高野耕一のエッセイ

2020/02/10
■ デマにご注意

情報が届いていなければ、どんな事件も事故も、出来事も、それは存在しないのである。「知らない=無」である。認識のないものは、存在しないのである。そんな当たり前のことを改めて知ったのは、以前に沖縄の友人が、ぼそりと言った一言だ。
うちの島には新聞が2日遅れてくるのです。東京になにかあってもニュースで知るのは2日後で、それまでなにも知らないのです。知らないということは、ないということです。そう言った。
いまでも離島には1日遅れの新聞があるらしい。都はるみは、“三日遅れの便りを乗せて、船はゆくゆく波浮港”と歌った。
たとえば、名優緒方拳さんが先日亡くなった。残念。わたしたちはそう叫ぶが、情報が届かない所では、今も緒方拳さんは、生きている。情報が2日遅れる所では、その遅れる二日間は、緒方さんは生きているのだ。
たとえば、アメリカの9.11の大ニュースにしても、その情報が耳に入るまでは、わたしたちには、その不幸はないものと同じだ。
わたしたちには、存在しないのである。一日なり、二日なりの後、テレビや新聞で知って初めて存在として認識できるのであって、その間の数日は、アメリカ貿易センタービルは、そこに存在していて、崩れてはいないのだ。いまはテレビもラジオもライブでどこへでも情報を流すので、そんなことはないのかもしれないが、理屈はそうである。友人が、映画館で映画を観ている最中に、突然画面が黒くなり、次に赤くなり、警報がなった。ただいま二階で火事が発生しました。係員の誘導に従って・・・。となった。みんな無事に避難し、幸い大事には至らなかった。
みんなが戻る。そして、火事はこのビルではなかった、とか、このビルなのだがボヤだった、とか、初めから誤報だったとか、まことしやかな言葉が飛び交い、そこで軽いパニック状態になったという。
デマ、風聞はこんなときに起きやすい。それらは、こんなときに思わぬ力を発揮し、パニックをいっそうのパニックに誘う。これが怖い。「こうじゃあないのかなあ」という個人の想像が、いつの間にか、「こうなのだ」と断定的になったり、「ああらしいぞ」、という想像が、ああだと断定的になる。人の言葉に反対意見を述べて、それが正しい、いや違う、と確たる情報源もないままに想像が妄想を生み、ああだこうだという間に話は大きく、さらに歪んでいく。デマ、風聞は大きく歪む傾向にある。
人々は、不安になるとデマを言う。不安だからデマを言う。不安がデマによって、さらに不安を増す。戦争中にはさまざまなデマが飛び交ったと聞く。現在、情報の伝達能力は極めて進化し、もはや離島でも瞬時に到達するようになったが、今度は情報の信憑性が疑われている。ネット社会では信憑性こそが重要である。社会不安の深まる現在、デマには十分注意をしたい。情報の信憑性を確認してから行動したいものだ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/10
■ 人の味は、店の味

渋谷、國學院大学空手道部の忘年会の二次会に、13代同期の花松忠義君が、「近くに和食のうまい店がある。おまえのカードで飲みに行こう」と誘う。よし、日頃世話になっているからこの際気持ちよく奢りましょう、と夜の渋谷西口をふらふら歩く。監督の次呂久英樹先輩、ОB会長の小柴先輩、後輩の塩沢君も一緒だ。その店はどこだ。年寄りの体に夜風は毒だ。次呂久監督が言い、歩道橋を下りたところです、と花松君が答える。東横線のガード脇、国道246号線沿いの地下1階にその店「三漁洞」はあった。
なるほど、ぶり大根を口に入れた瞬間に、これはなかなかの店だぞ、と全員が頷く。割烹着姿の女将さんが、ゆったりとにこやかに応対してくれる。うまいのは当たり前だ。この店は、クレイジー・キャッツの石橋エータローさんの店だ。花松君が得意気に言う。というとあの女将「みっちゃん」は、もしかするとエータローさんの奥さんか。
クレイジー・キャッツといえば、当時知らない者はいなかった。テレビが津波のように日本中を飲み込んだ時代に、彼らは日本中の茶の間を笑いの渦で飲み込んだ。ミュージシャンとして一流の腕を持ちながら、陽気なサムライたちは笑顔と夢と希望をみんなに振りまいた。暗い時代に歯向かう力を、精いっぱいの明るさで戦って見せた。
しゃぼん玉ホリデイ。青島幸男が笑いの才能を爆発させたこのテレビ番組は、彼らがいたから怪物のようなヒット番組になったし、またこの番組が彼らをさらなる天才の域にのし上げた。
ジャガイモ顔のハナ肇をリーダーに、日本一のお調子者植木等が暴れまくったクレイジー・キャッツ。映画「釣りバカ日誌」の課長谷啓が、人を食ったキャラクターで通を唸らせた。その中で石橋エータローは異才を放った。ホワイトアスパラのようなひょろりとした体の上にとぼけたメガネの顔を乗せ、どこか人の良いキャラクターで、ただ何もせず、みんなの中をあっちに行きこっちに行き、うろうろちょろちょろするだけに見えた。強烈な個性ぞろいの中の中和剤のような存在かと思えた。
だが、違っていた。このホワイトアスパラ氏は、天然ボケ(失礼だが)という“天が与えし才能の持ち主”だった。みんなが工夫し、考え、全力で演じる横で、ひょうひょうと天賦の才でボケてみせた。突っ込み10年ボケ天然、といわれるほどボケ役はむずかしいものだが、石橋エータローさんには、それがあった。それは、シャイだったからではなかろうか。気まじめで、物事を理論的に解釈する。だから、エータローさんがテレビで料理番組をやったが、真面目にやるほどおかしかった。尺八の鬼才であり、西園寺公一先生に言わせれば、釣りの鬼才でもあった父福田蘭童氏の血を受け、料理番組までやった人だから、料理がうまいに決まっている。その人の店だから、うまいに決まっている。石橋さんの不思議な人間味を思い出す。そして、この店には文化の香りが漂っている。味にうるさい次呂久監督が帰りに、この店はいい、高野のカードでまたこよう、と言った。「人の味は、店の味」である。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/10
■ バスの尻

愛が深いほど憎しみも深くなる、ということは確かにある。今回はそういう話。渋谷発23系統東急バスにおける女性の尻がいかに凶器であるかについてのお話。
先日、23系統の最終バスに乗った。このバスは、渋谷駅西口から三軒茶屋を通り祖師谷大蔵まで行く。全員が座ることはできなかったが、大混雑というほどでもなかった。わたしは最後部の左側の座席に座った。わたしの降りる桜丘住宅まで24駅も乗るので、時間はうんざりするほどある。最近買ったバスの中でも使える超小型パソコンを開き、ちょっと格好をつけてみせる。すぐに文章にのめり込み、夢中になる。三軒茶屋あたりから混んできたが、気づかなかった。後部座席は無理して詰めれば5人座れるが、肩幅の広い男が4人座っているから少々きつい。わたしはパソコン画面に集中していた。
すると、突然、崖崩れのようにわたしの右手を押し潰すものがあった。落雷かと思った。思わずパソコンのスイッチを切ってしまった。ああ、原稿が消えてしまった。この崖崩れ女。落雷野郎。わたしはカッとする。わたしの右側の少しの空きに強引に尻が割り込んできたのだ。瞬間、相手の顔を睨みつけようとして我慢して止める。
わたしは空手2段だから、カッとして手をあげようものなら警察が直ちに介入する。だから、カッとしても相手の顔を見ないようにする。そのほうが気が楽だ。わたしの原稿を消してしまった凶器は女性の尻だった。女性の尻がパソコンの文章を消し去り、おまけにわたしのコートの端を踏んでいる。なお頭にくる。ますます顔を見ないように我慢する。おそらくツンとしたわたしは美人よ、という顔で、こんなに混んでいるバスの中でパソコンをやってるほうが悪いのよ、と睨みかえすような女性に違いない。まいった。確かにわたしは、混んできたのに気づかなかった自分に少しは反省の気持ちはある。
だが、よろしいですか、ともいわず、すいませんが、ともいわず、当然あんたが悪いのだからパソコンの文章が消えようがどうしようがわたしの尻の落雷には関係ないわ、と必殺の凶器はでんと構えたままだろう。和道流2段の廻し蹴りを食らわせてやろうか。だが、我慢する。家に帰り、かみさんに泣きながらバスの凶器の尻の話をするが、かみさんは腹を抱えて笑うだけ。おまけに、わたしだってそのくらいやるわよ、という顔。
翌日会社に行き、アートディレクターの佐川くんに“バスの尻の凶器”の話をする。
それに似た話がありましたよ。佐川くんがいう。JRでしたか、失礼な女性がいて、前に座っていた男が電車を降りる際に、女の顔面に蹴りを入れたという話です。そうだよな、そうだろ。わたしだって空手さえやっていなければ、バスの女の崖崩れの尻に蹴りを入れていたぞ。でも、女性の勇気にはつくづく感心する。尻の凶器には脱帽する。わたしがあとほんの1ミリくらい腹を立て、切れてしまったらどうするのだろうか。農大一高前で尻が降りたとき、わたしも続いて降りて行って、その尻に必殺の廻し蹴りを入れたらどうするのだろう。愛すべき尻がこれほどの凶器になるとは。バスが悪いのか、パソコンが悪いのか。それとも世間が悪いのか。どうやらわたしが悪いようだ。年の終りの反省である。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/07
■ ヘミングウェイの嘘

ヘミングウェイは、戦争など実際にはまったく経験しなかった。イギリスの作家でありミュージシャンのハンフリー・カーペンターが「失われた世代、パリの日々」の中でそう言う。そもそも人に話を聞いてもらうためには、嘘をつかざるをえない。ヘミングウェイ自身もそう言っている。
嘘であってもかまわないような軽いもので、他人の行動や見聞を自分の経験にすり替え、典拠は怪しいがだれでも知っているような出来事を事実として述べること。それを彼は否定しない。1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、ヘミングウェイは18歳だった。彼はカナダに行ったというが、カナダにも行かなければ入隊志願もしなかった。視力障害で軍務には不適だと判断されていたからだ。
カーペンターによれば、イタリア軍のために弁当を配った経験はある、という。それが事実かどうか、わたしは問わない。ヘミングウェイにおける、嘘と真実とは。それは興味深いことだし、わたしの生き方においても、嘘と真実との明快な解析はぜひ望むところである。
まず、ヘミングウェイは小説家である。小説が嘘か本当か、と問えば、間違いなく嘘である。小説は創作である。誰がために鐘がなる、の主人公はヘミングウェイであってヘミングウェイではない。
彼が例え弁当配りであってもイタリア戦線に参加したとしよう。怪我をして病院に入り、年上の美人の看護士と恋をした。これは本当のようだ。だが、主人公のようにドラマチックに活動したかとなると、これはまったく問う意味のないこととなる。事実と真実の違い。これを笑って容認する覚悟がなければ、小説は読者の心のうちで圧倒的に価値を失う。小説に真実を求める、という会話は成立するが、小説に事実を求める、という会話はどこに意味があるのかわからない。(この場合は、事実とリアルとの違いの解析となる)。
新郎新婦が神前で、永遠の愛を誓う。だが、事実は永遠かどうか実はわからない。むろん、永遠と思うから永遠を誓うのであるが、離婚に至る夫婦もいるから、誓いつつなにか怪しさが残る。永遠と思いたい気持ちが強いのは理解できるが、怪しさは残る。
新郎にしても、新婦にしても、まず誓っておかなくては始まらない、という気持ちは確かだ。これを嘘と決めつけるわけにはいかない。事実ではないが、真実であり、嘘ではないと断言する。営業マンが営業目標を立てる。達成できない場合、それを嘘として叱りとばすことはできない。努力不足を責めるだろうが、嘘とは断定しないだろう。
嘘に対する恐怖心のあまり、営業マンが目標を下げてしまうことが必ずしも正しいとは思わない。嘘と事実と真実の微妙な関係を認識しない者に、創造、創作、希望、夢、目標はどう位置づけられるのだろう。映画、芝居、小説、絵画はどう解釈されるのだろう。
わたしは真実を曲げようとは思わないが、事実を曲げることはあると思う。迷惑をかけないという条件で、興味を抱いてもらうためにヘミングウェイ程度の嘘をつくだろう。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/07
■ ドイツチームに乾杯

ペーター・ベッツがドイツのナショナルチームを率いてやってきた。11月11日のことだ。空手道世界選手権大会に出場するためだ。大会は11月13日武道館で行われた。壮行会は渋谷の国学院大学若木タワー18階、有栖川宮記念会館で行われた。試合直前とあって選手は参加できなかったが、会長夫妻、監督、コーチ陣が参加した。
こちらはというと、空手道部初代主将であり、わが空手道部と応援団の創設者でもある小倉基名誉会長を筆頭に、空手道部ОB会小柴会長、次呂久英樹監督、ドイツチームの日本での調整に道場を提供し、滞在の細々したことのすべて面倒を見ていた埼玉の小林君と同期の石井君、坪井君、そしてОB会有志の面々。事務局長の斉藤君は、図々しくも文学部教授の橘先生に通訳をお願いした。
橘先生はいつものように、空手部のためだ、と快く引き受けてくれた。学校関係からも御来賓をいただいた。応援団の諸君がドイツチームにエールを送るために駈けつけてくれた。わたしはベッツとはまったく面識がなかった。彼は、わたしより10歳ほど後輩だった。
小林君が主将時代に特別練習生として空手部にいたという。
小林、石井、坪井3君たちが、愛情のこもった拳でベッツを鍛えたのだ。その後、ベッツはドイツに帰り、空手道の普及に貢献したのだ。いやいや、ベッツは決して誉められた練習生ではなかったですがね、ここだけの話。小林君がにこにこ笑いながら耳元でいう。結構やんちゃなこともしましてね。実は逃げ出してドイツに帰ったようなもんです。そう言いながら、小林君のものいいには愛情がこもっている。
ある年、ヨーロッパを旅した途中に寄ったんですよ、ドイツに。ベッツの道場を覗くといましたよ、えらそうな顔をしたベッツがね。黒帯しめて。わたしの顔を見て、ぎゃっといって逃げ出しましてね。日本からわたしが、ベッツを殺しに来た、と本気で思ったのだそうです。当時の空手道部では話としてありうることだった。わたしと小林君は声をあげて笑った。小倉名誉会長は、急遽ドイツ語の挨拶だけを覚えて親しみをこめて歓迎の意を伝えた。小柴会長も考え抜いた几帳面な挨拶をして、次呂久監督が乾杯で座を盛り上げた。
雅楽部の演奏は、ドイツチームに大いに受けた。このアイディアは、斉藤明彦君の提案であった。ベッツは細身の体だったが、他のコーチ陣には大男がいた。わたしたちはある大男をタワーと呼び、日本語と英語のチャンポンの会話をしたが、ほとんど通じないためにワインをジャブジャブとグラスに注いだ。ベッツにОB会から感謝状を贈った。ベッツはОB会員ではないからそれには反対だ、という者もいたが、ドイツに帰ってわが空手道部の教えを広めていることを考えれば、これは感謝に値するとして実行された。
後輩の日下部君が、こういううれしいニュースは大歓迎ですね、と帰りのエレベーターでいった。13日。ドイツ女子チームが優勝した。その夜、渋谷のいつもの居酒屋で次呂久監督と塩沢君とわたしは乾杯した。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/07
■ 園歌

雨上がりの濡れた木々の間を澄んだ歌声が流れていく。濃い緑の葉が歌声でかすかに震える。鳥たちは自分が歌うのを忘れ、風見鶏のように細い枝の上でじっと歌声に耳を傾ける。
赤や黄色の絵の具を点々と垂らしたように色づき始めた森は、秋の装いだ。土曜日の昼下がり。井の頭公園。まだ厚い雲の残る空の下で時間はゆっくりと流れる。
歌声は、江戸幕府のご用水に使われたという公園の湧水よりさらに澄み切っている。池に浮かぶボートの若い二人は、オールを動かすことも忘れ、ただ黙って見つめあうだけだ。観客はおよそ400人。年配の人が多い。前列には青いシートが敷かれ、3列ないしは4列に重なった人たちがじっと歌声に耳を傾ける。その人たちの外側を大勢の人たちが取り囲み、大きな輪を作っている。その外側を歩く人々も足を止めて耳を傾ける。
歌姫は人の輪の真ん中にいる。ビールケースを逆さに置いたステージの上に立ち、ギターを抱え、マイクなしで歌っている。マイクを使うとご近所に迷惑がかかる、という配慮でマイクを使わないのだと言う。だが、歌声はどこまでも力を失うことなく、公園の人々の心の中に沁み込んでいく。
わたしはその歌声を昭和の大スター美空ひばりと重ねている。幼い日に父と母に連れられて行った映画館。スクリーンの中でひばりが歌う「悲しき口笛」は、いまもわたしの心の中に響いている。一生、わたしの心から消えることはないだろう。
ひばりの歌は、暗い時代に光を灯した。井の頭公園の歌姫の名は、「あさみちゆき」と言う。月に1度公園でギター1本とビールケース1個でライブを重ね、すでに100回を越えている。
歌と歌の間に、周りの人たちと楽しい会話をする。今日はNHKの取材班も入り、カメラが衛星のように歌姫の周りをぐるぐる回っている。ちゆきの会の面々が黄色いハッピを着て整理に当たっている。彼女はすでにテレビにもよく出演していると聞く。友人でちゆきの会の会員である佐藤光二郎に言わせれば、ちゆきを知らないわたしがどうやらもぐりらしい。作詞家の故阿久悠が彼女のためにいくつも詞を書いた。宇崎竜童が新曲を創り、CDを出したばかりだ。山口百恵を思い出す。百恵ちゃんは、菩薩と称された。その歌声が人々に勇気を与え、その微笑みが人々を救うからだ。
天に舞い、宙から降臨するやさしい歌声と人々と交わす暖かい眼差しには、理屈を超え、心の底から湧き上がる喜びがあった。
歌を媒介にして歌手はファンを救い、また歌手はファンの純粋な笑顔によって救われていたのであった。そして彼女は、カリスマとなった。歌は、喜び集うための媒体であった。歌は、日々の生きる勇気を生み出す栄養であった。天は、「ひばり、百恵」という人間を通して、人々に歌を届けたのであった。あさみちゆきは天に代わって歌を歌う歌手なのか。公園に響く歌声。演歌。援歌。怨歌。呼び方はいろいろあるが、天に響く園歌こそが彼女の歌にふさわしい呼び方かも知れない。大スターになっても彼女は、公園を去ることはないだろう。秋の日、ふらりとスケッチブックに絵を描いたような、いい1日だった。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/07
■ すくった金魚が救われない

子どもの頃、お祭りは天国だった。お御輿は天国に行く乗り物だった。担ぐととてもいいことをした気分だった。昼間から仮設舞台の上で酒を飲んでいる大人たちを見ると安心した。大人たちがどんな気持ちで酒を飲んでいたかはわからなかったが、みんなが笑っているのを見ると、子どもたちはそれだけで世の中は大丈夫だと安心した。
同級生の女の子の浴衣姿が眩しかった。赤いヨーヨーを持ってクスクス笑う白いうなじと細い足首に胸が熱くなった。
屋台の店がずらりと並ぶのが好きだった。べっこ飴屋、お面屋、風車屋、薄いピンクの煎餅にソースをつけてくれる店、プアーと音を出す風船屋、吹き矢や模型飛行機やメンコを置いている駄菓子屋、わけのわからないお菓子を舐めると当たりが出てくる店、糸の先に針をつけてくるくるルーレットみたいに回すと高価そうなブリキの車が当たると言うけれど当たったのを見たこともない変な店、ラムネも置いてある水飴屋。中でも子どもたちの人気の店の一つが金魚すくい屋だった。値段の安い赤い和金が夢中で泳ぎ回っていた。高いリュウ金が大きな尻尾を振っていた。それより高い黒い出目金がえらそうに泳いでいた。どの金魚も一生懸命泳いでいた。和金は数が多く、すくい易かった。赤と白の斑模様の金魚もたくさんいた。金魚をすくう丸い針金製の金魚ポイは、薄い紙のものしかなかった。紙は習字の半紙のように薄くすぐ破れた。モナカなんかなかった。だから、モナカの金魚ポイが登場したときは、邪道だ、世も末だ、と思った。
一回10円だった。和金がすくい易いのは、尻尾が小さいからだ。リュウ金や出目金は和金より動きは遅かったけど尻尾が大きく、尻尾の動きに力があった。だから和金は、動きは早いけれど狙われた。
すくうコツは、金魚の尻尾を紙の上に乗せないことだ。水につけた金魚ポイを真上に真っすぐに上げないことだ。水と紙の面を直角に上げないこと。水の抵抗を受けない角度で滑らかにあげる。その動作の途中で金魚を軽やかにポイの上に乗せる。金魚の下をすっとポイを通過させる要領。これがコツだ。
ある日、天ぷらを食べながら妻が言った。最近はすくった金魚を家に持って帰らないんだって。え、なんでよ。家で金魚を飼いたくないみたいよ。そりゃおかしい。なに考えているんだ。自分がすくった金魚は家に持ち帰り、餌を与えて面倒をみる。週末に子どもといっしょに金魚鉢を買いに行くなんて、なんとも素敵な親子ではないか。
酸素を出すブクブクも買う。子どもは金魚に名前をつけて毎日話しかける。おはよう。ただいま。元気? 金魚は答えたりしないが、そこに愛情がわいてくる。金魚は答えないが、愛情は伝わっている。死んだら涙を浮かべながら庭の隅に埋めてあげる。命の大切さを知り、命あるものはやがて死ぬことを覚える。金魚すくいは、すくって、家で飼って、餌をあげて、話しかけて、死んだら泣く。そこまでの一連の行動があってこそ、金魚すくいなのだ。それが、金魚の中でもおそらくいちばん安い金魚すくいの金魚の精一杯の人生なのだ。それをただ追いかけ回して、すくって、笑って、オシマイ? それでは金魚は救われない。すくった金魚が救われない。子どもは貴重な教育の手段をまた一つ失った。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/05
■ トイレ進化考

河原で一日中鯉釣りをしていると、当然のごとく、途中で用を足したくなる。背後の土手を越えると立派なパブリックトイレがあって、どうせ暇なのだからトコトコ歩いて行けばいいのだが、どうもわれら男は、広い河原のそこここにある木蔭草陰で、ちょいと失礼と相なる。こんなことを書くと、登戸駅前派出所の警察官が飛んでくるかも知れない。「はい、3000円」、と罰金を取られるかも知れない。だが、さほど心配はしていない。
この新聞は、警察官が好んで読む性質のものではないし、河原に立ててある看板によると、河原の管轄は、国土交通省だ。わが国は縦割り行政だから、警察官も3000円のために敢えて越権行為はしないだろう、とわたしはタカをくくっている。
最初にトイレでびっくりしたのは、経堂の友人山川邸だ。改装なった山川邸に招待され、親しい仲間たちとひととき酒宴を楽しませてもらった。旦那の料理の腕が並みではなく、魚もうまいし、和え物、炒め物、揚げ物、なんでも実においしくいただき、またメンバーたちの軽妙な会話も存分に楽しませてもらった。途中、ちょっと失礼、とトイレを拝借した。最新のトイレに緊張して入る。いやはや、ドアを開けて中に入ったとたんに、びっくりした。美しいメロディに迎えられたと思うと、ヒョイッと容器の蓋が開いたのだ。いったいだれが潜んでいるというのだ。ズボンのジッパーを下ろそうにも、だれかが見ている気がして不安だ。ジッパーを上下させながら、四方の壁や天井をきょろきょろと見渡す。いない。だれもいない。おかしいではないか。きっとだれかいる。あるいは向こうのテーブルで、旦那がリモコンで蓋を開けたのか。これで、帰りに「ご苦労さま」とか「お疲れさま」なんていわれたら、きっと腰を抜かす。
いつの頃か、恋女房がトイレに得意のメモを貼りつけ「トイレを汚すな。一歩前へ」としっかりと書いてきた。そのうち「もっと前へ」と文字が大きくなった。面倒くさいので、座って用を足しているうちに、ふと気がついた。わたしが、女性化している。確実に女性化している。オネエ言葉が増えた。歩き方に、妙にシナを作る。そんな自分に仰天して、座って用を足すのを急いで止めた。男は、原っぱで、天に向かって、大きく、悠々と用を足してこそ、男なのだ。下落合では、そうして育ってきた。
思い出すと、用足しには実に格好の原っぱや麦畑が、たくさんあった。爽快だった。いま、都会ではあらゆる場所で用足しが禁止され、最近では犬さえ恨めしそうに電柱を見上げてガマンする時代となった。ある日、井の頭線渋谷駅前の喫茶店に入った。古い木造の郷愁誘うたたずまいである。コーヒーの香り漂う店内は、年季の入った調度品が備えられ、あちこちに置かれた装飾品も十分に時代をくぐってきた感があり、ほっと心安らぐ。ゆっくりとコーヒーを味わい、落ち着いて広告コピーを書く。帰り際にトイレを借りた。細長い店の突き当たりにあるトイレのドアを開け、思わず戻ろうかと思った。そこは、近未来の世界だった。床も壁もきらきらと眩いばかりに輝いている。きょろきょろ見渡し、容器に目を向ける。お、なんだヴィトンか、と目を見張るほど豪奢だ。
「いらっしゃいませ」。突然、女性の声が耳元で聞こえた。ため息にも似た甘いささやきだ。飛び上がった。首をぐるぐる回して、血走った目でもう一度、床、壁、天井を穴の開くほど見つめる。いない。だれもいない。いるわけがない。深呼吸して心を落ち着け、ジッパーを下げる。「どうぞ」。女性がいう。飛び跳ねる。用足し寸前で急停止。ジッパーは、下りたまま。容器をしみじみのぞく。いない。女性の姿はない。いるわけがない。人魚じゃあるまいし、こんな水の中で女性が泳いでいる道理がない。「お止めですか?お続けですか?」。もはや、出るものも出ない。あわててジッパーを上げる。「お帰りですか?」。目の前が真っ暗になる。気が遠のいていく。まあ、これは半分冗談だが、ITだけでなく、トイレの進化にもびっくりさせられる今日この頃である。
2020/02/05
■ キヨさんありがとう、さようなら

宮原キヨ。義母が百歳で天寿をまっとうした。彼岸に旅立つのは5月、穏やかな丘の上、それが理想とブッタはいった。
キヨさんは、やさしい陽射しの5月のその日、丘の上ではないが、一生を過ごした懐かしい荒川沖の町から旅立った。お別れ会の日、親戚一同が集まった。高野家を代表して下落合から来た弟の信治に親戚一同を紹介する。「キヨさんには5人の子どもがいる。ほら、あれが長女の妙子姉さんな、喪主だ。妙子姉さんには、3人の子どもがいる、あれが長女の真実ちゃん、隣が千秋、おい、基幸、長男の基幸な、これ、弟の信治だよ。基幸はよ、チッチャイときから車オタクでさ、ついにミシュランに勤めちゃった、タイヤのな。ちょっと見には、イ・ビョンホンに似てるだろ、韓国スターの、だけど、みんな、渥美清に似てるっていうんだ。
確かによく見るとそう見えるな。生き方は不器用だけど手先が器用で、テラスなんかも一人で造っちゃったんだ。隣が基幸のかみさんでかおちゃんな、どっか吹っ飛んだ感じがいいだろ、太鼓がんがん打つんだよ、がんがんだぞ、仲間たちと近所の迷惑返りみずによ、筑波の麓でがんがん騒音立てるから、最近筑波のガマも鳴かなくなっちゃったよ」。ここまで紹介して、信治はにこにこ笑っているが、もう覚えきれない。「博兄さんはさ、電源開発、いまのジェイパワーな、そこにいた、経理な、守男と同じだ。ダム工事の現場に泊り込んでさ、奥只見ダムな、何千人もの給料計算だ。手にツバつけながら夜通し札束数えてたらしい。横の人が奥さんのゆう子さんな、和歌山の新宮出身だ、宝塚スターみたいだろ、そう、越路吹雪に似てるよな。よりによってなんで不器用な博兄さんと結婚したのか、それが世間の七不思議の一つよ、まあ、人間、ときとしてトンチンカンなことをしでかすもんだからな。晃兄さんは、水戸の茨城県庁に勤めてた、親父と似てるだろ、豪放磊落というか、スキだらけというか、まあ、評価はまちまちだけど、大物だ。県庁の慰安旅行で酒に酔ってさ、課長のネクタイを寝巻きの帯がわりに結んでよ、翌朝ネクタイがないって部下たちは大騒ぎよ、それが原因で出世を棒に振った。豪傑だろ。洋子姉さんは、宮原家の優等生な。すべてに完璧。彼女の人生に失敗の文字はない。唯一で最大の失敗は、ほら、あそこにいるご主人な、明憲さんをご主人に選んだことだな。明憲さんは、この地上で生きながら、すでに天上人だ、あらゆることが人間の枠に納まらない、狭い家ん中で平気でアーチェリーよ、玄関から風呂場に向かって矢を放つ。客の目の前をビュって音立てて矢が飛んでくんだぜ、客はもう命がけよ、お茶なんか飲んでられないってさ。キヨさんの姉さんは谷田部で「ガマン」という食堂をやってた、うん、いったいなにを「ガマン」するのか、それがわからない。4人の子どもがいてさ、ほら、あそこの美人3姉妹な、とこちゃん、かこちゃん、ふうちゃんな、その下についでのようにヨシオっていう雲突く大男がいる。ジャンボ鶴田にそっくりだ。とこちゃんは、草木染の先生、文化服装学園で先生をしてた。かこちゃんは、ご主人は山口さんていってさ、早くに亡くなったが、おれ、二人が恋愛真っ最中のときから知ってんだ。土浦の町な、古い城下町だ、ご主人と人目もはばからず腕をからめて歩く姿なんか、通りの反対側からよく見かけたよ、まるで「青い山脈」の主人公、新子と六助、そんな二人だったよ。まあ、遠くから見たから映画の主人公に見えたんだな、近くで見ないでよかったよ。その隣が息子な、谷田部の消防士やってる。お父さんにそっくりになってきたな、いや、独身だ、美人の母さんに育てられたせいか、世の中の女たちがブスに見えるんだな。隣がふうちゃんのご主人の糸賀さんだ、気さくで、面倒見がいい、真っ直ぐ話をする、正義感が強いんだな。信治、どうだ、これが親戚だ。で、あっちの人がさ」。「あんちゃん、おれ、もう、だれがだれだかわからないよ」。残りは次の機会にする。キヨさん、ありがとう。こんなにいい親戚をありがとう。のり子を生んでくれてありがとう。そして、さようなら。

2020/02/05
■ 新宿ものがたり

こんにちは赤ちゃん、わたしがママよ。もう何10年前になるのだろう。新宿駅中央口、武蔵野館通りに梓みちよの歌声が流れると、女たちは薄い胸を突き出し、続いて石原裕次郎の歌声が街中に響くと、男たちはくわえタバコで肩で風を切り繁華街を闊歩した。
今はビックロになってしまった三越デパートの真裏に白十字という喫茶店があって、隣接して「チャーミングコーナー」という日本最初のスーパーマーケットがあった。その隣はビヤホールだ。いつも客が賑わい、景気のいい掛け声にあふれるそのスーパーマーケットの社長は、侠客として名高い関東尾津組の親分、尾津喜之助さんだ。
喜之助親分は、水戸の武家の出身だ。日本がアメリカとの戦争に敗れて新宿も焼け野原と化し、夜ともなると真っ暗闇になる駅前を見て、水戸の屋敷を売り払い、当時の金で300万円の私財を投じて街灯を設置したと聞く。
新宿中央口一帯に縄を張り、織田信長のごとく裸馬にまたがって駆け回り、縄張りを作ったとも聞く。
テント張りの大マーケットを作り、敗戦で暮らしをズタズタにされた人々のために生活物資を供給した。伝説の新宿尾津マーケットだ。
その延長にあったのか、喜之助親分はその後三越裏にスーパーマーケットを作り、人々の暮らしを助けた。父の知り合いの安次郎さんは、喜之助親分の義理の弟だ。小柄で温厚な人で、いつも「勉強しなよ」と学生のぼくに声をかけた。
寡黙な安次郎さんがかつて「人斬り安」と呼ばれ、任侠の世界で懼れられている尾津組の特攻隊長だったとは、とてもぼくには思えなかった。安次郎さんの紹介で、ぼくはスーパーマーケットのアルバイトを始めた。3階建てのスーパーマーケットは、1階に食品売り場、化粧品売り場、薬品売り場、石鹸や歯ブラシなどの日用生活品売り場があり、2階には呉服売り場とファッション売り場があった。3階は倉庫と事務所だった。屋上があって晴れた日にベンチで昼寝をすると気持ちがよかった。従業員は30人以上いた。だれが尾津組の元組員で、だれが堅気の人間か正確にはわからなかったけれど、地方出身の正直者でいかにも堅気だという人々もたくさんいた。みんな、学生のぼくに親切にしてくれた。
安次郎さんは、呉服売り場の主任だったが人前にあまり出ず、いつも人気の無い3階の事務所の隅にぽつんと座っていた。1階食品売り場で働くぼくが3階の倉庫から重い缶詰のダンボールを担いで走る姿を、にこにこと笑って見ていた。
ピー子姉さんは1階化粧品売り場の主任で、ゲイだ。ぼくは、生きて動いているゲイを見たのはその時が初めてだった。資生堂やカネボウやマックスファクターなどの美人美容部員たちを「やれ働け、それサボるな」と厳しく見張っていたが、ぼくには「おまえ、帰りに晩飯食わせてあげるわ」と、自分の金ではとても行く気にならない高い寿司屋や天ぷら屋に連れていってくれた。
広島出身で、高校時代に女の子にもてすぎ、女に飽きてゲイになったんだとピー子姉さんは胸を張った。確かにアメリカの有名コメディアン、ジェリー・ルイスに似た彫りの深い日本人離れをした風貌だった。秘密めいたビルのゲイバーで作家三島由紀夫さんに合わせてくれたのもピー子姉さんだ。あんまりいつも晩飯を奢ってもらっていると、相手がゲイだけにあれこれ噂になるので、時々理由をつけて断ると2、3日拗ねて口もきかなかった。顔を合わせても大袈裟にプイっと横を向くのだ。まるで女そのものだと思った。
ある時、「彼女ができた」とぼくがいうと、「不潔」と叫んでぼくのほっぺたに平手打ちを食らわせ、それから晩飯に誘ってくれなくなった。どっちが不潔なんだと腹の中で叫んだが、口には出さなかった。
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