高野耕一のエッセイ

2020/02/18
■  提督は、謎の海に眠る

1519年秋、コバルトブルーの空、さんさんと陽光降り注ぐ午後だ。277人の男たちを乗せた5隻の船団は、サンルカル港を出航し、人類初の世界一周航海に向かった。
旗艦トリニダッド号で指揮をとる提督は、すぐれた航海家であると同時に、すばらしい統率力の持ち主だった。それでも、3年後に帰港したのはわずか1隻にすぎない。そして、帰港した船に提督の姿はなかった。海の果てで、いったいなにが起こったのか。どれほどすぐれた提督といえども、世界一周の航海などやはり無謀だったのか。
海は、人間がすべての英知と力を尽くしても、やはり手に負える代物ではないというのか。もはや500年前のこと、それらの真実はあまりに遠い。ましてや歴史に残る大偉業を目前にして死を選んだ提督の気持ちなどわかりようもない。それは謎に包まれ、深い時の海底に眠ったまま、だれにも揺り起こすことなどできない。だが、そこにふつふつと冒険魂を突き動かす壮大なロマンを感じるのは、わたしだけだろうか。
当時、ポルトガルとスペインは、決して友好的な関係ではなかった。むしろ反目し合っていた。提督は、国王の命を受けた忠実なポルトガル人だったが、部下の船長たちはみなスペイン人だった。港を出た船団は、テネリフェ島に立ち寄るとアフリカ大陸を回り込んで南に向かった。やがて赤道無風帯にさしかかったが、提督は、船団をそのまま南に向けて航行させる。
「おかしいじゃないか」。船長たちは口々に言い、進言する。「やっぱりポルトガル人のやることは不可解だ」。「狂ったんじゃないのか」。提督は、頑として耳を貸さない。当然だった。提督は、この航海が世界一周を目指すものだとだれにも告げていない。だれもが、「香辛諸島(モルッカ諸島)に出かけてひと稼ぎしよう」という程度の連中ばかりだった。たしかに、世界一周など正気に沙汰ではなかった。
提督は、赤道無風帯を抜け、南米大陸を目指した。リオデジャネイロからサンフリアンを巡り、エルパスをすり抜けて西に舵を取り、太平洋を疾走してセントポールズ島に向かう。セントポールズ島を経由してグアム島を目指す。グアム島からフィリピンを通り香辛諸島にたどり着く。提督は、完璧にそのコースを計画していたわけではない。完璧な計画を立てるなど至難の技だ。
襲いかかる想像を絶する嵐、食料も水も尽き、見えるのは途方もない青い水の砂漠だけだ。島影一つ見えない。疲弊するクルーたち。必死の思いでたどり着いた島では、異教徒たちが武器をもって待ち受ける。だが、提督の航海術は見事なもので、おまけに勇敢で、強運の持ち主だった。部下たちに的確な命令を下し、苦難の一つ一つを死に物狂いで越えていった。提督でなければできないことだった。反目するスペイン船長をはじめ乗組員たちも一目を置き、畏敬の念さえ抱いていた。それでも船長たちは、提督の暗殺を企て、何度も命を狙う。一度も成功はせず、逆に数人が処刑された。
行く先々の島、たどり着く国の人々を洗脳し、キリスト教を広め、植民地にする。それが国王に誓った提督の野望だ。
不幸は、フィリピンで起きた。フィリピンの異教徒の戦士たちに提督は、少ない人数で戦いを挑んだ。船長たちは、援護をしない。見て見ぬふりを決め込んだ。多勢に無勢。上陸したもののたちまち浜辺に追い詰められた提督に、一団の戦士たちが襲いかかった。足を三日月刀で切られ、水中に倒れ込んだ提督の顔や体に何度も何度も槍が突き立てられた。提督の遺体はそのまま放置され、やがて海に消えた。
提督、海峡にいまもその名を残すフェルナンド・マゼラン。絶対に勝てない戦いと知りつつ、なぜ、自ら死地に赴いたのか。3年もの地獄の日々を乗り越え、大偉業を目前にして、なぜ、死ななければならなかったのか。疲れ果て、正常な心を失っていたのか。それとも、「男はロマンに生き、ロマンに死ぬ」、とでも言いたかったのか。もはや、遥か彼方のマゼランの真実を知る者は、だれ一人としていない。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/18
■  惜春鳥

50年の歳月が流れた。人は変わり、街は変わった。
ある春の日の午後だ。三人の男が、渋谷にいた。傾き始めた陽光が、ハチ公に注ぐ。この街は、青春の日々を過ごした想い出の街だ。
長崎に住むYの上京を機に次呂久英樹と青木勝彦が駆けつけ、旧交を温める酒宴が開かれた。午後の酒が、至福の時間を与える。すでに孔子のいう玄冬の齢に達しているが、この三人、そんじょそこらの年寄りとはわけがちがう。この齢でなお、真っ直ぐに物事を見る少年の眼差しをもつ。正面から相手に対峙する純な少年の好奇心が息づく。
磨かれた明鏡の魂は、もはや死語となる「正義」を重んじる。大人の知性を身につけているのだ。「少年の眼差しと大人の知性」を併せもつ。そこがちがう。少年という言葉に甘える偽ロマンチストではない。毅然たる大人の信念、「正義」という確固たる信念をもつ。その裏づけは、武道だ。
武道家の彼らは、武道によって道を究め、人間形成をはかる。沖縄県西表出身の次呂久は、若き日、Yとともに渋谷にある國學院大學の空手道部部員として、多感な魂と吹き上がる熱情を、拳に託した。
柔道家だった青木は、日本武道館に勤務し居合道に邁進した。九武道を学び、そこに道を求めた。大学同期の彼らはウマが合った。波長が合い、価値基準に近いものがあって、互いの心が読めた。心の奥底で深く通じ合うものがあった。それが、この上ない喜びだ。
真の友情は、理屈を超えて存在する。昔、行動はいつもいっしょだった。笑うも泣くも怒るもいっしょだった。稽古が終わると渋谷に出て、飢えた魂をネオン街に解き放った。いまに比べて当時の渋谷は、なにもかもが明快だった。善は善であり、悪は悪だった。ヤクザとか愚連隊と呼ばれる連中は、一目でそれとわかる格好で街角を闊歩し、不良を気取る堅気衆に鋭い眼を向けた。悪ぶる学生は目をつけられた。不良をやるにも度胸が必要だった。
東京オリンピックには間があり、上空に高速道路はなく、新幹線は走っていない。1ドルは360円。自由に海外旅行はできない。沖縄はまだ返還されておらず、次呂久は東京に出てくるのにパスポートを必要とした。
「白鳥」や「田園」や「ジロウ」という純喫茶があり、そこが学生の溜まり場で、コーヒーは100円だった。酒は、焼酎か合成酒だった。ビールや日本酒は値段が高く、手が出なかった。合成酒とは、自然素材を使わず化学で作られた酒だ。一合25円だった。梅割り焼酎も一杯25円。焼き鳥は、5円か10円だ。合成酒を二合飲み、焼き鳥を五本食べて100円で足りた。
道玄坂の途中に恋文横丁があって、間口の小さなラーメン屋が並んでいた。ラーメンや餃子や炒飯が、150円だった。店主は中国人が多かった。いかがわしいバーがあって、けばけばしく心やさしいお姉さんがラーメンを奢ってくれた。
この街で、三人は若気の至りの日々を送った。善にも悪にも、がむしゃらにぶつかった。バンカラという言葉が生きていた。ヤクザともつきあった。狂った野犬がそうするように、強い相手を求めて放浪した。つまずきと挫折をくり返し、友情は深まった。口には出せない伝説が、ネオンの下で数多く生まれた。
Yは、故郷長崎に帰り、教職についた。名門と謳われる東西南北の名のつく4高校で、教師として力を注いだ。専門は日本史だ。空手を教えた。人間として見事に成長してほしい。思いはそこにあり、多くの人材を育成した。
次呂久は、母校の空手道部監督を務め、部を全国優勝に導いた。静岡県焼津に道場をもち、指導を行った。空手本来の強さを求め、基本の突き蹴りにこだわる指導は、時代に媚びることをしない。
青木は、いまも日本武道館と国際武道大学の理事を務め、求道と育成の手を緩めない。日本の未来は、市井のこんな賢人たちが握っている。迷走する日本に必要なのは、彼らの抱く信念だ。
「惜春鳥」。懐かしい青春の街で時空を逍遥する三人の男に、映画監督木下恵介が自作映画のために創った美しい言葉が、胸によぎった。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/18
■  筑波山麓稲作紀行

育苗は春4月、20日間かけて行われ、10センチに伸びた苗は、5月になると水を張った田に植えられる。
ゴールデンウイークになるとあちこちで田植えが始まる。まだ幼い苗は、梅雨に晒され、熱い夏の陽射しをくぐり、気まぐれな風雨にも、乱暴な台風にも負けずにたくましく成長し、80日後に稲穂が出る。その後40日で刈取りだ。苗から始まって約140日をかけ、9月にめでたく稲刈りとなる。
田植えがしたい。大地の神秘の生命を、直に感じたい。人間の論理が及ばぬ、もっとも原始的でもっともリアルな地球の生命を、この体で感じたい。
茨城出身の妻に、田植えの手伝いができる農家をさがしてくれ、と頼む。また、気まぐれが始まった。妻は、仕方ないわねと苦笑し、「せっちゃんに聞いてみる。ほら、知ってるでしょ、二高の同級のせっちゃん、つくばの農家の」と言う。妻が「せっちゃん」と呼ぶ久保田節子さんの家は、つくば市松塚に代々伝わる大きな農家だ。手伝いというより、邪魔をしに行くようなものだが、「どうぞ」という返事をくれ、ご主人も快く迎えてくれるという。
都会に住む者には田植えは貴重な経験だ。子どもたちに農業体験が流行っていると聞く。大事なことだ。鯛もマグロもスーパーの裏の水槽で、切り身で泳いでいる、と子どもたちは思いこんでいる。そんな笑い話があるほど、生命の神秘やリアルな生命からどんどん遠ざかり、生命への感謝がどんどん薄れている。
まさか米がビニール袋に詰まって空から降ってくると思っている子どもはいないだろうが、農家の苦労、苦闘を知る子どもはいまや少ない。息子にも体験をさせよう。5月の土曜日、息子と愛犬チュウとともにレンタカーで茨城に向かう。妻は、前日に荒川沖の実家に先に行っている。実家には、妻の長姉の妙子姉さんがいる。ご主人の茂さんは療養中だ。妙子姉さんの長女真実ちゃんがくる。長男基幸とつくばの彼の家で会う。
基幸自作の優雅なテラスでコーヒーを飲む。目の前に田園風景が広がり、暮れなずむ筑波の夕景にまどろんでいると、突然雉の声に驚かされた。雉の声は水田をすべって驚くほど大きく響き、辺りの空気を切り裂いた。
翌朝、せっちゃんの案内で田に向かう。筑波山を北に望み、青く深い空の広さと、視界の果てまで広がる田園風景の美しさに言葉もない。山が生きている。空が生きている。風が生きている。土が生き、水が生き、木も草も花も喜々として生きている。なによりも、人が生きている。三菱製の赤い田植え機に乗って作業を始めていたご主人が手を止め、畦で迎えてくれた。
「今日は、5反の田に苗を植えます」。広い田を指差しながら、なに簡単です、といわんばかりにニコリと笑う。田の面積は、1反が約1000uだから、5反は約5000uだ。「あそこからあそこまでですね」。
まるで見当もつかない。6条植えの田植え機で往復しながら、1uに約22株の苗を植える。5反5000uには、110000株の苗を植えることになる。1株に穂は20ある。1つの穂に80の米粒がつく。1株で、20穂×80粒だから、1600の米粒ができる。5000uだと、176000000粒の米となる。想像を絶する。
ご飯茶碗には、約3200粒の米が入る。つまり、茶碗1杯のご飯3200粒は、2株の苗でできる。1uで22株だから、茶碗11杯分の米ができる。という計算からすると、今日は、茶碗55000杯分の苗を植えることになる。
息子が田植え機に乗る。病み上がりのわたしは、妻と二人で畦に座って息子を眺める。息子は、いきいきと働いている。借りたゴム長靴で田に入り、泥まみれで苗を植える。大地の生命と語り合うその姿は、地元の青年団のようだ。田園風景が板についている。
「都会より、田舎のほうが似合うなあ」。妻に言う。妻も肯きながら、苗を担ぐ息子の姿を嬉しそうに見つめる。人には、その人にふさわしい場所がある。そこでは、いきいきと生きられる。それが、自然というものだ。無理をすれば歪が起こる。自然に生きろ、ゆっくり生きろ、と他人に言いながら、わたしも無理を繰り返してきた。
「つくばに引っ越してきなさいよ。お金もかからないし」。帰る前にそうすすめてくれたのは、ゆう子姉さんだ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/18
■  拳の握り方

今回は、大学空手道の現場からの報告です。
空手は、「突き、蹴り、受け」の3つの根本技から、全身を武器とし、無限の技を生み出す戦闘技術である。攻撃は、手足を駆使する「突きと蹴り」が主となる。そこで、「拳」が極めて重要となる。
ちょっと視点を変えてみる。わが国の武士たちは刀を磨きあげ、殺戮の道具である刀に高度な精神性を注入することで、「魂」にまで昇華させた。その結果刀は、武士道とともに、世界に誇るべき極めて優れた日本精神の象徴となった。
世界のどこの国、どの民族を見ても、殺戮の道具を「魂」にまで昇華させたものはいない。世界に冠たる日本の精神性の高さが、刀には内包されているのである。空手において、「拳」こそが武士における刀と同等の立場にある。
「拳」は、戦いを決する究極の道具である。そこで、空手に生きるものたちは、寸暇を惜しんで「拳」を鍛える。いま目の前の道場で、大学空手道部の学生たちが汗を流している。真っ直ぐに、目の前の仮想敵に向かって、拳を突き出している。
「甘いぞ」。監督、コーチ、指導者の鋭い声が飛ぶ。「拳の握りが甘い」。鋭く、強く、何回も何回も指摘する。かつては時間が許す限り、巻き藁を叩いて拳を鍛えたが、いまではサンドバッグやミットを相手に拳を鍛える。「いいか、小指をしっかり締めろ。拳は、小指だ」。指導者が叫ぶ。拳の握り方はこうだ。
まず、小指をしっかり締める。小指を締めたら、次は薬指だ。薬指は、小指に添える気持ちで握る。力は、どこまでも小指に集中させる。そして、中指、人差し指と順に握っていく。拳で敵の急所に当てるのは、人差し指の付け根の節骨と中指の付け根の節骨、それに人差し指と中指の第二関節、その四箇所だ。
なかでも、人差し指の付け根の節骨を最も強く標的に当てる。中指の付け根の節骨も重要だ。だが、人差し指の付け根の節骨を最重要と考え、それを意識して拳を突き出す。親指はしっかり折りたたんで、人差し指の第一関節と第二関節の中間を押さえ、拳全体を硬く引き締める。
拳全体の力は、小指にあることを常に忘れてはならない。これを忘れると、拳がゆるむ。甘くなる。石のように硬い拳、岩をも砕く拳は、拳ダコといわれる人差し指と中指の、鍛え上げて軟骨を潰して固め、硬いタコとなった付け根の節骨にあるが、拳の根本の力は、小指にあることを常に忘れてはならない。
その上で、必要以上の力は抜く。また、拳を突き出すときに大事なのは、手首だ。手首の角度だ。突き出した腕の力のすべてがムダにならないように、手首は、上向いてはいけない。横を向いてはならない。曲がってはいけない。手首は、むしろ下を向くくらいに締めたほうがいい。突き出した腕の骨の最先端に直結して拳ダコつまり標的に当たる部分があると考え、真っ直ぐに、一直線に、一本の棒となるように意識する。
丹田から発した力のすべてが、一切のムダなく、効率よく拳の先端まで速やかに移動し、拳の破壊力を最大にするのだ。
このように武器としての拳を固めたら、次にすることは、拳に「魂」を注入することだ。くり返していうが、刀が武士の「魂」であるように、拳は、空手家の「魂」なのである。高い精神性を持たせなければならない。道場と大会以外、戦いの場以外では、拳は絶対に握ってはならない。孫子の兵法がいうように、戦うのは戦場だけであり、そこではなにがなんでも勝利に向かうべきだ。
だが、人生における最善の勝利は、戦わないことである。それを肝に銘じる。直真影流免許皆伝の腕を持ちながら、刀の柄と鞘をガリガリと針金で巻き、絶対的平和主義を貫いた勝海舟に見習うのだ。
拳の魂、それは、武士道にある「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」の7つのキーワードにヒントがある。これをしっかり学ぶことだ。拳の究極、最も重要なのは、「魂」であることを忘れてはならない。「拳が甘いぞ。小指を締めろ」。監督の声が道場に響く。窓の外の清々しい初夏の大空を、一筋の雲が北に流れる。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)

2020/02/18
■  生命の尊厳、それにともなう悲哀

翼に傷を負ったイヌ鷲が、保護されて治療を受けた。治療の甲斐あって、日に日に回復した。ところが問題が一つ生じた。餌を食べないのだ。飼育員は頭を抱えた。傷は回復したが、めっきりと体力が衰えた。だがある日、ついに耐え切れずに餌を口にした。飼育員は、胸をなで下ろした。「もう大丈夫。大空へ帰そう」。専門医が飼育員に言った。そして晴れた朝、檻の扉が大きく開かれた。懐かしい大空と美しい緑の森を、イヌ鷲は見た。檻の中から、じっと見上げた。だが、その大きな翼を広げることはしなかった。大空と森を懐かしく見上げるだけだった。
それから数週間、二度と餌を口にすることなく、檻の隅にうずくまったまま、イヌ鷲は死んだ。
「傷は治っていたのだが」。専門医は首をかしげた。飼育員はこう考えた。大空の勇者、イヌ鷲ほど誇り高いものはいない。人間の手から餌をもらい、口にしたあの瞬間、イヌ鷲は死んだにちがいない。イヌ鷲の誇り高き魂が、あの瞬間に死んだのだ。
曇りのない大空、純粋な森、清廉な川、それらの中へ、人間の文明に汚れた手から与えられた餌を一度でも口にした不純な自分は、もはや帰ることはできない。そう思ったにちがいない。生きる誇りを捨てたイヌ鷲は、自ら死を選んだ。そう思うと胸が熱くなった。生命の切なさが胸を打った。
だが、動物は自殺をしないものだ。与えられた命を精一杯に生きる。一生を、迷いなく生き抜く。命とは本来そうしたものだ。
熊も鳥も、野菊もタンポポも、細菌だって、命あるものはすべて、その命を全力でまっとうする。それなのに、人間だけが自殺をする。
生物学上人間は、動物に分類される。だが、いつしか自分だけは特別な存在である、と恐るべき誤解が始まった。動物であることを忘れ、自分を神のように思い始めた。さらに悪いことには、人間は、人間だけの都合で生み出す理由で自殺をする。
お金の問題、恋愛、裏切り、見栄、他人には取るに足りないが本人には深刻な人間関係。すべて人間が人間生活の中だけで勝手に踊っている。荒野の狼や草原の花々にはありえない理由で、人間は死ぬ。
人間がもつ知性と理性は、他の生物にはないすばらしい才能だが、惜しむらくはこれを磨かない。磨かなければ、知性も理性もただの屑だ。知性や理性から生まれる品格こそ、人間社会には欠かせないものだ。わたしは、「動物度・人間度」という言葉を使う。動物であり人間である人間は、この両方を見事に使うことで優秀な生物となる。幸せはそこにある。
まず、動物として、一生を力一杯生き抜く。そう決める。そして人間として、知性と理性を磨き、一生を生き抜く。「動物度・人間度」で重要なのは、バランスだ。必要なとき、必要に応じて発揮する。
静岡県島田に友がいる。長年教職に携わり、校長まで務めた熱き教育者、名を暮林和宏くんという。大學空手道部の後輩で、聡明で野性味に溢れ、実に好感のもてる人物だ。なによりも物事を真っ直ぐに見る目と清廉な心が見事である。
「先輩、いじめはなくなりません」。暮林くんは、送ってくれた教育論の中でそう言う。「大人の世界にいじめがある以上、こどもの世界だけなくせというのは無理な話です」。暮林くんとは、いじめの問題、教育論を交わす。
日本には、仏教哲学がある。神道思想がある。武士道という世界に冠たる人間学がある。学ぶべき教材は豊富だ。だが、大人もこどももそれらを学ぼうとしない。大人たちは、こどものままで大人になる。口先だけが達者になる。その間も、テレビからいじめのニュースが流れる。担任の教師と学校は、責任転嫁に必死である。
真っ向から問題に立ち向かうことをしない。逃げる。たしかにこれではいじめはなくならない。一人一人の生命をどう考えているのだろうか。生命の尊厳をないがしろにしていないか。知性も理性も感じない。品格もまったく感じない。生きることへの誇りと悲哀、生命の尊厳を、信州大町のイヌ鷲が教えてくれた。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/13
■  金色の山、銀色の川

記憶の一ページ目に、山と川がある。それより前の記憶はない。いくつか思い浮かぶ光景もあるが、どれをとってみても、まさしくこれは記憶だと言い切れるものではなく、後になって聞いたものかも知れない。
広大な大地が、足下から広がっている。大地は緩やかに下りながら、視界の果てまで続いている。アジアの奥地の大草原のように、それは限りなく広い。距離にすれば、10キロ以上続いているのだろう。
大地のほとんどが野菜畑と果樹園と桑畑で、夏になると一面の緑に覆われた。所々に、濃かったり薄かったりの茶褐色の荒地や枯れた草の色をした空き地が見えた。小さな林もいくつかあった。民家はほとんどなかった。ポツンポツンと見える民家は、大地のシミのように見えた。
神社の屋根は、民家よりも大きかった。火の見櫓も見えた。小さな林も、民家も、神社も、火の見櫓も、片付け忘れた玩具のように、小さく、秩序もなく、寂しげだった。人の気配はなかった。
山々は、視界の果て、大地の尽きる所に突然立ち上がっていた。果てしなく広がる大空のキャンバスに向かって、峰々は挑むように立ち上がり、一枚の絵画のように、悠々と自信に満ちて連なっていた。
朝早く、生まれたての光を浴びると、峰々はまるで自分が光を発しているかのように、美しく、神々しく輝いた。海抜2000メートルから3000メートルの山脈、中央アルプス。それは、神々の棲家だった。
輝く山々の麓に、墨絵のように霞む里山があった。あるものは高くあるものは低く、子どもが作る丸い砂山のように、幾重にも連なっていた。里山は輝く山々とちがって、人の暮らしの匂いがした。
里山のすぐ下に、蛇のように蠢く一本の銀色の筋があった。それは、生き物のようにくねくねとくねって輝いていた。伊那谷の底を流れる天竜川だ。太めの糸ほどに見えるが、明らかに命あるもののように見えた。
人には、だれにもそうした記憶のはじまりの一ページがあるのだろうか。そうして刻まれた風景を、原風景と呼ぶのだろうか。
長野県下伊那郡座光寺村北市場、母の実家である。父が、28歳で戦争に狩り出され、22歳の若い母と1歳か2歳の幼い私は、戦禍の迫る東京を離れて疎開した。
山と川と、陽光降りそそぐ大地は平和であり、そこには戦争の「せ」の字もなかった。村人たちもほのぼのと野良仕事に精を出していた。母も朝早く、私が目覚める前に、畑や田んぼに出かけ、一日中働いていた。だが、村には若い男がいなかった。果樹園にも田んぼにも、若い男の姿がなかった。腰の曲がった男たちと、女ばかりの村だった。それが戦争だった。
幼い私は、戦争などまったく知らなかった。父がいないことも、時々不思議に思ったものだが、近くの小川で遊ぶ日々に、父のいない寂しさを感じることはなかった。
ただ、母から、「はい、父ちゃんにご飯をあげておいで」、と言われ、よちよちと広い部屋を歩き、部屋の隅に置かれた父の茶色い写真の前に茶碗を置いてくる時だけが、父を感じる時だった。
実際の父は、戦場で銃を撃ち、私の父は、茶色の写真のなかで笑っているのだった。
毎日毎日、近くの小川で遊んだ。遊び相手はいなかった。家には、祖母しかいなかったし、村の子どもたちの姿もなかった。ある時、子どもたちの姿を見つけ、嬉しくなって走り寄ると、「疎開ボーズ東京へ帰れ」、と言われたが、意味がわからなかった。
小川のカニや小鮒と遊んだ。水車小屋の横にあった豚小屋の豚と遊んだ。いつも一人で遊んだが、寂しいとは思わなかった。寂しい時は、家の裏庭にある柿の木に登って、金色に輝く山々と銀色に輝く川を眺めた。
山の向こうには、東京があって、いつかそこへ帰るのだ、と思っていた。それは、母に聞いたからそう思ったのだろうか。いつも、輝く山の向こうの、東京の空を見上げていた。東京下町生まれ、東京育ちの江戸っ子ながら、私は田舎モンだ。それは、信州の山と川、小川のカニと小鮒のせいだろうか。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/13
■  出て来い、海舟

「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲だ」。幕末の立役者勝海舟は、実際に出会った人物を鋭い慧眼で観察し、その著書「氷川清話」でズバッと切った。
「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはや(幕府は)それまでと心配していた」と言う。「木戸松菊(孝允)は、西郷などに比べると、非常に小さい。しかし綿密な男さ。使いどころによっては、ずいぶん使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがの」と切って捨てた。
年頭にあたり、勝海舟にご登場いただいたのは、偉大な人物は100年200年後に出てくる、という彼の予言どおり、そろそろ時代を読み、時代をリードする人物が現れていい頃だと思うからだ。
乱世の幕末時代(現代も似たような乱世だ)実際に世界との交渉に立ち会い、大政奉還を企画し、江戸城を無血開城し、幕臣でありながら260年続いた徳川幕府の幕引きをしたのは、海舟だ。なにが正義なのか。なにが無理のない正しい流れなのか。それが読めた。
なぜ、海舟はそんなに大人物だったのか。海舟は、「明鏡止水」という言葉を好んで使った。「明鏡止水」とはきれいな鏡のように澄んだ心、止まった水のように穏やかな心の状態のことだ。英米の列強に対し、薩摩、長州、他藩の過激な連中との交渉に際し、海舟は常に澄み切った鏡のように、先入観を持たず、余計な策を一切用いることなく、誠心誠意でぶつかった。その場その時にあらゆる方向に思考を巡らせ、相手の真意も変化も正確に把握し、対応の翼を自由奔放に広げた。
あのでかさはなんだろう。「明鏡止水。どんな難局も、それで乗り切った。それでしか乗り切ることはできなかった。下手な策は相手に見透かされ、かえって交渉をまずくする」。できる準備を万端整えた上での「明鏡止水」だ。
海舟の家は、元々武家ではない。祖父が検校で金を儲け、武家の株を買った。その頃の武家は貧しかった。金持ちと養子縁組をして持参金をもらい、その金持ちの家を武家として名前を名乗らせた。
祖父は、初めに男谷家の株を買い、次に勝家の株を買った。男谷家を海舟の父小吉の弟にまかせ、勝家を小吉に継がせた。男谷家には、剣豪男谷精一郎がいる。海舟は貧しかった。精一郎について剣に打ち込むことによって貧しさを紛らわした。
男谷道場には、剣豪島田虎之助がいる。海舟は、精一郎と虎之助から剣を習うと同時に、「もう剣の時代は終わる。これからは西洋の兵学だ」と蘭学を学び、いち早く世界を知ることとなった。まだ黒船は来ていない。海舟はだれよりも早く世界に目を向けたのだ。
父小吉は、頭のいい人物だった。学はないけれど、大名の相談役ができるほど明晰だった。飾るところがまるでなく、下町世間といっしょに生き、喧嘩好きの無頼漢小吉は、自分に学問がない分、海舟に学問をさせた。海舟の飾らない性格、ここぞという勝負感と豪胆な精神は、間違いなく小吉譲りだ。その父からもらった天性の才能に、武士道で人間道を学び、剣で強さ弱さを知り、蘭学で世界を学んだ。父だけでなく優秀な師匠について教育と教養を身につけた。外国人とも大いに付き合った。人間としてどんどん大器となった。ここが重要。根本がしっかりしているから、自分を平気でさらけ出す。常に明鏡止水、素直でいられる。スポンジにようになんでも吸収する。
内容のない人間ほど、飾らなければならない。飾る人間の底は浅いから、すぐ見抜かれる。策を弄するものほど、策を見破られ、窮地に陥る。海舟は、それをしない。正々堂々、正面から事に当たる。なにが正しいかをはっきり判別できるから、相手が見えてくる。相手の私利私欲、都合が見えてくる。相手が見えれば、交渉は自在だ。
横井小楠、西郷隆盛、勝海舟、時代を創った人物に共通するのは、人間の器の大きさだ。夢と希望に溢れ、時代をリードする大きな器の人物が、いまの日本にほしい。出て来い海舟。謹んで新年のお慶びを申し上げます。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/13
■  くずれても、なお美しく

テレビのバラエティ番組が目につく。スタジオでのクイズ番組、お笑い芸人のドタバタ番組、旅番組、美味しいものの食べ歩き。それらをチャンネルをとっかえひっかえ眺めている。女優でも歌手でもない、いわゆるテレビタレントと呼ばれる女性たちや、局アナつまりテレビ局のアナウンサーたちが出演することが多い。映画宣伝のためにいまが旬の人気俳優が出演したり、新曲キャンペーンのために売れっ子歌手が登場することもある。
かつて人気のあった俳優、いまはむかしのアイドルの懐かしい顔を見ることも多い。彼らの救済番組と思えば、それはそれで有意義なのだ。いいことだ、とニコニコしながら見ている。テレビ局にしても、むかしほど高額なギャラを必要としないから、都合がいいのだ、などと他人の財布まで心配する。NHKはともかく、民放に至っては制作費の削減削減で、いかにも安づくりの番組が増え、テレビの文化度は下がる一方である。
さて、バラエティ番組だが、出演者が、いかに演技することなく素の人間性を発揮できるかが重要となる。素の魅力、本人の本質的魅力が問われる。どのみち番組内容は、さっきも言ったように、井戸端会議や楽屋話のような、どうでもいいようなものばかりだから、そのなかで、どう自分を魅力的に見せるかが勝負である。相手を思いやる暖かい会話のできる人が好きだ。出演者の本質的な魅力、豊かな人間性に触れると嬉しくなる。相手の話を聞くときの態度、表情を見ていると、その人の人間性が見えてくる。ことばの端々に品格が伺われる。
映画で主役を演じる女優が、バラエティ番組に出演した。素の状態になっても、「わたしって、美人でしょ」という顔をしている。化けの皮が剥がれても、「わたしって、えらいでしょ」という傲慢さが見える。100年の恋も一瞬にして醒めた。しまった、と思ったが後の祭り、その後、その女優の出演する映画を見なくなった。
学芸会のようにワイワイ騒ぐだけのグループ歌手が、美味しいものの食べ歩き番組に出演し、われわれには手の出ないような高級料理をガツガツ食べる姿を見ると、「ああ、世も末だ」と愕然とする。
こちらのニュースでは、アフリカの飢えた子に救済を、と叫んでいるのだ。日本は豊かな国だ、と思う前に腹が立ってくる。「なんで味もわからないガキに、こんなに高い料理を食わせるんだ」。嫉妬心も働いて、どうにも腹がたつ。嫉妬は、魂の不敗だ、と言ったのはソクラテスだが、ほっといてもらおう、わたしの魂は腐敗している、と開き直る。料理人も料理人だ。そのガツガツを嬉しそうに見て、笑っている。目立ちたがり屋にはテレビの威力はまだまだあるようで、テレビに出るというだけで、嬉しくなってしまうのだ。それもわかる。食べる行為は、人さまざまでこれが面白い。
口を開けて、粘膜を見せるのは、恥ずかしい行為だ。そう言ったのは、井上陽水だ。なるほど、陽水は歌手なのに、恥ずかしそうに口を開ける。食べる行為には、品格の差が出る。美人、不美人は関係ない。有名、無名も関係ない。生まれ、育ち、教養、そんなあれこれが品格を形成するのだろうが、食べる行為には、それが如実に現れる。くずれても、なお美しく。人に見てもらおうという出演者は、できれば最低の品格をもっていてほしい。
旅番組も、よく見る。鶴瓶が出ている番組。三宅裕二が出ている番組。綾小路君麻呂が出ている番組。楽しく見ている。とくに三宅裕二がいい。鶴瓶も面白いが、どんなに頑張っても、自分が出てしまう。登場する素人さんが、鶴瓶に負けてしまう。三宅裕二は、素人さんと見事に融和する。相手の話を無理なく活かす。真から興味を抱く。子どものように、自然に相手に同化する。これがキャラクターというものか。恐い。綾小路君麻呂も、まだ個性が邪魔をしている。素で生きてこそ、人は美しい。それには、自分をいかに捨てるか。いかに相手を思いやるか。品格が必要なのだ。自分のことを棚に上げて思うのだ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/13
■  純喫茶「十字路」

純喫茶「十字路」。多摩川の風に吹かれるその店は、昭和の落とし物だ。登戸にある。真剣に探さないと見落としてしまう。看板の純喫茶の文字がいい。懐かしの「昭和」だ。
純喫茶も、いまは死語だろう。ぼくの学生時代には、「白鳥」とか「田園」とか「ジロー」があった。そうそう西武新宿駅前には、歌声喫茶「灯」があった。
「雪の白樺並木夕日が映える、走れトロイカ軽やかに粉雪蹴って」。大学生が指揮を取っていたけれど、あれってロシア民謡だから、彼らは左翼系だな。ぼくは高校生で、左翼でも右翼でもなく、仲よくだった。登戸という地名は、古代からあった。古代って奈良時代以前だ。凄いね。聖徳太子が、「よう妹子、登戸に行こうぜ」なんて小野妹子に言っていたのだ。この地名、千葉にも埼玉にもあって、河原から丘陵地への登り口、その地形から登戸と名づけられた。
時の彼方からやってきた「十字路」は、大型トラックが走る古い街道の、まさに「十字路」にある。だから、そのまんまの名前だ。ぼくらは、多摩川で鯉を釣った帰り、反省会のために「十字路」に寄る。
「ぼくら」とは、ぼくと釣りキチの松っちゃんだ。松っちゃんは、松岡という苗字だが、下の名前は知らない。今はちがうが、もとは照明技師、ライトマンだ。ステージ上の芸能人を美しく浮かび上がらせる仕事。「美空ひばりなんか照らしたもんね、わーい」と胸を張る。(たしか美空ひばりだったと思うが、ちがったかな)。
鯉が釣れても釣れなくても、ぼくらは、行く。鯉釣りの先輩の有村さんが、「あそこ、昆布茶をサービスでくれるよね」と、言った。「えっ、飲んだことないな」。松っちゃんと顔を見合わせる。「よし、こうなったら昆布茶を飲めるまで通おうぜ」。意地になって2人で通う。
通りの反対側にマックがあって、100円コーヒーがあるのに、コーヒー500円の「十字路」に行く。マックのコーヒーなら5杯飲めるのに、ぼくらは、「十字路」に通う。意地だ。「昆布茶が出るまで通おうな」。なんだかマダムの作戦に乗せられたような気分だが、もう後には引けない。それより、こてこての昭和が嬉しい。「昭和尋ね人」のぼくとしては、とにかく落ち着くのだ。入り口の自動ドアは、踏んづけて開けるタイプ。ガンガン踏まないと開かない。万一行こうと思う人は、足に怪我をしないように注意してほしい。あるいは体重の重い奥さんといっしょに行ったほうがよい。入り口脇に古いショーケースがあって、中に昭和40年のオープン当事から置いてある作り物のナポリタンが、ほのかにほこりっぽく客を迎える。ドアが開いたら、段差があるからご注意を。無事に中に入れたら、右側に長いカウンターがあるから、むかし美人のマダムと話したい人は、カウンターに座るとよい。小柄で、穏やかな、品のいいマダムだ。(早く昆布茶、ちょーだい)。
左側に4人掛けのテーブル席が、奥に向かって並んでいる。大きなガラス窓から街道が見える。その向こう側に100円コーヒーのマックが見える。一番奥のテーブルが、ぼくと松っちゃんの指定席だ。指定席は、予約しなくても空いている。ぼくら以外に客はいつも1人か2人、この前3人もいてびっくりした。客も、開店当事からの常連で、店同様に古色蒼然。近くに住む釣り仲間の板前職人、川崎さん夫婦も常連で、夫婦仲良く手をつないでコーヒーを飲みに行くと聞いた。茶色の革のシートがいい。破れて白い中身が飛び出しそうだが、ガムテープがビシッと二重に貼ってあるから大丈夫。巨大なダイキンのクーラーがいまにも爆発しそうに悲鳴を上げている。
有村さんが、「あのクーラー、強と弱しかない、調節できないのよ」と、教えてくれた。あまりうるさいので、壊れているのかと思った。日活俳優、マイトガイ小林旭が「十字路」という歌を高い声で歌った。「あきらめてあきらめてもう泣かないで、お別れのお別れのクチヅケしようよ、あああ深い深い深い霧の中、すみれの色の灯がひとつ、灯る十字路」。いいなあ、これが昭和だぜ、登戸バックトゥザ・フューチャー、松っちゃん、来週も行こうな。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/12
■ テクテク、ニコニコ、パクパク

あれは、いつ頃だったろう。早い春だ。妻の両親と津久井の旅に出た。義父は、80歳を越えていた。津久井湖で、釣り客が利用する船宿に泊まった。
湖畔の朝は清々しい。散策の後、湖を臨む食堂で朝食を取る。95歳の女将が給仕をしてくれる。女将と義父は、輝く湖面に目をやりながら、終始愉快そうに昔話に花を咲かせた。
女将が言った。「いいねえ、あんたは若くって」。95歳が80歳にそう言い、二人が笑った。津久井の朝の清涼感と二人の笑顔が、いまも心に残る。
平均寿命とはちがって、健康寿命ということばがある。2014年の日本女性の平均寿命は、86.83歳。男性の平均寿命は、80.50歳。なるほど、世界に誇る長寿国だ。
ところが、健康寿命となると10歳以上も下がってしまう。健康寿命とは、「日常生活に支障のない程度に、日々健康に生きること」だ。この10歳以上の差はなにかというと、病気治療や介護が必要な高齢者が相当いるということだ。
高齢化のすすむ日本、平均寿命も大切だが、健康寿命を延ばすことが大切だ。明るく健康に、生涯をまっとうする。本人ももちろんだが、家族にも、それが幸せだ。
先日、9月5日に100歳を迎えた石井歌子さんと会った。「100歳を迎えるなんて、そうそうあるものじゃない。ましてや、100歳で起業するなんて、これは感動ものだ」。友人の松井健太氏が、そう言って唸った。
「100歳の起業家と、会ってみないか」。まさに健康年齢のお手本、鑑である。父が生きていれば、今年100歳になる。同い年だ。「会いたいですね」。初夏の日、歌子さんのアトリエのある飯田橋に向かう。歌子さんは、「手編み工芸」のアトリエをもっている。東京大神宮の近くだという。風薫る朝だ。陽ざしがやわらかい。飯田橋は、新旧が当たり前のように調和する魅力の街だ。北ヨーロッパ風のおしゃれなカフェと、古く懐かしい昭和の喫茶店が、肩を寄せ合う。地中海風レストランの隣で、中華そばの赤いのれんが風に揺れる。この街は、徳川家康の命名だ。千代田区の千代田も、家康の居城千代田城からもらったものだ。家康パワーを感じる。
キョロキョロと歩をすすめるうちに、陽のあたる坂道に東京大神宮の緑の森が見えた。東京大神宮は伊勢神宮の東京支社で、小さいが威風堂々、荘厳である。縁結びの神としても評判が高く、平日だというのに適齢期の娘さんたちの姿が目立つ。
歌子さんのアトリエは、東京大神宮の緑と道一本を挟んで隣接している。歌子さんが、玄関に迎え出てくれる。「おはよう、いい朝ね」。笑って言う。「コーヒーがいい?お茶がいい?」。アトリエの中を、あっちに行きこっちに歩き、歌子さんが自ら接待してくれる。「下町で生まれたの」。歌子さんが話す。1915年の卯年生まれ、「ツキに向かってジャンプするウサギ、縁起がいいの」。甲子園の高校野球が始まった年、宝塚歌劇団誕生の年だ。関東大震災も太平洋戦争も、「無事に切り抜けてきたわ」。笑って話し、話して笑う。「恐かった、防空壕に逃げ込んだの」。明るい。下町職人の父のすすめで、お花、長唄、裁縫を習った。「学校の勉強は嫌い、習い事のほうが好き」。センスがいいのは、習い事のおかげだ。神宮前にも住んだ。小平にも、結婚して瀬戸内にも住んだ。どこでもいつでも、明るく元気だった。笑顔にもいろいろあるが、歌子さんの笑顔は、まわりの笑顔を誘う。勇気をくれる。「街を散歩しましょうか。いつもの道」。いっしょに飯田橋を歩く。教会がある。右手の向こうには、靖国神社がある。「歌子さん、いい天気ですね」。「歌子さん、おはようございます」。行き交う人と、手を振りながら挨拶を交わす。ほのぼのしてくる。穏やかな時が流れる。九段下の手前で折り返し、駅方面に向かう。散歩は、毎朝欠かさない。よく歩く。よく笑う。よく食べる。「豆が好き。毎日食べるの」。近所の医者が、「長生きの秘訣を教えて」と、真剣な顔で尋ねたと聞く。テクテク、ニコニコ、パクパク。健康寿命の秘訣は、これだな。石井歌子さん、すてきなパワーをありがとう。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
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