路傍のカナリア

2022/01/17
路傍のカナリア 185

空海は生きている

高野山では奥の院にいる「空海」に毎日二度食事を届けている。この「儀式」は空海没後約1200年にわたり継続してきたのだという。肉体は滅びても空海その人の霊は「永遠の瞑想」に入ったままそこにあると解説されている。  
もしも高野山の僧侶たちが霊は見えないが解説通りに恐らくいるであろうと仮定して食事を届けているとしたら荘厳な形式をどれ程纏おうともまた歴史的な継続性に意義を見出そうとも所詮お芝居にすぎない。そうではないはずだ。一日も欠かさずに食事を届けてきたのは空海が起き眠り食べ瞑想の修行にいそしんでいる姿をはっきりと霊視できる僧侶がいたからに他ならない。一世紀を超えるお芝居など馬鹿馬鹿しくて続くはずがない。
もしも現在の高野山に一人として空海の姿を霊視できる者がいないとなれば、それは空海 が厳しい修行の末に体得した真言密教の水準が劣化したことを意味している。高野山は観光名所に堕落しているということだ。  
霊的存在へのアミニズムという信仰 がある。それは自然への科学的な知識が欠落した無知蒙昧な宗教ではない。 霊能者によれば霊感が高まると自己と自然の一体的融合の果てに神の声を聴くという(霊聴)。空海はなぜ「空と海」と名乗ったのか--。空と海に象徴される自然の中に神を見出した体験が元になっているに相違ない。  
この密教行者や霊能者は霊感、霊聴能力のほかに人の命まで翻弄できる念力、透視能力、遠隔透視力、予知、予言の類の能力を発揮できる。それでは彼らは超人なのかというとたぶん違う。 宜保愛子は自らの手記で子供のころから十二歳くらいまでは予知予言霊視をできたが、その後霊感は消失し再び 二十歳すぎに復活したという。この話を敷衍すれば我々普通人も一生のうち何処かで霊感能力に目覚めすぐに消失してしまっているがゆえに霊感能力に気づかないと思われる。虫の知らせ、他者視線の意識などどこかで霊能力を使っているのだ。砂澤たまゑ、宜保愛子など別格の霊能力者と普通人の間は隔絶されているのではなく音感や運動神経に個人差があるように霊能力は誰にでもあるが現れ方に差異があると考えたほうが自然である。普通人よりもより敏感な霊感を持つがトップクラスほどではない霊感中間層ががたぶん広がっている。ただ表面化されないのは本人が無自覚か、承知はしていても人から気味悪がられたり、嘘つきと非難されることを恐れているからだろう。見えない世界は難しい。(ちなみに明治期、「リング」のモデルと言われた透視能力の御船千鶴子は自殺している)。  
客体として霊が存在するかどうかは私にはわからないが、霊感鋭い人の話が嘘だともまやかしだとも思ったことはない。チベット密教、その流れをくむ真言密教、さらにはその傍流の果ての新興宗教など、修行者達の命がけの荒行の末に体得した「力」の世界は確かに存在する。  
私は少しだけ霊の世界に触れただけだが、そして胎児の世界、自閉症の世界、異次元の世界、と共に踏み込み方は難しいがそれらは「広く大きな世界」だと認識している。
※このコラムは「お稲荷さんと霊能者」 内藤慎吾著に触発されて書いたものである。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com
2021/12/12
路傍のカナリア No 184

プロ野球雑感  
一軍投手の基本条件とは

プロ野球はヤクルトスワローズが日本シリーズを制して幕を閉じた。対戦相手のオリックス共々四球やエラーがらみの失点が多かったという点では決して完成度の高い野球ではなかったが両チームの投手力が充実していたので、どの試合も大味にならず見ごたえのあるシリーズであつた。
野球は投手がしっかりすれば試合運びが計算できるわけだが、一軍のレベルで活躍できる選手は限られている。脚光を浴びるスター選手がいる反面、一軍のマウンドに立つこともできずにプロ野球から去っていく選手がいる。プロから勧誘される以上ほとんどの選手が素質に恵まれているのにどこに差異が生まれるのであろうか。
素人考えだが、たぶん「再現性」の正確さがひとつのポイントだろう。いまプロの打者を抑え込めるほどの力強く打者の手元で伸びるストレートを投げる投手がいたとしても、その球は1球や2球ではなく50球100球とコンスタントに投げられなくてはならない。(先発なら100球が目途になる)投げ疲れてすぐにボールに力が無くなってもまたフォームが乱れても通用しない。
それではと力任せに投げて制球が乱れても同様に通用しない。力のある球を投げる投球フォームが安定的に「再現」されて初めてプロの一軍の一歩となる。加えてその投球フォームと身体のバランスが悪ければ、いっとき活躍できても早晩肩や肘の故障に泣くことになる。無理のない自然体の投球フオームを反復練習によって徹底して体に覚えこませ、尚且つ力強いボールを投げてこそ一軍のマウンドが近づくのである。
加えて一定水準の変化球もストレートと同じ投球フォームから投げられねばならない。プロの打者はわずかな癖も見抜くし、またビデオによる解析も進んでいるから隙を見せれば簡単に打ち込まれる。野村克也元監督が選手時代に相手投手の癖を読んで好成績を残したことは周知の事実である。アマチュアなら通用したアバウトの部分は削ぎ落され、ボールひとつの制球力、寸分違わない投球フォーム、クィックモーション、牽制技術、等々要求される基本の水準は高い。
この基本の上に立ってシーズンをコンスタントに投げ続けるというのが一軍の、とりわけ一流の投手の条件になるわけだが、それゆえに技術を支える基礎体力、基礎筋力にしてもアマチュア時代とは段違いということになる。こう考えてくると結局プロで通用するにはまずはプロ仕様の基本、基礎の充実ということになる。
和田茂樹の「絶対基礎力をつける勉強法」という受験の指南書があるが、そのなかで基礎力というが、それでは基礎力とは何かと問うと誰もが戸惑うのだという。和田は基礎力を「絶対的基礎力」と志望校に合格するための「入試基礎力」に分けてそのうち高校生としての当然の「絶対的基礎力」こそ圧倒的に重要だが、現実には「絶対的基礎力」が身についてない段階から、「入試基礎力」にばかり目を向ける受験生が多いと指摘している。たぶんプロ野球2軍でくすぶってしまっている投手というのは、同様にプロ野球選手としての絶対的基礎力にどこか欠けるところがあるのだろう。そこを見ないで一軍で活躍することばかりを考えているから結局何もかも中途半端になるということではないか。いやいやこの私にしたところで経営者として店長としていまだ2軍暮らしなのではあるが。
貧骨   cosmoloop.22k@nifty.com
2021/11/15
路傍のカナリア No183

情報の破壊力がもたらす「天皇亡命」という未来

 若い人の恋は一途である。一途であるがゆえに周囲は見えないし、愛しい相手すら見えていないものだ。まさに「恋は盲目」。愛の蜜月が終わり生活の現実が、なにがしかの悔恨と諦念をもたらし、よく観察すれば相手は「凡庸な石ころ」であったとしても後戻りはできない。
結婚とはそういうものであるが、さて自分たちが親になり、娘の結婚ともなると今度は別の熱量が高じて相手の男性が「馬の骨」では困ると言い出すのが世の常である。
秋篠宮長女の結婚を巡るごたごたは、この構図の中に納まるありふれた話にすぎないように見える。皇室というオプションが付いただけ週刊誌と噂スズメが騒がしいのであるが。
見過ごせないのは長女も次女も自分たちの立ち位置を「籠の鳥」と自嘲していることである。
 「籠の鳥」は、大正末期の流行歌で自由を束縛されている遊女と恋人の会うに会えない心情を唄ったものである。 結婚への進行が滞って棚ざらしのような状態が続いたことへの苛立ちはあるにせよ皇室の生活が「籠の鳥」と例えられるほどに制約があるかというと違和感がある。
彼女たちは我々と同じ大学に通い、それなりに友人との交流もあり、国民から見ればうらやむべき質の生活を保障されている。にもかかわらず「籠の鳥」と感じるのは、それだけ外の世界情報の破壊力がもたらす「天皇亡命」という未来が魅力的に見えるからであろう。皇族の在り方に異質なベクトルが芽生えているのだ。その異質なベクトルをもたらしているものは、モバイル情報機器の進化であろう。今はもう独裁国家も国家権力者も官僚も大企業のトップも情報の流通力、そして破壊力の前には無力である。
皇室という神域ももちろん例外ではない。皇族生活のある種の密室性と世間との隔絶が天皇制の権威のよりどころだとしても、そこを生きる皇族によってその皇族生活が否定され始めている現実は重い。人と人がSNS でつながりあう無限連鎖の関係性は、世界を蔽い、ボタン一つでアマゾンもアルプスも灼熱の沙漠も見てしまうことが可能になった時代。なんと世界は、 刺激に満ち自由に語り合うことにタブーがないことか。彼女たちが「籠の 鳥」と自嘲するときそれは「あの大空へ飛び立つ翼をください」と叫んでいると解釈しなければならない。
 天皇の後継者の地位にあるものが、いや天皇そのものが「自分はアフリカで農業をやりたい」「世界中を放浪したい」「大学で地球物理学を研究したい」から退位すると言い出す可能性を 「籠の鳥」発言は暗示している。日本では当然認められないとしてアメリカ大使館に駆け込み亡命したら「自由と人権」の国アメリカは「天皇亡命」を受け入れるだろうか。興味深く深刻な問題ではある。
 平成天皇は高齢を理由に退位されたが、執務不能になるまで天皇であらねばならない「一生天皇制」は天皇の人権と絡んで必ずその是非を問われる時期が来る。結婚を巡る小さな話は女系男系議論よりもはるかに天皇制の基盤を揺さぶっている。
                       貧骨   cosmoloop.22k@nifty.com
2021/10/13
路傍のカナリア 182

心優しき、岸田君の夢

 資本主義というのは誰もがのんびりと仲良く暮らせる社会ではない。資本というモンスターが、あるいはその化身である資本家たちが金と利益を求めて暴れまわっている社会である。金の匂いがすれば路地裏の奥にでも蛇のごとくヌルヌルと資本は忍び寄るのである。資本のむき出しの強欲は19世紀半ばイギリスにはっきりと表れている。労働者は劣悪な労働環境のなか徹底的に搾取され、女性や幼児までもが成年男子の代わりに働かされた。「イギリス労働者階級の状態」(エンゲルス)は、克明に当時の労働者を活写している。あの時代が特別なわけではない。「極貧の労働者と膨れ上がる富を得た資本、またはあの時代こそ資本の理想郷なのだ。今、新自由主 義が話題になっている。言葉の響きはいいが要は「国も行政も口を出すな、俺たち資本家の好きなようにやらせろ、そうすれば効率のいい社会が自然と生み出される」と言っているに過ぎない。当然社会に格差は生まれ広がるがそのことに痛みを感じるわけではなく、ただおのれの資本が膨らんでいくことが最大の目的なのだ。資本主義とは資本による資本のための社会なのである。近代資本主義200年、原理は今も変わらない。
 岸田君は考えた。新しい資本主義があるはずだ。誰もが豊かに暮らせる資本主義があっていい。戦後、昭和の時代一億総中流が実現したではないか。 キーワードは「分配から成長へ」。そして岸田君は起った。「帰りなんいざ、ニッポ ンまさに荒れなんとする」の心意気か。
 岸田君に同調するように成長至上主義からの脱却論、再分配重点主義の論も出てきた。物語は始まったばかりだが、そんなにうまくいくか。中間層が充実したのは、中進国日本と時代状況の僥倖的交差の産物ではないのか資本家たちの厳父のごとき声が響いてくる。
「愚かしいことだ。分配優先だと。お前たちの生活の周辺をよく見てみろ。すべてのものが加速度的に変化しているだろう。家電も車もデジタル機器も物流もサービスも環境も。これ はすべて競争が生み出したものだ。過去に例のない激烈な競争が世界中で起きている。これこそが成長の中身だ。 競争の敗者は瞬く間に置いてゆかれ、莫大な特許料を払わなければ何一つ手に入れることができなくなる。どの企業も必死なのだ。国家にしても同じことだ。成長を緩めてどうする。一国の経済だけなら分配もいいだろうが、世界中が冷徹な資本の論理で回っているなかでそんなヒューマニズムが通用すると思っているのか。
円安はすぐにでもやってくる。積み上げた国民の金融資産もあっという間に目減りする。どんなに日銀が円紙幣を積み上げたところで一滴の原油も買えるわけではない。社会の弱者という小さな不幸にとらわれて国の没落という大きな不幸に見舞われてもいいのか。勝って勝って勝ち続けるしかないのだ。覚悟を決めて世界的競争時代を乗り越えろ。岸田君が新しい資本主義を確立して「名政治家」になるのか、それとも 「ユメ破れて山河あり」トホホの岸田君に成り果てるのか 私には資本家たちのリアリズムこそが真実だと思えるが。    貧骨 cosmoloop.22 k@nifty.com
2021/09/12
路傍のカナリア 180

暴力団/暗黒裁判  

忖度の攻防ともうひとつの忖度

暴力団「工藤会」総裁に下った死刑の判決は、国家権力の怖さを垣間見せた判決である。直接的な証拠もなしに推定を積み上げて被告を犯人に仕立て上げ、縛り首にしてしまうのは驚くほかはない。西部劇の私刑と重なるような「真昼の暗黒」というべきかもしれない。
この手法なら現政権に目障りな政治結社、宗教団体、等々もすぐに組織トツプ、幹部を逮捕、懲役刑にしてしまうことが可能である。たしかに仲間内だけでなく、一般市民にも容赦なく襲い掛かり、射殺や手榴弾による殺傷事件を起こす「工藤会」の所業は、暴力と恐怖によって社会を支配し、法秩序など眼中にないがごとき狼藉と言わねばならぬ。要するに「無茶苦茶」なのだ。
しかし彼ら実行犯は、阿吽の呼吸で総裁の意図を忖度して事に及んでいる。逮捕されても総裁は犯行の埒外にいることになる。忖度は実に便利な手法で、企業においても、官僚組織においても同様に行われていて組織防衛の工作といってもよい。責任はすべて部下がかぶるようにできている。「工藤会」の壊滅がなかなか進まなかった原因の一つがここにある。総裁以下幹部は、ほくそ笑んでいたに違いない。「確たる証拠がないから捕まるはずはない」。
が、物事には必ず限度というものがある。暴力的所業が改められることもなく社会秩序への挑戦が継続すれば、何が何でも「工藤会」を壊滅してしまうのが国家権力というものである。容赦はないのである。証拠があろうがなかろうが、間接的証拠で逮捕起訴してしまうのである。裁判はもちろん公平で公正でなければならない。その建前は建前として、断固として国家意思を貫くのが権力の恐ろしさである。権力の尾を踏めば裁判官も裁判長も国家意思を忖度して「死刑」にしてしまうのだ。「工藤会」の忖度と裁判所の忖度の攻防がここにある。言ってみれば、これは事実上の合法的殺人なのだが、法曹界から明確な異論反論は出てこない。一目ではわからない程度の理論武装はきちんとしているのである。
オウム事件の時信者を片っ端から微罪で逮捕拘留して、当時の自民党・小沢一郎からやりすぎではないかと批判されたが、国家秩序の根元が揺らぐと認識すれば、法務官僚はいかようにもなんでもやりかねないのである。
「工藤会」の裁判は控訴上告を経て最高裁まで行くだろうか。そして本当にこの危うい判決を最高裁が確定して死刑を執行するだろうか。そこまで行けば、さすがに世間が騒ぎ出すかもしれない。権力にとって望ましいのは、被告が裁判途中で病死なり自殺なり「獄死」してもらうことだ。下級裁判所の判決だけでも暴力団関係には抑止効果はある。
コロナ感染による死亡という名目なら火葬まで一気に進めることができる。権力の意を忖度しての獄中不審死はあり得るかもしれない。(怖い怖い)。 もちろん私なりの妄想なのだが、「暴力団」関連という市民受けする衣の奥で、権力がいかなる振る舞いをするか、この裁判の展開は注視していかねばならないと思っている。
                       貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2021/07/15
路傍の カナリア 79

貧しき競争社会 我がニッポン

 平成の日本経済を象徴するテーマに「構造改革、規制緩和」というのがある。今もこの流れは継続しているが、その当初の目的である社会経済の活性化、新たなる経済成長というのは実現するどころかむしろ停滞している。閉塞感のほうがはるかに強いのである。
「構造改革」推進論者から言わせれば、規制緩和がいまだ道半ばにして中途半端のために緩和効果が出ていないのだから、更なる規制緩和を進めれば現状の停滞を打ち破れるという論法になるのだが果たしてそうだろうか。
現在までの規制緩和の成果として我々の社会は競争社会特有の活力のある経済がいささかなりとも実現しているはずだが、そのような兆候すら感じられない。働き手相互の格差ばかりが広がり、それが職場や家庭の鋭く悲惨な事件を引き起こしている。競争社会の負の面が目立つのである。
 けれども規制緩和の元になっている新古典派経済学の理念から言えば、 市場に誰もが参入できる環境整備を基本に公正な競争と価格調整力にゆだねれば豊かさの果実はおのずから得られるはずである。現にアメリカ経済はお手本のように経済成長を続けている。(コロナ禍による攪乱を除けば)。
 何が違うのか、日本では勝ち組の企業も、そこそこ勝ち組の企業もその利益を労働者に分配することなく内部留保金として貯めこんでしまうことが大きな要因である。財務省による「法人企業統計調査」によれば2019年度の内部留保金は475兆円、475兆といえばGDP にも匹敵する数字である。しかも8年連続で過去最高を更新している。
 企業経営者の立場から言えば、オープンな市場はたとえ今勝ち組であったとしてもいつ負け組に転落するかもしれない恐怖と背中合わせである。たとえ利益が出ても先行きを考えれば内部留保で備えようという心理が働く。と同時に労働者のほうも賃上げによる利益 分配よりも企業存続を前提とした現状の雇用維持を優先するから、結局労使ともに利益の分配に消極的なのである。結果内部留保金だけが積みあがってしまう。一企業の行動としては正しいとしても過半の企業が同一行動をとるとまさに合成の誤謬で経済全体は停滞する。日本のGDPの約7割は個人消費が占めているが、賃金上昇が見込めない以上「貧しい競争社会」になるのは必定である。政府が最低賃金のかさ上げを経済団体に要請するということ自体おかしな話であるが、そうなってしまうほどに経営者も労働者も委縮してしまっている。
こうなると更なる規制緩和では競争の激化だけが進んでその果実は誰も受け取らないという社会一億総不幸という社会になってくる。ここに超高齢化社会が重なって不安感だけが蔓延する。構造改革がもたらした日本経済の現実の姿がここにある。
 昭和の時代、規制がもたらす既得権の中での勝ち組の安心感ぐらい甘美なものはなかった。
 その成功体験を払拭できず、競争社会に保守的にしか適応できない経営者が多数派である限り、同時に業績の悪化に伴うリストラを恐れず利益が計上されているときは分配をきちんと要求する労働者が生まれてこない限り、社会全体の活性化は夢のまた夢である。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com
2021/06/15
路傍のカナリア 178

やがて悲しき令和かな

 仕事を進めていくうえで他者にアドバイスを求めるのはなかなか厄介な綾を含んでいて、どうということはないように見えて案外難しい事柄である。自店のスタツフに「こういう企画はどうだ」「新商品の取り扱いについてどう思うか」と尋ねたところ、適切な意見だっ たのでその通りにしたら成果が出た。
すると次第にこちらから求めたわけでもないのに、仕事に注文を付けたり批判がましい意見を言うようになり、結果として社内の人間関係がギクシャクすることがある。
社内だけでなくてもプライドの高い人や高名なコンサルタントに相談を持ち掛けると、今度はその通りにやらないとへそを曲げたり、嫌悪感を出されたりする。「私の提案通りにやらないから業績が上がらない」。アドバイスを持ち掛けたばかりにかえって批判されてしまう。
 どんなにいい提案と思われるものでも、資金の問題、人材の能力の問題、仕事量の増大の問題等、経営の総合的視点から見ての可否が優先されるわけでそれは当の責任者にしか判断できないものである。だから長たるものは、仕事を進めていく上での主導権をしっかりと持って、自らの判断こそすべてであると強く自覚していないと経営は漂流し始めるのである。
 今、政治の世界でオリンピックの開催を巡り、コロナ対策分科会会長の警告に政府側が不快感を示すさや当てが始まっている。構図としては似ているのだが、政府の対応が姑息なのは、それまでは分科会の意見を権威付けに使って政策を推し進めてきたのに、いざ批判的になると「個人的研究の結果」「別の地平からの意見」などと貶めて意見を聞くことさえ行わないという姿勢である。分科会の意見が時の政府の方針を追随しようが非難しようが、それらも判断材料の一つでしかないというあり方を当初より一貫して示しておけばそれなりに政府への信頼は揺るがないのである。
「専門家の意見を踏まえて」という文言の中に都合の悪い事態に陥ったときの責任の一端を担わせようとする意図が見え隠れする。
要するに政治の器が小さいのである。批判は批判として受け止めて決断と責任はすべて引き受け、それで失敗したら地位を去るという捨て身がない。コロナ感染防止と経済の運営とオリンピック開催の三兎を追いさらに根底において政権の維持延命という四兎を追う政治の現在は、結局全てを中途半端にして、いつまでも浮揚しない令和日本を作り上げている。平時ではない国家の危機というべき事態に臨んでいるにもかかわらずだ。でもそれ は国民が選んだ政権でもあるのだ。天に唾するがごとき批判をしても空しいか。
 下り坂である。日本は明らかに下り坂である。政治の様相が暗示している。スペイン風邪の猛威から数年後関東大震災に見舞われ、昭和恐慌、軍国主義へと流れていった戦前の時代をなぞるように令和も「やがて悲しき」時代になるように思えてならないが、杞憂であれば幸いである。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com
2021/05/15
路傍のカナリア 177

マスクをしない自由

マスクをしない自由を主張する人々がいて、公共交通機関や飲食店で一悶着を起こして いる。マスクをする法的な義務はないわけであくまでも行政による要請である以上、彼らのマスクをしない自由は尊重されなけれ ばならない。けれども報道の映像を見ているかぎり警官を含め関係者が当の本人を取り囲んで事実上マスクの装着を強制している。異様な光景である。
悶着と書いたが、それはマスクを要請している側が起こしている悶着であってマスクをしていない彼らは、他者に対してマスクをはずせと言っているわけではない。にもかかわらず映像の構成は、このマスクをつけない人たちこそが社会の迷惑犯のように決めつけていて、見ている我々も彼らを非常識極まると思い込まされてしまう。これも異様な心理で ある。彼らは感染陽性者というわけではない。ただマスクをしていないだけである。
 この問題は思想や宗教のようなイデオロギー上の多数派と少数派の対立に通じる話である。多数派が圧倒的であればあるほど少数派を追い詰め迫害し壊滅してしまおうとする力が自然に働く。そこに社会正義という旗が掲げられる。けれども社会の健全さというのは 様々な価値観の共存であり思想の自由とそれに伴う法に抵触しない限りでの行動の自由が担保されてこそ維持されるものである。ダイバーシティなどという言葉がはやっているがこういう時こそ声を上げるべきではないのか。多数派が自己抑制しない限り少数派への圧力は強くなる一方である。
 佐藤優が「民族問題」に関して日本人というのは民族についてさほど敏感に反応しないのは自分たちがこの日本の中で圧倒的に多数派であるからだと指摘していたが、その多数派感覚が必要以上に少数派を異物として排除しがちなのである。少数派による痛撃をうけ た民族的体験がないから安直に「一億総活躍社会」などという全体が一つになるようなスローガンが出てくる。社会の根っこは戦前も今も変わっていない。
 マスクをしない人たちの考えも尊重すべきではないかとネツト投稿したらアオポチ(賛成)とアカポチ(反対)がきれいに半々に分かれた。予想では反対が圧倒的に多いと思っていたがそれだけまだこの日本の社会は常識的な許容度が保たれているしマスクをしない自由に共感している人たちは結構いるのだろうが表に出てこない。ただこれからはどうだろうか。
 GWに「ノーマスクピクニックデー」が企画されたが、誹謗中傷と参加個人が特定されかねないということで中止に追い込まれた。感染第4波の襲来がこの社会に「一億総マスク」の強制をもたらすかもしれない。私設「マスク監視隊」が街中を巡回する風景はけっして非現実ではない。そしてもう一つの仮想現実について触れておく。ワクチンが行き渡り大多数の人がマスクなしの生活に戻ったとき今度はワクチン接種を拒否しマスクをつけている人たちに対して接種とマスクを外す事実上の強制が生まれるということである。  「多数派の安心安全」とその対極にある「多様な価値観の共存」について考えておかないとあっという間に社会は一色に染められ、思想、表現の自由は窒息しかねないのである。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.co
2021/04/14
■ 路傍のカナリア 176

和式トイレと理想のトイレ
 昨年の夏に腰を痛めてから洋式トイレを使っていたが、腰の状態も良くなってきたのでこの頃は和式トイレを利用している。しばらく振りで感じるのは「しゃがむ」という行為は足腰に結構な負担がかかるということである。また、しゃがんでから立ち上がるのも厄介である。
「しゃがむ」というのは生活の中に組み込まれた行為でないから余計負担感を感じるのだろう。それではと部屋の中で「しゃがんで」それから立ってみるとさほどではない。楽なのは、かかとを床につけていないからで実際にトイレを使用するときは脚を開いてかかとを床につける。ふくらはぎが押される感じで、この姿勢から立ち上がるのは力がいる。
洋式トイレが普及して日本人の足腰が弱くなったと言う人がいるが、毎日の所作だけに侮れない影響が出ているだろう。的確な指摘だと思う。大相撲で土俵に根が生えているように見えるほど重心が低い力士を見かけなくなった。小兵ながら土俵際のうっちゃりを得意とする力士も見かけなくなった。このあたりは和式トイレの減少が遠因かもしれない。
私が和式トイレ(水洗)にこだわるのは、足腰のためというより、排出された便や尿をより間近に見ることができるためである。昔から便や尿は汚物として扱われてきて、話題になるのは検便の時ぐらいだが、それでも汚いというイメージはそのままである。が、便や尿は、自分の消化器系の生の情報である。これくらい確かなものはない。よく観察するには和式のほうがはるかに便利である。便は、食したものと因果関係がある。便から辿ってなにを食べると自分の体に負担がかからない排泄ができるかある程度は分かるはずだし、それが自身の健康に寄与することは言うまでもない。バリウムを飲んだり、胃カメラや内視鏡で体内をかき回されて医源病のリスクにさらされるよりも、はるかに自然な観察方法だといつも思っている。
栄養学は、体に食物を取り入れることに重点があるが、排出から食物を見る視点は同等の意義以上を持っている。なぜかと言えば、栄養学は所詮一般論だが排泄はその人固有の体の反応だからである。野菜を取れ取れと家人が口うるさいが、トイレを見ながら、何を食べることがいいかを考えている自分のほうがはるかに健康的なことは言うまでもない。
とはいえ、まだまだ便や尿の即時の分析ができてはいない。水洗で流したらカタカタと脇からレジ用紙が出てきて、そこに食したものの何が残されていて、どの程度が体内に吸収されたか、それは標準値からみて許容範囲か否か、などなど数値が印字されていれば自分 健康度が分かろうというものだ。以前、医師に腸の潰瘍性の潜血と痔の潜血は検便検査で区別がつくかと問うたところ、それは分からないと言われたが、 即時分析のテクノロジーが進化すれば、それすらも可能なはずである。分析された排出物は、水分が分離され臭気が除去された顆粒状に加工されて肥料として役に立てる。回収箱に入れるとお金が出てくるというシステムは私が考える理想の食物エコロジーでありトイレである。この程度のテクノロジーは今でもたぶん可能だろうがそうならないのは排出物を汚物ととらえるか、体内情報なのかという健康につながる「思想」の問題ではないかと常々思っている。
それにしても我々が生理的に排出するもの、汗も唾も便も鼻水も、みな不衛生極まりないものであるが、同時に観念として排出するもの、音楽も絵画も文学も学的論も含めたトータルとしての文化は人々に感動と勇気と進歩をもたらすことを考えあわせると、人間というのは不思議な生命体であると思わずにはいられない。              
貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com
2021/03/15
■ 路傍のカナリア 175

発電のイロハ

原子力発電=湯沸かし発電

 「健康な時を忘れているのが健康」。私の好きなキャッチコピーだが、確かに健康を損ねて初めて健康の有難みが分かる。
生活の中での電気も同じことで、普段は当たり前のように使っている電気も、停電にでもなれば本当に衣食住のすべてが立ちいかなくなる。電気は現在の生活を根元で支える基盤のエネルギーである。
けれども自分は科学的知識が乏しいので、電気がどのように作られるのか、その仕組みがさっぱり分からない。まして原発の仕組みなど論外である。そこでにわか勉強をして「蝶でも鹿でも猪でも分かる発電の仕組み」程度の理解には達した。このコラムはその程度の話である。  
風車に息を吹きかけると風車はくるくると回る。発電とはこれだけのことである。実にシンプル。発電機の先に風車のごときタービンが付いている。実物を見たことはないが、図から想像するに水車のでかい奴だ。それが回れば発電機から電気が生まれる。そのタービンを回す力が、水の力なら水力発電になる。 高所に水を貯めておいて一気に下に流す。要するにダム。その流れにタービンをさらして回すのである。それにしても電気を起こすタービンを回すのにダムとは、なんと大掛かりな仕組みだろう。  
火力発電というのは蒸気の力でタービンを回すのである。ヤカンに水を入れて火にかけるとお湯が沸いて蒸気が出る。この仕組みで蒸気の力を利用する。 だから火力発電というのは蒸気発電、 湯沸かし発電と名付けたほうが実態に合っている。お湯を沸かしているだけだから。燃やす燃料は主に石炭、石油、液化天然ガスである。よって発電所からモクモクと大気汚染の原因になる煙が出る。蒸気とモクモク煙といえば蒸気機関車。そう蒸気機関車と火力発電は全くといっていいほど同じ仕組みである。蒸気の力をピストンを使って動輪に伝えれば機関車は走る。映画で機関車の機関士が石炭を炉に放り込むシーンを観るが、あれはただ単純にお湯を沸かしているのである。歴史的前後からいえば蒸気機関車が先にできて、それの模倣として火力発電所ができたのだろう。似てるわけだ。  
蒸気でタービンを回すのは地熱発電もバイオマス発電も同じ。風力発電も風の力でタービンを回している。理屈は簡単なのだ。では原子力発電はどうなのか。原発というと、すぐに核燃料、濃縮ウラン、プルトニウム等々難しい用語が出て来て、さぞや複雑極まる構造を想像するが、要は火力発電の鬼っ子みたいなもので、お湯を沸かす燃料が石炭などの化石物からウラン燃料に変わっただけ。ウランは放射性物質だから取り扱いが極めて危険なうえに燃やす炉も原子炉になるわけだが原理は同じ。 核燃料で沸かしたお湯の蒸気でタービンを回している。そういう意味では原子力発電といっても「な〜んだ」という話なのだ。(太陽光発電はタービンを使用しないから例外)  
私の理解はここまで。電気は発電機のタービンを回せば生まれる。ただどのような力を利用するかで水力と火力(蒸気)に分かれるということだ。それなら不毛ともいえる原発安全論争を延々と続けるより国民みんなでタービンを回す新しい力を考えたほうがずっと生産的ではあるまいか。  
高齢化社会の中で、一人一人が健康に関心を持つようになってきた。けれども社会の健康を支える電気のほうはどうだろうか、まだまだ敷居が高く専門家にお任せだが、大雑把な構図は難しくない。じいちゃんからばあちゃん、子供たちもみんなで考えて知恵を出す。ひらめいたアイデアでいい。あれから節目の10年、誰もが電気に発電にいくらかでも関心を持つことが福島原発事故の教訓のように思える。貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
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