高野耕一のエッセイ

2020/02/19
■   『遥かなる山の呼び声』

その夏、上高地でアルバイトをすることになったのは、まさに偶然だった。大学受験に失敗し予備校に通ったが、これがなんとも窮屈でやりきれない。いっそのこと東京を離れようと決め、上高地の山小屋を紹介するという友人の言葉に、列車に飛び乗った。
島々からバスだ。白樺の並木を抜け、大正池を横目で見ながら上高地に到着する。目指す徳澤園は、ここからまだ12キロの山道を歩く。梓川に沿って針葉樹の森を行く。空は青く、高く、山々の緑は、濃い。夏の陽射しだ。日本一美しい梓川の、冷たく、清く、澄み切った流れが左にある。川原に降り、水を口にふくむ。日本一美しい清流は、日本一おいしい清流でもあった。
上高地と徳澤園の中間の明神館という山小屋で一息入れる。女将の話では、運がよければ森で鹿に出会う、という。道は徐々に高さを増し、梓川を下に見る。森に目を凝らす。空を見上げイヌワシの姿をさがす。鹿もイヌワシも姿を見せることはなかった。徳澤園に着いたのは、夕方近くだ。針葉樹の森をぬけると突然、ハルニレとカツラの巨木が聳える草原に出た。草原の奥に瀟洒な山小屋が見える。山小屋には広い土間があり、売店がある。到着したばかりの登山客が荷を解いている。土間に囲炉裏のあるスペースがあり、そこにも数人の客がいる。
彼らはすでに荷を解いた軽装で、囲炉裏の周りに集まっている。売店の横の帳場に男が一人座っている。男はじろりと私を見て、すぐにプイッと横を向いた。痩せた、目の細い、髭の濃い、山男というより猟師のような男で、頭にタオルを巻き、色あせた半纏を羽織っている。オーナーらしかった。私は男に頭を下げ、友人の名前を告げ、一夏の仕事を頼んだ。
男は突然、弾けるように笑い、奥に向かって、「荒さ、由さ」と叫んだ。そして、奥から顔を出した男に、「なあ、荒さ、変なのがきただに、Mの紹介だと」。帳場の男が言い、荒さと呼ばれた男と二人は声を上げて笑った。話を聞くとMは、昨年の夏、アルバイト料を先払いしてもらい、そのまま働きもせず姿をくらましたのだと言う。
「そんな訳で雇う訳にはいかんな。まあ、Mの分を働くというなら、いてもいいがな」帳場の男が言った。
まさか北アルプスのど真ん中で途方に暮れようとは思わなかった。あたりに夕闇が迫っている。見上げる穂高連峰の頂きが黒々と迫ってくる。どうなるのだ。
「若いの」。入口で途方に暮れる私に、荒さと呼ばれた男が野太い声をかけてきた。「もう、日が暮れるだに。行くとこあんめいよ」。私は頷くしかない。「今夜は泊まってけ」。荒さがそう言って節くれだった手で、手招きをする。
翌朝早く、荒さと由さは私を連れて山に入った。シャベルを私に渡し、二人は直径2メートル近くもある大きな丸太を鋸で切り始めた。薪にするのだ。私は1日かけて3メートルほどの穴を掘った。山の仕事は実にシンプルで、清々しい。昼になると、荒さが握り飯を差し出した。三人で穂高を見上げながら、川原で握り飯を食べた。味噌味の握り飯は、なんとも言えないほど美味かった。
「今夜も泊まってけ」。1日が終わると、荒さが言った。そんな訳で私は、一夏を徳澤園で過ごすことになった。3日に一度、上高地まで歩荷に出かけた。山小屋に必要な食料品、日用品を上高地の倉庫から運び上げる仕事だ。リヤカーを使った。「一人じゃリヤカーは使えねえ。二人なら、リヤカー使って三、四人分の荷を上げられる」。荒さが、木の切り株のようないかつい顔をほころばせて笑った。嬉しい言葉だった。上高地までの往復4時間、荒さは山のことをいろいろ教えてくれた。
9月に入るとすぐに東京に帰る日がきた。「約束だ。給料は無しだに。Mの分を返してもらったからな」入口まで出てきたオーナーが、ニコリともせずに言う。
置いてくれただけでも嬉しかった。「これは、オレからの礼だ。学資のタシにすればいいだに」オーナーが白い封筒を差し出した。2ヶ月分の給料より多い金額が入っていた。荒さを見ると、もらっておきな、という顔で笑う。純な山男が、真っ直ぐに生きることを教えてくれた、忘れられない夏だった。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/19
■   『幕末ケチョンケチョン』

「幕末志士の生まれ変わりのあんたには悪いけどね」。未来塾のゲンコ先生が、上目遣いに伊藤さんを見上げた。気を使っているのが、戸惑う視線から読み取れる。
春先の、長閑な居酒屋の午後だ。「バカ徳川、バカ長州、バカ薩摩、おっとごめん、伊藤さんは薩摩だったな、土佐も、会津も、あのバカたちのおかげで、日本は絶好の革命チャンスを潰した。本当の国づくりができなかった。バカ日本の基礎を作っちまった」。目を細くして皮肉っぽい笑みを浮かべる。熱燗を口に運ぶ。「あの二人を除いて、全員バカときた」。幕末の英雄と謳われ、新しい時代を創った連中が、二人を除いて全員バカなのか。
「先生、先生のいう意味が、いまいち飲み込めません」。顔に出さないながらも不服気味の伊藤さんに熱燗を進めながら、そりゃそうだ、と先生は首を振り、「よし、ひとつわかりやすく整理してみるか」と言った。
「幕末はどこから始まった?」。「黒船来航です」。「そこだ、その初っ端から徳川がバカやった」。ゲンコ先生の言い分はこうだ。その前に、先生の言う、「バカとはなんだ」、を規定しておこう。
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物事の全体観を把握できない者を、先生は「バカ」と言う。A自分の利益だけを追求する者を、先生は「バカ」と言う。家康が江戸幕府を開いて260年間、鎖国をはじめ、あらゆるものを徳川一人が決めてきた。一人で天下を平定してきた。260年間だぜ、たいしたもんじゃねえか。それをたかだか4隻の黒船ごときで、腰を抜かしやがった。あたふた腰を抜かして天皇に相談しに行った。「な、バカだろ」。黒船を見たのは初めてだろうが、あんなものはだれでも知っていたよ。そのくらいの勉強はしている。オランダやイギリスの軍艦が、日本の周りをウロウロいるんだ。その腰抜けぶりを見て、長州も薩摩も、「こりゃ徳川はもうダメだわい」と、確信した。そのくせ、天皇を中心とした新体制で、自分がトップになりたいという下心が見え見えだ。自分の利益最優先ときた。天皇と徳川で今後の国の運営をやって行きたい、それが見え見え。長州も薩摩も、カッときたね。だが、こいつらもバカよ。日本全体を考えちゃいない。一国の利益が優先した。バカの揉め事にバカが加わった。革命チャンスが、ただのバカ騒ぎになっちゃった。「長州には松陰がいました」。伊藤さんが言う。「吉田松陰は、日本全体のことを考えていたのじゃないですか」。そうだなあ。先生は、ちょっと考える風をした。「やつはまだマシだったかなあ」。松陰の不幸は、長州がやつを理解できなかったことだ。大きすぎた。松陰に比べれば、木戸も伊藤も、小者も小者、器が小さい。それに、松陰は強引過ぎた。いかに正義であれ、強引が過ぎれば、既存の利権者に潰されるのは自明の理。「高杉晋作や久坂玄瑞も、なかなかだと思いますが」。
伊藤さんが長州をかばう。「小者だ。小さいことには向いている。徳川を倒すくらいの小さいことには向いている。だが、国は作れねえ」。だいたい徳川なんざ放っておいても潰れるんだ。なら、放っとけばいいんだ。先生の言うことが見えた。それをだらだらといつまでも相手にしているからダメだ。そう、言いたいのだ。
内乱は、外国の思うツボ。どうして世界を見据えない。インド、中国が植民地になった。次は、日本だ。「薩摩もバカですか?」。伊藤さんが恐る恐る尋ねる。「バカだ。西郷を活かしきれなかった。斉彬公はよかったがな」。「龍馬はどうです?土佐の坂本は?」。「あんなのただの愚連隊だ」。取りつく島もない。龍馬なんざ、司馬遼太郎が取り上げるまでまったく無名の男よ。
さて、と。ゲンコ先生、ふらりと立ち上がる。「後を頼む」と、手を振って出口に向かう。「先生、二人を除いてと言いましたね」。そう、二人を除いてみんなバカだ、と言っていた。じゃあ、利口な二人は誰なんだ。「先生」。振り向いたゲンコ先生の目が、「それくらい自分で考えろ」と微笑んでいる。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/19
■  日本には『サロン』が足りない

第一次大戦後、1920年代、若き日のアーネスト・ヘミングウェイが、小説家を目指して修行に明け暮れたパリには、世界中からたくさんのアーティストが集まった。
ガートルード・スタイン、ピカソ、エズラ・パウンド、ジェイムズ・ジョイス、そして、すでに「華麗なるギャツビー」を発表していた早熟の天才フィッツィジェラルド。
彼らは、夜な夜なカルチェラタンのカフェにたむろし、芸術論を戦わした。いわゆる『サロン文化』だ。とにかく、だれもかれもが天才だ。戦争、政治、経済、宗教、芸術、人間のこと、生命のこと、すべてが極めて高度な話になる。
高度な話とは、どういうことか。それぞれが学びに学んで身につけた全知全能をさらけ出し、ぶつけ合って、話題の『本質に肉薄』する。『物事の本質』に迫る。話し合いとか打合せとか会議に最も必要なのは、この『本質』なのだ。『いかに本質に迫るか』。
ところが、これは、日本人が極めて不得意とするところだ。いまもって、「言わなくてもわかるだろう」とか、「ツーと言えばカー」が通用すると思っている昭和残党連もいる。肝心なことを言わない。物事の本質に迫ろうとする「もう一歩」が足りない。人がいいのか。だが、もはや、そんなことを言っている段階ではない。
日本人が、押し寄せるグローバルの潮流に適切な対応ができないで、世界各国の顔色を伺いながら経済援助をすることくらいしかできないのは、物事の『本質を見極める力』がないからだ。そういう勉強をしていない。
さて、このような『サロン』は、中世ヨーロッパの貴族たちの社交空間から始まったと言う。いわゆる上流階級の面々が、茶や酒やうまい料理を揃え、音楽家に曲を作らせ、ピアノを弾かせ、詩人に詩を読ませ、画家に絵を描かせ、芸術文化の追及から人間の追及にまで及んだ社交空間、それが『サロン』だ。
みんな、貴族だ。だれもが高度の教育を受けている。教養も身につけている。それをぶつけ合い、磨き合う。これは、興味深い。
そこで、5年ほど前から、渋谷のある会社で『サロン会議』を開いた。政治、経済、文化、時事、テーマはその時に応じて自由に設定し、それぞれが「自分の意見」をぶつけ合う。もう一歩、『本質に肉薄』する。異業種から参加者を求め、人数は10人までとした。以前から、いろいろな外資系企業の仕事で、アメリカ人やドイツ人、イギリス人と会議をしたが、「自分の意見」を相手にぶつけないと仕事にならない。だから、それは特殊なことではないが、実際に実行してみないとこれがうまくいかない。
日本人は、なかなか本音を言わない。相手を思いやるからだ、とか、そのほうが物事が円滑に進む、とか、言い訳っぽいことを言って、本音を言わないのだが、実は、つまらないことを言って、なんだこの程度の人間なのかと見透かされることが恐いのだ。きっと、そうだ。
昔、バカ殿がいて、喋るとボロが出るから喋らせないようにした。そこでできた諺が「沈黙は金」。いまどき通用しません。なんでも、自分の意見をどんどん言う。そして、バカだったら、勉強すればいい。愚かだったら、本を読めばいい。それだけのこと。最も悪いのは、バカがバカのままでいること、愚かが愚かのままでいること。勉強すればいいだけのことなのに。そういった風土を築く方法の一つが『サロン』だと思う。
いま、渋谷を拠点に、西早稲田と原宿の企業で『サロン』を展開している。トップの方々はもちろん、営業の最先端で戦う人たちも、『本質を掴む力』を身につけることで、他社との差別化に成功している。
時代が大きく変わりつつあるいま、なにもしないでいると取り残される。そういう企業も多い。代々続いている企業には、わかっているけどできない、とか、どこから手をつけていいのかわからないという会社も多い。なにも大仰なことをする必要はない。まず『サロン』をお始めください。会社のなかに眠っているたくさんの埋蔵金の発掘から始めればいいのです。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/18
■  『見たことのないコミュニケーション』が始まった

『見たことのない戦争』が、始まった。その朝、ベッドで新聞を広げていたら、この衝撃的な文章が目に飛び込んできた。
文藝春秋の広告、特集のタイトルだ。『見たことのない戦争』って、なんのことだ。早速駅前の書店で文藝春秋を買うと同時に、ふと思う。『見たことのない戦争』という言い方、その視点を、自分がいるコミュニケーションの世界に置き換えてみよう。『見たことのないコミュニケーション』。そうなのだ、いま、コミュニケーションもまたこれまでに見たことも会ったこともない状況に置かれている。切実に、そう思う。とくに、マスコミュニケーションは、崩壊とも言えるほどの打撃を受けた。歴史的に見ても、マスコミュニケーションの大変革は、これまで二度あった。
一度目は、1450年、グーテンベルクによる印刷機の発明とそれにともなう印刷物の普及である。それまで口伝であったり、個人的な教育でしかありえなかった世界に、印刷物の普及にともない集団教育が可能となって、一気に学校が広まった。これが、第一回目のコミュニケーションの大改革だ。印刷機ができなかったら、新聞さえできなかった。次は、電波の普及によるラジオ・テレビの発明・普及である。日本では、ラジオは1925年、テレビは1927年に始まったとされているが、これも世相を大きく変貌させた。価値観を根こそぎ変えてしまった。マスコミュニケーションは、「群衆」というとんでもない価値観を生み出し、自由競争市場に拍車をかけ、企業格差はどんどん拡大していった。大量生産大量販売が繁栄の条件となり、時代の美徳となった。もはや、産業革命である。ブランドイメージ、企業や商品の信用・信頼は、新聞・ラジオ・テレビといったマス媒体の圧倒的な力によって、確実なものとして築かれた。
テレビ・ラジオ・新聞に登場する企業・商品は、絶大なる信用・信頼を獲得した。これが、第二回目のコミュニケーションの大改革だった。信用・信頼が、金で買えたのである。そして、第三回目の大改革、ネット時代が到来した。この改革は、とんでもない現象を生み出した。まず、ローソクの火を吹き消すように、マスコミュニケーションをいとも簡単に吹き消した。東西ドイツの壁を破壊するように、「マスとパーソナルの壁」を一瞬にして破壊してしまった。どんなに信頼されている企業も商品も、ある一人のだれかのネットによる世界配信で、「すべてが水泡に帰す」という恐るべき現象が起きた。それが、事実か虚偽かは不明のままに、ニュースは世界を駆け巡るのだ。たった一人の力で、大企業さえも危機に陥れることができる。もはや、新聞・ラジオ・テレビというマス媒体に大金をかけて、信用・信頼を築こうなどと考える企業がいなくなってしまった。とにもかくにも、企業は自分を守り、社員を守るためにコンプライアンスに走るしかない。そこで、あれだけ力をもっていた、新聞・ラジオ・テレビのマス媒体は、新たなる役割と、新たなる料金体系を構築するしかなくなった。その凄まじい大改革を理解・認識できない媒体は、消える運命にある。かく言うわたしも古き良き昭和の残党、消える運命にある一人かもしれない。だが、生き残るためのわずかなる光明は、見えてきた。数人の賢い仲間たちと時代の価値観を、右往左往しながら探っているが、「マスとパーソナルの壁の崩壊」後の価値観、そのヒントがどうやら見えてきた。まず、わたしたち古き昭和残党がやることは、「すべてが新しい時代なのだ」と覚悟を決めることから始めるしかない。そこから入るしかない。そして、時代を貫く大事なものは、なにか。地域を貫く大事なものは、なにか。年齢・性別を貫く大事なものは、なにか。現在から未来を貫く大事なものは、なにか。そういった「物事の本質」を把握しなければ、新しい時代の潮流にただただ流されてしまうだろう。『見たこともないコミュニケーション』は、はたしてどこへ向かっているのだろうか。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/18
■  提督は、謎の海に眠る

1519年秋、コバルトブルーの空、さんさんと陽光降り注ぐ午後だ。277人の男たちを乗せた5隻の船団は、サンルカル港を出航し、人類初の世界一周航海に向かった。
旗艦トリニダッド号で指揮をとる提督は、すぐれた航海家であると同時に、すばらしい統率力の持ち主だった。それでも、3年後に帰港したのはわずか1隻にすぎない。そして、帰港した船に提督の姿はなかった。海の果てで、いったいなにが起こったのか。どれほどすぐれた提督といえども、世界一周の航海などやはり無謀だったのか。
海は、人間がすべての英知と力を尽くしても、やはり手に負える代物ではないというのか。もはや500年前のこと、それらの真実はあまりに遠い。ましてや歴史に残る大偉業を目前にして死を選んだ提督の気持ちなどわかりようもない。それは謎に包まれ、深い時の海底に眠ったまま、だれにも揺り起こすことなどできない。だが、そこにふつふつと冒険魂を突き動かす壮大なロマンを感じるのは、わたしだけだろうか。
当時、ポルトガルとスペインは、決して友好的な関係ではなかった。むしろ反目し合っていた。提督は、国王の命を受けた忠実なポルトガル人だったが、部下の船長たちはみなスペイン人だった。港を出た船団は、テネリフェ島に立ち寄るとアフリカ大陸を回り込んで南に向かった。やがて赤道無風帯にさしかかったが、提督は、船団をそのまま南に向けて航行させる。
「おかしいじゃないか」。船長たちは口々に言い、進言する。「やっぱりポルトガル人のやることは不可解だ」。「狂ったんじゃないのか」。提督は、頑として耳を貸さない。当然だった。提督は、この航海が世界一周を目指すものだとだれにも告げていない。だれもが、「香辛諸島(モルッカ諸島)に出かけてひと稼ぎしよう」という程度の連中ばかりだった。たしかに、世界一周など正気に沙汰ではなかった。
提督は、赤道無風帯を抜け、南米大陸を目指した。リオデジャネイロからサンフリアンを巡り、エルパスをすり抜けて西に舵を取り、太平洋を疾走してセントポールズ島に向かう。セントポールズ島を経由してグアム島を目指す。グアム島からフィリピンを通り香辛諸島にたどり着く。提督は、完璧にそのコースを計画していたわけではない。完璧な計画を立てるなど至難の技だ。
襲いかかる想像を絶する嵐、食料も水も尽き、見えるのは途方もない青い水の砂漠だけだ。島影一つ見えない。疲弊するクルーたち。必死の思いでたどり着いた島では、異教徒たちが武器をもって待ち受ける。だが、提督の航海術は見事なもので、おまけに勇敢で、強運の持ち主だった。部下たちに的確な命令を下し、苦難の一つ一つを死に物狂いで越えていった。提督でなければできないことだった。反目するスペイン船長をはじめ乗組員たちも一目を置き、畏敬の念さえ抱いていた。それでも船長たちは、提督の暗殺を企て、何度も命を狙う。一度も成功はせず、逆に数人が処刑された。
行く先々の島、たどり着く国の人々を洗脳し、キリスト教を広め、植民地にする。それが国王に誓った提督の野望だ。
不幸は、フィリピンで起きた。フィリピンの異教徒の戦士たちに提督は、少ない人数で戦いを挑んだ。船長たちは、援護をしない。見て見ぬふりを決め込んだ。多勢に無勢。上陸したもののたちまち浜辺に追い詰められた提督に、一団の戦士たちが襲いかかった。足を三日月刀で切られ、水中に倒れ込んだ提督の顔や体に何度も何度も槍が突き立てられた。提督の遺体はそのまま放置され、やがて海に消えた。
提督、海峡にいまもその名を残すフェルナンド・マゼラン。絶対に勝てない戦いと知りつつ、なぜ、自ら死地に赴いたのか。3年もの地獄の日々を乗り越え、大偉業を目前にして、なぜ、死ななければならなかったのか。疲れ果て、正常な心を失っていたのか。それとも、「男はロマンに生き、ロマンに死ぬ」、とでも言いたかったのか。もはや、遥か彼方のマゼランの真実を知る者は、だれ一人としていない。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/18
■  惜春鳥

50年の歳月が流れた。人は変わり、街は変わった。
ある春の日の午後だ。三人の男が、渋谷にいた。傾き始めた陽光が、ハチ公に注ぐ。この街は、青春の日々を過ごした想い出の街だ。
長崎に住むYの上京を機に次呂久英樹と青木勝彦が駆けつけ、旧交を温める酒宴が開かれた。午後の酒が、至福の時間を与える。すでに孔子のいう玄冬の齢に達しているが、この三人、そんじょそこらの年寄りとはわけがちがう。この齢でなお、真っ直ぐに物事を見る少年の眼差しをもつ。正面から相手に対峙する純な少年の好奇心が息づく。
磨かれた明鏡の魂は、もはや死語となる「正義」を重んじる。大人の知性を身につけているのだ。「少年の眼差しと大人の知性」を併せもつ。そこがちがう。少年という言葉に甘える偽ロマンチストではない。毅然たる大人の信念、「正義」という確固たる信念をもつ。その裏づけは、武道だ。
武道家の彼らは、武道によって道を究め、人間形成をはかる。沖縄県西表出身の次呂久は、若き日、Yとともに渋谷にある國學院大學の空手道部部員として、多感な魂と吹き上がる熱情を、拳に託した。
柔道家だった青木は、日本武道館に勤務し居合道に邁進した。九武道を学び、そこに道を求めた。大学同期の彼らはウマが合った。波長が合い、価値基準に近いものがあって、互いの心が読めた。心の奥底で深く通じ合うものがあった。それが、この上ない喜びだ。
真の友情は、理屈を超えて存在する。昔、行動はいつもいっしょだった。笑うも泣くも怒るもいっしょだった。稽古が終わると渋谷に出て、飢えた魂をネオン街に解き放った。いまに比べて当時の渋谷は、なにもかもが明快だった。善は善であり、悪は悪だった。ヤクザとか愚連隊と呼ばれる連中は、一目でそれとわかる格好で街角を闊歩し、不良を気取る堅気衆に鋭い眼を向けた。悪ぶる学生は目をつけられた。不良をやるにも度胸が必要だった。
東京オリンピックには間があり、上空に高速道路はなく、新幹線は走っていない。1ドルは360円。自由に海外旅行はできない。沖縄はまだ返還されておらず、次呂久は東京に出てくるのにパスポートを必要とした。
「白鳥」や「田園」や「ジロウ」という純喫茶があり、そこが学生の溜まり場で、コーヒーは100円だった。酒は、焼酎か合成酒だった。ビールや日本酒は値段が高く、手が出なかった。合成酒とは、自然素材を使わず化学で作られた酒だ。一合25円だった。梅割り焼酎も一杯25円。焼き鳥は、5円か10円だ。合成酒を二合飲み、焼き鳥を五本食べて100円で足りた。
道玄坂の途中に恋文横丁があって、間口の小さなラーメン屋が並んでいた。ラーメンや餃子や炒飯が、150円だった。店主は中国人が多かった。いかがわしいバーがあって、けばけばしく心やさしいお姉さんがラーメンを奢ってくれた。
この街で、三人は若気の至りの日々を送った。善にも悪にも、がむしゃらにぶつかった。バンカラという言葉が生きていた。ヤクザともつきあった。狂った野犬がそうするように、強い相手を求めて放浪した。つまずきと挫折をくり返し、友情は深まった。口には出せない伝説が、ネオンの下で数多く生まれた。
Yは、故郷長崎に帰り、教職についた。名門と謳われる東西南北の名のつく4高校で、教師として力を注いだ。専門は日本史だ。空手を教えた。人間として見事に成長してほしい。思いはそこにあり、多くの人材を育成した。
次呂久は、母校の空手道部監督を務め、部を全国優勝に導いた。静岡県焼津に道場をもち、指導を行った。空手本来の強さを求め、基本の突き蹴りにこだわる指導は、時代に媚びることをしない。
青木は、いまも日本武道館と国際武道大学の理事を務め、求道と育成の手を緩めない。日本の未来は、市井のこんな賢人たちが握っている。迷走する日本に必要なのは、彼らの抱く信念だ。
「惜春鳥」。懐かしい青春の街で時空を逍遥する三人の男に、映画監督木下恵介が自作映画のために創った美しい言葉が、胸によぎった。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/18
■  筑波山麓稲作紀行

育苗は春4月、20日間かけて行われ、10センチに伸びた苗は、5月になると水を張った田に植えられる。
ゴールデンウイークになるとあちこちで田植えが始まる。まだ幼い苗は、梅雨に晒され、熱い夏の陽射しをくぐり、気まぐれな風雨にも、乱暴な台風にも負けずにたくましく成長し、80日後に稲穂が出る。その後40日で刈取りだ。苗から始まって約140日をかけ、9月にめでたく稲刈りとなる。
田植えがしたい。大地の神秘の生命を、直に感じたい。人間の論理が及ばぬ、もっとも原始的でもっともリアルな地球の生命を、この体で感じたい。
茨城出身の妻に、田植えの手伝いができる農家をさがしてくれ、と頼む。また、気まぐれが始まった。妻は、仕方ないわねと苦笑し、「せっちゃんに聞いてみる。ほら、知ってるでしょ、二高の同級のせっちゃん、つくばの農家の」と言う。妻が「せっちゃん」と呼ぶ久保田節子さんの家は、つくば市松塚に代々伝わる大きな農家だ。手伝いというより、邪魔をしに行くようなものだが、「どうぞ」という返事をくれ、ご主人も快く迎えてくれるという。
都会に住む者には田植えは貴重な経験だ。子どもたちに農業体験が流行っていると聞く。大事なことだ。鯛もマグロもスーパーの裏の水槽で、切り身で泳いでいる、と子どもたちは思いこんでいる。そんな笑い話があるほど、生命の神秘やリアルな生命からどんどん遠ざかり、生命への感謝がどんどん薄れている。
まさか米がビニール袋に詰まって空から降ってくると思っている子どもはいないだろうが、農家の苦労、苦闘を知る子どもはいまや少ない。息子にも体験をさせよう。5月の土曜日、息子と愛犬チュウとともにレンタカーで茨城に向かう。妻は、前日に荒川沖の実家に先に行っている。実家には、妻の長姉の妙子姉さんがいる。ご主人の茂さんは療養中だ。妙子姉さんの長女真実ちゃんがくる。長男基幸とつくばの彼の家で会う。
基幸自作の優雅なテラスでコーヒーを飲む。目の前に田園風景が広がり、暮れなずむ筑波の夕景にまどろんでいると、突然雉の声に驚かされた。雉の声は水田をすべって驚くほど大きく響き、辺りの空気を切り裂いた。
翌朝、せっちゃんの案内で田に向かう。筑波山を北に望み、青く深い空の広さと、視界の果てまで広がる田園風景の美しさに言葉もない。山が生きている。空が生きている。風が生きている。土が生き、水が生き、木も草も花も喜々として生きている。なによりも、人が生きている。三菱製の赤い田植え機に乗って作業を始めていたご主人が手を止め、畦で迎えてくれた。
「今日は、5反の田に苗を植えます」。広い田を指差しながら、なに簡単です、といわんばかりにニコリと笑う。田の面積は、1反が約1000uだから、5反は約5000uだ。「あそこからあそこまでですね」。
まるで見当もつかない。6条植えの田植え機で往復しながら、1uに約22株の苗を植える。5反5000uには、110000株の苗を植えることになる。1株に穂は20ある。1つの穂に80の米粒がつく。1株で、20穂×80粒だから、1600の米粒ができる。5000uだと、176000000粒の米となる。想像を絶する。
ご飯茶碗には、約3200粒の米が入る。つまり、茶碗1杯のご飯3200粒は、2株の苗でできる。1uで22株だから、茶碗11杯分の米ができる。という計算からすると、今日は、茶碗55000杯分の苗を植えることになる。
息子が田植え機に乗る。病み上がりのわたしは、妻と二人で畦に座って息子を眺める。息子は、いきいきと働いている。借りたゴム長靴で田に入り、泥まみれで苗を植える。大地の生命と語り合うその姿は、地元の青年団のようだ。田園風景が板についている。
「都会より、田舎のほうが似合うなあ」。妻に言う。妻も肯きながら、苗を担ぐ息子の姿を嬉しそうに見つめる。人には、その人にふさわしい場所がある。そこでは、いきいきと生きられる。それが、自然というものだ。無理をすれば歪が起こる。自然に生きろ、ゆっくり生きろ、と他人に言いながら、わたしも無理を繰り返してきた。
「つくばに引っ越してきなさいよ。お金もかからないし」。帰る前にそうすすめてくれたのは、ゆう子姉さんだ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/18
■  拳の握り方

今回は、大学空手道の現場からの報告です。
空手は、「突き、蹴り、受け」の3つの根本技から、全身を武器とし、無限の技を生み出す戦闘技術である。攻撃は、手足を駆使する「突きと蹴り」が主となる。そこで、「拳」が極めて重要となる。
ちょっと視点を変えてみる。わが国の武士たちは刀を磨きあげ、殺戮の道具である刀に高度な精神性を注入することで、「魂」にまで昇華させた。その結果刀は、武士道とともに、世界に誇るべき極めて優れた日本精神の象徴となった。
世界のどこの国、どの民族を見ても、殺戮の道具を「魂」にまで昇華させたものはいない。世界に冠たる日本の精神性の高さが、刀には内包されているのである。空手において、「拳」こそが武士における刀と同等の立場にある。
「拳」は、戦いを決する究極の道具である。そこで、空手に生きるものたちは、寸暇を惜しんで「拳」を鍛える。いま目の前の道場で、大学空手道部の学生たちが汗を流している。真っ直ぐに、目の前の仮想敵に向かって、拳を突き出している。
「甘いぞ」。監督、コーチ、指導者の鋭い声が飛ぶ。「拳の握りが甘い」。鋭く、強く、何回も何回も指摘する。かつては時間が許す限り、巻き藁を叩いて拳を鍛えたが、いまではサンドバッグやミットを相手に拳を鍛える。「いいか、小指をしっかり締めろ。拳は、小指だ」。指導者が叫ぶ。拳の握り方はこうだ。
まず、小指をしっかり締める。小指を締めたら、次は薬指だ。薬指は、小指に添える気持ちで握る。力は、どこまでも小指に集中させる。そして、中指、人差し指と順に握っていく。拳で敵の急所に当てるのは、人差し指の付け根の節骨と中指の付け根の節骨、それに人差し指と中指の第二関節、その四箇所だ。
なかでも、人差し指の付け根の節骨を最も強く標的に当てる。中指の付け根の節骨も重要だ。だが、人差し指の付け根の節骨を最重要と考え、それを意識して拳を突き出す。親指はしっかり折りたたんで、人差し指の第一関節と第二関節の中間を押さえ、拳全体を硬く引き締める。
拳全体の力は、小指にあることを常に忘れてはならない。これを忘れると、拳がゆるむ。甘くなる。石のように硬い拳、岩をも砕く拳は、拳ダコといわれる人差し指と中指の、鍛え上げて軟骨を潰して固め、硬いタコとなった付け根の節骨にあるが、拳の根本の力は、小指にあることを常に忘れてはならない。
その上で、必要以上の力は抜く。また、拳を突き出すときに大事なのは、手首だ。手首の角度だ。突き出した腕の力のすべてがムダにならないように、手首は、上向いてはいけない。横を向いてはならない。曲がってはいけない。手首は、むしろ下を向くくらいに締めたほうがいい。突き出した腕の骨の最先端に直結して拳ダコつまり標的に当たる部分があると考え、真っ直ぐに、一直線に、一本の棒となるように意識する。
丹田から発した力のすべてが、一切のムダなく、効率よく拳の先端まで速やかに移動し、拳の破壊力を最大にするのだ。
このように武器としての拳を固めたら、次にすることは、拳に「魂」を注入することだ。くり返していうが、刀が武士の「魂」であるように、拳は、空手家の「魂」なのである。高い精神性を持たせなければならない。道場と大会以外、戦いの場以外では、拳は絶対に握ってはならない。孫子の兵法がいうように、戦うのは戦場だけであり、そこではなにがなんでも勝利に向かうべきだ。
だが、人生における最善の勝利は、戦わないことである。それを肝に銘じる。直真影流免許皆伝の腕を持ちながら、刀の柄と鞘をガリガリと針金で巻き、絶対的平和主義を貫いた勝海舟に見習うのだ。
拳の魂、それは、武士道にある「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」の7つのキーワードにヒントがある。これをしっかり学ぶことだ。拳の究極、最も重要なのは、「魂」であることを忘れてはならない。「拳が甘いぞ。小指を締めろ」。監督の声が道場に響く。窓の外の清々しい初夏の大空を、一筋の雲が北に流れる。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)

2020/02/18
■  生命の尊厳、それにともなう悲哀

翼に傷を負ったイヌ鷲が、保護されて治療を受けた。治療の甲斐あって、日に日に回復した。ところが問題が一つ生じた。餌を食べないのだ。飼育員は頭を抱えた。傷は回復したが、めっきりと体力が衰えた。だがある日、ついに耐え切れずに餌を口にした。飼育員は、胸をなで下ろした。「もう大丈夫。大空へ帰そう」。専門医が飼育員に言った。そして晴れた朝、檻の扉が大きく開かれた。懐かしい大空と美しい緑の森を、イヌ鷲は見た。檻の中から、じっと見上げた。だが、その大きな翼を広げることはしなかった。大空と森を懐かしく見上げるだけだった。
それから数週間、二度と餌を口にすることなく、檻の隅にうずくまったまま、イヌ鷲は死んだ。
「傷は治っていたのだが」。専門医は首をかしげた。飼育員はこう考えた。大空の勇者、イヌ鷲ほど誇り高いものはいない。人間の手から餌をもらい、口にしたあの瞬間、イヌ鷲は死んだにちがいない。イヌ鷲の誇り高き魂が、あの瞬間に死んだのだ。
曇りのない大空、純粋な森、清廉な川、それらの中へ、人間の文明に汚れた手から与えられた餌を一度でも口にした不純な自分は、もはや帰ることはできない。そう思ったにちがいない。生きる誇りを捨てたイヌ鷲は、自ら死を選んだ。そう思うと胸が熱くなった。生命の切なさが胸を打った。
だが、動物は自殺をしないものだ。与えられた命を精一杯に生きる。一生を、迷いなく生き抜く。命とは本来そうしたものだ。
熊も鳥も、野菊もタンポポも、細菌だって、命あるものはすべて、その命を全力でまっとうする。それなのに、人間だけが自殺をする。
生物学上人間は、動物に分類される。だが、いつしか自分だけは特別な存在である、と恐るべき誤解が始まった。動物であることを忘れ、自分を神のように思い始めた。さらに悪いことには、人間は、人間だけの都合で生み出す理由で自殺をする。
お金の問題、恋愛、裏切り、見栄、他人には取るに足りないが本人には深刻な人間関係。すべて人間が人間生活の中だけで勝手に踊っている。荒野の狼や草原の花々にはありえない理由で、人間は死ぬ。
人間がもつ知性と理性は、他の生物にはないすばらしい才能だが、惜しむらくはこれを磨かない。磨かなければ、知性も理性もただの屑だ。知性や理性から生まれる品格こそ、人間社会には欠かせないものだ。わたしは、「動物度・人間度」という言葉を使う。動物であり人間である人間は、この両方を見事に使うことで優秀な生物となる。幸せはそこにある。
まず、動物として、一生を力一杯生き抜く。そう決める。そして人間として、知性と理性を磨き、一生を生き抜く。「動物度・人間度」で重要なのは、バランスだ。必要なとき、必要に応じて発揮する。
静岡県島田に友がいる。長年教職に携わり、校長まで務めた熱き教育者、名を暮林和宏くんという。大學空手道部の後輩で、聡明で野性味に溢れ、実に好感のもてる人物だ。なによりも物事を真っ直ぐに見る目と清廉な心が見事である。
「先輩、いじめはなくなりません」。暮林くんは、送ってくれた教育論の中でそう言う。「大人の世界にいじめがある以上、こどもの世界だけなくせというのは無理な話です」。暮林くんとは、いじめの問題、教育論を交わす。
日本には、仏教哲学がある。神道思想がある。武士道という世界に冠たる人間学がある。学ぶべき教材は豊富だ。だが、大人もこどももそれらを学ぼうとしない。大人たちは、こどものままで大人になる。口先だけが達者になる。その間も、テレビからいじめのニュースが流れる。担任の教師と学校は、責任転嫁に必死である。
真っ向から問題に立ち向かうことをしない。逃げる。たしかにこれではいじめはなくならない。一人一人の生命をどう考えているのだろうか。生命の尊厳をないがしろにしていないか。知性も理性も感じない。品格もまったく感じない。生きることへの誇りと悲哀、生命の尊厳を、信州大町のイヌ鷲が教えてくれた。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/13
■  金色の山、銀色の川

記憶の一ページ目に、山と川がある。それより前の記憶はない。いくつか思い浮かぶ光景もあるが、どれをとってみても、まさしくこれは記憶だと言い切れるものではなく、後になって聞いたものかも知れない。
広大な大地が、足下から広がっている。大地は緩やかに下りながら、視界の果てまで続いている。アジアの奥地の大草原のように、それは限りなく広い。距離にすれば、10キロ以上続いているのだろう。
大地のほとんどが野菜畑と果樹園と桑畑で、夏になると一面の緑に覆われた。所々に、濃かったり薄かったりの茶褐色の荒地や枯れた草の色をした空き地が見えた。小さな林もいくつかあった。民家はほとんどなかった。ポツンポツンと見える民家は、大地のシミのように見えた。
神社の屋根は、民家よりも大きかった。火の見櫓も見えた。小さな林も、民家も、神社も、火の見櫓も、片付け忘れた玩具のように、小さく、秩序もなく、寂しげだった。人の気配はなかった。
山々は、視界の果て、大地の尽きる所に突然立ち上がっていた。果てしなく広がる大空のキャンバスに向かって、峰々は挑むように立ち上がり、一枚の絵画のように、悠々と自信に満ちて連なっていた。
朝早く、生まれたての光を浴びると、峰々はまるで自分が光を発しているかのように、美しく、神々しく輝いた。海抜2000メートルから3000メートルの山脈、中央アルプス。それは、神々の棲家だった。
輝く山々の麓に、墨絵のように霞む里山があった。あるものは高くあるものは低く、子どもが作る丸い砂山のように、幾重にも連なっていた。里山は輝く山々とちがって、人の暮らしの匂いがした。
里山のすぐ下に、蛇のように蠢く一本の銀色の筋があった。それは、生き物のようにくねくねとくねって輝いていた。伊那谷の底を流れる天竜川だ。太めの糸ほどに見えるが、明らかに命あるもののように見えた。
人には、だれにもそうした記憶のはじまりの一ページがあるのだろうか。そうして刻まれた風景を、原風景と呼ぶのだろうか。
長野県下伊那郡座光寺村北市場、母の実家である。父が、28歳で戦争に狩り出され、22歳の若い母と1歳か2歳の幼い私は、戦禍の迫る東京を離れて疎開した。
山と川と、陽光降りそそぐ大地は平和であり、そこには戦争の「せ」の字もなかった。村人たちもほのぼのと野良仕事に精を出していた。母も朝早く、私が目覚める前に、畑や田んぼに出かけ、一日中働いていた。だが、村には若い男がいなかった。果樹園にも田んぼにも、若い男の姿がなかった。腰の曲がった男たちと、女ばかりの村だった。それが戦争だった。
幼い私は、戦争などまったく知らなかった。父がいないことも、時々不思議に思ったものだが、近くの小川で遊ぶ日々に、父のいない寂しさを感じることはなかった。
ただ、母から、「はい、父ちゃんにご飯をあげておいで」、と言われ、よちよちと広い部屋を歩き、部屋の隅に置かれた父の茶色い写真の前に茶碗を置いてくる時だけが、父を感じる時だった。
実際の父は、戦場で銃を撃ち、私の父は、茶色の写真のなかで笑っているのだった。
毎日毎日、近くの小川で遊んだ。遊び相手はいなかった。家には、祖母しかいなかったし、村の子どもたちの姿もなかった。ある時、子どもたちの姿を見つけ、嬉しくなって走り寄ると、「疎開ボーズ東京へ帰れ」、と言われたが、意味がわからなかった。
小川のカニや小鮒と遊んだ。水車小屋の横にあった豚小屋の豚と遊んだ。いつも一人で遊んだが、寂しいとは思わなかった。寂しい時は、家の裏庭にある柿の木に登って、金色に輝く山々と銀色に輝く川を眺めた。
山の向こうには、東京があって、いつかそこへ帰るのだ、と思っていた。それは、母に聞いたからそう思ったのだろうか。いつも、輝く山の向こうの、東京の空を見上げていた。東京下町生まれ、東京育ちの江戸っ子ながら、私は田舎モンだ。それは、信州の山と川、小川のカニと小鮒のせいだろうか。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
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