路傍のカナリア

2014/12/17
路傍のカナリア3

この国では塩分たっぷりの料理は出てこない。

野球の話である。ゴロというのは体の正面で捕るものだと思っていた。ダイビングキャッチなどは一種のパフォーマンス位に理解していた。たぶんそれは名手といわれた巨人の広岡氏の解説やら著作に影響されたせいかもしれないが、理屈としては筋が通っているので疑ったことはなかった。が、大リーグでプレーをした田口氏(元オリックス)は、その「守備の
思想」がかえって日本人の大リーグ遊撃手を生まない一因だと指摘している。
「ジーター選手ら、メジャ−の名手は特に三遊間の打球に対して、無理をして正面に入ろうとはしません。バックハンドでさばき、そこからスムーズに送球の体勢に入るのです。、、、
無駄なステップを踏む必要がない分、送球の時間も短縮でき、三遊間の深い位置からでも打者走者を刺すことが可能になるのです。」「この数年のジーター選手もそうなのですが、決して鉄砲肩といわれるほどの強肩ではありません。それでいて遊撃が務まるのはバックハンドのテクニックに象徴される手順の簡素化と時間短縮のすべを身につけているからなのです」 なるほどとおもうのだがでは日本でそのようにしようとすると、ゴロは正面で捕ることに凝り固まっているので「いいかげんなことを教えてもらっては困る」と周りのコーチやフロントから批判されてしまうという。そのうえで田口氏は「守備の思想」の根本的転換がないと、「日本の内野手がメジャーのショートの定位置を取る日は」来ないだろうと結論している。
私の話はここからである。では氏の言葉通りの根本的な思想転換が起きたらどうなるのだろうか。すると今度は、「三遊間のゴロはバックハンドで捕れ、そうでないとメジャーでは通用しないぞ」の大合唱になる。体の正面で捕れなどと教えたら、それこそ「いいかげんなことを教えるな」ということになる。少し意地悪をして現場のコーチに「守備の思想」が二つある。どちらで教えるのと問うてみればたぶん黙り込むか、まわりのコーチの顔色をうかがいながらみんなと一緒にしますと答えるに違いない。一つの権威のもとに大部分が集まってしまうと、もうそこに倣わないと不安なのだ。自分はどんなときでも自分であるというふうにならない。物事の進歩は疑うことから始まるが、その思考回路が権威のまえに停止してしまう。磁石のようにぺたぺた引っ付いて固まっていよういようとするのがこの国の住人である。では群れない者はどうなるかというと、ただそれだけでお仲間に入れないのである。
田口氏のレポートを読んであらためていろんな考えがあって、あれもあればこれもありそれはそれでそれなりの根拠があるもので状況次第で正解であったり間違いであったりするものだと思ったが、その相対的な地点に身を置いて自然にふるまうということがたぶん日本人には苦手なのだろう。一色に染まった集団の中に埋没していることこそ安心立命の位置なのだ。
「塩分控えめ」が社会のすみずみまで浸透してしまうと、もうどんな料理番組にも「塩分たつぷりのメニュー」は出てこないのである。
(参)田口壮「日本人遊撃手はメジャーで通用しない?」日経電子版
「男女平等」はこの世界の公理のようなものだが、それだけで割り切れるものでもなく、「性」の違いよりも、男女の「精神の構成」の違いに注目していかないと、なかなか円滑な相互の関係性は築けないであろう。家庭でも職場でも。
2014/09/30
A 女性という病理

振り込め詐欺はなぜ無くならないか

年を取るとたいがいの事件には驚かない。どこか既視感がある。人の世のことだからそう変わったことは起こらないが、それでも思春期の女の子が自分の裸体写真をみずしらずの男性にネットメ−ルで送ってしまう最近の話にはちょっとびっくりした。
一つ一つの事件には、たとえば脅迫されたとか、ほめ言葉にのせられたとかそれなりのワケがあるのだろうが、「それにしても」という感じは残る。羞恥心の塊のような時期の女の子がねえという思いである。ただこの違和感は男性ならではの受け止め方で、女性だったら「ありうること」として分かっているかもしれない。
家庭であれ、仕事場であれ、プライベ−トであれ、近距離で女性と接してみると、男同士の関係と明らかに違う面がみえてくる。典型的なのが、一つの事にとらわれるとそれだけが心のすべてを占めてしまい、周囲や全体が全くみえなくなる心理現象である。とりわけ日頃から気持ちの奥底に抱えている「不安」「不満」が、なにかのきっかけで噴き上げてくると外側からのいかなるまっとうな説得も頭のなかを通り過ぎてしまう。冷静になって考えればさほどでない事柄でも、体が受け付けないという風に感情が勝ってしまう。相反する感情の相克を「葛藤」と呼ぶが、相対の苦悩などとは無縁のごとく振る舞うのである。ふだんは冷静な女性が。そうなったら「さわらぬ神にたたりなし」で、しばらくほっておくしかない。
男性なら一度や二度はそういう場面にぶつかって困惑した経験はあるだろう。4コマ漫画のサザエさんにアイロンをつけっぱなしで外出してあわてて家に戻る場面があるが、それなどもひとつのことにとらわれて盲点が生じる女性特有の心理の表現として読み取ることができる。
これは女性そのものの病理だと思えるが、するとそこにつけこむビジネスもありうるし、宗教もありうるのだが、それ以上に悪だくみをする輩があらわれてくる。かれらは女性がなにに無防備で、どこに弱点があるか、どういう言葉を使ったら心をわしづかみにして、女性を意のままに操れるかよく承知している。「息子さんが事故で、、、、」その電話一本で母親はパニックになり瞬間の思考停止に陥ることを狙っている。けれどもそこからお金を振り込むまでの時間の中で、冷静さを取り戻すことができないところに振り込め詐欺が無くならないひとつの因がある。たぶん女の子の自画どり写真のメ−ルも同じで、自己ストツプがかからないのである。10代も70代も同じ心理の土壌にある。そこに病的な根の深さを思わせる。
(貧骨:Cosmoloop.22K@nifty.com)
2014/08/12
@ 「無い」ことの魅力
銀座の空気にはレシピがある

銀座を歩くのは好きである。新橋でJRを降りてそこから東京駅まで銀座の街を歩く。目当ては文具の伊東屋であるが、いまは改装中のため仮店舗営業なので、「鳩居堂」で季節の小物を手に入れている。銀座の大通りには、敷居の高そうな超有名なブランド屋さんが「どうだ」という顔をして並んでいるけれど、それが銀座の魅力かといわれればちょっと違う感じがする。あれらはたいがいの世界主要都市に展開しているわけで、銀座を銀座たらしめているエキスとは異質なものにちがいない。イメージ戦略とはずいぶんと大がかりで金のかかるものだねえなんてつい斜に構えてしまいますが。
では「和光」や「ミキモト」の老舗のいぶし銀に惹き付けられるかといえばそれも違う。もちろんそれらの「顔」が銀座の「華」であることは承知しているが店内に入らなくてもだいたいのことがわかってしまう店である。ま、格式とは驚きのない継続なのだろう。
そういう個々の店舗へのこだわりはなくて、言ってみれば銀座の「ちょっと上品できれいな空気」が好きなのである。それは商売人の銀座で店を張っているプライドと気負いから由来するものかもしれないけれど、銀座特有のあり方も深くかかわっていると思える。
大通りを北にそれても、南にそれても、名の通った画廊や、フォトギャラリー、アパレル、宝石店、和食店、スイーツ店、などなどが脇道からひょいと出てくる奥行の深さは銀座が日本で一番ではないかなと思う。ごく当たり前の生活雑貨の店や立ち食い蕎麦屋もあるけれども「おやこんなところにこんな店が」ぶらぶら歩きでそういう小さな発見が銀座の界隈全体に詰まっている。ガイドにも載らない「通」だけが知る一級品の店もすくなからずあるのだろう。メイン通りの有名店だけが一流の店ではないのだ。それゆえにか銀座の空気はあの四丁目の中心も七丁目の隅っこもほとんど変わらない。
モノの一流と食や美の文化の一流が集まっている街は世界中いくらでもあるだろうけれど、人の世の常としてその裏側には「猥雑なもの」を売り物にしている一角があるものだが、東京銀座にはそれが「無い」。その「無い」ことが銀座の街の空気を隅々まで上品にしてきれいにしている。あれもあります、これもあります、「ある」「ある」をどんなに足して行っても魅力な街にはならない。意識して「無い」ことをつくってはじめていい街が生まれる。
訪日観光客が1000万人を超えこれから東京オリンピック開催までに2000万人にしようと政府は意気込んでいる。街並みも商売の在り様も変わっていくだろうけれども、この銀座らしい空気だけは今まで通りであってほしいと願っている。

(貧骨)
Cosmoloop.22k@nifty.com
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