高野耕一のエッセイ

2012年12月13日 木曜日 11時39分28秒
アフリカ物語。


ライオンの家族は、猫のようにじゃれ合いながら、夕日の浜辺でくつろぐ。象の群れは、古い友人と守らなければならない固い約束でもあるかのように、悠然と草原を移動する。キクユ族の少年は、無限の忍耐を唯一の友とし、財産である自分の羊を見守りながら、灼熱の草原に一本の杭と化す。見上げれば、白い雪を被ったキリマンジャロの輝く頂が、こここそが神の住処といわんばかりに雲を割って浮かぶ。わたしの中のアフリカは、こんなにも美しい。そう、わたしが愛するアフリカは、野性味あふれる1920年から30年代の、もっともアフリカらしいアフリカだ。アメリカのノーベル賞作家アーネスト・へミングウェイが「キリマンジャロの雪」「フランシス・マコーマーの優雅な生活」を書き、デンマークの女流作家イサク・ディネセンが「アフリカの日々」を著し、わたしにその時代の魅力的なアフリカを教えた。マッチョな生き方と硬質な文章で知られるへミングウェイは、その行動においても極めて筋肉質で男らしい。イタリア義勇軍に参加して戦場を駆け回り、アフリカのサファリ旅行でライオンを追い続ける日々を送り、メキシコ湾ガルフストリームに挑んで「老人と海」の主人公サンチャゴの、巨大マグロとの死闘にも似た体験を繰り返した。アフリカに関していえば、へミングウェイは、「キリマジャロの雪」よりも「フランシス・マコーマーの優雅な生活」のほうが、アフリカの匂いが伝わってくる。灼熱の大地、壮大な草原に吹きすさぶの風、眩い光、深い闇、大自然の非情、猛々しい野生、恐怖、そして、人間の弱さ。彼が表現したのは、人間の弱さだった。甘い文明の汁に溺れ、堕落し、野生に帰ることを熱望しながらも、文明と野生の狭間で押しつぶされる人間の弱さ。結末で、男の乗った飛行機がキリマンジャロの頂に墜落する。マコーマーは、文明の象徴たる愛妻に草原で射殺される。死して野生に帰ったのか。ただの敗北か。それはわからない。キリマンジャロの頂で干からびて眠る象徴的な豹のように、へミングウェイは、永遠の謎を追った。「老人と海」のサンチャゴもまた、友情さえ感じていた巨大マグロをし止め、その後に鮫に襲われて骨だけの無残な姿になるが、はたして、それは敗北の印、降伏の証なのか。野生と知性の戦い。せめぎ合い。人間の知性など野生の前では、赤子に等しいと言いたいのか。未消化、未熟な知性にたいするもどかしさ。知性という駿馬を乗りこなさせないままにもがき、かといってもはや野性に戻れない哀しさ。自然の一部である人間が、いつしかその未熟な知性に、奢り、酔い、堕落し、野性から痛烈なしっぺ返しをくらっている。「アフリカの日々」は、18年間、アフリカのキクユ族やマサイ族とともに暮らしたディネセンの体験談が基になっている。アフリカの息遣い、大地の呼吸、草原の温度、森の爽快さとともに、そこに生きる人々の喜びと哀しみがひしひしと伝わってくる。やさしくて読みやすく、驚くほどの名文である。アフリカ人の花にも似た無垢な気持ち、考え方、生き方に感動さえ覚える。わたしは、今のアフリカの事情を知らない。わたしたち文明人が、道路やダムを造るために、援助の手を差し伸べている。多くの民族間の問題をかかえている。だが、わたしは、アフリカにこそ学びたいと思っている。生き抜く力、野生、自然を愛し、自然とともに生きる真の共生。そこに、文明の壁を突き破る大いなるヒントが隠されているような気がしてならない。へミングウェイほど深い理解と悩みはないが、野生と知性の絶妙なバランスこそを見極めてみたい。それこそが明日の人間社会だと信じている。
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2012年12月13日 木曜日 11時37分54秒
そのアイディア、一歩前へ。


できあがったアイディアをさらに一歩進める。最後のひとあがきをする。それがもう習慣になっている。ここまで過当市場競争が過熱すれば、アイディアひとつが企業の存亡を決定づける。勝ち残るため、成功するためには「一歩先行くアイディア」が不可欠なのだ。いい商品をつくる。いいサービスを仕立てる。それはすばらしいことであるが、当たり前といえば当たり前である。問題はその後にある。生みの親はどうしても親バカになる。目が曇る。世間の評価以上の評価をしてしまう。これも当たり前である。だが、この微妙な誤差が致命傷となる。実はこれが非常に多いんですね。広告コピーを書く場合、この点にとことん注意する。コピーライターは、どんな商品でもどんなサービスでも、その利点を必ず発見してかかる。人々が「魅力的だね」「価値があるね」というものを必ず見つけ出し、その魅力と価値を輝かせる。コロッケが美川憲一を真似るほどではないが、多少のデフォルメはする。仲人口である。だが、正直であることが絶対条件となる。できあがったコピーもひと晩寝かせる。最後のあがきだ。「マンネリで面白くないんだよ」。親しい宣伝部長が言う。駅前のビルの地下の蕎麦屋だ。熱燗を飲んでいる。「年末キャンペーンね」。「そう、海外旅行が当たるって例のやつ。それなりの効果はあるし、うちのテナントさんの旅行代理店がらみだから変えられない」。「もっと新鮮に見えて、話題にしたいってこと?」。「もう一歩がほしい」。コピーライターの仕事は幅広い。いわゆる販売促進のアイディアも求められる。文章であれ、売り出しキャンペーンのアイディアであれ、人のこころをつかむ相談は「なんでもやります」である。基本的に、人が喜ぶことが大好きなんですね。「アメリカ西海岸、10組20名」。「西海岸ね、ハリウッドがあるね」。「ある」。いつだったか、ある旅行会社の企画マンと話していたことを思い出す。ヨーロッパの旅企画で古城を訪ねる企画があり、当たったけどすぐ飽きられた、次はどうしよう。そんな話だった。ダイアナ妃の実家の城の話になり、そうした限定ものもいいね、もうひと押し、その城に伝わる伝統料理があれば厨房まで入ってその料理を教わって、いっしょに食卓を囲むってのはどう。料理ブームもあって「そいつは、面白いアイディアだ」となった。「どうせ西海岸に行くんだから、いっそのことハリウッドスターと晩飯を食ってもらいますか?」。「できるかな?」。「それは相手次第です。聞いてみますか?」。その場でロスのK事務所に電話をかけた。日本の映画監督のアメリカ事務所である。日本人の友人がいる。「というわけだけど、できないかな?」。「知り合いが何人かいるから聞いてみようか。だれがいい? 知っているのは、リチャード・ギアとかミッキー・ロークだ」。「大物だね」。「うん、ギャラ次第だね」。「また、電話する」。その企画は実現した。『ハリウッドスターとディナーをともにする、アメリカ西海岸の旅プレゼント』。大当たりだった。広告的にも大ヒットした。広告や販促に携わる人間として、もっと消費者の皆さんに喜んでもらえるアイディアが、いつも目の前にあるのだと思う。だが、多くのアイディアが「もう一歩足りない」ために、競争に勝てない、どこにでもあるアイディアになってしまっている。なんとも惜しい気がしてならない。本当にみなさん、いいアイディアをもっている。みんながもっているから困るのだ。差が出ない。コピーライターがなぜそこまでやるの?とも思う。コピーライターは、アイディアに差がないと「表現で差をつける」ことになる。それはそれで楽しいのだが、最近の消費者は実に賢く、底の浅いアイディアは本能的に見破ってしまう。「広告はしているけれど売れない」と首をかしげる企業も多いが、損得に極めて敏感な消費者には、どこにでもあるアイディアはもはやアイディアではないのだ。無理せず無駄せず、「そのアイディア、一歩前へ」が不可欠の時代となった。
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2012年12月13日 木曜日 11時36分15秒
酔いどれシャッポとハーモニカ。


父が復員して私と母は疎開先の母の実家、長野県下伊那郡座光寺村から東京に戻った。私が一歳のときに父は中国戦線に刈り出され、父の存在を知らないまま私は四歳になっていた。毎朝、よちよちと奥座敷に飾られた父の写真に一膳飯を運ぶのが私の日課だった。「父ちゃん、なにか言ったかい」と母が聞いても「ううん」と首を振るだけで、父の実感がまるでなかった。彫りの深い賢そうな顔立ち。遠くを見るようなやさしい眼差し。意思の強そうな引き締まった口元。そんな写真の印象だが、声をかけられるわけでもなく、褒められるわけでも頭をなでられるわけでもない、物言わぬ一枚の小さな茶色がかった写真の父に心を通わせるには、私は幼すぎた。父と母と三人で荒れ果てた新宿区戸山が原に移った。土手に埋もれ崩れかけた旧日本陸軍の兵舎だった。すぐ横に、すでにアメリカ軍のものとなった蒲鉾型のコンクリートの射撃場があり、夜昼かまわず機関銃の連続音が響いた。父はいつもその音にうなされた。染物職人の父に仕事はない。消防署に勤め私と母を養った。毎日、焼酎を飲んでいた。一升瓶を片時も離さず、いつも酔いどれていた。母は注意をしなかった。母は知っていたのだ。たとえ戦争とはいえ、同じ人間に銃を向け殺戮を繰り返したことへの取り返しのつかない罪悪感。同じ人間に銃撃され追い回される限りない恐怖。弾丸の雨の中で次々と死んでいく友を目前に見る底なしの恐怖。その一分一秒にやさしい父の心身がぼろぼろに破壊されていたことを、母は知っていた。父の戦争は終わっていなかった。日々、自決への誘惑と戦っていた。酔いどれでもいいから生きていて欲しい。母の願いはその一点だけだった。父の生き甲斐はなんだったのだろうと思う。私と母への責任。愛情。それ以外に思いつかない。それ以外にはない。父はそれにすがって生きながらえた。正直で無口な職人には、要領のいい生き方はできない。頭のいい父は、自分の理にかなわないことはしない。27歳の若者が、20歳そこそこの若い妻と一歳の幼子を残して戦場に行ったのだ。戦争は、父の理解が到底およばないことだ。神に祈り、神を呪う日々だった。人生にたいして真面目に向き合う男のすべてを戦争が破壊した。酒が父を守った。焼酎が命を救った。それが幸せだったかどうか、息子の私にもわからない。小学2年生のとき、一家は新宿区下落合に越した。消防署の2階に住んだ。父は、非番の日には染み抜きの仕事をした。他人の2倍も働いた。相変わらず酔いどれていた。父は、私に声をかけることはなかった。私がなにか聞いても「うん」と最小限の返事をするだけだった。根っからシャイな性格なのか、戦争が彼を無口にしてしまったのか、私にはわからない。私と母に、申し訳ないと思う気持ちでいっぱいだったのかもしれない。それほどやさしい男だった。他人行儀にさえ思えた。いくら話しかけても「うん」と「うむ」だけで「だめ」とは決して言わない父だった。それで十分に父のやさしさは伝わった。やがて四人の弟が生まれ、父の心にも落ち着きが戻ったように見えた。だが、酔いどれのままだった。クラシック音楽が好きで、銭湯の帰りに喫茶店に入りコーヒーを飲みながら目を閉じていた。粋でおしゃれだった。代々続いた酒の卸問屋の家が祖父の代で倒産し、染物屋に奉公に出され小学校しか出なかった父が、バイオリンを習ったと聞いている。将棋がだれよりも強かった。中井駅近くのスパの仲間内でも一番強く、千葉県の大会でも優秀な成績を残した。その勝負強さは弟の信治が受け継いだ。晩年、出かけるときは和服の着流しにトンビを羽織り、いつもソフト帽を被っていた。風のように歩く着流しの袖には、必ずハーモニカが入っていた。本当はバイオリンを持ち歩きたかったのだ。ハーモニカがうまかった。わずか掌に入る小さな楽器の中にオーケストラがいた。何層にも重なる音色は高く低く心に響いた。酒を飲み、酔眼朦朧となってもハーモニカの音程は狂わなかった。「春の小川」と「さくら」を吹くその音色は、はるか大陸の荒野に響くようだった。戦場で散った人々のための吹いていたのだろう。83年の生涯を終わる日まで、父はビールにウイスキーを注いで飲んでいた。母にナイショで仕事机の足元に隠したパチンコで取ったカニ缶を得意そうに見せた。なんでもいいから息子に褒めてもらいたかったのかもしれない。高校大学時代を合宿で過ごした私は父との会話は結局なかった。父から頭のよさを、母から勝気な性格をもらった。二人とも、人の悪口は一切言わなかった。それももらった。下落合、川のそば。父を追って88歳で母も逝った。父のシャッポをいま酔いどれの私は被り、やっと父と話している。
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2012年12月13日 木曜日 11時33分59秒
川の愛情。


「釣れないよ、パパ」。赤いシャツを着た少女が釣竿を上げて、振り向いて甘える。「おかしいね、でも大丈夫、いま、もう少しだったもの、ほら、魚、そこにいっぱいいるよ」。腰を折り曲げたパパが釣竿の餌をつけ直し、少女の肩をなでて元気づける。足元に無数の小魚が泳ぐ。ハヤの稚魚だ。川は悠々と流れ、空は青く澄み、風は爽やかだ。広い川原には、大人の身長ほどの雑草が生い茂っている。水面に乗り出すように緑の葉を湛えた柳の木が、川辺に二本立っている。親子とわたしは、柳の木のすぐ横にいる。そこは10メートルほどの空き地になっていて雑草もなく、足場もよく釣りやすい。下流にダムが見える。川鵜の群れが、ダムのコンクリートの上で黒い集団となって羽根を休めている。午後の陽光を浴び、のんびり昼寝をしているようにも見えるが、けしてそうではない。ダムの溜まりに集まる落ち鮎やハヤをじっと狙っているのだ。水中では、魚たちが戦々恐々としている。あっちの命のために、こっちの命があるのだ。「釣れないよ、パパ」。少女がまた竿を上げて言う。「惜しかったね、もう少しだったね」。パパが餌をつけかえる。その動作と会話がさっきから続いている。パパは、何回も何回も娘を励まし、何度も何度も餌をつけ直している。わたしは、親子の横で長いリール竿を立てて鯉を釣っている。「魚を集めてあげるね」。わたしはそう言って、一握りの集魚用の餌を少女の竿先に投げ入れる。「きっとこれで釣れるよ」。そう言うと「どうもすみません」とパパが頭を下げる。丸い顔に満面の笑みを浮かべ、いかにもやさしい、人のよさそうな目をわたしに向ける。「昨日はそこでいっぱい釣れていましたから」。わたしは言った。そうなのだ。明星ラーメンのパッケージに描かれているおじさんによく似た釣り人が、たくさんのハヤを釣り上げていた。「もう少し遠くへ餌を投げてごらん、その岩の向こう、そうそう」。少女が竿をあげ、餌を入れ直す。釣れない。「釣れないよ、パパ」。「がんばろうね」。パパは少女の後ろに座り込んで餌をつける。「餌はなにを使っています?」。わたしが聞く。「フナ用の練り餌です。そこの釣具屋で買ったんです」。「ハヤは白いものならなんでも食います。それでいいですね。でも、ためしに米粒でやってみますか?」。わたしはコンビニ弁当の米粒を一つまみ渡す。「パパ、釣れた」。やがて、少女が歓喜の声をあげた。もち上げた竿先で、陽射しを受けた小さな命がきらきらと輝いた。銀色に輝き弾ける魚鱗。ハヤだ。少女には、煌く宝石に見えた。「やった、やった」。パパが岩の上で雀のように小躍りする。「早くはずしてパパ。逃がしちゃだめよ。バケツにいれて」。少女がうれしそうに叫び「うん、大丈夫、大丈夫。ちゃんとバケツに入れるから」。ハヤを針からはずし、ピンク色の小さなバケツに入れると「ありがとうございます」とパパはやさしい目を向けて頭を下げる。「うまいね。とても上手だったよ」。わたしは、うなずきながら少女に言う。バケツの中のハヤをのぞきこんでいた少女が顔をあげ「早く釣らなくちゃ」と立ち上がり「パパ、餌つけて」とせがむ。わたしは、息子と釣りをした30年前を思い出していた。このパパのようにやさしく接しただろうか。こんなに無理難題をせがまれても「うん、いいよいいよ、がんばるんだよ」と笑って言っただろうか。いつも、そういう気持ちで息子を見てきただろうか。最近、この川からも親子連れの姿が消えた。帰り際に少女がとことこ駆け寄ってきた。「おじちゃん、ありがとう」。「パパよりうまくなったね。この川で一番だね」。わたしは言った。「でも、パパが教えてくれたからだよ」。少女は振り向いて、パパに素直な笑顔を見せる。「川にもありがとうって言うんだよ。魚にもね」。わたしの言葉に少女は川に向かって「ありがとう」と小声で言った。あれから街は変わり人は変わったけれど、川は息子と釣りにきたあの頃のままに流れている。悠久の流れの懐で、命の季節は絶えず移り変わり、人々もわたしもやがて消える。だが、川はいつも、いつまでもやさしい愛情にあふれて流れるのだ。
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2012年9月27日 木曜日 14時54分34秒
ふたたびの多摩川。


秋の入り口の土曜日、突然多摩川の鯉釣りを再開した。長竿とタックルは渋谷の事務所に置いたままだ。家にあるのは短いバス釣り用の竿が2本、息子のものだ。それを借りて自転車で出かけよう。さて、和泉多摩川がいいか、それとも東名高速下か、あるいは二子玉川あたりか。川の様子も変わっているだろう。とにかく35年ぶりだ。魚だって渋谷の若者のように最新の流行を取り入れ、性格も生き方も大きく変化しているはずだ。ポイントがもはやわからない。楽に行けるのはどこか。よし、東名高速下だ。途中、環状八号線沿いの上州屋で必要なタックルを買う。まあ、今日は川へのご挨拶だから大掛かりな装備はいらない。吸い込み針の8号を4本。錘は5号を一袋。餌は、集魚用に大ゴイを一袋とさなぎを一袋。食わせに芋羊羹を一つ。この芋羊羹が高い。一個300円。人間様が食べる芋羊羹より高い。あとで妻にそのことを言うと「それ、わたしたちで食べようか」と妙なことを言った。潔癖症の妻のこと本気で言ったのではない。経済観念がわたしの100倍もすぐれている彼女は、あまりの悔しさについそう口に出たまでだ。あとは、そうだ鈴もいる。竿先につける鈴だ。視力の弱いわたしは、浮きの微妙な当たりが読み取れない。そこで吸い込み釣りを始めたというわけだ。鯉がかかれば鈴がリンリンと鳴り、鯉のほうから「旦那、わたし釣れましたけど」と教えてくれる。はたから見れば実に横着、大雑把な漁法である。その間、わたしはといえば、そこらあたりの草むらにひっくり返り、ウイスキーを舐めている。本を読んでいる。釣れなければ釣れないで「お、いま、でかい鯉が餌のそばを通ったな」とか「鯉のやろう、餌の様子をうかがってるな。度胸のないやつ」とか、勝手に川底の鯉を妄想し、ぐちぐち言いながら昼寝をすればいい。はたから見なくても大雑把の釣りである。
少し走ってNHK技研前のコンビニで弁当を買い、ウイスキーの小瓶を仕入れる。よし、これで装備は完璧、待っていろ大鯉たち。ペダルを漕ぐ足も軽い。東宝の坂を下り、成城通りの交差点を左折する。川を一つ二つ越えると東名高速が見えてくる。右折して高速に沿って走ると懐かしい多摩川が見えてくる。広い河原では子どもたちがサッカーの試合をしている。親たちが周りで声援を送っている。懐かしい光景だ。息子がまだ小さく、妻がまだ若く美しいころ、わたしもこの親たちのように、息子のサッカーを夢中で応援した。妻が作った弁当を原っぱに座りこんで食べた。幸せとはそういうことなのだ。
釣りはもう止めるか。いや、そうはいかない。「早くきてください」と大鯉が呼んでいる。白バイの練習場脇の凸凹道を、空気の少ない自転車で飛び跳ねながら川を眺めてポイントをさがす。かつてあった広い駐車場がない。川は表情を大きく変えている。それにしても、釣り人が見当たらない。不安になる。釣れないということか。だが、意を決してポイントを決める。お、魚がうようよいる。大鯉が足元を悠々と昼の散歩と決め込んでいる。はやる心を抑えつつリール竿をセットする。投げ込む。待たしたな魚たち、さあこい、ほら食え。じっと竿を見つめる。鈴よ鳴れ。念じる。本は読まない。ウイスキーは舐めない。鈴は「うん」とも「すん」とも言わない。ぴくりともしない。川の音が響く。鳥たちが水面をかすめて飛ぶ。陽は眩しく、風は穏やかだ。足元でうろうろする大鯉の横を、学校に行く途中か帰る途中か、ランドセルを背負ったメダカたちが「旦那、釣れませんか」と、口をそろえてわたしを小バカにする。本を読むふりをする。ウイスキーを舐める。祈る。鈴は相変わらず「うん」とも「すん」とも言わない。無口な鈴を買ってしまった。もっとも「すん」とでもほざいたら、わたしは鈴を踏み潰し、竿をへし折ってしまっただろう。暇だから妻にケータイをかける。「魚はいる。山ほどいる。だけど釣れない。いったいおれのどこが悪いと言うんだ」。妻が一言言った。「頭」。陽はとっぷり暮れ、帰りの自転車が涙ぐんで重く走る。ふたたびの多摩川、惨敗であった。
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2012年9月19日 水曜日 15時9分26秒
モチベーション


教授、モチベーションてなんですか?そうだな、こころのもち様だな。風のやわらかい土曜日の昼下がり。丘の上にある大学のカフェテラス。心理学者である日向野教授は、二杯目のアイスコーヒーを飲んでいる。「むずかしい仕事をしているな」。眼鏡の奥の目を細めてニヤリと笑う。「そうです。いま、いろいろな企業のトップに、社員のモチベーションを上げるにはどうしたらいいかって聞かれます。おっしゃる通りむずかしい仕事です」。モチベーションとは、動機づけとか、ある一定の方向に向ける一定のプロセスとか、意欲という日本語に訳されるが、むずかしいのは人のこころをいかに昂揚させるか、意欲をいかにかき立てるか、の「いかに」という方法論だ。(それも可能な限り低料金で)。人のこころだから、それは個人個人の問題さ、と投げ出したくなる。途中で投げ出す企業も多い。あるいは、高いモチベーションをもつ者を雇用すればいい、という結論に至ってしまう。「最近の若者は無気力なのだそうです。モチベーションを上げようにも乗ってこない。こんな時代だから諦めるしかない、という声もあります」。「最近の若者はということばは、ピラミッドにも書かれている。きみの若い頃も大人たちにそう言われていただろう」。「はい、言われてました」。「ということは、相手のせいにしたり時代のせいにしたり、大人たちのつまらない逃げ口上とも言えるね」。こういう考え方はできないかな、と教授は青い空を見上げた。「オリンピック選手は、高いモチベーションをもっている。北島にしても澤にしてもそうだ。あるいは中国や韓国の選手のモチベーションは極めて高い、そう思わないか?」「思います」。「なんでだろうか?」「国をショって立ってるからですか?」「そう、国をショって立つということは、つまり誇りだ。そうだね」。「そうです」。「すなわち、誇りはモチベーションを高くするということにならないか?」教授のことばに、なんだか少し灯りが見える。「ところで、西洋に騎士道がある。日本に武士道がある」。教授が話をすすめる。「この道というやつは生き方であって、こころのもち様だ。この二つは同じだ。ところが、ある一点がまったくちがっている。騎士道のこころの根幹は誇りだ。彼らは誇り高い文化をもつ。誇りの文化だ」。教授はなにを言おうとしているのだろうか。そう思って身を乗り出す。「それにたいし武士道のこころの根幹は恥だ。恥の文化だ。そうだね。騎士道と武士道は同じものなのに、片や誇りで片や恥ときた。不思議だね」。「日本人の特質ですか?」「それもある。そして大事なのはここだ。さっき言ったように、高い誇りはモチベーションを上げるということだ」。教授がなにを言いたいのか、わかり始めた。「誇りは、物事に積極的に向かわせる力となる。目前に栄光が見え、勝利に迷うことなく向かう。ところが、恥には、その目前に失敗が見える。恥の文化は、失敗を恐れる気持ちを生む。失敗を恐れ萎縮し、消極的にならざるを得ない。日本は、失敗をがんがん攻める国になってしまった。政府もそう、会社もそう。社員たちは、失敗しなければそれでいいと思ってしまう。黙って上司の顔色を伺いながら、言われたことだけをやっていればいい。恥は失敗につながりモチベーションを下げる。だが、そうしているのは実は会社のトップだ。そう思わないか?」「そんな気がします」。「政治家は国民の顔色ばかり見ている。失敗すれば、総理もすぐ交代。おまけに支えるべき回りが、足を引っ張る。昔の政治家には大物がいた。たとえば吉田茂なんか、この国はおれにまかせろ、がたがた言うなという政治をやった」。「企業のトップにもそんな大人物がいますか?」「いる。絶対にいる。社員のモチベーション云々なんて言わない。社員を引っ張りまわす。だが、社員は引っ張りまわされているとは思わない。ここが凄い。社員は自らモチベーションを上げる。なぜだろう?」「なぜですか?」「社員に手柄を渡すが、失敗の責任は自分が取る。社員に誇りをもたせる」。恥のこころを誇りに変える。恥も誇りも本来同じこころで、その方向性がちがうだけ。「それができればいいだけだ」。どうだできるか、とばかりに教授はこちらの目を覗きこむ。できそうです、教授。清々しい風の吹く丘の上だ。
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2012年9月19日 水曜日 14時54分8秒
走れ、女神たち。


事を謀るは「人」にあり。事を成すは「天」にあり。なに事も、悔いの残らぬよう全知全能を尽くし、徹底的に策略を練って取り組め。結果を恐れたり心配したりせずに、全身全霊で取り組み、結果は「天」に委ねる。成功失敗は「天」が決める。「三国志」でおなじみの諸葛孔明は、そう言う。失敗すれば国を失うのだから、魏も蜀も呉も、必死で策を練る。日本では「人事を尽くして、天命を待て」ということばで知られている2000年前から続いている教えだ。ロンドンオリンピックの幕開けは、11人の女神たち「なでしこジャパン」で始まった。ロンドンと日本は、8時間の時差がある。おかげでキックオフは午前1時、日本では酔っ払っているか寝ているか、の時刻である。世界大会を制したわが「なでしこ」たちは、当然のごとくこのオリンピックでも金メダルを期待されている。それに幕開けの先鋒だから、ここはオリンピック全体の勢いをつけたいところ。だれもがさらに期待する。相手はカナダ。先日のフランスとの練習試合では、2対0で負けているから、なにやら不安は募る。そもそも外国勢に比べて、身体の大きさがちがう。フィジカルがちがう。身体の大きさがちがうということは、走る速度もちがえば、ぶつかるときの圧力が決定的にちがう。言い換えれば、日本にとっては広いピッチだが、カナダにとっては狭いピッチである。日本にとって大きなボールだが、カナダにとっては小さなボールである。となれば、どうやって勝ちに行くか。勝つためには、どんな策が必要か。負けるときは、どう負けるのか。すべてシュミレーションしておかなくてはならない。試合前に両選手が並んでいるのを見ると、カナダのストライカー、雲つく大女シンクレアに対し、わが「なでしこ」の微笑みの天使川澄くんは、まるで小学生である。シンクレアの1歩が、川澄くんの3歩に相当する。これは素面では見てはいられない、川澄くんがかわいそうだ、と麦焼酎を取り出してソファに横になる。スタート直後、女神たちの動きが鈍い。ぎこちない。パス回しも遅い。スロースターターといわれる「なでしこ」だから、まあそのうち、と思いつつ心配である。と、二杯目の焼酎を飲もうとした瞬間、川澄くんが走った。左サイドにいた微笑みの天使が一気に羽ばたいた。澤から大野にボールが渡る。大女たちの袖の下を、翼を広げた天使が音もなく駆けぬける。大樹の葉陰を一陣の疾風が吹きぬけた。川澄を信じ、大野が、あっち向いてホイとばかりにバックパス。サポーターだけでなく、両チームの選手たち、もちろんテレビの前のわれらもあっけに取られているうちに、ボールはカナダゴールに叩き込まれた。カナダのゴールネットが揺れた。それを尻目に「ごめんね、入っちゃった」と、天使は照れくさそうにピッチを駈ける。キャプテン宮間が飛びつく。「なでしこ」のお姉ちゃん澤が、駆け寄って小柄な天使を抱きしめる。「入っちゃったね」。オリンピックの幕開けの花火を完璧なシュートで打ち上げた天使は、その大きな価値を知ってか知らずか小首をかしげて微笑む。孫子は言う。戦いにおいて、勝つには「勝つ理由」がある。負けるには「負ける理由」がある。それをすべて承知し、策を練る。「なでしこ」がカナダに負けるとしたら、高さと速度だ。それを封じる策を練る。まず、ストライカーのシンクレアを徹底して封じる。勝つ理由。カナダを上回る早さと精密さだ。負ける理由を封じ、勝つ理由を発揮した。孫子の言う。「戦う前に勝て」と。「勝ってから戦え」と。2対1。「なでしこ」は、勝つべくして勝った。これは、厳しい経済下における会社経営にも絶対に必要な考えだ。さらに言えば、国際社会における日本の国家政策に必要な思想だ。小さいから、その小ささを活かして勝利した「なでしこ」は、多くの教訓をみんなに与えた。小さく、資源に乏しい日本が勝つためには、明確な「勝つ理由」が必要だ。考え抜いた「策」が必要だ。「負ける理由」もまたわかっていなければならない。さて、ここしばらくは寝不足になる。わたしには、その理由はわかっている。
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2012年8月31日 金曜日 16時1分36秒
まず「負ける理由」を排除せよ。


敵を知り己を知れば、百戦危うからず。孫子の兵法は、「勝つ」ための兵法というより「負けない」ための兵法である。百戦して百勝する、とは言っていない。勝つ、とは言っていない。危うからず、と言っている。孫子つまり孫武に言わせれば、まず「負けない」ことが最も重要なことなのである。負けないことが、生き残ることであり、負けることは、滅亡なのである。中国「三国志」の曹操、劉備、諸葛孔明を想像すれば、この兵法が実に正論、まさに明快であることがわかる。さらに、孫子の兵法から学ぶべきは「戦う前に勝て」「勝ってから戦え」という鋭い示唆だ。戦う前に、完璧な策を立てておかなければならない。「勝ってから戦え」とは、すべてに通じる実に貴重な示唆である。ところで、広告や販促の分野でも、コンペティションはつきものである。極論すれば、コンペティションでの勝敗が会社の存亡を決めるとも言える。そこでわたしが心がけるのは「負ける理由」の確認分析と排除である。まず、それを徹底的にやる。通常、多くの会社は勝つ理由ばかりを考えて「負ける理由」にまで思考がおよばないものだ。「負ける理由」がわからない。わかっていてもこれまでの惰性で、見て見ぬふりをする。これでは、負けて当然。たとえ勝ってもマグレ当たりである。「負ける理由」がわからないのは悪である。「負ける理由」を追究しないのは最悪である。コンペティションに負けて、得意先のせいにしたり、自分以外のなにかの責任にして、反省もしない会社に明日はない。そういう会社は、負け続ける。負け続けながら、なぜ負けるのかを真剣に検討せず、自分以外の他のだれかに「負ける理由」をすりかえる。そこで、延々と負け続ける。明快だ。ロンドンオリンピックでの日本の団体戦の活躍が注目されている。卓球、バレーボール、体操、サッカー、フェンシング、水泳等々。この団体戦に、コンペティションでの「負けない理由」のヒントがある。全員、心をひとつにして、お互いに声をかけあい、チームの勢いを大事に大事に戦っている。むろん、足を引っ張る仲間などいない。最も単純で、最も大きな「負ける理由」は、チームのメンバーに「ノリの悪い人間」がいることだ。「ノリの悪い人間」は、チームの勢いを削いでしまう。モチベーションを下げてしまう。心をひとつにせず、ばらばらにする。足を引っ張る。コンペティションをいっしょに戦うチームに「ノリの悪い人間」がいたら、まず絶対に排除すべきである。問題は、チームリーダーが「ノリの悪い人間」の場合だ。あるいは、会社のトップやディレクターが「ノリの悪い人間」の場合だ。排除できない。チームリーダーやトップやディレクターにそんな人間がいるだろうか。ところが、これが多いのだ。部下たちは気づいていても、面と向かっては言えない。それに、そういう人間に限って「自分はノリが悪い」「空気が読めない」と気づいていないから始末に悪い。不況が長引き、多くの企業が戦いの渦に巻き込まれている。最近、企業のトップの方々に頼まれ、孫子の兵法をビジネスに置き換えて話し合うことも多い。企業を分析して「負ける理由」を徹底的に洗い出す。「負ける理由」を排除する。これは、ビジネスだけでなく、国家間でも極めて重要である。グローバル化がすすみ国と国の交渉事が増えた。外務省の役人にたいする期待は大きい。わが国は、小さな国土と少ない資源、エネルギーも乏しい、食料も輸出に頼らざるを得ない。そうした「負ける理由」満載の日本には、相手がだれであってもしっかりと戦える策が必要である。相手国はきっちりと日本の弱点「負ける理由」をついてくるはず。孫子の国、中国は当然強力な兵法を講じてくるはずだ。まず「負ける理由」を排除して、さて次は「勝つ理由」を築き上げることだ。頭脳と行動。考える。実行する。二つともなってこそ乱世を制するのだ。
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2012年7月30日 月曜日 14時11分15秒
走れ、女神たち。


事を謀るは「人」にあり。事を成すは「天」にあり。なに事も、悔いの残らぬよう全知全能を尽くし、徹底的に策略を練って取り組め。結果を恐れたり心配したりせずに、全身全霊で取り組み、結果は「天」に委ねる。成功失敗は「天」が決める。「三国志」でおなじみの諸葛孔明は、そう言う。失敗すれば国を失うのだから、魏も蜀も呉も、必死で策を練る。日本では「人事を尽くして、天命を待て」ということばで知られている2000年前から続いている教えだ。ロンドンオリンピックの幕開けは、11人の女神たち「なでしこジャパン」で始まった。ロンドンと日本は、8時間の時差がある。おかげでキックオフは午前1時、日本では酔っ払っているか寝ているか、の時刻である。世界大会を制したわが「なでしこ」たちは、当然のごとくこのオリンピックでも金メダルを期待されている。それに幕開けの先鋒だから、ここはオリンピック全体の勢いをつけたいところ。だれもがさらに期待する。相手はカナダ。先日のフランスとの練習試合では、2対0で負けているから、なにやら不安は募る。そもそも外国勢に比べて、身体の大きさがちがう。フィジカルがちがう。身体の大きさがちがうということは、走る速度もちがえば、ぶつかるときの圧力が決定的にちがう。言い換えれば、日本にとっては広いピッチだが、カナダにとっては狭いピッチである。日本にとって大きなボールだが、カナダにとっては小さなボールである。となれば、どうやって勝ちに行くか。勝つためには、どんな策が必要か。負けるときは、どう負けるのか。すべてシュミレーションしておかなくてはならない。試合前に両選手が並んでいるのを見ると、カナダのストライカー、雲つく大女シンクレアに対し、わが「なでしこ」の微笑みの天使川澄くんは、まるで小学生である。シンクレアの1歩が、川澄くんの3歩に相当する。これは素面では見てはいられない、川澄くんがかわいそうだ、と麦焼酎を取り出してソファに横になる。スタート直後、女神たちの動きが鈍い。ぎこちない。パス回しも遅い。スロースターターといわれる「なでしこ」だから、まあそのうち、と思いつつ心配である。と、二杯目の焼酎を飲もうとした瞬間、川澄くんが走った。左サイドにいた微笑みの天使が一気に羽ばたいた。澤から大野にボールが渡る。大女たちの袖の下を、翼を広げた天使が音もなく駆けぬける。大樹の葉陰を一陣の疾風が吹きぬけた。川澄を信じ、大野が、あっち向いてホイとばかりにバックパス。サポーターだけでなく、両チームの選手たち、もちろんテレビの前のわれらもあっけに取られているうちに、ボールはカナダゴールに叩き込まれた。カナダのゴールネットが揺れた。それを尻目に「ごめんね、入っちゃった」と、天使は照れくさそうにピッチを駈ける。キャプテン宮間が飛びつく。「なでしこ」のお姉ちゃん澤が、駆け寄って小柄な天使を抱きしめる。「入っちゃったね」。オリンピックの幕開けの花火を完璧なシュートで打ち上げた天使は、その大きな価値を知ってか知らずか小首をかしげて微笑む。孫子は言う。戦いにおいて、勝つには「勝つ理由」がある。負けるには「負ける理由」がある。それをすべて承知し、策を練る。「なでしこ」がカナダに負けるとしたら、高さと速度だ。それを封じる策を練る。まず、ストライカーのシンクレアを徹底して封じる。勝つ理由。カナダを上回る早さと精密さだ。負ける理由を封じ、勝つ理由を発揮した。孫子の言う。「戦う前に勝て」と。「勝ってから戦え」と。2対1。「なでしこ」は、勝つべくして勝った。これは、厳しい経済下における会社経営にも絶対に必要な考えだ。さらに言えば、国際社会における日本の国家政策に必要な思想だ。小さいから、その小ささを活かして勝利した「なでしこ」は、多くの教訓をみんなに与えた。小さく、資源に乏しい日本が勝つためには、明確な「勝つ理由」が必要だ。考え抜いた「策」が必要だ。「負ける理由」もまたわかっていなければならない。さて、ここしばらくは寝不足になる。わたしには、その理由はわかっている。
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2012年7月25日 水曜日 16時32分30秒
カラオケボックス誕生。


いま思っても、桁はずれにスケールにでかい男だった。売り出しの広告クリエイターたちは、その男と仕事をするのを楽しみにしたし、誇りにしたものだった。
酒は強かった。六本木で飲むと必ず朝まで飲んだ。それでいて、朝の打ち合わせには遅刻をしなかった。マージャンが好きで、突然電話がきて、今晩つきあってくれと徹夜マージャンになったりすることもたびたびだったが、会えばなにかと勉強になった。広告のことも教えてくれたが、男の生きかたも教えてくれた。学生時代にはラグビーをやっていた。でかい身体だった。まだ40代だが、宣伝部長としてすばらしい仕事の数々をこなしてきた。明るく開けっぴろげ、豪放磊落な性格で、少々の無理難題をいわれても若い連中は喜んで引き受けた。その日、朝11時に電話がきて、昼飯をいっしょに食おうという。六本木のスタジオで撮影中だったが、行きます、と答えて約束の渋谷に行った。渋谷の駅近くの寿司屋に入る。「熱燗!!」。彼は叫ぶ。「昼からですか?」「酒に昼夜なしさ」。彼はポケットから小さなパンフレットを取り出して開く。「これ、見てくれ」。カラオケマシンのパンフレットだった。「うちのカラオケマシンは好調に売れている。これからもどんどん伸びていくだろう。そこでだ」。彼はいう。神戸に船の古いコンテナがいくつも余っているという。まだ十分に使える程度のものだが、規制があってある期間が過ぎる使えなくなるそうだ。このコンテナに彼は目をつけた。コンテナを部屋に見立て窓をつけ、カラオケマシンを設置したいという。「実はもう、カラオケコンテナをテストしているんだ」。カラオケを設置したコンテナを広い駐車場の端に数台設置してあるという。「カラオケだけをやる部屋ですか?」わたしは尋ねた。不思議だった。いくらカラオケが流行っているとはいえ、それがビジネスになるのだろうか、という疑問が頭をよぎる。「そう、カラオケ専用だ。朝から晩までやっている。受付と飲み物なんか売るコーナーは、表にある」。「朝からカラオケってどんな客ですか?」「高校生、中学生、主婦だ。風紀上、窓を開けておかなきゃならんのだ」。「へえ、ただの箱が歌える遊びのスペースになるんですね?」「そうだ、ただの箱が金を生み出すんだ。みんな閑なんだ」。それを、まず全国の駐車場や公園に設置して広めたいからポスターを作ってほしいという。「ただのボックスが歌うカラオケボックスになるんですね」。「そうだ、カラオケボックスだ。それだよ。カラオケボックス公園だ」。だれもが歌につつまれて暮らす毎日。うれしいにつけ、悲しいにつけ、喫茶店に行くように仲間とカラオケボックスに行く。
朝、子どもを幼稚園に送った主婦たちが集まる。授業を終わった高校生たちが仲間とわいわい集まる。「だいいち安い」。そんなイメージを話し合う。面白そうだ。「今週中にポスター案を作ってくれ」。半年を待つまでもなく、カラオケボックス公園は大人気となって、全国に普及した。翌年には大きなキャンペーンをやらせてくれた。「2ヶ月ほどヨーロッパを視察してくる」。ある日彼はそう言い残して、旅立った。「次の手を考えてくる。待っていてくれ」。それは、視察旅行ではなく、入院だった。そのまま彼は帰らなかった。名物宣伝部長のあまりに早い死を業界は惜しんだものだ。あれから何年になるだろう。梅雨になると彼を思い出す。それにしても、カラオケボックスがこれほどまで暮らしに溶け込むとは、彼もわたしもその時は想像もしなかった。
tagayasu@xpoint-plan.com



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