路傍のカナリア
2018/02/19
路傍のカナリア39
女性の膝痛を考えてみる
膝の痛みに悩まされている高齢の女性は多いです。私の親族にもいるしお客さんでも生活の周辺でも見かけます。観察するまでもなく、大概肥満系の人ですね。まあ当たり前のことで、体の重さが膝に負担がかかって結果膝のなかのクッションを痛めているのでしよう。だからシンプルに考えれば、体重を減らす、ダイエットをすれば症状は改善するわけで、痛み止めの注射で一時しのぎを続けているよりはるかに良いだろうと思うのですが、そういう理屈で割り切れないところにややこしい問題が潜んでいるのです。
食を減らす、空腹に耐える、その苦痛と膝の痛みを我慢する、どちらかを選ぶとしたら女性の場合どちらが多数派でしょうか。私の推測では後者、膝の痛みに耐えてでも食べることにこだわる女性が多いと思います。
私なりの仮説ですが、女性の本質というか、女性の様々な振る舞いを深いところで司っているものは、たぶん「産む性」ということです。女性が、着飾ること、食べること、化粧することに強い執着があるのは外目にもわかりますが、それは歴史的な積み重ねの中で獲得した資質というよりも、「産む性」であることからくる本質的なものだと思われます。そうで゛あるからこそ「食べる」とつながっているダイエットというのは、男の側から見るよりはるかに精神的な苦痛を伴うのでしょう。精神的ストレスの結果として「過食症」や「拒食症」の症状の発現が主に女性に多いのも、「食べる」が女性には重い意味を持っているからに違いありません。ちなみに男性の場合はストレスが性的異様という形になりがちです。
それでは食欲とはなんでしょうか。当たり前すぎるような問いですが、そうでもありません。
たとえば野生のライオンは空腹になれば狩りをします。満腹になればそれ以上に狩りをしません。(たぶん) もしも目の前をおいしそうなシマウマが横切ったとしても、デザートに食べちゃうとか、シマウマは別腹なんていう理屈で食べることはしないわけです。空腹と食欲はまさに表裏一体であってそれ以上でもそれ以下でもないように自然界の弱肉強食は秩序立っています。目に付いた獲物は片っ端から襲うということはないということです。
人間の食欲というのは全く違います。食料の保存という観点を除いたとしても、食欲は無制限に近い形になっています。空腹を満たした後も、デザートを食し、少し時間がたつと間食をし、またさほど空腹でなくとも誘われればあえて食します。食後であっても話題の食品に出会えば一口二口食べることは厭いません。空腹と離れて食欲自体が存するように人は食べています。またそうするように仕向ける情報操作が行われています。
食欲は生命体の維持装置であるにもかかわらず、それを越えてビジネスの一分野として必要以上に人為的に膨らませられています。私たちが食べたいと思うとき、それは観念としての食欲、作られた食欲に他なりません。
こう考えてくるとダイエットというのは人為的な食欲を削ぎ落し、空腹と表裏の食欲へ戻ること、人間の本来の食の在り様を回復することになります。
膝の痛みからいくらかでも解放されるためには、女性が「食べる」ということときちんと向き合うことから始まると思われますが、それはそれで困難な道筋です。なぜなら生命力の塊のようなおばさんパワーのまえには、抽象的な小理屈など歯が立つはずがないからです。
膝の痛みと女性と食欲を私なりにつなげてみました。話の奥行はもう少し深いと思われますが、いまはここあたりがいっぱいです。 貧骨
2018/02/19
路傍のカナリア 38
歳末雑感
「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」
木枯らしがぴゅぴゅつと吹いて、ぐっと冷え込んだ日には鍋を食べる。湯豆腐がうまそうだ。その鍋の横っちょにくっついてくる句が「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」久保田万太郎の作だ。冬の有名な句のひとつだそうで、ずいぶんと前に雑誌「サライ」の特集で紹介されていた。なんとなく覚えていて、今頃の季節になると、「湯豆腐や、、、」の句は「いいねえ実に味わいがある」なんて軽薄丸出しで吹聴していたのだが、さりとてその句意は今一つわからないままであった。
なにがわからないって「うすあかり」である。「いのちのはてに」なんで「うすあかり」なのか なんとなく覚えていたのはこのわからなさが引っかかっていたのだが今もってすっきりしない。
老いぼれた爺さんが湯豆腐をつっつきながら俺もそう長くはねえがもう一年ぐらいはなんとか暮らしていけそうだ、その先の事は分からねえが命ってやつは案外長持ちするものよ、
句の風景をなぞってみたが、そう間違ってもなかろう。
その命のしぶとさというか、老境の果てに体の底から感じ取れる生命の残り火の如きものを「うすあかり」と詠んだのだろうか 名句というのだから多くの人が共感できる情緒というものが読み込まれているはずなのに「いのちのはてのうすあかり」はどうも解釈の幅が大きいように思われる。いや皮肉な見方をすれば誰もがわかったようなわからないような曖昧のままこの句を活かしてきたのではあるまいか。
万太郎の句は私のような俳句素人でも一読わかりやすいものが多い。
「神田川祭りの中をながれけり」 「あきかぜのふきぬけゆくやひとのなか」「しかられて目つむる猫春隣」
だから分かりやすく解釈すればいのちのはてには冥途の道が続いていてそこから差し込んでくる「うすあかり」ということになろうか。俺ももう死期が近い、冥途の道がぼんやりとだがみえてきた。迎えの音が聞こえる。
そして湯豆腐、ぐづぐづと煮ても形は崩れることなくそれでいて取り皿に取ろうと抓むには細心の扱いが要される その強さともろさの同居こそ命そのもの、万太郎が湯豆腐に託したものは句意そのものと言っていいかもしれない。
この句は作者最晩年昭和38年のもので、因縁めくが作から3か月後に万太郎は急死している。いのちのはてを感じ取っていたのだろうか
こうみてくると「湯豆腐や、、、、」は冬の句とはいえどうも歳末の風情とはちと趣が違う。老境の寂寥感の色合いが強い。
そういえば氏には「鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな」という作がある。これの方が歳末らしいではないか。字句の通りの理解でいいのだが、自分なりにひねってみれば、己の業を煮込んでしまう年回りには自分ならもう一回り生きてみなくてはなるまい。それなら鍋の中に今年一年生きた証の生き恥なり悔恨なり悪運なりを煮込んでしまおう。湯豆腐はどうするか 「湯豆腐の湯気に心の帯がとけ」(金原亭馬生)というぐらいだ。煮込むにきまっている。
フグ鍋、鶏鍋、猪鍋、なんでもいい。一年の納め鍋をひとり食することにする。さすればあたらしい年もすっきりした気分で迎えられるというものだ。 貧骨
2018/01/31
路傍のカナリア37
誰でもが成れるわけではない
資産家なるものの虚実
「よくよく考えたが、俺たちが金持ちになるのは資産家の金を奪うしかない」。連続殺人事件のネット記事を読んでいたら、犯人のこんな供述にぶつかった。強盗も殺人も肯定するわけではないが、この供述は世の中の仕組みの核心をついている。
一介のサラリーマンが、生涯に賃金として得る収入はおおよそ2億円。結婚して子供を育てるとして、日々の生活費、住宅ローン、教育費などのランニングコストを差し引くと、定年後に手元に残る資金は、年金と預貯金と退職金ということになる。順風であれば老後の生活は成り立つであろうが、住宅ローンの残債や家族にまつわる思わぬ出費、退職金の多寡によっては不安定な生活を強いられる。正社員でさえそうであるなら派遣労働者を象徴とする社会的貧者であれば、一生働けど働けど、楽な生活にはたどり着かないようになっている。
額に汗して働くことが尊いという社会的イデオロギーはこの国に浸透しているが、社会の中に労働者として組み込まれてしまえば、賃労働奴隷の如きもので、その道筋の中ではどうあがいても資産家になれる可能性というのはほぼゼロに等しい。
では世の中にお金持ち、資産家と言われる人達はどうしてそこに辿りついたかと言えば、大概はその家そのものが元から資産家でそれを受け継いだ事例が圧倒的に多いと思われる。数字的な裏付けがあるわけではないが、自分の生活圏をぐるっと見渡してみれば、資産家というのはそういう人たちである。金持ちはいつまでも金持ちで、貧乏人はいつまでも貧乏人であってこの構造はがっちりと作られた枠組みと言うしかない。だから資産家というのは己一代で築き上げた一握りの人達を除けば、労せずして資産を手に入れた人達ということになる。凡庸であっても創業者の株式を相続すればそれだけで大会社の社長のイスに座れる。あるいは資産家に嫁するか婿養子に入り込めば、資産家の列に並ぶのである。政治家にしても2世3世が活躍しているが結局は代々からの資産が力の源泉になっている。生まれ落ちた地点が分かれ目、馬鹿馬鹿しいほどの不公平だがそれが現実。
そのもともとの資産がどうして作られたかと言えば、すべてがすべて公明正大とは言えないであろう。国有財産を二束三文で払い受けたり、農民の無知に付け込んで土地を巻き上げたり、牛馬のごとく労働者を働かせて蓄財したり、法の網をかいくぐるペーパーカンパニーによる脱税だったり、地位を利用したインサイダーがらみの売却益だったり、特殊法人を渡り歩いてその都度退職金をせしめたり、目端の利く男達の悪業は多々あろうが、人の評判も一代限り。時がたてば資産と資産家の名声だけが残る。徒手空拳からのし上がる手法はそうきれいごとではないことは田中角栄の金脈がよく表している。
貧乏人の恨みつらみの如き文章になったが、資産家なるものは本当は大したことはないのだと言ってみたかっただけである。地域社会であれば資産家は社会的名士、社会的有力者、としての衣をまとい一目も二目もおかれ一般人はついへりくだるが、よくよく見てみればただ運よく生まれついただけの神様のいたずらにすぎないともいえる。
が、同時に親からの何の支援もなくただひたすら会社勤めに精を出して、家を買い、家庭を営み、子供を育て上げて一生をつつがなく終える無名の大衆の底光りのする「我慢の精神」こそ自然と頭が下がるほど尊く偉いものだと思える。 貧骨
2017/10/16
路傍のカナリア 36
政治的混沌の底にある「いつか見た光景」
今我々の目の前で展開されている民進党解体と希望の党台頭を巡る状況は誰でもが、どうにでも論ずることができるという意味では、まさに百家争鳴、いや千家争鳴と言うべきものであるが、私もその一家として凡庸ではあるが、気になったことを指摘して置きたい。
なんて言っても希望の党が公認を与える上での踏絵と言うべき「安保法制賛成」の条件を民進党の前議員たちがあっさりと受け入れたという事実の「不思議」である。今はもう希望の党の幹部の位置にある細野氏にしても当時の民進党政調会長として廃案を目指していたのだから、この議員たちの「変節」はどう理解したらいいのだろうか。
私達はこの「変節」を嗤う事も、怒る事も、あきれ返る事も出来るけれど、それよりもむしろこのように「変節」してしまえることの「不思議」の方が大切に思える。もしもこの総選挙において希望の党が出て来なければ、彼らは民進党議員として相変わらず「安保法制反対」を唱えていたに違いない。だから彼らにとつては政治的信条などというのは、けっして売り渡してはならない政治家としての生命線では勿論なく、政治的世界を生き抜くための道具立てということになる。本音を言えばどっちでもいいのである。今日は民進党で反対。明日は希望の党で賛成。国家の安全保障というまさに国会議員としての見識が問われるフィールドにしてこの有様は、議員不信、政治不信そのものと言いたい所だが、どこかで我々は同じ光景を見ている。
1945年8月15日一夜にして「鬼畜米英」も「一億総火の玉」も「徹底抗戦」も消え、「民主主義」万歳を唱え始めたのはまさに他ならぬ我が国民であった。あの時何が起きたのか、日本人の心中にあった「鬼畜米英」への激しい熱情はなぜ消えたのか、いやなぜ消えてしまうことが出来たのか。もしも心の底から徹底抗戦の思いにとらわれていたなら、ゲリラ戦もあっただろうし、武装解除も簡単には進まなかったろう。がそうはならなかった。
誰かが国民全体の総転向を「証人のいない風景」と呼んだが、あの「不思議」と今の「不思議」はもちろん通底している。
民進党議員の変節に散発的な批判はあるにしても、押し寄せるような国民全体の怒りが湧きあがらないのは、もちろん彼らが我が日本人の写し鏡であるからに他ならない。いかに声高に政治的スローガンを叫ぼうとも、叫ぶ本人も聴いている有権者もお互いに信じているように振る舞っているだけという事なのだろう。いやこうも言える。スローガンよりも世話になった、ならなかった娑婆の人間関係こそ最優先なのだと。政治とは、選挙とはそういうものだと。
結局のところ日本の政治は何事かを積み重ねてきたように見えて内実は虚ろなのだ。戦後70有余年、民主主義は根付いたように見えるけれども一夜明ければ、左右を問わず全体主義がこの国を覆い、メディアがここぞと煽り大衆が異端者をつるし上げる風景が再び現れるかもしれない。
戦後の「不思議」を考え抜くことなしに、日本の政治が変わるとはとても思えない。 貧骨
2017/10/16
路傍のカナリア35
相対的ということは人間を楽にさせるという真実
まだ知識欲が枯れていない頃、アインシュタインが唱えた「相対性理論」とはどんなものだろうかと初歩の入門書に挑戦してみた。サルでもわかる、これでわからなければタヌキ以下、そんな副題だと記憶しているが、今ではほとんど忘れているから、まあタヌキ並みの理解だったのだろう。ただそのとき「相対的」というのは人間にはとても大切なことだということだけはお腹の中にストンと落ちた。
これもあれば、あれもある。というのが相対的ということだが、絶対的なものを求めてやまないのが人間で、その結果は悲劇が起きがちである。
敬虔なキリスト教徒がその信仰を深めていけばいくほど、つまりキリスト教の絶対化に突き進めば異教は人を惑わす邪教になるのは必定で、その逆にイスラム教徒から見ればキリスト教こそ排除されるべき宗教ということで、千年も二千年も争いが続いてしまうのである。そこで「キリスト教もいいけどイスラム教も仏教もいいね」なんていうちょっといい加減なキリスト教徒のほうが争いは起こらないことになるが、それはそれで変な話なのである。宗教の争いというのは絶対化同志の戦いだけに根が深いのであるが、どこかで相手を許容する視点が教義のなかに繰り込まれないと平和は永遠に訪れないであろう。
政治の世界でも同様で、共産党以外はこの国では認めない、となるとどう考えても窮屈でしょうがない。反対の奴は思想教育が十分でないのだから再教育の施設に入れてしまおうというのは、権力の自己絶対化の象徴に他ならない。議会制民主主義が優れているのは、あれもある、これもあるという仕組みが確立されているからである。各政党は当然自己絶対化を志向していながらも国全体としては相対的な政治になっているのである。だから我々はどれにするかという選択肢を持てるのである。国中が熱狂に包まれて一つの主義しか認めなくなるというのは、人の本性とはそぐわないのであるから、長続きしないのである。
ビジネスの世界でも成功した人が得々と自己体験を語るけれども、それも一つのやり方で他のやり方もあるのだという自己内省力に乏しいと嫌味な自慢話に落ちてしまう。こうして自分はトツプ営業マンになったという話も同じで、だからお前も同じようにやれというと、自己絶対化のストーリーになってしまう。
子どもの教育にしても、エリートになることこそが人生の幸福であると親が思い込むと、それ以外は脱落者だから、子供はどんどん追い込まれる。ごく普通のサラリーマンで一生終わるのも悪くないし、貧乏だが自由人のように生きるのも幸福のあり方であるというふうに考えていれば子供はかえつてのびのびと才能を伸ばすものである。ま、本当に親がそう思っていないと子供に見抜かれてしまうのであるが。
今話題になっている不倫にしたって、一夫一婦制自体が絶対的に相互を縛るからややこしくなるので、もう少し夫婦の関係に相対性の視点を入れれば、離婚するしないの修羅場には一足飛びにはいかないであろう。
こうみてくると「相対的」というのは実にいいことづくめのように見えるが、ちょっとした難問が控えている。
「相対的というのは大切な考えである」という命題自体が絶対化してしまうという矛盾をまとうからである。この難問をきちんと解けるかどうか、解けて初めて話は完結するのだが、私の頭では解の方向性が見えているだけである。いつかきちんと解いてみたいと考えている。 貧骨
2017/10/16
路傍のカナリア 34
日本人は「総括」が嫌い
「なあなあ」と「まあまあ」の粘着力
日本人の気質には何事によらず物事を丸く収め、白と黒をはっきりさせないでおこうとするところがある。そのことで人と人の関係はぎすぎすせず、円滑にすすむのだからある意味美徳に類することかもしれない。
いまでも覚えている若い頃の苦い体験だが、商店会のイベントの反省会なるものがあった。学生上がりだったこともあって「反省会」というのはイベントの問題点を議論して次につなげる場だと思っていたから、あれやこれや発言したら、嫌な顔をされた。要するにイベントが終わったから一杯やりましょう。親睦を深めましょうという趣旨の会であった。いまでは要領を心得ているからただ飲んでくるだけだが、ではきちんと場と時間を改めて反省会をやっているかというとそういう事は全くないのである。
これに似たことはいやというほどぶつかっているから分かるが、要するに「総括」のような問題点をはっきりさせる議論は受け付けないのである。
商店街に象徴される社会の基底から大企業の株主総会、政党、経済団体の会議など、この国の隅々まで空気のように行き渡っている気質はその裏面に「なあなあ」「まあまあ」のべたっとした粘着力のある人間関係がかくれている。その中に浸ってしまうと何か事が興って責任ということになっても、人間関係の方が優先され、つまるところ全体責任は無責任の例え通り、誰が責任者か曖昧模糊となってしまう。
東芝の粉飾決算にしても、福島原発の東電幹部の責任についても、誰かという特定人物が出てこないのである。
自分を引き立ててくれた社長なり先輩なりをそこに責任の所在があるに、面と向かって批判できないメンタリティこそが日本人なのだろう。 義理と人情と一口にいうが、義理に縛られても筋は筋という人間は嫌われるのである。人間の関係が乾いていない。「お互い様」といい「持ちつ持たれつ」という幾重にも重ねられた分厚いしがらみの束の中で「まあまあ」と「なあなあ」は日本人をしっかり捉えているし、又それを良しとしているのである。加えて自己総括を突き詰めないから事態は相変わらずのままなのである。
アメリカで起きたスリーマイル島の原発事故の報告書をみれば、その総括がいかに徹底したものかはよく分かる。だから一歩、前に物事が進むのである。
この日本人の気質はどこからくるのだろうか。和辻哲郎の「風土」でも読めばいささかのヒントが隠れているかもしれないが、私なりの独断でいえば、島国の中で生きていくための知恵の積み重ねだと思える。四方を海で囲まれ逃げ場のない中でお互いが平穏に生きていくためには、挨拶を大事にし、言いたいことも遠回しに、些細なことはまあまあですませ、筋論も「堅いこと」で封じ込め、ともかくも付き合いが破綻しないことが最優先にならざるを得ない。そうやって日本人は生きてきたという事だろう。良し悪しは別である。
ただ、この日本人の気質を足元深く思想的に掘り下げていかない限り、この国は変わらない。民族の命運を左右するほどの原発事故は、ふたたび起き得るだろうし、企業の命運を左右するほどの不祥事も起き得るのである。 貧骨
2017/10/16
路傍のカナリア 33
音楽の力とAI(人工知能)がクロスするとき、悪魔の楽曲が生まれるか。
人と人は争う。国と国という形でも、民族と民族という形でも、あるいは宗教の違いからでも争う。争いは必ず双方に憎しみを残す。憎しみは語り継がれて人の心の奥に沈殿する。
表向きの和解は成しえても相互の侮蔑や不信の負の感情はいつまでも消えない。消えないけれども人は日常の一切を「無」にしてしまう次元へ心を飛躍させることはできる。
芸術が作り上げる世界というのはそういうものであろうが、とりわけ「音楽」は、この世界の様々な垣根を越えて、たちどころに人々を陶酔させ一体化させる力がある。このことは、あまりにも当たり前の事なので論ずるに値しないように見えるが、けっして侮れない事である。
坂本九の「上を向いて歩こう」が全米で大ヒットしたのは1963年である。太平洋戦争で戦った人達が存命で、日本人に対する敵意も当然ながら残っていた当時のアメリカを考えれば、この曲のヒットは音楽の力を見事に示したといっても過言ではない。ましてこの曲は「SUKIYAKI」という日本を象徴する題名でリリースされたことを思えばなおさらのことである。音楽が人々に浸透するときその寄って来たる所、誰が創ったか、その出自は関係がない。日本でも韓国のアーティストのコンサートが盛り上がっているのも、結局のところ楽曲が有無を言わさずに人の心をとらえるからに他ならない。
人と音楽の関係性が本当のところどんなふうに絡み合っているかは分からないが、すくなくとも音楽が一瞬のうちに人々を陶酔させたり、癒したり、勇気づけたりするパワーを持ち合わせていることは間違いがない。
そこで人工知能、AIの話である。AIの活躍の場はいま飛躍的に伸びているが、そればかりかAIそれ自体の能力も進化している。将棋の名人がAIに連敗した報道の中で、将棋AIをプログラムした作者自身は、AIがどうしてこのような指し手を指すのか自分の理解力を越えていると驚いている。AIの結論にAIの製作者がついていけていない、いわばAIの人間からの自立がはじまりつつあるということだろう。これは紛れもない現実である。ならば膨大な教師データをAIに読み込ませて、大多数の人を虜にしてしまうような音楽を作らせたらどうなるのだろうか。この音楽が流れると人は皆浮足立って興奮状態に陥り、誰もが歌いだしたり、踊りだしたりしてしまう。
当初はヒット曲を作るためにプログラミングしたつもりが、作者の意図以上のものが作り出され、さらにはAI自体がこの音楽を媒介にして人間自身を支配するようになることも空想とは言い切れない。音楽の力を逆手に取れば、近未来にはありうる話である。それは悪魔の音楽かもしれないが、人と人が争うがゆえに生まれた憎悪や不信を洗い流してしまうほどの救済の音楽かもしれない。
AIと人間の新しい生活はすでに始まっている。人間がAIを道具として使いこなせるか、それともAIが人間を支配してしまうのか、そのつばぜり合いも始まっているとみるのが妥当であろう。怖ろしい時代の開幕のベルが聞こえる。 貧骨
2017/10/16
路傍のカナリア32
象徴天皇制の意味
天皇は祈っていればいいか
現憲法が定めている象徴としての天皇というのは、論ずるにはちょっとどうしようもないなという感じがしますね。政治的に中立というよりも政治を超越したところに天皇という地位があって、右にも左にも少しでも動かしたら大論争が勃発しそうです。まあ絶妙な在り様という事でしょう。だから客観的に制度としてみたら天皇というのは象徴ですから、「生きた置物」の如きものになるわけで、公務が大変なら宮中祭祀に専念して「祈っていればいい」という論は当然出てくるわけです。それは学者の論としてだけではなく、為政者もまあ本音ではさほど変わらないと思いますね。日々つつがなく過ごしてくれていればいいと。
我々のような一生活人から見ても、天皇含め皇室というのは「遠い存在」でその在り様というのは日々の中では問題意識に上がってこないから、まあどうでもいいねという感じなのだけれども、それは別の角度から見ると天皇が必要とされるような事態に戦後我々が直面しなかったからという言い方もできるわけです。
あの3.11の大災難が起きた時に、頭をよぎったのはもし偶然が重なって関東一円が放射能に汚染され、結果たとえば多くの日本人が海外に避難せざるを得なくなったら当然のことながら日本人の難民キャンプが世界のあちこちで生まれたということです。それは絵空事ではなくほんとうにあの時ありえたもう一つの現実でした。流浪の民になる可能性はあったわけです。ではその四散した日本人をまとめていく精神的な支柱は何かと言えば、たぶん天皇じゃないかと思いますね。でももし天皇が日頃から宮中からほとんど出ずに、本当に「祈っているだけであったら」多くの日本人の精神的な柱には実質的になりえないんじゃないか。もちろんそうした日本自体の一大事が起きないことが一番いいのだけれども、やっぱりその辺まで考えてみると、象徴としての天皇というのはそう形式的な論ではない深い意味があろうかと思います。地震や原発事故に限らず国論が二分し日本人同士が相争うという事態が今後起きないとも限らない。あるいは外国人居住者が増えて日本人の自己証明が曖昧になってくるかもしれない。
そうした場合に天皇の重みというのははっきりするのではないか。平成天皇が、高齢にもかかわらず被災地を慰問したり東南アジアの慰霊の旅を繰り返しているのは、国民の大変さに日常的に寄り添っていくことで、象徴としての天皇に魂を吹き込むという、そういう意思があっての事じゃないだろうか。だから天皇が退位という選択にこだわったのは、公務を縮小して天皇の位置に留まることが象徴としての天皇の自己否定につながると考えた結果だと理解できます。それは昭和天皇の晩年とは一線を画しているわけで、即位から象徴天皇としての位置にあった平成天皇は、日本とは何か、日本人とは何か、そういうことを突き詰めて考え抜いて到達した判断のように思えます。
退位をめぐる「有識者会議」でどのような議論がなされたのかははっきりしないけれども平成天皇の退位の意思は象徴の意味について一石を投じたことだけは間違いないでしょう。
貧骨
2017/05/12
路傍のカナリア31
誰も指摘しないアメリカの傲慢
それはメディアの死相
昨年まで朝鮮半島に格段の危機はなかつた。北朝鮮が核実験を行おうが、ミサイルを発射しようが、関係各国が非難声明を出して、そのあとに双方のいくらかの応酬があってお仕舞であった。この「平和な関係」を俺は認めない、断固とした態度をとる、すべての選択肢があるといきなり言い出したのがトランプアメリカ大統領である。核兵器開発に関わる北朝鮮の行動を今にでも止めなければ、アメリカの安全保障に大いなる危機が生ずるというのが氏の理屈である。氏のこの状況判断発言を起点として朝鮮半島にあたかも米中日韓露まで巻き込んだ軍事衝突が生まれるがごとき「危機幻想」が生まれたのである。空母から原子力潜水艦まで道具立てを用意したアメリカの「先制攻撃芝居」は、もちろんお芝居であってそれ以上ではないことは、全体を少し冷静に見ればすぐ見抜けることである。
そもそもアメリカを本当におびやかす程のミサイル技術も核弾頭の搭載技術も確保していないこの時点で、またそこまで行くにはまだ数年かかると言われている今、なぜそれほどまでにして「北」に圧力を掛けねばならないのか、先制攻撃も辞さないというのは圧力とはいえ穏やかではない。さほどの切羽詰まったものなら当然オバマ政権でも対応策はあっただろうが、事実上黙認していたのは、それほどではないからに他ならない。どう考えてもアメリカの危機というのは説得力に欠ける。むしろ意のままにならない者は力ずくでもねじ伏せんとし、そのためには言いがかりに近いような論法を平気で振り回す、大国権力者の独善と支配欲が半島危機の真実に近い。
一方で5月初めにはアメリカはICBMの発射実験を二度も行っている。核兵器大量保有国がICBMの発射実験をする方が他国にははるかに危機であることは明々白々の事実であるが、それでも「北」が同じ実験を成功させたら攻め滅ぼすというのは、むき出しの「傲慢」というしかない。これほどのエゴイズムがあるだろうか。
国際条約がどうなっているのかその方面に私は昏いが、路傍の片隅で普通に考えればトランプアメリカの在り様には反吐が出るような嫌悪感がある。ロシアのクリミヤ介入も中国の海洋進出支配もむき出しの大国エゴに見えるが、それでもオバマアメリカの無言の自制には大国の理性と力の平衡感が感じられていくらかの救いを感じたものだ。
日本のメディアの論調は、米朝の緊迫とその後に起きる事態への言及ばかりが目立ち、この危機が「北朝鮮」の側に一方的にあるかのような指摘が圧倒的だが、事の経緯を追ってみればそう単純でないことは明らかである。いやそもそも現実的な危機など存在しないといっても過言ではない。が、まるでタブーのように誰も触れない。
東京五輪のエムブレム盗用疑惑の時もそうだったが、こうだと決めつけると報道がそれ一色になることはおそろしいことである。日本の情報空間を覆ってしまうこの同調圧力とそれに歩調を合わせる評論家諸氏の姿勢は、メディア本来の批判的精神とは対極にあるといわねばならぬ。時の権力とも大いなる世論の流れとも対峙して物事をつねに相対化させ、熱狂を鎮静化させる役割を放棄すれば、それはメディアの死相ではないか。
「王様は裸だ」と叫んだ少年は、その後どうなったのだろうか。行方知らずか、獄舎につながれたか、その場で切り殺されたか わからない。ただ彼には平穏な生活が約束されなかったことだけは確かである。その立ち位置こそメディアの良心であると指摘しておきたい。 貧骨
2017/04/14
路傍のカナリア30
世相雑感
安倍家内閣のお粗末
当事者たちが真剣に振る舞えば振る舞うほど、他人からは「滑稽」に見えてしまうという場面はあるのだが、今の森友学園を巡る騒動こそまさにその典型と言っていい。
首相夫人の奔放ともいうべき言動に政治が振り回されているなどは、馬鹿馬鹿しさの極みである。政治スキャンダルはいろいろ見聞きしてきたがこういう形での政治の劣化は初めてである。夫人の尻拭いやら弁明に政権党の幹部や閣僚までが額に汗をかきかき労を重ねているけれども、たぶん本音では「安倍さん、首相の在任中くらい嫁さんをおとなしくさせられないのか」と思っているはずである。私なら横っ面の一つや二つ張り飛ばすけれども、旦那(安倍)はひたすら予算委員会で夫人を庇っている。
言うまでもなく政治に足を突っ込むというのは地方政治、中央政治を問わず死神と添い寝をするがごとき所業である。最高権力者ならその政治力は絶大で政敵を微罪で葬り去ることなど実に簡単な事である。また一方で天変地異を含め事変への一瞬の判断が国民の生命と直結していることも明白な真実である。その権力の切れ味は魔力の如きものでそれであるがゆえに首相という地位の周りに人は自然と集まってくるのである。ではその夫人はというと、本人の意思などと関係なく首相の権力の威光の中で位置づけられていて、それ故に夫人というのは旦那と一蓮托生なのである。公人か私人かというどうでもいい議論以前に「私は私、主人は主人」などいう家庭内戦後民主主義は通用しないのが政治の掟といってもいい。今回の安倍夫人の在り様というのがその辺の全くの無理解から生じていることは明白である。安倍首相夫人であるからこそ惹きつけられるように集まってくる有象無象の連中とどう距離を取りながらさばいていくか、その問題意識の欠落こそが今回の夫人問題の本質と言っていい。権力というものに少しでも触れてみたい、近づいてみたい、ひょっとしたら一儲けできるかもしれない、その取り巻きの甘言に舞い上がっているとしか思えない。見かねて安倍家のお姑さんが夫人を叱り飛ばしたらしいが、この話を聞いたときやっと我々の常識に出会ったように感じてほっとしたことを覚えている。それにしてもゴッドマーザーまでご登場とは、これではもう「安倍内閣」というより「安倍家内閣」の方がふさわしい。
一連の顛末のなかで安倍氏は物わかりのいい亭主を演じている。これがいまどきの夫婦のあり方かもしれないが亭主の威厳の無いことこの上もない。女性が男性と対等かそれ以上に扱われ、自己主張することはごく当たり前に受け取られているが、男が作る世界観と女性が作る世界観とは決して交わらないところがある。政治の世界にそのあたりのチグハグが無防備に持ち込まれると、国の歯車は乱れはじめるのである。
「女子と小人は養い難し」といい「牝鶏の晨するは国滅ぶ」というが、このことわざは今でも生きているのである。 貧骨
Cosmoloop.22K@nifty.com