高野耕一のエッセイ

2011年12月27日 火曜日 14時5分24秒
真実へ。


お猪口を片手に「イカの沖漬け」をつまみながら、元ジャーナリストの友人が、ヨーロッパで有名なテレビコマーシャルの話をする。「いや、報道とはかくあるべきだと思います」。渋谷ガード下、赤提灯が並んで風に揺れるクロスポイントの社員食堂だ。木枯らしがガード下を吹きぬける。それは、イギリスの新聞のコマーシャルだ。ニュースは、一方から見ただけでは決して真実が見えてこない。いろいろな角度、さまざまな視点から見て、大局を把握しなければ真実に迫ることはできない。そんな内容で3つのストーリーから成り立っている。もちろん、友人も直接見たわけでなく、他の友人から聞いた話だ。「うん、理屈はよくわかる。で、どういう映像?」わたしは先を聞く。「まず、最初のシーンはですね」。友人がいうにはこうだ。ごっつい大型バイクにまたがり、いかにも悪人という感じのひげ面男がゆっくりと通りを走っている。通りの反対側を走るクルマの夫人は、そのバイクの男が自分をつけ狙っているようで、びくびくしながら横目でうかがう。「うん、いわゆるアウトローな、無法者な、ならず者。マーロン・ブランド。古いねえ、わたしも」。「その通りです。太い腕にタトゥーって感じ」。これが、第1のシーン。「ナレーションが入っていますが、実はわたしも又聞きですからうる覚えですが、ひとつの視点はひとつのイメージしか与えない、そんなナレーションです」。友人はちょっと悔しそうに、でもにこりと笑い、空の徳利を掲げて追加を注文する。酒好きのわたしに気を遣い大徳利だ。「第2のシーンは、こうです」。突然バイクの男がスピードを上げた。夫人が見ていると、どんどんスピードを上げて行く。その先には、大事そうにバッグを抱えて歩く老人の姿が見える。案の定、男は老人のバッグを狙っているのだ。はらはらして夫人が見つめるうちに、バイクの男は老人に体当たりをした。「それが、2番目のシーンです」。「なるほどね。やはり、そうきましたか」。やはり悪だったか。ところが、第3のシーンで初めて真実が見えてくる。「実は、歩いている老人の脇のビルの屋上からガラガラと音を立ててブロックが落ちてきたんです、ガラガラと。バイクの男は鳥のように飛び、老人の体を包み込んで守り、壁に押し付けて助けたんです。そのままだったら老人は潰されていたんです。助けたんです、その男が」。わたしは黙った。鳥肌が立った。報道だけではない。物事は、いろいろな視点と角度から見聞きして、全体を見て把握しなければ、真実は見えてこない。人間関係はとくにそうだ。だれかがだれかを陥れようと思えば簡単な時代である。友人や同僚が、悪い風聞を流せばそれに騙される者も出てくる。一方から都合よく見れば、そう見えるのだから嘘ではない。ただ、そこに自分を正当化するために、仲間を裏切る悪意がある。折角総理になっても側近の仲間に足を引っ張られては、もうお手上げである。なぜなら、わたしたちはあのテレビコマーシャルのように、「3方、あるいはいろいろな角度から総理を見る」ほどの余裕もなく、それほどまで苦労し、時間をかけて真実に迫ろうとするイギリスの新聞のようなジャーナリストももはやいない。2011年の反省は、原発の報道に見られる、ある一方からの偏った報道によって生まれてしまった「不信感」「疑心暗鬼」である。真実は、あらゆる角度、すべての視点から見た事実の真摯な分析があって初めて見えてくる。一方から見ただけの事実は、「怖いバイクの男を悪人だと結論づけて」終わってしまう。実は「だれよりもやさしい、いい人間だという真実」は伝わらない。「真実は、だれかの都合であってはならない」のだ。「来年は、ていねいに生きたいですね」。友人がいった。2012年、謹んで新年のお喜びを申し上げます。
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2011年12月8日 木曜日 15時20分10秒
ことばとこころ。


外国からいわせると「日本語はとてもむずかしい」のだそうです。世界では、ドイツ語が覚えやすく、英語がわかりやすいとされています。中国語も深く豊かです。もっともです。そのようにできているのですから。
ドイツ語には、きちんときめ細かな文法が決められています。それを覚えればいいのです。楽です、と谷崎潤一郎はいっています。(わたしはできませんが)。英語は、明解で、語彙が多く、卓越した形容法を駆使して細かい表現ができます。へミングウェイの「老人と海」の原文は実に見事です。(わたしは読めませんが)。だから、英語は、いいたいことがかなり正確に伝わります。中国語は、漢字の多さを見てお分かりのように表記文字が多様で、表意文字も多く、意味が深い。深い分だけ曖昧さはありますが、とても豊かです。
さて、わが日本語です。日本語は、一言でいうとあまりにも曖昧です。それが弱点であり、また長所です。曖昧すぎるから理解の仕方によっては、トンチンカンになる。外国人からいわせると「どう理解してよいのかわからない」のです。「なにを言っているのか分からない」「どちらにもとれる」のです。いわゆる腹芸が多い。「言わなくてもわかるだろ」これが日本語。「ツーといえばカーだろ」これです。相手の想像に委ねる。相手の理解に期待する。外国人どころか、現代の日本人は、いちいち想像なんかしてられるか、になっています。想像し、理解する暇も努力もない。テレビが、映像があるためにあまりに安易なコミュニケーションを展開し、「考えなくてもいいよ時代」を作ってしまった。テレビだけが悪いのではありませんが、相当テレビは悪い。作家三島由紀夫は、テレビ全盛時代が日本をだめにする、と危惧していましたが、まあそれに近い状態になりました。相手のいうことを理解する努力をしないで、わかるものだけわかればいい、面白いことだけ見ればいい、というお気楽安易なコミュニケーションが増えました。
さて、日本語が分かり難いとなれば、いちばん困るのは論文です。世界に論文を発表するには、日本語はまずだめ、曖昧すぎてわからない。そもそも、日本語の書きことばは、「源氏物語」「土佐日記」が始まりで、やまとことばという話ことばをそのまま書きました。そのやまとことばに漢語漢文漢字が入って混じった。やがてたくさんの外来語が流入してきて混じりあった。おかげで「ひらがな・カタカナ・漢字」が同じ一行のなかで表記できる。これが、実は日本語独特の繊細な、滑らかな、深みのある、艶かしい、美しい表現となっているのです。志賀直哉、川端康成、見事な日本語です。でも、むずかしい。なぜなら、表記が複雑な上に、文法がいい加減なのです。曖昧なこころを表現する曖昧なことばが多いあまりに、文法が追いつかないのです。やまとことばという文法無視の口語文が母体で、そこにわいわいと他国のことばが混じったものですから、文法を作る暇も能力もなかった。それではいけない、と教育のために文部省ががんばって文法を作るには作ったが、それほど緻密なものはできない。だからこの際、腹をくくりましょう。グローバル時代、日本語をわかりやすくするよりも、本来曖昧なこころの綾さえも見事に表現する日本語の美しさをしっかりと残し、その上で外国語を使うときはきちんと使えばいい。それだけのこと。日本のことばは、こころの表現です。こころの表現では、世界のどんなことばよりもすぐれています。これを大事にしましょう。ことばが乱れると、こころが乱れ、国が乱れるなどと心配しているのは、わたしだけでしょうか。
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2011年12月8日 木曜日 14時56分44秒
川獺見立て炙りいたちウグイ刺し網漁。


(前号のつづき)
渋谷若木が丘、歴史学者トキワ松教授の研究室だ。鯉やフナのDNAにはなく、なぜウグイのDNAだけに川獺への恐怖が刻みこまれているのか、という話のつづきだ。
四国土佐の四万十川の漁師は、それを利用して、川獺に見立てた炙りいたちでウグイ漁をする。
血糖値を気にする教授は焼酎をお湯で割って飲み、わたしは日本酒を飲んでいる。どちらの酒も、教授が書籍の山を猟師が獲物をさぐるがごとくごそごそ掘り起こして引っ張り出してきたものだ。つまみの柿ピーも書籍山脈から発掘した。
「バングラデシュの川獺漁は、飼いならした川獺で魚を網に追い込む追い込み漁です。水中でくるくる泳ぐ川獺、逃げ惑う魚たち、これは想像するだけでも愉快な漁法だ。得意顔の川獺、慌てふためく魚たちが目に浮かんでくる」。教授が笑う。
「バングラディシュの漁師と四万十川の漁師に文化交流があったのでしょうか。四万十の猟師は、バングラディシュの漁師に漁のこつみたいなものを教わったのでしょうか。ジョン万次郎のように四国に流れ着いたバングラディシュの漁師が伝えたとか」。
「いや、それはわかりません。そうだと面白いのですが、そううまくはいかないでしょうね」。
そこでまた教授はにんまりとして、焼酎を一口飲む。
「川獺は日本にもいます。全国にいます。四万十川にももちろんいましたが、いまはいません。その事実からすれば、四万十川の漁師が、川とともに暮らすうちに学び取った独自の漁法だと考えるほうが正しいでしょう」。
「なるほど。で、話はウグイに戻りますが、ウグイたちにはその恐怖の記憶があると。川獺の恐怖を炙ったいたちで思い出させるという」。
「そうでしょうね」。
「でも、なぜ鯉やフナにはその記憶がないのでしょう」。
「そこは不明です。ただ、ウグイは、鵜が食うという意味で名前がつけられたという説もあるくらいで、群れで泳いでいますから、川獺のかっこうの餌ではあったのでしょうね」。
たしかに川獺は日本全土にもアジアにも棲息していた。四国土佐にもいた。でも、最後の川獺が確認されてからすでに相当の月日が経っている。
わたしが興味をもつのは、全国にいた川獺を、なぜ四万十川の漁師だけが漁に活用したか、にある。全国の漁師にそのチャンスがあったというのに、だ。そして、川獺がいないいま、川獺に見立てて炙りいたちを使うなど、だれがどうして考えたか、である。
また、鯉だってフナだってある時期川獺に追いまくられたと考えれば、なぜ、彼らに恐怖のDNAが残っていないのか、ということだ。まさか、ウグイだけが記憶力がよく、鯉やフナは記憶力が悪いわけではないだろう。
「面白いでしょう。地域文化にはそういう面白いものがたくさんある」。
焼酎をグラスに注ぎながら、教授はにこにこと笑う。時の経つのを忘れて教授は話をすすめる。
「地域文化を大切に守ることが大事でね。それが日本を知ることになりますからね。地域文化は、その地域に根ざす植物と同じで、風、土、水、気候、それらすべての決められた条件のなかで、芽生え、育っていくものです。だから、植物の研究をすればその地域文化が見えてきます。ほら、うちの大学の得意分野に万葉集の研究がある。万葉集を理解する上でも、植物を知れば、より深い理解が生まれます。植物を観察し、風を知り、土を眺め、水に尋ねる。これを大事にしたいですね」。
四国の観光課のホームページをのぞいてみると、冬の時期に「ウグイのいたち漁」の記事が乗っている。教授もこの漁についての論文を書いている。読んでみようと思う。だが、今宵はトキワ松教授との楽しい会話だけに酔いしれよう。大学研究室で酒を飲むのも、わたしにはうれしい経験であるのだから。「わたしの話は、与太話です」。先生はそういって、次に、後ろの書籍の山から火縄銃を持ち出すのだった。
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2011年12月8日 木曜日 14時55分58秒
川獺見立て炙りいたちウグイ刺し網漁。


渋谷若木が丘、歴史学者トキワ松教授の研究室だ。すでに西の空に陽は落ち、隣接する氷川神社の杉木立は深い闇のなかにある。研究室に灯りが灯る。部屋の中央に四角いテーブル、三方は書籍の山である。残る一方に窓があるがその窓さえ潰さんばかりの書籍書籍である。それら書籍の山脈が、いかにも大学教授の研究室といった雰囲気で背筋がほんのりこそばゆい。だが、正気にもどってよく眺めると、なにやら渋谷の古本屋の2階に似ていないでもない。
「酒、なんにする?ビール?日本酒?焼酎?」と、教授が聞く。
大学の研究室で酒を飲むなど、昭和時代の頑なな学者を想像させ、学問だけしっかりやっておけば後はまあいいよね、という無頼な香りがしてうれしくなる。デスクの脇の書籍山脈を、猟師が獲物の巣を探るがごとくがさごそと教授は手探りし、薄紙に包まれた広島の酒「酔心」をつかみあげる。次に横の山脈をごそごそやるとつまみが手に握られている。まるで手品師である。放っておくと書籍の山から白い鳩を取り出すかもしれないと期待するが、それはなかった。
「ところで先生、さっきの四万十川のウグイ漁の話、あれ、面白いですね」。
「そう、その話、それでね、いたちをね」。
教授の話はこうだ。四国土佐、四万十川の寒い季節、漁師はまず川原に木材を積み上げ、焚き火を起こす。身が引き締まる清澄な空気と冷たい流れ、ぱちぱちと音を立てて燃えあがる焚き火。やがて漁師は、どこからかいたちを取り出す。もちろん生きてはいない。敷物のように両手両足を広げたいたちの毛皮だ。それをおもむろに火にかざす。炙るのである。焼いてはいけない。焦がしてもいけない。炙るのである。その加減も漁師のカン、秘伝なのである。やがて、うっすらといたちの匂いが川原に漂う。頃合を見計らって、漁師はざぶざぶと川にはいっていく。竿先にロープで結わえた炙りいたちを手にしている。これでウグイが獲れるのか。単純な疑問を抱く。川なかの岩場には、前もって網が張られている。寒さのため、魚たちがじっと息を潜める岩場である。岩場の周囲に棒を立て、網を張る刺し網漁だ。ざぶざぶと岩場に歩み寄った漁師は、ざんぶと炙りいたちを岩場に突っ込む。さあ、魚たちは泡を食う。餌を食わずに泡を食う。右往左往。どうしたどうした、なにごとだと大騒ぎ。だが、ここで不思議なことが起こる。同居する鯉やフナは、騒ぎはするがパニックは起こさない。恐怖の極に達し、パニックに陥るのはウグイだけである。パニックに陥ったウグイはもうがむしゃらに岩場から飛び出す。そして、待ち受ける刺し網に端からかかる。そういう寸法である。鯉やフナは網にかからない。
「先生、なぜウグイだけがパニックに陥るのでしょうね」。
「そこです。炙ったいたちの姿形なのか匂いなのか、それがウグイの恐怖心をあおる」。
焼酎をぐびりと一口飲み、ピーナッツをカリカリかじりながら、教授は吉本の芸人のごときにっこりとしたり顔を見せる。
「もしや、川獺と勘違いしているのでは」と、わたしは尋ねる。
「まさにその通り。わたしの仮説だが、川獺にたいするウグイの恐怖心です。いたちは、ウグイに川獺を思い出させる。それを漁師たちが利用する。それが、この漁法です」。
鯉やフナにはそのDNAのなかに川獺への恐怖がない。だから、炙ったいたちを目の前に突きつけられても、なんだなんだですむ。好奇心がむずむずと背筋を走る。もうお気づきのことと思うが、ウグイだけがなぜ川獺を恐れるDNAを抱きつづけているのか、という好奇心だ。まさか、ウグイの長老が、若いウグイ連中に「川獺にはよくよく気をつけろ」と注意をしているわけでもあるまい。メダカの学校はあるがウグイの学校はないから、先生が生徒に教えていることもない。
「バングラディシュに川獺を使う漁法があります」と、教授。
「バングラディシュと四万十川の漁師およびウグイとは文化交流があったのでしょうか」。まさか、である。
(さて、話はこれからですが、文字数に限りがありますので、このつづきは次回に)。
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2011年10月14日 金曜日 15時5分23秒
銀座マツヤ、芸術びより。


いくつか台風が過ぎゆき、秋が突然訪れたその日、銀座マツヤがはじけるように笑った。南風がやわらかく吹く明るい朝だ。テラスでコーヒーを飲んでいると、テレビの向こうから青空を吸い込むような笑い声が響いてきた。ふりむくと装飾粘土工芸DECOクレイクラフトアカデミーの主宰「宮井和子」先生が局アナに指導している映像が流れている。主婦から世界的芸術家へ。テレビは、先生をそう紹介している。設立30周年記念の作品展を見るために午後に銀座マツヤに行く予定だったわたしは、その偶然に思わず画面の先生の笑顔に引き込まれる。午後の銀座の空は青く高く、雲ひとつない。新橋からぶらぶら歩く。頬に当たる風が、心地よい冷気をふくんで清々しい。8丁目の博品館の前を通り資生堂前の交差点をのんびりと渡る。大きなダンボール箱をもった中国人が観光バスの周りを大騒ぎしながら闊歩している。ダンボール箱のなかは電気製品だ。日本製の電気製品は中国では評判がよいと聞いているが、なるほどその通りだ。キャノンの高級カメラで銀座のあちこちをパチパチと写している。笑っている。大声でしゃべっている。「中国人は、元気です」。顔なじみの喫茶店の店主がいう。「かつての日本もこうでした」。わたしは店主にいう。元気のいいのはいいことだ。とくに銀座は、にぎわってこそ銀座だ。風に揺れる柳が「この街には国籍なんか関係ないからね」、と耳元でささやく。マツヤに行き、旧式のエレベーターで8階まで上る。受付前は驚くほどの混雑ぶりである。マツヤの床が抜けるのではないか、と本気で心配する。一日5000人が訪れるという作品展。それが6日間。なるほど、百貨店も顎がはずれるほど笑うはずだ。人波にもまれながら妻の姿をさがす。妻は宮井先生の弟子で、わが家のアトリエでクレイクラフトを教えている。受付の脇には贈答の花々が天井まで飾られている。黒柳徹子の飾り花が大きく立ち上がり、徹子の部屋の番組からのランの花が脇に並んでいる。花の山の前で宮井先生は、ファンの方々と記念撮影をしている。入れかわり立ちかわりのみなさんと並んでカメラの前に立つ先生は、太陽のように笑っている。木場の材木屋の次女として生まれたと聞くが、まさに下町の太陽だ。その輝きはいま、世界を照らしている。長く生きていれば、人はだれでも艱難辛苦、ときに修羅さえ味わう。先生でさえそうであろう。だが先生は、それらを笑いの湖底深く沈め、太陽の笑顔を見せる。わたしがカメラを向けるとそれに気がついた先生は、顔が壊れるほどに相好を崩し、歩み寄ってくる。「今朝、テレビで美人をみました。先生でした」。そういうと、先生の顔はもっと壊れてしまった。世界的芸術家となっても気取りを知らず、生まれたまんまである。クレイクラフト技術だけでなく、この飾らない無垢の笑いをこそ世界に広めているのだと思った。弟子たちが学んでいるのは、この幸せの笑顔なのである。部屋をめぐり、見事な作品群を見ているうちに「芸術とは」と、その昔作家の開高健先生が語っていたのを思い出す。「セニョール」。開高先生の言葉はそれから始まる。「芸術とは、魚釣りの疑似餌だ。フライフィッシングの疑似餌よ。川虫に似せて、本物の川虫を超える。一直線で純粋な魚の天然の目を見事にあざむく。本物以上である。似せて創り、本物を超える。これが芸術でなくて、なにが芸術であるか」。そういう。クレイクラフトは、まさにそれである。花を超えた花を作り、町を超えた町を創り、物語を超えた物語を創る。この芸術を世界に広める原動力となったお嬢さんの「宮井友紀子」先生が受付前で美しく笑っている。横にハンサムなオハイオ出身の婚約者がいる。「おはよう、オハイオ」としゃれて握手を求めると「おやじギャグです」と突っ込まれた。気分のよい青年である。「いやはや、たいしたものやで」。こちらも世界的アーチストであるアートディレクターの松本隆治氏が関西弁でいう。「力があるで」。わたしはうなずく。外に出る。その日、銀座は、おだやかながらすこぶる活気のある芸術びよりとなった。
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2011年10月3日 月曜日 16時12分38秒
三人の「チェ・ジウ」。


ユン・ソクホ監督作品「冬のソナタ」は、日本における韓国ドラマブームの火付け役となった。その後、多くの韓国ドラマが日本で放映され、続々と女優が登場することとなったが、なんといっても冬ソナの「チェ・ジウ」は別格である。女性たちは「ヨンさま」と叫ぶが、男たちは心の恋人「チェ・ジウ」に想いを寄せる。ずいぶん昔のような気がするが、小泉純一郎元総理も現役時代に「チェ・ジウ」と対談し「あなたの島、チェジュ島に行ってきました」とシャレのつもりでトンチンカンなことを言い「チェ・ジウ」本人がなんのことやらわからないまま愛想笑いでその場をつくろっていた記憶がある。その「チェ・ジウ」が渋谷にいる。それも、三人も束になっている。目移りがして仕方がない。実は、昨日も会って、キョロキョロ目移りしてきたばかりである。渋谷、東急東横線駅下に「クロスポイント」の社員食堂がある。そこは古くからある居酒屋で、以前、伊藤さんが前の会社の後輩である美しき係長とホッケ定食をつつきながら恋を語った店である。「チェ・ジウ」は、そこにいる。国道246号に沿った細長い店で、紅白の提灯がずらりと軒先に並び、風に吹かれながら一斉に手招きをするものだから、客たちは昼夜関係なくふらふらと吸い込まれる。小池の番長も伊藤さんもわたしも、ふらふらと昼も行って夜も行く。「チェ・ジウ」がいるからではなく、社員食堂だからだ。昼に秋刀魚定食を食べた日は、さすがに夜のメニューは別のものに変える。熱燗と白菜キムチ。冷奴もいいし、イカの沖漬けもうまい。われらは、真夏でも真冬でも熱燗である。「チェ・ジウ」は、昼はいない。4時出勤である。まず、中国福建省の「チェ・ジウ」が熱燗を運んでくる。すらりとした長身である。「熱いから気をつけて」。必ずそう言う。毎回毎回やさしくそう言って、頭を少しかしげて微笑む。番長も伊藤さんもわたしも、ついついその微笑を見たさに「熱燗、もう一本」と追加を頼んでしまう。「熱いから気をつけて」。「ほら言った、ほら言った」。なんともおとな気ないおとなたちである。二人目の「チェ・ジウ」は、ミャンマー出身である。いつも黒っぽい装いで長身を包み、毅然としている。愛想が悪いわけではなく、顔のつくりといい、表情といい、注文のとり方といい、どこか凛々しいのである。「熱いから気をつけて」なんて言わない。ミャンマーが暑いせいか「熱いのなんてなによ」といわんばかりである。番長がお新香を頼んでも、大会社の秘書のように直立不動の姿勢で立ち、社長のスケジュールを能率協会の大型手帳に書き込むように、「お新香、一つ」と伝票に書き込むのである。三人目の「チェ・ジウ」とは、最近出会った。最近まで気づかなかった。奥の厨房にいる。福建省からきている。二人の「チェ・ジウ」ほど長身ではなく、小柄で愛くるしい。いつもかいがいしく動き回っている。厨房の前を通ってトイレに行くときに目が合うと、満面の笑みを浮かべてピョコンと頭を下げる。グレイのTシャツにエプロン姿がなんとも可憐である。おかげで行きたくもないトイレに何回も足を運ぶ男たちもいる。わたしだけか。「このイカの姿焼き、あのこが焼いたんだ」。そう思うだけでもおいしさがちがうのである。だが、われらは幸せだけに浸っていられない。とくに伊藤さんは、この三人の「チェ・ジウ」のことは、美しき係長に内緒にしておかなくてはならない。なんといってもこの社員食堂は、伊藤さんと係長の唯一のデイトの場なのである。そういえば、「チェ・ジウ」の登場以来、伊藤さんは係長を渋谷に招待していない。きっとやましい気持ちがあるからだ。さて、番長と二人でゆっくりと伊藤さんの恋の行方を見ていようか。台風が渋谷の街路樹を倒して過ぎ去り、急に涼しくなった。いよいよ本格的な熱燗の季節。今宵も、「熱いから気をつけて」の声を聞きに行こうか、と三人で話している。



2011年9月20日 火曜日 15時31分17秒
待ってるひとがいる。


司馬遼太郎さんを知ったのは、司馬さんの小説「龍馬がゆく」だった。多くの男たち同様、わたしも坂本龍馬の自由闊達な生き方に心うばわれているひとりだが、なかでも司馬さんの龍馬は、目の前に竜馬がいてこちらに語りかけてくるようで、竜馬と行動をともにして国を動かしているような錯覚さえ覚えたものだ。その司馬さんの「街道をゆく」にのめりこんだのは、つい最近のことだ。司馬さんは「司馬史観」と称される独自の歴史観を展開し、単に学問としての歴史学をこえて生きた歴史をわれらに提示してみせるが、「街道をゆく」は、生きた歴史をご自分の足と手と目と耳と心で再確認する旅だと感じさせる。司馬さんは、大阪外語大でモンゴル語を学び、戦争にかりだされ、帰国後産経新聞の文化部の記者となったが、その心には常に「日本とは?」「日本人とは?」という大命題を抱えていた。その答えを頭ではなく、全細胞でつかもうとしたのが「街道をゆく」であったのではないだろうか。司馬さんは、街道を歩いて、道行くおばあさんに聞いた。道行く子どもに尋ねた。「幸せですか?」「楽しいかい?」と。おばあさんの笑顔に1000年の歴史を司馬さんは見る。無邪気に走りまわる子どもたちに1000年の未来をうかがう。それが司馬さんだと、わたしは勝手に思って尊敬の念を深めている。「街道」とは、国語辞典的にいうと「街と街をつなぐ道」ということになる。そこには人のくらしがぶ厚く集積されている。一分一秒の間断もなく、連綿と生命はつながれている。時は、流れるのではなく積み重なるという。風にさらされ、雨に打たれながら、生命たちは脈々とつながれている。「街道」わきの名もない草花に、道端の石ころに、吹く風に、足元の土に、人々は生命を刻んで生きてゆく。そして、今日も明日も刻みつづける。「街道」には、古き懐かしき町並みが、毅然と生きつづけている。見事な甍や白壁が、旅ゆく者に語りかけてくる。ふと目をあげ佇み、心の耳をすますと、おだやかに、ゆっくりとその声は聞こえてくるのだ。「街道」には、神社仏閣がある。城がある。人々の祈りと願いがあり、戦いがあって、勝者と敗者がある。丘の上の城を見上げれば、さむらいたちの雄たけびと悲痛が訴えかけてくる。「街道」には、山河がある。ひとのくらしのために切り刻まれた山は哀しく、せき止められた河は哀れだが、それもひとのくらしかと思うしかない。ひとは、どこにでもいて、文化を築く。それを感じてみたいと思う。司馬さんのように、感じるために「街道」の旅に出てみたいと思う。母の故郷である信州の山河をゆっくりと眺めてみたい。妻の故郷であるつくばのみなさんとゆっくりと酒を酌み交わしてみたい。そういう年齢になったのか、それとも司馬さんが「それが大事な生き方だよ」とおっしゃっているのかわからないが、わたしは自分の心の原稿用紙に自分なりの「街道物語」を書いてみたいと思う。山口百恵の歌のように、「日本のどこかで、わたしを待ってるひとがいる」。そんな気がしてならないのは、ひとつの季節の終わりだからだろうか。
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2011年9月20日 火曜日 15時18分58秒
惜春。


 青春は、一瞬にして蘇える。街も人も一変した。だが、若木が丘に立ち上る雲は、あのころのままに流れ、氷川神社の木々を揺らす風は、あのころのままに吹いている。50年の歳月を超えて、男たちは渋谷にいる。少年のように笑っている。1合25円の合成酒が1杯600円の酒になり、10円の焼き鳥が300円になったが、心にはあの懐かしい校歌が流れ、下駄のひびきが耳に残っている。
 バンカラという言葉もすでに時代の彼方に消え去った。K學院大學空手道部監督、9代OB次呂久英樹、同期9代、長崎在住の山村彰、同期元武道館事務局長の武道家、青木勝彦。3人はいま、70歳の少年だ。000000
「地方にいるとわからないことだが」。数年ぶりに渋谷に出てきた山村が二人の顔を見て言う。「こんなに部員が少ないとはな」。山村はきょう、次呂久とともに道場に行き、現役部員の稽古を見た。部員は8人しかいない。春には3人しかいなかった。かつて、100人を越える部員を擁し、全日本選手権をも制した強豪K学院空手道部はいま、存亡の危機に瀕している。「時代かな。さびしい限りだ」。ぼそりと言う。
 「だが、あの8人ががんばる。おれにはあと1年しか時間がないが、必ず彼らに悔いのない空手人生を伝える。優勝も狙う。監督としてのおれの役目だ。それが次につながることを願うだけだ」。次呂久が言う。000000000「60年の伝統か」。青木が杯を口に運ぶ。
伝統とはなにか。「紫の魂」と書いて「しこん」と読む。
初代小倉基が創設した空手道部の精神をこめた伝統の言葉だ。そこには、大学の4年間、同じ道場で血と汗を流した男たちの熱烈な思いが綴られている。同じ釜の飯をともに食い、未熟な青春の艱難と辛苦を、ひたすら拳にこめた者同志が知る熱い思いがある。未熟がゆえにもがいた。迷った。迷いを吹き飛ばすために、夢中で突いた。蹴った。空手が正しいか、空手道部にいていいものかどうかさえわからずに、ただがむしゃらになにかを求め、拳にすがった。拳を信じた。若く貴重な4年の歳月を注ぎこんだ。
「鬼の次呂久が、仏になったか」。青木が、お新香をつまんで笑う。「あれは、若気の至りよ」、次呂久が手を振る。沖縄石垣出身の天才空手家はいま、穏やかな笑みを浮かべて世の中を見ている。その涼しい目が後輩を見、己が人生を見ている。
「渋谷は楽しかったな」と、山村が言う。「やんちゃだったな」、青木が言う。「おまえこそ」と、次呂久が受けて返す。「おまえもだよ」、青木が山村に笑って言う。「みんな、やんちゃだったよ。それが若さだ」。青木の言葉を、ぶり大根を運んできた三漁洞の女将が微笑ましく聞いている。
三漁洞は、 クレージーキャッツの石橋エータローの店である。割烹着姿の美人の女将は、エータローの奥さんだ。エータローの父が福田蘭童、その父が天才画家青木茂である。店は釣り好きの欄童にちなんだ名であり、奥の壁には青木茂の直筆の絵が飾ってある。
「日本はどうなる?」「どうなる?ではなく、どうするか、だ」。「日本の精神とはなんだ?」「それを伝えるのが、おれたちの役目だ」。「まず、信頼だ。人を信ずる人間を育て、人に信じられる人間を育てることだ」。「いまのままで、日本は世界に太刀打ちできるか?」「龍馬のような男はいないか?」。「あいつは、金儲けのうまい愚連隊だ」。「勝海舟には思想がない。ありゃ、だめだ」。頭上を走る東横線は、来春、東口に駅を移す。話は尽きない。夜は更ける。雑踏は去らない。「おれは、ぶりは食わない」。青木が達磨のような目を剥いて、頑固に言い張る。「じゃあ、もっと刺身を食えよ」。次呂久が笑う。いい夜だ。渋谷は、あのころのままだ。こいつらは、あのころのままだ。二人を見てそう思う山村もまた、あのころのままだ。
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2011年8月2日 火曜日 10時10分55秒
原田芳雄さん


俳優原田芳雄さんが亡くなった。若き日、原田さんの野生の風貌と知性あふれる会話に魅せられ、原田さんが吸っていたタバコ「ミスタースリム」を以後ずっと吸い続けていた。髪を伸ばしてパーマをかけ、サングラスをかけて原田さんを真似て六本木の夜を彷徨った。
日活映画では刃物のように鋭い悪役を演じ、その存在感は主演俳優を食ってしまった。原田さんは悪役をやっても知性があった。男っぽさと知性の共存といえば、全学連の闘士を思い起こさせる。原田さんにはその雰囲気があった。正義の匂いがあった。権力に屈しない魂があった。日の当たる場所に出ない謙虚があった。それは男のテレだ。
石原裕次郎は不良を演じながら、田園調布のお坊ちゃん役もこなした。原田さんにはお坊ちゃん役はこなせない。してはいけない。裕次郎にはいつも演じている見事さがあって、それが最大の魅力だった。だが、原田さんはリアルだ。演じていない。演技以上の演技。人間性が演技を超えた。裕次郎のドリームに対し、原田さんはリアルだ。裕次郎の湘南に対し、原田さんは房総だ。明るい太陽の裕次郎に対し、原田さんは、いまにも嵐になりそうな重く厚い雲だ。そのリアル、その存在感にファンは魅了された。
原田さんにインスパイアされた松田優作もまたわたしの好きな俳優だ。松田優作にも原田さんと同じ匂いがあった。存在感だ。原田さんのテレビドラマもよく見せていただいた。若き原田さんがカメラマン役で、若き麗しき浅丘ルリ子さんとまどろっこしい恋をするドラマがとても好きだった。原田さんが子どもといっしょにいるシーンが印象的だった。乱暴に子どもを愛するシーンには、男が男に伝える美学があった。ドラマの主題歌「黄昏トワイライト」をよく口ずさんだ。
「龍馬暗殺」の原田さんは、他のだれよりも龍馬だった。原田の前に龍馬なし、原田の後に龍馬なし。晩年の原田さんの「火の魚」もすばらしかった。都会を離れて島で暮らす偏屈な作家の役だ。病気で倒れた若い女性編集者のために花束をかかえて見舞いに訪れるシーンは胸に迫った。死にゆく人に生き残る人間が命の話をする。そのもどかしさに、23年前に死んだ弟になにもできなかった自分の姿が重なった。死にゆく人になにもできない人間の非力は、無常の悲しみを悟らせる。
原田さんは、きっと頑固な人だ。人は、強い信念を持つと頑固になる。だが、原田さんは、ただの頑固ではない。人を愛し、人を思うやさしさに「仁」があった。仏教でいう「慈悲」だ。「仁」のある頑固は、美しい頑固であって、ただの頑固とはまるで違う。わたしの友人に花木薫というCMディレクターがいる。飛騨高山の出身で、映像製作会社の社長をしている。数年前、原田さん主演で熊本県の映画をプロデュースした。飛行機嫌いの原田さんにつきあって列車で熊本までいっしょに行った。原田さんに負けず劣らずごつくてやさしい男である。
花木さんは「おれ原田芳雄に似てるんだ」とうれしそうに言う。男たちは、裕次郎にも似たいと思うが、また、原田芳雄にも似たいのだ。原田さんには、そういうところがあった。男たちがあこがれる男の美学があった。作家立原正秋のいう男の美学、武士の美学がまさしくあった。おそらく、女にはわからない性質のものだ。ありがとう原田芳雄さん。またひとつ、わたしの心の星が消えた。来年の春、桜の花は咲く。だが、あなたはもう咲くことはない。それが、悲しい。
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2011年7月14日 木曜日 13時1分1秒
穂高の真実


都会は、人を裏切るずら。山は、けっして人を裏切ったりしないかんな。穂高の案内人の嘉さんが、太陽に焼けたしわくちゃな顔に懐かしい笑みを浮かべて言う。上高地は何年ぶりになるだろう。バス停でバスを降り、見上げると青空を切り裂くように穂高が眼前に迫っている。ここでバスを降りりる客は明らかに二分される。上高地を終着点とする観光客と、上高地をスタート地点として穂高を目指す登山家たちだ。観光客たちは軽装で、パンツスタイルに底の浅いパンプスを履き、数人のグループが大声で笑い合ったり、河童橋あたりで写真を撮ったりしてはしゃいでいる。年配者が多く、女性が多い。
登山家たちは、寡黙である。重いザックを背負い、重装備で、黙々と小梨平を抜け明神から徳沢に向かう。嘉さんは、バスターミナル広場近くの旅館の土産物売り場で待っていてくれた。店の前の縁台に座っていたが、わたしの姿を認めるとうれしそうに立ちあがった。「わざわざすみません」。わたしは帽子を取って頭を下げ、迎えに出てくれた礼を言う。「なに、歩荷もあったしさ、ついでよ、ついで」。そう言う嘉さんの横から、旅館の番頭の清水さんが、「嘉さん、朝からずっとここで待っててさ。お茶を何杯もおかわりしてな。今日はバスが遅い、なんで遅いんだなんて、おらに文句ばかり言ってね。おら、バスの運転手じゃないって言うのによ」と笑い、「でもよく来なすったね。うれしいよ。なんと言ってもおらたちは山の仲間だかんな」と、わたしの手を何度も握る。
若い学生が歩荷の手伝いをしている。わたしが学生時代にやっていたアルバイトである。井上靖が「氷壁」という小説を書いた徳沢園で、わたしは何回かの夏を過ごした。夜、嘉さんに酒を飲みながら山の話を聞き、昼は歩荷を手伝った。だが、わたしは登山家ではない。山に登る苦労を楽しみに変えるほどの根気も勇気もなく、ただ涼しい所で何も考えずに体を動かすことで夏を過ごした。嘉さんはそんなわたしをかわいがってくれた。
「氷壁」は、主人公とその親友の人間の信頼を、切れたザイルを通して問う物語だ。二人をつなぐザイルが切れた。切れるはずのないザイルが切れた。本当に切れてしまったのか。人妻に恋をして悩んでいた親友が、自分でザイルを切って自殺したのか。世間では、主人公が自分の命を救うために、親友が滑落してぶら下がるザイルを切ったのではないか、と言う者もいる。主人公は、親友を守り、人妻を守り、親友の自殺説を徹底して否定する。そんな男ではない、と頑固に守る。
実験では、ザイルは絶対に切れないとの結論だ。残るは、主人公がザイルを切った、という可能性だけだ。自分の立場が極めて不利だ。だが、それでも、彼は親友を守る。わたしは、この魚津恭太という男が好きである。自分が不利となっても、友を守る。けっして言いわけをしない。潔い。確かにザイルは切れ、友は死んだ。真実は、穂高だけが知るのだろうか。わたしは、穂高を見上げながら思う。わたしは、自分が不利になろうが、友を守る男だろうか。また、友は、わが身が不利になろうが、わたしを守る男だろうか、と。けっして言い訳をせずとも、真実はわかるのだ、と魚津恭太のように潔く生きていけるのだろうか。「都会は、人を裏切るずら。山は、けっして人を裏切ったりしないかんな」。明神館を過ぎて梓川沿いの深い山道に入った。穂高が真近に見えるところでリヤカーを止めて、山を見上げて嘉さんが誰にともになく言う。嘉さんの言葉は、穂高の言葉だった。「しばらく山におれや」。そう言ってわたしの顔を見る。「都会に帰らなくてもいいずら。正直者に都会はむかんよ」。穂高に抱かれて、わたしは泣きたくなった。
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