高野耕一のエッセイ

2020/09/09
■ 双子の双語

言葉は世につれであり、時代の風に揺れ動くものだ。いつの時代にも若者は若者特有の言葉を使って楽しむものだが、ケータイが必需品となり、メールが生活に浸透してから言葉は大いに変わったように思う。
会話のテンポが早くなり、言葉をはしょるのも目立つ。その中でも、言葉を正確に把握せず、テンポにまかせて使ってしまい、本来の意味からはずれていくケースに時たま出くわす。
言葉には使い方、発音、意味などが非常によく似たものがあって、ゆっくり使っても混同してしまうものがあるのにスピード優先の会話をするものだから、ますます混同してしまう。
双子のように似ている言葉を、わたしは双語と呼んでいる。たとえば「希望と欲望」である。このふたつは似ている。混同しやすい。意味も似ているから、油断すると同じように解釈してしまうが、実は大変な違いがある。一般的に言って、希望は美しく正しいと見られ、そういうイメージがある一方、欲望はいまいち不純なイメージが漂う。辞書的にいうと、希望とは、未来に望みをかけること、こうなればよい、なってほしいと願うこと。
欲望とは、ほしがる心、不足を感じてこれを満たそうと望む心、となる。大変よく似た意味を持つ。受験の子どもを持つ親が、子どもをいい学校に入れていずれは社会の役に立つ人間に育てたいと願うのは、希望の部類に入る。だが、いい学校に行かせていずれ大金を稼ぐ人間にしたいというと、なにやら希望ではなく欲望のように聞こえてくる。同じ現象であっても、意識の持ちよう、言葉の使いようで、まるで違ってくる。
希望には上品なイメージがあり、欲望には下品なイメージがともなう。希望に胸を張って旅立つ、というところを、欲望に胸を張って旅立つとしたのでは、なにやら実もふたもない。双子の双語に惑わされず、言葉の意味やイメージさえも把握して、正しく使うことがコミュニケーションを大切にすることになる。
また、価値観の混同もよくあることで、最近では「いい悪い」と「好き嫌い」の混同が目立つ。われわれ広告業界でも、宣伝物を新入社員に評価させることがある。若者がターゲットであるから、若い意見がほしいという理由からで、それはそれで一理あるが「わたし、このデザイン嫌い」とか「こっちの広告が好き」とか、平気でそういう評価をする。「好き嫌い」はあくまでも個人的評価であり、社会的評価とは別物である。「いい悪い」は社会的評価であり、一つの価値観のもと、社会とどう関係するのかを理論的に説明するものだが、「好き嫌い」は理屈も不要だ。
好き嫌いの評価が役に立たないというのではなく、そこに大きな落とし穴があることを知っておきたいと思う。双語ではないが「いい悪い」と「好き嫌い」もその価値観において非常に似ている。最近、コミュニケーションが不足しているとか、どうも理解の仕方がぶれているとか、コミュニケーションのやり方が下手だとか、世間ではいろいろ取りざたされているが、まず言葉や文字を大切にし、ゆっくりとていねいに伝えることを心掛けたらどうかと思う。これは、自分にもいい聞かせていることだ。
2020/09/07
■ 新宿物語

東京オリンピックが終わり、街は益々活気づいていた。年末の雑踏の中、新宿駅東口商店街のスピーカーが、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」を流し、坂本九の哀愁の歌声が「見上げてごらん夜の星を」を歌っている。
安次郎さんと会ったのは、その頃だ。私は学生で、冬休みのアルバイト先をさがしていた。職人の父に仕事を頼みにくる安次郎さんは、新宿のスーパーに勤めていた。小柄で物腰も柔らかく、いつも穏やかな笑みを絶やさない。その安次郎さんが昔、「人斬り安」と怖れられた侠客だったとはまるで想像もできなかった。安次郎さんの紹介で、双葉通りにあるスーパーでアルバイトをすることになった。三越デパートの裏だ。オーナーは飯島連合会二代目会長、伝説の関東尾津組組長尾津喜之助さんだ。
「光は新宿から」のスローガンを掲げ、私財を投じて戦後の復興に命をかけた香具師の大親分である。東口にテント張りの尾津マーケットを作り、家も希望も失った人々に食料品や衣料品など生活に必要な物資を供給した。その延長で、日本初のスーパーマーケットを作ったのだ。その頃すでに尾津組は解散し、尾津商事となっていた。安次郎さんは喜之助さんの義兄で、尾津組全盛の頃は命知らずの斬り込み隊長だった。
暮れもおしつまったある日、喜之助さんがふらりと売り場に現れた。四角くがっしりとした彫りの深い顔。目も鼻も口も大きく、荒削りの木彫のようだ。6尺の長身を着流しに包み、若い衆を二人連れている。安次郎さんが寄り添っている。大きな山のようにゆっくりと動く。ゆらゆらとオーラが漂う。
「君は、国士かね」。喜之助さんが立ち止まり、私に聞いた。国士という言葉が心に鋭く響く。私が、国学で知られる大学に通い、空手部であることを、安次郎さんから聞いていたのだ。「その力を、国のために使うことだ」。深い目で私を見てそういい、サイフから手の切れるような一万円札を取り出し、差し出す。当時一ヶ月働いて2万円のバイト代にすぎない私は、びっくりして思わず安次郎さんを見た。安次郎さんが笑いながら、もらいなさいとうなずく。「空手、強いのかね。段位は?」。「強いです。二段です」。そういうと、喜之助さんは、安次郎さんを振り仰いで笑った。「若いっていいなあ安さん、この若い衆を越谷に招待しよう。空手を見たい」。それが、伝説の男との出会いだった。
次に尾津喜之助さんと会ったのは、越谷の別邸で開かれた桜の花見会だった。化粧品売り場の主任ピー子姉さんの紹介で、作家三島由紀夫さんと会った。ピー子姉さんは、新宿で有名なゲイだ。元組員なのか、途中入社の堅気なのかは不明だ。「おまえ、酒奢るわ」。そういってよく食事に誘ってくれた。売り場主任で稼ぎ、ゲイでも稼いでいたので羽振りがいい。東京オリンピックでは外人相手に稼ぎまくったわ、と威張っていた。「おまえ、先生に会わせてあげる」。あるとき、ピー子姉さんはそういい、伊勢丹裏にあるゲイバーに連れていってくれた。ウェイターは全員ゲイで、大学体育会のOBだ。巨体で頭は丸坊主、白シャツに赤いベストの制服を着ている。「君は、国士かね」。会うなり、先生はそういった。喜之助さんと同じ台詞に驚いた。「国士です」、と胸を張れない自分が申し訳なかった。
「武士道をどう思う?」。ソファに深々と座り、高級ウイスキーをすすめる。ピー子姉さんも、先生の隣に座る体育会ゲイも、にこにこ笑って私の答えを待っている。どうやらこの会話は想定内のようだ。「いい本です。新渡戸稲造の理論体系がすばらしいと思います。でも、ピンときません」。その答えに三人が、オヤッという表情をする。「どうして?」。三島先生が聞く。「理論が整理されすぎて、情熱が足りません」。先生は、大口を開いて笑った。また、東京にオリンピックがやってくる。半世紀前の東京オリンピックの年に出会い、若い人生に多大な影響を与えた恩人たちを、私はいま、懐かしく想い出している。
2020/09/07
■ イトちゃんのたこ焼き

子どもは天才だ。それを大人たちがいつの間にか壊してしまう。
「イトちゃん」という少女がいる。たこ焼きの天才だ。その才能は、ある日突然開花した。背筋をすっくと伸ばして鉄板の前に立つ。その凛とした姿勢に、息をのむ。イトちゃんは自信にあふれ、緊張しながら得意げな顔だ。うどん粉を見つめる目配り、具の入れ方、焼け具合をうかがう表情、ひっくり返すタイミングと手さばき、それら一連の動作や真剣な顔つきは、幼いが、手馴れた料理人のものだ。
イトちゃんは、シリコンバレーで育った。父親のヨッチは、息子のゴータと小学校からの同級生で、その昔、半ズボンの膝小僧の擦り傷に赤チンを塗り、いつも大空を眺めているような、わたしから見れば理想的な子どもだった。天衣無縫のそのイメージが好ましかった。それがいつのまにか立派な大人になり、シリコンバレーの住人を数年勤め、最近帰国した。いまはもう、膝小僧に擦り傷はない。だからイトちゃんは、英語はぺらぺら。ゴータにいわせれば、「日本語より英語のほうがうまい」となる。
ついでに、「父さんはスピードラーニングをやってもムダだ」、などと余計なことまで言って、わたしを愕然とさせる。「イトちゃん、もう食べていい」。「まだ、もう少し」。大人たちは、イトちゃんのオッケーが出るのを、皿を手に待っている。その状況も、イトちゃんは結構気に入っている。みんなが、わたしのたこ焼きを待っている。ちょっと得意げな表情が、またかわいい。で、大人たちはチョッカイを出したくなり、手にしたフォークでつつく。「ダメ!」。イトちゃんが厳しくいう。大人たちは、手を引っ込める。イトちゃんにはムギちゃんという妹がいて、まるでゼンマイで動いているように、一つひとつの仕草が玩具のようだ。
ムギちゃんは、「紬」という名で、それでムギちゃんと呼んでいる。お姉ちゃんが「イト」で、妹が「ツムギ」とは、実におしゃれなネーミングだ。お姉さんの得意そうな様子を見ながら、「わたしにも参加させて。でも、むずかしそう」とばかりに、ごにょごにょ口をはさむ。パパのヨッチはそれを見て、まるでクッションでも撫で回すようにムギちゃんを転がす。その扱いは愛情豊かで、ムギちゃんもキャッキャと笑う。3人目を身ごもっているママが、ゆったりと笑って見ている。
「もういいよ」。イトちゃんの許可が出る。手を伸ばす。ソースをつけて頬張る。うまい。熱い。外側のカリカリ感と内側のシンナリ感のバランスが絶妙だ。たこの味も沁みている。「うまいよ、イトちゃん」。大人たちの言葉に、イトちゃんは「当然よ」と胸を張る。子どもは天才だ。イトちゃんに料理の才能が垣間見られた。人はだれでも、自分だけの人生のステージをもって生まれてくる。だれでも、自分のステージの主役だ。最も原始的で、最も大切な、自分が主役で生きる自分だけのステージ。そこにこそ天賦の才はいきいきと息づく。だが、やがて、大人たちのさまざまな事情により、そのステージは奪われてしまう。大会社の社長の息子は、親が作った社長というステージで踊るしかない。老舗の若旦那に生まれた子どもは、のれんを守るというステージで生きるしかない。子どもがもつ最高で唯一のステージは、大人が用意したステージに見事にすり替えられ、天賦の才は霧の彼方に消滅する。けして金持ちではなく、貧しい家に生まれたわたしは、親の放任のおかげで自分のステージの上で踊ってきた。幸せだ。たいした出世もせず、貧しく暮らしているが、自分のステージを生きられたことは、親に感謝すべきだ。生まれたときから、とにかく生き残るだけ、というアフリカの子どもたちに比べ、日本の子どもたちは、幸せだ。あなたには、子どものステージを大切に見つめ、育てる大人であってほしい。ヨッチとあのママなら、イトちゃんもムギちゃんもきっと幸せなステージを生きる。イトちゃん、ずっと天才でいてね。
2020/06/06
■ 心の中にある、たくさんの小さな心

解剖学の養老博士の説を聞くまで、わたしは知らなかった。心は1つだと思っていた。1つの心がすべてを決めていると思っていた。ところが違った。
「小さな心がたくさん集って、1つの心を作っている」と、博士は言う。すべての人の心がそうできている。では「心はどこにある」のか。これは、ダビンチにも大いなる疑問だった。
人体を解剖し、さがした。心臓というくらいだから、心は心臓にあるのかと思ったら、これが見当たらない。脳にあるのかと思って解剖しても、ない。ダビンチも、ついにお手上げだ。
博士は、「心は脳にある」と仮定する。「脳が、考える、感じる」、その結果として「心になる」。人は、見るもの、匂い、味、言葉、手の感触、すべてを一度脳で受けて分解する。五感のすべてを脳で受けて「分解し、再構築」する。「分解→再構築」という作業を脳が、瞬時に行う。これが心になる。分解しているという自覚なんかない。
だが、「理解できる」、ということは、脳が分解したからだ。分解できたから、理解できる。分解できないことは、「わからない」、ということだ。
さて、分解して再構築する間になにが起こるのか。たくさんの小さな心の、その1つ1つが、他の1つと連結する。連結した瞬間に、機能が変化する。そして、また別の1つと連結する。また、機能変化。無数の小さな心のそれぞれが、「他の小さな心と連結するたびに、機能変化」する。
たとえば、好きな人と会うと、心がわくわくする。でも、デートの金が少ないと、ガックリくる。そこで、万馬券でも取れば、大喜び。わくわくが甦る。つまり、心は決断を下すまでに、驚くほどの紆余曲折をくり返す。生まれつき明るい心をもっている人は、何事も明るく捉えることができるし、暗い心をもっている人は、常に結論は暗い。
人は、それぞれが実にさまざまな小さな心をもっている。そんな小さな心が無数に集って、あっちこっち連結しながら、変化、変化の果てに「やっと1つの心」にたどり着く。それを、瞬時にやってのける。
たとえば、わが家の妻の心に、夫を信じないという小さな心があったとする。すると、その小さな心は、なにかにつけて夫のわたしを拒否する。そうなると、どんなにうれしい話をしても、素直に聞こうなんて思わない。最初、「あら、いいわね」と思っても、次に信じない心と連結した瞬間に機能変化し、「ふざけんじゃないわ」、となる。ついつい言葉も乱暴になる。つっけんどんになる。天気がよくないとか、宝くじが当たったとか、テニスがうまく行かなかったとか、子どもが口答えしたとか、それはもうたくさんの小さな心があって、それらが連結しあって機能を変化させながら、挙句1つの心になる。
微妙だ。複雑だ。1つの心が決断を下すまで、小さな心の連結変化、連結変化のくり返し。面白い学説でしょ。上司が気に入らないとか、得意先の担当がうるさいとか思ったら、仕事はうまく行かない。だとすれば、「気に入らないという小さな心を封鎖」すればいい。そう簡単には行きません。だったら、その仕事からはずれればいい。とにかく、小さな心にある、仕事に不利に働く感情など、全部封鎖することだ。
逆に、仕事に有利な小さな心もある。だが、良かれ悪しかれ、感情という小さな心が、仕事の最終決断を曇らせてしまうことは感心できない。仕事は、感情を抜きにして、真っ直ぐに成功に向かうことが一番なのだ。心をコントロールするということは、「小さな心をコントロールする」ということになる。
わたしは今日も、自分を不愉快にさせる小さな心を封鎖し、放棄するよう訓練する。他人を、嫌なヤツだと思うことをいっさいしない。会話にしても、嫌な言葉、不愉快な言葉は、極力避ける。いつも、幸せな決断を導き、幸せな人生を送りたいと願うからだ。さてさて、うまく行くかどうか。
2020/03/24
■  海に舟を

海に舟を。海舟。日本海軍の土台を築いたのは、この男だ。海舟、勝麟太郎。この男をもっと大事にしておけば、日本はここまで遅れることはなかった。あるいは、海舟が早すぎた。100年早過ぎた天才だった。濁りのない純粋な目で物事の根本を見つめ、根本に基づいた基準で正しい判断を下す。大海のような偏りのない精神を持っていた。
父、小吉ゆずりの卓越した勝負カンを持ち、叔父であり直真影流男谷精一郎と島田虎之助から剣を学んだ。島田虎之助から、剣だけでなく洋式兵学の必要を教わった。筑前藩永井青崖から蘭学を学んだ。海舟が身につけた正義の心、人の道は、世界に十分に通用するものとなった。いや、世界に必要なものだった。
時は、革命の時代。押し寄せる外国の脅威。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの軍艦に包囲され、徳川幕府はオタオタと腰をぬかし、自国の利益確保に翻弄する薩摩と長州、そんな二進も三進もいかない日本で、海舟の胸の内には最善の策が描かれていた。
そう、海舟の目は、徳川とか薩長とかそんな狭い井戸の中を覗いていたのではない。日本という国家を見つめ、その将来を見据え、海の向こうに広がる世界に目を向けていた。正義を見つめ、世界の潮流を見据えていた。インドや中国のように、西欧の列強の軍門に下って植民地になることは、絶対に避けたい。
日本は、独立国家として堂々と生きる。海舟の目標はしっかりしている。「そのために、いまおれたちはなにをすべきか」。それだけを考えていた。枝葉末節にこだわっている場合ではない。まず、日本国を一つにする。日本国を一つの心でまとめる。意思を一つにして、国家のために力を結集する。「徳川とか、薩長とか、土佐がどう佐賀がどうと言ってる場合じゃねえんだよ、そんなこたあどうでもいい」。小吉ゆずりのべらんめえ調で言う。「もっとでっかい目で世界を見て、正義に則って行動することがいま一番大事じゃねえのかい」。
残念なのは、海舟のその大きさ、その正しさを理解する者がいなかった。とくに、幕府にはいない。15代将軍徳川家喜は、海舟が嫌いだ。家喜は、頭はよかったが、いわゆる学校秀才というやつで、勉強はできるのだが、社会を知らない。人間を知らない。人の心を理解できない。自己中心で、人の上に立つ器ではない。とても海舟のでかい精神なんか理解できない。幕臣たちもまたそうだった。武士の地位を金で買った海舟を小ばかにしていた。そんな海舟から素晴らしいアイディアが出されても、理解できないだけでなく、嫉妬の塊となった。
徳川の家臣でありながら、「世界の中の日本」を叫び、同調する西郷隆盛や坂本龍馬といった、幕府の敵たちと仲良くするなど言語道断、「あいつは薩長のスパイだ」、などと言い出す者もいた。実に愚かだった。そのくせどうにもならない時は、「海舟にやらせよう」と、都合のいい道具として海舟を使った。
勝海舟は、曽祖父が検校で財産を築き、その財産で男谷と勝の両家と養子縁組をして武士となった。金に困った武家が持参金目当てに家名を売る。当時は、それができた。士農工商は、もともと身分制度ではなく役職制度だから、そんなことができるのだ。薩摩の島津斉彬に才能を買われた海舟は、西郷隆盛と会うとすぐに意気投合した。天を敬い、人を愛す。敬天愛人の西郷もまた大きな男だった。坂本龍馬と会う。「船だよ、船、海軍だよ、海は壁じゃねえ、海は道だ」。土佐の若者は一瞬にして、海舟の大きさと自由さに引きつけられた。神戸海軍操練所でも塾頭となった。攘夷も、開国も、公武合体も、勤王攘夷も、海舟から見れば、本質から離れている。「本当に大事なことは、日本の国を保全し、日本国民を安全に守りぬくことだろうが」。その後の海舟の活躍は、知られるところだ。天のような男。溢れる才気。それ故に、上司からは疎まれ、仲間から嫉妬された海舟。もし、身近に足を引っ張る愚か者がいなかったら、もっと日本は大らかに進化しただろう。そう思うと悔しい。いま、世界の中で孤立し始めた日本。あなたの身近に若き海舟はいる。足を引っ張る先輩や仲間がいないことを祈る。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/03/24
■  恐怖の優先席

東急23系統のバスは、渋谷西口駅前と世田谷祖師谷大蔵の間を走る。このバスは、運賃前払いで、前から乗車して運転手の横の料金支払機に、運賃を払うか、パスモとかスイカを使うか、運転手に定期券を見せて乗る。
問題の優先席は、乗車してすぐ右側にある。3人座れる。高齢者、怪我をしている人、子ども連れのお母さん、妊婦さんなどを優先的に座らせる席だ。最近、シルバーシートと言わなくなった。シルバーシートと言っても、わからない人がいるのかな。対面の左側には、車椅子やベビーカー対応の席がある。わたしもいよいよ優先席年齢にたどりついたようである。わたしの顔を見て、ぱっと席を譲ってくれる人もいる。もちろん、わたしが譲る場合もある。
ある時、高齢の女性が乗ってきたので、ぱっと立ちあがり、「どうぞ」と席を譲る。その女性、じろりとわたしを一瞥して、「なによ、わたしを年寄り扱いするの」という顔をする。「あんたのほうが年寄りじゃないの」という冷たい目でわたしを見、「いいです、結構です」と、断る。「どうぞどうぞ」。わたしも立ち上がった手前、ぜひ、席を譲りたい。他の乗客がみんなで見ているようで、いまさら「そうですか、ラッキー」などと座り直しは意地でもできない。「いえ、いいですよ」。「いえ、どうぞ、どうぞ。お荷物もあるようですから」。「いいですったら」。頑固な年寄りだ。人の厚意を素直に受けろ。こちらも頑固な年寄りになる。「どうぞ、どうぞ、絶対にどうぞ、どうしても座って」。「いいと言ってるでしょうに、うるさいなあ、死んでも座るもんか」。女性の目が血走ってくる。みっともない。恥ずかしい。思わず、「わたし、次、降りますから、どうぞ」。そう言ってしまった。まだ降りない。降りてはいけない。気が小さい。渋谷までだいぶあるのに。停留所にして7つか8つもある。でも、バスを降りてしまう。席を譲ろうと思っただけなのに、なんで用もない停留所にぽつんと降りなきゃならないんだ。呆然とひとりバス停に佇む。気が小さいなあ。いい人は、損をする。余計なことをした、と反省する。わたしは、優先席が嫌いだ。また、逆もある。明らかにわたしより高齢の方が、わたしに席を譲ろうとする。ふらふらと倒れそうに立ち上がる。「えっ、なんだなんだ、この人よりわたしが高齢に見えるのか」。見ると、もう死にそうな老婆だ。わたし、そんなに爺か。さっきの話の逆だ。感謝よりも怒りがこみあげる。「いえ、結構です。」
断る。老婆はむっとして、「なによ、譲ってあげたのに。ねえねえみなさん、わたし、こんなに親切なのにこの爺、えらく頑固でしょ」と言うように、バスの客を味方につける。「いえ、わたし、若いときにスポーツやってたので、案外身体は頑丈で」。などと口の中でわけのわからないことをごにょごにょ言う。「はっきりしないのねえ、座れったら座りなさいよ」。女性は怖い。いつの間にかわたしが悪者になっている。「わたし、次、降りるので」。また、わたしは用もない停留所で降りてしまう。気が小さい。ぽつんと停留所にいて、なんでこうなるんだと頭を抱える。
わたしは、優先席が怖い。ある時、優先席を譲り合う二人の女性がいた。「どうぞどうぞ」。「いえ、あなたこそどうぞどうぞ」。「いえいえ、あなたこそどうぞ、わたしより年寄りなんだから」。「あら、あなたのほうが、お年よりよ。きっとそうよ。おいくつ?わたしは68歳、あなたは?」。「あら、わたしも68歳よ。じゃあ、あなた、何月生まれ?わたしは6月、あなたは、何月?きっとわたしより、年上よ」。「あら、わたしも6月よ、じゃあ何日生まれ?」。「お座りください。お座りください。バスが発車できません」。運転手が頭にきて、少し強めでアナウンスする。「あなた、何日生まれ?わたしは12日よ。何日?」。「あら、12日?まあ、同じ、偶然ねえ」。「あら、そうなの、偶然ねえ」。もはや、なにがどうなっているのかわからない。わたしは、優先席が怖いまま今日もバスに乗る。優先席からいちばん遠い後ろに乗る。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/03/24
走れ、「そよ風、散々会」

銀座8丁目、昭和通りから通りを二本入る。ホッピーと墨文字で書かれた赤提灯が、風に揺れる。夕方、6時過ぎ。赤提灯に、灯が入った。風は、海から吹いてくる。東京湾の潮の香を乗せたそよ風だ。そう、店の名を「そよ風」という。
拓殖大学空手道部OBの兄弟が経営する古い居酒屋だ。ブランドショップが増え、資生堂ビルも改装され、新しさが目につく銀座だが、ちょいと路地を入ると懐かしい店がある。銀座は、なんでもこいの柔軟な街だが、いいものはきっちり残すぞと意地を張る街だ。「そよ風」も、そんな意地を張り通す店の一つ。新しくはない。古い。きれいではない。汚い。だが、人情が売り物の心懐かしい店だ。
とんとんとんと石段を上って、酒の空箱が転がる雑然とした入り口を入ると、店主が迎える。一見無愛想な店主だが、見た目よりはずっと暖かい人柄で、安心できる。武道家特有の無骨さで、これでよく客商売をしているなと思うが、それはそれで、だからいいという客も多い。人間て、わからないものだ。この店を紹介してくれたのは、広告会社に勤める下さんだ。下さんの友人で、俳優千波丈太郎さんの行きつけの店だ。千波さんは拓殖大学空手道部出身だから、「そよ風」は部活仲間の店ということになる。
店に入って左側、カウンターの手前のテーブル席で、下さんとわたしと弟の守男の三人は、酒を酌み交わす。店は、今日も常連客でいっぱいだ。「よし、馬券、買おう」。ある日、わたしは下さんと守男にそう告げた。わたしは、生まれてこの方バクチをやったことがない。パチンコさえやったことがない。なんでものめり込んでしまう自分の弱い性格を知っている。だから、バクチはやらない。だが、下さんと弟の会話が面白い。この会話に参加しよう。そこで、馬券を買うことに決めた。会話を楽しむだけ。馬の勉強は一切しない。予想も下さんと弟まかせ。馬券を買って、わくわくすればそれでいい。当たらなくてもいい。馬券は、わくわく代。そういう条件で、馬券チームが結成された。3人だから、「散々会」。さんざんな目に遭うぞ、と皮肉って「散々会」。そう命名したのは、下さんだ。店名の「そよ風」を加えて「そよ風、散々会」とチーム名が決定。下さんに、一人頭3000円を預ける。合計9000円。これを資金に毎週わくわくしよう。
下さんを初代会長に、弟を副会長に、週末競馬を楽しむのだ。ある日、会長がリストを見せる。会長推薦の馬に印がついている。その横に、印のない馬「ヘミングウェイ」がいた。「ヘミングウェイ」といえば、ノーベル文学賞作家の「アーネスト・へミングウェイ」のことではないか。自ら戦場に赴き、20代にパリにいて、フィッツジェラルドやガートルートスタイン、若き日のピカソ等と、サロンでワインを飲みながら芸術論人間論を交わし、「日はまた上る」を書き、「武器よさらば」を書き、スペインの闘牛を書き、やがてキーウエストに移り、キューバに移り、メキシコ湾でマグロを追い、「老人と海」を書いたアメリカの作家。その名を冠した馬が走る。それだけでわくわくするではないか。
「ねえ、会長、へミングウェイ、買お」。わたしがいうのを、「そうか、それもあるな」と、下さんが情報を収集する。「いい馬だ。このレースで2着、このレースで3着、このレースで2着、ここんとこ出てないが、面白い」。買った。買いました。さあ、走った。わたしは、週末には、河にいる。鯉を釣っている。釣れないときは、昼寝をしているか、酒を片手に本を読んでいる。
結果が出ると、下さんから電話かメールが入る。「まいった、期待外れだ、13着」。電話の向こうで会長が唇を噛む。いいのです。それでいい。わくわくしたんだから。「でもね、会長、へミングウェイを見捨てないで。1年間追いかけて」。わたしはそう懇願する。
「そよ風」が店を閉めた。ビルの建て替えを機に、看板だけ残して閉店した。千波丈太郎さんの体調もイマイチで、心配だ。だが、「そよ風、散々会」は永久に不滅だ。先日、世界的アートディレクターの松本隆治氏を顧問に迎えた。さあ、この週末もわくわくしよう。走れ、へミングウェイ。走れ、「そよ風、散々会」。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/03/24
■  桜を待たずして

桜を待たずして、男は逝った。サムライだった。男の中の男だった。その日わたしは、成城4丁目にいて、「発明の杜区民公園」で、カメラを片手に桜の開花を待っていた。発明家樫尾俊雄氏の「発明記念館」の庭園である。池に面した美しい枝垂桜が、いままさに大空に向かって晴れ晴れと両手を開こうとしている。赤く色づいて次の瞬間を待つ無数の蕾たちが、春の陽射しを浴びて風に揺れている。
突如、ケータイ電話が鳴った。友人のアートディレクター松本隆治からだった。「どこにいる?」。松本が言った。「渋谷にいるなら会いたいが」。「今日は成城です」。そう答える。松本の声が通常のものではない。「渋谷に行きましょうか?」。「いや、いい。電話をしないではいられなかった」。そう言って、松本の言葉が一度途切れ、「花ちゃんが死んだ」と、吐き捨てるように言った。
花ちゃん、花木薫、あの花ちゃんが、まさか。晴天は一瞬に崩れ、稲妻が走った。桜が一斉に色を失った。風の音も鳥の声も滝の音も、すべての音が遠のいた。一陣の風が、枝垂桜を揺らす。地面に腰を落とす。だめだ。そんなことがあっては、だめだ。花木薫は、わたしの恩人である。早くに死んだ弟と同じ年のイノシシ年。弟の葬儀にもだれよりも早く駆けつけてくれた。それからわたしは、花木薫を弟の生まれ変わりだと思っている。
初めて会ったのは、オリエント時計のCMを創るときだ。当時、人気絶頂の歌手中森明菜を起用したCMだった。黒澤明事務所のプロデューサー高橋達也が、「すばらしい演出家がいます」、と紹介してくれたのが花木薫だった。わたしの創ったまずい撮影コンテが気に入らないと、人気歌手がぐずった。花木薫は、彼女の足元にひざまずいて、すがるように口説いてくれた。売れっ子演出家の誇りを捨てている。なにもかも捨てて、スタッフの目の前で、何度も何度も説明を繰り返し、頭を下げ、また説明し、バッタのように頭を下げ続けた。命がけに見えた。仕事とは、こういうものだ。わたしより年は若いが、花木薫を尊敬した瞬間だった。男の生き方を教えてくれた。
その年の11月、弟が死んだ。翌春のためのオリエント時計キャンペーンCM撮影の最中だった。スタジオには桜吹雪が舞っていた。花木薫は、だれよりも弟の死を悲しんでくれた。つきあいは深まった。理屈抜きに永遠の友と決めた。わたしの弟だ。わたしは彼にそう言った。弟と言いながら、わたしがお世話になってばかりだった。テレビCMの仕事がくると、まず相談した。大鵬薬品、ミスタードーナツ、たった2日で創ったみんなの党のCM。CMと言えば花木薫の演出しか頭になかった。撮影は巨匠写真家立木義浩氏に依頼した。撮影が終わると必ず3人で飲みに行った。飲んでただ笑いあうだけの3人だった。当代切っての写真家も、花木薫が大好きだった。埼玉の奥に住んで何時間もかかって帰るというのに、明け方までいつもいっしょにいる。会社経営の下手なわたしを助けてくれる。色を失った枝垂桜の蕾たちが風に揺れても、わたしは立てない。「花ちゃんの死は、だれにも知らせてないそうだ」。松本がぽつんと言った。そういう男だ。巨象のように、だれにも知られずそっと消える。花木薫とは、そういう男だ。そして、その哀しみは巨象以上だ。二年前に肺がんを宣告されても、だれにも言わなかった。「飲みに行きましょうよ」。去年の暮れ、そういう言っていたと松本が告げてくれた。そのときには、もう飲める状態ではなかった。それなのに、そんなことを言う。花木薫とは、そういう男だ。自分のことなんかどうでもいい。いつもだれかのことを考えている。そういう男だ。
一週間後、庭園の枝垂桜は、美しく咲いた。青空の下で、見事に咲いた。来年も再来年も、10年後も、枝垂桜は美しく咲く。だが、花木薫のあの豪快な笑顔とはもう会えない。花ちゃんよう、どうしてくれるんだ、きみはおれの人生において、ただの通りすがりの人ではないんだぜ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/03/24
■  空手部、北へ行く

青春の話だ。その年の夏、われら國學院大學空手道部は、合宿のために札幌に向かった。青函連絡船に乗って津軽海峡を越えた。初の北海道、船上から望む遙かな陸影に心が躍る。
夏季合宿は試合前の強化合宿とはちがって稽古も緩やかである。4日目は休養日となる。「せっかくの北海道、ジンギスカンとしゃれるか」。“マツ”こと花松忠義が言い、高木昭武、三井和男、わたしの4人は市内に繰り出す。狸小路をぶらつき、ビールを飲み歩き、やがてジンギスカンとなった。
「気の利いた店、ねえかな」。本郷の薬局の息子で空手部一の富裕家高木が言う。高木がいればわれらの経済部門は天下無敵、あなたのサイフはわたしのサイフ、いつもながら目一杯に頼る。当の高木はにこにこ顔、長嶋家の一茂くん同様、良家の息子はどこか鷹揚である。わたしは基本的に、奢ってくれる男やお世辞でも誉めてくれる人間が大好きである。
タクシーに乗り、運転手に行き先をまかせる。市内を抜け、深い森の庭園レストランに行く。サッカー場より広い。庭園の隅々まで飾られた提灯が涼風に揺れ、木々の間に間にライトアップされたテーブルが並ぶ。足下の水路に巨大なマスがゆらゆら泳ぐ。網ですくって食べていい。「おしゃれだぜ」。長靴のようなビールジョッキで、まず乾杯。ああ、憧れの北海道。「でっかいどー、ほっかいどー」、三井が叫び、「羊はどこだ?走り回ってないか?」、高木がぐるりと見回す。「いたらどうする?」、マツが言い、「正拳一発、そのまま肉にする」と、高木。幸か不幸か、羊の姿はない。
8人前の肉を頼む。長靴ビールのお替りをする。「マスを食う」。マツが言い、網を手に水路の上に立ち、そのままザンブと飛沫をあげて転落した。「マスをくわえて上がってこい」。「熊じゃねえやい」。驚いて飛んできたウェイターに「いっしょに泳ごうぜ」、マツが水中から笑いかけた。隣の美女3人が腹を抱えて大笑い。ビールを差し入れてくれた。飲めや歌えの蒙古放浪歌。「心猛けくも鬼神ならず、人と生まれて情けはあれど」・・・ああ、天下無敵。空手部用語で言えば、「責任転嫁無敵」。若さとは、素晴らしい。「おお、コク大」・・・母校の歌が北の夜空に響き渡る。と、「おーい、後輩!」。離れたテーブルから声がかかる。「なんだ!なんだ!」。「おーい、後輩!」。見ると数人の男たちが手招きしている。「先輩か?」と三井、「らしいな」とわたし。こんな遠くまできて先輩と出会うなんて奇跡だ。神の思し召しだ。「ゴチになるか!」。伝票を掴んで立ち上がる。
「オッス、先輩ッスか?」「そうよ、こんな所で後輩と会うとはな」。さあ飲め、ほれ食え、その伝票も渡せ。先輩後輩は素晴らしい。長年の溝が、一瞬に埋まる。「歌、歌え!」。「蒙古100万、篝火赤い」・・・三井が大声を張り上げる。思い出すなあ青春、もっと飲め、どんどん食え、酒だ、肉だ。勘定の心配のない飲み食いほどうまいものはない。「最近、医学部はどうだ?」。「もう過去の栄光さ」。ふと、そんな会話が耳に入る。あれ?おかしい。「おい」。わたしはマツの耳元で言う。「うちの大学、医学部あったか?」。「ねえよ」。「ねえよなあ」。稲妻のように不安が閃く。「おお、コク大」と歌ったら「後輩」と呼ばれた。だから先輩だ。だが、コク大に医学部はない。「だいたいわがホク大は」、横の男が言う。なに?ホク大?ホク大だと?北海道大学か? われら國學院大學は、コク大。ホク大とコク大。似てる。「おお、コク大」。コク大がホク大に聞こえる。「おお、ホク大」に聞こえる。われらはコク大、この連中はホク大。先輩ではない。となれば、この飲み食いの勘定はどうなる。伝票はどうなる。「歌え、三井」。その隙に一人づつトイレに行くふりしてフケよう。「砂丘に出でて砂丘に沈む、月の幾夜かわれらが旅路」・・・三井はもうやけくそだ。そして、われらはタクシーで闇に紛れた。ごめん、ホク大。ありがとう、北海道。ああ、青春。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/28
■  本屋さんのある町は、いい町だ

小沢昭一さんが「川のある町は、いい町だ」と言った。わたしは「本屋さんのある町は、いい町だ」と思う。
小学生の頃、西武新宿線下落合駅前に「貸し本屋さん」ができたときは嬉しかった。当時、高田馬場か目白まで行かなければ本屋さんがなかった。本が読みたくて隣町までとことこ歩いて行っても、立ち読みをすると怒られた。怒られないまでもハタキでパタパタ追い払われた。それでも懲りずに本屋さんに通った。父や母に、本を買いたいと言ってもお金をもらえなかった。
本は一年に一度、お正月に買った。付録が山のように付いているお正月号を買うと、世界を手に入れたように嬉しかった。わが家が特別貧乏だったわけではない。本は高いものだった。そんなとき、駅前に貸し本屋さんができた。毎日のように本を借りた。1冊借りて10円しなかった。
わたしは身体を動かすことが好きで、決して文学少年ではなかったけれど、本は特別の存在だった。本を読まないと置いてきぼりにされそうな恐怖心があった。未知の世界の大きさ、広さ、深さ、奇想天外の面白さが全部本のなかにあった。
母に寝ろといわれても、ボストンバッグのなかにスタンドを突っ込んで光がもれないようにし、夜中まで本を読んだ。「おもしろブック」や「冒険王」といった雑誌は、いつも新しい世界を見せてくれたし、江戸川乱歩の探偵小説では、明智小五郎と小林少年が、学校では教えてくれない考え方を教えてくれた。
鞍馬天狗は、正義とはなにかを教えてくれ、弱い者を助ける勇気を教えてくれた。エジソンの伝記ものは、才能とはなにかとか、努力することの大切さを教えてくれた。百科辞典は、世界の不思議に対する解答のすべて教えてくれる知識の宝庫だった。教科書はつまらないけれど、本はなんて面白いのだろうと思った。
やがてスポーツにのめりこんでも、いつもポケットに文庫本が入っていた。新聞配達の報酬をもらうと必ず本を1冊買った。本を買うだけで、頭がよくなったような、正しいことをしたような、嬉しい気分がわいてきた。やがて新宿、渋谷、池袋が活動範囲となったが、どの町にもいい本屋さんがあった。友だちと待ち合わせをするのも本屋さんが多かった。いくら待たされても腹が立たなかった。最も待たされた記録は、高校時代に同級の佐藤光二郎に7時間待たされたときだ。新宿駅東口の二幸前で朝の9時に待ち合わせをし、午後4時に彼は現れた。わたしは、待ち合わせをしていることもすっかり忘れて本を読んでいた。「まだ、いたのか」。光二郎があきれてそう言った。
いま、ネットの普及で本屋さんが激減している。最近、千歳船橋駅前の馴染みの本屋さんが店を閉めた。本好きの店主で、わたしとはテニス仲間だ。立ち話でいつも本の話をした。
ある時期、若い連中がたむろするくらい人気のあった本屋さんだった。「もう無理だな」。彼は言った。「暮らしていけない。所沢に引っ込むよ」。「本屋さんを続けないの?」「本屋は食っていけない。これからなにをやるかなあ。おれ、本しか興味がないからなあ」。さびしく笑った。閉店の日、店の外に鉛筆やノートをダンボールに入れて、町の子どもたちに無料で配った。「これ全部、出版社からのもらい物だよ。出版社にも世話になった」。彼の顔を見て、ふと不安になった。この町は、本屋さんのない町になる。知識の宝庫、文化の拠点、いつでもふらりと寄れる憩いの場所。それが、本屋さんだった。
ネットでは、ふらりと寄って愚痴をこぼすこともできない。血の通う店主もいない。体温のある話もできない。親とケンカした子どもはどこに行くのだろう。
最近、カフェコーナーを創ったり、集えるスペースをこしらえたり、新しい機能と装いをもつ本屋さんががんばっている。嬉しいことだ。街道には「道の駅」があって人気があるが、わたしは、本屋さんが「町の駅」になるアイディアはないものか、とつくづく思う。町の便利な場所にある本屋さんも多い。この一文が、「本好きの人間の戯言で終わらなければいいな」と思う。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
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