高野耕一のエッセイ

2020/02/21
■   のたりのたりの蝉時雨

7月の声を聞くと、待ってましたとばかりに猛暑が突然襲ってきた。「この分じゃあ、山は火事だんべ」という落語のセリフを思いだしながら、渋谷交差点の真っ青な空を恨めしげに見上げる。そして思う。ああ、どうやってこの暑い夏をやり過ごそうか。とにかく山は燃え、脳みそも溶けそうだ。だが、逃げてばかりいても埓があかない。こうなれば反撃だ。攻撃こそ最大の防御なり。
わが國學院大学空手道部伝統の精神で、攻撃に転じよう。開き直った。できる限りの防御を施してからの攻撃だ。でも、暑さに攻撃するとはどういうことだ。暑さに対する攻撃とはなんだ。そうだ、夏を楽しんでしまえばいい。この暑さを逆利用して楽しむことだ。それが攻撃だ。そう決める。かといって、豪華客船で地中海クルーズに出かけるとか、軽井沢の別荘でひと夏過ごすとか、そういった富裕発想の楽しみ方はまるで浮かんでこない。金をかけずに夏を楽しむ。
下落合の職人の倅の貧しい発想しか浮かばない。下落合貧困発想では、どうすれば夏の暑さを楽しめるのか。そうだ、とにかく、まず朝顔を買おう。朝顔を買って、テラスで咲かせてやろう。
仕事帰りに渋谷のバス停前の花屋で朝顔を買う。妻の分と息子の分、二苗を買う。200円。安い攻撃だ。犬と亀とわたしの分は買わない。テラスが狭い。枯れた。朝顔は、すぐ枯れた。なぜか、すぐ枯れた。どうしてだ。妻は、枯れた理由などまるで考えずに、あっという間にテニスクラブの脇に咲く朝顔の苗をもって帰る。こいつが元気でぐんぐん伸びる。ぐんぐん伸びて、ぱっぱと花が咲いた。皮肉か。理屈抜きの女性の感性にはかないません。
ある朝5時に起きて数えてみたら29輪の花が咲いて、にこにこ笑ってこっちを見てる。それは、妻の勝ち誇った笑顔のようで、かわいいけれどなんか腹が立つ。いやですねえ、女性に対する男の本能的な嫉妬かなあ。
8月に入った月曜日。暑さはさらに厳しい。新宿歌舞伎町、花園神社にいる。夕暮れだ。西の空が赤く染まっているが、上空には青味が残っている。参道の灯篭に灯が点った。暑い。空気がドヨンと澱んでいる。参道の石畳は焼肉の鉄板だ。その上を歩くわたしは、カルビだ。簡さんとの約束は7時だから、まだ小一時間ほどある。日本生まれで台湾国籍をもつ簡さんは、NPOや社団法人の運営に関わり、アジアとの太い架橋となっている。今日、その簡さんに会って「気功」の講義を聞く。まだ時間がある。カルビのわたしは、こんがりと焼けながら石畳の鉄板の上を漂い歩く。そこで、ふと浮かんだのが、「ひねもすのたりのたりかな」という句だ。なぜかはわからない。ふと浮かんだ。与謝蕪村は、「春の海、ひねもすのたりのたりかな」という名句を生んだ。「のたりのたり」、いい言葉だ。ドヨンの中で、「のたりのたり」という言葉が浮かんだ。でも、蕪村の「のたりのたり」は、春だ。わたしの「のたりのたり」は、夏だ。猛暑の花園だ。海ではない。繁華街のど真ん中の神社だ。だが、気分はまさに「のたりのたり」だ。
そこで、句に挑戦する。溶けかかった脳で句を詠む。「夏の宵、ひねもすのたりのたりかな」。まんまだ。それに「ひねもす」ではない。たかが小一時間の逍遥だ。そこで、こうする。「夏の宵、のたりのたりの石畳」。石畳を入れたが、「夏の宵」が当たり前すぎてつまらない。
これはどうだ。「蝉時雨、のたりのたりの石畳」。だめだ、「蝉時雨」がきれい過ぎてつまらない。では、これはどうだ。「蝉宵や、のたりのたりの石畳」。少しいい。だが、フラットだ。「蝉宵」を「蝉酔い」にしたらどうだ。「蝉酔いに、のたりのたりの石畳」。「蝉酔いや」より「蝉酔いに」のほうがいいな。待て。「石畳」がいまいちだ。
「宵酔いに、のたりのたりの蝉時雨」。もはや蕪村から遠くなったが、悪くない。「宵酔いに、のたり花園蝉時雨」。遠すぎるか。そうこうするうちに竹林閣を訪れる時間がきた。以来、「のたりのたり」が、猛暑に対抗する呪文となった。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/21
■   小さな秋、見つけた

9月になって4日ほど遅い夏休みを取る。どこへ行こうという予定はない。多摩川で鯉釣り三昧も悪くはないが、はぐれ雲のようにぶらりと、なにもしない日々を過ごしたい。小さな秋をさがす旅に出ようと決める。
家の玄関を出て、角を曲がればそれはもう旅だ。そう言ったのは、作家の永六輔さんだ。「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」を作詞した永さんには「遠くへ行きたい」というヒット曲もある。だが、遠くへ行く気はなく、ぶらりとバッグ片手に家を出る。
図書館で本を借りよう。4泊くらいのつもりだから、だれかの全集が読めるかもしれない。夏目漱石はちょっと重いかな。「それから」を読んだばかりだし。志賀直哉もいい。武者小路実篤もいい。「愛と死」をもう一度読もうか。でも、つい石坂洋次郎に手が出てしまう。読みやすい。
「若い人」はその昔、石原裕次郎主演で映画化された。浅丘ルリ子、吉永小百合が共演した。「草を刈る娘」も吉永小百合主演で映画化されたはずだ。これをじっくり読んでみよう。手軽な文庫本を買おう。
駅前の本屋で、西村京太郎の「鎌倉江ノ電殺人事件」を買い、「日本の名詩100」を買う。読みかけのヘミングウェイの「エデンの園」はポケットにある。小田急線に乗り、適当に走り適当に降りる。バスにも乗る。小さな庭を見つける。「森田の庭、どうぞご自由にお入りください」、と書かれた手作り看板が暖かく迎えてくれる暖かく小さな庭だ。狭い石畳の小道の両側に花たちが咲き競い、精一杯に微笑んでいる。ユウゼンギク、ハツユキカズラ、サルビア、ミニバラ、サフィニア、ハマギク、ノコンギク、ケイトウ、マリーゴールド、季節の花々が、赤、オレンジ、ピンク、紫、黄色とさまざまな色をつけて咲いている。時々通り過ぎる風にかすかに揺れる花たちはみんな小さく頼りないが、ひとつひとつの花から懸命に生きる力が伝わってくる。おそらく専門の庭師が手入れをしているのではなく、庭好きの方がやさしく作り上げている庭で、過保護されない花たちがより自然に近い姿で、自分の力で生きている。周りを囲う低い木枠や小石がなければ、そのまま野に咲く花だ。
小道の中程に白いベンチがある。何度もペンキを塗り直した古いベンチに、秋の日が当たっている。一人ではとても抱えきれない太さの杉の木が何本もあって、秋に午後の日差しが杉の枝をくぐってベンチや小道にちらちらと影と日向を作っている。重いバッグをベンチに置く。そういえば、もう蝉の声もない。冷たい水を一口飲む。「日本の名詩100」を開く。金子みすゞがいる。山村暮鳥がいる。宮沢賢治、室尾犀星、中原中也、草野心平、そうそうたるメンバーが力作を並べる。「秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があって、それに陽は、さらさらとさらさらと射しているのでありました」。中也だ。
河原に行ってみるか。そうだ、陽のあるうちに河原を見てみよう。目先に小さな瓢箪池がある。ブロック石が瓢箪の形に並んでいる。白い看板に「鯉池の仲間たち」と書いてある。本をベンチに置き、池の畔にかがみ込む。澄んだ水に美しい4匹の錦鯉が泳いでいる。柚子、梅、都、みかんと、4匹の鯉の名前が書いてある。鯉たちは、まったく人影を恐れる様子がない。いじめられた経験がないのだ。
多摩川の鯉たちを思い出す。人を恐れる。人の影に驚く。足音に逃げる。花にも鯉にもさまざまな人生がある。そういえば、仕事で行く途中の渋谷駅にはたくさんの鳩がいる。鯉釣りに行く多摩川にもたくさんの鳩がいる。どっちの鳩が幸せなのだろうか。小さな庭の小さな花は、いかにも幸せそうに見える。
新宿御苑の手入れの行き届いた花壇の花たちと、人から忘れられたような小さな庭の花は、どちらが幸せのなだろうか。少なくとも、この小さな庭の花たちの方が、夢中で自分の人生を送っている。小さい秋とは、小さい幸せのことだろうか。なにもない一日が、ふと幸せに思えた。
2020/02/21
■   映画監督を夢見る

背後に山ほどの苦労があることも考えず、ただただ映画監督に憧れる。映画づくりをやってみたい。男兄弟ばかり、その上中学、高校、大学の10年間を汗臭い体育会で過ごしたせいか、気の合う仲間たちとワイワイやる心地よさが身についてしまった。
小津組とか木下組とか、黒澤組、大島組という映画づくりの呼び名のなんと美しい響きか。かといって、胸を張って威張るほどの映画オタクでもない。ジェームス・ディーン、ハンフリー・ボガード、ジョン・ウェインあたりから始まって、日活石原裕次郎、東映高倉健の洗礼を受けたクチだから、映画通からすればただのミーハーに過ぎない。
ふとした成り行きでコピーライターになって、テレビコマーシャルをつくるようになったが、テレビコマーシャルづくりは映画づくりの雰囲気に似て実に楽しい。
監督がいて、プロデューサーがいて、カメラマンがいて、数人のライトマンがいる。大道具、小道具、スタイリスト、ヘアーメイク等のスタッフがずらりと揃う。俳優とかタレントとかモデルが参加する。総勢20人30人以上になる。これはもう体育会の合宿である。お祭りだ。ワクワクする。嬉しさがこみ上げてくる。こんな楽しいコマーシャルづくりの企画とコピーを担当して200本以上やらせてもらった。
あるときあるコマーシャルで、若夫婦を登場させるアイディアを出し、得意先の了承を得た。大手ディベロッパーのマンションのコマーシャルだ。「これさあ、15秒、30秒って短いけど、映画のワンシーンみたいに撮影したいね」。プロデューサーにそう言うと、「やりますか?黒澤組に頼みますか?」という返事がきた。そういえば担当制作会社、黒澤明さんの息子さんと関係のある会社だった。黒澤明さんはすでに他界されていて、黒澤さんの助監督を28年も務めた小泉尭史さんが黒澤組の監督となっている。
「できるのか?」。「聞くだけ聞いてみましょう」。小泉監督は、すでに「雨あがる」「阿弥陀堂だより」というすばらしい映画をつくっていた。黒澤組が引き受けてくれ、天にも上る気持ちで成城に会いに行ったのは、数日後だ。打ち合わせ場所のファミレスには、黒澤組の一同が集まっていた。小泉監督はやさしく微笑みながら、教育者のように真摯な眼差しで話をしてくれた。
穏やかで、決して押し付けがましくなく、たくさんの仲間を惹きつける海のような大きさがある。街の公園で若い夫が若い妻を抱き上げて笑っている一枚の絵と、「プロポーズの言葉、覚えていますか?」という一行のコピーしか私は持っていなかった。これではとても映画にならない。だが監督は、なんとか映画にしようと知恵を絞ってくれた。「公園でなくてもいいですか?」。監督が言い、カメラマンの上田さんに相談する。「川にしましょう。柔らかな春の日差し。川面を舞う蝶。中也の詩の世界。しっとりとした幸福の中に芯の強さを感じさせる」。大賛成だ。撮影は多摩川で行った。曇った日だったが、驚いたことに黒澤組は、昨日の雨で流れが強く、濁った川の中に何本もの大型ライトを立て、きらきら輝く美しい春の川面をつくってしまった。
蝶のように可憐な若い妻が膝小僧まで水に浸かり、手で水を跳ね上げる。すると、金色の水しぶきが無数の蝶となって宙いっぱいを舞う。息を飲むシーンとなる。岸辺でラジオを聞きながら妻に向かって笑いかける夫。テーブルの上の古いラジオから、財津和夫の緩やかな歌が光の川に溢れる。その小泉監督が久々に映画をつくった「蜩の記」が封切られる。打ち合わせが終わると酒を飲むスタッフと別れて、奥さんと食事をするためにいそいそと帰宅した監督。
監督は、酒を飲まないが、それだけではない。「せめてロケがない時くらい、奥さんと食事をしてあげたいらしいのです」。スタッフの一人がそっと言った。映画には、小泉監督の柔らかく人を見つめる目と、暖かく人の命を包む心が溢れているのだろう。ああ、私には映画監督はとても務まらない。夢だ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/21
■  酒飲みの品格

アーウィンショウの「夏服を着た女たち」の翻訳で知られる常盤新平さんは、とてもおしゃれな文章で、いつ読んでも清々しい風に抱かれているようで気持ちがいい。エッセイもすてきだ。常盤さんは、ある年齢までまったく酒が飲めなかった。われらが先輩山口瞳さんとは大違いだ。
ところが常盤さん、ある朝突然酒が飲めるようになった。翻訳の原本をさがしにニューヨークに行き、逗留したホテルでのこと。コーヒーの芳しい香りで目覚めた。1階のレストランからだ。そそくさと身繕いをしてレストランに行く。先客たちが思い思いにブレックファーストを楽しんでいる。メニューを広げふと見ると、周囲の客たちがうまそうにビールを飲んでいる。バドワイザービールだ。思わず誘われて飲んだビールのおいしいこと。下戸の常盤さん、一瞬にしてニューヨークで上戸に変身した。かといってガツガツ飲む年齢ではない。少々高い酒を、少々飲む。これが常盤流。あれだけおしゃれな文章を書く常盤さんだ。私などと違い、さぞかしスマートな品格のある飲み方をしただろうと想像する。
立原正秋さんの小説が好きだ。石原裕次郎の「剣と花」の歌を聞くと立原さんを思い出す。・・・朝靄をついて、剣を振ってたら、紅い花びらが肩に落ちてきた・・・。
鎌倉に住み、いつも着流しを着ていたという。朝靄の海岸で一人剣を振る立原さんの姿が浮かんでくる。本名をキム・ユンキョといい、朝鮮で生まれた立原さんだが、だれよりもサムライだった。
湘南を舞台に書く小説の主人公の、確信に満ちた無頼の美学には心惹かれる。朝9時から夕方5時まで、立原さんは、きちんと時間を決めて原稿を書いたと聞く。
朝、机の上に一升瓶をどんと置き、仕事をしながら飲む。夕方になり、ちょうど一升瓶が空になる頃仕事を終え、それから街へ飲みに出る。作り話かも知れない。だが、いかにも無頼な立原さんらしくてすてきだ。酒の飲み方にも品格を感じる。
高校の頃、銀座のバーでバーテン見習いのアルバイトをした。資生堂の裏の「アンテ」という店で、小さいがこれこそ銀座のバーという感じで品がよく、客筋もよかった。会社の社長という人がよく日劇の踊り子を連れてきた。若き日の倍賞千恵子さんや三田佳子さんだったと思う。ママは和服姿で、いつも凛としていた。客との応対と会話を仕込まれた。バーテンは宮坂さんといい、いつも髪をきちんと整え、真っ白いワイシャツにネクタイをキリッと結んでいた。驚くほど清潔感にあふれたハンサムで、日劇の踊り子たちも銀座の女の子たちも熱を上げていた。
酒の種類、カクテルの作り方、客との会話を厳しく教わった。当時、1日のアルバイト代は500円だった。いま、コンビニの時給が1000円くらいだから、時代とは面白いものだ。銀座から下落合の自宅までのタクシー代もたしか500円だった。ある銀行の新橋支店長が趣味で絵を描いていて、個展をやったら絵が売れたといって、店のみんなにチップをくれた。500円だった。本当に嬉しかった。この頃の500円はコインではなく紙幣だった。カウンターの隅に座り、オールドパーのグラスをゆっくり口に運ぶ老舗の旦那の美しい佇まいは、いまも目に浮かぶ。しゃれていて軽妙な会話は、楽しかったし、とても勉強になった。
それにしてはいまの私の飲み方は、どう見ても品がない。空手部にいたせいか、持って生まれたものなのか、どうも下品だ。どんな汚い店でも、どんな安い酒でも、だれといつ飲んでもうまいし楽しい。
休日は、午前中から缶ビールを片手に街を歩いたりする。週末にグラス片手に街のいちばん高い樹と語り合う習慣は、作家の開高健先生から教わった。樹齢250年の樹の前に座り、グラス片手に語りかけると自分の小ささが見えてくる。
先日、気がつくとある農家の庭に座っていて、ご主人に注意された。先生、他人から見ればただのアル中の爺さんですよ。妻は、「缶ビールはまあいいけど、朝からワンカップ持って駅前をふらふらするのはねえ」と、さすがにそれだけはだめと目をつり上げた。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/21
■   みんな健さんになりたかった

健さんになりたかった。でも・・・。映画封切りの火曜日になると授業をサボって、新宿歌舞伎町コマ劇場横の映画館に行った。
朝一でチケット売場に並ぶ。長蛇の列。みんな学校や会社をサボってやってくるのだ。
映画は、高倉健主演「網走番外地」。・・・どうせオイラの行先は、その名も網走番外地・・・。みんな健さんになりきって銀幕に釘付け。やがて、主題歌が流れエンドマーク。館内が明るくなるとあちこちから深い吐息。渋い歌声を背中で聞きながら、男たちはやおら出口に向かう。みんな健さんだ。肩を張り、顎はやや引きめ、ちょっと目を細め、鋭くあたりを憚るように視線を配る。だが、きょろきょろはダメ。貫禄がない。誰かが命を狙っているのではないか。私服の刑事が後をつけていないか。そのための目配せだから、下から上に舐めるように視線を移す。だれも命なんか狙っちゃいない。警察だって私の後をつけるほど暇じゃない。ポケットに手を突っ込む。うつむき加減、大股。健さんほど足が長くない。転ばない程度の大股。で、映画館から出ると、歌舞伎町はもう健さんだらけ。あっちの通りに健さん、こっちの店先に健さん、健さんと健さんがすれ違いざま肩をぶつけたりする。すると、お互いに鋭い目で相手を睨む。だが、二人とも健さんじゃない。本物のやくざでもない。だから、心配ない。むしろ、おお、あんた健さんか、おたくも健さんか、と妙な共感が生まれ、お互いに頑張ってやろうぜという友情さえ芽生える。思わず目と目で励まし合っちゃう。なかにはもっと芝居がかった連中がいて、映画が終わると連れに向かって突然、「兄貴、お疲れさまです」などと口走る。こんなの結構いる。
兄貴と呼ばれた男は、不器用無愛想を装いながら、こみ上げる笑みを噛み殺してゆっくりと立ち上がり出口に向かう。その間、決してにやけた顔はできない。映画館を出るまでに、「兄貴、兄貴」が5回も6回も連発される。兄貴分も健さんなら弟分も健さんだから、なにがなんだかわからない。おまけにこっちも健さんだから、もうごちゃごちゃ。帰りにコーヒーを飲んでも、決してお釣りなんかもらわない。電車賃さえなくなって、新宿から下落合まで歩いて帰ろうともお釣りはもらっちゃだめ。
コマ劇場前の喫茶店でアルバイトをしていて若いやくざと知り合った。当時は、やくざの予備軍がいた。野球でいう二軍だ。その二軍に田所という同い年の男がいた。いつも喫茶店の窓際の席で、コマ劇場のチケットを闇で売買する二人の舎弟を見張っていた。ダフ屋だ。
「あと一年遊んだらオヤジの跡を継いで店をやるんだ。古いちっちゃな食堂だけどさ」。田所は、いつもそう言って笑った。どこか切ない笑いだ。
一日が終わると、二人の舎弟にラーメンを食わせビールを飲ませ、小遣いを渡した。チケットが売れない日も必ずそうした。そんな日は、自分の財布から小遣いとタクシー代を渡した。そして自分は、早稲田まで歩いて帰った。混雑した通りで誰かが肩をぶつけても、田所は自分から頭を下げた。私なんかより、よっぽど健さんだった。
翌年、田所の姿を新宿で見ることはなくなった。網走番外地の原作は、服役中の夫から帰りを待つ妻への愛の手紙だ。そのまま映画にしてもヒットしなかった。高倉健という役者を得て、仁義という不文律を命懸けで守りぬく不器用さ、男とはこういうものだという哀しいまでの真っ直ぐな生き方、それが男のなかの男として演じられ、気の弱い私には到底まねできない男の理想を見せた。
その後、「遥かなる山の呼び声」も「幸せの黄色いハンカチ」も「あなたへ」も、健さんはいつも不器用で真っ直ぐな男だった。愛する人を守った。きっと健さん本人も不器用で真っ直ぐな人なのだ。
今日も、健さんのように不器用で真っ直ぐに、愛する人を守って生きようと決意するが、肝心の愛する人が、「あんた、健さんじゃないもんね」と、身も蓋もないことを平気で言う。健さんになりたかった。でも・・・。夢をありがとう、さようなら、健さん。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/19
■   一冊の本と一本の鉛筆

一冊の本と一本の鉛筆があれば、子どもたちの教育ができる。ノーベル平和賞を受賞したパキスタンの17歳の少女、マララ・ユスフザイさんの言葉だ。
15歳の時、頭部と首に銃弾を受け重傷を負った。だが、神は彼女を死なせなかった。奇跡的に蘇ったマララさんのこの言葉に、わたしは衝撃を受けた。一冊の本と一本の鉛筆があれば、子どもたちの教育ができる。それはわたしたちが忘れていた教育の原点を思い出させた。
思えばわたしたちの教育環境はなんと恵まれているのだろう。わたしたちの国はなんと「恵まれボケ教育」をしているのだろう。
一本の鉛筆どころか、一人に一台のパソコンを揃えている学校がある。決してそれが悪いという話ではない。それはそれで悪くはない。だが、問題は別にある。
教育とはなにかという原点が疎かになっていないか。便利な道具を揃え、最先端の教育環境を整えなければいい教育ができると思っていないか。わたしの後輩に教育者が多くいる。
先日、静岡にいる後輩から手紙がきた。36年間教育の現場にいて校長まで務めた立派な人物だ。物事を真っ直ぐに見る真っ直ぐな性格の男だ。この男には私利私欲がない。真剣に子どもたちのことを考え、真剣に日本の教育を考えている。
その彼の手紙にある問題が書かれてあった。「いじめの問題」だ。「先輩、いじめはなくなりません」。そう書いてある。愕然とした。「なぜなら学校は社会の縮図、社会にいじめが存在する以上、学校だけいじめをなくそうとしても無理です」。その通りだ。
わたしはわたしの意見を書いて彼に送った。それに対処する方法は、三つある。一つは、ルールで縛ることだ。日本人は、ルールに弱い性格だ。マナーやエチケットを守らないが、厳しいルールなら守る。黒船や幕末の例を見てもわかるように外圧に弱い。ルールで縛っていじめを減らす。これが一つ。
でも、この方法はみじめで気に入らない。もう一つは、後輩の彼も言っていることだが、一人一人を強い人間に育てる「独歩のススメ」だ。独立独歩の独歩。強風の荒野にも一人すっくと立つような人間の育成。これは大事だ。大賛成だ。
もう一つは、社会全体の意識を変える。大人たちがまず意識を変える。武士道の「仁」や「義」をきちんと理解して、弱い者を守る社会をつくる。どんな理屈をこねようと子どもの最終責任は親にある。だが、親だけでなくすべての大人が、人間としての質を高めることが必要だ。それにしても、日本には度量の大きい人材がいない。勝海舟が言うように、細かい人間に大きなことはできない。横井小楠や西郷隆盛のような優れた人材が見当たらない。いまの日本は細かいことにとらわれすぎて閉塞感だけが募り、夢や希望をつくれない。これでは後について行きたくない。世界のリーダーどころかアジアのリーダーにもなれない。未来を開く力はない。
経済力の底が割れた日本人には、もはや英知しかない。英知を磨き、英知で世界に打って出る。それには、「人間力」を磨かなければならない。人間力とは、知性と理性だ。教育と教養から生まれる高度な知性と理性。これが、「いじめ」を減少させる。
マララさんのようにとは言わない。彼女は特別だ。度量も大きい。だが、彼女が教えてくれた。教育の本質、なにを教えるか、どういう人間を育てるか。金を稼ぐ人間を教育するのではない。人のためを思い、人に尽くせる人間、世の中のためになる人間を育成する。結果として報酬を得るのはいい。私利私欲ほど醜いものはない。責任回避ほど醜いものはない。「いじめは、弱い者を守ろうとする精神の欠如」だ。正義の欠片もない。司馬遼太郎さんは言う。「優しさ」や「人を思う気持ち」は、勉強しなければ身につかない。そろそろ一冊の本と一本の鉛筆から始めるのもいいですね。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/19
■   『遥かなる山の呼び声』

その夏、上高地でアルバイトをすることになったのは、まさに偶然だった。大学受験に失敗し予備校に通ったが、これがなんとも窮屈でやりきれない。いっそのこと東京を離れようと決め、上高地の山小屋を紹介するという友人の言葉に、列車に飛び乗った。
島々からバスだ。白樺の並木を抜け、大正池を横目で見ながら上高地に到着する。目指す徳澤園は、ここからまだ12キロの山道を歩く。梓川に沿って針葉樹の森を行く。空は青く、高く、山々の緑は、濃い。夏の陽射しだ。日本一美しい梓川の、冷たく、清く、澄み切った流れが左にある。川原に降り、水を口にふくむ。日本一美しい清流は、日本一おいしい清流でもあった。
上高地と徳澤園の中間の明神館という山小屋で一息入れる。女将の話では、運がよければ森で鹿に出会う、という。道は徐々に高さを増し、梓川を下に見る。森に目を凝らす。空を見上げイヌワシの姿をさがす。鹿もイヌワシも姿を見せることはなかった。徳澤園に着いたのは、夕方近くだ。針葉樹の森をぬけると突然、ハルニレとカツラの巨木が聳える草原に出た。草原の奥に瀟洒な山小屋が見える。山小屋には広い土間があり、売店がある。到着したばかりの登山客が荷を解いている。土間に囲炉裏のあるスペースがあり、そこにも数人の客がいる。
彼らはすでに荷を解いた軽装で、囲炉裏の周りに集まっている。売店の横の帳場に男が一人座っている。男はじろりと私を見て、すぐにプイッと横を向いた。痩せた、目の細い、髭の濃い、山男というより猟師のような男で、頭にタオルを巻き、色あせた半纏を羽織っている。オーナーらしかった。私は男に頭を下げ、友人の名前を告げ、一夏の仕事を頼んだ。
男は突然、弾けるように笑い、奥に向かって、「荒さ、由さ」と叫んだ。そして、奥から顔を出した男に、「なあ、荒さ、変なのがきただに、Mの紹介だと」。帳場の男が言い、荒さと呼ばれた男と二人は声を上げて笑った。話を聞くとMは、昨年の夏、アルバイト料を先払いしてもらい、そのまま働きもせず姿をくらましたのだと言う。
「そんな訳で雇う訳にはいかんな。まあ、Mの分を働くというなら、いてもいいがな」帳場の男が言った。
まさか北アルプスのど真ん中で途方に暮れようとは思わなかった。あたりに夕闇が迫っている。見上げる穂高連峰の頂きが黒々と迫ってくる。どうなるのだ。
「若いの」。入口で途方に暮れる私に、荒さと呼ばれた男が野太い声をかけてきた。「もう、日が暮れるだに。行くとこあんめいよ」。私は頷くしかない。「今夜は泊まってけ」。荒さがそう言って節くれだった手で、手招きをする。
翌朝早く、荒さと由さは私を連れて山に入った。シャベルを私に渡し、二人は直径2メートル近くもある大きな丸太を鋸で切り始めた。薪にするのだ。私は1日かけて3メートルほどの穴を掘った。山の仕事は実にシンプルで、清々しい。昼になると、荒さが握り飯を差し出した。三人で穂高を見上げながら、川原で握り飯を食べた。味噌味の握り飯は、なんとも言えないほど美味かった。
「今夜も泊まってけ」。1日が終わると、荒さが言った。そんな訳で私は、一夏を徳澤園で過ごすことになった。3日に一度、上高地まで歩荷に出かけた。山小屋に必要な食料品、日用品を上高地の倉庫から運び上げる仕事だ。リヤカーを使った。「一人じゃリヤカーは使えねえ。二人なら、リヤカー使って三、四人分の荷を上げられる」。荒さが、木の切り株のようないかつい顔をほころばせて笑った。嬉しい言葉だった。上高地までの往復4時間、荒さは山のことをいろいろ教えてくれた。
9月に入るとすぐに東京に帰る日がきた。「約束だ。給料は無しだに。Mの分を返してもらったからな」入口まで出てきたオーナーが、ニコリともせずに言う。
置いてくれただけでも嬉しかった。「これは、オレからの礼だ。学資のタシにすればいいだに」オーナーが白い封筒を差し出した。2ヶ月分の給料より多い金額が入っていた。荒さを見ると、もらっておきな、という顔で笑う。純な山男が、真っ直ぐに生きることを教えてくれた、忘れられない夏だった。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/19
■   『幕末ケチョンケチョン』

「幕末志士の生まれ変わりのあんたには悪いけどね」。未来塾のゲンコ先生が、上目遣いに伊藤さんを見上げた。気を使っているのが、戸惑う視線から読み取れる。
春先の、長閑な居酒屋の午後だ。「バカ徳川、バカ長州、バカ薩摩、おっとごめん、伊藤さんは薩摩だったな、土佐も、会津も、あのバカたちのおかげで、日本は絶好の革命チャンスを潰した。本当の国づくりができなかった。バカ日本の基礎を作っちまった」。目を細くして皮肉っぽい笑みを浮かべる。熱燗を口に運ぶ。「あの二人を除いて、全員バカときた」。幕末の英雄と謳われ、新しい時代を創った連中が、二人を除いて全員バカなのか。
「先生、先生のいう意味が、いまいち飲み込めません」。顔に出さないながらも不服気味の伊藤さんに熱燗を進めながら、そりゃそうだ、と先生は首を振り、「よし、ひとつわかりやすく整理してみるか」と言った。
「幕末はどこから始まった?」。「黒船来航です」。「そこだ、その初っ端から徳川がバカやった」。ゲンコ先生の言い分はこうだ。その前に、先生の言う、「バカとはなんだ」、を規定しておこう。
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物事の全体観を把握できない者を、先生は「バカ」と言う。A自分の利益だけを追求する者を、先生は「バカ」と言う。家康が江戸幕府を開いて260年間、鎖国をはじめ、あらゆるものを徳川一人が決めてきた。一人で天下を平定してきた。260年間だぜ、たいしたもんじゃねえか。それをたかだか4隻の黒船ごときで、腰を抜かしやがった。あたふた腰を抜かして天皇に相談しに行った。「な、バカだろ」。黒船を見たのは初めてだろうが、あんなものはだれでも知っていたよ。そのくらいの勉強はしている。オランダやイギリスの軍艦が、日本の周りをウロウロいるんだ。その腰抜けぶりを見て、長州も薩摩も、「こりゃ徳川はもうダメだわい」と、確信した。そのくせ、天皇を中心とした新体制で、自分がトップになりたいという下心が見え見えだ。自分の利益最優先ときた。天皇と徳川で今後の国の運営をやって行きたい、それが見え見え。長州も薩摩も、カッときたね。だが、こいつらもバカよ。日本全体を考えちゃいない。一国の利益が優先した。バカの揉め事にバカが加わった。革命チャンスが、ただのバカ騒ぎになっちゃった。「長州には松陰がいました」。伊藤さんが言う。「吉田松陰は、日本全体のことを考えていたのじゃないですか」。そうだなあ。先生は、ちょっと考える風をした。「やつはまだマシだったかなあ」。松陰の不幸は、長州がやつを理解できなかったことだ。大きすぎた。松陰に比べれば、木戸も伊藤も、小者も小者、器が小さい。それに、松陰は強引過ぎた。いかに正義であれ、強引が過ぎれば、既存の利権者に潰されるのは自明の理。「高杉晋作や久坂玄瑞も、なかなかだと思いますが」。
伊藤さんが長州をかばう。「小者だ。小さいことには向いている。徳川を倒すくらいの小さいことには向いている。だが、国は作れねえ」。だいたい徳川なんざ放っておいても潰れるんだ。なら、放っとけばいいんだ。先生の言うことが見えた。それをだらだらといつまでも相手にしているからダメだ。そう、言いたいのだ。
内乱は、外国の思うツボ。どうして世界を見据えない。インド、中国が植民地になった。次は、日本だ。「薩摩もバカですか?」。伊藤さんが恐る恐る尋ねる。「バカだ。西郷を活かしきれなかった。斉彬公はよかったがな」。「龍馬はどうです?土佐の坂本は?」。「あんなのただの愚連隊だ」。取りつく島もない。龍馬なんざ、司馬遼太郎が取り上げるまでまったく無名の男よ。
さて、と。ゲンコ先生、ふらりと立ち上がる。「後を頼む」と、手を振って出口に向かう。「先生、二人を除いてと言いましたね」。そう、二人を除いてみんなバカだ、と言っていた。じゃあ、利口な二人は誰なんだ。「先生」。振り向いたゲンコ先生の目が、「それくらい自分で考えろ」と微笑んでいる。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/19
■  日本には『サロン』が足りない

第一次大戦後、1920年代、若き日のアーネスト・ヘミングウェイが、小説家を目指して修行に明け暮れたパリには、世界中からたくさんのアーティストが集まった。
ガートルード・スタイン、ピカソ、エズラ・パウンド、ジェイムズ・ジョイス、そして、すでに「華麗なるギャツビー」を発表していた早熟の天才フィッツィジェラルド。
彼らは、夜な夜なカルチェラタンのカフェにたむろし、芸術論を戦わした。いわゆる『サロン文化』だ。とにかく、だれもかれもが天才だ。戦争、政治、経済、宗教、芸術、人間のこと、生命のこと、すべてが極めて高度な話になる。
高度な話とは、どういうことか。それぞれが学びに学んで身につけた全知全能をさらけ出し、ぶつけ合って、話題の『本質に肉薄』する。『物事の本質』に迫る。話し合いとか打合せとか会議に最も必要なのは、この『本質』なのだ。『いかに本質に迫るか』。
ところが、これは、日本人が極めて不得意とするところだ。いまもって、「言わなくてもわかるだろう」とか、「ツーと言えばカー」が通用すると思っている昭和残党連もいる。肝心なことを言わない。物事の本質に迫ろうとする「もう一歩」が足りない。人がいいのか。だが、もはや、そんなことを言っている段階ではない。
日本人が、押し寄せるグローバルの潮流に適切な対応ができないで、世界各国の顔色を伺いながら経済援助をすることくらいしかできないのは、物事の『本質を見極める力』がないからだ。そういう勉強をしていない。
さて、このような『サロン』は、中世ヨーロッパの貴族たちの社交空間から始まったと言う。いわゆる上流階級の面々が、茶や酒やうまい料理を揃え、音楽家に曲を作らせ、ピアノを弾かせ、詩人に詩を読ませ、画家に絵を描かせ、芸術文化の追及から人間の追及にまで及んだ社交空間、それが『サロン』だ。
みんな、貴族だ。だれもが高度の教育を受けている。教養も身につけている。それをぶつけ合い、磨き合う。これは、興味深い。
そこで、5年ほど前から、渋谷のある会社で『サロン会議』を開いた。政治、経済、文化、時事、テーマはその時に応じて自由に設定し、それぞれが「自分の意見」をぶつけ合う。もう一歩、『本質に肉薄』する。異業種から参加者を求め、人数は10人までとした。以前から、いろいろな外資系企業の仕事で、アメリカ人やドイツ人、イギリス人と会議をしたが、「自分の意見」を相手にぶつけないと仕事にならない。だから、それは特殊なことではないが、実際に実行してみないとこれがうまくいかない。
日本人は、なかなか本音を言わない。相手を思いやるからだ、とか、そのほうが物事が円滑に進む、とか、言い訳っぽいことを言って、本音を言わないのだが、実は、つまらないことを言って、なんだこの程度の人間なのかと見透かされることが恐いのだ。きっと、そうだ。
昔、バカ殿がいて、喋るとボロが出るから喋らせないようにした。そこでできた諺が「沈黙は金」。いまどき通用しません。なんでも、自分の意見をどんどん言う。そして、バカだったら、勉強すればいい。愚かだったら、本を読めばいい。それだけのこと。最も悪いのは、バカがバカのままでいること、愚かが愚かのままでいること。勉強すればいいだけのことなのに。そういった風土を築く方法の一つが『サロン』だと思う。
いま、渋谷を拠点に、西早稲田と原宿の企業で『サロン』を展開している。トップの方々はもちろん、営業の最先端で戦う人たちも、『本質を掴む力』を身につけることで、他社との差別化に成功している。
時代が大きく変わりつつあるいま、なにもしないでいると取り残される。そういう企業も多い。代々続いている企業には、わかっているけどできない、とか、どこから手をつけていいのかわからないという会社も多い。なにも大仰なことをする必要はない。まず『サロン』をお始めください。会社のなかに眠っているたくさんの埋蔵金の発掘から始めればいいのです。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/18
■  『見たことのないコミュニケーション』が始まった

『見たことのない戦争』が、始まった。その朝、ベッドで新聞を広げていたら、この衝撃的な文章が目に飛び込んできた。
文藝春秋の広告、特集のタイトルだ。『見たことのない戦争』って、なんのことだ。早速駅前の書店で文藝春秋を買うと同時に、ふと思う。『見たことのない戦争』という言い方、その視点を、自分がいるコミュニケーションの世界に置き換えてみよう。『見たことのないコミュニケーション』。そうなのだ、いま、コミュニケーションもまたこれまでに見たことも会ったこともない状況に置かれている。切実に、そう思う。とくに、マスコミュニケーションは、崩壊とも言えるほどの打撃を受けた。歴史的に見ても、マスコミュニケーションの大変革は、これまで二度あった。
一度目は、1450年、グーテンベルクによる印刷機の発明とそれにともなう印刷物の普及である。それまで口伝であったり、個人的な教育でしかありえなかった世界に、印刷物の普及にともない集団教育が可能となって、一気に学校が広まった。これが、第一回目のコミュニケーションの大改革だ。印刷機ができなかったら、新聞さえできなかった。次は、電波の普及によるラジオ・テレビの発明・普及である。日本では、ラジオは1925年、テレビは1927年に始まったとされているが、これも世相を大きく変貌させた。価値観を根こそぎ変えてしまった。マスコミュニケーションは、「群衆」というとんでもない価値観を生み出し、自由競争市場に拍車をかけ、企業格差はどんどん拡大していった。大量生産大量販売が繁栄の条件となり、時代の美徳となった。もはや、産業革命である。ブランドイメージ、企業や商品の信用・信頼は、新聞・ラジオ・テレビといったマス媒体の圧倒的な力によって、確実なものとして築かれた。
テレビ・ラジオ・新聞に登場する企業・商品は、絶大なる信用・信頼を獲得した。これが、第二回目のコミュニケーションの大改革だった。信用・信頼が、金で買えたのである。そして、第三回目の大改革、ネット時代が到来した。この改革は、とんでもない現象を生み出した。まず、ローソクの火を吹き消すように、マスコミュニケーションをいとも簡単に吹き消した。東西ドイツの壁を破壊するように、「マスとパーソナルの壁」を一瞬にして破壊してしまった。どんなに信頼されている企業も商品も、ある一人のだれかのネットによる世界配信で、「すべてが水泡に帰す」という恐るべき現象が起きた。それが、事実か虚偽かは不明のままに、ニュースは世界を駆け巡るのだ。たった一人の力で、大企業さえも危機に陥れることができる。もはや、新聞・ラジオ・テレビというマス媒体に大金をかけて、信用・信頼を築こうなどと考える企業がいなくなってしまった。とにもかくにも、企業は自分を守り、社員を守るためにコンプライアンスに走るしかない。そこで、あれだけ力をもっていた、新聞・ラジオ・テレビのマス媒体は、新たなる役割と、新たなる料金体系を構築するしかなくなった。その凄まじい大改革を理解・認識できない媒体は、消える運命にある。かく言うわたしも古き良き昭和の残党、消える運命にある一人かもしれない。だが、生き残るためのわずかなる光明は、見えてきた。数人の賢い仲間たちと時代の価値観を、右往左往しながら探っているが、「マスとパーソナルの壁の崩壊」後の価値観、そのヒントがどうやら見えてきた。まず、わたしたち古き昭和残党がやることは、「すべてが新しい時代なのだ」と覚悟を決めることから始めるしかない。そこから入るしかない。そして、時代を貫く大事なものは、なにか。地域を貫く大事なものは、なにか。年齢・性別を貫く大事なものは、なにか。現在から未来を貫く大事なものは、なにか。そういった「物事の本質」を把握しなければ、新しい時代の潮流にただただ流されてしまうだろう。『見たこともないコミュニケーション』は、はたしてどこへ向かっているのだろうか。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
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