高野耕一のエッセイ

2020/03/24
■  海に舟を

海に舟を。海舟。日本海軍の土台を築いたのは、この男だ。海舟、勝麟太郎。この男をもっと大事にしておけば、日本はここまで遅れることはなかった。あるいは、海舟が早すぎた。100年早過ぎた天才だった。濁りのない純粋な目で物事の根本を見つめ、根本に基づいた基準で正しい判断を下す。大海のような偏りのない精神を持っていた。
父、小吉ゆずりの卓越した勝負カンを持ち、叔父であり直真影流男谷精一郎と島田虎之助から剣を学んだ。島田虎之助から、剣だけでなく洋式兵学の必要を教わった。筑前藩永井青崖から蘭学を学んだ。海舟が身につけた正義の心、人の道は、世界に十分に通用するものとなった。いや、世界に必要なものだった。
時は、革命の時代。押し寄せる外国の脅威。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの軍艦に包囲され、徳川幕府はオタオタと腰をぬかし、自国の利益確保に翻弄する薩摩と長州、そんな二進も三進もいかない日本で、海舟の胸の内には最善の策が描かれていた。
そう、海舟の目は、徳川とか薩長とかそんな狭い井戸の中を覗いていたのではない。日本という国家を見つめ、その将来を見据え、海の向こうに広がる世界に目を向けていた。正義を見つめ、世界の潮流を見据えていた。インドや中国のように、西欧の列強の軍門に下って植民地になることは、絶対に避けたい。
日本は、独立国家として堂々と生きる。海舟の目標はしっかりしている。「そのために、いまおれたちはなにをすべきか」。それだけを考えていた。枝葉末節にこだわっている場合ではない。まず、日本国を一つにする。日本国を一つの心でまとめる。意思を一つにして、国家のために力を結集する。「徳川とか、薩長とか、土佐がどう佐賀がどうと言ってる場合じゃねえんだよ、そんなこたあどうでもいい」。小吉ゆずりのべらんめえ調で言う。「もっとでっかい目で世界を見て、正義に則って行動することがいま一番大事じゃねえのかい」。
残念なのは、海舟のその大きさ、その正しさを理解する者がいなかった。とくに、幕府にはいない。15代将軍徳川家喜は、海舟が嫌いだ。家喜は、頭はよかったが、いわゆる学校秀才というやつで、勉強はできるのだが、社会を知らない。人間を知らない。人の心を理解できない。自己中心で、人の上に立つ器ではない。とても海舟のでかい精神なんか理解できない。幕臣たちもまたそうだった。武士の地位を金で買った海舟を小ばかにしていた。そんな海舟から素晴らしいアイディアが出されても、理解できないだけでなく、嫉妬の塊となった。
徳川の家臣でありながら、「世界の中の日本」を叫び、同調する西郷隆盛や坂本龍馬といった、幕府の敵たちと仲良くするなど言語道断、「あいつは薩長のスパイだ」、などと言い出す者もいた。実に愚かだった。そのくせどうにもならない時は、「海舟にやらせよう」と、都合のいい道具として海舟を使った。
勝海舟は、曽祖父が検校で財産を築き、その財産で男谷と勝の両家と養子縁組をして武士となった。金に困った武家が持参金目当てに家名を売る。当時は、それができた。士農工商は、もともと身分制度ではなく役職制度だから、そんなことができるのだ。薩摩の島津斉彬に才能を買われた海舟は、西郷隆盛と会うとすぐに意気投合した。天を敬い、人を愛す。敬天愛人の西郷もまた大きな男だった。坂本龍馬と会う。「船だよ、船、海軍だよ、海は壁じゃねえ、海は道だ」。土佐の若者は一瞬にして、海舟の大きさと自由さに引きつけられた。神戸海軍操練所でも塾頭となった。攘夷も、開国も、公武合体も、勤王攘夷も、海舟から見れば、本質から離れている。「本当に大事なことは、日本の国を保全し、日本国民を安全に守りぬくことだろうが」。その後の海舟の活躍は、知られるところだ。天のような男。溢れる才気。それ故に、上司からは疎まれ、仲間から嫉妬された海舟。もし、身近に足を引っ張る愚か者がいなかったら、もっと日本は大らかに進化しただろう。そう思うと悔しい。いま、世界の中で孤立し始めた日本。あなたの身近に若き海舟はいる。足を引っ張る先輩や仲間がいないことを祈る。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/03/24
■  恐怖の優先席

東急23系統のバスは、渋谷西口駅前と世田谷祖師谷大蔵の間を走る。このバスは、運賃前払いで、前から乗車して運転手の横の料金支払機に、運賃を払うか、パスモとかスイカを使うか、運転手に定期券を見せて乗る。
問題の優先席は、乗車してすぐ右側にある。3人座れる。高齢者、怪我をしている人、子ども連れのお母さん、妊婦さんなどを優先的に座らせる席だ。最近、シルバーシートと言わなくなった。シルバーシートと言っても、わからない人がいるのかな。対面の左側には、車椅子やベビーカー対応の席がある。わたしもいよいよ優先席年齢にたどりついたようである。わたしの顔を見て、ぱっと席を譲ってくれる人もいる。もちろん、わたしが譲る場合もある。
ある時、高齢の女性が乗ってきたので、ぱっと立ちあがり、「どうぞ」と席を譲る。その女性、じろりとわたしを一瞥して、「なによ、わたしを年寄り扱いするの」という顔をする。「あんたのほうが年寄りじゃないの」という冷たい目でわたしを見、「いいです、結構です」と、断る。「どうぞどうぞ」。わたしも立ち上がった手前、ぜひ、席を譲りたい。他の乗客がみんなで見ているようで、いまさら「そうですか、ラッキー」などと座り直しは意地でもできない。「いえ、いいですよ」。「いえ、どうぞ、どうぞ。お荷物もあるようですから」。「いいですったら」。頑固な年寄りだ。人の厚意を素直に受けろ。こちらも頑固な年寄りになる。「どうぞ、どうぞ、絶対にどうぞ、どうしても座って」。「いいと言ってるでしょうに、うるさいなあ、死んでも座るもんか」。女性の目が血走ってくる。みっともない。恥ずかしい。思わず、「わたし、次、降りますから、どうぞ」。そう言ってしまった。まだ降りない。降りてはいけない。気が小さい。渋谷までだいぶあるのに。停留所にして7つか8つもある。でも、バスを降りてしまう。席を譲ろうと思っただけなのに、なんで用もない停留所にぽつんと降りなきゃならないんだ。呆然とひとりバス停に佇む。気が小さいなあ。いい人は、損をする。余計なことをした、と反省する。わたしは、優先席が嫌いだ。また、逆もある。明らかにわたしより高齢の方が、わたしに席を譲ろうとする。ふらふらと倒れそうに立ち上がる。「えっ、なんだなんだ、この人よりわたしが高齢に見えるのか」。見ると、もう死にそうな老婆だ。わたし、そんなに爺か。さっきの話の逆だ。感謝よりも怒りがこみあげる。「いえ、結構です。」
断る。老婆はむっとして、「なによ、譲ってあげたのに。ねえねえみなさん、わたし、こんなに親切なのにこの爺、えらく頑固でしょ」と言うように、バスの客を味方につける。「いえ、わたし、若いときにスポーツやってたので、案外身体は頑丈で」。などと口の中でわけのわからないことをごにょごにょ言う。「はっきりしないのねえ、座れったら座りなさいよ」。女性は怖い。いつの間にかわたしが悪者になっている。「わたし、次、降りるので」。また、わたしは用もない停留所で降りてしまう。気が小さい。ぽつんと停留所にいて、なんでこうなるんだと頭を抱える。
わたしは、優先席が怖い。ある時、優先席を譲り合う二人の女性がいた。「どうぞどうぞ」。「いえ、あなたこそどうぞどうぞ」。「いえいえ、あなたこそどうぞ、わたしより年寄りなんだから」。「あら、あなたのほうが、お年よりよ。きっとそうよ。おいくつ?わたしは68歳、あなたは?」。「あら、わたしも68歳よ。じゃあ、あなた、何月生まれ?わたしは6月、あなたは、何月?きっとわたしより、年上よ」。「あら、わたしも6月よ、じゃあ何日生まれ?」。「お座りください。お座りください。バスが発車できません」。運転手が頭にきて、少し強めでアナウンスする。「あなた、何日生まれ?わたしは12日よ。何日?」。「あら、12日?まあ、同じ、偶然ねえ」。「あら、そうなの、偶然ねえ」。もはや、なにがどうなっているのかわからない。わたしは、優先席が怖いまま今日もバスに乗る。優先席からいちばん遠い後ろに乗る。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/03/24
走れ、「そよ風、散々会」

銀座8丁目、昭和通りから通りを二本入る。ホッピーと墨文字で書かれた赤提灯が、風に揺れる。夕方、6時過ぎ。赤提灯に、灯が入った。風は、海から吹いてくる。東京湾の潮の香を乗せたそよ風だ。そう、店の名を「そよ風」という。
拓殖大学空手道部OBの兄弟が経営する古い居酒屋だ。ブランドショップが増え、資生堂ビルも改装され、新しさが目につく銀座だが、ちょいと路地を入ると懐かしい店がある。銀座は、なんでもこいの柔軟な街だが、いいものはきっちり残すぞと意地を張る街だ。「そよ風」も、そんな意地を張り通す店の一つ。新しくはない。古い。きれいではない。汚い。だが、人情が売り物の心懐かしい店だ。
とんとんとんと石段を上って、酒の空箱が転がる雑然とした入り口を入ると、店主が迎える。一見無愛想な店主だが、見た目よりはずっと暖かい人柄で、安心できる。武道家特有の無骨さで、これでよく客商売をしているなと思うが、それはそれで、だからいいという客も多い。人間て、わからないものだ。この店を紹介してくれたのは、広告会社に勤める下さんだ。下さんの友人で、俳優千波丈太郎さんの行きつけの店だ。千波さんは拓殖大学空手道部出身だから、「そよ風」は部活仲間の店ということになる。
店に入って左側、カウンターの手前のテーブル席で、下さんとわたしと弟の守男の三人は、酒を酌み交わす。店は、今日も常連客でいっぱいだ。「よし、馬券、買おう」。ある日、わたしは下さんと守男にそう告げた。わたしは、生まれてこの方バクチをやったことがない。パチンコさえやったことがない。なんでものめり込んでしまう自分の弱い性格を知っている。だから、バクチはやらない。だが、下さんと弟の会話が面白い。この会話に参加しよう。そこで、馬券を買うことに決めた。会話を楽しむだけ。馬の勉強は一切しない。予想も下さんと弟まかせ。馬券を買って、わくわくすればそれでいい。当たらなくてもいい。馬券は、わくわく代。そういう条件で、馬券チームが結成された。3人だから、「散々会」。さんざんな目に遭うぞ、と皮肉って「散々会」。そう命名したのは、下さんだ。店名の「そよ風」を加えて「そよ風、散々会」とチーム名が決定。下さんに、一人頭3000円を預ける。合計9000円。これを資金に毎週わくわくしよう。
下さんを初代会長に、弟を副会長に、週末競馬を楽しむのだ。ある日、会長がリストを見せる。会長推薦の馬に印がついている。その横に、印のない馬「ヘミングウェイ」がいた。「ヘミングウェイ」といえば、ノーベル文学賞作家の「アーネスト・へミングウェイ」のことではないか。自ら戦場に赴き、20代にパリにいて、フィッツジェラルドやガートルートスタイン、若き日のピカソ等と、サロンでワインを飲みながら芸術論人間論を交わし、「日はまた上る」を書き、「武器よさらば」を書き、スペインの闘牛を書き、やがてキーウエストに移り、キューバに移り、メキシコ湾でマグロを追い、「老人と海」を書いたアメリカの作家。その名を冠した馬が走る。それだけでわくわくするではないか。
「ねえ、会長、へミングウェイ、買お」。わたしがいうのを、「そうか、それもあるな」と、下さんが情報を収集する。「いい馬だ。このレースで2着、このレースで3着、このレースで2着、ここんとこ出てないが、面白い」。買った。買いました。さあ、走った。わたしは、週末には、河にいる。鯉を釣っている。釣れないときは、昼寝をしているか、酒を片手に本を読んでいる。
結果が出ると、下さんから電話かメールが入る。「まいった、期待外れだ、13着」。電話の向こうで会長が唇を噛む。いいのです。それでいい。わくわくしたんだから。「でもね、会長、へミングウェイを見捨てないで。1年間追いかけて」。わたしはそう懇願する。
「そよ風」が店を閉めた。ビルの建て替えを機に、看板だけ残して閉店した。千波丈太郎さんの体調もイマイチで、心配だ。だが、「そよ風、散々会」は永久に不滅だ。先日、世界的アートディレクターの松本隆治氏を顧問に迎えた。さあ、この週末もわくわくしよう。走れ、へミングウェイ。走れ、「そよ風、散々会」。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/03/24
■  桜を待たずして

桜を待たずして、男は逝った。サムライだった。男の中の男だった。その日わたしは、成城4丁目にいて、「発明の杜区民公園」で、カメラを片手に桜の開花を待っていた。発明家樫尾俊雄氏の「発明記念館」の庭園である。池に面した美しい枝垂桜が、いままさに大空に向かって晴れ晴れと両手を開こうとしている。赤く色づいて次の瞬間を待つ無数の蕾たちが、春の陽射しを浴びて風に揺れている。
突如、ケータイ電話が鳴った。友人のアートディレクター松本隆治からだった。「どこにいる?」。松本が言った。「渋谷にいるなら会いたいが」。「今日は成城です」。そう答える。松本の声が通常のものではない。「渋谷に行きましょうか?」。「いや、いい。電話をしないではいられなかった」。そう言って、松本の言葉が一度途切れ、「花ちゃんが死んだ」と、吐き捨てるように言った。
花ちゃん、花木薫、あの花ちゃんが、まさか。晴天は一瞬に崩れ、稲妻が走った。桜が一斉に色を失った。風の音も鳥の声も滝の音も、すべての音が遠のいた。一陣の風が、枝垂桜を揺らす。地面に腰を落とす。だめだ。そんなことがあっては、だめだ。花木薫は、わたしの恩人である。早くに死んだ弟と同じ年のイノシシ年。弟の葬儀にもだれよりも早く駆けつけてくれた。それからわたしは、花木薫を弟の生まれ変わりだと思っている。
初めて会ったのは、オリエント時計のCMを創るときだ。当時、人気絶頂の歌手中森明菜を起用したCMだった。黒澤明事務所のプロデューサー高橋達也が、「すばらしい演出家がいます」、と紹介してくれたのが花木薫だった。わたしの創ったまずい撮影コンテが気に入らないと、人気歌手がぐずった。花木薫は、彼女の足元にひざまずいて、すがるように口説いてくれた。売れっ子演出家の誇りを捨てている。なにもかも捨てて、スタッフの目の前で、何度も何度も説明を繰り返し、頭を下げ、また説明し、バッタのように頭を下げ続けた。命がけに見えた。仕事とは、こういうものだ。わたしより年は若いが、花木薫を尊敬した瞬間だった。男の生き方を教えてくれた。
その年の11月、弟が死んだ。翌春のためのオリエント時計キャンペーンCM撮影の最中だった。スタジオには桜吹雪が舞っていた。花木薫は、だれよりも弟の死を悲しんでくれた。つきあいは深まった。理屈抜きに永遠の友と決めた。わたしの弟だ。わたしは彼にそう言った。弟と言いながら、わたしがお世話になってばかりだった。テレビCMの仕事がくると、まず相談した。大鵬薬品、ミスタードーナツ、たった2日で創ったみんなの党のCM。CMと言えば花木薫の演出しか頭になかった。撮影は巨匠写真家立木義浩氏に依頼した。撮影が終わると必ず3人で飲みに行った。飲んでただ笑いあうだけの3人だった。当代切っての写真家も、花木薫が大好きだった。埼玉の奥に住んで何時間もかかって帰るというのに、明け方までいつもいっしょにいる。会社経営の下手なわたしを助けてくれる。色を失った枝垂桜の蕾たちが風に揺れても、わたしは立てない。「花ちゃんの死は、だれにも知らせてないそうだ」。松本がぽつんと言った。そういう男だ。巨象のように、だれにも知られずそっと消える。花木薫とは、そういう男だ。そして、その哀しみは巨象以上だ。二年前に肺がんを宣告されても、だれにも言わなかった。「飲みに行きましょうよ」。去年の暮れ、そういう言っていたと松本が告げてくれた。そのときには、もう飲める状態ではなかった。それなのに、そんなことを言う。花木薫とは、そういう男だ。自分のことなんかどうでもいい。いつもだれかのことを考えている。そういう男だ。
一週間後、庭園の枝垂桜は、美しく咲いた。青空の下で、見事に咲いた。来年も再来年も、10年後も、枝垂桜は美しく咲く。だが、花木薫のあの豪快な笑顔とはもう会えない。花ちゃんよう、どうしてくれるんだ、きみはおれの人生において、ただの通りすがりの人ではないんだぜ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/03/24
■  空手部、北へ行く

青春の話だ。その年の夏、われら國學院大學空手道部は、合宿のために札幌に向かった。青函連絡船に乗って津軽海峡を越えた。初の北海道、船上から望む遙かな陸影に心が躍る。
夏季合宿は試合前の強化合宿とはちがって稽古も緩やかである。4日目は休養日となる。「せっかくの北海道、ジンギスカンとしゃれるか」。“マツ”こと花松忠義が言い、高木昭武、三井和男、わたしの4人は市内に繰り出す。狸小路をぶらつき、ビールを飲み歩き、やがてジンギスカンとなった。
「気の利いた店、ねえかな」。本郷の薬局の息子で空手部一の富裕家高木が言う。高木がいればわれらの経済部門は天下無敵、あなたのサイフはわたしのサイフ、いつもながら目一杯に頼る。当の高木はにこにこ顔、長嶋家の一茂くん同様、良家の息子はどこか鷹揚である。わたしは基本的に、奢ってくれる男やお世辞でも誉めてくれる人間が大好きである。
タクシーに乗り、運転手に行き先をまかせる。市内を抜け、深い森の庭園レストランに行く。サッカー場より広い。庭園の隅々まで飾られた提灯が涼風に揺れ、木々の間に間にライトアップされたテーブルが並ぶ。足下の水路に巨大なマスがゆらゆら泳ぐ。網ですくって食べていい。「おしゃれだぜ」。長靴のようなビールジョッキで、まず乾杯。ああ、憧れの北海道。「でっかいどー、ほっかいどー」、三井が叫び、「羊はどこだ?走り回ってないか?」、高木がぐるりと見回す。「いたらどうする?」、マツが言い、「正拳一発、そのまま肉にする」と、高木。幸か不幸か、羊の姿はない。
8人前の肉を頼む。長靴ビールのお替りをする。「マスを食う」。マツが言い、網を手に水路の上に立ち、そのままザンブと飛沫をあげて転落した。「マスをくわえて上がってこい」。「熊じゃねえやい」。驚いて飛んできたウェイターに「いっしょに泳ごうぜ」、マツが水中から笑いかけた。隣の美女3人が腹を抱えて大笑い。ビールを差し入れてくれた。飲めや歌えの蒙古放浪歌。「心猛けくも鬼神ならず、人と生まれて情けはあれど」・・・ああ、天下無敵。空手部用語で言えば、「責任転嫁無敵」。若さとは、素晴らしい。「おお、コク大」・・・母校の歌が北の夜空に響き渡る。と、「おーい、後輩!」。離れたテーブルから声がかかる。「なんだ!なんだ!」。「おーい、後輩!」。見ると数人の男たちが手招きしている。「先輩か?」と三井、「らしいな」とわたし。こんな遠くまできて先輩と出会うなんて奇跡だ。神の思し召しだ。「ゴチになるか!」。伝票を掴んで立ち上がる。
「オッス、先輩ッスか?」「そうよ、こんな所で後輩と会うとはな」。さあ飲め、ほれ食え、その伝票も渡せ。先輩後輩は素晴らしい。長年の溝が、一瞬に埋まる。「歌、歌え!」。「蒙古100万、篝火赤い」・・・三井が大声を張り上げる。思い出すなあ青春、もっと飲め、どんどん食え、酒だ、肉だ。勘定の心配のない飲み食いほどうまいものはない。「最近、医学部はどうだ?」。「もう過去の栄光さ」。ふと、そんな会話が耳に入る。あれ?おかしい。「おい」。わたしはマツの耳元で言う。「うちの大学、医学部あったか?」。「ねえよ」。「ねえよなあ」。稲妻のように不安が閃く。「おお、コク大」と歌ったら「後輩」と呼ばれた。だから先輩だ。だが、コク大に医学部はない。「だいたいわがホク大は」、横の男が言う。なに?ホク大?ホク大だと?北海道大学か? われら國學院大學は、コク大。ホク大とコク大。似てる。「おお、コク大」。コク大がホク大に聞こえる。「おお、ホク大」に聞こえる。われらはコク大、この連中はホク大。先輩ではない。となれば、この飲み食いの勘定はどうなる。伝票はどうなる。「歌え、三井」。その隙に一人づつトイレに行くふりしてフケよう。「砂丘に出でて砂丘に沈む、月の幾夜かわれらが旅路」・・・三井はもうやけくそだ。そして、われらはタクシーで闇に紛れた。ごめん、ホク大。ありがとう、北海道。ああ、青春。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/28
■  本屋さんのある町は、いい町だ

小沢昭一さんが「川のある町は、いい町だ」と言った。わたしは「本屋さんのある町は、いい町だ」と思う。
小学生の頃、西武新宿線下落合駅前に「貸し本屋さん」ができたときは嬉しかった。当時、高田馬場か目白まで行かなければ本屋さんがなかった。本が読みたくて隣町までとことこ歩いて行っても、立ち読みをすると怒られた。怒られないまでもハタキでパタパタ追い払われた。それでも懲りずに本屋さんに通った。父や母に、本を買いたいと言ってもお金をもらえなかった。
本は一年に一度、お正月に買った。付録が山のように付いているお正月号を買うと、世界を手に入れたように嬉しかった。わが家が特別貧乏だったわけではない。本は高いものだった。そんなとき、駅前に貸し本屋さんができた。毎日のように本を借りた。1冊借りて10円しなかった。
わたしは身体を動かすことが好きで、決して文学少年ではなかったけれど、本は特別の存在だった。本を読まないと置いてきぼりにされそうな恐怖心があった。未知の世界の大きさ、広さ、深さ、奇想天外の面白さが全部本のなかにあった。
母に寝ろといわれても、ボストンバッグのなかにスタンドを突っ込んで光がもれないようにし、夜中まで本を読んだ。「おもしろブック」や「冒険王」といった雑誌は、いつも新しい世界を見せてくれたし、江戸川乱歩の探偵小説では、明智小五郎と小林少年が、学校では教えてくれない考え方を教えてくれた。
鞍馬天狗は、正義とはなにかを教えてくれ、弱い者を助ける勇気を教えてくれた。エジソンの伝記ものは、才能とはなにかとか、努力することの大切さを教えてくれた。百科辞典は、世界の不思議に対する解答のすべて教えてくれる知識の宝庫だった。教科書はつまらないけれど、本はなんて面白いのだろうと思った。
やがてスポーツにのめりこんでも、いつもポケットに文庫本が入っていた。新聞配達の報酬をもらうと必ず本を1冊買った。本を買うだけで、頭がよくなったような、正しいことをしたような、嬉しい気分がわいてきた。やがて新宿、渋谷、池袋が活動範囲となったが、どの町にもいい本屋さんがあった。友だちと待ち合わせをするのも本屋さんが多かった。いくら待たされても腹が立たなかった。最も待たされた記録は、高校時代に同級の佐藤光二郎に7時間待たされたときだ。新宿駅東口の二幸前で朝の9時に待ち合わせをし、午後4時に彼は現れた。わたしは、待ち合わせをしていることもすっかり忘れて本を読んでいた。「まだ、いたのか」。光二郎があきれてそう言った。
いま、ネットの普及で本屋さんが激減している。最近、千歳船橋駅前の馴染みの本屋さんが店を閉めた。本好きの店主で、わたしとはテニス仲間だ。立ち話でいつも本の話をした。
ある時期、若い連中がたむろするくらい人気のあった本屋さんだった。「もう無理だな」。彼は言った。「暮らしていけない。所沢に引っ込むよ」。「本屋さんを続けないの?」「本屋は食っていけない。これからなにをやるかなあ。おれ、本しか興味がないからなあ」。さびしく笑った。閉店の日、店の外に鉛筆やノートをダンボールに入れて、町の子どもたちに無料で配った。「これ全部、出版社からのもらい物だよ。出版社にも世話になった」。彼の顔を見て、ふと不安になった。この町は、本屋さんのない町になる。知識の宝庫、文化の拠点、いつでもふらりと寄れる憩いの場所。それが、本屋さんだった。
ネットでは、ふらりと寄って愚痴をこぼすこともできない。血の通う店主もいない。体温のある話もできない。親とケンカした子どもはどこに行くのだろう。
最近、カフェコーナーを創ったり、集えるスペースをこしらえたり、新しい機能と装いをもつ本屋さんががんばっている。嬉しいことだ。街道には「道の駅」があって人気があるが、わたしは、本屋さんが「町の駅」になるアイディアはないものか、とつくづく思う。町の便利な場所にある本屋さんも多い。この一文が、「本好きの人間の戯言で終わらなければいいな」と思う。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/28
■  わたしの酒場放浪記

おれは想う海の彼方を。裕次郎は歌う。男は、放浪に憧れる。放浪は、男の宿命的願望だ。
どこか知らないけれど遠くへ行きたいぜ、でかい夢ふくらむ胸なのさ。歌はそう続く。だが、ふと気がつくと、もはや放浪より徘徊の似合う歳となった。
白い雲のように湧き上がるでかい夢も霧と消えた。いまや、夢を肴に酒場を放浪し、酔いの海を漂う日々となった。
東横線渋谷駅ガード下に「やまがた」という居酒屋がある。茶色く変色した壁にそって続く古畳の座敷がなんとも落ち着く。申し訳程度に置いてある、尻より小さい座布団がご愛嬌だ。
この店は、わたしの大学時代からある。刺身が安い。だが、鮮度にいちゃもんをつけてはいけない。むしろ失礼だ。食べられればありがたい、と思う心の広さが男には必要だ。
なにより嬉しいのは明るいうちから飲めることだ。昼間から飲む罪悪感などまったく感じさせない店だ。これこそ男の逃げ場である。
最近、マークシティの足元にある酒場に流れ着いた。「これぞ渋谷」という実に見事な佇まいで何から何まで古く、古さをむしろ誇りとしている節がある。客までも古い。
「細雪」という粋な名前が恥ずかしいのか、看板の電気が点かない。やっているのかやっていないのかわからない。傷だらけのガラスのドアを開けるのに苦労する。開かない。客が入るのを拒否する。ドアの取っ手が壊れていて、ガリガリとガムテープが巻いてある。無理やりこじ開けると、今度は閉まらない。酒にたどり着くまでに10分かかる。やっと入る。
毎度のごとく相席とくる。3人がヒソヒソ話をしている4人掛けのテーブル席にちょこんと座らされる。バツが悪くても文句を言ってはいけない。銀行を襲うような苦労をして、生きて店内に入れただけでも幸せなのだ。いかの刺身と熱燗二本2本で1000円ちょい。時々若い女性もいて、尊敬の眼差しを向けたくなる。だが、ここではあまり酔ってはいけない。疲れてはダメ。帰りに壊れたドアを閉めるという大仕事が待っている。
先日、わが町千歳船橋駅前にある酒場に寄った。週末の、多摩川の鯉釣りの帰りだ。河という天国から妻のいる家に帰るには、ある覚悟が必要だ。男は、妻の前に出るには覚悟がいる。キライと言うのではない。河が天国で、家が地獄と言っているのでは絶対にない。だが、なぜか覚悟を要する。その覚悟の一杯をやる。
城山通りを渡りラーメン屋の角を右に入る。アーケードとは聞こえはいいが、まあ、屋根のある路地裏だ。ダンボール箱やビール箱が山と積まれた狭い通路を、釣り道具を引きずりながらヨレヨレ歩くと、左側に「なぎ屋」はある。焼き鳥と焼きトンの店だ。ガラス越しに鳥を焼きながら、店長がピョコンと頭を下げる。細身で背が高く、お笑いタレント「よいこ」の有野くんに似た笑顔だ。ほっとする。聞こえないのに「いらっしゃい」ときちんと言っている様子。その礼儀正しさが嬉しい。
時には、がっしりした体格の副店長らしき男性が、これまた鳥を焼きながら、最上級の笑顔で迎えてくれる。人を幸せにする笑顔だ。彼の体格を見ると「ああ、大震災がきてもこの町は安全だ」と思う。なにか格闘技をやっていたのだろうか。入り口の手前の通路にテーブルがあって、この席が好きでいつもそこに座る。
「なぎ屋」は、メニューも豊富で安く、子ども連れの客も多い。居酒屋に子どもがちょろちょろするのも微笑ましい。メニューが豊富なだけでなく、居心地がいいのだ。店員のみなさん、だれもが気持ちいい。熱燗二合と鳥皮のタレを二本、それしか頼まないわたしなのに、わが子以上にやさしい。鯉の釣れない日も「どうでしたか?」と聞く女の子の笑顔に触れると「来週は釣るぞ」と、勇気が沸いてくる。
タトゥーを入れた若者も歯切れのいい会話と行き届いたサービスで、爽快な気分にしてくれる。カウンター席もわるくない。
先日、隣に座った美女と話が弾み、帰り際に傘まで貸してもらった。自分が濡れるのも構わずに貸してくれた。店もいいが、客もいい。さて、今日もふらり、わたしの酒場放浪は続く。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/28
■  河の子どもたち

時は、過ぎ去るものか、やってくるものか。過ぎ去る時を「過去」といい、やってくる時を「未来」と呼ぶ。過ぎ去ると思うのはオトナたち、やってくると感じるのは子どもたちだ。そしてすべての命は、「いま」を生きる。
サリー、ショータ、シキ、リューマ。4人の河の子どもがいる。悠久の大河に抱かれ、自然と対話し、自然の命と響きあって生きる命。両手に抱えきれない「未来」をもち、あふれる夢と希望をもつ。
きみたちは、夢と希望の塊だ。それを磨くのは、この大河。河原に息づく木々や草や花や鳥や、たくさんの命だ。だが、オトナになると夢と希望は消える。オトナたちは、きみたちの夢や希望を奪い取り、それがオトナになることだと勘違いをしている。
サリーは、中学生になった。エキゾチックな美少女だ。小学生の頃、この河に釣りにきた。父に釣りを教わったと聞く。肩まで伸びた黒く長い髪。瞳は清く澄み、小鹿のような純粋な光を宿す。すらりと伸びた容姿をトレーナーや半ズボンといった男の子のような服装で包む。鯉釣り師の今川さんや岩崎さんが、釣り道具を上げる。お昼ご飯をすすめたり、おかずを分けたり、なにかと面倒をみる。
二人には、サリーと同い年の孫がいる。サリーは、河原の石を並べる。ビール箱の裏の穴に一つ一つ並べる。黙々と、ただ石を見つめ、時間を忘れて並べる。切ない。釣りを教えた父が、数年前に事故でなくなったと聞く。この河は、父の想い出か。
「サリーちゃん、学校好きか?」。そう聞くと、うーんと首をかしげた。「なにが楽しい?」。そう聞くと、「ヒップホップ」と小さく言って小さく笑った。サリーが鯉を釣り上げると、みんなわがことのように喜ぶ。中学生になってダンス部に入ったと聞いた。
ショータは、小学5年生。外国人の母をもつ。学校が嫌いだ。先生から、「そんなに嫌いならこなくてもいい」といわれた。本当ならひどい話だ。BBQの連中を見ると、火起こしを手伝う。そして、肉をご馳走になる。あっちのグループこっちのグループと、いつの間にかBBQの輪に入る。「おじちゃん、リール投げさして」。BBQに飽きたショータがそういうと、有村さんは自分の竿を渡す。うまく投げられない。すぐ飽きる。そんなことは百も承知で有村さんは、いつも竿を貸す。根がかりで仕掛けを失くしても、竿を放り出して消えてしまっても、いつも笑って竿を貸す。
シキは、川上から自転車でやってくる。小学4年生。水鉄砲をもって河原を駈け回る。オトナたちの釣竿に触って叱られる。それでも、ケロッとしている。岩から岩へ飛び回り、みんなをハラハラさせる。
草むらに放り投げた自転車は、アメリカの少年のようにスタンドのない自転車だ。賢しこそうな顔をしている。
「シキ、勉強してるか?」。そう聞くと、ニヤッと笑って走って消えた。リューマは、父と二人で河にくる。子ども釣りコンテストに参加して、大物を狙う。小学2年生。父の言うことには絶対服従だが、マクドナルドの昼飯に時々文句をつける。「寄り道してるのかなあ」とブツブツ言う。父を心配している。「これ食べな」。仲よしの金沢さんがパンを勧めても、リューマは手を出さない。父の許しがないと手を出さない。父母の躾がきちんとしている。そのくせ、寂しがりやで甘えん坊だ。ある時、リューマの竿に70センチの巨鯉がきた。子どもの手には負えない大きさだ。だが父は、「自分でやれ」と手を貸さない。網を手にリューマにぴたりと寄り添う。「大丈夫、できる」と励ます。「重いよ。糸が切れる」。リューマの泣き言にハラハラする父だが、「大丈夫」をくり返す。やっと釣り上げてリューマが笑う。それでも「手が痛い」とか「コンテストじゃもっとでかい鯉を釣ってるね」と、リューマは父に甘える。「リョーマ、おまえは、国を変えるほどのいい名前をもっているんだ」。そう言うと、「ぼくはリョーマじゃない、リューマだ」と、強気の返事が返ってきた。子どもたち、オトナになっても、この河を忘れるな。たとえ都会の濁流に流され傷ついても、悠久の大河に抱かれる「いま」を忘れるな。いいか、きみたちは、夢と希望の塊だ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/26
■  私の愛したヤクザ

人は、人に磨かれる。その時の私にはその言葉が偽りのない真実だと思う若さと純心があった。伝説の侠客、関東尾津組組長尾津喜之助氏と出会ったのは大学4年の時で、越谷にある喜之助氏の別邸だった。季節は爛漫の春、舞う桜吹雪が庭園を芝居の舞台のように飾っていた。伝説の男は灰色の着物に大柄な身体を包み、ゆっくりと桜吹雪の中に現れた。
180センチを越える長身。痩身でがっしりとした体格。着流しの着物の裾が春風にはらりと揺れた。後ろに義兄の安次郎さんが寄り添う。広い庭園では、大勢の社員と大勢の越谷の人々が集って花見の宴を楽しんでいる。
錦鯉の泳ぐ大きな池があり、屋形船が浮かんでいる。木蔭のあちこちに鉄製の檻があり、熊が飼われている。桜の木々の足元では、放し飼いの孔雀たちが美しい姿を見せている。飲食や遊戯の屋台が並び、どの屋台にも人々が群がっている。焼きそばも綿菓子も金魚すくいも、すべての屋台が無料だ。
子どもたちは両手にあまる食べ物を抱え、手に手にヨーヨーや金魚をぶら下げて走り回っている。大人たちは芝生に敷いたゴザに座り、折り詰めの寿司を広げている。
その時すでに組は解散し、喜之助氏は実業家に転身していた。尾津組は尾津商事になっていた。新宿歌舞伎町に龍宮城に似た豪華なお好み割烹店を出し、三越裏に日本で初めてのスーパーマーケットを出店していた。喜之助氏にまつわる伝説は多い。太平洋戦争の敗戦で焼け野原となった新宿の街に、「光は新宿から」のスローガンを掲げ、私財を投じて街灯を設置した。不良アメリカ進駐軍から日本人を守るために、身体を張った。駅東口にテント張りの「尾津マーケット」を作って生活物資を供給し、空襲によってボロボロになった人々を救った。歌舞伎町にゴールデン街を造ったのも喜之助氏だ。
父の友人の安次郎さんに頼まれ、私は空手の演武を披露するためにこの宴にきた。水戸の武家に生まれた喜之助氏は空手に興味をもち、昼食に招待してくれた。直々に酒を注いでくれる喜之助氏に、伝説の男を目の前にする気持ちの昂りとともに、複雑な気持ちが沸いた。
不安が心をよぎった。盃を受け取るということは、親分子分の関係になってしまうのだろうか。石原裕次郎のヤクザ映画の大ファンだったが、本気でヤクザになる気はなく、そんな度胸も私にはない。
「きみは、国士ですか?」。喜之助氏が笑みを浮かべて語りかける。荒削りの彫刻のような風貌。太い眉。窪んだ瞳の眼光は鋭いが、穏やかな光だ。太くがっしりとした鼻梁。厚い唇。大きく引き締まった口元。いかにも豪放、まさしく武士だ。国士という聞きなれない言葉に戸惑っていると、喜之助氏が言葉を継いだ。「日本はここまで復興した、だが、まだこれからだ。国を創るためにその力を使いなさい」。それを聞いて国士の意味が理解できた。
「就職は決まったのかね?」。喜之助氏が聞く。「いえ、まだです。アメリカで空手を教える話がありますが、行きません」。「ほう、なぜ?」。「あんなでかい図体の連中と殴りあう気がしません」。そう答えると喜之助氏は愉快そうに笑った。話は続いた。若い私に、喜之助氏は自分の生き方を語り、男の生き方を教え、日本の将来を語る。「誇りだけを守ってきたのかなあ、なあ安さん」。横で安次郎さんがほのぼのと笑う。安次郎さんは、喜之助氏とは違って地蔵のように小柄だ。その穏やかさからはかつて侠客時代に、「人斬り安」と怖れられた尾津組の斬り込み隊長だったとは誰も想像できない。
喜之助氏の伝説は、小説よりも数奇だ。「社長は、きみに尾津商事に就職してほしいのだ」。帰りに桜吹雪の庭園を歩きながら、安次郎さんがぽつりと言った。結局私は、尾津商事に就職することはなかった。だが、大学を卒業するまでスーパーマーケットでアルバイトをしながら安次郎さんにお世話になった。喜之助氏も着流しでふらりと現れ、顔が合うと財布から手の切れるような一万円札を取り出して渡すのだった。若い日の、男の中の男との出会いだ。 
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/26
■  女が勝つか、男が勝つか

夏目漱石が、東京大学教授の安定した椅子を突然放り投げて、朝日新聞の社員になった理由ははっきりしない。大学教授より不安定な暮らしになるが、それなりに高給だったと推測する人もいる。新聞社に行けば、もっと自由に小説が書けるからだという意見もある。
漱石はその性格からして破滅型だ、安定した暮らしに飽きたのだという推測も当たっているかもしれない。とにかく漱石は、すでに小説家としても世に知られるようになっていたのに突然朝日新聞社の社員になった。そして書いた最初の連載小説が「虞美人草」だ。
「虞美人草」に「藤尾」という女性が登場する。彼女はこの小説の重要人物のひとりで、進んだ考え方を持ち、時代の先端を生きる女性だ。やがて訪れる時代の、理想の女性像を暗示させる人間として漱石は書いた。その漱石が、女と男に関してこんなことを言っている。「1対1の戦いでは、男は決して女に勝てない」。そういう。漱石活躍の明治時代は、まだ江戸時代を引きずっていたわけだから、ばりばりの男社会だったはずだ。それなのに漱石は、「1対1の戦いでは、男は女に勝てない」と明言した。
ばりばりの男社会でありながら、女のほうが強いと、そう言う。たしかに「藤尾」は、少々自分中心だが、社会理論を美事に組み立てるし、相手の言葉尻を素早く捉え、揚げ足を取るのも巧みだ。思考も新しいし、機転も効いて話術にも長けている。だが、「男に勝つチャンスがないわけではない」と漱石は言う。
社会の話、国家の話、政治の話、戦いの土俵をそこにもって行けば、男にも勝つチャンスがある。漱石はそう分析した。
だが考えてみれば、現代も同じようなものだ。現代は、男社会から女社会へ移行する過程にある。美しくいえば男女平等社会の実現を目指している。さまざまな点でギクシャクしながら、あちこち無理しながら女も男も頑張っている。
女たちが「藤尾」のように、自分中心でありながらしっかりと社会や国家や政治の勉強をし始めている。大したものだ。
ついこの前まで、日経新聞は男でも読まない者が大勢いたが、いまはどうだ。女性が人前で日経新聞を読むのが、格好いい時代になった。記事内容が一般新聞寄りに拡大されたこともあるが、女性が、社会、国家、政治の領域に足を踏み出したことは確かだ。男に負けない「藤尾」のような女性が大勢現れたのだ。小説家村上龍と女性をテーマに対談したのは、彼も私も若い頃だった。「女のほうが強いね」。それは、彼もわたしも同意見だった。ある化粧品会社のPR誌だった。
「女が戦争に行ったら、男より強い」。村上氏は言った。「では、なぜ男が戦場に行くのか?」。わたしの質問に村上氏は言う。「女が戦場に行って、もし一人しか帰還しなかったら、翌年子どもは一人しか生まれない。男が国に何人残っていようが女が一人になってしまったら、子どもは一人しか生まれない」。「男が戦場に行って一人だけ帰還しても、国に女が大勢いれば子どもも、それだけ大勢生まれるということですね」。わたしたちは子どもを生むだけかよ、と女性たちに叱られそうだが、実に明快な理論でもある。
つまり、女と男がまったく同じ土俵に立てば、男は女に勝てないのだ。当然だ。国というものは、運営の善し悪しがあるけれど、子どもの数の多いことが繁栄の基本だ。男たちは、心のどこかでそれがわかっているから、政治だ、経済だ、国家だと、社会の中で役立とうと必死になっている。その分野まで女に奪われたら、もうあとは男が子どもを生むしかない。
最近増えているニューハーフ連中に聞いてみたい。あなたがたの究極の願望は、子どもを生むことかと。まあ、その前に男女の勝ち負け論は止めて、どうすればともに輝かしい未来が創れるのかを、腹を割って話したい。女の美事な部分と、男の美事な部分を認め合い、尊重し合うことから始めることだ。それが男女平等社会の基本だ。さもなくば、確実に男が負けるか、国が滅びるかだろう。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
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