高野耕一のエッセイ

2011年7月6日 水曜日 14時52分16秒
係長に恋をした。


陽のあたる坂道を上って、係長はやってきた。春には、ピンクのトンネルとなる桜並木の坂である。渋谷駅西口、国道246号線を越えると、地名も渋谷区桜丘となり、桜通りは特に桜の美しいところである。
係長は、浜松町から伊藤さんに会いにきた。梅雨の晴れ間の猛暑の日だ。二人は、東急線ガード下の山形屋で昼飯を食べ、その後坂を上って番長の事務所に向かう。上野の小学生か中学生が10数人、熱中症で病院に運ばれた日である。午後の陽ざしは肌を射すように熱く、桜の木々がレンガの坂道に深い影を刻んでいる。時折風が吹くと影が揺れる。木漏れ日がちらちらと動く。その影を踏みながら、係長は幸せな気持ちでゆっくりと坂を上る。久しぶりに会う先輩は、むかしと変わらずやさしかった。渋く、そのくせ少年のように笑う表情もむかしのままだ。
先輩とは伊藤さんのことだ。交通媒体を売る広告代理店の営業係長である彼女は、素直な黒い瞳をもっている。ふくよかなそのオーラは、かの山口百恵のような菩薩の雰囲気だ。あとで伊藤さんにそういうと、伊藤さんはにんまりと笑った。まったく否定しなかった。それより、わが意を得たり、とばかりに相好を崩した。どうなの、仕事は?わたしは係長に尋ねる。このご時世ですから、やはりね。係長は軽く眉をひそめるが、すぐ笑顔をとりもどし、でも頑張ります、と答える。伊藤さんが、うまいコーヒーを入れる。二人は、広い窓の見える席に並んで座っている。営業ですからお客さまの頼みはなんでもお応えしたいので、いろいろなお話がきます。いま、吉祥寺に物件を探しています。化粧品のお店です。自分の机でパソコンに向かい、翌日の横浜商店会のプレゼン企画を考えていた番長が、いい不動産屋を紹介しようか、と振り向いた。お願いします。番長が電話をし、すぐに話が進んだ。番長は、販促の企画だけでなく、いろいろと面倒見のいい男で、屋形船の企画なぞ朝飯前である。窓の外の向いのビルの円谷プロでは、スタッフが忙しく動き回っている。暑い陽ざしは一向に衰える気配がない。
時代を反映するような新しい媒体は、なにかないの?わたしは聞く。いま、デジタルサイネージが興味深いですね。電子看板ね。そうです。これからもっと効果的に使われるようになるでしょうね。成功と失敗を繰り返しながら、時代は新しい価値を生んでいく。デジタルサイネージは、大きな可能性をもっている。わたしもそう思うが、新しいものが社会に理解されるには、ある程度の時間が必要である。
われらは、被災地の話をし、思いを馳せる。われらにできることは精一杯やりたいね。係長は、まっすぐに視線を向けて大きくうなずく。被災地のために広告ができること。それを話す。係長の、伊藤さんを見る目が熱い。今日の暑い陽ざしに負けないくらい熱い。伊藤さんの、係長を見返す目が熱い。その夜、番長と伊藤さんとわたしは、246号線近くの富士屋本店に立ち寄る。立ち飲み屋である。伊藤さんは、今年47歳。これまで結婚をしていない。バツいちでもない。きれいな体である。係長とは20歳くらい歳は離れている。愛に年の差はない。番長とわたしが、叫ぶ。鹿児島出身のラストサムライ伊藤さんが、節電で熱い地下の店で笑う。280円の寒梅の熱燗を、番長とわたしの御猪口に注ぎながら、いかにもうれしそうである。渋谷がいま、変わりつつある。もしかしたら、係長と伊藤さんの運命も楽しく変わるかもしれない。係長、また、陽のあたる桜の坂道を上っていらっしゃいね。
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2011年6月16日 木曜日 16時12分43秒
井上くん恋事件。


「あなた、キライです」。初対面の若い娘に突然そういわれたのは井上くんだ。渋谷、ガード脇ののんべえ横丁の飲食処「はな」である。6人で超満員の、いたずら小僧のおもちゃ箱のような店である。この横丁は、そういったおもちゃ箱を寄せ集めたような村だ。だれもが安堵する時代遅れがいきいきといまも息づいている。
「はな」には、驚くほど若く美しいママが3人いる。いうなれば「日替わりママ」である。デニーズのランチのごとく日替わりである。野球のピッチャーと同じで、ママのローテーションだ。だから、店に行って「お、今日はこのママか」というあん梅で、それがまた面白い。ただ、「はな」のママは、ピッチャーのように、先発、中継ぎ、抑え、といった途中交替はない。3人とも先発完投型である。
さて、井上くんの、恋の行方だ。その日、わたしと小池番長、伊藤さん、井上くんの4人は、渋谷の販促会社「クロスポイント」で打ち合わせ後、軽くビールを飲み、ネオンの誘惑に誘われて駅前を風になってふらふらと横丁に向かった。「はな」のオープンの日であり、律儀な鹿児島ラストサムライの伊藤さんは、鹿児島焼酎「伊佐美」の一升瓶を手にぶらさげている。店に着くと先客が席を譲ってくれた。なんせ6人で超満員の店だ。おもちゃ箱だ。われらは、押し寿司のようにぎゅうぎゅうと詰まって座る。一番奥に、銀座にアロマセラピーのサロンをもつ社長がいて、その隣に「井上くん恋事件」の主犯の若い娘がいる。若い娘といっても化粧品メーカーの社長である。その隣が伊藤さん、その横に番長がいて、カウンターに沿ってがくんと曲がって、井上くん、わたしが座る。まあまあ乾杯と全員がグラスを掲げ、ぐぐっと飲んで一息ついたところで、例の娘が「わたし、あなたがキライ」と、井上くんに向かって叫んだ。
二人はまったくの初対面である。いままで会ったことがないのである。その初対面の第一声が、これである。まるで辻斬りである。通り魔である。当の井上くんは、目を見張って絶句する。表を山手線ががたごと通過する。後になって「45年生きてきたけど、初めての経験です」と、井上くんはため息をついたが、その時は、ただただ大きな目をどんぐりにするしかなかった。われらは、想定外のこの鋭いツッコミにどう対応すればいいのかわからず、菅総理のごとく、とりあえずオロオロするしかなかった。これは天災ではなくあきらかに人災だ、なぞとわたしはわけのわからないことを考える。「だって、前に勤めていた会社の上司に似てるんですもの」。彼女はにこにこと無邪気に笑う。われらは、事件解決の糸口を見つけ、貴重な証拠を発見したエルキュール・ポアロのように安堵する。「この井上くんがキライな上司に似ているといっても、それは外見だけでしょう。この男は近江商人のように金もうけはうまいけど、心は清く、性格は潔く、実に気持のいい男です」。年長のわたしはその場を繕いにかかる。「そんなこといって、後で二人だけで違う店で飲んでたら怒りますよ」。第一、ペアできていたアロマ社長に悪いではないか。「ははは、どんどんやってください」と、アロマ社長は応用だ。「でも、仕事はシビアよ」と、娘社長はアロマ社長に矛先を向ける。それを機に、小池番長が新日本プロレスにスカウトされた話や、神奈川県の高校サッカー時代に、ゴールキーパーでありながら、一発で相手ゴールに蹴り込んだ武勇伝など話すが、やはり彼女は井上くんキライ話に戻ってしまう。井上くんが、化粧品の素であるコラーゲンを扱っているということで「ライバルだもん」という意識が働いたのかもしれない。大騒ぎをしてやがて店を出、ガード下のそば屋で井上くんがぽつりといった。「45年間で初めてです」。井上くん恋事件は迷宮入りになる。ラストサムライ伊藤さんもそう思ったに違いない。
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2011年6月1日 水曜日 11時43分51秒
母の空は、晴れ渡る。


母よ、あなたの88年は、幸せだったでしょうか。故郷の空のように晴れ渡っていたでしょうか。山や川のように清々しい生涯でしたでしょうか。長野県下伊那郡座光寺村北市場。あなたの故郷です。りんごや桃の畑、桑畑に囲まれ、はるか遠くにそびえるアルプスの山々を望み、健やかにそよぐ風に包まれて育ったあなた。男ばかりの5人の子どもにあり余る愛情を注ぎ、のびのびと育ててくれたあなた自身は、幸せだったのでしょうか。父が戦争に行ったのはわたしがまだ1歳のときでした。母の故郷に疎開しました。父が帰るまでの3年間、わたしは山々を眺め、水車のある小川でカニや小鮒と過ごしました。ごっとんごっとんという水車の心臓の音を、わたしの耳がまだ覚えています。山からの雪解け水の冷たさを、わたしの手足がまだ覚えています。父が戦争から帰ると、新宿区戸山が原の穴倉のような家に越しました。もと日本陸軍の兵舎でした。広い原っぱの中に、土を盛って作った土手の陰に隠れるように作られた長屋に、たくさんの家族が住んでいました。雨が降ると床まで雨水が上がってきました。夜、土手の外側の共同便所に行くとき、あなたはいつもついてきてくれましたね。外の暗い原っぱでずっと待っていてくれましたね。わたしが小学生の頃、あなたは目を悪くし、黒い色めがねをかけ、杖をつき、父に手を引かれて医者に通いました。土埃の舞う荒れた道を諏訪神社に向かってゆっくりゆっくり歩くあなたの小さな後姿を見て、そのまま目が見えなくなるのではないかと、とても心配でした。怒るととても怖かったですね。夜中に三角山に捨てに行かれましたね。覚えていますか。暗く寒いトウモロコシ畑の道、泣き叫ぶわたしはずるずるあなたに引きずられました。友だちとケンカしたり、近所の鶏の卵を盗んだり、いたずらの度がすぎると、あなたは鬼のように怒りました。力が強かったですね。弟の敬二が生まれたのは、下落合に引っ越してからでした。神田川のすぐそばの消防署の二階でした。引越しのとき、少ない家具を積んだ大八車を押したのを覚えています。父が、シミ抜きの仕事をしながら消防署に勤めていた頃です。二階の窓から火の見櫓に乗り移り、てっぺんまで上がると町中が見えました。機動隊の隊長の家から子犬をもらいました。二匹いて、両方ともかわいく、どっちかを選ぶことができずにいると、あなたは二匹とも飼ってくれましたね。とてもうれしかった。敬二が赤痢になって豊玉病院に入院したとき、あなたは一か月以上のつきっきりの看病でした。あの夏は、さびしい夏でした。三男の信治が生まれたのは、近くの自転車屋さんの二階に移ってからでした。やがて、四男の里志、五男の守男が生まれました。信治が熱いやかんの上に座ってお尻に大火傷をしたときは大変でしたね。痛くて泣き続ける信治を抱きながら、あなたは一晩中あやしていました。お尻の火傷だから、寝かせることができなかったのですね。里志はアトピーがひどく、顔をかきむしらないようにと赤ん坊のときずっと両手にタオルを巻かれていましたね。痛いより痒いほうが辛いのです。大人だって、痒さは我慢できません。おかげで里志は、とても我慢強い子になったと、あなたは言っていましたね。小学校に入学した守男が、2ばかりが並んでいる通信簿を持って帰ると、池にアヒルがいっぱいいるねと、笑っていましたね。いいのよ、勉強なんてできなくても、元気ならいいのよ、そう言ってうれしそうにまた笑いました。故郷の青く澄んだ空のように、清々しい山や川のように、あなたは5人の子どもたちをやさしく包み、分けへだてなく育ててくれました。まもなくあなたの3回忌を迎えます。どんなに雨が降っていても、母さんの日は必ず晴れるんだ。そう言うのは信治です。母よ、あなたの88年は、幸せだったでしょうか。
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2011年5月10日 火曜日 13時4分57秒
吾輩は漱石である。


書店のブックフェアがあると、ベストセラーの中に漱石こと夏目金之助の本が並びます。
「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「虞美人草」「道草」「こころ」。1867年1月5日生まれ、大正5年12月9日没。漱石は、明治の時代をまるごと生きた作家です。同じ年に生まれた作家に正岡子規、尾崎紅葉、幸田露伴がいます。しかし、漱石の本だけが店頭に並びます。彼こそが、近代日本の国民的作家であると評価されています。なぜ、漱石だけが現代に生きつづけ、国民的作家と称賛されるのか。
それには、理由が二つあります。まず一つ、彼の思想の根底にある「善」と「美」に触れてみたいと思います。「善」とは、倫理です。「善悪」の「善」で、法であり、社会的約束、常識、要するに社会が認める価値観であり、人間たちが寄ってたかって作った理屈です。「美」とは、感性です。感受性。社会的約束とは反対側にある個人の価値観です。大ざっぱにいえば「好き嫌い」です。他のだれかが押し付けるものではなく、自分が作った、あるいは感じた価値観です。この相克する二つの価値観を漱石は、ヤジロベエのごとくうまく扱うことができました。そこが他の作家たちとは圧倒的にちがいます。漱石の生家である夏目家も養子にいった塩原家も名主でした。名主は、名字帯刀を許され、管理においては武士同様であり、消費においては武士のように抑制を強制されることがない町人でした。漱石は、江戸の武家文化と町人文化の両方の価値観をごく自然に、バランスよく身に付けました。ところが新文学をめざす当時の近代的な作家たちは、古きを否定し、新しきを創造するところから始まっています。江戸の武家社会の価値観の否定こそが新時代の価値観だ、ということです。漱石の「善」と「美」の融合は、他の者にはない創造力でした。
第二の理由は、1900年、漱石がイギリスに留学したところにあります。そこで目にしたのは、すさまじい勢いで発達する「近代」でした。地下鉄が走り、車が走り、産業革命が音を立てて進み、人々は大きな時代の激流に翻弄されています。当然、時代は文学に反映されます。これはいかん。漱石は、感じました。急速に発達する「近代」は、与えるものの大きさと同時に、大きななにかを奪っていく。そういう恐怖を感じました。「漱石、狂う」。二年後、そのニュースが日本に流れました。帰国した漱石は、神経をやられていました。これを正しく見る者は、漱石が「近代」に負けたとは見ません。漱石は、「近代」を突き抜けた、と言います。失った自然をイギリスは必死に取り戻しにかかります。漱石は、猛然と突っ走る日本の「近代化」に恐怖を感じています。多くの作家たちが時代を切り取って書くのにたいし、漱石は「坊ちゃん」のように、一見荒唐無稽とも取れる表現をします。勧善懲悪。そんなこざかしい小さな正義なんかない。多くの作家が言います。
しかし、漱石は流れる川の表層だけを書くような、まやかしの事実現実は書きません。現実の奥にある真実を書いたのです。事実現実は、時代とともに変化します。当然です。川の表層は、雨が降れば変わるのです。干ばつになれば変わるのです。しかし、真実は時代を超えて価値をもちつづけます。川の低流は、変わらないのです。漱石は、「近代」という時代を突き抜けて、川の底流、真実を書いたのです。今日も、渋谷のツタヤには漱石の本が並び、若い人たちが東野圭吾の本を横目に見ながら、漱石の本を手に取ります。決して読みやすい文章ではありません。しかし、なにか魅かれるものを感じます。真実があります。表面の消えゆく事実現実ではなく、過去から未来につづく時代を超える人間の真実が、若い魂に呼応するのです。向田邦子が「わが師」と慕った漱石。それを見逃さない若い感性に驚嘆し、感心しています。
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2011年5月10日 火曜日 12時56分50秒
仏と畑。


じゃがいもは植えたか。ある朝、次呂久英樹先輩から電話をいただきました。まだです。まだ畑を見て、土の話を聞いているだけです。そう答えます。
今日も畑に行きます。わたしに、じゃがいもを植え育てたらどうか、と啓示してくれたのは、徳富蘆花です。熊本の高校を卒業し、同志社大学を中退した蘆花は、平和主義を提唱し「国民新聞」を発行する兄蘇峰のもとで分筆活動に入りました。トルストイに心酔し、彼に会うためにロシアまで行きました。そのトルストイが、別れ際に言ったのです。きみは農業で暮らせないのか。帰国後蘆花は、世田谷の農家を借り、野菜を作りました。晴耕雨読。
蘆花は、自らを美的百姓と称しました。蘆花は、クリスチャンです。わたしはいま、リハビリのために歩いています。寺と畑を歩いています。蘆花はキリストですが、わたしは仏に祈ります。蘆花が言います。耕して書け、と。そこで、じゃがいもです。本来なら、わたしたち夫婦の仲人をしてくれた義兄の宮原茂兄さんに聞けば、じゃがいものなにからなにまで教えてくれます。
茂兄さんは、土浦の隣の殿里の農家に生まれ育ったので、農作物については徳富蘆花以上です。でもいま、体調を崩して病院にいます。元気なら、日本一の師匠になってくれるでしょう。日々、仏に祈り、畑をめぐっていると、ある日妻が、安孫子の水島昭憲兄さんが今日じゃがいも植えたそうよ、と言いました。昭憲兄さんは、妻の姉の洋子姉さんのご主人です。大きな海のような人です。教わりたいな、と思いました。とは言え、安孫子まで行くことができません。渋谷に事務所をもつ番長こと小池くんの仲間の伊藤嘉久くんが、八王子の畑に誘ってくれました。伊藤くんの親せきの方が、畑をもっているのです。お言葉に甘え、いつかつれていってもらおうと思っています。とにかく、畑もないのにじゃがいもは無理なのです。プランターでできないか、と妻に聞くと、そんなにでかいプランターは置き場所がないわよ、と冷静な指摘をされました。駅前でミニトマトやナス、シソの苗木を売っているから、まずそれから始めたらと言います。
友人の長江俊介さんも、家族で野菜を作っています。収穫した野菜を家族で食べていると言います。そう聞くとナスもいいかな、と思いますがやはりじゃがいもにこだわっている自分がいます。じゃがいもと豆類は、農作物の原点という思いがわたしにあるのです。じゃがいもは、わたしの原点さがしなのです。ものを作る。ものを書く。生きる。その原点をわたしはさがしているのでしょう。
日本はいま、大きな転換期を迎えています。日本が、自分さがしをしている。そう思います。
わたしはあと何年生きるのか、それは神のみぞ知るのですが、子どもたちや、その子どもたち、そのまた子どもたちには大切な日本です。3年、5年、10年、20年、もっと時間をかけても、この国をいい国にしなければならない、世界と互角にやっていくためにも、などと大げさなことを考えています。大げさではなく、そうしなければ大人として申し訳ないと思います。
尊敬する次呂久先輩からは、すべて流れのままに、との天の忠告を受けます。その忠告を胸に、蘆花の指導もまたわたしの中で息づいています。高度成長の日本で短距離走者のごとくがむしゃらに走り続け、家族を犠牲にし、忘れてしまっていたなにか大事なもの。それを、仏に問い畑に聞く。それが今後の仕事にどう活きるかわかりません。活かそうと肝に銘じます。自然と人生。仏と畑。じゃがいもから学ぶために今日も畑に向かいます。
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2011年4月18日 月曜日 11時36分58秒
復興。


昭和39年。東京オリンピックの年。学生だったわたしは、新宿のスーパーマーケットでアルバイトをしていました。
そのスーパーマーケットは、日本で初めてのスーパーマーケットです。三越デパートの裏にありました。近くには、武蔵野館という洋画専門の映画館があり、カレーの中村屋があり、大通りには、伊勢丹、紀伊国屋書店、食品のデパート二幸がありました。いまのアルタの所です。マルイはまだありません。
そのスーパーマーケットは、日本中に知られる香具師の大親分の経営でした。任侠の人です。伝説の人でした。その頃はいくつもの事業を展開する事業家でした。水戸の武士の家に生まれたその人は、戦後の焼け野原となった新宿を見て、水戸の家屋敷を売り払い、当時のお金で300万円を作り、東口に街灯を設置したと聞いています。300万円という金額も伝説として聞いているので、確かではありません。
そして、東口にずらりとテントを並べ、人々の日々の暮らしのために、食料品と衣料品を供給しました。日本初のスーパーマーケットは、街灯を設置し、新宿の復興、日本の復興に、自費を投じていち早く動いたこの伝説の人が作ったテントマーケットから始まったのです。
ある日、茶色の着物を着流してふらりとその人はスーパーに現われました。いうなればかつての若い衆という感じの社員が2・3人従っていました。わたしにスーパーのアルバイトを紹介してくれた、その人の義理の弟さんもいました。呉服売り場の主任をやっていた弟さんと、染物職人の父が知り合いでした。もう、親分と呼ぶ人は回りにはいません。みんな、社長と呼んでいました。背の高い痩身、彫刻のような骨格のしっかりした風貌、すでに歳を取っていたためか、かつて鋭かったと思われる目にはやさしい光がありました。大河の流れのような、眩しいほどの存在感。理屈をぬきにした大きな人でした。
わたしは食料品売り場の係りで、重い缶詰の段ボールを肩に担いで階段を駆け下りる途中でした。社長が声をかけました。ごくろうさん。そう聞こえました。それが、伝説の人であることは、すぐにわかりました。戦後、日本を占領した進駐軍の司令官、マッカーサー元帥が、あなたは日本のアル・カポネだ、と敬意をこめて言ったという伝説もあります。なにかの罪で警察に連行されるとき、新宿中の女たちが、警察のジープの前に立ちふさがった、それほどもてた、とも聞いています。
ごくろうさん。その人はそう言って、着流しの袖から大きなサイフを取り出し、一万円を差し出しました。当時、一ヶ月間アルバイトをしても二万円に届かない時代です。戸惑いながら、ありがたくいただきました。手の切れるようなピン札です。学生のわたしにはとんでもない高額です。社長がふらりと歩き始めた後、いただいた一万円がつるりと滑りました。ピン札は、一枚ではなく二枚だったのです。わたしは、社長が間違えたのか、知っていてくれたのか、それがわかりません。でも、結局ありがたくいただきました。
いま、なぜ、わたしはその人を思い出したのでしょう。それは、復興という言葉です。未曽有の震災からの復興に向かう日本。そこには強烈なリーダーシップが絶対に必要です。それがいま、ない。この時期にまだリーダーが、いない。リーダーシップを発揮する男が、いない。いつの間にかリーダーがいなくなった日本。そう思います。諸外国もそう見ているのでしょう。任侠や親分を礼賛しているのではありません。でも、眩しい大河のような、大きなあの人をふと懐かしく思い出します。理屈とシステムを超える強いリーダーシップ。器の大きさ。大自然に立ち向かうには、不可欠の条件です。
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2011年3月31日 木曜日 13時53分53秒
立ち読みでなく立ち話を。


駅前商店街には3軒の書店がある。1軒は息子の同級生の家で、もう1軒は昔からある駅に近い大きな書店である。わたしと仲のよい店主が経営する店は、商店街の中ほどの神社の脇にある小さな、比較的に新しい書店である。 
新しいといっても10年か15年は経っているだろう。店主といつどのように親しくなったのか覚えていないほど古いつきあいである。ウマが合うというか、妙な凝り性のある面白い店主である。だが、普通ならそう簡単に仲よくなるタイプではない。見た目は、春のさわやかな清流とはいかない。むしろ、冬の澱んだ神田川みたいなタイプで、通りすがりにふと立ち寄ろうという雰囲気にはとてもならない。だから、店に客が入っているのを見たことがない。だれかたまには立ち読みでもしていれば、他の客も入りやすいというものだが、そうは問屋がおろさないらしい。
見方によればチベットの高僧のように哲学的で、とっつきにくい店主だ。夜も更けた11時過ぎ、脳梗塞の後遺症のために杖をついて神社にお参りし、通りに出るとその書店の看板に灯りが灯っている。正面のガラス戸越しにのぞくと店主がパソコンをのぞいているので、戸をトントンと叩いてみる。わたしを認めて立ち上がり、戸を開けて出てくる。「どうしたの?」杖をつくわたしを見て聞く。「脳梗塞なんだ。しばらく入院していた」。「えっ、それで?」それでとは、どんな具合なのという意味だ。「左半身がマヒしてる。左手と左足がきかない。あと左目の焦点が合わない。あと」。「まだあるの?」「ときどき気が遠くなる」。「大変だね」。「二度目だからね。次やったら危ないね」。ちょっと病気の話をしてから、わたしは言った。「相変わらず客がいないね。どうなのよ書店は?」店主は苦笑いをして首を横に振る。「だめだね。なんでもネットだもの。活字がなくなるとは思わないが、とにかく売れないね」。「どんな本が売れてるの?」「こんなやつね」。店主が指さしたのは「はなこ」だった。これも特集がいいときだけ多少売れる程度なのだそうだ。
ぴあも売れなくなったという。えっ、一世を風靡ぴあが。そう、ネットだね、やっぱりね。本はどうなるの?まるでわからないね。よくさあ、タレントが書いた本なんか100万部売れたとかいうじゃない。肩書ね。肩書があれば売れるよ。でもうちの店には入ってこないよ。うちの店ってアダルトビデオを置いたからさ、取り次ぎもそういう目でうちを見てるしね。以前、新大久保に行ったとき韓流タレントの本やビデオが売れてたよ。それも入ってこないね。店の入り口にはアダルトビデオのポスターが数枚貼ってある。きれいでかわいい子が微笑んでいる。アダルトって感じの子じゃないだろ。きれいだろ。いまはアダルトの子ってみんなきれいよ。でも、彼女たちはいまのうちだけだからね。すぐに賞味期限切れになる。うまく転身する子はいいけど、あとはどうなるのかね。マンガで教育的な本て売れたりするよね。マンガはいいよ。マンガは作り方次第でまだ可能性はあるね。
わたしのポケットには夏目漱石の「彼岸過迄」が入っている。こんな本はどうなるんだろう?わたしは聞く。こういう本を売りたいよね。本は人格を作り育てるからね。母親の力が大きいね。でも、夏目を読む母親もいないんだろうね。情報時代というが、確かな情報や教育は活字に限る、という日がくるのだろうか。活字とネットの共存を一日も早く実現したいものだ。
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2011年3月15日 火曜日 10時9分18秒
遠くから呼ぶ声。


深山、幽谷の森、立ちこめる乳白の霧の奥からだれかが呼ぶ声が聞こえる。たしかにわたしの耳に聞こえる。動物の鳴き声ではない。人の声。あたりの岩や木や谷に響きながら風に溶けてしまいそうな、山か森がしゃべっているような声であるが、人の声だ。大きく、小さく、遠く、近く、男の声か女の声か判別できない。若い声か年寄りの声か、それもわからない。糸を引くように。強く、弱く。それはわたしの名前を呼んでいるのかどうかもわからない。わたしにむかって呼びかけていることはなんとなくわかる。どこかで聞いた声だ。頭の隅であれこれ思うが考える力が湧いてこない。やがて、それがわたしの名前だとわかるまでに時間がかかり、あ、わたしの名前だ、そうだ、聞いたことのある名前、それはわたしの名前だ。はい、はい、返事をしなければならない。はい、でも、声が出ない。はい、はい、声が出ていないらしい。声って、どうやって出すんだっけ。わたしを呼ぶ声は、一人ではない。声が遠くなった。眠くなる。もう返事をしなくてもいいか。別に用事はない。眠い。呼ぶ声が森の奥に遠のいていく。森の木々を静かに揺らす心地よい風を感じる。全身に温もりを感じる。木の葉の隙間から眩しい光が射しこんで、体がふわふわと浮きあがる。両側をエンジェルが支えるハンモックに揺られるような心地よさ。夢かな。あんちゃん、森の奥から声。その声はわかった。弟の敬二だ。あんちゃん、あんちゃん、赤痢になってごめんよ。そうか、敬二が赤痢になったから湘南の海に行けなかったな。うん、母ちゃんが弟のために豊玉病院に付き添ったから、湘南に行けなかったが、絵日記には行ったことにしておいた。敬二は子どもたちのためにパン屋になりたくて近畿日本ツーリストを辞めてパン作りの修行に出た。38歳で死んだ。森の奥から敬二が呼ぶ。あんちゃん、パン焼きたいな。寒い日にバス停でバスを待ちながら寝てしまうと、いつも森の奥から声が聞こえてくる。敬二、よしパンを焼くの手伝ってやる。おれはいま渋谷西口バス停で深夜バスを待っているんだが、もう寒さを感じなくなった。ポケットの300円のウイスキーのポケット瓶のおかげで、ちょこっと寝ていくよ。うとうととするとまた森の奥から声が聞こえてくる。意識が遠のくと、どこからか聞こえてくる心地よい声。遠く、近く、今宵はだれだ。星が見える。セルリアンタワーの灯が滲む、コカコーラの看板、不動産屋さんの看板。星が言う。こういち。こういち。母だ。母がわたしを呼ぶ。母はわたしに詫びようとする。わたしが1歳で父は中国戦線へ持っていかれた。母の実家の長野県飯田市に疎開した。わたしは、1歳から4歳を一人で暮らした。父が帰るとわたしの下に4人の男の子ができ、わたしは高校大学と合宿暮らし。母との記憶はない。バス停で寝たせいか頭が割れるように痛んだ。左手左足がもう動かない。脳梗塞の疑いで救急車に運ばれた病院で、ずっと母の声が聞こえていた。こういち、こういち。ごめんよ。弟の声が聞こえ、それが3番目の弟の信治の声になり、息子の声になり、妻の声になった。みんなの声が近くに聞こえ、命が切実に迫ってきた。脳梗塞は二度目である。血管の微妙な生きざまを持ち主のわたしもコントロールできなのだ。でも、いま、とてもやりたい仕事がある。若い美しいお嬢さんたちと、必ず成功すると約束した仕事がある。弟よ、母よ、しばらく声をかけるな。
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2011年3月15日 火曜日 10時8分33秒
ご飯と味噌汁。


うまい米が増えたせいかご飯がおいしい。若いころは丼いっぱいのご飯をかき込んだものだが、いまは小さい茶碗がいい。駅前の瀬戸物屋で篭に山積みして売られている安い白い100円の笠間焼がいい。薄い茶碗で、よそったご飯のあたたかさが手に伝わってくるのがいい。ラップに包んでチンするご飯には、どうもなじめない。茶碗の中で縮こまったご飯のラップをはがしていると自分が豚になったようで悲しい。餌だと思えてくる。おかずたちもラップを被ってテーブルに並ぶと、いっそのことそのまま食べられるラップを開発してくれと叫びたくなる。炊きたての熱いご飯を、おにぎりにするのもいい。味噌のおにぎりもおいしいが、塩のほうが味噌よりにぎりやすい。とくににぎったあとの問題は大きい。塩も味噌もにぎったあと手を洗う。それは同じだ。でも、塩は見た目に色がない。だから余分な量が見えないため、もったいないとはそれほど思わない。だが、味噌は、残った量が目に見える。もったいないという意識が塩よりも強い。そこで、思わず手についた味噌を舐めたりする。塩は舐めない。この差が大きい。気分である。おにぎりは塩のほうが楽なのだ。おにぎりでは、この楽という価値がきわめて大きい。おにぎりは、楽でなければならない。楽こそおにぎりの味である。味噌汁は、具にこだわらない。味噌の味が好きである。味噌は、素朴であたたかい味がする。おふくろの味、ぬくもりの味とでもいおうか。いろいろ加工を施した味噌ではなく、スーパーで売られているごくごく普通の味噌がいい。出汁のうまい具はうれしい。素朴な味噌に、素朴な具がいい。具についていえば、なんと言っても豆腐がいちばんだ。豆腐の、自己主張を捨て謙虚をきわめた味は絶妙である。口当たりで言えば、綿ごし豆腐のほうが荒々しくて好きだが、赤出しには滑らかな絹ごし豆腐のほうがいい。気分である。味噌も豆腐も同じ大豆から生まれるが、発酵熟成させて追い求めた味噌の味と、削って削いで解脱した豆腐の味は、大豆の両極でともに見事な味である。うまい味噌と豆腐の呼吸が合う味噌汁は、湯気にほのかな畑の陽ざしのぬくもりを感じて、ひときわうれしい。豆腐はまた、あの眩しい白さが実にいい。味噌の赤茶色の中に浮かぶ白さがいい。素朴、純粋の白である。目にうまい。豆腐で白以外の色は考えにくい。豆腐は、なによりも付き合いが長いのでホッとする。母は毎日味噌汁を作ったが、やはり豆腐が中心だった。通りの反対側に豆腐店があったし、夕方にはラッパを吹きながら豆腐屋が自転車でやってきた。母は、ブリキの鍋を片手に割烹着すがたでカタカタと下駄の音を立てて豆腐を買いに走った。母の下駄のカタカタが聞こえると、やがて家中に夕餉の香りが漂い、子どもたちはホッとするのだ。味噌汁の具は、油揚げもいい。細かく切った油揚げは、おいしいというより、その細かい切り方に感心する。考えてみれば、さして難しいことではないが、細かく切るという感性に感動した。きつねうどんは、なぜ油揚げを大きいまま入れているのだろうと考えてみる。あれは、きつねうどんとしてきちんと自分の存在を明らかにし、かけうどんより高い値段をつけるためだ。油揚げを細かく刻みすぎるとネギと同じ価値となり、無料になる。それを恐れてきつねうどんは、油揚げは細かく刻まないのである。味とは無関係だ。ではなぜ、味噌汁の油揚げは、大きいまま味噌汁に入れず、細かく刻んで入れるのか。大きいまま入れると、いかにも手を抜いていると見られるので、それを母たちは気にしたのである。大きさは味にも影響する。大きい油揚げは汁を余分に吸い込み、味が濃くなる。油揚げからにじみ出るかすかな油の香りが鼻先をかすめると、豆腐とはちがう期待感が湧きあがってうれしい。味噌汁をひと口すすり、目を閉じ、花が咲くように広がる味わいを楽しむのは、贅沢である。
takanoblood1794@yahoo.co.jp



2011年2月1日 火曜日 13時18分32秒
明日を創る20人の仲間。


教授がいないね、ぼくが言い、遅れてくるそうです、最前列のウーパールーパーくんが答える。よし、教授がくる前にパッパッと勉強して、きたらお疲れさまって解散しちゃうか。左の席のフランシスコ・ザビエルさんが、にっこりと笑う。渋谷。道玄坂。20人の仲間が、明日の価値を創るために集まっている。イベントプロデューサー育成講座。それが教室の名前だ。ジェット企画という、空を飛びそうな名前の会社のイベントプロデューサーの美人の友人に頼まれて、ぼくは彼らと出会った。
目の前に20のすてきな頭脳がある。彼らと、イベントのこと、広告のことを勉強する。先生はぼくだけではない。大村先生は、教材を基にプロジェクターを駆使して、理路整然と授業をなさる。羽深先生は、豊富な知識と経験で、きちんと生徒の心に訴える。さて、ぼくはというと、みんなと遊んでいる。ぼくには教材はない。教室だってなくてもいいけれど、いまは寒いから風避けにはあったほうがいい。頭脳はどこでも鍛えられる。それに、他の先生の授業と同じことをしてもつまらないから、ぼくは、「アイディアの創り方」というよくわからないテーマを掲げた。アイディアってなんだ?とか、アイディアを生む頭脳はどうなっているんだ?とか、わけのわからないことをみんなと勉強している。わからないから勉強するんだ、と余計わからないことを言っているから、むしろ生徒のほうが優秀だ。先週は、ハーバード大学のサンデル教授のまねをして、正義(ジャスティス)について、大騒ぎをした。みんな目がぎらぎらして、やる気十分だ。教祖は、サンデル教授の番組を結構見ているらしく、もしかしたらジャスティスについてはぼくよりいい授業をしたのではないかと思う。教祖というのは、ぼくが呼んでいるだけだが、道玄坂ですれちがっても、思わず手を合せたくなる風貌は、あれはただものではない。若き、麗しき女性も数人いて、明るく熱心に勉強している。女性の繊細さって、イベントプロデュースには欠かせないものがある、と雰囲気でわかる。ぼくは、やがてどこかで彼らといっしょに実際にイベントプロデュースをやってみたいと、ふと思った。3月に「渋谷がメディア」という授業があるから、そのときは、真剣にすてきなイベントをみんなで考えようと思っている。若者の街、渋谷を夢の発信地にしてやろうと思う。子どもにも楽しいイベント。いや、高齢者だって好きになる渋谷にしてやる。彼らといっしょならできそうな気がする。夢のある企画はできる。なぜなら、企画をする彼らに夢があるからだ。ビジネスは、ビジネスを超越したところに成功がある。人の才能は、夢によって大きく花開くものだ。こんなことを言うから、わけのわからない授業になるのかなあ。そうだ、このエッセイをご覧の社長さん、宣伝担当の方、20のすばらしき頭脳を寄せ集め、渋谷をメディアにして楽しいイベントプランを創りますよ。もちろん、ギャラは不要です。だって、お勉強ですもの。詳しくは、ジェット企画の篠塚プロデューサーまでご連絡を。でも、彼女、プロだからギャラなしはダメかなあ。
takanoblood1794@yahoo.co.jp



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