路傍のカナリア

2021/01/15
路傍のカナリア 173

「泣かないで〜あの人はお前に似合わない」
(中島みゆき「あばよ」)

 女性の観察力は鋭い。男は踊っているうちに丸裸にされているから浮気は大概ばれる。女性の側は頃合いを見計らってズバリと核心に迫る。言い抜けは難しい。それでも風俗の姉ちゃんと一晩二晩過ごしたとか、店の女の子と食事デート程度なら、「次はないからね」と釘を刺されてごつごつした日々を送るうちにまあなんとか収まるのである。
亀のように手足も首も引っ込めてじっとしているに限る。突っつかれて痛い目に合う程度は致し方がない。
これがお互い深い仲になって戻れない川を渡るがごとき道行きになると、 それなりの覚悟を要するのだが、男というものはそのあたりが結構いい加減なのである。進退窮まる修羅場にぶっかって初めて事の重大さにオタオタする。女性というのはそのあたりを心得て いて度胸が据わっている。「女は度胸、男は小心」は男女のもつれについてはその通りである。
 あの会見の時、東出昌大はなぜ唐田えりかを庇うような発言もせず妻杏のところへ戻ろうとしたのか、川を渡ってしまったのになんとも往生際が悪いのである。あれでは誰も ハッピーにはなれないだろうと思ったが、その通りの展開になってしまった。 仮に昌大が頭を下げて杏との元の生活に戻ったとしても、そこには自己の潔白証明と妻の疑心暗鬼が常にせめぎあう殺伐とした風景が見えているだけである。
 芸能界の色恋沙汰など日常茶飯であろう。朝に始まり、夕べに終わる恋物語は驚くことでもなく、東出夫妻の話題もその程度の話の一つに過ぎないと言えばそうなのだが、だからといって人が人を愛することも軽薄なものかというとそこは違うだろうと思える。
愛には対象を我が物にする「奪う愛のエロス」と一身を捨てても他者に「尽くすアガペー」があると学生時代に読んだ本に書いてあったが、どちらにしても愛というのは一途で純粋なものである。芸能界の男女の関係が世間的な感覚から言えば乱脈で性欲まみれの薄汚い渦のように見えるにしても、またそれが真実の一部であったとしても、 その世界から美しい、あるいは悲しい恋愛の楽曲が生み出されているというのも真実である。男女の混沌とした芸能の世界にあっても、誰もがまっとうな愛に飢えているのである。不倫も貫徹すれば愛の証明になる。
 「この世の名残世の名残手に手を取って昌大えりかの逃避行」の美学は幻であった。  メディアのバッシングの中で唐田えりかは沈黙を通した。謝罪を含め何一つコメントしていない。いっとき行方知らずになったが、今はまた復帰に向けて準備していると報道されている。妻子ある東出との3年にもわたる逢瀬を彼女がどう受け止め、どう先行きを見て いたかはわからないが、処世の計算と快楽への惑溺だけがあったとみるのは意地悪に過ぎるであろう。むしろ「えりかの沈黙」に東出への真摯な愛情と土壇場の背信への非難を見るほうが正解に近いと思える。
 東出も杏もえりかも、既に一区切りをつけて新生活を始めているようにみえる。この不倫騒動も既に鮮度はなくなっている。が、えりかの時間はあそこから動いているだろうか。あの時えりかの祖父が語ったコメントがとても印象深いものであった。「かわいそうに、一人だけ悪者にされて、(東出を)好きだったろうに」。
 唐田えりかの恋心は注目されることもなく置き去りにされたままである。この拙いコラムを書いたのはいささかなりとも彼女の心情を掬いあげてみたいと思ったからである。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com

2020/12/14
■ 路傍のカナリア 172

虚飾のブランド 巨人軍の敗北

 2020年のプロ野球日本シリーズは圧倒的な力を見せつけたソフトバンクが勝利した。巨人軍は敗れた。「敗れた」この表現はたぶん適当ではない。「粉砕された」見ている限り誰もが感じたのはこの感覚だろう。
パ・リーグの覇者とセ・リーグの覇者が戦って素人目にも明らかなほどの実力差が見える 試合ほどお粗末なものはない。素人目にわかるというのは幕下の力士と横綱が相撲を取るようなもので、勝負の綾など微塵も見えない彼我の力量差のことである。シリーズ後、原監督は「何が足りなかったか頭を整理してみる」という談話を残した。足りなかった? 何が? まるでどこか部品が足りなかったのようなニュアンスである。打撃力か 投手力か 守備力か 分析の思考は確かにパーツにたどり着く。けれども違う。足りないのではない、欠落しているのだ。 「強いチーム」とはいかなるものかという思想そのものが。  
野球人にとって巨人軍は今でもあこがれの球団である。伝統あるジャイアンツのユニフォームに袖を通すことは無上の喜びでもあるだろう。ブルガリやヴィトンやエルメスと同じ様に巨人軍はプロ野球界のスーパーブランドなのである。
スーパーブランドは消費者に夢を売るために莫大の金をイメージの維持創出に投資をする。まるで虚飾の商売に見えるが、そうではない。提供している時計もジュエリーもバッグもその他もろもろの雑貨にしても、その品質は銘にふさわしい一級品である。その実質があってのスーパーブランドなのである。 消費者の信頼をそこで裏切らない。巨人はどうだ。日本一の練習量があるか、巨人の選手ならどの球団でも通用するという話題はあるか、2軍の練習設備はどの球団も追いつけないほど充実し、他球団の模範になるほどか、スカウ ト網なら選手の素質を見抜く目は群を抜いているか、データ分析に至っては 最先端を行き他球団の追随を許さないか、若手の芽を伸ばすコーチの育成力は日本一か、チームの強さとは、この勝敗を裏から支える種々の総合力に他ならない。何年もかけて積み上げたもの である。それがブランドのブランド足る核心である。
「負けて強し」と感じさせるものである。そこを欠けばブランドは人気だけの虚飾にまみれる。そして本当に巨人は粉砕された。もしも原監督を含め首脳陣に、シリーズは確かに敗れたが、気持ちを切り替えて来シーズンに臨もうという平凡な考えがあったとしたら学習能力のない鈍感である。昨年の日本シリーズ4連敗総括の文言として通用しても、更なる4連敗の今、ただ前に進めば事は成ると思うなら来期も危うい。  
ソフトバンクと巨人軍の戦いは「強さとは何か」という思想の戦いである。思想の敗北は思想の変革によってしか償われない。「常勝巨人」の旗は「強者巨人」を意味しない。そこが分かるかどうか、巨人の歴史的分岐点である。  
今年、我々はコロナとの戦いに明け暮れた。厳しい戦いだが負けてはいない。粉砕もされなかった。誰もが我慢し、自制し、社会は秩序を保った。モノの豊かさだけではない、しっかりとした強さが根を張っていたのである。これはいまある我々の力だけではない、先祖からの累々と積み上げられてきた力である。縄文から弥生へ、飛鳥から奈良平安へ、そして徳川明治を経て現在へと連綿と続いてきた無名の人々の営みが作り上げた社会が、強靭なのである。
コロナとの戦いに勝利したわけで はないけれど、少しだけ誇らしく胸を 張ってもいいだろう。              貧骨   cosmoloop.22k@nifty.com

2020/11/13
■ 路傍のカナリア No171

異空間への思索

 2014年3月8日未明マレーシアのクアラルンプールから北京へ向かって飛び立ったML370便は離陸から40分後消息を絶った。乗客239人を乗せたまま。その後墜落を想定した捜索活動にもかかわらず、機体の残骸、乗客の荷物などは当時も現在も発見されていない。要するに大空に消えたのである。この事件(事故)の報道に接して旅客機はまず発見されないだろうと確信に近い勘が働いたが、それはあの「バミューダ、魔の三角地帯」で発生した数々の事件と瓜二つだからである。代表的な事例を挙げてみる。
 1945年12月5日午後、フォート.ローダデール基地を離陸した5機の海軍機は搭乗員計14名を乗せて爆撃訓練を行った後の帰投中にただならぬ事態が起こったことを知らせる無電とともに消息を絶った。さらに当日午後4時双発エンジンのマーティン.マリーナ飛行艇が、13名の乗員を乗せて、救助に飛び立ったが、離陸数分後に管制塔に連絡を入れたのを最後に同様に消えてしまったのである。
当日は理想的な飛行日和で、加えてパイロットも乗員もベテラン揃いで、異常事態が起きそうなリスクはほとんどなかったという。もちろん捜索活動は行われた。航空機240機、駆逐艦4隻、潜水艦数隻、沿岸警備艇、調査艇、救助艇多数、その他もろもろ、未曽有の規模にもかかわらず、手掛かりは何一つ発見されなかった。
バミューダ地域の不明事例は、一説には航空機だけで200機近いと言 われているから、偶発的な現象ではない。それらと同様のことがML370便に起きたのである。が、指摘しておくべき相違点がある。1945年当時に比べて現在の情報網は格段と進歩、緻密化さ れ、航空機の位置情報などリアルタイムで把握できる時代である。人工衛星は地上の人の 動きすら解析できるほどの精度である。 網の目の情報監視システムの中で旅客機という大型のモノが消えたのである。この厳然たる事実が、バミューダの事例の真実性を逆証明している。
 バミューダの周辺で数多の航空機が原因不明の墜落事故を起こしたのではない。蹴り飛ばしたサッカボールが空中で消える、ハイウェイで前方を走行する自動車が消える、探してもどこにも見当たらない。そういうことである。
 どこへ消えたか、物体がいきなり消えることは物理的にあり得ないから、突き進んだまま異空間へ入り込んだと考えることは誰でも普通に思いつく。「異空間」、それは荒唐無稽の空想科学のシロモノだろうか。いやそもそも「空間」とはなにか−、この手に取ることもできない、目にすることもできない、重さも感じ取れない、我々の認識次元の枠組みでしかない空間をどう考えればいいのか。しかし空間は強力な重力によって歪むということは物理学によって証明されている。それなら空間は人間の認識の枠組みであると同時に「客体的なあるもの」なのか。「あるもの」ならそこに歪みと同時に裂け目の可能性も考え ていいはずである。いやそもそも「空間」にはいかなる性質があるのか、歪む、膨張する、収縮する、そんなことが地球上で起きたならどのような現象が生じるのか。「空間学」をネットで検索しても出てこない。たぶん「空間」は思索されていない。
 われわれの生活空間の言わば裏側にもう一つの空間があるというのは興味深い仮説であるが考えていくための道筋は見えない。見えないからオカルト風の謎物語に矮小化され、事件は風化する。
 けれども異空間の存在可能性は自然科学の学問体系自体の拠って立つ根本を揺さぶる。我々人類の認識の根本を揺さぶる。ML370便不明事件は大きな難問である。いやひょっとしたら道志村の女児不明事件も、、、、。            
【参考書】「謎のバミューダ海域」完全版 チャールズ.バーリッツ著 南山宏訳
貧骨     cosmoloop.22k@nifty.com
2020/10/15
■ 路傍のカナリア 170

純粋男性と純粋女性

 我々が出会うこの世の中の事象というものは、大概は理解できるもので自分の漠とした世界観が揺さぶられることはない。フランス現代思想にしても量子力学にしてもあるいは生命科学にしても難解で自分には歯が立たないが、 解説本を頼りにすればある程度の輪 郭はつかめるものだし、知識の上乗せにはなるがそれだけのことである。
 「性同一性障害」を知った時の驚きは、それとは全く別物の衝撃で今でもこの事象の前で立ちすくんでいる。私が男であるという自己認識と肉体としての男性であることは紙の裏表のごとき一体のもので当然の事象だと漠然と思っていたがそうではなかった。意識は意識、肉体は肉体でその二つが一 枚の紙のごとくぴたりと重ねあわされていたということだ。存在は意識を規定するという命題に沿えば男性の肉体 が男性であるという意識を生み出すという理解になるが、これでは性同一性障害は理解できない。
胎児の成長の過程での自意識の発達に何事かの障害が生まれたのか。自意識と肉体の関 係性そのものが問われている事象である。性同一性障害があるならばもしかして類同一性障害もあるのか。自分の意識は狐であるのに肉体は人間であることに強い違和感を感じ狐になり切りたいと悩むという類の症例である。想像は膨らむ。
 推論だが。 肉体の性は現実のものとし てそこにあるが 、それと正反対の自意識が人に生まれるとしてその意識は100% 真逆なのか。 男性であるという意識を有しながら肉体は女性の場合、その男性であるという意識は混じりけのない男性の意識なのかそれとも自意識は確かに男性なのだが20%程度は女性の意識があるが、顕在意識に上がってこない混在型の同一性障害はあるのかないのか。例えばホモセクシュアルやレズビアンの同性愛者は自意識と肉体の性的同一性は保たれているが、同性 への嗜好がある。それは性同一性障害の変異と考えると一応の筋は通る。性の意識に反対性が過剰に組み込まれているという理解である。戦国大名や徳川将軍の中には若い小姓を性の対象としたという逸話があるが、それは 決して不自然なことではなく、我々もまた男性の意識、女性の意識を持ちながら幾分か反対性を有しているかもしれ ない。
 最近「男性脳」「女性脳」が話題に なっている。男性と女性では同じ問題を解くにしても脳の使う部位が違うという話である。もしもそのことが事実だとしても、性同一性障害があるなら胎児の発達過程で脳のクロッシングもありうるだろう。男性に女性脳が女性に男性脳が組み込まれているということである。理系女子などは男性脳をもった女性、文学に卓越した男子は女性脳の男性かもしれない。ただ性同一性障害のような病的異常感に苛まれてはいないが。
 男性と女性を肉体的な差異で区分すればシンプルで分かりやすいが、自意識の問題、脳の問題、性的趣向の問題を視野に入れながら考えていくと逆に純粋男性、純粋女性のほうが少数者かもしれない(以前南アフリカの陸 上の選手が女性か男性か判然としないニュースがあったが肉体的差異さえ あいまいな事例がある)。
 性的少数者への関心はからかいを含めた不真面目なものが多いが、男と女の性の境目を考える上では蔑ろにできない問題を含んでいる。AとBは反対概念だとしてもその中間のAとBの混在する中間者こそ生命の領域では多数派ではないのか。
 性同一性障害は胎児の成長の過程で起きる障害と理解しているが、妊娠から誕生までの人間の歩みはたとえ10か月とはいえ生命の歴史を再現する過程といい実に濃密で波乱飛んだ人生だと思える。生まれ落ちてから歩む100年に近い人生と釣り合うほどの重さを感じるのである。               貧骨  cosmoloop.22k@nifty.com
2020/09/15
路傍のカナリア 169

組織の力学と人の可能性

 会社組織というものには必ずひとつの力が働いている。トップあるいは上層部の方針を組織の隅々、末端まで浸透させようとする力である。
それは目に見える具体的な方法としてパワハラまがいの剛の力の場合もあれば、研修、教育というソフトな場合もあるが、力の方向性という点では同じことである。この力の作用は組織の大小を問わない普遍的なものである。
私自身一店舗の店長の立場で長年やってきたが、自分の考えがスタツフ全員にきちんと伝わり理解され、その通りにスタツフが動いているかというと理想通りに行かないことが多い。
どうしてそうなのかということは別にして、その方針の不徹底さに常に苛立ち、腹立たしい思いをしている。私に限らずこのトップのいらだちのエネルギーこそが組織に働く力の源であって常に徹底させようというベクトルは強力である。  
強力なばかりではなく、日々間断なくまるで電気のように組織の中をながれているのであって、かつ方針に不満を持つ者、能力的に適応できない者を極力排除するように作用している。
結果、組織の中の大半の人間はトップの方針に従順になり、異を唱えるにしても方針の枠の中での提起にとどまっていくのである。 それは人間というのが可塑的なものであっていくらでも集団の力によって 変容し組織が唱えるイデオロギーに染まっていく存在である ということの表現でもある。
それゆえに世の中の環境と方針がかみ合うなら組織の持つ一枚岩の団結力は大変な力を発揮するのだが、その逆に方針自体が環境の変化とずれていたり、「不合理な」というべき内容を無理に押し通そうとすれば当然のことながら組織自体がゆがむのである。組織の中で訓練された人々は長い間に方針自体に異議を唱えるよりも何としてもその目的を達成するために盲目的に突き進んでしまうのである。常に疑問を持ち自らの頭で考える人は煙たがられるのである。  
いま世の中を騒がしているかんぽ生命の大規模な不正行為は組織力学の典型的な事例だと言っていい。かんぽ生命にだけ不心得な社員が多く在籍し ているわけではない。そうなってしまう力学、その裏返しの人の可塑性がもたらしたものである。
だから組織のトップ、上層部というものは第一線で働く現場の声、あるいは世の中の変化の内実をくみ上げていく情報ルートを意識的に組織の中に構築しておかねばならない。この情報をくみ上げて精度の高い情報処理を行い、それを常々自らの戦略、方針、指示と照らしながら自己修正をしていくことが健全で効率のいいマネジメントを行う必須の事項なのである。  
こういうと実に常識的な話なのだが、得てしてトップとか上層部というも のは業績が悪くなると、それは自分の方針が末端まで徹底してないからだと考えがちである。結果、組織自体が冷静な自己分析を顧みずに暴走してしまうのである。それは方針を徹底させようとする上から下への力に比べて情報を上に挙げていく力がはるかに弱いからに他ならない。  お客様の声も営業現場第一線の声もくみあげてもどこか途中でうやむやになってせいぜいクレーム処理程度に扱われているのが現実である。  
米国の生産力と自国のそれを比べた資料を目の当たりにすれば、どう考えても勝てるはずのない戦争だったにもかかわらず、精神力頼みの対米戦争に突 入した旧日本軍エリートたちの情報処理能力の劣悪さはその典型である。上意下達に組み上げられた組織は、会社組織に限らず暴走のリスクに無防備なのである。  
さかさまに考えれば、強い組織、優秀な組織というものは外部環境の情報分析力を内在し、かつそれを組織内部に伝達し、適宜対応できるだけの柔軟性を保持しているものということになろう。このことは、議論を好まず一致団結が大好きで安易に同調圧力に屈してしまう日本人的感性には実に難しい課題でもある。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com
2020/08/14
路傍のカナリア 168

物事の「流れ」について考える

 勝負事においては勝利に向かう流れをつかむか否かが大事であることは言うまでもない。もしも不利な状況に立ち至ったならば、自分の側に「流れ」を引き寄せるための仕掛けをしなければならないし、優位に立ったならばそのままの「流れ」を相手に渡さないように手を尽くさねばならない。
例えばプロ野球の日本シリーズのごとき大勝負では一球の配球、ワンプレーの失策で手中の勝利を取り逃がしたりすると、シリーズ全体の流れまで変わってしまうことがあるか ら、プレーヤーは身を削るほどの緊張感と集中力を強いられるのである。
そしてそのプレッシャーがまた美技や失策を生むし、また生ませるように監督は策を施すのである。観戦している側として も。そのあたりを心得ている人は勝ち負け以上に試合を深く楽しむ目を持っているということになろう。
麻雀もパチンコも野球観戦も所詮娯楽なのだが、汲むべき哲学は存在しているのである。  だから勝負事は実力が第一とはいえ、それだけで事が決するわけでなく、流れの読み方と策の立て方ひとつで勝ち負けは二転三転する。
このことは勝負特有のことかというとそれは違う。事の成否には必ずと言っていいほど流れがあり、ただ勝負事ではそれが誰にもわかるくらいに凝縮した形で現れているにすぎない。「流れ」に着目している人 はビジネスにおいても日常全般においても判断基準の中にそのことを忍ばせておくのである。大口の契約を進める場合、高価な商品を仕入れる場合、私的には住宅をどのタイミングで購入するか思案する場合、子供の進学を決める場合などなどそれはさまざまである。
お客が商品を購入するにあたって通常以上の値引きを希望してきた場合断るも一法承諾も一法なのだが、店全体の売上の流れを勘案しながら、好調なら断っても差し支えないと思うし不調なら売上をまずは立てることで更なるお客を呼び込んでくるかもしれないと 判断して値引きを承諾するかもしれない。
それはマニュアル的規範の正反対にあるものだから、ワンマン経営者にしか通用しないのであるが、もともと商売というのはこういうことの積み重ねで成長していくともいえるのである。
が、厄介なことに「事の流れなるものは人の目に見えないものであるがゆえに、勝負事にとんと無関心な人や目の前の成果にのみにとらわれて一喜一憂 している人、頭がよくて数字には強いがそれにとらわれすぎている部下などには全くもって理解不能なことなのである。それゆえに方針をめぐって現場においては軋轢が生じることがしばしば起きる。  けれども 「流れ」に無頓着で力づくで事をなすのはもともと無理な仕業なのであって、経 営者というものは、日々の現場だけではなく、世界を、時代を、業界を、消費を俯瞰してそこにどのような流れが起きていて、それに自社はどう対処していくかということを常に考えるのが役目だと言える。そのいわば知的訓練を放棄してしまえば、あるいは流れを読む目から無縁であれば、とどのつまり会社が直面する択一の岐路に合って 正確な判断ができないという悲劇に見舞われること必定である。ぶつかってから考え始めては手遅れなのである。
2兆円を上回る買い物をした日本の大企業のトツプは「グローバルリティリングを目指す一歩である」と興奮気味にコメントしたそうだが、コロナ禍の奥にいかなる消費の流れを読み取ったのか、それとも目先の売り物に目がくらんだか興味深い決断である。
令和が始まって2年、昨年10月の大洪水と今年のコロナウィルス騒動と波乱は続いている。凶運は底を打ったか、流れは変わったか私にはその兆しさえ見えない。
もう少し先に更なる大波乱が待っていないことを祈るばかりである。               貧骨
2020/07/16
路傍のカナリア No 167

家事作業を考えてみた

 私は食べ物の好き嫌いが激しいうえに食わず嫌いだから、料理のメニューは一年を通してほとんど変わらない。決まったものを言わば毎日順番に食べているような感じである。ちょっと珍しい素材や料理に挑戦しようという意欲はさらさらない。食べることに超が付くほど保守的である。 それで特に困ったことはないが家人(カミさん)からすると栄養の偏りが気になるのか時々私が知らないような手料理が食卓に乗ることがある。
料理の本でも読んで作ったものであろうが、一口二口食して口に合わなければそのまま残す。が、だいたい文句が飛んでくる。「せっかく健康と栄養を考えて作ったのに」「寝たきりになっ
ても面倒見るのは嫌ですよ」「素材がもったいない、お金と手間がかかっている、全部食してください」
 自分が家族のためを思い手掛けた手料理が通用しないとき、作り手のスタンスは三つある。
 ひとつは「文句を言う」という姿勢。述べた通りで平穏であるはずの食卓に乱気流が発生するか、食べ手の鷹揚さが試される場面が生じる。
 食べ手が食べないのなら素材、味付け、調理過程を創意工夫して「おいしい」といわれるまで何度でも作り直す姿勢もある。家事という枠の中の話ではあるが探究者の道につうじるものがある。もう一つが自分の料理センスに見切りをつけてすっぱりと手料理をやめることである。家事作業は幅広い。掃除洗濯、諸々の整理整頓、買い物、ごみ等の処理、縫物、日常品のメンテナン
ス、子供や老人、ペットの世話、近所とのコミュニケーション等々。万事に精通して得意というのは難しいことで、自分の中で得意と優先順位をつけて家事に処する。これもひとつの姿勢であ
る。
 どうあるべきかという話ではない。もしも家事という仕事をプロ意識でもって取り込んでいたら、相手に「文句をいう」というスタンスは取らないだろうと思うのである。男女の形式的な平等が家庭の中にまで及んできて育児休暇さえ男性が取得する風潮がある。自分も働いているのに夫はろくに家事を手伝わないという不満がよくSNSに投稿されている。家事という仕事が生活の中でどんどんと軽く扱われてお互いの折半で成り立つように位置付けられている印象がある。確かに家事という仕事は簡略化すればどこまでも簡略化できる。「亭主元気で留守がいい」のキャッチコピーは主婦とグウタラ精神があたかも一対であるかのような誤解を生んだが、それでは生活が雑になり一日一日の精神的な潤いが失われてしまうのではなかろうか。
 私には女性が家事に専念することは男女の性的差異からいっても自然なことに思える。「そうあるべき」とは言わないにせよ、世界を見渡して女性が社会で働き男性の圧倒的多数が主夫をし
ている社会というのを寡聞にして私は知らない。それは民主主義的平等性以上に人間的自然に基づいた役割分担が妥当性を持っているからであろう。
 一億総活躍社会なる標語のもとに女性が背中を押されるように社会に進出しているが、家庭の中で家事作業にプロ意識をもって取り組む女性のあり様ももっと評価されてもいいと思える。
 女性と家事労働とプロ意識を三位一体で考えていくことはジェンダー観とは別の自立した女性像に繋がっていく道ではあるまいか。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2020/06/16
路傍のカナリアNo166

苦難の旅路を歩いた人々

 アメリカの先住民はインディアンに間違いない。コロンブスに「発見されてしまった」新大陸でもともと暮らしていた人々である。この発見は、ずいぶんと迷惑な話でわが身に置き換えるとよくわかる。
中国大陸から冒険家の一行が日本列島を発見し、そのあとから次々と異民族が押しかけ、「新天地」 の名目で土地を収奪し、われら日本人が辺境に追いやられれば、これはもう如何ともしがたい民族の悲劇である。  
1830年代といえばアメリカがイギリ スから独立して50年ほどたった頃の話である。  「当時、南部では綿花ブームに乗って耕作地の拡大を求めるプランターたちや、自営農地の獲得や拡張を求める入植者たち、土地投機業者たちが急増していた。彼らはインディアン居住地をその発展の障害とみなし、インディアンの移住を強く要求していた。
さらに、同時期にチェロキーの居住地で金が発見されると人々が殺到した。  
こういう事態になると、なにやかやと理屈をつけてインディアンをその土地から追い出しにかかるのである。第7代大統領ジャクソンは「インディアン強制移住法」を成立させ、みずから追い出しの先頭に立った。
、インディアン部族の 一つチェロキーは、移住時期が冬にかかったこともあり、悲惨な旅路を歩かざるを得なかった。アメリカでは今でも語られる「涙の旅路」である。1600キロ、九州南端から北海道真ん中あたりまでの直線距離である。  
約16,000人のチェロキーは、道中、約束した連邦政府からの支援は届かず、寒さと飢えで4000人が死亡し、 人々はその死体を運んで移動した。ごく普通の想像力を巡らせるだけで、その旅程を実際に経験したインディアンの悲しみとやりきれなさは伝わってくる。彼らは「アメイジング・グレイス」を歌って士気を高めたという。  
スケールは違うにしても、日本でも似たような話がある。網走に近い北海道の常呂郡佐呂間町、オホーツク海に面したサロマ湖より内陸に入ったところに、字(あざ)栃木という地名がある。なぜ栃木かというと、栃木県下都賀郡南部八か町村の足尾銅山鉱毒被害者たちが入植し命名したのである。この人たちは、鉱毒の被害のため故郷で生計が立てられず、この地をいわば国からあてがわれたのである。66戸240余人、 1911年4月7日に栃木県を出発、12日に野付牛(現北見市)に辿り着いた。道中「貨物列車でムシロ敷き」の厳しさであったという。  
がそこから現地までがさらに困難を極める。「途中雪どけ、泥濘、膝を没する程度に及ぶ。  ○○より三里は峠、一方山岳。一方渓谷。危険、困難想像外。融雪中の雪路歩行容易ならず。足跡あやまれば、二尺~三尺の雪中に両脚没し、両股にて止まる状況。天然大木、天空を蔽う。
熊笹5尺〜6尺茂生して大熊の出没を感じさせる。洗顔水、ほとんど凍らんばかりの寒冷。頭髪を洗うも、櫛を入れる時、すでに氷となる。こうして4月21 日、仮小屋に移転した。  
インディアンのチェロキー族も栃木の鉱毒被害者も、移住の地が勿論楽園だったわけではない。むしろ逆で調べればすぐわかることだ。彼らは理不尽な仕打ちへの憤怒を抱き、そして諸々の葛藤すべてを飲み込んで困難な旅路を歩いた。老若男女を問わずだ。そしてかの地に生活を一から作り上げたのだ。  
生き延びるということは、恐らくこう いうことなのだという見本のごとき人々の胆力である。覚えておいていい話である。
引用文献:「 インディアンとカジノ」野口久美子ちくま新書「ジャガイモの世界史」、 伊藤章字中公新書 ※なお○○は本文では具体的地名なのだが難解な漢字なので○○としました。ご理解ください。
貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2020/06/16
路傍のカナリアNo 165

天からお金が降ってくる

錬金術の魔法は、いつまで続くか

 「えじゃないか」の騒動が江戸の末期にあった。天からお札が降ってくる。これは慶事の前触れだ、という話がひろまるとともに、民衆が仮装などして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊ったという。(ネット記事より)
 今、コロナウィルスの蔓延がもたらした国民の生活危機、経済危機に対応するため、政府はお金をばらまいている。10万円の一律給付、持続給付金、失業保険の上乗せ、無利子無担保の融資。これだけでも大変な支出だと思うが、さらに家賃まで補償してくれるというのだから国民にはありがたい話だ。いやいや、これでもまだ不十分、苦学生にも援助しろという声に政府は検討
すると答えている。
 されどその金はどこから調達されるのか。国の財政に余裕はあるはずがない。1000兆を超える国債借金を抱え込んでいるのがわが日本の実像である。がそんなことはお構いなしに政府は
急場の資金を赤字国債で凌ごうとしている。アベノミクスの7年間の大胆な金融緩和がインフレも円の急落ももたらさなかった以上、さらに100兆程度借金を重ねたところでどうということはない。そう主張する経済学者もいる。
 金はまるで湯水のごとく無限に湧いてくるかのようだ。日銀にしてからが国債買い入れを年間80兆円の枠組みを変更して無制限にすると決定した。もうこれでは歯止めなき国債の乱発であ
る。野田元総理がこれは禁じ手の財政ファイナンスだと指摘したが、その正論ともいうべき懸念に誰も振り向かない。危機という宴の中で国民が熱に浮かされて踊っている。「ええじゃないか、えじゃないか、えじゃないか、赤字国債えじゃないか」。
 今の手当てばかりではない。当然のことながら来年度の税収は落ち込む。法人税も消費税も減収は間違いない。国家の予算編成は更なる赤字国債の積み上げが必至である。国家財政は本当に大丈夫なのか。
 借金はするが、返済はどこまでも先延ばしにして、それでよしとする仕組みは持続可能だろうか。いささか怪しげなMMT経済理論が説くには、インフレにならない限り、中央政府の財政赤字は問題にならない。インフレになったら増税すればいいという。理論通りならば心配は無用かもしれない。それとも制御不能な円相場の急落、長期金利の急上昇が突如としてやってくるのか。言えることは、未知の領域の怖さにひるむ冷静な理性がマヒしているということだ。これほど恐ろしいことはない。
 歴史の教訓は貴重である。イケイケドンドン太平洋戦争の国民の熱狂、80年代末のマネーバブルの熱狂。結末はほとんど焼野原。赤字国債乱発の狂騒の果てに待つものは、何事もなき平和なのか。そんなうまい話が転がっているものだろうか。日銀の地下室で今日も輪転機が回る。「もうどうにもとまらない」(笑)
貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2020/04/20
路傍のカナリア 164

コロナ渦 立ちすくむ日本中枢

 2020年4月8日,日本で「非常事態宣言」が効力を発揮したまさにその日、中国では77日ぶりに武漢の封鎖が解かれ5 . 5 万人が市外へ出た。「高速鉄道、飛行機などの運行が再開し、高速道路の封鎖も解かれた」どうやら中国はコロナウィルスと五分の戦いには持ち込んだようではある。  2月23日コロナの猛威の最中、習近平は対策会議の席上、この騒動を「建国以来、最も感染が早く、最も範囲が広く、最も予防と制御が難しい公衆衛生事件」と述べている。世界の指導者といわれる人たちの中でこのコメントは秀逸である。「建国以来」が中国5000年の歴史を意味するのか中共立国を指しているのか不明だがこの表現から強烈な危機感が伝わる。後に続く「最も感染が、、、」の文言にも国民を安堵させるような気遣いはなくこの事件がいかに深刻なものであるかを簡潔にまとめてある。
要するに楽観や油断の余地のないような現実認識が根底にあるということだ。そのうえで、本当にその危機感を習とその幹部が共有しその通りに行動したことにある。政治的独裁国家である
ことを割り引いても、コロナ対策の徹底ぶりがそのことを示している。あくまでも「公衆衛生事件」なのである。日本中枢の身構えはどうか。
 それがはっきりしない。中国からの入国制限あたりから全国小中学校一斉休校まではコロナ感染防止が最優先だったものが、休校による補償の世論が盛り上がるとそこからは経済的危機への対策が主になってくる。どの程度の額を国民に配るかという話は4月半ばでも続いている。非常事態宣言の発令をギリギリまで躊躇したのもその経済的打撃への懸念である。発令にあたって安倍は経済は「戦後最大の危機」と述べているのも、そのことを示している。いつのまにか感染防止は二義的な位置づけになってしまったということである。
 4月5日のNHK討論では西村経済再生担当相が「東京都の外出自粛を続けていけば終息できる。これを続けていくことが大事だ」と述べている。世界の感染状況とコロナの感染力を常識で考えればその認識の甘さは驚くべきものである。日本の中枢は感染防止の軸と経済対策の軸の優先度を逆転してしまったと言わざるを得ない。
 都知事の小池が一貫して「都民の命」を守ることを最優先し、ロックダウンに近いところまで厳しく休業要請しているのとは大違いである。社会的混乱、経済恐慌、世論の反発、それらへの懸念の前に思い切った感染防止策を躊躇し立ちすくむように日本中枢はある。
泥縄のように次々と経済政策を打ち出すが正面の敵はいまだ正体不明のウィルスである。ウィルスに立ち向かわなければ国民の命が危ういという当たり前のことが日々変わる状況の中でも一貫していなければ、平たく言えば腹が座っていなければ、欧米以上の惨状をたぶんこの日本でも目の当たりにするであろう。
 ユニクロの柳井は「戦後最大の人類の危機」とコメントし、ビルゲイツは「100年に一度の危機」と発信している。COVID-19 新型ウィルスの日本総攻撃は始まったばかりである。
 真偽不明の情報はあふれ、政治家や評論家、専門家は危機をあおり安心を語るが、コロナ禍を克服するために必要なものは安全で効力のあるワクチンの開発に尽きる。それ以外に方策があるはずがない。だからこそ「公衆衛生事件」なのである。
 戦後平和日本、この危機の中でさえ混在する日本中枢の楽観それが命取りにならないことを祈るばかりである。 貧骨
cosmoloop.22k@nifty.com
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