路傍のカナリア

2019/07/16
路傍のカナリア 154

モノと格闘の日々

部屋の中を整理していると必ずと言っていいほど整理のつきにくいモノが出てくる。どこへ置くにしても中途半端。とりあげては右に置き左に置き、なかなか始末が出来ない。結果また適当に部屋の片隅にとりあえず置くが、とりあえずだからまたあちこちへ置き換え、その存在感に負けて見ぬふりをしてしまっているモノが確かにあるのだ。よし今度こそは決着をつけよう、正面から向き合ってあるべき場所にきちんと整理してやるのと思い立つのだが、そのあるべき場所が見つからない。押入れの奥に放り込んでおくか、それではいつの間にか忘れてしまっていざ必要なときに役に立たない。万が一に必要なときに取っておくのなら、やはり普段から確かにここにあるという、生活の視野の中にほんの少しだけでも収まっていないと意味がない。
例えば道具箱、文具入れ、薬関係、手紙封書の類、写真類、新聞の切り抜き、などなど一応のカテゴリーの中に納まってくれればいいが、それだけが妙に自立して存在を主張するから困る。
そうだ、いっそ捨ててしまおう、如何ということはない。ごみ箱に一直線、悩みは解決と思うすぐそ場から、何ともったいない、まだ十分使えるじゃないかという声。いやそれよりも「捨てる」とはいかなることか、我々は確かに毎日何かを捨てている。でもそれは使い切ったモノ、壊れてあるのは汚れて使えないモノが大半で、モノを作った、いや考え出した人たちの精神を十分尊重した上での廃棄である。それがモノを捨てるということだ。だから当たり前のことながら心の痛みは感じないで済んでいる。でも目の前にある始末のつけにくいモノはまだ十分使えるのだ。いやモノ自身がそう主張している。私を捨てるのか、それでいいのか、小動物のようにその存在を主張する。
部屋の中にモノが少しずつ増えてゆく。モノはどこかから湧いてくるようにそこにある。
部屋のモノをかき集めてみたら、サイズを図るメジャーが2つ、爪切り3つ、ボ−ルペン10本、赤鉛筆2本、工具のドライバー3セット、似たようなハサミ3つ、などなど、手軽に買える100円ショツプこそモノの湧き出る泉かしらん。
意識的にモノと正面から格闘して、きちんきちんと最低限の必要分で生活をオペレーションしないとゴキブリのようにモノが増えていく。知らず知らずに。昭和の時代、モノは貴重だった。貧しいとはモノを大切にすることであったし、モノは生活の豊かさの象徴だった。いまはモノを拒否するミニマニストが生まれている。
話を戻そう。始末のつかないモノの一つが、リモコンのスイッチ。室内灯を購入したらリモコンスイッチが2つ付いてきた。サービスのつもりだろうが、二個目はどう始末すればいい。補欠の選手のようなものだ。いつか使ういつか使うと思いつつ、でも一個目は壊れない。頭に汗かいて考えても、結局蹴飛ばしておくしかない、梅雨空のようにうっとうしい。
渡辺真知子が歌っていた「捨ててしまったわ、昔のプライドなんて、もしも許されるものならきっと生まれ変わる」プライドは捨てられるか、それなら2個目を付けたサービス精神も捨てられるか。いやいや貧しさの記憶が呪縛となってかのリモコンはまだ私の手の中で踊っているのである。迷い道くねくねなのだ。  貧骨
2019/06/12
路傍のカナリア 153

覚せい剤が開く人間の可能性の世界

覚せい剤を使用すると日常生活では味わえない感覚に浸れるという話はよく聞く。気持ちがハイになって極度の陽気になる。音感が鋭くなって普段なら考え付かないような楽曲を生み出す。性感が敏感になって性的快楽が格段に増す。集中力が増して2日や3日は殆ど徹夜でも仕事や勉強をこなすことが出来るようになる。風邪が一発で治ってしまうなどそれなりの効用はあるようだ。
ビジネスマンがハードな仕事量をこなすために覚せい剤に頼ってそこから常用者になるという風聞は世間一般によく知られている。いってみれば覚せい剤の服用によって常人にはありえないような能力が発揮されることがあるということだ。
覚せい剤には強い依存性を含む副作用があると言われているから、法による刑罰的な事を差し置いても割に合うモノではないが、この薬物は人間の脳にどう作用しているのだろうか。
漠然と考え付くのは薬物が脳それ自体に作用して脳の正常な機能を攪乱してしまい、その結果として人間には不自然な行動がもたらされるというものである。大概の人は程度の差はあるにせよ、そのように理解するのではなかろうか。
けれども別の見方をすることもできる。人間の脳には常識では測れないような潜在的な力が眠っているが、それはある種のバリアーに囲われていて普段は表には現れてこない。けれども薬の作用によって一時的にバリアーのレベルが下がり、潜在的パワーが現出するという考えである。この見方に立つと人間の能力に対する考えが変わる。人間観が変わると言い換えてもよいが、根拠のない話でもない。
1970年代後半ブームになった「阿含宗」による超能力の開発というものがある。瞑想を通じて人間の新しい能力に目覚める修行である。教祖の桐山靖雄によれば予知の能力、高度の創造力、他人を思うがままに動かせる能力、普通人の3倍ほどの精神、肉体の耐久力、念力による物理的変化を起こさせる力を挙げている。桐山氏自身、「念の力で瞬間的に水を沸騰させ、生木に火をつける」ことを数千の大衆の前で証明したと言っている。
また阿含宗に一時入信しその後自ら宗派を立てたオウム真理教の麻原彰晃にしてもその奇跡ともいうべき施術があったからこそ、多くの信者が麻原に魅了され集まったのである。そのパワーがいかほどのものであったかということは、林郁夫「オウムと私」のなかにも上祐史浩「オウム事件17年目の告白」にも具体的に書かれている。
阿含宗もオウムもチベット密教のいわば秘儀の修行を現代版に焼き直したものと言えるのだが、空海が開いた真言密教も元を辿ればおなじものである。根本にあるのは、密教による念力の力を駆使しての特殊能力開発であるが、それが誰にでも可能であるというのは、人間の脳自体にそういう力が眠っていると理解したほうが自然である。
薬物が開いた世界と密教の修行者がみた世界は通じ合うものがある。林郁夫は「古代には、人間をして人間を越えさせる一つの教えと、その修行システムが存在していたのではないかと」書いているが、人間というのはまだまだ可能性を秘めた存在なのであろう。それではなぜ人間を越えさせるシステムは脳の奥底に、いわば隔離されたのか 謎めいた話になるが、同時にわれわれが当たり前と思い込んでいる目の前の二元論の世界も絶対確実とは言えなくなってくるのである。                貧骨 
2019/05/16
路傍のカナリア 152
           
宗教への扉 

私たちの人生というものは振り返ってみれば大概八勝七敗か七勝八敗、悪くとも六勝九敗程度には納まるものである。平たく言えばいい時もあるが悪い時もある。が苦しい時にもあまり悲観しなくていい。結果帳尻はそこそこ合うということだ。  
もちろん土砂降りのような一生もあるだろうが、そのわずかな勝ち星でも宝物のような勝ち星はあるし、何処から見てもピカピカの人生でも手痛い一敗のために生涯重荷を背負うこともある。神様はそれなりに公平なのだと思うが、それでも不運や不幸に立て続けに見舞われれば、なぜ自分だけがと運命なるものを嘆くことはあるものだ。
この「なぜ」にこだわっていくと人は迷妄の地に足を踏み入れることになる。占い師を訪ねればあなたの運勢は今年が最悪だと言われるかもしれない。宗教の扉をたたけば、先祖の霊を敬わないからだと告げられるかもしれない。夏目漱石の小説「門」の中で三度の流産を経験した主人公のお米が思い余って辻占いに相談をしたところ、それはあなたが人の道にそむいた報いだと言われる場面があるが、「なぜ」をそのまま放置できないのが人の常というものかもしれない。それはただの偶然の重なり合いで、それ以上でもそれ以下でもないと理解するようにはなかなかいかない。かりに無理やりにでもそのように自己に強いても、結局精神的な安定は得られないものだ。
因果律という言葉があるが、原因があってその結果があるという風に説明されると、それが外から見たらいかがわしい霊的なものでも星占い的なものでも気持ちの上では納得感が出てくる。だからこれからは、しかしかかくかくの生活態度で臨めば運が開けてくるなどといわれると妙に前向きになるものだ。宗教が心の中に入り込む余地がそこにあるというより、不幸や困難を偶然として受け止められない人の心の在り様自体が、宗教的なものを呼び込むという事であろうか。
宗教への扉は、こういう過程を通して開かれていくが、考えようによっては宗教心というのは、迷妄というよりもむしろ慰藉と救いの道ということになる。
我々は今にありながら同時に過去の経験を引きずり、また死後の世界を含めた未来を不安の中で思いやりながら生きている時間的存在であるがゆえに、過去の不運に気持ちの整理をつけ、将来への不安が少しでも和らぐに越したことはない。宗教心は誰でもが必要とする人生の必需品のようなものだ。一切を合理的に死ねば死に切り、墓に眠るのはただの骨とまでは割り切れないのが我々人間である。
けれども悲しいことに、小さな人々の灯のような宗教心も、教祖が生まれ教義が作られて立派な宗教になると、己の絶対性を主張して宗派同士の争いが何百年と続くのである。あるいは人の宗教心を逆用して、霊感商法に見られるイカサマビジネスが横行することになる。
人は不運や不幸を越えていくために宗教心を必要とするが、その宗教心を掌の中で大事に守っていくことは大切なことだが困難なことかもしれない。        貧骨 
2019/05/16
路傍のカナリア 151

補欠たちの悲哀

中学生の時野球部に入っていたが、一度も試合に出ることなく3年を終えた。運動神経は人並み以下だったから補欠は冷静に考えれば定位置なのだが、やっている本人にとっては辛いものである。練習を毎日しても試合に出れないのであれば、それはつまらないであろうと他人は想像しがちだが、辛いのはむしろ補欠であることへの外からの視線である。同じ学年の部員はともかく、クラスの連中や下級生の部員からの目線を嫌でも意識してしまう。まあそういう年頃でもあるのだが。からかわれたわけでもないにしても補欠という立場はそれだけで劣等感を過剰に感じてしまうものなのだ。
高校野球で暴力沙汰が起こるとき、レギュラーでない上級生による下級生いじめがしばしばあるのは、そのあたりの鬱屈した心理のなせる業だと思える。補欠であることの「格好悪さ」を自分の中で消化できないのだ。
TVで甲子園の高校野球を見ていると、ユニフォーム姿の選手たちがスタンドで応援している。部員全員一丸となって戦う、その意図のパフォーマンスだろうが下級生ならともかく上級生ともなれば胸中複雑ではないか。観客に自分が補欠であることを知らしめているようなものである。監督や部長はそのあたりの配慮をどう考えているのか。高校野球は教育の一環であったはずだが。補欠は補欠、レギュラーの練習台、君の位置は自己責任とでも思っているかもしれない。元補欠としてはあの光景を見るたびにハラハラしてしまう(笑)
かなり以前のことだがどこかの大学のサッカー部には「補欠がない、みんな試合に出る」という記事を新聞で読み、その在り方は忘れたが、とても印象に残っている。勝ち負けはもちろん大事だが、下手な選手も試合に出ればさらに日頃の練習に精が出るというものだ。アマチュアスポーツの運営精神というか思想は、ここらあたりにあるのではなかろうか。
新年号が「令和」に決まった。5月1日に皇太子徳仁殿下は新天皇に即位する。目出度いことだ。譲位という穏やかな天皇の交代も新天皇即位を明るくしている。ここしばらくは外国の王族、国内外の要人たちの祝賀の訪問も相次ぎ、新天皇徳仁殿下と雅子妃は宴の主役として華やかな光をしばらくの間浴びることになるだろう。
さてと思う。弟の秋篠宮殿下の胸中はいかばかりであろうか。彼は新天皇の皇位継承者一位の人となり称号も皇嗣となる。が、「天皇の補欠」ともいうべきその立場をごく自然に天命として受け入れているだろうか。それとも補欠球児たちの悲哀と通じ合うものを心中深いところで感じているだろうか。天皇即位の儀式「大嘗祭」の経費を巡る発言を含め、彼の言動の中に皇室行政への疑問だけでなく、自らの立ち位置そのものへの割り切れなさをみるのは杞憂だろうか。
華やかなものがそれだけで成り立たないことの道理を考えながら、そういえば今祝賀に沸く皇室もたぶん例外ではないのだろうと思った。           貧骨
2019/03/19
路傍のカナリア 150
         
「平成」雑感 みんなぺっしゃんこ

天皇陛下在位30年式典に臨んでの陛下のお言葉が新聞に掲載されている。その文中に「平成がはじまって間もなく」美智子皇后が詠んだ歌が記してある。

ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

平成という年号が小渕官房長官によって示されたとき、この平成は平らかに成るという意味だと解釈されたことを記憶している。この歌を読めば平らかに成るということが皇后には平和な世の中であって欲しい、国民もみなそうあることを望んでいる、そういう意味として受け止めたという事だろう。この思いは今上天皇にとっても同じに違いない。いやむしろ「平和」がただシンプルに貴重だという事を越えて特別な感慨が天皇にはあるかもしれない。明治天皇は日清、日露の開戦の聖断を下し大正天皇は第一次大戦への参戦を認可し昭和天皇は太平洋戦争開戦の聖断を多分本意ではないにしても下している。時代背景が違うとはいえ顧みてこの国が戦争の当事者として関わることなく平成を終えるということは天皇にとつて「平たんではなかった」にせよ満足のいく30年であつたということになるのだろう。
殿上からみれば平和を意味する「平成」も、娑婆でこの30年を過ごしてみると平らかに成るとは別の感が強い。バブルがはじけて不動産の価格は暴落し、土地の神話に踊った企業は破綻の末の消滅か他企業への吸収の末路をたどった。残された不良債権の山を半ば強制的に整理する中で、老舗の金融機関も証券会社も百貨店も総合スーパーもマーケットから退場した。加えて小売の現場では規制緩和の波が、零細な商店やそれに連なる商店街をなぎ倒した。平成も後半になるとスマホに象徴される技術革新の急速な展開の中でネットの破壊力が従来型の店舗でモノを売る商売をダメにした。
小売りだけではない。「昭和」が到達した一億総中流は解体され、グローバルな競争社会がもたらした一握りの勝ち組と多数の負け組の格差社会が現出した。それは働き方も家族の在り様も男女の在り様も変えるほどの変化であつた。
時代の流れに是非はないのだし、清算された更地のうえには新しい業態が、新しい働き方が生まれてはいるのだけれども、自分の立ち位置から見れば平らかに成るとはすべてが「ぺっちゃんこ」になってしまった感がある。サラリーマンの世界も同じように「ペッちゃんこ」にされた人々で溢れているのであろう。名は体を表すというがまさに「平成」とはそういう時代であった。
誰かが「平成」の30年は時代の踊り場でこれからの坂道には多くの困難が待ち受けてはいるが勇気をもって登って行ってほしいと書いてあった。確かにその通りであろうが、さて上り坂なのか下り坂なのか そこは判然としない。判然とはしないが自分の生活実感でいえば、楽観には程遠い。政府が旗を振るオリンピックも万博も虚妄のように見えて致し方ない。「平成」程度のぺっしゃんこが懐かしいほど困難な時代がひょっとしたら待ち受けているかもしれない。      貧骨
2019/02/15
路傍のカナリア 149

介護の死角   
なぜホストクラブ付き介護施設はないのだろうか

道楽というのは楽しいものだ。男の定番ともいうべき「飲む、打つ、買う」は説明などいらないであろう。深入りすれば身の破滅にまで行くところが道楽の道楽たるところで、酒に飲まれて命を縮めた人もいれば、賭博にのめり込んで身代を失った御仁もいる。女に貢いで気が付いたら無一文になっていた話は珍しくもない。けれども途中で引き返そうと思ったときには、今度は道楽の方がわが身を離さないのである。体の中の狂気ともいうべき「血が騒ぐ」からであろうが、この「血の騒ぎ」こそが人の活力の源という見方もできる。女性でも「おしゃべり、着飾る、食べる」は身の破滅まで行き着かないにしても女性特有の深い楽しみであろう。それを封じられたらどんなにか人生は味気無いものであるに違いない。
だから管理の極みの如き今の介護施設に「ホストクラブ」や「ノーパン喫茶」、「スイーツ食べ放題」「カラオケ歌い放題」「馬券、舟券買えます、人生最後の株で勝負、手伝います」「朝から飲めます酒場」「寝たきりでも美しく高級エステ」などが併設されたら、高齢者の活性化に役立たないだろうか。
寝たきりの爺さんがリハビリに懸命になったり、ディサービスのお迎え車に渋々乗っているおばあさんが、嬉々として化粧までして施設へ赴くのではないか
これは高齢者を茶化したような冗談話ではない。我々は高齢者というものが本当のところよくわかっていない。教師と生徒、医者(看護師)と患者、監督と選手、親と子、上司と部下、どの関係でもいいのだが、これらの人間関係と「介護者と老人」の関係は全く違う点がある。それは上に立つ者は何らかの形で必ず下の者を経験しているという事実である。教師は学生を経験しているし、医者も病気で寝込んだ経験をしている。親は当然子供であった。監督にしても上司にしても同じことで、その経験があって初めて下の位置にいる者の気持ちを汲み取ることが出来る。この基礎の上に立って学校、病院、会社等のシステムというのは構築されているし、世代の交代に合わせてシステムそのものも改善、修正されてきたともいえる。
「介護者と老人」というのは、この関係が成立しない。介護されている老人、痴呆に病む高齢者がその後社会復帰して介護者に回るということは現実にはない。だから本当のところ今の介護の在り様が、介護されている人にとつて適当なものかどうかは実際のところは手探りであつて、そこに介護というものの難しさがある。と同時に介護施設の運営が「無事一辺倒」の管理になりがちになる現実がある。
寝たきりや頭の動きが鈍くなっている高齢者の精神の在り様をただ封じ込めてしまうのではなく、ごく当たり前の人間として再生させていくという問題意識に立てば、「血が騒ぐ」愉しみを提供することはさほど的外れだとは思えない。血が騒げばそれだけで人は活性化するものだ。
「極楽へ旅立つ前の極楽生活」は現在へのアンチテーゼだが、その先にジンテーゼとしての介護施設が生まれてくればもう少し介護も介護される側からみて人間らしくなってくるのではなかろうか。                   貧骨
2019/01/21
路傍のカナリア 148

薬なるもの 医者なるもの 人間なるもの

家人が運転免許の更新にあたって事前に視力の検査を受けたら、合格基準値に達しない。メガネの度数を上げる矯正視力でも同じこと。これはおかしいということで市内の眼科医を何件もまわったが、何処の医者も原因不明で困ってしまった。痛いまぶしいという自覚症状があるわけではないからほっておいてもよかろうと思ったが、運転免許がないのはさすがに不便。眼科医に紹介状を書いてもらって東京御茶ノ水の老舗眼科を訪ねてようやく原因がはっきりした。以前服用した医者処方の咳止めの薬の副作用であった。副作用を緩和する薬をもらって視力は回復、事なきを得たが、「よくわかったな」というのが私の実感である。というよりも、地方の町医者には手におえない症例なのだろう。さすがに全国から患者が訪ねていく有名眼科だと感心もしたが、一方で薬というのは怖いものだと改めて感じた。
すこし前の日経の記事に薬の効き方の解説が「分かりやすく」掲載されていたが、それによると薬は小腸で吸収されて血液の流れに乗って患部に辿りつきその効果を発揮するということになっている。間違いではないだろうが、薬は血液に乗って全身まんべんなく行き渡るからその結果患部にも到達するというのが実際だろう。経口の通常の薬が患部にだけピンポイントに辿りつくとはとても思えない。それゆえ、健常な体の部位にも薬が作用して副作用が起きるのだろう。それは家人のように目かもしれないし人によっては臓器かもしれないし脳の奥の奥かもしれない。我々は薬の副作用というものを自覚症状のないものは無視しがちだがそれはとても危険な事でもある。
症状が収まれば薬のことなどケロリと忘れてしまいがちだが、体内に入った薬が速やかに排出されるものかどうかについての情報開示というものは聞いたことがない。「患者は医者の言うとおり黙って服用すればよい」という考えが一般的だが本当にその通りか。薬のなかには体内に長く残留してしまうものもあるのではないか。家人の咳の症状は確かに治ったわけだから薬効を否定はしないが、もしも家人が妊娠初期の場合はどうなのか、男性なら精子に残留薬の影響はないのか、薬の服用がまわりまわって小さな命に思わぬ健康被害をもたらす懸念を否定できない。
人間というものの体の仕組みというものは、まだまだ未解明のままでようやく脳の世界の解明が始まったばかりである。精神と肉体の一体となった人間なるものの生命の不思議と複雑さは、例えば胎児の生成過程で生物の系統発生が現れるところからもうかがえる。医者は馬鹿の集まりではないことだけは確かだが、だからと言って話を鵜呑みにしていいほどには今の医学に信頼がおけるわけではない。医者は権威の塊のように我々に接してくるがすべての学問と同じように医学も発展途上であることだけは肝に銘じておく方が安全というものだ。

去年一年元気で働くことが出来た。健康な体を授かったことを両親とそれに連なるわが血族に感謝しなければなるまい。元気なのは「もう一仕事しろ」という先祖か神様の伝言かしらと話題にしたら、そんな上等な話ではない、「憎まれっ子世にはばかる」の類だと笑われた。      貧骨

2018/12/05
路傍のカナリア 147

世事雑感  
「出会うということ」

「おじさんは勉強ができることを大切な事と思っている? それともたいしたことじゃないと考えているの?」
「勉強というのは答えのある世界だからね。問題集の最後には答えがあるわけで、訓練すればだれでもある程度まではいくさ。暗記物の知識なんて言うのは昔なら百科事典、いまならスマホですぐ手に入る。博覧強記という言葉があるが今のような情報社会ではさほど意味を持たないと思うが。まあ日本は学歴社会、肩書社会だから勉強が出来た方が世の中を渡っていくという意味では有利だろうね。」
「おじさん、でも勉強ってそういう功利的な取り組みでいいのかな。点数至上主義というのはちょっと違う気がするけど」
「勉強には登りの勉強と下りの勉強があるのさ。みんなが取り組んでいるのはカリキュラムに沿った勉強で、中学の一年ではここまで、二年になったらここ、高校になったら例えば微分積分を学習するというように、順番に学んでいくわけだ。学ぶ側からみると何故、ここを学ぶかという事の説明は無しで、ただひたすら与えられた内容を理解していくことが求められる。だから勉強は面白くもないし、嫌々ということになりがちなのさ」
「でも勉強ってそういうものではないの?」。「そんなことはないさ。君がもしもなぜ月は地球に落ちてこないのだろうと不思議に思って調べ始めたら、モノとモノが引き合う重力の関係にぶつかるだろうし、では重力とは何かと一歩掘り下げれば、今度はモノが成り立つ原子の世界に入り込んで行く。もっと深く知りたくなれば、物理の入門書の巻末に文献が掲載されているからそれを読むようになる。文献は外国のものもある訳だから、英語の勉強が必要になるし、数学も化学も基礎素養が当然求められるようになる。そうやって勉強は広がっていく。あるいはなぜこの世の中には貧しい人と豊かな人がいるのかという関心でもいい。そのことを自分なりに納得いくまで調べていけば、歴史や社会の仕組みや経済の在り様に必ずぶつかるさ。歴史は学ぶ者に生き生きとした動体として現れるはずだよ。すると古典を読むには、古典の文法の知識が必要になってくるというわけだ。そう、その時君は知識の世界に出会っている。これが下りの勉強だよ。」
「でも、大概の学生さんは、そんな風に考えないでなんとか次のテストをクリアしようとしているじゃないか」
「だから知識が学ぶ者にとって無味乾燥な味気ないものになってくるのさ。それはどんなに優秀な生徒でも同じことで自分にとって知識が親和性を持たないという事。知識の世界に出会うのは、誰でもではないし、また年齢も関係ない。一生無縁な人もいるし、それはそれでいいのさ。でも例えば野球の世界でも、バッティングを突き詰めていけば、肉体的な訓練だけではなく筋肉の使い方やメンテナンス、動体視力の在り様などアスリート知識が当然必要になる。学校の勉強はやらなくても、スポーツという世界から知識の世界に出会うのさ」。
「評判が悪かった“ゆとり教育”って、おじさんのいう下りの勉強のことかな」。「そうかもしれないけどね、子供たちにただ知識を詰め込むのではなく、彼らが知識の世界に出会うということを教育の場で大切にしていけば、学校生活は今よりは楽しくなることは確かだね」。         貧骨
2018/10/18
路傍のカナリア 146

世事雑感 「1番」

「今度の学年テストの結果、学年で3番の成績だったんだ。名前が廊下に張り出されたよ」。「いつも 下の方でうろうろしている君にしてはよく出来たじゃないか。でも1番じゃないんだ」、
「1番はいつもA君、ダントツだよ。でも僕も自信をつけたから次は1番になれるかもしれない」。「君は地頭がいいから少しやる気になればいいところまではいくだろうが1番は難しいよ。今度のテストに取り組むにあたって良い成績を取ろうと頑張ったと思うけど、3番になろうと考えたわけではあるまい。結果3番になったというのが本当のところだろう」。「その通りだけど。そのやり方ではなんで1番になれないの」。「A君がいつも1番なのは、たまたま成ったのではなく1番を取る、1番は誰にも譲らないぼくが1番、そういう気持ちで臨んでいるからだよ。君が彼にとって代わるつもりなら当然君もA君以上に強い意志で勉強に取り組み、生活の時間配分だって勉強中心に変えていかなくてはならないだろうね」。「なるほどね」。
「甲子園出場の常連校で、連覇をする学校があるだろう。同じことで彼らはもう優勝することを最初から目標にして練習しているわけで、だから少しの妥協も許さないし、その厳しさに付いていけない選手は淘汰されるわけだ。たまたまレベルの高いピッチャーが入部して決勝戦まで勝ち進んだというのとは全然違う。チームの意識自体が違うという事」。
「おじさんの言うとおりだとして、A君はなんで1番にそんなにこだわるのだろうね、そのあたりがいまひとつピンとこないけど」。
「1番というのは2番でも3番でも絶対に味わえない快感なんだ。その快感を知ってしまうとそれを得るための努力や鍛錬など十分耐えられてしまうという事だろうね。1番の上はない。みんなからの尊敬の視線を感じるし、全員自分より下に見えるわけだからすごい優越感だろう。A君も1番を初めてとった時にその居心地の良さに気付いたんじゃないかな。スポーツの監督の中には、優勝の喜びを選手たちに味あわせてやりたい、その一心で頑張っている人もいるくらいだから、1番というのは特別なんだ」。
「おじさん、だったら僕もそのつもりで1番になるように気合いをいれてみるか」。
「ここが実は肝心な所というか、分かれ道で、いったい勉強で1番をとること、1番で居続けることにはいかほどの価値があるかというそもそも論が出てくるんだ。学生生活全体を考えたらね、勉強もそこそこ、部活もそこそこ、遊びもそこそこの方が充実しているとは思わないか。でも充実感なんて数値で表せないからね。まさか一学期の生活充実度の1番は誰、2番は誰と廊下に張り出されるわけではない。けどその方が人間らしいとおじさんは思うけど。学校の教育のシステムが変わるほどの変革だけどね」。
「そういわれると少し混乱してくるね。じゃあ今のままでいいという事かな。ありきたりの平凡な生活だけど」
「その通り。平凡というのは、とても大切な価値で、その平凡さの中には豊かさが詰まっているという事なのだが、それが身に染みて分かるのは平凡を失った時だよ。健康と同じさ。
さて1番の話はまだまだ広がっていくけど、今日はここまでにしよう」
貧骨 
2018/09/25
路傍のカナリア 145

消えた「国債暴落」論

日銀が鯨のごとく国債を飲み込んでいる。少し前までは国債の暴落がメディアで議論されていた状況とは様変わりしている。そればかりか欧米各国が出口戦略に舵を切ったにもかかわらず、日銀はこれからも現在のスタンスを持続させようとしている。だからと言って特別の金融的な波乱がこの国に起きていない現在、ひょっとしたらこの事実上の財政ファイナンスの在り様は正常なシステムかもしれないとも思われてくる。錯覚なのか錯覚の錯覚なのか。
日本銀行による大胆な金融緩和の措置がもたらした金融的平穏は、正常と異常の境目を見えにくくしている。
経済論者の中には、将来的な金利の上昇が日銀の債務超過をもたらすリスクを指摘する人もいるが、現実にそうなった場合、具体的になにが起きるのであろうか。あるいはなにも起きないのだろうか。いずれにせよ中央銀行の破綻というのは想像がつかない。
では新興国のように為替相場からの制御不能な円安はありうるだろうか。確かに実際は日銀が輪転機で円を刷ってその金で国債を購入している以上、円の信用度は毀損しているに違いないし、国の借金も1000兆を超えている。ある日突然、円がその信用度からみて急落し、対ドル150円160円となる可能性は否定できない。すると輸入原油価格は高騰しそれにつれて一気に物価も上昇、嫌でも金融の引き締めに向かわざるを得ず、連鎖的に国債の暴落につながる。机上の想定では説得的ではある。けれども円安になれば当然のことながら、今以上に輸出産業の競争力は強まり外貨をかせぎだせるわけだから、円の価値は高まる。
また外貨を稼ぐという点では、訪日外国人も円安によって更なる増加が見込まれる。そう考えると一直線に円暴落はありえない。円高ファクターが円安時に働くのである。政府が、オリンピックの開催や万博の誘致を含めた観光立国に熱心なのは、表向きはともかく本音では円暴落対策かもしれない。
こう考えてくると我が国の国債の積み上がりはさほど心配するほどではないということになる。国家に外貨を稼ぐ力がある限り、加えて国民の金融資産が1500兆円もある以上、円の信頼は揺らがない。では日銀は無際限に輪転機を回して紙切れである紙幣を国債と交換し続けられるであろうか。もう一度言うが正常と異常の境目が見えないのである。だからこそ「国債暴落論」は沈静化したのである。
もしも現在の在り様、日銀が国債の巨大な買い手として市場に君臨するという政策が臨時的かつ緊急避難的な措置であるならば、波乱はどこかからやってくるはずである。
やって来なければ、資本主義経済と管理通貨制度の新しい枠組みが生み出されたという事になるかもしれない。
管理通貨制度の柔軟性が、資本主義の景気波動による不安定性ばかりか国家財政の劣化をも吸収するという仕組みは興味深いテーマである。逆に言えば資本主義の発展と共に整備されてきた金本位制の仕組みが実に硬直的であるかということになるが、制度論から一歩離れて、では人間の金に対する執着は薄まってきたかというとこれはこれで相変わらずなのである。貧骨 
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