高野耕一のエッセイ

2020/03/24
■  桜を待たずして

桜を待たずして、男は逝った。サムライだった。男の中の男だった。その日わたしは、成城4丁目にいて、「発明の杜区民公園」で、カメラを片手に桜の開花を待っていた。発明家樫尾俊雄氏の「発明記念館」の庭園である。池に面した美しい枝垂桜が、いままさに大空に向かって晴れ晴れと両手を開こうとしている。赤く色づいて次の瞬間を待つ無数の蕾たちが、春の陽射しを浴びて風に揺れている。
突如、ケータイ電話が鳴った。友人のアートディレクター松本隆治からだった。「どこにいる?」。松本が言った。「渋谷にいるなら会いたいが」。「今日は成城です」。そう答える。松本の声が通常のものではない。「渋谷に行きましょうか?」。「いや、いい。電話をしないではいられなかった」。そう言って、松本の言葉が一度途切れ、「花ちゃんが死んだ」と、吐き捨てるように言った。
花ちゃん、花木薫、あの花ちゃんが、まさか。晴天は一瞬に崩れ、稲妻が走った。桜が一斉に色を失った。風の音も鳥の声も滝の音も、すべての音が遠のいた。一陣の風が、枝垂桜を揺らす。地面に腰を落とす。だめだ。そんなことがあっては、だめだ。花木薫は、わたしの恩人である。早くに死んだ弟と同じ年のイノシシ年。弟の葬儀にもだれよりも早く駆けつけてくれた。それからわたしは、花木薫を弟の生まれ変わりだと思っている。
初めて会ったのは、オリエント時計のCMを創るときだ。当時、人気絶頂の歌手中森明菜を起用したCMだった。黒澤明事務所のプロデューサー高橋達也が、「すばらしい演出家がいます」、と紹介してくれたのが花木薫だった。わたしの創ったまずい撮影コンテが気に入らないと、人気歌手がぐずった。花木薫は、彼女の足元にひざまずいて、すがるように口説いてくれた。売れっ子演出家の誇りを捨てている。なにもかも捨てて、スタッフの目の前で、何度も何度も説明を繰り返し、頭を下げ、また説明し、バッタのように頭を下げ続けた。命がけに見えた。仕事とは、こういうものだ。わたしより年は若いが、花木薫を尊敬した瞬間だった。男の生き方を教えてくれた。
その年の11月、弟が死んだ。翌春のためのオリエント時計キャンペーンCM撮影の最中だった。スタジオには桜吹雪が舞っていた。花木薫は、だれよりも弟の死を悲しんでくれた。つきあいは深まった。理屈抜きに永遠の友と決めた。わたしの弟だ。わたしは彼にそう言った。弟と言いながら、わたしがお世話になってばかりだった。テレビCMの仕事がくると、まず相談した。大鵬薬品、ミスタードーナツ、たった2日で創ったみんなの党のCM。CMと言えば花木薫の演出しか頭になかった。撮影は巨匠写真家立木義浩氏に依頼した。撮影が終わると必ず3人で飲みに行った。飲んでただ笑いあうだけの3人だった。当代切っての写真家も、花木薫が大好きだった。埼玉の奥に住んで何時間もかかって帰るというのに、明け方までいつもいっしょにいる。会社経営の下手なわたしを助けてくれる。色を失った枝垂桜の蕾たちが風に揺れても、わたしは立てない。「花ちゃんの死は、だれにも知らせてないそうだ」。松本がぽつんと言った。そういう男だ。巨象のように、だれにも知られずそっと消える。花木薫とは、そういう男だ。そして、その哀しみは巨象以上だ。二年前に肺がんを宣告されても、だれにも言わなかった。「飲みに行きましょうよ」。去年の暮れ、そういう言っていたと松本が告げてくれた。そのときには、もう飲める状態ではなかった。それなのに、そんなことを言う。花木薫とは、そういう男だ。自分のことなんかどうでもいい。いつもだれかのことを考えている。そういう男だ。
一週間後、庭園の枝垂桜は、美しく咲いた。青空の下で、見事に咲いた。来年も再来年も、10年後も、枝垂桜は美しく咲く。だが、花木薫のあの豪快な笑顔とはもう会えない。花ちゃんよう、どうしてくれるんだ、きみはおれの人生において、ただの通りすがりの人ではないんだぜ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/03/24
■  空手部、北へ行く

青春の話だ。その年の夏、われら國學院大學空手道部は、合宿のために札幌に向かった。青函連絡船に乗って津軽海峡を越えた。初の北海道、船上から望む遙かな陸影に心が躍る。
夏季合宿は試合前の強化合宿とはちがって稽古も緩やかである。4日目は休養日となる。「せっかくの北海道、ジンギスカンとしゃれるか」。“マツ”こと花松忠義が言い、高木昭武、三井和男、わたしの4人は市内に繰り出す。狸小路をぶらつき、ビールを飲み歩き、やがてジンギスカンとなった。
「気の利いた店、ねえかな」。本郷の薬局の息子で空手部一の富裕家高木が言う。高木がいればわれらの経済部門は天下無敵、あなたのサイフはわたしのサイフ、いつもながら目一杯に頼る。当の高木はにこにこ顔、長嶋家の一茂くん同様、良家の息子はどこか鷹揚である。わたしは基本的に、奢ってくれる男やお世辞でも誉めてくれる人間が大好きである。
タクシーに乗り、運転手に行き先をまかせる。市内を抜け、深い森の庭園レストランに行く。サッカー場より広い。庭園の隅々まで飾られた提灯が涼風に揺れ、木々の間に間にライトアップされたテーブルが並ぶ。足下の水路に巨大なマスがゆらゆら泳ぐ。網ですくって食べていい。「おしゃれだぜ」。長靴のようなビールジョッキで、まず乾杯。ああ、憧れの北海道。「でっかいどー、ほっかいどー」、三井が叫び、「羊はどこだ?走り回ってないか?」、高木がぐるりと見回す。「いたらどうする?」、マツが言い、「正拳一発、そのまま肉にする」と、高木。幸か不幸か、羊の姿はない。
8人前の肉を頼む。長靴ビールのお替りをする。「マスを食う」。マツが言い、網を手に水路の上に立ち、そのままザンブと飛沫をあげて転落した。「マスをくわえて上がってこい」。「熊じゃねえやい」。驚いて飛んできたウェイターに「いっしょに泳ごうぜ」、マツが水中から笑いかけた。隣の美女3人が腹を抱えて大笑い。ビールを差し入れてくれた。飲めや歌えの蒙古放浪歌。「心猛けくも鬼神ならず、人と生まれて情けはあれど」・・・ああ、天下無敵。空手部用語で言えば、「責任転嫁無敵」。若さとは、素晴らしい。「おお、コク大」・・・母校の歌が北の夜空に響き渡る。と、「おーい、後輩!」。離れたテーブルから声がかかる。「なんだ!なんだ!」。「おーい、後輩!」。見ると数人の男たちが手招きしている。「先輩か?」と三井、「らしいな」とわたし。こんな遠くまできて先輩と出会うなんて奇跡だ。神の思し召しだ。「ゴチになるか!」。伝票を掴んで立ち上がる。
「オッス、先輩ッスか?」「そうよ、こんな所で後輩と会うとはな」。さあ飲め、ほれ食え、その伝票も渡せ。先輩後輩は素晴らしい。長年の溝が、一瞬に埋まる。「歌、歌え!」。「蒙古100万、篝火赤い」・・・三井が大声を張り上げる。思い出すなあ青春、もっと飲め、どんどん食え、酒だ、肉だ。勘定の心配のない飲み食いほどうまいものはない。「最近、医学部はどうだ?」。「もう過去の栄光さ」。ふと、そんな会話が耳に入る。あれ?おかしい。「おい」。わたしはマツの耳元で言う。「うちの大学、医学部あったか?」。「ねえよ」。「ねえよなあ」。稲妻のように不安が閃く。「おお、コク大」と歌ったら「後輩」と呼ばれた。だから先輩だ。だが、コク大に医学部はない。「だいたいわがホク大は」、横の男が言う。なに?ホク大?ホク大だと?北海道大学か? われら國學院大學は、コク大。ホク大とコク大。似てる。「おお、コク大」。コク大がホク大に聞こえる。「おお、ホク大」に聞こえる。われらはコク大、この連中はホク大。先輩ではない。となれば、この飲み食いの勘定はどうなる。伝票はどうなる。「歌え、三井」。その隙に一人づつトイレに行くふりしてフケよう。「砂丘に出でて砂丘に沈む、月の幾夜かわれらが旅路」・・・三井はもうやけくそだ。そして、われらはタクシーで闇に紛れた。ごめん、ホク大。ありがとう、北海道。ああ、青春。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/28
■  本屋さんのある町は、いい町だ

小沢昭一さんが「川のある町は、いい町だ」と言った。わたしは「本屋さんのある町は、いい町だ」と思う。
小学生の頃、西武新宿線下落合駅前に「貸し本屋さん」ができたときは嬉しかった。当時、高田馬場か目白まで行かなければ本屋さんがなかった。本が読みたくて隣町までとことこ歩いて行っても、立ち読みをすると怒られた。怒られないまでもハタキでパタパタ追い払われた。それでも懲りずに本屋さんに通った。父や母に、本を買いたいと言ってもお金をもらえなかった。
本は一年に一度、お正月に買った。付録が山のように付いているお正月号を買うと、世界を手に入れたように嬉しかった。わが家が特別貧乏だったわけではない。本は高いものだった。そんなとき、駅前に貸し本屋さんができた。毎日のように本を借りた。1冊借りて10円しなかった。
わたしは身体を動かすことが好きで、決して文学少年ではなかったけれど、本は特別の存在だった。本を読まないと置いてきぼりにされそうな恐怖心があった。未知の世界の大きさ、広さ、深さ、奇想天外の面白さが全部本のなかにあった。
母に寝ろといわれても、ボストンバッグのなかにスタンドを突っ込んで光がもれないようにし、夜中まで本を読んだ。「おもしろブック」や「冒険王」といった雑誌は、いつも新しい世界を見せてくれたし、江戸川乱歩の探偵小説では、明智小五郎と小林少年が、学校では教えてくれない考え方を教えてくれた。
鞍馬天狗は、正義とはなにかを教えてくれ、弱い者を助ける勇気を教えてくれた。エジソンの伝記ものは、才能とはなにかとか、努力することの大切さを教えてくれた。百科辞典は、世界の不思議に対する解答のすべて教えてくれる知識の宝庫だった。教科書はつまらないけれど、本はなんて面白いのだろうと思った。
やがてスポーツにのめりこんでも、いつもポケットに文庫本が入っていた。新聞配達の報酬をもらうと必ず本を1冊買った。本を買うだけで、頭がよくなったような、正しいことをしたような、嬉しい気分がわいてきた。やがて新宿、渋谷、池袋が活動範囲となったが、どの町にもいい本屋さんがあった。友だちと待ち合わせをするのも本屋さんが多かった。いくら待たされても腹が立たなかった。最も待たされた記録は、高校時代に同級の佐藤光二郎に7時間待たされたときだ。新宿駅東口の二幸前で朝の9時に待ち合わせをし、午後4時に彼は現れた。わたしは、待ち合わせをしていることもすっかり忘れて本を読んでいた。「まだ、いたのか」。光二郎があきれてそう言った。
いま、ネットの普及で本屋さんが激減している。最近、千歳船橋駅前の馴染みの本屋さんが店を閉めた。本好きの店主で、わたしとはテニス仲間だ。立ち話でいつも本の話をした。
ある時期、若い連中がたむろするくらい人気のあった本屋さんだった。「もう無理だな」。彼は言った。「暮らしていけない。所沢に引っ込むよ」。「本屋さんを続けないの?」「本屋は食っていけない。これからなにをやるかなあ。おれ、本しか興味がないからなあ」。さびしく笑った。閉店の日、店の外に鉛筆やノートをダンボールに入れて、町の子どもたちに無料で配った。「これ全部、出版社からのもらい物だよ。出版社にも世話になった」。彼の顔を見て、ふと不安になった。この町は、本屋さんのない町になる。知識の宝庫、文化の拠点、いつでもふらりと寄れる憩いの場所。それが、本屋さんだった。
ネットでは、ふらりと寄って愚痴をこぼすこともできない。血の通う店主もいない。体温のある話もできない。親とケンカした子どもはどこに行くのだろう。
最近、カフェコーナーを創ったり、集えるスペースをこしらえたり、新しい機能と装いをもつ本屋さんががんばっている。嬉しいことだ。街道には「道の駅」があって人気があるが、わたしは、本屋さんが「町の駅」になるアイディアはないものか、とつくづく思う。町の便利な場所にある本屋さんも多い。この一文が、「本好きの人間の戯言で終わらなければいいな」と思う。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/28
■  わたしの酒場放浪記

おれは想う海の彼方を。裕次郎は歌う。男は、放浪に憧れる。放浪は、男の宿命的願望だ。
どこか知らないけれど遠くへ行きたいぜ、でかい夢ふくらむ胸なのさ。歌はそう続く。だが、ふと気がつくと、もはや放浪より徘徊の似合う歳となった。
白い雲のように湧き上がるでかい夢も霧と消えた。いまや、夢を肴に酒場を放浪し、酔いの海を漂う日々となった。
東横線渋谷駅ガード下に「やまがた」という居酒屋がある。茶色く変色した壁にそって続く古畳の座敷がなんとも落ち着く。申し訳程度に置いてある、尻より小さい座布団がご愛嬌だ。
この店は、わたしの大学時代からある。刺身が安い。だが、鮮度にいちゃもんをつけてはいけない。むしろ失礼だ。食べられればありがたい、と思う心の広さが男には必要だ。
なにより嬉しいのは明るいうちから飲めることだ。昼間から飲む罪悪感などまったく感じさせない店だ。これこそ男の逃げ場である。
最近、マークシティの足元にある酒場に流れ着いた。「これぞ渋谷」という実に見事な佇まいで何から何まで古く、古さをむしろ誇りとしている節がある。客までも古い。
「細雪」という粋な名前が恥ずかしいのか、看板の電気が点かない。やっているのかやっていないのかわからない。傷だらけのガラスのドアを開けるのに苦労する。開かない。客が入るのを拒否する。ドアの取っ手が壊れていて、ガリガリとガムテープが巻いてある。無理やりこじ開けると、今度は閉まらない。酒にたどり着くまでに10分かかる。やっと入る。
毎度のごとく相席とくる。3人がヒソヒソ話をしている4人掛けのテーブル席にちょこんと座らされる。バツが悪くても文句を言ってはいけない。銀行を襲うような苦労をして、生きて店内に入れただけでも幸せなのだ。いかの刺身と熱燗二本2本で1000円ちょい。時々若い女性もいて、尊敬の眼差しを向けたくなる。だが、ここではあまり酔ってはいけない。疲れてはダメ。帰りに壊れたドアを閉めるという大仕事が待っている。
先日、わが町千歳船橋駅前にある酒場に寄った。週末の、多摩川の鯉釣りの帰りだ。河という天国から妻のいる家に帰るには、ある覚悟が必要だ。男は、妻の前に出るには覚悟がいる。キライと言うのではない。河が天国で、家が地獄と言っているのでは絶対にない。だが、なぜか覚悟を要する。その覚悟の一杯をやる。
城山通りを渡りラーメン屋の角を右に入る。アーケードとは聞こえはいいが、まあ、屋根のある路地裏だ。ダンボール箱やビール箱が山と積まれた狭い通路を、釣り道具を引きずりながらヨレヨレ歩くと、左側に「なぎ屋」はある。焼き鳥と焼きトンの店だ。ガラス越しに鳥を焼きながら、店長がピョコンと頭を下げる。細身で背が高く、お笑いタレント「よいこ」の有野くんに似た笑顔だ。ほっとする。聞こえないのに「いらっしゃい」ときちんと言っている様子。その礼儀正しさが嬉しい。
時には、がっしりした体格の副店長らしき男性が、これまた鳥を焼きながら、最上級の笑顔で迎えてくれる。人を幸せにする笑顔だ。彼の体格を見ると「ああ、大震災がきてもこの町は安全だ」と思う。なにか格闘技をやっていたのだろうか。入り口の手前の通路にテーブルがあって、この席が好きでいつもそこに座る。
「なぎ屋」は、メニューも豊富で安く、子ども連れの客も多い。居酒屋に子どもがちょろちょろするのも微笑ましい。メニューが豊富なだけでなく、居心地がいいのだ。店員のみなさん、だれもが気持ちいい。熱燗二合と鳥皮のタレを二本、それしか頼まないわたしなのに、わが子以上にやさしい。鯉の釣れない日も「どうでしたか?」と聞く女の子の笑顔に触れると「来週は釣るぞ」と、勇気が沸いてくる。
タトゥーを入れた若者も歯切れのいい会話と行き届いたサービスで、爽快な気分にしてくれる。カウンター席もわるくない。
先日、隣に座った美女と話が弾み、帰り際に傘まで貸してもらった。自分が濡れるのも構わずに貸してくれた。店もいいが、客もいい。さて、今日もふらり、わたしの酒場放浪は続く。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/28
■  河の子どもたち

時は、過ぎ去るものか、やってくるものか。過ぎ去る時を「過去」といい、やってくる時を「未来」と呼ぶ。過ぎ去ると思うのはオトナたち、やってくると感じるのは子どもたちだ。そしてすべての命は、「いま」を生きる。
サリー、ショータ、シキ、リューマ。4人の河の子どもがいる。悠久の大河に抱かれ、自然と対話し、自然の命と響きあって生きる命。両手に抱えきれない「未来」をもち、あふれる夢と希望をもつ。
きみたちは、夢と希望の塊だ。それを磨くのは、この大河。河原に息づく木々や草や花や鳥や、たくさんの命だ。だが、オトナになると夢と希望は消える。オトナたちは、きみたちの夢や希望を奪い取り、それがオトナになることだと勘違いをしている。
サリーは、中学生になった。エキゾチックな美少女だ。小学生の頃、この河に釣りにきた。父に釣りを教わったと聞く。肩まで伸びた黒く長い髪。瞳は清く澄み、小鹿のような純粋な光を宿す。すらりと伸びた容姿をトレーナーや半ズボンといった男の子のような服装で包む。鯉釣り師の今川さんや岩崎さんが、釣り道具を上げる。お昼ご飯をすすめたり、おかずを分けたり、なにかと面倒をみる。
二人には、サリーと同い年の孫がいる。サリーは、河原の石を並べる。ビール箱の裏の穴に一つ一つ並べる。黙々と、ただ石を見つめ、時間を忘れて並べる。切ない。釣りを教えた父が、数年前に事故でなくなったと聞く。この河は、父の想い出か。
「サリーちゃん、学校好きか?」。そう聞くと、うーんと首をかしげた。「なにが楽しい?」。そう聞くと、「ヒップホップ」と小さく言って小さく笑った。サリーが鯉を釣り上げると、みんなわがことのように喜ぶ。中学生になってダンス部に入ったと聞いた。
ショータは、小学5年生。外国人の母をもつ。学校が嫌いだ。先生から、「そんなに嫌いならこなくてもいい」といわれた。本当ならひどい話だ。BBQの連中を見ると、火起こしを手伝う。そして、肉をご馳走になる。あっちのグループこっちのグループと、いつの間にかBBQの輪に入る。「おじちゃん、リール投げさして」。BBQに飽きたショータがそういうと、有村さんは自分の竿を渡す。うまく投げられない。すぐ飽きる。そんなことは百も承知で有村さんは、いつも竿を貸す。根がかりで仕掛けを失くしても、竿を放り出して消えてしまっても、いつも笑って竿を貸す。
シキは、川上から自転車でやってくる。小学4年生。水鉄砲をもって河原を駈け回る。オトナたちの釣竿に触って叱られる。それでも、ケロッとしている。岩から岩へ飛び回り、みんなをハラハラさせる。
草むらに放り投げた自転車は、アメリカの少年のようにスタンドのない自転車だ。賢しこそうな顔をしている。
「シキ、勉強してるか?」。そう聞くと、ニヤッと笑って走って消えた。リューマは、父と二人で河にくる。子ども釣りコンテストに参加して、大物を狙う。小学2年生。父の言うことには絶対服従だが、マクドナルドの昼飯に時々文句をつける。「寄り道してるのかなあ」とブツブツ言う。父を心配している。「これ食べな」。仲よしの金沢さんがパンを勧めても、リューマは手を出さない。父の許しがないと手を出さない。父母の躾がきちんとしている。そのくせ、寂しがりやで甘えん坊だ。ある時、リューマの竿に70センチの巨鯉がきた。子どもの手には負えない大きさだ。だが父は、「自分でやれ」と手を貸さない。網を手にリューマにぴたりと寄り添う。「大丈夫、できる」と励ます。「重いよ。糸が切れる」。リューマの泣き言にハラハラする父だが、「大丈夫」をくり返す。やっと釣り上げてリューマが笑う。それでも「手が痛い」とか「コンテストじゃもっとでかい鯉を釣ってるね」と、リューマは父に甘える。「リョーマ、おまえは、国を変えるほどのいい名前をもっているんだ」。そう言うと、「ぼくはリョーマじゃない、リューマだ」と、強気の返事が返ってきた。子どもたち、オトナになっても、この河を忘れるな。たとえ都会の濁流に流され傷ついても、悠久の大河に抱かれる「いま」を忘れるな。いいか、きみたちは、夢と希望の塊だ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/26
■  私の愛したヤクザ

人は、人に磨かれる。その時の私にはその言葉が偽りのない真実だと思う若さと純心があった。伝説の侠客、関東尾津組組長尾津喜之助氏と出会ったのは大学4年の時で、越谷にある喜之助氏の別邸だった。季節は爛漫の春、舞う桜吹雪が庭園を芝居の舞台のように飾っていた。伝説の男は灰色の着物に大柄な身体を包み、ゆっくりと桜吹雪の中に現れた。
180センチを越える長身。痩身でがっしりとした体格。着流しの着物の裾が春風にはらりと揺れた。後ろに義兄の安次郎さんが寄り添う。広い庭園では、大勢の社員と大勢の越谷の人々が集って花見の宴を楽しんでいる。
錦鯉の泳ぐ大きな池があり、屋形船が浮かんでいる。木蔭のあちこちに鉄製の檻があり、熊が飼われている。桜の木々の足元では、放し飼いの孔雀たちが美しい姿を見せている。飲食や遊戯の屋台が並び、どの屋台にも人々が群がっている。焼きそばも綿菓子も金魚すくいも、すべての屋台が無料だ。
子どもたちは両手にあまる食べ物を抱え、手に手にヨーヨーや金魚をぶら下げて走り回っている。大人たちは芝生に敷いたゴザに座り、折り詰めの寿司を広げている。
その時すでに組は解散し、喜之助氏は実業家に転身していた。尾津組は尾津商事になっていた。新宿歌舞伎町に龍宮城に似た豪華なお好み割烹店を出し、三越裏に日本で初めてのスーパーマーケットを出店していた。喜之助氏にまつわる伝説は多い。太平洋戦争の敗戦で焼け野原となった新宿の街に、「光は新宿から」のスローガンを掲げ、私財を投じて街灯を設置した。不良アメリカ進駐軍から日本人を守るために、身体を張った。駅東口にテント張りの「尾津マーケット」を作って生活物資を供給し、空襲によってボロボロになった人々を救った。歌舞伎町にゴールデン街を造ったのも喜之助氏だ。
父の友人の安次郎さんに頼まれ、私は空手の演武を披露するためにこの宴にきた。水戸の武家に生まれた喜之助氏は空手に興味をもち、昼食に招待してくれた。直々に酒を注いでくれる喜之助氏に、伝説の男を目の前にする気持ちの昂りとともに、複雑な気持ちが沸いた。
不安が心をよぎった。盃を受け取るということは、親分子分の関係になってしまうのだろうか。石原裕次郎のヤクザ映画の大ファンだったが、本気でヤクザになる気はなく、そんな度胸も私にはない。
「きみは、国士ですか?」。喜之助氏が笑みを浮かべて語りかける。荒削りの彫刻のような風貌。太い眉。窪んだ瞳の眼光は鋭いが、穏やかな光だ。太くがっしりとした鼻梁。厚い唇。大きく引き締まった口元。いかにも豪放、まさしく武士だ。国士という聞きなれない言葉に戸惑っていると、喜之助氏が言葉を継いだ。「日本はここまで復興した、だが、まだこれからだ。国を創るためにその力を使いなさい」。それを聞いて国士の意味が理解できた。
「就職は決まったのかね?」。喜之助氏が聞く。「いえ、まだです。アメリカで空手を教える話がありますが、行きません」。「ほう、なぜ?」。「あんなでかい図体の連中と殴りあう気がしません」。そう答えると喜之助氏は愉快そうに笑った。話は続いた。若い私に、喜之助氏は自分の生き方を語り、男の生き方を教え、日本の将来を語る。「誇りだけを守ってきたのかなあ、なあ安さん」。横で安次郎さんがほのぼのと笑う。安次郎さんは、喜之助氏とは違って地蔵のように小柄だ。その穏やかさからはかつて侠客時代に、「人斬り安」と怖れられた尾津組の斬り込み隊長だったとは誰も想像できない。
喜之助氏の伝説は、小説よりも数奇だ。「社長は、きみに尾津商事に就職してほしいのだ」。帰りに桜吹雪の庭園を歩きながら、安次郎さんがぽつりと言った。結局私は、尾津商事に就職することはなかった。だが、大学を卒業するまでスーパーマーケットでアルバイトをしながら安次郎さんにお世話になった。喜之助氏も着流しでふらりと現れ、顔が合うと財布から手の切れるような一万円札を取り出して渡すのだった。若い日の、男の中の男との出会いだ。 
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/26
■  女が勝つか、男が勝つか

夏目漱石が、東京大学教授の安定した椅子を突然放り投げて、朝日新聞の社員になった理由ははっきりしない。大学教授より不安定な暮らしになるが、それなりに高給だったと推測する人もいる。新聞社に行けば、もっと自由に小説が書けるからだという意見もある。
漱石はその性格からして破滅型だ、安定した暮らしに飽きたのだという推測も当たっているかもしれない。とにかく漱石は、すでに小説家としても世に知られるようになっていたのに突然朝日新聞社の社員になった。そして書いた最初の連載小説が「虞美人草」だ。
「虞美人草」に「藤尾」という女性が登場する。彼女はこの小説の重要人物のひとりで、進んだ考え方を持ち、時代の先端を生きる女性だ。やがて訪れる時代の、理想の女性像を暗示させる人間として漱石は書いた。その漱石が、女と男に関してこんなことを言っている。「1対1の戦いでは、男は決して女に勝てない」。そういう。漱石活躍の明治時代は、まだ江戸時代を引きずっていたわけだから、ばりばりの男社会だったはずだ。それなのに漱石は、「1対1の戦いでは、男は女に勝てない」と明言した。
ばりばりの男社会でありながら、女のほうが強いと、そう言う。たしかに「藤尾」は、少々自分中心だが、社会理論を美事に組み立てるし、相手の言葉尻を素早く捉え、揚げ足を取るのも巧みだ。思考も新しいし、機転も効いて話術にも長けている。だが、「男に勝つチャンスがないわけではない」と漱石は言う。
社会の話、国家の話、政治の話、戦いの土俵をそこにもって行けば、男にも勝つチャンスがある。漱石はそう分析した。
だが考えてみれば、現代も同じようなものだ。現代は、男社会から女社会へ移行する過程にある。美しくいえば男女平等社会の実現を目指している。さまざまな点でギクシャクしながら、あちこち無理しながら女も男も頑張っている。
女たちが「藤尾」のように、自分中心でありながらしっかりと社会や国家や政治の勉強をし始めている。大したものだ。
ついこの前まで、日経新聞は男でも読まない者が大勢いたが、いまはどうだ。女性が人前で日経新聞を読むのが、格好いい時代になった。記事内容が一般新聞寄りに拡大されたこともあるが、女性が、社会、国家、政治の領域に足を踏み出したことは確かだ。男に負けない「藤尾」のような女性が大勢現れたのだ。小説家村上龍と女性をテーマに対談したのは、彼も私も若い頃だった。「女のほうが強いね」。それは、彼もわたしも同意見だった。ある化粧品会社のPR誌だった。
「女が戦争に行ったら、男より強い」。村上氏は言った。「では、なぜ男が戦場に行くのか?」。わたしの質問に村上氏は言う。「女が戦場に行って、もし一人しか帰還しなかったら、翌年子どもは一人しか生まれない。男が国に何人残っていようが女が一人になってしまったら、子どもは一人しか生まれない」。「男が戦場に行って一人だけ帰還しても、国に女が大勢いれば子どもも、それだけ大勢生まれるということですね」。わたしたちは子どもを生むだけかよ、と女性たちに叱られそうだが、実に明快な理論でもある。
つまり、女と男がまったく同じ土俵に立てば、男は女に勝てないのだ。当然だ。国というものは、運営の善し悪しがあるけれど、子どもの数の多いことが繁栄の基本だ。男たちは、心のどこかでそれがわかっているから、政治だ、経済だ、国家だと、社会の中で役立とうと必死になっている。その分野まで女に奪われたら、もうあとは男が子どもを生むしかない。
最近増えているニューハーフ連中に聞いてみたい。あなたがたの究極の願望は、子どもを生むことかと。まあ、その前に男女の勝ち負け論は止めて、どうすればともに輝かしい未来が創れるのかを、腹を割って話したい。女の美事な部分と、男の美事な部分を認め合い、尊重し合うことから始めることだ。それが男女平等社会の基本だ。さもなくば、確実に男が負けるか、国が滅びるかだろう。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/21
■   のたりのたりの蝉時雨

7月の声を聞くと、待ってましたとばかりに猛暑が突然襲ってきた。「この分じゃあ、山は火事だんべ」という落語のセリフを思いだしながら、渋谷交差点の真っ青な空を恨めしげに見上げる。そして思う。ああ、どうやってこの暑い夏をやり過ごそうか。とにかく山は燃え、脳みそも溶けそうだ。だが、逃げてばかりいても埓があかない。こうなれば反撃だ。攻撃こそ最大の防御なり。
わが國學院大学空手道部伝統の精神で、攻撃に転じよう。開き直った。できる限りの防御を施してからの攻撃だ。でも、暑さに攻撃するとはどういうことだ。暑さに対する攻撃とはなんだ。そうだ、夏を楽しんでしまえばいい。この暑さを逆利用して楽しむことだ。それが攻撃だ。そう決める。かといって、豪華客船で地中海クルーズに出かけるとか、軽井沢の別荘でひと夏過ごすとか、そういった富裕発想の楽しみ方はまるで浮かんでこない。金をかけずに夏を楽しむ。
下落合の職人の倅の貧しい発想しか浮かばない。下落合貧困発想では、どうすれば夏の暑さを楽しめるのか。そうだ、とにかく、まず朝顔を買おう。朝顔を買って、テラスで咲かせてやろう。
仕事帰りに渋谷のバス停前の花屋で朝顔を買う。妻の分と息子の分、二苗を買う。200円。安い攻撃だ。犬と亀とわたしの分は買わない。テラスが狭い。枯れた。朝顔は、すぐ枯れた。なぜか、すぐ枯れた。どうしてだ。妻は、枯れた理由などまるで考えずに、あっという間にテニスクラブの脇に咲く朝顔の苗をもって帰る。こいつが元気でぐんぐん伸びる。ぐんぐん伸びて、ぱっぱと花が咲いた。皮肉か。理屈抜きの女性の感性にはかないません。
ある朝5時に起きて数えてみたら29輪の花が咲いて、にこにこ笑ってこっちを見てる。それは、妻の勝ち誇った笑顔のようで、かわいいけれどなんか腹が立つ。いやですねえ、女性に対する男の本能的な嫉妬かなあ。
8月に入った月曜日。暑さはさらに厳しい。新宿歌舞伎町、花園神社にいる。夕暮れだ。西の空が赤く染まっているが、上空には青味が残っている。参道の灯篭に灯が点った。暑い。空気がドヨンと澱んでいる。参道の石畳は焼肉の鉄板だ。その上を歩くわたしは、カルビだ。簡さんとの約束は7時だから、まだ小一時間ほどある。日本生まれで台湾国籍をもつ簡さんは、NPOや社団法人の運営に関わり、アジアとの太い架橋となっている。今日、その簡さんに会って「気功」の講義を聞く。まだ時間がある。カルビのわたしは、こんがりと焼けながら石畳の鉄板の上を漂い歩く。そこで、ふと浮かんだのが、「ひねもすのたりのたりかな」という句だ。なぜかはわからない。ふと浮かんだ。与謝蕪村は、「春の海、ひねもすのたりのたりかな」という名句を生んだ。「のたりのたり」、いい言葉だ。ドヨンの中で、「のたりのたり」という言葉が浮かんだ。でも、蕪村の「のたりのたり」は、春だ。わたしの「のたりのたり」は、夏だ。猛暑の花園だ。海ではない。繁華街のど真ん中の神社だ。だが、気分はまさに「のたりのたり」だ。
そこで、句に挑戦する。溶けかかった脳で句を詠む。「夏の宵、ひねもすのたりのたりかな」。まんまだ。それに「ひねもす」ではない。たかが小一時間の逍遥だ。そこで、こうする。「夏の宵、のたりのたりの石畳」。石畳を入れたが、「夏の宵」が当たり前すぎてつまらない。
これはどうだ。「蝉時雨、のたりのたりの石畳」。だめだ、「蝉時雨」がきれい過ぎてつまらない。では、これはどうだ。「蝉宵や、のたりのたりの石畳」。少しいい。だが、フラットだ。「蝉宵」を「蝉酔い」にしたらどうだ。「蝉酔いに、のたりのたりの石畳」。「蝉酔いや」より「蝉酔いに」のほうがいいな。待て。「石畳」がいまいちだ。
「宵酔いに、のたりのたりの蝉時雨」。もはや蕪村から遠くなったが、悪くない。「宵酔いに、のたり花園蝉時雨」。遠すぎるか。そうこうするうちに竹林閣を訪れる時間がきた。以来、「のたりのたり」が、猛暑に対抗する呪文となった。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/21
■   小さな秋、見つけた

9月になって4日ほど遅い夏休みを取る。どこへ行こうという予定はない。多摩川で鯉釣り三昧も悪くはないが、はぐれ雲のようにぶらりと、なにもしない日々を過ごしたい。小さな秋をさがす旅に出ようと決める。
家の玄関を出て、角を曲がればそれはもう旅だ。そう言ったのは、作家の永六輔さんだ。「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」を作詞した永さんには「遠くへ行きたい」というヒット曲もある。だが、遠くへ行く気はなく、ぶらりとバッグ片手に家を出る。
図書館で本を借りよう。4泊くらいのつもりだから、だれかの全集が読めるかもしれない。夏目漱石はちょっと重いかな。「それから」を読んだばかりだし。志賀直哉もいい。武者小路実篤もいい。「愛と死」をもう一度読もうか。でも、つい石坂洋次郎に手が出てしまう。読みやすい。
「若い人」はその昔、石原裕次郎主演で映画化された。浅丘ルリ子、吉永小百合が共演した。「草を刈る娘」も吉永小百合主演で映画化されたはずだ。これをじっくり読んでみよう。手軽な文庫本を買おう。
駅前の本屋で、西村京太郎の「鎌倉江ノ電殺人事件」を買い、「日本の名詩100」を買う。読みかけのヘミングウェイの「エデンの園」はポケットにある。小田急線に乗り、適当に走り適当に降りる。バスにも乗る。小さな庭を見つける。「森田の庭、どうぞご自由にお入りください」、と書かれた手作り看板が暖かく迎えてくれる暖かく小さな庭だ。狭い石畳の小道の両側に花たちが咲き競い、精一杯に微笑んでいる。ユウゼンギク、ハツユキカズラ、サルビア、ミニバラ、サフィニア、ハマギク、ノコンギク、ケイトウ、マリーゴールド、季節の花々が、赤、オレンジ、ピンク、紫、黄色とさまざまな色をつけて咲いている。時々通り過ぎる風にかすかに揺れる花たちはみんな小さく頼りないが、ひとつひとつの花から懸命に生きる力が伝わってくる。おそらく専門の庭師が手入れをしているのではなく、庭好きの方がやさしく作り上げている庭で、過保護されない花たちがより自然に近い姿で、自分の力で生きている。周りを囲う低い木枠や小石がなければ、そのまま野に咲く花だ。
小道の中程に白いベンチがある。何度もペンキを塗り直した古いベンチに、秋の日が当たっている。一人ではとても抱えきれない太さの杉の木が何本もあって、秋に午後の日差しが杉の枝をくぐってベンチや小道にちらちらと影と日向を作っている。重いバッグをベンチに置く。そういえば、もう蝉の声もない。冷たい水を一口飲む。「日本の名詩100」を開く。金子みすゞがいる。山村暮鳥がいる。宮沢賢治、室尾犀星、中原中也、草野心平、そうそうたるメンバーが力作を並べる。「秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があって、それに陽は、さらさらとさらさらと射しているのでありました」。中也だ。
河原に行ってみるか。そうだ、陽のあるうちに河原を見てみよう。目先に小さな瓢箪池がある。ブロック石が瓢箪の形に並んでいる。白い看板に「鯉池の仲間たち」と書いてある。本をベンチに置き、池の畔にかがみ込む。澄んだ水に美しい4匹の錦鯉が泳いでいる。柚子、梅、都、みかんと、4匹の鯉の名前が書いてある。鯉たちは、まったく人影を恐れる様子がない。いじめられた経験がないのだ。
多摩川の鯉たちを思い出す。人を恐れる。人の影に驚く。足音に逃げる。花にも鯉にもさまざまな人生がある。そういえば、仕事で行く途中の渋谷駅にはたくさんの鳩がいる。鯉釣りに行く多摩川にもたくさんの鳩がいる。どっちの鳩が幸せなのだろうか。小さな庭の小さな花は、いかにも幸せそうに見える。
新宿御苑の手入れの行き届いた花壇の花たちと、人から忘れられたような小さな庭の花は、どちらが幸せのなだろうか。少なくとも、この小さな庭の花たちの方が、夢中で自分の人生を送っている。小さい秋とは、小さい幸せのことだろうか。なにもない一日が、ふと幸せに思えた。
2020/02/21
■   映画監督を夢見る

背後に山ほどの苦労があることも考えず、ただただ映画監督に憧れる。映画づくりをやってみたい。男兄弟ばかり、その上中学、高校、大学の10年間を汗臭い体育会で過ごしたせいか、気の合う仲間たちとワイワイやる心地よさが身についてしまった。
小津組とか木下組とか、黒澤組、大島組という映画づくりの呼び名のなんと美しい響きか。かといって、胸を張って威張るほどの映画オタクでもない。ジェームス・ディーン、ハンフリー・ボガード、ジョン・ウェインあたりから始まって、日活石原裕次郎、東映高倉健の洗礼を受けたクチだから、映画通からすればただのミーハーに過ぎない。
ふとした成り行きでコピーライターになって、テレビコマーシャルをつくるようになったが、テレビコマーシャルづくりは映画づくりの雰囲気に似て実に楽しい。
監督がいて、プロデューサーがいて、カメラマンがいて、数人のライトマンがいる。大道具、小道具、スタイリスト、ヘアーメイク等のスタッフがずらりと揃う。俳優とかタレントとかモデルが参加する。総勢20人30人以上になる。これはもう体育会の合宿である。お祭りだ。ワクワクする。嬉しさがこみ上げてくる。こんな楽しいコマーシャルづくりの企画とコピーを担当して200本以上やらせてもらった。
あるときあるコマーシャルで、若夫婦を登場させるアイディアを出し、得意先の了承を得た。大手ディベロッパーのマンションのコマーシャルだ。「これさあ、15秒、30秒って短いけど、映画のワンシーンみたいに撮影したいね」。プロデューサーにそう言うと、「やりますか?黒澤組に頼みますか?」という返事がきた。そういえば担当制作会社、黒澤明さんの息子さんと関係のある会社だった。黒澤明さんはすでに他界されていて、黒澤さんの助監督を28年も務めた小泉尭史さんが黒澤組の監督となっている。
「できるのか?」。「聞くだけ聞いてみましょう」。小泉監督は、すでに「雨あがる」「阿弥陀堂だより」というすばらしい映画をつくっていた。黒澤組が引き受けてくれ、天にも上る気持ちで成城に会いに行ったのは、数日後だ。打ち合わせ場所のファミレスには、黒澤組の一同が集まっていた。小泉監督はやさしく微笑みながら、教育者のように真摯な眼差しで話をしてくれた。
穏やかで、決して押し付けがましくなく、たくさんの仲間を惹きつける海のような大きさがある。街の公園で若い夫が若い妻を抱き上げて笑っている一枚の絵と、「プロポーズの言葉、覚えていますか?」という一行のコピーしか私は持っていなかった。これではとても映画にならない。だが監督は、なんとか映画にしようと知恵を絞ってくれた。「公園でなくてもいいですか?」。監督が言い、カメラマンの上田さんに相談する。「川にしましょう。柔らかな春の日差し。川面を舞う蝶。中也の詩の世界。しっとりとした幸福の中に芯の強さを感じさせる」。大賛成だ。撮影は多摩川で行った。曇った日だったが、驚いたことに黒澤組は、昨日の雨で流れが強く、濁った川の中に何本もの大型ライトを立て、きらきら輝く美しい春の川面をつくってしまった。
蝶のように可憐な若い妻が膝小僧まで水に浸かり、手で水を跳ね上げる。すると、金色の水しぶきが無数の蝶となって宙いっぱいを舞う。息を飲むシーンとなる。岸辺でラジオを聞きながら妻に向かって笑いかける夫。テーブルの上の古いラジオから、財津和夫の緩やかな歌が光の川に溢れる。その小泉監督が久々に映画をつくった「蜩の記」が封切られる。打ち合わせが終わると酒を飲むスタッフと別れて、奥さんと食事をするためにいそいそと帰宅した監督。
監督は、酒を飲まないが、それだけではない。「せめてロケがない時くらい、奥さんと食事をしてあげたいらしいのです」。スタッフの一人がそっと言った。映画には、小泉監督の柔らかく人を見つめる目と、暖かく人の命を包む心が溢れているのだろう。ああ、私には映画監督はとても務まらない。夢だ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
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