高野耕一のエッセイ

2013年8月12日 月曜日 12時22分13秒
海とサンドイッチ


2013年夏、江の島がアメリカになった。東京オリンピックを機に造られたヨットハーバーと向かい合う東浜に、クロスポイントの小池番長と伊藤さんが、「チーズステーキサンドイッチ」の店を出した。東浜は、ぼくが学生時代にアルバイトをしていた懐かしいビーチだ。こう見えても当時は湘南ボーイだった。若い男ならだれでもボーイにはなれるが、湘南ボーイにはちょっとやそっとではなれない。「なったらどうなんだ」といわれると困る。波乗りもできないし、ビーチでウクレレ片手に歌うほど歌もうまくない。水着の女性と見れば「きみ、かわいいね」と、見境なく声をかける日々だった。それも湘南ボーイの大事な務めだ。コカコーラを身体にぶっかけて真っ黒に日焼けし、7月と8月の2ヶ月を海パン1枚で過ごす。東京のことも、空手のことも、勉強のことも、頭に一切なし。空手道部の先輩の代から浜で睨みを効かせるだけ。空手一筋の格闘バカでも務まる仕事。海風に吹かれる雲となって時をやり過ごす。自由とは、江の島東浜のことなんだ。そんなとき弟みたいにつるんでいた地元腰越の臼田ユキヒロくんが、いま東浜海の家協同組合の組合長になっている。浜の悪ガキも時が経って立派になった。もっともこの男、母親の影響か、昔から妙に責任感が強く、仲間の面倒をよくみた。お節介も生き方も、フーテンの寅さんそのもの。その頃宿題抱えてビーチをちょろちょろしていたユキヒロの甥っ子がいた。高校生だった洗心亭の息子ユキオだ。あのちょろちょろ高校生がいまでは藤沢市の市会議員だというから、海は気まぐれ、ビーチではなにが起こるかわからない。そのユキヒロの世話で、「江の島亭」海の家に番長と伊藤さんが店を出した。そこで一時、渋谷のクロスポイントはメニュー開発研究室になった。もともと伊藤さんのおでんと鍋は絶品、近郷近在では知らない者がないほど旨い。だが、夏の海におでんはどうも似合わない。サザンの歌に鍋は合わない。そんなとき、番長が「チーズステーキサンドイッチ」に目をつけた。アメリカに2年間遊学していた番長は、180センチを超える長身でバリバリの体育会、神奈川県では伝説のサッカーマン。普段、ショッピングセンターの企画で眉に皺を寄せているが、ギターを抱えると突然ジミー・ヘンドリックスに変身するアメリカン。伊藤さんはというと、次郎長一家の居合いの名手小政のように、柄は小さいが切れ味抜群。情の厚い、穏やかな沈思黙考人。メディアプランをさせたら、小政の切れ味だ。この大小無敵のコンビが、ああだこうだ、あっちのパンだこっちの肉だと、くる日もくる日も味の追求にオオワラワ。「これじゃ3000円のサンドイッチになっちゃうぞ」と、ため息をつく番長。「旨くなくちゃダメ」と、すっかり道場六三郎の伊藤さん。試食のサンドイッチのおかげで、ぼくは3キロも太った。もうこれ以上太れないという頃、メニューは完成した。フィラデルフィアで生まれ、マンハッタンで大人気の「チーズステーキサンドイッチ」は、現地のサンドイッチよりもはるかに旨い。もっとも現地の本物を食べたことのないぼくには比べようがない。これはシラス以来の江の島名物になる。そう踏んだぼくは「江の島・イーストビーチ・チーズステーキサンドイッチ」というネーミングはどうだ、と提案。東浜だから、イーストビーチ。ベタかな。こだわりの2人が厳選した上質のステーキをあふれんばかりに挟み、たっぷりのチーズを乗せた「江の島・イーストビーチ・チーズステーキサンドイッチ」は、スイートでボリュームがあって熱く、夏の恋の味がする。サザンの歌と寄せる波がよく似合う。ちょっと誉めすぎだが、それだけの価値はある。湘南江の島東浜に行かれる方は、ぜひお試しいただきたい。この新聞をもって番長か伊藤さんを訪ねれば、20%引きにしてくれる。お願い伊藤さん、そうして。後でぼく、払う。ああ今日も暑い。海とサンドイッチがぼくを呼んでいる。
tagayasu@xpoint-plan.com




2013年8月12日 月曜日 12時20分37秒
若い川の流れ


夜明けの光をあびて、キラキラと飛沫をあげて若い川は流れる。力に満ちた眩しいその輝きは、今日の希望の光であり、明日の夢の光だ。次から次へと湧き上がる若いエネルギーは、自分でも抑えきれないくらいに燃え上がる。若さとは本来そういうものだ。剣の天才、宮本武蔵もそうだった。織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたすぐ後に生まれた武蔵は、十三歳で新当流有馬喜兵衛を打ち破った。その武蔵が青春期にさしかかった頃、豊臣秀吉が死に、徳川家康が天下統一の入り口にいた。もはや、一つの社会形態は出来上がっていた。身体の芯から吹き上がる赤い野望に突き動かされた武蔵は、関が原の合戦に参加した。だが、そこには絶望しかなかった。一人の剣が時代を創る時代は終わっていた。関が原の合戦は、すでに集団戦だった。軍勢と軍勢が激突するチーム戦だ。敵を切るべき武蔵の剣は、虚しく空を切った。そして、家康による天下統一が実を結ぶと剣の時代は終止符を打った。すべての武士は戦闘を封じられ、すべての若者は一国一城の主への夢との決別を余儀なくされた。家康の天下統一は、さざなみ一つさえ許さない天下の平定だった。現状を維持して波風を一切起こさない、それだった。大名はもとより、人々は大過なく過ごすことを強いられ、家康の権力に虚勢された。ただ剣一筋に夢と希望を託した武蔵は、自分の進むべき道を完全に見失った。吹き上がり溢れる力、強烈な上昇志向を抱く武蔵は、それでもなお剣にすがるしかなかった。だが、遅すぎた天才の行く道はない。戦闘そのものがすでに意味も大義ももたない時代の到来。それを知りながらも、剣を捨てきれない武蔵。その若い魂は、剣に生きる道を遮二無二突き進むしかなかった。戦闘に意味があるのではなく、勝利そのものに意味を見出すしかない。時代に敏感な武蔵は、そう感じた。もはや剣で名をあげるしか道がない。有名になりたいだけでテレビに出たがるタレントみたいなものだ。室町からの名門吉岡剣法に戦いを挑んでことごとく撃破し、名をあげた。死闘の果てにつかんだ勝利だが、それ以上のものはない。勝利以上でもなく、勝利以下でもなく、ただただ勝利だけが目的の戦いだった。武蔵は戦って戦って、勝利しても勝利しても、飢えた魂は満たされない。不完全燃焼のまま、時は過ぎ、老いて行く。思えば、徳川二七〇年は、武士の不完全燃焼の時代だった。刀を腰に差していても、人を斬ってはいけない。それなのになぜ、武蔵はむきになって戦ったのだろうか。そこで、現代の若い力はどうだ。上昇志向は否定され、もてる才能は時代に葬られ、溢れるエネルギーをもてあます。まるで、それでは武蔵ではないか。高度成長時代の夢も希望も、いまはない。目立ってなにかしようとすると、社会が足を引っ張る。会社が足を引っ張る。上司が足を引っ張る。そのくせ、改革とか革新とか騒ぐトップほど、目立つ社員を潰しにかかる。こんな上司は家康以下だ。家康ほどの権力も財力もないくせに、いまの保守安定がお気楽だから、さまざまな言い訳を用意して、若いエネルギーを潰す。会社が下り坂になっても、現状から抜けないまま若い力を潰す。就職を望んだ武蔵も、結局はフリーランスで生きるしかなかった。夜明けの光をあびて若い川は、キラキラ輝きながら流れる。この清冽で溌剌としたエネルギーこそが、世界の国々と堂々と渡り合っていける日本の力だ。大人たちはいまこそ、その若い川の流れがやがて大河となり大海に注ぐよう、敬い、暖かく見守るときだ。武蔵の孤独は、宮本武蔵一人だけでいい。
tagayasu@xpoint-plan.com



2013年6月19日 水曜日 13時34分13秒
多摩川のサリーは、魔法を使ったか。


少女は11歳。小学6年生。風になびく黒髪は肩まで伸び、スリムな長身を包むのは質素な服。男の子が着るようなだぶだぶの、英文をプリントしたトレーナーを着、膝下の長さのベージュ色のパンツを履いている。自然素材で作られた石鹸のように清潔な少女だ。「名前、なんていうの?」。「サリー」。学校で、ヒップアップダンスを始めたという。酒屋の使うビールケースの裏側に並ぶ小穴のひとつ一つに、河原の石を拾っては埋めていく。石ころだらけの河原にうずくまって座り込み、きちんと端の穴から順序よく、穴に合う大きさと形の石を選んで並べていく。「魔法使いみたいな名前だね」。「よく、いわれる」。石から目を離さずに、言葉少なに答える。「魔法、使えるの?」。そう聞くと、ふと顔をあげて照れくさそうに微笑み、首を左右にふった。その微笑みが、どこか寂しげだ。「でも、使えそうだね、使えるといいね」。河原で釣りを楽しむチャルメラおじさんたちの孫にあたる年齢。おじさんにもらった釣竿で、彼女は釣りをする。週末、たった一人で河原に釣りにくる。めずらしい。近頃では家族で釣りを楽しむ光景さえ見られないのに、小学生の女の子が一人で釣りをする様子は、ちょっと不思議で切ない感じ。「父親から教わったらしいですよ」。チャルメラFおじさんがいう。竿をあげたのはFおじさん。仕掛けをあげたのはAおじさん。リールの扱いを教えたのはKおじさん。餌をあげたのはIおじさん。サリーちゃんは、河原のアイドルだ。「そのお父さんがいまはいないようです」。両親が離婚したという。サリーちゃんの寂しげな感じはそこからきているのかもしれない。別れた父が教えてくれた釣り場にきて、少女は一人で釣りをする。切れ長の瞳の奥に、けなげな強さがふと見える。歯を食いしばって生きる切なさがうかがえる。おじさんたちは、いたく同情する。「兄弟はいるの?」。「弟」。「いくつちがうの?」。「二つ」。「じゃあ、生意気だろ、弟くんは?」。こっくりとうなずき、うれしそうに微笑む。弟をかわいがっているのだな、と思う。「お昼にしませんか?」。12時になって、チャルメラFおじさんが呼びにくる。おじさんたちは、鉄橋下に集まってお弁当を食べる。「サリーちゃんもおいで」。Fおじさんが手招きをする。サリーちゃんは、自分で作った手づくりのお弁当を広げる。掌くらいの小さなピンクのプラスチックの弁当箱に、少しの野菜と小さなパンが見える。「これ、おいしいから食べな」。Iおじさんが煮物を差し出し、Kおじさんがサンドイッチを差し出す。「魚、どこに行ったんだろう」。「みんなで温泉にでも行ったかな」。その日はまるで当たりがない。どの竿も無言のまま、風に吹かれるだけ。ところが、午後になってサリーちゃんの竿に突然、40センチの鮒がきた。驚いて歓声をあげる間もなく、すぐ隣のKおじさんの竿の鈴が鳴り、鯉がきた。つづけて10メートルほど上流に出しているFさんの竿がしなる。「なんだ、なんだ、すごいね」。そして、わたしの竿にも鯉がきた。「魔法を使ったね、サリーちゃん」。Aおじさんが、サリーちゃんにいう。「そうだ、サリーちゃんの魔法だ」。Iおじさんがいう。サリーちゃんは恥ずかしそうに首を左右にふる。でも、うれしそうだ。本当に魔法が使えたらいいのに。みんながそう思った。



2013年5月1日 水曜日 10時38分57秒
自由の時代へ。


ぼくらの自由の時代は終わった。少なくとも、ぼくの自由の時代は幕を閉じた。信州のあの山と川、あのりんご畑に吹く風には自由が無邪気な声をあげて笑っていた。青空を突き破り、流れる雲を従えて立ち上がる中央アルプスの蒼き山々には、小鳥たちがさまざまな音階で歌を歌っていた。白い小路でひろった小枝を振り回し、野ウサギを追った日々はすでに遠い。空腹になると畑に手をのばし、気ままにりんごや桃をもぎ取って小川で洗って大口でかぶりついた日々はすでにない。澄み切った小川に小鮒を追い、青い甲羅のカニをつかまえて過ごした日々はもはや夢だ。あのときのぼくは、無邪気な雲だった。東から風が吹けば西に流れ、南から風が吹けば北へ流れ、その日その日が風まかせのはぐれ雲だった。まだ小学校に入る前で、見るもの聞くもの触るもの、すべてが身になり脳に吸収され、自由は翼を広げ、才能は大きく羽ばたいた。下落合の山と川にも自由があった。学校の勉強が薄皮を剥ぐように、徐々にぼくから自由と才能を奪っていったが、川や池には遊び仲間の魚も亀もいたし、真っ赤になって腰を曲げ、鋏を持ち上げて威嚇するエビガニもいた。えらそうに髭を生やす泥鰌もいた。なによりも農家の庭先の柿や枇杷を盗んで齧りあう友がいた。鞍馬天狗のまねをしてチャンバラごっこをしたり、缶蹴りや隠れん坊や縄跳びをする仲間がいた。パチンコで猫を打ち、学校で禁止されているベーゴマやメンコをともに楽しむ友がいた。麦の実をつまんで口で噛んでガムをつくったり、隣町へケンカに出かけ、おでこにできたタンコブとボタンが取れて破れた服を笑いあう仲間がいた。教科書をなくしたら見せあい、宿題を忘れればノートをそっと差し出す友がいた。先生に怒られればいっしょに家出をしてくれる仲間がいた。お寺の境内の森に秘密の隠れ家をつくり、親や学校にはナイショの宝物を隠した。自由を絵に描き、自由を文字に書いた。木に上り、崖から落ち、腕を骨折した。中学高校時代には、ますます学校がぼくから自由を奪い、翼をもぎり、いつの間にか信州の天才、下落合の英才は、その影も形もぼやけていった。スポーツには自由があった。勝っては笑い、負けては涙を流す自由があった。バレーボールにはチームメイトと心と力を合わせ、助けあい、かばいあい、同じ目標に向かう自由があった。柔道と空手にはつかみあい、殴りあい、ともに血と汗と涙を流す自由があった。やんちゃな自由が翼を広げ、肩で風を切って繁華街を歩き、ヤクザに追われて逃げ回る仲間がいた。世間に背を向け、父や母に反抗する自由があった。恋に破れれば慰めてくれ、新しい恋をいっしょにさがしてくれる友がいた。屋台で安い焼酎を飲み、天下国家を論じ、明日の姿を夢見る自由があった。やがて就職して社会人になり、好きな娘ができ、結婚してぼくの自由は跡形もなく消えた。仕事の中で、わずかに残る信州や下落合にあった自由が翼を広げる瞬間、ぼくの心は狂喜する。一文字の自由。一文の自由。脳の開放。心の羽ばたき。そこにぼくは狂喜し、その一滴の自由にすがる。幼い子どもは、だれもみな天賦の才をありあまるほど両手に抱えている。その自由な生命は才能の塊だ。だれもみな、山であり川であり、雲だ。その天才、その自由は、どこへ消えてしまうのだろうか。だれが奪ってしまうのだろう。国家という名目で無謀な管理をする大人たちだろうか。社会という名の世間の顔色を伺い、責任回避を続ける親や先生たちだろうか。その根っこには、自由という荒馬を乗りこなせないまま敗戦国に押しつけた強大な国家の乱暴な拳があるのだろうか。自由の翼、才能の羽ばたきには、悠々と飛翔する心の大空が必要だ。人間として学ぶべきは、その大空にあるたった一つの正義だけでいい。すべての人間が幸せになる道。自分勝手のわがままは捨てさり、だれもが幸せになる正義という道だけを学べばいい。父が昔教えてくれたお天道様がいれば、それだけでいい。もう一度、天が与えし純粋な子どもたちの才能からぼくはなにかを学びたいと願う。いつの間にか失ってしまったあの自由の日々が再び訪れることを願い、正義の青空に浮かぶあの信州の雲のように、渋谷の居酒屋の大空を今日も酔いながら、風に吹かれてぼくは流れるのだ。
tagayasu@xpoint-plan.com



2013年4月2日 火曜日 16時16分14秒
歴史は郷愁ではない。


歴史は郷愁ではない。「いま」という私を生み、育てた母である。「いま」という私の土台であり、「いま」という私の根幹であり、「いま」という私の大地である。歴史とは、時が移り、「いまが過去になる」だけの、紛れもない事実である。歴史において重要なのは、文献よりも実証だ。文献は後に改ざんできる。後に捏造できる。なぜなら、歴史は「勝者の記録」という側面を持つからだ。文献だけが残っているだけでは、歴史学的に真の歴史と認めない。捏造かも知れぬ。敗者は、たとえ確実にそこに存在し、泣き、笑い、戦い、恋をし、生きたとしても時間の消しゴムによって消し去られる運命にある。あるいは、勝者の都合のいいように改ざん文書化され、勝者と時の犠牲者となる。勝者だけが自分を正当化し、美化し、後世に残すことができる。それが歴史の悲しい実力である。かつて、中国に夏という国があった。文献では残っていた。だが、遺跡が発見できない。幻だ。紀元前、殷以前のことだから、そう簡単に遺跡も物証も発見できるものではない。歴史学者も認めなかった。だが、あった。発見された。黄河の畔、深い大地ともっともっと深い時の彼方に古き都は発見された。夏は歴史に名をとどめ、中国最古の国家となった。夏と書いて「か」と読む。これが「夏=か=華」となった。中華人民共和国の華である。春の日、鎌倉を歩く。古都は、背後に天然の要塞となる山々を従え、前面に海を抱く。海岸は黒く、当時の貴重品である砂鉄を含んでいる。都にはもってこいである。鶴岡八幡宮はいまを盛りと咲き誇る花の向こうに、厳かに、静かに、眠るが如く佇んでいる。ここに確実に源頼朝がいた。源氏の兵どもがいた。圧倒的に迫ってくるのは、彼らのざわめきであり、叫びだ。頼朝がいなかったら、この鎌倉はない。徳川家康がいなければ、いまの東京はない。ちがう姿を見せる。コロンブスがいなければ、いまのアメリカはない。悠久の時の流れの中で、「いま」は一里塚にすぎない。「いま」という一里塚は、一里前の一里塚があるからここに存在する。時は継続する。釣りをする私には、アブという夢にまで見るリールがある。正しくはアンバサダーという。アンバサダーの研究所には、自動車工場にテストコースが用意されているように、試し釣りができる湖がある。ある時、釣り好きの客が新しいリールを試すために、この湖にリールを投じた。重い。何かがかかった。湖底に横たわる古木の枝か。釣り上げた。なんとそれは古いリールだ。50年前のアンバサダーのリールだ。だれかがなにかの理由で、湖に落としてしまった半世紀前のリール、それを彼は釣り上げた。驚いたのはそれからだ。そのリールは、そのまますぐに使えた。カリカリと平気で巻けた。恐るべき技術力だ。その話がアブを世界の名品にした。歴史は郷愁ではない。「いま」という現実を産み出す母だ。同じことを先日、桜が目を覚ます頃の羽村で味わった。カシオの技術センターである。半世紀前に世界の目を釘付けにし、日本のエレクトロニクス産業に大きく貢献した計算機の実機があるという。それも、動くという。いま家庭に入り込み、奥様方が家計簿を前にいとも簡単に使っているミニ計算機の母である。お話を伺った。技術者の方が動かしてくれた。当時、外国製の計算機が幅をきかしていた。それは歯車だらけの巨大計算ロボットだ。計算は大仕事だった。いま目の前にある「14−A」と命名された発明品には、ギヤとカムという歯車がない。だから早い。だから故障がない。巨大ロボットではなく、オフィスに置けるデスクサイズだ。「この中にある方式はいまも十分に使えます」。技術者が胸を張った。発明は伝説と名を変える。だが、それは紛れもない人の意思であり、知恵であり、技術である。歴史は郷愁ではない。私は、歴史物が好きだ。大河ドラマも好きだ。幕末の本も読む。坂本龍馬とは一緒に飲んで話をしたい。諸葛孔明と中国の原野を駆け回りたい。父と母と、その父と母と、その先の父と母と、その歴史がなければいまの私はない。清く流れる羽村の川縁で「いま」という明日は過去になってしまう歴史の1ページで私は酒を飲んでいる。
tagayasu@xpoint-plan.com



2013年4月2日 火曜日 16時13分43秒
男は、はぐれ雲。


河に沿って走るサイクリングロードから斜めに下る小路があって、その途中に河原に降りる石段がある。小路の突き当たりに二軒の茶店が並んでいる。河原へ下ると正面から北風が吹きつけた。灰色の空を雲が足早に駈ける。石ころだらけの河原をガタガタと自転車を漕いで下流に向かう。普段ならチャルメラおじさんたちが見える筈だが、今日は姿がない。ひどい寒さの上に、あと二日で新年を迎えるという日に釣りにくるほうがおかしい。小田急線の巨大なコンクリートの橋梁の奥に煙が立ち昇る。焚き火だ。同様に家を追われたチャルメラおじさんが二人いて、焚き火に手をこすり合わせている。有村さんが振り向いて笑顔を向ける。「来たね」と手を上げる。「よく来るよね」ともう一人のチャルメラおじさんの武内さんが茶化す。「家にいたら邪魔だって追い出されました」。ぼくは答えながら釣竿をセットするが、今日の釣りに少しの期待もない。鯉だって寒いのは嫌いで、餌に見向きもせず、深みで極寒に耐えるだけだろう。こんな日は仲間がいるだけでうれしい。有村さんはすこぶる気立てのいい人で、みんなに好感をもたれている。数学が好きだという通り几帳面な性格で、雑なぼくは尊敬さえする。面倒見がよく、中学時代の級長のようだ。焚き火の用意も後始末も全部彼がやる。「座って」と椅子を出してくれる。彫りの深い顔立ちで、奥まった目がやさしい。着る物身につける物一つひとつがセンスよく、ダンディだ。武内さんは、地元の人だ。数年前に大病を患い、いまリハビリ中。「プールでね、水の中を歩いてるんだ」と明るい笑顔を見せる。目が暖かい。女性にやさしいタイプだ。釣り用のキャップ帽でなくハンティングを被っている。彼が被るとハンティングも鳥打帽子と呼びたくなるのはなぜだろう。技術系の人だが、雰囲気は農業系だ。老舗の番頭さんにも見える。ぼくらは火に当たり、取りとめのない話をして時間をやり過ごす。これで釣竿がなかったらただのホームレスだ。午後二時、突然、河が爆発した。有村さんの竿が悲鳴を上げた。音を立てて倒れ、ずるずると河の中へ引きずり込まれる。ぼくらは竿から20メートルも離れていて、当の有村さんはケータイで話し中だ。ぼくと武内さんが河に向かって走る。竿立てのブロックにリールが絡み、折れんばかりに竿がしなる。「早く!」ぼくが叫び、有村さんがケータイを放り出した。格闘が始まった。まるで河底の巨大なウインチのような鯉の引きだ。リールはギーギーと悲鳴を上げて逆回転し、ラインがどんどん引き出される。有村さんは竿を立てることもできず、息さえできない。歯を食いしばる。「ゆっくり!」。武内さんが叫ぶ。すでにタモ網を持っている。灰色の空を映した暗い水面を切り裂いて、ラインがゆっくり下流に移動する。緩めたドラッグからラインが無限に引き出される。鯉が方向を変え、上流に向かう。水面を刻むラインは何事もないようにゆっくり移動する。鯉の意のままだ。河は不気味に静かで、魚たちは息をひそめ、鳥たちも黙り込む。「巻ける!?」。「少し!」。もはや有村さんが鯉を釣っているのではない。鯉が有村さんを釣っているのだ。15分。やっとリールを巻く。ゆらりと灰色の水面が割れて揺れた。暗い水面に波紋が起き、潜航艇のような魚影がよぎる。「でかい!」、ぼくが叫び、「見えた!?」と有村さんが腰を落としたままのけぞる。「こっちだ!」タモ網を手に武内さんが叫ぶ。悪戦苦闘。釣り上げた巨鯉は、体長83cm、胴回り55cm。「こいつ、化け物だな」。武内さんがいい「タモ網が釣り上げたんだ」と胸を張る。有村さんは呼吸も荒く頷くだけだ。声もない。写真を撮ろうにも持ち上げることができない。2012年を締めくくる多摩川の巨鯉はこうして釣れた。もう、ぼくらに寒さはなかった。そして2013年3月。田中さんが80センチの草魚を釣り、ぼくは80センチの鯉を釣った。有村さんに鯉がまだこない。「あれで運を使い果たしたんじゃないの」と武内さんが笑う。有村さんが「ふふん」と鼻を鳴らす。なに、鯉はこれからだ。見上げる空に、今日もはぐれ雲が流れる。
tagayasu@xpoint-plan.com



2013年4月2日 火曜日 16時11分14秒
山から来た男。


子どもがいない。川に子どもの姿がない。笑い声もない。はしゃぐ声も聞こえない。子どもはどこに行ったのだろう。いま、多摩川にいる。鯉を釣っている。吹く風は冷たく、水温も低く、鯉は釣れないが、空は高く澄み渡り、川は洋々と流れる。振り返ると丹沢の山々を足元に従えた霊峰富士が美しく輝く。35年前、息子とここで釣りをした。妻が駅前でパンとコロッケを買い、手製のコロッケパンをこしらえた。まだ温かいコロッケに下品なくらいにとろりとした濃厚ソースがおいしかった。貧しいけれど幸せだった。でも、いま川にそんな家族の姿もなく、子どもの姿もない。子どもたちはどこへ行ったのだろう。子どもがいない国に未来はない。子どもこそ夢だ。希望だ。日本の未来だ。それなのに子どもがいない。昔、子どもたちを育てたのは、山と川だ。ぼくの山と川には、未来があった。いいかえれば、未来しかなかった。壮大な自然。大地。大空。そこに夢と希望と未来をぼくは描いた。長野県飯田市座光寺村北市場。聳える蒼い中央アルプスがあって、地平の果てにきらきら輝く天竜川があった。里山があり、小川がいくつもあって、水車小屋があった。パソコンどころかテレビもなかった。ぼくの友だちは里山と小川、そこに棲む鳥や小動物、小ブナや泥鰌やカニだ。ブタと牛、鶏も親友だ。東京に帰り、山と川のある下落合に住んだ。乙女山という丘が背後にあり、目の前に神田川が流れていた。信州の山や川とは比べようがないが、ぼくはいつも自然に抱かれて育った。東京生まれ東京育ちといいながら、いつまでもぼくは田舎者だ。ぼくは田舎者だと胸を張って生きる。「山から来た男」という歌がある。石原裕次郎が映画「風速40メートル」の中で歌った歌だ。「山小屋の窓は明るい、明るいはずだよ夜が明けたんだ、ヒューヒュー、ヒューヒュー、おれは山から来た男、風に吹かれて町まで降りて来た」。いつも口ずさむ。ぼくは、風に吹かれて町へ下りて来た男だ。そんなぼくだから、子どもたちが川にいないことが余計に気になる。空を見ながら、人間度と動物度について考える。知性と野生だ。人間は、生物学上では動物である。神がこの世を創るとき、鳥には大空を与え、魚には海を与え、ライオンには陸を与えた。遅れてきた人間に与えるものが残っておらず、使いようによって大きな力となる知性を与えた。ぼくたちは、すぐれた知性をもった人間という動物だ。ところが、人間は特別な存在で動物とは一線を画している、という思いが強すぎ、動物であることを忘れ、あたかも神のごとく振舞う。ひどい錯覚だ。人間は動物である。それなのに人間度が強すぎる。動物はまず自殺をしない。神に与えられた生命を力いっぱい生きる。溢れる生命力で力強く生きる。人間にこの動物としての力強さが必要なのだ。動物度が強すぎても人間度が強すぎてもだめだ。人間の貴重な知性も正しく使わなければならない。要は、人間度と動物度のバランスだ。知性と野生のバランスだ。釣り仲間がいう。「川遊びを学校で禁止している、危険ということで」。またか、と思う。先生が禁じるのか、親が禁じるのか。答えは明快だ。先生も親も子どもの教育の責任を押し付けあう結果、子どもを狭い世界に封じ込めてしまうのだ。こういうと先生にも親にもいい分があるのだ。そのいい分の90%は、自己正当化だ。「じゃあどう責任を取るんだ」。こういうだろう。そんな理屈をいっているから、結局は子どもたちが川から姿を消すのだ。山と川には、たくさんの命が生きている。子どもたちを磨くのは、それらたくさんの命だ。命を磨くのは命だ。ぼくは、作家CWニコルの考えが好きだ。彼が作る「アファンの森」は、ドングリのある森だ。ドングリがあるから鳥や小動物が来る。熊が来る。正しい生態系がある。危険といえば危険な森だが、溢れる命がある。子どもたちは、その森で学ぶ。危険を知り、自分で危険を回避する生き方を学ぶ。そこには陰湿ないじめはない。助け合うことを学ぶ。ともに生きることを学ぶ。ぼくにいわせれば川より街のほうがはるかに危険だ。そして、街で学ぶより山や川で学ぶほうがはるかに正しい生き方を身につける。知性と野生のバランスを、いまこそ教育しなければならない。子どもたちよ、川に戻ってこい。ぼくは、山から来たことを誇りに思う。まもなく春だ。
tagayasu@xpoint-plan.com



2013年2月14日 木曜日 15時52分37秒
汚く勝つか、美しく負けるか。


日本人にはとくにむずかしい問題だ。美しく勝つ。それが一番。汚く負ける。これは最悪。しかし、いまはその理論を論外とする。多かれ少なかれ神道の自然崇拝、儒教の道徳観、仏教の死生観、それらを基本とする武士道精神を心のDNAや生活感覚の端々にもち、禅の潔さをも理解してしまう日本人は、卑劣な行為、卑怯な精神をことさら嫌う傾向にあり、それは実に素晴らしい特質ではあるけれど、ちがう側面から見るとどうも諸外国に比べて勝負に甘く、実用的ではない。
汚くても勝つ、卑怯でも勝つ、なにがなんでも勝つ、ということに素直にうなずけない日本人。おまけに気取り屋さんだから周囲の評判を気にして「後になってなにをいわれるかわからないからね」と体面をつくろう(わたしだけかも)。卑怯なまねができない。グローバル社会、IT社会の推進で鍛えられている若い感覚はどうなのだろうか。平然と笑って、汚くても勝ちに行けるか。これは戦争、外交、ビジネス、スポーツではそれぞれ分野別に答えがちがってくる。このようにいちいち分析だか言い訳をすること自体すでに甘いのだ。日本人はくどい、うざったいといわれる。(実は、潔くはないのだ)。
さて、孫子のいうように、戦争では敗北はあり得ない。敗北は、死であり、亡国である。自分のこと、妻子のこと、大切な家族友人を考えれば、卑怯でも汚くてもまず勝たなければならない。負ければ懐かしい故郷の山河を失う。いや、戦争をすればそれらの幾ばくかを必ず失う。だから、戦争は極力やるな、と孫子はいう。万が一戦争になったら、卑怯もなにもない、卑劣なことを策として進んでやれ、勝つためにはなりふりかまわずなんでもやれ、裏切っても勝て、と孫子はいう。
中国春秋戦国時代に生まれ、2500年も続く中国最古のもっともすぐれた兵法書であり、わが日本でも古くから広く活用されている孫子である。では、外交はどうか。外交の目的は、国益の確保である。国益とは、平和と安定と継続だ。これも極めて重要。弱腰にはなれない。中途半端な覚悟では、相手に読まれてしまう。孫子の兵法は読心術だ。裏をかき、その裏をかいて、なお裏をかく。ただし、外交には卑怯に見えない策が必要だ。そこが戦争とは決定的にちがう。大義、正義の論法が要となる。(正義という言葉が死語となりつつある日本ではむずかしいけれど、正義はある。正義とは正しい道のことだ。必ずある)。ビジネスは、卑劣をしてでも勝ちたいとも思うが、そうはいかない。ビジネス、会社も継続を考慮しなければならないから、汚いことはできない。そこがむずかしい。(とはいえ、結構腹黒いやつもいる。こちらが腹黒を見抜いているのに、気づかないふりをして汚い手を使う。いけません)。ドラッカーのいうように「人はだれでも自分が大事」ということはわかっている。それは相手も同じ。それを前提にかかれば、卑怯なことをしないでうまくいく策は必ずある。スポーツは明快だ。絶対に卑怯なことをしてはならない。美しく負けることも辞さない。負けたら「次の課題ができました」と優等生の答えがあればよい。そして、次に勝てばよい。戦争に次はないが、スポーツには次がある。汚く勝つか、美しく負けるか。さてさて、答えがないのか。ハーバード大学のサンデル教授に一度ゆっくりとお聞きしたいテーマである。



2013年2月14日 木曜日 15時41分6秒
短編小説


南仏時代のゴッホは「才能は長い辛抱だ、勉強したまえ」ということばにいたく感激したという。これは、フローベルがモーパッサンに送った言葉だ。モーパッサンはフローベルを師として短編小説の修行をした。そのモーパッサンを強烈に意識したのがチェーホフだ。チェーホフは、短編小説の存在を世間に知らしめたのは自分だといい、若い作家たちにこういった。「ある点に関して、きみたちはぼくに感謝しなければならない。短編作家の道を開いたのはぼくなのだ。」事実、チェーホフが原稿を抱えて編集者に会いに行ってもろくに読んでももらえず、ちらりと横目で見て「なんだこりゃ?こんなものが小説と呼べるか?雀の鼻より短いじゃないか。」あのチェーホフにしてはじめはこんなザマだったのだ。たかが10枚程度の原稿用紙で小説を書く。いや、もっと短くても構わない。短ければ短いほどいいではないかというのはルナールで、長い蛇がトグロを巻く絵の横に「長すぎる」と一言書いただけだ。「短編小説国際シンポジウム」への寄稿で、アメリカの作家サローヤンは「長編小説を鯨に、短編小説を鰯にたとえるのはおかしなことだ。
だめな長編とは、退屈がガマンの限界以上に引き伸ばされたもので、だめな短編は、それが短いというだけではるかに礼儀にかなっている」という。いいですねえ。この痛烈な皮肉、なんとも痛快だ。ダメ同士を比べるところが大いに笑える。仕事のできないダメ部下同士を比べる上司のみなさん、この皮肉、共感できるでしょ。さて、チェーホフだが、彼の短編小説の特徴は、モーパッサンのような「結末=オチ」がないところにある。モーパッサンの作品には実に見事な結末があって、この結末にこそ小説の醍醐味が集結されている。読み手に、手打って胸震わせるオチがある。小説もそうだが、物事には、@こういう事(人・物)があるAそれはこういう具合であるBそれはこういう理由である、という流れがある。その流れがあるから、だれにでも理解しやすい。モーパッサンの短編は、こういう理由である、という結末部分で「あ、なるほどそうだったのか」と深く感銘させられる。警察の犯人探しにもこの流れがあるし、みなさんの日々の仕事もこの流れに沿っている。理解しやすい。ところが、チェーホフにはこの流れがない。結末がない。オチがない。だから、どう理解していいのか、どこで感動して、どう涙すればいいのか、とんとわからない。チェーホフに原稿をもちこまれた編集者の気持ちがよくわかる。チェーホフは、自分に恋心を抱く作家志望の人妻アヴィーロワにいう。「生きた現象から思想が生まれるのであって、思想から形象が生まれるのではない。」こういわれると、たしかに短編小説に結末やオチが必要かどうか迷ってしまう。短編小説は抒情詩に近い、といったのはイタリアの作家モラヴィアだ。短編小説が抒情詩というなら、それはイメージの産物だから流れやストーリーなど不要で、そうなればむしろだらだらと長編に引き伸ばすほうがむずかしい。夜は静かで美しいのに、人の世に悪は絶えないのは、なぜだ。星が見守っているのに、地上では子どもが死んでいくのは、なぜだ。編集者から、理想や思想が欠けているといわれ、問題を扱っていないといわれて、チェーホフが「この人生をあるがままに書くだけだ」と答えたのは有名だ。ある晩、チェーホフとガード下のいつもの居酒屋で酒を飲む。「わかりずらいって?わたしの小説が?」「なにをいっているのかわからない。答えも見えない。」「テーマがないからね、なぜという疑問はあるが、答えがない。なぜはある。なぜなぜなぜ。人生は疑問だらけ。わたしはただそこにある人生をあるがままに書いているだけ。」友人がチェーホフの芝居に出たので観に行った。わからないながら、わかったフリをした。勝手な解釈をした。チェーホフのやつ、きっとどこかで笑っているはずだ。ある作家の「人はだれでも、自分という短編小説を書いている」ということばが好きだ。モーパッサンのようにドラマチックにも、チェーホフのように天真爛漫にも書けないが、さて、自分の短編小説を書きに今日も街に出てみますか。



2013年2月14日 木曜日 15時36分56秒
チャルメラおじさんは、川にいる。


その川にはダムがある。コンクリートの堤防で堰きとめられた大量の水が、ダムの上に湖のような溜まりをつくっている。溜まりには、鯉、ニゴイ、マブナ、ヘラブナ、鮎、ハヤ、くちぼそ、鯰、鰻、雷魚、ブラックバスなどなど、大小さまざま、性格あれこれ、国籍あっちこっちの魚たちが仲良く暮らしている。堤防の上では川鵜たちが烏合の衆となって、鵜の目鷹の目で魚たちを狙う。だから実は、魚たちもうかうかしていられないのだ。この溜まり周辺が釣りのポイントとなっている。300メートルほど上流に私鉄の鉄橋があり並んで国道が走っている。溜まりからそこまでの両岸に釣り師たちが竿を出している。35年ぶりに鯉釣りを再開したわたしは、そのポイントで釣り仲間ができた。みんな気のいい人ばかりだ。「川に悪人はいない」と言った作家がいたが、まさにそのとおり。そんなある日、いつものように竿を立て鯉の当たりを待っていたわたしは、ふとあることに思い当たり「あっ」と声を上げた。「なぜ、会ったばかりの釣り師たちに親しみを感じるのだろうか」とずっと考えていたが、それは同じ川で同じ鯉を釣るという共通の趣味をもつ同志であり、だれもがそれぞれお互いにきちんと気を使い、そのことをだれもがうれしく感じているからだと、そう思っていた。それはそれでそのとおり。ところがその日突然、もうひとつの理由に思い当たったのだ。実はわたしは、この人たちをずっと昔から知っていたことに気づいた。満月のように丸っこい顔。さっと筆で刷いたような黒く太い眉。人の世の艱難辛苦を刻みこんだ額の皺。針の穴がぽつんぽつんと開いているようなちっこい目は人なつっこく光り、小さな座布団のように広がった鼻は上を向きながら赤い頬っぺたの間にちょこんと納まっている。いつでも笑う準備のできている口もとはゆるく、むしろだらしがない。背は高くない。小太りで丸い身体。お腹がぴょこんと出ている。白いマークの入った黒い野球帽を被り、煮しめたような茶色い手拭いを襟巻きのように首に巻きつけている。濃い灰茶色のジャンバーを羽織り、だぶだぶのズボンを履き、孫からもらった黄色いラインの入った黒いスニーカーを、かかとを踏み潰して履いている。足は長くない。短い。そうだ、この顔、どこかとぼけていて、のほほんとしたこの表情。そうなのだ。釣り人たちは、昔からの親友、あのインスタントラーメンの袋に描かれたチャルメラおじさんだったのだ。高校時代、徹夜の受験勉強には必ずつきあってくれたあのおじさん。いまでも、夜更けに小腹が空いて目覚め、ふと手にしてしまうあのおじさん。あのおじさんたちが目の前にいて、鯉を釣っている。おじさんたちは午後になると「それじゃあ、お先に」とそろって竿を納めて帰る。そうだ、それからラーメンの仕込みに入るのだ。そして夜更け、屋台を引いて町に出る。きっとそうだ。星空に向かってチャルメラを吹き、脇の黒猫の頭をにこにこと撫でる。そうだ、チャルメラおじさんの趣味は鯉釣りだったのだ。昼間のこの時間、この川に釣りにきていたのだ。チャルメラおじさんは7人いて、着ているジャンバーや履いているズボンの色がちがうが、みんな兄弟のようによく似ている。一箇所に集まって昼飯を食べる。河原にブルーシートを敷き、サンドイッチやコンビニ弁当を広げ、鯖の缶詰を開ける。ラーメンは食べない。「そういえば加藤さん、ここんとここないねえ」とか「先週の万馬券、惜しかったよ」とか、小さな椅子にちょこんと座って、食べて話す。「いっしょにどうですか?」声をかけてくれたのは、テニス仲間のイサオちゃんによく似た「チャルメラAおじさん」だった。そうしてわたしはチャルメラおじさん仲間と昼飯を食べ、鯖の缶詰をご馳走になった。黄昏。おじさんたちに遅れてわたしは自転車に乗って帰る。世田谷まで1時間。途中、狛江の交差点の赤信号で止まる。ふと横のセブンイレブンのガラスに映る自分の姿を見る。そこには「チャルメラわたしおじさん」が映っていた。



< 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 >

- W&J WEBSITE -