路傍のカナリア

2015/03/11
路傍のカナリア7

平穏無事の哲学
三日の余分が風邪をおさめる。

パートさんが風邪をひいてしまったので仕事を休みたいと言ってきた。それから一週間位して「もう大丈夫だから明日から出勤する」と当の本人から電話がかかってきた。が電話口の声は張りがないし、ごほごほ咳き込んでいる。「無理をしないように」ということで、ひきつづき休んでもらったのだが、四、五日してまた連絡があって「体調がもどった」という。たしかに話し方もしっかりしているので、それから三日後から出勤ということになった。
どの職場にもあるごくごく当たり前の一件であるが、考えておくべき事柄も含んでいる。
「風邪がなおった」という判断は誰がするのだろう。体の調子などは本人しかわからないのだから当の本人がするのが当然のことだが、そう簡単でもない。職場に迷惑をかけているから一日でも早く復帰したいと焦りがあると、少々無理してでも治ったことにして出勤するが結果としてぐずぐずと風邪が長引くことがある。症状をおさえるために強い薬を使えば、今度はその副作用に苦しまないともいえない。
では医者の判断は正確だろうか。平熱になったとか、のどの腫れがおさまったとか、呼吸器の状態が正常であるとか、身体の客観的な判断はするだろうが、全体しての体調のもどりというのは、たとえば食欲がない、なんとなく体がだるいという類のことは、部分部分の診断を超えたものである。医者の話にはそれなりの制約がある。
そこに本人でも医者でもない第三者の全体をみている目というのが案外馬鹿にならないのである。子供をみる学校の先生の目、部下をみる上司の目、後輩をみる先輩の目に似ていて、普段から一定の距離感で接していて細部にまで観察するわけではないが、相手の変調がわかる程度には見ている位置というのがある。距離感がある分だけ全体がみえるというか、全体しか見えないともいえる。この位置からみる「風邪がなおった」という判断の物差しは、電話口の声の調子しかないのであるが、それでも普段に戻っているかどうかは本人の主観的判断よりはるかに正確である。そのうえで少し余分の休日を足せば、復帰後の体調の再悪化は避けられる。もともと風邪をひくことの元凶は疲労による免疫力の低下からくるから休養していれば自然と治るけれども、それが人によって長引いてしまうのはそれ以前に身体に無理がかかっているからに違いない。「これ以上はダメ」と身体がNOを突きつけたのだからその身体の声を十分尊重して芯から疲労を取り除いてやらなければならない。そうやって身体と仲直りをすれば自ずと人は生き生きしてくるのである。この全体の調子の見極めということになると第三者の全体観に勝るものはない。
パートさんが自己判断してからさらに三日の余分を使ったのも、この線に沿ったものである。とはいえ、その位置にいる人間が、すこしでも早く復帰してもらわなければ困ると自己利益に傾いてしまうと、当座のつじつま合わせだけが優先してしまう。小さな計算の積み重ねで日々は回っていくけれど、誰かが大きな計算をしておかないと目に見えないリスクは広がっていく。
日常の些事と思える事案にも一筋の思考の線を入れておくこと。それが平穏無事を保つ力技である。 
貧骨
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2015/02/13
路傍のカナリア6

仏風刺画事件 テロった男達の一分の理

言論の暴力と力ずくの暴力と

そういえば日本でも似たような事件があった。1961年2月深沢七郎の小説「風流夢譚」の皇室に関する記述をめぐって、出版元中央公論社の嶋中社長宅が右翼の少年に襲われたのである。お手伝いの女性が亡くなっている。
当時、言論の自由、表現の自由が声高に唱えられたかどうか分からないけれども、言論で飯を食っている新聞社や出版社が、襲撃犯に同情する論陣を張ったとは思えない。今回の仏の風刺画事件にしたところで、伝えているのは同業のメディアなのだから、「そうだ、表現の自由は制限されてしかるべきだ」とは言わない。
デンマークの新聞だったか問題の風刺画を転載することをあきらめた時に「我々は暴力に屈した」とコメントしたが、言論と暴力を対立概念として捉えていることには違和感がある。
ネットの時代に入ってから情報は一瞬のうちにグローバルに拡散する。ムハンマドの風刺画をみて読者がクスクスと、あるいは腹を抱えて笑ったとしたら、覆水盆に返らずのたとえ通り絶対に取り消すことは出来ない。いやあれはちょっとやりすぎだから取り消しますとは物理的に不可能な話である。
深沢七郎は事件のあった「風流夢譚」を絶版にして全集にも載せていない。小説や論説ならその後取り消しや訂正、回収という手立てもあるかもしれないが、絵や写真は見せた時が勝負の表現である。文章表現以上にリカバリーができない。表現された立場側からみるとそこに公の言論、表現の暴力性はないだろうか。
言論人や新聞社が襲われたりすると「言論の自由、表現の自由」は何物にも代えがたい理念のごとく語られるが、それを盾に何を書いてもいいかというと間違える。「公序良俗」に反することはもちろんのことだが、そればかりではない。今回の事案と性格は異なるがメディア被害者という人たちも多くいる。あることないこと必要以上にセンセーショナルに報じられてバッシングされた人達である。ただ書く側のほうが圧倒的に有利だから、明らかに針小棒大の報道でも結局泣き寝入りか、長い裁判を闘わねばならない。
今の時代メディアは一つの権力になっている。それゆえにこそ書かれた側の屈辱や持っていきどころのない怒りへの配慮がないとつまるところ、力ずくの暴力を誘発するであろう。それは逆の事を考えれば簡単にわかることだ。「シャルリーエブド」襲撃事件で3人の警察官が殉職している。この警察官の葬送は、国をあげての儀式のように扱われている映像が流れたが、では仮にこの殉職した警察官をからかった風刺画が出回ったらフランスの社会はそれを許容しただろうか
「泥棒にも三分の理」というが、だからといって泥棒をしていいわけではないように、新聞社を襲って殺傷事件を起こしていいわけがない。が何事につけ「言論、表現の自由」という囲いの中に逃げ込めばいいと考えていると、これからもつけを払うことになるのではないかと懸念している。なにしろ襲った者たちは確信犯なのだから。
貧骨
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2015/01/10
路傍のカナリア5
家族のマネジメント
子供がラーメンを作るとき

子供がラーメンを作っている。インスタントだから丼にお湯を注いで汁を作り、別口で茹でた麺をポンと入れて、その上に少々のねぎと好物のチヤーシユーをたっぷり乗せて出来上がり。胡椒をパットかけて「うまそー」とおなかを鳴らしながら食卓に運ぼうとしたその時、横目で見ていたママさんがいささか甲高い声で「なによそれ、野菜が全然入っていないじゃない、栄養のバランスが悪いでしょ」と一言お小言。でもだいたい一言では終わらない。
「この前の期末テストの直前に風邪をひいて成績ひどかったじゃない」「きちんとした食事をしないから人より痩せているし、みっともないたらありゃしない。医食同源て習わなかった」「ねえ、分かっているの」と念を押すように続いていく。ラーメンは冷めていく。楽しい気分も消えていく。娘さんなら女同士言い返しもしようが、男の子になると言いたいことは山ほどあっても口をもごもごさせて結局は「うるせぇ、ばばあ 死ね」と捨て台詞とかのラーメンを残して自分の部屋に引きこもる。
シシュエーシンは様々だが、そういうことが積み重なって子供は心を閉ざしていき、家族のコミュニケーシンは失われるか、密度の薄いものになっていく。
でももしママさんが子供のラーメンをみて「おいしそうね、私にも一杯作ってよ」「わたしのは野菜をたっぷり入れてね、体の調子を考えているから」と子供の小さなプライドをくすぐりながら、いくらかの皮肉もこめて言ったらどうだろうか。
子供の心は柔らかくかつ鋭い。大人の嘘は看破する。心にも無いことをうわべで言っても無駄である。「作って、作って」とせがんでいた息子が、いつのまにか勝手に冷蔵庫をかき回して自分なりのラーメンを作っている。めちゃくちゃラーメンかもしれないけれど、そんなことはささいなこと。「成長してるんだ」そう思える子供に対する全面的な肯定感があってはじめて、「おいしそうね」の一言が自然にでてくる。誰だってもちろん大人だってまっとうに褒められればエネルギーが湧いてくる。そうやって家族の空気が丸く柔らかになる。
日常の些事のなかに家族の分岐点がある。その分岐点をひとつひとつ間違えずに歩んでいくのはなかなか困難なことに違いない。が、「家族」とはなにか、子供の成長とはなにか、母親とはなにか、そういう重たい問いを常に自問しつづけることこそ、平穏無事に過ごす家庭マネジメントの基本なのだと思う。
「家庭内暴力」の果ての親子の傷害事件をしばしば見聞きするにつけ、当事者それぞれの心の地獄にやりきれない気持ちなるのは私だけではあるまい。この国のすべての子供たちにとって今年が良い年であることを心より祈らずにはいられない。
貧骨
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2014/12/17
路傍のカナリア4

絵画雑感
ルノワールの凡作展をみてみたい

世の中をハスにみる癖がついてしまっているせいか世間の常識にはどうも素直についていけない。絵画の鑑賞にはまったくの素人なのだが、あるいはそれゆえにかルノワールやセザンヌ、モネ、ドガなど誰でも知っている作品をみていてこれらはほんとうに傑作なのかどうかどうもいまひとつピンとこない。フランス印象派の絵画というのは高校の教科書にも載っていて当たり前のように名画だ名画だといわれ続けているわけだから見飽きていることも感動を呼ばない一因かもしれない。それならばたとえばルノワールの凡作展覧会をやってくれれば、比較対照できるからなるほどこの「ピアノに寄る娘たち」は素晴らしいということにならないだろうか。いやそれ以上に私のような素人にも絵画の良し悪しがいくらかは分かろうというものだ。
巨匠といわれる人だってはじめからそうだったわけでもなく、また盛りを過ぎてからは画力が落ちてくることもあるだろう。「Aという画家のこの時期の作品は最高傑作ですが、このあたりはダメですね。ほらこの辺の線の使い方に力強さがありませんね」なんて解説付き展覧会があったら、それはそれで楽しめると思うのだが。
「美の巨人たち」というTV番組があるが、だいたいみな名画紹介の基本線のうえに構成されているから、名画をみているという感覚が番組を見ている側に自然と刷り込まれていく。
「名画」ばかりを見せられも困るのである。駄作はないのかね、つい一言言ってみたくなる。
いやひょっとしたら絵画には名品も凡作の区別などないかもしれない。デッサン力を含めた一定の技術水準をクリアーすればあとは皆同列の扱いがまっとうではないのか。にもかかわらず差があるとすれば、マーケットの人気投票のようなもので、その画家の絵を欲しい人が多ければ価格は上がるし、まして故人となれば数に限りがあるわけだから、さらに高騰するし、人気がなければ売れないだけのことなのか。そもそも芸術作品に上下はあるものなのか。だんだんわからなくなってくる。平山郁夫や東山魁夷の絵をみても特別こころは動かないが、無名に近い画家の絵に惹きつけられて立ち尽くしてしまうのは、私の鑑賞眼が稚拙なためなのか、それとも巨匠の絵になにがしの嘘があるからなのか。
「それは違う」という声がつぶてのように聞こえてくる。芸術的価値というものは、個人の好みや感動などとは無縁に確たるものとして在る。ぶれることのない芸術の客観的価値、巨匠という画家はその地点に到達しているからこそ巨匠と呼ばれるのである。恵まれた画才と並はずれた努力が導く境地、それは目に見えないがたしかに在る。それを知りたければ鑑賞者にも鑑賞する才能と不断の努力が画家と同じように必要とされる。絵画の価値とは描く名人と観る名人の緊張関係のなかに成立するものであつて素人の感想など断固として拒否されてしかるべきだと。さりとて無名の画家を侮るな。かの作品に画神が宿っていないとはいえないと。

銀座の画廊や百貨店の絵画展を見て回りながら自分の思考は必ずや迷宮に陥るのである。

                      貧骨:cosmoloop.22k@nifty.com
2014/12/17
路傍のカナリア3

この国では塩分たっぷりの料理は出てこない。

野球の話である。ゴロというのは体の正面で捕るものだと思っていた。ダイビングキャッチなどは一種のパフォーマンス位に理解していた。たぶんそれは名手といわれた巨人の広岡氏の解説やら著作に影響されたせいかもしれないが、理屈としては筋が通っているので疑ったことはなかった。が、大リーグでプレーをした田口氏(元オリックス)は、その「守備の
思想」がかえって日本人の大リーグ遊撃手を生まない一因だと指摘している。
「ジーター選手ら、メジャ−の名手は特に三遊間の打球に対して、無理をして正面に入ろうとはしません。バックハンドでさばき、そこからスムーズに送球の体勢に入るのです。、、、
無駄なステップを踏む必要がない分、送球の時間も短縮でき、三遊間の深い位置からでも打者走者を刺すことが可能になるのです。」「この数年のジーター選手もそうなのですが、決して鉄砲肩といわれるほどの強肩ではありません。それでいて遊撃が務まるのはバックハンドのテクニックに象徴される手順の簡素化と時間短縮のすべを身につけているからなのです」 なるほどとおもうのだがでは日本でそのようにしようとすると、ゴロは正面で捕ることに凝り固まっているので「いいかげんなことを教えてもらっては困る」と周りのコーチやフロントから批判されてしまうという。そのうえで田口氏は「守備の思想」の根本的転換がないと、「日本の内野手がメジャーのショートの定位置を取る日は」来ないだろうと結論している。
私の話はここからである。では氏の言葉通りの根本的な思想転換が起きたらどうなるのだろうか。すると今度は、「三遊間のゴロはバックハンドで捕れ、そうでないとメジャーでは通用しないぞ」の大合唱になる。体の正面で捕れなどと教えたら、それこそ「いいかげんなことを教えるな」ということになる。少し意地悪をして現場のコーチに「守備の思想」が二つある。どちらで教えるのと問うてみればたぶん黙り込むか、まわりのコーチの顔色をうかがいながらみんなと一緒にしますと答えるに違いない。一つの権威のもとに大部分が集まってしまうと、もうそこに倣わないと不安なのだ。自分はどんなときでも自分であるというふうにならない。物事の進歩は疑うことから始まるが、その思考回路が権威のまえに停止してしまう。磁石のようにぺたぺた引っ付いて固まっていよういようとするのがこの国の住人である。では群れない者はどうなるかというと、ただそれだけでお仲間に入れないのである。
田口氏のレポートを読んであらためていろんな考えがあって、あれもあればこれもありそれはそれでそれなりの根拠があるもので状況次第で正解であったり間違いであったりするものだと思ったが、その相対的な地点に身を置いて自然にふるまうということがたぶん日本人には苦手なのだろう。一色に染まった集団の中に埋没していることこそ安心立命の位置なのだ。
「塩分控えめ」が社会のすみずみまで浸透してしまうと、もうどんな料理番組にも「塩分たつぷりのメニュー」は出てこないのである。
(参)田口壮「日本人遊撃手はメジャーで通用しない?」日経電子版
「男女平等」はこの世界の公理のようなものだが、それだけで割り切れるものでもなく、「性」の違いよりも、男女の「精神の構成」の違いに注目していかないと、なかなか円滑な相互の関係性は築けないであろう。家庭でも職場でも。
2014/09/30
A 女性という病理

振り込め詐欺はなぜ無くならないか

年を取るとたいがいの事件には驚かない。どこか既視感がある。人の世のことだからそう変わったことは起こらないが、それでも思春期の女の子が自分の裸体写真をみずしらずの男性にネットメ−ルで送ってしまう最近の話にはちょっとびっくりした。
一つ一つの事件には、たとえば脅迫されたとか、ほめ言葉にのせられたとかそれなりのワケがあるのだろうが、「それにしても」という感じは残る。羞恥心の塊のような時期の女の子がねえという思いである。ただこの違和感は男性ならではの受け止め方で、女性だったら「ありうること」として分かっているかもしれない。
家庭であれ、仕事場であれ、プライベ−トであれ、近距離で女性と接してみると、男同士の関係と明らかに違う面がみえてくる。典型的なのが、一つの事にとらわれるとそれだけが心のすべてを占めてしまい、周囲や全体が全くみえなくなる心理現象である。とりわけ日頃から気持ちの奥底に抱えている「不安」「不満」が、なにかのきっかけで噴き上げてくると外側からのいかなるまっとうな説得も頭のなかを通り過ぎてしまう。冷静になって考えればさほどでない事柄でも、体が受け付けないという風に感情が勝ってしまう。相反する感情の相克を「葛藤」と呼ぶが、相対の苦悩などとは無縁のごとく振る舞うのである。ふだんは冷静な女性が。そうなったら「さわらぬ神にたたりなし」で、しばらくほっておくしかない。
男性なら一度や二度はそういう場面にぶつかって困惑した経験はあるだろう。4コマ漫画のサザエさんにアイロンをつけっぱなしで外出してあわてて家に戻る場面があるが、それなどもひとつのことにとらわれて盲点が生じる女性特有の心理の表現として読み取ることができる。
これは女性そのものの病理だと思えるが、するとそこにつけこむビジネスもありうるし、宗教もありうるのだが、それ以上に悪だくみをする輩があらわれてくる。かれらは女性がなにに無防備で、どこに弱点があるか、どういう言葉を使ったら心をわしづかみにして、女性を意のままに操れるかよく承知している。「息子さんが事故で、、、、」その電話一本で母親はパニックになり瞬間の思考停止に陥ることを狙っている。けれどもそこからお金を振り込むまでの時間の中で、冷静さを取り戻すことができないところに振り込め詐欺が無くならないひとつの因がある。たぶん女の子の自画どり写真のメ−ルも同じで、自己ストツプがかからないのである。10代も70代も同じ心理の土壌にある。そこに病的な根の深さを思わせる。
(貧骨:Cosmoloop.22K@nifty.com)
2014/08/12
@ 「無い」ことの魅力
銀座の空気にはレシピがある

銀座を歩くのは好きである。新橋でJRを降りてそこから東京駅まで銀座の街を歩く。目当ては文具の伊東屋であるが、いまは改装中のため仮店舗営業なので、「鳩居堂」で季節の小物を手に入れている。銀座の大通りには、敷居の高そうな超有名なブランド屋さんが「どうだ」という顔をして並んでいるけれど、それが銀座の魅力かといわれればちょっと違う感じがする。あれらはたいがいの世界主要都市に展開しているわけで、銀座を銀座たらしめているエキスとは異質なものにちがいない。イメージ戦略とはずいぶんと大がかりで金のかかるものだねえなんてつい斜に構えてしまいますが。
では「和光」や「ミキモト」の老舗のいぶし銀に惹き付けられるかといえばそれも違う。もちろんそれらの「顔」が銀座の「華」であることは承知しているが店内に入らなくてもだいたいのことがわかってしまう店である。ま、格式とは驚きのない継続なのだろう。
そういう個々の店舗へのこだわりはなくて、言ってみれば銀座の「ちょっと上品できれいな空気」が好きなのである。それは商売人の銀座で店を張っているプライドと気負いから由来するものかもしれないけれど、銀座特有のあり方も深くかかわっていると思える。
大通りを北にそれても、南にそれても、名の通った画廊や、フォトギャラリー、アパレル、宝石店、和食店、スイーツ店、などなどが脇道からひょいと出てくる奥行の深さは銀座が日本で一番ではないかなと思う。ごく当たり前の生活雑貨の店や立ち食い蕎麦屋もあるけれども「おやこんなところにこんな店が」ぶらぶら歩きでそういう小さな発見が銀座の界隈全体に詰まっている。ガイドにも載らない「通」だけが知る一級品の店もすくなからずあるのだろう。メイン通りの有名店だけが一流の店ではないのだ。それゆえにか銀座の空気はあの四丁目の中心も七丁目の隅っこもほとんど変わらない。
モノの一流と食や美の文化の一流が集まっている街は世界中いくらでもあるだろうけれど、人の世の常としてその裏側には「猥雑なもの」を売り物にしている一角があるものだが、東京銀座にはそれが「無い」。その「無い」ことが銀座の街の空気を隅々まで上品にしてきれいにしている。あれもあります、これもあります、「ある」「ある」をどんなに足して行っても魅力な街にはならない。意識して「無い」ことをつくってはじめていい街が生まれる。
訪日観光客が1000万人を超えこれから東京オリンピック開催までに2000万人にしようと政府は意気込んでいる。街並みも商売の在り様も変わっていくだろうけれども、この銀座らしい空気だけは今まで通りであってほしいと願っている。

(貧骨)
Cosmoloop.22k@nifty.com
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