路傍のカナリア
2022/05/13
路傍のカナリア 89
知床観光船はなぜ沈没したのか
社長バッシング報道姿勢への疑問
多くの人命が失われたことを言わば大義名分にして観光船社長への非難報道が連日おこなわれている。この非難の元になっているのは、社長が利益を追求するあまり観光船の安全対策をおろそかにしたことらしいということにある。
確かにベテラン船長達全員を解雇し経験の浅い船長に切り替えたことも、また事故当日には観光船との無線連絡に不備があったことも事実ではあるが報道のコメントの中には事実の歪曲や誤認も含まれていて実際の事情が今一つ不分明なのである。がそんなことにはお構いなしに各メディアや識者たちが洪水のように非難競争に明け暮れていて、 その世界に取り込まれると今回の事故が社長の言わば強欲によって起きたような錯覚に陥る。ベテラン船長なら事故は起きなかったはずだと誰もが考えてしまう仕掛けになっている。
そうだろうか事故当初から疑問なのだが「観光船はなぜ沈没したのか」。はっきりしているのは「エンジンが停止して前の方から船が沈みはじめている」 という無線連絡だけである。 この事実から想定される船の沈没原因は何だろうか なぜエンジンが突然停止したのか、なぜ船の前方から沈むのか、なぜ後方からではないのか、 船の技術的専門家のコメントを訊きたいと思ったが自分の知る限りではなかった。
事故の現場は風波とも高く出航すべきではなかったという指摘もあるが、 果たして19トンの船というものはその知床観光船はなぜ沈没したか社長バッシング報道姿勢への疑問 程度で沈没するものだろうか素人なりに調べてみると今の船はなかなか転覆しないような構造になっているという。無線からも横波を受けてひっくり返った状況とは違う。天候の急変と事故との因果関係ははっきりしない。またこの観光船は以前座礁事故を起こしている。その時のキズが広がった可能性はあるだろうが、そうした場合は必ず検査を受けないと運行ができないのだという(社長の記者会見から)。 この検査の見落とし、不備が事故につながったとすれば責められるべきは検査機関(行政か民間かはともかく)ではないのか。調べるべきこと、報道すべきことは多々あるのに社長バッシングでは事故の核心に迫れるとはとても思えない。まずは沈没した観光船の引き揚げとその後の調査が優先されねばならないはずである。
今一つ注目すべきは救命具をつけていたにもかかわらず人命が失われたことである。海水温が1℃〜2℃程度だと一時間程度しか命は持たないという。それならなぜ救命いかだの装備を北の海の観光船(小型船舶であっても)には義務付けなかったのか 行政の盲点ともいうべき事柄でこのあたりも追及されてしかるべきである。
日本のメディアはたしかに権力の横暴や腐敗と戦うことはあるにしても、一般大衆の怒りや悲憤慷慨の波に立ち向かって冷静に「社会の木鐸」としての役割を果たしているかという疑念がわく。むしろ大衆を煽りその大衆に煽られ感情スパイラルの果てに誰かを人身御 供のように悪役に仕立てて満足しているように私には見える。メディアを批するメデイアの不在はこの国にポピュリズムの禍をもたらすのであるまいか。
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2022/04/16
路傍のカナリア 188
「外れてしまう人達」の居場所
本人はごく普通に振舞っているつもりなのに世間とずれてしまう人達がいる。何事によらず一言多い人、いかばかりか正義感が強くて、事なかれの在り様に我慢が効かない人を思い浮かべればわかると思うが、人付き合いが苦手な人、場の空気を読めない人もその部類だろう。組織が縛る暗黙の規律というのは不条理の部分が多々あるが、 そういうものとして受け入れていかないと出世どころか片隅に追いやられるのである。管理をする側から見れば、困った人なのである。
加えて同調意識が強いこの国では 自分自身の考えを持つこと自体が異物として排除されやすい。黙して語らずというか個性そのものが本音の部 分では余計なものとして扱われている。組織人として生きていくことと自分を無にすることが同列なのである。
この「外れてしまう人達」がなにか一芸に秀でていてその芸で世の中を渡っていけるならば問題はないが、たいていの人は特段の才能に恵まれているわけでもなく凡庸である。 私もそのうちの一人で商店街のイベントが終わって「反省会」をやろうということになった。いまなら「反省会」がご苦労さん飲み会であることは分かるが、学生上がりの当時の私には納得がいかない。反省するならきちんと議論をしてイベントのどこがどう問題なのかを明らかにすべきだと酒の席でぶったものだから総スカンを食った。
まともな議論の席で「では皆様の忌 「外れてしまう人達」の憚のないご意見を」と言うから額面通りに意見を言ったら幹部連中から文句が出た。「それなら忌憚のない意見を言っても構わないが幹部批判はしないように、むしろ幹部称賛でお願いしますと事前に話したらどうだ」と反論して一悶着あった。本音と建前の使い分けは世の常だが、その本音のところできちんと向き合わなければ何一つ前に進まない。しかしそういう正論はただ煙ったいだけで何事も阿吽の呼吸と「なあなあまあまあ」が上手な人が世の中とかみあうのである。 ではこの凡庸にして外れてしまう人達には、この世の中に居場所がないかというとそうでもない。公務員はその一つで地方、国家を問わず試験に合格すれば職を得ることができ身分は保証されそれなりの仕事をなすことができる。要は勉強ができればいいのである。公務員という職業に使命感を持っている人ももちろん多数いるだろうが、 一方で「外れた人達」の救いの場でもあり、吹き溜まりでもある。知人の息子さんが国税局試験を受けた際成績順に合格者が決まると聞いて(面接は形式的なもの)そのシンプルさに拍手をしたくなった。地縁血縁、出自や学閥のようなウェットな関係性とは無縁に 試験一本で職の合否が決まる世界がこの国にあるというのは、風通しの良い窓のような感がある。人間同士の面倒なところは官民共通だろうが、試験による選抜というのが一定の知的水準の集団を意味して居心地の良さを担保している。
国全体の行政を担う人材を万人に公平に開かれた形で集めているこの国の公務員制度は、(他国の場合を知らないが)とても貴重なものだと思っている。
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2022/03/14
路傍のカナリア No187
ロシア、プーチンが突きつけているもの
2022年2月24日未明ロシアはウクライナに軍事侵攻をした。この大儀なきロシアの行動に世界は非難こそすれ直接的な援軍派兵はせずいわば傍観に終始して今もそうである。ここで冷戦終結後世界が積み上げてきた秩序は一変した。無法がまかり通ったのである。第三次世界大戦、核戦争が現実味を帯びたとき、プーチンはひるまず世界はひるんだ。だからロシアの強気の進撃は止まらない。
核兵器の開発に莫大な資金と人材をつぎ込みどの国よりも強力な軍備を備えても、使うことなどありえないという油断があればそれは所詮軍と政府の自己満足的な玩具にすぎない。 そうであったからこそ核保有の米英仏はプーチンに対応できなかったのだ。平和は何より貴重だし核使用は人類の危機ではあるが、それで躊躇なく核ボタンに手をかける独裁的人物が現れたとき彼が突きつけている選択肢は、彼に世界がひれ伏すか核戦争を戦うかであ る。いまプーチンの手中に地球の運命があると言っても過言ではない。
欧米首脳の困惑と苦悩は深く、その弱腰を嗤うことはできる。彼らは核戦争という現実と正面から向き合わない。できれば避けて通りたい。そのヒューマニズムの精神がプーチンの強気を加速させる。が考えてみれば我々もまた、いや我々こそプーチンに問われているのだ。核戦争を選択するか、それともウクライナ侵略を認めるか。ウクライナへの外部からの人道的支援がどうのこうのという問題ではない。経済制裁という迂回のような反撃にしても限度を超えれば宣戦布告とみなすとプーチンが語る以上、結局選択肢は二つに一つである。
事態がさらに先鋭化すれば核戦争を覚悟しなければならない。撃ち合う規模にもよるが多くの人命が直接的に失われ、大地の核汚染によって更なる人命が失われるであろうことは誰でもが想像できるが、さほど悲観しないことだ。60億の人類が30億に減少したところでその生き残った人間たちがまた新しい文明を長い時間をかけて築き上げていけばいいだけの話である。その長い時間が数千年でも一万年でも宇宙時間で考えればほんのわずかな期間でしかない。愚かしいといえば愚かしいのであるが、それは自ら開発した兵器によって自滅していく人間の愚かさという意味以上に、むしろ人間は国家という共同体、共同観念(共同幻想)を超えて人類という共同性をついに獲得しえなかったという意味においてである。
核戦争が現実に起きれば巻き添えで多くの生物の命が失われていくのが悲しい。鮒もトンボも蛙も蛇もトカゲも猿もホッキョクグマも虎もライオンもキリンもペンギンもカラスもスズメもコオロギもカマキリも牛も馬も犬も猫もイノ シシも鶏もそれからきっと我が家のポン(オス犬)もジョンソン(オス猫)も、かれらには何の罪のない。
一体「地球は誰のものか」この問いかけだけがプーチンの二者択一の問いを押し返すだけの力と重さを持ち合わせている。我々はここで踏みとどまって地球上の生命の体系について思索を深く深く掘り下げなくてはならないのだと私には思える。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2022/02/13
路傍のカナリア 186
生活のささやかな楽しみ
自宅と店を往復しているだけの生活を十数年も繰り返している。いやそれ以上かもしれないが、だからと言って味気ないかというといささか違う。知的楽しみはどこにでもころがっている。
一年を通してほぼ毎日朝起きると散歩をしてそれから風呂に入る。出勤はそのあとだが、真冬など湯冷めをして風邪をひきませんかとよく言われる。そんなことはあるはずがない。朝から昼へと気温は上昇するわけだから夜風呂に比べて湯冷めリスクは少ない。そう答えても大概怪訝な顔をされる。
湯冷めはなぜ起こるかといえば、ふろ上がりの湯滴をきちんと拭き取らないで急いで下着を身に着けるからである。その湯滴が体を冷やすのである。小児の場合が特にそうで風邪をひかせてはいけない一心で慌てて着せるからかえって体調を壊す。乾いたタオルで隅々まで水分をふき取りその際体を強めにこすってやれば事実上の乾布摩擦の効果で風邪どころか体がポカポカして丈夫な子が育つのである。朝風呂、夜風呂関係なく、また子供だけに当てはまるわけではない。別段難しい話ではないが、常識にとらわれすぎると見えるものが見えなくなる。そこで水分を素早く吸収することに優れたバスタオルはいかなるメーカーのものかということでいろいろと検索するのが面白い。バスタオル一枚にも問題意識を持つと世界はひろがるし、風邪をひかない真冬の過ごし方にも通じるのである。
三木成夫はその著「内臓とこころ」の最後のところで我々は太陽中心の生活をしているけれど月の引力も私たちの生活に陰に陽に影響している、それは無視できないほどのもので「生命記憶」なるものに繋がっていると指摘している。こうなると月のエネルギーに興味がわく。太陽暦と太陰暦 どっかで習ったが忘れていた。今では太陽暦がごく当たり前になっているから太陰暦というのは古臭く役に立たないものだと思い込んでいたがそうでもなさそうだ。太陰とは月のことだ。早速「月のカレンダー」を購入して普通のカレンダーの横に並べてある。この月カレンダーにはいくつもの新しい発見がある。新月から新月前までが一か月で一年は354日。今年の元旦が2月1日で今は睦月(1月)で当たり大晦日が来年1月23日になる。毎日月の満ち欠けが表示してあり大潮中潮小潮も記されている。今までは夜空など見上げたことはなかったのに最近はよく見るようになった。学生時代の合宿で長野に行った時星が降るように輝いている夜空の美しさを思い出した。
月の引力は人の出産や死と関連付けられてはいるがそればかりではなく「生命記憶」というところで深く影響を受けているのではないかと言及されると、改めて月の自転公転を含め月について考えさせられるのである。
スマホに指を滑らせると画面が拡大するように、ごく当たり前の生活に思考の知恵をいささかなりとも差し込んでみると新鮮な世界が現れてくる。取り柄とてない凡庸な自分のひそかな楽しみではある。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2022/01/17
路傍のカナリア 185
空海は生きている
高野山では奥の院にいる「空海」に毎日二度食事を届けている。この「儀式」は空海没後約1200年にわたり継続してきたのだという。肉体は滅びても空海その人の霊は「永遠の瞑想」に入ったままそこにあると解説されている。
もしも高野山の僧侶たちが霊は見えないが解説通りに恐らくいるであろうと仮定して食事を届けているとしたら荘厳な形式をどれ程纏おうともまた歴史的な継続性に意義を見出そうとも所詮お芝居にすぎない。そうではないはずだ。一日も欠かさずに食事を届けてきたのは空海が起き眠り食べ瞑想の修行にいそしんでいる姿をはっきりと霊視できる僧侶がいたからに他ならない。一世紀を超えるお芝居など馬鹿馬鹿しくて続くはずがない。
もしも現在の高野山に一人として空海の姿を霊視できる者がいないとなれば、それは空海 が厳しい修行の末に体得した真言密教の水準が劣化したことを意味している。高野山は観光名所に堕落しているということだ。
霊的存在へのアミニズムという信仰 がある。それは自然への科学的な知識が欠落した無知蒙昧な宗教ではない。 霊能者によれば霊感が高まると自己と自然の一体的融合の果てに神の声を聴くという(霊聴)。空海はなぜ「空と海」と名乗ったのか--。空と海に象徴される自然の中に神を見出した体験が元になっているに相違ない。
この密教行者や霊能者は霊感、霊聴能力のほかに人の命まで翻弄できる念力、透視能力、遠隔透視力、予知、予言の類の能力を発揮できる。それでは彼らは超人なのかというとたぶん違う。 宜保愛子は自らの手記で子供のころから十二歳くらいまでは予知予言霊視をできたが、その後霊感は消失し再び 二十歳すぎに復活したという。この話を敷衍すれば我々普通人も一生のうち何処かで霊感能力に目覚めすぐに消失してしまっているがゆえに霊感能力に気づかないと思われる。虫の知らせ、他者視線の意識などどこかで霊能力を使っているのだ。砂澤たまゑ、宜保愛子など別格の霊能力者と普通人の間は隔絶されているのではなく音感や運動神経に個人差があるように霊能力は誰にでもあるが現れ方に差異があると考えたほうが自然である。普通人よりもより敏感な霊感を持つがトップクラスほどではない霊感中間層ががたぶん広がっている。ただ表面化されないのは本人が無自覚か、承知はしていても人から気味悪がられたり、嘘つきと非難されることを恐れているからだろう。見えない世界は難しい。(ちなみに明治期、「リング」のモデルと言われた透視能力の御船千鶴子は自殺している)。
客体として霊が存在するかどうかは私にはわからないが、霊感鋭い人の話が嘘だともまやかしだとも思ったことはない。チベット密教、その流れをくむ真言密教、さらにはその傍流の果ての新興宗教など、修行者達の命がけの荒行の末に体得した「力」の世界は確かに存在する。
私は少しだけ霊の世界に触れただけだが、そして胎児の世界、自閉症の世界、異次元の世界、と共に踏み込み方は難しいがそれらは「広く大きな世界」だと認識している。
※このコラムは「お稲荷さんと霊能者」 内藤慎吾著に触発されて書いたものである。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2021/12/12
路傍のカナリア No 184
プロ野球雑感
一軍投手の基本条件とは
プロ野球はヤクルトスワローズが日本シリーズを制して幕を閉じた。対戦相手のオリックス共々四球やエラーがらみの失点が多かったという点では決して完成度の高い野球ではなかったが両チームの投手力が充実していたので、どの試合も大味にならず見ごたえのあるシリーズであつた。
野球は投手がしっかりすれば試合運びが計算できるわけだが、一軍のレベルで活躍できる選手は限られている。脚光を浴びるスター選手がいる反面、一軍のマウンドに立つこともできずにプロ野球から去っていく選手がいる。プロから勧誘される以上ほとんどの選手が素質に恵まれているのにどこに差異が生まれるのであろうか。
素人考えだが、たぶん「再現性」の正確さがひとつのポイントだろう。いまプロの打者を抑え込めるほどの力強く打者の手元で伸びるストレートを投げる投手がいたとしても、その球は1球や2球ではなく50球100球とコンスタントに投げられなくてはならない。(先発なら100球が目途になる)投げ疲れてすぐにボールに力が無くなってもまたフォームが乱れても通用しない。
それではと力任せに投げて制球が乱れても同様に通用しない。力のある球を投げる投球フォームが安定的に「再現」されて初めてプロの一軍の一歩となる。加えてその投球フォームと身体のバランスが悪ければ、いっとき活躍できても早晩肩や肘の故障に泣くことになる。無理のない自然体の投球フオームを反復練習によって徹底して体に覚えこませ、尚且つ力強いボールを投げてこそ一軍のマウンドが近づくのである。
加えて一定水準の変化球もストレートと同じ投球フォームから投げられねばならない。プロの打者はわずかな癖も見抜くし、またビデオによる解析も進んでいるから隙を見せれば簡単に打ち込まれる。野村克也元監督が選手時代に相手投手の癖を読んで好成績を残したことは周知の事実である。アマチュアなら通用したアバウトの部分は削ぎ落され、ボールひとつの制球力、寸分違わない投球フォーム、クィックモーション、牽制技術、等々要求される基本の水準は高い。
この基本の上に立ってシーズンをコンスタントに投げ続けるというのが一軍の、とりわけ一流の投手の条件になるわけだが、それゆえに技術を支える基礎体力、基礎筋力にしてもアマチュア時代とは段違いということになる。こう考えてくると結局プロで通用するにはまずはプロ仕様の基本、基礎の充実ということになる。
和田茂樹の「絶対基礎力をつける勉強法」という受験の指南書があるが、そのなかで基礎力というが、それでは基礎力とは何かと問うと誰もが戸惑うのだという。和田は基礎力を「絶対的基礎力」と志望校に合格するための「入試基礎力」に分けてそのうち高校生としての当然の「絶対的基礎力」こそ圧倒的に重要だが、現実には「絶対的基礎力」が身についてない段階から、「入試基礎力」にばかり目を向ける受験生が多いと指摘している。たぶんプロ野球2軍でくすぶってしまっている投手というのは、同様にプロ野球選手としての絶対的基礎力にどこか欠けるところがあるのだろう。そこを見ないで一軍で活躍することばかりを考えているから結局何もかも中途半端になるということではないか。いやいやこの私にしたところで経営者として店長としていまだ2軍暮らしなのではあるが。
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2021/11/15
路傍のカナリア No183
情報の破壊力がもたらす「天皇亡命」という未来
若い人の恋は一途である。一途であるがゆえに周囲は見えないし、愛しい相手すら見えていないものだ。まさに「恋は盲目」。愛の蜜月が終わり生活の現実が、なにがしかの悔恨と諦念をもたらし、よく観察すれば相手は「凡庸な石ころ」であったとしても後戻りはできない。
結婚とはそういうものであるが、さて自分たちが親になり、娘の結婚ともなると今度は別の熱量が高じて相手の男性が「馬の骨」では困ると言い出すのが世の常である。
秋篠宮長女の結婚を巡るごたごたは、この構図の中に納まるありふれた話にすぎないように見える。皇室というオプションが付いただけ週刊誌と噂スズメが騒がしいのであるが。
見過ごせないのは長女も次女も自分たちの立ち位置を「籠の鳥」と自嘲していることである。
「籠の鳥」は、大正末期の流行歌で自由を束縛されている遊女と恋人の会うに会えない心情を唄ったものである。 結婚への進行が滞って棚ざらしのような状態が続いたことへの苛立ちはあるにせよ皇室の生活が「籠の鳥」と例えられるほどに制約があるかというと違和感がある。
彼女たちは我々と同じ大学に通い、それなりに友人との交流もあり、国民から見ればうらやむべき質の生活を保障されている。にもかかわらず「籠の鳥」と感じるのは、それだけ外の世界情報の破壊力がもたらす「天皇亡命」という未来が魅力的に見えるからであろう。皇族の在り方に異質なベクトルが芽生えているのだ。その異質なベクトルをもたらしているものは、モバイル情報機器の進化であろう。今はもう独裁国家も国家権力者も官僚も大企業のトップも情報の流通力、そして破壊力の前には無力である。
皇室という神域ももちろん例外ではない。皇族生活のある種の密室性と世間との隔絶が天皇制の権威のよりどころだとしても、そこを生きる皇族によってその皇族生活が否定され始めている現実は重い。人と人がSNS でつながりあう無限連鎖の関係性は、世界を蔽い、ボタン一つでアマゾンもアルプスも灼熱の沙漠も見てしまうことが可能になった時代。なんと世界は、 刺激に満ち自由に語り合うことにタブーがないことか。彼女たちが「籠の 鳥」と自嘲するときそれは「あの大空へ飛び立つ翼をください」と叫んでいると解釈しなければならない。
天皇の後継者の地位にあるものが、いや天皇そのものが「自分はアフリカで農業をやりたい」「世界中を放浪したい」「大学で地球物理学を研究したい」から退位すると言い出す可能性を 「籠の鳥」発言は暗示している。日本では当然認められないとしてアメリカ大使館に駆け込み亡命したら「自由と人権」の国アメリカは「天皇亡命」を受け入れるだろうか。興味深く深刻な問題ではある。
平成天皇は高齢を理由に退位されたが、執務不能になるまで天皇であらねばならない「一生天皇制」は天皇の人権と絡んで必ずその是非を問われる時期が来る。結婚を巡る小さな話は女系男系議論よりもはるかに天皇制の基盤を揺さぶっている。
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2021/10/13
路傍のカナリア 182
心優しき、岸田君の夢
資本主義というのは誰もがのんびりと仲良く暮らせる社会ではない。資本というモンスターが、あるいはその化身である資本家たちが金と利益を求めて暴れまわっている社会である。金の匂いがすれば路地裏の奥にでも蛇のごとくヌルヌルと資本は忍び寄るのである。資本のむき出しの強欲は19世紀半ばイギリスにはっきりと表れている。労働者は劣悪な労働環境のなか徹底的に搾取され、女性や幼児までもが成年男子の代わりに働かされた。「イギリス労働者階級の状態」(エンゲルス)は、克明に当時の労働者を活写している。あの時代が特別なわけではない。「極貧の労働者と膨れ上がる富を得た資本、またはあの時代こそ資本の理想郷なのだ。今、新自由主 義が話題になっている。言葉の響きはいいが要は「国も行政も口を出すな、俺たち資本家の好きなようにやらせろ、そうすれば効率のいい社会が自然と生み出される」と言っているに過ぎない。当然社会に格差は生まれ広がるがそのことに痛みを感じるわけではなく、ただおのれの資本が膨らんでいくことが最大の目的なのだ。資本主義とは資本による資本のための社会なのである。近代資本主義200年、原理は今も変わらない。
岸田君は考えた。新しい資本主義があるはずだ。誰もが豊かに暮らせる資本主義があっていい。戦後、昭和の時代一億総中流が実現したではないか。 キーワードは「分配から成長へ」。そして岸田君は起った。「帰りなんいざ、ニッポ ンまさに荒れなんとする」の心意気か。
岸田君に同調するように成長至上主義からの脱却論、再分配重点主義の論も出てきた。物語は始まったばかりだが、そんなにうまくいくか。中間層が充実したのは、中進国日本と時代状況の僥倖的交差の産物ではないのか資本家たちの厳父のごとき声が響いてくる。
「愚かしいことだ。分配優先だと。お前たちの生活の周辺をよく見てみろ。すべてのものが加速度的に変化しているだろう。家電も車もデジタル機器も物流もサービスも環境も。これ はすべて競争が生み出したものだ。過去に例のない激烈な競争が世界中で起きている。これこそが成長の中身だ。 競争の敗者は瞬く間に置いてゆかれ、莫大な特許料を払わなければ何一つ手に入れることができなくなる。どの企業も必死なのだ。国家にしても同じことだ。成長を緩めてどうする。一国の経済だけなら分配もいいだろうが、世界中が冷徹な資本の論理で回っているなかでそんなヒューマニズムが通用すると思っているのか。
円安はすぐにでもやってくる。積み上げた国民の金融資産もあっという間に目減りする。どんなに日銀が円紙幣を積み上げたところで一滴の原油も買えるわけではない。社会の弱者という小さな不幸にとらわれて国の没落という大きな不幸に見舞われてもいいのか。勝って勝って勝ち続けるしかないのだ。覚悟を決めて世界的競争時代を乗り越えろ。岸田君が新しい資本主義を確立して「名政治家」になるのか、それとも 「ユメ破れて山河あり」トホホの岸田君に成り果てるのか 私には資本家たちのリアリズムこそが真実だと思えるが。 貧骨 cosmoloop.22 k@nifty.com
2021/09/12
路傍のカナリア 180
暴力団/暗黒裁判
忖度の攻防ともうひとつの忖度
暴力団「工藤会」総裁に下った死刑の判決は、国家権力の怖さを垣間見せた判決である。直接的な証拠もなしに推定を積み上げて被告を犯人に仕立て上げ、縛り首にしてしまうのは驚くほかはない。西部劇の私刑と重なるような「真昼の暗黒」というべきかもしれない。
この手法なら現政権に目障りな政治結社、宗教団体、等々もすぐに組織トツプ、幹部を逮捕、懲役刑にしてしまうことが可能である。たしかに仲間内だけでなく、一般市民にも容赦なく襲い掛かり、射殺や手榴弾による殺傷事件を起こす「工藤会」の所業は、暴力と恐怖によって社会を支配し、法秩序など眼中にないがごとき狼藉と言わねばならぬ。要するに「無茶苦茶」なのだ。
しかし彼ら実行犯は、阿吽の呼吸で総裁の意図を忖度して事に及んでいる。逮捕されても総裁は犯行の埒外にいることになる。忖度は実に便利な手法で、企業においても、官僚組織においても同様に行われていて組織防衛の工作といってもよい。責任はすべて部下がかぶるようにできている。「工藤会」の壊滅がなかなか進まなかった原因の一つがここにある。総裁以下幹部は、ほくそ笑んでいたに違いない。「確たる証拠がないから捕まるはずはない」。
が、物事には必ず限度というものがある。暴力的所業が改められることもなく社会秩序への挑戦が継続すれば、何が何でも「工藤会」を壊滅してしまうのが国家権力というものである。容赦はないのである。証拠があろうがなかろうが、間接的証拠で逮捕起訴してしまうのである。裁判はもちろん公平で公正でなければならない。その建前は建前として、断固として国家意思を貫くのが権力の恐ろしさである。権力の尾を踏めば裁判官も裁判長も国家意思を忖度して「死刑」にしてしまうのだ。「工藤会」の忖度と裁判所の忖度の攻防がここにある。言ってみれば、これは事実上の合法的殺人なのだが、法曹界から明確な異論反論は出てこない。一目ではわからない程度の理論武装はきちんとしているのである。
オウム事件の時信者を片っ端から微罪で逮捕拘留して、当時の自民党・小沢一郎からやりすぎではないかと批判されたが、国家秩序の根元が揺らぐと認識すれば、法務官僚はいかようにもなんでもやりかねないのである。
「工藤会」の裁判は控訴上告を経て最高裁まで行くだろうか。そして本当にこの危うい判決を最高裁が確定して死刑を執行するだろうか。そこまで行けば、さすがに世間が騒ぎ出すかもしれない。権力にとって望ましいのは、被告が裁判途中で病死なり自殺なり「獄死」してもらうことだ。下級裁判所の判決だけでも暴力団関係には抑止効果はある。
コロナ感染による死亡という名目なら火葬まで一気に進めることができる。権力の意を忖度しての獄中不審死はあり得るかもしれない。(怖い怖い)。 もちろん私なりの妄想なのだが、「暴力団」関連という市民受けする衣の奥で、権力がいかなる振る舞いをするか、この裁判の展開は注視していかねばならないと思っている。
貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2021/07/15
路傍の カナリア 79
貧しき競争社会 我がニッポン
平成の日本経済を象徴するテーマに「構造改革、規制緩和」というのがある。今もこの流れは継続しているが、その当初の目的である社会経済の活性化、新たなる経済成長というのは実現するどころかむしろ停滞している。閉塞感のほうがはるかに強いのである。
「構造改革」推進論者から言わせれば、規制緩和がいまだ道半ばにして中途半端のために緩和効果が出ていないのだから、更なる規制緩和を進めれば現状の停滞を打ち破れるという論法になるのだが果たしてそうだろうか。
現在までの規制緩和の成果として我々の社会は競争社会特有の活力のある経済がいささかなりとも実現しているはずだが、そのような兆候すら感じられない。働き手相互の格差ばかりが広がり、それが職場や家庭の鋭く悲惨な事件を引き起こしている。競争社会の負の面が目立つのである。
けれども規制緩和の元になっている新古典派経済学の理念から言えば、 市場に誰もが参入できる環境整備を基本に公正な競争と価格調整力にゆだねれば豊かさの果実はおのずから得られるはずである。現にアメリカ経済はお手本のように経済成長を続けている。(コロナ禍による攪乱を除けば)。
何が違うのか、日本では勝ち組の企業も、そこそこ勝ち組の企業もその利益を労働者に分配することなく内部留保金として貯めこんでしまうことが大きな要因である。財務省による「法人企業統計調査」によれば2019年度の内部留保金は475兆円、475兆といえばGDP にも匹敵する数字である。しかも8年連続で過去最高を更新している。
企業経営者の立場から言えば、オープンな市場はたとえ今勝ち組であったとしてもいつ負け組に転落するかもしれない恐怖と背中合わせである。たとえ利益が出ても先行きを考えれば内部留保で備えようという心理が働く。と同時に労働者のほうも賃上げによる利益 分配よりも企業存続を前提とした現状の雇用維持を優先するから、結局労使ともに利益の分配に消極的なのである。結果内部留保金だけが積みあがってしまう。一企業の行動としては正しいとしても過半の企業が同一行動をとるとまさに合成の誤謬で経済全体は停滞する。日本のGDPの約7割は個人消費が占めているが、賃金上昇が見込めない以上「貧しい競争社会」になるのは必定である。政府が最低賃金のかさ上げを経済団体に要請するということ自体おかしな話であるが、そうなってしまうほどに経営者も労働者も委縮してしまっている。
こうなると更なる規制緩和では競争の激化だけが進んでその果実は誰も受け取らないという社会一億総不幸という社会になってくる。ここに超高齢化社会が重なって不安感だけが蔓延する。構造改革がもたらした日本経済の現実の姿がここにある。
昭和の時代、規制がもたらす既得権の中での勝ち組の安心感ぐらい甘美なものはなかった。
その成功体験を払拭できず、競争社会に保守的にしか適応できない経営者が多数派である限り、同時に業績の悪化に伴うリストラを恐れず利益が計上されているときは分配をきちんと要求する労働者が生まれてこない限り、社会全体の活性化は夢のまた夢である。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com