高野耕一のエッセイ

2020/02/13
■  出て来い、海舟

「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲だ」。幕末の立役者勝海舟は、実際に出会った人物を鋭い慧眼で観察し、その著書「氷川清話」でズバッと切った。
「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはや(幕府は)それまでと心配していた」と言う。「木戸松菊(孝允)は、西郷などに比べると、非常に小さい。しかし綿密な男さ。使いどころによっては、ずいぶん使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがの」と切って捨てた。
年頭にあたり、勝海舟にご登場いただいたのは、偉大な人物は100年200年後に出てくる、という彼の予言どおり、そろそろ時代を読み、時代をリードする人物が現れていい頃だと思うからだ。
乱世の幕末時代(現代も似たような乱世だ)実際に世界との交渉に立ち会い、大政奉還を企画し、江戸城を無血開城し、幕臣でありながら260年続いた徳川幕府の幕引きをしたのは、海舟だ。なにが正義なのか。なにが無理のない正しい流れなのか。それが読めた。
なぜ、海舟はそんなに大人物だったのか。海舟は、「明鏡止水」という言葉を好んで使った。「明鏡止水」とはきれいな鏡のように澄んだ心、止まった水のように穏やかな心の状態のことだ。英米の列強に対し、薩摩、長州、他藩の過激な連中との交渉に際し、海舟は常に澄み切った鏡のように、先入観を持たず、余計な策を一切用いることなく、誠心誠意でぶつかった。その場その時にあらゆる方向に思考を巡らせ、相手の真意も変化も正確に把握し、対応の翼を自由奔放に広げた。
あのでかさはなんだろう。「明鏡止水。どんな難局も、それで乗り切った。それでしか乗り切ることはできなかった。下手な策は相手に見透かされ、かえって交渉をまずくする」。できる準備を万端整えた上での「明鏡止水」だ。
海舟の家は、元々武家ではない。祖父が検校で金を儲け、武家の株を買った。その頃の武家は貧しかった。金持ちと養子縁組をして持参金をもらい、その金持ちの家を武家として名前を名乗らせた。
祖父は、初めに男谷家の株を買い、次に勝家の株を買った。男谷家を海舟の父小吉の弟にまかせ、勝家を小吉に継がせた。男谷家には、剣豪男谷精一郎がいる。海舟は貧しかった。精一郎について剣に打ち込むことによって貧しさを紛らわした。
男谷道場には、剣豪島田虎之助がいる。海舟は、精一郎と虎之助から剣を習うと同時に、「もう剣の時代は終わる。これからは西洋の兵学だ」と蘭学を学び、いち早く世界を知ることとなった。まだ黒船は来ていない。海舟はだれよりも早く世界に目を向けたのだ。
父小吉は、頭のいい人物だった。学はないけれど、大名の相談役ができるほど明晰だった。飾るところがまるでなく、下町世間といっしょに生き、喧嘩好きの無頼漢小吉は、自分に学問がない分、海舟に学問をさせた。海舟の飾らない性格、ここぞという勝負感と豪胆な精神は、間違いなく小吉譲りだ。その父からもらった天性の才能に、武士道で人間道を学び、剣で強さ弱さを知り、蘭学で世界を学んだ。父だけでなく優秀な師匠について教育と教養を身につけた。外国人とも大いに付き合った。人間としてどんどん大器となった。ここが重要。根本がしっかりしているから、自分を平気でさらけ出す。常に明鏡止水、素直でいられる。スポンジにようになんでも吸収する。
内容のない人間ほど、飾らなければならない。飾る人間の底は浅いから、すぐ見抜かれる。策を弄するものほど、策を見破られ、窮地に陥る。海舟は、それをしない。正々堂々、正面から事に当たる。なにが正しいかをはっきり判別できるから、相手が見えてくる。相手の私利私欲、都合が見えてくる。相手が見えれば、交渉は自在だ。
横井小楠、西郷隆盛、勝海舟、時代を創った人物に共通するのは、人間の器の大きさだ。夢と希望に溢れ、時代をリードする大きな器の人物が、いまの日本にほしい。出て来い海舟。謹んで新年のお慶びを申し上げます。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/13
■  くずれても、なお美しく

テレビのバラエティ番組が目につく。スタジオでのクイズ番組、お笑い芸人のドタバタ番組、旅番組、美味しいものの食べ歩き。それらをチャンネルをとっかえひっかえ眺めている。女優でも歌手でもない、いわゆるテレビタレントと呼ばれる女性たちや、局アナつまりテレビ局のアナウンサーたちが出演することが多い。映画宣伝のためにいまが旬の人気俳優が出演したり、新曲キャンペーンのために売れっ子歌手が登場することもある。
かつて人気のあった俳優、いまはむかしのアイドルの懐かしい顔を見ることも多い。彼らの救済番組と思えば、それはそれで有意義なのだ。いいことだ、とニコニコしながら見ている。テレビ局にしても、むかしほど高額なギャラを必要としないから、都合がいいのだ、などと他人の財布まで心配する。NHKはともかく、民放に至っては制作費の削減削減で、いかにも安づくりの番組が増え、テレビの文化度は下がる一方である。
さて、バラエティ番組だが、出演者が、いかに演技することなく素の人間性を発揮できるかが重要となる。素の魅力、本人の本質的魅力が問われる。どのみち番組内容は、さっきも言ったように、井戸端会議や楽屋話のような、どうでもいいようなものばかりだから、そのなかで、どう自分を魅力的に見せるかが勝負である。相手を思いやる暖かい会話のできる人が好きだ。出演者の本質的な魅力、豊かな人間性に触れると嬉しくなる。相手の話を聞くときの態度、表情を見ていると、その人の人間性が見えてくる。ことばの端々に品格が伺われる。
映画で主役を演じる女優が、バラエティ番組に出演した。素の状態になっても、「わたしって、美人でしょ」という顔をしている。化けの皮が剥がれても、「わたしって、えらいでしょ」という傲慢さが見える。100年の恋も一瞬にして醒めた。しまった、と思ったが後の祭り、その後、その女優の出演する映画を見なくなった。
学芸会のようにワイワイ騒ぐだけのグループ歌手が、美味しいものの食べ歩き番組に出演し、われわれには手の出ないような高級料理をガツガツ食べる姿を見ると、「ああ、世も末だ」と愕然とする。
こちらのニュースでは、アフリカの飢えた子に救済を、と叫んでいるのだ。日本は豊かな国だ、と思う前に腹が立ってくる。「なんで味もわからないガキに、こんなに高い料理を食わせるんだ」。嫉妬心も働いて、どうにも腹がたつ。嫉妬は、魂の不敗だ、と言ったのはソクラテスだが、ほっといてもらおう、わたしの魂は腐敗している、と開き直る。料理人も料理人だ。そのガツガツを嬉しそうに見て、笑っている。目立ちたがり屋にはテレビの威力はまだまだあるようで、テレビに出るというだけで、嬉しくなってしまうのだ。それもわかる。食べる行為は、人さまざまでこれが面白い。
口を開けて、粘膜を見せるのは、恥ずかしい行為だ。そう言ったのは、井上陽水だ。なるほど、陽水は歌手なのに、恥ずかしそうに口を開ける。食べる行為には、品格の差が出る。美人、不美人は関係ない。有名、無名も関係ない。生まれ、育ち、教養、そんなあれこれが品格を形成するのだろうが、食べる行為には、それが如実に現れる。くずれても、なお美しく。人に見てもらおうという出演者は、できれば最低の品格をもっていてほしい。
旅番組も、よく見る。鶴瓶が出ている番組。三宅裕二が出ている番組。綾小路君麻呂が出ている番組。楽しく見ている。とくに三宅裕二がいい。鶴瓶も面白いが、どんなに頑張っても、自分が出てしまう。登場する素人さんが、鶴瓶に負けてしまう。三宅裕二は、素人さんと見事に融和する。相手の話を無理なく活かす。真から興味を抱く。子どものように、自然に相手に同化する。これがキャラクターというものか。恐い。綾小路君麻呂も、まだ個性が邪魔をしている。素で生きてこそ、人は美しい。それには、自分をいかに捨てるか。いかに相手を思いやるか。品格が必要なのだ。自分のことを棚に上げて思うのだ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/13
■  純喫茶「十字路」

純喫茶「十字路」。多摩川の風に吹かれるその店は、昭和の落とし物だ。登戸にある。真剣に探さないと見落としてしまう。看板の純喫茶の文字がいい。懐かしの「昭和」だ。
純喫茶も、いまは死語だろう。ぼくの学生時代には、「白鳥」とか「田園」とか「ジロー」があった。そうそう西武新宿駅前には、歌声喫茶「灯」があった。
「雪の白樺並木夕日が映える、走れトロイカ軽やかに粉雪蹴って」。大学生が指揮を取っていたけれど、あれってロシア民謡だから、彼らは左翼系だな。ぼくは高校生で、左翼でも右翼でもなく、仲よくだった。登戸という地名は、古代からあった。古代って奈良時代以前だ。凄いね。聖徳太子が、「よう妹子、登戸に行こうぜ」なんて小野妹子に言っていたのだ。この地名、千葉にも埼玉にもあって、河原から丘陵地への登り口、その地形から登戸と名づけられた。
時の彼方からやってきた「十字路」は、大型トラックが走る古い街道の、まさに「十字路」にある。だから、そのまんまの名前だ。ぼくらは、多摩川で鯉を釣った帰り、反省会のために「十字路」に寄る。
「ぼくら」とは、ぼくと釣りキチの松っちゃんだ。松っちゃんは、松岡という苗字だが、下の名前は知らない。今はちがうが、もとは照明技師、ライトマンだ。ステージ上の芸能人を美しく浮かび上がらせる仕事。「美空ひばりなんか照らしたもんね、わーい」と胸を張る。(たしか美空ひばりだったと思うが、ちがったかな)。
鯉が釣れても釣れなくても、ぼくらは、行く。鯉釣りの先輩の有村さんが、「あそこ、昆布茶をサービスでくれるよね」と、言った。「えっ、飲んだことないな」。松っちゃんと顔を見合わせる。「よし、こうなったら昆布茶を飲めるまで通おうぜ」。意地になって2人で通う。
通りの反対側にマックがあって、100円コーヒーがあるのに、コーヒー500円の「十字路」に行く。マックのコーヒーなら5杯飲めるのに、ぼくらは、「十字路」に通う。意地だ。「昆布茶が出るまで通おうな」。なんだかマダムの作戦に乗せられたような気分だが、もう後には引けない。それより、こてこての昭和が嬉しい。「昭和尋ね人」のぼくとしては、とにかく落ち着くのだ。入り口の自動ドアは、踏んづけて開けるタイプ。ガンガン踏まないと開かない。万一行こうと思う人は、足に怪我をしないように注意してほしい。あるいは体重の重い奥さんといっしょに行ったほうがよい。入り口脇に古いショーケースがあって、中に昭和40年のオープン当事から置いてある作り物のナポリタンが、ほのかにほこりっぽく客を迎える。ドアが開いたら、段差があるからご注意を。無事に中に入れたら、右側に長いカウンターがあるから、むかし美人のマダムと話したい人は、カウンターに座るとよい。小柄で、穏やかな、品のいいマダムだ。(早く昆布茶、ちょーだい)。
左側に4人掛けのテーブル席が、奥に向かって並んでいる。大きなガラス窓から街道が見える。その向こう側に100円コーヒーのマックが見える。一番奥のテーブルが、ぼくと松っちゃんの指定席だ。指定席は、予約しなくても空いている。ぼくら以外に客はいつも1人か2人、この前3人もいてびっくりした。客も、開店当事からの常連で、店同様に古色蒼然。近くに住む釣り仲間の板前職人、川崎さん夫婦も常連で、夫婦仲良く手をつないでコーヒーを飲みに行くと聞いた。茶色の革のシートがいい。破れて白い中身が飛び出しそうだが、ガムテープがビシッと二重に貼ってあるから大丈夫。巨大なダイキンのクーラーがいまにも爆発しそうに悲鳴を上げている。
有村さんが、「あのクーラー、強と弱しかない、調節できないのよ」と、教えてくれた。あまりうるさいので、壊れているのかと思った。日活俳優、マイトガイ小林旭が「十字路」という歌を高い声で歌った。「あきらめてあきらめてもう泣かないで、お別れのお別れのクチヅケしようよ、あああ深い深い深い霧の中、すみれの色の灯がひとつ、灯る十字路」。いいなあ、これが昭和だぜ、登戸バックトゥザ・フューチャー、松っちゃん、来週も行こうな。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/12
■ テクテク、ニコニコ、パクパク

あれは、いつ頃だったろう。早い春だ。妻の両親と津久井の旅に出た。義父は、80歳を越えていた。津久井湖で、釣り客が利用する船宿に泊まった。
湖畔の朝は清々しい。散策の後、湖を臨む食堂で朝食を取る。95歳の女将が給仕をしてくれる。女将と義父は、輝く湖面に目をやりながら、終始愉快そうに昔話に花を咲かせた。
女将が言った。「いいねえ、あんたは若くって」。95歳が80歳にそう言い、二人が笑った。津久井の朝の清涼感と二人の笑顔が、いまも心に残る。
平均寿命とはちがって、健康寿命ということばがある。2014年の日本女性の平均寿命は、86.83歳。男性の平均寿命は、80.50歳。なるほど、世界に誇る長寿国だ。
ところが、健康寿命となると10歳以上も下がってしまう。健康寿命とは、「日常生活に支障のない程度に、日々健康に生きること」だ。この10歳以上の差はなにかというと、病気治療や介護が必要な高齢者が相当いるということだ。
高齢化のすすむ日本、平均寿命も大切だが、健康寿命を延ばすことが大切だ。明るく健康に、生涯をまっとうする。本人ももちろんだが、家族にも、それが幸せだ。
先日、9月5日に100歳を迎えた石井歌子さんと会った。「100歳を迎えるなんて、そうそうあるものじゃない。ましてや、100歳で起業するなんて、これは感動ものだ」。友人の松井健太氏が、そう言って唸った。
「100歳の起業家と、会ってみないか」。まさに健康年齢のお手本、鑑である。父が生きていれば、今年100歳になる。同い年だ。「会いたいですね」。初夏の日、歌子さんのアトリエのある飯田橋に向かう。歌子さんは、「手編み工芸」のアトリエをもっている。東京大神宮の近くだという。風薫る朝だ。陽ざしがやわらかい。飯田橋は、新旧が当たり前のように調和する魅力の街だ。北ヨーロッパ風のおしゃれなカフェと、古く懐かしい昭和の喫茶店が、肩を寄せ合う。地中海風レストランの隣で、中華そばの赤いのれんが風に揺れる。この街は、徳川家康の命名だ。千代田区の千代田も、家康の居城千代田城からもらったものだ。家康パワーを感じる。
キョロキョロと歩をすすめるうちに、陽のあたる坂道に東京大神宮の緑の森が見えた。東京大神宮は伊勢神宮の東京支社で、小さいが威風堂々、荘厳である。縁結びの神としても評判が高く、平日だというのに適齢期の娘さんたちの姿が目立つ。
歌子さんのアトリエは、東京大神宮の緑と道一本を挟んで隣接している。歌子さんが、玄関に迎え出てくれる。「おはよう、いい朝ね」。笑って言う。「コーヒーがいい?お茶がいい?」。アトリエの中を、あっちに行きこっちに歩き、歌子さんが自ら接待してくれる。「下町で生まれたの」。歌子さんが話す。1915年の卯年生まれ、「ツキに向かってジャンプするウサギ、縁起がいいの」。甲子園の高校野球が始まった年、宝塚歌劇団誕生の年だ。関東大震災も太平洋戦争も、「無事に切り抜けてきたわ」。笑って話し、話して笑う。「恐かった、防空壕に逃げ込んだの」。明るい。下町職人の父のすすめで、お花、長唄、裁縫を習った。「学校の勉強は嫌い、習い事のほうが好き」。センスがいいのは、習い事のおかげだ。神宮前にも住んだ。小平にも、結婚して瀬戸内にも住んだ。どこでもいつでも、明るく元気だった。笑顔にもいろいろあるが、歌子さんの笑顔は、まわりの笑顔を誘う。勇気をくれる。「街を散歩しましょうか。いつもの道」。いっしょに飯田橋を歩く。教会がある。右手の向こうには、靖国神社がある。「歌子さん、いい天気ですね」。「歌子さん、おはようございます」。行き交う人と、手を振りながら挨拶を交わす。ほのぼのしてくる。穏やかな時が流れる。九段下の手前で折り返し、駅方面に向かう。散歩は、毎朝欠かさない。よく歩く。よく笑う。よく食べる。「豆が好き。毎日食べるの」。近所の医者が、「長生きの秘訣を教えて」と、真剣な顔で尋ねたと聞く。テクテク、ニコニコ、パクパク。健康寿命の秘訣は、これだな。石井歌子さん、すてきなパワーをありがとう。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/10
■ 村さんは、自由が欲しかった

渋谷駅西口、いつものバス停でバスを待っていると10メートル向こうの喫煙エリア脇で手をふる者がいる。村さんだ。
村さんはホームレスだ。年齢は50歳代半ば。ホームレスになって半年、「まだ新人です」と、ふっと笑う。静岡で小学校の教員をしていたが、昨年の暮れ突然辞めた。自分から辞職したのか、なにかの理由で辞めざるを得なかったのか、それはわからない。
学校を辞めると同時に、家と奥さんと二人の娘を捨ててホームレスになった。若き日、一流の国立大学で教職課程を取った。日本の教育を担うという壮大な夢を抱いて教員になった。小学校をいくつか巡り、情熱をこめて教鞭を取った。やがて、教頭にまでなった。だが、挫折した。
雨が降りそうだ。街には霧が立ちこめ、見上げる超高層ホテルの最上階は、白い闇に溶けて見えない。風はない。街路樹の葉もすっかり寝込んでいる。時計を見ると10時を回っている。最終バスは、11時5分。まだ間がある。村さんは、手にしたワンカップを二度三度とふり、「一杯やりません?」と、顔をくしゃくしゃに崩して笑いかけてくる。奥まった目がさびしげだ。そう、村さんはいつも目がさびしげだ。無精ひげを生やし、青いニット帽を被っている。汚れたベージュ色のジャケットを身につけ、黒いズボンを履いている。「自由になりたかった。それだけです」。ホームレスになった理由は言わないけれど、以前、そうつぶやいた。「わかる気もする。でも、村さんの言う自由ってなんだ?」。
そのとき、わたしは尋ねた。自由の解釈は、むずかしい。わたしも明快な解釈を知らない。「いつも生徒のことで頭がいっぱいだった。パンクしそうだった。いじめはいつまでもなくならないし、母親たちは勝手なことばかり言ってくる。そうなんですよ、子どもより、母親のほうが勉強不足なんですよ。そのくせ自分が正しくて学校教育が悪いと思い込んでるから、始末に悪い。教育の根本は家庭ですよ、そんなの当たり前です。それを先生のせいにする。たまりません。家に帰っても、そんなこんだが頭から離れない。気が休まることがない。翌日の授業の予習をしなければならないし、テストや宿題の採点もしなくちゃならない。寝る暇さえなかった。勉強もしたかった。本も読みたかった。そのうち、家が窮屈でやりきれなくなりました。妻の言うこともいちいちしゃくに障る。嫌ですね、先生なんて、割に合いません。なるもんじゃないです。とにかく自由がほしかった」。
そこで、一息入れると村さんは言葉を継いだ。「でも、わたしのいう自由は、ほんとの自由じゃない。単なる逃げです。解放です。仕事や家庭の束縛からの解放。カントが言うように、自由になりたいと願望したときから、自由に束縛される。それは結局、ほんとの自由ではないという。その説からすれば、ホームレスになっても、わたしは自由ではないのです」。
村さんは、さびしげな目を空に向ける。「わかるよ、おれも家が窮屈だと思う。いっそのこと家を出たいと思うときがある。でも、村さんの言うように、ホームレスになったって自由じゃないと思う。自由とは、そんなものじゃない。もっと心の深いところにあるもの、哲学的なもの、宗教的なものだと思う」。
わたしたちは、歩道橋の脇に座ってワンカップを飲んでいる。寒くはない。家路を急ぐ人影もまばらだ。坂本龍馬は、デモクラシーという言葉を民主主義と訳さずに「自由」と訳した。「自由」とは、「自らを由となす、自分が法であり、自分が正しい」ということだ。驚くほどしたたかな言葉ではないか。くるべき新しい時代を、明治という年号ではなく、「自由」という年号にしたいと思ったという。そうなれば、明治時代は自由時代となっていたわけだ。「自由。自らを由となす。自分が法。自分が正しい」。そう考えると、簡単に「自由」という言葉は使えない。自分が法だと言えるほど、わたしは勉強を積んでいない。自由とは大変だ。それはそうと、妻がいっしょにいるときは、わたしに声をかけるなよ、村さん。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/10
■ 鎌倉に憧れて

雨が降るとスバナ通りをぶらぶらと下り、江の島駅から江ノ電に乗って鎌倉に出る。その頃、毎年夏の二ヶ月間を、江の島東浜海水浴場の海の家でアルバイトをしていた。海の家は、雨が降ると休みである。一日ぽっかりと時間が空く。勉強は嫌いだが本が好きだったから、文庫本を数冊もって鎌倉に行く。藤沢に出て映画を観ることもある。江ノ電に乗ったまま鎌倉藤沢間を、本を読みながら一日中行ったり来たりしたこともある。江ノ電が図書館だった。
鎌倉駅を降りると、小雨に煙る小町通りをぶらつく。行きつけの喫茶店が、小町通りを入ってすぐの角を左に曲がった所にあった。大きな観葉植物が、入り口の半分を隠している。人目を避けるような白い小さな喫茶店だ。カランとベルを鳴らして扉を開けると、コーヒーの芳しい香りがプーンと鼻をついて迎えてくれる。いつも一番奥の窓際の席に座り、淹れたてのコーヒーを飲む。厚切りトーストとハムエッグとサラダのモーニングセットを食べる。窓を叩く静かな雨音を聞きながら、本を読む。くたびれてぼろぼろになったヘミングウェイの「老人と海」を取り出し、ページをめくる。文章のあちこちにボールペンの赤い線がひいてある。感動した箇所だったり、重要と思った部分なのだが、後になって見ると、なんで赤い線をひいたのかわからない文章もある。ページの上下と横の空きスパースに、感想文がびっしりと書き込んである。何百回も読んでいる本なのだ。
スペインの闘牛を書いた「午後の死」や、アフリカの草原に象を追う「アフリカ物語」もナップザックに入っている。時々聞こえてくるザザーッという音は、海岸に寄せる波の音だろうか、国道を走る車の音だろうか。「雨が降ると、あなたがくるのが楽しみですよ」と、オーナーの譲二さんが、コーヒーのお代わりをもってきてくれる。「お客さんもいつもの半分だから、楽ですし」。そう言って笑う。銀色の髪、糊のきいた真っ白いワイシャツ、赤い蝶ネクタイ、深い海の色をした目がやさしい。60歳を過ぎているだろうか。日本人ではない。
譲二さんの時間は、都会と違って、鎌倉の時の流れと合わせたように、ゆっくりと流れるから嬉しい。故郷に帰ったように、ほっとする。譲二さんもヘミングウェイがご贔屓だ。「若いパリ時代がいいです。いかにも新聞記者らしい硬質な文章が、ガートルートスタイン女史に磨かれて、少しマイルドになった頃ですね」。そう言って「移動祝祭日」を貸してくれた。ヘミングウェイの骨太のストーリー、ハードボイルドな文体は、強いウイスキーのように酔わせてくれる。それも、オンザロックでも水割りでもない、バーボンウイスキーのストレートである。ウイスキーに飽きると、立原正秋の本を取り出す。
鎌倉といえば立原正秋である。彼の本は、極上の日本酒だ。「薪能」「花と剣」「花のいのち」。しっとりと丁寧に醸し出す文章のコクの深さ。そのくせ、口あたりは爽快だ。潔い喉ごし。小気味よい切れ味。立原の文章は、小雨のそぼ降る鎌倉によく似合う。しなやかさが心に沁みる。頼朝以来の時の厚さに負けない強靭さが、行間に秘められている。それは、立原が真のサムライだからだ。朝、原稿用紙に向かいながら一升の酒を飲み干し、夕刻、ふらりと着流し姿で砂浜に立ち、海風に吹かれて目を細める。そんな立原が、目に浮かぶ。鎌倉文士といえば川端康成よ、という女性がいた。出版社に勤める女性だから、作家を見る目はたしかだと思うが、当たり前過ぎて面白くない。それよりも、「鎌倉なんかに越さないで、伊豆にいれば死なないですんだのに」と言った、伊豆の旅館の女将のことばが強く印象に残っている。川端が、執筆のために滞在した旅館で、すぐ横を流れる谷川は、前日までの雨のせいか激しく流れていた。あれから何年の時が過ぎたろうか。いま、都会の片隅で、ヘミングウェイの本よりもぼろぼろになったわが身を顧みながら、わたしの耳は、鎌倉のそぼ降る雨音をさがしている。あの小さな喫茶店は、まだあるだろうか。譲二さんは、いまも、コーヒーを淹れているだろうか。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/10
■ たかが釣り竿じゃねえか

『なまけるな 雀は踊る 蝶は舞う』(一茶)。
春だ。春のせいか歳のせいか、妄想会話が増えている。とくに川にいると妄想はいっそう激しくなる。
今川さんの旨いゆで卵を頬張りながら、ピクリとも動かない釣り竿にはっぱをかける。有村さんは、カルガモにパンの耳を撒いている。
「おい、釣り竿、なまけてないで、ちゃんと働けよ」。釣り竿がおずおずと答える。「あのう旦那、もしかして釣れない責任をあたしだけに押しつけていませんか?」口をとがらせる。
「あれ、なんだおまえ、なにか、自分に責任がないとでも言いたいのか、えっ!?」。目の前には悠々たる緑の水流が広がる。午後の陽ざしを浴びた水面が、ガラスの粉を振りまいたようにキラキラと眩しく輝く。
「えっ!?どうなんだおまえ、なにか?自分に責任がないと言いたいのか?責任転嫁か?責任転嫁無敵とくるか?」。釣り竿を怒鳴りつける。
「あのう、いまのシャレ、笑うべきでしょうか?」。「なあ、そういうのって聞いてから笑うのか?笑いってのは、面白いから自然にでるのが普通だろ。なにか、これは面白いから笑えとか、これはつまんないから笑うなとか、いちいちオレが言わなきゃならねえのか?」。「失礼しました、口が過ぎました」。「そうだろ、釣り竿の分際で生意気なんだよ、タックルベリーへ売り飛ばそうか?それともいっそのことへし折るか?」。
「ほら、すぐそうやって脅かすんだから、旦那も人が悪い」。「うるせえ、人が悪いのは生まれつきだ。だいたいが、おまえが満月のようにしならなくちゃ釣りにならねえんだ。鯉がかかる。鈴が鳴る。釣り竿が満月のようにしなる。リールが逆転してジージー唸りを上げる。そして、おもむろに椅子から立ち上がったオレが、にんまり笑って80センチの鯉と戦う。これが釣りだ。な、だから、ちゃんと働け」。
「はい、でも、鈴のやつだって働いてません。手を抜いてます」。「あら、なによ?わたし?わたしがなにをしたっていうのよ?」。「なにもしない、なにもしないから問題なんだ」。
「あらら、頭くるわね。わたしより、餌に問題があるんじゃないの?餌に?」。「ほらほら、釣り竿、鈴を巻き込むなよ。女を巻き込むと話が面倒くさくなるだろうが」。
「あら、それって差別でしょ。旦那、いまはもう男も女もない時代だって普段から言ってるじゃありませんか」。「そりゃ建前ってもんだろ。本気になってどうすんだ。まあいい、鈴は黙ってろ。問題は、竿だ。釣り竿だ」。
「参ったな。おい、柳、ゆらゆら揺れてないで、なんとか言えよ」。「気に入らぬ 風もあろうが 柳かな」。「お、お、柳のやつ、なんて言ったんだ。なんだかえらそうなこと言わなかったか」。「気に入らぬ 風もあろうが 柳かな」。「旦那、聞いた?えらいね柳は。悟りですかねえ、見習いたいなあ」。
「なにが悟りだ。やつは、釣れても釣れなくても騒ぐな、そう言ってるんだろ?ただの嫌味じゃねえか」。「当たり」。「バカ、なにが当たりだ。おい柳、川村の親父に言って伐り倒してやろうか」。「無茶苦茶ですね」。「無茶苦茶でもなんでも釣れればいいんだ。ああやっぱ、安い竿はダメかなあ。リール付きで2800円、やっぱ安すぎか。会長の竿は、8万円だってな。違うよなあ」。
「それ、言わないでください」。「なにがだ?言ったっていいだろ、本当のことなんだから。リール外したら1000円だ。上州屋も安竿を売りやがるな」。「店のせいにしてどうすんですか?」。「松ちゃんと同じ竿だよな、松ちゃんの竿はよく働く。さっき、二匹釣ったってよ。同じ値段だけど、根性が違うなあ」。「持ち主の根性が違うんですかね」。
「へし折る!!」。「えっ!?」。『鯉釣りや 竿より餌より 魚ごころ』(耕雲)。まもなく桜だ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/10
■ デマにご注意

情報が届いていなければ、どんな事件も事故も、出来事も、それは存在しないのである。「知らない=無」である。認識のないものは、存在しないのである。そんな当たり前のことを改めて知ったのは、以前に沖縄の友人が、ぼそりと言った一言だ。
うちの島には新聞が2日遅れてくるのです。東京になにかあってもニュースで知るのは2日後で、それまでなにも知らないのです。知らないということは、ないということです。そう言った。
いまでも離島には1日遅れの新聞があるらしい。都はるみは、“三日遅れの便りを乗せて、船はゆくゆく波浮港”と歌った。
たとえば、名優緒方拳さんが先日亡くなった。残念。わたしたちはそう叫ぶが、情報が届かない所では、今も緒方拳さんは、生きている。情報が2日遅れる所では、その遅れる二日間は、緒方さんは生きているのだ。
たとえば、アメリカの9.11の大ニュースにしても、その情報が耳に入るまでは、わたしたちには、その不幸はないものと同じだ。
わたしたちには、存在しないのである。一日なり、二日なりの後、テレビや新聞で知って初めて存在として認識できるのであって、その間の数日は、アメリカ貿易センタービルは、そこに存在していて、崩れてはいないのだ。いまはテレビもラジオもライブでどこへでも情報を流すので、そんなことはないのかもしれないが、理屈はそうである。友人が、映画館で映画を観ている最中に、突然画面が黒くなり、次に赤くなり、警報がなった。ただいま二階で火事が発生しました。係員の誘導に従って・・・。となった。みんな無事に避難し、幸い大事には至らなかった。
みんなが戻る。そして、火事はこのビルではなかった、とか、このビルなのだがボヤだった、とか、初めから誤報だったとか、まことしやかな言葉が飛び交い、そこで軽いパニック状態になったという。
デマ、風聞はこんなときに起きやすい。それらは、こんなときに思わぬ力を発揮し、パニックをいっそうのパニックに誘う。これが怖い。「こうじゃあないのかなあ」という個人の想像が、いつの間にか、「こうなのだ」と断定的になったり、「ああらしいぞ」、という想像が、ああだと断定的になる。人の言葉に反対意見を述べて、それが正しい、いや違う、と確たる情報源もないままに想像が妄想を生み、ああだこうだという間に話は大きく、さらに歪んでいく。デマ、風聞は大きく歪む傾向にある。
人々は、不安になるとデマを言う。不安だからデマを言う。不安がデマによって、さらに不安を増す。戦争中にはさまざまなデマが飛び交ったと聞く。現在、情報の伝達能力は極めて進化し、もはや離島でも瞬時に到達するようになったが、今度は情報の信憑性が疑われている。ネット社会では信憑性こそが重要である。社会不安の深まる現在、デマには十分注意をしたい。情報の信憑性を確認してから行動したいものだ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/10
■ 人の味は、店の味

渋谷、國學院大学空手道部の忘年会の二次会に、13代同期の花松忠義君が、「近くに和食のうまい店がある。おまえのカードで飲みに行こう」と誘う。よし、日頃世話になっているからこの際気持ちよく奢りましょう、と夜の渋谷西口をふらふら歩く。監督の次呂久英樹先輩、ОB会長の小柴先輩、後輩の塩沢君も一緒だ。その店はどこだ。年寄りの体に夜風は毒だ。次呂久監督が言い、歩道橋を下りたところです、と花松君が答える。東横線のガード脇、国道246号線沿いの地下1階にその店「三漁洞」はあった。
なるほど、ぶり大根を口に入れた瞬間に、これはなかなかの店だぞ、と全員が頷く。割烹着姿の女将さんが、ゆったりとにこやかに応対してくれる。うまいのは当たり前だ。この店は、クレイジー・キャッツの石橋エータローさんの店だ。花松君が得意気に言う。というとあの女将「みっちゃん」は、もしかするとエータローさんの奥さんか。
クレイジー・キャッツといえば、当時知らない者はいなかった。テレビが津波のように日本中を飲み込んだ時代に、彼らは日本中の茶の間を笑いの渦で飲み込んだ。ミュージシャンとして一流の腕を持ちながら、陽気なサムライたちは笑顔と夢と希望をみんなに振りまいた。暗い時代に歯向かう力を、精いっぱいの明るさで戦って見せた。
しゃぼん玉ホリデイ。青島幸男が笑いの才能を爆発させたこのテレビ番組は、彼らがいたから怪物のようなヒット番組になったし、またこの番組が彼らをさらなる天才の域にのし上げた。
ジャガイモ顔のハナ肇をリーダーに、日本一のお調子者植木等が暴れまくったクレイジー・キャッツ。映画「釣りバカ日誌」の課長谷啓が、人を食ったキャラクターで通を唸らせた。その中で石橋エータローは異才を放った。ホワイトアスパラのようなひょろりとした体の上にとぼけたメガネの顔を乗せ、どこか人の良いキャラクターで、ただ何もせず、みんなの中をあっちに行きこっちに行き、うろうろちょろちょろするだけに見えた。強烈な個性ぞろいの中の中和剤のような存在かと思えた。
だが、違っていた。このホワイトアスパラ氏は、天然ボケ(失礼だが)という“天が与えし才能の持ち主”だった。みんなが工夫し、考え、全力で演じる横で、ひょうひょうと天賦の才でボケてみせた。突っ込み10年ボケ天然、といわれるほどボケ役はむずかしいものだが、石橋エータローさんには、それがあった。それは、シャイだったからではなかろうか。気まじめで、物事を理論的に解釈する。だから、エータローさんがテレビで料理番組をやったが、真面目にやるほどおかしかった。尺八の鬼才であり、西園寺公一先生に言わせれば、釣りの鬼才でもあった父福田蘭童氏の血を受け、料理番組までやった人だから、料理がうまいに決まっている。その人の店だから、うまいに決まっている。石橋さんの不思議な人間味を思い出す。そして、この店には文化の香りが漂っている。味にうるさい次呂久監督が帰りに、この店はいい、高野のカードでまたこよう、と言った。「人の味は、店の味」である。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/10
■ バスの尻

愛が深いほど憎しみも深くなる、ということは確かにある。今回はそういう話。渋谷発23系統東急バスにおける女性の尻がいかに凶器であるかについてのお話。
先日、23系統の最終バスに乗った。このバスは、渋谷駅西口から三軒茶屋を通り祖師谷大蔵まで行く。全員が座ることはできなかったが、大混雑というほどでもなかった。わたしは最後部の左側の座席に座った。わたしの降りる桜丘住宅まで24駅も乗るので、時間はうんざりするほどある。最近買ったバスの中でも使える超小型パソコンを開き、ちょっと格好をつけてみせる。すぐに文章にのめり込み、夢中になる。三軒茶屋あたりから混んできたが、気づかなかった。後部座席は無理して詰めれば5人座れるが、肩幅の広い男が4人座っているから少々きつい。わたしはパソコン画面に集中していた。
すると、突然、崖崩れのようにわたしの右手を押し潰すものがあった。落雷かと思った。思わずパソコンのスイッチを切ってしまった。ああ、原稿が消えてしまった。この崖崩れ女。落雷野郎。わたしはカッとする。わたしの右側の少しの空きに強引に尻が割り込んできたのだ。瞬間、相手の顔を睨みつけようとして我慢して止める。
わたしは空手2段だから、カッとして手をあげようものなら警察が直ちに介入する。だから、カッとしても相手の顔を見ないようにする。そのほうが気が楽だ。わたしの原稿を消してしまった凶器は女性の尻だった。女性の尻がパソコンの文章を消し去り、おまけにわたしのコートの端を踏んでいる。なお頭にくる。ますます顔を見ないように我慢する。おそらくツンとしたわたしは美人よ、という顔で、こんなに混んでいるバスの中でパソコンをやってるほうが悪いのよ、と睨みかえすような女性に違いない。まいった。確かにわたしは、混んできたのに気づかなかった自分に少しは反省の気持ちはある。
だが、よろしいですか、ともいわず、すいませんが、ともいわず、当然あんたが悪いのだからパソコンの文章が消えようがどうしようがわたしの尻の落雷には関係ないわ、と必殺の凶器はでんと構えたままだろう。和道流2段の廻し蹴りを食らわせてやろうか。だが、我慢する。家に帰り、かみさんに泣きながらバスの凶器の尻の話をするが、かみさんは腹を抱えて笑うだけ。おまけに、わたしだってそのくらいやるわよ、という顔。
翌日会社に行き、アートディレクターの佐川くんに“バスの尻の凶器”の話をする。
それに似た話がありましたよ。佐川くんがいう。JRでしたか、失礼な女性がいて、前に座っていた男が電車を降りる際に、女の顔面に蹴りを入れたという話です。そうだよな、そうだろ。わたしだって空手さえやっていなければ、バスの女の崖崩れの尻に蹴りを入れていたぞ。でも、女性の勇気にはつくづく感心する。尻の凶器には脱帽する。わたしがあとほんの1ミリくらい腹を立て、切れてしまったらどうするのだろうか。農大一高前で尻が降りたとき、わたしも続いて降りて行って、その尻に必殺の廻し蹴りを入れたらどうするのだろう。愛すべき尻がこれほどの凶器になるとは。バスが悪いのか、パソコンが悪いのか。それとも世間が悪いのか。どうやらわたしが悪いようだ。年の終りの反省である。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
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