐらいの年間販売量か」と聞かれても、数を公表するのは社の方針ではないのでね、五十万個から百万個の間ということだ、と大雑把な答えになった。 リンダ―氏に比べて、ロンジン社の我が友ウォルター・フォン・ケネルの記者会見は自信に満ち溢れている。自社の業績の好調さは、知れ渡っているせいか、視野はスイス時計業界全体を展望している。一九七〇年頃までは、技術が先行し、市場がこれに従った時代であった。しかし現代では、市場に技術に従わなければならない、何よりも市場が優先するという考えを披歴している。全部要約しないが紙面がなくなってしまった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
二千七百個近くを押収した贋物摘発担当職員 【十月十九日(火曜日)】我々二人はFHの贋物摘発担当職員である。短い夜は明けて、ドバイの気温は既に高く蒸し暑い。スイスから着いたばかりで、機内では良く眠れなかった。ホテルのロビーで情報提供者の報告を詳しく聞く。明日の踏み込みに十分備える為だ。贋物業者のアジトは旧ドバイのデイラという地区の古いビルの二階と三階にあるのを知る。金製品を売る店が軒を連ねている、観光客人気の市場の近くだ。市場をウロウロしている客引きが、高級バッグや時計があると言って客を連れ込むという。アフリカからも、ここまで仕入れに来る連中がいる。この二年間、F・Hはこういった摘発を重ねて、しかるべき成果を挙げている。しかし彼等も巧妙になって、むざむざ没収されない様考えている。何より用心深くすることだ。 大体の説明を受けて、ドバイ警察本部に出かける。検事は既に提出されている告発状を見て、踏み込み没収の許可を出している。情報が漏れて、逃走に繋がらないよう、言葉少なに最終策を警察官達と図る。その点彼らはプロだ。正確な場所は一人の通告者しか知らない。寸前にその男と道で擦れ合って素早く言葉を交わす。それで場所が判る。 【十月二十日(水曜日)】街角で待機しているとFHの現地代理人のサミールの車がやってくる。一時間近く待ったのに、ここでは時間きっちりになるらしい。目当ての場所は、小さな家が入り組んでおり、遠くに駐車して歩いて近づく。携帯を耳から離さないサミールが先導する。携すごい雑踏で、いろんな色の服の歩行者が行き来して進めない。とある角で私服警官たちと偶然のように合流する。続いて通告者がビルの隅に立っているのを見る。挨拶みたい儀式があって、我々は離れ離れになる。通告者は直ぐ雑踏に消えた。一体これはどうなっているのかと思った。目的地に近づくと、また一緒になった。これだけ用心していたのだが、客引きの一人が、我々に気づいたみたいだった。このごちゃごちゃした世界では、見なくても匂いで解るのだろう。即行動しかない。 隊長は私服を二階組みと三階組み二手に分け、建物にすぐさま侵入した。階段は暗く、彼らは携帯を照明代わりに使った。踊り場の扉は二箇所とも錠がかかっていた。共犯者の通報で売り手は既に逃走したのか。ポリス、ドアを開けろ!という命令にも一切返答がない。警官の一人がかがみこんで、ドアの下の隙間に手を平たくあてがう。冷たい空気が流れ出ている。「空調が付いたままだ。いるぞ」と叫ぶ。「皆どけ」隊長がハンマーを叩きつける。数秒でドアの枠が吹っ飛び、鍵がタイルに落下する音が聞こえる。警官たちは、入り口から少し離れて様子を覗う。恐怖や捨て鉢から発砲して来ないか見定めたいからだ。中に居た三人はすぐに手錠をかけられた。「もう大丈夫だ。入ってきていいよ」と隊長が言った。 中の様子は、見慣れている光景だった。床から天井まで、あらゆる種類の贋物が積まれている。スチール棚には何百という時計が山積みになっている。警官が手錠の三人を少しいたぶっている間に、なれた手つきでサミールは、棚の後ろの壁をコツコツ叩いている。隠し棚を見つけるのに数分とかからない。我々はその間、時計の検分に忙しい。こうして全部で二千七百個近くが押収できた。続いて三階の部屋に行ってみると、壊されたドアの破片が床に散乱していた。中には時計はなく、バッグばかりだった。途端に緊張感が解けて、人心地がつく。蒸し暑さと暗い廊下に満ちる悪臭、淀んだ空気が、急に耐えられなくなって、通りに出て空気を吸うと、ボトルから清水を飲んだ気がした。手錠をかけられた容疑者も、厳重な監視のもと外に出た。先行き辛い目にあうのは必定である。通行人もチラッと見て、かわいそうという表情をする。彼等も贋物作りの運命がどうなるか知っている。監獄に入れられた後は国外追放、打ちしおれて、故国のインドやパキスタンに戻る事になろう。アラブ首長国連合で一旗挙げる夢は、押収した時計がローラーで押しつぶされるように、破れてしまうことだろう。 F・H誌は、大抵、中正的な役所の広報みたいに面白くない記事が多いが、今号は面白い。しかも写真入だから。F・H誌の職員になるのも大変だ。付記に二〇一三年から各地区にいる代表と協力して、八回の襲撃を試み、九万個の偽時計を見つけている。狙いは主に集荷場所で、そこから世界の密売人に拡散するからである。八回のうち六ケ所で、現地の裁判所が容疑者を実刑に処し、押収時計全部の破壊を認めているそうだ。 ルロックルにあるスイスで一番古い時計工場の話 実に面白い企業の話が、転載記事で知った。スイスで一番古い時計工場は一七八五年に創業されたデュボワ・フィスとジュラ地方の新聞には書かれている。バセロン・コンスタンタンも同年の創業としているから、どっちが古いのか解らない。 こういうことを調べるのは実に便利な本がある。キャサリン・プリッチャードというカナダ人の女性が書した「スイスの時計メーカー一七七五年〜一九七五年」である。いろんな資料を綿密に当って、殆どのメーカーの資料を網羅した労作である。この副題の年号から見ると、著者が一七七五年をメーカーの起源としているみたいだから、一番古いと自称してもいいのだろう。この本は昔の新聞や雑誌、役所の登記記録などを調査して書かれた本だから、記述はごく客観的で一番信頼に足る。例えば代が替わったら替わったと書いてある。高級メーカーが、自社で作る豪華本は、当然ながら代替わりとか内紛があったことは書かない。歴史資料としては少し欠陥がる。 この本によるとデュボワ・フィスは、二十世紀の終わりまで細々とデュボワ家の手で存続していたようである。代替わりしなかったのが珍しい。然し二〇一〇年バーゼルの起業家トーマス・シュタインマンの手に渡っている。資本金は、二〇一二年に十万フラン、翌年には五十万フランに増資されたが、五十万フランでは約五千万円だから大した額ではない。ところが昨年の一月に、一般の人々から百五十万フランの資金を集めて衆目を集めた。 クラウド・ファインディングという手法というからネットで株主を集めたのだろう。二百二十六人の新株主が出来たという。時計関係のプロも居れば、単なる投資家も、時計好きもいるという。 会社側は、将来の株主に対し、各種九十九個を作る限定の時計を買ってもらう。その値の一部は会社の経費に取られるが残りの価格は会社株に転換される。デュボワの時計一個、百万円で買うとすると、一部は経費として減るが、残りは会社の株に化けるらしい。なんだか手品みたいな資金集めという気がしてならないが、既に六百人が集まっているというのだから恐れ入る。しかしその会社の製品を買えば、会社の小さなオーナーになれる。つまり株主になれるという考え方は面白い。記事そのものは、ルロックルにあった本社が別の時計の町プラントリィに移されるという方が眼目であった。 余談だが、アベノミクスが始る前にスバルの新車を買ったのだが、そのうちにこの車を作っている富士重工の株が、あれよあれよと上昇した。車と同時に、同じ金額で株を買ってたら、車がタダになったのに後悔した。ひょっとしたらデュボワ商法が当るかもしれない。責任は持ちませんが。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
明治維新になって、西欧の文明が奔流のように日本に入ってきた。ちょんまげを切った人々は「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と自嘲の交じったざれ歌を残している。文明とは、西欧の法制・社会制度であり、蒸気船、汽車、ガス塔、燃えない石造りの家、等々であった。不便な不定時制度を廃止した明治六年来の時計もある。 文明とは人々の生活を快適にする技術や道具のことと云える。技術や道具は安ければ安いほど多くの人に利用されて、生活がより豊かになる。 時計もクオーツが普及した一九八〇年代には、機械時計の使命は、昔の風帆船のように終わったと世間はみなした。電池は何時切れるやも知れないという反論は、小型太陽電池の出現で打ち消された。 ところが不思議な事に、機械時計は生き残った。生き残ったところではなく、スイスの機械時計はかってない隆盛を享受し続けている。勿論性能がクオーツに対抗し得るほど、良くなったが、値は高い。それでも人々は購入する。なぜかというに、時計がコスト計算の無意味な文化の領域に入ってきたからである。文明の進歩とは云うが、文化の進歩とはいわない。文明の領域ではコスト計算が優先するけど、文化となると評価の中にコストは重要性を持たない。然し文化といっても、ある地域である民族の中で、自然発生的に一定の歴史を踏んで生まれるばかりではなくて、この百年ぐらいになると人為的に造られる分かも出てくる。インターネットを媒介する文化はその典型である。ブランドの文化も最初は百貨店は三越、音響製品はソニー、車はトヨタとか、地域性があったが、製品が世界を駆け巡るようになって、地球全体が共有する文化となった。いま挙げた名前は品質の証明であったが、高級ファッションやお金持ちが好む車、時計、オーディオ、贅沢な旅、高価な料理店のブランドは、高品質は当然だがイメージによりかかるところが多い。 カルチェが参入する以前のスイス時計界は、ごく素朴であった。パテックを頂点とする階級制度は長らく固定していて、まるで士農工商の世界みたいで、メーカーは自分の地位で充足していた。カルチェの時計を復活させたのは、この名声を借りて時計製造を下請け工場を始めたフランスのシルヴィアマッチというライターメーカーであったが、そのオーナーであったオック氏も、正しく利用すればブランドがとてつもない威力を発揮するのに、自身戸惑った様子があった。当初の一九六〇年の下請けのひとつは、エベル社であった。この会社の若旦那は、ピエール・アラン・ブルームといって一時はスイス時計産業の顔となったが、まだ若い頃の彼を知っている。エベルの時計を私の会社が販売していた関係で、彼が大阪に出張してきた時、二、三度北の新地で飲み明かしたことがある。後年、彼が一九九四年に自社を売却する寸前、バーゼルで再会した時は、尊大になっていたが、若い頃は気持ちの良い青年であった。カルチェの仕事をマーケィティング手法で学ぶ事が多く、これを利用して、祖父の創業したエベルというブランドを、カルチェに負けないようにしたいと熱心に語っていたことを思い出す。そして短期間である程度を成し遂げたことに今でも敬意を抱いている。 カルチェを更に買収したリッシュモン・グループの総師は、南アフリカの人だが高級ブランド確立に手腕を発揮するのは、フランス人ないしはフランス系の人に多い。イタリア人も含めてラテン系といっても良い。カルチェがパシャという遠足の水筒の蓋みたいなリューズ蓋をつけた大型の時計を売り出した。当時の私たちの感覚から見ると到底売れそうもないモデルであった。ところが発売以来、広告に次ぐ広告を打ち、いつの間にか人気モデルになっていた。市場をねじ伏せた感があった。売れないものでも、売れるようにするのがマーケッティングであり、ブランドの力だという自信が覗える。以来カルチェの販売店は新製品を批判しなくなった。 エッフェル塔はパリのシンボルである。しかし建設当初は人気が全くなかった。壊してしまえという意見も多かった。然しパリ市は、根気よく、これは素晴らしいものだと主張し続け、百十五年経った今、エッフェル塔のないパリは考えられない。ルーブル美術館の中庭にあるピラミッドもそうである。昔の古めかしいコの字型の宮殿の庭に、ガラスと鉄で出来た三角錐が盛り上がっていて、あたりの風情とはチグハグである。一体あれは何だという効果はある。ペイという有名な建築家の手によるものだが、地下に巨大なショッピングセンターを作るための明り取りに過ぎない。しかしそれを何とか理屈をつけて名所に仕立てている。ポンピドウ・センターをはじめこのようなものは、パリでは枚挙にいとまない。 ブランドに歴史や意味や味を加えて、あたかも大きな価値を持つかのように造り上げるのは、フランス人が長けているのは、こんな伝統を背負っているからだろう。 カルチェのマーケッティングのからくりを面白おかしく教えてくれたのは、かってカルチェ社にあって社主オック氏に親しく仕えた友人シャリオールだが、フレンチ・マーケッティングの別の冷微な一面を学ばせてくれたのは、タグ・ホイヤーの社長だったヴィロスさんであった。小柄で精悍な人で、歩くコンピューターの感があった。製品・広告などの戦略でいくら優れていても、販売が上手く行かなければ意味がない。小売店頭の在庫、売上げを出来れば即時、少なくとも月次に、しかも店舗ごと商品別に知らないと気がすまない人だった。今では、こんな事はブランド展開をするのに常識になっているが、たった十数年以前には、日本の問屋にとって至難の業であった。当社の取引先の個別y情報をすぐ出せと号令しても、そんなことをしてたら時間がなくて、販売活動が出来ませんと泣き言をいうセーールスもいた。ヴィロスさんは、その数字がないと一切交渉に応じない。代理店だったワールド通商の斉藤社長も大変だっただろうが、こっちも大童であった。日本の問屋は勢いで何となく売っていたことを痛感させられた。勿論正確な数字は結果としてあるが、ピンポイントで捉えていなかった。いわば一斉掃射、じゅうたん爆撃の戦争をしていた。いつか手元の数字がコンピューターの誤操作で間違いだらけなのを発見したヴィロスさんは、今日は仕事にならんと会議は止めて、楽しく飯を食いに行こうと言い出したのが、おかしかった。往年、ヴィロスさんは会社をルイ・ヴィトンに売却する事になる。会社を上り坂に押上げって、巨額で売り抜けたといえる。 さて今号のFH誌ではそのタグ・ホイヤー社の隆盛振りが紹介されている。出発は下請け中心だったのに、今や四番目のモダンな新工場を完成させ、全部で八百名を有する堂々たる一貫生産工場になった。開発されるムーブメントもオリジナリティに富んでおり、昔のように見てくれのケースデザインで勝負という事がなくなった。販売網も直営店が世界の一等地に二百店舗あり、数年の間に二百五十店舗を持つ事になる。販売拠点は四千箇所。オンライン販売にも熱心で、米国、英国、豪州で実施している。流石ルイ・ヴィトンも脱帽する。詳しくはFH誌をご覧願いたい。 この号には、フランス生まれの天才時計製造者P・F・ジュルヌの特集が、大資本のタグ・ホイヤーと同じ扱いで載っている。年間生産個数わずか九百個。東京にも以前から直営店があり、真の時計愛好家に評判が高い。コストも無視して、何でも手作りで押していけば、売れる可能性がある世の中は嬉しいような気がする。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「ふらんすへ行きたしとおもへどもふらんすはあまりに遠し せめては新しき背広をきて、きままなる旅にいでてみん」 一九二五年頃に書かれたこの萩原朔太郎の詩は今の若者たちには、全く理解できないだろう。フランスなんか安売りのチケットをインターネットで手配すれば、そんなにお金をかけずとも簡単に行けるからである。その上、この詩の底にある西欧への憧れも、若者達の心に消えているからである。この詩は太平洋戦争を経験した世代ぐらいまで青年の心を捉えていたと思はれる。私も、その世代に属している。 一九六一年父がフランス留学の金を出してくれた時は天にも昇る気持ちだった。戦後すぐ、それ以前にフランスへ留学した人の中には、もうみんな故人になってしまったが、加藤周一、森有正、遠藤周作といった人がいる。それぞれに「羊の歌」、「はるかなるノートルダム」、「白い人」といったフランス滞在を主題にした優れた作品を残している。私達が西欧社会に抱いていた憧れを、例え、失望や疎外感が時に出ているにせよ、かき立てるものがあった。パリの夕焼けは東京の夕焼けより高尚で優雅であったのである。 文化だけでなく、外国の文物に対しても同じことだった。コカコーラにはアメリカの文明の味がしたし、リプトンの紅茶のふり出し袋一ヶで英国の香りがするといって、何人前も淹れたものであった。東京タワーが建つ頃でもエッフェル塔より高いと人々は胸を張った。 今から、半世紀以上昔に初めてみたパリは必ずしも夢の町ではなかった。丁度、ドゴール政府に対して、アルジェリアを植民地のままおいておこうとする勢力が、町のあちこちでプラスチック爆弾を仕かけていた。内戦のような雰囲気があった。町で警官に機関銃をつきつけられて、パスポートの提示を求められたたこともしばしばあった。 町の建物は今のように白く洗われる以前で、長年の煤で真っ黒だった。百貨店に行くと、パリはデパートの発祥の地であるのに、建物と内装は立派だが、売っているものが、まとまりがなく、日本の方がずっと買いたいものがあった。店員に顧客にサービスする観念がなかった。その後、三越も大丸も高島屋も松坂屋も曲りなりにパリに出店したが、みんなうまく行かず、撤退を余儀なくされた。パリの百貨店が今のように変身したのは日本に学んだところが多い。 パリに足かけ二年程いて、イタリアのフィレンツェ大学へ行ったが、この一年が実に楽しかった。まず、下宿の夕飯が美味だし、イタリア人学生の下宿人と仲良くなる。今はグッチというと、知らない人はいないけど、当時はフィレンツェに一軒あるだけであった。フィレンツェの名物の一つ皮細工でたくさんあった革製品のお店の一つにすぎなかった。フェラガモもグッチよりは立派な昔の城館みたいな店を構えていたが、どちらかというと婦人靴専門のお店のようだった。ここも一軒だけ。フィレンツェは昔からの観光地だったから御土産物さん屋は軒をつらねており、魅力的な店も多かったのにどうしてこの二つだけが世界的名声を五十年後に確立したかと思うとブランドを考える契機となる。 今号のF・H誌にブルガリの時計の記事が出ている。ブルガリが時計を作り始めたきっかけは、一九七五年の上顧客用のクリスマスギフトに百個ばかりデジタルの時計をベゼルにブルガリ・ローマと彫り込んで配ったことから始まったらしい。ブルガリの本店は、映画「ローマの休日」でオードリーヘップバーンの女王がアイスクリームを手に降りてくるスペイン階段の下に突きあたっているショッピング街、コンドッティ通りにある。私が行った頃には、すでに創業百年に近い老舗であったが、なにしろ学生なので中に入ってみる勇気はなかった。ここもローマに一軒だけだったと思う。イタリア人は宝飾品好きでイタリア中には無数の宝石店があるのに何故ブルガリだけが世界に認められるようになったのも興味深い。 アメリカ系の「インターブランド」という調査会社があって、毎年スイスのトップブランド五十というリストを出している。そこの担当役員のミッシェル・ガブリエルとの一問一答がこの号に出ている。五十ブランドのうち十六が時計である。要約してみる。 この十三年の番付ではサラサン銀行とジュラ(時計)が落ちて、化粧品のラ・プレリと乳製品のエンミが入った。ロレックスとオメガはベストテン内で、ネッスルは売上高を大きくのばした。ロンジンとショパールとインターナショナルは順位を上げている。 時計のブランド数が圧倒的に多いが、有名ブランドはみんな語るべき歴史を持っている。オメガは月面到達時に飛行士がつけていた。パテックは愛用者は次の世代がそれを引き継ぎ、パテックの歴史に参加の意識を与えている。インターナショナルの場合、アンジェニアールとか、アクアタイマーとかポルトゥケーゼといった特殊な世界のカテゴリーを創出している。もう一つ、これらのブランドが中国、アラブ、ロシアの高級時計愛好者にこのまれている要素も強い。 ロンジンはこの十三年に前年比十三%も売上増を記録したのはロンジンのモットーでる「エレガンスとは身構えである」を徹底的に追ったせいだろう。それに値段帯が高級時計への入門編であるのも良い。特に中国では、精度、伝統、性能、ファッション性とスイス製の持つ良さに宣伝を集中させたところも上昇の一因であった。 スイスのブランドの強さはネスプレッソの例をみると証明できる。これは単なるインスタントコーヒーにすぎない。しかし、洒落たコーヒーカプセル、モダンな抽出機で一躍人の心をつかんで、ブランドとなった。時計も同じことで、時計を作る人がおり、ブランドを構築する専門家がいて、立派な歴史と伝統があれば成功の道をたどれる筈だ。高級時計を買う人はそれを買う人たちの仲間に入りたいと思う。もちろん、安心感を買うということもあるだろう。それがブランドのもたらす利点でもある。それにブランド強化のためにはますますネット系メディアを活用することが重要になるだろう。 明快なブランド論にではあるが、強力なブランドは益々強力になって、世界中どこの町を旅してても、本店と同じようなお店が同じような商品を同じようなやり方で展示されている。世界が画一化されることにどうしても違和感が残るのは老人の繰り言か。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
江戸幕府とスイス政府が国交を結んで百五十年 昨年発行の雑誌を読んでいるが、この稿は新年号になるので「あけましておめでとうございます」から始めねばならない。今年二〇一四年は、江戸幕府とスイス政府が正式に国交を結んでから百五十年になる。スイスを代表して交渉に来日した外交官はアンベールというジュラ地方の時計製造組合の理事長もした事のある男だった。この人は幕末に日本の様子を克明に記録した目録を残している。講談社の学術文庫で訳がでている。 スイスは当時から同じ大きさの国土で、植民地確保にも乗り出すことなく、平和な国であった。大きさは四国ぐらいで、しかも二十五も州(カントン)のある連邦政府である。なんとなく幕藩体制と良く似ている。日本も徳川家を主導者とする大名各藩による一種の連邦国家であったといえる。藩によって、お国柄が違うように、スイスでは州(カントン)によって、人々の生活様式が違っていた。第一使用される言葉が、四つもある。宗教も、旧教、新教共存である。今はスイスの総人口が八百万人ぐらいで、ジュネーヴ州全体で三十万人ぐらいいるのだろうか。それでもジュネーヴの人は、特殊と他州スイス人は言う。京都の人が特別というぐらいの意味で、他県(州)人を低く見ると悪口を言う人が多い。時計でも自社のロゴの他に、誇らしげにジュネーヴと書き加えた文字盤をよくみるが、ラ・ショードフォンと書いてあるのはお目にかかったことがない。強烈な宗教改革家だったカルヴァンがこの町を始めていた十六世紀にフランスで弾圧された新教徒(職人・商人が多かった)が亡命してきて、ここで時計製造の技術が定着したとされる。時計の総本家の意識である。 昔から高級時計の御三家といわれたのが、パテック・フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタンとオーデマ・ピゲで、そのうちの前の二者はジュネーヴに本拠地がある。ロレックスも二十世紀に入っての新入りながらジュネーヴである。特にいわゆるバセロンは、市中の繁華街にある昔の風情ある塔屋を本社にしていたので、旅行客になじみが深い。今号のFH誌では、そのバセロンがA・Pの本社工場のあるジュー山中の町、ル・ブラッシュに現代的な新工場を作った記事が大きく出ている。総ガラス張りの二階建て(七千平米)で、三十億円の投資という。バセロンの全従業員は、現在九百人で、そのうち二百人がここで働いており、一年で後百人は増やすそうである。先進技術、最新工作機械は使用するものの最終仕上げは全部手でなされると強調している。 ル・ブラッシュに一、二度行った事があるが、ジュネーブから車で二時間は山道を登らねばならない標高千メートル以上のとんでもない田舎で、冬は雪だらけ。どうしてこんなところにと思うが、A・Pの工場もここにあるように、時計関係の下請け業があちこちにあって、これまでもバセロンはそういったところを頼りにしていたようだ。下請けを組織化して、より効率化を図るためと思われる。新工場では、内部で教育訓練をはじめ、伝統を保持していくと言明している。 バセロンの創業は、一七五五年でとりあえずスイスで一番古いメーカーとされている。パテックが一八三九年だからかなり古い。フランス大革命以前である。革命の後ナポレオンが出てきて、ジュネーヴがフランスに併合されたり、経営が難しくなったが繊維業やチェリーブランディを作ったりして、危機を凌いだこともあった。一八一九年になって、フランソワ・コンスタンチンという営業に長けた男が入社して社業は安定したという。創業者のジャン・マルク・ヴァシュロンとこの人の名を重ねたのが社名である。 この会社には時計産業史に名が残る技術者にジョルジュ・オーギュスト・レショがいる。一八三九年にバセロンに入ったが共通部品を生産して、性能の一定した時計を作るシステムも完成したことで知られている。この男が工場で働いていた頃のバセロンの工場を見たカール・マルクスは「資本論」の初版で、効率的に機械を持つ工場と褒めているそうである。レショは大量生産時計への足がかりを作った人とされるが、何故かバセロンは、その方向に進まなかった。レショが野心の少ない謙虚な人柄であったせいかもしれない。他社から好待遇の話があっても、一向に応じなかったという。 いずれにしてもバセロンは、高級宝飾時計の道を歩むわけだが、中近東の王族相手の商売が中心になりすぎ、石油が一時不況になった頃に販売に行きづまり、これまでのオーナー、ケッテラー家から友人のヤマニ石油相(オペックの)に売却される。当時は、ティファニー、グッチ、タグ・ホイヤーなどをアラブマネーが買収に走った時代であった。その後、バセロンは、リッシュモングループが入手して、現存の繁栄に至っている。 時計学校の先生の愉快な挑戦 パリの時計学校の先生、ミッシェル・ブーランジェは、先生を一時辞めて手作りの時計に挑戦している。手作りといっても半端でない。中三針、手巻き、トゥールビョンの時計を全ての部品から手作りで製作する。例えば工作機器は、ラ・ショードフォンの時計博物館の昔の旋盤や歯を切る工具を借り出して作る。トゥールビョンのかごを作るのに二ヶ月はかかる。実際やってみると昔のやり方がわかり、どうして伝えていくかも解る。しかもこれを助ける先生は、気鋭の時計師、ロバート・グルーベルとステファン・フォルセィにフィリップ・デュフールの三人。時計業界ではこの三人の名と腕前を知らない人は誰もいない。この人達が全て協力している。設計図だけがコンピューターで、後はみんな手作り。こうすればもっと時計作りの創造性を感じられるだろう。時計を完成するのに、三年かかる。二〇一五年の一月にジュネーブのSIHHで公開されるそうだ。この計画の進行の様子を地元の新聞が伝えている。「何でも知っているとは言わない。その反対だがね。知っていることは誰かに伝えたい。年が経てば、知識もうすれる。それは工業化のせいでもある。クオーツが出て以来、失った技能・知識はもどって来ないとデユフールは言っている。 終わりに、楽しげな催しの話題を。この十一月の十日の日曜日にジュネーブのホテル・ブリストル(名はいかめしいが気軽な中級ホテル)で、十一月三日の日曜日にはラ・ショードフォンの時計博物館で、古い時計や時計文献の市が開催される予告が載っていた。一般人には手が出せない高級アンティークが売り物のサザビーやクリスティの競売は大抵豪華ホテルで開催されるが、こっちのは沢山の屋台を並べての販売で、安くて面白いモノがありそうだ。もう済んでしまっているが、来年はどうも十一月の同じ頃にありそうなのでいってみたい気がする。暇そうに番をしている骨董屋の親父を捕まえて時計談義に耳を傾けるのも一興である。彼らは中々の物知りであり、学者で通りそうなものもいる。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
中国の古くからある諺に「羊頭狗肉」 デカルトは「方法序説」をこう書き始めている。良識は、この世で最も公平に分け与えられているものである。正しく判断し、真と偽りを区別する能力、これこそ本来良識とか理性と呼ばれているものだが、そういう能力が全ての人に生まれつき、平等に具わっていることだ。(谷川多佳子訳)デカルトのように偉大な哲学者でなくとも、普通の日本人なら素直に納得できる考え方である。あるいは、あったというべきかも知れないが。 中国の古くからある諺に「羊頭狗肉」がある。肉屋の看板に高級肉の羊の頭を掲げて、実は犬の肉を売っている行為をからかった言葉だが、現今の偽装食品にも当てはまる。昔から人間は、同じことをやっているが、本能的な良識が働いて、人々はその類の店には行かなかったものである。この肉美味しいね。やっぱり神戸牛かが良識的な反応で、神戸肉といっているから美味しいはずだは、逆転した判断である。食べ物屋さんは、安全で美味しくて値に合ったものを出せば良い。それが出す人、食べる人には共通の良識であった。全ての世界にマーケティング手法が導入される事によって、誰もが殆ど平等に持っている味覚の世界でも、良識による判断が狂わせられるようになってきた。美味しいと思うものは美味しく、まずいと思うものはまずいという主体性が無くなって来た。マーケティングの過熱から、判断力が減少しているくせに、後だし批判ばかりが強い消費者を保護するために、色々な法令が出来る。それをくぐるマーケティングが考案される。いたちごっこである。判断力の方はいよいよ麻痺して、そのうち美味しい肉と美味しいを表示しても、偽装とか何とか言われる時代が来るかもしれない。客観的な正しさを追及するのが法令だからである。人々の判断が法令に基づいているかより、良識に基づいていた昔が懐かしくなるだろう。 この号のF・H誌には、九月に開かれたF・H理事会の報告が出ていて、会長のパッシエさんが、時計をスイス製と表示するには、六〇%以上がスイス製でなければならない法案は議会を通過したが、これをswisness(スイスらしさ)と表示するには二〇一五年以降になるだろうと言っている。それでも四十%は外国で作られたものでいいのだから問題は微妙である。法的な表示はむつかしい。法にふれなければいいとい 考えに人は傾き勝ちになる。 日常生活における贋物とかコピイの存在をよく考えてみれば複雑である。マチスが好きで本物は到底買えないから、よくできたコピイを買って部屋に飾っても、その人の人格は問われない。奥床しさを感じる人もいるだろう。もしオメガの時計が好きで、お金がないからよくできたコピイで我慢して愛用していたらどうだろう。人格どころか、もしも外国で買って帰国時に税関でみつかると、一種の犯罪行為とみなされて破棄を要請される。知的所有権というのは、特許でなくても商標や肖像権ですらも無断借用してもうける側には当然ながら、たとえインチキと知りながら買う側にも、ある種の強制をもたらすようになっている。カラオケ一回うたうにも作曲作詞家になにがしかの著作権が入る。 有名ブランドは、ブランドを確立するために、販売する商品の製造原価に加えて、宣伝・広告、社会奉仕といったイメージ向上に莫大な費用を使っている。だからブランドに箔がつく。安くて良いだけではブランドにならない。この箔をブランドの資本化という、のれん代の形成といってもいいだろう。デビアスというのはありふれたオランダ人の姓だ。その一家が所有していた南アファリカの農場の名称にすぎなかった。その土地でダイアモンドの鉱脈が発見され、のちにそれを買収した鉱山会社がデビアス鉱山と名のならければ、そして半世紀以上にわたって、「ダイアモンド・イズ・フォエバーデビアス」と広告しなければ、単なるオランダの姓にすぎない。デビアス社はこのキャツチフレーズ「ダイアモンドは永遠に」と社名が十分資本化したと判断したから、商品名に使ってるといえる。 ニセモノはブランドの最大の敵とみなされている。F・Hでもニセ物排除を活動の最大目標の一つにしている。今号では、チューリッヒ空港で税関がこの八月にニセモノ九千個、うち時計五千個以上の荷物を押収したことが報じられている。ニセモノによる被害はスイス関係だけで、二千億円、世界中ではその百倍以上とある。ニセモノは、これまでスイスが成し遂げた価値、イノベーション・完全主義、熟練した製造技術を破壊するとまで言っている。買う消費者にも責任がある。買うことによって、ニセモノ作りを助け、スイスブランドの侵犯に手を貸している。又彼等は他の犯罪にも深くかかわっているグループに属していることが多いとF・H誌記者の口調は激しい。写真をみるとヴィトンのバッグ、小物、グッチやフェンディのスカーフ等で日本でみつかるニセモノと変わらない。しかしニセモノのスイス時計をスイスに輸入してどうするだろうか。こんなものを売るモグリの時計屋が市民の監視の目のうるさいスイスに存在するのだろうか。きっと外国からくる観光客に売りつける組織があるのだろう。 今年のガイヤ賞 一ヵ月程前の朝日新聞の日曜版に隔週ごとについてくる付録に一頁にわたって、ラ・ショードフォン市が案内図と共に時計の町として紹介されていた。その町の時計博物館が一九九三年以来、ガイヤ(大地の女神)賞なるものを設けて毎年秋ごとに受賞者を表彰している。技術・学芸・経営の三部門に分かれている。 学芸部門では昨年は、今京大准教授になっているわが友ピエール・ドンゼが選ばれたが、今年はギュンター・エストマン博士、ブレーメン生まれのドイツ人。若い時、時計技術者の修業をしたが、その後ハンブルグ大学で、科学史、美術史を専攻。博士論文は、ストラスブールにある天文時計についての研究。のち航海史に移り、ミュンヘンのドイツ博物館海洋部の研究主任、二○○九年以来、ベルリン大学教授科学史専攻の一方、オーストリアの時計マイスターの技能資格も持っているが、 技術部門では、APのルノー・パピ社の設計部門から独立して、複雑で美しいデザインの時計をモーゼル社やハリー・ウインストン社のために、創造して来たアンドレアス・シュトレーラー。独立時計師アカデミーに二○○一年に参加した時は、最年少会員であった天才肌。 経営部門では懐かしい人の名があった。エルンスト・トムケ。今のスオッチがSMHといったころのCEOを一九八四年から一九九一年まで勤めた人物であり、スオッチを初めて作った人である。SMHを立て直したのは、この人と財務から入ったニコラス・ハイエックの二人といえる。トムケさんとは、バーゼルのパーティで紹介され、握手ぐらいした記憶があるが、大きな人で雲の上の人というオーラの漂っている感じがあった。時計業界に入る前は、英国の大手製薬会社ビーチャムで新薬開発をしていた。あるとき突然SMHを去って、靴のバリー社に行ったという噂を聞いた。ハイエックと衝突したとも聞いた。あの関係者一同から寄せられた絶大な信頼度から見ると、必ず輝ける成功者としてカムバックするかと思っていたが、以降一切噂を聞かなくなった。今回写真で見ると白髪の好々爺になっているので安心したような気になった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ロンドン、ぶらぶらの旅 七月にロンドンを一週間ばかりのんびりしていたのだが、十月になって機会があってまた出かけて行った。若い頃から何度も出かけたし、小さな現地法人も持ったことさえあったが、ロンドンをあまり好きになれなかった。仕事の出張が多く、ゴルフはクラブさえ握ったことがなかったので、今日は本場でプレイだと眼を輝かす同業者たちの心情が分からないせいもある。それに、かっては食べ物が美味しくなかった。そんなことないわよ、家庭料理は美味しかったわと、英国好きの女友達は言ったが、一人旅が多かったので、家庭に入り込む事はなかった。フランス人の友達が、英国の高級レストランへ行くと、料理では、ナイフやフォークや皿を食わされるから用心しろと言った。英国の影響で、明治以来、日本でもテーブルにずらりと食器が並んでいる。フランスでは、一つの料理には一組の食器を出す。英国では、料理が駄目な代わりに、食器が立派だと言うジョークである。確かにアングロサクソン人には、ラテン人と違って食べ物は人を養えば良いと考える面が強い。 スコットランドに行くとハギスという家庭料理がある。一種のソーセージだが、羊の肉や内臓やらを細切れにして、オートミルで繋いだものが詰めてある。これにウイスキーをかけて食べる。現地の有名なホテルで、一種の余興として出されたものを試したが、わが人生でこんな不味い物を食べた事はない。 もう三十年も昔のことだが、ロンドン郊外でよく流行っている店を開いたフランス人のシェフが、英国人の店で下働きをしていた経験を、雑誌に書いていた。その店に来た客が、料理がまずいと抗議すると、その場はつくろっても、客が帰ると、うちの店では何十年来この料理で満足して客は通ってくれる、あの人は変人だから、相手にしないでおこうと、みんなが言ったそうだ。 英国人の一面性が出ていて、おかしかったので、今でも覚えている。しかし、今では時代はすっかり変わった。ロンドン、パリはユーロスターで三時間もかからない。昔は、英国人のシェフは、ドイツ人のプレイボーイと並んで、ジョークの一つであったが、ゴードン・ラムゼイのような三ツ星シェフや、ジェミー。オリヴァーのような人気料理人が英国人にも沢山出てきている。フランス、インド、中華、日本の料理店も異境地のもどき風ではなく、本格的な店もたくさんある。 食べ物が美味しくなったというのも、年とともにロンドンが気に入って来た理由かもしれない。三年前に初めて初めてロンドンに十日ほど居続けた。それまでは大抵長くても三日ぐらいしか滞在した事はなかったのであった。泊まったセント・ジェームズ地区の「デューク」というホテルが、こじんまりして大袈裟なところがなく、実に居心地が良かったせいもある。財布が許す限りは、ここに泊まりたいと思わせるホテルであった。この地区も良い。例えば東京の人は、銀座、浅草、新宿、麻布などと聞けば、どんなところか頭の中で想像がつくだろう。パリの地区は、問題ない、一区から二十区まであって、性格がはっきりしている。十六区に住んでいると聞けば、ブルジョワだなと人は直感する。ヴェニスのような小さな町でも、カレナッジオとか、サンマルコとかリアリルトとか、地区地区に性格がある。大阪でも西も東も分からなくとも、キタとミナミの判別は三日おればすぐにつく。ロンドンでもメイフェアー、ソーホー、ブルームスベリー、チェルシーなどと知ってくると楽しくなる。あの二階建ての赤バスにも、乗りやすくなる。地区の名を言えば運転手が行くかどうかを即答してくれる。タクシーは言うまでもない。 この七月も「デュークスホテル」に泊まった。ホテルのような外観をしていない路地の奥まったところにある集合住宅みたいなホテル。通りにでると、高級なワイン商「ベリー・ラッツ兄弟社」やら、高価な葉巻屋とか、狩猟具を売る英国らしい店が並んでいる。画商も多い。少し歩いてピカデリーの大通りに出ると、ロイヤルアカデミーがある。美術学校の一種だが、いろんな企画展をやっている。この美術館の中にミケランジェロの円形浅浮彫の傑作「聖母子像」が廊下の奥にポツンと壁面にかけられている。この聖母の愁いに満ちた横顔の美しいこと。大和中宮寺の如意輪観音像と同様、いつまで見ても見飽きない。入場料はない。朝コーヒーを飲みに外へ出て、この聖母に連日のように会いに行く。 何の確たる目的もなく散歩したり、バスに乗ったり、食べ物の屋に入ったりしていると、ロンドンが益々好きになってくる。「ロンドンに飽きた人は、人生に飽きた人です。人生の楽しみが、全てロンドンにあるからです」という十八世紀の文人、サミュエル・ジョンソンの言葉が本当らしく感じられてきだしたみたい。 ロンドン塔でのディナー 今回の主目的は、ロンドンのデビアス社、つまりフォーエバーマーク社へ訪問する私の会社のプロモーションに随行する為だった。社長のスティヴン・ルシア氏は、往年のカラットクラブ以来の旧知であり、私たちと同行してくださった得意先を実に親しく迎えてくれた。デビアス社と同じ敷地にある宿舎も、二泊提供してもらった。セキュリティの完璧な素晴らしいホテルだが、主として年に十回、五週間おきに来るサイトホルダーたちの宿泊施設だったが、そのサイトもこの十一月からボツワナで行なわれるようになっている。 半日、デビアスの役員、特別役員室でルシア社長自身が、フォーエバーマーク戦略と状況説明をパワーポイントで説明してくれた。 以前まだ世界中のダイヤ原石を独占していた頃のデビアス社は、業者からは一面からの批判はあったもののダイヤモンド業全体の繁栄が、これに携わる人々の個々の利益に繋がると考えていた。この考えは、フォーエバーマークにも生きている。デビアスとLVMHの合弁であるデビアスブランドの小売網は、高級品のニッチマーケットに過ぎない。やっぱり、バター&ブレッドは、フォーエバーマークの価格帯と品質にある。フォーエバーマークを取り扱う、いわゆるパイプラインの全員、特に小売店が正当な利益を確保できる戦略を構築するという話であった。全てのパイプラインを全部自社のものにするフランス式の独裁統治法ナポレオン式と分割独立統治の英国植民地式の対立が面白い。後者に頼るしか我々の生きる道はない。 夏目漱石の初期の作品に「倫教塔」がある。ロンドン塔案内記だが、今読んでもその学識と苦いユーモアに感心する。ロンドン塔は宮殿よりも牢獄として長く使われたから、この文章でも陰惨な印象を受ける。近年改修につぐ、改修で、観光客向けにすっかり明るく整備されている。フォーエバーマーク社の配慮で閉城した後、夜間に我々十人だけのため、特別に開けてもらった。勿論我々を警護するのは赤い昔の制服の番兵「ビーフイーター」である。見張りといっているが、我々の監視もこっそり兼ねているのだろう。まずは待ち時間、普段は二時間というクラウン・ジュエリー室を見る。六百カラットのカリナンダイヤやコイヌール・ダイヤをゆっくり眺める。宝石好きには、至福の時間であった。英王室が所有するダイヤ、サファイア、ルビ、エメラルドが一堂に会している。 その後、城内一隅のクィーンズ・ハウスという女王の部屋で一応私達夫婦が主人となって、晩餐会を催した。女王の部屋といっても、フランス式金ぴかではない、趣味の良い老人のお金持ちの住居みたい。英国料理が上手いとかまずいとは言ってられない。私たちの先祖が集めてくれた宝飾品は一見の価値はありましたかな、では、このあたりでお食事にいたしましょうという気持ちになる。今までの生涯で一番優雅な晩餐会であった。妻も一夜だけの女王陛下の気分を味わったに違いない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
スイスの時計産業のマニファクチュール 先日朝日新聞にセイコーの一頁広告が掲載されていた。その中の文言に「私達は日本のマニファクチュールです」という胸を張ったような表現があった。若いコピーライターが書いたものと思われるが、少し異和感を持ったので、スイスの時計産業のマニファクチュールという言葉について考えたい。 この言葉は、手(MANU)と作ること(FACTURE)が一緒になって、手で作ることが元もとの意味である。資本主義の生産様式の最初の発展段階が、マニファクチュールすなわち工場制手工業と呼ばれた事は、経済学初歩の教科書でおなじみである。 スイスの時計には二つの製造方式がある。一つは、一つの工場で一貫生産をするマニファクチュールであり、もう一つは、部品をあちこちから買い集めて来て、完成品にするエタブリサール様式である。スイスの時計を始めて勉強する人は、こう習う。日本的感覚から言うと、一貫生産している方が格が上で、マニファクチュールの代表のパテック・フィリップやロレックス、オメガが挙げられるので、いよいよそう思う。しかし必ずしもそうばかりとは言えない。いろんな部品メーカーと相談して、部品を作ってもらい、自分自身の設計による時計を造り上げる天才的な時計師が輩出して来たことが、今のスイス時計に繁栄をもたらしている。 日本の時計製造業は、形態から言ってみんな始めから一貫生産のマニファクチュールである。セイコーが、スイス流にマニファクチュールであると威張るまでもない。 もしも部品を買って来て組み立てて売るエタブリサールが格下というなら、研究開発は別として、部品製造は全部下請けに任せ、カンバン方式で車を作っているトヨタは、典型的なエタブリサールである。これはマニファクチュールの更に発展した形式ともいえる。 ジャガー・ルクルト社の百八十年 今号のFH誌では、創業百八十年を祝う表裏を使う腕時計レヴェルソやアトモスクロックで知られるジャガー・ルクルトのことが大きく取上げられている。ピニオン歯車を切り出す装置を発明したアントアーヌ・ルクルトがアトリエを設立したのは、一八三三年であった。これは日本の天保四年に当る。欧州では英国から始った、工場制手工業(マニファクチュール)から機械を使用した工場へ移行する産業革命がほぼ仕上がる時代といってよい。アントアーヌは発明家で、時計に関して百に近い特許を得ている。このアトリエのあったヴァレ・ド・ジュはあちらこちらに時計工場がある地方だが、山の中の田舎である。冬は雪に覆われて、家の中で作業するしかない。でも一八三三年には、従業員が五百名を越し、人々からグランド・メゾンと呼ばれるようになっていた。グランド・メゾンとは、ビッグ・ハウスの意味で、単に大きな家だが、大店(おおだな)というニュアンスもある。語感にある種の尊敬の念がこもっている。これも青いコピーライターが好みそうな舶来表現。 ルクルトル家というのは、フランスからカルヴァンの比護を求めてジュネーヴへ亡命してきた典型的な新教徒の一族であった。その後一族は新天地を求め一種の開拓民としてヴァレード・ジュに住みつき、今の工場があるル・サンチェ村を建設している。一六一二年というから、徳川家康の頃である。アントアーヌはその十代目に当るが幼い頃から発明の才に恵まれており、鍛冶屋で奉公している時に、新しい合金を作り、オルゴールの金属板やら、髭剃り刃に役立てている。当時は沢山の人々が、自宅で時計業に従事していたが、その中には兼業農家も多かった。自宅で時計の部品を作り、それを集めてまた自宅みたいなところで時計に組み上げ、これを売る専門の人々のところに持っていって買ってもらうのが、当時の業界であった。後に時計業界に転身したアントアーヌが、人々を一つ屋根の元に集めて、一貫生産のマニファクチュール形式を取るようにした。こうすれば個別でバラバラな知識や技術が共通化されるし、技能も向上し、能率も上がる。一八六〇年から一九〇〇年までの四十年間でなんと三五〇種のキャリバーを作っている。 一九〇三年にフランス海軍の為にパリでマリン・クロノメーターを作っていたエドモン・ジャガーが、超薄型の時計(勿論、懐中型で腕時計は出現していない)を設計したので、これを作る工場を探しているという噂を、アントアーヌの孫のジャック・ダヴィッドが聞きつけて、協力する事になる。その第一号が、厚さ一・三八_という世界で一番薄いムーヴメントであった。ジャガー・ルクルト社の始まりである。 FH誌には書いてないが、この会社も順調に繁栄してきた訳ではない。クォーツ開発を手掛けたりして、財政難に陥り、ドイツの車部品会社VDOに一九七八年に身売りしている。VDOは、自動車用クロックを作っていたせいか、ジャガー・ルクルト・インターナショナル、それにドイツのランゲ・ウント・ゾーネが一つのグループをなしていたが、これを纏めて買いして、ドイツの鉄鋼大手のマンネスマンに転売している。そのマンネスマンが、英国の電話会社ヴォーダーフォンの傘下に入り、集中と選択というわけで、時計部門は売りに出された。二〇〇一年にそれを買ったのがカルチェのリッシュモングループであった。確かこの三社合わせても年商が三百億円ぐらいだったのに、二千八百億円が支払われたと記憶している。私の会社もそれ以上の売り上げがあったので、誰か三千億円で買ってくれないかなぁ、六百人いた社員全員に四億円の退職金を払っても、お釣りがくると冗談を言った想い出がある。そのぐらい巨額であったが、その後十三年たって、この三ブランドの発展を見る時、リッシュモン社の経営能力と先見の明には脱帽せざるえない。 それにしても代替わりしたのにもかかわらず、創業何年かを祝うのは、やっぱり商業主義かなとも、万世一系の天皇家を持つ日本国民として思ってしまう。京都へ行くと、細々ながら二百年以上続く商家は沢山ある。養子を取ってでも血を繋がせる努力をする。あのお家は代が替わりましたなと他人に言わせないようにする。トヨタの社長が豊田さんであること、セイコーの社長が服部さんであることが、何となく嬉しいのは、日本的心情かな。 モバードの新社屋 モバードもスイスの名門であったが、アメリカの会社に買い取られている。買い取った会社は当時、ノース・アメリカン・ウオッチ社で、今のモバード・グループ(MGI)に改名している。この会社のオーナーであったジェリー・グリーンバーグさんとは本当に親しかった。二、三年前に亡くなられたが、キューバ革命で無一文でアメリカに逃れてきて、一代で財をなしたラツ腕のユダヤ人実業家という評判だったが、会って見ると、気配りのある地味だが度量の大きい、温かい人柄だった。この九月の九日にビエンヌに二つのビル、製造のファクトリーワンと管理のシルバータワーを作り、二百人の従業員を配し,欧米中東市場を強化すると今号のFH誌にあった。このグループは、モバード、コンコルド、エベルその他トミィ・ヒルフィガー、コーチといったライセンスブランドを擁している。日本は、私の会社の力不足でやや情けない販売結果だが、おめでとうと地下に眠るグリーンバーグさんに言ってあげたい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
エベレストの登頂は、会社の経営と同じ もう亡くなってから、かなりの歳月が経つが、西堀栄三郎という偉い学者がいた。東芝で最初は技術者として働いていたが、後に大学の先生になった。産業能率の向上が専門であったが、知識が広汎で、日本で最初の南極越冬隊隊長にも選ばれている。登山家でもあって、ヒマラヤ登山の隊長としても難しいとされた山頂征服に成功している。当時はエドモンド・ヒラリーが、エベレストの初登頂に成功して、世界中を興奮させた余韻がまだ残っていて、今のように簡単に高峰に登れない時代であった。西堀さんの講演をその頃聴く機会があって、こんな事を言われたことがある。 西欧人は、個人プレーを大切にする。あの山を登るのは俺だという気分が強い。人々もそれを認める。ヒラリーにしても、自分が初めて登ったという事実を歴史にとどめておきたいという気持ちが強かっただろう。しかし、ヒマラヤ高山の征服は一人で出来るものではない。麓にキャンプを張って、荷物を運び、案内をするシェルパや交渉係や観測係やら飯炊きまで必要である。隊長としての私の目的は、登頂の成功にある。私が登るのではなく、隊員全体が登るのである。もしも山頂に日章旗が翻るなら、ふもとの炊事番まで登頂に成功した事になる。この考えを徹底して始めから 隊長として全員に吹き込んできた。 バブルが来る前の時代の話だが、会社経営のコツは、これだと思って私も努力してきた。目標を掲げて全員に達成を呼びかけるのが会社の経営だと信じていた。日本の産業発展は、このパターンで殆ど成し遂げられてきたといってよい。会社の目的と個人の目的が一致する部分が大きいほど、愛社精神は強くなる。創業者の強さは、会社の目的、イコール自分の生活であることに出てくる。 この号に「若き時計師たち」という記事が出ている。今年の春に、ジラール・ペルゴー社が、自社の新入技術者たちを、ニューヨークとか、シドニーの街頭に送って、時計技術のデモンストレーションをした。一種の宣伝行為だが、有名人に自社製品をつけさせて、見せびらかすより、社会的に有用だろう。選ばれた若者たちを励ますのに大いに役立ち、時計技術者になりたくなる人間も見物人の中から出るかもしれない。面白いのは、ジラール・ペルゴー社が参加した二人づつの若者男女の生活ぶりを個人名で紹介した小冊子(電子メール版もあるwww.thenewfaceoftradition.com)を発行している。自社の技術者の私生活を本名で、まるで映画スターの私生活を取り扱うように公表する感覚が,やっぱり個人中心の西欧かなと思う。 全員の分を紹介すると長くなるので、その中の一人アンヌの生活を紹介しよう。アンヌは子供の頃から、本好きで、図書館から一杯本を抱えて帰ってくる光景に憧れていた。本は他の世界、他の生活に繋がるドアと母親はいつもアンヌに言っていた。本は秘密の場所に繋がるドアというイメージに、子供のアンヌはすっかり魅了される。困った時には、大人になっても本は逃げ場を見つける。読書すると、いつもその本の中に心の琴線に触れるものがある。ある日、古い図書館で「誰が私のチーズをかじってしまったのか」という本を見つけた。美味しいチーズがなくなって失望したネズミ達は、新しいのが勝手に出てくるのを待っているより、自分達で探しにいく旅に出発する話だった。丁度生き方に不満を持っていたときだったので、何かもっと良い仕事の口が来ないかと待つより直ぐそこにある仕事に就こうと決心した。その一、二週間後、雑誌をめくって見ていると、ジラール・ペルゴー社の募集記事が目に付いて、早速電話して募集に応じる事にした。母親が言ったように、読書は新しいドアを開いてくれた。 アンヌの性格は、誠実、自然体、スポーツ好き、時に辛らつ。時計技術者でなければ今頃は、何をしているかという質問には、バックパッカーで世界一周中と答えている。好きなジラール・ペルゴーの時計は、一九四五年のヴィンテージもの「ル・コルビュジェ・マルセーユ」という。どんな時計か見当がつかないが、ラ・ショードフォン生まれの世界的な建築家が南仏マルセーユに有名な集合住宅を建築している。それにちなんで作られた時計だろう。 マクシミリアン・ビュツサー ロンドンの高級宝飾時計店の立ち並ぶボンドストリートを歩いていたら、MB&Fというブランドの時計がウインドウに並んでいた。まるで水道のメーターのような大きさで、時計というよりは計器の集合体みたいである。私のように古い二針のごくシンプルなパティック・フィリップに魅力を感じる人間には、どうしても時計とは思えないところが前衛的な時計愛好家には大人気のようである。MB&Fとは、マクシミリアン・ビュツサーとそのフレンド達の英文頭文字のことだそうだ。フレンドとは、時計作りの協力者という意味らしい。 創業者のマクシミリアンに関する新聞記事が転載されている。まずこんな時計、誰が買うのかと思うが実績を見ると、昨年はこれまでで一番売れた年で、年間ニ百ニ十ニ個、千二百三千万フラン(十二億円)であった。八年前にはじめた時に、千五百万フランぐらいの売上げを狙っていたので、今年は年間二百六十個は売れるとみているので、その数字はいくとマクシミリアンは考えている。 ジュネーヴ生まれのマクシミリアンは、本年四十六歳、写真で見るといかにも気鋭の技術者らしい、ハンサムかつ良い面構えである。彼は云う。年率十%増ぐらいの成長は期してはいるが、そっちのほうはさして重要ではない。 重要なのは知名度を上げる事にある。人気を高めて前もって注文をもらうことにある。現在でも受注残が四百三十個、二千百万フランある。二〇〇五年の創業以来、九百個が売れ、百六十個が買手を待っている。本体在庫回転率は、年一回。マクシミリアンは、以前にジャガールクルトで仕事を、ハリー・ウィンストンをダイヤモンドの世界だけでなく、時計の分野でも超一流に短期間で仕立てたことでも知られている。 長年にわたって高級時計の序列は決っていた。御三家といわれたパテック、AP、バセロンが機械時計の頂点といわれていた。ところがそこに参入したのが、フランクミュラーであった。一度壁に穴があくと、P・F・ジュヌルとか、シルヴェスタインとか若く新しいブランドやスタイルを求める富裕層の要望に沿う時計が出てくるようになった。こうした人は、いくら技術の才能に恵まれていても、以前なら大きな工場の中でしか、働き場がなかったし、たとえ独立しても限られたサークルの中で、細々とやっていくしかなかったであろう。ところが多くの人が時計に興味を示すようになって、かつ情報手段の発達によって、自分が創り出す技術の軽業的な時計には買手があると自信を持つ世代が現れるようになった。スイス全体の時計造りのネットワーク、いわゆる友達群の発展の助けもあっただろう。マクシミリアンもそうだし、この号で紹介されている、MHC(高級雑貨時計製造)のピエール・ファーブルもそうである。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ブランドについてのお話 ブランドとは、元々は元々焼いた木のことで、それで家畜に焼印を付けた所から、商標という言葉に転用された。良い意味も悪い意味もなくて、単なる身分証明に過ぎなかった。それが近年になって、肯定的な意味合いを持つようになった。あいつはブランドだよというと、氏素性が良いとか、立派な人物といった方に使われる。 神戸牛とか、関鯖なども地名がブランド化している。俺は江戸っ子だと言うのも一種のブランドである。江戸生まれといったって、千差万別色んな人間がいるだろうが、江戸っ子というのは、宵越しの金は使わない、気っぷの良い人間を指す事になっている。江戸っ子がそのようなものと世間からの認知が得られるまでには、長い時間と文化的な背景がなくてはならない。 ニューヨークでアメリカ人に「アイ・アム・ア・チャイルド・オブ・エド」と言ったところで何のことやら通じない。加茂川の水で産湯を使ったと言うと、京美人だなと関西人ないしは東京人は見当が着くだろうが、東北の人にはぴんと来ないだろう。ここで東京人を入れたのは、天皇家の御実家は、千年以上京都にあったからである。明治天皇の産湯も、加茂川の水ではある。そこでブランドがブランドであるためには、出来るだけ知られる地域が広い方が有利で、地球上すべてと言うのが理想である。 工業製品のブランド 現在の言葉のブランド認識というのは、最初は土地の名産品として地域名を結び付けていた。練馬の大根と言う段階から始って、信州の馬(西ではなくて生きている馬)や西陣の織物、関や堺の刃物等。ボルドーの赤ワイン、ドイツのゾリンゲンの刃物、フィレンツェの金細工、スイスの時計も入るだろう。名物に旨い物はないなしと言うように、必ずしも名産品の全てが優れているわけではない。包括的な連想を呼ぶに過ぎない。懐中時計が時計だった頃のスイスでは、文字板に名前がないものが、市場にたくさん出回っていた。スイス製と言われて、購買者はとりあえず産地を信用して性能を買ったのであろう。個性の主張と製造者責任の現代では、名無しの製品は全く売られていない。トマトやキャベツでさえ産地どころか、作った人の名が記されている時代である。品質に安心感を与える為であろう。 人々が性能を利用する為にものを買う場合は、やっぱりトヨタとか、パナソニックとか日立、あるいはセイコー、シチズンといった名前に頼る。勇気ある人は、販売員の勧めを信じて、安くてしかも気に入った製品を選ぶ。音響製品の一般品を必要に迫られて購入し、ソニーにした方が良かったかな、安かったけれどと心のどこかで思う人は多いだろう。それは、こういったメーカーがブランドを品質の精神的な保証として、ブランドを確立しているからである。昔、ロールス・ロイスは、アフリカの砂漠の真ん中で故障しても修理工が部品をもって飛んでくると言う神話があった。サハラ砂漠を横断する為に、ロールス・ロイスを注文する人がいたかどうかは知らない。しかし、品質保証の裏打ちがあって、この神話が成り立つのだろう。だが、そのロールス・ロイスたるや、今や名前をBMWが買収してBMWが製造している。BMWは、ロールスの高品質の車を作る製造能力を買ったのではなくて、輝かしい名前、つまりブランドを買ったのである。このあたりから私のブランド観の本論に入る。 ファション・ブランドについて いろんな学者の書いたブランド論を読んで見ても、これまで納得のいく本にあったことがない。というのは、品質保証としてのブランドをを扱っているからである。時計や宝飾の主流を占めつつある私達に関係深いブランドは、原則的に品質と価格のバランスを保証するという立脚点に立っていないからである。 人々は、モノを買う時には、合理的に振舞うはずである。例えば同じ品質のものがあるとすれば、必ず安いほうに手を出す。ところが、これが化粧品だったらどうするか。人は同じクリームでも、安いほうを選ぶとは限らない。高い方が売れると言う説もある。昔主婦連合会という生活を守ろうとする団体があって、(今でも存在するかは定かでない)「ちふれ」という超安価の化粧品を販売したことがあった。ところがさっぱり売れず大失敗であった。いまデパートの一階の化粧品売り場に行くと目の玉が飛び出るような値のコスメが売られている。それぞれのブランドが繁栄しているように見える。TVの通販でも多くは女性のための若く、美しく見える化粧品、薬、運動器の販売である。果たして払った金額に相応しい効果があるのかどうか、男性老人の私には解らない。ただ経済の単純な原則があまり通用しない分野である。 日常生活に必要不可欠な消費以外は、一応ファション的消費といってよい。現代の消費生活が大部分この要素で成り立っている。消費マーケティングの目的は、人々が現実に必要とするものを作ることにあった。今やそれが精神的に必要とするものを作る事になっている。欲しがらせないとモノは売れない。面白いとか、夢があるとか、カッコが良いとか、持ってないと恥ずかしいとか、便利のように見えるとか、必要性以外のところで、架空の必要性を作り出すことで市場は消費を生み出そうとせざるを得ない。欲望の刺激と言う店でブランドが果たしている役割は大きい。 ファションブランドの成立はそう古くない。シャネルもエルメスも名は知れていたが、一部の富裕層階級が愛好したブランドだったに過ぎない。始まりは恐らくピエール・カルダンあたりからであろう。ブランドの持つ魔力にいち早く気づいたのがカルダンだったと言ってもいい。カルダンは天才的なデザイナーではあったが、ブランドマーケティングについて特有な勘を持つていた。カルダンの名をつければ服だけでなく、タオルだってフロアマットだって、スリッパだって飛ぶように売れた。日本の社会では、贈答品は一流デパートの包装紙であったが、それがブランドに代わる契機となった。前の東京オリンピックの頃である。モノに、モノの用以外のシンボル性を与えたのである。 宝石や時計(かっては必需品だったが携帯電話の出現で不用品となった)は、モノの本質的な要素で売れるより、シンボル性の強い商品である。シンボル性は、品質が高く、高価なものほど強く、安価なものほど弱い。悪貨は良貨を駆逐するというグレシャムの法則は、私たちの業界にも通用する。例えば素材として使われるダイヤモンドや真珠の例をみても明らかである。ブランドが、悪貨をカバーすることなく、良貨を高める役を果たす事に期待したい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
スイス人は働き者だが、それでも夏は二、三週間の休暇を取る。 夏の終わりに、今年もセイコーエプソンのご好意で、松本のサイトウキネン音楽祭に行くことが出来た。指揮者としての小澤征爾さんの復帰が期待されていたせいか、入場券の入手が例年以上困難だったようである。行った日の演目は、ラヴェルの一幕物の短いオペラ二つ。小沢さんがタクトを振ったのは、腕白小僧が、いじめた動物、キズをつけた家具、破った本などのお化けに復讐されて、良い子になることを誓うと言う夢幻劇「子供の魔法」。舞台装置が豪華かつ幻想的で素晴らしかった。 もう一つは、別の人の指揮で、「スペインの時」。題からは、スペイン情緒豊かな、これまた幻想劇を想像するが、時計屋さんの店頭で繰り広げられるお色気芝居。好人物の時計屋と浮気な女房の物語。フランスの典型的な女房を寝取られる亭主(コキュ)の粋なエロチック・コメディで、初日は天皇、皇后両殿下も観劇されたと聞いて、流石最近は宮内庁も開けてきたと思っていた。あとで新聞を見るとはじめの「子供と魔法」だけで帰られたようだ。作曲者ラヴェルは、「ボレロ」で有名だが、父親は、スイス人の機械技師で時計に愛着を持っていたという。 松本に行くと、いつも市中にありながら、ひなびている美ヶ原温泉に宿を取る。 今年は思い切って、このふもとの温泉地から、標高二千米の美ヶ原高原へ車で小一時間かけてのぼってみた。頂上の美術館と売店のテラスからの眺望は見事である。息を吸うとスイスの香りがする。空気が甘く爽やかだ。それにしても今年の夏は暑かった。スイスでひと夏を過ごせたら、とどんなに考えたことか。生涯でたった一度だけど、学生の頃、ルッツェルン郊外の湖畔の丘にあるメッゲンという村で夏休みの日々を過ごしたことがある。あの楽しい情景は、五十年経った今でも忘れない。美ヶ原高原の空気を吸ってスイスの夏の空を思い、今年の酷暑が去り行く安堵感を得ることが出来た。 日本では四月が新学期で、桜を連想するが、ヨーロッパは、夏休みが終わって九月から新学期になる。黄葉の頃となる。 新学期は、フランス語でラントレ(帰国・帰宅)というが、この「お帰りなさい」という語感が、いかにも長い休みから日常生活に戻る感じが出ている。スイス人は働き者で、フランス人みたいに休みたがらないが、それでも夏は、二、三週間の休暇を取る。事業所全体が休業するところが多い。FH誌も夏休みで一ヶ月二号分は休刊である。今号のFH誌の巻頭でも、二、三週間の夏休みに、皆さん十分な休養をとり充電されましたかという編集長のヴィユミエ女史の挨拶が載っている。スイスの夏は、あんなに過ごしやすいから、働いても苦にならないだろうにと考えるのは、休暇における永遠の貧困民族、日本人の属性かもしれない。 この号には、ジュラ地方のボエシェという小さな田舎の鉄道駅横に「農民時計作りの家」という新しいミュージアムが、この七月八日に開館した地方紙のニュースが掲載されている。標高千米のジュラ地方は,冬が長い。農民たちは、冬になるとすることがない。家にこもって出来る作業の時計作りがだんだん盛んになり、1750年頃から始って、その伝統は、1970年頃まで続いている。近くにレボワという村があるが、百年前は、人口千人のうち六百人が年に二万個から三万個の時計を作っていたと言う。一人ないしは家族の仕事であった。こういった集落があちこちにあったことがスイス時計産業の基礎になっている。冬の時計作りの為に、農家には南側に沢山の明り取りの為の窓があるのが特徴である。昔は、窓の数によって税金を課せられていたが、標高千米以上の農家には免税であったという。そういった農村社会の状況を保存する為に作られた一種の民族博物館で、作られた時計を展示するところではないらしい。創ったのはサッカーの有名選手だったジャッキー・エピトーで、約一億円をかけて、元の農家を改装している。九十平米の展示場だけでなく、五室のホテル、腕の良いシェフのいるレストラン(三十席)にカフェもある。 ジュラ州からも一千万円という補助金が出ている。何となく行ってみたくなるが、年間に二、三千人の来訪者が期待されているようである。ネットで見たい方は(www.paysan-horleger.ch.)でどうぞ。 そういえば松本にも市中目抜きどうりに市営の時計博物館がある。良く纏っていて、一見の価値はある。この夏は諏訪にある小さな時計博物館「儀象堂」へ初めて行ってみたが、諏訪大社秋宮の旧中仙道に面して、目立たないのが悔しい施設である。庭園に復元されている大きな十一世紀、北宗の首都、開封にあったという天文時計台が素晴らしい。高さ七、八米はありそうな巨大なものだが、学術的・審美的な労作で、上野の国立博物館に置かれてしかるべきものだろう。 スイスへ行くと、パテック・フィリップの時計博物館をはじめ、オメガ、ロンジンも自前のを持っている。ロレックスも公開していないがジュネーブ伝統の七宝時計の収集は、国宝クラスがずらりという感がある。時計博物館の時計マーケティングにおける重要性は益々高まっていくだろう。東京・向島のセイコーミュージアムの発展も期待したい。 本年上半期のスイス時計の輸出状況 今年の前半六ヶ月のスイスからの時計輸出統計が出ている。驚異的だったここ数年の伸張率に比べ、0.8%の前年同期比増だが、FHは高止まりと楽観姿勢を崩していない。七月に入ってまた二・二%と伸びている。 別表に上半期輸出国別ベスト十五ブランドを上げておく。数字ついでに、これは昨年一年だが、スイス・クロノメーター協会が認定したクロノメーターの数が出ていたので、これもベスト15を表にしてあげておく。日本では知らないブランドが出ているので興味深い。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) 表1 スイス時計の対輸出国ベスト15(2013年) 金額(百万フラン) 前年比増減 @ 香港 1,934,9 −11.1% A アメリカ 1,085,8 +1.1% B 中国 667,7 −18.7% C ドイツ 607,9 +12.9% D イタリー 576.6% +7,6% E フランス 555,8 −9.7% F シンガポール 525,9 −2.6% G 日本 523,2 +3.7% H アラブ首長国 482,9 +19.4% I 英国 433,8 +28.4% J 韓国 237,7 +5.6% K 台湾 228,1 −4.1% L スペイン 199,9 +19.0% M サウディアラビア 182,8 +13.0 N タイ 132,2 −2.0 表2 スイスクロノメーター協会認定、千個以上のブランドと数量 ▽ロレックス:798,935、▽オメガ:526,046、▽ブライトリング:156,333、▽ミドー:61,358、▽ティソ:49,625、▽パネライ:28,747、▽ショパール:22,679、▽エニカ:15,519、▽ティトニー:15,090、▽インヴィクタ:9,658、▽ボール:8,580、▽エルネスト・ボレル:8,505、▽ユリス・ナルダン:8,262、▽ロジェ・デュヴイ:3,349、▽コルム:3,071、▽タグ・ホイヤー:2,605、▽ローマ:1,909、▽ラドー:1,650、▽ブレモン:1,476、▽ノルマナ:1,204。 認定総計:1,732,526個、6,7%増。 |
|
|||
FHの年次総会 前年に引き続いて輸出が好調 FHの年次総会が去る6月27日、ビエンヌで開催されている。会員数の現状は、昨年と変わりなく501社で、うち正会員293社プラス下請けの準会員208社。100社以上が出席して、その模様が掲載されている。 FHの大きな目標は、勿論スイス時計産業の発展で、2012年は前年に引き続いて輸出が好調で、総額二百十四億フラン(二兆二千億円)、前年比10・9%増であった。但し、個数では2%ほど減少して2910万個。こうした成果は、会員各自の企業努力によるもので、FHは側面的に何をしているかといえば、大体三つの仕事に集約される。ひとつは、世界各国とスイス政府の協力を得て交渉し、関税その他、輸出環境をスイスに有利に整えること。昨年度は、香港、モンテネグロ、ウクライナとの新しい法律改定の具体的な局面に入っている。その他、中国、インドインドネシア、ロシアなど16カ国とも交渉中である。 もうひとつの案件は、全体価格の60%以上が国内生産のものをスイス製とする法案をスイス連邦議会に認めさせることであったが、六年間のFHの努力によって、やっと可決された。 三つ目は、世界中のニセモノ退治で、ドイツやイタリアでニセモノ作りのアジトを官憲の協力を得て襲った事は、以前、この稿でも書いた。アメリカに多いネット上のニセモノ販売であるが、117のドメインを突きとめ警告を発した。昨年は、ベルン大学の協力を得て、ネット上のニセモノ販売を自動的に突き止めるシステムを開発した。 以上のような報告が総会席上で会長のパッシェさんからなされた。 こういった協会の年次総会は退屈なものだろうが、それでも日本人の私には羨ましい気がしてならない。というのはスイスも日本同様通商国家であるが、官民の協力が密接なところである。私自身、中小企業の成員からなる協同組合や協会の理事長をいくつか経験しているが、お役所が親身になって、当方の言い分を聞いてくれた記憶がないからである。お役所はトヨタとか日立という大企業とは、すぐに協力するが、名もなき中小企業は、相手にすると食い物にされるのではないかという用心の表情がいつもお役所側に見られる。そこで中小企業相手の支援対策は、全体的なものになって、個別的な分野に入ってこない。低金利の融資制度とか、立派な名目の小額なばら撒き助成金となる。中小企業における官民の協力は、日本ではまだまだという気がする。「私は忙しいのだからね。貴方の業界だけに構ってられないよ」というお役所の態度に苛立ったものであった。役所を動かすには政治だが、村会議員まで含めて、政治家は献金に繋がるか、票に繋がるか、あるいは人気取りになるのかがないと動かない。お役人は「官民が協力することが必要で、その覚悟でやっている」と会合では挨拶するが、それは口先だけのこと。第一言葉の使い方が間違っている。「民官の協力」が正しい。 ヴォーシェ社のこと かって色んなムーヴメントの基礎となる地板を作るエボーシュ社は、スイス時計産業の網元みたいなものであった。スイス国内にいくつかの工場を持ち、その中でもETAの工場が一番大きかった。エボーシュとは何を意味するかというと、地板だけでなく、ブリッジ、香箱、輪列、巻き上げ機構までを含む、殆ど時計の原型のことである。小さなメーカーはコレを買って来て、ゼンマイ、脱進器、テンプ、留め石ケース等の部品を別に調達して、時計として完成させる。エボーシュを最新設備の工場から買い取れる事が、エタブリサール時計工場の生命源であった。 ETAの場合でもエボーシュだけでなく、そのうちに、ケースと文字板さへつければいい完成したムーヴメントを作るようになっていた。それが色々な変転があってスウォッチの傘下になった。スウォッチとしては、オメガやロンジンといった自社所有のブランドに使うすぐれたムーヴメントを競争相手のブランドに売らなくてはならないのが面白くない。そこで十年ほど前に、今すぐとは言わないが将来的には、他社にはムーヴメントの供給はしないと明言した。これは一種の恐慌状況をスイスの時計産業にもたらしたが、独立系のムーヴメント製造会社の設立や発展を促したと言ってもよい。FH誌に広告の出ているロンダ社とか、トゥールビョンまで作れるMHVJ(ヴァレ・ド・ジュー時計製造工場)がその代表的な会社だろう。 その一つがヴォーシェ社である。前身は1950年生まれの天才時計師と呼ばれるミッシェル・パルミジァーノの時計ムーヴメント製造工場であった。自分のブランド、パルミジァーノの販売だけでは、工場の生産に追いつかなかったので、他社にもムーヴメントを供給し始めた。 パルミジァーノは、企業家というより、時計技術を高めるほうに多くの興味を示す生粋の職人タイプのようだ。1990年に自社株の大半をサントス財団に売却する。今でも大株主は財団だがエルメスも25%の株主となっている。エルメスが優れた機械式時計を作るようになったのはヴォーシェ社との関係が始ってからである。 ムーヴメント製造のヴォーシェ社(2003年にこの名で設立)が中心となり、文字板やケース、脱進器などと、時計として完成させるために必要な部品を作るメーカー4社とグループを作り、高級時計を少量でも売り出すようになった。5つのタイプを当面売り出すが、最低受注量は25個である。ヴォーシェ・プライベート・レベルという会社が経営する。この取材記事がFH誌主筆のジャニーヌ・ヴィユミエ女史の名で今号に多くの写真と共に載っている。フルーリエにあるムーブメントの主力工場の写真を見ても、一部に三階建てのこじんまりした工場で、全く威圧感がない。 文字盤の世界でも系列化が進んでいて、スウォッチグループは、ルバテッテル・アンド・ウェイヤーマン社を含め三社を傘下に持っている。ロレックスはシュテルン社、ブルガリはカドラン・デザイン社、タグ・ホイヤーはアルトカッド社、エルメスはナトベール社を系列にしている。文字盤は時計の顔だから、下請けから他社に新しいデザインの情報が流れるのは避けたい気持ちからだろう。しかし、小さなメーカーではそんなことはできない。 これは新聞記事からの転載だが、1924年創業のラ・ショード・フォンの文字盤メーカーが、独立系の時計メーカーに文字盤を供給するため新しく工場をつくるニュースがでている。FehrCieという会社が15億円(1500万スイスフラン)投資する計画。現在従業員約百人で20万個の文字盤をつくっている。旧来の工場を閉鎖して効率的な新鋭工場で、あらゆる文字盤をつくりたいと経営者のパトリス・リュティは言う。大ブランドは自社内でつくり、それができないブランドは我々から購入するとなかなか意欲的である。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
生誕ニ百年を迎えたロスコップ(ジョルジュ・フレデリック一八一三〜一八八九)の話 多くの人々が貧しかった第二次大戦後の日本では、何もなかったから少しお金が入り始めると、何でも飛ぶように売れた。東北地方の津波に襲われて荒廃した町の情景を写真で見ると、子供の頃の大阪はまったく同じであったことを想い出す。津波でなく米軍の爆撃の跡だった。恐らく東京でも同じ光景が終戦の夏には広がっていただろう。広島、長崎は言うまでもない。これらの都会の現在の繁栄振りをみると、破壊から人間は、新しい創造に向かう気がしないでもない。 大量生産による価格の引き下げが、その後の日本の工業社会の目標となった。今は私語となったが、粗製濫造という言葉がよく人々の口に上っていた。単に品質の悪いものをたくさん作るという意味だろうが、裏にはたくさん作れば品質は落ちるという原則も指している。日本は明治・大正の産業初期に粗製濫造が結果としてもたらす損に気づいていた。それに江戸時代からの職人気質も伝統として残っていた。日本経済のその後の発展は、濫造するが粗製はしないことを徹底的に追求した結果である。 生活必需品は、払底していたから、作れば売れる、人口が増える一方であるから、それに拍車が加わる。よいものをたくさん作れば安くなる。安くなればそれだけ多く売れる。更に安くなって、ものはいよいよ普及する。この好循環は、ついこの間まで続いていた気がする。モノが水道の水のように安く手に入れば、人は幸せになるというのが、パナソニックの創業者松下幸之助の製造哲学であった。明治生まれの産業人は、自身が貧しかったかどうかは関係なく、日本そのものの貧しさも知っているので、全ての人に自分の作ったものを使ってもらいたく思う人が多い。例えば、はるか以前に御木本幸吉は、世界中の女性の首に自分の真珠を巻かして見せたいと言っている。ミキモト製ではなくても、養殖真珠は少なくとも日本中の女性の首に巻きついている。その結果、真珠の評価はどうなったか。本紙で連載の山口遼氏のエッセイを読んでもらいたい。 時計も同じ運命を辿りつつある。私も安くて良い時計は、必ず売れると信じてセイコーさんとの合弁でアルバという時計の販売会社を作り、幸い年間に五百万個も日本国内で売れるようになったが、数年しか続かなかった。その理由は沢山あるが、時計そのものが不要になったことと、市場が無限でなかった事に尽きる。 私が私淑した先生である山口隆二元一橋大教授は、日本の時計産業史研究の始祖といって言い方である。毎年スイスやドイツに長く滞在して、現地の事業にもよく通じておられた。この先生と日野須磨子さんが出されていた月刊「国際時計通信」は、現在休刊中だが、商業主義の皆無な良心的な雑誌だった。アルバの時計を手がける遙か以前に、先生がセイコーにしても、シチズンにしてもコストダウンが下手だからなぁ、とポツンともらしたことがある。当時は日本の時計の方がスイスの時計よりコストは格段に安いと漠然と信じていたから、この言葉に愕然とした記憶がある。 アルバの時は、製造しているセイコー塩尻工場を見学して、十分なコストダウン能力ありと自分で見極めて、取り扱いを決意したものであった。生産コストの引き下げは、トヨタをはじめ日本の一流工場の能力は世界一だろうが、流通コストの方がさっぱり下がらないことが頭痛のタネであった。流通コストとは、工場を出荷して、購買者の手に渡るまでに生ずる返品・交換までのあらゆるコストに、アフターサービスのコストが加わる。スイスのメーカーが、その間のコストを下げ、小売店を直営したくなる気持ちは分からないでもない。コストダウンは、自社内での実現は可能だが、他社に強要するには強制力のある協力関係がないと不可能である。 山口先生が日本の時計のコストは高いと指摘された時は、まだクオーツも出現してなかったが、先生の脳裏にはロスコップの時計があったせいだろう。今の世代には、ロスコップといっても何のことか分からないだろうが、ピンレバー方式で、輪列を簡単にした安い時計のことである。クオーツが普及するまでは、大量に販売されており、全部あわせると五千万個以上は販売されたとみなされている。絶頂期は第二次大戦後に日本の時計が世界に輸出され始める頃までであった。 今号のFH誌には、一世を風靡したこの時計を記念して、ラ・ショードフォンの国際時計博物館で「ロスコップ氏の変わった時計」という展覧会が開催(来年の一月十九日まで)されている記事が出ている。報告者は、主筆のジャニーヌ・ヴィューミエ女史である。 今年はロスコップ(ジョルジュ・フレデリック一八一三〜一八八九)の生誕ニ百年にあたるので、それに合わせた企画である。ロスコップは、ドイツ生まれだが、十六の時にラ・ショードフォンに移住してフランス語を学び、時計屋の見習いとなった。のちに二十二歳で金持ちの未亡人と結婚して、息子のフリッツ・エドゥアールが生まれる。ロスコップはその頃、時計作りとして、金のケースのものを作っていた当時時計製造の流れとして、装飾方面と技術方面に向かう二方向があった。 一八五八年にニューシャテルの天文台が完成し、一八六五年に時計学校がラ・ショードフォンに開校する。これが技術の進歩を大いに刺激した。 一方、この町は金ケース時計の生産の中心地で、最初は職人たちの親方の下で修行していたが、一八七〇年に美術工芸学校ができ、装飾技法を学んだ生徒がどんどん出てくるようになっていた。十九世紀の後半、ラ・ショードフォン産の金時計は世界の金持ちを相手にするようになっていた。 そんな風潮の中でこれまでの様な仕事を十年ばかりしたロスコップは、方針を変えて「プロレタリア」という時計を発売する。二針の装飾がまったくないシンプルな時計で、当時の売価は十フラン、高級時計の三十分の一の安さであった。最後の仕上げは、自家のコントワール(カウンター)でなされるが、そこにくるまで町や村でいろんな職人がある程度まで出来上がった時計を持って運んでくる。いわゆるエタブリサージュ(集めて組み立てる)方式であった。「プロレタリア」は、五十七個の部品で成り立っていたが、それでも手がかかった。一八六七年から七十三年目でのろく年間で六、七万個が製造されたようである。 一八七四年に、ウィル・フレールとシャルル・レオン・シュミットという二つの工場ができて、まったく同じ時計つくり、同じ値段絵販売することを条件に、ロスコップは特許の使用権を渡すことにする。使用料は、一個につき五十サンチーム。二つの工場は併立しているが、C/L/シュミット社の方は、ラ・ショードフォンを代表するような規模となり、一九一〇年には、三百二十人の従業員を抱えている。二つの工場は協力しながらも、操業は独立し、販売は合弁したウィル/シュット社として一手に行うようになった。五千万個売れたというのは、一八七四年から一九四七年までの期間であった。 ここで余談だが、セイコーの創業者である服部金太郎が工場を東京と諏訪に分けて、お互いに競争させたのも、ロスコップの例に習ったと思えてならない。 ロスコップがなぜ、息子に事業を譲らなかったか、その理由は判然としない。息子のフルッツ・エドゥアールを孫のルイ・ロスコップも自分たちで時計業に協力者として参加することになるのだが。 ロスコップの時計は、思ったほどスイスでは売れずに外国ではよく売れたようで、ベルギー、フランス、米国で特許をとている。また懐中時計のケースに記念の図柄を作って売り出したことでも名を残している。いわゆる、記念モデルの先駆者でもあった。 今号のFH誌には、ロスコップとはまったく反対の極にあるパティック・フィリップの複雑腕時計の新作「スカイムーン」の紹介もある。実に魅力的な作品だが、商業誌で詳しく伝えられるだろう。もうひとつ日本では、やや不幸な販売実績で、代理店が決まってないレイモンド・ウィルだが、アメリカ市場に強く、業績も堅実で、その社長のオリヴァ・ベルネイムのインタビューも記載されている。枚数の関係で紹介できないのが残念である。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
スイスが中国との自由貿易協定の締結に踏み切る この七月二十一日の参議員選挙で、衆院の与党である自民・公明党が過半数を制した。これでネジレがなくなり良かったというメディアが多い。国会というところは、法律を作るところで立法府と呼ばれている。衆院で通過した法律が、本当に正しいかを検証するのが参院である。ネジレがあるのが当然で、ネジレがないのが良ければ二院制という安全装置つきの体制を取る必要はない。色んな種類の、いろんな考えの人がいて、多数決で決めていくのが民主主義であって、効率の悪いシステムである。一つの法律が施行されるまでに紆余曲折があるのは当然の話である。現代のスピードに合わないという政治家がいるが、民主主義とはヤヤコシイものだということを理解してない。党利又は選挙で投票してくれる人々の為にといった私利のために、審議をボイコットすることが多いというのは別の次元の話である。 七月の初めに、十日間ほどロンドンに滞在していたが、英国人と話していると日常の小さなことでも色々議論して決めている。英国人は、優しい人が多いが、ヤヤコシイ。独裁者もシェークスピアのお芝居に出てくる王様達は、いざ知らず、十七世紀中頃王様を文字通り首切って、清教徒革命を断行したクロムウェルぐらいだろう。現代では、サッチャー首相が独裁的だったと言われているが、その強硬な手法による経済改革は評価されるが、英国の伝統と文化を破壊したと評判は良くない。いずれにしろ英国人がどちらでもいいような事柄について、決定するのに長々と議論しているのを聞くと、さすが民主主義の国だと思ってしまう。 スイスも民主主義の伝統は、英国同様古い。小さくても連邦共和国だから、連邦議会と国民全体の議会があって、立法には両方で可決される必要がある。例えば製品の価値の六十%以上が国内で製造されたものをスイス製と表示する議案も、FHが三・四年強力に推進しているが、まだ法案化されていない。 今月のFH誌には、五月三十一日に開催されたFH総会の報告が会長のパッシェさんの名で出ている。そこで本年中には、国民議会を通過した議案が連邦議会でも通るだろうと書かれている。こんな簡単なことに何故手間隙かかるのか良く分からないが民主主義なのだろう。 この報告の中で面白いのは、中国との自由貿易協定の締結に向けての正式な覚書が政府間で交わされ、特に時計に関して両国で調査委員会が形成されたという報告である。別項の記事によると、五月二十四日に中国の首相・季克強がスイスを訪れ、覚書には、スイス経済省とFH、中国の工業及び通信技術省・中国時計協会の四団体が書名している。中国は時計の大きな市場だから、FHが参加するのは当然だが、FHは中国の当事者を委員会に参加させる事によって、中国産のニセモノ、商標権および特許の侵害、デザインの盗用などを効率的に防止するのが狙いだろう。中国としては、正しい方法で製造技術や機械を導入できる利点がある。 自由貿易協定もここ数ヶ月以内に結ばれそうということだ。人口八百万足らずのスイスとその百倍以上の人口を持つ中国で、関税がゼロになり自由に輸出入がお互いに出来るようになって、どっちが得をするのだろう。中国製の時計をスイスがどんどん買うとは思えない。食料品といっても量は知れているだろう。趣向も異なるし、距離も遠い。どうもスイスが一方的に有利としか思えない。日本にはソッポッを向いている首相まで、スイスを来訪するとは、中国は良く分からない。中国には長い朝貢貿易の歴史がある。従順な小国に対して、大らかな態度で臨む伝統が残っているせいか。 色々な会社の業績 FH誌は、色々な会社の活動や業績を見守っているといってよい。商業誌のようにPR費を貰っていないようだから、肩入れの度は客観的である。勿論多少鼻薬が効いているようなのもたまにはある。スイス国籍以外の時計会社も登場する。今号では、日本各社の三月期の数字が出ている。スイスの時計会社の決算期は大抵暦年に合わしている。 《セイコー》 総売上=二八三八億円(前年比四・四%減)内時計売り上げは一二一〇億円(前年一一二五億円)、クロック=九十六億円(前年比三億円減)、全体の利益五十五億円(前年損失百十億円) 《カシオ》 総売上=二九七八億円(前年比三・九%減)、内時計を含めカメラ、電子楽器などの製品の売り上げは二二七九億円(前年比二一五三億円)、全体の利益百十九億円(前年比一一九・三%) 《シチズン》総売上=二七二一億円(前年比二・八%減)、内時計及びクロックの売り上げは一三九五億円(前年比一三九四億円)、従業員総数二二、六七〇人(前年二三、七二五人) スイス時計産業全体の従事者総数が、三十五年ぶりの新記録で、五六、〇〇〇人に達したとこの号に朗報として載っている。それに比べてシチズンの従業員総数の報告は、多すぎて何かの間違いではなかろうか。ついでに銀座にも支店のある本拠地シンガポールの高級時計店「アワーグラス」の動向も。売り上げは三月期六百一億九千万シンガポールドル(前年比一%減、約四百八十億円)、利益が五十四億三千シンガポールドル。 アワーグラスは、この年度にシンガポールと香港、オーストラリアに新しい店舗を作った。今期は、パルミジァーノとユリス・ナルダンの単独店をシンガポールに開店する。このモノ・ブティック、単独ブランド店という代物、日本でも出現しつつあるが、今後更に広がるだろう。FH誌を眺めている限り、世界中でこのモノ・ブティックの開店ニュースが目白押しである。モノ・ブティックは、メーカーが損をしても広告・宣伝・PRのために持つというより、そこで採算が取れるはずのものとなりつつある。単価が高いことが一応採算が成り立つ条件だが、単価の低いチソットなんかでもアジアのモノ・ブティックは成り立っている。日本でもロレックスやブライトリングは、直営でなくとも堅調である。同じ地域で競合は成り立たないが、小売店の今後の重要な研究課題である。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
パリでのテニス見物の記 ロンジン社のウォルター・フォン・ケネルさんは、取引先の社長であるばかりでなく、年来の友人である。開けっぴろげの豪快な性格の巨漢で、商売好きで“俺について来い”タイプの経営者である。二十年ぐらい前、何かでやりすぎたせいか、スオッチグループの総師だった故ニコラス・ハイエックさんから、共同社長を立てられて、逼塞していたことがあった。スイスでは社長が同じ会社に、二人同時に存在し得ることを知ったのはそのときである。然し数年して、また一人の社長職に復帰した。一寸泥臭いスイス山中出身の野人性、時計造りへの愛着、表には出ないが、深い時計史への知識、いざ戦いとなると将軍になる階級の軍人としての抜群の統率力がやはり買われたのだろう。以来ロンジンの業績はウナギ昇りで、売上げは、年商ほぼ一千億円を超したと言う。これは、セイコーウオッチの年商に匹敵する。ウォルターさんは、今は七十二歳だが、意気軒昂で引退する気はさらさらなさそう。 そのロンジン社が数年前から、テニスの世界四大大会の一つ、パリのローラン・ギャロスで五月末から開催される「フレンチ・オープン」のスポンサーの一つになった。ゴルフは全くしないけど、テニスは下手の横好きだったから、昨年同様ウォルターさんにお願いしてシートを確保してもらった。 二十年以上昔のことだが、まだマッケンローやコナーズと言った名選手が活躍している頃、丁度滞在がこの時期に重なり泊まっていたブリストルというホテルは、コンシェルジュに頼めば何でもかなえてくれるらしいので、クリス・エヴァードの出場する試合の入場券の手配を依頼した。夕方まで待てと言われて、外出さきから帰ってくると、にこやかにチケットを差し出してくれた。当時で二枚十万円は払った気がする。それとかなりの額の心付けと。席は階上のあまり良い席ではなかった。勿論ダフ屋の超プレミアがついている。その頃で入手は難しかったから、今ではもっと困難だろう。 スポンサーの入場券というのは、単なる切符ではなく、いわば第一コートのボックス席である。それに賓客接待用の個別サロン付きである。スポンサー用の特別にしつらえた一種のテント村となっていて、今年はロンジンのほかに、ミネラルウオーターの「ペリエ」、「ルイ・ヴィトン」、「エミレーツ航空」などが出ていた。各々最上の客やメディア関係を招いているのだろうが、通路にはカーペットが引かれ、花が一面に飾られ、フランス中の美女を選んできたかと思われるホステスがサーヴィスをしてくれる。テントというと、日本では運動会とか葬儀に用意される臨時的なものだが、フランスにはテント文化みたいなものがあって、雨・風・陽をさえぎるだけのものでなく、中の装飾が実に優雅である。一般の人が入るローラン・ギャロスの会場内も、ウインブルドンに比べると陽気でお洒落な気分に満ちているが、テント村に入ると、突然エリートになったような気分にさせてくれる。高級なブランドを作るフランス人の才能が発揮されるのは、こういったところだろう。どうぞこの別世界へ、貴方は他の人とは違うのですから、という誘惑である。 以前、イヴモンタンの「ギャルソン」という映画を見たことがある。粋な作品であったが、町中のカフェのボーイ長であるモンタンが、定年で引退するにあたって、、仲間が超一流の実在のレストランの「ラセール」に招待する。「ラセール」は、かってミシュランの三ツ星を得ていたが、残念ながら今年は二ッ星。長年食べ物を給仕する世界で働いてきた男が、流石一流レストランは違うなあとしみじみともらす一場面が印象的であった。英国と違って、ホテルにしろ、レストランにしろ、小売店にしろフランスの高級な場所は、威圧感は少ない。初めて入るとひるみを覚えるかも知れないが、その後で軽い高揚感を覚えるのである。あの金ぴか趣味に嫌悪感をいだく人もあるやも知れないが、ヴルサイユ宮殿も決して重くは無い。庶民のモンタンのギャルソンが、素直にほめたのも、いかにもフランス人らしい。一流が一流の往々にして出す嫌味を出さないところに、フランスの良さがある。 テントのゲストハウスでは、常時バーが開いており、いつもシャンパンが冷えている。階上ではメインイヴェントだけでなく、平行して色んな試合をやっている。例えば、往年の名選手同志のゲームなんかもある。昨年はナブラチロワがプレイしていたし、今年はマイケル・チャンが出ていた。客は適当に試合を楽しみ、バーに戻ってはおしゃべりを楽しんでいる。食事もビュフェではなく、どこでもちゃんとした料理を出している。私達夫婦が行った日は、一流のケイタリング会社がホテルと同様のランチを出してくれた。ウォルターさんと食べ始めていたら、ロンジンの広告に出ているアンドレ・アガシがやってきて、食事に加わった。アガシは、フレンチ・オープンのかっての優勝者でもあり、女王グラフと結婚して、今はラスベガスに住んでる。話してみると実に優しい性格のスポーツマンであった。 その日は、女子の決勝戦で、ロシアのマリア・シャラポワとアメリカのセレーナ・ウイリアムズの対決であった。どっちが勝つかを単刀直入に聞いてみた。テニスは微妙な競技だから、その日の調子が良い方が大抵大差をつけて勝つよと、曖昧な返事であった。階上で出している新聞では、ナヴォラチロワが、今セリーナを倒せる人は誰もいないと書いていた。決勝ではあっさりとセリーナが勝った。アガシはアメリカ人だからセリーナと言いたかったのだろうが、あえて口にしなかったのだろう。そんな思いやりのある人であった。実際の試合では、セリーナは、黒豹のように精悍に見えるし、シャラポアは百八十センチを越す長身で、見るからに美しい。観衆には圧倒的にマリア、マリアの声援が多い。最初はシャラポアに肩入れしたが、セリーナのテニスを見ているうちにすっかり魅せられてしまった。ボールに追いつく早さ、正確で低くまっすぐに伸びるショット、機関銃のようなサーヴィス、全て美しい。圧勝は当然であった。 終わってテントに戻るとみんな戻ってきて、シャンパンを飲みながらおしゃべりをしている。招待された人々は、テニスだけではなく、お祭に来たみたいな雰囲気と社交を終日楽しんでいるようだ。 スポンサーのテントの中で、一箇所だけ人も少なく静かなところがあった。日本のパナソニックであった。日本の会社だから、招待客を厳選するあまり敬遠されたのかなと思ったりしたが、いずれにしろ社交下手な日本の会社の特長が出ていると言う感じがした。日本人は立派なパーティの企画を作る能力はある。しかし、お互いに知らない人を集めて、盛り上がりを作るにはいたらない。仲間同士だと異常に盛り上がる。 私たちも日本人らしくメイン・イヴェントが終わるや、まだ別のゲームがあったのにも拘わらず会場に差し回しの車で市中に向けて去った。車はセーヌ河に沿って走る。エフェル塔が西日に映えてオレンジ色に輝いているパリの夏の夕暮れは、美しい。晴れた日の初夏の暮れなづむ、黄昏は人を幸福感で包んでくれる。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
世界中のダイヤモンド取引所がゆれている まだバーゼルワールドの余韻が残っているせいかFH側からの報告は、フェアの側面的活動を伝えている。フェアの活動の中に、展示参加者同志及び第三者と展示者とのトラブルに裁決を下す臨時裁判所の存在がある。この通称パネルという委員会は、提訴された案件について二十四時間以内に判決を下し、強制力を持ち、フェア開催期間有効となる。当事者双方が出席して、抗議及び弁明を聴いて判決が下される。書面による提訴は、決定することが無く、記録して今後の備えとしておく。またパネルの判決は、同じ事件でスイス国内で裁判沙汰になった時、法廷は証言として公式に採用する。因みに今年の提訴数は十八件、うち直接が十五件、書面が三件。勿論書面には法的な形式が必要である。問題点別に記すと、商標権は五件、デザイン盗用五件、不当競争三件、原産地表示一件,特許侵害一件であった。有罪となったのは十件。 前にもこのパネルについて書いたことがあるが、別の見方から考えてみたい。見本市から話は飛ぶけど、世界中にダイヤモンド取引所が十七、八箇所ぐらいある。つい先日も東京に出来た取引所が三十周年だかの記念パーティが開催された。日本の業界の先輩たちは、アントワープやテルアヴィブにあるダイヤモンド取引所を理想として作られたと思われる。私自身も創立に協力した一員であるが、初めからうまく行くと信じていなかった。現在は、役員方の必死の努力で何とか成り立っているだけと言える。何も日本だけでなく、香港やバンコクのダイヤモンド取引所もうまく行っているとは思えない。アントワープやテルアヴィブでは、取引所の会員でなければダイヤモンドの商売で食っていくのは難しいだろう。日本では、東京の取引所を無視しても誰でもダイヤモンドの商売は可能である。アジアの諸国でも事情は同じだろう。アジア諸国では、構成員の構成員による構成員の為の機構の成立は難しい。文化土壌が異なるからである。 いつかアントワープの取引所で驚いたことがある。取引所の内規は、ベルギーの法律に優先すると説明され、事実内規違反者の名が掲示され、この人たちは世界中の取引所から排除されると聞いた時であった。流石ダイヤモンドの世界は、ユダヤの世界であった。ユダヤ人は世界中に散らばって暮らしている。世界中でたった千五百万人しか住んでいない。しかし各分野の活動を見ると、間違いなく最も優秀な民族である。その強さの原因は、モーゼの十戒以来、民族の掟を守ることにある。掟は全体の繁栄の為にある。取引所の内規もダイヤモンド業界が繁栄する為の掟で、個は究極的にそれによって守られると言う考えだろう。まぁ近年は、あちこちでダイヤモンド鉱山が発掘され、デビアスも独占を放棄して、自由競争の風が吹いているから取引所の権威が多少落ちているのは無理からぬ話しだが。 ユダヤ人は法を自分たちで決めて、自分たちで守る。二千年来、放浪して迫害された民族であった。西欧諸国もフランス革命以来、そうなってきた。日本を始めアジア諸国においては、ついこの間までは自分たちではなく、お上が法を決めていた。国内の見本市や同業組合にパネルのようなモノが存在し、それが正しく機能しない難しさは過去の歴史から来ている。 今年で十四回目を迎えた全世界時計企業会議 バーゼルワールドを機に行なわれる行事に全世界時計企業会議がある。首導者はFH会長のパッシェさんで、今年で十四回目。参加した国がスイスは当然としてドイツ、中国、フランス、香港、イタリア、日本の七カ国であった。アメリカとスペインが不参加であった。パッシェさん自身の報告によると、各国とも輸出が好調で友好的な雰囲気だったと言う。スイス製と表示するために、価値の六十%がスイス国内で作られたものとする法律が七月に議会を通過する見通しであること、ニッケル使用の際の数値基準などが、報告されたらしい。事情の異なる各国がお互いの現状認識と事実報告以外に、なにを討議したのか。日本代表がどんなスピーチをしたのか知りたいものである。参加国一同はこのような会合の必要性を認めて、この九月の香港時計展の際に開催される事になっている。 『オープンムーヴメント』 スイスの時計産業の強さは、クオーツではなくて機械時計の面で発揮されている。もしも機械時計が蒸気機関車のように忘れ去られていたら、スイス時計産業は産業として存在しなかったであろう。価格とか正確度、堅牢度とかの利便性を比較するとクオーツの方に断然軍配が上がる。しかるに人々はスイス製の機械時計を買いたがる。購入の動機に合理性が欠けている。モノが溢れてある一点を超えると、モノを手に入れるために、人は合理性を失う。感性とか文化性が介入してくる。 食べ物の例を考えるとはっきりする。人は必ずしも栄養価を考えて食べないし、値だけでも食べない。蕎麦は美味しければいいのだが、産地は何処という話になる。ワインも同じこと。豊かな社会と反語的にいうのだが、豊かさの継続はモノそのものの価値よりも、モノの持つ情報の価値を高める。上手い鮨を食った経験よりも、どの名店で食べたかの方が重要となる。美味しかったというのは極く個人的な印象で、他人に伝えるには多言が必要だが、有名店の名を出すことによって、コミニュケーションが容易になる。かって知る人ぞ知るのが名店であったが、今やマーケッティングの力で知らない人も知っているのが名店となる。時計の世界も同様である。 スイスで時計を作っている地域は全体の四国の大きさとすれば、高知県一県ぐらいだろう。そこに大小の組み立て工場や、部品製造工場がたくさん存在する。FHの会員だけでも五百社近くある。その網の目のようなネットワークが優れた機械時計を生み出して来たし、生み出している。 スウォッチグループ傘下の地板製造のエボーシュ社。時計で一番重要なテンプ・脱進器を作るニヴァロック社、ムーヴメントのエタ社は自社ブランド以外にも他社に供給してきて、時計産業全体の発展に寄与してきた。ところが二十一世紀に入る頃から供給先が競争相手になってきて相手の必要なものを、売らなくなってしまった。敵に塩を送る事はないというわけである。勿論、ムーヴメントはエタに変わって、セリタ社とか年十万個作るスペイン系資本のソプラッド社があるが供給はまだ十分ではない。しかも完成品のムーヴメントばかりで途中まで仕上がったのを買ってきて細工を加えられない。 そこで登場したのが、ロマン・ヴィニーガーというラ・ショードフォン在住の独立時計師が主宰する「オープンムーヴメント」という協会である。目的は、ムーヴメントと心臓部のテンプ脱進器のセットの設計図の無料提供である。。大体準備はできているが、基本ムーヴメント見本の完成までに五千万円近くの資金が必要で投資家を募集中らしい。これは地元の新聞記事の転載だが、コメントを求めた新聞記事に対し、当然スウォッチは無視しているし、ソプラッド社も設計図だけで微妙なテンプ周りなんか簡単に作れるかと冷笑気味である。しかし、諸手を上げて賛同する人も多い。ロマン・ヴィニーガーたちの熱意と夢によって少量生産で、適切な値の基本ムーヴメント勢作の道筋を是非つけて欲しい、可能性は高いという。インターネットのグーグルみたいにうまく行くだろうか。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
今年のバーゼルワールドには、昨年比十七%アップの十二万二千人の来場者が 当然、今回のF・H誌の中心記事は新装になったバーゼルフェアに関してである。これまで、多少改装を加えて少しづつ展示会場を拡大してきたが、今年は、四つの館に厳然と区分けして一挙に統一感のある見本市会場にした様子である。総展示場用面積十四万一千平米(四万五千坪弱)を改装するために約四三〇億円をかけたという。建築関係に参加した業者が二百社、一日千人以上が従事した日が多かったという。立派になったのは箱だけでなく、出展業者のブースも万博のパヴィリオン並みの豪華さだったらしい。出展業者の総数は一四六〇社というから、一ヶ所に一分立ちどまっても数字的に二十四時間かかる。広すぎるのと沢山のブースがありすぎて、みんななんて到底みられないと人が言うのも無理はない。 今回は鳴り物入りの新装オープンだし、好調な時計ブランド各社が面子をかけた展示を競っているから人気も高く、昨年比十七%アップに十二万二千人の来場者があった。ジャーナリストやメディア関係で、三六一〇人が参加し、昨年より九%も多かった。 バーゼルで時計宝飾品のフエアが開かれるようになったのは一九一〇年(大正六年)で、その時はスイス全製品の見本市の一部分であり、第一次世界大戦のさ中であった。時計宝飾部門だけになったのは一九三一年(昭和六年)からである。一九七三年にスイスだけでなくヨーロッパの時計宝飾業全体が加り、のちに全世界から出展ができるようになって現在に至っている。二〇〇四年から公称を「バーゼルワールド」としている。 毎年春になるとバーゼルに行かないと時流に遅れるという気分に昔はなっていた。開期は復活祭の前後に定められるというので、年によって月日が異なる。復活祭は春分のあとの満月のあとの日曜日なので、三月の終りの時もあれば、四月の半ば以後にずれ込むこともある。典型的な移動祝祭日である。キリストの復活を祝う祭だが、春の到来を喜ぶ祭でもある。スイスでは、日本の北海道みたいに、春は突然やって来て、色々な花を一度に咲かせる。今年の「バーゼルワールド」は四月二十四日から五月二日までであった。始まりが遅いから、行った人はきっと北国の春を楽しんだだろうと思ったら、異常気象で、真冬なみの寒さだったらしい。昔は会場も小さくて、昼休みに町に出て、レストランでのんびり昼食ということもできた。この頃に出る白く太いアスパラガスの美味しさは忘れられない。牛肉を干して薄切りにした「ブンダーフライシュ」も。スイスのデザレの白ワインによく合う。今の人は、ギリギリの予定でやってきて出展者も含めて、アポイント、アポイントで血眼になっているから、外は春の太陽が照っているか、雪が舞っているか気にはできないだろう。メーカーのスタンドへ行けば、社長でも部長でも簡単に会えた時代は過ぎ去ってしまった。 一週間で十二万人という集客は、東京の同種の宝飾展でも、半分の期日で三万人ぐらいだから、そんなに差がないような気がする。しかし実際に行ってみると、規模と企画力は月とスッポン程違う。展示会というのは集客数だけでなく、成約額とそこへ来るために、一人が使う経費を掛け合せた額が正しい指標だろう。最近大阪の梅田地区に大きな商業施設「グランド・フロント」が開業し、一ヶ月で七百万人が来たという。いくら人が来たって、お金を使ってくれないと、タダ見みたいなものだが、初日、三十三万人の人が使った額は一人当り八百円だったと新聞が伝えていた。 「バーゼルワールド」は、意図して、その両方の要素、成約額を高め、遠くから金を使ってくる客を多く集める努力をしてきている。以前は写真を撮っていると、うさん臭げに扱われた。コピイされるのをおそれたからである。今は、プレスのマークをつけたカメラマン達があちらこちらで写真をとっている。許可を得るのも簡単らしい。日本の朝日新聞ですら「バーゼルワールド」の記事をのせるようになった。ずい分前から、スイスの新聞は当然だが、フランスの読売といっていい「フイガロ」紙や、進歩的インテリの読む「ル・モンド」紙でも、大分前から特集号を組んでいる。世界中に読者を持つ「ニューヨーク・ヘラルド・トリピューン」も取り上げる。この頃に、航空便の国際線にのると、提供される新聞にはたいてい「バーゼルワールド」がのっている。 「バーゼルワールド」も音楽やら講演やら、来展者にサーヴィスをしているが、近年各メーカーのパーテイ攻勢が激しくなった。バーゼル市内のホテルや有名料亭では毎晩のようにカクテルや、晩餐会が催される。展示スタンドの豪勢さでは敵わないというメーカーが客相手に工夫する。メディアを何とか取材させようとする。大ブランドのパーテイには、世界中からの有名小売店がやってくるから、毎年来ている人々にとってヤアヤア一年振りという絶好の社交機会である。こういう場所に出てみると、この業界の世界は狭いなという気がしてならない。誰がどうなったのか、誰でも知っている。悪事千里を走るというが、噂話は地球を一周する。特に我々業界の情報ネットワークが発展しているのはユダヤ系の人々が多数を占めていたからと推測している。こんなこと言うと叱られるかも知れないが。 日本にも中世から、二日市、四日市、八日市といった名が示すように、市が立つ集落はあったが、今も市として繁盛しているのは何処もない。人が集りやすいから市ができるのであって、今は見本市といえば、東京に集中しつつある。 歴史上よりも地政学上からくる。その点、バーゼルは、ライン河に面していて、北の港から船でくる産物とアルプスを越えて南から陸路でやってくる物品の絶好の交換点という歴史がある。十六世紀に、ジュネーブに亡命したユグノー(新教活)が時計製造をもたらしたように、バーゼルに亡命してきたユグノーは、繊維産業をもたらした。特にリボンの製造に関しては、ヨーロッパ市場を独占していた。バーゼルには、リボン成金の屋敷があちこちにある。繊維は染色の技術を生み、科学の技術につながり、製薬業となった。世界に冠たるスイスの薬品の中心地は、バーゼルである。そこで住む人々の暮らし、そこから必然的に生まれてきたなりあいから、歴史的に近代産業へとつながっていっている。人為的に作られた経済特区には絶対生まれない文化が形成される。 バーゼルはチューリッヒ、ジュネーブに次ぐ第三の都市だが、人口は十七万そこそこである。昼間はドイツから一万人。フランスから二万人の勤め人がやってくる。バーゼル国際空港といってもフランス領である。私が住む宝塚市は、バーゼルより多くの人口二十二万人を数えるが、都市の豊かさが全く違う。過去に蓄積した歴史の重みと冨の厚さは町を散策するとすぐに感じられる。バーゼルの大学では、哲学者のニーチェが教鞭を取り、イタリア・ルネッサンス文化研究に、偉大な足跡を残したヤーコプ・ブルクハルトは、同僚であった。ここには博物館、美術館が三十以上もある。世界有数の動物園もある。音楽も盛んで、オペラやコンサートがしょっちゅう開催されている。「バーゼルワールド」を訪れる人々は忙しいだろうが、せめて一日の休みをとって、町中を散歩されたり、美術館の一つか二つを訪れることをすすめたい。小さいけど文化的な都会の魅力がバーゼルに集約されている。春の晴れた日に、静かなミュンスター(大聖堂)の広場に上り、悠々と流れるラインの流れを眺めていると、人生の流れが変ってくる。 経済成長華やかなりし頃、慰安旅行というと団体でバスを連ねて、有名温泉地へ出かけたものであった。旅館に着いて、温泉につかり、宴会があって、あとカラオケか麻雀、朝すぐ次の観光スポットによつて帰ってくる。草津の町はどうでしたかときいても、ぶらぶら歩きをしないから解らない。旅館に行っただけにすぎない。バーゼルに行ったのではなくて、「バーゼルワールド」に行っただけの人が少ないことを、バーゼルの町のために祈りたい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
わが国の大量消費時代 国民総生産の六割以上を個人消費が占める社会に我々が住んでいる事は、中々実感としてとらえ難い。経済成長率をニ%上げるには、国民全員が三%無駄遣いすればいいと言う計算になるからである。経済とは、個人が給料や賃金を貰っている先がするものだと思い込んでいるせいもある。 このような社会が成り立つ為には、個人の欲望をそれぞれの段階で充足させてきた大量消費の時代を通過しなくてはならない。わが国で大量消費が始ったのは、ダイエーが出現した頃あたりからである。モノが溢れ出ているスーパーの店頭は、消費者には新鮮な魅力があった。パナソニック(旧ナショナル)の松下幸之助は、水道哲学を説いた。欲しいモノが水道の水のように栓をひねればいつでも出てくる社会が人の幸福を作ると。かくして町から、八百屋が消え、魚屋が消え、乾物屋が消え、荒物屋が消え、茶碗屋が消えた。電気店も松下さんの思惑が外れ、大量販売の安売り店に人気が集まり、消えてしまった。時計もまたそこで扱われるようになり、時計小売店も消えてしまった。大阪府の時計小売組合の会員数で見ると、ピーク時には千二百人であったのが、今はその十分の一になっている。小さな電気店も、家電全体の売り上げの十%程度が売り上げで、後の九割は量販店・チェーン店で商なわれているようである。 食べ物の世界でも例えば、「マクドナルド」とか、「吉野家」のように、かってそういった業態のなかったチェーンストアは、追っ払った店はない。しかし、回転すしは明らかに町角に多くあったお寿司屋さんの息の根を止めた。個人経営の居酒屋さんもTV番組に取り上げられるほど稀少となった。 本屋さんにしても同じことに、本が売れなくなった上に、大型店が進出し、雑誌はコンビニに取られ、小さな本屋さんが町から消えた。楽器・レコード店もHMVなどの大手の影になくなった。古本屋さんも「ブックオフ」に押されて消滅。かって仙台の最大手小売り店「三原本店」のオーナー三原喜八郎さんは、地元の小売店は、中央の資本の大手に席捲されて、まるで白人に蹴散らされるインディアンみたいなものだと嘆いた。当時は大げさなと思ったが、今となっては、当たってなくもない。私が子供の頃見た種類の小売り店がみんな無くなって、日本の中小都市の繁華街は、みんなシャッター銀座となっている。大量生産(買い付け)、大量販売で人々は、刹那的な幸せを得てきたかもしれないが、そのツケは一種の文化破壊となって返ってきている。その中で生きている今の世代にとっては、単なるライフスタイルの変化ととらえているにすぎないのだろうか。例えば、旅先で世界中どこへ行っても、同じインテリアのコーヒーチェーンに入って、それが楽しいのだろうかと古い世代の私はつい考えてしまう。 大量生産は、松下幸之助の水道の水効果を必ず生み出す。はじめの高価で、珍しかったものが、安価でありふれたものになる。小さくて原材料費の少ないクロックなどは、その最たるものだ。昔クロックもかなり高価で需要も多かった。記念品に良く配られたり、贈答にも使われた。時計そのものがそれほど必要とされなくなった事も手伝って、凋落ははなはだしい。時計屋さんの壁面からも店が安っぽくなると言って追放されてしまった。リズム、セイコーの二大クロックメーカーも、年商三百億円はあったはずだが、今や両社とも百億円ぐらいだろう。結婚式の引き出物に貰う事も少ない。個人的には、良いデザインのクロックが卓上にあるのを奥ゆかしい気がするが、お金を払ってまで買う人は少ない。 クロックの電子機械は、比較的低度の技術で大量生産が出来るので、もはや欧米、日本で作っても採算が合わない。一般には、価格訴求一本の商品になってしまった感がする。デザインに活路を求める方法もあるが、小ロット生産ではコストが高すぎて売れない。時計売り場でなく、インテリア売り場では手ごろな値で個性派も少なくないが、殆どが東南アジア製と見られる。スイスには昔インホフ、ルーピング、スゥイザという良いメーカーがあったが、クオーツの時代になってあまりスゥイザ以外は聴かなくなった。アトモスというジャガールクルトの気圧変化を起動力とする超高価なアトモスクロックだけが、特殊な顧客相手に命脈を保っている。 ところが今号のFH誌には、新聞記事の転載だが、スイス・ラショードフォンにあるクロック工場への取材報告が出ている。社長の名は、ダニエル・スパダーニ、会社名は、アラトロン。置き時計、掛時計、機械も共に製造しているが、世界中に出荷されている。ただし、父親が昔作っていたネプロ(覚えている読者がいるだろう)の名ではなく、有名なブランドの名で。今の社長は、グッチ時計の下請けで大きくなり、その工場をグッチに売って、コルムを買収した故セヴェリン・ヴンダーマンの下で修業している。OEMの上手なやり方を学んだに違いない。一九九五年に父親の会社を継いだ時は、当然社業は壊滅状態にあった。手元にたった二万フラン、注文残は六千個、ヴンダーマンの信頼しかなかったようだ。グッチの名のクロックの下請けをさせてもらったのだろう。これは現在でも続いているらしく、公表は避けているが色んなブランドに置・掛時計を提供しているという。全社員で十八人というからごく小さな工場で連絡網を密にして、色々な協力者を得ない後やっていけないはず。得意先のブランド側の要望も厳しいが、十分に答える品質のものを作れるから、納品できると社長は言っている。今は、置・掛けばかりでなく、この人数で腕時計を作っている。この二つのジャンルは、素人には似ているように見えるが全く違うらしい。組み立てなんかは、当然下請けを使う。こういったところにスイスの時計産業の構造が垣間見られる。携帯のある時代に誰が置き時計なんか必要とするのかという記者の質問に「時間を知らせる事は、さして重要ではない。机の上の一寸したアートだよ」とスパダーニ社長は答えている。アートが、そう見てもらうには良いデザインだけでは十分ではなくてグッチとかカルティエといった名がいるのかも。実は、当社が代理店をしているモバード社が、同じ考え方でアンディ・ウォーホールとか、アルマン、ローゼンクィストといったモダン・アートの愛好者から見ると神様のような芸術家に頼んで置物的な腕時計を作ってもらった。日本でも売れるかと輸入してみたが、さっぱり売れなかった苦い経験がある。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「メイド・イン・ザUSA」特集 前号でアメリカの製造業の国内空洞化について触れたが、それは主として軽工業の領域であって航空産業、軍需産業、自動車産業(トヨタやフォルクスワーゲンという米国内で操業している外国企業も含む)では、今でも世界に冠たるものがある。 「タイム」の四月二十二日号は「メイド・イン・ザUSA」特集を組んでいて、オバマ大統領の要請によるアメリカ経済強化が、製造の世界でも起こっている事を、G・E(ジェネラル・エレクトリック)社の電池工場やエックスワン社の3D印刷手法による機械部品の製造の現場を取材する事によって伝えている。 アメリカの工場労働者の数は、全就労者の九%で、千二百万人、一九七九年のピーク時は、ほぼ二千万人近かった。二年前の統計だが、アメリカの工場労働者の平均年収は七万七千ドル、労働者全体の平均は、六万ドル。この数字を見る限り、ブルーカラーだって悪くない。テレビなどメディアの伝えるアメリカ人の生活が、格差を強調する余り大金持ちか極端に貧しい人々で、普通のアメリカを伝えない面がある。コスト面を考えると、ヨーロッパの製造業は、アメリカと比べると十五%から二十五%と高いから、飛行機のエンジンの方のロールス・ロイス社は製造の主力をアメリカに移そうとしているらしい。 部品なんかは、中国から買えばいいというが、中国では人件費が年率十三%も上がっており、二〇〇〇年には、時給五十セントだったのが、二年後には四・五ドルになるとされている。それでもアメリカの方が遙に高いが、運賃も上がっている。十二メートル・コンテナ一台の運賃は、三年前に千百八十四ドルだったのが、二千三百ニドルと(中国沿岸から西海岸まで)と倍増している。石油は高いが、シェールガスは安い。これもアメリカに有利。そのほか、色々な要因があって、アメリカに製造業が戻っているようだ。 アメリカの製造業が戻りつつあるのは、製造業での現場がすっかり変わってしまった為といえる。一九六〇年の工員の平均時給は二ドル五十セント、現在は二十四ドル十一セント。仕事は組み立てラインにたって手作業で仕事をしていた。主たる職場は車、電器といった器具、繊維製品を作るところ。 現在では、それが食品、薬品、精密複合機械になっていて、工員はコンピュターを操作し、監視している。大学卒または、高度の職業資格を持っているのは十人に一人である。油にまみれ、一日の作業で肉体的にヘトヘトになって、帰宅する労働者イメージは昔のアメリカ映画でしか残って無いだろう。 この記事で印象的だったのが、ブルーカラーの工員といえども将来は、二年から四年の専門教育を受けてないと、工場でも働けなくなると、職業教育の重要性が指摘されていたことであった。高度のオートメーションによって、人件費の占める割合が少なくなると、価格競争にすぐにさらされない製品を作っておればアメリカにもチャンスはある。 わが国の事を考えると、調べてもらった資料(何しろインターネットの時代である)によると、昨年の中卒者が百五万人余りいる中で、大学まで行きたいというのが五十三・五%、専門学校に行きたいというのが十六・八%とあった。別の進学者統計を見ると、ニ〇一〇年だが、大学六十二万人、短大七万人、高等専門学校一万人が高学歴だが、日本ではでたらめに採用しても十人に八人は高学歴者となる。 しかし、これらの学生がすぐに役立つかといえば、何とか使えるのが、医学部出身者ぐらいか、特殊な資格(弁護士・会計士)を在学中に得た人々ぐらいだろう。これは日本の学校の何にでも通用する人格形成を重んじる精神から来ているもので、別に咎める事でも無い。昔の幼年学校とか士官学校、陸軍大学、海軍兵学校といって、すぐに役立つ戦闘員を養成する学校があったが、消え去って長い。今の防衛大学とは、性格が異なっている。 大阪に辻調理師専門学校といって、フランス料理の研究で優れた業績を残した辻静雄さん(個人)が作った学校がある。この人と親しかった関係で、この学校の理事をさせてもらっているが、生徒数は四千名を誇る、業界随一の専門学校である。先生だけでなく校舎も設備も驚くほど立派である。 ここでも生徒の育成は汎用的であって、一年の間(二年制も最近出来た)で、和・中・洋全ての料理の基礎を教える。生徒の料理に対するセンスは磨けるが、これで調理師の免許をもらっても、直ぐには役にたたない。将来大成する料理人を育てるには、食べ物に対する総合的な理解が絶対に必要である。これが方針だから学校を出た翌日から、鮨を握れる職人とか、蕎麦が打てる人になろうとは、この学校に来る学生は思っていない。このあたりにも、調理師学校といえども日本人の学校感が出ている。 さて前置きがいつものように長くなったが、スイスの時計業界の職業教育は、全く実用的である。時計作りは、基本的に分業であって、料亭が盛んな時代の日本料理に似ている。魚をさばく人、煮物を作る人、お椀(汁物)を作る人、みんな異なる。それを花板が取り仕切る。花板はさしずめ時計の組み立て職人だろう。 ずっとFH誌を読んで気づくのは、職業教育の重要性が年毎に増えていく傾向にある。これが生産の現場である向上に必要な事は容易に理解できるが、それがブランド販売者の政策に一部にもなっている。例えば、ヴァンクリフ・アペールが宝飾制作学校を創設していることである。日本では、休校しているが、ロレックスの時計学校(テクニカム)もそうだろう。 職業教育を仏蘭西語では、フォルマション(形成)というが、日本のように一般論から入らない。個別的、具体的である。もう五十年以上も前、自動車学校へ免許を取りに行った時、講師が長々と運転の心構えを説いてくれた。心構えで運転が出来たら世話は無いはと、青い大学生だったから心中悪態をついた。日本は心構えだけで太平洋戦争に突入した。教育のプログラムを見てもスイスでは実務に徹している。 今回のFH誌には、独立した職業教育の例はなかったが、文字板制作の現場で社内訓練生として働いている若い女性の記事が出ていた。文字板の制作など簡単そうだが、企業内訓練では二年を要するみたいである。二年たつと業界関係団体から文字板専門技師免許がもらえる。スイス時計の経団連みたいな機構(CP)が発行するので、これで一人前の給料がもらえるのだろう。他の記事から見るとスイス国内では、時計産業には働き手は十分ではなく、国境を越えて通ってくるフランス人の数が急増しているようだ。この二年間で千五百人、十四%も増えている。この三年で三千二百人の時計関連工員の増加が予定されているが、二千人は現在訓練中であって、後に千人をこれから養成する必要があり、定年延長とか色んな施策が必要と景気のいい話である。 日本では大抵は、社内の訓練によって、普通の給料を貰いながら成長していくのが当たり前である。しかしこの若い女性訓練生の記事を読むと、訓練学校へ行って文字板制作を学ぶ事も出来たが、いきなり実地で学ぶ方が気に入っているなどといっているので、学校を出ても同じ仕事のレベルになることが分かって興味深い。 最後になってしまったが今号の巻頭は三月六日に開催されたスオッチグループの年次株主総会の報告である。売り上げ八千億円、純利益二千億円、快進撃は止まらない。スオッチも文字板の製造会社「ラバッテル・アンド・ウェイやーマン」を所有している。同じく傘下にある針専門の会社「ユニヴェルソ」と共に、年間に新しい建物に移動させるという。「我々はスイス人で、スイス国内で製造し、スイス内で雇用を確保するために戦う」とニック・ハイエックCEOは若いだけに意気が揚がっている。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
スウォッチがハリー・ウィンストンを買収した FH誌の発行は年二十回。本紙は年二十四回なので、どうしてもズレが出きる。前回休稿したのは、その理由による。 さて、今回取り上げるFH誌には、今年最初のスイスからの時計輸出速報が出ている。好調だった昨年の勢いは続行していて、前年同月比一〇・八%増加している。対中国向けは九・九%減少しているが、対香港が同じ割合で増加。アメリカ向けは七%減少しているが、その他の諸国くけは、おおむね良くて、ヨーロッパ向けが二十八・一%も増えている。こういった状況だから、FH誌本体の論調には明るさが漂っている。 例えばスウォッチ・グループの昨年度の年次報告が出ているが、表題は、またまた業績新記録とある。総売上は、昨年比十四%増の八十一億五千万フラン(八千億円)。これは為替変動を含めての数字である。昨年並みのフランレートなら、更に五億フラン増加していただろう。純利益は十六億フラン、約千六百億円で、この中から例の宝石商ハリー・ウィンストン社を買収するような元気が出てきている。一種のライバルであるLVMH(ルイ・ヴィトン)社が、ブルガリを買収した事に刺激されたものだろう。ハリー・ウィンストンは、珍しい機械式時計もスイスで作っているが、時計とは別にスウォッチ・グループは本格的にジュエリービジネスを展開するという意思表示と見ている。 スウォッチ・グループは、小売に熱心で、オメガやロンジンからチソットに至るまで、直営でブティックを展開してきたが、傘下のブランドを総合的に扱う小売り店「トウールビョン」また空港免税売店「アワーパッション」の出店に力を入れている。パリやモスクワの空港には、既に存在するし、ロンドンやローマ空港へも準備中である。企業の拡大は、雇用の増加で社会的な貢献を果たす。昨年中、千五百人を採用し、内九百人が、スイス国内で、後は外国とスウォッチ・グループは胸を張っている。更に合併で二百八十人分のポストがあるといっている。 現在の機械時計は芸術に近い 時計は時刻を知り、経過時間を知る為に、現実の要請によって作られた。生活に必要とされる発明を文明の利器と呼ぶ。文明とは、色んな利器が整備され、進歩し都市化された環境を指す。文明と文化は異なる。文化の英語は「カルチャー」であって、農耕の耕すと同じ意味であり、集団よりも個人でコツコツと育てていくという感が強い。 日本における宝飾の町・甲府にある山梨県立美術館には、フランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーの優れた作品が何点かある。ミレーは農民たちの畑仕事にくれるつましい生活を描いて名高い。ミレーの有名な作品に「夕べの祈り」がある。夕暮れの畑の中で、頭をたれて敬虔に祈っている農夫とその妻が描かれている。作品からは、遠くの教会の塔から、晩祷の時間を知らせる鐘の音が聞こえてくる。時計は元々、修道僧が一日数回の祈りの時間を知る為に、修道院内で製作されたことに始っている。その時間が来れば、人力で紐を引いて、鐘を鳴らした。十二、三世紀の頃から、仏・独・伊・英各地の修道院で時計機械の工夫が始り、そのうちに、一本指針が二本になり、鐘も自動的に鳴るようになり、一般市民のために、時報や自動人形のサーヴィスもするようになった。鐘の事をイタリア語では、「ラ・クロッカ」という。クロックの語源である。機械時計の歴史は古く、八百年以上もヨーロッパ人の日常生活に密着して発達してきた。旅の外出や移動する時に、手軽に持ち運びが出来るウオッチの歴史も四、五百年はあるだろう。 水晶発振器は、従来のテンプ発振より精度と安定度では、遙かに優れている。安価で、正確で堅牢なクオーツ時計は、三十年前には機械式時計の存在や製造技術を文化遺産にしてしまうかに思えた。日本の技術者は、いわば文明の使徒であるから、合理的なものを最善として、明治維新以来、努力してきた。『脱亜入欧』という時の福沢諭吉の評判は近年低いが、多くの日本人にとって、文明は進歩であり、先進国の仲間入りする事が夢であった。つまり混沌としたアジア世界から離れて、いかに早く西欧化した合理的な社会を築くかが、特に戦後の主流風潮であった。たとえば、明治の文明開化以来、西欧医学一本で、和漢の療法は殆ど百年以上、民族迷信として顧りみられなかった。一九九〇の年のバブル最盛期の頃まで、我々時計関係者は、時計はクオーツで、機械式時計は消えてなくなる運命にある、将来、世界の時計市場は日本勢の独壇場になり、スイス勢は宝飾時計の市場のみで生き残れるだけと信じて疑わなかった。更に日本の安いクオーツ時計に対抗して、スウォッチが初登場した時も、そのときはスイス時計産業の救世主となったハイエック氏ではなく、トムケ氏が社長であったが、こんなモッサリして電池が外に露出しているような時計なんか、売れるものかと安心していたものであった。 しかし、その後のスイス時計の隆盛ぶりはどうだろう。市場環境としては、携帯電話の普及によって、デジタル時間ならば誰でも知る事ができるようになった。時間を知るという機能で時計が必要とされる時代は終わったといえる。最近では、アナログで時間を表示する携帯もある。車にもデジタル時間表示が付いている。文明の利器としての時計は、冒険者以外には不要となってしまっている。時計は特に今世紀に入って以来、文化の領域に入ってしまったといって良い。芸術のように単に生きるだけの人生に不要だが、生きる事に潤いを与える生きるだけのものになったといえる。 ル・ロックルに住む時計師たち ル・ロックルはフランスとスイスの国境にある。山間の静かな町である。ナルダンやゼニス社の本拠地のある時計の町だが、人口一万人余りの田舎町で人影は少ない。そこで時計の仕事をしている二人の時計師のプロフィールが地元の新聞に取り上げられ、今号に転載されている。 一人は、ファビアン・ラマルシュという。ニ〇〇七年に一人で時計を作り始め、今では四十四人をル・ロックルに、六人をジュネーブに従業員を抱え、イノヴェーション時計製造会社(IMH)の社長でジュリアン・クードル一五一八というブランドで、金、プラチナケースとトゥールビョン機構を持つ高価な時計を作っている。一個の時計を作るのには、磨きとかメッキ、地板打抜きとか、エナメル仕上げ、特に難しいテンプ作り、組み立てから作業工程の策定に至るまで、四十ぐらいの職種があって、これをメチェという。大抵の職人は一つのメチェを専門にするが、この人は若いときからブレゲで修業をはじめ、有名なメーカーを渡り歩き、二十年間かけて、皮バンド制作と石止め以外のメチェは殆ど習得したという。まるで中世のギルド職人の親方みたいである。理想の時計を作って商売するのもいいけど、社内で各メチェの経験ニ十年以上の熟練者と見習いを組み合わせて、後世に伝えるのも大きな使命とも言っている。元々は、学校を作りたかったので、ブランド時計を作りたかった訳ではないという言葉もいい。時計作りとは、情熱だよ、その中で生きて革新的なアイディアを時計に実現したいと言っている。 もう一人は、ニ〇〇八年以来、ル・ロックルに住む日本人時計師関口洋介(英文から日本名を推定)さん。今はクリトフ・クラレというメーカーで働き、余暇には十九世紀のル・ロックル産の時計を研究している、銀行員の家庭に生まれたが、子供の頃古い掛時計を分解して時計の魅力に取り付かれてしまった。まず大学で仏蘭西語を学び、二十三歳でブザンソンへ行くが、訓練学校は、年をとりすぎていると中々引き受けてくれない。ビザが切れて帰国せざるを得なくなったそのあと、縁があって、少年の頃から憧れていたル・ロックルの時計会社に勤めることになった。今回は、銀行員だった新婚の妻と手を携えて、再びスイスへ。奥様はGMTという時計針のメーカーに就職が決まる。二人は音楽家で、夫はチューバの演奏家だが、時間が無い。奥さんは、ラ・ショードフォンの室内オーケストラでヴィオラを弾いている。今は出産のために一時帰国中。夫の方は、日本の生活はあわただし過ぎて帰る気にならない。素晴らしい家庭生活を営めるのは、ル・ロックルの町のよさの御蔭だと記者を喜ばせている。だが日本の美味しい炊き立てのご飯をいつも食べられないのが最大の不満だそうだ。こういう海外の暮らしに自然体で溶け込んだ日本人が独立してスイスの時計産業の一員として活躍される日の来るのを望んで止まない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「新年号」とはいえ、日本とは違う 今号はいわば新年号だが、日本のように新年に望むといった漠然としたあいさつ文は無い。いつもの号と変わりない。ヨーロッパで暮らしていると、新年といっても一日休むぐらいなもので、正月三が日は何もしなくて遊ぶぞという気分がなく、日本人には頼りない。イタリアでは、大晦日には若者たちが町に出て馬鹿騒ぎをしていたが、今はどうだろうか。 今号には、興味あるFHの告示が囲み記事で出ていた。表題は、「アゼルバイジャンとカザフスタン両国、貴方の抱える問題をお知らせ下さい」。内容をかいつまんで記せばこうである。FHは会員の大屋根であり、傘である。そのため、スイスの産業省らが主であるが、色々な役所から産業振興の海外ミッションに同行を要請される。海外の大使館といった公的機関から依頼もある。FHにとっては、時計業界の諸問題、税率ばかりでなく、知的財産の問題、商業構造の改善など、スイス側に有利に導きたくなる。 同時に、時計業の直面するであろう具体的な悩みを、公に知ってもらう絶好の機会となる。会員が輸出に際して出逢っている難問を提出していただきたい。勿論秘密厳守します。この趣旨をもって、シュナイダーアマン大統領がスイスの経済人代表達と共に、この四月に首題の両国を訪れる事になっている。FHが仲介となって、貴社の利益を庇護して欲しいと考える事があれば、期日までに連絡を頂きたい。 これでFHが会員の差し出すサービスの一つが良く理解される。私は長い間、協同組合にかかわってきたが、こんな風な公告が出されたのを見た事が無い。大抵アンケートぐらいから始って、最大公約数的な要請を纏めて、相手が外国であろうが、国内の役所であろうが出かけてゆく。交渉の代表は、個々の細部を知らないから、細かい点になると事務方に任す。事務方は事務方で正確を期す為、また調べ直す。結論は中々出ない。なにも日本政府を皮肉っているのではない。小さな協同組合ですでにそうだった。日本人の生産性の上がらない要因の一つはこんな文化にある。良いとか悪いとかは別である。 トルコでのスイス時計展 次の会のオリンピック開催地に東京が手を上げている。対抗馬はイスタンブールらしい。私個人としては、東京に決まればいいと思っている。施設は大抵あるから、シンボル的な競技場を作るぐらいですむだろう。土建業のためのオリンピックにはならないだろう。多少日本が元気になればいい。ところが相手がイスタンブールとなると、勝ち目がなさそうな気がする。オリンピックには、世界平和実現のためという、理念がまだ残っている。今世界の騒ぎの火元はアラブ諸国である。エジプトのムバラク政府の転覆、リビアのカダフィ政権の崩壊は、「アラブの春」といわれたが、アラブ人には穏やかな春は無い。彼らにとって季節は、常に峻烈である。その中で、トルコはイスラム諸国の中では、一番穏やかな国といってもよい。治安、便宜性の上では、東京に軍配が上がるだろうが、トルコという西欧人にも信頼感のあるイスラムの国を開催地にする事によって、イスラム諸国との融和を図ることが出来ると考える人も多いだろう。それに歴史となると、東京は到底敵では無い。かっての東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブルである。世界の中でも最も美しい大都市の一つであると今でも思っている。来年の冬季オリンピックは黒海沿岸のソチで開催されるが、その黒海が地中海に流れ込むのが、ボスフオラス海峡である。海峡を取り込んだ町がイスタンブールで、一つの町の中に海をへだてて、、西洋と東洋があると人々は云う。眼を閉じれば、青い海と背後の丘の美しい光景が彷彿とする。 コンスタンチノープルを制圧したトルコのスルタン達は、時計好きであった。壊中時計のジャンルに土耳古時計というのがある。時計の外にもう一つ、金属製のカバーがついていて、外から時間が読めるようになっているが、たいていはトルコ文字の数字が外側に刻まれている。哲学者のジャン・ジャツク・ルソーの父親だったイサック・ルソーは,多くの時計を製作して現存しているのもあるが、一時はイスタンブールに住んで、スルタン達のために、宮廷お抱え時計師をしていたこともあった。 この号には八年越しの計画であったスイス時計展が昨年十二月二十一日から三日間F・Hの主導で開催され、大好評であったという巻頭報告がでていた。どうしてかスウオッチ系が出展してないが、ロレックス・モバード・タグホイヤー等の一流ブランドが二十ばかり出展していた。テーマは「時間について思いをはせ、スイス製のすばらしさを考えよう」。日本のF・Hは楽である。この手の催し、ワールド・ウオッチ・フェアを全国の各有力百貨店が競争して長年やってくれている。 インドの業界について インドの時計産業連盟の会長サボーいう人が、スイスに来たときに、インタビューを受けたのだろう。その新聞記事が転載されている。サボー氏は、インド最大の時計小売店を展開している。売場を十四都市に三十六ヶ所持ち、四十ほどのどちらかと言えば、高級ブランドを扱っている。問答の内容は、左の通り。 売上げは今年(昨年十二月に語っている)は二割伸びた。それまでは、十二〜十五%台であった。今後も二割は伸びるだろう。まだまだインドは輸入国としてベストテンには入らないが十〜十五年の間に、高級時計の輸入国のベストファイブに入るだろう。時間の問題に過ぎない。インド人の三分の二は、まだ時計を持ってない。だから二千円前後の安物はよく売れているが、そのうちに高いのも買うようになる。中間層は大きく拡がりつつあるから、人口の一割の人が高い時計に欲求を感じ始めたら、その数は四千万人近くになる。当然経済政治の健全性とブランドの努力が前提になるが。今の若者と昔の若者とは考えが違う。今の若者は、例えばチソットを買っても、もっと高いものを買うようになるだろう。この変化は五年ぐらいたつと起こるだろう。スイスのメーカーの多くは、インド市場の将来性を買ってくれている。自動車会社より宣伝をするところさえある。インドでは時計の輸入税及び色々な税の総額が四十%近くになる。それでもスイスの時計メーカーと我々の利幅の減少で協力して世界価格に近くなる努力をしている。インド人は値を比べたり値切ったりするのが好きだから、あまり差が無いことが分かって、国内で買うようになりつつある。政府にも税金を安くすればみんな払うようになって国内で買うと交渉し続けている、店舗として各所に建てられつつあるショッピングセンターはいいけど、路面店舗は難しい。空港内はいいが賃料が高い。インドの道路は汚いしブティックを作るような構造ではない。せっかくしゃれたブティックを作っても隣に車の修理工場やファーストフードがやってくる。この間大きなデリー時計の屋が密輸で挙げられたが、そういう事の少ないブランドを信頼して扱うしかない。正規の輸入品を扱うのが将来的に正しいと信じる他はない。 なんだか昔の日本の事業に似ている。ついでながらマハトマ・ガンジーの愛用したゼニスの目覚ましつき懐中時計を含む身の回り品一式が約一億八千万円でインドの億万長者がオークションで落札し、里帰りした話が別の項で出ていた。ガンジーの事だから、時計以外は大して値打ちのあるものは持ってなかっただろう。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
香港にて、二〇一三年初頭 それ程、息苦しい生活を送って来た訳ではないが、この十年来、年に一度は、息抜きのために、香港に行くことにしている。むし暑い時期は避けて、香港では一番気候の良い冬に避寒もかねて行く。目的がないから、昔、リージェント、今はインターコンテイネンタルとなった海峡に面した定宿のあたりをぶらぶらするだけ。すぐ斜向いに有名なペニンシュラ・ホテルが建っている。我がホテルには広々とした南洋風の植木のある空中庭園があって、プールと露天風呂がある。海景をみながら湯につかり、とりとめのない思いにひたれる時間も悪くない。このあたりはかって、広州と香港を結ぶ鉄道の始発駅であったが、鉄路を遠く後退させ、そのあたりを埋立てた土地である。昔の英国政庁が美術館や、音楽ホール、劇場といった公共文化施設を建て、隣接して、我がホテルを含む大きな商業施設を私企業が作った。ところが、こっちの方は一年程かけて昨年はサラ地になり、ホテルだけは辛うじて残っている。 露天風呂から下をみると、地上では建築工事が始まっている。後楽園球場一帯ぐらいはありそうな広さである。建築物の高さ制限がなくなったようだから、土地の少ない香港では、また四百米近い高層ビルが建つだろう。 香港の空港と市内を結ぶ電車は、香港島と九龍半島にある二つのエアーターミナルに二十分ぐらいでつく。そのどちらにも、四百米クラスの超高層ビルが建っていて、それぞれに超高級なホテルが入っていて、高級ブランドの立ち並ぶ広大なショッピングセンターとなっている。箱崎のように惨めなものではない。 九龍側の終着駅はエレメンツというショッピングセンターで、最初何故こんな孤立した場所にと日本人らしい疑念を抱いたが、数年たってみると、立地に納得が行くようになった。北京と広州を八時間で結ぶ新幹線が開通したばかりである。それが、広州から香港へ延びてくる。その終着駅の壮大な土木工事が、エレメンツの横で進行中である。住民の反対運動があって遅れていたというが、あと二,三年で開通するだろう。かってペンペン草が生えて、ゴルフの打ちっ放し場しかなかった埋め立て地が、人々の集る中心地の一つになるに違いない。エレメンツそのものも開業当時の十五年前は、閑古鳥が鳴いていたが、今は人も多い。 あちこちで展開されている巨大な建設現場をみると、香港ではそれが必要だからやっているという感じが強い。日本では、何のためにという疑問が湧くことが多い。 アメリカ全土と同じ位のダムの数がある日本を考えると、今後は、取り壊し工事の方が重要になる気がする。日本では建設業が破壊業を兼ねるだろう。香港で住宅といえば、一戸建は不可能だからマンションになるが、いまだに供給不足で高騰が続いている。六十平米ぐらいの中級マンションで,七,八千万円はするらしい。それが高層だから、不動産業はブームといってよい。日本だと大抵のマンションは二割程度空室だし、おまけに都心回帰だといって、どんどん マンションを市内に建てている。人口減の現在なんのためにと思わざるを得ない。 その日本からみると、今の香港は建築バブルである。昨秋、取引銀行のセミナーがあって、長い間マレーシヤにいた講師の話をきいた。シンガポールの国内総生産の一人当り額が日本の倍あると聞いて、「日本が成長率を増やすのに、シンガポールに学ぶべき点はありませんか?シンガポールでは農業も産業も殆んど存在しないのに」、と質問してみた。ところが、「投資にカジノと不動産の値上りで、成長率の自動向上ですからねぇ、働いて稼ごうとする我国の先生にはなりませんなぁ」という返事だった。経済成長率の七割近くが個人消費にかかっている。ところが、日本人は、一応何でも持っているので、お金を使はない。欲しいものが、年とるとなくなる。人口の三分の一が、その年寄りである。人口の減る社会に、不動産の値上りは、平均するとない。これでどうして成長率を維持するのか。日本人は金利ゼロでも貯金するが、投資には、誰しもが熱心とはいえない。公共投資といって、政府の金で何かを作り、誘い水にする手はあるが、水が続々と出てくればよいが、チョロチョロと出て大抵終る。というのは、必然性を欠いているからである。人々の夢をかき立てるものがない。 こういった疑念は、香港の繁華街を歩いていると全く湧いて来ない。それは町に溢れるように中国人がいて、あらゆるお店でお金を使っているからだ。昨年一年の香港に来る外国人は史上最高の四千六百万人という記事が新聞にでていた。その八割は中国本土からという。日本ではシャネルとかエルメスに買物客が一杯というのは見たことないが、香港では店内に一杯どころか戸外に列を作っている。海外に出る中国人は、バブル期の日本人旅行者同様、高いものが好きである。今や香港での時計を含めた高級ブランド製品の小売値は日本と変らない。それはひとえに小売店が高額の家賃を払はねばならないからである。香港の一等商業地の賃借料は銀座よりもはるかに高い。ニューヨークやパリより高い。一坪あたり三十万円以上になる。小売値が高くなっても中国人が買うのはまだ高い関税や贅沢税があるからだろう。例えば銀座道りの三倍はありそうな香港一の通りネーザン街を車で通りすぎると、一番目立つのは「周大福」「周三三」「六福」「景福」「謝瑞麟」といった中国人相手の宝石店である。これ見よがしの巨大な看板を外に出している。これが道路の両脇にひしめいているといって過言ではない。同じ経営の店が道路をはさんで向い側にあったり、百米おきにあったりで、共食いにならないかと心配するが、杞憂にすぎない。どの店にも必ずいつも客が入っている。日本の宝石屋がみると羨ましく卒倒しそうになるだろう。数においてやや劣るが時計店も少なくない。「エンペラー(英皇)」「オリエンタル(東方)」「ハレウィナー(喜運佳)」「プリンス(太子)」といった高級品専門のお店、ロレックスやロンジンの専門店、シテイ・チエーンのような中級専門店が軒をつらねている。これら小売店は殆んど上場銘柄である。さすがスイス全ての時計の五十%以上の輸出を占める中国市場の門戸である。 香港には、今のところ、過当競争という言葉は存在しない。このあくなき中国人旅行者の購買意欲が香港経済を推進している。日本も、もう少し本気になって、心底にくすぶる中国人軽視の念をかなぐり捨てて中国からの旅行客に対応し、彼らがより買物をするよう方策を立てるべきである。消費を増やすには、それ以外ないと段々、滞在中に確信するようになった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
FH誌とスイス時計業界 世の中は新年であるが、今回読んでおるFH誌は、昨年の第二十号 十二月十三日刊の最終号である。原則的には、二週間毎の木曜日に発刊されている。一年は五十二週あるが、十二週分は夏と冬の休刊になる。FH誌というのは、スイス時計産業連盟の公式な機関紙の名前が「REVUE FH」であるから直訳である。雑誌が英語のレヴュー「REVIEW」でなく、フランス語のルヴュになっているところから 判るように、英仏語併記の記事を増えているが、殆どがフランス語で書かれている。新聞記事の記載は、地元の地方紙中心なので、仏語、たまにビエンヌ発の独語の新聞記事が載る時もある。ビエンヌは、独語圏と仏語圏の境界である。スイスの時計産業地区は、ジュネーヴから東方向に北上し、ジュラ山脈とフランスの国境に沿って東行、途中で南下して湖畔、ニューシャテルからビエンヌに至るといって良い。だから時計に関係する人は、殆どフランス語を母国語とする。春の時計見本市で名高いバーゼルは、伝統的な時計産業地域には入ってない。バーゼルはドイツ読みで、フランス語では、バールという。ビエンヌもドイツ語では、ビール、ジュネーヴはゲンフになる。スイスは、独、仏、伊にロマン語を公用語としているので、たいていの人は、たとえフランス語圏に住んでいても、ドイツ語を話す。日本人は英語が下手と言うが、スイス人の頭脳構造に劣っているわけではあるまい。実際に使う必要性が少ないからに過ぎない。大阪から東京へ出ると、英語が話され、駅名も看板もみんな英語ならいかな大阪人でも英語を話さざるをえない。スイスでの異語圏の距離はそんなものである。必要は発明の母というが、語学習得の母ともいえる。 バーゼルから北へ国境を越えると、ライン川の西は、仏蘭西領のアルザス地方である。戦争の度にドイツ領になったり、フランス領になったりした地区だが、そこの小さなケーゼルベルグという町でアフリカの聖者と称されたアルバート・シュヴァイツェー博士が生まれている。医師だけでなく、神学者、オルガン奏者、バッハの研究家として、それぞれの分野で、偉大な足跡を残している。その著作はドイツ語によるものだが、フランス語を自在に話した。その従兄弟がフランスの哲学者で有名なジャン・ポール・サルトルだが、著作はフランス語でもドイツ語に堪能であった。シュヴァイツァーは、自分の経験から母語を夢を見る時の言葉と定義している。スイスの時計人の殆どは、フランス語で夢を見る人だろう。 話がそれたが、FH誌には多くの広告が載っているが、当然ながらブランドの広告は一切無い。大手メーカーのお付き合い広告はなくて、ムーヴメントや部品、工作機械、外装箱といった業者向けのものばかり。いつも見ていると俺だって金さえあれば、立派な自分の時計を造り上げれるぞという気になる。表層には時計という製品が市場に出るがそれを下支えしているネットワークが出来上がっている。これがスイス時計の多様性を生む構造になっている。 例えば今号にも広告を出しているデュボア・デプラズというムーブメントを作っている工場がある。その工場に関する新聞記事が今号に出ている。創業百年以上続く会社で、創業者のマルセル・デプラズは、元々はパン屋の息子であった。発祥の地ジュラ渓谷のル・リュウに二百三十名、ビエンヌ州のアルクに六十名の従業員がいる。一九三七年に発表したクロノグラフ・ムーヴメントは、一九七〇年までに三百五十万個は売れたという。クオーツ全盛期には、電子部品に転業しかけたが、機械時計の回復と共に複雑時計のムーヴメント・メーカーとして隆盛を誇るようになっている。十年ほど前の資料によると、AP,ブライトリング、ジャン-ディーヴ、パティック・フイリップ、ヴァセロン・コンスタンタン、オメガなどがこの会社のムーヴメントを利用している。こういう独立的な下請けが存在していることが、スイス時計の強みであろう。またこういうところからムーヴメントを買っていた会社がマーケッティングで世界に自分のブランドとして売りさばき、お金を儲けて自社内でムーヴメントを作り始めるケースも多い。また反対に下請け専門のメーカーだったこの会社がピエール・ドロッシュという自社ブランドを作り始めたりしている。外からスイスの業界を見てみると中々面白い。 なお参考までに、FH誌の購読料は外国向けは送料コミで年間四百フラン。会員は勿論無料。広告募集の項に、六千人以上の時計関係者が読んでいるとあるから、五千部ぐらいは刷っているのだろう。 ニセモノ退治 私は基本的にアナログ人間だから、携帯電話は移動式の公衆電話を持ち歩いているぐらいの感覚しかない。自分からかけるだけ。アマゾン・ドットコムがアメリカで流行し始めた頃、よく本やCDを注文したが読みもしない本が溜まるのと、この本はお前が気に入るだろうと勝手に推薦してくるので、気持ちが悪くなってやめてしまった。よく当たる易者に見てもらう気色の悪さ。インターネットで注文するのは、ホテルか航空券ぐらい。安さには抵抗し難い。ところがオーストラリアのメルボルンに住む娘は、年中向こうから色々なもの,主としてファッション製品を注文して、我が家に送らせる。帰省した時にまとめて持って帰る。まあ一流ブランドが驚く安さなので、ニセモノだろうと言うと日本人はあまりニセモノは売らないわよという。それに使った後でも、オーストラリアの自宅からまたネットで売りに出すらしい。買った値より高く売れるときもあると笑っている。昔、高かった電話代が、今や無料のTV電話のスカイプの時代になって、母娘が相手の顔を見ながら、あれ買ったとか、くだらない長話をしている。ITとは一体どうなっているのかと考えて込んでしまう。 素人の娘がインターネットで売り買いが出来るのだから、ニセモノの時計を売るサイトなんか、雨後の筍のようにあって捕捉するのは不可能な気がする。モグラ叩きみたいなものではなかろうか。ところが人間が発明したものには、必ず対抗する手段が発明される。スカッド・ミサイルを撃墜するするパトリオットがあるみたいに、FHでは二年間かけて、ニセモノを売るサイトを自動的に発見し、警告し、告発するシステムを完成した。昨年の十月から稼動しているらしいが、数週間で九百以上のサイトを見つけ、八千五百件の警告をし、二百五十のサイトが閉鎖されたという。これまでの一年間以上の成果らしい。しかしどうやってネット上のニセモノを判定できるのか、アナログ人間には良くわからない。これはFH誌の巻頭報告。 しかしサイトを閉鎖に追い込んだところで、ニセモノはなくならない。その集散地は今やドバイ、あのアラブの夢の都らしい。ドバイにも怪しげな数階建てのビルが立ち並ぶ下町があって、そのビルにある倉庫を警察と協力してガサを入れるルポタージュが出ている。アラブ人は大抵、地区全体が商店とも住居とも通路ともつかない複雑な建策群を作る。場所の特定は外人に困難である。FHがアラブ人の匿名の調査員を雇い、つねにニセモノ集散地の情報を集めている。この男は、後の活動のため顔が割れぬよう襲撃には参加しない。警察に同行をFHが依頼するのは、コワモテの軍人上がりのアラブ人。ガサ入れは、見事に成功して黙秘する番人一人に手錠をかけ、一万個余りのニセモノ、保証書、クロノメーター保証書、外箱と共に無事確保する。迫真力のある文章で、小説の一場面のような場面であった。 二〇一三年度 ジュネーヴ時計グランプリ 昨年末近くに第十二回目のグランプリその他の表彰式が開催された。紙面の都合で受賞作の名のみの掲載となる。 ▽グランプリ=タグホイヤー・マイクロガーター、▽男性用時計賞=マキシミリァン・ビュッセー、レガシィマシンナンバーワン、▽スポーツカテゴリー=ハブリング、ドッペル20、▽女性用時計賞=シャネル、プルミエール・トールビョン・ヴォラン、▽グランドコンプリカション賞=グルーベル・フォルセイ、アンヴェンション・ピェース、▽七千五百フラン内優秀賞=ゼニス、パイロット・ビッグ・ディト、▽特別賞=スイスクロノメーター協会、▽最優秀時計師賞=カルティエ社、キャロル・フロレスチェ、カサビ(女性)。 これらの時計と競合した製品全70点は、今後香港・上海・ジュネーヴで展示される。残念ながら日本には来ない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「ウオッチ・オブ・ジ・イヤー」の一位がブルゲの樽型 毎年年末に近づいてくると、色々な賞が発表される。スイスにはウオッチ・オブ・ジ・イヤーというある時計専門雑誌が、しかるべき専門家を選んで、その年に発表された優れた時計に与える賞がある。その発表会が、この十月二十六日にジュネーブの高級ホテル、インターコンチネンタル・ホテルで六百人からの招待客の中で開催されている。今年で十九年目になる。一位がブルゲの樽型をしたムーン・フェイズ・レトログラート八八六〇というモデル、二位がロジェ・デュブイのベルベット、三位がカルチェのベニョフール・フォル(狂った浴槽)というおかしな、パンチの利いた名の時計。二百個以上生産されて、小売値が五百万円以下というのが条件だそうだ。その他の特別賞が、ジャガールクルト社全体に与えられ、広告表現で、ピアジェ、ロジェ・デュブイ、エルメスが表彰されたと巻頭に報告されている。 こういった授賞式は一種のお祭り騒ぎだから、どうでもいいのだが、例え選考委員たちは第三者であるにしても、雑誌社主宰となると、大きな広告主ばかりが賞を得るのかという気になる。 車でもカー・オブ・ジ・イヤーをもらった車種は鼻高々で広告をする。以前は、それが消費者の信頼を得るのに役立ち、売上にも貢献しただろう。ところが、今や車全体の性能が向上し、同じ価格帯なら、たいした違いがないことを消費者は知るようになっている。あとはデザインの好みの問題になっている。新奇性もあるが、売れるようになればみんな真似をしてすぐ解らなくなる。カー・オブ・ジ・イヤー、なんとスゴイ車であったものが、もうそれ程の権威はなくなっている。 車だって性能よりも名前で買っているのだから。持っている人が車程その性能を体感することのない時計などは、益々その傾向が強い。腕時計の性能とはなにか、時間が正確であること、壊れないこと、デザインの美しいこと、付け心地の良いこと、これにつきる。精度において、電波時計に勝る機械時計は存在しない。性能において十分な腕時計は三万円もしない。一万円以下でも見つかる可能性はある。時計は性能の世界からすっかり離脱している。ファンタジーの世界だと言える。性能と価格を常に考えて行動するのは、実生活では必要であるが、その思考回路はファンタジーの世界では野暮という。 ジェームス・ボンド映画五十周年とオメガ 映画は完全にファンタジーの世界だが、今年公開される「007スカイフォール」は007登場以来二十三作目、五十年目になる。初代007のショーン・コネリーの出演した数作は全部ロードショーの映画館へ見に行ったから、自分の年寄り加減が痛感される。あと五人の俳優がボンド役をやっているが、やっぱりショーン・コネリーが一番よかったなと思うのは年のせいか。男の精気みたいものが発散していたし、活劇や男女のぬれ場だけでなしに、ロンドンの諜報部での上司達との交渉の場面も面白かった。私のベストワンは「ロシアより愛を込めて」である。時計は小道具として始めから使われていたが、オメガの名が使われたのは、一九九五年のピアース・ブロスナンのボンド役以来だそうである。新作のボンドは、ダニエル・クレイグでシーマスター・プラネットオーシャンというオメガをつけて登場する。オメガ社は単にこれを映画に提供するだけではなしに、記念モールとして、限定五千七個を売り出す。六百米防水、コアキシアル・シリコン製テンプ、「007スカイフォール」刻印入り。値は記事に書いてなかった。 ここからまた余談になる。記念限定モデルがいろんな製品で大流行である。確かに自分が非常に興味がある人物や出来事を記念するモノを購入したくなる欲求が人間の中にあることは認めざるを得ない。旅に出ると記念に人は土産物を、他人のためではなく自分のために買ったりする。銀婚や金婚の記念になにか贈りものをする。これはよく解る。 今は百貨店がみんな合併してしまって創業年度がややこしくなったが、ついこの間まで古い老舗が各地にあった。例えば、創業二百年になるから、二百万円で、二百個限定のこれこれの品物を売り出そうという安易な企画が出てくる。売れ残りは、大てい納入業者に押し付けられる時代だった。が意外にうまく売れるのが不思議でならなかった。銀行なども創業何年だから、記念定期預金をしてくれなどとよく言って来た。 売り手が勝手に、記念を決めて、売るのに、のるのは、浅はかと考える当方はへそ曲がりなのだろうか。それとも、きっと欲しい人がいる。一ヶだけでは勿体ないので、その人達のために限定してお裾分けをしていると考えるべきか。TXの通販でも、この品物は限定のため、在庫はあと何ヶとなりました。注文の電話を早く下さいなどと言っている。人は限定に弱いらしい。こっちは興味がないから、なくなったら買わなきゃいいと思って見ている。 クロノメーター調整コンテスト 日本の時計学校は、現在二校しかない。ロレックスが援助していたテクニカムは、休校になった。設備も先生もカリキュラムも素晴らしかったけど、十分な就職先を斡旋できなかったためのようである。あとは三年制のヒコみづのさんと近江神社経営の二年制近江時計学院。いづれにしろ、今のところ時計の修理工養成を目的にしていて、時計の製作までには至らない。 スイスの時計学校の目的は昔から時計の製作にあった。機械時計の近年の発達からまたその傾向が少しづつよみがえっている。今年で三年目になるが、この九月二十日に、モントルーのストラヴィンスキー館で最終クロノメーター調整の審査発表が行われ、八百人の関係者出席の場で三人の若者が、金・銀・銅メダルを得た。スイス国内十四の時計学校から、九十人の生徒が参加した。二月に調整すべき時計をキットの形で受け取り、七十七ヶが提出され、クロノメーター検査協会に回され、ISO三一五規格に合うか試験され、三六ヶが合格した。 若者達が意欲を持って学ぶスイスの時計業界は、やっぱり少し羨ましい。日本でこれだけ沢山機械時計も売れて来た筈だのに、修得技術者の働き先がないとは、意外である。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
FHが行なっているネット上のニセモノ対策 フランスの哲学者パスカルは人間を考える葦だと言っている。葦のように弱い存在だけど、思考することによって弱さを克服することができる可能性をもっているということらしい。動物にはできなくて、人間だけができる行為だから人間を定義すると、人間は遊びを知っているから、中世史家のホイジンガは、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)といっている。 近頃、夜中に目覚めてテレビを入れてみると、大ていモノを売っている。デパートの中で口上を述べながら売っていた人達がみんなテレビに移動してきている。イタリアのオペラ作曲家にドニゼッテイと言う人がいる。作品に「恋の妙薬」があり、いわゆる“惚れぐすり”にだまされる田舎者の喜劇である。テレビで上手な売り手の芝居をみていると、このオペラの惚れ薬売りの巧みな口上を思いだす。あ、欲しいな、と度々思うけど、手続きが面倒でまだ注文したことがない。電話であれこれ指示されるのも好きでない。しかし殆んどすべてのテレビでモノを売っているのをみると人間はモノを買うヒトと定義してもいいのではないだろうか。ストレスの発散に買い物する人など、犬猫にはあり得ない。 TX販売の大手「日本直販」の経営が行きづまったと最近の新聞が報じていた。ネット販売におされて売上げが減少したためという。統計をみると、確かにネット上の小売りの売上げは激増しているが、画面を開かないかぎり、気づかない。町中を歩いていると、コンビニの進出はすさまじく、このような業態が流行しているのは肌で感じられる。近頃は、金製品、ブランド品の買い取り屋さんもよくみかける。しかしネット屋さんはみることができない。多くの若い人達は机上の画面で買物をしているのだろう。今のところ、自社の管理下にないかぎりネット販売はブランド品にとって、見えざる敵である。特に本物とみまがう品物をネットで販売された場合はブランドの脅威となる。 FHでは、対策室を設けていて、ネット上のニセモノ対策を講じている。 Replicahause.com,fakesale.com,replica2u.com,watcheswellといったサイトが、これまで対応先として上って来た。二〇〇六年来これらのサイトを通じて、世界中に何十万個という数のニセモノ時計が販売されている。これまで、こういったニセモノ専門サイトは、法律によく通じていて警告を発しても馬耳東風であった。インターネットはおおむねアメリカ発で、アメリカの法律に従うのが通常である。そこで対策案は、七年前に発足したのだが、個々のサイトへのアプローチより、大元を絶つことにした。ここにあげた四つの代表的なサイト以外に怪しげなのが、百十三もある。そこで、各サイトのドメインを割り出し、サイトにアクセスできぬ手段をとるようになった。アメリカに「ヴェリサイン」という、ドットコムやらドットネットの登録を一手に扱う会社があって、この会社と直接交渉し、知的財産保護法を守るようドメインに協力を要請することになった。これによってニセモノサイトは、ドメインから追い出されるので、対策室は「大きな勝利を得た」と、今号の巻頭業務報告にあった。 ドメインから追い出されるというのは、ショッピングセンターから法律違反しているから出て行けと命じられる店舗みたいなものだろう。ネットに展開する技術があれば、すぐに次のドメインに移れそうだが、大元の「ヴェリサイン」社をおさえているから大丈夫ということなのか。果して、大元はもっとあるのか、ネットにくわしくない私はさっぱり解らない。 ニセモノ退治はFHの大きな仕事の一つで、この部門の人達が九月に香港で開催された時計見本市でも活躍したとの報告が、この号に載っている。同じく九月に宝飾見本市が開かれるので混同されやすいが、時計とクロックの方である。今期は九月五日から九日までの五日間。業務を委託された委員たちが、あの広い会場に展示された七一二のウインドウを綿密に商標や商号登録(香港における)の違反が無いか、スイス二十三社の要請で調べ上げていく。今年で四年目という。費用がかかることだが、やっと成果が上がり始めたという。スイスで人気のデザインコピーらしきものが、あちこちで出てくる傾向らしい。昨年流行したものが今年は無くなったりする。このあやかりたい心情は分からぬものでもない。 東洋人はおおむね、ニセモノや似たようなものには対して寛容である。骨董の世界などニセモノは常識で騙された方が悪い。偽者が出るほど、立派だという感覚もある。ニセモノ、コピーを悪とする思想は、西洋の個人主義の産物であろう。個人の権利が確立した社会からやってくる。これ街角で買ったニセモノだが、安い値で上手く真似してあるなあということが、ユーモアでなくなり、犯罪となった。香港の見本市開催当事者がこのような外部の調査を受け入れているのも時代の流れだろう。 さて、見つけ出した違反は五十一件、そのうち四十六件が見本市側に提訴。弁護士達が審査して二十八件が、検討に値すると判断され(昨年は三十二件)十八件は却下された。罰はというと、悪質出展者は、翌年出展を拒否される。 今年のガイア賞、受賞者たち 毎年、春分の前の木曜日(今年は九月二十日)、ラ・ショードフォンの時計博物館が時計関係者にとっての芥川賞のようなガイア賞の受賞者を発表する。 今年は時計技術者としてエリック・クードレ、時計史研究者としてフランチェスコ・ガルーフォ、経営者としてフランコ・コローニの三氏が選ばれた。 経歴を見ると三人は共に相当変わっている。写真で見てもみんな肥満型の愉快な人物らしく、「陽気さと冗談が会場に満ち溢れた」と報告されていた。 クードレは、ジャガールクルト社で新型アトモスの開発、ジャイロトゥールビョンの発明などで知られる技術者。ガルーフォは、画商やら雑誌編集者を経て、一方ニューシャテル大学で歴史・考古学・政治学を専攻し、ベルフォール・モンベリャール大学院で経済歴史学を学んだ。博士論文は、スイス時計産業と移民を論じた「時の用途」であった。 コローニは、日本でもおなじみの方が多いだろう。イタリア人でミラノの有名なカトリック大学の歴史演劇部の教授であった。その後、カルティエに入社してリッシュモン・グループの時計部門拡大に大いに寄与した。忘れられたイタリアン・ブランドパネライを復活させている。ジュネーブサロンの発案もコローニである。二〇〇年来カルティエの社長であり、バセロン・コンスタンタンの社長でもある。ミスター財団と言われるぐらい社会貢献の為の財団をいくつか作っている。印象を求められて、クードレは、「アイデアはたくさんあるけど、足らないのは金主だ」といい、コローニは「工業社会でも発展させるのは、資金ではなく人材だ」と述べている。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
相変わらず続くスイス時計産業の好調 相変わらずスイス時計産業の好調は今年度も続いている。今年前半の金額増は、前年比十六%であった。八月の工場は夏休みだが、それでも輸出の方は十二・七%の伸び、金額で十五億スイスフランになっている。 好調の原因は、単価の高い金時計で、輸出値でニ百フラン(小売で五万円)以下の時計は売れていない。五%の減である。二百〜五百フラン(小売で五万円〜十三万円)が十%増。その上、百万円(三千フラン)の小売上代ぐらいまでが、やや不調で、昨年並みから少し下降。なんと百万円以上が二十一・五%となっている。 米国と香港向けが好調で、欧州特にフランスとドイツも同様、二ヶ月ばかり前年比を落とした中国も復調、シンガポールは最下位といった報告が出ている。 実は日本のメーカーも円高にも拘わらず、スイスはフラン高で日本とは、同じ悩みを抱えているのだが、輸出は健闘している。しかし売上げの半ばを占める国内市場がはかばかしくない。それに百万円以上の日本製時計は輸出しても買手が稀少である。スイス製の弱い低価格市場の上の部分を日本製が担当している。つまり優れたクオーツ時計。 今号には、スイスの時計産業労使協調機構が実施したアンケートの結果が出ている。十名以上の従業員がいる二百八十社を相手に調査したもの。これで従業員総数は三万六千六百二十人となり、産業全体の八十一%をカバーしている。企業の発展のために、どんな職種が今後五年間に必要とされるかということを、職業教育のプランを実施するために問うたものだが、必要度の順番に書くとこうなる。@精密機械工(マイクロメカニシアン)、A組立工、B文字盤製造工、C外装仕上げ工(彫刻装飾などを含む)、D精密技術の設計・製造工となる。日本のメーカーでは、これら全ての職種が社内に包含され、社内で問題が解決されるから、こんなアンケートはお役人の遊びにしかならないだろう。 調査の結果を分析して、今後五年間に、約三千二百人の、直ぐに仕事の出来る職工が必要とされることが判明した。そのうち二千名は、各社内で訓練中で、補充可能である。残りの千二百名を補うのが外部公的機関の仕事になっている。面白いのは、日本では専門の大学や高校を出ても直ぐに役立たない。社内でニ、三年は職工としての教育を施さないと使い物にならないのが常識である。ところが徒弟制度の本場みたいなスイスでは、社内で育つのが四分の一で、後は、即戦力になる学校出身者が、もしくは資格保持者らしい。いずれにしても、全体として十%近くの人員増が五年間で期待されているのは、リストラ全盛の日本から見ると羨ましい。 こういった報告を読んでも、日本と異なる点を感じ取ってしまう。日本ではまず、高校・大学では一般教育が中心で、ある種の技能専門家を育てて、卒業して直ぐ役に立つ人材を、医学系以外は育てなく、専門学校制度が、その側面を担っていることである。最も、これには良い面も悪い面もある。 もう一つ、こっちの方が大切だが、官民協力が日本ではチグハグである。特に中小企業関係では、役所は役所、企業は企業で、相手を信頼してなく、問題を同じ立場に立って解決しようという提案がごく少ない。結局は助成金になってしまう。アンケートなどもよく出てくるが、何の為かよく分からないのが多い。その点、隣の芝生が美しく見える例かもしれないが、スイスでは官民協力して同じ目標を作り、ステップごとに両者で検証している気がしてならない。スイスでは、国も小さく、人口も少なく、かつ地方性が強いから人と人との距離が近くなる。 農村で作られていた時計 以前にリズム時計の社長をしておられた大津学さんに電話で教示してもらったのだが、リズムの前身は農村時計といって、キリスト教社会改良家であった賀川豊彦氏の発案で春日部に近い庄和町で始まった工場である。戦後、若い復員兵も戻ってくるし、農夫には休閑期がある。戦後海外から六百万人が帰還した。丁度スイスのように農村で時計を作れば、仕事もできるというのが理念であった。賀川は神戸にいた時スイスの生活協同組合を習って、欧州風のコオペテティヴ(COOP)を作った。後年、日本最大の組織となる灘生協である。関西では、ダイエーが出てくるまでは、スーパーの生みの親であった。現在でも阪神間に長く住んでいる人は、我が家を含めて共同組合であり、そのスーパーでの購入客である。組合員の利益を目標にしている店だが、利益を目的とする企業スーパーと値は変わらない。商売の不思議なところ。私はかってアルバ販社の社長であったが、社内規定に従って自社製品を買うより、納入先のヨドバシカメラで買った方が安かった。 スイスでは、元々時計は家内工業であった。しかも部品の分業で最終的には組み立てと完成品にする家が販売を専門にする店へ行ってカウンター越しに売るのが通例で、販売会社はカウンターのフランス語でコントワールと呼ばれていた。ジュネーヴは都会で、部屋(キャピネット)の中で、時計が完成されたから時計師は、キャビノチェといわれていた。時計製造はジュネーヴから始まり、色んな歴史的な要素があって、東上し、山地、ジュー渓谷からジュラ地方に拡がっていった。渓谷といっても、川に沿った平地で、斜面のきつさを意味しない。流域といってよい。このあたりは半年近く雪が積もっているので、農民はその間することがない。屋内で仕事が出来る時計とか、レース編みといった手仕事が盛んになるのは当然のなりゆきであった。現在でも、かって時計を作っていた農家が残っている。それは南向きの小窓が沢山ついているので直ぐ分かる。こういった時計作り農家は一七六〇年頃から、クォーツ時計が出現するまで、勢力を徐々に減じながらも生存していた。 この当たりのコントワールといえば、ラショードフォンとかルロックルにあった。冬のアルバイトに時計を作っていた農民たちも次第に土地を売って時計専業になってきた。一九〇〇年前後、例えばこの地域にあるレボワという村落では、一四五〇人の人口のうち六百人が時計業に従事して、年間ニ、三万個を作っていたという。勿論懐中時計ばかりである。現在、ボェシェというところにあるこんな時計業の農家の一つを文化遺産として保存するべく博物館にしようとする動きが、熱心な個人と公共団体とが協力して進行している。レストランを併設した観光施設として来春オープンされる予定である。昔は時計博物館といえば、ルロックルとか、ラショードフォンぐらいしかジュラ地方にはなかったが、あちこちに小さいのが出来て、時計街道を形成するようになっている。観光と自国民が誇りを与えるには、良い企画と思えるようで、地元の新聞は大々的にこれを報告している。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
休暇と国民性は大いに関係がある 今年の夏は、実に暑かった。特に厳しい残暑が九月中旬まで続いた。毎年、夏がずれ込んでくる気がする。スイスの夏は実に心地いい。それでも人々は夏休みをとる。FH誌も八月一杯は休刊。工場も大抵夏休み。日本人の眼からすると、スイスでは夏になると、時計工場の人は誰も働かない気がするけど、現状はどうなっているのか。 丁度この号に、来年の休暇について、労使の合意を伝えている。それによると、年の休暇日数は従業員にとって六週間。企業の一斉休暇は七月の十五日から八月三日までの三週間。企業によってその前後、どちらかへ一週間を加えるようにと協定はすすめている。だから七月十五日から八月十日まで休みの企業と七月八日から八月三日まで休みという企業と二通りある。いずれにしろ、一つの企業は四週間休みだが、前後一週間はずれるので、五週間は休んでいるように外からは感じてしまう。かなり小さな企業でもこんなに休む。後の二週間の休暇は、各自が取るようになっている。 日本の労働基準法でも、勤務年数が七、八年にもなれば、有給休暇は四十日あるから総日数はスイスと大差は無いが、四週間も続けて休みを取るサラリーマンはほとんどいないといってよい。スイスのように国土が狭く、業界が纏っているので一斉休暇が取れる。日本でも企業が丸ごと三週間ないし、四週間閉めてしまえばサラリーマンは休まざるを得ないが、今度は企業同士の競争が出てきて、そうは行かない。 ヨーロッパ人にとって休暇は神聖である。週七日のうち日曜日を安息日としたキリスト教の教義を拡大解釈したものだろうか。ついこの間もスペインへ遊びに行った友人が、国家の経済は破綻寸前で、失業率も高いのに、いい若者がバカンスと称してあちこちでぶらぶらしているのが多いと報告してくれた。 日本人にとって幸いなことに、働く事は大切だとまだ大多数の人が思っている。年に四十日の休暇といっても、そうは休めないよ、というのが一般サラリーマンの平均感情だろう。いかに儲かっている企業の経営者だって集中的に休んだっていいと思っても、ウチだけではなぁというのが本音であろう。実は私の会社でもバブルの頃、七、八月の二ヶ月で予算を決めたら、早めに到達した卸営業部員は休暇を大いに取るだろうし、会社もソンはなかろうと実行してみたが、うまく行かなかったことがある。 休暇と国民性は大いに関係がある。欧米人にとっての休暇は、本当にレジャー(閑)であって、なにもしないことにある。日本人は閑を利用して、忙しい旅程の詰まった旅行とか、郷里へ帰るとか忙しい。閑においても勤勉である。アングロサクソン系の金持ちは、かってレジャークラス(暇な階級)と呼ばれ、何も生産にかかわらず遊んで一生暮らし、それが一般人に羨ましいとされていた。もし暇な人がいれば是非ヴェブレンの名著「有閑階級の理論」(ちくま学芸文庫)を読まれんことを。日本では、この種の人は、むかし、高等遊民と呼ばれ軽蔑された。今のお金持ちは、お金儲けに忙しい。忙しいのは、富むものにとっても貧しき者にとっても日本人には美徳である。 二十年ぐらい前になるが、まだお元気だったサントリーの佐治敬三さんが、ある小さな会合で、作家の開高健の思い出を話してくれた。佐治さんの下で開高さんはPR雑誌を作っていた。日程の打ち合わせで、びっしり予定の詰まった佐治さんの手帳をみて、こういったそうである。「なんやこれは、犬の生活やないか」 スイスの対中国貿易 まだ尖閣諸島の国有化が実施され、今の日中両国間のゴタゴタが起こってない前の七月の初めに、スイスから経済大臣のシュナイダー・アマンが主導する使節団が北京・上海を訪問している。スイスと中国の間だから政治問題は無く、主として貿易や投資問題が主目的である。FHの代表も参加して、その報告が巻頭に出ている。 スイス政府の中国経済の見方は、こうである。今年の第二四半期、中国の経済成長率は七・六%と八%を切った。中国はヨーロッパの不安な経済状況のせいとみなしている。八%以下だと失業率が増え、内情は不穏になると考えられている。中国政府は、公定歩合を下げ、最低賃金を上げ、貸し出しを容易にする政策を取っているが、静観的で急場のしのぎにはなってない。 長期的な見方をすると、中国はこれまでの外国よりの投資と輸出依存から抜け出して、国内需要の喚起、エネルギー資源の開発、ハイテク産業の発展に向かわねばならない。時計産業に取ってみると、輸出国として中国は第3位だが、現実には、中国人がスイス製の時計の二個に一個を買っている。中産階級は現在、一億五千万人と推定されているが、二〇二〇年には四億人に達すると見られている。世界で最も魅力的な市場と言ってよい。 使節団の一員として中国と交渉したのは、ニセモノの摘発、特に南の香港に近い東莞、珠海、深セン三都市の製造業の監視強化で、これは協力の約束が得られた。こんな交渉が公式に行なわれるのは、今でもニセモノがどんどん作られているのだろう。もう一つは、時計の一万人民元(十二万円)以上にかけられている二十%の物品税の撤廃交渉だが、これは不調に終わったとあった。今年中に後二回、両国の間でこの貿易交渉が行なわれる予定とみられている。 ブライトリングの近況 つい数年前までは、時計の世界ではブランドによって身分の序列が長いこと固定していた。特に高級品では、パテック、ロレックス、オメガなど、知る人ぞ知る名前が上位を占めていて、新しいブランドが、その階層に入り込むのは考えられなかった。ところがこの十年で新しいスターが輩出してきた。その代表がブライトリングで、一八八四年にレオン・ブライトリングという人がクロノグラフの製造を中心として創業した時計工場である。はじめからプロペラ機のパイロットたちに愛用され、その世界では良く知られていた。会社は三代続いたが、クオーツの時代になって、精度の点で、機械時計は敵はないと見たのか、孫のウィリーは、会社の在庫と名前ごと(八十四カ国で商標登録済み)を一九七九年に売却してしまった。その値はたったの六万スイスフランだった。今なら高めの時計一個分の値段である。買ったのは現オーナーの先代にあたる、元パイロットの電子技術者で、当時はピンレバーの安物時計を作って財をなしたエルネスト・シュナイダーという男で、当時五十八歳。クオーツにピンレバーは将来対抗できないとみた賢い、かつ幸運な決断であった。 今の社長は、二代目のテオドール・シュナイダーだが、事実上の経営は、入社二十年目の副社長ジャン・ポール・ジラルダンが腕をふるっているらしい。彼とインタビューした新聞記事が今号に転載されている。 内容としては、これまでスウォッチから買っていた主力ムーブメントを自社の工場で作れるようにして、独立性を保ったこととか、ブライトリング専門ブティックが必要で、スイス、ドイツ、日本が主要な市場だったのが、近年かなりグローバルになってきて、中国にも年内に三店舗作る計画であるとか、常識的な答えが多い。かなり核心を突いた質問が多いのに、うまく優等生の受け答えで、はぐらかしている印象を受けた。かなり頭の良い人である。ただこれまでのように外部の多くの工場の協力を得て時計を作るよりは、自社内で作る方がコスト高でもずっとイノヴェーションがやり易いといっているのは卓見である。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
私にとって一番暑い夏は1985年であった 関西では、7月17日の祇園祭から25日の天神祭までの間が一番暑い一週間とされてきた。そのあと8月16日、京都大文字の送り火でひと夏が終わる。その頃になると,ひぐらし蝉が鳴き始める。波が高くなって海水浴が危険になる。街角では、盆踊りの台が作られる。さあ、まだ夏休みの宿題が出来てない。これが私たちの少年時代の長くて短い夏だった。 しかし現在では、夏の暑さが8月にずれ込んだ気がする。8月になっても今年もまた暑い。私にとって一番暑い夏は1985年であった。8月12日に日航機が群馬山中に墜落した。その便に弟が乗り合わせていたのである。藤岡という町に対策本部が設けられ、遺体らしきものが、見つかるまでの一週間この昔の宿場町で過ごした。カンカン照りの日が続き、終日ヘリコプターが頭上を飛びまわり、本部のあたりで家族たちは、日航にくしの殺気に満ち、死臭が当たりに漂っていた。そのときもメディアは日航の危機管理の甘さをなじった。 鉄の塊である飛行機が空を飛ぶのは、そもそもおかしい。確率は少なくても必ず落ちる。一番安全とされる旅客機ですらもよく利用する人で落ちるのかもとの恐怖感に飛行中襲われなかった人はいないだろう。それでも人々は空便に乗る。早くて便利だから。海外旅行に船で行ったら、時間はかかり、高くつく。勿論航空会社側の危機管理は重要だが、乗りさへしなければ、危機もヘチマもない。人生はその他の危険に囲まれているけれど。また私のように飛行機事故は一瞬だし、運命みたいなものだから、もうそろそろいいかと思って諦めながら乗る人もいるだろう。 事故というのは、福島原発の時のように大抵想定外である。小さな自動車事故でも、運転者にとっては想定外の出来事だろう。想定外のことが事故が契機で、想定内に入る事によって技術は進歩する。技術の進歩には必ず犠牲を伴う。 企業における危機管理の話 危機管理という言葉は、人身に関するものという誇張があって、企業経営においてはリスク・マネジメントと表されている。何度かその講義に通ったこともあるが、講師の方々は、常にリスクを回避することがいかに大切かが強調される。然し、技術もそうだが、企業でも他人の怖がるリスクに挑戦してこそ発展がある。籠城戦では、敗戦は避けられるかもしれないが、打って出た方がリスクは高くとも、勝ち目もある。お役所に何か新しく取り上げてもらおうと出かけると、前例がない、私の権限ではないと責任回避に直面する。リスクマネジメントが行き渡っている。私の権限ではないが、面白い提案だから権限があるところに同行してあげましょうという人に会ったりすると地獄に仏である。まあ有得ない。 しかし企業を経営していると思わぬ落とし穴に嵌ることも多い。正しいと思ったことが、世間には通じないことがある。そこでコンサルタントの出番が来る。今号のFH誌には、新しいリスクマネジメント・コンサルタント会社の一頁全面の記事広告が出ていた。主張が要領を得ているので紹介する。 企業におけるリスクとは何か。まず可能性のあるリスク、想定できる限りのリスクを列記する事に始まる。この段階で既に他人の目が必要とされる。隠れたリスクを嗅ぎ分ける鼻は、他人の方が優れている。リスクのリストが出来上がると、そのリスクによる損害額の計算をする。同時に発生確率も。発生確率が高くても、損害額が少なければ社内で処理する事にする。滅多に起こらないことだが、被害額が巨大という場合には保険に頼る。 この広告記事を出しているのは、ニューシャテルにあるケスラーというコンサルタント会社である。時計のリスクとは、人命に関する事はないが、ケースに使う金属がアレルギーを起こさせたり、電池が漏液したり、知らずにデザイン盗用になったりといったことだろう。実は、原材料から製品までの製造上の一連の流れ、また出荷から世界中の消費者に渡るまでの過程を精密に分析する組織(ビジネス・コンティニュィティ・マネジメント)があって、それに頼るとかなりのリスクが回避されるらしい。 ケスラー社では、解決できない問題はニューヨークに本社があるマーシュ・アンド・マクレナン社に協力を依頼するから安心されたいとあった。なんと、このアメリカの会社は百カ国以上に展開していて、5万2000人のリスク管理専門家がいるという。早速ネットを見てみると東京や大阪にも支店があって、特殊なリスクのある保険を引き受ける保険会社で、グローバルリスクに関しての最大手という。中小企業の親父には知らないことが多すぎる。 この稿を書いているときに、ロンドンではオリンピックが進行中である。前の北京オリンピックは、全てが過剰であり過激だった。開会式を見てショー業主義はここに極めりという気になった。中国の権威をかけた演出だった。その点ロンドンでの開会式は、両方ともテレビ画面で見たに過ぎないが、洗練されていて良かった。各国の選手が次々とグランドに入ってくる入場式はやはり感動する。人間皆同胞の感がある。経済を活性化させるのが主目的のオリンピック招致は下らない。やっぱり古代オリンピックのように平和理念が無ければならない。私の大阪は、理念なくして計算一方で、招致運動をしたから、ものの見事に敗退した。オリンピックが来ても、うるさいだけだと考えた多くの大阪人は、心中快哉を叫んでいた。でも、東京がもう一度開催地になって欲しいと思う、理念の共感によって。カジノを作るよりずっと良い。 東京でオリンピックがあった年は、1964年で、セイコーが始めて公式記録計時装置となった。東海道新幹線が開通し、京都と大阪の間で初めて高速道路が出来た。私は大学院に籍を置きながら、父の会社でも仕事の真似事をしながら、給料を貰い始めた年である。 時計ではまだオメガの全盛時代であった。その前年父とビエンヌの工場を訪れた時、父は年間の生産量を質問した。120万個という答を聞いた父は、安心したような表情をした。セイコーは確か200万個ぐらい作っていたからである。当時は量の時代であった。量の時代はバブルがはじけて21世紀に入り、完全に終わっている。オリンピック招致も、ゼネコン思考に促されて昔の夢再びと、利益誘導を考えるときっとうまく行かない。 今のスイス時計の繁栄は、多くのプレイヤーが参加していることと、イメージの優先に起因している。国内ではマラソンで言うと、セイコー、シチズン、カシオ、オリエントと四人のランナーしか走ってない。量の時代ならまだしも、つまりマラソンを見ることが出来ればいいといった観客がいる間はいいが、これでは今の観客は満足しないだろう。世界の中でどこまでのプレーヤーになれるかを考えるしかない。 さて今回のFH誌巻頭は、好調のスイス時計産業を反映するFH年次総会の報告書である。ダニエル・パッシェさんが再選されたことを伝えている。パッシェさんは、権力者というよりも国連の事務総長という性格の人である。今の流れにぴったりである。 昨年一年のスイス時計の輸出総額は193百億フランで、前年比19・2%増、個数にして3000万個、前年比14%増のかってない記録であり、今年も好調を維持している。 然しスイスフランのユーロに対する高騰は、利益を押さえ込むので、スイス銀行の介入が要請されている。本年度は六割以上スイス製でないと、メイド・イン・スイスとしない法案の策定を政府と協力することや、決算・予算の承認、新役員の選出などが議題に上り、あとはジュネーヴの金融についての講演で、100名以上参加し、ソロトゥーンという町で行なわれた総会は、お開きになった。総会などというものは、どこの国でも似たり寄ったりのようである。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
フランスの詩人 ロンサール きみに贈ろう、この手作りの花束を、 生き生きとして鮮やかだろう。 今日の夕べに摘んでおかねば 明日は萎れてしまうに違いない。 きみの美貌も同じこと。 僅かな歳月過ぎ行くうちに、 今の盛りは、もう昔。 この花のように突然に。 時は過ぎ行き、時は行く、 いや時ではなくて、行くのは僕ら、 そのすぐに、墓の中。 今は、アツアツの僕らだが、 死んだ後では噂にもならん。 愛してくれるのなら、今しかない。 美貌輝くこの時に。 夏の暑さしのぎに、ロンサール(1524〜1585)の詩を訳してみた。高校の教科書には必ず出ているから、フランス人なら誰でもこの詩を知っている。ロンサールの時代は、宗教戦争が激しかったころで、新教徒(ユグノー)の階層が多かった時計職人たちがフランスからジュネーヴに亡命して、スイスで時計を作り始めていた。 先日のある会合で時計の話を一般の人を相手にする事になった。その内容を考えているうちに、時計は時間を計る道具だから、まず時間の定義から始めるべきだろうという気になった。ところがこれが中々難しい。人生の定義を考えるのに似ている。時間の存在は誰でも解っていても、見たり触ったりは出来ない。今私たちは、といっても、その今は直ちに過去となる。将来はといっているうちに、毎秒未来が来る。この詩の中にあるように、時が過ぎ行くのか、私達が過ぎ行くのか、よく解らない。 犬の一生は人間の五分の一ぐらいの長さである。犬にとって時間は、一生という観点に立つと5倍早くたつ。犬の一時間と人間の一時間は同じだろうか。人間でも若死にする天才がいる。音楽家でいうとシューベルト32歳、モーツアルト35歳の短い生涯だった。然し、その間に並みの作曲家以上に多くの曲を作り、完成している。こういった人たちは、色んな分野でたくさんいる。彼らの時間は、私のような凡人のと、等質であろうか。昔読んだハイデッカーという哲学者の「存在と時間」という本を取り出して見たが、昔同様歯が立たない。仕方がないので話は木田元という人の解釈でお茶を濁すとした。「人間とは、今現在の状態とこれからなれるかもしれない理想の状態との差に悩み続け、現在を生きながら、同時に過去と未来を生き、しかも何時くるかもしれないが、確実にやってくる死を常に意識せざるを得ない存在である。」 時計の歴史を話した後、この言葉を引用して時間は個人によって大切さが異なる。ゴルフのパターだって、中古の安いものもあれば、十万円するものもある。ノンゴルファーの私はどっちで打っても同じだろうと思うが、ゴルファーにとって道具は大切である。人生の時間を大切と思う人は、是非高価な時計を買ってくださいと我田引水なオチで締めくくった。 スイスでの労働運動 スイス人は一般的に勤勉だし、性格が温厚な人が多い。詩人のロンサールの頃、ジュネーブには厳格な新教徒による宗教的かつ闘争的な政権ができたが、その主導者であったカルヴァンは、もともと北仏のフランス人であった。スイスの時計産業が発展したのも、長い間労使協調が基本にあったからである。労働者には、ストライキ権があり、雇用側にロックアウト権がある。これがまともにぶつかると労働争議となる。フランス人には、ラテンの血が流れていて、直ぐに赤い旗を立てたがる。スイスからほんの山一つ隔てた隣国フランスの時計産業が二十世紀に入って崩壊したのは、殆ど労使争議が原因である。 スイスでも、争議が二十世紀の初頭にあったようだが、1937年、多くの分野の産業の労使が包括的な協約を結ぶ試みが始まっている。日本の年号では昭和12年、日本の軍部支配が本格的になり始めている。日本は敗戦後、スイスほど包括的ではないが、鉄鋼・鉄道・電器産業などが、経営陣と組合側が一括交渉していたのと同じである。ただスイスには、下請けという逃げ道が少ないので、労働者全体の待遇が良くなり、スイス国民の生活水準が高められたといえる。勿論、労働協約の中心となったのは時計産業を中核とする機械製造に関する企業とそこに働く人々の間での話し合いからであった。 今号には、この5月15日にニューシャテルの湖畔にあるボリューヴァージュ・ホテルで、この協約発生、75周年記念行事が、時計業の労使で作る協約委員会の提唱で行われたという報告が巻頭に出ていた。この協約に参加している企業数は四百社、従業員は四万五千人。三百人からの出席者で盛会だったと言う。出席した大統領のシュナイダー・アマンは、階級闘争が蔓延していた時代に、このような協約が出来た事は、スイス産業の健全な発展に大いに寄与したといえる。それは、現在の3%という低い失業率にも現れていると発言したと伝えられている。この資料展が今年の後半に、ロンジンの時計博物館(9月24日〜10月24日)など、他二箇所を巡り最終的にはジュネーブ(11月15日〜12月15日)で催されるらしい。 思えば資本家は労働者を必然的に搾取するというマルクスの考え方に、日本の労働運動は長い間、とらわれてきた。75年前は、資本があるだけで、利潤が得られたかもしれない。しかし、お金があるだけでは駄目で、それに経営という力が無ければ利潤が出てこなくなった。だがこれは、モノやサーヴィスを作る世界での話である。勿論人間が生きている限りこういう世界は、必要である。しかし、利潤という面から考えると、脱工業社会になって、会社を丸ごと買うことから始まって、株やデリヴァティブの売買、お金でお金を買う(通貨操作)方が手早くなった。ここには搾取すべき労働者も殆ど存在しない。カジノはカジノの従業員を搾取して、利益を得ているのか。答えは、マルクスの時代からでもノーである。金融投資の世界は、どう考えても一種のカジノである。 FH誌からつい思考が外れてしまった。今号にはスイスのヴァレ・ド・ジュにあるハイテク博物館とか、ジュネーヴの時計博物館の案内といった夏休み向けの記事もあった。また時計の文字盤だけ作る工場の話が二箇所出ていた。興味深いルポタージュだったが紙数が尽きて触れることが出来なかった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
自由競争の国 独占禁止法というのは自由主義国アメリカの得意芸の一つで、その精神つまり色々な制限を排除して各々に競争させる市場経済が今のところ世界を席捲している。小泉政権の経済政策は全くこれに従っていたといっていい。100%市場経済が果して良いのか今やかなり疑問となりつつある。何でも極端というのは障害を必ず伴う。日本の公正取引法もアメリカの強い影響下で出発している。むかし一度私もごく些細なことで景品表示法違反で訴えられ、法廷に立たされたことがあったが、公正取引委員会というのはかなり生温い団体であった。しかし、こんなものはあんな風に穏やかの方がいいと思っている。 アメリカは以前からデ・ビアス社のダイアモンド独占を目の敵にしていて、デ・ビアス社が独占放棄を事実上宣言する12年程前までは、米国内でデ・ビアス社の社員に社業を執行する為の入国を許さなかった程である。ダイアモンドは石油や食料品のように生活必需品ではない。独占がなくなり、誰が得をしたか。消費者も業者も鉱山すらも得をしたとは思えない。たんに金融資本の勝利となりつつある。 スイスの文化事情も日本に似たところがあって、法律よりも土地慣習や常識が先行するところがある。スウォツチグループには、ムーヴメントだけを作る製品メーカーに供給する工場が昔からある。自社傘下のブランドに競合する相手に何故売るのかと、亡くなったハイエックさんが供給停止を10年期限で宣言した。これが独占禁止法に抵触するだろうか。アメリカでは必ずなるだろう。スイスの法律ではかなり微妙となる。事実上、ある程度の事実関係の審査には入ってるだろうが、進展は遅い。友人のスイス領事に聞いてみると、スイス政府はあまりかかわりたくないし、スイスの公正取引委員会も強くない。なにしろ輸出が命のスイス産業の発展に役立つかどうかの方が大切ね、という返事だった。これが本音だろう。 今号のF・H誌には、FHの総会で独占禁止法の国際協力に参加は反対という立場をとると声明した、と会長のパジェさんが書いている。現在好況下にあるので、供給を停止されたメーカーは自社工場を拡充または新設したり、新しい下請け工場をみつけたり全体として時計産業は発展し雇用拡大につながっている。 例えば今号でもタグホイヤー社が百人規模の二千平米の「1887」という機械ムーヴメント工場を来年新設するという記事がある。 またジュラ地方の新聞に載ったたった6人の高級時計専門の下請け工場「ウォッチ・マスターズ社」に関する記事が掲載されている。組み立て・修理・クロノメーター規格の時計設計など、ほかの高級ブランドの為に諸問題を解決するために大忙しと書かれている。 一方で、タグホイヤーのように一貫生産の垂直化を推進する動きがあり、一方ではこのようなスイス伝統の分業化の動きもあって、この共存がスイス時計の強みを形成しているように思える。 アメリカの主張するグローバリゼーションが必ずしも正しいとはいえない。自由競争の中に規制がある。親しき中にも礼儀ありが、いいのではなかろうか。 ちなみにスイスの公取委員会は、ムーヴメントの供給を今年終了するところを、来年までもう一年延長することを、スウォッチグループに命じている。この報告がこの号に出ている。 スウォッチグループの株主総会など スイス時計の輸出は、この四月をとっても、昨年同期が30%も伸びたのに比して7・9%だから、やや勢いにかげりが生じたが、好調といっていいだろう。牽引したのは、平均単価3千フラン以上の宝飾時計の分野で、個数では7・7%、金額で16・1%増という。相手国はもちろん中国で26・8%、香港が6・5%増という。 絶好調だった前年度のスウォッチグループの決算はどうなったのか。この5月16日に株主総会が開かれ、2千3百万人の株主が地元の国際会議場に詰め掛けたそうである。その様子を地方紙が報じている。売上げ総額が、史上初めて70億フランを越えて、前年比0・9%増の71億4千3百万フラン。為替差損がなければ殆ど8千億フランという数字。純益10億2千7百万フランで、1千億を越す。2千3百人も株主が集まったのは、東京電力の総会のように会社側を問詰するためでなく、狂熱を共にするためだろう。 社長のニック・ハイエックは、「この成功のお陰は、全世界の直営店の努力と得意先小売店の協力の賜物」という。スイスフランの高騰、金、ダイヤ等原材料の値上がりなど、難しい時期にあるが、新規投資に約6億フランを決定している。今年はオリンピックの年だが、競技で世界新記録を目指すスポーツマンのように、スウォッチも次から次へと新しい記録を塗り替えていく覚悟である。 今年2012年も好調に経過している。また今、議会で最終協議に入っているスイスネス法案も、60%以上の国内付加価値をスイス製とする案は弱すぎるが早く法制化されることを希望すると、意気軒昂である。 株主の一人が立って、今年のバーゼルフェアに行ったがスウォッチグループの中には、中に入れてくれないブースがあったと不満を述べた。あれは商談のためのブースで、もしも2千5百人の株主がやってきたら,時計は売れなくなってしまうというのが、社長の弁解であった。この巧みな切り返しやユーモアは、日本の社長さんにはないでしょうな。ユーモアのある方も多いだろうが、場所柄を弁えることを日本の社会が要請するのだろう。下手なユーモアを発揮して答弁すると大臣は直ぐクビになる。 リッシュモン・グループの昨年一年の決算報告が簡素に出ている。同じスイスに本拠を置く、こっちの方が総売上では時計ばかりでないせいか、スウォッチより大きい。88億7千万ユーロ、純益15億4千万ユーロ(千六百億円)。いずれにしろ驚くべき数字である。カルティエとヴァングループで46億ユーロ(4千5百億円)。その他ピアジェとかジャガー・ルクルト、などの時計で23億ユーロ(2千3百億円)。いずれも前年比三割以上売り上げが伸びている。つい先日ロンジンのフォンケネル社長と個人的な夕食を共にしたとき、年商が10億フラン(8百億円強)を超えたと喜んでいた。 ちなみに今手元にある今年3月のセイコーの決算年次報告書を見ると、全体の売上げが、約3千億円弱、純益はなく戦略上の赤字110億円(来年は純益50億円の計画)。時計だけの売上げを見るとウオッチ1100億円、クロック100億円。シチズンの時計の売上げは、1300億円前後と推定される。技術力は必ずしも収益力につながってない。マーケティングにしてもはじめから全世界をひとつとして考えるか、国内と海外と二元的に考えるかの出発的の差が出てきているのではなかろうか。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
二年ぶりだったが、やっぱりパリの五月、六月は美しい 六月の始めに、パリに行き一週間余りヴァンドーム広場に近い高級ホテル・宝石商の並ぶリュ・ド・ラペ街のアパルトマンを借りて、街歩きをして無為の生活をおくってきた。若い頃パリでくらしたので、時々、用もないのにパリへ行かないとさびしくなる。作家のヘミングウェイは、若い頃のパリでの暮らしは、人生の移動祝祭日で、一生くっついて離れないだろうと、晩年近くに自伝的な美しいパリの思い出を綴っている。 二年ぶりだったが、やっぱりパリの五月、六月は美しい。日本同様、フランスも不景気のようだがパリだけは、別のように、特に初夏は活気に満ちている。街中に歩行者が多い。最近は市による貸し出し自転車システムが普及していて、若者達が旅行者を中心に大いに利用している。歩道を走るのは禁止されているから、若者しか乗りこなせない。 街で目立つのは時計の看板の大きさ。借り家を出たところが、ヴァンドーム広場で、びっくりする程大きなディオールの時計の看板が出ていた【写真】。昨年、香港でみた時も驚かされたが、ビルの外壁の改装時を利用してビル一面を時計の広告に使っている。この手法はきっと日本でも真似されるに違いない。時計の広告の強烈度は毎年エスカレートしている。 時計は時計屋さんで売られているのが私の世代では常識であったが、近年はブランド品の専門店が当たり前になって来た。こういうのをブティツクと称しているが、始めはカルチェがこの戦略を取り出して以来のことだろう。三十年ぐらい前からだが、いろんなブランドがそれに続いている。もう一世代過ぎているから、その頃に生まれた人には珍しくもない。日本の百貨店の時計部はまだ多くのブランドを扱っているが、路面店の単独ブランドが主流になるにつれ、僅かのブランドの取扱いに集約せざるを得なくなるだろう。あるいは一種のセレクトショップに変身するしかないだろう。 この号のF・H誌でも、ジュネーヴの銀座、ローヌ街にあった時計ブティツクの草分け的存在(1959年オープン)であった。 ピアジェ・ショップが大拡張・新装開店した記事がでている。1980年に第二番目が、モナコ、その後パリ、クアラルンプール、香港、ニューヨークと開店が続き、取扱いの店頭を含めて75ヶ所の拠点があると書かれている。世界でこれだと意外と売場は少ない気がする。ピアジェは1988年にカルチェを主力とするリッシュモングループに吸収されているから、カルチェの窓口を少く、販売を強力にという理論を堅持している。 同じグループのインターナショナルの専門ブティツクが、私の借りたアパルトマンの玄関の真向いに滞在中に店開きをしていた。アパルトマンのあるビルにティファニーがあり、その隣りがスウォッチの高級時計ジャケドロのブティツクになっていた。この一隅には、カルチェあり、メレリオ、コルロフといった宝飾店もあり、もう数歩足をのばして、ヴァンドーム広場に入ると、ヴァンクリフ、ショーメ、ブシュロン、モーブッサンと超高級店の御徒町である。 ジャケドロ親子のこと オートマットは自動人形のことで、人間の形をしたものをアンドロイドという。江戸時代のから繰り人形もアンドロイドといって良いが、お茶を運ぶ小坊主とか、弓矢をつかって的を射る若武者は、見世物の域を出ない。そこに面白さはあるが、西欧の良く出来たアンドロイドのような、一種の不気味さはない。アンドロイドはキリスト教社界において肉体・魂の問題を提起する。 十七世紀の哲学者デカルトは、現代科学の基を作った偉大な思想家だが、晩年、少女の自動人形を常に携行していたと言われている。デカルトは人間の体を神秘とはみず、機械とみなしていた。デカルトは魂と肉体を合理性を追求すれば、分離せざるを得ないと考えていたようである。他人の心臓を移植された人は果たして本人だろうか。脳が移植可能になればどうか。現代医学の論理にもつながってくる。 十八世紀末にフランス大革命が始まる前後、ヨーロッパでは貴族文化が爛熟していた。富裕な貴族が好んだのは時計であったが、それにその好奇心を満足させるために時計機械を応用した自動人形があった。この製作のチャンピオンが、ルロックル出身のピエールと息子のアンリ・ルイのジャケドロ親子であった。特に息子のルイは十八世紀の中頃スペイン王のフェルディナンド六世の宮廷に招かれ、苦労して運び込んだ多くの作品を買い上げてもらい時代の寵児となった。 今月号のF・H誌には、今年の九月の終りまで開かれているジャケドロ親子の自動人形を中心とした展覧会の案内が英仏両語で三頁にわたりのっている。ジャケドロのアンドロイドで有名なのは「手紙を書く人」「小さなスピネット(ピアノ)を弾く女性」「描く画家」の三体だが、ニューシャテルとラ・ショードフォンとルロックルの博物館がそれぞれ一体づつ所有している。それを中心にして三館が独立して、同じテーマで展覧している。1995年にこの過去の名時計師の名を買い取って自動人形を造る事業が発足したが、五年後にスウォツチが買収、レマニアとフレデリック・ピゲの機械の改造型を使った高級腕時計メーカーに変身させた。オートマットでは商売にならなかったらしい。電子式のソニーのアイボちゃんとはいかなかった。 パリで借りていたアパルトマンの下がジャケドロ・ブティツクだったので、ついスイスまでみに行きたくなった。一泊二日があれば十分だが、年のせいか腰を上げる気になれなかった。 ロレックスのハリー・ボラー氏、ビェンヌの名誉市民となる ロレックスの本社はジュネーヴだが、オメガの本拠地ビェンヌにもロレックスの看板をかかげた大工場がある。長い間、ジュネーヴの本社へムーブメントを供給する独立会社であった。1878年に創業のジャン・エグラーという名の会社で、ロンドンで時計の販売をしていたロレックスの創業者ハンス・ウイルスドルフに時計を売っていた。1920年にウイルスドルフがジュネーヴにロレックス社を創設するや、ロレックスの完全下請けムーブメント・メーカーとなった。 ハリー・ボラー氏は1927年生まれ、本年85才、お父さんはエグラーの孫にあたり、ロレックス・パーペチュアルを最初に開発したエンジニア。1967年に父が亡くなり、社長となり、2001年に引退。2004年に、ロレックス・ジュネーヴがこの会社を吸収している。ハリー・ボラー氏はベルン大学の経済学博士で学者タイプの温厚な人柄のようで、社員のすべてを厚遇したらしい。今月の巻頭記事は名誉市民を当然とベタ褒めである。長年仲よく、製造部門を引き受け、仕上げと商売を担当するロレックス本社と協力してきたのであろう。両方共、浮気をしない良い関係だったようだ。僕の知る二代目社長のアンドレ・ハイニガーさんの頃は、ロレックス本社ものんびりした保守的な会社だった。戦略とスピードが重視される現代にはそれでは適応できなくなっている。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ム‐ヴメント戦争 スイスは面積が四国ほどの小さな国であるが、その中でも地方色は豊かである。南のルガーノへ行くと全くイタリアの町だし、北のチューリッヒはドイツ的と言っていい。時計産業はジュネーブからバーゼルへ向けて東北東に走る約150キロの線上のあたりに固まっている。日本のように工業団地に誘致されて、地縁のないところに生産拠点を持っていくような事は滅多に起こらない。人里離れたところへ新工場を持っていく事は、起こっているが、小さな国に26もある州内を離れる例は少ない。時計産業全体が、歴史的なつながりを持って有機的にまとまっている。総人口が800万人ぐらいで、時計業界で働く人が、5万人ぐらいが大体の目安の数である。日本の総人口1億2千万人にあてはめて考えてみると60万人ぐらいが働いていることになる。時計の輸出総額は二兆円ぐらいだから売上額としてはそう大きくないとも言えるが、文化的ネットワークとしてのスイス時計産業は、時計産業地域に住む市民にとって重要な地位を占めている。 日本でも多くの人が、スイスの時計製造会社には、マニュファクチュール(一貫製造)とエタブリサール(部品を購入して組み立てる製造)の二つに分けられるということを知っている。日本の産業構造にはエタブリサールという概念はなじまない。部品をかき集めて作られた製品はどうしても安手にみられ勝ちである。ところが、スイスでは、どこまでが自社内生産か、外注生産かよく判らないところがある。マニュファクチュールとエタブリサールの線引きはそう簡単なものではない。 スイス時計産業連盟(FH)には500社程参加しているがその殆どが部品のメーカーである。部品を買ってきて、ムーヴメントにして売っているメーカーも多い。FH誌の広告主はオメガとかロレックスといった完成品の名は全くなくて、こういった部品や工具メーカーばかりである。例えば今号の裏表紙はクォーツ、ムーヴメントのロンダ社の広告。機械ムーヴのテクノタイム社が二頁。「ヴァレ・ド・ジュー時計製造会社」が一頁、部品から組立まで手がいる大手「デュボア・デプラッツ」社が二頁。広告をしているということは、条件さえあれば売ることを意味している。FH誌の広告をみていると、資金があれば、すぐ自分の好み名をつけた時計が作れることが解る。売れる売れないはマーケッティング次第である。何故ムーヴメントの広告が多いというと、スウォツチの故ハイエック氏が2002年にスウォツチグループ傘下のムーヴメント工場や重要部分工場から他社には供給しないと宣言したからである。競合するブランドに売るのは、敵に塩を送るみたいと考えるのは当然である。 この号のFH誌には、ムーヴメント・メーカーのソプロッド社に関する新聞記事がのっている。この会社は,スウォツチグループのエタ社から90%ムーヴメント・キットの供給を受けていた。突然ではなくても斬進的に販売しなくなると通告されて困ってしまった。そこでエタ社の2892というムーヴメントと多くの部品が相互転用できるA10と言うのを開発して、自社製造するようになった。 途中、試行錯誤はあったが、エタ社から完全に供給を切られる時期に幸いA10の品質は、自称クロノメーター規格クラスになっている。現在の年生産能力は10万個だが、二,三年のうちに25〜30万個に上げる計画で,スウォツチからムーヴメント供給を切られたような相手先が心待ちにしているという。ソプロッド社のチェリー・パラット社長は、新しい超薄型のムーヴや、前述のデュボワ・デプラッツ社の協力を得てクロノグラフの開発を手がけていると言っている。エタ社もこんなに強力になった相手に借りを返されたのでは不本意かもしれない。 実を言うと、エタ社の後にスウォツチがついているように、ソプロッド社の後ろには、フェスティナ社というスペイン随一のブランドを作っている会社がいる。四年前にソ プロット社を買収している。 今はスペインの会社になっているが、フェスティナは元々ラ・ショードフォンで1902年に生まれた古いブランドである。フェスティナばかりでなく、ロータス、ジャガー、カンディーノ,レガット、カリプソ、から昔の名時計師の名をとったぺルレやルロワのブランドを作っていて、一寸騒しい性格をしている。バブルの頃、主力の低価格時計フェスティナで日本進出を企てて、一時私の会社で働いていたフランス人が、フェスティナ社の仕事をしていた。当時から500万個を売ると豪語していたから、私がやっていたアルバ並みの規模かなと考えていた。ただ、日本市場ではなかなか売れなくて、百貨店に専門の自営売場をいくつか持つていたが、今はあまりその名をきかない。 今回のFH誌には、ソプロッド社の新聞記事と共に、フェスティナ社の最近の動向を伝える報道がある。フェスティナ社の売上げは年商約250億円、450万個、スイス国内従業員250名とある。 フェスティナ社は2002年にこれまで一種の下請けをしていた、名門といってもよいカンディーノ社を買収している。カンディーノ社もスイスに沢山あったブランドから依頼されてその名で時計を作るOEM工場であった。自社の時計を拡販しようとして、元々のオーナーであるフルーリ家の若い青年が大阪まで会いに来てくれたことがあったが、いかにも長年続いた家柄が感じられる上品な弱々しい人で、こんな紳士では立ち行かないかなと思ったことがある。 フェスティナ社が、ソプロッド工場を買収したのは、中国資本に渡したくなかった という衝動的な理由のようだが。翌年に、前出の広告主の「ヴァレドジュー」時計工場を買収したのは、高級時計のマニュファクチュール、例えば、パテック・フィリップのようになりたいという、戦略的な意志らしい。小なりといえど壮なりである。フェスティナのミゲール・ロドリゲス総師はバルセロナのセールスマンから始めた人らしく、かなりのやり手のワンマン社長に見える。ドンキホーテにならないよう頑張って欲しい。業界に起業家が輩出することは、業界にとってよろこばしい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
バーゼル見本市、パネルのこと 日本で個人主義が確立されたのは、第二次大戦の敗戦後といってよい。明治維新が西欧の個人主義をもたらし、福沢諭吉が「天は人の下に人を作らず」といったり、夏目漱石が「私の個人主義」という優れた講演をしたが、やっぱり日本人は、家とか国とかいう世間の方が個人より大切という考えを中々抜け切れなかった。その福沢ですらも、かって幕臣であった勝海舟や榎本武揚が敵の明治政府の高官に納まっているのを嫌って「やせ我慢の説」を書き、彼らの行動を批判している。人が才能の発揮場所を見つけるのは、完全に個人の自由だが、今でも日本では、卑近な例をとるとシチズンの社長がセイコーの社長にはならないだろう。よく似た事は、スイスの時計業界では、度々起こるが、誰も批判したりしない。日本のプロ野球の選手でも、宿敵チームに移籍しても仕方がないとなりつつある。 私個人としては、一万円札も好きだが、福沢諭吉の考えも好きである。数年前であったが、ある会社の研究員が、青色発光ダイオードの開発に成功して、会社の利益に大貢献したことがあった。研究員は特許は個人の所有として提訴し、巨額の金が支払われた。詳しい内容は知らないが、会社の中で研究したものは会社に属すると考えるのは一般である。オレの功績だけど仕方がないと、多くの人はあきらめるだろう。あきらめなかったところが偉かったのかも知れない。 我が社の主力取引銀行の一つに、住友銀行があった。今はこの銀行は失い。現在の三井住友銀行は全く異なる。支店長や担当者が代わるとお餞別として時計を差し上げようとしたが、頑として受け取らなかったことを思い出す。私は会社の仕事をしているので、頂いても会社に渡すだけで、頂いても無意味ですと言うのが理由であった。大体、昔の住友系列の会社には、こんあ気風があった。今でも残っているだろうか。社長にくれたワインは、さっさと社長の自分が飲んでしまう私は大いに恥じ入ったものだった。 個人主義の確立と共に、商標権とか肖像権とか常識となってきた。私は関西人だから、やっぱり形のないものには、あまりお金を払いたくない。オリックス・ブレーブスのホームがグラウンドは、京セラドームだが球場の持主たる親会社のオリックスが、命名権を売ったものである。ネーミング・ライツが商売になる世の中だが、甲子園球場が横文字の名になったら嫌だなと思う。 今年のバーゼル見本市も大盛況に終わり、来年の大改造に向けて関係者は大いに期待している様子である。世界中の製造業者が出品するので、見る方は便利である。ヒントも一杯ある。真似やコピーをする人が沢山いるから昔から警備員があちこちにいて、写真撮影にはうるさかった。フイルムを抜き取られた日本人もいた。ここに出品する業者なら盗作が認められないことぐらいわきまえているが、お国柄と言うこともある。シャネルなら具合悪いが、シャネルンならいいだろうと軽く見る人もいなくはない。更に、無知からくる単純な悪意なき権益侵害もある。 会期中商標やデザイン盗難の被害を発見する出展業者やその他の人々も少なくない。それを直接交渉したところで埒が明かないのは解っているので、見本市には抗議された事柄を二十四時間以内で判決を下す臨時裁判所のような組織がある。この委員会は、一九八五年に発足し、通称パネル、委員は法律関係者及び、いわゆる各国からの有識者で成り立っている。 今号のFH誌の巻頭は、このパネルについての報告である。抗議は告発と苦情報告に分類される。両社を呼んで言い分を聞き、判決を下すのが前者、単に聞き置いて記録するのが後者。今年は期間中十七件のうち、九件が前者、八件が後者であった。 これまでの活動で、パネル会期中の活動だけでなく、知的所有権の保護、推進の安価なデーターベースとして大いに役立っているとのことである。 以前セイコーの海外事業で要職についていた江川純という方がおられる。この方が、パネルの委員をやっておられる。数年前にバーゼル見本市のホテルで毎朝お見かけしたので、そのときは既にセイコーを離れられていたし、何をされているのかお聞きすると、パネルの仕事で毎年お勤めですと仰っていた。恐らく最初はセイコーの関係でパネル委員を引き受けられたと思うが、あとは個人の資格で識見を買われての起用だろう。この辺がやはり欧米社会の個人とその所属する団体に対する考えが反映されている。 パネライについて 若い頃、アルファ・ロメオに乗っていた。速いのが特徴だが故障ばかりする。それもドアの取っ手が外れたり、つまらないところが壊れる。イタリアの製品は一般にフォルムは美しいが機能はもう一つというところがある。今は改善されているだろうが。もっと若いとき、学生としてフィレンツェに住んでいて、そのことは解っていたが、イタリア製を買いたくなる。パネライという時計はイタリア海軍に納入していたというのが、売り物だったが、イタリア海軍が優秀だったとは思えないし、イタリアの時計では直ぐ壊れやしないかと偏見を持っていた。 パネライの発祥は、フィレンツェの時計屋さんでスイスから色んな時計を仕入れて売っているうちに、大きくなったらしい。海軍に納入したのもケースはロレックスで、、ムーブ派別に調達していたようだ。私は1962年から翌年までフィレンツェにいて、毎日街を出歩き回っていたが繁華街でパネライの看板を見た記憶がない。リッシュモン・グループがパネライを買収したのが1997年で、その頃は納入先がイタリア軍関係だけで、あとはコレクターが僅かというだけだったらしい。 最初から現在まで社長を務めているのがアンジェロ・ボナーティという人で、この人の新聞記事が今号に出ている。オフィチーネ・パネライというのが正式の名で、オフィチーネは製造所とか作業場ぐらいを意味しており、昔の創業時の形態を伝えている。しかし現在は、かってのストップ・ウオッチで有名だったミネルヴァを買収して自社のムーヴメントを開発している。時計はイタリア製でなくスイス製である。会社も2002年以来、ニューシャテルへ移転している。現在この近くに新工場を建設中で、従業員は160人から290人に増加する。しかし、ボナーティの言によれば、生産量の増加が目的ではなく、三割しか自社組み立てがなかったのを八割にして、質の向上を図るのが目的という。同時に成長がないと気になるともいっている。増産は中国工場への供給が目的のようである。これまでは、イタリア、アメリカ、日本が主力市場であった。自社ブティックへの執念は、リッシュモン系の人々と同じで、現在は35店だが将来は倍増するボナーティは言っている。 実は私の会社の近くの御堂筋にフェラーリ専門の大きなショールームが最近オープンして、四千万円近くする非実用車」がそんなに売れるほど、お金持ちがいるのかと驚いている。フェラーリの愛好家をフェラリストというそうで、大型時計のパネライ愛好家をパネリストと称するらしい。今や納品待ちのパネリストが列を作って世界では並んでいるそうである。持っているのが羨ましいと思われる時計を作るのがボナーティの狙いらしい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
「スイスメイド」から「スイスネス」へ 友人が新しいルノーに乗って我が家にやってきた。いわゆるずんぐりむっくり型の車体の高い若者向きの車である。聞くとエンジンはニッサン、デザインはフランス本社、組み立ては韓国工場だそうである。ルノーの社長は、ニッサンを見事復活させたカルロス・ゴーン氏だった。しかしこの車は何国製というべきか。中国人を株主とするヴォルヴォやインドの財閥傘下のジャガーを何国製と呼ぶべきか。 それで気になって我が家の日常の電気製品を調べてみるとソニーとか、パナソニックとか、日本製みたいな顔をしているけど、大抵は中国または韓国製である。セイコーの掛時計はタイ製である。人々はソニーとか、パナソニックとか日本のブランドを信用して買っているので、使い捨てが運命の大衆電化製品をいくら高くてもいいから、純日本製の方が良いという消費者は少ないだろう。日本のメーカーというのは、大抵外国に工場を持っていって、そこで作って日本や世界に売っている。工場は人件費の安い国を求めて世界中をさまよっている。 こうしてみると日本中の一般家庭は、世界中の製品に囲まれて暮らしている。食品以外は、あまりどこの国の産かは、こだわっていない。地産地消にこだわるのは、このままでは日本国内で農・漁業に携わる人はなくなるという懸念からであって食べ物に限られる。 まだやっと日本人が自由に外国に行ける様になった頃、日本からの輸出品目もまだ軽工業製品が中心だった時代、ニューヨークに出かけて当時は世界一高いエンパイヤー・ステート・ビルの頂上に上って、お土産を買い求めたら、みんな日本製で日本からの旅行者は裏切られた気分になるのが普通だった。1960年頃までは、メイド・イン・USAへの憧れは強く、我が家も金回りが良くなってきたのか、新しい物好きの父はゼニスのラジオを買い込んだり、ダッジの中古車を運転手付きで得意げに乗り回していた。世界最大の時計メーカーは、今はシチズン傘下のブローバー社であった。G・Eの電化製品は憧れの的であった。日本人は日本製ということに劣等感を持っていて、その感覚が克服され始めたのが、ソニーがトランジスタラジオを輸出しだした頃からである。 アメリカ人は産地については大らかのようで、安くて同質の物が作られるなら、産地なんか気にする事はないと思っているようである。日本人も近年アメリカ化していて、工業製品、衣料に関しては、製造国にあまりこだわらなくなっている。ジーンズはアメリカで始まった生地だが、今時の日本人でアメリカ製かどうか気にする人は殆どいない。 余談ながらアメリカの強みは、航空機をはじめとする武器・弾薬の類、薬品の製造及び食料自給において、世界一の地位は揺るがないという点にある。世界から孤立してもアメリカは生きていくる。日本は残念ながら、孤立するとガソリンのなくなった車みたいなモノで、立ち往生するしかない。今問題のTPP交渉もこの点を十分考慮せねばならないであろう。軍事産業で憲法の足かせをはめられている日本とは対等でないのに、食品を何故対等にするのか良く解らないというのが私の素朴な疑問である。 今や中国人の観光客が日本に溢れている。海外自由渡航が初めて認められた国の人々にとって、観光と買い物は同意語である。商店を訪れる中国人は必ずと言っていいほど、コレは日本製と聞くそうである。純日本製だと安心するそうでメイド・イン・ジャパンも大したものだと嬉しくなる。我々は日本のメーカーの品質管理の水準の高さを知っているので、その名が付いていれば中国製であろうがベトナム製であろうが安心している。それにアフターサービスの対応の良さも世界一である。アフターケアが十分でないから、他の先進国では、あんな返品交換自由の制度が成立し、わが国に跳ね返って来たと皮肉な考えも起こってくる。例えばオーストラリアのように返品交換が気に入らなかったからと言う理由だけで行なわれるようになると、コストが高くなり消費者保護とは言えなくなるという気もする。売り手と買手との常識的な話し合いよりも、法制が先にたつ社会は嫌なものだ。通販とかインターネット販売とかに必要な法制が、店頭での買い物にも適用されるのだろう。 スイス製の時計が世界最高とされるようになったのは、五、六百年という機械時計の歴史から見るとそう古いことではない。せいぜい百年前ぐらいからだろう。それまでは、一時鉄道の発達と共にアメリカ製の懐中時計が世界一であった。明治天皇が下さる恩賜の時計は、長い間ウオルサム製であった。時計はスイスと名実共になり始めたのは、世界第一次大戦の後ぐらいからであった。クオーツ時計は、スイスと日本は開発を殆ど同時に開始したのに、日本勢のセイコーとシチズンが優位に立ち、スイス時計産業は一九八〇年頃は殆ど壊滅状態にあった。その後高額消費者の嗜好は機械式時計に転じて、スイスは空前の時計好況に浴しているが、コストパフォーマンスの点で時計は日本製に限る概念はまだ強い。しかし、これはあくまで日本人から見た考えで、その普通の日本人が日本製だと思って買っている普通の価格の時計は大抵東南アジア製なのが現状である。 日本以外では、スイス製の時計に対する信頼度は日本人が考える以上に高いのではなかろうか。しかし、スイス・メイドの刻印で通っている時計が、実は百%スイス製ではなく、外国製のパーツを利用してチョコチョコとスイス国内で組み立てられている現状をスイス時計産業は憂慮すべきとみなしてきた。どんなブランドがそんなことをしているのか実情は知らないが、数年前に時計の街ショードフォンに行ったとき、沢山の中国人就労者を路上で見かけて、さもあろうと言う気がした。 今号のFH誌では、理事長のパッシェさんがFHの働きかけで満場一致の結論ではなかったがスイス・メイドより厳格なスイスネスという呼称を議会が承認したことを誇らしげに報告している。スイスネスと名乗ったり、刻印を打つ為には、時計価格の六十%以上はスイス製でなければならないと言うことが五十%にしようとする意見もあったがコレを法律として抑えて通過した。 現在のスイス・メイドの条件は、ムーブメントがスイス製でスイス国内で組み立てられ、完成品になっていればよく、価格パーセンテージの制約はなかった。ムーブメントだけでいうと、スイス国内組み立て検査が条件で、価格として50%がスイス製でなくてはならない。議会が承認した以上、上院に当たる連邦総会も追認して法制化される事になる。FHは、その後も設計やプロトタイプの製造もスイス国内ですることを条件とすることや、電子時計で60%、機械式時計では80%(開発費込み)にしようと狙っている。スイス国内で生産する比率が上がるから結果として雇用の増進につながる。又この価格の中に金・バンドや金・プラチナと言った原材料や宝石はカウントしない。 確かにスイス時計の名声を保持するには、重要な方策であろう。スイスは世界では一、二の個人所得の高い国であって、スイスネスの要求する条件を満足すれば、品質は上がるかも知れないが、値は当然高くなる。有名なブランドしか生き残れないかもしれない。ナイキのスポーツ靴のように韓国製でも高値で売れた記憶がある。生産地よりメーカー名の方が評価される事はないだろうか。FHが望むようにスイスネスを順守する良心的なメーカー全部に陽の当たる事を願って止まない(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ニセモノ談義 FH誌は、は、スイス時計産業連盟の公の広報なので、連盟本部がしている仕事の記事が巻頭に来る。政府とか組合の公式発表はたいてい面白くない。FH誌でも同じだが、無視はできない。フラン高にも拘わらず,スイス時計全体に好調のせいで、あまり問題がないせいか、このところニセモノ退治に熱心である。もっとも、ニセモノが出ること自体がホンモノの地位が高いことでもある。ある作家が自慢げにこう言ったという、オレも偉くなったもんだ。最近オレの名をかたって、飲み屋を踏み倒している奴が出てきたみたいだ。 最近のニセモノは精巧になっていて、高級ブランドのカルチエのニセモノ新品時計を持ち込んだ上品な女性に、買い取り屋さんが、よくだまされているらしい。大阪府警が大阪の時計小売組合に触れ書きを回している。これは明らかに仕入れた人間に被害を与えるから犯罪行為である。しかし、転売するのを目的としない最終消費者が、これはニセモノですと明言する売り手から承知でニセモノとして購入した場合、果たしてそれは犯罪を形成するか。答はイエスである。旅行者は現在外国から一切のニセモノは持ち帰れない。ニセモノと判明したら即座没収である。罪には一応問はれないが。 書画骨董の世界ではニセモノは当たり前である。それをつかまされる方が馬鹿ということになっている。テレビの『何でも鑑定団』という番組をみればよく解る。和歌の世界でも本歌どりといって、ニセモノ作りすれすれの技法が珍重される。漢詩においても似たような事情がある。大体、東洋人においては知的所有権という観念はすくなかった。他人のアイデアを盗むことにかけては、東洋の社会は大らかであった。ニセモノ作りに対して倫理性は問題になるがお札とか証券でない限り、大目に見る社会といってよい。特許権とか知的所有権は元々西欧個人主義からの発想である。今世紀になってから世界中の人々が地球上を自由に移動するにつれ、その権利は強まって来ている。もし今のような事情だったとしたら、明治の日本の近代工業化は成り立たなかっただろう。黒岩涙香の「あ!無情」はヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」の原案だが、版権が原作者に払われてはいないだろう。極端な例だがここに、高級ブランドのТシャッがあるとする。片方がホンモノで片方がニセモノ。但しニセモノの方も品質、肌ざわり、縫製、発色までホンモノに引けを取らない上に安い。ではブランドの価値はどこにあるか、コストをかけて確立したブランドの名という知的所有権でしかない。皮肉に考えるとこういう事態が起りうる以前にニセモノを退治せねばならないのかも知れない。世の中のすべてがバーチュアルになって来て、それでもホンモノがいいという人々が多くなるかもしれない。 さて、FH誌の巻頭報告によるとニセモノの集散地はもはや香港やバンコクではなく、ブラジル、アラブ首長国連合、カリブ海の島々、イタリアやギリシャに分散しているのである。ブラジルはニセモノ天国で、オリンピックやサッカーのワールドカップ主催のもたらしている好況の余波だろう。昨年、時計だけで十万ヶ以上を摘発したので製造の数も減り、店頭に出ている数も少なくなったという。カリブ海のサンマルタン島でも昨年2月に3,200万個のニセモノを摘発している。アラブ首長国連合には広大な非関税特区があるので、これまでニセモノの巣であった。昨年は地元警察の協力を得て、中国人のマンション倉庫二ヶ所を急襲、官憲に軽傷者一人がでたが、7,000個を回収している。 イタリアのプラトといえば、フィレンツェ郊外の小さな古都であるが、今や就労中国人が何万人もいる。主として、服の産地である。プラダを始めとして、メイド・イン・イタリー、しかし、バイ・チャイニーズ(中国人の作るイタリア製)といはれる製品が多い。FHはイタリア国内の経済警察(七万人が従事)の協力を得て,監視を厳しくしている。例えば一昨年の7月にこの町のヤミ組立工場を探索して80万ヶ以上の時計を押収した。80万ヶもニセモノを作る能力があるなら、自分の製品を組立てた方がマシみたいだが、その後この工場はどうなったかな。 アテネでもニセモノ倉庫をみつけて押収している。ギリシャの警察は頼り無いらしく、警官達がポケットに入れたりしないかと内心案じて、我々は早く当局が押収品を破棄するよう監視をおさおさ怠らないと、報告者はしめくくっている。 シチズンがスイスの時計会社を買収 日本の新聞にも出ていたが、シチズン時計鰍ェ、ラ・ショードフォンにあるプロサーという持株会社を買収した。日本側のシチズンの発表をみると、すぐれた機械時計を製造するラ・ジュー・ペレ社等を子会社に持つ持株会社プロサー・ホールディング社全体をこの四月にシチズンの傘下に収めるとあった。プロサーの昨年の売上は年間で28億4,200万円、買収価格は約50億円という。この号のFH誌にはもう少しくわしい新聞記事がのっている。プロサーは三つの会社から成っている.機械時計の生産をするラ・ジュー・ペレ社、部品製造のプロテクト社、それにアーノルド・アンド・サン社。三社の全従業員数は百六十名。ルイ・ヴィトンのトゥールビョン・タンブールやアラーム付時計はラ・ジュー・ペレ社が納入しているし、ボーム・メルシーのムーヴメントの下請けもしている。年間に5万個の機械時計の生産能力を持っている。スォッチ・グループが他社に機械時計のムーヴメントを売らないと表明している御時世だから、絶好の投資と新聞は伝えている。アーノルド・アンド・サン社とはブレゲの友人だった英国の偉大な時計師ジョン・アーノルドとその息子でブレゲの元で修業した息子のジョン・ロジャー・アーノルドの名を使って10年程前から歴史的な名にふさわしい高級時計をスイスで作っている会社である。新聞記事によると、シチズン時計の海野幹夫社長は買収の目的は、独立したムーヴメント製造会社をより強化することにある。そして、そのムーヴメントを自社のブランドやら、ライセンスブランドにも利用したい、と表明している。本音はどうも後半にあるようだ。すでに買収したブローバや機械時計に弱いシチズンに使いたいのだろう。いずれにしても、これまでの経営方針を、これまでの経営者に継続される。10年前からのオーナーはいはゆるファンドであった。 セイコーは世界で一番薄いムーヴメントを作ったスイスのジャン・ラサールやフランスの大きなメーカーであったマトラを買収したが、ものの見事に失敗してしまった。仲介に当ったマイヤー某なるユダヤ人に甘い汁を吸われ、100億円に近い損失をした噂をきく。大阪の安宅産業が,ニューファンドランドの石油精製業買収の際ユダヤ系の仲介人に手玉にとられ、破産に追い込まれたのとよく似た話である。シチズンが前車の轍を踏まないことのを希んでやまない。日本人がスイスの工場を経営するには、至難の業である。平和堂のスイス・ウオルサム社もいろいろ苦労が多いようである。シチズンの子会社が、ルイ・ヴィトンの時計を作っているのは、日本人の私にとっては心地のよい話だが。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
昨年度のスイス時計の輸出は絶好調 日本占領米軍の総司令官のマッカーサー元帥は、日本はしかるべく永世中立国家のスイスのようになるべきだと言ったという。日本の理想国はスイスだと人々も言い、小学校の教科書にも、ル・ロックルの時計師ダニエル・ジャンリシャールが取り上げられた時代であつた。スイスと日本では国土の大きさも違うし、第一人口が、日本の方が十倍以上あり比較にならない。スイスは 他国との関係が全部陸でつながっていて、海でへだたれている日本とは全く異なる。 ある日、突然敵兵がなだれ込むことが実際に起る。祖国防衛に対する心構へが違う。小さな独立州の集合体ということでも違うし、同じ国で四つの言語が公用語であることも違う。 規則や法律に厳格に従い、自然や都市の景観を大切にするという点でも、日本よりははるかにすぐれている。直接民主制ということで、重要なことは全て国民投票にかけられる。国民の平均収入は、世界有数の高さを保つている。税もさして高くない。日本と似ているところも数々ある。元々の自然は美しい。国民は勤勉かつ質素である。観光資源に富んでいる。天然資源は少ない。精密工業を得意とする。この数年来一番共通しているのは、自国の通貨、スイス・フランと 日本円の高どまりである。 日本円の高騰は、輸出を主力とする企業を直撃している。一方輸入には有利の筈が、原油の高値及び国内のデフレ不況で値下げに走るから利益につながらない。 スイスでもフランの高騰にどう対処するか、観光産業中心に不安がいつもあるが、時計産業に関するかぎり昨年から今年にかけて絶好調である。快晴の空の下を驀進する感がある。 FH誌の別冊に昨年の成果を見つめ将来を展望する「業界の傾向」という小冊子があるようである。いつか手元に届くはずだが、まだ見ていない。今号のFH誌にその概要が短く出ている。昨年の輸出価格の総数は新記録で伸び率も二十年来かってなかったという。スイスフランの高値も何のそのである。しかも日本人と異なってスイス人にはその分値下げして拡販するという哲学は無い。 この号に出ている昨年一年の各社の成果を見ても、スウオッチグループの総売上が71億4300万フラン(新記録、7千億円に近い)粗利益が23・9%、経常利益が13・4%というから恐れ入る。 フランス資本だが、タグ・ホイヤーなどの時計部門を持つルイ・ヴィトン・モエ・へネシー社は、全体で16%の伸びで売上230億7千万ユーロ(2兆5千億円)、純益で30億ユーロ(3千3百億円)となっている。時計の主力はタグ・ホイヤー、ウブロ、ゼニス、ブルガリなどが売上げ全体で20億ユーロ弱(2千20億円)という。ブルガリを買収したので数字上は倍増に近い。 同じくフランス系のエルメスを見ると売上げ全体が約30億ユーロ弱(3千億円)で16%の伸び、売上の数字は発表されてないが時計が23%伸び、宝飾品は27%の伸び、残念ながら日本市場は1%の凹みであった。日本を除くアジア諸国は29%伸びている。 この快進撃は今年の一月も続いており、スイス時計全部で一月だけで10億3千万フラン(約千億円)。前年比115・5%中国、香港向けが約三割づつ増加。不思議なことに日本向けが28・5%昨年比増えている。それが売上げにつながっているとは、どうも感じないが指標としては、うれしい話ではある。 日本の時計産業は、大半は人権費の安い海外生産に移転しているはずなのに、業績不振を円高に責任転嫁するならば筋違いではなかろうか。 スイスネス(SWISSNESS)マークの採用 今のところ全て順調なスイス時計でも悩みはある。一つはニセモノ退治。最近のニセモノは、実に巧妙な仕上げで、素人には差別できない時計も多いとFHが認めている。インターネット上に出るコピー商品を探知するソフトウェアをFHが開発して近じか動き出すという記事が今号の巻頭、パッシェ会長の報告として掲載されている。 もう一つは長い間懸案となっている「スイスメイド」の刻印の代わりに「スイスネス」を採用する話である。スイスネスとは、“本当のスイスらしさ”ぐらいの意味である。この法案は三月に議会に上程され、そのうち通過するだろう。どっちにしても似たようなものなのにと思うが、現行のスイスメイドでは、時計の総価値の二十%しかスイス製なるものもこの刻印で通用しているらしい。それを六十%に下限を決めて、スイス製の権威と雇用を確保するのが大義名分である。下司の勘ぐりをすれば、中国などの外国資本がスイスが持っている工場やブランドにプレッシャーをかけたいのだろう。 美しい小都市 ルッツェルン FH誌では、時々ホテルの宿泊日数に関する統計を出している、観光立国だから当然だろうが。2011は、稀に見る好況の年だが、フラン高がまともに反映して欧州大陸からの客の宿泊数は7・3%も減少している。中国人(香港人を除く)は全体で19万1千泊増え、五割伸びている。一体全体、一年間でどれだけ人が泊まるというと約3千6百万泊弱で、前年比2%減。日本人は年間約54万泊(5・4%減)、韓国人は13万泊で24%増。日本人もスイス好きだが、昨年は中国人の方がより多く宿泊している。 ルッツェルンという街は、日本人観光客が必ず訪ねるといって良い魅力溢れる小都市である。今から50年前に始めてチューリッヒから小一時間かけてバスで行ったが、湖にかかる古い木の橋(カペル橋)の屋根には雪が積もり、靴の裏の木の優しさを感じつつ、対岸に渡ったときの心持は今でも鮮明に残っている。その次の年の夏休みは、一ヶ月郊外の丘の上にあるメッゲンという村で過ごした。修士論文の資料を沢山持っていったのに、あたりの風景があまりに美しく散歩や山歩き、湖での水泳でさっぱり勉強はしなかった。暮れなずむ、バラ色の夏の夕暮れ、りんごの木が沢山ある丘の上から湖の向こうに、ルッツェルンの町の灯りが、チラチラと光り出す風景を見ていると心がとろけるような気がした。このとき知ったのは、休暇は日本人にとって何かする時期だけど、あたりにいるヴァカンス客は一切何もしないことだった。まるで熊の冬眠みたいだった。今年のスイス人に与えられる年間の休みは6週間となる。 中国人も又、ここが好きなようで、五年間で六六%観光客が増え、昨年はなんと163%も増えたという新聞記事が出ていた。平均して中国人はスイスに二泊しかしないが、必ず時計を一つ買っていくそうだ。ホテルには気にせず買い物中心。一日350フラン「アラブ人は一日5百フラン」団体バスでやってきて、ビュッへラーのような時計屋の前に止まり、ドヤドヤと買っていくとのこと。タグ・ホイヤーもビュッへラーと協力して、スイス最初の専門店をオープンする。オメガもバセロン、ジャガールクルトもこんな小さな十分も歩けば町外れに出るところに専門店を開いている。 中国人にとってパリとルッツェルンが欧州旅行の目玉だからとタグ・ホイヤーの支配人は言明している。昔の日本人の行動パターンを思い出す。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
スイスの有名な時計師三人が、時計塾を作った スターバックスのようなコーヒー店に入ると、店の方で端末を提供しているところでは、大抵若者がパソコンの画面を見入っている。デートをしているカップルもお互いに携帯のメールを覗いている。あれで恋の語らいは成り立つのかと心配するが、余計なお世話だろう。電車に乗ると老いも若きもみんな携帯を見ている。こっちは電話はかけるためにあると思っているし,用は二言三言で済むから車内でもかける。オイオイそんな事はメールなんだよ。ジイさん、と隣の若者の無言の抗議が聞こえてくる。 年寄りの癖にスマホなんかをあやつる友がいて、これでどんな本も読めるし、こうしてラジオの音楽を聞かせるだろう、曲を当てて再配してくれるぜ。それにこれさえあれば道に迷うことはないというが、なるほど便利だがそれがどうしたという気になる。本屋もCD屋も消えていくかと思うとさびしくなる。人間は快適と便利を求めて、かえってそれに絡み取られている気がする。携帯を家に忘れて、二日や三日遠出して、一寸不便かなと感じる程度である。我が娘なんぞは携帯を忘れると裸で外を歩いているような気がするらしい。その気持ちの方が不便かな。 二月はヴァレンタイン・デーがある。今年は丁度香港にいて同行の妻と娘がベルギー製のチョコレートを買ってくれた。帰阪したら数包みのチョコレートが付いてきた。チョコレートの基本はモリナガの板チョコで、もしもチョコレートが食べたいという切実な要求が身体の中で起こったら、この板チョコで済ますだろう。ところが頂き物のチョコレートボックスは、高名なパティシェの作ったものばかりであった。 チョコレートの美味しさは、作り立てにある。確かに二センチ四方で一個三百円のものは、手の平大、一杯百円の板チョコよりは美味しい。美味しくなければ詐欺である。 贈答チョコレートの王者・ゴディヴァは、元々ブリュセルの有名だが小さなチョコレート屋さんで、これに眼をつけたスープのキャンベル社が、出来立ての美味しさを保持する冷凍技術を駆使する事によって、世界中に販売するに至ったと聞いている。キャンベル社のスープは、アンディ・ウォーホールの画題となって、誰でも知っているが味のほうは、アメリカ風である。ゴディヴァもマーケッティングの勝利かなという気がする。贈り物は、貰った人がああこれは高級なものと説明ナシに、直ぐ理解する品でなければならない。それがブランドの最大の効果である。だからヴァレンタインのチョコレートを配って回る時代は過ぎている。味がいいか悪いかより、チョコレートがシンボルになっている。そのうちにチョコレートの形をした本物の近海を送る人も出てくるだろう。近海の形をしたチョコレートは沢山存在するがユーモラスだが俗っぽい。 チョコレートは、カカオが欧州にもたらされた十七、十八世紀においては、高級な金持ちしかすすれなかった飲み物であった。それがいつの間にか日常品となった。時計も同じことであって、アメリカにおけるワンダラー・ウオッチの普及、スイス製のピンレバー、日本製のクオーツと一気に日用品化が進んだ。セイコーやシチズンの自動化製造が発達して、年に一億個もムーブメントが出来るようになると単価が百円とか二百円になり、ビニール傘みたいな存在になってしまった。 日本の産業構造を見ると、安くて良いものを作るのは得意である。安くするには必然的に量を作らなければならない。量が売れる間はいいが、売れなければどうするか、新しい市場を開拓するために値下げが必要とみなし、外国に生産設備を移す。当然その相手国も学んで競争相手が出現する。その結果に手を焼いているのが、今の電器産業だろう。日本の産業には良いものを少し作って、高く長く売り続けるという思想は少なくとも大手にはなかった。 日本の大手産業で特徴的なことは、手でする仕事を軽視するように思える。手作業は熟練を必要とするから身分が固定されてしまうせいかもしれない。工場長は高騰する人件費も抑えたい。セイコーの工場へ行って、昔ながらの方法で時計のケースを手で磨いているところは、余り見せたがらない。実はケースを磨いて美しくする工程は、プラチナや金のケースにおいては特に重要である。それにあまり清潔な仕事ではない。バフから飛ぶほこりで、あたりは真っ黒になるし、薄暗くしておかないと表面キズを見逃しやすいらしい。磨き工というと一段下の技術者に見られが勝ちである。ジャガー・ルクルト社には二十人ばかりの磨き工がいて、その部門長であるブノア・リームという人とのインタビュー記事がこの号のFH誌に出ている。いかにも自分の仕事に誇りを持っている受け答えが良い。 スイスでも工業工程規格化及び機械化によって、伝統的な手作業が消えて行きつつあるらしい。設計図からはじめて一個の時計を手作りする伝統を残しておこうと、有名な時計師三人(フィリップ・デュフール、ステファン・フォルセイ、ロベール・グルーベル)が、一種の塾を作りつつあることがこの号に報告されている。塾長に選ばれたのが、パリの時計学校の先生をしている中年のミッシェル・ブーランジェという人らしい。塾長への課題は、自動巻き中三針、トールビヨンの時計をいくつか制作することで、まずその様子が立体画像でDVD化される。こうして伝統技術を記録し、一般にも公開する。進行の状況を人々はブログ(www.legarde-temps-nm.org)で知ることができる。それが完成した暁には、世界中に持ち回って同好の志を募るという。この計画にはヴィアー・ハルターなどの独立時計師達も協力する様子である。こういった動きが起こるところにスイスの時計の強みがある。 スイス時計の総輸出額 2011年は、やや不信だった前年に比べ十九・二%伸びて総額で199億3千万フランという目覚しい復活を遂げている。20年来の最高伸延長率であった。総個数2千9百80万個(13・8%アップ)。1999年以来の新記録で、この10年は2千5百万個が平均だった。価格帯では、輸出価格3千フラン(25万)以上の時計が金額で21・8%もの、全体の伸びの三分の二を稼いでいる。いかに高級品及び貴金属側がが寄与しているか良く解る。相手先国別表は別表を見て頂きたい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
日本の時計・宝飾小売業ももう少し「ソーシャル・ネットワーク」に関心を 最近「ソーシャル・ネットワーク」なる言葉をよく耳にする。この場合のネットは、インターネットのネットで、ブログとかトゥィッターで、少しづつ社会の中で張り巡らされてきた情報の網が、フェースブックの登場で一気に完成されたネット上の情報網を指す。 評判になったアメリカ映画「ソーシャル・ネットワーク」では、ハーバート大学の学生だったマーク・ザッカーバーグがスマートフォンで使用される「フェースブック」を起業するまでのいきさつを実話風に描いた作品である。学生なのに、二百億円以上の資産家になるドラマは、映画としても面白い。数年経った今や何兆円かのお金持ちになっているらしい。 隠された悪事を告発するのに後難を恐れて無記名の弾劾文が流布されることがある。話題にはなるけど、大抵怪文書と名づけられてウヤムヤになることが多い。実名だと、根拠が求められるから、黒白がつけやすい。フェースブックの発信者、受信者はみんな実名であるところが、信頼できる情報網を築き上げる原動力となった。現在、フェースブックの利用者は、世界で七十言語、五億人以上で、一日2億5千回以上の交信が行なわれている。気の遠くなる数字だが、イスラムの革命でも大きな役割を果たしていると伝えられている。 私のようなアナログ人間から見ると、世の中のデジタル化は激しい。私の職場ですら大抵の内勤社員は、一日中画面を見つめている。以前はゲームなんかするなよ、出会い系サイトなんか呼び出すな、などと冗談で言っていたが、最近は禁止プログラムも発効しているが、現実は仕事一本になっている。そうならざる世の中になっている。「ソーシャル・ネットワーク」という映画の中でも、学生の一人が「我々の人生の殆どは、インターネットの上にある」と言う場面があった。学生が自分の部屋に戻ると、最初にするのは、ネット画面の起動である。 ここで一寸、個人的な経験を記したい。もう十年以上昔のことなので、個別の名を出しても時効だから許してもらえると信じるが、トヨタのカローラを動かそうとしたら急発進して、危うく通行人をはねるところだったことがある。少し前に、エディンバラの街角の交差点で青信号で待っていたところ、私のレンタカーと並んでいた車が、突然急発進して前の車に激突し、あっけに取られた記憶があった。その後トヨタには、そんな現象は再発しなかったが、どうもフに落ちなかったので、大阪府の消費者相談室の車の係りに行ってみた。どうしてもと言うなら、府には検査の設備がないからメーカーの検査所に送りましょうかという返事。どのメーカーですかと聞くと、トヨタの車はトヨタですとのことだった。それではきっと操作未熟という結論になると判断して、この件はあきらめた。ひとりで行政と大企業の壁を打ち破る事は難しい。このたびの原発津波事故後の政府と東京電力の対応も、この事故がもっともっと小さければ、今とは異なった様相になったであろう事は予想される。もしも私の事故にしても今起こったとしたらフェースブックなどで、一般に訴えかけたら、行政もメーカーも異なった対応をとらざるを得ないだろう。「ソーシャル・ネットワーク」の力は無視できないものになっている。 メーカーの対消費者政策は、食品とか化粧品、薬品といった直接身体に取り入れられるもの、塗るものに対しては、メディアがすぐ取上げるので神経質だが、時計のような日常生活品に対してはそれほどでもない。メーカーにとって重要な関心は、いかに自社の製品が消費者に好意を持って使用されているかどうかにある。特に新製品においてはそうである。宣伝は購買を誘惑するためにあり、PRは好意を持たせ購買に結びつける助けとなる。 昔からスイスの時計工場に行くと必ずといっていい程、PRマネージャーが出来て、案内や説明をしてくれた。大抵は魅力的な容姿のベテラン女性で、工場や製品のことなら社長よりも熟知している印象があった。これが日本だと総務部長か新入女子社員の役どころであった。日本の工場には、優れた製品で勝負しているのであって、PRで製品の質は左右される筈がないと思っているところがあった。ましてや一見学客の意見など上部に報告されている気配は感じられなかった。明らかに重大な欠陥が製品にあった時にだけ、必要以上に卑屈な態度になる。テレビで何度も何度もお辞儀を繰り返す姿を見ると、少し情けなくなる。直接の被害者に頭を下げるのは、当然だけど関係のないTV関係者に向かって何故謝罪するのか、私には良く解らない。世間は騒がしてもらって大いに楽しんでいるのに。 さて、FH誌のこの号では、これまでに書いた現状や今後更に網の目が細くなっていくソーシャル・ネットワークにいかにメーカーは対処すべきかという重要な論評が載っている。書き手はキャロル・オーベールという女性で、三頁を占める長い文章である。要約すると次のようになる。 スイスの企業の三分の二は、何らかの形でソーシャル・ネットワークに係っている。しかし、二十二%の企業しかその担当のマネージャーを置いてない。少し認識が甘すぎるのではないか。フェースブックのようなサイトの出現で、世界中に仲間のグループが直ぐ出現する。 またこれまでは、インターネットで情報を受け取る側に回っていた人たちが逆にメーカーに向かっても情報を発信するようになった。対話となるとメーカーやブランドが威信を相手に一方的に押し付けることが出来なくなる。《ブランドとは何か。それは君がそうだと思っているものではない。人々がそうだというものだ》という名言がある。一人の人間ではなく、その仲間全体にブランドのイメージを高める必要もある。企業が相手にするのは、これから製品を買ってくれるだろう顧客だけではない。中傷目的の人もあれば、競合先も、仕入先も勝手な意見を述べたり、あらゆる人々がいる。また消費者に呼びかけて、新製品の命名コンクールや写真コンクールを組織することも出来る。スイスのミグロスというスーパーでは、フェースブックの会員だけに特別割引券を出す事にして以来、消費者とのコミュニケーションが宣伝の中心になっている。そのコミュニケーションは、信頼性のあるものでないと忠実な顧客をつなぎとめることが出来ない。また基本として消費者が全ての中心とする認識がなければならない。 こういった論調が続くのだが、退屈になるのでこれ以上続けない。フェースブックを初めとするソーシャル・ネットワークがいかに消費の世界に変化をもたらしたかを知っていただければいいかと思う。この論評の結論は、ソーシャル・ネットワークというメディアを避けて通す事は出来ない。長所もあればリスクも大きい。要は企業の理念を再度確認して、製品についての有効性にも信念を持って、従業員などがソーシャル・ネットワークに参加して、無知のため害を加えることのないよう、細心の注意を払うことなどとごく常識的になっている。いくら避けがたいといっても、ソーシャル・ネットワークを作っているのは、営利企業だから金儲けが目的である事は忘れてはならない。しかもアメリカの企業だから手強い上にカルフォルニアの太陽の元の法律に則っていることも気をつけて、と欧州人らしく老婆心を発揮している。日本の時計・宝飾小売業ももう少し「ソーシャル・ネットワーク」に関心を持ったほうが良いという私の老爺心から、今回はFH誌からこの編だけを取上げてみた。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ジャケ・ドロ親子が十八世紀に作った自動人形をスイスの博物館で公開する 今回のFH誌は今年新年の第一号である。新年号だからといって理事長の新年への抱負や業界各位お偉方の決意みたいな、ご本人が書いたのではなさそうな当たり障りのない美辞麗句が巻頭を飾っている訳ではない。欧州では本来、年末の降誕節や春先の謝肉祭が、日本の正月にあたるお祭りで、オフィスは元旦が休みだけで、何事もなかったように仕事が始まる。 今号の巻頭記事は、ジャケ・ドロ親子が十八世紀に作った自動人形(オートマット)三体が、この春から秋にかけてスイス三つの博物館で各一体づつ公開されるというのんびりしたニュースである。 日本でも江戸時代にお茶を客席に運ぶ小さな茶坊主や、矢をつがえて的に当てる自動人形が存在した。今でもソニーの創る犬のロボットは大人気である。 十八世紀のヨーロッパの宮廷でも、珍しい自動人形に貴族たちが喜んだ事は当然であった。ルロックルの田舎に生まれたピエール・ジャケ・ドロは、時計職人として出発したが、発明の才に恵まれていて精巧な自動人形の作者として有名になった。勿論お得意先は、ヨーロッパの王様たちである。当時のスペインの王様は賢王と呼ばれたフェルナンド六世である。マッドリッドの宮廷に呼ばれて色んな自作の時計や自動人形六体を抱えて出かけて行き大評判となった。馬で運んだためバラした部品を助手を使って組み立てるのに四ヶ月かかったと言う。 ヨーロッパの王侯は大抵親戚である。このスペインの王様もフランスの太陽王ルイ十四世の曾孫である。ジャケ・ドロの名声はすぐに拡がり引っ張りだことなった。ラ・ショード・フォンの田舎から交通便の良いジュネーヴに移ってきて、名声の中に1790年69歳の生涯を終えた。息子も一年後に死んでいるので、事業はまもなく絶えてしまった。主としてフランス王様や王妃を相手に商売をしたアブラム・ルイ・ブレゲと同時代人であった。 ジャケ・ドロの名を惜しんで、自動人形の類を現代に復活させて作ろうとしたのが、以前のブレゲで働いていた二人の男で、名前の使用権を1995年に買ったものの、うまく行かなかったのか、2000年に会社をスウォッチ・グループが買い取っている。ブレゲとジャケ・ドロという歴史の中に埋もれそうになっていた名前をスウォッチが再興したといえる。名跡を見事に活用したとも言えるだろうが。 今でもニューシャテルの歴史博物館へ行くと、ジャケ・ドロ自身の作った自動人形の実演をみることができる。「音楽家」「画家」「文学者」と三体あるうち、実際に見たのは「文学者」だが、実に精巧に出来ている。見事に色々な字を羽のペンで、机の上に書く。四千個以上の部品から出来ている。まるで生きているみたいは大げさだが、それに近い。近年の展示プロモーションのために、スウォッチ・グループが昨秋北京に運んで行って「JAQUE DROZ EN CHINE」(中国にてジャケ・ドロ)と書かせたらしい。中国人がこの種のものを好むのは紫禁城内の故宮博物館に展示されている沢山の清朝時計を見れば歴然としている。大いに人気を博したに違いない。 付言すると、自動人形は日本では単なる見世物であったが、十七、八世紀のヨーロッパでは、宗教的に大きな意味を持っていた。自動人形は、アンドロイドとも呼ばれるが、言葉としてアンドロ(人間)オイド(そっくりのもの)の造語である。人間みたいなものに、魂があるかどうか、神学上の問題にもなってたのである。馬鹿らしい話だが、ジャケ・ドロは、悪魔と契約して人形を作ったから異端者とみなされそうになったぐらいであった。 チェリー・スターン社長が地元の新聞と昨年末に長いインタビューに応じた記事が今号のFH誌に転載されている。以下はそのまとめで私見ははさんでいない。 現在の全世界の従業員は二千名、うち千八百名がスイス、その中でまた千五百名がジュネーブで働いている。年間総生産量が四万五千個で大体品質を保持していける限界と感じている。これ以上発展しようと思ったら、付加価値の高い時計を作り、単価を上げるしかない。 2012年度は一月末が決算期に当たるが、非常に好調で生産が販売に追いつかなかった。現行二百モデルのうち半数が複雑時計なので、生産工具、イノヴェーション、アフターサーヴィスへの投資は拡大している。近年の不況に逆に高級品への需要は高まったので、量はやや減少した。市場としては、四十五%が欧州、三十%がアジア、二十%がアメリカと言うこれまでの長いパターンを守りたいが、中国に傾くのも止むを得ないかもしれない。世界で四〜五割りを中国人が買ってくているだろう。現在全世界の代理店は自社なので、バランスの崩れないよう努力を惜しまない。2006年に六百箇所あった販売拠点を今は四百六十箇所だがまだ減らしたい。理想は一箇所に二十〜二十五個の在庫を常時持って欲しいが、そうなると生産量を増やせねばならなく、現状維持の原則に矛盾するが店の数を減らすしかない。 ジュネーヴとパリとロンドンの直営店は昔からのものだが、そのほかに増やす気はあまりない。チューリッヒでベイヤー時計店と共同で作ったような専門店は自然に増えるだろう。価格的には、小売りで八百万円〜千三百万円内に力を入れたい。普通の製品では、エナメル文字盤の五百万円ぐらい。希少価値がある高価な複雑時計は、買った人が直ぐに利益目当てに転売できるからこういった投機品目に走りたくない。大切なのは買う人の質だ。現在会社の株は全部父と私が所有していて、一族の間にも分散していない。今後も変な思いつきの新製品は作りたくない。材料・設計・デザインには慎重に対応する。 パテック・フィリップ社の現状 パテックという姓は西ヨーロッパにないが、1831年の革命騒動でポーランドからスイスへ亡命したパテックとチャペックの姓を持つ二人の男が創業した時計作りが、今や高級時計の代名詞と言ってよいパテック・フィリップ社である。後に時計師として天才的だったフランス人のアドリアン・フィリップが参加して今の名称になった。その後、アメリカに発した大恐慌の時代に、文字盤を納入していたスターン家に会社は売却されている。以来今日まで、シャルル・アンリ・フィリップ・チェリーと四代の親子によって経営は維持されている。いくら代替とはいえ、他の資本参加なく、親子四代と続いている事は、会社や製品の個性に家族の個性が出て大したものだと思う。 先代のフィリップ・スターンさんとは、四十年程前に来日された時に日本総発売元をしていた一新時計の創業者の西村隆之さんの紹介で一度会ってお話をしたことがある。穏やかな好感を持ってる人柄で、ジュネーブに行ったついでにお話を聞きたくて会おうとしたら西村さんから用件は私がうかがうから用も無しの世間話は困ると釘を刺されてしまった。以来、ご無沙汰のうちに息子さんのチェリーに代も譲って引退されてしまったのは少し心残りである。後で聞いた生臭い噂話だと、香港に、東洋におけるパテックの利益を一手に収めているユダヤ人がいて、日本の業者がパテック社と直接接触する事に極端に神経質だと聞いた。時計の輸入がやっと自由になりかけた時代だから、ありそうな話だがことの真偽は定かではない。西村さんの商売の邪魔をする気はなかったし、パテックの日本での足場作りに西村さんが大きな功績を残したのは今となっても事実である。日本の時計産業が一様に苦闘している時代に、こういった進路に確信を抱き、自身に溢れた談話に羨ましさを感じざるを得ない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
ウオッチメーカーの先行きに感じるロマン FHはスイス時計産業連盟の略語で、製造業者の組合である。約五百社の組合員の利益のために活動することが目標である。当然、共通の目標が掲げられる訳だが、日本の組合同様、組合の外に対しては、強固な申し立ては多いが、組合の構成員を縛るような取り決めは、中々出来ない。国に頼るしかない。スイスでも日本でも事情は同じである。 FHの年次総会は六月末だが、今号のFH誌は、昨年の最終号で、最終総会の報告をジャン・ダニエル・パッシュ会長が報告している。スイスの時計産業が全体として直面している問題を知る事は重要ではあるが、おおよそ組合の決議などは抽象的で退屈である。問題点だけを箇条書きにしておくに止めたい。 @ 環境に注意してCO2排出を最小に抑える。 A 法人税の減少を働きかける。 B 人の自由な移動を難しくする入国管理規定を作る動きに反対する。 C メーカーが売り先を決定するのに介入する法制に反対する。 D ニセモノ撲滅の強化。最近では、フィリッピンとイタリアの政府機関の協力を得た。 E 二〇一一年の時計輸出は目覚しく、二〇一二年の見通しも悪くない。 F 基準の設定、ガラスの非反射処理、対衝撃基準の見直し、化学物質や大気中に含まれる要素による侵害の基準の設定など。 G 重要な輸出先である国の経済構造を輸出する方向へ変革する努力をすること。例えばロシアとスイスの貴金属に刻印するホールマークの相互認識を強めるとか、スイスと中国やインドとの自由貿易協定交渉の行方を良く見守るとか、協定における原産地証明とか、知的所有権は、時計業界と大きな関連を持つ。 大体こんなところであるが、背景がよく解らないから、列挙するだけでお許し願いたい。 ウオッチメーカーたちが作る時計 スイスでは、時計工場で働く組み立て工や、修理技術者のことを英語で「ウオッチメーカー」という。語感から言う時計製作者だから、現実とは少し異なる。職工というよりは、メイドをお手伝いさんと呼ぶように敬意を表明することが出来るので使われているのかと思っていたが、よく考えてみると時計作りの根幹は、組み立ての工程にある。例えば、ロレックスのアフターサービスでは、時計を全部分解して一個一個の部分にばらして、再度組み立てている。これは新しい時計を一個製作することと変わりない。なるほど、ウオッチメーカーと称されて当然と言う気になる。 日本の時計産業は、スイスからパーツを輸入して、組み立てて売るシャブロン形式と、全ての部分から完成品まで作るアメリカ様式を真似て工場を作るかで始まっている。懐中時計の時代では、ウオルサムに代表される大量一貫生産がスイスに対し優位に立っていたから、初期のセイコーもその後を追って行ったと思われる。一貫生産では、組み立てと言う仕事も全体の一部に過ぎない。ウオッチメーカーが独立して時計の製作を始めると言うような事は、なかなか起こらない。 日本では、時計の修理や組み立てを専門としている人が、その経験から新しいムーヴメントを設計したり開発したりすることも、少なくともこれまではあまりなかった。それは大学の機械工業学科を出て、セイコーやシチズンに入って設計の勉強をした人の仕事とされてきた。スイスでは、時計を作る環境や文化が異なるので、言葉は悪いけど職人上がりの時計製作者が、現在でも輩出している。難しい時計の修理や組み立てに従事しているように、自分にしか出来ないムーヴメントの構想が沸いてくるのだろう。名称だけのウオッチメーカーが本当のメーカーに変貌する。ミッシェル・パルミジャーニの場合もそれに当てはまる。 ニューシャテルの近くのフルウリエィと言う町で、イタリア人の家庭に一九五〇年に生まれたミッシェルは、地元の時計専門学校を出て時計業界で修業した。彼が時計の設計に目覚めたのは、師匠格のマルセル・ジャン・リシャールについて設計図だけ残っていた有名な中世イタリアのドンディの天文時計を復元制作にあたって以来と言われている。この十四世紀の時計は、太陽系の惑星の動きまで知らせる複雑時計で、しっかりした文献が残っていたが、文献の設計図だけでは、制作の細部まで詰めることが、これまで誰も出来なかった。その復元実物は、ラ・ショードフォンの時計博物館に展示されている。その後、下手な修理の手が入ったために、誰も元に戻すことができないと言うブレゲの特殊な置時計を見事修理して、ミッシェルの名は高まった。この置時計は二億円近くで売れたと言う。 製薬業で財を成したサンドス一家は、ル・ロックルの町外れの丘の上に美しい城館を持っていた。サンドス一家は、財団を作り、この城館を時計博物館にして、一家の保有する時計のコレクションも寄付した。その修理・保全に当たったのがミッシェルで、そこから新しい時計機構の発想が生まれたのだろう。色々なメーカーから新しいムーヴメントの設計などの注文が入るようになった。初めは個人企業でやっていたが、一九九六年にサンドス財閥が五一%の投資に参画して現在に至っている。十年前の社員数は、六十人、現在は五百人。生産は年五千個。百万円以下の時計もあるが平均価格は五百万円前後で、二億円を越すのもある。十五種類あるムーヴメントは全部自社生産。 この号のFH誌では、ペンのメーカーとして有名なカランダッシュ社(時計も作っている)から、パルミジャーノ・フルリェ社のナンバー3として迎えられたフィリップ・ド・コロディとの新聞インタビュー記事が掲載されている。 営業面での強化が記されている様子だが、流通は血液循環みたいに重要だから、何よりも強化するといっている。ドイツ・香港・マイアミ(米)・イタリア・ロシア・フランス・英国・ブラジルに販社を作り流通整備したいというのがなぜか日本がない。アジアも勿論重要だが、今のところヨーロッパ市場が基盤である。製造面では、独立独歩できるしっかりした会社だが、マーケッティングでは、十年遅れをとってきた。この五、六年がブランドを確立する勝負の時期だと鼻息が荒い。 一人のウオッチメーカーが生存中に世界的な名声を得る企業になるのをみるのは、 中々楽しい。そこにはロマンが感じられる。フランクミューラーやロジェ・デュブイの例もある。ミッシェル・パルミジャーニの更なる発展を期待して止まない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
FHの機関誌の発行は、夏と冬の休みがあって年に二十回である。掲載している時計美術宝飾新聞の発行は年に二十四回だから一号づつ対応することが出来ない。そこで今回は前号について少し足踏みをする。 昨年の11月11日に「モントレ・パッション(時計への情熱)」という時計雑誌の主催で、雑誌に関係のない有識者の間で、昨年に発売された時計の優秀製品と優秀メーカーの選定発表会が、ジュネーブのホテル・インターコンチネンタルで行なわれた。五百人の人々が集まる盛会だったようだ。一種の時計のアカデミー賞だろう。2012年のウォッチ・オブ・ジ・イヤーは、エルメスのアルソー(半円)シリーズの一つ、ル・タン・シュスパンデュ(中断された時)という時計に与えられている。2位がヴァシュロン・コンスタンタンの世界時計、3位はオーディマ・ピゲの「ミリナリィ410」、メーカーとしてブレゲ社に賞が与えられた。時計の選考基準は、2011年中に発売されたもので、二百個以上製造され、小売値が五万フラン(約45万円)以下という。時計の一つ一つの特長については、よく分からないが、メーカーの知名度から見て無難で順当な選抜といえよう。 年末になると、演劇・音楽・読書・映画などの世界で今年のベストテンとか、最優秀賞が選ばれたりするがその性格が現在では商品の場合とかなり異なっている気がする。 かって商品はコストパフォーマンス全能の世界であった。カー・オブ・ジ・イヤーを皆が注目したのは、画期的な性能、美しいスタイル、手に入りやすい値段をいかに兼ね備えているかにあった。ロールスロイスがもしも選ばれたにしても、人々は受賞にそっぽを向いたであろう。受賞したからとてロールス・ロイスの売上げも上がる事はなかったであろう。 今でも存在するが、「暮らしの手帳」という雑誌は、我々の世代には大人気であった。特に電化製品のテストは厳格で、日本の全電器メーカーが取り上げられ、合格の点を貰うと大喜びであった。広告を取らない雑誌が、これ程までに製造業者におおきな 影響力を持った事はないだろう。 話は飛ぶが、ミシュランのレストラン採点が客観性をもつとみなされているのは、採点者が自分を秘し、自費で食べての結末だからである。飲み食いさせてもらった人の批評は信じ難い。メーカーの広告を載せている車雑誌の試乗記にもどことなく言わない部分もあるだろう。言わない嘘という言葉もある。時計の雑誌だって同じことである。 それに人々は必ずしもコスト・パフォーマンスだけに執着しなくなったし、製品の全体の水準も上がって、煮ても焼いても食えない不良品はなくなり、社会の目も厳しくなった。ニセモノは掴まされることがあっても、少なくとも劣悪な製品を掴まされる機会は少なくなった。それぞれの製品は、それぞれなりに役立つ世界になっている。ある一定の細分化された価格ゾーンの中での優秀商品の選定なら、購買の動機づけになるだろうが、時計は何でもとなると人気投票みたいなものだろう。ウォッチ・オブ・ジ・イヤーに多少懐疑的になる由縁である。 経済学者のケインズが美人投票について、こんな事を言っている。投票する人は、必ずしも自分が美人とみなす人に投票しない。皆が美人と思うだろう人に投票する。時計の人気投票にも同じことが起こってはいないだろうか。 ジュネーブ・スタンプについて リヒァルト・ワーグナーの有名な楽劇に「ニュールンベルグの名歌手」というのがある。名歌手である事を競う一種のコンテストが主題であるが、後半ではマイスター・ジンガーの制度に対する賛美が延々と続く。マイスターとは、親方のことである。「親方制度」つまり職人組合であるギルド制度が社会の基盤にあるために、ドイツ文化が世界に冠たる事をワーグナーは強調したかったのであろう。ギルドは特にドイツ特有のものではなく、ヨーロッパ諸国に見られる職人の制度である。その規律が比較的厳格に守られていて、職人の社会地位が高いのはドイツであったとは言える。今の日本語でもマイスターと言うとなんだか技術的に非常に優れているという語感が、同じ言葉でも英語のマスターだとバァかコーヒー屋の親父になってしまう。 中世から工業社会に入る19世紀中頃にかけて、時計を作る職人は必然的にギルド制度に組み入れられていた。親方は、弟子を二、三人抱えていて、弟子が親方になろうと思えば、制作の技術を数年でマスターし、一但親方の下を放れ、あちこちで修行し、その上で完成品を一、二個親方に提出する。作品が親方のメガネにかなうと親方は仲間の親方たちの審査に回し、合格すると新しい親方が誕生する。独立に至るまでかなり歳月がかかった。あんまり簡単に親方を作ると、競争相手が増える事になるし、これが品質維持に大いに役立った。 こういった同業組合は、時代と場所を問わず、長所と欠点を必ず兼ね備えている。自分たちの権限と利益を最大限に確保しようとするのが常である。昔の全国時計小売組合もそうだし、医師会にも同じような面があった。 品質を守るという長所も、ギルドも色んな点で発揮している。ロンドンに宝飾時計職人組合の本拠地であるギルドホールと言う古く由緒ある建物がある。立派と言うか華麗な重々しい様式の建築で、日本人の感覚で見るとまるで銀行協会である。ここの職人たちがお互いに協議してそれぞれの合格点を発揮し、刻印を打ったものがホールマークの典型である。ギルドホールは沢山あるから、製作者又はアトリエの刻印は無数にある。日本人は自主独立の気運を欠いておるのか、仲間で決めたルールはお互いに信用ならんと考えるせいか、こういった決め事はおうえの手を借りないと収まらない。私の知る限り、信用ある貴金属に関するホールマークは、大阪造幣局の打刻する日の丸官製マークである。JISマークも何となく官製の匂いがする。 次いでながらギルドはフランス語でコルポラション(英語のコーポレーション)で、ホールマークはポアンソン(英語でスタンプ)という。職人が多かった新教徒は、ドイツでは安定した生活を送れたが、フランスからは旧教徒に迫害され、ジュネーヴに逃げ込んだ。そこからスイスの時計業が始まったのだが、当然コルポラションの力は強かった。日本人の一般から見ればスイス製で十分と思うが、スイス人にとってはジュネーヴ製というのに特別な思い入れがあるようである。京都の呉服と同趣である。昔はジュネーヴで作ってないのに、ジュネーヴ製と称して売っていた業者もいたらしい。そこで一八八六年にジュネーヴの業者が集まって自分たちの時計ムーヴメントに特別のポアンソンを刻印することにして、時代の変革による条件の緩和もあったようだが現在に至っている。 これまでの権威が少し薄れ気味(50年ぐらい前まではブランドよりジュネーヴ・スタンプの方が重要視されていた)なのと、フランス・ワインのAOC(地域認証制度)が脚光を浴びているせいか、125年目を期して、更にこれを推進しようという会が昨年九月にジュネーブで開催された報告がこの十九号に載っていた。パティックが全製品に打刻すると宣言したのも、この動きの一環だろう。ムーブメントだけでなく時計全体がジュネーヴで完成されねばならなくなっている。検定を指導し、責任を持つのは、恐らく公益法人とみなされる2008年設立のクロノメーター認証機関でもあるタイムラグという団体である。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
中国市場について まず思い出話から始めたい。二十五年ぐらい前の話で、日本でもやっとロレックスの人気が定着し、売れ始めた頃であった。毎年秋になるとロレックス本社からCEOのアンドレ・ハイニガーさんが日本にやってきて、我々卸代理店八社を招き会食するのが通例となっていた。 その頃、ロレックス社の会社の性格上、売上げということにあまり拘らなかったから、ビジネス上のことは会食の席では討議されることはなかった。そのときは確か、新宿に新しくできたヒルトンホテルが会場だった。食後の歓談の場になって、一新時計の創業者社長・西村隆之さんが、要望したいことがハイガーさんにあるから、私に通訳を依頼された。要は、ロレックスの並行輸入に正規の我々の問屋は悩んでいるから、アフターサービスの施設に対する過剰な投資は制御して、また並行品の出所であるシンガポールや香港に対する出荷額を上げて、その分日本の定価を下げるようにされたらという、普通の日本の商人なら考える当たり前の提案であった。しかしそれを聞いたハイニガーさんは、真っ赤になって激湖した。あなた方は、ロレックスを扱っていても何も解っていない。アフターサービスの完備はロレックスの生命線である。買った人が世界中の主要都市で同じサービスを受けられるというのが基本戦略で、現在はたまたま外国で買ったロレックスのサービスが日本で多いかもしれないが、その逆になることもある。私の今しているロレックスは、これこれの値だけど、これは高いかね。決して高くないと腕の時計を外して机の上に放り出した。それに私は世界中のロレックス取扱店に並行輸出の商売はしないように要請し、手段も講じている。それは主として為替の変動で起きるもので、アメリカの大統領だって制することが出来ない現象を、どうして私が管理出来ようか。それに私がやっていることが、皆さんお気に召さないのなら、ロレックスを一切売ってもらわなくても結構です。日本のシェアなんかたかが五、六%なのだから、三年や五年一個も売れなくなっても困らない。当社には、それを持ちこたえる金が十分にある。ボルテージの上がる一方で、会食は白け切ってしまった。これくらい通訳していて困った経験もない。 実は二○一一年のFH誌を読んでいて、日本市場に関する記事はほとんど出てこない。ハイニガーさんの言ったたかが五、六%のシェアで、しかもかっての如き将来性の少ない成熟した市場に対する取り扱いは、こんな物かも知れない。その代わりに登場するのが、シェア五十%を越す勢いの中国である。 今号のFH誌でもスウオッチが一九○八年に建てられたパラス・ホテルが和平賓館の南館となって古くなっていたのを改造し、六階建てのうち一階をブレゲ、オメガ、ブランパン、スウオッチのブテック(全二千平米)にして、上層階を美術展示場及び芸術家が制作しながら六ヶ月まで滞在を許される十八室のアトリエ付きホテルを開業した記事が出ている。アート・ウオッチとしてのスウオッチのプロモーションのためのメセナ感覚の施設で、「スウオッチ・アート・ピースホテル」と名づけられている。 上海を知っている人なら良くわかるだろうが、賑やかな南京路が外灘(川に面した通り)に突き当たる角。地元の人も観光客も皆が散歩に行く一等地である。またここには、洋風の歴史的建造物が並んでいて、その代表的な建物である。一人の人間に複数の時計を売り込むには、芸術品がもたらす収集意識をかき立てるのが最善という戦略がはっきり出ている。 中国におけるネットビジネス 私たちの若い頃は、航空会社というと大都市の目抜き通りに、立派なオフィスを構えていたものであった。今はすっかり見かけなくなってしまった。全てがネットの影響である。街の航空会社に出かけていって、チケットを買う人がいなくなった。第一買うにも航空券そのものが電子表示となってほとんどなくなったといってよい。外国旅行をしていて、日本航空の大きな看板を眼にすると、何か困ったことがあれば相談に乗ってもらえるかなとか、日本の新聞が見れるかなとか考えたものだった。今はスマートフォンだけ手元にあれば、大抵のことは解決が付くようだ。私のような保守的な老人でも、航空券やホテルの予約はたいていネットで予約する。大抵はしてもらう。従って商品の購入だって、必要とするものは大抵ネットで人は済ますようになる。いや、なっている。 ネット商売というのは、購入するのは騙される、されないの問題は別にして、簡単である。しかも売るシステムを作るのは、特にスイスが中国市場を相手にするときには、やっぱり専門家の助けがいる。デジタルビジネスを専門とするデジタル・ラクシャリー・グループという会社が、上海にこの九月からアジア市場を相手にする拠点を作ったという新聞記事が今号に掲載されている。この会社を利用すれば、時計もネットで売れるようになるということらしいが、この会社の社長が面白いコメントを言っている。中国にはまだまだ外国製品のことを知る人が、特に内陸部には沢山いる。我々が推奨する時計のブランドのために仕事をする目的は、そういった周辺部の人々が欲しがる時計はスイス製で、日本製品ではないようにすることだそうだ。 中国資本のスイス進出 この数年ボルドーの有名なワインの値が上がる一方だと思っていたら、やはり中国人のせいのようだ。ラフィト・ロートシルドのような特級格付は大量に買い付けるようである。つい先日の朝日新聞のボルドー・ワイン特集記事を読むと、中国人所有のワイナリーも十ヶ所近くあるらしい。ただし日本人のように経営には直接手を出さないで、オーナーになるだけらしい。自動車のボルボも中国資本だが、これまで通りの経営方針を守っているように見える。 時計に関しても、中国は良い市場であるばかりでなく、中国資本もスイスへ積極的に進出している。成功例には、ミルス、ジャン・ディーヴ、ベルトリッチ、ベダがある。余りうまく言ってないのが、ヴァルカンとかピース・マーク・ソプロッド、失敗例はユニバーサル、レオナールらしい。 この七月に、とにかく高級時計の一画を占めるエテルナが中国の企業ハイディアン(HAIDIAN)中国名でどう書くのか解らないが、二千三百万フラン(二十億円)で買収されている。この中国の会社は中級のブランド二つと中国の会社としては整備された販売網を持っているらしい。いずれにしろ、中国人や日本人が資本参加することは、スイス人にとってやや薄気味悪いらしい。中国資本参入についてのセミナーがラ・ショード・フォンで催された記事が出ていた。カルティエやタグ・ホイヤーはフランス資本だが、外国という観点では、討議された事はないだろう。 ワイナリーの場合、中国人オーナーはあまり経営に口を出さない。つまり中国人をトップに据えたりしないようだが、エテルナのケースも同様のようである。今号の別項の記事には、二○一一年の十一月から元々エテルナ出身の四十歳スイス人のパトリック・キュウリティがエテルナと系列のポルシェ・デザインのCEOになったと発表された。つまり、これまでのエテルナの歴史と伝統を維持するというメッセージに思える。(栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
複合(ハイブリッド)製品のはなし もう二十年以上も前の話になるが、当時の諏訪セイコー(現在のエプソン)が、セイコーの名で腕時計型のテレビを開発して、実用化発売をしたことがある。値段も相当に高くて二十万円を超えていた。ただ腕時計部分だけで完成してあれば立派だったが、テレビを見るためには、アンテナが必要で、ヘアバンドないしは帽子に取り付けなければならなかったし、電池や補助機械部分の入ったやや重い煙草の箱みたいなものもポケットに納めねばならなかった。しかもこれをコードでつないで持ち歩く必要があった。 発表会の席上、ここにはセイコーの技術のエッセンスが込められていると、諏訪セイコーの当時の中村代表(現実的には社長だが、創業家の服部家に遠慮して、社長の呼称はつかわれていなかった)が力説された。若気の至りで全社員の敬愛を一身に集められていた中村さんに私は、いくら最新技術でも、こんなややこしいものを買う人はいませんよとつい言ってしまい、この温厚で優れた経営者を鼻白ませてしまった。世の中には話題にはなるが、二兎を追う複合型製品には、現実に売れないものが多い。使いやすさに、大抵難点が多い。 大阪の町に、水陸両用バスという観光バスが走っている。道路から水路に入って、川からも観光が出来るようになっているが、概観はスマートとは程遠い。そのせいかアイディアはいいが、人気はもう一つのようである。普通の乗用車にも、元々軍用であるこの技術を転用できるだろうが、洪水の時には便利だろう。ただし売れる保証はない。 宝飾品の世界でも、ペンダントが指輪として使用できるものとか、帯止めがブローチになるとか、一つ石の婚約指輪に併用すると日常のリングになるものとか、色々なアイディアがあるが、それで大成功といった話は聞かない。どっちつかずの宿命は厳しい。 複合製品で例外的な成功は、提携電話だろう。単に持ち運びのできる電話に過ぎなかったものが、アレヨアレヨという間に今のスマートフォンにまで発展してしまったし、これからも意外な展開が期待される。 私なんか古い年代で、携帯を置き忘れて外出しても、連絡するのが不便だと感じるだけに過ぎない。若い世代は携帯なしだと、まるで裸で街頭に出たかのように大慌てをする。江戸の頃、塙保己一という失明の大学者は、日が暮れあたりの人々が明かり明かりと騒いでいるのを聞いて「目明きはなんと不便なものか」とつぶやいたという。携帯を忘れたと騒ぐ人に、ついこの負け惜しみを言いたくなる。 さて今号のFH誌には、世界初の電話機能付き腕時計をスイスのエレクトロニック及びマイクロテクニック研究所とリメックスという会社が共同して開発、完成して発売に踏み切ったという記事が出ていた。写真で見ると外観は、LIMMEXと文字盤の上にロゴのある普通のスポーツタイプの腕時計である。電話に時計の付いているのはありふれているが、時計に電話が付くのは世界初らしい。つかい方は、竜頭を押すと、スピーカー付きの電話になり、ある一定の人又は場所に連絡する仕組らしい。当然、目的は、一人歩きの子供や老人、一人暮らしの老人、単独で山中で暮らす人のための安全確保のためである。別に腕時計でなくてもという質問に、腕の位置が一番早くボタンを押せると会社側は言っている。現在クリストという時計小売りチェーンの一部で販売されていて、価格は四九五フラン(約五万円弱)。正、回線使用料が月に二十五フラン(二千円)かかるという。リメックス社の社長アンディ・リスは、新聞記者の質問に答えて「開発に七〜八億円相当の投資をして、発売以来スイス国内で二、三千個売れた」といっている。 五年後は、五千万フラン(約四十億円)の売上げにしたいと強気である。今のところ、時計はデザインであり、イメージであり、プレステージである。機能によるサービスではない。然しこれらが、一体となる日を私たちはめざしていると言っている。さて、この颯爽とした返事を売り上げがカバーしてくれる日が来るだろうか。 ヴィクトリノックス・スイスアーミーナイフ 肥後守ナイフも中々味があるが、時々砥いでやらないと切れ味が悪くなる。切れ味の継続性では、日常用のナイフとしては、なんと言ってもヴィクトリノックスで、時計と並んでスイス土産の双璧であった。ナイフというものは、どことなく攻撃性を持っているもので、真にナイフ好きには物足りなかろうが、文房具としては平和を愛好する永世中立国家の作るヴィクトリノックス・スイスアーミーナイフが一番である。 元々スイス軍の銃の取り外し、再組み立てを兵士が一人で行なうためのドライバー付きナイフとして一八八四年ぐらいから作り始め現在に至っている。 時計を作り始めたのは、比較的新しく、一九九〇年代で、本格的な取り組みは一九九四年からである。というのはアメリカのナイフ輸入代理店がそれより以前にスイスアーミーという名を時計で登録して、スイスで時計を製造しアメリカで売れに売れていた事に刺激されたためだろう。名前も紛らわしいし、本家争いをしても双方の利益にならないと判断されたためか、二〇〇二年に両社は統合している。以来、現在の快進撃が始まっている。 この号の新聞記事によると時計会社の社員は約百名。四十五名はビェンヌで、マーケッティングとアフターサービス。残りの五五名が二〇〇六年に建設されたジュラ山中のポラントリュイという村のアトリエで働いている。たった五十人あまりでは、あの数は創れるはずはなくて、機械はETA製品だし、組み立ても殆ど下請けに任されているに違いない。問題は、スウォッチグループから供給を受けている生産の七%を占める機械時計の部分で、今後供給をしないと声明しているのにどうするかという質問に製造担当の役員であるグサヴィエ・ジュールダンは、こう答えている。「我々は、ほかに供給先を探したりはしない。ヴィクトリノックスには、二兎を追う哲学はない。巨人スウォッチグループと話し合っているから、しかるべき結論に達するだろう。供給停止は機械時計だけであって、我々の基本はクオーツだし」とやや楽観的である。年間に新しいモデルを五、六十発表する会社だから、クオーツに専念した方が楽だと内心考えているのかもしれない。 成立の事情からヴィクトリノックス・スイスアーミーの市場の四十%がアメリカである。だからアメリカではロレックスの次に有名なブランドと自画自賛している。 ロレックスには、個人として色々な社会貢献を試みる「新しい企てに挑戦」賞があるが、ヴィクトリノックスも「思いやりの時間」賞を創設している。エコロジーの観点から資源持続の哲学を表明した発明に与えられるものだが、初回は空中から水を抽出する機械、水を使わないとトイレ、獲っても売れない魚を殺さずに生かして放す安全網の発明に与えられている。面白い発明で詳しく説明したいが紙面が尽きてしまった。栄光時計株式会社会長 小谷年司) |
|
|||
香港を訪れて実感、中国にも金持ちは多い 今年の春の大地震による放射能流失で、中国観光客が来日しなくなり、東京や大阪の百貨店、電器店、小売店の売り上げが激減した事は記憶に新しい。中国人は、外貨の持ち出しを制限されているはずだから、買い物も日用品で、国内にはないものに限られていると私たちは想像していて、その先入観はなかなか消えないだろう。 ところが、今年二度目であったが、十一月中旬に香港を訪れてみて、その先入観が全く間違っているのを痛感した。泊まったのはリッツ・カールトンという新しく出来た最高級ホテルであったが、一泊の部屋代が七万円以上もするのに、宿泊者の殆どが中国人であった。内装もいたるところに現代中国の趣味が満溢していて、国際的な様式でなく明らかに、中国人の高所得者層の顧客を目指している。このビルの百一階から百十八階までを占める空中ホテルの下は、エレメンツという呼び名の広大な欧米有名ブティックが軒を並べているショッピングモールがあり、スケールの大きさは世界に類を見たことがない。現在訪れるのは殆どが中国人という。中国にも金持ちは多いという実感がここに来るとする。現在この下には空港と結ぶシティ・エア・ターミナル(箱崎のような侘しさはない)だが、広州を経て北京に至る新幹線の新駅が隣接して建設中である。香港の開発計画の羨ましいのはこのあたりも同様大抵埋め立て地の上に作られるから地権者だの日照権だの騒音だのの問題は少ないことで、地震のないことと相まって、着工されるや、瞬く間に完成し、往来が実にスムースに仕上がる。 中国経済の発展が続く限り、中国内の都市の住民にとっての消費都市として香港の繁栄は、確保されているし、現在はその通りになっている。 この号のFH誌には、スイス時計の輸出は、九月までの九ヶ月間で、四ヶ月が昨年対比二十%以上増加を記録したとある。しかも、輸出原価で三千フラン以上(日本の小売値に直すと七、八十万円)という、価格帯の延びが九月で二十三・九%という。勿論、全体としても最大の売り先は香港と中国である。両方で全輸出の五割を越している。日本も低かった昨年から多少持ち直しているらしい。 香港のショッピングセンターやら時計店を見ていると、昔は力のある小売り店が、高級ブランドを沢山扱っていたが、今は段々と一つのブランドしか扱わない店が多くなった。いわゆる直営ブティック(大抵華僑との合弁)である。エレメンツでもカルチェは、当然ながらP・F・ジュルヌとかフランク・ミューラーという店舗を見た。ロレックスもオメガもあちこちにある。ゼニスも、コーズウェイベイという夜の繁華街に路面店をこの七月にオープンしたという記事が、この号に出ていた。写真から見ると、地味なスイス、ドイツ風の重厚な外観で、あたりのきらびやかな色彩が躍っている店舗の間でかえって目立つだろう。 ヴァシュロン・コンスタンタンは、ニ五六年の歴史を持つ老舗だがニューヨークに最初の支店を出したのは、一八三一年、百八十年前のことらしい。それを記念して新しくニューヨークの高級店が並ぶマディソン街にブティックをオープンした記事が出ていた。ヴァシュロンは、中東にも強かったが、石油価格が下落したとき、中東では売れなくなって経営不振に陥ったことがある。今から四十年近く前で、オペックの代表として活躍したサウディ・アラビアのヤマニ石油大臣が資金を出して買い取っている。ヤマニさんは、政治家としては、辣腕だったが経営者としてはそれほどではなく、結局一九九六年に株もリッシュモン・グループに売却して、以降会社は業績を回復している。 これも今号の記事からだが、ヴァシュロン本社のあるジュネーヴが手狭になったので、ライバルのオーデ |