路傍のカナリア
2023/06/14
路傍のカナリア 201
「家ゴロ亭主は留守がいい」
よもやま話の中で90歳の夫婦が離婚をした話を聞いた。旦那さんの横暴に我慢が切れて奥さんの方から離婚を切り出したという。旦那さんは大手企業の役員まで務めた人だというからそれなりに見識がある人だろうし、生活にも困っていたわけでもなさそうだが、なんとなくこの奥さんの気持ちが伝わってくる。90歳の女性一人暮らしのアパートを探すのは大変だったということだが、それでも決断した奥さんは現在の定年夫婦の在り様に一つのシグナルを送っているように見える。(もちろん夫婦内の微妙な事はわからないが)
似たような話題だが定年後家でゴロゴロしていた夫が一週間のうち三日は外にいて欲しいと妻に言われて、居場所を探すのが大変だったという記事を興味深く読んだ。私も仕事をやめて一年ほどになるが家ゴロである。辞めた当初はともかく、次第に細かな事で家庭内波乱がしばしば起きるようになったのだが、一つ気が付いたことがある。それは自分という存在が相手から見たらうっとうしい存在だということである。家事を手伝わないとか、手伝っても手際が悪いとか、雑だとか、鈍いとか そういう個々のことは自然と手慣れていくものだが、そういうことではなく、そこにいること自体がたぶん苛立つのだろうということである。三日は居ないでほしいというあの奥さんの訴えはたぶん切実なものなのだ。この切実さは夫の側からはなかなか理解できないに違いない。自分の頑張りで家族を養ってきたと思えば思うほど、妻の訴えは理不尽に見えてくる。わがままとも、身勝手とも、更年期障害だろうとも痛罵するかもしれない。
が、たぶん違う。主婦の仕事が忙しいこともある。炊事、洗濯、掃除に買い物、ごみ出し、ペットの世話に近所付き合い、家計簿つけて金銭管理、なにより土日の休みなし。それに加えて家ゴロ亭主の世話焼きと小言が重なれば腹立ちストレスは膨張する。けれども根っこにある苛立ちは、夫という存在からオーラが消えてしまったことなのだ。オーラは見えない。本人にもわからない。ひょっとしたら奥さんもはっきりとはわからないかもしれない。でも苛立つのだ。やることもなく家でごろごろしているその精神の内発性を失った存在と同居し顔を突き合わせる嫌悪感がどこからともなく湧き上がってくる。それは引きこもりの家族を抱える当事者のきつさに通じるものだろう。裏返せば人は社会とつながりを持ち生きがいや使命感に浸されて初めて人らしいと言えるのだ。家ゴロからは精神の腐臭さえ臭ってくる。
家族愛と一口にいう、確かに家族の温かさは人を癒す。一方で家族は感情の共同体でもある。生の感情と感情がぶつかり合う坩堝である。相手を慈しみ、思いやる一方で恨み、つらみ、猜疑、後悔、忍従、怒りそれに連なる憎悪と殺意さえ含んでいる。負の感情が塊となって噴出しないために家ゴロ亭主が心すべきことは自らを自覚し理解することに尽きる。いずれ肉体が衰えて家ゴロ精神とつり合いが取れてくれば、家庭平和は戻る。それを「枯れる」というだろうが、自己理解を放置すれば90歳にして痛い目に合うということになる。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2023/04/13
路傍のカナリア 200
イトーヨーカ堂の不振と、二人の鈴木さん
かなり前の話になるのだが、鈴木敏文氏がイトーヨーカドー(以下IY)の社長から会長の時に経営方針として「トップダウン」を内外に表明したことがあった。その後方針の撤回とか修正のような話題はなかったから、氏が社を去るまでそのままIYの意思決定手法として根付いていただろう。世の中の変化が速いのでボトムアツプのような社内合意積み上げ方式では、とても対応できないというのが氏の理由であった。
確かにその通りではあるが、多少の違和感があって自分の中でいつまでもその違和感を消化できないでいた。というのもそもそも組織というのは、上意下達が基本で経営中枢の方針を組織末端まで浸透させるのは当たり前のことである。にもかかわらず氏があえて「トップダウン」を表明したのはなぜだろうか、そこに別の意味があったということだろう。たぶん現場を知るSC店長はじめ中堅幹部の意見を聞きながらではなく、鈴木氏を中心にほんの一握りの幹部が即断即決で方針を決め下におろしていくということだ。
背景には、現場に出ることなく経営数字の分析でコンビニを躍進させた鈴木氏の言わば天才的な手腕があったことは間違いがない。現場はトップが分析した方針通りにやればよいということになる。当時の鈴木氏の社会的名声も後押ししていただろう。経営者は成功するとえてして自己絶対化、万能感に浸るものだ。
が、過度なトップダウンは副作用を伴う。打ち出した施策に効果が見られないときにそれは現場の理解不足、徹底不足に因を求めがちになる。と同時に現場特有の課題解決や臨機応変の柔軟な対応に時間を割く姿勢は影を潜め、結局言われたことだけをこなす自己保身型の勤務姿勢が社内に広まっていくことは必然である。それは少しずつ現場の力を削ぎがん細胞のように広がって業績不振を加速させ、それがまた中枢からの現場叱責という悪循環を生み出したのだろう。コンビニ的成功手法とIYの不振は表裏の関係になった。
けれどももう一人の鈴木敏文さんがいた。2002年ウォルマートが日本に進出するという報道がなされたとき、スーパー業界は大騒ぎでこれは大変な脅威だという声がイオンを含め大半であった。が鈴木氏は「小売りというのは極めてドメスティックなものだから、 大資本だからと言ってうまくいくとは限らない」と平然としていたのが印象的であった。実際には氏の言うとおり今もウォルマートの出資先である西友は苦戦している。「小売りはドメスティック (国内的)」とは平たく言えば「小売業はそれぞれの国特有の事情があるから、そのことをよく踏まえてきめ細かく対応するしかないですよ。ただ資本にモノ言わせてもうまくいくはずがありませんよ。」と言っているわけだ。しかしこの考えを引き延ばしていくと各地に散らばる IYの店舗もそれぞれの地域事情をくみ取りながら運営することがベストということになり、「トップダウン」と矛盾する。
もしも後者の鈴木さんが表に出ていたなら、現場の声が尊重されIYの不振ももう少しましだったように思えるがそうはならなかった。IYは今後食品部門中心に切り替えていくということだが、その道はダイエーの末路と酷似していると日経の記事が指摘していた。安直な思考がIYを救うだろうか。「現場力の弱体化」の克服こそが最大の課題だと思えるのが。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2023/03/13
路傍のカナリア 199
ロシア
この難解な国から見えている欧米
時々ロシアの要人が不審死を遂げた記事が新聞の片隅に掲載される。ロシア国内のみならず、たとえば今年(令和5年)の1月にもインドでロシア人2名が亡くなっている。そうした場合必ずと言っていいほど現政権に批判的な人物だったというコメントが載る。
不審死とはいえ誰が見ても諜報機関が一枚かんでいるだろうことは推測が付く。ロシアという国は、政財界の人物であっても必要とあればあっさりと抹殺してしまう。そのハードルの低さには本当に驚く。
イギリスに亡命した諜報機関のロシア人も同様の目にあって当時英露の関係がギクシャクしたことがあった。どこへ逃げようとも殺すものは殺す、この非人権感覚が不気味である。オリンピックのドーピング問題で選手の検体のすり替えが露わになったが、ロシア当局が関与しその手口は本当にスパイ映画を見ているほどの念に入れようであった。たかがというかスポーツのフェアな精神すら国家ごと欠落している。 言ってみればロシアという国は我々の常識とかけ離れたところで呼吸をしている。少なくとも私にはそのように見える。もしこの在り様がプーチンとその取り巻きの個性から由来しているならば救いはあるが、ロシアという国の何百年の歴史と文化の所産であるならば、第二、第三のプーチンもいずれ現れるに違いない。
元防衛大学校長にして京都大学で政治史を教えた猪木正道はその著書 「ロシア革命史」で次のように述べている。「西ヨーロッパの諸国が、大なり小なりローマ帝国の遺跡を継承し、ローマ帝国を通じてギリシャ・ローマの古代文明と直結していたのに反して、ロシアはローマ帝国とまったく無関係であり、したがって古代文明からほとんど何物をも相続しなかった。古代文明を相続しなかった結果、西ヨーロッパ文明を今日あらしめた文芸復興には 全然関与しなかった。人格の自由、人間性の発展といった人文主義の思想、人間中心の考え方はロシアに根をおろさなかった。
「第二にロシアはローマ法王の勢力圏外にあり、ギリシャ正教をとった結果、教権は最初から政権に 従属しており、アジア的祭政一致を具現した。その結果、教権に対する自由な 個人の反抗が、国民国家に支援されて爆発するという西ヨーロッパの宗教革は、ロシアには無縁であった。」この一文を読んでロシアの一面が見えた。要するにロシアという国には歴史の積み重ねからくるヒューマニズムの根付き方がなかったに等しいということだ。こ の理解の上に立てば、ロシアは非情でも残酷なわけではない。ただ、彼らには 人間という価値がさほどの意味を持たないのだろう。
それではロシアから見た欧米はどのように見えているのか。それは自分達ロシアがめざすべき文化なのか、ヒューマニズムを至上価値としている文化なのか、ベトナムの枯葉剤散布、アフガン 大爆撃、無実イラクフセイン大統領の処刑、見えてくる西欧価値観の虚構。 ナポレオンの、ナチスドイツの、モスクワ侵攻の苦い経験知から見れば、欧米とは旗だけはヒューマニズムを掲げながらも隙あらばロシアを飲み込もうとしている群狼に見えていても不思議ではない。ロシアという眼鏡、西欧という眼鏡、ウクライナロシア戦争をともすれば我々は善と悪,正と邪の構図で理解しがちだが、そう簡単ではないことだけは確かである。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2023/02/11
路傍のカナリア 198
経営者がみておくべきものとは
もしも経営者として必要な知識とは何かという問いならば、模範解答は経営指南書に書いてある。読めばいいだけのことである。学生さんやこれから起業しようと志している人たちには必要かもしれない。資金管理、人事管理、売上管理、その他テクニカルな知識はあったほうがいい。けれども実際に経営者の椅子に座ってみれば、会社というものはいかに不安定で危なっかしいものであるか、すぐわかる。知識を役立てるか否かにの前に「追われる生活」が始まるのである。売り上げに追われ、資金繰りに追われ、人材集めに追われて、どれ一つとっても倒産、行き詰まりに直結している。それでも昭和のように消費のパイが広がりつつあるときはいいが、平成令和の停滞時代にはパイの取り合いが熾烈を極める。サラリーマン社長なら失うものは地位となにがしかの報酬であろうが、中小零細のオーナー経営者は、ひとつ間違えれば住む家を失い家族の人生も変わってしまうほどの立ち位置にある。
だから追われてみると焦りや苛立ちが視野を狭める。目の前の課題を乗り越えるだけで日々精一杯になり、会社全体の在り方や経済環境の変化が見えなくなる。あるいは変化が見えていてもそこに経営意識が届かない。大したことは無いと思い込んでしまう。追われるとそういうことになる。逆もある。あまりに順調なゆえに、その成功体験が桎梏になって時代の中に深刻なそして致命傷を負わせるような変化が生じていることを見落とすのである。欧米の圧力によって大店法の運用基準が緩和されたとき日本はバブルの真っただ中であった。が、あそこが時代の分水嶺であった。「何とかなるよ」それは当時誰もが口にしたセリフであったが、小売業の現在を見れば何とかならなかったのである。
経営者としてなにを見るべきか、お手本のような話がある。中華料理チェーン「日高屋」会長の創業苦労話が示唆に富んでいる。「当時は駅を降りると、おでん屋やラーメン屋が駅前に並んでいて、サラリーマンが夜遅くまで通い詰めていたんです。しかし、衛生面や道路整備などの事情で、これから屋台はなくなると見たんです。じゃあ、みんなどこへ行くんだろう。そこで、『屋台のお客さんを追っていこう、食べてもらおう』と思いつきました。それが日高屋の原点なんです。これから商機がやってくると従業員に熱弁した。「徐々にサラリーマンが弁当を持たなくなって手ぶらで会社にいくようになり始めていました。『お昼はサラリーマンはどこかで食事をするから、この商売は面白くなるよ。時代は変わるよ』と伝えたんです」。(ヤフーニュース ENCOUNTより抜粋)
商機はどこにでも転がっている。それが日々追われている経営者にも順調にあぐらをかいている経営者にも見えないだけであろう。「屋台のお客さんを追っていく」とは世の中の変化を追っかけることでもある。が、ともすれば話が大きくなって日本経済がどうの、インフレ、デフレがどうの、わが業界の体質がどうの、と頭でっかちになりがちだが街へ出て人々の動きの中に変化を探り当てる人こそ経営者の大事な資質であろう。楽観もせず悲観もせず、追われていればなおさらのこと視野狭窄の病を自覚して、見るべきものを見る。
それが経営者の第一条件であると自戒をこめて思う次第である。 貧骨
2023/01/12
路傍のカナリア 97
荒れる成人式から見える男と女の風景
新成人の若者たちが成人式の最中に無理やり壇上に上がる、あるいは大声で会場全体を威圧したりする、そういう映像を何度もみた。荒れる成人式は一部とはいえ年中行事になっているが、かれらに社会的なあるいは政治的な主義主張があるとも思えない。むしろ度が過ぎた悪ノリのように映像からは読み取れる。気が付くのはこの「暴走成人」たちが全員男性だということだ。(女性は見たことがない) なぜだろうか、女性はしとやかで、男はわんぱくだというのは男女平等が加速している今の時世では説得力に欠ける。
人が思春期を通過する中で、女児は肉体的な変化が顕著に表れる。体全体が丸みを帯び生理が始まり胸が膨らみ腰回りが張ってくる。この大人の女性への肉体的変身は意識自体も変化を強いられる。昨日までの女児であることの意識は根こそぎ否定され、大人の女性になったことを否応なく自覚させられる。それは「成熟」への一歩を踏み出すことでもある。男児にはこのようなことは起きない。起きないがゆえに、体は大きくなっても意識転換はドラステックには進まない。つまり男には「未熟」がいつまでもついて回る。車、釣り、ゴルフ、サーフィン、ギャンブルなど惜しげなく金をつぎ込む男の道楽は少年の心そのものではないか。堅実な生活を持続していくという人生の鉄則からはずれてしまうのは「大人」になり切れない男というものをよく表している。
この男の幼さは女性の成熟と釣り合わない。ただ女性の母性がそれを受け止めているとはいえる。だから男は女性の中に擬似的に母を見て払拭できない少年の心のままに無意識に女性に甘えているということになる。と同時に実の母親との乳幼児の時の関係性もたぶん二重写しに投影させている。夫婦や恋人同士が順調であるとすればそこには女性の母性としての受け止め方が深くかかわっているのだろう。男女の関係は対等に見えて幾重にも屈折し錯綜しているが、心理の位置関係は女性優位であることは自然のことである。ただそう見えないように社会が出来上がっているだけだ。
余談になるが、甘えると言えば一般には女性の側が男に甘えるものだが、少女の心が戻ってきたわけではない。それは既に捨て去ったものだ。だから成熟を身に着けた女性の甘えは意識的な計算なのだが、その誘いに男の側が往々にして財布を緩め、ありもしない妄想にとらわれるのは所詮男というのはその程度の成熟のレベルだということだ。ただ未熟であるがゆえに大志を抱き夢を追い冒険に踏み込むエネルギーを内在しているともいえる。男の価値は未熟と裏腹かもしれない。
暴走成人に女性が付き合わないのは、かれらの狼藉が子供のバカ騒ぎにしか見えない「成熟」を獲得しているからであり、また付き合ってあげないのはそれほどには母性を育んでいないからであろう。未熟は成熟に勝てない。当たり前のことだ。文芸評論家江藤淳は「女性は背後から歴史に参加する」と「成熟と喪失」のなかで書いたが、この真っ当な言葉の意味はとても重いと思う。 貧骨
2022/11/13
路傍のカナリア 195
人が生まれてくるということの話
たとえそれが趣味の世界のこととはいえ新しい経験をするということは、楽しみと期待感がある一方で、不安と緊張を伴うことはごく自然な心理である。まして命にかかわること妊娠から出産、育児という過程は、女性にとってことさらに不安と緊張の連続だろうとおもわれる。
胎児というのが妊娠何ヶ月くらいからを指すのかはよくわからないが、体内で人間の形になればもう外界のことはそれなりに聞き分けているというから、母親の心の動きも受け止めているに違いない。人間になりたてのまっさらな心に母親から伝わる心理というものは、後々修正できるものではなく、たぶんその人の心の在り方を生涯制約してしまうぐらいの深さを持っている。もちろん不安や緊張ばかりではなく、母親の子への諸々の思いも同時に伝わっていく。「元気で健康で生まれて欲しい」という願いもあれば、暮らし向きへの心配から産むことへのためらいもあるだろう。子にとつて母は、母のすべてを受け止める特別な存在なのだ。そこに父親が入り込む余地はない。母子は一体であり、そして「三つ子の魂百まで」なのだ。
そのうえで、その子が母親にとって初産であれば、なおのこと不安感や苛立ちやストレスは、より強く子に伝わるに違いない。過度に臆病であったり人見知りをしたり引っ込み思案だったりする性格現象は、第一子であることとなにがしかの相関性があると私は理解している。長男か長女かというよりも、その人が第一子か否かの方が人間把握としては、はるかに正確だと思える。それでも女児であれば同性の感覚で、ある程度の扱いやすさ理解度が保てるけれども、男児ともなるとその所作振る舞い成長度という点で、異性であるがゆえに戸惑うことが多く、第一子の長男なんて言うのは、大体があちこちぶつけられてきわめていびつな心理で育ってきていると思っていてそう間違いはない。「一姫二太郎」とは実に見事な格言である。
加えてこの第一子というのがいささか曲者で、戸籍上はそうであっても母親が流産死産を経験していれば、出産の過程は必要以上に神経質にならざるを得ないし、子にとっても同様に影響を受けることになる。
こう考えてくると、子が生まれてくるということは実に難儀な事なのだが、その言わば初心の傷を癒し人間として、まっとうに育っていくのは、平凡なことだが母親が注ぐ愛、 アガペーとしての愛に他ならない。それは一身に代えて尽くす愛であり、慈愛ともいうべき柔らかで包み込むような愛である。生涯にわたって消えることのない刻印を、その人の心に刻む愛である。だから人は皆、たとえ悪人となり果てても、いつまでも母を思い慕うものなのだろう。それが我々人間の人間としての出発点であると言える。
世情ジェンダーフリーの流れが加速している。が私はさほど心が動かない。女性が子を産むことの意味を掘り下げれば掘り下げるほど男女平等の軽さが見えてくる。
女優神田沙也加が亡くなって一年近くがたつ。彼女は望まれてこの世に生を受けたのであろうか
その疑念が彼女の訃報に接したとき真っ先に思い浮かんだ。自死の直接の原因はともかくとしても、胎児から乳児にかけて刻まれた存在不安こそが彼女を苦しめたのではないだろうか。女優として大輪の華を咲かせたであろうオーラを持った魅力的な女性であっただけに残念でならない。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2022/10/12
路傍のカナリア 194
雑感 株式投資の話
政府が「貯蓄から投資へ」と旗を振っているが、株式相場というのはそう簡単に儲けさせてもらえない。書店へ行くと初心者向けの解説書が並んでいる。ほぼ共通しているのは、株式投資の留意点である。●手元余裕資金で運用しなさい。●銘柄の分散投資をしなさい。●損が出たら素早く売却しなさい(塩漬けにしてしまうとその後の運用が窮屈になりますよ)。●信用取引は大損する可能性があるから手を出してはいけません。●自分なりの投資スタイルを作りなさい。●罫線の読み方をこの本で身につけなさい。
これらの指摘は特段のことではないが、底に流れているのは「あまり欲をかかずにほどほどのところで折り合いなさい」ということになる。しかし、この「ほどほど」が難しい。株価が上がりはじめると「もうちょっともうちょっと」と欲が出て、なんとか売却して利益が確保できたとしても、その後、株価がさらに上がると悔しいような損をしたような気分になって今度こそはと気持ちが力むのである。逆に株価が下がり始めて損が出ると、同じように「我慢我慢」と念じていても、さらに下がると不安感に圧し潰されて、大損して売却する羽目になる。
それでも取引に慣れてくると、もう少し資金があったら儲けも膨らむだろうと、信用取引の扉を開くのである。そして株式相場の怖さを知るのも、この信用取引にはまるところからである。たとえば、手元金が100万円でも400万円位までは運用できるようになる。単純に考えれば得られるはずの10万円の利益が、40万円に化けるわけだから魅惑的だが、その裏側に損した場合の10万円は40万円に膨らむというリスクを含んでいる。加えて信用取引では、損が一線を越えると更なる追加金を要請される。儲かる欲にとらわれていると、そのあたりを意外と見えていないのである。しかし、経験値で言えば、年に二度三度はほとんどの株が売られる相場の崩落がある。また10年に一度は、大崩落に見舞われている。(最近でコロナウィルスによる暴落) その一瞬にうまく立ち回れるかどうか。即時の判断いかんでは、元手の100万を失うどころか、多額の借金を抱え込むことになりかねない。
株は世界経済を映す万華鏡である。その鏡の中には確かに利益の種が埋まっているが、また崩落の兆しも生まれている。種と兆しをいかに見極めるか、投資家の生死はそこにかかっている。それでも天変地異思わぬことは起きる。2011年3月11日PM2時47分東日本大震災である。2時47分を鮮明に記憶しているのは、3時で株式市場は閉まるからである。その13分の間にガタガタと揺れるビルの中で、必死にわずかながらの持ち株を売り急いだものだ。13分間で助かった投資家と持ち越して肝を冷やした投資家の明暗は、もちろん過去の話ではない。9.11も3.11もその再現は明日にも起こりうることなのだ。
自分の中の欲をほどほどに抑え崩落の不安と恐怖におびえながら、政治経済の情報に敏感に反応してその場その場で売り買いを判断する。安心と油断と深い眠りはご法度である。神経は昼夜を問わず自然に張りつめている。政府が推奨し、解説書が誘う株式投資のごくありふれた日常がここにある。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2022/09/13
路傍のカナリア 193
統一教会問題のモヤモヤ
尻馬に乗る知的脆弱
事の発端は安倍元総理を銃撃した容疑者の犯行動機からはじまる。
母親が統一教会への多額献金を行った結果家庭崩壊が生じ、その恨みを晴らすために教会と関係の深い(と思い込んだ)安倍元総理を殺害した事件である。
報道から知る限りだが、献金額はおよそ1億5000万円で、親族がその後5000万円を教会から取り戻したが、その5000万円を母親が再び教会へ献金してしまったこと。そして今なお教会の信者であり続けているということ。この事実関係の中に、メディアが取り上げている統一教会問題が凝縮されている。と同時に社会正義で一刀両断できないモヤモヤ感もついて回っている。
教会を糾弾している弁護士等は、この多額献金や過去の霊感商法を取り上げているが、宗教というのは信者の心の救済という面とビジネスという面を持っている。ビジネスという面で言えば献金は様々な名目でどの宗教団体でも行われているものであり、額の多寡は信者の資産状況もあり簡単に線引きなどできるものではない。件の母親はいささか常軌を逸しているとはいえ調査すれば多額の献金という事例など他の教団からも明らかになるであろう。また壺商法に問題があるとすれば仏教の戒名商法を含め宗教教団の収入方策全体が問われなければならないはずである。
今一つ統一教会に関して被害者の会があるらしい。しかし被害者とは誰のことだろうか
自ら入信した信者本人が被害者と名乗ってくるとは考えにくい。大方は信者の身内が一家破産、一家離散の現実を目の当たりにして救済を申し出たものであろうが、資産を差し出した本人に信仰への揺らぎがなければ、巻き添えを食った形の彼らを被害者と呼ぶべきだろうか。確かに身内目線で見れば怪しげな宗教に騙されて金を巻き上げられたように見える。
しかし宗教とはもともと怪しげなものなのだ。「イワシの頭も信心から」というではないか。
神が天と地を創造したか、念仏を唱えたら極楽浄土へ行けるか だが、信じるということは科学的納得ではない。宗教的真実を生きることだ。そこに「宗教の価値」がある。なぜ人は宗教にすがるか、病苦、貧困、失恋、事故、家族の不和、失業、おのれの無力を思い知らされた時、彷徨する魂がその居場所を求めるからである。その信仰の心から見れば、イワシの頭も拝みべき神なのである。その在り様を誰が嗤えるか、誰が非難できるか、わが身を振り返ればすぐわかることだ。「マインドコントロール」、「洗脳」の石礫は知識人の傲慢である。
統一教会の問題が、悪を退治する社会正義と大衆の不安心理に付け込む似非宗教という単純な善悪問題に還元されて騒がしい。が、本来冷静であるべき知識人が「信教の自由」という憲法条項を軽んじてバッシングの尻馬に乗る光景を見るにつけこの国の知的脆弱性は、結局また「いつか来た道」をたどりそうな予感がする。令和四年 憂鬱な秋である。
貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2022/07/12
路傍のカナリア 191
誰も掲げない新しい共産党(共産主義)という旗
いわゆる中間層というものがいつの間にかいなくなって、少数の持てる人達と大多数の持たざる人達に分解されてしまったのが日本の現実である。だから政治の世界において、野党とりわけ共産党の支持率はもっと伸びていいはずなのにそうはなっていない。むしろこの現実を生み出した張本人ともいうべき自民党が安定して政権を担っているのは不思議でもあり皮肉な話でもある。
共産党はなぜ伸び悩むのであろうか。主張していることはことさらに過激な事でもなく相変わらずの日米関係批判と大企業批判に終始している。それでも労働者利益の代表ともいうべき「連合」のトツプなどは共産党と左派系野党の政治連携をはっきりと嫌っている。
共産党に付着している「革命」「独裁」のイメージが今尚払拭できず、政治の世界ばかりではなく国民一般にも強い警戒心を抱かせていることは否めない。それは根拠のないことではなく、旧ソビエト、現中国の政治的在り様を見れば誰しもが感じる素朴な感情である。がそればかりではなく共産党の政治姿勢そのものにも不透明な部分があるからだ。彼らは常に「憲法を守れ/守る」と主張している。けれども一方で機関紙が「前衛」でも分かるように共産党は大衆を社会主義へと導く役割として自らを位置付けている。これは大衆の声を聴きそれに従うのではなく自らの方針に大衆を従わせる組織力学が働いていることを意味している。議会制民主主義を一方で認めながら一方でそれを否定する思考を党内論理として内在していることになる。
思考実験として仮に衆参両院において共産党が過半数を獲得し単独政権を樹立したと想定してみる。がその後国民の支持率が低下し下野することが確実視されたとき、自民党や民主党が下野したように粛々と政権を渡すだろうか。そこは本当にわからない。もしも「前衛」意識が優位に作用すれば支持率の低下は党の政策に問題があるのではなく、国民の意識改革が進まず資本主義を是とする間違った考えに毒されているという結論になる。そこから大企業資本家、保守的政治家のホワイトパージ、国民の再教育という名目での収容所送り、選挙介入、弾圧という旧ソビエトの手法までは距離がない。警察、公安、自衛隊といった秩序関係の機関を共産党が抑えている限り現実味のある話なのだ。
搾取がなく誰もが豊かで平和な暮らしという社会主義の政治理念は尊重するが、共産党自らが自己変革を遂げて議会制民主主義と共産党の関係性を整理しなおし、国民に不安と警戒心を抱かせない新しい党を打ち出せない限り共産党は資本主義体制下の批判的補完勢力の位置から脱却するとは思えない。それは国民にとっても不幸な事態でもある。現在の政治経済の状況を考える時「新しい共産党」の旗は求められているはずである。
情勢不利と見れば党首の首をすげ替え看板もアベノミクスから怪しげな「新しい資本主義」に書き換える自民党の擬似革新性と、革新を掲げながら自己の独善性を墨守しただ自己満足的に自民党批判に安住する保守共産党の政治的茶番の構図の中でマグマのごとく蓄積されたままの国民の不満はどこへ行き着くのだろうか。 貧骨
2022/06/13
路傍のカナリア 190
生活の中の時間学
「無職の世界」と「落ちこぼれの世界」
ネットの三面記事を賑わす面々というのは、さほどの大事件を起こすわけではない。
コンビニの弁当万引き、酔っぱらっての喧嘩沙汰、バスや電車の中での痴漢行為、家庭の中での暴言暴力、ルール無視の近所迷惑、脅迫めいた金銭トラブル、その他もろもろキリがないが、無職の「肩書」が多い。
「無職ねえ、やっぱり無職か」と記事を読み流しながらいつも思う。「つまんないだろうな、一日が、朝起きて何にもやることがない」とも思う。社会の外にはみ出して、無職の人ってどうやって生活しているのだろう、収入がないわけだから。家族を含めた同居人に金をせびっているか、知り合いか金貸しから借りてくるか、貯えを食いつぶすか、いずれかだろう。なんにせよ展望はみえない。「無職はつらいよ」。
でもそれは生活苦につながる窮屈感からくるようにみえ、金さえあれば何とかなりそうに思える。でも本当は違う。無職の辛いのは明日が来るからだ。そして明日が終わればまた次の明日がくる。次から次へどんどんとやって来る。未来から流れ込んでくる時間という器の中に入れるものがない。入れるものがないと時間に潰される。じっと耐えているだけでは精神が変形してくる。罪なき無期懲役とでも言うべきか。そこから自爆のような犯罪まではもう距離がない。
時間の不思議であり、怖さでもある。充実した時間とは、器の中にいっぱい入れるものがあるということだ。やるべき仕事は山積み、週末は家族と団欒、あっという間に一週間が過ぎていく。時間を忘れるように過ごせることが幸福の基準なのだ。暇を持て余す、たまにはいい、心の休養にはなる。でもその束の間の時間の中に潜むからっぽの時間の怖さを「退屈」と呼ぶなら今日も退屈、明日も退屈と続くと時間の怖さが分かってくる。時間に隙を見せるな。われわれの精神はいつも無意識に時間と格闘している。時間をつぶさなければ時間に潰される。人が生きることの基本がそこにある。翻って言えば動物には「時間」がないということだ。
無職の人たちを追い込む時間の力は、授業についていけない子供たちにも同じように作用している。先生の話が理解できない、ぼおーとしているしかない。時間が長い。でも修行僧のようにそこに座って聞いているしかない。このしんどさに寄り添えれば子供たちのいくらかは救える。でもシステムはそうなっていない。置き去りにされた子供たちの退屈が共感できていない。数学を、英語をどう教えるかという技術論の前に、退屈であることへのシンパシーがなければあるのは上から目線の教育論になる。難しい話ではない。理解できない講義に毎日通うことを強いられている自分を想像してみればすぐわかることだ。だれだってすぐ音を上げる。
「無職」であることも「落ちこぼれ」であることも世間の蔑みの視線の中にある。でも時間という視角から見れば彼らの辛さとそこからくる犯罪や素行不良には汲むべき心情がある。
人間にとっての時間というテーマはおろそかにできない深さを秘めていると私には思える。
貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com