高野耕一のエッセイ

2019年12月19日 木曜日 14時59分11秒
■青春蜃気楼


台風22号の影響で、ハロウィンは、ずぶ濡れだ。週末、祭りの爆発を待ちきれないワンダーウーマンや魔女が、渋谷ハチ公前スクランブル交差点をうろうろさまよい始めた。
10月30日、渋谷にいる。ハロウィンは10月31日だから、前日だ。台風一過、空は見事に晴れた。交差点の目の前のカフェ。大きなガラス窓越し。メキシコ湾を疾走する青い大河、ガルフストリームのように流れる巨大な群衆を半ば感心し、半ばあきれ返って眺めている。
アメリカンコーヒーを一口。信号が、赤から青に変わる。スパイダーマンと骸骨男が肩をこづき合い、抱き合いながら、揺れ歩く。ここまで声は届かないが、顎がはずれたような大口だけが目に入る。ボルゾンだかブルゾンという人気タレントのメイク衣装を真似た女子たちが、TVカメラの取材に大げさにはしゃぐ。白く塗りたくった顔に、黒い幅広帽子を被った魔女軍団が、呪いの罵声を上げ、交差点の真ん中で輪を描く。
手に手に、手作りの大ガマを持っている。外国人観光団がカメラを向ける。赤や青を顔に塗りたくった傷だらけのゾンビが、V字サインを送る。ご丁寧に手錠をぶら下げた囚人もいて、横の婦人警察官が、手錠を握っている。
ハロウィンは、アイルランドのケルト人たちが始めた祭りだ。ケルトの人々にとっては、10月31日が1年の終わり、大晦日。先祖が帰ってくる。日本でいえば、お盆だ。先祖だけが帰るならいいが、悪霊や魔女連中も一緒にやってくる。
そこで、こやつらを追い払わなければならない。コスプレは、そのための悪霊撃退衣装だ。この祭りがおもしろいと、ヨーロッパに広まった。キリスト教や地元宗教とごっちゃになり、各自好き勝手な祭りに姿を変えた。アメリカと日本では、宗教とは無縁に、大衆文化として受け入れられた。特殊な例だ。
ガラス越しに見るコスプレイヤーたちは、若者が多い。10代20代がほとんどで、せいぜいが30代だ。同じスクランブル交差点をステージとする、「よさこい祭り」や「盆踊り」は、老若男女が寄り集うが、ハロウィンは、若者が主役だ。もはや玄冬の年齢を迎え、体力的に青春の輪に同化しがたいが、祭りにのめりこもうと遮二無二熱狂する若者を見ていると、なんともけなげに見え、応援したくなった。
だが、どこか、幕末の「ええじゃないか」に似た、やけっぱち狂乱気分だな。ちょっと切ない。抑圧された日ごろのうっぷんを、このときばかりにとはらしているようで、やるせない気分にもなる。
遠慮は無用だ、若者。行け、若者。踊れ、若者。歌え、狂え、若者。若気の狂気、若気の至りは、若いうちしかできないぞ。心のなかで叫ぶ。だが、と思う。迷惑行為だけはやめておけ。それだけは、よせ。「法」には逆らうな。「法」を敵に回すほど愚かなことはない。遊ぶのも、戦うのも、自由も、すべて「法」のなかでやることだ。JR山手線のガード下にうずくまる警備車両を横目で見ながら、そう思う。
まもなく、DJポリスもお出ましか。思えば、前の東京オリンピックの頃には、青春真っ只中の自分がここにいた。地元の大学空手道部にいて、ヤンチャ盛りだった。いまでは、「法」に逆らうな、などとえらそうなことを言っているが、何回警察にお世話になったことか。だが、1回もトクしたことはない。そりゃそうだ。哲人ソクラテスでさえ、「法」には逆らうな、と「法」に準じて自ら斃れた。
「自然」と「法」と「時代」に逆らって、トクした者はだれもいない。それさえ守っていれば、自由は限りなくでかい。なまじ小さな意地を張るから、世間が狭くなる。小さな誇りを捨て、大きな誇りを手に入れろ。踊るカボチャを見ながら、そう思う。「青春」など蜃気楼。あっという間に消える。そう、「人生」は蜃気楼だ。



2019年12月18日 水曜日 16時4分50秒
■いろは長屋に、春がきた


「おい大家、めでてえな」。いろは長屋の八と熊が、ガラッと障子を蹴破って飛び込む。
「おやおや、春がきた、バカがきた。八に熊、ずいぶんな挨拶だな。まあいい、上がんない。なに、もう上がってる。早いね。あらら、八、草履くらい脱ぎなよ。なに、草履脱いだら足が汚れる?この野郎。まあ、いいから座んない。ありゃ、もう座ってら。
ちょうど雑煮を食べながら、屠蘇を一杯やってるとこだ。雑煮、食うかい? ありゃ、もう箸もってやがる。早いね。屠蘇も一杯やんねえな。ありゃ、もう盃もってる。大谷のボールより早いねえ」。
大家さんも、わが子のような八と熊が、かわいくてたまらない。なにをやってもニコニコ笑ってる。「大家さん、待たしたな」。「だれも待っちゃいないやね」。「ええ、旧年中は」。「おお、八、ちゃんと挨拶できるんだな」。「かかあに教わってきた。旧年中は、世話したな」。「世話したのは、こっちだ」。「今年も世話しろ」。「いちいち乱暴な挨拶だな。ま、いい」。三人で雑煮を食べ、屠蘇を飲む。
「そうそう、奥の一茶さんにも挨拶しな。一茶さんは、八と熊が大好きだからな」。「おお、あの119だか575だか、いつもぶつぶつ言ってるやつな」。
「お、噂をすれば影だ。一茶さんが通る」。「めでたさも、中くらいなり、おらが春。うん、これだ」。「おい、一茶さん」。「ああ、大家さん、575」。「八、なんでやつは、話の終わりに575って言うんだ?」。「おまじないだろ」。「575」。「まだ言ってやがる」。じゃ、大家さん、おれたちこれから赤坂へ挨拶に行ってくら。熊が言い、立ち上がる。
「勝先生な。うん、行ってこい。喜ぶぞ」。元旦の午前の空は明るく晴れ、凧が光を浴びて、清風に舞っている。元気な子どもたちの声が飛び交い、羽根突きに興じる着物姿がなんともかわいい。「熊よ、今年はいい年になるぜ」。八が言い、熊が大きくうなづく。「お、平賀先生だ。先生、源内先生」。「エレキ」。
「先生、おめでとうございます」。「エレキ」。「今年はいい年になりますか?」。「エネルギー問題、原発問題をなんとかする。エレキ」。エレキエレキと叫びながら、源内は、子どもたちの頭を撫で、町へ消える。
「よう、正月早々バカの二人づれだな」。「ありゃ、バカにバカにされちゃった」。伊勢屋の息子長太郎が、道の真ん中で顔を崩して笑っている。「早々にお芝居かい?いいご身分だ」。「くっくっく、そうよ、差別は永遠になくならないのよ。それが、愚かな人間。正月歌舞伎だ、市川一門な、くっくっく」。「笑ってろ、バカ」。
八も熊も、長太郎がどこか憎めない。身分がいい者には、品がある。自分たちには手に入れることができない、氏育ちのからくる心地よい品がある。「先生、勝先生、いますか?」。
赤坂勝邸は、日枝神社の横にある。緩やかな上り坂にあり、今も邸跡があって、お洒落なバーがある。「その声は、八に熊か、上がんねえ」。奥から海舟の声がする。「あ、お客さまで」。「いいんだ、気のおけない友人だ。栄さん、これがいろは長屋の八と熊。おい、この人が、千葉道場の栄治郎さんだ」。「え、千葉の小天狗!?」。「お初にお目にかかります。千葉栄治郎です」。ていねいに頭を下げる。実るほど、頭を垂れる稲穂かな。八も熊も大あわてで座り直し頭を下げる。 
「カッカッカッ、もうヤットウの時代は終わりじゃき」。床の間あたりから声がした。ごろりと横になった男が、ぼさぼさ頭をぼりぼり搔き、両手を突き上げて欠伸をする。「龍さんも一杯どうだ?」。海舟が声をかける。「え、龍さんて、もしかして土佐の!?」。「おお、坂本龍馬よ。おれんとこに居候してる」。「ええっ!!」。八も熊も腰を抜かして動けない。
栄太郎が大口を開いて笑う。「革命じゃき、革命、日本を洗濯じゃき」。「八、革命ってなんだ?」。「知らん、食ったことねえ」。「徳川がなくなるんじゃ」。「なくなっちゃうの!?徳川が!?」。・・・聖ひかり、にらみ笑いの、髭奴・・・(耕雲)。謹んで新年のご挨拶を申し上げます。



2019年12月18日 水曜日 15時56分55秒
■ママに役立つ「こども孫子の兵法」


敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず。「こども孫子の兵法」という本が売れている。テレビでもお馴染みの明治大学文学部教授、「声に出して読みたい日本語」を大ヒットさせた斎藤孝先生の監修だから、ベストセラーもうなずける。
基本となる「孫子」は、中国春秋戦国時代、呉の国の軍師「孫武」によって著された、その名の通り、兵法、戦いの専門書である。中国には有名な六書と呼ばれる兵法専門書があるが、内容といい、文章といい、「孫子」が最も優れている、と言ってよい。
「孫武」の調査に徹し、あらゆる角度から考えられ、生み出された具体的な策の一つひとつは、まさに完璧である。古くは、武田信玄、上杉謙信、信長、家康などの日本の戦国武将、幕末の英傑たち、日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎、第二次大戦で真珠湾奇襲を敢行した山本五十六など、それこそ「孫子」を小脇に彼らは戦った。自由主義経済のわが国のビジネスは、戦いである。そこでビジネス界でもほとんどのトップが、「孫子」を読み、日々のビジネスに活かしている。なぜなら、「孫子」は「心理学」の書としても非常に優れているからだ。ビジネスの武器である駆け引きには、これほど優れた教えはない。
「孫子の兵法」をおとなだけのものにするのはもったいない、という斎藤孝先生は、すばらしいところに目をつけた、と感心する。だが、と思う。「やはり、これでもまだむずかしいかな」と思う。
「こども」とは、何歳を想定しているのか。おそらく保育園幼稚園から小学生までだろう。やさしく、丁寧に、読みやすいように「ルビ」をつけてある。適度に楽しいイラストを添えて、できとしてはすばらしい。だが、やはり内容がむずかしい。高度である。そこで、「おっ!!」と気がついた。この本は、こどもが自分ひとりでは読めない。となると、ママかパパが読んであげることになる。そうか、ビジネスマンのパパは読んだことがあるかもしれないが、おそらくママは、戦いの専門書など見たことも読んだこともないだろう。戦いの専門書など見たことも読んだこともないママは、戦いのことをこどもに教えることができない。戦いのことを教わらないまま、こどもは戦いの中に放り出される。こどもは、学校で、塾で、公園で、好き嫌いにかかわらず戦いに巻き込まれる。要領のいい子はいいが、要領の悪い子は、勝てない。勉強ができるできない以上に、ライバルとの戦いに勝てないという問題を抱える。
「こども孫子の兵法」の最大の利点は、「ママもいっしょに学べる」というところにあった。いまさら、「そんなこと知らないわ」とも言いにくいママにとっては、「こどもに教えなくてはね」という堂々たる理由で、「自分が学べる」のだ。斎藤先生ならこの辺りも想定済みだろうが、見事に「売れるコツ」をつかんでいる。
でも、シリーズで出している、「こども武士道」、さらには、「こどもブッタのことば」のほうが、こどもたちにはわかりやすく、ためになると思う。国の方針である「人づくり政策」には、こちらのほうがうってつけだ。いずれにしても、これまでの教育カリキュラムの中にはない内容なので、こどもたちの新たなる才能の芽生えが期待できる。また、こどもたちの新たなる才能を育成していかなければ、拡大するグローバル時代に日本は遅れをとることになる。
「もし敵が鉄壁なら、適度に揺さぶりをかけて、内部から崩壊するように仕向ける」。これも「孫子」だが、どこかでこの策を見たことがありませんか。そう、尖閣列島にたいするあの国の策。日米同盟にたいするあの国の策。そう、揺さぶり作戦。彼らはしっかりと「孫子の兵法」の策通りに思考し、実行しているように思えてならないのは私だけだろうか。



2019年12月18日 水曜日 15時49分43秒
■狼を夢みる。


男は、歳をとっていた。致命的な傷も負っていた。男の気に入りの中華料理店は、虎ノ門病院から5分ほどの西新橋にある。この一帯は、霞ヶ関と隣接していて、お役所関係とおぼしき小型の事務所も多く、そうした事務所が寄り合うのに都合のいい雑居ビルも多い。
見上げれば、大空にスックと立ち上がる超近代的な虎ノ門ヒルズがあり、高層ビルも多いが、イメージは雑居ビルと雑居ビルの間を埋める古い家屋だ。古い家屋の多くは飲食店で、これがなかなかいい雰囲気を醸し出している。
下町風というか、新橋風というか、男たちはまるで羽虫のように、懐かしい灯りに吸い寄せられるのだ。彼の気に入りの中華料理店は、中華料理店と呼ぶには、古く雑然としすぎる。ドンキホーテのような問屋風、客席に段ボールが積んである。壁に昔懐かしい焼酎のポスターが貼ってある。ガムテープで留めてある。ポスターはセピア色、ガムテープの一部が剥がれている。かといって、ラーメン屋と呼ぶには大きい。酒の種類も多く、焼酎、日本酒が壁一面にズラリと並んでいる。メニューも多く、客たちは、居酒屋として楽しんでいる。
昼下がりからビールや日本酒を抱えこむ男たちも多い。夕方になれば、仲間たちとワイワイガヤガヤ常連たちが集まる。彼が店に行くのは、いつも4時頃だ。店は大きなコの字形をしていて、彼はいつも、入り口から真っ直ぐに入った、
客の少ないトイレの横の席につく。野菜スープを注文する。3個入りの小餃子を注文する。気分と体調により、野菜スープが天津麺に変わる。今日は、天津麺だ。トロリとした甘味には、野菜の旨味が生きていて、濃いめの味だが食べやすい。麺を隠すように上に載せられた卵の焼き加減も申し分ない。香ばしい。箸をつけたときの崩れ具合がいい。卵の崩れ具合は、甘いトロミとの絡みで、いい味となる。
この中華料理店でのゆったりした時間は、いつも昔の思い出を楽しむことにしている。若き日、自分に狼のイメージを重ねた時期があった。格闘技に夢中になった頃だ。ライオンでも虎でもない。狼だ。大学空手道では、5人1チームの団体戦が花形だった。個々が力をつけ、集団で戦う。その感覚が狼を連想させた。だが、それだけではない。すでに絶滅に向かう切ない運命に、ひどく惹かれたのだ。
吹雪く荒野を獲物を求めて疾走する狼の群れ。獲物のない日が続き、空腹の極みにありながら、虚しき疾走を続ける無言の殺し屋たち。アメリカ、イエローストーン公園では狼が絶滅し、生態系が崩れたため、アラスカ狼のチームを移住させた。
リーダーは、雄々しい雄狼と連れ添う雌狼。優れたリーダーで、仲間たちの信頼は、絶大だ。だが、ある怪我が元で、雄狼が死んだ。雌狼がリーダーとして狩りを率いたが、うまくいかない。空腹を抱えた仲間たちは群れを離れ、やがてチームは分解した。雌狼は孤独となった。どんなに勇敢でも狼は、一匹では狩りはできない。だが、その雌狼は、孤独に生き、孤独の狩りを続けた。それしか方法はない。さもなくば、死だ。やがて、彼女は、孤独の狩りで成果をあげ始めた。彼女には、勇気とともに知恵があった。
仲間たちが帰ってきた。イエローストーンで実際にあった狼の話だ。彼は、この話が好きだった。天津麺を箸でつつきながら、自分の昔を狼に重ねるとき、いつもこの話を思い起こし、そのときの仲間たちの顔を一人一人思い出す。すでに半分の友が、鬼籍の人となった。彼が好きなシーンは、横殴りの吹雪のなかを、押し黙って疾走する群れと、晴れた穏やかな陽射しの草むらで、母狼に甘える子狼の姿だ。
時計が6時を告げ、街がいっそうざわめく頃、彼はゆっくりと立ち上がり、バス停に向かう。風がむせぶ。男は、歳を取っている。致命的な傷を負っている。彼には、狼を夢みる時間が必要だ。



2019年12月18日 水曜日 15時11分36秒
■今日は、トラジャを飲もう。


ある日突然、コーヒーを極めようと思い立った。玄冬のこの歳まで、そんなことを思ったことは一度もない。
18才の頃、新宿歌舞伎町コマ劇場前の「カドー」という喫茶店で アルバイトをしたが、その頃はコーヒーより、「レスカ」と呼んでいたレモンスカッシュに興味津々だった。せいぜい銭湯で湯上がりに飲む、牛乳瓶に入った「明治コーヒー牛乳」をうまいと思うくらいだった。
「レスカ」は、青春の味だ。酔いという素晴らしい境地があるから酒は好きだった。酒好きが高じて銀座のバーにアルバイトを変えた。コーヒー好きというと、父を思い出す。父は、コーヒーを実に美味しそうに飲んだ。当時、1950年頃だろうか。コーヒーなど下落合の家庭にはなかった。下落合は野菜畑や麦畑のある、ほのぼのとした田園だった。「ワタナベのジュースの素」という粉飲料があって、その中に粉コーヒーがあったかもしれないが、定かではない。母に言われ、しぶしぶ父が私を銭湯につれて行き、その帰りに喫茶店に入って父はコーヒーを飲んだ。ゆっくりと、ときどき目を閉じ、コーヒーと会話するように、美しいカップで飲んだ。
銭湯は、高田馬場駅近くの栄通りにあった。栄通りには店がぱらぱらとあるだけだった。銭湯は、たしか「宝来湯」という名だった。いまはない。父は、コーヒーを飲みながら、クラシック音楽に耳を傾けていた。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲。父はバイオリンを習っていた。子どもの父がバイオリンを弾いている、ぼやけた白黒写真を見た記憶がある。気がつくと、コーヒーを飲むようになってから、クラシック音楽が好きになっている。それまで音楽といえば、日活映画スター石原裕次郎の歌しかなかったから、自分のこの急激な変化に驚きながら、父の背中を追いかけている自分に気づき、さらに驚いている。
戦争で中国戦線に狩り出され、私が5才になるまで会ったことも見たこともない父、無事帰還したとはいえ、私は、素直に「お父さん」と呼ぶことができなかった。父の27歳から32歳まで、私の1歳から5歳までの4年間の空白は、私たちにとって越えられない山のように大きな痛手となった。
父も同様に、わずか1才で別々に暮らすことなった息子に、すまないという気持ちがあったのだろうか、父親として素直に、自然に接する心構えができなかった。父は、ほとんど私と会話することがなかった。突然コーヒーが好きになり、クラシック音楽が好きになり、いまでは、もっと父と話をしたかったと思う。私は、父を恨んだことも嫌ったことも一度もない。反抗期などという贅沢な時期もなかった。父から多くのものを学びたかった。
よく理解しないまま、父を尊敬していた。ここのところお金が許す限り、機会を見つけてはコーヒーを飲み、クラシックを聞いている。いままでに、トアルコトラジャ、ガテマラ、ブラジル、ジャバ、モカ、キリマンジャロを飲んだ。味の違いなどわからない。クラシック音楽も、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲、バッハのフーガ、スメルタのモルダウ、モーツアルくらいしかわからない。だが、いつも思い出すのは、父の姿だ。目を閉じ、もの思いにふける父の姿。帰還兵の父は、戦争の幻覚に怯え、自殺ばかり考えていた。自殺から逃れるために浴びるように酒を飲んだ。母は、死ぬなと、それだけを祈り、なにも言わずに泥酔する父を見守った。生き延びることだけにただただ必死だった。いま思うと、父と母には地獄の日々だったが、私には素晴らしい青春の日々だった。もちろん、父も母もすでに川向こうにいる。話足りなかった分を取り戻すように、今日も二人に話しかける。コーヒーを飲みながらメンデルスゾーンを聞きながら。さて今日は、トアルコトジャにしようか。



2014年2月17日 月曜日 16時25分49秒
心の中にある、たくさんの小さな心。


解剖学の養老博士の説を聞くまで、わたしは知らなかった。心は1つだと思っていた。1つの心がすべてを決めていると思っていた。ところが違った。「小さな心がたくさん集って、1つの心を作っている」と、博士は言う。すべての人の心がそうできている。では「心はどこにある」のか。これは、ダビンチにも大いなる疑問だった。人体を解剖し、さがした。心臓というくらいだから、心は心臓にあるのかと思ったら、これが見当たらない。脳にあるのかと思って解剖しても、ない。ダビンチも、ついにお手上げだ。博士は、「心は脳にある」と仮定する。「脳が、考える、感じる」、その結果として「心になる」。人は、見るもの、匂い、味、言葉、手の感触、すべてを一度脳で受けて分解する。五感のすべてを脳で受けて「分解し、再構築」する。「分解→再構築」という作業を脳が、瞬時に行う。これが心になる。分解しているという自覚なんかない。だが、「理解できる」、ということは、脳が分解したからだ。分解できたから、理解できる。分解できないことは、「わからない」、ということだ。さて、分解して再構築する間になにが起こるのか。たくさんの小さな心の、その1つ1つが、他の1つと連結する。連結した瞬間に、機能が変化する。そして、また別の1つと連結する。また、機能変化。無数の小さな心のそれぞれが、「他の小さな心と連結するたびに、機能変化」する。たとえば、好きな人と会うと、心がわくわくする。でも、デートの金が少ないと、ガックリくる。そこで、万馬券でも取れば、大喜び。わくわくが甦る。つまり、心は決断を下すまでに、驚くほどの紆余曲折をくり返す。生まれつき明るい心をもっている人は、何事も明るく捉えることができるし、暗い心をもっている人は、常に結論は暗い。人は、それぞれが実にさまざまな小さな心をもっている。そんな小さな心が無数に集って、あっちこっち連結しながら、変化変化の果てに「やっと1つの心」にたどり着く。それを、瞬時にやってのける。たとえば、わが家の妻の心に、夫を信じないという小さな心があったとする。すると、その小さな心はなにかにつけて夫のわたしを拒否する。そうなると、どんなにうれしい話をしても、素直に聞こうなんて思わない。最初、「あら、いいわね」と思っても、次に信じない心と連結した瞬間に機能変化し、「ふざけんじゃないわ」、となる。ついつい言葉も乱暴になる。つっけんどんになる。天気がよくないとか、宝くじが当たったとか、テニスがうまく行かなかったとか、子どもが口答えしたとか、それはもうたくさんの小さな心があって、それらが連結しあって機能を変化させながら、挙句1つの心になる。微妙だ。複雑だ。1つの心が決断を下すまで、小さな心の連結変化、連結変化のくり返し。面白い学説でしょ。上司が気に入らないとか、得意先の担当がうるさいとか思ったら、仕事はうまく行かない。だとすれば、「気に入らないという小さな心を封鎖」すればいい。そう簡単には行きません。だったら、その仕事からはずれればいい。とにかく、小さな心にある、仕事に不利に働く感情など、全部封鎖することだ。逆に、仕事に有利な小さな心もある。だが、良かれ悪しかれ、感情という小さな心が、仕事の最終決断を曇らせてしまうことは感心できない。仕事は、感情を抜きにして、真っ直ぐに成功に向かうことが一番なのだ。心をコントロールするということは、「小さな心をコントロールする」ということになる。わたしは今日も、自分を不愉快にさせる小さな心を封鎖し、放棄するよう訓練する。他人を、嫌なヤツだと思うことをいっさいしない。会話にしても、嫌な言葉、不愉快な言葉は、極力避ける。いつも、幸せな決断を導き、幸せな人生を送りたいと願うからだ。さてさて、うまく行くかどうか。
tagayasu@xpoint-plan.com



2014年2月12日 水曜日 15時34分18秒
イトちゃんのたこ焼き。


子どもは天才だ。それを大人たちがいつの間にか壊してしまう。「イトちゃん」という少女がいる。たこ焼きの天才だ。その才能は、ある日突然開花した。背筋をすっくと伸ばして鉄板の前に立つ。その凛とした姿勢に、息をのむ。イトちゃんは自信にあふれ、緊張しながら得意げな顔だ。うどん粉を見つめる目配り、具の入れ方、焼け具合をうかがう表情、ひっくり返すタイミングと手さばき、それら一連の動作や真剣な顔つきは、幼いが、手馴れた料理人のものだ。イトちゃんは、シリコンバレーで育った。父親のヨッチは、息子のゴータと小学校からの同級生で、その昔、半ズボンの膝小僧の擦り傷に赤チンを塗り、いつも大空を眺めているような、わたしから見れば理想的な子どもだった。天衣無縫のそのイメージが好ましかった。それがいつのまにか立派な大人になり、シリコンバレーの住人を数年勤め、最近帰国した。いまはもう、膝小僧に擦り傷はない。だからイトちゃんは、英語はぺらぺら。ゴータにいわせれば、「日本語より英語のほうがうまい」となる。ついでに、「父さんはスピードラーニングをやってもムダだ」、などと余計なことまで言って、わたしを愕然とさせる。「イトちゃん、もう食べていい」。「まだ、もう少し」。大人たちは、イトちゃんのオッケーが出るのを、皿を手に待っている。その状況も、イトちゃんは結構気に入っている。みんなが、わたしのたこ焼きを待っている。ちょっと得意げな表情が、またかわいい。で、大人たちはチョッカイを出したくなり、手にしたフォークでつつく。「ダメ!」。イトちゃんが厳しくいう。大人たちは、手を引っ込める。イトちゃんにはムギちゃんという妹がいて、まるでゼンマイで動いているように、一つひとつの仕草が玩具のようだ。ムギちゃんは、「紬」という名で、それでムギちゃんと呼んでいる。お姉ちゃんが「イト」で、妹が「ツムギ」とは、実におしゃれなネーミングだ。お姉さんの得意そうな様子を見ながら、「わたしにも参加させて。でも、むずかしそう」とばかりに、ごにょごにょ口をはさむ。パパのヨッチはそれを見て、まるでクッションでも撫で回すようにムギちゃんを転がす。その扱いは愛情豊かで、ムギちゃんもキャッキャと笑う。3人目を身ごもっているママが、ゆったりと笑って見ている。「もういいよ」。イトちゃんの許可が出る。手を伸ばす。ソースをつけて頬張る。うまい。熱い。外側のカリカリ感と内側のシンナリ感のバランスが絶妙だ。たこの味も沁みている。「うまいよ、イトちゃん」。大人たちの言葉に、イトちゃんは「当然よ」と胸を張る。子どもは天才だ。イトちゃんに料理の才能が垣間見られた。人はだれでも、自分だけの人生のステージをもって生まれてくる。だれでも、自分のステージの主役だ。最も原始的で、最も大切な、自分が主役で生きる自分だけのステージ。そこにこそ天賦の才はいきいきと息づく。だが、やがて、大人たちのさまざまな事情により、そのステージは奪われてしまう。大会社の社長の息子は、親が作った社長というステージで踊るしかない。老舗の若旦那に生まれた子どもは、のれんを守るというステージで生きるしかない。子どもがもつ最高で唯一のステージは、大人が用意したステージに見事にすり替えられ、天賦の才は霧の彼方に消滅する。けして金持ちではなく、貧しい家に生まれたわたしは、親の放任のおかげで自分のステージの上で踊ってきた。幸せだ。たいした出世もせず、貧しく暮らしているが、自分のステージを生きられたことは、親に感謝すべきだ。生まれたときから、とにかく生き残るだけ、というアフリカの子どもたちに比べ、日本の子どもたちは、幸せだ。あなたには、子どものステージを大切に見つめ、育てる大人であってほしい。ヨッチとあのママなら、イトちゃんもムギちゃんもきっと幸せなステージを生きる。イトちゃん、ずっと天才でいてね。



2014年1月17日 金曜日 16時20分19秒
新宿物語。


東京オリンピックが終わり、街は益々活気づいていた。年末の雑踏の中、新宿駅東口商店街のスピーカーが、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」を歌い、坂本九の哀愁の歌声が「見上げてごらん夜の星を」を歌っている。安次郎さんと会ったのは、その頃だ。私は学生で、冬休みのアルバイト先をさがしていた。職人の父に仕事を頼みにくる安次郎さんは、新宿のスーパーに勤めていた。小柄で物腰も柔らかく、いつも穏やかな笑みを絶やさない。その安次郎さんが昔、「人斬り安」と怖れられた侠客だったとはまるで想像もできなかった。安次郎さんの紹介で、双葉通りにあるスーパーでアルバイトをすることになった。三越デパートの裏だ。オーナーは飯島連合会二代目会長、伝説の関東尾津組組長尾津喜之助さんだ。「光は新宿から」のスローガンを掲げ、私財を投じて戦後の復興に命をかけた香具師の大親分である。東口にテント張りの尾津マーケットを作り、家も希望も失った人々に食料品や衣料品など生活に必要な物資を供給した。その延長で、日本初のスーパーマーケットを作ったのだ。その頃すでに尾津組は解散し、尾津商事となっていた。安次郎さんは喜之助さんの義兄で、尾津組全盛の頃は命知らずの斬り込み隊長だった。暮れもおしつまったある日、喜之助さんがふらりと売り場に現れた。四角くがっしりとした彫りの深い顔。目も鼻も口も大きく、荒削りの木彫のようだ。6尺の長身を着流しに包み、若い衆を二人連れている。安次郎さんが寄り添っている。大きな山のようにゆっくりと動く。ゆらゆらとオーラが漂う。「君は、国士かね」。喜之助さんが立ち止まり、私に聞いた。国士という言葉が心に鋭く響く。私が、国学で知られる大学に通い、空手部であることを、安次郎さんから聞いていたのだ。「その力を、国のために使うことだ」。深い目で私を見てそういい、サイフから手の切れるような一万円札を取り出し、差し出す。当時一ヶ月働いて2万円のバイト代にすぎない私は、びっくりして思わず安次郎さんを見た。安次郎さんが笑いながら、もらいなさいとうなずく。「空手、強いのかね。段位は?」。「強いです。二段です」。そういうと、喜之助さんは、安次郎さんを振り仰いで笑った。「若いっていいなあ安さん、この若い衆を越谷に招待しよう。空手を見たい」。それが、伝説の男との出会いだった。次に尾津喜之助さんと会ったのは、越谷の別邸で開かれた桜の花見会だった。化粧品売り場の主任ピー子姉さんの紹介で、作家三島由紀夫さんと会った。ピー子姉さんは、新宿で有名なゲイだ。元組員なのか、途中入社の堅気なのかは不明だ。「おまえ、酒奢るわ」。そういってよく食事に誘ってくれた。売り場主任で稼ぎ、ゲイでも稼いでいたので羽振りがいい。東京オリンピックでは外人相手に稼ぎまくったわ、と威張っていた。「おまえ、先生に会わせてあげる」。あるとき、ピー子姉さんはそういい、伊勢丹裏にあるゲイバーに連れていってくれた。ウェイターは全員ゲイで、大学体育会のOBだ。巨体で頭は丸坊主、白シャツに赤いベストの制服を着ている。「君は、国士かね」。会うなり、先生はそういった。喜之助さんと同じ台詞に驚いた。「国士です」、と胸を張れない自分が申し訳なかった。「武士道をどう思う?」。ソファに深々と座り、高級ウイスキーをすすめる。ピー子姉さんも、先生の隣に座る体育会ゲイも、にこにこ笑って私の答えを待っている。どうやらこの会話は想定内のようだ。「いい本です。新渡戸稲造の理論体系がすばらしいと思います。でも、ピンときません」。その答えに三人が、オヤッという表情をする。「どうして?」。三島先生が聞く。「理論が整理されすぎて、情熱が足りません」。先生は、大口を開いて笑った。また、東京にオリンピックがやってくる。半世紀前の東京オリンピックの年に出会い、若い人生に多大な影響を与えた恩人たちを、私はいま、懐かしく想い出している。



2014年1月9日 木曜日 16時30分2秒
夜明け前。


元旦や たかがされどの 陽がのぼる・・・。「今日一日、友に誠を尽くしたか」。寝る前にそう考えろと教えたのは、孔子だ。「今日一日、友に誠を尽くしたか」。思えば、かなり大変だ。わが家のテラスは3階にあって、東を向いている。だから、その方向から陽がのぼる。テラスとベランダの違いは、そこに物干し場があるかないかだ、とある人は言うが、その説からいくとわが家のテラスは正しくはベランダである。わたしのTシャツやジーンズ、布団を乾せば、もはやテラスだベランダだと四の五の騒ぐ必要はまったくなく、完ぺきな物干し場となる。乾した布団のわずかな隙間で、二匹の亀といくつかの観葉植物が青息吐息している様子を見ると、思わずすまんと頭を下がってしまう。夜明けまで原稿を書いていると、生まれたての陽光がベランダに忍び寄ってくるのが大きな楽しみとなる。夏なら5時前だが、冬の今頃は6時となる。早朝、新聞配達だか牛乳配達の自転車が、ガチャガチャと音を立てて家の前を通る。そのガラス瓶が触れ合うような音を毎朝聞いているのだが、ベランダに出て音の正体を確かめる勇気がない。寒い。だから、いまもそれが新聞配達か牛乳配達かわからない。はたして牛乳って、まだ自転車で配達しているのだろうか。でも、新聞配達にしては音が大きい。そのガチャガチャがくるのは、決まって5時ちょっと前、夜明けとほぼ同時刻だ。夏は陽光が先、冬はガチャガチャが先だ。朝から出かける日は、陽光かガチャガチャであわててパソコンを畳み、布団にもぐりこむ。急いで睡眠を取らなくてはならない。出かけるのが遅い日は時間に余裕があるから、ベランダに出る。温かいコーヒーを片手に東に向かい、まだ汚れのない取れたての陽光をほのぼのと全身で浴びる。風は身を切るように冷たいが、心がとろけるようなこの時間は、最も好きな時間だ。このときにふと考えるのだ。「昨日一日、友に誠を尽くしたか」。太陽に問いかけるように、孔子に答えるように、そう考える。打ち合わせで同席した人々に、発した言葉一つ一つに、なんとかひねり出したアイディアに、誠を尽くしたか。電話で話した言葉の端々に、書いた文章やメールの一行一行に、誠を尽くしたか。友、家族、兄弟に、誠を尽くしたか。行動や言動の結果は、誠を尽くした分だけ返ってくると信じたいが、どっこいそうはいかない。仕事のすべてがうまくいくとは限らない。失敗も多い。自分ではベストと思った広告コピーや原稿が、不評のことももちろんある。それによって落ち込むことも多い。だが大事なのは、誠を尽くしたかどうかだ。仕事での成功失敗という結果は、さまざまな環境や条件に左右される。自分の力の範疇を超える。だが、誠を尽くすということは自分だけの問題だ。自分だけでできる。ここで手を抜いて失敗したら、それこそ紛れもなく私自身の責任だ。孫子は、「勝つことは敵次第でもある、だが、負けないということは自分次第だ」と、言う。「だから、自分だけでできる」と、教える。「百戦して危うからず」。勝つとは言わない。危うからず、と言う。負けないぞ、と言う。勝つとは言ってない。孔子の「誠を尽くしたか」と、同じ意味のことを孫子も言っている。新しい年を迎え、初日に手を合わせ、「去年一年、友に誠を尽くしたか」と自分に問う。昨年は、2020年のオリンピック・パラリンピックの東京開催が決定した。日本の象徴、富士山の世界文化遺産が決定した。東北の力強い復興も続いている。日本は、がんばった。今年、日本はもっと良くなる。そう願う。祈る。ついに、日本の夜明けが始まったのだ。そうだ、こうしよう。今年から、「今日一日、友に誠を尽くそう」と、毎朝ベランダで唱えよう。元日の「元」と元気の「元」が同じ字であることの意味を大事にして、朝陽に手を合わせよう。謹んで新年のお慶びを申し上げます。新しい年があなたと日本にとって、素晴らしい年となりますよう、毎朝ベランダでお祈り申し上げます。



2014年1月9日 木曜日 16時27分18秒
子規に聞け。


元日の 人通りとは なりにけり(明治29年)。新年の 白紙綴ぢたる 句帳哉(明治33年)。万歳や 黒き手を出し 足を出し(明治26年)。正岡子規、正月の句である。子規は、句もとっつきやすくて好きだが、その日本文学の分析には驚愕する。そこらの学者の比ではない。それは、学者の目ではなく、芸術家の目による分析だからだ。適確に古の文学を分析批判し、その上自分で作って見せるから、その説得力に舌を巻く。江戸元禄の3大文学者といえば、芭蕉、近松、西鶴だ。その芭蕉に厳しい目を向ける。文学者としてより、芭蕉には宗教における教祖同様に多くの信仰者がいたという。芭蕉の句を読み、その句に感動するのではなく、ただただ芭蕉の名声を敬い、あこがれ、会話でも芭蕉と呼び捨てにせず、翁とか芭蕉翁とか中には芭蕉さまと呼ぶ者もいた。芭蕉を神のように崇め、本尊として祀る者までいて、まさに芭蕉俳句教の教祖である。なぜ、芭蕉が教祖のように敬われたのか。それは、平民的でやさしく、わかりやすい句だからだ。それまでの句のように、気品品格重視のいかにもむずかしい言葉だけが価値あるものとはせず、俗語を嫌がらずに駆使して俳句の世界を著しく拡大した。平易な俗語であっても、その配合、その調和性によってすばらしい俳句ができると主張し、実際に作って見せた。だが、子規はいう。そんな芭蕉の句にも駄句が数多くある、と。芭蕉はその生涯において1000余の俳句を作った。子規が上出来だと認める句は、そのうちの200余、わずかに五分の一である。古池や 蛙とびこむ 水の音…。物いへば 唇寒し 秋の風…。芭蕉の句のすばらしさは、古の俳句の模倣をせず、自ら開発したところにある、と子規はいう。平民的な俗語を縦横に使い、自らの句を開発した芭蕉。考えてみれば、詩人による詩、小説家による小説、学者による論文、政府広報、会社の会議資料、企画提案書、それらのなんとむずかしい言葉の多いことか。わかってもらいたいと願う心よりもいいたいことをいう、という文章によって綴られ、それがあたかも格式や教養のように思い、あるいはあたかも価値あるものと思うだけの空々しい言葉のなんと多いことか。むずかしいことを平易な言葉で綴ることは高度な力量を要するから、それが書けないだけなのだ。さらに子規は、こう芭蕉を称賛する。平民的だからといってそれだけで貴重なのではなく、信仰者が多いからといってそれだけで真に価値あるものでなく、それだけ多くの人々に敬われるのは、そこに非凡な才能がある証だ。ましてや、芭蕉には多くの有能な弟子がいる。それを見ただけで芭蕉の偉大さは揺るぎないものだ、と。ここで芭蕉と別れ、子規の話に戻ろう。子規の和歌と俳句の分析が面白い。和歌の美と俳句の美は、同じか違うか。そこに触れる。一般の歌人は、滑稽な歌を見てこういう。俳句としては面白いけれど、歌としてはいまいちだ。一般の俳人は、古い形式にとらわれた句を見てこういう。和歌なら興味深いが、俳句としてはつまらない。和歌と俳句は、このように異なる美をもつものか。子規は、反対する。どっちも同じ文学だという。それ以上に、和歌も俳句も文章も小説も、その美も面白さも同じものだという。和歌で面白いものが俳句ではつまらないとか、俳句で面白いものが小説ではつまらないとか、そんなことがあるわけはないのだと看破する。それぞれの文体にそれぞれの長所があり、和歌では表現しやすいが俳句では表現しにいとか、俳句では表現しにくいが小説では表現しやすいとか、それだけのことだという。子規のこの分析に、目から鱗が落ちた。この才覚はどこから生まれたものか。江戸という差別に凝り固まった時代の価値観が崩壊し、明治という大海のような真っ平らな時代の価値観から生まれた才覚か。いや、やはり子規個人の才覚と見るべきだろう。新しい日本には、物事を正しく分析判断する、子規のこの才覚が必要だと思う。



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