路傍のカナリア

2021/10/13
路傍のカナリア 182

心優しき、岸田君の夢

 資本主義というのは誰もがのんびりと仲良く暮らせる社会ではない。資本というモンスターが、あるいはその化身である資本家たちが金と利益を求めて暴れまわっている社会である。金の匂いがすれば路地裏の奥にでも蛇のごとくヌルヌルと資本は忍び寄るのである。資本のむき出しの強欲は19世紀半ばイギリスにはっきりと表れている。労働者は劣悪な労働環境のなか徹底的に搾取され、女性や幼児までもが成年男子の代わりに働かされた。「イギリス労働者階級の状態」(エンゲルス)は、克明に当時の労働者を活写している。あの時代が特別なわけではない。「極貧の労働者と膨れ上がる富を得た資本、またはあの時代こそ資本の理想郷なのだ。今、新自由主 義が話題になっている。言葉の響きはいいが要は「国も行政も口を出すな、俺たち資本家の好きなようにやらせろ、そうすれば効率のいい社会が自然と生み出される」と言っているに過ぎない。当然社会に格差は生まれ広がるがそのことに痛みを感じるわけではなく、ただおのれの資本が膨らんでいくことが最大の目的なのだ。資本主義とは資本による資本のための社会なのである。近代資本主義200年、原理は今も変わらない。
 岸田君は考えた。新しい資本主義があるはずだ。誰もが豊かに暮らせる資本主義があっていい。戦後、昭和の時代一億総中流が実現したではないか。 キーワードは「分配から成長へ」。そして岸田君は起った。「帰りなんいざ、ニッポ ンまさに荒れなんとする」の心意気か。
 岸田君に同調するように成長至上主義からの脱却論、再分配重点主義の論も出てきた。物語は始まったばかりだが、そんなにうまくいくか。中間層が充実したのは、中進国日本と時代状況の僥倖的交差の産物ではないのか資本家たちの厳父のごとき声が響いてくる。
「愚かしいことだ。分配優先だと。お前たちの生活の周辺をよく見てみろ。すべてのものが加速度的に変化しているだろう。家電も車もデジタル機器も物流もサービスも環境も。これ はすべて競争が生み出したものだ。過去に例のない激烈な競争が世界中で起きている。これこそが成長の中身だ。 競争の敗者は瞬く間に置いてゆかれ、莫大な特許料を払わなければ何一つ手に入れることができなくなる。どの企業も必死なのだ。国家にしても同じことだ。成長を緩めてどうする。一国の経済だけなら分配もいいだろうが、世界中が冷徹な資本の論理で回っているなかでそんなヒューマニズムが通用すると思っているのか。
円安はすぐにでもやってくる。積み上げた国民の金融資産もあっという間に目減りする。どんなに日銀が円紙幣を積み上げたところで一滴の原油も買えるわけではない。社会の弱者という小さな不幸にとらわれて国の没落という大きな不幸に見舞われてもいいのか。勝って勝って勝ち続けるしかないのだ。覚悟を決めて世界的競争時代を乗り越えろ。岸田君が新しい資本主義を確立して「名政治家」になるのか、それとも 「ユメ破れて山河あり」トホホの岸田君に成り果てるのか 私には資本家たちのリアリズムこそが真実だと思えるが。    貧骨 cosmoloop.22 k@nifty.com
2021/09/12
路傍のカナリア 180

暴力団/暗黒裁判  

忖度の攻防ともうひとつの忖度

暴力団「工藤会」総裁に下った死刑の判決は、国家権力の怖さを垣間見せた判決である。直接的な証拠もなしに推定を積み上げて被告を犯人に仕立て上げ、縛り首にしてしまうのは驚くほかはない。西部劇の私刑と重なるような「真昼の暗黒」というべきかもしれない。
この手法なら現政権に目障りな政治結社、宗教団体、等々もすぐに組織トツプ、幹部を逮捕、懲役刑にしてしまうことが可能である。たしかに仲間内だけでなく、一般市民にも容赦なく襲い掛かり、射殺や手榴弾による殺傷事件を起こす「工藤会」の所業は、暴力と恐怖によって社会を支配し、法秩序など眼中にないがごとき狼藉と言わねばならぬ。要するに「無茶苦茶」なのだ。
しかし彼ら実行犯は、阿吽の呼吸で総裁の意図を忖度して事に及んでいる。逮捕されても総裁は犯行の埒外にいることになる。忖度は実に便利な手法で、企業においても、官僚組織においても同様に行われていて組織防衛の工作といってもよい。責任はすべて部下がかぶるようにできている。「工藤会」の壊滅がなかなか進まなかった原因の一つがここにある。総裁以下幹部は、ほくそ笑んでいたに違いない。「確たる証拠がないから捕まるはずはない」。
が、物事には必ず限度というものがある。暴力的所業が改められることもなく社会秩序への挑戦が継続すれば、何が何でも「工藤会」を壊滅してしまうのが国家権力というものである。容赦はないのである。証拠があろうがなかろうが、間接的証拠で逮捕起訴してしまうのである。裁判はもちろん公平で公正でなければならない。その建前は建前として、断固として国家意思を貫くのが権力の恐ろしさである。権力の尾を踏めば裁判官も裁判長も国家意思を忖度して「死刑」にしてしまうのだ。「工藤会」の忖度と裁判所の忖度の攻防がここにある。言ってみれば、これは事実上の合法的殺人なのだが、法曹界から明確な異論反論は出てこない。一目ではわからない程度の理論武装はきちんとしているのである。
オウム事件の時信者を片っ端から微罪で逮捕拘留して、当時の自民党・小沢一郎からやりすぎではないかと批判されたが、国家秩序の根元が揺らぐと認識すれば、法務官僚はいかようにもなんでもやりかねないのである。
「工藤会」の裁判は控訴上告を経て最高裁まで行くだろうか。そして本当にこの危うい判決を最高裁が確定して死刑を執行するだろうか。そこまで行けば、さすがに世間が騒ぎ出すかもしれない。権力にとって望ましいのは、被告が裁判途中で病死なり自殺なり「獄死」してもらうことだ。下級裁判所の判決だけでも暴力団関係には抑止効果はある。
コロナ感染による死亡という名目なら火葬まで一気に進めることができる。権力の意を忖度しての獄中不審死はあり得るかもしれない。(怖い怖い)。 もちろん私なりの妄想なのだが、「暴力団」関連という市民受けする衣の奥で、権力がいかなる振る舞いをするか、この裁判の展開は注視していかねばならないと思っている。
                       貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2021/07/15
路傍の カナリア 79

貧しき競争社会 我がニッポン

 平成の日本経済を象徴するテーマに「構造改革、規制緩和」というのがある。今もこの流れは継続しているが、その当初の目的である社会経済の活性化、新たなる経済成長というのは実現するどころかむしろ停滞している。閉塞感のほうがはるかに強いのである。
「構造改革」推進論者から言わせれば、規制緩和がいまだ道半ばにして中途半端のために緩和効果が出ていないのだから、更なる規制緩和を進めれば現状の停滞を打ち破れるという論法になるのだが果たしてそうだろうか。
現在までの規制緩和の成果として我々の社会は競争社会特有の活力のある経済がいささかなりとも実現しているはずだが、そのような兆候すら感じられない。働き手相互の格差ばかりが広がり、それが職場や家庭の鋭く悲惨な事件を引き起こしている。競争社会の負の面が目立つのである。
 けれども規制緩和の元になっている新古典派経済学の理念から言えば、 市場に誰もが参入できる環境整備を基本に公正な競争と価格調整力にゆだねれば豊かさの果実はおのずから得られるはずである。現にアメリカ経済はお手本のように経済成長を続けている。(コロナ禍による攪乱を除けば)。
 何が違うのか、日本では勝ち組の企業も、そこそこ勝ち組の企業もその利益を労働者に分配することなく内部留保金として貯めこんでしまうことが大きな要因である。財務省による「法人企業統計調査」によれば2019年度の内部留保金は475兆円、475兆といえばGDP にも匹敵する数字である。しかも8年連続で過去最高を更新している。
 企業経営者の立場から言えば、オープンな市場はたとえ今勝ち組であったとしてもいつ負け組に転落するかもしれない恐怖と背中合わせである。たとえ利益が出ても先行きを考えれば内部留保で備えようという心理が働く。と同時に労働者のほうも賃上げによる利益 分配よりも企業存続を前提とした現状の雇用維持を優先するから、結局労使ともに利益の分配に消極的なのである。結果内部留保金だけが積みあがってしまう。一企業の行動としては正しいとしても過半の企業が同一行動をとるとまさに合成の誤謬で経済全体は停滞する。日本のGDPの約7割は個人消費が占めているが、賃金上昇が見込めない以上「貧しい競争社会」になるのは必定である。政府が最低賃金のかさ上げを経済団体に要請するということ自体おかしな話であるが、そうなってしまうほどに経営者も労働者も委縮してしまっている。
こうなると更なる規制緩和では競争の激化だけが進んでその果実は誰も受け取らないという社会一億総不幸という社会になってくる。ここに超高齢化社会が重なって不安感だけが蔓延する。構造改革がもたらした日本経済の現実の姿がここにある。
 昭和の時代、規制がもたらす既得権の中での勝ち組の安心感ぐらい甘美なものはなかった。
 その成功体験を払拭できず、競争社会に保守的にしか適応できない経営者が多数派である限り、同時に業績の悪化に伴うリストラを恐れず利益が計上されているときは分配をきちんと要求する労働者が生まれてこない限り、社会全体の活性化は夢のまた夢である。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com
2021/06/15
路傍のカナリア 178

やがて悲しき令和かな

 仕事を進めていくうえで他者にアドバイスを求めるのはなかなか厄介な綾を含んでいて、どうということはないように見えて案外難しい事柄である。自店のスタツフに「こういう企画はどうだ」「新商品の取り扱いについてどう思うか」と尋ねたところ、適切な意見だっ たのでその通りにしたら成果が出た。
すると次第にこちらから求めたわけでもないのに、仕事に注文を付けたり批判がましい意見を言うようになり、結果として社内の人間関係がギクシャクすることがある。
社内だけでなくてもプライドの高い人や高名なコンサルタントに相談を持ち掛けると、今度はその通りにやらないとへそを曲げたり、嫌悪感を出されたりする。「私の提案通りにやらないから業績が上がらない」。アドバイスを持ち掛けたばかりにかえって批判されてしまう。
 どんなにいい提案と思われるものでも、資金の問題、人材の能力の問題、仕事量の増大の問題等、経営の総合的視点から見ての可否が優先されるわけでそれは当の責任者にしか判断できないものである。だから長たるものは、仕事を進めていく上での主導権をしっかりと持って、自らの判断こそすべてであると強く自覚していないと経営は漂流し始めるのである。
 今、政治の世界でオリンピックの開催を巡り、コロナ対策分科会会長の警告に政府側が不快感を示すさや当てが始まっている。構図としては似ているのだが、政府の対応が姑息なのは、それまでは分科会の意見を権威付けに使って政策を推し進めてきたのに、いざ批判的になると「個人的研究の結果」「別の地平からの意見」などと貶めて意見を聞くことさえ行わないという姿勢である。分科会の意見が時の政府の方針を追随しようが非難しようが、それらも判断材料の一つでしかないというあり方を当初より一貫して示しておけばそれなりに政府への信頼は揺るがないのである。
「専門家の意見を踏まえて」という文言の中に都合の悪い事態に陥ったときの責任の一端を担わせようとする意図が見え隠れする。
要するに政治の器が小さいのである。批判は批判として受け止めて決断と責任はすべて引き受け、それで失敗したら地位を去るという捨て身がない。コロナ感染防止と経済の運営とオリンピック開催の三兎を追いさらに根底において政権の維持延命という四兎を追う政治の現在は、結局全てを中途半端にして、いつまでも浮揚しない令和日本を作り上げている。平時ではない国家の危機というべき事態に臨んでいるにもかかわらずだ。でもそれ は国民が選んだ政権でもあるのだ。天に唾するがごとき批判をしても空しいか。
 下り坂である。日本は明らかに下り坂である。政治の様相が暗示している。スペイン風邪の猛威から数年後関東大震災に見舞われ、昭和恐慌、軍国主義へと流れていった戦前の時代をなぞるように令和も「やがて悲しき」時代になるように思えてならないが、杞憂であれば幸いである。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com
2021/05/15
路傍のカナリア 177

マスクをしない自由

マスクをしない自由を主張する人々がいて、公共交通機関や飲食店で一悶着を起こして いる。マスクをする法的な義務はないわけであくまでも行政による要請である以上、彼らのマスクをしない自由は尊重されなけれ ばならない。けれども報道の映像を見ているかぎり警官を含め関係者が当の本人を取り囲んで事実上マスクの装着を強制している。異様な光景である。
悶着と書いたが、それはマスクを要請している側が起こしている悶着であってマスクをしていない彼らは、他者に対してマスクをはずせと言っているわけではない。にもかかわらず映像の構成は、このマスクをつけない人たちこそが社会の迷惑犯のように決めつけていて、見ている我々も彼らを非常識極まると思い込まされてしまう。これも異様な心理で ある。彼らは感染陽性者というわけではない。ただマスクをしていないだけである。
 この問題は思想や宗教のようなイデオロギー上の多数派と少数派の対立に通じる話である。多数派が圧倒的であればあるほど少数派を追い詰め迫害し壊滅してしまおうとする力が自然に働く。そこに社会正義という旗が掲げられる。けれども社会の健全さというのは 様々な価値観の共存であり思想の自由とそれに伴う法に抵触しない限りでの行動の自由が担保されてこそ維持されるものである。ダイバーシティなどという言葉がはやっているがこういう時こそ声を上げるべきではないのか。多数派が自己抑制しない限り少数派への圧力は強くなる一方である。
 佐藤優が「民族問題」に関して日本人というのは民族についてさほど敏感に反応しないのは自分たちがこの日本の中で圧倒的に多数派であるからだと指摘していたが、その多数派感覚が必要以上に少数派を異物として排除しがちなのである。少数派による痛撃をうけ た民族的体験がないから安直に「一億総活躍社会」などという全体が一つになるようなスローガンが出てくる。社会の根っこは戦前も今も変わっていない。
 マスクをしない人たちの考えも尊重すべきではないかとネツト投稿したらアオポチ(賛成)とアカポチ(反対)がきれいに半々に分かれた。予想では反対が圧倒的に多いと思っていたがそれだけまだこの日本の社会は常識的な許容度が保たれているしマスクをしない自由に共感している人たちは結構いるのだろうが表に出てこない。ただこれからはどうだろうか。
 GWに「ノーマスクピクニックデー」が企画されたが、誹謗中傷と参加個人が特定されかねないということで中止に追い込まれた。感染第4波の襲来がこの社会に「一億総マスク」の強制をもたらすかもしれない。私設「マスク監視隊」が街中を巡回する風景はけっして非現実ではない。そしてもう一つの仮想現実について触れておく。ワクチンが行き渡り大多数の人がマスクなしの生活に戻ったとき今度はワクチン接種を拒否しマスクをつけている人たちに対して接種とマスクを外す事実上の強制が生まれるということである。  「多数派の安心安全」とその対極にある「多様な価値観の共存」について考えておかないとあっという間に社会は一色に染められ、思想、表現の自由は窒息しかねないのである。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.co
2021/04/14
■ 路傍のカナリア 176

和式トイレと理想のトイレ
 昨年の夏に腰を痛めてから洋式トイレを使っていたが、腰の状態も良くなってきたのでこの頃は和式トイレを利用している。しばらく振りで感じるのは「しゃがむ」という行為は足腰に結構な負担がかかるということである。また、しゃがんでから立ち上がるのも厄介である。
「しゃがむ」というのは生活の中に組み込まれた行為でないから余計負担感を感じるのだろう。それではと部屋の中で「しゃがんで」それから立ってみるとさほどではない。楽なのは、かかとを床につけていないからで実際にトイレを使用するときは脚を開いてかかとを床につける。ふくらはぎが押される感じで、この姿勢から立ち上がるのは力がいる。
洋式トイレが普及して日本人の足腰が弱くなったと言う人がいるが、毎日の所作だけに侮れない影響が出ているだろう。的確な指摘だと思う。大相撲で土俵に根が生えているように見えるほど重心が低い力士を見かけなくなった。小兵ながら土俵際のうっちゃりを得意とする力士も見かけなくなった。このあたりは和式トイレの減少が遠因かもしれない。
私が和式トイレ(水洗)にこだわるのは、足腰のためというより、排出された便や尿をより間近に見ることができるためである。昔から便や尿は汚物として扱われてきて、話題になるのは検便の時ぐらいだが、それでも汚いというイメージはそのままである。が、便や尿は、自分の消化器系の生の情報である。これくらい確かなものはない。よく観察するには和式のほうがはるかに便利である。便は、食したものと因果関係がある。便から辿ってなにを食べると自分の体に負担がかからない排泄ができるかある程度は分かるはずだし、それが自身の健康に寄与することは言うまでもない。バリウムを飲んだり、胃カメラや内視鏡で体内をかき回されて医源病のリスクにさらされるよりも、はるかに自然な観察方法だといつも思っている。
栄養学は、体に食物を取り入れることに重点があるが、排出から食物を見る視点は同等の意義以上を持っている。なぜかと言えば、栄養学は所詮一般論だが排泄はその人固有の体の反応だからである。野菜を取れ取れと家人が口うるさいが、トイレを見ながら、何を食べることがいいかを考えている自分のほうがはるかに健康的なことは言うまでもない。
とはいえ、まだまだ便や尿の即時の分析ができてはいない。水洗で流したらカタカタと脇からレジ用紙が出てきて、そこに食したものの何が残されていて、どの程度が体内に吸収されたか、それは標準値からみて許容範囲か否か、などなど数値が印字されていれば自分 健康度が分かろうというものだ。以前、医師に腸の潰瘍性の潜血と痔の潜血は検便検査で区別がつくかと問うたところ、それは分からないと言われたが、 即時分析のテクノロジーが進化すれば、それすらも可能なはずである。分析された排出物は、水分が分離され臭気が除去された顆粒状に加工されて肥料として役に立てる。回収箱に入れるとお金が出てくるというシステムは私が考える理想の食物エコロジーでありトイレである。この程度のテクノロジーは今でもたぶん可能だろうがそうならないのは排出物を汚物ととらえるか、体内情報なのかという健康につながる「思想」の問題ではないかと常々思っている。
それにしても我々が生理的に排出するもの、汗も唾も便も鼻水も、みな不衛生極まりないものであるが、同時に観念として排出するもの、音楽も絵画も文学も学的論も含めたトータルとしての文化は人々に感動と勇気と進歩をもたらすことを考えあわせると、人間というのは不思議な生命体であると思わずにはいられない。              
貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com
2021/03/15
■ 路傍のカナリア 175

発電のイロハ

原子力発電=湯沸かし発電

 「健康な時を忘れているのが健康」。私の好きなキャッチコピーだが、確かに健康を損ねて初めて健康の有難みが分かる。
生活の中での電気も同じことで、普段は当たり前のように使っている電気も、停電にでもなれば本当に衣食住のすべてが立ちいかなくなる。電気は現在の生活を根元で支える基盤のエネルギーである。
けれども自分は科学的知識が乏しいので、電気がどのように作られるのか、その仕組みがさっぱり分からない。まして原発の仕組みなど論外である。そこでにわか勉強をして「蝶でも鹿でも猪でも分かる発電の仕組み」程度の理解には達した。このコラムはその程度の話である。  
風車に息を吹きかけると風車はくるくると回る。発電とはこれだけのことである。実にシンプル。発電機の先に風車のごときタービンが付いている。実物を見たことはないが、図から想像するに水車のでかい奴だ。それが回れば発電機から電気が生まれる。そのタービンを回す力が、水の力なら水力発電になる。 高所に水を貯めておいて一気に下に流す。要するにダム。その流れにタービンをさらして回すのである。それにしても電気を起こすタービンを回すのにダムとは、なんと大掛かりな仕組みだろう。  
火力発電というのは蒸気の力でタービンを回すのである。ヤカンに水を入れて火にかけるとお湯が沸いて蒸気が出る。この仕組みで蒸気の力を利用する。 だから火力発電というのは蒸気発電、 湯沸かし発電と名付けたほうが実態に合っている。お湯を沸かしているだけだから。燃やす燃料は主に石炭、石油、液化天然ガスである。よって発電所からモクモクと大気汚染の原因になる煙が出る。蒸気とモクモク煙といえば蒸気機関車。そう蒸気機関車と火力発電は全くといっていいほど同じ仕組みである。蒸気の力をピストンを使って動輪に伝えれば機関車は走る。映画で機関車の機関士が石炭を炉に放り込むシーンを観るが、あれはただ単純にお湯を沸かしているのである。歴史的前後からいえば蒸気機関車が先にできて、それの模倣として火力発電所ができたのだろう。似てるわけだ。  
蒸気でタービンを回すのは地熱発電もバイオマス発電も同じ。風力発電も風の力でタービンを回している。理屈は簡単なのだ。では原子力発電はどうなのか。原発というと、すぐに核燃料、濃縮ウラン、プルトニウム等々難しい用語が出て来て、さぞや複雑極まる構造を想像するが、要は火力発電の鬼っ子みたいなもので、お湯を沸かす燃料が石炭などの化石物からウラン燃料に変わっただけ。ウランは放射性物質だから取り扱いが極めて危険なうえに燃やす炉も原子炉になるわけだが原理は同じ。 核燃料で沸かしたお湯の蒸気でタービンを回している。そういう意味では原子力発電といっても「な〜んだ」という話なのだ。(太陽光発電はタービンを使用しないから例外)  
私の理解はここまで。電気は発電機のタービンを回せば生まれる。ただどのような力を利用するかで水力と火力(蒸気)に分かれるということだ。それなら不毛ともいえる原発安全論争を延々と続けるより国民みんなでタービンを回す新しい力を考えたほうがずっと生産的ではあるまいか。  
高齢化社会の中で、一人一人が健康に関心を持つようになってきた。けれども社会の健康を支える電気のほうはどうだろうか、まだまだ敷居が高く専門家にお任せだが、大雑把な構図は難しくない。じいちゃんからばあちゃん、子供たちもみんなで考えて知恵を出す。ひらめいたアイデアでいい。あれから節目の10年、誰もが電気に発電にいくらかでも関心を持つことが福島原発事故の教訓のように思える。貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2021/02/15
路傍のカナリア 174

妄説 本能寺の変

 なぜ光秀は信長に謀反を企てたのか。その動機が明らかになれば「本能寺の変の話は一段落する。諸説あるが、私のものは素人の妄説だからそのつもりでお読みください。
 桶狭間-信長は今川義元が桶狭間に陣を構えて休息していることを知るや、いきなり飛び出し気づいた家臣が追いかけ自らの陣容が整うや否や、一気に攻勢をかけて義元の首をはねてしまった。電光石火の一撃である。乾坤一擲、のるかそるかの勝負であった。
 信長は急いだ。もしも義元が桶狭間から陣を立てば万に一つのチャンスは消える。いやそれ以上におのれの動静が義元が放った間者の監視に捕捉され義元の耳にいち早く伝われば、奇襲のつもりが待ち構えた義元の罠にはまって織田は全滅する。一刻も早く桶狭間に行かねばならぬ。従うのは精鋭だけで十分。目立っては奇襲にならない。
 信長は独断する。桶狭間に義元を討つ、その策略を家臣たちと軍議を謀れば情報は洩れるかもしれない。家臣の中に義元に内通するものがいないとは限らない。織田の形勢は不利。強者に付くものがいても不思議ではない。大軍今川とどう戦うか信長は日夜考え抜いただろうが、心中は漏らさない。
 信長は物言わず飛び出す。説得も指示もなくても自分が動けば家臣は一糸乱れず追随する。そういう軍団を作り上げていたのが信長である。
 義元は油断をした。強者の性である。義元の油断はたぶん全軍に行き渡っていた。側近も家臣も雑兵も放った間者も同じように油断をした。それでも勝てるという確信に近いものがあったか。情報の精度も速度も分析も甘かったはずである。桶狭間の勝利はまさに信長の勝利である。
 本能寺-光秀には桶狭間の信長にあったものがひとつもない。彼は亀山城から本能寺まで全軍を移動させる。 おおよそ一日半かける。急ぐでもなく淡々と軍を進める。なぜ?2万もの軍勢が動けばその不自然な行軍は信長に伝わるかもしれない。
 光秀は側近に謀反を打ち明ける。謀反に大儀はない。大儀がなければ内通者、脱落者は出る。
 それでも打ち明けたのはなぜ? いやそもそも信長が本能寺に泊ることを光秀はどうやって知ったのか。敵方ならともかく主君の動きに間者を前々から放っていたのか、それはいかにも不自然である。6月1日夜信長は茶会を催す。よって本能寺に泊る。この「信長が必ず本能寺にいる」という情報の正確さが謀反成功の核心である。では誰が光秀に伝えたのか。京都を含め畿内を制圧し宗教を信ぜず自ら日本の国王を目指し天皇すら下に置こうとする信長の革命とも破壊ともいうべき振る舞いに危機感を持った勢力に違いない。
 ここからは本当に妄説である。光秀は耳打ちされる。信長の権勢がこのまま続けば日本という国に千年の長きにわたって続いてきた天皇を中心にした権威のヒエラルヒーが崩壊する。日本固有の文化も伝統も破壊される。それを阻止できるのは今、光秀あなたをおいてほかにいない。
 光秀にとって信長は討つべき敵ではない。ただこの国の将来のために討たねばならぬか、もちろん自らの野心もあっただろう。光秀は決断する。が決断の重さに耐えられない。もともと天下を取る野獣のごとき熱があるわけではない。迷いが生じる。謀反の汚名を背負っても主殺しの非難を受けても信長を討つべきか、迷いながら軍を進める。迷うから家臣に伝えて反応を見る。迷うから急がない。が事は進行し成り行きの流れを止めることはできなくなる。本能寺に信長を討つがそこまでの人であった。
 教養人光秀には逸話が少ない。歴史の時空を突き抜けて現在にまで届く狂気がない。信長にも秀吉にもあった。たぶん田中角栄にもあった。その狂気が人を魅了する。光秀自身には動機らしい動機がない。誘いに乗って信長を討ったが多くの武将は馳せ参じない。派手を好まず仕事を任せればそつなくこなす頭脳明晰な官僚は天下人に使われてこそ、その輝きを増す。光秀はおのれの器量を見誤ったというべきか -。結果光秀は黒幕の手のひらで踊ったヒットマンになり果てた。
 我々は今も天皇制の枠組みの中にいる。信長は消えた。危機は去った。歴史の闇の奥から黒幕達の高笑いが聞こえる。          貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com
2021/01/15
路傍のカナリア 173

「泣かないで〜あの人はお前に似合わない」
(中島みゆき「あばよ」)

 女性の観察力は鋭い。男は踊っているうちに丸裸にされているから浮気は大概ばれる。女性の側は頃合いを見計らってズバリと核心に迫る。言い抜けは難しい。それでも風俗の姉ちゃんと一晩二晩過ごしたとか、店の女の子と食事デート程度なら、「次はないからね」と釘を刺されてごつごつした日々を送るうちにまあなんとか収まるのである。
亀のように手足も首も引っ込めてじっとしているに限る。突っつかれて痛い目に合う程度は致し方がない。
これがお互い深い仲になって戻れない川を渡るがごとき道行きになると、 それなりの覚悟を要するのだが、男というものはそのあたりが結構いい加減なのである。進退窮まる修羅場にぶっかって初めて事の重大さにオタオタする。女性というのはそのあたりを心得て いて度胸が据わっている。「女は度胸、男は小心」は男女のもつれについてはその通りである。
 あの会見の時、東出昌大はなぜ唐田えりかを庇うような発言もせず妻杏のところへ戻ろうとしたのか、川を渡ってしまったのになんとも往生際が悪いのである。あれでは誰も ハッピーにはなれないだろうと思ったが、その通りの展開になってしまった。 仮に昌大が頭を下げて杏との元の生活に戻ったとしても、そこには自己の潔白証明と妻の疑心暗鬼が常にせめぎあう殺伐とした風景が見えているだけである。
 芸能界の色恋沙汰など日常茶飯であろう。朝に始まり、夕べに終わる恋物語は驚くことでもなく、東出夫妻の話題もその程度の話の一つに過ぎないと言えばそうなのだが、だからといって人が人を愛することも軽薄なものかというとそこは違うだろうと思える。
愛には対象を我が物にする「奪う愛のエロス」と一身を捨てても他者に「尽くすアガペー」があると学生時代に読んだ本に書いてあったが、どちらにしても愛というのは一途で純粋なものである。芸能界の男女の関係が世間的な感覚から言えば乱脈で性欲まみれの薄汚い渦のように見えるにしても、またそれが真実の一部であったとしても、 その世界から美しい、あるいは悲しい恋愛の楽曲が生み出されているというのも真実である。男女の混沌とした芸能の世界にあっても、誰もがまっとうな愛に飢えているのである。不倫も貫徹すれば愛の証明になる。
 「この世の名残世の名残手に手を取って昌大えりかの逃避行」の美学は幻であった。  メディアのバッシングの中で唐田えりかは沈黙を通した。謝罪を含め何一つコメントしていない。いっとき行方知らずになったが、今はまた復帰に向けて準備していると報道されている。妻子ある東出との3年にもわたる逢瀬を彼女がどう受け止め、どう先行きを見て いたかはわからないが、処世の計算と快楽への惑溺だけがあったとみるのは意地悪に過ぎるであろう。むしろ「えりかの沈黙」に東出への真摯な愛情と土壇場の背信への非難を見るほうが正解に近いと思える。
 東出も杏もえりかも、既に一区切りをつけて新生活を始めているようにみえる。この不倫騒動も既に鮮度はなくなっている。が、えりかの時間はあそこから動いているだろうか。あの時えりかの祖父が語ったコメントがとても印象深いものであった。「かわいそうに、一人だけ悪者にされて、(東出を)好きだったろうに」。
 唐田えりかの恋心は注目されることもなく置き去りにされたままである。この拙いコラムを書いたのはいささかなりとも彼女の心情を掬いあげてみたいと思ったからである。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com

2020/12/14
■ 路傍のカナリア 172

虚飾のブランド 巨人軍の敗北

 2020年のプロ野球日本シリーズは圧倒的な力を見せつけたソフトバンクが勝利した。巨人軍は敗れた。「敗れた」この表現はたぶん適当ではない。「粉砕された」見ている限り誰もが感じたのはこの感覚だろう。
パ・リーグの覇者とセ・リーグの覇者が戦って素人目にも明らかなほどの実力差が見える 試合ほどお粗末なものはない。素人目にわかるというのは幕下の力士と横綱が相撲を取るようなもので、勝負の綾など微塵も見えない彼我の力量差のことである。シリーズ後、原監督は「何が足りなかったか頭を整理してみる」という談話を残した。足りなかった? 何が? まるでどこか部品が足りなかったのようなニュアンスである。打撃力か 投手力か 守備力か 分析の思考は確かにパーツにたどり着く。けれども違う。足りないのではない、欠落しているのだ。 「強いチーム」とはいかなるものかという思想そのものが。  
野球人にとって巨人軍は今でもあこがれの球団である。伝統あるジャイアンツのユニフォームに袖を通すことは無上の喜びでもあるだろう。ブルガリやヴィトンやエルメスと同じ様に巨人軍はプロ野球界のスーパーブランドなのである。
スーパーブランドは消費者に夢を売るために莫大の金をイメージの維持創出に投資をする。まるで虚飾の商売に見えるが、そうではない。提供している時計もジュエリーもバッグもその他もろもろの雑貨にしても、その品質は銘にふさわしい一級品である。その実質があってのスーパーブランドなのである。 消費者の信頼をそこで裏切らない。巨人はどうだ。日本一の練習量があるか、巨人の選手ならどの球団でも通用するという話題はあるか、2軍の練習設備はどの球団も追いつけないほど充実し、他球団の模範になるほどか、スカウ ト網なら選手の素質を見抜く目は群を抜いているか、データ分析に至っては 最先端を行き他球団の追随を許さないか、若手の芽を伸ばすコーチの育成力は日本一か、チームの強さとは、この勝敗を裏から支える種々の総合力に他ならない。何年もかけて積み上げたもの である。それがブランドのブランド足る核心である。
「負けて強し」と感じさせるものである。そこを欠けばブランドは人気だけの虚飾にまみれる。そして本当に巨人は粉砕された。もしも原監督を含め首脳陣に、シリーズは確かに敗れたが、気持ちを切り替えて来シーズンに臨もうという平凡な考えがあったとしたら学習能力のない鈍感である。昨年の日本シリーズ4連敗総括の文言として通用しても、更なる4連敗の今、ただ前に進めば事は成ると思うなら来期も危うい。  
ソフトバンクと巨人軍の戦いは「強さとは何か」という思想の戦いである。思想の敗北は思想の変革によってしか償われない。「常勝巨人」の旗は「強者巨人」を意味しない。そこが分かるかどうか、巨人の歴史的分岐点である。  
今年、我々はコロナとの戦いに明け暮れた。厳しい戦いだが負けてはいない。粉砕もされなかった。誰もが我慢し、自制し、社会は秩序を保った。モノの豊かさだけではない、しっかりとした強さが根を張っていたのである。これはいまある我々の力だけではない、先祖からの累々と積み上げられてきた力である。縄文から弥生へ、飛鳥から奈良平安へ、そして徳川明治を経て現在へと連綿と続いてきた無名の人々の営みが作り上げた社会が、強靭なのである。
コロナとの戦いに勝利したわけで はないけれど、少しだけ誇らしく胸を 張ってもいいだろう。              貧骨   cosmoloop.22k@nifty.com

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